日本近代文学会東海支部

2013-03-04

日本近代文学会東海支部 第46回研究回 鷗外文学の水脈

 春寒しだいに緩む頃となりました。皆様におかれましては、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。

 さて、日本近代文学東海支部第46回研究会として、鷗外研究会との共催によるシンポジウムを下記の通り開催いたします。万障お繰り合わせの上、是非とも御出席頂きますようお願い申し上げます。

【日 時】2013年3月30日(土)14:00〜18:00(予定)

【会 場】愛知淑徳大学星ヶ丘キャンパス42B教室(4号館2階)

http://www.aasa.ac.jp/guidance/map.html (「星ヶ丘駅」3番出口より徒歩3分)

※地下鉄東山線で「星ヶ丘」駅までお越し下さい。(「名古屋」駅より約21分・260円)全国交通系ICカード(SuicaPASMOICOCA等)がご利用いただけます。

【合同テーマ】 鷗外文学の水脈

パネリスト:檀原 みすず(大阪樟蔭女子大学

「日本絵画の未来」論争から、鷗外『うたかたの記』の成立へ

―美学の移入と啓発―

:林 正子(岐阜大学

鷗外による〈民族精神〉と〈国民文化〉の追究

―〈民族〉と〈民俗〉の関係性を視座として―

:大石 直記(明治大学

晩期鷗外における伝承性への視角

―〈模倣〉と〈創造〉の交差する場―

コーディネーター:金子 幸代(富山大学

:酒井 敏(中京大学

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シンポジウム主旨】

 2012年は鷗外森林太郎の生誕150年・没後90年に当たり、多くの記念行事・記念出版が企画・実現されたが、そうした動きは今年に入ってなお継続されている。文学は言うに及ばす、今・ここに在る我々の基盤を成す日本近代の文化全般に渉る、鷗外の影響力の大きさゆえであろう。東海支部では、その12年度の締めくくりに鷗外研究会との共催によるシンポジウムを行い、改めて鷗外という存在の内実と意味を問おうとする。

 鷗外の知性のありようは広く、そして深い。従って、時に矛盾を孕んでいるかに映る。例えば、戦闘的啓蒙活動の時代と呼ばれる明治20年代の活動は、日本の西欧化=近代化を目指したものと見えよう。しかし、文壇再活躍時代を迎えた40年代以降、歴史小説から史伝へと傾斜してゆく動きは、日本近代が失った・失おうとしている要素に目を向けた、初期とは逆の方向性に立ったものと見える。物事の両端を叩く―対抗関係にある二つの軸を立てて目前の事象を認識し、より根源的な世界観を打ち建てようとする―思考方が、鷗外の一生を貫いていた。当然、例示した時期においても、内実を詳細に追えば、こんな単純な要約では片付かない事態に幾つも直面する。鷗外に立ち向かう者には、具体としての言説を緻密に分析する能力と、言説の背景をなす思考の枠組を捉える問題意識とが、同時に求められるわけだ。

 詳細は「基調報告要旨」を読んでいただくとして、鷗外の初期から晩期まで、言説の具体的な分析から背景となる文化事象まで、広く深い、刺激的なご発表がうかがえそうである。質疑応答・討論を含め、鷗外を場として自らの根源を問いなおし、新たな問題意識を拓くシンポジウムとしたい。

【基調報告要旨】

「日本絵画の未来」論争から、鷗外『うたかたの記』の成立へ

― 美学の移入と啓発 ―

檀原 みすず

森鷗外は『うたかたの記』(「柵草紙」明治二三年八月)を発表する以前に、外山正一との間で所謂「日本絵画の未来」論争(明治二三年四月〜六月)を起こし、明治美術界に大きな波紋を呼んだ。ここで鷗外は原田直次郎の油絵《騎龍観音》を擁護する立場をとり、ハルトマン美学を武器に、外山画論に反駁しながら自家の美学論を展開している。日本に美学の素地がなかった時代、鷗外によって導入されたハルトマンの審美学的批評は用語と概念についての共通認識がなかったため、外山は沈黙し、美術界を巻き込んだ一大闘争へと発展した。

この論争と『うたかたの記』との関係性については、これまで指摘されているものの、作品の成立時期ともあいまって、未だ十分に検討されているとは言い難い。

うたかたの記』はミュンヘンを舞台に、原田直次郎をモデルとした巨勢が「ロオレライ」の画を完成させるまでの芸術創作のプロセスを描いた作品である。鷗外はこの小説をもって自家の美学論を表現したのではないかと考えられる。

