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2018-08-06 定常化を織り込むEU「Potenz経済学」廻廊に無知な日本は、“間違い&

toxandoria2018-08-06

定常化を織り込むEU「Potenz経済学」廻廊に無知な日本は、“間違い&ウソ”だらけアベノミクス「男の花道必3選」などにかまけず<将来人口/年率0.6%減の現実>から再出発すべき

<注>“間違い&ウソ”だらけアベノミクス「男の花道」必3選論の事例=『安倍首相が直面する健康不安という爆弾/総裁選の勝利は確実だがすでに総裁選で勝った後の花道論も囁かれ始めている』ジャーナリスト・安積明子 8/02東洋経済オンラインhttps://toyokeizai.net/articles/-/232026

(Cover Images)

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・・・Edouard Manet:Berthe Morisot.−1872(left)、Edouard Manet: Monet Painting on the Seine —1874(right)

【YouTube】Erik Satie - Once Upon A Time In Paris

D

プロローグ

・・・「“間違い&ウソ”だらけ、つまり“偽装”成長アベノミクス」とは、「展相(Potenz)経済学」(人間社会の力能と倫理観の発展の諸段階を重視する経済学)のコリドー(Corridor/廻廊)への視座が不在であるどころか、又そもそも指数関数的な成長曲線(参照/参考画像↓)が何処まで上昇し得るのか?という経済理論上の根本アポリア(なかなか解決の先が見えない難問)に関わる個々の疑念(例えば、トリクルダウンの論拠とされたクズネッツ曲線の有意性は、上昇期の一時期における限定的な効果を除けば悉くが揺らぎつつある!/委細、後述)や格差拡大への些かの目配りもなく、約30兆円もの嵩上げGDPの数字をでっちあげたり、果ては日銀に命じ(あるいは日銀が忖度した?)33兆円もの家計「投信」の過大計上を作為でひけらかしてみせたり(参照/参考画像↓)という具合いであり、『極めてパワフルなファッショ男』という安倍晋三の演出された政治的イメージ操作で多数派層国民が洗脳されているのをよいことに、徹底的に日本国民を欺きだまくらかすバカリの<着陸地不詳>の眉唾的で異常な経済政策を安倍政権が堂々と推進していることを指す。・・・

(参考画像)

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・・・代表的な「成長曲線」、http://www.kogures.com/hitoshi/webtext/stat-seicho-kyokusen/より

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f:id:toxandoria:20180801045120p:image:w305:rightf:id:toxandoria:20180801045201p:image:w360:right

・・・「捏造?アベノミクス」の事例(左=嵩上げ?GDP30兆円(内閣府)、右上=捏造?家計「投信」過大計上(日銀)、右下=年金構造の崩壊を望む?アベノミクスの暴走)

















(1)プラネタリー・バウンダリー「九つの地球環境の許容限界」/いわば、このエトノス環境(≒バイオスフィア)の危機に無関心な日本政府と日本国民はあまりにも異常!

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Johan Rockstrom、Will Steffen・・・画像はウイキおよびhttps://www.theaustralian.com.au/より

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・・・ヨハン・ロックストローム(ストックホルム大教授)とウイル・ステファン(オーストラリア国立大教授)が率いる地球システム科学の国際研究グループは「九つの地球環境の許容限界」の上限(プラネタリー・バウンダリー/Planetary boundaries/2015)を示している(http://www.stockholmresilience.org/research/planetary-boundaries.html)。

・・・欧州連合(EU)の『Energy Roadmap2050(2011) 』は「五つの脱炭素シナリオ」を実現するためロードマップ(https://www.jetro.go.jp/ext_images/jfile/report/07000603/low_carbo_road_map_2050.pdf)を2011年3月8日に発表しているが、次いで、2015年9月の国連総会で採択されたSDGs(Sustainable Development Goals/持続可能な開発目標)では、このプラネタリー・バウンダリー(九つの地球環境の許容限界)がその土台となっている。つまり、それは限られた地球環境という前提の下で未来における定常化した経済社会が必須であるとの理解が国連(の諸政策)のエンテレケイアの視野にシッカリ入っているからだ。

f:id:toxandoria:20180802064935j:image:w220:left・・・2018年7月に刊行したロックストローム氏の関連著書『小さな地球の大きな世界/プラネタリー・バランスと持続可能な開発』(邦訳版/丸善出版)は、“回復力が高い地球システムは元の状態に止まろうとするが、転換点を超えると予期しないことが起こる”と書いている。因みに、スウェーデン・英国・フランス等の「原発」利用も、そもそもこのような視座から「過渡的な推進策(利用技術)」と位置付けられている。つまり、このような点こそが<日本の『フクシマ3.11“過酷”原発事故』を無視する“偽装”成長政策であるアベノミクスと連動させた国策「原発」>との決定的な違いである。

f:id:toxandoria:20180809050858p:image:w450f:id:toxandoria:20180809050928p:image:w330

(関連情報)

◆生物の遺伝情報を自在に改変できる「ゲノム編集」技術で作られた作物について、EU司法裁判所は、「遺伝子組み換え作物(GMO)」と同じ規制を適用するとの判断を下した。ゲノム編集した作物、遺伝子組み換えと同一規制に EU:20180727朝日https://www.asahi.com/articles/ASL7W3HW1L7WUBQU003.html  

f:id:toxandoria:20180731032733j:image:w450f:id:toxandoria:20180810103417p:image:w470

・・・プロクルステスの寝台の画像はウイキメディアコモンズより

◆人間に合わせ無理やり作物の遺伝情報を改変する作業は“アベ一強 or トランプ・マイファースト”主義らにも通じるThe Modern Bed of Procurstes式の<ブラック・スワン(めったに起こらないが壊滅的被害をもたらす事象)をムリクリ呼びこみかねない傲慢かつ異常で、しかも酷く愚かな発想>なので、上(ゲノム編集した作物、遺伝子組み換えと同一規制に)はGDPR(EU一般データ保護規則)と同じく欧州連合(EU)の極めて妥当な判断!

・・・<注>The Bed of Procurstes(プロクルステスの寝台)はギリシア神話にあるマイファーストの強欲な強盗プロクルステスの話であり、彼は旅人を自分の宿のベッドに無理やり寝かせたが、その旅人の身長が短すぎる場合には脚を叩き延ばし、ベッドが短すぎる時には旅人の身体の端を切り落として無理やりベッドに合わせたとされる。7:03 - 2018年7月28日 https://twitter.com/shinkaikaba/status/1022965752775749635

1 EUの視野に入る未来経済へのコリドー(廻廊)とは

1−1 展相(Potenz)経済学(未来経済へのコリドー(廻廊))の具体的イメージ

(文化史的なコリドー(廻廊)の意味)

f:id:toxandoria:20180801030517j:image:w400:leftシャルトル大聖堂ステンドグラスコバルト・ブルーの美しい発色は13世紀の職人が創った。無論、現代の科学技術を使えばそのシャルトル・ブルーと同色の再現も可能であろうが、800年を超える歴史と自然環境の影響を受け続け風化した美しい発色をいま目前にして、その感動を素直に味わうのが正しい意味での「正統保守的な可視歴史観」(“直感的イメージと歴史経験イメージの含意的統合”により、現代人が普遍的に共感し得る新たな文化の創造(想像力による結合的イメージの創造/ドイツの心理学者W.Wundtによる)ということではないか(シャルトル大聖堂の北の薔薇窓(尖頭窓)の添付画像はCreative Commons、より)。

f:id:toxandoria:20180801030635j:image:w400:rightゴシック建築の構造的な特長(バシリカ型の場合)は、リヴ・ヴォールト(円形状天井)、尖塔アーチ、フライングバットレス(飛梁/外壁を支える斜め上がりの構造物)の三つだが、その内側には身廊(入口から主祭壇に向かう中央通路の袖廊に至る迄の部分)、袖廊(十字形の建物の身廊に対し直角に配置された部分)、両側廊、中央塔(orドーム)、周歩廊、内陣、アプス(後陣/最も神聖で重要な部分)等が配置されている。これら配置のなかで先ず最初に最も重要なアプスの方向へ、その教会を訪ねた人々を正しく誘導する「身廊」の役割が如何に重要であるかは説明するまでもなく理解できるはずだ(画像はhttp://deo.o.oo7.jp/construction/study/Europeanchurch.htmlより)。従って、厳密に言えば、『展相(Potenz)経済学(未来経済への廻廊)』の“廻廊”とは、特に「身廊」のことを意味している。

f:id:toxandoria:20180806052705p:image:w770:leftf:id:toxandoria:20180807061052p:image:w360:right
















それはともかく、欧州の人々の内面の襞の奥深くにはカトリックプロテスタントの別を問わず、特に中世ゴシック期以降の教会建築内部での五感を介した感動的な宗教体験(荘厳な教会堂建築やステンドグラスの輝き、聖歌(ミサ)または讃美歌の美しいハーモニー等の共鳴がもたらした)の残照が持続しており、それが啓蒙主義に基づく普遍意識の胎盤として、特に近世以降のルソー「市民宗教」意識にも貢献したのではないかと思われる。このように書くと、それは「政教分離」原則に反するのでは?と疑問を呈する向きも少なくないが、政教分離はあくまでも公共空間でのこと、あるいは公共政策に特定宗派の影響力を大きく行使しないということであり、国民・市民の日常を支える共有基盤としての寛容な宗教観を人々が尊重し合うことは、ごく自然なことと考えるべきである。その意味での洗練された宗教観は、特に我が日本で問題となっているカルトや狂信の類(例えば安倍晋三政権と日本会議靖国神社らとの結びつきなどで見られる通り、それが政治権力と癒着する傾向が強いこと)とは無縁である(詳しくはフランスのライシテhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320、ドイツ型政教分離原則http://d.hatena.ne.jp/saisenreiha/20060913/115812930などを参照乞う)。

f:id:toxandoria:20180801030904j:image:w190:right因みに、ティヤール・ド・シャルダン(世紀末〜20世紀全般に活躍した仏のカトリック思想家、古生物学者/キリスト教的進化論を唱え、当時のローマ教皇庁から異端視された)の影響を受けたマクルーハン(カナダの英文学者、文明批評家)が人間の精神の進化が地球を超えて宇宙的な共感へ昇華する可能性があると主張していたことの真意(Potenz経済社会時代への予感を持っていたらしいこと)が分かるようになってきたため、近年、その英ケンブリッジ時代に取り組んだトマス・アクイナス論、あるいは中世修辞学研究等との関りで高度情報化時代にも通じる非常に先見的なメディア論者として再認識されつつある。換言すれば、それはマクルーハンが「1.マッハ感覚論的素材性のエネルゲイア(日常世界で共鳴するリアル意識)、2.巨大WebネッットDB汎“知”が刻々と創造するデュナミス、3.ルソー「一般意志」(普遍観念)が象徴するエンテレケイア」という三つの異質な世界が鼎立する高度情報社会の到来をすら予見していたと思われるからだ(当マクルーハンの再解釈についての出典は、大黒岳彦『情報社会の哲学』―勁草書房―)。

言い換えれば、それは人間が広く繋がりつつ十分協力的に創造し続けるため必須の構造であるが、この21世紀にこそ意識化されるべき社会構造(1.日常のリアル生命連鎖、2.潜在力を秘めて巨大化する中立的・機械的高度抽象性、3.ヒトの間主観性が支えるべき感性親和的・開放的抽象性)という、いよいよ本格化するAI・BD−Web型高度情報化社会の時代においても、これらの生殺与奪権を握るのは矢張り飽くまでも「ヒューマンな倫理」が意識できる人間自身であるということだ。そして、、仮に2.(AIロボットらも此のジャンルに入る)が暴走することにでもなれば人類滅亡の危機に瀕する可能性すらあると思われる(関連参照/下記★)。

★20180701toxandoriaの日記/ボディーブローとなりつつ世界中へ拡散する安倍ネオ・ファッショ政権の恥!/高度Web情報化で本格的「出現」が懸念されるネオ“優生学”ファッショの超リスク http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180701

(参考情報)

・・・“保守に関わる正統と異端の分かり難さで混乱する日本国民!”が、アベ一強の一因では?https://twitter.com/shinkaikaba/status/1024062238460506114

f:id:toxandoria:20180806173026p:image:w400f:id:toxandoria:20180806173104p:image:w370


(EUの視野に入る未来経済へのコリドー(廻廊))

f:id:toxandoria:20180801160936j:image:w430:leftEUのグリーン成長戦略では、環境分野が重要な成長エンジンの一つと位置付けられてきた。しかし、それを具体的に見ると<グリーン成長/第7次環境行動計画(2014〜2020)>が打ち出した「相対的デカップリング」(GDP成長率を資源利用増加率より上回らせる循環型経済)でも、特に高所得国での消費レベルが地球の許容量を既に超えたと理解されるため、今では更に“GDPの上昇と共にそれとは逆に資源利用が絶対量で減る”「絶対的デカップリング」が必要と判断されて、その先には定常経済が視野に入っている(情報源:http://eumag.jp/feature/b0916/https://www.theguardian.com/commentisfree/2017/apr/12/doughnut-growth-economics-book-economic-model )。つまり、これが、表題に掲げた「EUの視野に入る未来経済へのコリドー(廻廊)」ということである(デカップリング(GDPを環境への影響から切り離す政策)の図像は、下記資料★より転載)。

f:id:toxandoria:20180801161141j:image:w360:right★"Doughnut Economics", subtitled "7 Ways to Think Like a 21st Century Economist", is a recent book by Kate Raworth, February 2017, 320 pages.  http://portraitofthedumbass.blogspot.com/2017/06/doughnut-economics.html 

・・・高所得国でGDP成長が続くとすれば、経済活動を地球環境の許容限界に戻すためには相対的(relative)あるいは絶対的(absolute)なデカップリング(decoupling)でも足りず、十分な絶対的(sufficient absolute)デカップリングで成長に関わる資源利用を激減させなくてはならない(by Kate Raworth/プロフィール画像https://www.youtube.com/watch?v=qYpkRkPjZnMより)。

f:id:toxandoria:20180801161537j:image:w210:leftf:id:toxandoria:20180801161607j:image:w205:left ケイト・ラワース(Kate Raworth)は、国連の持続可能な開発計画の主要報告書の作成に携わり、国連を辞したあとは約10年間にわたりオックスファム(不公正と貧困撲滅に取り組む国際NGO)で上席研究員を務め、現在はオックスフォード大学環境変動研究所・ケンブリッジ大学持続可能性リーダーシップ研究所の上席研究員を務めるなど、国連・EU・米国(トランプ政権以外の)など世界の先行的な“グリーン・循環・定常”経済化の動向へ大きな指導力を発揮している人物である。なお、ラワーズの著書「Doughnut Economics(2017)」(Chelsea Green Publishing)の邦訳版が『ドーナツ経済学が世界を救う』(黒輪篤司・訳)として、20180218に河出書房新社から出版されている。







f:id:toxandoria:20180801163208j:image:w600:rightケイト・ラワースの「ドーナツ経済のイメージ図/21世紀のコンパス」(画像は同書より)を見ると、我われ人類を含む全生物が、以下に述べる外側と内側の二つの境界線に挟まれた極めて狭隘なバイオスフィア(生物圏)で生きて(というよりも生かされて)いることが分かり愕然とする。つまり、その二つの境界線とは既述の「地球システム科学の国際研究グループが指摘した『九つの地球環境の許容限界』の上限(Planetary boundaries=Ecological Ceiling)」と「ラワースが提唱する『十二の人間の幸せの土台(Social Foundation)』」ということだ。『九つの地球環境の許容限界』と『十二の人間の幸せの土台』の内容を具体的に見ると、次の通りである。

『九つの地球環境の許容限界』

=気候変動、海洋温暖化、化学物質汚染、窒素および燐酸肥料の投与、取水、土地転換(森林面積)、生物多様性の喪失、大気汚染オゾン層の減少

『十二の人間の幸せの土台』

=食糧、健康、教育、所得と仕事、水と衛生、エネルギーネットワーク、住居、男女の平等、社会的な平等、政治的発言力、平和と正義








f:id:toxandoria:20180801164009j:image:w700:rightまた、この「ドーナツが破られている状況を示すイメージ図」(画像は同書より)を見ると、社会的な土台の内側の暗色で塗られた部分は、生活の基本的なニーズを欠く人々が世界にどれ程いるかが直感的に分かるように示されている。環境的な上限の外側へ放射状に延びた濃い暗色の部分(気候変動、窒素および燐酸肥料の投与、土地転換(森林面積)、生物多様性の喪失)は、地球環境の九つの境界線からの超過を表している(薄い暗色はこれらに準ずることを意味する)。なお、ドーナツの外へ向かう矢印は「超過」を、内側へ向かう矢印は「不足」を示す。

ともかくも、これら「ドーナツ」のイメージが教えてくれる地球バイオスフィアを巡る深刻な状況について、ヨハン・ロックストローム、ウイル・ステファン、ケイト・ラワースらとの間で、いま最もシビアな危機感を共有しているのがEU(欧州連合諸国)、国連、米国(トランプ政権以外の)およびオックスファムらの国際NGOである。特に、トランプ政権下の米国は、地球環境問題およびバイオスフィアの危機的状況(ドーナツ問題)と特に関係が深い科学技術に関わる政策面で非常に深刻なジレンマに襲われつつある(関連情報↓★)。

★「科学政策なき米トランプ政権の危うさ:前米大統領補佐官、ジョン・ホルドレン氏の批判」/「科学政策なき米トランプ政権の危うさ:前米大統領補佐官、ジョン・ホルドレン氏の批判」20180508朝日、に関する紹介ブログ記事https://blog.goo.ne.jp/narmuqym/e/39dd5c343da92ada5221f5b6acd82242










(関連情報)

f:id:toxandoria:20180809105021p:image:w430f:id:toxandoria:20180809105054p:image:w360



f:id:toxandoria:20180810170927p:image:w500:right2 人口と成長の間には、そもそも「人口だけが経済成長を決定する」の意味での相関性がない!

2−1 展相(Potenz)経済学の視座からすれば日本の人口減少はむしろチャンス!が、愚かにもネポティズム(お仲間主義)の安倍政権はその奇貨を潰滅させつつある・・・

「アベノミクス第二ステージ」(2015年10月〜)は、「少子高齢化社会に歯止めをかけ、50年後も人口1億人(一億総活躍社会)を維持する」として、人口を重要な政策目標に掲げているが(https://judainews.jp/2016/06/16/786/)、一方で、国立社会保障・人口問題研究所の将来(中位)推計では、約100年後(厳密に言えば、93年後の2110年)に、日本の人口は4,286万人(現在の約1/3=ほぼ明治20年頃の人口規模)まで減少し、それより前の約50年後の2066年の人口規模でも8,711万人(ほぼ終戦後の人口規模)まで減ることが予測されているhttp://www.ipss.go.jp/pp-zenkoku/j/zenkoku2017/pp_zenkoku2017.asp)。

従って、「安倍政権が、突然、これまでの方針を180度転換し6月15日に決めた『骨太の方針』で“外国人労働者受け入れ”に転換した」という<不可解な出来事(関連参照↓★)>と併せて色々と考量するまでもなく、そもそも「少子高齢化社会に歯止めをかけ、50年後も人口1億人(一億総活躍社会)を維持する」“という目論見(意図と目的)”で人口(この場合は、外国人込みではなく純然たる日本人を主体とする人口と見ておく)を重要な政策目標にしたこと自体が大きな誤りだったと言えるのではないか。それよりも、安倍政権は「年平均で約0.6%(当然ながら、現在は約70万人規模だが此の縮小人数のスケールは次第に逓減する)というスピードで日本の人口が減少する」という現実(そう推計されているという事実)を真正面からシビアに受け止めた上で、展相(Potenz)経済学の視座(第三章で委細後述)から、それを大きな画期(チャンス)と受け止めたうえで、より有効な少子化対策と外国人の本格的な受け入れ策(決して彼らを低賃金の使い捨て材料と見るべきではなく、有能で有効な人材(新日本国民)の育成策としての受け入れ対策と制度づくり)に、もっと早くから真剣に取り組むべきではなかったのか?

★安倍政権が突然「外国人労働者受け入れ」に転換した分かりやすい事情/結局、目先の利益か…20180731経済ジャーナリスト町田 徹(GENDAI・MEDIA)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56757

f:id:toxandoria:20180802171323j:image:w530:rightところで、世界人口の推計は非常に困難だが、国連は2年おきに最新推計値「世界人口展望」を発表しており、2010年版では21世紀半ばの2050年迄に90億人を突破し、その後は増加ペースが鈍化するが21世紀末迄に100億人を突破する(中位値)と予測している(画像はウイキより)。そして、『ドーナツ経済学が世界を救う』の著者ケイト・ラワースは<世界規模で人口が増えるほど、すべての人のニーズや権利を満たすために使う資源も増えるから、どうしても全世界の人口規模は安定させなければならないと主張する。

また、ラワースは、人口を世界規模で安定させるには、すべての人が窮乏から解放され、かつ地球環境が取り返しのつかなくなるまで破壊されぬように、世界中の国々は国連とEUらが既に視野に入れている未来経済へのコリドー(廻廊)を参考として欲しいと願っている。つまり、彼女が提唱する『十二の人間の幸せの土台』と、ヨハン・ロックストロームらが提唱した『九つの地球環境の許容限界』の上限」の狭間にあるバイオスフィアを保全しつつ、少しでも早く「従来型の成長(GDP)神話」から脱して、<グリーン経済→デカップリング(循環経済)→定常経済>の途へ踏み出すべきだと主張している。

f:id:toxandoria:20180802171949j:image:w180f:id:toxandoria:20180802172245p:image:w460:right因みに、吉川 洋著『人口と日本経済』(中央公論新社)によれば、そもそも経済成長(GDP規模の推移)と人口の間には「人口だけが経済成長を決定する」という意味での相関関係は見られず(参照、添付画像/http://blog.livedoor.jp/kazmas/archives/52242318.htmlより)、ここには安倍政権が、「追憶のカルト(日本会議(生長の家“過激派”)&靖国神社)」とともに囚われているもう一つの病理、「サプライサイドの論理の飛躍」ということが隠れているようだ。つまり、一国で1年間につくり出されるすべてのモノやサービスの価値(付加価値)がGDP(国内総生産)なのだが、その<成長率>は決して働き手(労働力人口)の増加率だけで決まる訳ではないということであり、特に重要視すべきはイノベーション+etwas/←当記事で注視するA・シュッツ『日常性』がもたらす“幸せを伴う豊かさ”の問題!)の役割だということになる。

f:id:toxandoria:20180802173322p:image:w360:leftf:id:toxandoria:20180802180341p:image:w650

<注>労働生産性を労働者の体力、敏捷性、精神力あるいは性別など、生物学的な属性と結びつける考え方は経済学的な意味でも誤りである。一国経済全体で労働生産性の上昇をもたらす最大の要因は「資本蓄積」(新しい設備や機械の投入)と広義の「技術進歩」(イノベーション)である(同書より部分転載)。



2−2 将来年率0.6%(現時点で、年当・約70万人強)という急速な人口減の日本が参考とすべきA・シュッツ「人間ゆえの新たな文化創造の多様なタネとしての日常性の社会学」とK・ラワース「自然界の繁栄を支えるネットワーク」

・・・サプライサイド生産性論の呪縛(限界)を解放する可能性が高い「A.シュッツ日常性」の意味・・・

f:id:toxandoria:20180803100946j:image:w350:rightいま、20世紀前半に米国で活躍した現象学的社会学の始祖、A.・シュッツ(Alfred Schütz/ウイーン出身)の「他者への想像力に基づく日常生活世界の意味」が注目されている。その理由は、この「A.・シュッツによる日常性(生活)を凝視する視点(生命現象にも似た複雑な関係性のネットワークを慎重に観察する)」が、近未来の「定常経済」社会のための「全く新しい生産性の定義」を提供する可能性があると思われるからだ。

つまり、それはサプライサイド生産性論の呪縛(論理の飛躍/参照、2−1)からの解放と、既成の科学技術型イノベーション生産性論を乗り越える新たな生産性の定義を提供することになるのではないか、という意味である。因みに、吉川 洋氏は既述の著書『人口と日本経済』のなかで“日本の人口が急速に減り続けるとして、高度情報化が必至のこれからの時代においては、適切な移民受け入れ政策やハードな技術開発とともに、特にソフト技術イノベーションとビジネス・コンセプト開発型のイノベーションがあれば、旧来型GDPの成長を持続させることは可能だ”と論じている。

f:id:toxandoria:20180803102606j:image:w300:leftしかし、ここで言うA.・シュッツの「日常性(生活)の凝視」に期待される「新しい生産性」創出の問題は、吉川 洋氏が言うところの“あくまでも技術レベルでの研究・開発をベースとするソフトパワー・イノベーション”を更に大きく補強する可能性が高いので、より重要と考えられる。そして、このことを分かり易く説明してくれるのが、同じく生命現象(自然界における個々の生命維持現象の内外の大きな繋がり)をモデルとしつつ、ケイト・ラワースが「クズネッツ曲線の誤り」(委細、後述)の発見から着想した「自然界の繁栄を支えるネットワーク」である(添付画像、https://www.weforum.org/agenda/2017/04/the-new-economic-model-that-could-end-inequality-doughnut/より)。

また、A.・シュッツ「日常性(生活)」に期待される「新しい生産性」創出の問題は、「マッハ感覚論的素材性(マッハの内面的表象)」(関連参照↓★)の問題とも深く関わってくるのではないかと思われるが、この点についての探索は又の機会に譲ることとする。

★Google‐Webネットワーク時代の「AI・BD‐Web情報」とリアル社会情報の根本的な差異の問題/その前提には、先ずa「あくまでもヒトがリアルに生きている文脈的世界の一環であるデータ(一般的な意味での抽象性とは異なるマッハ感覚論的素材性)」とb「機械言語上の情報知(抽象的体系性)」の「断絶/アポリア」ということがある。http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180701

f:id:toxandoria:20180803142930p:image:w360:rightケイト・ラワースは「自然界の繁栄を支えるネットワーク」について次のように述べている。   ・・・前、略・・・自然界のネットワークの構造は枝分かれするフラクタルの繋がりでできている。・・・途中、略・・・川の支流も、樹木の枝も、人体に張り巡らされた血管も、植物の葉の葉脈も、そのようなネットワーク構造だ。・・・途中、略・・・システムが目標を実現しようとして資源の流れを単純にするとき、効率性(従来型の生産性)は高まる。言い換えるなら、大きな結節点から大きな結節点に直接資源が届くようになった状態だ。しかし、回復力(Potenz経済学の廻廊上の新しい生産性)はネットワーク内の多様性と余剰から生まれる。従って、ショックや変化が起こったときには、沢山の代替の繋がりや選択肢が求められる。効率性が高まり過ぎれば(その“廻廊”への目配りがなく、ひたすら従来型の生産性だけが高まり過ぎれば←補足、toxandoria)システムは脆弱になる。・・・以下、略・・・

なお、A.・シュッツの「日常性(生活)の凝視」に関する説明で、最も重要と思われるくだりのサンプル(研究者による説明文)を参考まで以下()に部分転載しておく(出典:追手門学院大学人間学部紀要 1997年12月30日、第5号、61-78 生活世界の社会学/矢谷慈國 www.i-repository.net/contents/outemon/ir/401/401971208.pdf)。

・・・前、略・・・この論文においては,まず「自然的態度の構成現象学」という立場から独自の生活世界の社会学を展開した, A・.シュッツの生活世界論の大要を提示する。生きられた時間空間の構造の分析から出発して,生活世界の社会的構造と常識的知識の特性,多元的リアリティ論の創発的意味とその問題点についてまとめている。・・・途中、略・・・以上のような社会的関係の中で作り出される類型は個人独自のものもありうるが,大部分は相互主観的な類型として日常言語の体系の中に定着されている。このことは人間についての類型だけに言えるのではない。・・・途中、略・・・上に述べた諸点はシュッツ自身によって充分に展開されないまま彼の死によって中断された。まことに魅力に富む彼の多元的リアリティ論を単なる静態的な類型学に終らせずに,より具体的経験的な社会学的研究に生かすことができるダイナミックなものに改造することが筆者の課題となった。 筆者が考え出した方策は,個人主観の意識レヴェルで主として問題が取り扱われたシュッツの理論に対して,以下の諸点を付加することであった。

●現象学的な身体論を導入すること、

・・・つまり複数のリアリティ間の媒介メカニズムを「……しながら(地)……する(図)」という,ながら行為の現象を図地分節の理論と錯図構造の理論に結びつけて解明すること。

●多元的リアリティの相互主観的社会的次元を解明すること。

・・・相互主観的な多元的リアリティの分化と統合のあり方を社会進化の観点と結合して考察すること。

●リアリティ経験の深さの次元を考察すること。

・・・他のリアリティから日常生活の現実にもどった時の異化体験をともなう「本来的で深いリアリティの体験」と「異化体験をともなわない表層的ルーティン化的な経験を区別すること。

●他のリアリティと日常的リアリティの間の媒介,移行メカニズムを,身体レヴェル(ながら行為),日常言語レヴェル,時間のスケジュール的区分の三つの観点から考えた。

・・・近代社会の機能的分業の下では,多元的リアリティは,専門家の販売する商品となっており,貨幣によって,それらを自由に買ったり消費したりできるという,貨幣の媒介メカニズムが働いていることを問題としている(特に、この種の帰納的分業に関わる新たな活動の創造や発見をPotenz経済学の廻廊上の新しい生産性の付加と見ることができるならば、必ずしもその代価は従来の通貨である必要はなく、例えば地域通貨、仮想通貨、ないしはマイクロファイナンスなど様々な方法があると思われる。←補足、toxandoria)。・・・以下、略・・・


3 展相経済学の視座から見える近未来への期待

3−1 ピケティによる「クズネッツ曲線の誤りの指摘」と「北欧型制度経済学」が意味すること

(ピケティによるクズネッツ曲線の誤りの指摘)

トマ・ピケティの著書『21世紀の資本』は、1%(または0.1%)問題を論じており、結果的に新自由主義(特にそのトリクルダウン)の論拠の一つであるクズネッツ曲線の誤りを指摘した。つまり、ピケティによれば、2015年の時点で世界富裕層トップ1%のシェアは残り99%の人々の富の合計を上回ってしまった。ケイト・ラワースの著書『ドーナツ経済学が世界を救う』の第五章「分配を設計する/ふたたび成長率は上向くから設計に因る分配へ」の中でこのことを詳しく論じている。

f:id:toxandoria:20180804063500g:image:w420:rightクズネッツ曲線は、米国の経済学者サイモン・クズネッツが提唱した曲線であり、国が豊かになるにつれて不平等は必ず拡大するが、やがて最終的には、必ずそれが自然に収縮するとしている(画像はhttps://www.youtube.com/watch?v=_OgQkzk7gQEより)。同じことを、開発経済学の創始者であるW・アーサー・ルイス(英国出身で米国で活躍した)は「開発は非平等主義でなくては進まない」と断言しており、クズネッツとルイスの二人は成長と不平等に関する理論が評価され、それぞれノーベル経済学賞を受賞している。その後、経済学者たちはこの「ジェットコースター」(ケイト・ラワースがクズネッツ曲線に付けた仇名)の上昇と下降の例を探し続けることになった。

しかし、2013年にトマ・ピケティが資本主義下の長期的な分配のダイナミズムを突き止めたことで、この「ジェットコースター」(クズネッツ曲線)の誤りが明白となった(トリクルダウンの効果があるとしても、それは初期段階の一時期に止まる)。つまり、ピケティは、金融資産を所有する家計と、労働所得のみに頼る家計に分けたうえ、米国と欧州の古い税の記録を遡りつつ、これら二つの異なる収入源の成長を比べて<クズネッツ曲線とは全く異なり、西欧と、それに準ずる経済が非常に危険なレベルの不平等へ向かっている>という現実を明らかにしたのである。

そして、ピケティは次のように結論付けている。・・・『このような資本主義の下では横暴で持続不能な不平等が一人で生まれる。その不平等によって、民主的な社会の基盤である能力主義的な価値観は根底から崩れる。』・・・

f:id:toxandoria:20180804072155p:image:w300:leftf:id:toxandoria:20180804072243p:image:w360:right

f:id:toxandoria:20180804072326p:image:w360:right

ところで、非常に残念なことだが、ピケティの指摘が最も現実的な問題となり国民へ襲い掛かりつつあるのが日本だということに、未だに多数派の国民が気づかないという現実が、更にこの種の日本の危機を煽る悪循環となっている。それは、ネポティズム(orクローニー/お仲間&縁故主義)を誇る独善化した偽装極右“追憶のアベ・カルト”権力がピケティの警告などを完全に無視しているからだ。他方、「W.ロストウ/成長の五段階“飛行”」からの軟着陸を視野に入れたEU(欧州連合)は既に展相(Potenz)経済学の廻廊を歩みつつあり、米国も批判勢力が冷静にトランプ暴走への反撃チャンスを窺っている(関連参照⇒ロストウ理論、<http://note.masm.jp/%A5%ED%A5%B9%A5%C8%A5%A6%CD%FD%CF%C0/</span>)。

f:id:toxandoria:20180804082203p:image:w600:right(参考情報)アメリカ草の根イニシアティブ「We are still in(我々はパリ協定にとどまる)」関連の動向、

https://www.can-japan.org/wp-content/uploads/2018/02/20180220tsuchida-web.pdf 

・・・トランプ大統領のパリ協定からの離脱意思表明後、数日で立ち上がったイニシアティブで、独自にパビリオン「アメリカ気候行動センター(U.S. Climate Action Center)」を設置している。

・・・米国の諸都市や州、ビジネス界から多くの怒りの声やパリ協定を守る機運が大きく盛り上がっており、この9月12−14日にはトランプ大統領に対抗して、サンフランシスコで「グローバル・クライメート・アクションサミットhttp://globalclimateactionsummit.org/が開催される。(情報源:ヨハン・ロックストローム氏/802朝日『インタビュー/地球環境限界なのか』)



(EUの展相(Potenz)経済学の胎盤と見るべき『スウェーデン学派の北欧型人口論(最適人口論)』が意味すること)

この問題を考える前に、一般に有効エネルギー(一定系内における、ある特定の目的に利用できるエネルギーの成分)と定義できるエクセルギー(exergy/ギリシア語のex(外へ)とergon(仕事)から作られた)の意味を少し具体的に理解することを試みる。例えば、室内等での発光が目的の蛍光灯では、そこへ投入される電気エネルギーの100%が光となるのではなく、一定割合が光エネルギーとなる一方で残余の電気エネルギーは熱として放出されるので、この場合、その熱エネルギーとして捨てられる電気エネルギーの成分はアネルギー(anergy/無効エネルギー)とされる。これが廃棄汚染物質や汚染エネルギー化すれ(ゴミ扱するしかなくなれ)ばエントロピー(entropy)が増大することに繋がる。

