武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 朝のワンプレート(7)

なぜ朝食をパン食にしないのか。実は、これまでに何度か、市販の食パンやバターロールを使ったりパンケーキを焼いたりして、パン食の朝食を試みたことがある。目先がかわってそれなりに面白かったのだが、沢山食べたい野菜と上手く折り合いが付けられなかった。
こんがり焼けたトーストに薫り高いバター、スープとサラダと温野菜、プレーンオムレツと添加物の少ないソーセージかベーコン。イングリッシュ・ブレックファーストを思い出して、少し真似てみたこともないではない。なかなかいいものではあったが、長続きしなかった。
長年の食習慣の違いというか、食事の後で、胃から腸へと食べたものが廻りめぐってこなれてゆく過程で、しっくりする落ち着き具合やこなれ具合が微妙に違うような気がした。違和感や不自然さとまでは言えないが、何となく馴染めない感じが払拭できなかったのである。好き嫌いの感覚とはどこか違うなという感じだった。
人は生まれる国を選べないように母国語を選ぶことは出来ないし、何を食べて成長するか選択する自由はないのだと思い至った。父や母が物心つかないうち、敗戦の混乱の中で調達して食べさせてくれた食の原風景は、生得のものと言うしかないのだろう。北国の農家だったせいで、お米にだけは不自由しなかった。胃袋にお米がすっかり馴染んでしまっているというのは、そんな生育歴によるのかも知れない。
自然食派の人々が勧める、玄米食や発芽玄米、胚芽米、雑穀との混合米などなど、どんな主食が望ましいか試してはみたけれど、栄養的には問題がある食品と言われても、白米のご飯の美味しさはだけはどうしても手放す気にはなれない。
調べてみると、≪主食:副食≫という概念自体がない民族や、明確に対比させて食事を考えない食習慣が多いと言うことが分かった。どのやり方が特別に優れているわけではないが、私たちの主食副食システムは、なかなか悪くないと考えている。 

前置きはこれくらいにして、朝の献立を紹介してゆこう。

3月某日の朝食(上) ・味噌汁(豆腐、ネギ、油揚げ、干し椎茸)・ご飯・水菜のおひたし・人参の温野菜・小松菜のおひたし・カリフラワーの温野菜・春菊のおひたし・ブロッコリーの温野菜・真鱈子と春雨の旨煮・蕪の甘酢漬け・茹でオクラ・牛蒡のキンピラ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳

3月某日の朝食(下) ・味噌汁(油揚げ、ネギ、ジャガイモ、タマネギ)・ご飯・蕪の葉のおひたし・花ワサビの漬け物・ブロッコリーの温野菜・蕪の甘酢漬け・水菜のおひたし・ラッキョウ甘酢漬け・カリフラワーの温野菜・茹でオクラ・真鱈子と春雨の旨煮・プレーンオムレツ・画像にはないがコーヒー入りホット牛乳


食材の旬(シュン)を気にしたほうがいいと、料理の本に必ず書いてある。何十ページも使ってご丁寧に表まで付けて旬を強調しているものもあるけれど、私は全然気にしない。安くて物が良くて大量に出回ってきた物を、自ずから買ってしまうので、八百屋でも魚屋でも旬のことなど気にしたことがない。
食通ではないので、どこの何が特段に美味しいかどうか、そんなことなども気にしたことがない。お店へ行ったら、目の前にある新鮮で美味しそうで値の張らないものを、家族の人数分買ってくるだけである。ないものは買えないし、あっても高すぎれば買う気がしない。食材の仕入れなんて、高級料理屋でもなければ、そんなもんだろう。
ただ、初めて見る食材には、強く引かれる。どんな調理法が合って、どんな味がするのか、気になって仕方がない。この年になっても、地方の市場などではそんな食材に出会い、居ても立ってもいられない思いを噛みしめることがある。