「日本絵画の未来」論争に対する詳細な分析と評価を行った上で、『うたかたの記』の読解を通して、鷗外の美学思想が作品成立の要因をなしていることを論証したい。  

鷗外による〈民族精神〉と〈国民文化〉の追究

      ―〈民族〉と〈民俗〉の関係性を視座として―

林 正子

 ドイツ留学を閲した鷗外文学は、〈日本人の内面性〉、〈日本のエートス〉の考察と個人の人生意義追究とが結びついた精神の閲歴の所産であったと言える。今回の発表では、folklore、Volkskundeの要素を発揮するドイツ三部作、なかでもローレライ伝説を擁する『うたかたの記』(明治23・8)以降、とくに一連の歴史小説執筆へと歩みを進める明治末年から大正期の鷗外において、〈民族精神〉の追究と〈国民文化〉についての認識が深められてゆく軌跡を確認する。

 『かのやうに』(明治45・1)において、「神話」と「歴史」を分離するために「かのようにの哲学」Die Philosophie des Als-Ob(1911)に想到する、五條秀麿の精神的閲歴を描いた鷗外は、ドイツ留学時に秀麿が聴講した一講義名として、「民族心理学」を挙げる。

 「現代語で、現代人の微細な観察を書いて、そして古い伝説の味を傷つけないやうにしてみせよう」という、『青年』(明治43・3〜44・8)の小泉純一の志向は、たとえば『山椒大夫』(「中央公論」大正4年1月)における「伝説」の小説化と対応する。執筆にあたり鷗外が依拠した山椒大夫伝説は、「伝説」として〈伝承〉された「口承文芸」であり、このような鷗外文学の創意に、〈民族〉と〈民俗〉の関係性の構築ないしは仮構によって国民性論議が展開されてきた、近代日本の〈エートス〉との対応を指摘することをめざしている。

2012-03-27

第43回研究会(シンポジウム)ネット中継のお知らせ

3月31日に開催されます日本近代文学会東海支部第43回研究会を、ネット中継することが決定いたしました。

シンポジウムのライブ中継は、14:00より以下のURLから視聴することができます。

http://www.ustream.tv/channel/tokaikindai2012mar

遠方で会場に足を運ぶことができない方も、ぜひこの機会に東海支部のシンポジウムをご覧ください。

2012-03-19

日本近代文学会東海支部 第43回研究会(シンポジウム)案内

日本近代文学東海支部第43回研究会を下記のとおり開催いたします。

【日 時】2012年3月31日(土)14:00〜17:30

【会 場】名古屋大学 文系共同館237教室

http://www.nagoya-u.ac.jp/global-info/access-map/access/

【内 容】 シンポジウム 男性はどこから来て、どこへ行くのか?−〈男性性〉の再検討

 ・パネリスト 飯田祐子神戸女学院大学

         「男」と暴力

        日比嘉高(名古屋大学

          父の語り―近代文学史に父は帰るか

        三橋順子都留文科大学非常勤講師

         『男らしくない』男たちの系譜

 ・司会・ディスカッサント 光石亜由美(奈良大学


シンポジウム主旨】

東海支部ではこれまで、「〈少女〉は語る/〈少女〉を語る」(2010年3月)、「文学研究の臨界領域―YOU CAN(NOT) TOUCH WOMAN」(2010年9月)の二回にわたって、〈少女〉〈女性〉をシンポジウムのテーマとしてきた。近代化の過程で、また表象化の過程において、常に〈対象化〉される女性を、その〈対象化〉のメカニズム表象過程における連続性と断絶性、少女・女性表象の生産消費の構造などさまざまな角度から検討してきた。

これまでの二回のシンポジウムを経て、次にやらなければならないことは、女性または少女を〈対象化〉してきた〈男性〉そのものの〈対象化〉であろう。

これまでフェミニズムジェンダー研究においては、〈主体〉としての〈男性〉を批判的に扱ってきた。たとえば、家父長制度における家長としての男性、愛という名のもと女性の自由をからめとってゆく夫としての男性、軍国主義を遂行する戦士としての男性など、一個人としての男性ではなく、制度や文化とイコールの関係の男性を仮想敵にしてきたのではないか。もちろん、これは、対象物、客体、被抑圧者としての女性の立場を明らかにし、歴史や文化に埋め込まれたジェンダーの不均衡を指弾するという戦略的な方法であり、成果も挙げられてきた。