このエクセルギーを比喩的に連想しつつ様々な人間社会の事象に当て嵌めると興味深いことが見えてくる。それは電気エネルギー等のように物理量と同じ扱いで個々の社会的エクセルギーや同アネルギーを計算することは殆どできないが、実は我われが日常生活で常に「自分本位=人間本位」の行動原理で動き、多様で非常に複雑な判断を刻々と行っている事実を率直に認めるならば、特に市場経済のミクロな現場でそのことが特に重要な意味を持つことが理解できる。

おそらくこのことを前提にしてのことと思われるが、著書『人口と日本経済』の吉川 洋氏は「GDPの定義(仮にそれらがイノベーションとしての創造の賜物であるとして、モノやサービスの価値を足し合わせたもの)から、その価値は人間本位の主観的な評価の足し合わせである」と述べている。つまり、もっと端的に言えば人間本位が経済社会の正体であるが故に「GDPは人間の主観の計数化である」ということになる。

具体的に言えば、こういうことになるだろう。例えば殆ど同じ材料の料理であっても、調理法や調味料などの工夫しだいで、できた料理に対する顧客の評価は異なるだろうし、また同じ料理でも客の好みにより評価が様々に異なることもあるだろう(この場合、調理法や調味料のエネルギーが大きく異なることはあり得ないとしておく)。いずれにせよ、お客の好み(主観)がそのレストランの経営を、ひいてはGDPのデータを提供していることになる。因みに。このような意味でのミクロな「日常生活」への切り口から、容易に想像されるのが、既述のA・シュッツ「日常性の社会学」またはK・ラワース「自然界の繁栄を支えるネットワーク」との深い繋がりの可能性ということだ。

この余りにも当たり前すぎるような「人間本位」の考え方に関わる根本的な見方の違いが、「スウェーデン学派型の人口論」(人間本位の最適福祉水準を視野に入れた最適人口規模論/多様な経済循環の動学的な分析を重視)と「米国“新自由主義”型の人口論」(移民立国のための新自由主義(リバタリアニズム競争原理主義)的な規模拡大の人口論)の差異をもたらすことになったと考えられるのである。しかし、誤解のないように補足しておけば、「20世紀初頭の米国における“そもそもの新自由主義=いわゆり制度経済学派”の台頭は公正資本主義(Reasonable Capitalism/非マルクス主義的な経済発展段階説)が目標であった」という現実がある。但し、ここで言う“新自由主義”は、ミルトン・フリードマンに始まる(厳密には、その前史もある)とされ現代世界を席巻する新自由主義とは異なる。

つまり、19世紀末〜20世紀初頭(第一次世界大戦へ参戦する頃まで)のアメリカでは、「政治の革新」と「経済への政府干渉」の必要を説く運動が興り、この時代は「革新主義(Progressive)の時代」と呼ばれる。そして、この時代の経済思想の特徴は「新自由主義/ニュー・リベラリズム」(New Liberalism/1980年代以降にに定着したネオ・リベラリズムと直接的な関係はない)という言葉で代表されている。

そして、その元祖ニュー・リベラリズム(制度経済学派なる公正資本主義の伝統)は、米国のもう一つの“良識派の深層潮流”と見るべき文化資本主義(フランクリン・ルーズベルトニューディール政策が典型)あるいはネオ・プラグマティズム(限定合理主義の哲学/関連↓★1)との共鳴を感じさせる。更に、同じ北米にありながら、「エトノス環境論」の契機を創ったと見るべきカナダ(関連↓★2)が展相(Potenz)経済学のもう一つの流れとして欧州と共鳴し続けることになった背景には、カナダと米国の教育制度の差異(総じて、教育水準は米国よりカナダの方が高いと感じられる/委細は未検証)という現実があるようだ。

★1 ネオ・プラグマティズムは米国型リベラル共和の培地/W.V.O.クワイン『ネオ・プラグマティズム』の斬新な視点、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503 

★2 身の丈に合う「先住多層文化エトノス」で国民主権の強化を図るジャスティン・トルドー首相のカナダと真逆のベクトル、「属国ファシズム」の罠に嵌った日本、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160301

f:id:toxandoria:20180804181519j:image:w230:leftいずれにせよ、吉川 洋氏によれば20世紀までのスウェーデン学派で議論をリードしたのはクヌート・ヴィクセル(J. G. Knut Wicksell/1851- 1926)である。理論経済学者として名高いヴィクセルだが、そもそもは人口問題への関心から経済学者になり、名著『経済学講義/1901』で“人口の理論、人口構成および人口変動”を論じている。そして、ヴィクセルの最大の特色は国家にとっての「最適人口論」を論じたことであり、それは現在でも欧州諸国へ大きな影響を与えている(画像はウイキより)。

f:id:toxandoria:20180811073421p:image:w750:rightまた、ヴィクセルは「子育て支援」の源流でもある。従って、将来年率0.6%(現時点で、年当・約70万人強)という急速な人口減の日本が参考とすべきが、このヴィクセルの「最適人口論」とA・シュッツ「日常性の社会学」、そしてK・ラワース「自然界の繁栄を支えるネットワーク」であることは言うまでもないだろう。













3−2 「定常経済」へ向かうステップとして「“シュッツの日常性”重視」と「自然と生命のあり方」を見倣う<オープンソース循環型経済>への期待

f:id:toxandoria:20180805075200j:image:w420:leftf:id:toxandoria:20180805075229j:image:w420:right

EU型「展相(Potenz)経済学の廻廊」が導く「あの壮麗なシャルトル大聖堂が象徴するが如き定常経済の内陣・アプス」の領域へ立ち入る具体的な方法論を未だ発見した段階とは言えないが、それは急に現代に入ってから着想されたものではない。それどころか、古典派経済学者らの間でも「定常経済」(そもそも成長とは何か?との素朴な疑問)は既に彼らの問題意識として浮上していた。つまり、古典派の経済学者らも成長(ロジスティック)曲線の上昇傾向が永遠に続くとは考えていなかったことになる(画像は、『TABIPPO.NET』https://tabippo.net/about/より転載)。

例えば、吉川 洋氏らによれば、その事例には以下のようなものがあるが、これらのなかでも特に●6/J·S·ミル「資本と人口の定常状態」論が、(2−2)で取り上げた<将来年率0.6%(現時点で、年当・約70万人強)という急速な人口減の日本が参考とすべきA・シュッツ「人間ゆえの新たな文化創造の多様なタネとしての日常性の社会学」>の問題にピタリと重なることに驚かされる。

●1/エンゲル「需要の飽和=特に食糧に対する需要は必ず飽和する(食べ歩き型テーマパークがなかなか上手くゆかぬことを思わせる!w)」、●2/食糧どころか全ての需要は飽和する:アーヴィン・フィッシャーのデットデフレーション論(1933 年、大恐慌当時の経済構造を分析した上で提唱された)、●3/ケインズ「需要飽和論」(“一般理論”で述べている・・・ここでは人口減こそがチャンス!の逆説(orスウェーデン学派の“最適人口論”すらが?)が読み取れる)、●4/ロバートソン(ケインズの友人/ピグーの後継者たるオックスフォード大学教授)「需要の飽和」、●5/アダム・スミス成長の限界論/長くて200年、その後は人口が安定化?」、●6/J·S·ミル「資本と人口の定常状態は、人間の改善のない静止状態を意味するものではないという指摘をする必要はほとんどないだろう。そこには、これまでと同じように、あらゆる種類の精神文化、道徳的・社会的な進歩の余地がある。先へ進むための技術ばかりを考えることをやめたら、"暮らしの技術"を向上する余地も大いにあり、それが向上する可能性もずっと高まるだろう」・・・●5、6の出典=『幸せ経済研究所』、https://www.ishes.org/economic_growth/sse/about/in_economics.html 

ところで、<生命活動や自然の動き、およびその延長と見るべき人々の日常生活の多様なあり方そのもの>を手本とする<循環型経済の可能性が無限であること>に気づいた先見的な人々や企業らによる新たなベンチャーの立ち上げ、あるいは意欲的な企業活動の新たな試みなどが、今や、世界中で拡がりつつある。そこで、以下ではEU型『展相(Potenz)経済学の廻廊』における歩みの第一フェーズと見るべき、自然と生命のあり方を手本とする「循環型経済の実践事例」、および「そのような方向への可能性を秘めた新たな試み」の胎動と思われる幾つかの事例を少し取り上げておく。

●ジャニン・ベニュスの“バイオ・ミミクリー(生物模倣)”による新たな都市構想『惜しみなく与える都市』(出典;ケイト・ラワース『ドーナツ経済学が世界を救う』、et https://ameblo.jp/kenbijin/entry-11075266667.html

・・・その第一歩として必ず行うのが「その対象となる都市周辺の生態系(森、湿地、川、草原など)を観察して、それらがどれくらい太陽エネルギーを利用し、二酸化炭素を吸収し、「雨水を保ち、土壌に栄養を与え、空気をきれいにしているか」などを記録することである。

・・・これらの記録が新しい都市の基準となり、建築家や都市計画者に「隣の大自然と同じくらい惜しみなく与える」都市を建設させることになり、都市内のすべてを繋ぎ、野生動物の通り道や都市農業も備わったインフラ網が整備されることになる。そして、再生可能エネルギーのマイクログリッドによって、すべての家庭が再生エネルギーの供給者となる。

・・・オランダの都市計画、米カリフォルニア州ニューライトテクノロジー社、南オーストラリアの乾燥した沿岸地域でのサンドロップ・ファーム社、バングラディシュ(世界初の太陽光エネルギー立国を目指す)、エチオピア(ティグレ州による土地再生、ケニア(社会的企業によるスラム街改修)、などでの取り組みが進みつつある。

f:id:toxandoria:20180805120319p:image:w550:right●欧州発の循環経済を推進する英「エレン・マッカーサー財団」による「循環(蝶)型経済」の推進(出典:ケイト・ラワース『同上』、et https://www.ellenmacarthurfoundation.org/http://www.alterna.co.jp/16391

・・・エレン・マッカーサー財団の活動には、「サーキュラー・エコノミー」のコンセプトには、廃棄物の3R(リデュースリユースリサイクル)や、資源の効率的な使用、デカップリング(経済成長を維持しつつ、生産時のエネルギー消費を減らし、多消費の産業構造を改める)、持続可能な生産と消費、再生可能エネルギーの使用、環境負荷を減らす根本的な製品設計や、ビジネスモデルの変更、持続可能な資源調達、リースやシェアなど製品とサービスのイノベーションを起こす新しいビジネスモデルを生み出すことが含まれている。https://www.huffingtonpost.com/fomin/the-circular-economy-butt_b_9841898.html 










f:id:toxandoria:20180805120744p:image:w550:left●『オープン」ソース循環型経済(OSCE)』の全世界的展開/OSCEdays Mission Statement What is ‘Open Source Circular Economy’?(出典:ケイト・ラワース『同上』、et  https://oscedays.org/open-source-circular-economy-mission-statement/ 

・・・循環型経済の潜在的な再生力の大きさと企業による効率一辺倒の視野が狭い実践との間の甚だしいギャップに触発されて、この運動が立ちあげられた。これは世界中のイノベータープランナー、活動家らから成るネットワークで、オープンソース・ソフトウエアを真似て、知識のコモンズを気づくことで、循環型の生産の可能性を最大限に引き出すことを目的としている。

・・・ベニュスのバイオ・ミミクリーと同じように、この運動も自然を手本としているが、循環型の製造は最終的にオープンソース(製品レシピの公開)となる必要がある。レシピを公開することで、誰でもがそれを更に改良したり、新たな発明へ繋げたりすることが可能となる。興味深いことに、米国の熱烈なトランプ支持のお膝元、ラスト・ベルトでもOSCE活動が展開されている。





f:id:toxandoria:20180805121031j:image:w550:rightフィリップス(オランダ・アムステルダムに本拠を置く多国籍企業)による、循環型社会の実現への貢献を意識したコンセプト『循環型設計/Innovation and you』による社業発展への取り組み/添付画像と下の文章(一部分)は、HPより転載(出典:同社HP、https://www.philips.co.jp/a-w/innovationandyou/article/extended-story/circular-economy.html )

・・・循環型経済は(生物と生命活動の全体、つまり自然を手本とする)、天然資源などの素材をより効果的に使用することで、天然資源や自然の生態系の利用と経済成長を切り離すことを目的としています。これは、材料、部品、製品の再利用の分野におけるイノベーションと、新たなビジネスモデルの構築を促します。循環型経済では、材料を効果的に使えば使うほど、コスト削減、新市場の開拓、既存市場の発展につながり、さらなる価値が生み出されます。









エピローグ)将来へわたり持続可能な『定常型社会』への移行プロセスの設定が日々に困難化しつつある日本の危機

既に述べたとおり、A・シュッツ「人間ゆえの新たな文化創造の多様なタネとしての日常性の社会学」とK・ラワース「自然界の繁栄を支えるネットワーク(生命現象、および生物の持続生存のあり方を手本とする)」が、定常経済を具体化するとき非常に有意なヒントとなるのは間違いがない。

一方で、あるいは「定常経済」が永遠のエンテレケイアであり続ける可能性も高いが、「定常経済」には、それはそれとして、ルソー『一般意志』と同じような意味での理念的な役割が十分にあると思われる(エンテレケイアについては参照↓★)。

★Google‐Webネットワーク時代の「AI・BD‐Web情報」とリアル社会情報の根本的な差異の問題/両者はアリストテレスの潜勢態(デュナミス/dynamis)と現勢態(エネルゲイア/energeia)に対応する。なお、その潜勢態(可能性でもある!)を完全に実現して、その目的に到った状態のことはエンテレケイア(entelecheia/プラトンのイデアに匹敵する)と呼ばれる・・・、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180701 


f:id:toxandoria:20180805164729p:image:w700:right

そのような意味で、殆どのマスメディアが相変わらず“一強政権だ!一強政権だ!”と誉めそやす安倍内閣(アベノミクス)の深奥に潜む『追憶のカルト』が、その邪悪な刃を日々に研ぎ澄ますことで、益々、日本の<持続可能な『定常型社会』への移行プロセスの設定>が手遅れとなりつつある。そもそも、今の日本は<改憲>第一主義(しかも、それは戦前型へのアナクロ退行“改憲”である!)にかまけている時間はないはずなのだ。

言い換えれば、それは、今の日本に求められている喫緊の課題が<従来型の成長の後を受ける社会構想たるべき、まったく新たな発想に基づく『定常型社会=持続可能な福祉国家ビジョン』への廻廊の設計>ということだ。しかし、我われ一般国民が、日々、目にするのは、社会現象学者A・シュッツが指摘する<たしかな未来へ向かう“もう一つの緩やかな時間と豊潤な日常生活”>の発見どころか、<かつて政治学者・橋川文三が抉り出して見せた、異常な戦前・戦中期型のアイロニー(国賊探し、そして現実逃避(無関心への逃げ)>が拡散するばかりの悲惨な日常である(完)。

・・・なお、対処すべき仕事があり、暫く当日記はお休み(中締めと)します。再開の時期は?デス・・・





f:id:toxandoria:20180811153600p:image:w750:left(記事への補足1)当「エッセイ/試論」についての雑感

●経済成長(人間の主観or欲望的評価の計数化たる右肩上がりGDP準拠方式)は、生命活動と同じく「熱力学第二法則」に抵抗するエルゴン(活動)であるが、そもそも論的に見れば、同じく「同法則」に抗う「生命活動のあり方」からあまりにも大きく外れ過ぎている。従って、GDP原理主義(永遠の右肩上がりGDP準拠方式)によるロストウ発展段階説の儘での永遠飛行はエントロピー論的にも不合理である。

●従って、地球エトノス環境(Planetary boundaries)を上限とする定常経済社会(ケイト・ラワースのドーナツ経済社会、究極ターゲットは定常経済社会)化を現在から未来に跨る最重要ターゲット(絶えざるエンテレケイア)とすべきであり、そこから逆照射すれば必然のイメージとして、EU(欧州連合)が視野に入れるが如き『展相(Potenz)経済学』の廻廊(発展プロセス)が構想できることになる。


(記事への補足2)

「政治(特に日本の←補足、toxandoria)に倫理は大事なものでなくなった」ドイツの哲学者、ガブリエルさんが語る 広がる「21世紀型ファシズム」毎日新聞2018年7月6日 東京夕刊 https://mainichi.jp/articles/20180706/dde/012/040/002000c

f:id:toxandoria:20180805172843p:image:w440:leftf:id:toxandoria:20180805172916p:image:w360:right

 「安倍晋三政権は、政治家が倫理から懸け離れてしまった現代の象徴」−−。6月に来日したドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルさん(38)は学窓にこもらず、国際政治から脳科学、人工知能まであらゆるジャンルに切り込んできた。20代でボン大学教授となり「ドイツ哲学の新星」と呼ばれる知性が、安倍政権、社会を覆う鬱、そして理想社会を語る。【藤原章生】

 知識人を二つに分ければ、ガブリエルさんは沈思黙考型ではなく冗舌発散型だ。ひねりの利いた比喩や笑い話を織り込み、マシンガンのように言葉を放つ。直感で湧いてくる言葉が大きな刺激剤となり、聞く者に新たな考えを呼び覚ます。7カ国語を操り古代ギリシャ語など古語にも詳しく、各国の政治から環境問題、スマートフォンのゲームまで博覧強記の彼に、今の日本はどう映っているのか。

 安倍政権については一連の不祥事から政策まで結構詳しい。

 「イメージと現実。何事も二つがあるけど、私がこれから語るのはあくまでもイメージです。私から見た安倍さんは、トランプ米大統領の友人になろうとした最初の人。世界の指導者の誰もが当選直後のトランプ氏が何者なのか、この現象が何なのかわからず戸惑っていたとき、安倍さんは(2016年11月に)いち早くトランプタワーを訪ね、最初にお墨付きを与えたという印象を世界に残した。その点が際立っている」

 大統領候補にすぎなかった時代は距離を置き、当選するとすかさずすり寄る。ちょっと恥ずかしい振る舞いだが「大事なのは実像ではなくイメージ」とガブリエルさん。「彼は日本人の多くがこうした行動を好むとわかっていたのでしょう。米国のストロングマンというファンタジーに近づくことで、安倍さんは『極めてパワフルな男』という自分のイメージを売ろうとしたのだと私は思います」

 パワフルがなぜ大事なのかといえば「権威主義的なリーダーという印象を国内外に植えつけられるからです」と言う。

 広辞苑を引くと、権威主義とは<もっぱら権威(人を服従させる威力)に価値を認める主義。権威をもって他を圧迫する態度や行動としてあらわれる>。

 「例えばトルコのエルドアン大統領は(03年に首相に就任以降)権威主義のイメージを広めた。経済はガタガタなのに、彼はそのイメージで何とか長期政権を保っている。安倍さんも着実に権威主義モデルに向かっている」

 ロシアのプーチン大統領ら権威主義的リーダーが目立つ現代は「ムソリーニによるイタリアのファシズムとよく似ている」と言う。時代のファシズム性については、作家の辺見庸さんが06年、私とのインタビューで当時の小泉純一郎首相をファシストと呼び「ファシズムは独裁者が生み出すものではない。ある日、ふと気づくとかすかに変わっている空気。人々の仕草も行動も一見同じなのに、何かが変わり、もう後戻りできないかすかな変化」と説いた。

 これに対し、ガブリエルさんは、ムソリーニ時代、建築から芸術、法制にまで及んだ「未来志向」を強調する社会運動「未来派」をキーワードに「21世紀型ファシズム」を語る。「未来は過ぎゆく時間の一部で、中身のない幻想です。ファシズムはこの幻想で大衆を動かす。つまり、未来を目指すなら、現在は悪であり、今のルールを壊さなければならないと国民を誘導する。これは今の日本のみならず世界に広がっている動きです」

 「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」という言葉も確かに、幻想のように響く。

 政治スキャンダルをいくら重ねても政権が崩れない現状は「まさにファシズム的統治の成果」だとガブリエルさんは言う。

 「21世紀型ファシズム以前の政治家には、国民の反発、デモに対する恐怖があったが、その感覚は弱まっています」。日本の一連のスキャンダルは「無責任」という言葉で読み解かれることが多いが、ガブリエルさんはそれを「倫理」で解く。

 「有権者はかつて、倫理を備えたリーダーか、そういうふりをする指導者を求めてきましたが、最近は政治にとり倫理は大事なものではなくなった。典型がトランプ、安倍政権です」

 なぜ問われないかと言えば、「古い価値観を捨てなければラジカルな未来は開けないという絵空事のような言葉が、人々の倫理を鈍らせるのです。安倍政権は経済を安定させれば政権は揺るがないとわかっている。政権の中身がどうあれ、どれほどスキャンダルが続こうと、権威主義、強い男のイメージが備わっていればなんとなく支持されると。ただし、経済が傾けば、もともとイメージだけなので、崩れるときは早い」

スピード社会は我々を壊す

 社会のムードについても聞いてみた。今年邦訳が出た13年の著書「なぜ世界は存在しないのか」(講談社選書メチエ)に現代社会の抑鬱性に触れたくだりがあった。職場でのうつ病発症は増え、バブル崩壊以前に比べ、社会全体が鬱っぽくなった印象が確かにあるが、「これは先進世界共通のことだ」とガブリエルさんは言う。

 英国の経済学者、リチャード・ウィルキンソンさんらが6月に出版した「インナー・レベル」(未訳)は、世界中の統計を駆使し、富や機会の不平等が高まるほど社会全体のストレス、うつ病発症が高まると説く。主因は経済の低迷、縮小ではなく、格差にあると。

 一方、ガブリエルさんは「スピード」をキーワードに「鬱社会の成り立ち」を解く。

 「社会のシステムが一つの目的に向かい、一定の速度で動いているときはいいのですが、目的が失われたとき、システムそのものが壊れ始める。それが鬱です。個人で言えば、鬱は自分にあらがう力、ネガティブ思考で、これがときに自殺やひどい惨事を招く」

 成長を目指した社会が、経済の停滞で目的を疑いだし、逆向きの力、つまり鬱が社会に広がったということなのか。「日本の資本主義は世界でも最も速い社会システムの一つで、見事なほど完璧に組み立てられ、成長をもたらしてきた。今も日本人が時間に厳しいのは礼儀正しさではなく、資本主義からきたものです」

 経済は低迷してもスピードだけは変わらない。速すぎるスピードの中で一瞬、個人は内省する。そのとき個人の精神はぼうぜんと取り残されるか、システムに逆行する。だから個人が鬱に? そういぶかるとガブリエルさんはぱっと「サラリーマン」が憑依(ひょうい)した口調で、一人語りを披露する。

 「会議はなく、地下鉄に乗ることもなく、メールも電話もする必要がなく、何かに応える心配もなく、ジムにもディナーに行くこともない。そして、内省したとき、自分の思考が自分自身に反発してくる。それが鬱の要因です」

 そして、冗談交じりの口調で続けた。「だからスマートフォンがはやるのです。抗うつ剤のようなものです。地下鉄でもどこでも指先を動かすのは、内省から逃げている。精神が自分を食い尽くそうとするのを必死に防いでいる。スマホに没頭することで、鬱と戦っているのです。もしスマホがなければ人々は即座に鬱になる」

 「スピード」にとらわれた人々の一種の強迫観念とも言えそうだ。「すでに十分あるのに高速で生産し続けなければ立ちゆかない。そんな社会システムは間違いであり、それは我々を壊し、先にあるのは虚無だけです」。無限の創造性を備えた各自の脳を駆使することで「間違いを認め、そこから脱却しよう」というのが彼の訴えだ。スマホをやめろというのではない。自分たちの強迫観念を自覚せよということだ。

 ギリシャの映画監督、故テオ・アンゲロプロス氏が11年、当時ローマ特派員だった私のインタビューで謎めいた言葉を残した。「今は未来が見えない。誰もが大きな待合室でチェスをしながら、扉が開くのを待っている。中には扉を壊そうとする者もあるがすぐには開かない」。最後にこのセリフを紹介し、ガブリエルさんに「扉の向こう」に何がなければならないのかと問うと、「面白いね」と言いながら即答した。

 「あるべきものがある。人間を壊さないモデルだ。今はどんな政治問題も一国だけのレベルでなく世界の問題だ。気候変動も不平等も。扉の向こうにあるのは不平等解消のあるべき姿だ」← まさに、これは当ブログ記事の核心テーマと重なる!!(補足/toxandoria)

 ガブリエルさんは全員に最低でもそれなりの額の収入を与えるベーシックインカム(最低所得保障)に加え、「マキシマムインカム(収入の上限)」が必要だと説く。「金をいくら稼いでも個人の楽しみは限られている。例えば月額50万ユーロ(約6000万円)を上限にする。共産主義になれというのではない。資本主義下でできる話です。国レベルでも世界レベルでも今の不平等は過去最悪。今の民主主義の危機もポピュリズムも権威主義も全て、不平等の問題からきている。扉の向こうにあるのは、それを乗り越えた新たな社会モデルだ」

 その理想に至るのは革命的な激変ではない。「じわじわと時間をかけて人の精神が変わっていく」とみている。「北欧などにはそれに近い考えがあるし、日本は今でこそ格差がひどいけど、かつては収入格差が極めて小さい良き価値観を備えていた。日本がモデルになれるかもしれない」。半分冗談っぽく、それでも何かに挑むような真剣な目で笑った。

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2018-07-01 ボディーブローとなりつつ世界中へ拡散する安倍ネオ・ファッショ政権

toxandoria2018-07-01

ボディーブローとなりつつ世界中へ拡散する安倍ネオ・ファッショ政権の恥!/高度Web情報化で本格的「出現」が懸念されるネオ“優生学”ファッショの超リスク

・・・歴史から「倫理」(絶えざる善の欠損状態の修復)の意義を学び直すことが急務!/AI・BD-Web高度情報化に因る<社会情報の“断絶”>と<個人の“原始化(孤人化)”>を乗り越えるための試論・・・

(Cover Image)A certain summer impression/ Source:Olga's Gallery - Online Art Museum. http://www.abcgallery.com/

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Claude Monet‐The Bridge at Argenteuil.1874. Oil on canvas. Musée d'Orsay, Paris, France.

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Claude Monet−Young Girls in a Boat. 1887. Oil on canvas. National Museum of Western Art, Tokyo, Japan./Olga's Gallery

プロローグ)再び、マッハ現象学とマッハ感覚論的素材論(性)についての考察が必須

・・・以下は、[20170901toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)大前提とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170901 ]の部分的な再録、プラス(+)アルファ(α)・・・

◆「同じと思われる光景」でも我われは異なる現出(実在・真理と信ずる射影、イメージ表象)を見ている/が、一方でその最大公約の表象(最大の共通項となる)が客観性(間主観性が保証する)である

・・・我われ一人ひとりは、例えば下図『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』のような<それぞれ各人が見ている内面表象>の外へ、そのままでは絶対に出られず、これが一人ひとりの「主観性」の強固な地盤である(この左目だけで見た絵の周辺は眼窩の縁、右の出っ張りは自分の鼻先、中央には自分の寝そべった両脚とペンを持つ右手が見える)。しかし、その避け得ない内面の差異を話し言葉など様々な記号(表象)を介在させた多様な表現の交換、あるいは文章(文脈)化・ボデイランゲージなど積極的コミュニケーションの工夫で一定の実在(真理)のイメージ(or表象)、つまり「間主観性」の共有化が可能になる。・・・

Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body stretched out in his studio; limited by the curvature of the eye socket, one sees his nose and beard. http://ur0.link/F5BD

f:id:toxandoria:20180618043213j:image:w340:rightこのこと(同じと思しき光景を見ても、各人は異なる現出(実在・真理と信ずる表象(イメージ・射影))を見ており、その最大公約の表象が客観性である)を真逆に言えば、普段に、我々の一人ひとりは同じものを見ているように思い込んでいても(これはよほど強固な自覚(または覚醒への意志)を持たぬ限り日常生活では避けるのが中々困難な錯覚!)、実は誰一人として全く同じものを見てはいないということだ(その極端な現れの事例として立体イリュージョン(立体錯視)の問題がある⇒http://www1.odn.ne.jp/sugihara/illusion/illusion.html)。

また、ここでの最大公約(数)なるコトバは比喩で使っているので最小公倍(数)でも構わない、要はそれこそが『話し合い、あるいは個々の情報の擦り合わせなどで漸く同定・共有される、ある実在(真理)についての客観的な“表象”、つまり間主観性であることを意味する。

そして、このような認識が正しいことは、植民地資本主義の限界とカルト同然のナチス的な空気拡大への危機意識で覆われつつあった19世紀後半〜20世紀初頭に活躍したオーストリア物理学者エルンスト・マッハの影響を受けたフッサールの厳密な主観性の検証である超越的「現象学的」還元のプロセス、つまりその科学哲学的な分析によって確認されている。

だからこそ、特に 政治・行政の現場では厳密な客観性と公正を担保するため「対話(言葉の遣り取り)→文章化」のプロセス(あるいは、それらを集約した文書・記録・映像など=常にブレたりズレたりする恐れが高い表象(真理)の統一・集約・同定or規定化)を保存する必要性があることになる(Cf.公文書管理の重要性/この観点から見ると、日本の「特定秘密保護法」が公文書管理の常識を外れているとの海外からの指摘がある! http://urx3.nu/FnRA)。

我々が日常で見ているのは、何につけ射影の寄せ集め的なもの、つまり直接的で物語的なものである。例えば、それは机の形が平行四辺形(現出/フッサールはこれを記号とも呼ぶ)に見えるような遠近法的で瞬時的な分かり易いイメージ(ものごとの現われ)に関わる感覚・体験の流れであり、これが深刻な錯覚をもたらす主な原因となっている。一方、我々はそのように少しでも油断するとかなり曖昧となる日々の状況の中で生きており、又そうでなければ生きられない生き物でもあるので、ここが厄介なところなのだ。

但し、平行四辺形の場合のイメージ記号と異なり言語という“記号”では現出と現出者(真理のイデア)の間に同等性(イメージ的相同性)はない。また、知覚的直接性(映像)は、想起・連想などと比べより直接的でありながら、それでも知覚映像はリアル(真理)に対し直接的ではなく現出(本質直観/一つのor特定の“射影”)で媒介された直接性である。その意味で、一般の知覚映像も一部分のリアルに過ぎない。

どこまでも我々は 「内的な表象」(本質直観=マッハの内面的な表象)の世界に閉じ込められていることになり、これは言語など<マッハ感覚論的素材性>の交換によるコミュニケーションの難しさを意味するとともに、「それ故にこそ、誤解を小さくするため、より積極的なコミュニケーションが重要であること」も示唆している(が、姑息な安倍政権は、その<射影がもたらす錯覚をどんどん肥大化させるウソ(虚言)政策>を作為的に一環して採っている)。

ともかくも、その先には“その机の形は長方形(現出者/この場合は長方形の机という真理)であること、つまり一定時間の流れとも関わりつつ見えてくる現出者(長方形の真理)に関わる知覚・経験”が出現する過程があり、この現出者こそが現象学的な意味での実在(同一性)で、フッサールはこれを“客観の同一性の表象は多角的で多様な表象(夫々の本質直観)で媒介される”と表現する。

また、この“現出(各射影)⇒現出者への過程”をフッサールは“現出(各射影)を突破して現出者(真理)を知覚または経験する”と表現しており、このベクトルを更に「志向性」とも呼ぶが、これは「意識」作用と殆ど同義である。なお、この“現出を突破して現出者へ到達する”ために必須となるのが、フッサールが言う「エポケー/判断中止(ごく自然な思い込みの流れを停止する省察でマッハ的な内面の光景へ引き戻し(これがマッハの第一義的還元)、それに照らして現出者(真理)を理解する!)」の意識作用である。

・・・以上で、再録の部分は終わり・・・

ところで、情報Webネットワークの高度化が進むにつれて、新たな優生学(分断・排除)が誕生するリスクが高まりつつあるという危機意識が世界的に拡がりつつある。より具体的に言えば、それは<「AI・BDセマンティックWebの高度化」(委細は第1章に譲る)に関わるデータ原理主義的な社会の解釈によって新たな優生学(分断・排除)が誕生するリスクが高まりつつあるという危機意識>である。

言い換えれば、それは「AI・BDセマンティックWebの高度化」で「“フーコー生政治”(偽装道徳強制&生命・医療衛生支配)型の新たなアンシュタルト(Anstalt/不可視の一強支配構造)」が出現し始めており、その先には「データ原理主義的な社会の解釈に因る新たな優生学(分断・排除)が誕生するリスク」が高まりつつあるということだ。

そして、そのような悪しきトレンドを照射する重要な切り口は「(1)AI・BD型Web情報化に因る社会の“分断と断絶”」、および「(2)同じく、それに因る個人の“原始化”」という二つの異なる次元のリスクの問題である(個人の原始化については、第三章に譲る)。

因みに、この悪しきトレンドが意識されつつある背景となっているのは量子コンピュータの実現ということだ。完成までは未だ時間を要するようだが、その処理スピードは古典的なそれの比ではなくスパコンの約1億倍ともされており、それがビッグ・データ(BD)の利用拡大、セマンティックWebネットワークの進化と合わさることで、やがて想像もつかぬほどの巨大な「ネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」を新たに創造することが予想される。

しかし、量子コンピュータと「AI・BDセマンティックWeb」(一定の文脈を理解できるWeb検索だが 未だ実現されていない)の連携で如何に<巨大な電脳汎“知”ワールド>が出現しようとも決して忘れるべきでないことがある。

それは、<我われ人間社会のコミュニケーション(リアル世界で日々に、かつ瞬間的に更新され続ける人間が連帯し日常を生きているという生命感覚論的な意味で持続的な意識世界の交流的な繋がり、いわばそれは間主観性のエルゴンergon/アリストテレスの用語で、流動・共感的な活動の意味)の拡がりであり、かつそれは必ず自己言及的な未来への“残余”を伴うマッハ感覚論的素材性である)>と、<その殆どはリアル日常世界の間主観性に関わる多様な諸々の意識の流れから切断され抽象化された非文脈的で断片的な情報知の集まりである「電脳汎“知”世界」>との間には、そもそも決定的な『断絶』が存在するということだ(委細は本論へ譲る)。

実は、この「生命感覚的な意識」に対し、非常に注意深く原理的に注目することで始めて理解できるのが「マッハ現象学」に始まる一連の現象学の流れであり、それが最もヒューマンなM.アンリ『情感の現象学』に結晶したことは周知のとおりである(関連参照↓◆)。

◆20171109toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(2/2) M.アンリ『情感の現象学』から見える『感情の政治学』の可能性」http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109

ところが、情報科学、量子コンピュータ、IT・BD技術系等の先端領域に従事する専門家らの一部に、抽象的で自立的な「電脳汎“知”世界」(デジタル情報データが乗るデバイスは電子or量子構造)と「生命感覚的な生身のヒトの意識世界/生命感覚的な意識」(マッハ的な感覚要素、つまりマッハ感覚論的素材性である内的な表象・本質直観)が繋がった<恰も西部開拓史時代の米国における新世界の如きニューワールド(膨大な抽象的ネットワーク構造が生命圏をも一元的に包摂する画期的な新世界)の出現>を主張する声(抽象的デジタル情報データ・アニミズム論?)が存在するのは実に不可解なことだ。もし、彼らが本気でそれを信じているなら、彼らこそマッド・サイエンティストか、あるいは日本のアベ・シンパ(その実像は古色蒼然たるアナクロニズムである日本会議流“追憶のカルト”)の如き新種のカルト信者のジャンルではないのか?

