武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『いそがなくてもいいんだよ』 岸田衿子著 (童話屋1995/10/1)


 「童話屋」の編集者田中和雄さんが蒐集した詩のアンソロジーは楽しい。分かりやすくて深く爽やかな詩編を集めた「ポケット詩集」が、ロングセラーを続けているのも納得できる。その名編集者が、岸田衿子さんの詩を集めた詩集を見つけたので手に取った。
 岸田さんの詩集は、目を瞠るような名品に巡り会うこともあるが、言葉数が少ないせいか、時には難解でピンとこないものもあって、好きだけれど少し苦手な感じがぬぐえなかった。
 この小さな本は、さすが田中和雄さんが取捨選択されただけに、実に読みやすい。岸田さんの詩の良いところだけを掬いとってあり、これを読んだら誰でも岸田さんが好きになるにちがいない。気がついたことを書き留めてみよう。
岸田衿子の詩は、優しい言葉で書かれているが、実は難しい。時には非常に難解なこともある。理由は、説明が全くないか、あるいはほとんど説明してはくれないから。少ない言葉で自分の感受性や思索を素描してあるので、いったんずれてしまうと、ほとんど意味不明となる。この詞華集には、やや説明的な詩編が集められている。だから分かりやすい。説明的な詩が悪いわけではない、説明の仕方次第で良くも悪くもなる。
岸田衿子の詩は、自然をテーマにしたものが多く、自然をテーマにしたものに優れた作品が集中している。きっとよほど自然が好きな人なのだろう。相当に深く草花や樹木の存在そのものに分け入って暮らしている人にしか書けない感覚を定着してある。そして、そう言う感覚が現代人に対する鋭い批評になっている。読んでいてドキリとする。この本は自然をテーマにしたものが多い。
岸田衿子の詩は、視覚的、絵の具で言うと油絵の具や粒子の粗い不透明水彩ではなく輪郭ははっきりしているけれど透き通るような淡い透明水彩の感じがする。あるいはセロファンをはり合わせたコラージュのような、ステンドグラスのように絵の向こうが遠くまで透けて見える感じがある。透けて見える向こうには深遠な意味や叡智が幽かにちらつく。
岸田衿子の詩は、子どもから大人や老人まで、どんな年齢の人でも、その人の年齢にあった納得のしかたで受け入れられるような気がする。
 引用して紹介したい作品が多いが、無理して一つに絞って、一点だけ紹介したい。

 花のかず


ひとは行くところがないと
花のそばにやってくる


花は 咲いているだけなのに
水は ひかっているだけなのに


花のかずを かぞえるのは
時をはかる方法
ながれる 時の長さを


ひとは 群からはなれると
花のそばへやってくる


花は 黙っているだけなのに
水は みなぎっているだけなのに

 この本の作りは文庫サイズで、装丁も可愛いので、男性には手をのばし辛いかもしれないが、中年を過ぎた男性にこそ、この瑞々しい感性をお勧めしたい。