しかし、一方で、女性の多様性を強調するために比較される男性のイメージは、支配的、暴力的、所有的等々、比較的単純で、紋切型ではなかったか。また、こうした紋切型の男性像に対して、男性学・男性論の立場からは、主導的男性像の批判的検討や、男性自身も〈男らしさ〉の呪縛にとらわれていることなど、男性の中の階層性の問題、〈男らしさ〉像の変遷なども問われてきた。

さらに近年は、「フェミ男」「草食系男子」「女装男子」「イクメン」など、従来の〈男らしさ〉の枠にはまらない男性像が出現している。

今回のシンポジウムでは、このように一筋縄ではゆかない〈男性性〉〈男らしさ〉の近現代を再検討してみたい。


【発表要旨】

飯田祐子 「男」と暴力

 「男性学」による「男性性」の問い直しの中で、女性に対する暴力はどのように問題化されてきたのだろうか。当事者である「男」と「女」の非対称性は、今もなおきわめて深刻である。脱暴力の試みに学びつつ、根絶が望まれながらも容易には変わっていかない「男」と「暴力」の結びつきについて、考えてみたい。そして、小説はDVをどう描いているのか。女性作家の描き方と男性作家のそれとの隔たりも大きい。島本理生の作品や江國香織『思いわずらうことなく愉しく生きよ』など、女性作家は暴力の被害者としての「女」を描き、男性作家は、西村賢太の一連の作品や芥川賞受賞で記憶に新しい田中慎弥『共喰い』など、加害者としての「男」を描く。個人の選択の自由や欲望の多様性に委ねることは

許されず、複雑さの理解をと言うだけでは片付かない、ジェンダー化した身体性の暗部を見詰める機会としたいと思う。

日比嘉高  父の語り――近代文学史に父は帰るか

近代文学性差や家庭内の権力の問題から考え直す際に、父権の問題は避けて通れない。志賀直哉の「和解」が典型だろうが、抑圧する父とそれに抵抗したり逃亡したりする子、という話型は、近代文学史の中で数多く変奏されてきた。一方、同様に抑圧する父という枠組みを前提としながら、その父の不在を物語の潜在的構造とする作品も多い(「浮雲」など)。本考察は、明示的な抑圧者として批判されるにせよ、不可視化され不在化されて語られるにせよ、それらはいずれも近代文学史上に登場した父という存在の一面しか取り上げていないのではないか、という疑念から出発する。つまり〈圧制者としての父〉はそれ自体が類型的で抑圧的な表象の型なのではないかということだ。むろんこれはカウンターのカウンターとして行われる作業となる。反動的とみなされる危険も伴おう。だがなにもこの報告は、父の権威の復活をめざす野蛮なもくろみではない。文学史の片隅で語られてきた父の語りを、いま私たちはどのように聞けるか、葛西善蔵の「哀しき父」「子を連れて」や島崎藤村の「芽生」「分配」といった私小説を起点に考えようというものだ。おそらく鍵の一つは〈世代〉となる。これにもとづいた発想を、新旧交代=父殺しを枠組みの基盤とする〈文学史〉に、いかにして対置できるのか、考察してみたい。

三橋順子  『男らしくない』男たちの系譜

日本近代国家(明治〜昭和戦前期)は「富国強兵」の実現のために「男らしい」男を常に求めてきた。

それは身体壮健であり、家父長たるにふさわしい精神をもち、かつ体格や外貌は欧米人男性に少しでも近づくことが理想とされた。その方向性は昭和戦後期になっても大きく変わることなく「戦後復興」を担う産業労働者、あるいは「経済大国」を支えるビジネスマンたちも「男らしく」あることを求められ続けた。しかし、その一方で、日本社会、とりわけ女性たちの間には、少なくとも江戸時代、あるいはさらに遡って古代〜中世から「男らしくない」男たちへの強い希求があるように思われる。そして、それは近代から現代まで確実に受け継がれている。今回の報告ではそうした「男らしくない」男たちの系譜をたどり直し、なぜ「男らしくない」男が時代の寵児(スター、アイドル)になるのかを考えてみたい。そこから日本社会に一貫して流れ続けるジェンダーセクシュアリティ観を浮かび上がらせることができればと思う。