要するに、「マッハ感覚論的素材性(マッハの内面的表象)」とは、内外のエトノス(自然・文化環境)と殆どアニミズム感覚的に交流・共鳴する「ノントリビアルサイバネティクスの内部観察者(obserber)」(委細、後述)に相当すると考えられる。とすれば、それは生命論的、ないしは人間論的な意味で時間の流れと同期して進行する「内外世界の因果連鎖」に関わるリアル感覚(リアル意識)そのもののことでもある。

つまり、<事実上、もし我われがスマホという名の“Webネット型DB(データベース)ロボット”の操作なしでは一日たりとも日常が生きられなくなっている>とすれば、今や、この“リアル意識obserber(生身のヒト)”そのものである我われは、<抽象的なWebネット型DB上に君臨するクラウドAI汎“知”>の支配下で完全にそれに組み敷かれるか否か?の瀬戸際の時代を生きつつあることになる(ソフトバンクのクラウドAI型ロボット、ペッパーの脱人間化『知能』の設計アーキテクチャはその典型事例、https://www.softbank.jp/robot/)。

1 Google‐Webネットワーク時代の「AI・BD‐Web情報」とリアル社会情報の根本的な差異の問題

1−1 その前提には、先ずa「あくまでもヒトがリアルに生きている文脈的世界の一環であるデータ(一般的な意味での抽象性とは異なるマッハ感覚論的素材性)」とb「機械言語上の情報知(抽象的体系性)」の「断絶/アポリア」ということがある

・・・両者はアリストテレスの潜勢態(デュナミス/dynamis)と現勢態(エネルゲイア/energeia)に対応する。なお、その潜勢態(可能性でもある!)を完全に実現して、その目的に到った状態のことはエンテレケイア(entelecheia/プラトンのイデアに匹敵する)と呼ばれる。つまり、今の我われは、(1)社会活動的に見れば間主観性が日々に更新され続けるリアル側面にも相当する、一定の文脈的世界の一環であるマッハ感覚論的素材性(エトノス&感情の海を漂うエネルゲイア)、(2)巨大WebネットDB汎“知”が刻々と更新し続ける新たなクラウド的世界(増殖し続ける抽象的データ/デュナミス)、(3)ルソー「一般意志」に相当する普遍観念(絶えざる未来志向の理想/エンテレケイア)という、日々に我われが生きる環境世界のリアリズムに関する三つのフェーズを明確に意識しつつ生きるべき時代に入ったといえる。なお、例えば当記事で“反面教師的”教材として取り上げた東 浩紀『一般意志2.0』の如く、その筋の専門家でも「(1)と(2)」を混同するケース(マッドサイエンティストもこのジャンル?)が観察されるが、一般的には(1)、(2)、(3)が区別されず漫然と混同されているようだ。(以上についてのヒントを与えてくれた主な資料:大黒岳彦『情報社会の哲学』(勁草書房)、p316・注記 ほか)・・・

端的に言えば、a「リアル社会情報=パースの“トークン”(関連参照↓◆)が代表する社会の諸活動(エルゴン/ergon)が日々に創造するリアル因果の連鎖=時間の流れに伴い永続更新するマッハ感覚論的素材が紡ぎ出すリアル現象」および b「Web情報=Webネットワーク内のデータ分布(ビット&抽象情報化した各データは一定のリアル文脈構造から切り離されている)が拡張しつつ創造する無限のヴァーチャル構造/Webネットワーク汎“知”DBが構築し続ける電脳空間」、として<根本的にaとbを対比して見る>ことでこそ両者が決定的に「断絶」していることの理解が可能となる訳だ(前段の文脈で言えば、(1)と(2)の断絶ということ!)。

◆20180503toxandoriaの日記/「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適応すべくAIナルシス社会のリスクを制御する日本国憲法の新たな役割を発見するのがポスト・アベの課題http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503 

ところで、量子コンピュータについては、それがスパコンの数億倍ともされる高速計算が可能とはいえども、不確定性原理による量子の状態変化を安定させる方法など(Ex.データ保持期間の長期化など)の課題が残されている。また、1古典量子ビット(1.0)と比べた情報量の大きさで見ると、現行の50量子ビット(2の50乗=1,125,899,906,842,624)から100同ビット(1.26765060022822940149670320537E+30)へ拡大する技術(古典コンピュータ50台分の計算の同時並行処理)が実現できたとしても、それを実用化する(そのままで理解不能な膨大な計算結果を人が読んで分かるよう処理する)ため、それは今も同じことだが、その各々の計算(情報処理)の結果を統合的に理解するため古典コンピュータによる解読(計算)処理が必ず必要である。

そこには「リアル世界」と「ビット情報が蓄積した抽象的ヴァーチャル世界」の決定的な「断絶」の幅が、古典ビット時代を遥かに超える膨大なスケールて益々拡大するという深刻な問題が潜んでいるようだ。無論、そのような「断絶」について、あまり深く考えず割り切って無視することも出来るだろう。が、そうすると今度はそこに「ヒトが生きる意味は何か?」という古くて新しい問いが、つまり<倫理と人道に関わる厄介な価値判断>が必ず浮上し影を落とすことになる。<日々に巨大化へと増殖し続けるWebネットDB汎“知”型ヴァーチャル世界>が、自分をも含むリアルの日常を圧倒しつつ飲み込み続けるというイメージが実に悍ましく見え始めることを只の杞憂として見過ごしてよいものだろうか?(関連/参考情報 ⇒スタ二スラフ・レム原作、アンドレイ・タルコフスキー監督・映画『惑星ソラリス』、http://www.imageforum.co.jp/tarkovsky/wksslr.html

<補足1> 量子コンピュータとは何か? 実用化進む次世代コンピュータの基礎と仕組みを解説、https://www.sbbit.jp/article/cont1/34458 

要は、“ビット情報に因って伝わるWeb情報は、たとえそれが見かけ上で文脈的な体裁となっているものであっても、それは純粋に抽象化した「データ」(潜勢態/デュミナス)であり、リアル・コミュニケーションにおける会話や文章(がもたらすアナログ情報)は、必ず何らかの特定の目的(や意図、何らかの世界観など)と結びつく「インテリジェンス情報」(現勢態/エネルゲイア)であるということになる。これを真逆に言えば、<リアル世界でのデータ>は、たとえそれが数字等の抽象的データであっても、それがこの世界に出現した瞬間(何らかの数字や記号やコトバが話したり書かれたりした瞬間、あるいは書棚の本やそこに置かれた新聞が読み始められたりした瞬間など)には、それらは必ず何らかの生きたエトノス環境(内外の自然&文化環境)に包摂されているという意味でリアルな「マッハ感覚論的素材性」を帯びることになる。

つまり、<Webネットワーク汎“知”DBが構築する電脳階層に格納され続けるデジタル情報>と<リアル世界という大海原を漂い、泳ぎ、潜水と浮上を繰り返し、あるいは交流する社会フィールドを駆け巡るアナログ情報>との間には、このような意味で<宿命的、かつ決定的な断絶>があり、その両者を仲介するのが「エトノス観念(同環境論)」(最広義の自然・文化環境に包摂され同期し続けるリアル意識の総体であり、それが今を生き続けようとする生身のヒトの意思の源泉でもある)ではないかと思われる(関連/エトノス環境の委細はコチラ⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503)。


1−2 AI・BD‐Web時代にこそ注視すべき、セカンドオーダー・サイバネティクスとしてのヒトが創造する“余剰etwas”(意志を含む)の問題

f:id:toxandoria:20180624072735p:image:w300:left・・・H.v.フェルスターのノントリビアル・サイバネティクス(セカンドオーダー・サイバネティクス)がもたらす“余剰意志”(アンガンジュマン等の始動因(モチベーション)となる)についての理解が、「間主観性の連鎖」と「多次元的な倫理感」についての再覚醒をもたらす。・・・ 

f:id:toxandoria:20180620153221j:image:w250:right 東 浩紀『一般意志2.0』(講談社)を一読した限りでは、本格的なAI・BD‐Web時代に入ってしまった現代では、J.J.ルソーの一般意志に牽引されてきた近代啓蒙思想も、あるいはアーレントハーバーマスらが果敢にその研究に取り組んだ「間主観性」論(手続きの普遍性を重視する立場)の現実社会面での役割も、これらの悉くがAI・BD‐Web周辺の情報技術の深化で今や無効化したと見なされている。

しかし、果たしてそう言い切れるのだろうか?実は、いま起こりつつある事態はそのような悲観的(orそのような見方を一種のシンギュラリティ論への翼賛の心情と見なせば甚だしく楽観的だともいえる?苦w/その委細は、第2章へ譲る)な観察とは真逆ではないのか?

(セカンドオーダー・サイバネティクス)

そこで、先ず注目すべき重要なファクターはH.v.フェルスター(↓補足2)のノントリビアル・サイバネティクスだ。つまり、それは従来のファーストオーダー・サイバネティクスを「普通のサイバネティクス」(トリビアル・サイバネティクス/下図1)とすれば、セカンドオーダー・サイバネティクス(普通ではない2nd.オーダー・サイバネティクス/下図2)型の自己言及システムがあり得ること、それがヒトを含む生命体のそもそもの起動因となっている可能性が高いという発見である。

f:id:toxandoria:20180620153613j:image:w230:left<補足2>Heinz von Foerster(1911–2002)Austrian American scientist combining physics and philosophy, and widely attributed as the originator of Second-order cybernetics. https://en.wikipedia.org/wiki/Heinz_von_Foerster 

4、5

f:id:toxandoria:20180620153349p:image:w250f:id:toxandoria:20180620153437p:image:w250

図1Trivial machines(上) 図2Nontrivial machines(下)

Trivial machines :As shown in Figure 3, trivial machines are driven by their inputs. Describing something as a trivial machine is to focus on the predictability of its behavior, o, from the conditions that impinge upon it, its input i. This is accomplished by formulating a relation between the two observables, ideally in the form of a mathematical function F : o = F(i). Functions do not offer choices.・・・http://web.asc.upenn.edu/usr/krippendorff/secorder.html 

周知のとおり、サイバネティクス(1st.オーダー・サイバネティクス)は20世紀中ころにノバ―ト・ウイナー(Norbert Wiener/1894-1964/米国の数学者)らにより情報と通信に関する制御理論(自己言及的フィードバック・システム)として定式化されたものである。

この1st.オーダー・サイバネティクスの特徴を端的に言えば「それは、結果をインプット(原因)側に戻すことで原因側を自己言及的に調節し続けることであり、例えば電気回路では出力による入力の自動調整機能、生体では代謝・内分泌の自己調節機能などを挙げることができる」ということになる。因みに、この1st.オーダー・サイバネティクスをモデルとする西川アサキ(AI研究・情報哲学者)らの「意識創生に関わるコンピュータ・シミュレーション」では(2nd.オーダーでないことに注意!!)、そこで創生された“コンピュータ上の意識もどき”(最小単位のモジュール)が「対外部的に秘密化(過激なまで暗く内向化)する性質」が観察された、という報告があることを特に注視すべきである(参照⇒『西川アサキの基礎情報論』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104。 

一方、H.v.フェルスターの2nd.オーダー・サイバネティクス(ノントリビアル・サイバネティクス)の活動モデル(エルゴン)は、その起動因を先ずシステム内“観察者”に仮設することで得られることになり、そこでは<外部環境(それはカント的な普遍、ないしは最広義のエトノス環境とも言える)というフリーハンドの多様性(つまり、外部から)の影響があればこそ、その起動因は常に自由で開放的な自己言及が確保できる>ことになる。この2nd.オーダー・サイバネティクスの生体活動における具体的な事例は、最新のマイクロバイオーム研究などの成果に見られる(委細、後述)。

因みに、カント的な普遍は必ずしも絶対的に固定されたものと見なす必要はないと思われる。それは、それがデータ表象ではなく観念である限り、そこでは一定の振幅が許される筈であるからだ。又、その内部の“観察者”(observer)については、特にヒトを含む生命体の場合は入れ子的・重層的に存在する各システム内の固有値(observer)が、つまり三次元空間内でのゼロ点から突然に個性的なものが出現すると考えるのは甚だ困難である(存在と非存在が重ね合わさる“無限次元での複素数ベクトルの確率分布(波動関数)の力学”が支配すると思しき量子力学ワールドならいざ知らず!苦w)。だから、特に生命活動(生体活動)における2nd.オーダー・サイバネティクスの場合の「内部観察者」は生命論的な意味で時間の流れと同期しつつ目前の三次元世界で進行する「内外世界の因果連鎖」に関わるリアル感覚(リアル意識)そのものと見なすべきであろう。

そもそも如何に始原的な個性であるとしても(最初の一撃に相当する始動因は化学反応的なものかも知れぬが)、それは最広義のエトノス的な環境との相互作用の下で、漸次、しだいに培われて文化・伝統的に馴化・変容・継承されてきたものだと見る“正統保守的”な意味での個性)に相当すると考えられる。いずれにせよ、特にヒトを含む生体活動では閉鎖的な1st.オーダー・サイバネティクスと開放的な2nd.オーダー・サイバネティクスの双方が、何らかの法則に従いつつ実に巧妙に夫々の役割分担を果たしている(究極的には2nd.オーダーがやや優越していると思われ、そこに生命誕生の核心も潜む可能性がある)ことが窺われるのは興味深いことだ。


(ノントリビアル・サイバネティクス(同・マシン)としてのヒトが創造する“余剰etwas”とは?)

f:id:toxandoria:20180621035955j:image:w250:rightR.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著・刊)によると、我々の体内に棲む膨大な数の細菌類がマイクロバイオーム(Microbiome)という宇宙的な規模の纏まり(ウイルスまで入れると、それは超100兆個の新世界(宇宙規模!)の発見を意味する!)であり、彼らの全て(そのDNAも含む)が刻々とヒトの細胞やDNA、およびエトノス環境と直接的な遣り取り(水平移動・交換・交流・共感・妥協)をしつつ我われの生理機能を調整し個体のアイデンティティ(2nd.オーダー・サイバネティクスで言うobserver?)を持続させていることが、ここ数年来の研究で急速に解明されつつある(委細は↓◆参照)。

◆20170320toxandoriaの日記/マイクロバイオームが拓く新世界への希望/DNA観察から見える「“民族主義レイシズム=非合理”http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320 

その分野の研究の中で最も注目すべきものに、我われ個体内に馴染んで棲みつく多くの細菌が発達させてきた『クオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)の有意性』の発見ということがある。それは、「未だ正体が知れぬ相手(細菌・異物など)に対し仮の名づけ(見立て上のタグ貼り、名詞化)を行い、その見立て上のネーミングに応じて自らのシグナル伝達分子、あるいは自由誘導因子(オートインデューサー)などの分泌をコントロールするシステムのことだ(関連参照 ⇒ グラム陽性細菌のクオラムセンシング研究の最前線、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jslab/21/2/21_2_95/_pdf )。


f:id:toxandoria:20180621063814p:image:w320:leftこのクオラムセンシングで、ヒトの体内にある細胞と、あるいはそこに棲む細菌類と他の内外細菌ら異分子・異端・外来種(最広義の内外環境に潜む)との間で、基本的には寛容な共鳴・共振・交流・交換・結合が、つまり<ミクロ(微量)な余剰>部分の交換が絶えず行われており、そのプロセスで自己細胞の側でのバイオフィルム(ヌメリらの構造体)形成や、あるいは真逆に有害病原性・有毒性などの侵入許容範囲の制定機序が生成されたりしていることになる。

従って、近年では病原体の感染も従来考えられていたほどストレートなものではなく、より複雑で多面的な「クオラムセンシング」(2nd.オーダー・サイバネティクス機構=ノントリビアル・サイバネティクス)と「免疫系」(1st.オーダー・サイバネティクス機構)の絡み合いの帰結であることが分かりつつある(単純に、“病原菌感染=病状発現”になるとは限らぬということ!)。

また、些かの空想を交えつつ敷衍すると、このことは本格的なグローバル時代における「国家アイデンティティ」の議論を連想させる。それは、<これからも民主主義は主権を確保するための「知」の体系(その保全システム)であり続けられるか?>という問題に関わる『ドイツの哲学者マルクスガブリエル氏と國分功一郎・東工大教授の対談』(↓◆)の中に出てくる「国家の役割の有意性」にも大きなヒントになると思われるからだ。

つまり、それは「AI・BD-Web高度情報化」を前提とする本格的グローバル時代に対応すべく「新たな国家の役割」を具体化できる民主主義の形に転換するのが必然ということだ。そこで重要となるのは国民国家を超えたグローバル・シチズンシップ(多次元的な倫理観が段階的・拡大的にに求められるようになること)であるが、それは、今や<アベ様の民族派系“偽装極右”こと“国庫&利権私物主義”一派(ネポティズムお仲間一派)による強権かつ犯罪的な“異常倫理観”強制の典型>と化した日本政府、あるいは独善的『民族派“国家資本主義”』を強行するハンガリー・オルバーン政権らの如き<超閉鎖主義>の対極にある<開放的な連帯意識>の可能性である。

◆哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談/20180620朝日、https://www.asahi.com/articles/ASL6L42BML6LUCLV007.html 

このため、今や“民主主義と両立しない国民国家”(特に民族主義にこだわる)が維持困難なのは明らかだが、それにも拘わらず一定の倫理・道徳的な基礎(多次元的な倫理観/グローバル化の世界トレンドの流れに沿って“国家→国家連携→地域共同体→・・・→地球共同体”の段階的ボーダレス化を経験するため一地域内の道徳はやがて無効となり、更により広域的な視野の倫理・道徳へと多次元化するのが必定である)を持つ国家フレームは必要になる(それ故、正統保守こそが本命でありアベ様の日本を支える日本会議らの民族派極右or極左らが出る幕はないことになる!w)>という論点が、愈々、本格化する「AI・BD‐Web情報」時代に必須となる「コンシリエンス“知”/consilience=人文・科学両知の融合」の創造と深く関わることになると思われるからだ。因みに、コンシリエンスはウィリアム・ヒューウェルの造語だがE.O.ウイルソンアレックス・メス−ディ、ツヴェタン・トドロフ、ヒューバート・ドレイファスチャールズテイラーらも同じ考え方を主張する。つまり、彼らは、「それによる啓蒙主義の再定義が可能であり、人類はそれを目指すべきだ」と考えている(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20161107)。

これからの時代は「コンシリエンス“知”」による啓蒙主義の再定義が必須であり、そこで重要になるクリティカル・パスが、“事実上、そして戦略的にノントリビアル・マシンの方向へやや傾斜しつつ(or 1st.オーダーを含めた生体トータルが2nd.オーダー・サイバネティクスに包摂されつつ?)進化してきた”ヒト(人間の個体と意識)が日々に創造する「余剰etwas”」(意志を含む)になるのではないか?また、これは一部で期待されているコンピュータによる意識創造、ノントリビアル・エコノミクス(“AI・BD‐Web情報”時代に相応しい新たな経済学へのパラダイム転換)などの問題にも関わってくることが予想される。但しtoxandoriaは、マッド・サイエンス的な意味でのシンギュラリティ信仰は決定的な誤り!と、見る立場である。

ともかくも、本格的なグローバルシチズンのための「多次元的な倫理観」と共に絶対に忘れてはならないのは、(1−1)で述べた<高度情報化時代にこそ明確に自覚すべき三つの世界構造>の問題であり、それは「(1)マッハ感覚論的素材性のエネルゲイア、(2)巨大WebネッットDB汎“知”が刻々と創造するデュナミス、(3)ルソー「一般意志」(普遍観念)が表すエンテレケイア」という三つの世界が鼎立する構造である。

従って、本格化する高度情報化時代に立ち向かう我われが意識すべきは、これら(1)、(2)、(3)の鼎立構造に対して十分なバランス感覚が維持できるよう、それに相応しい多次元的な倫理観も構築し、それを日々に更新する必要があることになる。因みに、(1−1)で書いたとおりだが(2)は「可能性」(潜勢態/デュナミス)でもあるので、それを活かすか殺すか?は飽くまでも人間しだいなのだ。ゆめゆめ、(2=閉鎖的抽象性)が(1=リアルの生命連鎖)と(3=開放的抽象性)を圧倒し、一方的にそれらを包摂して屈服を強いることは絶対に許すべきではない。そして、この方向性について最も先進的な取り組みを展開しているのがEU(欧州連合)であるのは周知のとおりだ(関連参照↓◆)。

◆20180503toxandoriaの日記/刮目すべき欧州(EU)GDPR(EU一般データ保護規則)の先進的規定、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503


2 データ(マッハ感覚論的素材性としての)と情報知の「断絶」がもたらすAI・BD‐Webリスクの正体とは?

2−1 N.ルーマン“社会システム論”が暗示するAI・BD‐Webのリスク

SNS等のネットワーク・メディアが本格化するより少し前の時代に生きたドイツの社会学者、N.ルーマン(Niklas Luhmann/1927- 1998)は異端の社会学者と呼ばれている。それは、従来の社会学が「社会は人間の実在性を素材とする集団的・組織的な営為の総体」と見るのに対し、ルーマンは「人間の実在性ならぬ抽象化したコミュニケーションの連鎖構造を社会の構成要素」と見たからだ。

f:id:toxandoria:20180623105855j:image:w250:rightそして、大黒岳彦『情報社会の哲学』(勁草書房)によれば、ルーマンが社会(社会学)を理解する必須の要素として「抽象化したコミュニケーションの連鎖構造」を採用した背景には、ルーマンが1st.オーダー(トリビアル)・サイバネティクス)の活動モデル(エルゴン)を重視し、そこから更に自らの思考を深めたということがあるようだ。いわば、ルーマンはトリビアル・サイバネティクス(1st.オーダー・サイバネティクス)の理解の延長として「社会は、抽象構造化したコミュニケーションの連鎖的接続で産出されるという“閉じた生命観”」を社会のダイナミズムに適用し「オートポイエーシス・システムと同じく社会も“閉じていること”が、その正体である」と論じた訳だ。

オートポイエーシス (auto‐poiesis/自己産出的‐創造) は、1970年代初頭にチリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラにより、「生物の生きた有機構成」とは何か?という本質的な問いに答えるため提唱された、当時の最先端の生命システム論で、それは「ホメオスタシス(外気温の変化に抗しつつ一定範囲で体温を保つが如き活動)や散逸構造(喩えれば川の流れの中での揺らぎから渦が出現するが如く無秩序な生体環境の中で立ち現れる秩序)」ら<外部環境との相互影響>を徹底して排除した考え方である。

つまり、オートポイエーシスは、ホメオスタシスや散逸構造とは真逆に「どこまでも“認知”に因り神経系等へインプットされ、そこで初めて発生し定着したものであり、それはその後の時間と共に流れる因果的“実在”レベルでの環境(エトノス環境)との相互作用から導出されることを徹底的に拒否し、あくまでも“認知→神経内インプット→定着”という構造化プロセスだけを持続的“自己創造”>と見る、“極めて閉鎖的な機械的システム”を「生命の本質」とする考え方だ。その証左は例えばハエの捕捉で舌を伸ばす行動を神経内プロセス構造化したカエルはハエでない小動体が飛来しても舌を伸ばすこと等に見られる。

因みに、マイクロバイオーム等の研究の深化(進化)で、この1st.オーダー(トリビアル)・サイバネティクス的な生命の“自己創造”機序(N.ルーマンの特異な社会学が大きな影響を受けたとされる、このオートポイエーシス論)について、それが今や生命の本質の全てではないことが明らかとなりつつあるということは、(1−2)で既に述べたとおりである。それどころか、2nd.オーダー(ノントリビアル)・サイバネティクスこそが生命活動の全体をコントロールしている可能性が高い!

ところで、この様な意味でN.ルーマンの社会学の特異性は理解できる訳だが、少し視点を変えて見ると、実は、それが今や我われの目前に立ち上がりつつある巨大な「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」の特徴をズバリ予見していたのではないか?とさえ思われてくる。それは、ルーマンの社会システムにおけるシステムと構造が以下(a、b)のように定義されているからだ。

 a 社会システム=その時々のコミュニケーション・プロセス

 b 社会構造=そのプロセスの反復で結晶化する、コミュニケーション統制の持続パターン

そして、bが次第に機能分化することで社会が複雑化する方向へ進化し、遂にはその抽象的社会形態が巨大化することになる。従って、これは従来の社会理論パラダイムと決定的に異なることになる訳だ。

しかも、「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」は、[それが<リアル因果=時間と共に流れるマッハ感覚論的素材性がリアルに共鳴・交流する現実世界>から切断されているという意味で、つまり断片的かつ閉鎖的な情報知の集まりである(行政文書か、私文書か、正規DB(データベース)か、非正規DBか、ツイッター等SNSか、ブログ記事か、メールか、掲示板か、学術論文か、雑誌・図書・新聞等etc・・・という内容の如何を問わず)]という意味で、極めて抽象構造的で、かつ非文脈的である。

我われはルーマンによって、リアル社会が<(ィ)「伝統社会学が想定する人間の実在性を素材とする集団的・組織的な営為(開放的・持続的・因果的な活動)の総体」と(ロ)「閉鎖的コミュニケーション・システムが固定構造化した抽象的な社会形態」(アンシュタルト化(Anstaltの原義は精神病棟施設などの意味だが、国家・教会・司法組織、教育・医療機関、会社組織などの団体が不可視の強制・監視権力化した状態を指す/M.ウエーバー)の恐れがある!)>という、そもそも二つの成分からできていると理解すべきではなかったのか?ということを教えられたことになる。

2−2 逆説的に有意義な示唆を与える、東 浩紀「ルソー、一般意志2.0」の提起

2−2−1 東 浩紀のルソー『一般意志2.0』なる楽観的<AI・BD‐Webユートピア政治論>

f:id:toxandoria:20180620153221j:image:w150:left(2−1)で見たとおり、異端と呼ばれることが多かった社会学者N.ルーマンの「社会システム論」が、恰も量子物理学の世界の如く、実は、人間社会が以下のように全く異なる二つのベクトルの機能的側面(開放的、閉鎖的)を併せ持つ(が重なって存在している)という重要な理解を与えてくれた。

 (ィ)人間の実在性を素材とする集団的・組織的な営為(開放的な未来志向型の持続的・因果的な活動の総体)・・・これは、伝統社会学が想定してきた社会の定義にほぼ相当する。

 (ㇿ)閉鎖的な情報コミュニケーション・プロセスが固定構造化した、ルーマン抽象構造的な社会形態(放置するとアンシュタルト(不可視の強制・監視権力)へ急速に内向する恐れがある)

ところで、東 浩紀は著書『一般意志2.0』(講談社)で、『J.J.ルソーは全体意志と一般意志の違い(差異)について“数理的”説明を行っている』という興味深い説(ルソー『一般意志』についての新しい解釈)を唱えている。が、このことを理解するため我われは先ずルソーが「一般意志」と「全体意志」に全く異なる意味を与えていたことを復習しなければならない。

それは、<「全体意志」は参加者(国民)すべての意志(意見/特殊意志)が完全に足し合わさったものの総体で、「一般意志」は個々人の“意志(意見)の差異”を統合的に集約したものである>というのが、この二つの言葉についての普通の理解であり、そのことが「ルソー社会契約論における市民社会の正当性の原理の前提」となっている。しかし、前者は現実的に実現不可能なことであり、また後者についても、現実的にはほぼ不可能である。だから、結局それは理念(観念)的なもの(仮設的真理)だということになる。しかも、この点こそが今も民主主義の意味に曖昧さを与える大きな原因となっている。

ところが、東 浩紀によれば(東がルソー『社会契約論』の原著に当たり詳細に検証したところ)、実はルソーは、近代数学の多くの概念が出揃うより2世紀以上も前の18世紀半ば頃であったにも拘わらず<「一般意志」=特殊意志に関わる、±のベクトル相殺を加味した数学的「差異のベクトル総和」である/…somme des differences>と主張していたようだ(正確に言えば、東がそう主張している!/委細は省略)。東は。“数理的”説明を行っていたとされるルソーの一般意志に『一般意志2.0』の名を与えたうえ、更に次のように述べている。

・・・だから、一般意志は政府の意志ではないし個人の意思の総和でもない。一般意志は数学的な存在である。もしそうなら、私たちはここから、民主主義のあり方を根本的に考え直すことができる。つまりく21世紀の情報技術を前提として一般の人々が思い浮かべるのはおそら電子政府や電子(ネット)投票等の実現なのだろうが、それも違う。それは、このように数学的にルソー『一般意志』を読むと、むしろ一般意志は政府の外側にあるべきだ!と理解できるからだ。・・・

上に続き、数学的にルソーを読み<「一般意志」の新たな可能性>を発見した東 浩紀は、更に、次のようなことも述べている(以下、要約+補記)。

f:id:toxandoria:20180625121259j:image:w270:right・・・従来の理解と異なりルソーの「一般意志」が純粋に数学的な存在であったということを前提とすれば、加えて「人工知能、ビックデータ(AI-BD)」らの技術を十分に活かした「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」がいよいよ実現する時代においてアーレント、ハーバーマスらの<理念型「一般意志」と「間主観性」に因るコミュニケーション社会と公共圏の構築>が、今や殆ど不可能となりつつあるからには、全く、異次元の社会アーキテクチャ設計へ挑戦するべきではないか?それが、<「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース技術」で市民の無意識(特殊意志の差異のベクトル総和)の積極的吸収で巨大DB集積化を実現すること、つまりトーキング・キュア(Talking cure/隠(さ)れた巨大な欲望の塊りを徹底的に抉り出し語り尽くす精神分析療法)と呼ばれるフロイトの精神分析を援用して巨大なDB集積を実現することで人間の知能を遥かに超えた電脳汎“知”世界の構築と、それによる一般意志・知識・情報・データ・社会資源の“配備=集立”(ゲシュテル/Gestell/近代技術の本質を表したハイデッガーの用語/集約→意思決定→適正再配置の社会的循環構造)を全面的に実現する>ということだ。・・・(両著書の結論(東=楽観的ユートピア政治論、大黒=倫理の役割の再考)は全く異なるが、電脳汎“知”によるゲシュテルの可能性については、大黒岳彦『情報社会の哲学』(勁草書房)もほぼ同様のことを述べている/toxandoria、補足)

そして、東 浩紀『一般意志2.0』は、次のようなユートピア世界の実現で終わる(要約)。

・・・従って、ルソーの一般意志は、広く考えられているのとは異なり「討議を介した意識的な合意ではなく、むしろ情念溢れる集合的な無意識を意味している。そもそもルソーは、理性の力を殆ど信じておらず、彼はむしろ「野生の人」の本能に信頼を置いていた。本書の解釈の独自性は、その理解をそのまま「社会契約論」に持ち込んだだけだ。来るべき国家においては、議会は政治の中心にならず、それは楕円の二つの焦点の片方のようなものだ。「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」(その殆ど“万能の神と同然”化した←toxandoria、補足)が立地土壌(もう一つの楕円の中心)となる未来の国家では、動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供することになる。前者には国境があり後者には国境がない。前者が公的領域を形づくり、後者が私的領域を形づくる。そのような未来世界は、国家と市場、動物的な生と人間的な生、功利主義とカント主義、リバタリアニズムコミュニタリアニズムの二重構造で制御(殆ど議論や討議がなしで←toxandoria、補足)されることになるだろう。が、それが夜警国家へ傾くか、福祉国家へ傾くかは未だわからない。・・・

2−2−2 『一般意志2.0』(楽観的AI・BD‐Webユートピア政治論)の逆説的な意義

・・・これは逆説的な理解となるが、『一般意志2.0』(東 浩紀の楽観的ユートピア政治論)は、Google‐Webネットワーク型<電脳汎“知”データベース時代>における「“ネオ優生学”発生のリスク」と異次元の高度情報化が実現した時の「新たな倫理の必要性」という、二つの重要な課題を、我われへ挑発的に突きつけている。・・・

そもそも、「間主観性」無効論(一般意志2.0/東 浩紀ら)への反論として無視できないものとしては、西垣 通、西川アサキら情報科学・AI研究者の「基礎情報論」(井出英策“理論”を有効化させる重要な方向性、と考えられる)、または川人光男ら脳情報科学者による決定的な反論がある。

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f:id:toxandoria:20180625121504j:image:w220:rightこの「基礎情報論」は、西垣 通著『ネット社会の正義とは何か』(角川選書)で詳しく紹介されているが、そのエッセンスとなる部分を参考として[20170104toxandoriaの日記/西垣 通の情報基礎論、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104]から下に転載(部分的に補足し)しておく。

・・・東 浩紀・著『一般意志2.0』と同じく「Web‐DBの集合知」を活かすアイデアだが、西垣のそれは、その集合知を再びリアル対話で現実の因果へ関与させ、つまりコミュニケーションの作動で新たな文脈を創造するダイナミズムを冷静に捉えている。この西垣 通著『ネット社会の正義とは何か』における西垣の議論で最も注目すべきは下の二点である。

(1)そもそも、従来の自然言語(話し言葉と文字や記号として書かれる書き言葉)もデジタル(変換)言語(DBレベルで言えば、正規DBと非正規DB)も同じ「機械語」であるという認識上のコペルニクス的転回が先ず肝要だ!← 因みに、東 浩紀『一般意志2.0』論の主柱と位置付けられる<Google‐Webネットワーク型<電脳汎“知”データベース>では、それがトーキング・キュアの視点でフロイトの精神分析を援用しつつ全ての国民の無意識を含めた感情世界が総浚いで巨大DB化することが想定されているが、そこではこの西垣が指摘する『従来の自然言語(話し言葉、および文字や記号として書かれる書き言葉)もデジタル(変換)言語も同じ“機械語”であるという認識上の転換/もっと言えば、a「あくまでもリアル世界の一環であるデータ(マッハ感覚論的素材性)」とb「機械言語上の情報知(抽象的体系性)」の「断絶」という問題意識(1−1)』が決定的に欠落している!(toxandoria、補足)

(2)「AIの知(仮に、近未来においてAI意識が創出される?としても)」と「人間の知(文脈的・エトノス環境的意識)」の違いを理解するには、先ず西欧中世の「決疑論」と近代啓蒙主義における「観念的な間主観性」意識の発達&共有化(これが政教分離原則、議会制民主主義、現代憲法、現代の司法・裁判制度、あるいは近代以降のジャーナリズムの成立((その批判“精察力”理解の深化))などに繋がった)の問題についての理解が重要! ⇒ この視点が基礎情報学で言うネオ・フィードバックシステム(=2nd.オーダー・サイバネティクス)

