そうだ、壇ノ浦行こう。

妻子のいないこの週末、ぶらり一人旅のエクスカーションで、壇ノ浦を見に行こうと思い立った。源平最終決戦のあそこである。

事前にいろいろ調べながら書き留めたメモ。この段階が一番楽しい。


昨日のうちに羽田から北九州空港へ。何便か欠航になっていたようで、フライト時刻ギリギリまでオーバーブッキングの処理に受付カウンターが修羅場となっていたが、私の便は通常通りの運行で事前決済も済ませていたので助かった。

山口:みもすそ川公園

さて、今日は早朝にホテルを出て下関へ。ここからバスに乗って約10分、「みもすそ川公園」が今回の旅のとりあえずの目的地。駅前のロータリーでバスを待ちながらキョロキョロしていて知ったが、山口ではこの秋に国体が開かれるのか。あと、下関は林芙美子金子みすずが生まれた土地でしたか。
そういえば学生時代に貧乏旅行で韓国に行ったとき、帰りは関釜フェリーだった。下関に来たのはあれ以来15年ぶりくらいだな、当時の記憶は一切ないけど。
長府・小月方面行のサンデンバスに乗り、やって来ましたみもすそ川公園。

で、これが「壇の浦古戦場址」の碑と、壇ノ浦a.k.a.早鞆の瀬戸である。後ろの橋は有料道路が通っている関門橋。これは確かに川かと思うくらい海峡狭い。そして、流れが速い!

安徳帝御入水之処」として、幼帝安徳とともに入水した二位尼平清盛の妻・時子)の辞世と伝えられる以下の歌が刻まれている。

今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ
波の下にも みやこありとは

地名や公園名にもなっている「みもすそ川」とは、伊勢神宮の境内を流れる「御裳濯(みもすそ)川(別名・五十鈴川)」のこと。平清盛ら当時を席捲した平家は伊勢平氏と呼ばれる血流で、安徳天皇は清盛と時子の娘・徳子(建礼門院)の子であるから、「伊勢の血を引く末流である安徳帝」と、「伊勢の五十鈴川からはるか流れを汲む壇ノ浦」とを掛けているのだろう。
わずか6歳で入水することになった幼帝に、二位尼は「波の下にも都があるのですよ」と言ったとか、「海の下にある極楽浄土へ行きましょう」と言ったとか…。


源義経・八艘飛像と平知盛・碇潜(いかりかづき)像。
 
 
NHK大河ドラマ源義経」の際に、何故か主要キャストが手形を寄贈したらしい。左上から、滝沢秀明義経役)、松坂慶子二位尼役)、小泉孝太郎平資盛役)、中越典子建礼門院役)。マニアック。来年の大河ドラマ平清盛」の時にも、新たに手形が追加されるのだろうか…?*1

 
みもすそ川公園の片隅には、19世紀末、長州藩が米英仏蘭の四国を敵に回して(!)戦った時にこの関門海峡でぶっ放したという「長州砲(八十斤加農(カノン)砲)」のレプリカが、海峡に向けて並べられていた。

*1:ちなみに現在発表されている「平清盛」キャストでは、二位尼深田恭子ということしか分かっていない。

赤間神宮

さて、みもすそ川公園から下関方面へしばらく歩いて戻ると、海辺に面した大きな鳥居が見えてくる。今回の見学先のもう一つの目玉、「赤間神宮」である。

ここはもともとは「阿弥陀寺」と呼ばれていたそうだが、壇ノ浦の合戦の後、この辺りの古名である「赤間関」から「赤間神宮」と名付けられ、夭逝した安徳天皇の霊をなぐさめている。

向かって右側の門は「水天門」といって、昭和33年に増築されたもの。水の下にも都やありけむ…ということで、竜宮をイメージした門だそうだ。

安徳帝を描いた巨大絵馬。どうでもいいけどこの神社、安徳帝や平家などにちなんだお守りや絵馬が置いてあるのかと思ったらその類は一切なく、あったのはこんなのばっかり…ってどうなんだろう。



こちらは平家一門を祭った、通称「七盛塚」。大将・平知盛平教盛以下の武将、二位尼などが祭られている。

平家の家紋である蝶の紋様。



ところでこの赤間神宮には、この「芳一堂」にもう一人“有名人”が祭られている。その方は…

…ご存知、「耳なし芳一」さんである。
この赤間神宮阿弥陀寺と呼ばれていた頃、琵琶法師の芳一の元に平家の亡霊が夜ごと訪れ壇ノ浦の秘曲を所望していたのを、同僚の僧が芳一の全身に般若心経を書き退散させようと試みた。怒り狂った亡霊は、唯一お経の書かれていなかった芳一の耳をちぎって去っていた…というあの話、実はここが舞台だったのだ。



そういえば赤間神宮には、平家の怨霊が甲羅に憤怒の表情として乗り移ったという「平家ガニ」も飾られていた。最近はめっきり獲れなくなったそうで、地元の漁師さんは「平家の皆さんもようやく成仏されたかな」と言っているとかいないとか…。