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2011-12-09

日本近代文学会東海支部 第42回研究会案内

日本近代文学東海支部第 42 回研究会を下記のとおり開催いたします。ぜひ御出席くださいます よう、御案内申し上げます。

      記

【日 時】2011年12月10日(土)14:00~17:30

【会 場】愛知淑徳大学 星が丘キャンパス 1号館5階15A教室

http://www.aasa.ac.jp/guidance/map.html

【内容】

○研究発表 14:00 より

浪漫主義という鏡―創刊期『少女世界』掲載の田山花袋作少女詩群を巡って

                                     高橋 重美

 80年代から90年代にマルチメディア的に隆盛をみた少女論ブームは、ポストモダニズムの楽天性 を反映した知的バブル的側面を多分に有していたとはいえ、近代という時代を問う視座のひとつとして の《少女》を打ち出した功績は争われない。ブームが去った後も、少女雑誌の社会学的な分析や埋もれ ていた少女小説・作家の発掘再評価など地道な研究が続けられ、現在では、広く近代少女表象の歴史的・ 政治的意味を明らかにしようとする動きに発展している。本発表もこの流れの一端に立ち、明治 40 年前 後に『少女世界』に掲載された田山花袋の少女詩群を対象に、近代少女表象の成立期の一面の描出を試 みる。特に《少女セクシュアリティ表象》と呼ばれる、少女の身体を部分的にクローズアップし官能的 に謳い上げる修辞法を支えている浪漫主義と自然主義の共犯関係を、花袋の明治 30 年前後の抒情詩や〈少 女小説〉、41 年の『少女病』『蒲団』などを使って示しつつ、併せて掲載誌である『少女世界』のメディ ア的特徴や掲載形態も考慮することで、〈近代社会システムの中で《少女》に割り振られたジェンダー言 説としての浪漫主義〉について考えたい。

・近代都市東京モダン空間―『モダン TOKIO 円舞曲』に見られる遊興空間を中心に

                             張ユリ(名古屋大学大学院博士後期課程)

 関東大震災後の東京には、カフェやバー、映画館などの消費・遊興空間が相次いで建てられた。そして、そ のような空間はモボ・モガの存在と共に、モダン文化を象徴するものとして、当時の文学マスコミなどによ って多く取り上げられた。また、その時期は銀座や浅草などの町を越えた東京という都市への関心も深まって いった時であり、そのような状況の中で『モダン TOKIO 円舞曲』(春陽堂、1930 年)が出版される。

モダン TOKIO 円舞曲』は、「世界大都會尖端ジャズ文學」と名づけられた企画の第 1 作で、「新興芸術派作 家十二人」による短編小説集である。川端康成の「浅草紅団」や堀辰雄の「不器用な天使」などが収められた この短編集には、東京の遊興空間が、当時モダンと呼ばれた生活を解くキーワードとして用いられていると言 える。これまで、各作品に対する研究はあっても、『モダン TOKIO 円舞曲』を一つの企画として扱った研究は ほぼないと言っても過言ではないだろう。本発表では、『モダン TOKIO 円舞曲』を一つのテキストとして捉え、 近代都市東京の遊興空間についての考察を試みたい。

2011-05-29

日本近代文学会東海支部 第41回研究会案内

日本近代文学会東海支部第41回研究会を下記のとおり開催いたします。ぜひ御出席くださいますよう、御案内申し上げます。

       記

【日 時】2011年6月18日(土)14:00〜17:30

【会 場】愛知淑徳大学 星が丘キャンパス 1号館3階13D教室

http://www.aasa.ac.jp/guidance/map.html

【内 容】 

○研究発表 14:00より

川端康成『寒風』論−考証を中心として−

                    西村峰龍(名古屋大学大学院博士後期課程)

 「寒風」は先行研究や同時代評では、その題材と実録風の構成のために、川端と生前の北條民 雄との交流の記録としての側面に着目して読まれがちであった。その結果、江草恵子「「寒風論」 ―川端康成北条民雄」(『武庫川国文』35 平成2年3月)に見られるように、「寒風」は確た るテーマ意識、構成のもとで書かれたものではないと考えられてきた。

 しかし、川端は「寒風」で「癩は遺傳でなく傳染だといふことが、まだ一般によく徹底していな い」「癩は死人の骨からもうつるといふ迷信がある。」と述べている。川端が「寒風」で示したこ のような「癩」に対する見方は、現在でこそハンセン病に対する正しい知見とされているが、昭和 十年代には稀有な考え方であった。当時、「癩」は国家が強制隔離を必要とするコレラなみの伝染 病であると喧伝し、強制隔離を国策として推し進めていた時代であり、一方では、近代以前から続 く「癩」は「業病」であり、遺伝するものだという認識が人口に膾炙しており、ハンセン病は「コ レラなみの伝染病」でかつ「業病」であるという認識が一般的であった。社会全体に癩病者を忌み 嫌う意識が蔓延する中で川端は「寒風」を発表したのである。ここに、癩病者にたいする前近代的差別的な政策や世相に抗する川端の姿が感じられないだろうか。本発表では川端が「寒風」を癩 病者にたいする差別的な政策や世相に抗する作品として執筆したことを実証する。