まず(1)の問題であるが、人間が古来馴染んできた自然言語であってもそれが書物に記されると、途端にその意味内容は潜在化し(既述のとおり、マッハ感覚論的素材性の性質が失われるということ!)、途端に、それは機械情報化する。すなわち、その意味ではデジタル(変換)言語も自然言語も同じである(そこにある差異は書物等とコンピュータという、書き言葉、話し言葉などの“情報”を収容するデバイス&ツールの違いだけ!)。だからこそ我々は“書物・本・文書・言明などを(自分の意思、常識、あるいは権威ある一定の倫理・哲学的解釈、学説、科学合理的知見、司法判断らに照らしつつ)文脈的に読み解くor理解・共感するor批判する”などの表現を使っている訳だ。

また、この「決疑論」を一定の言説(緒学説・司法判断・常識的解釈等)に関わる文脈解釈の歴史として観察すると興味深いことが見えてくる。それは「混沌の時代→政教(祭政)一致権力→双方(教皇権・皇帝(王)権)権力並立→ローマ法・教会法・決疑論が鼎立の時代(〜16世紀頃)→近代啓蒙主義→政教分離・現代憲法成立・・・」という「宗教・政治・司法」の三つ巴の絡み合い(“権威⇔権力”闘争)が、<歴史文献・学術資料・行政文書等の文脈的理解を巡る解釈論争史のプロセス>となって見えてくることだ。

おそらく、このようなことと関連すると思われるが、西垣 通は、西川アサキ(同じ情報基礎論の研究者)が<人間社会のAIシュミレーション(システムはトリビアル閉鎖オーダー)で、仮に全ての個人を統治に関する完全開放(権力を監視する司法の威信が激劣化の環境)へ投げ入れてみると状況が一気に不安定化し「行政独裁⇔アナーキー無政府状態)」の間を激しく彷徨する恐るべきループに嵌った社会モデルを観察した>と報告している。

・・・ここで、部分転載おわり・・・

11

f:id:toxandoria:20180625121927p:image:w300:left<「Google‐Webネットワーク型の電脳汎“知”データベース世界」がいよいよ実現する時代においてアーレント、ハーバーマスらの<理念型「一般意志」と「間主観性」に因るコミュニケーション社会と公共圏の構築>が、今や殆ど不可能となりつつある>という前提そのものに大きな違和感を覚えるが、特に昨今の日本政治をめぐる社会意識の劣化傾向(国民の政治参加意識の退化と幼稚化、司法・検察・警察・NHK・主要メディアらの堕落・無力化・忖度&翼賛機関化などに因る)を見せつけられると、このAIシュミレーションの結果は、まさに現下の日本に当たらずとも遠からずの感がする(苦w)。

しかも、「一般意志2.0」(ルソーの一般意志は特殊意志に関わる±のベクトル相殺を加味した数学的な差異のベクトル総和であるとする)なる非常に斬新な切り込みであるにも拘わらず、やがて「国家と市場、動物的な生と人間的な生、功利主義とカント主義、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムの二重構造」のバランスが自ずから取れるような時代になるだろう?というのでは、余りにも楽天的に過ぎるのではないか?それは、おそらく「一般意志2.0」を論ずる東 浩紀の視点に、(1)「電脳汎“知”データベース時代における“ネオ優生学”ファッショ発生のリスク」、(2)「異次元の高度情報化が実現しても必ず新たな倫理が必須となる」という、人間社会についての最も基本的な二つの観点が欠落しているからではないか?と思われる。

ところで、東 浩紀「ルソー一般意志2.0」と大黒岳彦「世界システム論(情報社会の哲学)」とでは、同じ「AI-BDセマンティックWeb汎“知”世界」(未だ開発途上とされるが、AIで自動的にウェブページの一定の意味を解釈しつつ検索できる技術)という、同じネットワーク技術が創造する高度ヴァーチャル世界を語っているにもかかわらず、両者には決定的な違いがある。

それは、東 浩紀のヴァーチャル世界(フロイトの無意識世界との共鳴を想定!)がニューサイエンスの「地球生命体」や「全体意識(ホロン)」的な(極論すればマッドorカルト・サイエンス的な)方向へミスリードされる懸念を感じさせるが、大黒岳彦「世界システム論」においては、あくまでもその近未来のAI・BD‐Web「世界システム」と「人間の意志(意識)」との間は非連続的な(宿命的に断絶している)プロセスであることを受容したうえでの<人間としてのメタモルフォーゼ(変容・創造の可能性)>であるということだ。

それ故にこそ、大黒岳彦の場合には、その非連続的な両者(マッハ感覚論的素材性としてのデータと情報知/委細、関連参照 ⇒第2章)の間には多元的な「倫理」の役割の可能性が十分に残されていることになる!(同じく、委細は要参照 ⇒大黒岳彦著『情報社会の哲学』(勁草書房)のp116〜、およびp236(92))

3 技術開発に伴う近未来のメディア「展相」(Potenz/力能の発展の諸段階)を見据えた新しい「倫理」の必要性

3−1 AI・BD‐Webネットワーク型「電脳汎“知”」時代における“ネオ優生学”ファッショ発生リスクの高まり

(矢張りカギとなるのはマッハ感覚論的素材性)

そもそも、ルソーの「市民宗教」(関連参照 ⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307)は、より多くの人々の<情感的統合>のための何らかの旗印、いわば自己安定のためのトークン巡回アルゴリズムの一種と理解すべきであるだろうが、当記事で反面教師的に取り上げた東 浩紀『一般意志2.0』は、ルソーの市民宗教については、一切、何も触れていない。

しかし、既述のとおり「マッハ感覚的素材性」が市民意識を感覚レベル(ないしは情感/厳密に見れば感覚はあく迄も感覚器の作用面であり、情感はそこを介しインプットされ、内面で発生し、濃縮され、循環し、滞留する“無意識も含むリアル感情のマグマ”)で統合する重要なファクターと考えられるので、ルソーの「市民宗教」についてもそのような意味でリアルな<マッハ感覚論的素材性>的なもの、つまり生命誕生とヒトの意識(意志と感情)の発生そのものへの関わりすら窺われる、特に重要な役割の分担が想定されている可能性がある。

トークンとはプラグマティズム哲学の創始者の一人であるパースによれば、それはこの世界における「個性的な個々の実在」、つまりリアル因果(生命&物理現象が同期する現実の流れ)の連鎖(しばしば、これは抽象論理と混同される!)のことであり、個々の人間の意志(意識)もその一つの現れと理解できる(委細、⇒ 「パース流プラグマティズム」の着眼点(Type-token distinction):「タイプ(抽象的な普遍・論理に因る表象)Vsトークン(個性的な個々の実在/因果連鎖のリアル)」、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180503

また、ルソーの「一般意志」は、<東 浩紀の理解の如き特殊意志(言わばトークン)の数学的「差異のベクトル総和」>ではありえず、それは永久の課題である民主主義(人間が平等の共有価値観の下で生きるための合意システム)の持続のため、技術革新に伴う「AIデジタル・ナルシス/超類型化AI社会リスク」が制御可能となるよう、A.ミシェル「情感の現象学」(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109)などへの理解を深めつつ絶えず新たな「倫理の視座」(時に、AI・BD−Webネットワーク関係の技術発展に伴う展相の倫理学の視座)を発見することではないかと思われる。 

12

f:id:toxandoria:20180627062725j:image:w180:rightなお、「超類型化AI社会リスク(AIデジタル・ナルシス=抽象的AIデジタル・ワールドの超独善化)」は『おそろしいビックデータ』(朝日新聞出版)の著者・山本龍彦氏の造語である。それには、恐るべき近未来の地獄絵、つまり「フィルター・バブル(『閉じこもるインターネット』の著者 イーライ・パリサーの造語)&「デイリー・ミー」(The Daily Me/キャス・サンスティーンの造語)など、愈々、本格化する超AIビッグデータ社会化が、日本国憲法の保障する“個人としての尊重”(第13条)と“最低限度の生活の保護”(第25条)が完全破壊されるリスクの到来を警告する造語である。

それは「デジタル専制国家」の出現リスクとほぼ同義であり、「AI+BD(ビックデータ)」の本質が、例えば下のような点●にあるため、AIが暴走する可能性だけに留まらず、それを専ら自らの権力強化と維持のために、そしてクローニー(お仲間)資本主義的な利益のためだけに悪用する政治権力(例えば“安倍政権”の如く日本会議の支配下で戦前アナクロニズムへの回帰を謀る国体カルト政権)が、更に強靭(or狂人)化した専制支配力を手にするというリスクが高まることを意味する。

●フィルター・バブル(見たくない情報を遮断するフィルター機能が、まるで私をバブル(泡)の中に囲い込む如く見たい情報しか見えなくする)、デイリー・ミー(ネット上で日々に私の全人格的な性向(出生、生活環境、嗜好、趣味、関心、過去の行動パターンなど)に合わせてカスタマイズされ送られてくる情報)などに因ってAIシンギュラリティ信仰が際限なく人々をセグメント(分断)化するパワーを得るため、バーチャル・スラム化など、AI・BDプロファイリングによる個人『信用力』の一方的な破壊で新たな差別発生が懸念されるhttps://www.cvfinance.com/contents/support/report.html?act=d&kind=1&id=333)。

●AIはBD(ビッグデータ)を餌として急速に、かつ無限に生長するため、AIの判断能力とスピードに人が追いつけなくなる

プログラマーがAIディープラーニング(自動学習)のアルゴリスムを理解できなくなるレベルに入るとAI暴走の懸念が高まる(Ex.テロ対策を逆手に取る予測的警察活動(Predictive Policing)https://www.nij.gov/topics/law-enforcement/strategies/predictive-policing/Pages/welcome.aspxなど)

●AIのビッグデータ(BD)分析には、本質的な意味で可謬性(原理的に必ず間違いが起こり得ること)の問題が付きまとう。例えば「相関関係もどき(うわべだけ、みせかけの相関)の出現」、「みせかけの有意性データの出現」など。

(歴史的な“優生学”誕生への道筋/倫理・道徳的には中立でなかった統計学(“統計法則”確立)の歴史)

統計学(つまり“統計法則”)が確立するまでのプロセスをふり返ると、我われは、むしろそれが優生学思想を助長するリスクと紙一重の歴史であったことに、先ず驚かされる。そこで“統計法則”が確立するまでのデータ化の歴史のふり返りで重要なのは、それを推し進めた主体は誰で、その目的とデータ化の対象は何であったか?ということになる。

ところで、(2−2−2)で既に見たとおりであるが、先ず我われは西垣 通が、その「基礎情報学」で<自然言語(話し言葉と文字や記号として書かれる書き言葉)もコンピュータ上のデジタル(変換)言語も同じ「機械語」(行政文書・書籍等デバイス上の)である(つまり、それは決してマッハ感覚論的素材性ではない!)という、根本的な認識上の転換の必要性>を指摘していたことを再び想起すべきである。

例えば、それは国勢調査(census)なる言葉が古代ローマ帝国時代のケーンスス(census/税額の根拠となる人口調査)であったことからも理解できるが、近代統計学の始まりと見るべきルーツは17世紀後半のイングランドにおけるF.ベーコン(“経験‐帰納主義”者)を祖とする、数値化と図表化を重んじる「政治算術」学派にあるとされている。そして、ほぼ同じ頃のドイツにも「国勢学派」と呼ばれる社会統計学が存在したが、こちらはデータ(数値)化よりも、文化や精神性の記述を、より重視したため“統計法則”史の上では存在感が薄い。

いずれにせよ、これら両派に共通するのが<各統計を求め、それを推進した主体は絶対主義国家の君主>ということであり、その統計の目的は<君主の所有物である国家の財産目録を作ること>にあり、その対象は国家(厳密に言えば君主の所有物たる国家を構成する、君主の所有物たる国民と国土)であった。やがて絶対主義に代わり欧州各地に市民社会が成立すると統計の主体・対象・目的に変化が現れる。

つまり、「主体=国家の主権者となった特権的ブルジョワ市民/対象=人口数だけでなく公衆衛生・医療統計等、いわば出生・死亡・犯罪・自殺ら“個人の意志を伴う道徳現象”そのもの/目的=ケトレーが言う“平均人”(統計的平均を具現化するブルジョワの理想像)のためのホメオスタシス(理想的平衡状態)の創出・維持」への変化であり、それはダーウイン「進化論」やスペンサー社会進化論」等の影響も受ける。そして、最終的にその“統計法則”の手法はベルギーの数学者・統計学者、アドルフ・ケトレーの「社会物理学」として結実する。

ケトレーはガウスの「誤差の確率分布」を初めて社会集団の分布へ読み込むことに成功したが(つまりケトレーは確率論的統計を社会統計へ導入した最初の人)、やがてケトレーは単なる出生や死亡という社会を舞台とする自然現象に飽き足らなくなり犯罪や自殺などの「道徳統計」についての有意な法則を次々と発見する。言い換えると、かつて政治算術的な統計の時代には“個人の代数和”と素朴に見られていた社会であったが、「ケトレーの社会物理学」によって、<実は確率論的な統計学でのみ正しく理解しできる独自の抽象的法則に支配されたものが社会である>という、全く新しい社会の姿が発見されたことになる。

やがて、ダーウインの甥にあたる19世紀イギリスの統計学者・遺伝学者F.ゴールトンの「生物測定の統計学(biometrics)」から“平均(凡庸さ)への回帰と収斂”を回避するためとして、その社会物理学の合理性を歓迎する広範な社会の空気を背景に<人為的な「種」の改良(人種改良と社会改良)を良しとする“優生学”思想(eugenics)>が立ち上がった。無論、第二次世界大戦後の「世界人権宣言」(1948、国連採択)で「人種・国籍・宗教を問わず凡ゆる人々が結婚と家庭を持つ権利を持っている」ことが定められ、優生学が遍く批判の対象となったことは周知のとおりである。

f:id:toxandoria:20180701045534p:image:w360:leftf:id:toxandoria:20180701045603p:image:w360:leftしかし、グローバル社会の混迷度が深まる世界状況と恰も機を同じくするかの如く急速に進化の速度を上げつつあるAI・BD‐Webネットワーク「電脳汎“知”」(新たな21世紀型の“独自の法則(確率論的な統計法則)に支配される確固たる抽象構造世界”)の出現によって、今や、再び政治的横暴化の意味で“優生学”(eugenics)の足音が聞こえ始めたと言えるだろう。例えば、ウソ吐き安倍政権下での「“過労死”ら恐るべき労働環境劣化の現実」あるいは「殆ど予測不能なAIナルシスと権力側の癒着リスク」等を無視した「高プロ/働き方改革法」の成立強行などはその典型と見るべきである。

f:id:toxandoria:20180701045404j:image:w170:rightつまり、液状化で揺らぐ資本主義を口実とする政治権力の横暴化がAI・BD‐Webネット型の新種の“優生学”(統計法則の悪用の意味で言えば、その本質は19世紀と全く同じ!)をもたらしつつある訳だが、それは先に述べたフィルター・バブル、デイリー・ミーなどの如き単純な「AIシンギュラリティ信仰」に限るものではなく(というか、本質は同じなのだが!苦w)、例えば安倍政権下における一連の弱者苛めやヘイト現象などの激化傾向、あるいは米国トランプ政権の過激な移民規制なども、ケトレーの時代と同じく「統計的・抽象的合理性」信仰によるリアル現実の無視という悪しきポピュリズムの空気の拡大が背景になっていることも押さえる必要がある。

また、これまで反面教師的なテーマとして取り上げてきた<東 浩紀「ルソー一般意志2.0」の“楽観的”な問題提起>も、AI・BD‐Webネットワーク「電脳汎“知”」(ヒトの意識の淵源とも見るべきエトノス環境と断絶し超抽象化した世界)への無防備さという意味でこの“優生学”の問題へも関連してくるのではないか。それは、確率・統計論的に再解釈されたルソー『一般意志2.0』は、その“統計法則”確立の歴史と西垣 通「基礎情報学」が指摘する<『機械語』‐『アナログ語』の断絶>の問題とも重なる<マッハ感覚論的素材性>への無関心という、独特の無防備さによって市場原理主義、つまり<AI・BD‐Web時代のネオ優生学思想>へ容易く回収される恐れが大きいのではないかと思われるからである。

3−2 高度情報システムの<暴力的な包摂と排除>への傾斜を乗り越えるための倫理学のあるべき視座

それは、<更なる技術発展に伴う情報メディアの展相(Potentz/関連技術の進歩に伴う力能の発展の諸段階)とグローバル市場原理の更なる深化、およびその相乗・相互影響の次元>を見据えた「倫理」の再発見が必須だということである。その意味では、益々、グローバル高度情報化しつつある現代社会では、従来はとかく同一されがちであった道徳(国家など相対的に狭い範囲での規律)と倫理は明確に区別されなければならないことになる。

具体的に言えば、それは<各国家内で慣習化・無自覚化した道徳を超えて生まれる新たな“善の未到達”状態こそが、より良いグローバルのフェーズへと進む現代世界の普遍の真理である、と見なす<「絶えざる善の欠損状態/Absence of good」への持続対応の必要性の再認識>ということだ。因みに、それは資本主義の出発点と見るべきマンデヴィル、A.スミスら18世紀“道徳哲学”の重要テーマでもあった。

ところで、(2−1)で触れたN.ルーマンは、同じような意味で、あるシステムの外部からの観察に基づく道徳(ある社会や国家などのシステム内のルール)への反省が倫理(それは新たな展相へ移行した新しいシステムのための一次元上のルール)であると論じていたが、興味深いのはルーマンに大きな影響を与えたとされるA.ゲーレン(ドイツの社会学者・哲学者)の存在だ。

ゲーレン(一時ナチスに入党していたとされるがハイデッガー、C・シュミットらの事例もあるので、その功罪はさておく)は、著書『技術時代の心』(1957)の中で産業社会の特性を<(1)社会の抽象化、と(2)人間の原始化>の並存に見定めていたが、それは<AI・BD‐Webネットワーク世界(電子・量子構造的に自立した抽象世界)>と、<その影響によるネオ“優生学”ファッショ発生リスクの高まり>を見事に予告していたことになる(出典:大黒岳彦『情報社会の哲学』‐勁草書房‐)。そして、ルーマンもこの考え方を共有している。

ルーマン「社会の抽象化」とは、社会が高度に専門化(必然的に抽象構造化)することで一般人がその全体像を理解できないブラックBOX化することを意味するが、そもそもAI・BD‐Web世界が出現する以前の産業社会でも専門化を遂げた法律、経済、医療らが各領域ごとの道徳を持っていたので、そこでも社会統合の原理である道徳ルールが溶解する傾向にあった。しかし、AI・BD‐Webネットワーク時代に入ったからには、その程度が比較にならぬほど苛烈化することを意味する。

つまり、個々人の道徳・倫理は人々の心の内側へ押し込められ不分明化し、やがて専門知識の縮小とも相まって個人の内面は空白化する。その結果、社会の専門的な高度抽象構造へ、益々、意識的判断の多くを委ねることとなるため人々の内面では専門“知”の縮小と反比例して不分明で道徳・倫理が不在の空白)が急速にシェア拡大することになり、その空白を埋めるのが<非常に主観的で恣意的なものと化した情念のマグマ>である。このようにして一種の抜け殻(カラッポ)となった心の状態をゲーレンは「人間の原始化」と呼ぶ。おそらく、それはG.アガンペン(伊の哲学者)が言う「孤人」(無用の演算素子として抽象構造システム外へ放擲された“剥き出しの人間”)に相当する。

そして、その「人間の原始化」(心がカラッポの“孤人”)へ容易く侵入するのが、ヘイト攻撃、あるいは異分子・異端者・異人種・弱者らへの敵対心と排除の心理であり、かつ新たな優生学への誘惑ということだ。これと同じことをN.ルーマンも「情報社会における排除の意味」として語っている。だから、理念型「一般意志」と「間主観性」に因るコミュニケーションと公共圏構築を無効と見なすマッド・サイエンス的な思考(高度情報システムの暴力的な包摂と排除)へ抗い、それを克服するためにも、人間が生きることの意味についての熟慮などの哲学的視点を十分取り入れた歴史観と絶えざる自然観(エトノス)の深化に基づく「倫理」の多次元的なあり方の探求こそが、新たな情報社会の「展相」への第一条件であることを、今こそ肝に銘じる時である。(本文/完)

(補足)マッド・サイエンス的な人間論の事例/驚愕すべき、その倫理観の軽さ!

■【マッドサイエンティストの倫理学?/鄭 雄一著『東大教授が挑む AIに「善悪の判断」を教える方法 (扶桑社)』】「アベ国体論カルト」を忖度する『JPN先端AI・BD情報科学』?w ・・・鄭 雄一氏は東大・大学院工学系研究科教授。

(情報源:https://www.evernote.com/shard/s440/sh/6c063f92-3db9-40b9-9efa-c0042834b141/0c9a21eb3abad820)

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f:id:toxandoria:20180628075432p:image:w400:right情報倫理ブーム(アマゾン検索で数百点にもおよぶ)らしいが?お決まりは、サルでもできる?演習問題が付くことだ。そこには明らかに比較的若い国民層を上から目線で一定方向へ洗脳する意志が潜むと思われる。「一定方向」とは<この4月から安倍政権が「教科」へ格上げさせた小中学校「道徳」、および教育現場での「著作権」教育の必要性を指摘する声に応えるためとする後期中等教育科目「情報」の設置、および高等教育課程に「情報倫理」を明確に位置付けること、そしてそれを多数派一般国民に認めさせることである。

・・・以下は、https://www.evernote.com/shard/s440/sh/aafccaeb-6ed3-4e62-93b4-74ebafa2c11c/c9f5345ddc1408727771c083688a52c4より部分転載・・・

『道徳・倫理』は三つの「定義の柱」の複合体で、それは恰も自然環境の如き我われの周囲の「第二の自然」である。つまり、それに対し存在理由を問わないのは我われが自然に対し存在理由を問わないのと同意である。そして、これは生命ある人間が社会の主人公である限り、「情報倫理」についても同じことだと思われる。また、道徳・倫理はある程度まで“普遍的”な“法則”としての性格を持つが、その“普遍性”は自然界を統べる物理法則とは異なる。

(1)法に先立ち共同体統合の機能を果たす、内面的な観念上の社会的メカニズムである。

(2)同時に、それは無根拠(自明性)を基礎とする所与的事実性である

(3)同時に、それは内面化された規範であるにも拘らず個人の恣意的運用を超えて行為を拘束する、ある種の超越性を持つ 

思想史的に見れば「道徳の法則」が持つこの“普遍的で超越的な性格”は自然界の物理法則と区別して「妥当性(Gelten)」と呼ばれる。恰もそれはプラグマティズムにおける「限定合理性」の謂いに近く、いわばパースが言う<タイプ(普遍観念)とトークン(個々の因果的実在)の間で生きる我われ生命ある存在(生命の実存)>の「道理性」(合理性ならぬ!)ということである。

従って、我われは、人間にとり最も根源的な問題である「我われはなぜ生き続けなければならないのか」、「なぜ人を殺してはいけないのか?」「なぜ嘘を吐いてはいけないのか?」(日本国民安倍総理が分からない、最大の難問!w)などヒトの生命の根源に関わる問題を道徳上の疑問として問うようなこと、つまり、ここで取り上げた<倫理ノウハウ本?>の如く超便利な道徳アルゴリズム活用の演習問題を解くことで、道徳・倫理についての疑問が平易にスッキリ解ける!などの言説を主張することはしない。

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f:id:toxandoria:20180628075633p:image:w400:left 2018603朝日

■【日本では<道徳の教科化>より<政治家の倫理・道徳の確立>が最優先の課題/英紙ガーデアンが報じた<日本の「法の正義」の失墜>とはアベ政権が自らの不道徳(てんこ盛りのウソ)を政治的詭弁でムリクリ道徳化(政治権力への忖度を強制)することと同じでく、その教育(特に道徳教育)現場への悪影響は計り知れぬ!:道徳を理由に人権侵害の懸念 木村草太、2018603朝日https://www.evernote.com/shard/s440/sh/448e2f73-ab08-4715-b473-c6d7c961559f/1f544e512af0cbfe12eb55e81484816b


D←BBC『日本の秘められた恥(首相に近い人物)』は、オリジナル、邦訳スーパー付ともに該当動画は消されている!(著作権で?)

DSVT:スウェーデンTV

f:id:toxandoria:20180630053040p:image:w400:right■【日本での放送も期待!/ボディーブローとなり世界へ拡散する安倍ネオファッショ政権の恥!】「日本の秘められた恥」伊藤詩織氏の約1時間・ドキュメンタリーをBBCが6.28夜に放送http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-44638987

(完)

Claude Monet‐The Walk. Lady with a Parasol.1875

f:id:toxandoria:20180628094118j:image

2018-05-03 「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適

toxandoria2018-05-03

「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適応すべくAIナルシス社会のリスクを制御する日本国憲法の新たな役割を発見するのがポスト・アベの課題

<注>OTT産業(化)の委細は、(2-3)「米国法思想史の概観・・・」を参照乞う。

f:id:toxandoria:20180429054824j:image:w548f:id:toxandoria:20180501153122j:image:w395

…(一枚目)ハッブル宇宙望遠鏡から撮った地球、(二枚目)地球上のミクロコスモスの一つ(出典:いずれもpinterest-Japan)


【動画】The Best of Debussy

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プロローグ)AIデジタル・ナルシスの天敵?「ルドン(アルマン・クラヴォ−の慧眼に因る)“因果リアリズム美”」の発見はプラグマティズムの先取り?


f:id:toxandoria:20180501154247j:image:w268 2f:id:toxandoria:20180501160029j:image:w400 3f:id:toxandoria:20180501160320p:image:w400


f:id:toxandoria:20180501160933j:image:w410f:id:toxandoria:20180501161030p:image:w368f:id:toxandoria:20180501161234j:image:w300

 

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【プロローグ画像の説明】

[一枚目の画像]

オディロン・ルドンレオナルド・ダ・ヴィンチ礼賛」ca.1900 板パステル 116×50cm アムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)https://www.stedelijk.nl/en 

・・・このパステル画はレオナルド『聖アンナと聖母子』の聖アンナを思わせる。幼児キリストを慈愛に満ちたまなざしで見つめる聖アンナの傍らにある大きな瞳のような図像は、我われ鑑賞者の驚きと畏敬の念をイメージ化したような不思議な感覚を呼び起こすが、それらは美しい花々と混然一体化しており、そこには紛れもなくルドン的な生命のリアリズムが満ちている。


[二枚目の画像]

同『グラン・ブーケ(大きな花束)』 1901 作品所蔵©三菱一号館美術館 (Mitsubishi Ichigokan Museum, Tokyo)/出典:在日フランス大使館HP)  

https://jp.ambafrance.org/article12727 

・・・「ルドン−秘密の花園」展が2月8日(木)から5月20日(日)まで、東京・丸の内の三菱一号館美術館で開催中。本展はフランスの画家、オディロン・ルドンが植物や花をモチーフに描いた作品に焦点を当てている。

・・・ルドンの花の絵には、18世紀ロココ様式時代のフランス絵画を代表する巨匠シャルダンらの花の絵の特徴であるヨーロッパ風の装飾的な美しさよりも、なぜか日本的なアニミズム風の空気が漂うように思われる。それにしても、この大作グラン・ブーケには何という大きな生命力が満ち満ちていることか!


[三枚目の画像]

同「夢想(わが友アルマン・クラヴォーの思い出に)」 ? 1891 リトグラフ(素材:紙) 21.0×15.8cm 岐阜県美術館 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/221801/1 (文化遺産オンライン

・・・この一連の作品は、「黒の時代」から「色彩の時代」へルドンが移行し始めた頃のものである。そのため、それまでの「黒の時代」の特徴であった幻想的なミクロの生物や神話的な人物(アルマン・クラヴォーの世界?)とともに花々や植物のイメージが現れている。

・・・そして、この石版画でも、その細部をよく凝視すると殆ど漆黒で塗りこめられた室内空間のあちらこちらには、数多くの微小な生命体のようなものが浮遊しており、窓の外では清涼な空気の中で、それはもはや心象風景であるが<緑の木の葉>が風にそよぐ。

・・・恰も「実はこの二つの空間がミクロ・マクロの両世界を代表しており、更にそれを凝視するルドンと鑑賞者の精神が幻想空間(これぞエトノス環境!)を創造する」が如きである。


[四枚目の画像]同

「『ゴヤ讃』:(2)沼の花、悲しげな人間の顔」1885 リトグラフ(素材:紙)  27.5 x 20.7? 国立西洋美術館 http://collection.nmwa.go.jp/G.2009-0029.html 

[五枚目の画像]

同「幼児のようなものたちもいた(石版画集、『ゴヤ礼賛』4)」1885 23.8×19.7? 東京、個人増(出典:Bunkamura http://www.bunkamura.co.jp/old/museum/lineup/07_redon/works.html )

・・・これら四枚目・五枚目のモチーフも、まさに(後述するとおり)ルドンが探求した“中間の媒介的生命”たる「アルマン・クラヴォーの世界」のイメージであるのだろう。


[六枚目の画像]Flore de la Gironde by Armand Clavaud(1828-1890)/Published 1882 by G. Masson in Paris

・・・このアルマン・クラヴォーの原著、関連情報はコチラ↓

https://openlibrary.org/books/OL25199470M/Flore_de_la_Gironde

[七枚目の画像×2枚]

ミズハコベ(水繁縷)のイメージと種子(直径、約1?)/前者(水繁縷/イメージ)の出典= http://mikawanoyasou.org/data/mizuhakobe.htm後者・同種子の出典=File:Callitriche palustris capa52 002 php.jpg(ウィキペディアコモンズ画像)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Callitriche_palustris_capa52_002_php.jpg 

・・・アルマン・クラヴォーが特に研究に没頭していたとされるミズハコベは湿地・水田・湖沼などで多く見られるが、オオバコ科の植物であり水田雑草としても知られている。

f:id:toxandoria:20180429060837p:image:w270

・・・以下、https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/x537877687 より部分転載(開始)・・・

f:id:toxandoria:20180429165941j:image:w200

オディロン・ルドン(Odilon Redon/1840-1916)は、フランス南西部ボルドーで生まれたが、たいへん虚弱な体質のため生後2日で、ボルドー近郊のペイルルバード(有名ボルドーワインの産地)の保母のもとに預けられた。「寂寞として不毛の原野」とルドンが読んだメドック地方のこの土地と孤独癖の少年時代との記憶が、彼の内向的な性格を深め、あの「黒」の時代を形成するに至る(画像は同地シャトーがラベルの『シャトー・ペイル・ルバード 2012』/出典、https://item.rakuten.co.jp/kbwine/c/0000002659/ )。


その「黒」が結晶していくのは、最初の石版画集『夢の中で』を出した1879年、39歳のころからで、画家としてはむしろ晩成型の方に属する。それまでルドンはいろいろな曲折を経ているが、モローからの影響のほかに、いくつかの大きな転機があった。


20歳の折に知り合った微生物研究の植物学者アルマン・クラヴォ−(A. Clavoud/1828−1890/ボルドーの植物園で働いていた人物)の影響がまずあげられるだろう。クラヴォ−は自分の研究のほかに、ポー、フローベールボードレールなどをルドンに教えた人だが、ルドンはこう書いている。


「・・・彼は無限に極小なものの中で仕事をしました。彼は、うまくいえませんが、知覚できない世界の果てで、動物性と植物性、この花やこの生き物の、「中間の媒介的生命」を探求し続けたのです。日中の数時間、ただ光の作用によってだけの“動物”である、この神秘的な要素を探したのです。」


・・・以上、[東野芳名:ルドン、人と芸術/週刊朝日百科・世界の美術、17号]より、部分転載(了)・・・


我々は、このようにルドンが書いたことの中で<クラヴォ−が「中間の媒介的生命を、日中の数時間、ただ光の作用によってだけの“動物”である、この神秘的な要素(実は、科学的に見ればそれは植物であるのだが、それら植物の中で確かに観察される“動物”的な要素を、つまり恰も動物の如く蠢き、動き回る要素)を探していた」>という部分に注目すべきであろう。


無論、このような感覚は現代人の高度に科学的な視点で理解すれば幻想にすぎないはずだが(実は、そう思わされているだけなのだが・・・)、なぜか我々は日々の日常生活の中で、今でも何気なく、時折、そのように感じることがある。


この種の幻想的な感覚、あるいは科学の道具であるはずの顕微鏡ら観察機器を通して新たな現象を発見したり、あるいは体験するような時の驚きの感覚について、なぜかそれがとても懐かしいと思われるような不思議な感慨、ないしは新鮮な感動や喜びをさえ感じるのではないか。おそらく、ルドンはそのような意味での<幻想>体験を描き続けたのである。


オディロン・ルドンの絵や版画が、美しく、いつまでも新鮮で、こよなく魅力的であり続けるのは、我われ人間(人間の意識)が、そのような意味で常に何かを幻想できる生き物であることの証である。つまり、そのような感性(特に、エトノス環境と深部共鳴する(審)美的感性など/例えば、エピローグで触れる俵屋宗達の繊細で壮麗な美学!)があるからこそ、我われ人間は、紛れもなく自律的で、より自由な人間として、しなやかに生き続けられることになるのではないか。

  

更に、この論点(特に、1960年代後半〜のネオ・プラグマティズム)には、人工知能(AI)&ビッグデータ(BD)の融合が創造する「AIデジタル・ナルシス(超類型化AI社会)」が「個人、つまり個々の人間として尊重されるべき国民の権利」(我が国でいえば日本国憲法第13条と同25条が規定する)を脅かしつつあるという新種の巨大リスクに対する強力な天敵となる可能性が期待される(委細、本論で後述)。


・・・


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・・・(1)民主主義は“普遍を求める永久に未完(未了)のプロセス”である、(2)政体(constitution)の如何を問わず<常在的に多数派である「凡人」(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>を分かり易く「公文書」等で保証するのが政治権力の役割である、という二点の理解を共有することが「リベラル共和制」の前提となる。特に、(2)は民主制に限ることではなく政体の違いを問わぬ国家統治の基礎的条件である。・・・


・・・


1「国体論」複合カルト(アベ国体カルト)の正体


・・・それは「民主主義は永久に未完である!」という現実に関わる無知と無関心、その異様な空気に釣られた一般国民は<安倍「国体論」複合カルト(アベ国体カルト)をルソーの市民宗教(民主主義日本国民の紐帯)と同一視する>という悍ましい罠に嵌っている!・・・


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今や堂々と?<数多の嘘と改竄の山バカリ、そして全てが虚構の塊りという只の権力亡者にすぎぬ>というブザマな実像を衆目に曝す、「国体論」複合カルトたる安倍政権の正体を、白井聡氏の新著『国体論‐菊と星条旗‐』(集英社)が的確に抉りだし注目を集めている。

その安倍政権の正体である現代の国体論は、白井氏が指摘するとおり<戦前の国体(顕密二元論での天皇の政治利用)+米国流の強かな戦後日本統治のマヌーバ(maneuver/戦略)>であるが、実は、更なるその深層には、なかなか分かり難いことなのだが、 “これからの日本にとり非常に重要な課題になると見るべき” 二つの問題点(悲観と希望の両面に関わる)が潜むことを見逃すべきではないだろう。

<注>ルソーの市民宗教および戦前の国体(顕密二元論での天皇の政治利用)については、下記★を参照乞う。

★[戦前の国体論と顕密二元論での天皇の政治利用]幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、松陰「白日」の削除を謀るアベ独裁は戦前構造災の再来/敗者と異論への寛容(思想)の回復が必須 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 

その一つが終戦時にポツダム宣言(敗戦)の受諾を拒否した「宮城事件」(きゅうじょうじけん)だ。これは天皇の首のすげ替えを謀り皇居(宮城)を襲った“生長の家”過激派によるクーデター(未遂)事件である。

つまり、“生長の家”過激派信者であった陸軍省勤務の一部将校と近衛師団参謀が引き起こしたものだが、“同”穏健派が中心となり鎮圧された。しかし、生き残ったその過激派残党から日本会議が派生しており、紛れもなく彼らが安倍“国体カルト”政権の背後霊(戦前型国体論に因る内側からのマヌーバの黒幕)となっていることだ。

因みに、近年のことだが、“生長の家”は政治との断交を宣言しているが、それはおそらく表向きのことであろう。なぜなら、今でも日本会議の中枢を占める幹部らの多くは生長の家の信者であるからだ(それは閣僚を務めた、あるいは現閣僚らの中にも存在する)。そして、同“家”の中では過激派Vs穏健派なる、カルトに付き物の内ゲバ暗闘が今も続いていると見るべきである。 

(参考画像情報/右端下)事実上、官僚の世界(首相補佐官や各省庁トップや幹部ら)では天皇の首が既に、安倍晋三のそれへ挿げ替えられている!

