武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『インドでわしも考えた』 椎名誠著 (集英社文庫1988/1/25)


 インド旅行から帰って3週間ばかりたったが、インドへの興味関心はまだ尾を引いている。図書館にゆけばインド本の書架に目が行き、書店に行けばインド本のコーナーの前にふらふらと吸い寄せられる。それが楽しい。
 今回紹介する椎名誠さんの旅行記も、インドから帰って図書館から借りて読んだもの。インドが持っているインパクトが、非常に素直に表現されている気がしたので紹介しよう。「文庫版のあとがき」に面白いことが書いてあった。<あれからもう四年>と断った上で、「インドから帰ってきて、楽しかったことのひとつは沢山のインド本をさまざまな気分で読むことができた、ということである」と記している。同感である。
 どこの国でも海外旅行の楽しみは、行く前の下調べと、旅行中の非日常的な見聞の楽しみと、帰国してからの後追い読書の楽しみ、この三つの楽しみは間違いなくいつもある。しかし、対象がインドともなると、三番目の楽しみがなかなか終熄しない。たくさんのインド本が出ていることもあるが、インドそのものが理解しがたい国であることからきているのだと思う。今現在も、手元に数冊のインド本が積んである。
 さて、この椎名さんのインド旅行記、ご自分で後書きにかいておられる。「インドいちべつ表面面白薄かじり本」というのは、相当の韜晦と自嘲が込められた言い方だが当たらずとも遠からずだった。事前に下調べせず、体当たりで旅をして実感を掬い上げて書き留めるという方法論と一致する。問題なのは、出来上がったものが面白いかどうかだが、私には面白く読めた。
 どんな旅行をしようと、総てを見ることなど出来ない。長く暮らしている人も、見聞するのは暮らしている周辺1km程度が日常生活圏の限界。あとは情報収集能力と、情報を解析し、見えない部分にアンテナをのばし、思考力の間隙を埋める創造力の問題、理解すると言うことは、何と難しいことだろう。
 椎名さんのこの本は、情報に頼らないで、創造力も極力制御するという方法に立って、庶民的な実感を適度に働かせるとどうなるかという、それ自体極めて意識的な方法を実践した旅の記録である。読みやすく読後感もなかなか良かった。部分的に笑えるところもあり、何度かクスリたさせられた。
 各所に配された同行したカメラマン山本皓一さんの写真が素晴らしかった。鋭いインド人の眼差しを見事に捉えている。ほとんどの写真に白抜きで解説が付けられているが、これらの写真にはキャプションは必要なかった。画像自体が十分に説得力を持ち得ている。この本の魅力の大事な柱となっている。
 最後に、目次を引用しておこう。

はたしてインド人は空中3メートルを浮揚するか
ボンベイふらふら出たとこ勝負
じわじわとインドの熱気が迫ってきた
ク・フフフと富豪のヨガ先生は右頬で笑った
サリーの秘密はインドの秘密なのだ
カルカッタの逆上プロレスヨガは目玉で勝負した
インドの野良牛も地べたにころんで瞑想する
ガンガーの赤い叫びが川面を裂いた
死者たちのよろこびをのせてガンガーは今日も流れる
あやしのワイセツ村カジュラホーでまんまる男がふふふと笑う
愛と疑問のタージ・マハルにインドの赤い夕陽がおちる
5千人のメカケをかこうインドの王にわしらは怒る
さらばデリー さらば不可思議の巨大三角国家よ

 今から何と25年ほど前の話なので、部分的に古いところもあるが、一日本人が意識的に何の気取りもなく、インドを旅行して素直に印象を綴った記録としては、今でも十分に読める気がした。軽い感じでインドに触れてみたいという人には、ぴったりの読み物と言えよう。