・ 『斜陽』受容についての一考察−没落華族に関する報道との関連性

                  服部このみ(金城学院大学大学院博士後期課程)

 

 昭和二十二年七月から十月にかけて『新潮』で連載され、同年十二月に刊行された太宰治斜陽』 (新潮社)は、昭和二十三年度のベストセラー小説となり、「貴族や華族などで、しだいにおちぶ れていく人たち」(「斜陽族」『日本国語大辞典 第二版』小学館、平成十三年)を表す流行語〈斜 陽族〉を生み出した。このことから『斜陽』は当時、没落する華族の物語として、熱狂的に受容さ れたと考えられる。

 しかし、『斜陽』本文を見てみると、華族という設定を用いつつもその実体は描かれていない。 それどころか太宰は、階級の設定を意図的に曖昧にしているように思われる。

 そうであるにも関わらず、なぜ『斜陽』は当時旧華族階級と交流する機会がほとんどなかっただ ろう一般の読者にも没落する“華族”の物語として受け入れられたのだろうか。

 今発表では、戦後報道された特権階級の没落に関する事件の分析を通して、没落華族に関する報 道が積極的に『斜陽』と結び付けられていくことで、曖昧な階級設定を用いていた『斜陽』が没落 する“華族”の物語として認識されていく過程を追っていきたい。

      

  ○総会 16:00より

2011-02-11

日本近代文学会東海支部 第40回研究会案内

日本近代文学東海支部第 40 回研究会を下記のとおり開 催いたします。ぜひ御出席くださいますよう、御案内申し上げます。

【日 時】2011 年 3 月 20 日(日) 14:00〜

【会 場】愛知淑徳大学 星が丘キャンパス 1号館 5階 15A 教室

  http://www.aasa.ac.jp/guidance/map.html

【内 容】

 ○研究発表  ※コメンテーター: 酒井敏(中京大学)


・ 「「無頼派」と「食べること」の表象太宰治織田作之助を中心に—」

    湯浅達也(名古屋大学大学院博士前期課程)


 占領期と呼ばれる時代を生きた人々にとって、最も切実な問題のひとつは食べることであった。 一方で、「無頼派」と呼ばれ、当時の世相を反映した作品を多く書いた、と言われる作家たちでさ え、この切実さを十分に書くことができたとは言えない。それはどういうことなのだろう?本発表 では、太宰治織田作之助のテクストを中心に扱いながら、「無頼派」と呼ばれる彼らが共有した 問題意識を、「食べること」から分析し、「無頼派」の新たな側面を描いてみたい。


・「太宰治中期作品の研究 —「新樹の言葉」論を視座にして—」

   高塚 雅(愛知高校非常勤講師)


 太宰治新樹の言葉」(『愛と美について』竹村書房、昭和十四年五月、書き下ろし)は、もと 幸吉兄妹の生家であった望富閣の炎上する様を、幸吉兄妹と語り手「私」とが城跡の広場から見下 ろす印象的なシーンで終わる。焼ける望富閣を見て「私」は震えがとまらなくなるが、一方の幸吉 兄妹は微笑してそれを見下ろしている。燃え上がる望富閣とそれを穏やかに見つめる幸吉兄妹の様 子に、「私」は震えながらも「君たちは、幸福だ。大勝利だ」と思うのであるが、望富閣が焼ける ことがどうして幸吉兄妹の「大勝利」になるのであろうか。本発表では、この解釈として望富閣に 火をつけたのは幸吉であり、そのことを「私」は半ば確信を抱きながら語っているという読解を提 出する。本作品は語り手「私」の回想で進行していくが、「私」はかなり意識的に語りを操作して いる。そこで、「私」の語りを検証することで秘匿された出来事を探り、「私」の再生への決意が 幸吉兄妹の強い意思を受けてのものであることを説明する。