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それに加え懸念されるのが、おそらく。これは選挙における自民党の票集めと各カルト教団そのものの勢力拡大ニーズが、カネメ問題も絡みつつ都合よく一致したことに因ると思われるが、事実上のカルト、日本会議を凝縮・結晶のタネとして旧統一教会らを含む複数の実に妖しげな教団が安倍政権を支援するため癒着・結晶化しており、事実上、安倍政権がカルト・コンソーシアム化していることだ。

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しかも、この「安倍政権の複合カルト化」なる病巣が、今度は、時代の先端ないしは日本経済の救世主か?とさえ持て囃される「AIシンギュラリティ信仰」と絡み始めており、そこから日本がデジタル専制国家(AIデジタル・ナルシス=超類型化AI社会)と化すリスクが助長・暴走しつつある(添付画像にある『内閣府経済財政諮問会議「2030年展望と改革タスクフォース」第1回会合資料』/齊 藤 元 章(株式会社PEZY Computing・・・/「最強の科学技術基盤出現と、到来する前特異点・特異点」・・・』、つまり此の由々しき<お仲間スペックイン(政府主導の偽装合法談合)>には、その意味での暴走傾向が透けて見える(関連参照⇒(3−2))。

もう一つは希望の方向へ繋がる問題点である。米国流の強かな戦後日本統治のマヌーバ、つまり、これまで述べた事情から米国の統治戦略下で誕生した日本国憲法という側面があるのは全否定できない。が、だからこそ同時に<それがニューディール政策の柱となった米国リベラル共和的な側面の影響を色濃く受けており、“格差拡大”で疲弊しつつある現代の日本経済にも良循環への途を拓く可能性を日本国憲法は秘めている>という点を見逃すべきではない。より具体的に言えば、日本国憲法には平和主義と共に「20世紀初頭以降の理想と掲げつつも、その肝心の米国でも未了となっている、理想の文化資本主義・実現の条件となる先進的思想」が存在するのである(関連資料:↓◆1、2)。

◆1 スティーブン・フェルドマン著、猪股弘貴・訳『アメリカ法思想史』―信山社―(猪股氏自身も未だ研究途上らしいが、同氏は日本国憲法とニューディールの関連性を指摘!)

◆2 リベラル共和主義の土壌、文化資本主義へ覚醒した歴史上の先進事例/マネー資本主義(市場原理)の機能不全、「大恐慌」下の米国で取り組まれたTVA「テネシー川流域開発公社」(文化資本主義政策)の再評価 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713 


ポストモダニズムの日本でも必須と思われるネオ・プラグマティズム(“米国型リベラル共和”志向)の視点


2−1 プラグマティズムの現代的意義


19世紀後半にアメリカで誕生したプラグマティズムついて、日本で知る人はまだあまり多いとは言えない。そのうえ「実用性だけを追求する、アメリカ的な目先のカネメに好都合な道具主義だ!」という見方が根強く、それが固定観念化している。そして、圧倒的な実利第一の戦勝国アメリカには“強固な日米同盟”で追従するのが一番だ!という、このような意味での日米の根本的相互“誤解”に基づく、一般日本人の一種の割り切った空気(この日本国民の“戦前から引き継ぐ弱点”を十分承知の上で悪辣に利用するのが#日本会議、#安倍晋三ら!)が漂うのも確かだ。

果ては、嘘・改竄・隠蔽が垂れ流すウソに塗れた大スキャンダルの巣窟(それは、まるで出口ナシの“汲取便所”状態?)と化した安倍政権が、それでも非常に強固な3割支持層(目下のところ!特に男性の中堅ビジネスマンと就活前後の若年層にこの傾向が強く現れている)によって支持されるという不可解な現象の背景にあるのが、この“強固な日米同盟”で追従するのが一番だ!という倒錯した意識(根本的な米国に関わる誤解)ではないか?とも思われる。

ところで、生涯にわたり哲学書は一冊も書かなかったが、「形而上学メタフィジカル)クラブ」のメンバーの一人で、かつプラグマティズムで著名なウィリアムジェームズらと親交があったオリバー・ウェンデル・ホウムズ・ジュニア博士(19世紀後半〜20世紀初めに活躍した米国の法律家・連邦最高裁陪席裁判官)は、「南北戦争」に参戦し米国民同士の残虐な殺戮戦を生き抜いた経験から、『思想は決してイデオロギー(他の人々へ強制する)に転嫁してはならない、戦争はどのような思想もイデオロギーも無力化する只の殺し合いだから!』という重要な殆ど経験的な信念を手に入れたとされる。

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因みに、同名書の著者ルイ・メナンドによれば「メタフィジカル・クラブ」のネーミングは、形而上学へ過剰に傾斜する哲学や思想の危険性を危惧するという意味で付けられたとされる。また、ホウムズと親交があったウィリアム・ジェームズはデューイらと並ぶプラグマティズムの創始者のひとりで、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えつつ特にパースを支援して世に広めた人物として重要である。

付言すると、ここでホウムズが命がけの戦争経験で理解したのは「様々な開かれた考え方の一つである思想と、他者に対し無条件でそれを受け入れるように強制するイデオロギーは全く別物」ということだ。しかし、ほんの少し留め金が外れるだけで、いとも容易くイデオロギー化する思想はその取扱い次第で残虐な殺戮戦争の条件となり得るのだ。たとえ、そこに論理的・合理的(rational)な理由があるとしても。そして、このことがプラグマティズム哲学を貫く伏流として流れ続けている。


2−2 プラグマティズムの概要(通史ではなく主要論点に絞り込む)


(プラグマティズム創始者の一人、パースの慧眼『道具主義』が意味すること)


エピローグで取り上げたルドンが言う「中間の媒介的生命」(幻想的なものに見える現実であると同時にその幻想の主役でもあり得るもの/言い換えれば、論理と普遍性(精緻な概念規定)の対極にあるリアリズム)とほぼ同じ対象(または現象)と思われる「因果の連鎖が構成する実在(リアル)」に注目したのが、プラグマティズムの創始者の一人とされるチャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce/1839- 1914)だ。

無論、論理哲学者パースが注目した「因果の連鎖が構成する実在(リアル)」とは、動・植物のジャンルに限ることだけではなく、生物・無生物を含む自然のすべてと人間社会そのものをも含む森羅万象の一部、つまり「因果リアリズム」(絶対“観念”の真理ではなく、エトノス環境と深部共鳴しつつ、それなりの正しさを現出させる限定合理的な意味での実在の因果的な塊り)のことである。

パースは「トークン(個性的な個々の実在/因果連鎖)とタイプ(抽象的な普遍・論理)の峻別」(Type-token distinction)という重要な着眼点をも提供しており、これは「超類型化AI社会」(AIデジタル・ナルシス/デジタル専制社会化)の時代へ着実に入りつつある我が国にとっても非常に重要であり、その視点から新しい「普遍観念」創造の可能性を提供することが予想される。

パースが言う「プラグマティズムの格率(基準)」が意味するのは、“例えばカント流の明晰な概念規定は、いわば精密な観察に基づく諸データの統計処理から得られる中心点、ないしはその表象”なので、それがリアルな意味を持つか否かは別問題であり、あくまでも実証実験(実践活動)の結果を見なければ分からないということだ。

この場合に前者がタイプ(明晰な概念規定)、後者は個々の個性的トークン(因果の個々のリアル/それは必ず中心点からバラついて分布する個性的な存在ということになる!の意味で多様性を持つ)に対応することになり、この観点こそプラグマティズムが重視する限定合理主義の意義(無限の道筋(プロセス)で、それなりの正しさの有意性の評価を重視すべきということ、つまりその意味でプラグマティズムは乗り物の如きリアルな道具である!)を支えることになる。

つまり、リベラル共和の実現を志向する米国モダニズム社会の胎盤というべきプラグマティズム(厳密にいえば、クワインローティらのネオ・プラグマティズム)には、最先端のエトノス環境論をすら先取りする「さしあたりの生き方としての民主主義」(逆に言えば、“普遍”と“法の支配”を掲げる“民主主義”観念に因るリアルな道筋では“永遠に未了”(エンドレス)の努力が求められる!)という重要な視点が潜むと思われる(エトノス環境の委細はコチラ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160504 )。


(民主主義の根本たる“普遍”観念に関わる重要な格率を提示したデューイ『プラグマティズム道具論』)


・・・今や世界中で閉鎖系の壁をもたらしつつあるとさえ見える<民主主義の基本たる“普遍”観念>に対し、それを再び開放系へ転換するためのヒントとなる可能性が高い!・・・

デューイは、自らのプラグマティズム哲学の出発点として、独仏「大陸哲学」と英米「分析哲学」の根本的な差異を重視する。それは、前者が<古代ギリシャの小規模都市国家直接民主制を理想と掲げる/現代の事例で言えばハイデガーハンナ・アーレントら/関連参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109>のに対し、後者は<今の日常における“さしあたりの生き方としての民主主義”を重視する/ヴィットゲンシュタイン論理実証主義はその終着点と言える>という違いである。

独仏「大陸哲学」のカント流の精緻な概念規定から(無論、哲学史・思想史を概観すれば何がしかの影響を分析哲学からも得ている!)、大革命などの歴史を経たうえ<法の支配、自由、平等、博愛、基本的人権>など現代民主主義に必須の「普遍」観念が定着してきた反面、21世紀の現代は大衆社会グローバルに巨大化し、更にそこへネット環境の深化等の新たな要素が加わること(旧来型のマスメディアに代わり、ツイッターフェイスブック、ブログなどのネットワークメディア側から絶えずリアル・オルタナティブ情報が発信されるようになったこと)もあり、今や古代ギリシャ都市国家がモデルの「普遍」観念だけでは、到底、そのトレンドに抗うことができない状況となり、そのため深刻な分断が拡大しつつあると見ることができるようだ。つまり、新たに「普遍」とは何か?が今や再び問われていることになる。

一方、経験主義をベースとする英米「分析哲学」も還元主義の限界という深刻な壁に突き当たっているものの(ブレークスルーを量子物理学の世界へ求めつつあるようだが…)、特に建国(独立)後のアメリカでは、「南北戦争」の経験(強制イデオロギー化した思想をめぐる同じ国民同士での殺戮戦という悲惨な経験)から生まれた<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”を重視する/デューイ>というプラグマティズム哲学が、トランプ大統領なる<分断王>の登場で混迷する今のアメリカでこそ、その本格的な再評価が期待されているともいえる。

そこでデューイのプラグマティズムで絶対に忘れるべきでないのが「保障された言明可能性」という考え方であり、これは「凡人の正しさ」を保証する問題とも呼ばれる。それは<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”とは、言ってみれば『聖人・君子ならぬ、国民層の大多数を占める“凡人”の正しさの保証手段をシッカリ確保して社会的信用を維持すること』を最大限に重視すべきだ>ということだ。

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当然、このことから導かれるのが、例えば<公文書・ドキュメント資料、民間のビジネス文書あるいは歴史資料類は法に基づいて厳重に保管・保存すべき>だという『公文書管理(法)』の大原則である。だからこそ、目下のところ<アベさまのウソの山>を糊塗するための<公文書に関わる改竄・廃棄・隠蔽そして作為的な記憶喪失(アベ様によるヤラセ記憶喪失の政治利用?w)>なる大スキャンダルで揺れる日本は肝に銘ずるべきである。

それに、このような意味で民主国家の政治家として、というよりも時代を超えた(政治体制の如何を問わず!の意味で)人間としての基本中の基本である「ウソを吐いてはならない!」ということが分からぬ安倍晋三には、「倫理」を語りそれを他人に強要する資格が全くないことは、火を見るより明らかなことである

因みに、この「凡人の正しさ」を確保すべきという問題は当記事の冒頭(プロローグの末尾)で書いた<(2)政体の別を問わず、常在的に多数派である「凡人」(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>を分かり易く「公文書」等で保証するのが政治権力の役割だ!これこそポピュリズムのそもそもの意義だ!)ということに関わる、国家統治の基本中の基本であり、現下の安倍政権が唾棄すべき程に由々しい限りであるのは、この大原則を完全に無視して公文書・ドキュメント類を弄(もてあそ)んでいることである。

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例えば、第一次世界大戦中のウォルター・リップマン(著書『世論』(邦訳/岩波文庫)、『幻の公衆』(邦訳/柏書房)で名高いアメリカのジャーナリスト)は、同様の危機意識を前提としつつ「ポピュリズムを悪用するナチズムが必ず出現するので、各民族の自治権は確立してもハプスブルクを解体してはならない」とウィルソン大統領に進言することで表現していた。

それは、科学・合理的な理念(素描と透視図法的視点へ傾斜した美術様式を好む美意識)と反素描的なスピノザ流の観念論的理念(例えばフェルメールの如く17世紀オランダ市民社会で好まれた独特のクオリアを求めるような美意識)という、西欧の伝統化した二つの相矛盾する世界観の葛藤が様々な問題を抱えつつありながらも、未だ良い意味でハプスブルクが育んできた歴史・文化に関わる“限定的ではあったにせよ寛容な態度”が一定の信用を繋いでいたからだ(具体的に言えば、それは1871年10月13日の“オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の寛容令の発布”で、事実上、帝国内の信教が自由となったことに因る)。

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逆に言えば、どのような政体を採るにせよ、ルソーの「市民宗教」に相当する<「大衆、凡人」(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>の観念をつなぎ留め得る(言い換えれば、その“所詮は関係者らのネポティズム(おなかま政治)へ依存してしまう気まぐれ”な凡人たち(この傾向は、情報化・大衆化社会が深化するほど強くならざるを得ない/リップマン)が安住できる文化・公共的な意識空間)は最低限の条件になるということだ。

市民革命・仏大革命・独立革命後の、否、それどころか現在の欧州やアメリカ合衆国といえども、それが必須であるのは理解されていても、理想のルソー「市民宗教」と“普遍”を完璧に保証する制度は実現されていない。その弱点を突くのがナチス的なもの、つまり安倍晋三「国体論」等であり、それらに共通するのが公文書・ドキュメント・歴史資料等の改竄・廃棄・隠蔽・偽造という多数の草莽が暮らす社会の岩盤と国家統治の体制&システムを崩壊させる実に卑怯で愚かな蛮行である。


(今こそ再認識されるべきクーン『パラダイムの転換』の意義)


パラダイム転換」論で名高い科学史家トマス・クーン(ハーバード理論物理学の博士号を得ている)はプラグマティズムの哲学者とは見られていないが、その思想(考え方)はまさにプラグマティズム的である。例えば、クーンは、アリストテレスの「質的変化の運動論」(運動は、原因と目的を持つ質の変化であると考えた)が全く正しいことに気づいていた。

それは、重力の法則(重力方程式)が正しいことは実証実験と重力方程式で確かめられるにも拘らず、“重力が神の意志(目的を与える何らかの存在に因るもの)であるのか否か?”を、実は現代科学でも、その根本的な部分についてはアリストテレスの方法以外では説明できないからだ。しかも、重力だけでなく時間についても、やはりアリストテレスが説くとおりで、我々は今でも目に見える空間や物質の位置的な、あるいは質的な変化としてしか、その変化そのものを認識できないのである。

クーンは、「基礎的概念(前提となる考え方/アリストテレスの運動論では“すべての根源は質の変化にある”という考え方)と基礎的用語法」しだいで、現代においてすら、たとえそれが同じ真理について語り合っている場合であるとしても、何時でもどこでも、認識や理解についての深刻な「分断」が起こり得ることに気づいたのであった。

つまり、アリストテレスが運動の「真理」について知らなかったのではなく、そのための前提となる考え方が、近代以降の物理学と全く違っていたため、アリストテレスと近代人・現代人との間で共通認識を持つことができなかったことになる。そして、これと同じ現象が社会科学のフィールドでも起きていることをクーンは体験した。

そこで、クーンは「基礎的概念(理論)と基礎的用語法」を経験的に共有することで、人々の議論はかみ合うようになるので、特にアカデミズムの世界では、「ある領域の研究者たちが基礎的な理論とモデルとなる考え方」を共有することが最重要であると見て、その「専門家が共有すべき考え方」をパラダイムと名付けた。

また、クーンは、このようなパラダイムは必ず複数のものが生ずることになるので、自然科学か社会科学であるかの別を問わず、それらは古代から現代に向かって決して直線的に発展してきたのではなく、それどころか、基礎理論との乖離が起こるたびに些かの修正か加わり、絶えず数多のパラダイムが変奏曲の如く生まれ続けるため、パラダイムの発展のイメージは必ずスパイラル(螺旋状)のものとなると見たのである。

まさに、このイメージは、W.V.O.クワインのネオ・プラグマティズムの核心部分、「人間のリアル因果の説明=それは、環境との新たな共鳴が連続する中で絶えずエンドレスに修正され続けなければならない」という観察とピタリと符合している。 


(ネオ・プラグマティズムは米国型リベラル共和の培地/W.V.O.クワイン『ネオ・プラグマティズム』の斬新な視点)


ところで、英米「分析哲学」の終着点はヴィットゲンシュタインの「論理実証主義」とされており、その「論理実証主義」に厳しい批判を加え、その壁を乗り越えた哲学がW.V.O.クワインのネオ・プラグマティズムであるが、先ず「分析的真理(個別的真理)と総合的真理(普遍観念的真理)は区別できない」というクワインの主張が重要である。逆に言えば、クワインは「個々の分析的真理(意識の対象となる個々のリアル因果/パースのトークンに相当?)と総合的真理(意識の対象となる観念・表象/パースのタイプに相当?)は区別できる」とする立場を「論理実証主義の第一のドグマ」として批判したことになる。

そして、「此の点」は人間の意識の問題と深く関わっていると思われるうえに、その「分析的真理と総合的真理」に関わると見るべき、プロローグで取り上げた『中間の媒介的生命(東野芳名氏)』を連想させて興味深い。因みに、現代哲学の多くは人々が広く共有する言語をベースに認識や価値観の問題を捉え直そうとする試みに挑戦しているが、このように分析対象を意識自体から言語へ再び転換する研究を言語論的転回と呼ぶ。

これは余談だが、おそらくヒトに限らず、基本的という意味では言語を持たぬ動物も同じく「分析的真理と総合的真理」をどう理解すべきか?という問題と深く関わっていると思われるうえ、実に興味深いことだが、AI・ビッグデータ研究および脳研究の深化・共鳴と共に此のこと、およびヒトと動物の意識の違い(言い換えれば、言語の役割)が深く理解されつつある。

クワインは「言語論的真理」も還元主義であり、それは人間のリアル(リアル因果)を捉えてはいないと見て批判したが、これは「論理実証主義の第二のドグマ」と名付けられている。要するに、クワインによる「論理実証主義の二つのドグマ」に対する批判から、新たに理解されたのは<環境(正確に言えばエトノス環境)との日々新たな共鳴のなかで人間のリアル(リアル因果)は永遠に未了であり続けるのが必然で、それは絶えず内外環境と共鳴しつつ修正され続けている、ということになる。

そして、この辺りは、ネオ・プラグマティズム、正統保守主義歴史修正主義ならぬ!)、トマス・クーン『パラダイム転換』などと奥深くで反響し合っていることを感じさせる。因みに、クワインは自らの哲学を次のようなメタファーで要約している。

・・・すなわち、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る私たちの知識や信念の総体は「周縁部(フリンジ/fringe)でのみ経験と接する人工の構築物」ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされるのである。この描像の下では、理論(あるいは“思想”としてのイデオロギー)と合致しない観察結果が得られたときに生ずるのは、なんらかの特定の仮説の撤回ではなく、その信念体系内の各命題に割り当てられていた真理値の再配分なのであり、絶えず、そこには多くの選択の余地が残ることになる。(言い換えれば、本物の“思想”は無限の可能性が絶えず拓ける状態にあり続けることになる!←補、toxandoria)》(中山康雄著『科学哲学』(人文書院、p88))


2−3 米国法思想史の概観/プレモダニズム、モダニズム、ポストモダニズムの流れは「リベラル共和」を志向するプラグマティズムの深化と共に歩んできた


・・・プレモダニズム、モダニズム、ポストモダニズムの流れ・・・

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ごく普通に考えてみれば人間の意識の営みの中枢にある諸概念がそれ自身の力だけで変化することはあり得ない。それどころか普段の我われが常にそれを意識するかしないかはともかく、まさにクワインが指摘するとおりであるが、各々の信念体系内部ではエトノス環境との間での共鳴が発生しており、その内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分が絶えず行われている。これは米国法思想史の流れでも矢張り同じことであり、それが西欧哲学の流れと共鳴しつつ変遷してきたことが観察される。

一方、ある広範で、時には大変革を伴う社会的事件が知的変化を促す結果として、法思想が変遷してきたことが理解できる。その意味での重要な事件としては南北戦争、ベトナム反戦運動、公民権を巡るブラックパワー運動などを挙げることができる。中でも特にメタフィジカル・クラブのメンバーの一人、オリバー・ウェンデル・ホウムズ・ジュニアのプラグマティズム意識の誕生を促した南北戦争の影響が重要である(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 )

それは、米国史で最大の62万人という戦死者を出した「南北戦争」(同じ国民同士の非常に残虐な殺し合い)へ参戦した過酷な経験がホウムズに対し「些かでも油断すると、穏当な思想であっても、それは教条的イデオロギー(他人へそれを強制するもの)へ変質し易いこと、いったん殺戮戦争が始まってしまえば、その戦場では如何なる思想もイデオロギーも全く無力化すること」を知らしめた。そして、そのことが「それなりの正しさを重視して今を生抜く」ための哲学、プラグマティズ(それは、建国(独立)いらいリベラル共和を志向してきたと見るべき米国法思想の核心となっている)の誕生を促したのである。

スティーブン・フェルドマン著『アメリカ法思想史―プレモダニズムからポストモダニズムへ―』(信山社)の著者・猪俣弘貴氏によれば、プラグマティズムを法哲学の核心と見る米国法思想の特徴は「思想と社会的利益は複雑で弁証法的な関係において相互に作用する」と考える点にあるようだ。

従って、米国における「法」は、公正な利益を実現するための道具(パースの道具主義の意味/それは限定合理主義のそれ(無限の道程の中で、それなりの正しさの有意性の評価を最重視し、それを実現する道具/参照⇒2−2)であることになる。そして、そのような意味で、「法」が常に米国の最も重要な社会制度の背骨であることを全否定する米国民は殆どいない。

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そのため、事実上、今や国家そのものがグローバルOTT産業化(https://www.hivelocity.co.jp/blog/27343/)しているので(無論これは比喩的な言い方だが)、従来型製造業と同じ感覚でトランプが中国IT企業を敵視するあまり過剰攻撃すると、天に唾を吐くの謂いで、その敵視“貿易”政策が米国自身の憲法問題(特に、米国民の生存権に関わる)に変質してトランプをブーメラン攻撃(支持率低下へ直結)することもあり得ると考えられる(参照/添付、一枚目の画像)。

・・・同書に従って、以下に米国法思想史の流れを纏めておく・・・

[プレモダニズム期](米国独立〜南北戦争)

・・・欧州と同じく、自然法思想に忠実であった時代。市民革命と独立戦争を指導した自然法思想が米国法体系の基礎であると考えられていた。

[モダニズム期](ポスト南北戦争〜1960年代前半)

・・・プラグマティズム(メタフィジカル・クラブ/関連参照⇒(2−1))の影響を受け始め、それが定着した時代。言い換えれば、憲法が、パース流の「公正な利益(限定合理主義の果実)を実現するための道具」として、日常的に適用され続ける裁判規範として捉えられることが定着したことになる。

・・・世界大恐慌のあと、このプラグマティズム流の「公正な利益」に加えてフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策に反映された「社会的な公正」(特に、個人の尊厳と生存権に関わる適正な分配の意味でのディールを重視する!)の考え方が憲法の基礎に流れ込んだ。

・・・それは、大恐慌や金融危機の時に、自由原理主義アダム・スミス“市場の神の見えざる手”の短絡的解釈に因る誤解!)の決定的な弱点(マネー原理主義故のノモス的(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713 )な欠陥)が必ず露出することを学んだからである。

[ポスト・モダニズム期](1960年代後半〜現在)

・・・クワインおよびローティ(委細、エピローグで後述)らのネオ・メタフィジカル、および分析哲学者・ディヴィッドソン(委細、後述)らの影響を受け始めた時代。大きく捉えれば、欧州の自然法思想の弱点を更に修正するネオ・プラグマティズムの考え方が深く影響しつつある。


3 個人の尊厳を重視する「欧州(EU)GDPRの先進的規定とそれを見習いつつある米国/一方、政財労界&メディアおよび国民の殆どが無自覚かつ無防備な日本


3−1 恐るべきAIデジタル・ナルシス(超類型化AI社会リスク)の脅威


・・・日本では、多数派国民が「AI-SNS社会化に特有のフィルター・バブル」(=AIデジタル・ナルシス(超類型化AI社会リスク))らのリスクの問題に殆ど無関心である現実が、安倍政権の<“公文書”改竄・削除・隠蔽>と相まって、この二つの合併症である<共約不可能性(incommensurability)>症候群の重篤化を促す!・・・


(1) それ故、一般国民目線でAIデジタル・ナルシスを制御し、共約不可能性を解消する新たな「日本国憲法の役割」の発見が急務

すでに述べたことだが、プラグマティズム創始者の一人、パースは「トークン(個性的な個々の実在/因果連鎖)とタイプ(抽象的な普遍・論理)の峻別」(Type-token distinction)という重要な着眼点を提供しており、これは「超類型化AI社会」(≒AIデジタル・ナルシス/デジタル専制社会化)の時代へ着実に入りつつある我が国にとっても非常に重要で、新しい「普遍観念」創造の可能性を提供することが予想される。

なお、共約不可能性とは、例えば 1と√2の比のように、いかなる整数比によっても表現できない量的関係を表す数学用語で、「共通の物指しで測れないこと」を意味する。科学史家、科学哲学者のトマス・クーンが『科学革命の構造』(1962)において科学史上の異なる研究パラダイム間の関係を表現するために用いたことによって、科学史、科学哲学の重要な用語となった。


(2)「国体論」複合カルトの果てに潜む「AIデジタル・ナルシス」(超類型化AI社会リスク)暴走の危機!


・・・それは強欲と傲慢の極み、そして余りの反知性主義というおぞましさ、人間の性(さが)という罠に堕ちた安倍政権・・・

安倍政権が退陣しようが、しまいが、<モリカケらを筆頭とする一連の大スキャンダル、アベ・ゲート事件の根本原因が、維新政府の時に仕込まれた「幕末ミッシング・リンク(戦前期のダミー市民宗教(ルソー)たる顕密二元論の隠蔽”であったこと、つまりそれはアベ型“構造災”であるという、戦前からの連続性がリアルに意識され、周知されなければ、第二・第三のアベ・カルト(今度は、超類型化AI社会リスクと更に深く癒着した!ビッグデータを高速処理するAIに対する過剰な期待がほぼ信仰の対象である神のレベルまで亢進することにより、国民層が類型化処理され、分断化されるという実に恐るべき社会的危機を意味している)が出現するのは必定である。

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なお、「超類型化AI社会リスク」(AIデジタル・ナルシス(デジタル専制社会化)とほぼ同義)は、『おそろしいビックデータ』(朝日新聞出版)の著者・山本龍彦氏の造語である。それには、恐るべき近未来の地獄絵、つまり「フィルター・バブル(『閉じこもるインターネット』の著者 イーライ・パリサーの造語)&『デイリー・ミー』(The Daily Me/キャス・サンスティーンの造語)など、愈々、本格化する超AIビッグデータ社会化が、日本国憲法の保障する“個人としての尊重”(第13条)と“最低限度の生活の保護”(第25条)」が完全破壊される時代の到来を警告するための造語である。

また、それは「デジタル専制国家」とほぼ同義であり、「AI+BD(ビックデータ)」の本質が、例えば下のような点●(出典:同書)にあるため、AIが暴走する可能性だけに留まらず、それを悪用する政治権力(例えば、“安倍政権”の如き国体カルト政権?)が、再び、新たな専制支配力を手中にする可能性が高まることを意味する。

●フィルター・バブル(見たくない情報を遮断するフィルター機能が、まるで私をバブル(泡)の中に囲い込む如く見たい情報しか見えなくすること)、デイリー・ミー(ネット上で、日々に私の全人格的な性向(出生、生活環境、嗜好、趣味、関心、過去の行動パターンなど)に合わせてカスタマイズされ送られてくる情報)などで、AIシンギュラリティ信仰は際限なく人々をセグメント(細分&分断)化するパワーを得るため、バーチャル・スラム化など、AI・BDプロファイリングによる個人『信用力』の一方的な破壊により新たな差別の発生が懸念!https://www.cvfinance.com/contents/support/report.html?act=d&kind=1&id=333)が次々と生まれるリスクが高まる)

●AIはBD(ビッグデータ)を餌として急速に、しかも無限に生長するため、AIの判断能力とスピードに人が追いつけなくなる

プログラマーがAIディープラーニング(AI自動学習)のアルゴリスムを理解できなくなるレベルに入ると、AI暴走の懸念が高まる(Ex.テロ対策を逆手に取る予測的警察活動(Predictive Policing)https://www.nij.gov/topics/law-enforcement/strategies/predictive-policing/Pages/welcome.aspx など)

●AIのビッグデータ(BD)分析には、本質的な意味で可謬性(原理的に必ず間違いが起こり得ること)の問題が付きまとっている。例えば「相関関係もどき(うわべだけ、みせかけの相関関係)の出現」、「みせかけの有意性データの出現」など。

ところで、山本龍彦・著『おそろしいビックデータ』によれば、最も懸念すべきが「AI・BD分析」で『日本国憲法第13条が保証する“個人の尊重”』と『同25条が保証する“国民の生存権、国の社会保障的義務」”』が根底から破壊される可能性が急速に高まっていることだ。我われはネット利用環境の中で、個人プロファイリングが既に日常化しているため普段はあまり意識しないだろうが、よく考えてみれば、生活の凡ゆる側面がネット利用とクロスする次元で個人プロファイリングの監視網の中に今や際限なく取り込まれていることを自覚すると空恐ろしく感ずるのではないか。

同書の中で山本龍彦氏は、その問題点を次のように指摘している。・・・憲法上の「個人の尊重原理」は、(1)人間の尊厳(職歴・犯歴・趣味などのデータ・ステグマの否定)→(2)狭義の個人の尊重(血(民族・出自)・階級など集団からの解放)→(3)個人の尊厳(過去の差別の助長などの排除による、自律の保証)→(4)多様性の尊重(誰でもが対象となり得る新たな差別発生の排除)という4層から成っているが、野放図な「AI・BD分析」の利用は、これらの全てを根こそぎにする恐れがある。・・・

その結果として、予想されるのが「前近代への退行、AI・BD分析による個人の自由の制限(一方的に、絶えず決めさせられる私の出現!)、そして民主主義そのものの崩壊」という、まさに悪夢の如き由々しき世界の到来である。このような現実を目前として、我われはどのように対処すべきなのか?日本の「安倍国体複合カルト政権」の「お仲間ネポティズムこと政府主導“偽装合法談合”、大嘘、改竄、隠蔽、削除」など<腐臭芬々たるアベ式“大スキャンダル”の山>から、只ひたすらの逃避行を謀るバカリであるのを傍目に、欧米諸国は、着実にこの問題への先進的な対応を模索しつつある。


3−2 刮目すべき欧州(EU)GDPRの先進的規定


・・・欧州とアメリカの<民主主義と憲法>に関わる議論は日本と全く異なる状況であり、それは欧州型(“普遍”理念の重視)と米国型(個々のリアリズムを尊重するプラグマティズム)という<二つの異なる政治哲学の培地>から生まれたが、次第に同じリベラル共和の実現へと進みつつある・・・

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[資料]欧州GDPRの先端的規定、プロファイリングに異議を唱える権利(中止請求権)など/EU一般データ保護規則(GDPR)の概要(前編、後編)

http://www.intellilink.co.jp/article/column/security-gdpr01.html 

http://www.intellilink.co.jp/article/column/security-gdpr02.html

(欧州/EU)

欧州における民主主義の特徴を短く言えば「理念型“普遍”の価値=欧州連合基本権憲章、欧州人権条約で集約」を培地としつつ、同「憲章」などの価値理念が経済秩序を包摂するという思想がベースとなっていることである。従って、持続経済と経済活性化のため市場原理を活用するにしても、“普遍”の価値理念を冒すことは許さない。

ただ、既に触れた<リップマン“大衆論”>の予見どおりであるが、“グローバリズム・情報・AI”化(21世紀型の新たな巨大大衆化現象)が急速に深化しつつある昨今では、益々、一部専門家集団による政策主導への傾斜という由々しき問題が影を落とていることも否定できない。例えば、特に東欧における右傾化(というよりも、保守を騙りつつ歴史について不勉強な偽装極右化に因る社会的分断の発生)はその典型であり、いま欧州連合は、EUエリート層化した一部専門家集団(テクノストラクチュア/ガルブレイス)による政策主導のあり方について様々な修正が迫られている。

しかし、これは今の日本が嵌っている『民主主義憲法と歴史を蔑視する“反知性主義的な意味での歴史修正主義者、日本会議”らが主導する、いわば『アベ様のお仲間(ネポティズム)によるスペックイン(政府主導の偽装合法談合=モリカケ、財務省の超堕落事件および齊藤元章@PEZY ComputingのAI&スパコン・スキャンダルがその典型!)の跋扈&横行』という昨今の安倍内閣を巡る、実におぞましい<狂気政治の所業>とは全く異質であることを肝に銘ずるできであろう。