2010-09-28

シンポジウム(第39回研究会)が開催されました

9月26日、シンポジウム(第39回研究会)文学研究の臨界領域—YOU CAN (NOT) TOUCH WOMANが開催されました。

ご来場のみなさま並びに登壇者のみなさまに感謝いたします。

2010-08-25

日本近代文学会東海支部 シンポジウム(第39回研究会)のお知らせ

日本近代文学東海支部シンポジウム(第39回研究会)を、今回は日本社会文学東海ブロックとの合同開催といたしまして、下記のとおり開催いたします。

【日 時】2010年9月26日(日)14:00〜

【会 場】愛知淑徳大学 星が丘キャンパス 1号館3階 13B教室

http://www.aasa.ac.jp/guidance/map.html

【内 容】 シンポジウム 文学研究の臨界領域—YOU CAN (NOT) TOUCH WOMAN

パネリスト 生方智子(立正大学

「エディプスからユング

  −川端康成『水晶幻想』『みずうみ』、および現代文化における鏡像的アイデンティティ

パネリスト 水川敬章(日本学術振興会特別研究員(名古屋大学))

 「『an・an』と『血と薔薇』」

パネリスト 広瀬正浩(東海高校

 「初音ミクとの接触−“電子の歌姫”の身体と声の現前」

ディスカッサント 森井マスミ(愛知淑徳大学

司会 竹内瑞穂(愛知淑徳大学


シンポジウム趣旨】

 《女性表象とその力学》は、日本近現代文学研究のみならず、人文科学諸領域に共有されるテーマである。それはジェンダーセクシュアリティ理論に端を発する《主体をめぐる政治学》についての議論と重なり合いながら、新たな認識の地平を切り開いてきた。ではそれらの蓄積を引き受けた上で、さらに現在の我々が思考すべきことは何か。本シンポジウムは、この素朴な問いに基づき、「新世代」の研究者による研究の「新世代」を問う場――文学研究ではあまり扱われることのなかった対象や、新しい方法論の試みに関する討議の場として企図された。

 近現代文学・文化が女性を搾取の対象にしながら、女性を眼差し表象したことについて、抑圧/被抑圧という二項対立で腑分けし、その現状を歴史化しつつ糾弾することは大切なことである。だが一方で、そうした分析によって捨象されてきた様々な要素があるのもまた事実である。おそらく、新たな水準の批判を築いてゆくにあたって重要となるのは、文学・文化に根ざした欲望や情動の問題を分析すること、あるいは女性表象を可能にする感性/美学(エステティクス)の問題を分析すること、これを可能にする研究の方法論的な問題を継続して思考することにあるだろう。

 女性を客体化することを可能にする力は、次々に生み出され援用される分析装置や議論の枠組みをすりぬける。故に、これまでとは異なる思考の理路の獲得と理論的な布置を探る努力は欠かせまい。このシンポジウムは、そのためのささやかな一歩を会場全員の討議において踏み出すことをねらう。ここでは単純な方法論の新旧の対立や刷新ではない、オルタナティブな思考が会場に参集する人々によって紡ぎ出されれば幸いである。

【発表要旨】

○生方智子(立正大学

「エディプスからユング

川端康成『水晶幻想』『みずうみ』、および現代文化における鏡像的アイデンティティ

                     

精神分析の方法が文学に移入されると、テクストには意識によって捕捉できない無意識の運動が再現されていく。無意識の運動の表象とは無意味ではなく既存の意味の破壊であり、新たな意味と秩序の再編の試みとなる。そこでは確固とした自己同一性を備えた個人というアイデンティティの枠組みが新たなアイデンティティへと再編されるのである。

視覚的イメージを分析する理論として、しばしばJ・ラカン鏡像段階論が用いられるが、そこではイメージの世界は母子関係モデルを前提とした想像界として定位されるために、エディプスの枠組みが前提となってしまう。イメージの世界に耽溺する子どもは成長して象徴界に出ていかなればならず、エディプス的父の秩序に従ってマスキュランな主体を確立することが求められる。イメージの世界においてしばしば現れるトランスジェンダーと多様なセクシュアリティの様態を捕捉するために、今日、エディプスを乗り越えて鏡像的自己像を定位する理論的枠組みが求められている。

 今回は、〈意識の流れ〉の方法を用いた川端康成の小説、『水晶幻想』(1931年)『みずうみ』(1955年)において語られる鏡像的自己像を分析する。両テクストでは、いずれもエディプス的父、および母が不在であり、テクストで描き出されるトランスジェンダー的なアイデンティティの様態はフロイトを越えようとしたユング心理学と交差する。現代文学サブカルチャーの作品においてもユングアイデンティティが描かれており、モダニズム文学において主題化されたアイデンティティの問題が現代文化において継承されている事態について考察したい。

○水川敬章(日本学術振興会特別研究員(名古屋大学))

「『an・an』と『血と薔薇』」

 

 現在も様々な話題を振りまいている女性誌『an・an』の歴史は、『平凡パンチ女性版』(1966)にまで遡ることができる。この『平凡パンチ女性版』は、所謂パイロット版のような役割を果たし、4号(1970.2.20)まで世に送り出される。そして、1970年3月2日付けで、ついに『an・an ELLE JAPON』は創刊される。堀内誠一をアートディレクターにポップで洒落たデザインに仕上げられた『an・an』は、内容も目を見張る豪華さで、三島由紀夫、長沢節、五木寛之澁澤龍彦らの文化人、ギランゴー駐日フランス大使、佐藤寛子などの政界に関わる人びと、アラン・ドロンなどのスターが寄稿し、ヨーロッパのモードを伝える写真、鰐渕晴子をモデルにした篠山紀信の写真などが誌面を彩った。本発表では、この『an・an』について、とりわけ1970年を中心とするそれを対象に、本誌における女性表象セクシュアリティのイメージについて議論してみたい。その際に引き合いに出したいのが、同じく堀内をアートディレクターに迎えて1968年に創刊された澁澤龍彦責任編集の雑誌『血と薔薇』である。三号雑誌として終刊した本誌は「エロティシズムと残酷の綜合研究誌」と銘打たれ、およそ『an・an』とは趣を異にするものであった。しかし、これらふたつの雑誌が保持するイメージは、幾つかの共通性によって架橋されるのではなかろうか。本発表が無謀にも試みるのは、表層的には対立するかのように見える二誌の間に通底するイメージについて議論することである。おそらく当時は意識されることのなかったイメージ―このことは、時にアナクロニズムと批判される―を本発表では議論することになるであろう。願わくは、『an・an』と『血と薔薇』との間に出来するイメージのダイアグラムを描ければと思う。

広瀬正

「初音ミクとの接触−“電子の歌姫”の身体と声の現前」

 2010年3月9日東京のライブハウスで、「初音ミク」のコンサートが開かれた。ステージの上に巨大なアクリル製のスクリーンが設置され、そこに映し出されたミクの姿とその彼女の歌声に、約2700人の観客が熱狂した(このライブはネットを通じても中継された)。初音ミクとは、YAMAHAの音声合成技術「Vocaloid 2」によって発音される声の発信主体として構想された「女性」である。

 歌う初音ミクに魅了される多くの人々(私も含む)は、言うまでもなく、それがいわゆる「本当の人間」ではないことを十分に理解している。しかし、シミュレーションでしかないようなその自らの欲望の対象を、アイロニーとしてではなく、「リアル」に感じ取ろうとしているのだ。こうした人々の想像力を、どのように説明すればよいのだろうか。

 初音ミクに魅せられた人々の「リアル」を虚偽だと指摘し、ミクを通じて視覚的・聴覚的に展開された「女性表象」を「現実の女性から乖離した、男性の欲望の反映である」と批判してその表象の政治を問題にする(に留まる)ことに、果たしてどのような生産性があるのだろうか。

 かつて、文学研究の場において、〈文字〉よりも主体から絶対的に近いものとして〈声〉を想像し、主体の思考の直接的な顕現として〈声〉を捉える「音声中心主義」が問題にされたことがあった。初音ミクの歌声を通じてその彼女の歌う姿を想起する人々の想像力は、まさに音声中心主義的なものだと指摘して片付けられるかもしれない。しかし、初音ミクの声と主体の問題は、それほど単純なものとは言えないのではないか。私たちがミクの声を聴くことでその発信主体として想起してしまうのは、あくまで初音ミクであって、データベースの原基を提供した人物(この場合は声優の藤田咲)の存在ではない。しかも、初音ミクの声をデータベースから立ち上げる媒体は、他ならぬ文字であるのだ。

 初音ミクの声と身体をめぐる様々な問題を整理し、それらについての考察を試みることが、本発表の目論見である。私たちは“電子の歌姫”の歌声を聞いて、どのような身体性を獲得するのか。初音ミクの声に魅せられる者の一人として、文学研究の臨界を彷徨したい。