ともかくも、欧州では「民間企業による個人情報取り扱いの規制およびデータ保護(法制)」と「人間の尊厳、個人の尊厳(個人の尊重)など基本的な憲章上の価値」(日本の場合、これは日本国憲法第13条(個人の尊重)、および同第25条(国民の生存権、国の社会保障的義務)に関わる)が切り離されることなく、しっかりと議論されている(関連参照⇒上掲のEU一般データ保護規則(GDPR)の概要)。

因みに、欧州(EU)GDPRの第1条は<本規則は、自然人の基本権利および自由、ならびに、彼らの個人データ保護に対する権利を保護する>と明確に書いており、それが加盟各国の憲法の価値観を最重視していることを強調する。

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22、23、24

結局、それは『AI・BDの個人プロファイリングに対し、人々は異議を唱える権利(right to object)を有する、この権利が行使されると、事業者は原則としてプロファイリングを中止しなければならない』という、最も重要な欧州(EU)GDPRの第21条一条を支える砦となっている。AI・BDプロファイリングへの意義申立どころか、それより遥かに低次元な<アベ様の暴政>に対し、彼が嘘つきの極みであると分かりつつも、一向に何らright to objectを実行しようとしない国民が多数を占める今の日本の現状との余りの落差に愕然とするばかりである(画像参照)。

(米国)

オバマ政権下のアメリカでは、ビッグデータの利用例がマイノリティー排除や差別に繋がる懸念から、政府内部において熱心な検討が繰り返されてきている。ただ、アメリカの場合は、理念型の“普遍”に因るリベラル共和志向の欧州と異なり、プラグマティズムに因るリベラル共和志向の伝統に基づいているため、裁判所による緻密な判例を積み上げる手法で、ビッグデータの利用の規制が検討されつつある。

オバマ政権の政策を全否定することをモットーとするトランプ政権下でも、例えばトランプ大統領がモラー特別検察官の解任(トランプ自身のロシア疑惑関連で)へ踏み切れないことが象徴するとおり、アメリカではたとえ大統領であっても、米国民主主義の“虎の尾”を踏むことを意味するため、合衆国憲法と米国法制そのものに反する行為を断行するという決断へは、なかなか踏み切れない。

因みに、米国民主主義の“虎の尾”(過半超の米国民が辛うじて、しかし強固に共有する逆鱗/これは、トランプ支持が約4割で歩留まりし米国民の分断が固定化されていることの原因の一つとも考えられる)が意味するのは、もしその事態となれば米国史上で最大の政治危機(思想Vsイデオロギーの闘争であった南北戦争の火種が再燃する恐れ/関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 )となることに加え、これまで述べてきたプラグマティズム法思想の伝統から、必然的に「薄氷を踏む憲法上の争い」に嵌ることを意味する。

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また、それが辛うじて維持されてきた司法積極主義(特に、リベラル傾斜のウオーレン・コートいらい強く意識化されてきた/出典:松井茂記『アメリカ憲法入門』―有斐閣―)の伝統ということでもある。従って、トランプ政権下のアメリカとはいえども、少なくともAI・BD利用についての規制に関するかぎり、オバマ政権で検討を重ねてきた、マイノリティ保護をはじめとする個人の基本権を尊重するという憲法上の観点からの活発な議論が停滞することは許されないことであろう。

そして、近年は「ウイスコンシン州最高裁のルーミス判決」(AI自動処理によってのみ重要な決定を下されない権利についての判決)に類する判決が、裁判所による判例法として承認される事例が多くなりつつある(関連参照/下記▼)。

▼再犯を予知するソフトウェアは人種差別的?http://www.sekaiwoyakusu.com/entry/machineracism 








(エピローグ)希望は「日本型リベラル共和」の可能性(結論に代えて)


(再認識すべき、“ルソー市民宗教”としての伝統日本文化の意義)


・・・その特質は、十分に水平的なプロトモダニティ(日本型リベラル共和意識)が歴史的に存在してきたということ・・・

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重要文化財 http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kaiga/184.htmlより部分転載

・・・すでに江戸時代(17世紀初頭〜前半、寛永期頃〜)の日本には、俵屋宗達あるいは本阿弥光悦のような“現代のエトノス環境論にすら匹敵する、マクロ・ミクロ両世界に広がる非常に広大な世界観を「巻物」なるアナログ空間(それと相対的に見れば書物(図書上の図版・画像)は頁ごとに分散したデジタル空間)のなかで見事に演出、あるいは表現できる優れた美学や芸術作品”を大いに支持し、愛好する、もはや上下の身分層を遥かに超えるという意味では、十分に水平的なプロトモダニティ(日本型リベラル共和意識のタネ)が、いわば“近代的な市民感覚の種苗”がすでに自生的に先行し、存在していた事実に驚かされる!(Cf.要参照↓★)

★盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されているhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 

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27、27−2

その意味で、日本には「リベラル共和」型の民主主義を本格的に実現する素地が十分にあると思われるが、問題はその歴史的事実に対する日本国民の覚醒の有無であり、“今や<嘘・改竄・隠蔽そして高級官僚らの作為的な記憶喪失>が溜まり過ぎて、恰も<完全出口ナシ汲取便所>式の<複合カルト妖怪>と化したアベさまに体よく騙され続けているようでは一向に埒が明かない!苦w(日本のプロトモダニティの委細は下記▼を参照乞う)。 

▼2017051・toxandoriaの日記/盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている、

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 

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28、29、30

[自民総裁選の番頭に聞く:萩生田幹事長代行「首相交代が国益に叶うか?」 日本の将来が懸かる外交こそ安倍政権の使命!20180423産経]という実に“異様な情報”(安倍“国体論”複合カルト政権の呪文?苦w)が象徴するとおり、“そのウソの山”が悉く白日に曝されたにも拘わらず、支持率が3〜4割で下げ止まり(3〜4月:読売43%、同:朝日31%)、アベ改憲すら否定されている”にも拘らず、張本人の安倍首相が未だに意気軒昂であり、その使命たる?w外交に勤しむことができるのは何故なのか?

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31、32、33

しかし、安倍首相が、外遊先で相も変わらず巨額の国民の税金を鷲掴みにしてバラ撒く“御大尽外交”に狂奔する一方で(安倍在任中のバラ撒き累計額はmin.30兆円!?)、肝心の日本外交の基盤が、添付画像の如く外務省・内閣府など中枢部分から激しく腐敗し崩壊し始めている!

結局、究極の原因は、これは以前から指摘されてきたことであるが、日本国民一般の主権者としての自覚の欠如ということであり、その「日本の民主主義のアキレス腱」が3〜4割の<固定アベ支持岩盤>として統計的に濃縮された形て表れている訳だ。より具体的に言えば、その症状を引き起こしている病原体は第1章で取り上げた『恐るべき「国体論」複合カルト(アベ国体カルト)の正体/病巣=日本会議ら』と、本来あるべき正統保守の決定的な違いを日本国民の殆どが理解していないことである。

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それに加え、最も危惧すべきは<「国体論」複合カルトの果てに潜む「AIデジタル・ナルシス」(超類型化AI社会リスク)暴走の危機!>ということであり、更にその致命的な悲劇を危惧させる動向の根本には、例えば、これも今まで見たとおりであるが、必然的にリベラル共和を志向すると思われる民主主義が先ず前提とすべき「感情」と「道理性」をめぐる政治哲学>の不在ということだ。しかも、これは必ずしも英米型のそれに拘らずとも、例えば、上で取り上げた事例サンプルの如く日本的な「伝統文化と美的感性」などを“ルソーの市民宗教”として活用できる「感情と道理性」の政治哲学(or政治美学)があり得るにも拘らずである。例えば、この日本的「伝統文化と美的感性」の新たな可能性に関わる議論は、米国の宗教・神道学者トマス・カスリスが論じている(関連参照↓★)。

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★多数派日本国民が共有する「神道」に関わる誤解/トマス・カスリス著『神道』の警告

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104















(感情と道理性をめぐる政治哲学の議論/ローティのロールズ批判、およびディビッドソン『基本的解釈』の重要な意義)

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そこで、「安倍首相・去就の問題」はさておくとして、その先に予想される「より深刻な危機」へ備える心構えの参考として、最も先進的な<「感情」と「道理性」をめぐる政治哲学>の議論に関わる、特に注目(重視)すべきと思われる論点を纏めておく(なお、以下は大賀裕樹著『希望の思想プラグマティズム入門』―筑摩書房―を参照しつつ,toxandoriaの見解を整理したものである)。

既述の「主要論点」では敢えて触れなかったがネオプラグマティズムの代表者の一人であるリチャード・ローティは、「自然の鏡」(Mirror of Nature)のメタファーで、我われの心が恰も自然の諸相の中から唯一の真理をありのままに映しだす能力がある「鏡」であるかの如く仮定するデカルト、ロック、カントらの近代哲学を批判する。また、「自由・民主主義・基本的人権」を彼らと同じく擁護しながらも、特に、カント的な理念(正しい概念・範疇の表象を規定する)を根拠とするロールズ、ハバーマス(ドイツの社会哲学者)らをも批判している。 

ジョン・ロールズは、プラグマティズムとは異なる欧州的な思潮のジャンルに入る米国の政治哲学者で、カント的構成主義で正義を説く1971年の著書「正義論」で名声を博した。ロールズは、社会契約に因る正義の原理は自己の利益を求める合理的な人々が共存するための合意がもたらす構想ととらえ、同時に、その構想が必然的に不平等をもたらすとしてホッブズに始まる功利主義を批判したのである(<注>カントには“情念統制理念、論理構成理念”の考え方があるので、必ずしも100%観念傾斜だとは言い切れない、と思われるが・・・)。

ロールズの「暫定協定(暫定契約)に基づく財産所有制民主主義」(ロールズは、これが歴史的な繰り返しの過程で必ず定着、共有されると考えていた)は<カント流の西欧的な普遍観念(功利主義と同じく“理念(観念)”の世界に傾斜し過ぎ)であり、もしこれが唯一の普遍的な正義のあり方だとすれば>、そこから生じる覇権的「強制力」は、やがて非西欧的な文化や社会と必ず衝突することになるとして、ローティはロールズを誤った意味でのプラグマティズムだとして批判した。

見方を変えれば、これは「タイプ(抽象的な普遍・論理に因る表象)Vsトークン(個性的な個々の実在/因果連鎖のリアル)」(Type-token distinction)という、非常に重要なパース(パース流プラグマティズム)の着眼点に相似していることが理解できる。つまり、正義や平等の価値を重視するのは正しいとしても、それをリアルに(我われが生身で生きる世界で)実現する方法は、エトノス環境(当然、そこには生命そのものと分離できない感情・情念・情感も含まれる)の意味での自然・文化・伝統・社会など凡ゆる内外の因果的緒条件との絡みで、日々に更新されることが必然であると見るべきだということである。 

そして、ここからローティは『道理性(reasonability)と合理性(rationality)』の違いということを導く。つまり、ローティは<ロールズが西欧近代の政治文化をベースとする正義の原理と基本的人権の観念を『万民の法』と捉え、それをそのまま他の文化圏にも適用が可能な普遍性(普遍的観念)と見る>ことに対し、“普遍”観念と因果連鎖のリアルを峻別する視点から疑義を主張したことになる。

そして、我われはローティの説く道理性(reasonability)が感情(情念)と深く関わっていること、道理性(reasonability)と合理性(rationality)は対立関係にあるものではなく、また両者の関係が一律で普遍的なものではないことも理解しなければならない。それは、合理性も感情(情念)と深く関わっているからだ。因みに、動物一般では彼らが言語を持たぬためヒトより遥かに厳しく苛烈な一回性の生のリアルを生きていると考えられる。ともかくも、人類の場合はこの道理性と合理性のバランス関係の一回性(ルドン美学が発見した“ミクロ・マクロ世界に跨り環境内を浮遊しつつ際限なく生成と消滅を繰り返す、そして夫々は掛け替えなく個性的な中間の媒介的生命の連鎖であり続ける”という目前の幻想的光景)こそが、実は言語を持つ人類の場合であっても、逆説的になるが、それこそが多様な文明・文化を育んできたのだという事実を深く理解するべきではないか?と思われる。

だから、その道理性であっても、それが唯一の観念的“普遍性”として強制権力的・武力威圧的に定義され、それを非西欧的な世界や異なる民族へ押しつけることになれば、例えば安倍政権が掲げる積極平和主義の如く衣の下の暴力(先制攻撃の刃)へ転化してしまいかねないことになる。そこで、必須となる考え方がドナルド・ディビッドソン(分析哲学の系譜の研究者といえるがカント、クワイン、ローティら欧米哲学を一つの視点から捉え直すという観点に立つ米国の哲学者)の『一つの世界についての複数の記述(根本的解釈)』の問題ということである。この視点からは「生き方としての民主主義」を重視する方向性が生まれ「討論型世論調査http://keiodp.sfc.keio.ac.jp/?page_id=22 など新たに民主主義を深化させる工夫への取り組みも始まっている。

ともかくも、『根本的解釈』について短く言うならば、それは<そもそも異なる信念をもつ者同士であっても一方に威圧的な感情が存在しない限り“程々の意思の疎通としての会話”は成り立っており、ほぼ平和裏に折り合いがつくことが多い>という考え方である。たしかに、平和裏で日常的なコミュニケーションやヒトとペットの関係等々の様々な場面を振り返ってみると、多くのケースでは、必ずしも、そこでは“普遍”的でパーフェクトな会話は必要とされておらず、その「一つの世界についての複数の記述」という交流環境にも拘らず個々の個性的文化のあり方や生ある者としての個々の生き方(尊厳性など)は尊重されている。しかし、我われは、再び、ここでデューイのプラグマティズムの「保障された言明可能性」という考え方を想起すべきである。

逆説になるが、特に高度な言語コミュニケーション社会(契約社会)の中で生きる我われ人類の場合は、そもそも当たり前であったはずのローティ―『根本的解釈』の世界を維持するためにこそ、言い換えれば「哲人・聖人・君子ならぬ凡人のための民主主義」を保全するためにこそ、血みどろの闘いのプロセスで漸く人類が手に入れた社会契約に因る“普遍”およびそれに対する批判から、一層より深く理解できるようになった道理性(reasonability)に基づく円滑なコミュニケーションのあり方などの大前提となる、政治行政の<信用>を繋ぎ留めるために必須の<公文書(ドキュメント)・歴史資料等>を最重視すべきだということになる。このような意味でも安倍内閣の<嘘・改竄・隠蔽に頼る行政手法=戦前型の国体論なるカルト幻想観念(追憶のカルト)に因る詐欺政治>は、非人道の意味でも最悪である。

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つまり、安倍政権がやっているのは<人類が経験してきた民主主義へ至る歴史を無視しつつカネメのバラマキとウソ八百を抱き合わせ、一方的かつ威圧的に相互理解をムリクリに強制する非常に野蛮な政治>であり、近々の国際関係悪化に留まらず日本社会の調和的コミュニケ―ションの崩壊が急速に高まる恐れがある。おそらく、その危険性を経験的・歴史感覚的に最もよく理解されており、その学びから得た象徴天皇制(日本国憲法)の意義に対する自らの信念(責任感)を<象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば20160816>の形で表明されたのが今上天皇である。http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

このことを、『国体論−菊と星条旗−』の著者・白井聡氏は<天皇のアルカイスム―国を支える「祈り」―>と表現しているが、当然、その深層には「古代〜江戸プロトモダニティ〜戦後〜現代」へと伏流してきた、世界に対しても大いに誇るべき日本文化(東アジア系の渡来複合文化を基層とする皇室文化が源流となる)の伝統が存在する。今こそ、このような観点から、例えば幕末期〜明治維新の英傑たち(吉田松陰坂本龍馬福沢諭吉ら)の日本的“白日”(日本的“普遍”の気づき)の意味を深く噛みしめ直すことが肝心であるだろう。それは、必ずそこから欧米流とは異なる日本型リベラル共和へ進む途が見えてくるはずであるからだ(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307/なお、日本国憲法下の現代日本で生かすべき、十分に生かし得る天皇のアルカイスムの問題については、白井聡氏とほぼ同様の視点で、宗教学者・小山悳子氏が論じている/関連参照↓▲)。 完

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▲正統保守が基本とすべき視点/日本の心の原点を伺わせる神道書『神令』によれば、「天皇制」草創期(およそ“大化改新”以前)の伝統神道は天皇に対し民衆を平等に見なす「徳治政治」を求めていた http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160109

2018-03-07 幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、松陰「白日」の削除を謀

toxandoria2018-03-07

幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、松陰「白日」の削除を謀るアベ独裁は戦前構造災の再来/敗者と異論への寛容(思想)の回復が必須

クロード・モネ『ジヴェルニー、春の効果』

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・・・Claude Monet「Effet de printemps, Giverny」1890 100 x 60 cm oil on canvas London, Private Collection Lefevre Fine Art Ltd.

Debussy - Fantaisie pour Piano & Orchestre - Andre Gallo

D

https://www.youtube.com/watch?v=Lxjcxo7LdBI


(Preface)

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・・・メタフィジカル・クラブ(参照⇒エピローグ)のメンバーの一人、オリバー・ウェンデル・ホウムズ・ジュニア博士(19世紀後半〜20世紀初めに活躍した米国の法律家・連邦最高裁陪席裁判官/留学中の金子堅太郎の家庭教師を務めた)は、合集国(連邦)のために「南北戦争」を戦った経験から、「ボストン(最愛の郷土)と合集国が全く別物であること(普遍の価値観)を二次的な意味で再発見したとされる。一方、同様の環境下で「戊辰戦争」を戦い勝利した明治維新政府のリーダーらの多くは、この「普遍」(吉田松陰坂本龍馬らが既に気付いていた)を敢えて無視するか、あるいは無知であった。(出典:野口良平『幕末的思考』、同氏・監訳『メタフィジカル・クラブ』/いずれも“みすず書房”刊/ホウムズ・ジュニア博士の画像はウイキより)・・・






f:id:toxandoria:20180307051634p:image:w360f:id:toxandoria:20180307053203p:image:w425f:id:toxandoria:20180305140153p:image:w300

白日隠蔽の発覚1、2、3

・・・新たに判明した歴史「事実」である<維新政府が隠蔽した「白日」の発見>を安倍晋三・内閣が毛嫌いする不可解!その「白日」とは、カント「情念統制、論理構成」の二理念とも呼応する<吉田松陰ら幕末期“草莽の獅子”たちのリベラル共和的な“普遍”への覚醒>であった!・・・


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恐るべきアベ独裁1、2、3

安倍政権に付き纏う≪『公文書改竄』常習犯罪≫の原因/今後の課題)

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・・・それは恰も“一強アベ様による<対総国民「パワハラ政治」暴走の観>を呈し始めている”が、<民主国家の「法の制定者」(つまり、主権者!)である筈の一般国民>が余りそれを感じていない?のが、今や最大のリスク(日本の存亡の危機)”となりつつある!・・・

・・・そもそも、政治・行政のドキュメント情報は「隠蔽したり、捏造・改竄したり、むやみに又は勝手に削除(消去)したり」できる、悪意を持った立場にとって好都合なツール(政治の小道具、打ち出の小槌)ではなく、それを如何に正当に評価してインテリジェンス化できるかを考えるべきものであり、それこそが政治・行政に関わる情報リテラシーについての正しい理解である・・・

独裁を意味する英語、dictatorship(動詞dictate)には、そもそも「人に要件を書きとらせる、ヒトに命令する」の意味がある。指図のコトバを書きとらせ、あるいは口頭で命令するということは、つまり人の意識や内面で発するコトバそのもの(ヒトの文化的意識の出入口たる動作環境(口と手)と意識全体)を強権的に、かつ一方(強)的に、特定イデオロギー(これは思想に非ず!)で強制支配することになる。すなわち、そのように見ると実は独裁が政治的な意味に止まらず、国家の一定フレームを共有する国民の文化トータルに対する一強支配であることが分かる。安倍政権に付き纏う<「公文書改竄」常習犯罪>の問題も此処に淵源がある!

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加えて、“驚くべき一強政権”とさえ呼ばれる安倍内閣には一般の定義(その委細はエピローグ末尾の<補足2>にある)から外れた非常に奇妙な「デジタル独裁」の傾向が顕著である。具体的に言えば、それは(1)SNS活用によるネトウヨ仲間“増殖”orインスタ映え戦術など、と(2)無定見で節操がないシンギュラリティ万歳!(経済財政諮問会議による最強の科学技術“前特異点”創造戦略)の二本柱である。

ところで、健全な思想は「寛容」であり、それは人間の生命と共に無限に深化するがイデオロギー(化石観念化して霊界を漂う面妖化した思想、例えば安倍晋三・政権、日本会議、あるいは米トランプらが囚われている“追憶のカルト”、“マイ・ファースト妄想 ”など/補、toxandoria)とは全く別物と見るべきである(参照資料:ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』―みすず書房―/<注>この書名(というより、そもそも其のクラブ名)は、過剰に形而上学世界へ傾斜することの危険性を批判し警告する意味で付けられている)。

一方、如何に過酷な状況に嵌った(あるいは、仮に欺かれたり嵌められたりして敗者(負け組)側の煉獄に堕ちた)としても、健全な思想を求め格闘しつつ、その持続を覚悟する者たちは(例えば、吉田松陰、坂本龍馬、中江兆民福沢諭吉中里介山ら)は、只の無節操な転向とは全く異質な思想のエンドレスの深化の方向性を実存化する。そのためのヒントは“大文字の生” (内外のマクロ・ミクロ双方をしっかり視野に入れた意味での全エトノス環境)に生かされている“小文字の生”(人間)に必須の「寛容かつ普遍的で共有が可能な覚醒」であり、それは「只のメタフィジカル(ひたすら天空ないしは霊界へ超然と飛翔するだけの理念)の意味ではなく、一般の国民層(つまり草莽たち)が生きるリアル・ゼロの地平にこそ必要な価値を、日々、新たに発見する」ということである(中里介山の長編小説大菩薩峠』の主人公、机龍之介の過酷で理不尽な生き様の“メタファー”が提示する覚醒!/参照資料:野口良平『幕末的思考』―みすず書房―) 


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財務省の文書書き換え1、2、3

一方、余りにも露骨な<「公文書改竄」常習犯罪>の問題が急拡大しており、最も肝心な「政権自体への信用」がフリーフォールし始めたかに見える。この裏に隠れた安倍首相の心理(ホンネ)は「敗者、異論者、敵対者」に対する不寛容、ヘイト、そして特異イデオロギー押し付けである。言い換えるなら、これらの人々を全く信用しない!ということであるが、政治理論的にも「異論者・政敵(政争の敗者)らも含めた相互信頼関係を重視」する政治が経済・財政的に最もリーズナブルであることが分かっているため、この安倍内閣の政治手法は完全に誤りである。

従って、我われ有権者は(今からでも遅くはないので)「思想とイデオロギーは本源的な意味では全く異質なものであること」(それこそが当記事の通奏低音であり、結論でもある!)についての理解を深めつつ、特に<敗者、異論、敵対者らへの寛容な思想の回復>を急ぐべきである。

f:id:toxandoria:20180305142446p:image:w300f:id:toxandoria:20180305142523p:image:w355松陰削除1、2

<注>吉田松陰・坂本龍馬らを教科書から削除!の主張(左右両サイドからの?)の背後に蠢く安倍政権・日本会議らの不可解な空気!

・・・歴史研究の成果で、吉田松陰・坂本龍馬らの思想が、実は日本会議、安倍晋三首相ら、いわゆる偽装極右派(決して彼らは正統保守に非ず!)の期待と真逆で、実は「普遍」への自生的な覚醒(正統な愛国心の根源への気づき!)であったという新たな事実が判明してきている(出典:中野良平『幕末的思考』(みすず書房))。


プロローグ)戦国期まで遡る17世紀・江戸「プロトモダニティ」(列島自生“普遍”の苗床)の源流

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・・・(左上→左下(二段目)→右下(二段目)→右下(三段目)の順)上杉本(右隻)、同・部分1:鉦叩き(左隻第5扇下部)、同・部分2:高野聖(右隻第6扇下部)、同・部分3:三条西邸(右隻第6扇中央)(画像はウイキより転載)


国宝指定(1995)の上杉本「洛中洛外図」屏風は、米沢藩藩主の上杉家に伝来したもので、米沢市上杉博物館が所蔵する。織田信長上杉謙信に贈った狩野永徳の作品(16世紀)とされる。なお、「洛中洛外図」は、戦国時代(16世紀初頭)から江戸期にかけ制作されたが現存する良質作品は約30〜40点である。


・・・


・・・おそらく日本伝統「プロトモダニティ」の原点は「洛中洛外図」屏風の世界にあるが、市民生活の全貌を表す景観を、ある高さから俯瞰しつつ個々の姿を平等に描く芸術家(画人)の行為の賜物である「洛中洛外図」には斬新なプロトモダニティ意識(西欧の遠近法とは異なる日本美学的な水平の視点)の発見ということがある。・・・

・・・そして、この伝統こそが、後年に日本列島で自生することになる地生えの普遍への覚醒たる吉田松陰の「白日」(委細、後述)、又は“一揆など武力蜂起に限らず自律的な闘い方(司法的な戦い方/その嚆矢となったのが『白岩目安往来物』)があり得ることを記憶する百姓たち(『白岩目安往来物』関連/下記の◆参照)”を誕生させた苗床であったと考えられる。・・・

◆明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学アカデミズムの土壌/が、今や『詩織さん事件』がその信頼性を崩壊させつつある!http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107

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教育勅語1、2、3

目下、盤石に見える(?)国民の支持を得て一強を誇る(奢る?)安倍政権は、愈々、この4月から全国の小学校で「道徳の“教科”化」を始動させる。しかし、明らかに、この動向には日本人を「玉砕(全滅死)をも辞さぬ自己犠牲で皇国の扶翼のために尽くすという国策“道徳心の精神世界”」(明治20年代以降の勝者側による、天皇の密教的な政治利用)へ連れ戻す(戦前回帰させる)という思惑が潜んでいる。

それは、「安倍政権が、既に、議員から提出された質問主意書に対する答弁書の形で“憲法や教育基本法に反しないような形で教育に関する『教育勅語』(衆参両議院の決議で、敗戦から3年後の1948年6月25日に勅語謄本は焼却されている)を教材として用いることは否定されない”、と決議しているからだ。

因みに、勅語謄本の焼却(廃棄)に敗戦から3年もの時間を要した背景には、占領軍が天皇の権威(これは“顕教(文化)”的の意味)の利用で占領を円滑に進めようとした意図が隠れている。

しかし、この『教育勅語』に関わる戦後史の一コマは日本会議を守護神と仰ぎ必死で戦前回帰を追い求める、換言すれば天皇の“密教”的な政治利用(政権の意思で好きなように国民を動かし、戦わせ、働かせるための祈祷・呪術の道具としての天皇)の取り戻しを謀る安倍政権が決して正統保守ではなく、只の偽装極右(高々でそれは殆ど非合法な“暴力団かギャング、あるいは暴力テロ組織”のジャンル)であることの証拠にもなっている。 

f:id:toxandoria:20180305151233p:image:w500  f:id:toxandoria:20180305151300p:image:w320f:id:toxandoria:20180305151329p:image:w320:right

保守こそリベラル1、2、3

つまり、それは列島トータルの滅亡が危ぶまれる混乱の極みであった幕末期の「尊皇攘夷Vs尊皇開国」のドグマ・フレーム思考から一歩も外へ踏み出ていないからだ。本来なら、幕末期〜維新期〜敗戦〜現代に至る日本政治に関わる約150〜200年の文化・精神史の視座から、内外のリベラル共和、客観合理(ネオ・プラグマティズム/関連で末尾“エピローグ”を参照乞う)の深化らに関わる動向なども、より大きく俯瞰しつつ爾後の日本であるべき正統保守(リベラル共和主義も取り込む形での)の姿を構想するのが筋である。

1 明治維新政府が隠蔽した「幕末期“普遍”意識」自生の問題

・・・おそらく、「アヘン戦争」の情報が「幕末期“普遍”意識」自生のプレリュードとなった! そして、宇都宮黙霖・山県大華との対話で「白日」(自生の普遍意識)に覚醒した吉田松陰は、偽装極右の教祖でも、テロリストでも、「顕密二元論」(密教的な“天皇の政治利用”)の祖でもなかった!・・・

皇国史観」の神話論理(ミソロジー)が、初めは「維新政府」内で少数の<非主流派>であった尊皇テロリスト派によって更に観念的に過激化され、やがてそこから軍国主義国家・日本の諸政策が誕生したとの原田伊織氏(『三流の維新、一流の江戸』(ダイヤモンド社)の著者)の見方にほぼ同意するものの、その尊皇テロリストの筆頭として吉田松陰が入れてあることには賛同しかねる。

というか、これは従来の大方の見方であったのかも知れない。しかも、だからこそ日本会議、安倍晋三・首相らのアナクロ偽装極右派(彼らは決して正統保守に非ず!)の人々は、そのような意味で明治20年代以降に輪郭がハッキリしてくる「顕密二元論システム」(参照、<注>↓)創造の第一義的な貢献者として吉田松陰を高く評価してきた節がある。

しかし、そもそも吉田松陰の思想の変遷には分かり難い点があった。それは、近年の日中関係史研究の中から、このことについて根本的疑義を突きつける事実が発見されているからであり、例えば王暁秋著・木田知生訳『中日文化交流史話』(日本エディタースクール)によると、林則徐(英国の植民地主義へ抵抗した清朝の官僚)らとも親しかった魏源の著書を吉田松陰が読んでおり、その大きな影響を受けていたからである。

アヘン戦争後の中国で新思想の提唱者として中国人に対し「世界に目を開かせる」役割を担った知識人の代表者である魏源の著書『開国図志』と『聖武記』は佐久間象山(尊皇開国派)・吉田松陰(いま述べたとおり松陰には状況体験と知識・思考の深化に伴う思想内容の変化があるので、その時点での尊皇攘夷派の意味!)ら幕末日本の知識人へ紛れもなく大きな影響を与えており、これが彼らの尊皇開国、尊皇攘夷思想の基盤を作ったと考えられるのだ。

つまり、松陰は特異イデオロギーに囚われたテロリストどころか、ルイ・メナンドが著書『メタフィジカル・クラブ』で教えてくれる“本物の思想の人”(自分が選ばなかった選択肢が常にあり得ることへ十分に柔軟な配慮ができる人物!)であったのだ(この論点についてはエピローグで更に少し詳しく触れる)。

さて、「幕末的思考」(みすず書房)の著者・野口良平氏によれば、驚くべきことに、吉田松陰は山県大華、宇都宮黙霖との対話の経験からカント「a論理構成理念、b情念統制理念」の区分(その委細は後述する)から導かれる考え方、つまり「普遍」の観念のレベルに殆ど到達しており、吉田松陰はその自らが想像した、この列島「自生」の重要な観念を「白日」という言葉で言い表していた。

言ってみれば、松陰は「大和魂」(そもそもはカミカゼ・玉砕などとは無関係な渡来系文化を柔軟に吸収・消化した後に伝統化を志向して形成された列島文化の固有性)と「白日」(人類・世界の普遍性)という、普通の考えでは繋がり難い二つの項を結びつける正統な思考回路を全くの徒手空拳で創造していたことになる(とはいえ、ハリス来日の安政3年(1856)に行われた大華・黙霖との対話で何らかのヒントを学び取ることで!?/特に、黙霖との対話の影響が大きいと思われる)。


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なお、山県大華は長州藩「明倫館」の学頭にして朱子学者の人物だが、吉田松陰との間で行われたその「国体論争」で名高く、松陰の師にあたる人物。両者の意見は激しく対立したことが知られているが、当時、すでに80代であった山県大華が、「(その時の松陰の)日本中心の考え方は時代遅れであり」、「せめて朱子学の祖国である今(その当時の)の中国並に世界へ視野を向けるべきだ(おそらく、正統保守的な意味での「幕末期“普遍”意識」自生のプレリュードと見るべき「アヘン戦争」(1840 - 1842)を意識したか?)」と説いていたことが注目される(画像はウイキ)。

<補足>見過ごされてきた「斉藤竹堂、渡辺崋山、高野長英の先行的な慧眼」

・・・それは「アヘン戦争」に潜む欧米侵略主義の“野蛮さ”(植民地資本主義の限界、正体)の核心が当時の欧米民主主義思想の裏面(欠点)であることを見抜き、自生の「普遍」観念の必要性を警告していた。これは単純な攘夷論に非ず!