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2010-05-17

日本近代文学会東海支部 第38回研究会・総会御案内

日本近代文学東海支部第38回研究会および総会を下記のとおり開催いたします。

【日 時】2010年6月12日(土)14:00〜17:30

【会 場】愛知淑徳大学星が丘キャンパス、5号館5階55B教室

http://www.aasa.ac.jp/guidance/hosigaoka.html

【内 容】 

  ・研究発表  14:00より

梶井基次郎檸檬」とモンタージュ

              森川雄介(愛知教育大学大学院修士課程

○愛人という〈自由〉―吉屋信子「みおつくし」論―

              毛利優花(金城学院大学大学院博士後期課程)

   ・総会    16:00より

*研究発表は、会員以外の方でも来場自由です(予約不要)。ただし、総会は会員のみ参加となりますのでご了承お願いいたします。

《発表要旨》

梶井基次郎檸檬」とモンタージュ

              森川雄介(愛知教育大学大学院博士前期課程)

人は文章を読んでイメージすることがある。

西村清和『イメージの修辞学

言葉と形象の交叉』(三元社、2009)は、小説内の言葉がすべて 想像を促すものではないが、空間の配置や事物の特に視覚に訴える具体的で複雑な記述を読む場 合、イメージを頼りに全体を把握しようとすることがあると指摘する。イメージする可能性を高め るものとして「イメージ価」の高い言葉を使用することが挙げられるが、イメージ価は、「赤い」 「走る」などの比較的具象的なもののほうが「危険な」「推論する」などの抽象的なものよりも高 いという。

梶井基次郎は先行研究によれば、見ることに意識的であった作家である。良く言われる「凝視」 によって対象を見つめ、描く梶井のテクストは、「イメージ価」の高い言葉が並ぶ。とすれば、読 者が梶井テクストからイメージを浮かべることは想像に難くない。梶井テクストに於て読者はどの ようなことをイメージし視覚化、さらには映像化していくのだろうか。

それを考える上で、映像の研究理論、すなわち映画技法を応用することは有益だろう。梶井基次 郎の代表作でもある「檸檬」はさまざまな対象を視覚的に描く。しかし、このテクストに独特なの は、視覚で対象を描くとともに視覚以外でも同時に対象を知覚しようとする点にある。一つの対象 を複数の五感で描く際、読者はどのようなイメージを持つのか。

本発表では、先に記した通り映画技法を用いるが、ここでは特に複数の五感によって示される対 象の断片が接続されることによって生まれる効果について考えたい。そこで、特にモンタージュ理 論を利用し考察していき、複数の五感を接続していくことで発生するイメージと檸檬の持つ至上の 価値について考えていきたい。


○愛人という〈自由〉―吉屋信子「みおつくし」論―

            毛利優花(金城学院大学大学院博士後期課程)

吉屋信子といえば少女小説大衆小説の印象が強いが、そのほかにも膨大な量の著作を残した多 作の作家である。「長編より外に書けないとながい間思いこんでしまつていたところ、戦後の自然 の風潮とでもいおうか、それに応じて自然短編ものを書かねばならぬ機会があつた」(「短篇12 枚の文学賞」『白いハンケチ』昭和三十二年五月、ダヴィッド社)と作家自身が回想するとおり、 長編を多く発表してきたが、彼女の戦後の執筆活動のはじまりは短編作品にある。この時期、「鬼 火」や「宴会」など怪談風味の作品や純文学的な作品など多くの短編が発表されたが、「みおつく し」(昭和二十三年四月「婦女界」)もこの頃発表された。

「みおつくし」は「一夫一婦の純潔」を守ったことで尊敬を集めた政治家が隠し続けた愛人―「私」 が、吉屋信子と思しき作家への手紙のなかで過去から現在までの出来事を告白する形式で書かれて いる。一般的な一夫一婦制の性規範からいけば、〈愛人〉はあってはならない存在であり、つねに 隠され、〈悪〉のレッテルを貼られる存在である。しかし、「みおつくし」においては〈愛人〉は 必ずしも絶対的な〈悪〉とは描かれない。

本発表では、「みおつくし」という作品を通して、〈愛人〉を女性が社会から求められるさま ざまな役割から解放された存在としてとらえ得るかどうか、発表当時の女性を取り巻く時代世相 および思想を鑑みつつ検証し、その存在の意味を、時間的・空間的・精神的な〈自由〉という論 点で考えてみたい。

2010-03-18

シンポジウムが開催されました

さる3月14日、東海支部主催のシンポジウム「〈少女〉は語る/〈少女〉を語る」が開催されました。

当日はネット中継の実験などもありましたが、無事盛況のうちに終えることができました。

発表者、ご来場のみなさま、中継をご覧いただいた皆様ありがとうございました。

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