・・・斉藤竹堂:仙台藩・養賢堂で学んだ人物、著書『鴉片(あへん)始末』/渡辺崋山:三河国田原藩の藩士・画家、著書『慎機論』/高野長英:江戸の医者・蘭学者、著書『戊戌夢物語』

宇都宮黙霖は江戸時代末期の聾唖の勤王僧だが、水戸学の「尊皇敬慕」に強い抵抗感を持っており、“そもそも民を安んじる王道”(古神道の重要な理念/専門研究者の一部は、既にその中に象徴天皇の観念があると主張!Ex.神道学者・小山悳子氏http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160109 )と武力支配の「幕府の覇道」は両立せず草莽(底辺の庶民層)にこそヒトの真の価値があるとも主張していた(<注>勤王は勤皇と同意/佐幕派に対して京都朝廷のために働いた一派)。

伊藤博文の「内閣制度」創設に重なる<「顕密二元論システム」完成と「吉田松陰らの白日」隠蔽>の問題

日本の内閣制度(立憲議会制度)を作ったとされる伊藤博文には、もう一つの隠れた実像を見るべき、との知見が提示されている(出典:中野良平『幕末的思考』‐みすず書房‐)。

明治維新の初頭(明治4年)まで生きた津和野藩出身の国学者・大国隆正は、非常な勉強家であり、そのため一応は内外の情報を広く知悉していた。しかし、その大国が『グロティウスの万国公法』を、おそらく作為で<万世一系の皇国史観による国体論>の中へ読み替えていた可能性が高いこと(著書『新真公法論』)は一般的には殆ど知られていない(ネット上に検証資料がある/参照↓◆)。そもそも大国隆正は「靖国顕幽論」の基盤を構築した平田篤胤の門下生でもあるので宣なる哉、納得!ではあるが。

神戸大学経済経営研究所:新聞記事文庫/外交 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10169381&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

この『グロティウスの万国公法』の皇国史観(国体論)への読み替え(つまりパクリ!)が、会沢正志斎(江戸末期の水戸学を代表する学者)らの特異イデオローグとも融合しつつ、明治期の日本の政治思想界の『底流』に大きな影響を与えていたと考えられる。

「1881年(明治14年)の政変」の後に維新政府内の主導権争いが繰り返されるうち、やがてその異常な『底流』が『深層奔流』となり、更に、一応は民主主義的なカムフラージュと如何にも洗練されたような修辞が施され、“女好き”で知られる伊藤博文の内閣制度の完成(明治18年)へ流れ込んでいったが、それこそが「顕密二元論による皇国日本の支配システム」である。

<注>(1)1881年(明治14年)の政変 (2)伊藤博文の“女好き(女狂い?)、についての委細は下記を参照。

(1)⇒ 維新期にはプロイセン型“国家主義”(制限民主政)と英国型“立憲民主政”(正統保守主義)なる二つの理想が混在し、せめぎ合っていた http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107 

(2)⇒ アベの<ウロボロス“尻ぬぐい粉飾”構造>に嵌った美しい?https://www.evernote.com/shard/s440/sh/a70918f7-c62b-465b-af10-8609f9ab1430/18e82249fa1c1df90bfcc44c67f0fa9c

そして、この「顕密二元論による皇国日本の支配システム」の暴走が太平洋戦争の悲劇(日本国民から基本的人権を剥奪し、侵略戦争主義を押し付ける方向)に雪崩れ込んだのは言うまでもない。無論、安倍晋三・首相の“非常に不自然な改憲強行”の不退転の意思!の背後に潜むのは、この戦前型「顕密二元論による皇国日本の支配システム」の取り戻しであることは間違いがないし、その強力なブースターが日本会議である。

しかもそれだけではない。実は、伊藤博文が「大日本帝国憲法」の起草者の一人である伊東巳代治(殆ど学者同然であった内閣書記官長)に命じて作らせた英訳版は「The Constitution of the Empire of Japan」であり、 英語に堪能な伊東巳代治 (同じく学者同然の官僚、井上毅・金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画した)が誤訳するはずはないので、おそらく伊藤博文が指示していたか、又は他の政権内から指示があり、伊藤がこれに知らぬふりを決め込んだか何れかの可能性がある。

f:id:toxandoria:20180305164552p:image:w450:left偽装民主主義

ともかくも、このような流れの中で、当時の日本政府は国内では「大」日本で国民層を威圧する一方、対外的には東アジアで初の民主主義憲法を詠い、かつ“吉田松陰らに端を発する『自生(列島に自生えしていた白日の観念=日本型リベラル共和的な正統保守思想へ深化する可能性を秘めた普遍の観念)』”を隠蔽しつつ、天賦人権論と真逆に国民主権を否定する“顕密二元論による皇国日本の支配システム”を完成させていたことになる

<注>顕密二元論システム(天皇の“密教的な政治利用”)について

・・・これは、明治20年代〜終戦期(敗戦まで)に日本を一強支配した、神憑りファッショによる日本の独裁支配システム。別に言えば「顕密二元論システム」(皇国日本の支配システム/天皇の“密教的な政治利用”へ傾斜した統治方式)。そもそもの嚆矢は、事実上、伊藤博文が黙認したことに因るのでは?と考えられる。 

・・・久野修(哲学者、評論家)による「天皇の権威と権力を通俗(顕教)と高等(密教)の二様解釈で組み合わせて政治利用する」との用法が嚆矢とされるが、“顕教”は伝統文化的な天皇制への国民の共感の利用、“密教”は特定の政治目的のため天皇制を利用すること、と考えると理解し易い。

・・・なお、「明治十四年(1881)の政変」の後に大日本帝国の骨格として成立したプロイセン・モデル・官僚体制の定着と共に、およそ明治20年代に戦前日本の「ダミー市民宗教」である「顕密二元論システム」(天皇の“密教的な政治利用”)の着想がほぼ現れたと見るべきだが、それには「a神道系」、「b文化・芸術系」、「cリアル政治」の三つの伏流がある(a〜cの委細は、それぞれ下記を参照乞う)。

a ⇒国家神道・患者、穴クロ安倍晋三/明治維新期における廃仏毀釈・神仏分離⇒国家神道の流れ https://www.evernote.com/shard/s440/sh/2aef4fc7-a2bb-4815-858a-4c87aa1fab50/1177931b96714cec353f0c76d9b913d3 

b ⇒太平洋戦争を煽り現実逃避(イロニー)で国民の惨禍を賛美した日本浪漫派なる悪の華 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130924 

c ⇒アベ(安倍晋三)の<ウロボロス“尻ぬぐい粉飾”構造>に嵌った美しい?日本!

https://www.evernote.com/shard/s440/sh/a70918f7-c62b-465b-af10-8609f9ab1430/18e82249fa1c1df90bfcc44c67f0fa9c 

https://www.evernote.com/shard/s440/sh/a70918f7-c62b-465b-af10-8609f9ab1430/18e82249fa1c1df90bfcc44c67f0fa9c

3 カント「情念統制、論理構成」の峻別、それは「普遍」観念を培地とするリベラル共和主義の理解と深化に必須の条件

(カントには、理念を情念統制理念と論理構成理念に区別すべきとの考え方があった)

カントには<理念を情念統制理念と論理構成理念に区別すべき>との考え方があり、カントのこの慧眼の無視こそが、「構造災」の系譜として今に繋がる我が国の科学技術政策のジレンマをもたらしたといえる(構造災の委細については以下、(1−2)で詳述).。このカントの考え方を整理すると以下のようになり、a、bを明確に区分して自覚することが所謂「普遍性」に繋がる。

a:情念統制理念:たとえ実現可能性から離れているとしても、持続的に目指すべき“方向性”(一定の統制された情念に基づく )

b:論理構成理念:論理と実践によって徐々に実現されるべき内容

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スパコン1、2

今の日本で言えば、ここで言う構造災は、「特にAI、原子力利用、生命科学など先端科学技術分野までもが、一強化した政治権力(安倍政権)に媚び、迎合、忖度、又はマイファースト・エゴ利権の先兵」と化すこと、つまり余りにも由々しき「先端科学の“錬金術”化の問題」となって現れつつある(<注>左画像のアベPMは、各省庁内を巡っているとされる“安倍首相の秘密指令(クロをシロにせよ!との特命指示)”を意味する!)。

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ネオ構造災1、2

また、過去の典型となるのが「無謀な太平洋戦争(その敗戦史プロセス満州事変ポツダム宣言に及ぶ十五年戦争)が内外でもたらした悲惨」と、あの「恐るべき3.11フクシマ過酷原発事故が引き起こした悲劇」である。

『情念』統制理念とは高次元なのでたとえ永遠に実現不可能なものである場合でも、その目標とすべき理念を掲げることでのみ、悪へ誘惑されがちな情念を統制しつつ現実(リアル政治/『論理』構成理念)の改良へ取り組む努力が持続できる(理性の情念統整的使用)」ことになる。それが“情念統制理念と論理構成理念の相互補完性の原理”が意味することだ。 

(“情念統制理念、論理構成理念”がリベラル共和主義の前提となる理由)

既述のとおり、「a情念統制、b論理構成、」の区分を明確に自覚することが所謂「普遍性」に繋がる訳だが、そもそも理念を求める意識がなければ人間は生きることの意味が永遠に理解できなくなる。つまり、理念とはヒトが生きることの意味を絶えず再検証するために必須のものである。言い換えれば、それは人間が薄暗い道を先へ先へと些かの予見を持ちつつ歩むために必須の灯火(ともしび)である。

その意味で一定の理念に照らした「予見」を必要条件とするヒトの意識の内容は「情念」と「論理」から成っていることになる。また、このような意味での「情念」と「論理」のカップリングで成り立つ意識はヒトと他の動物、あるいはAIとの差異を際立たせる特徴ともなっている。因みに、このような視点から見ればAIシンギュラリティ信仰(狂信的な論理的知能礼賛主義)を告白する下記、二冊の本は反面教師の意味では読むに値するかも知れない(苦w)。

●ニック・ボストロム『スーパー・インテリジェンス/超絶AIと人類の命運』(日経出版)

●ポール・チャーチランド『物質と意識/消去主義的唯物論』(森北出版)

これは、後で論じる「個体生命維持のためRAS作動で常に捨てられている8〜9割の生体内“情報”」の問題とも絡むのだが、この「予見、情念、論理」のスリー・ペアの動作を、経営・政治またはスポーツの戦術などリアル現場へ落として見た場合に留意すべきことがある。

それは、その場面ごとの結果に繋がる<一つの選択の意思決定>は、必ずしも十分に論理的な選択ではありえず、殆どの場面では8〜9割の関連情報が常在的に捨てられているということだ(感情・情念の応援も得て残余を捨てずには決められない!)。つまり、ここでは委細を省くが、これは「限定(ヒューリスティック)合理主義/客観的合理性(主観合理主義の対概念)」に絡む問題で、関連して重要なのは<傲慢が最大のリスクで、謙虚・反省そして持続的な信用こそが最大の得物(有益なツール)!>という現実を理解することである(関連参照↓下記▼)。

ホルクハイマー「客観的合理性、主観的合理性」の峻別について

・・・「現代の危機」が、フッサール「現象学」が誕生した19世紀末〜20世紀初頭「ファシズム胎動期」の「危機」に重なるのは自明といえる。従って、フッサール「無前提性の原理」とホルクハイマー「客観的合理性」には深部で共鳴するものがあり、その先には矢張り<コンシリエンス(人文社会・科学両知の融和的統合)の時代>到来の必然性が感じられる。http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170901 

ところで、“何かが起こる場合には必ず論理的に説明できる原因がある”という、ごくありふれたリアル事象に対し、何やら難しそうな「充足理由の原理」と命名したのはG.ライプニッツ(17世紀ドイツの数学者、哲学者)である。

しかし、ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―によれば、近年のAIを活用した先端的な脳研究分野でも、人間の「論理展開の能力」(科学合理的判断力)と「感情・情念」が深く相関していることが観測されており、我われが普通に見聞している「人に関わる充足理由の原理」(人が原因となる個々のリアル事象)は、ライプニッツが予期(懸念?)したとおり、そう単純でないことが理解されつつある。

例えば、同書によれば、生体内部では「ヒューリスティック(限定的)な統合合理性」の実現(個々の目的に応ずるベスト知覚機能の確保/例えば、目的対象物を確実に見る必要性)のため、敢えて「RASによる視覚の死角/脳内フィルター機能、脳幹網様賦活系(reticular activating system in brainstem)が必要情報だけに絞り込むため発生する脳内の死角」を発生させ個の生体の「生命全体の安全を確保」している。そして、無論これは視覚だけに限るものではない。

なお、このRAS作動による個体維持の機能の存在は「進化論的軍拡競争」(ダーウイン進化論の先を見据えた一種の限定合理性の選択による種の保存則の問題で、アベ様らが好む軍事国家主義とは真逆の知見!というよりも自然・エトノス環境の摂理(永続性の原理)?(関連参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104

つまり、人間の意識の核であるノエマ(ノエシスが感受し、考えるその内容/ノエシスは感受し、考える作用それ自身)も同じことで、おそらくその「生命全体の安全保障」のための意識の焦点化と共に凡そ8〜9割以上の情報(夥しい数の射影の廃棄/“フッサール現象学で言う現出、個々人にとってのリアル”の残余)が常在的にRAS作動で捨てられているという実に驚くべきほど精妙な意識の真相が理解できることになる。

換言すると、この「人間の意識についての観察」は、明らかに、先に述べた<「予見(理念に基づく)、情念、論理」のスリー・ペア動作>のリアル問題とも絡んでいる。つまり、これは従来の一般常識、AIシンギュラリティあるいはビッグデータ信仰などには反するのかも知れぬが、「捨てられた情報、敵対する情報、敗者の情報(意思)、無視された情報、無駄と思われる情報(or仕事、趣味など)」の中にこそ我われの無限の可能性と未来があることになる。その意味からしても、アベ様、トランプなどを巡る<異様に傲慢に見える諸現象>は愚の極みとも言えるだろう。

因みに、米合集国の哲学者・心理学者で、意識の流れの理論を提唱しジェイムズ・ジョイスユリシーズ』ら米国文学に大きな影響を与え、かつパースやデューイと並ぶプラグマティストの代表者でもあるウィリアム・ジェイムズは特定の学派や学術伝統に囚われない教育を受けたことが知られており、この事例も「無視された情報、無駄と思われる情報」などが、人間の未来にとり如何に重要であるかを示唆している(出典:ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』)。

このように逆説的な観点から見れば「大文字の“生”」(エトノス環境と同意⇒関連参照↓◆)の構成要因たる「個々の“生”」(個体)の維持に関わる緻密で、深遠な作用系を理解するにつけ、我われは持続的な<生命の安全と文化深化>のためにも社会的「間主観性」(最大公約or最小公倍的射影)を同定し保持する記録・ドキュメント、および絶えざるコミュニケーション(生命と共に歩む、理念と記憶を持続させる作業)の非常に重要な意義が十分に理解できるはずだ。

◆『情感の現象学』の共同体論/“M.アンリの現象学”の特質 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109 

因みに、19世紀米国の哲学者・論理学者・数学者で、かつプラグマティズムの創始者として知られるチャールズ・サンダース・パースの結論は、<人間の知識とは社会的なものである>ということだった。これは、米国思想に対する彼の最も偉大な貢献である。なぜなら、「ヒトの心は、どの心も異なった仕方で、それは同じ心でさえも、異なった瞬間に事象を映し出すし、又それは同じ時間だけ同じ状態に止まってくれる訳でもない」からである。(出典:ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』)

また、このような視点から見ても、常在的にシロをクロと強弁しつつ記録文書や証拠ドキュメント類を次々に廃棄・隠蔽し、又はデータ類を改竄・偽装・捏造し続ける(具体的には“PMメモ”なる官邸発の怪文書を徘徊させることで官僚らの現場へ圧力をかけ続ける)安倍内閣の政治手法(小児的な安倍晋三氏の恐るべき資質上の欠陥 “耐性の欠如”に起因する/別に言えば、この世界(社会と自然)には自分が想像する以上の耐性があるので何でも自分の思い通りになると勘違いしていること!)は余りにも異常だ。理想の「リベラル共和」(関連で下記★を参照乞う)とまではいかなくとも、いやしくも民主主義国を名乗る日本政府がやるべきことではない。

★あるべき必然の流れとしてのリベラル共和主義へ(H・アレントフーコーのノモス・エトノス観念)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713 

因みに、上で観察してきたことに鑑みれば、安倍首相の“PMメモ”方式での<証拠ドキュメント類を次々に廃棄・隠蔽し、又はデータ類を改竄・偽装・捏造し続ける>という、ひたすら権力維持だけが目的の異常な行為は、言ってみれば、日本国民の未来の可能性の殆ど全てを破壊するに等しい蛮行であり、万死に値する犯罪に他ならない。いずれ、このままでは日本が予期せぬ根源的な超リスク(自然災害のみに非ず!)に襲われるのが必定である。

4 今に繋がる日本型「構造災」の系譜、勝者「独裁」ご用達の「錬金術」で満足する『日本型テクノストラクチュア』のジレンマ

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論文数1、2

・・・それは、明治維新政府が罹患した「政治的な勝者が敗者へ、制限された主権を与えるべきとする倒錯エセ民主主義(ダミー市民宗教/顕密二元論=天皇の“密教的な政治利用”)の異常観念(これは、決して“思想”に非ず“他へ、その受け入れを強いるイデオロギー”)」(リベラル共和“思想”の対極)の落とし子・・・

4−1 『臨機調事件』を端緒として“戦前〜戦後(高度成長期)〜現代(3.11フクシマ第一原発過酷事故)”へと引き継がれた『日本型テクノストラクチュアの欠陥』

<注>テクノストラクチュア(technostructure)は、J.K.ガルブレイスが『新しい産業国家』 The New Industrial State (1967) で用いた言葉であり、国家経営または大企業経営の実際上の意志決定に参加する実力者の一群を指す。

一般に日本型の「構造災」といえば、それは<太平洋戦争の開戦間際に起こった『臨機調事件』を端緒として“戦前〜戦後(高度成長期)〜現代(国策原発→3.11フクシマ第一原発過酷事故)”へと引き継がれた『日本型テクノストラクチュアの欠陥』>を指す。

この問題は、松本三和夫氏(東大教授/科学技術社会学者)が著書『構造災、科学技術社会に潜む危機(2012)』(岩波書店)で初めて取り上げている。以下は、同書の要点を参照しつつ私見を加え、重要と思しき点を纏めたものである。

・・・

「3.11フクシマ第一原発過酷事故」の引き金は千年に一度とされる大地震であるが、日本伝統の構造災という観点から見れば、原子炉の本源的脆弱性が根底に潜むと言う意味で、この悲惨な過酷事故には、矢張り、それは起こるべくして起こったと見なすべき前史がある。

それが、「臨機調事件」(臨時機関調査会事件)と呼ばれる、1938年8月に竣工予定の最新鋭駆逐艦の主要タービン翼折損事故であり、具体的には「艦政本部式タービン翼折損事故」と呼ばれている(その艦政本部式タービン(艦本式タービン)の詳細はコチラ⇒ http://urx.nu/3KrK )。

この前代未聞の大事故は、太平洋戦争開戦が間近な1937年12月29日に起こった。軍国主義時代の軍事技術は最大限の人材、情報、資材、予算が投入されるが、何よりも当時の戦いにおいて特に開戦直後の戦況の方向性を決める最新鋭駆逐艦の建造であっただけに、その特徴は「最重要国策である故に予算が戦時国債を裏付けとする青天井」だったという点にある(コレは、どこか今の安倍政権が煽りたてる時の政治・経済手法に似ているではないか?苦w)

1938年4月1日・制定『国家総動員法・第二条/(昭和13年法律第55号)』で、動員対象のトップに位置付けられたのは軍艦で、その中でも最新鋭かつ高性能の機動力を求められるのが駆逐艦であった。そして、ともかくも国際的緊張が高まる中での開戦に備える切り札でもあり、かつ日本の独創的開発であると自負してきただけに、艦政本部式タービン事故は開戦直前の日本にとって非常に深刻なものとなった。

それは、この時に日本海軍で標準化されたタービン技術の事故は、他のどの艦船でも起こり得ることになるからであり、事実、同年12月29日から4日間の内に、同型艦の5隻で同様の事故が連鎖的に発生した。しかし、おざなりとも言える責任者の懲罰だけで決着がつけられ、現在に至るまで、当事件の顛末についての詳しい調査は殆ど行われてこなかった。

この「開戦直前の時であったことを理由に隠蔽された大事故」が紛れもなく日本型の伝統「構造災」の典型であることは、以下の三つの事実(問題点)が明快に裏付けている。しかも、これらの点が余りにもフクシマ(3.11フクシマ第一原発過酷事故)の問題点とソックリであることに驚かされる。

●秘密主義・・・注目に値するのは、海軍史上で最悪とされる別の「第四艦艇事件」(関連参照⇒ http://urx.nu/3KrY )が帝国議会・議事録に遺されているのに、当事件だけは帝国議会へ報告された形跡が一切ない(松本三和夫氏が調べた限り、議事録に遺されていない/削除か?)。

●想定に基づく対症療法の増殖(これが技術対応上の最大の欠陥)

●間違った先例の踏襲による、事故原因の隠蔽と先送り・・・政権関係者の内側で、真の原因とされる事実が一応確認されたのは、対米開戦から1年半近くが経過した1943年4月であった。

この「臨機調事件」に関わる深刻な問題はそれだけにとどまらない。終戦後の日本では、敗戦への反省から「平和文化の重視」と「科学技術振興による新国家づくり(高度成長へつながる目標づくり)」が目指されることになった。この目標そのものに間違いはない。

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原子力マフィア1、2

問題は、<その“余りにも邪悪”な目標づくりに資する重要な経験>として<戦前ないしは戦中に形成された実に信用ならぬ、欠陥テクノストラクチュアが主導する日本型“構造災”のプロセス>が形を変えて、戦後から現代へ繋がる過程へソックリ引き継がれてきた、という点にある。

このプロセスが、今や再び、ポスト・3.11フクシマのアベ自民党政権によって、バカばかしくも“実に見事!”に、労働法制の改悪(オランダモデル(参照↓▲1〜2)と真逆の、“働きかた”を偽装した“働かせかた改悪への途”の設計!)と相まって復元(取り戻)されつつあるかに見えるのが不気味だ。しかも、自覚がない?多数派の国民層は政府の為すがままに身を任せているかにさえ見える。

▲1 アベの<働かせかた改革>ではなくオランダ・モデル<働きかた改革>に学ぶべき1 ☞ 「パブリック」には適切な定義も和訳もない?日本は「公私二元論」の国【長坂寿久氏×武田隆氏対談1/D.オオンラインhttp://diamond.jp/articles/-/156818 

▲2 同上2 ☞ 日本の「働き方改革」は本当に正しいのか?オランダの成功から学べること【同上】http://diamond.jp/articles/-/159480 

4−2 今に繋がる『欠陥“日本テクノストラクチュア”』の淵源・・・加藤弘之井上哲次郎、山川健二郎ら“忖度&欺瞞アカデミズム”の問題

それは、おおよそ「幕末期」頃から列島へ徐々に浸透していた欧州啓蒙思想の核心である「ルソー市民宗教」への対抗軸の構築を目的として、明治維新政府の中で権力を掌握した一派が内政における自らの体制固めのために着想した純日本型「ダミー市民宗教」の問題である。そして、明治維新期〜戦前期にまたがり、政界と日本テクノストラクチュア、および一般国民層へ大きな影響を与えた<学界アカデミズムの巨頭>と呼ぶべき学者たちが存在した。

<注>ルソー市民宗教について

・・・「ルソーの市民宗教」は、ルソー<社会契約論>の中で「立法者(それが“主権者たる国民”の意味)の対立項(市民宗教の神)」とされる概念(いずれもJ.J.ルソーに因る)である。因みに、驚くべきことだが吉田松陰、井上 毅らもある段階でその「立法者」の意味に自生的に気付いていた可能性が高い!また、フランス第三共和国の時に渡仏した井上 毅は、おそらく教育勅語を自ら書く羽目となったことに大きなジレンマを感じていた節がある(関連⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107)。それは、その井上が後のライシテの先駆けとなるフランス型の“より厳格な政教分離の観念”にも気付いていた節さえあるからだ。

・・・伊藤博文ら明治20〜30年代の権力者らは、日本伝統の国民性を強化し、かつ幅広い共感力の基盤として新しい政治体制の中枢へそれを確実に組み込みたいと思い、この「ルソーの市民宗教」を意識しつつ国家神道の創造に基づく新たな天皇制の定着化(顕教としての天皇信仰、および密教たる“天皇の政治利用”技術の確立)を図った。つまり、それがダミー市民宗教の着想であり、その具体の形が「顕密二元論システム」(教育勅語がその技術の中核)なる実に巧妙な戦略であった。因みに、この方向への着実な進行を謀る過程で先行したのが廃仏毀釈と呼ばれる仏教破壊の扇動である。

・・・そもそも、「ルソーの市民宗教」には、大革命後のプロセスでロベスピエール「理性の崇拝」などに因る大混乱が観察されるとおり、その概念の曖昧さというアキレス腱(欠点)があったが、一方で、多くの人々が結束し共和するために何等かの宗教的な、あるいは精神的な培地となる概念的、情念的な空間が必須となるのも現実である(この点は、クワイン(米)のネオ・プラグマティズムと共鳴するところがあり、興味深いが『エピローグ』で後述)。

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苦悩1、2

・・・このため、井上 毅(中江兆民との交流、そして第三共和政憲法・時代のフランスへ留学・見聞の経験もあり、フランス流“政教分離”の意味に気付いていた節がある!)らは激烈な苦悩を経て“万世一系の皇統”(天皇信仰)を市民宗教の「座」へ据えたことになるが、所詮、それはダミーであり、やがてそれは雌伏していた『新論(国体論)/会沢正志斉』、平田篤胤『顕幽論』らに回収され、遂には神国日本の暴走へと変質した。

・・・

なお、複雑な抗争プロセスを制し、結局、明治期の権力を掌握した政治勢力を単純に薩長一派だと見なすのは、却って、現代の安倍政権にも繋がる<「幕末期」から「維新期」にかけて隠蔽されてきた白日(列島で自生した普遍観念)の問題>の所在を見えにくくする可能性が高い(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107、および当記事の“第2章:隠蔽された『吉田松陰の白日』の問題”)。 

ところで、ここで言う「ダミー市民宗教」とは<『明治十四年(1881)の政変』で勝者側に立った明治政府の策謀の賜物である。つまり、それは“幕末期における吉田松陰ら草莽の獅子らの苦闘から芽生えた“自生的な『国民主権』意識”を隠蔽するものとして着想され、それを伊藤博文(内閣制度の創始者にして初代総理大臣)が黙認したと思われる(密教的な“天皇の政治利用”)>のことだ。

因みに、当時の日本政府は国内では「大」日本(“大”日本帝国憲法)で国民層を威圧する一方、対外的には東アジアで初の民主主義憲法(伊藤巳代治・訳『The Constitution of the Empire of Japan』)を詠いつつ、その実は “顕密二元論による皇国日本の支配システム”を隠蔽していたことになる。伊藤博文は、この事実を敢えて無視していた可能性が高い。 

そして、この「顕密二元論システム」(密教的な“天皇の政治利用”)が戦前〜戦中期の<国家総動員体制>を効果的に演出したことは周知のとおりである(関連参照↓◆)。

◆明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学アカデミズムの土壌http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107 

・・・

ところで、“構造災”史の概観で先ず分かったのは、技術段階での構造災の三要素、「秘密主義、想定に基づく対症療法の増殖、間違った先例の踏襲に因る事故原因の隠蔽」が戦前において既に存在したことであるが、更にそれを<より重篤なシステム構造災>へ濃縮する政・官・学・財(民)の戦前・戦中期の“官民”馴れ合い(より正確には“恫喝⇔忖度”)方式までもが、そっくり<戦後日本の経済発展プロセス>へ引き継がれてきたのであった。

それは、「上位下達の国策を掲げる科学技術総動員の目的で設立された技術院(1942.1.31−1945.9.4/1942(昭和17)年1月31日に勅令41号をもって設置された科学技術行政機関)の内側に「構造災の三要素」が潜んでいたのは明らかであるからだ。

そのため、国策<隠蔽>の至上命令に資するための悪知恵として「修正・交渉・調整の過程で利害関係者の総意が当初の理念から程よくかけ離れた地平で骨抜きにされる精妙な偽装政策の仕掛けを創り、仕込むために有効な政官学財民に跨る運用経験」が、戦後の「高度成長期」〜現在の安倍晋三・政権に至る日本の行政プロセスで熟成されてきたことになる。

それは、輝かしき『日本テクノストラクチュア』の伝統と呼ぶには余りにもお寒い限りであるが、「勝者たる最高権力者が右すれば右へ、左すれば左へと、いとも容易くなびく、科学技術ならぬ“忖度”方式の日本錬金術」とでも呼ぶべき、おぞましく魔術化した「科学技術のあり方に関わる異様な伝統」である。

アイロニカルに言えば、それは時代を遥かに先取りした日本型コンシリエンス(人文・科学両知の融和的統合(consilience)関連参照↓★)の殆どカルト信仰的な、別に言えば「ダミー市民宗教」の成果であった、とも言えるのではないか?(苦w)

★客観「知」を心底で憎む追憶のカルト(日本会議が守護霊の安倍政権)、その靖国『顕幽論』是非の意識が日本の命運を分けるhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104 


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以下では、“人文社会・科学”両知の領域を越え『日本テクノストラクチュア』の伝統に大きな影響を与えた、そして明治期におけるこの悪しき伝統のスターター(始動用電動機)の役割を果たした代表的な人物として、今も日本の科学技術アカデミズムに影響力を及ぼす加藤弘之、井上哲次郎、山川健二郎の三名を取りあげておく(そのプロフィール描写の情報については、中野良平『幕末的思考』(みすず書房)から主なヒントを得た)。なお、彼らの多くが東大アカデミズム関係者であることから、あるいは“東大バカ論”なるあんちょこなドグマに誘われる向きがあるかも知れぬが、それは明治維新期の“白日”隠蔽の責任を薩長一派論で一括りして“真犯人”を取り逃がす短絡と同轍である。だから、過激陰謀論に与しないのと同意でその類の論を張るつもりは毛頭ない。又それは、何らかの意味で我われ末端の一般国民が、その“バカな東大アカデミズム”信仰なる空気のお零れを紛れもなくありがたく頂戴している“バカの仲間である”ことが現実でもあるからだ。どのような類の人間だ!と相手や特定集団を揶揄しようが、所詮はみな同じ人間なのである。

牽強付会自然科学の論理で天賦人権論を否定しつつ『ルソー社会契約論の思想』を帝国大学アカデミズムの名で葬り去った初代東大総長・加藤弘之)

まず、帝国大学令が1886年(明治19年)に公布されたことに注目すべきである。これによって1877年(明治10年)創立の東京大学(事実上、(1)開成学校と(2)東京医学校の連合体)が同令に基づき「(東京)帝国大学」へ改称された。なお、開成学校は明治時代初期に東京府に設立された文部省管轄の洋学研究・教育機関で、その源流は安政4年(1857年)に江戸幕府が新設した蕃書調所(直轄の同上機関)である。

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この時、東京開成学校(法理文三学部)の「綜理」(医学部綜理は池田謙斎)であった加藤弘之が初代東京大学「総理」(後の総長に当たる)となっており、そのため加藤が事実上の初代東大総長(学長)とされている(加藤弘之の画像はウイキ)。

ここで想起すべきは(関連後述)、帝国大学令・公布が「明治十四年(1881)の政変」の後に大日本帝国の骨格として成立したプロイセン・モデル官僚体制(幕末〜維新初期における“主権”闘争の“勝者側”公式論理)の定着と共に、事実上、戦前日本の「ダミー市民宗教」である「顕密二元論システム」の着想がほぼ同期して出現したという歴史的「事実」である。

具体的に言えば、その“勝者側”の公式論理(特異イデオロギー・皇国史観に因る)とは「“勝者側”が設計したシステム護持は“善”、それを根底から厳しく批判し転覆を図るものは“悪”と決めつけるイデオロギーの体系化」である。因みに、一般に思想とイデオロギーは同義として殆ど問題はないが、厳密に言えば勝者側(or敵対する双方)の支配的「思想」はそれが敗者(敵対者)側に教条的に強制されがちとなるので、その意味で思想とイデオロギーを使い分ける立場がある。従って、終戦時まで日本を一色に染め尽くした「顕密二元論システム」(密教的な“天皇の政治利用”)はイデオロギーと呼ぶのが適切である(この点も、クワイン(米)のネオ・プラグマティズムと共鳴し、興味深いが『エピローグ』で後述)。

そして、初代東京大学「総理」加藤弘之は、そのような「顕密二元論システム」イデオロギーの奔流の中でも特に「自然科学系学術用語・用法」に関わる公式の厳密な定義で<勝者に対する敗者の不可侵性>を、言い換えれば<天皇に対する臣民の不可侵性>を規定することに貢献した。そもそも加藤は旧出石藩(いずしはん/但馬国の藩、現在の兵庫県豊岡市)の兵学指南の家柄で徳川政権に忠実に使えていたが、同時に佐久間象山に洋学(蘭学・自然科学・啓蒙思想など)を学んだ知識人でもある。

維新後、その才能を見込まれ明治政府の官僚となった(一回目の転向!)加藤は、著書『人権新説』で、それまで肯定していた<天賦人権論>を全面否定(180°転換/二回目の転向!)し、外来のダーウイニズム進化論、又は優生論(但し人種改良の必要性は認めたが白人優生には反論)を口実とする<優勝劣敗に因る権利発生論/勝者側が敗者へ賦与するのが国家主権だとする不可解なイデオロギー>を発表し、「顕密二元論システム」を推進するため「ルソー社会契約論の思想」そのものを帝国大学アカデミズムの名の下に葬った。

(“観念論”創始者の名の下に牽強付会なダミー市民宗教たる「顕密二元論」を自然科学も視野(現象即実在論)に入れつつ遍く国内に定着させる役割を担った東大教授・井上哲次郎)


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初代東大総長・加藤弘之と同じく、帝国大学アカデミズムの名の下に明治政府の「顕密二元論システム」を国中に普及し、それを定着させるための露払い役を担ったのが東大教授・井上哲次郎である。つまり、井上は体制側イデオローグとして明治政府の道徳主義(顕密二元論システムの論理)の思想界での役割実行を率先した人物である(画像はウイキ)。

一方、井上は、欧米哲学の多くを日本に紹介し、帝国大学において日本人として初めて哲学の教授となり、かつ新体詩運動の先駆者としても貢献しており、哲学用語「形而上」(メタフィジカル/Metaphysical)の初訳者としても名高い。従って、その欧米哲学に関わる啓蒙家としての側面は高く評価すべきであるが、国体的宗教論と国体護持の政治潮流に飲み込まれたというか、自ら率先してそれを鼓舞する方向へ傾斜したと見るべき人物である(参照↓▲関連資料)。

▲井上哲次郎における宗教と国民道徳/哲学的宗教・倫理・国体http://repository-old.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/58444/1/B17871_summary.pdf

加藤弘之が「自然科学系学術用語・用法」に関わる厳密な公式の定義で<勝者に対する敗者の不可侵性>を、つまり<天皇に対する臣民の不可侵性>を規定することに貢献した(いわば“密教”に関わる国民の具体的活動である産業興隆の側面の強化を分担した)のに対し、井上哲次郎は「道徳用語」の分野で、その役目を果たした。いわば“顕教”に関わる国民の文化的な側面の強化を分担したと言える。  

(同じく牽強付会な論理の下で、現代の安倍政権にまで繋がる“富国強兵”目的の錬金術”、国策「科学技術」を定義した九州帝国大学初代総長・山川健次郎

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結論を先に言ってしまうなら、今の日本でも、自然科学アカデミズム(特に科学技術)が、例えば安倍政権の如き「偽装極右」権力の<“愛国”を騙る富国強兵政策なる国策「錬金術」への迎合・忖度の要求>という異常なポリシーに対し殆ど頭が上がらないのは山川健次郎の伝統下にあるからとさえ言える(画像はウイキ)。

山川健次郎は明治から昭和初期にかけての物理学者、教育者であり、会津藩時代は白虎隊の兵士として明治政府と「戊辰戦争」を戦った経験がある。が、戦後は維新政府に才能を認められ国費で米国留学をしており、そのあと東京帝国大学に登用され(日露戦争の時には既に東大総長)、更にその後は九州帝国大学の初代総長に就いている。

この山川については、<「戊辰戦争」に敗れ敗者となった壮年期以降には、会津藩に対する当初の忠誠心が勝者たる国家(維新政府)への「愛国心」へ一気に転じ、日露戦争の時には既に東大総長であったにも関わらず、陸軍に対して「一兵卒として従軍させろ!」と山川自身が押し掛けたという>異様なエピソードも残っている。

それは、“生涯にわたり自分は考え方を首尾一貫させた”(山川浩(健次郎の兄)の著書『京都守護職始末』の中で健次郎・本人が語っているとされている)と固く信じ切っていた健次郎自身の論理には<敗者の復権と引き換えに勝者への強い依存を深めざるを得なくなるというパラドクス>が宿っていたからだと考えられる(出典:中野良平『幕末的思考』)。要は、山川も加藤弘之に負けず劣らずの“ジコチュー型の変節の人”であり、現代風に言えばサード・オピニョンの視座が眼中に一切なかったことになる。

かくして、山川健次郎は総力戦としての第一次世界大戦が始まると、挙国一致の国防体制(特に国策科学技術の必要性)を熱心に説き、大正期のリベラル・民主文化はダミー市民宗教「顕密二元論」にとって危険と見なし、大正末期以降は「国本社」(極右団体/会長=検事総長・大審院院長の平沼騏一郎)の副会長として「教育勅語」を讃え、「忠死」や女たちの「殉節」(節操のため率先して死を選ぶこと)も語るようになっていた。これこそがストレートに日本会議や安倍晋三・首相の“異次元的で面妖な穴クロ価値観”に繋がっているのではないか?と思われる。余談だが、このような意味でも「長州派Vs会津派なるネトウヨ・レベルの内ゲバ闘争」が観察されるのは奇怪かつ笑止である。

(エピローグ)“日本型構造災”克服のため、特に国民が覚醒すべき<ホッブズを超えた「敗者の論理」(エトノス観に因る限定合理主義)>の意義

・・・現下の<アベ問題=戦前型“偽装極右/追憶のカルト”の再来>に潜むもの、それは兆民、諭吉、透谷、漱石らが発見した、<勝者の論理に潜在する「耐性の欠如」が助長する「構造災の膨張」>という恐るべき超リスク・・・

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讒謗律1、2

西郷隆盛「征韓論」の真意の解釈に関わる議論の決着はついていないので、それはともかく置くこととすれば(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107 )、「明治六年(1873)政変」 のあと、維新政府が讒謗律と新聞紙条令で新聞の口封じと国民の目隠しを謀った歴史があることを先ず想起すべきだ。

これは、勝者たる維新政府の主流派が、西郷の「征韓論」を力づくで抑え込んだため政府首脳である参議らの半数と軍人、官僚約600人が職を辞した、後の「西南戦争」(明治10年(1877))の原因となった事件であり、同戦争で敗れた西郷らは政争の敗者であることが確定したが、問題は、それに止まらない。それは、この事件こそ<政府内の政策論争の勝者が寛容な「思想」ではなく、「特定イデオロギー」で政敵と国民一般を軍事・官憲力を使ってでも強権的に折伏し制圧するという戦前日本政治の悪しき伝統>の嚆矢となる事件であったからだ。しかも、何を血迷ったのか?安倍政権は、目下のところこの“戦前日本の悪しき伝統”の取り戻しに必至である。

そして、そのような強権政治の第二弾が「1881年(明治14年)の政変」であり、それによって吉田松陰らによる血みどろの努力の中から奇跡的に自生していた<「白日」(普遍)の発見という歴史事実>が巧妙に隠蔽され、代わりの「ダミー市民宗教(顕密二元論)」を掲げることで、恰も当時の日本で理想の先進的な民主主義制度が実現するが如く偽装した歴史があったことは、既に書いたとおりであ。

他方、この「政敵と国民一般を軍事・官憲力を使ってでも強権的に制圧するという戦前の日本政府の政治手法」に対し、政治哲学、政治思想、芸術・文学活動などの各分野で熱心な批判活動に傾注したのが、中江兆民(明六社での人権思想普及活動、政権中枢の井上 毅らとの交流努力)、福沢諭吉(“瘦せ我慢の説”で人権論を展開)、北村透谷(政治権力者による優勝劣敗(格差必然論)を一種の御都合主義!と見抜いた)、夏目漱石(維新政府が主導する文化政策の軽薄さを作品で厳しく批判!)らである。

ところで、彼らに共通するのは、主権者・一般国民に必須の「感情の政治学」の発見ということだ。言い換えるならば、それは“思想とイデオロギー(勝者側の圧倒的で激烈な一人ヨガリ感情の敗者への強制、つまり被支配者側に対する一方的、又は独裁的なそれの押し付け)は異なる!”という「厳然たる目前の現実(リアリズム)」についての<一般国民レベルの共有感情に基づく気付き>である。

ヒトラーにせよ、スターリンにせよ、安倍晋三にせよ・・・<余りにも理不尽でホッブス的な暴力闘争の渦の中での勝者の一人ヨガリ感情に囚われた異常論理>に共通するのは<「耐性の欠如」と、「格差(優生学的な優勝劣敗)を当然視」する非科学的な意味での致命的欠陥が潜んでおり、戦前の日本では、それが<ダミー市民宗教たる「顕密二元論システム」(密教的な“天皇の政治利用”)>という圧倒的な一強支配イデオロギーの形となり日本全体を支配し、日本国民を無謀な侵略戦争へと煽り立てた。

そのような意味でのアナクロ感情による支配体制を取り戻そうとする安倍晋三、日本会議らの暴政へ対抗し得るのは一般国民の覚めた私的感情(維新政府が隠蔽を謀った水平的な共有感情に因る主権者意識)と、<江戸プロトモダニティー等の伝統文化に関わる再評価に基づく正統保守の価値観こそが欧米リベラル共和主義と共鳴するという確固たる自律思想(イデオロギーに非ず!)の発見!>ということである。

Cf. 真っ赤な嘘と傲岸不遜の塊が安倍の正体!その恐るべき資質上の欠陥<耐性の欠如>こそ前代未聞の国難!https://www.evernote.com/shard/s440/sh/097b3564-35cd-4813-b2b7-9026e3c9ab17/66843b8e7c83f6a6b0fcf9d5b8bb5d9a  

・・・歴史経験と文化の積み重ねだけから学び得る寛容(トレランス/宿命的な魔性の封印・制御)については、リベラル共和を成熟させてきたオランダ・ベルギー(旧フランドル)の歴史に学ぶべきだということの再発見が重要だがhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080127、実は、アメリカにもその大きな可能性が潜む。それがコンシリエンスとエトノス観に基づく一種の限定合理性(ネオ・プラグマティズム)への気づきということ!・・・

イデオロギーの押し付け合いを巡る「戊辰戦争」的な意味での抗争(これまで述べてきたとおり、明治維新政府は“戊辰戦争が実は国家主権(ここでは単純に勝者を意味するものではなく、リベラル共和、天賦人権論的な意味での主権者の意味!)を巡る激烈な抗争であった”)の歴史は、<ダミー市民宗教「顕密二元論システム」(密教的な“天皇の政治利用”)>を創造した日本史だけの専売特許と見るのは誤りである。

それは、例えば19世紀半ば(ほぼ日本の幕末期ピークの頃に重なる/1853ペリー来航、1858日米修好通商条約、1858−59安政の大獄)のアメリカでも、事実上、当時のアメリカの勝者の立場(北部が名実共に勝者となるのは、米国史で最大の62万人の戦死者を出した南北戦争の後だが)であった「北部」の内部にも“近未来の合州国の主導権を巡る抗争が、いわば「主に経済的な理由で南部・奴隷制を支持する一派」と「それに対峙する反対(連邦主流)派」による激烈な分断の結果としてのイデオロギー抗争があったからだ。

因みに、南北戦争から約70年後に世界経済恐慌が起こり、それから約80年後にリーマンショックが起きている。更にその10年後、南北戦争から約150年後に当たる今のアメリカではトランプ大統領の下で、恰も南北戦争のデジャヴの如き一般国民の間での「分断」が起きており、その背景は全く異質ながら、幕末の終焉(明治維新)から150後の日本でも<アベ一強なる「ダミー市民宗教/異常イデオロギー顕密二元論」の取り戻しを謀るアナクロ権力>を巡り、一般国民が深刻な「分断」の脅威に晒されている。

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「幕末的思考」(みすず書房)の著者・野口良平氏が中心となり翻訳したルイ・メナンド著、野口良平・那須耕介・石井素子訳「メタフィジカル・クラブ」(2011刊、2001原書/みすず書房)という注目すべき本がある。これはルイ・メナンド(英米文芸・言語学、ハーヴァード大教授)の初邦訳であり、『思想は決してイデオロギーに転嫁してはならない』という重要な殆ど経験的な信念の提示である。つまり、それは「南北戦争」への反省(クラブメンバーが身近に見聞した“過酷な戦争のリアルに対しては如何なるイデオロギーも無力で無意味化する”ことへの気付き/米国民としての二次的な“普遍”の気付き)に立脚し、若き哲学者たちが興したプラグマティズムの思想が、いかにして米国精神の礎石を築きあげたのかの緻密な論証と描写となっている。この本は米国研究の要であり、ピューリツァー(歴史部門)賞を受賞している。

監訳者の野口良平氏によれば、これは「広い意味での形而上学(メタフィジカル)への批判」(このクラブの名は形而上学を客観視する目的で付けられている)―既存のイデオロギーやアカデミズムのあり方の検証−への志向であり、それは言い換えれば「人間同士の感受性や価値観の違いと、お互いの自由への顧慮」を最重視すべきであり、“これは一般的に常識化しているプラグマティズムの理解とは異なり、それは目先の実用主義や産業・市場原理主義とも異なる一種の『エトノス環境』観(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109 )に基づく限定合理主義の立場ということ”である(“・・・”の部分は野口氏の直接的な言及ではなく、toxandoriaが解釈的に補足したものである)。

<補足>無教会主義の先導者であるエマソン(19世紀米国の哲学者、作家、詩人)がプラグマティズムに影響を与えたとされるが、無神論とも見なされることがあるエマソンの超越主義(真理は直接自然から体得できるので神は真理を明らかにする必要はないとする)はアニムズム、or現代風に言えばエトノス観のジャンルにも見える。

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ルイ・メナンド「メタフィジカル・クラブ」が指摘する内容との絡みで、いま最も注目しているのはW.V.O.クワイン(1908−2000/米国の哲学者・論理学者で、20世紀の哲学者の中で最も影響力のある人物の一人)のネオ・プラグマティズムであるが、残念ながらスペースの限界で、その委細は又の機会とする。代わりにクワイン哲学のエッセンスと見るべき内容を以下★に記す(クワインの画像はhttp://www.kyotoprize.org/laureates/willard_van_orman_quine/ より)。

★クワイン哲学の最も肝心な部分を記述した“くだり”があるので、中山康雄著『科学哲学』(人文書院、p88)から下に引用・転載する。委細は省くが、この非常に謙虚で、かつ融通無碍(“オバートンの窓” http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109的な意味で)なクワイン哲学(そのネオ・プラグマティズム)の核心は、「ルソー市民宗教の欠点」(関連⇒(1−2))を補う可能性があるのではないか?とさえ思われる。・・・《この全体論のイメージを提示する際に、クワインは次のようなメタファーを用いている。すなわち、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る私たちの知識や信念の総体は「周縁部(フリンジ/fringe)でのみ経験と接する人工の構築物」ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされるのである。この描像の下では、理論(あるいは“思想”としてのイデオロギー)と合致しない観察結果が得られたときに生ずるのは、なんらかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分なのであり、そこには多くの選択の余地があることになる。(言い換えれば、本物の“思想”は無限の可能性が絶えず拓ける状態にあることになる!←補、toxandoria)》

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<補足1>W.V.O.クワインの「要素還元主義」批判に基づくネオ・プラグマティズム

・・・自然における階層性を認めたとすれば、上位階層で成立する基本法則とそこに用いられる基本概念は、必ずそれより一つ下位の階層において成立する基本法則および基本概念に翻訳あるいは書換えが可能であると考える立場(デジタル階層性と異なる点に注意!/出典:http://urx.nu/7qAh )。

・・・そこで、まずクワインは「具体的経験とアプリオリ命題」で現実を完璧に分析できるとする手法の限界を指摘する。次に、数学と論理学の厳密な体系の上で真実の姿をただ一通りに捉えることはどんな認識・言語をもってしても不可能であることを証明し、非常に人間的で謙虚な科学哲学を構築した。

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・・・因みに、論理偏重ではなく、現実(因果)を重視する科学哲学、つまりこのクワインのネオ・プラグマティズムの観点からすれば、日本原子村の傲慢(https://twitter.com/shinkaikaba/status/968198238959382528)のみならず、オランダ(欧州)モデルと真逆の裁量労働制・拡大や高度プロフェッショナル制・導入(いずれもヒト労働力の余りにも単純な道具視であり真のプラグマティズムとは無関係!)、又はシンギュラリティ万歳!(最強の科学技術基盤出現と、到来する前特異点/内閣府経済財政諮問会議:齊藤元章@PEZY Computing/(株)et.al., http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/2030tf/281003/shiryou5.pdf )、果ては日本核武装論までひけらかしネトウヨらを煽り立てる安倍晋三首相のトンデモ日本国家主義を信奉する輩の独善的イデオロギーは、とても近代国家知性主義的態度とはいえず、非科学的・非民主主義的・反知性主義的なカルト、魔術・妖術、高々で幻影・手品師マジックの類以外の何物でもない!)

<参考>トランプ現象で分断化!に見える米国だが、過半超の人々は「メタフィジカル・クラブ」(定説ではなく、ルイ・メナンドが指摘する真のプラグマティズム精神(一種の限定合理主義)に覚醒している!?

◆目玉を自負する税制改革(法人税減税)も不支持が多く、トランプ支持で比較的“高い”と言えるのはテロ対応と僥倖の好況「経済」だけ!「北・財政・移民」ら関連の政策はメタメタ!; Trump Rated Best on Terrorism, the Economy; Better on Taxes Gallup 

http://news.gallup.com/poll/228149/trump-rated-best-terrorism-economy-better-taxes.aspx

◆【トランプ“教師の銃武装による反撃”法整備論(一種のアベに似た狂信観念への遁走)がプラグマティカルに徹底批判されるのは必定!】一方で、近年における銃保有世帯の割合は著しく低下している! ⇒ 米、やまぬ乱射と銃自殺/保有数の削減、一歩ずつ223日経/FT  

https://twitter.com/shinkaikaba/status/967114379236802561 

◆【過半超の米国人は自動運転車に懐疑的!】More than half Americans Hit the Brakes on

Self-Driving Cars/10 million self-driving vehicles will be on the road worldwide by 2020,

http://news.gallup.com/poll/228032/americans-hit-brakes-self-driving-cars.aspx 

◆【ネット上の個人情報保護の新トレンドから取り残される日本!】早くもEUでは、20180525にGDPR(The General Data Protection Regulation)が施行されるが、同様の動きはEUや中国だけでなく米国を始め世界中に広がりつつある。https://www.ipa.go.jp/files/000064473.pdf https://twitter.com/shigejam/status/965026468467126272


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<補足2>【動画】世界トレンドと真逆の「身の程を忘れつつ“デジタル専制”&“出口を見失ったジャブジャブ金融拡大”(AIシンギュラリティ金融工学ほか)へ溺れる儘の安倍政権下で日本が世界で孤立する懸念を論評した注目すべきTV番組!/20180302BS11オンデマンド寺島実郎《未来先見塾》―日米株価乱高下の理由―ゲスト:白井さゆり(慶應義塾大学総合政策学部教授)http://vod.bs11.jp/video/insideout-miraisenkenjyuku/20180302/ 

(Appendix)

当記事のなかで、文脈に応じ折りにふれ参照してきた『幕末的思考』、『メタフィジカル・クラブ』の二冊は、一読しただけではとても汲めども尽きぬほどの非常に豊饒な視野を与えてくれる優れた本である。ので、参考までとして下に“みすず書房”の案内文を転載の形で紹介しておく。

なお、共に“みすず書房”刊であり、前者は野口良平氏の著書、後者はルイ・メナンド著の原書を野口良平・那須耕介・石井素子の三氏が共訳したものである(監訳:野口良平氏)。


・・・

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幕末から明治への列島の歩みは、暗から明への昇華ではない。それは、列強による開国への圧力を前に、尊皇攘夷から尊皇開国への転向とその隠蔽、新政府の正統性の急造を伴いながら、慌しい近代国家建設を余儀なくされる過程であった。しかしそこでは、植民地化への危機感と理不尽への抵抗を糧に、普遍的価値のうえに新社会を構想する思考が、徒手空拳で模索されてもいた。中国や西欧からの輸入ではない、この国に地生えの思考が育まれる契機は、しかし、生みの親でもある対外的「危機感」に圧迫され、皇国主義イデオロギーの席巻という試練のなかで影を潜めていった。帰結の一つは、現在も続く第二極の不在である。

本書は、「明治維新」という事後的な枠を通しては見えてこないその思考――幕末的思考――の系譜を、吉田松陰、中岡慎太郎、坂本龍馬、福沢諭吉、中江兆民、北村透谷、夏目漱石、朝河貫一、中里介山らに辿り、その画期性を歴史の行間にあぶりだした精神史的試論である。松陰の「やむにやまれぬ大和魂」の射程、中岡と坂本の連携を支えた地べたの普遍感覚、私情こそ公的なものの源泉であると見た福沢や、後発近代社会こそが民権論を実践できるという兆民の価値転倒の試み、『こゝろ』で「先生」の殉死に託した漱石の抵抗、介山『大菩薩峠』が描く明治がこない世界――。

彼らの未成の思考を紡ぎ直すこと。その今日的意味の切実さを、幕末の人びとの経験は我々に教えている。

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南北戦争は連邦存続と奴隷解放のために戦われたと理解されがちだが、実際はイデオロギー対立の殺し合いによる解消という側面が強い。62万の戦死者を出して維持された連邦、民主主義とは、一体何だったのか。・・・以下省略/コメント欄へ続く・・・

2018-01-07 明治150年の“あるべき”眼目は江戸プロトモダニティの発見

toxandoria2018-01-07

明治150年の“あるべき”眼目は江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学アカデミズムの土壌/が、今や『詩織さん事件』がその最も肝心の信頼性を崩壊させつつある!


【Cover Image】Claude Monet/The Cart:Snow-Covered Road at Honfieur, with Saint-Simeon Farm.

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・・・c.1867. 65× 92,5 cm Oil on canvas. Musee d'Orsay, Paris, France


プロローグ首相官邸HP「明治の精神に学ぶ日本人の強み」とは何を意図するのか?


・・・明治維新期が近代日本幕開けの一画期であったのは確かながらも、そう単純ではない賛美・礼賛史観、暗黒史観、理想史観などの区別!・・・


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明治維新は確かに「“普遍的価値観”追求」開始の画期であったと見るべきで、「明治の精神」(正体は“立憲主義、富国(経済)政策”確立と植民地・侵略戦争主義の葛藤)を一括りで捉えようとして「明治維新の強み/国民の戦争志向精神への雪崩込み(軍事国家ナショナリズム植民地主義への突入)という戦前期の暴走奔流」だけを高く評価しようとする日本政府の姿勢に違和感!2017年12月30日 只のオッサン@shinkaikaba https://twitter.com/shinkaikaba/status/946872688756252672

・・・@hi_kashi 苅部直氏はグローバル化の現在での国民国家的な維新顕彰の問題点を指摘。むしろ維新は普遍的価値観の追求であったとの指摘は重要 自由、平等こそ「明治の精神」 維新150年、苅部直・東京大学教授に聞く1227朝日、

https://twitter.com/hi_kashi/status/945987278341410816 

・・・Cf.1「明治礼賛」でいいのか 政府は来年「150年記念事業」を大々的に計画20170210東京夕刊・毎日、https://mainichi.jp/articles/20170210/dde/012/010/002000c 

・・・Cf.2「明治150年」に向けた関連施策の推進について(20171104首相官邸)

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/ 


2017/12/6共同通信によると、日中両政府が沖縄県・尖閣諸島などをめぐる東シナ海での偶発的衝突を回避する「海空連絡メカニズム」設置案について、上海で開いた「高級事務レベル海洋協議」で大筋合意した。これは自衛隊と中国軍が接近時の連絡方法などをあらかじめ定めて衝突を防ぐ仕組みで、日中間の最大懸念の一つである尖閣を巡る緊張緩和と日中の関係改善の流れが加速することが期待されると報じられている。


おそらく、これは、「北」問題をさて置くとすれば習近平が内部分断の圧力(“中国近・現代史の特異性”由来=米・日・共和国・民国による、清朝末期いらいの“三つ巴”ならぬ“四つ巴(or五、六つ巴)”の極東地域における植民地争奪戦という過酷な“近代史”の悪しき余韻)を抑制し、外部分断(加害)力の張本人である米国および日本(特に米国)とリアルかつ前向きに対峙する余裕を持ち始めたということかも知れない。


つまり、東西冷戦下の中国(民国、人民共和国ともに)ですら<自らの法治規範モデル>を日本の優れた文化力に求めていた節があること(委細:本文で後述)からしても、今こそ近世における真の極東史を直視しつつ、歴史的な意味での極東諸国の対米警戒(日本でも左右派の垣根を越えて深くこの意識が潜在する)を解く努力に邁進するのが日本の役目だとする下記ブログの指摘は重要である。

 ☞ 北朝鮮危機 日本の役割は「米朝対話」を促すこと1123ブログ・山ちゃん

https://ameblo.jp/kalle2/entry-12327267502.html 


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しかし、安倍政権はこの歴史的事実を完全に無視しており、それどころか更なる国民の犠牲をすら厭わぬ冷酷な態度で隷米(厳密に言えば、“トランプ氏と100%一致!”との物言いで対“米国産軍複合体勢力”盲従=正統保守ならぬ対米盲従の偽装極右)の姿勢を貫いている!

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画像で掲げた本(中村元哉・著『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』―講談社―)の<中国を中心とする近代極東史のエピソード中華人民共和国・成立後の顛末も含む)>は、「今や中国自身をも酷く蝕む共産党一党独裁の弊害」と「今後も含めその軌道修正に貢献し得る日本政治の役割」>を考えさせてくれる。特に「中華民国・中華人民共和国」両憲法と「日本国憲法の憲政観念(厳格な法治観念と“日本国憲法”の平和主義)」が決して無縁でないことが分かり驚かされる。


因みに、民国(中国大陸にあった中華民国/1912〜49)が掲げていたスローガンである五族共和(漢族、満州族、蒙古族、回(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)およびチベット族の五民族の協調を謳ったものだが、そもそも言語も異なる民族の数は遥かにもっと多い)にあるとおり、古来、中国の政治権力には多民族を束ねて統治するという宿命が付き纏っており、それは近代から現代に至る中国でも変わりがない。


例えば、満州人の王朝である清朝を倒し漢人国家を復興する意味の「排満興漢」が清朝支配下の革命運動のスローガンとして使われていた。そもそも清朝成立後の時代のそれは明朝の復活を意味するが19世紀になると漢人国家の復興を期すナショナリズムの色彩を帯び孫文ら革命派の重要スローガンとなった。そして、現代中国でもこの“漢人問題”は潜在すると見るべきである。


古来、「一般に中国では西洋、東洋、中国大陸(自国辺り)を区分する世界観がそれほど強くなかった」(例えば20世紀初頭の中華民国の時代に至るまで中国王朝・中央政府が所管する国家財政は、一部の直轄地を除き伝統的に家政的な性格を持ち続けた)ため、日本のように極端なアジア主義(例えば、田中智学皇国史観と国体思想に基づく日本植民地主義による世界統一の原理として 1903年に造語した八紘一宇の如きスローガン)が生じる可能性は小さかった。


しかし、これは日本と比較しての意味合いであるが、れっきとした漢字文化という非常に優れた基層(古来のオリジナル伝統文化)があったにもかかわらず、日本よりも桁違いに広大な国土と厳しい自然環境の風土、そして多民族から成る中国は国民の過半超を遥かに超える割合で占め続けてきた庶民層(特に農民層)の中から「プロトモダニティ」(“近代民主主義”成立の前提となる高い識字率など)の基本条件を効率的に自生させることは困難であったと見るべきかもしれない。


他方、目下、日本政府は「明治150年」にスポットを当てて日本国民の愛国心とナショナリズムの鼓舞に必死のようであるが、その「明治維新の画期」(西欧的な意味での日本近代化)への水先案内人と見るべき重要な「プロトモダニティ」が存在することを見落とすべきではない。そして、その重要な「二つのプロトモダニティ文化」は、奇しくも、徳川幕府体制下の「17世紀江戸時代」に自生しており、ある意味でこれら二つの近現代日本文化の苗床とも言える前提条件がなければ、あるいは「明治維新の画期」も、後で詳述する東アジア文化圏の中で飛びぬけた存在感を示す日本「法学」アカデミズムの伝統も存在し得なかったのではないか、と思われる。


1 重要なのは維新期に先立つ17C江戸プロトモダニティ、二つを発見すること


1−1 皇室文化を胎盤とする江戸プロトモダニティ


(日本『正統保守』の心髄、美と礼節の絆(江戸プロトモダニティー)の発見)


【画像】江戸の都会的シック(粋)、ほか/江戸期のトビウオ(自覚してシビックな水平に身を置く人々)が跳ねた瞬間/千住酒合戦


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・・・一枚目、歌川豊国『文読む女』はロサンゼルス.カウンティ美術館所蔵、Joe & Etsuko Price Collection(池上英子『美と礼節の絆』が表紙で採用)、二枚目の喜多川歌麿『婦女人相十品 文読む女』は日本切手の図案として採用された作品。


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・・・千住酒合戦図高田與清『擁斎漫筆』よりhttp://urx2.nu/DlQb

・・・これは文化12年(1815/高田屋嘉平が国後島でロシア軍船に拿捕された年)に、江戸のはずれ千住で催された酒飲競技会を描いた絵である。この企画の意図は単純なもので酒飲みの技量を競い只酒を大量に振舞うこと。主催者は「鯉隠居」を自称する現地の俳人(宿屋店主)で、参加者は身分の別を問われず、例えば酒井抱一、谷文晁ら文人ら、あるいは俳人、画家、町人、武士、農民、女性らも参加していた。これは当時の江戸に身分差を越えた経済・社会と文化・教養・趣味の両ネットワークが交差する「水平空間」が存在したことを意味する(出典:池上英子『美と礼節の絆』)。

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ピーター・ノスコ他編『江戸のなかの日本、日本のなかの江戸』―柏書房―によると、J.F.クーパー(1789 – 1851/米国の作家・批評家)は、1838年(ペリーが日本の浦賀に来航する16年前)の著書『平等について』の中で「今や我々は権利の平等を謳う文明社会の住人であるとはいえ、同時に、本質的には個人間に線引きをしていることに変わりがない。つまり、それでもなお我々は“何らかの差異を相互に意識させられており、逆説的に差異と平等を同時に求める矛盾した存在”」なのだと嘆いている(ピーター・ノスコ:カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大教授/日本思想史)。


このことは、イデオロギーや政治制度を超えた<人間社会における逆説の真理>として先ず受け入れておくべきかもしれない。だからといって、この真理は文明の果実を享受する現代の民主主義社会を全否定するものではなく、むしろ肝心なことはそのような前提(その逆説の真理と矛盾)の先にこそあると考えられる。それは、このような観点に立ってこそ初めて民主主義の完成は持続的な永遠のテーマ(油断を許さぬ、そして決して強靭とは言えない)であることが理解されるからだ。


ところで(ここで述べた内容とは真逆の構図となるが)、例えば徳川幕藩体制下の日本でも、「れっきとした封建的身分制の江戸時代」であったにも拘らず<似たような意味での真理を含む逆説>が、いわば<封建制の身分差を超えた水平空間への希求>が存在した。その分かりやすい典型が上の画像『千住酒合戦』の事例である。そして、池上英子・著『美と礼節の絆』は、「その水平空間は江戸期における“弱い紐帯としての公(比較的裕福な庶民層を中心に身分差を越えて自生しネットワーク形成された公)”故の強みでもあった”と述べている。


無論、俳句・和歌・絵画らの文芸や趣味の交遊(交友)関係の拡がりは江戸期社会における公式の見方では劣位の私的領域と見なされていたものの、徳川幕府の分割統治で閉じ込められ分断されていた人々が、こうして私的領域(弱い紐帯の平等なパブリック圏)で結びついていたばかりか、文芸の世界という共通の媒介項によって共通の歴史を持つことになったのは確かだ。


その意味で、日本の文化的・美的イメージは、近代日本の国民国家が勃興する明治維新期より遙か前に、この国の「水平・平等空間(弱い紐帯の平等なパブリック圏)を求める、多数派層の人々の自律的な自己意識」の中心的な受け皿になっていたと言える。これが、刮目すべき「江戸プロトモダニティー」の意義である。


俳諧・狂歌・川柳には「連」と呼ばれるネットワークがあり、江戸・大坂など大都市だけでなく、文人・作家・絵師らをも巻き込むその繋がりは全国に拡がっていた。また、江戸期においてはその根本的な歌風の革新こそ余り見られなかったが、やはり和歌(一般への本格的な普及は鎌倉時代ごろから興り南北朝時代から室町時代にかけて大成された)についても、上は貴族・武士階層から下は農民・町民に至るまで凡ゆる身分層の人々がそれを愛好していた。


ところで、これらの文芸や趣味を支える日本美学の元は「皇室・朝廷文化」にルーツを持つ「伝統美と公的な礼節のパブリック圏」(日本の文化と学芸の両領域における皇室(朝廷)・貴族文化の公的権威を象徴する「有職」に関わる知識・教養・知恵の共有空間)であり、しかも「日本史の竜骨(keel/大公儀のバックボーン、の比喩)」でもある天皇制の根本には、古代期から受け継がれてきた象徴的・美的パブリック圏(日本文化の中核を成す正統保守的な“美と礼節”の象徴)の問題がある。


他方、一般社会における日常的な交際文化(文芸や趣味の領域)について見た場合も、そこにはこの象徴的・美的パブリック圏と共鳴する『江戸プロトモダニティー』の名に値する水平空間が紛れもなく存在したのであり、それこそが明治維新〜現代にまで繋がる日本の近代化・現代化(民主主義化)を準備する非常に良質な胎盤となった。つまり、それは決して幕末〜維新期に準備され、偽装極右派(現在の安倍自民党政権らに繋がる)が上から押し付けた「尊皇愛国テロリズム妄想」(国民主権を否定する天皇の密教的政治利用)の賜物ではなかったのである。


(『江戸プロトモダニティー』、弱い紐帯の平等なパブリック圏の5つの特質)


・・・その「江戸プロトモダニティー」(弱い紐帯の平等なパブリック圏)は、特に下の5つの点において17世紀オランダのみならず凡よそ17〜19世紀頃の啓蒙期ヨーロッパ諸国の市民社会よりも遥かに優れた点が多く見られることに驚かされる(上掲の『美と礼節の絆』より一部分を抜粋・転載し、更に(2)などの内容を若干補足した)なお、ここでは全体スペースの関係から、(3)と(4)以外は項目だけに止めるので、その委細については下記◆を参照乞う。・・・


◆盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている20170518toxandoriaの日記、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 


(1)取引情緒コスト、つまり礼節(civility/市民社会に必須の中間ゾーン)の発見

(2)都会的に洗練された「風流」と「粋」(シック)の出現

(3)特に都市部における驚異的な江戸時代「識字率」の高さ

・・・近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてある程度の推定が可能な、明治初期の自署率調査(文部省年報)が存在する。それによれば、1877年に滋賀県で実施された最古の調査では男子89%、女子39%、全体64%であり、青森県や鹿児島県ではかなり低く(20%程度)、相当に地域格差があったと考えられる(ウイキ情報http://u0u1.net/Dk3a )。

・・・但し、江戸・大坂・京都などの都市部での識字率は寺子屋制度に支えられており、それはかなり高く、少なくとも全体で70〜80%程度(農民層を含む庶民層に限定しても60〜70%程度?)はあったと考えられる。17〜18世紀の欧米の識字率が高々で20〜30%程度であったと推測されるのと比べれば、江戸期・日本の識字率が驚異的であったのは確かだ(出典、http://u0u1.net/Dk3o http://u0u1.net/Dk3r )。


(4)識字率の高さを基盤とする、江戸期の活発な「商業出版」活動(全国規模に拡がった江戸“商業ネットワーク”の下地)

・・・江戸期プロトモダニティーの性格は商業出版産業の隆盛に支えられていたと見て過言ではない。日本最初の営業カタログである「和漢書籍目録」(1666)には書籍2589点が掲載されており、それは徐々に増え続けて1692年には7181点となっている。やがて18世紀には出版業者・販売業者が新しい読者層を開拓したため大衆読者層が指数関数的に拡がり、幕府の公式記録(1808)では江戸の貸本屋数が銭湯の数を超え656軒になっている。

・・・江戸期の商業出版は様々な社会的・認知的ネットワーク群の橋渡しをしたが、特に注目すべきは、そのネットワークが交差し拡大する過程が、現代社会学的な意味での非常に多様なパブリック圏と流通ネットワークを派生的・波及的に創造したことにある。中央集権的な幕藩体制の分節構造に組み敷かれながらも、一方ではそれが「身分差を越えた多様で水平的な文化・市場経済パブリック圏」として全国規模で拡大し、それこそが江戸期・日本の活力源であった。

(5)美的社交の場たる、いけ花、碁・将棋、歌舞・音曲、酒飲み合戦、絵画・浮世絵、古典解読、古書画、古美術、古器物など「水平空間」の創造


1−2 皇室文化からの学びと異質な「自生的に闘い(自律的な戦い方)を記憶する百姓たち」の江戸プロトモダニティ(目安往来物の拡散)


近年における「日本法制史・日本教育(教科書)史」の研究分野の新たな検証と努力で、特に中世〜17世紀の「目安往来物」の役割が看過できないことが分かってきた。そもそも「往来物」とは、中国(唐)伝来の『杜家立成雑書要略』(とかりっせいざっしょようろく/正倉院宝物)を始祖とする、千年以上にわたりその利用が日本列島内の庶民層にまで普及してきた、実際の手紙(交換文書)等を手本とする、漢字での文体表現を活かす文章作成のための教科書のような性質の文書写本である。


つまり、それは多様なテーマの書簡や交換文書が手書き写本の形で繰り返し再生されたものであり、やがてそれが実際に役立つ手書き文字と用語、社会的知識、社会常識などを庶民・農民らの庶民層の人々が学ぶための教材として幅広く利用されるようになっていたことが明らかとなりつつある。


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しかも、特にこの本が取りあげている「目安往来物」(“目安”とは、理不尽な課税・徴税について農民らが作ったお上(諸藩ないしは幕府)への訴状(公正な裁判を求める切実な要望書)の要旨を箇条書きにしたものを指す)の写本の分量が従来知られてきた以上に非常に膨大なものであることが分かってきた(出典:八鍬友広『闘いを記憶する百姓たち/江戸時代の裁判学習帳(目安往来物)』‐吉川廣文館‐)。


つまり、その「目安往来物」の具体定内容は一揆などの裁判事件に関わる訴状・訴訟関連の記録文書などであるが、山形地方・白岩村(現在の寒河江市西村山郡)のそれ(白岩目安)が、その後に日本列島中で普及することとなった「目安往来物」の最初のもの(雛形)であった(これは実に瞠目すべきことである!)という意味で、特に重要であることが分かってきた。


そして、白岩村の農民層らに対する指導者的な役割を担っていた出羽三山、慈恩寺等の修験者・神官・僧侶・関連宗教者・知識人らの存在と役割が注目されており、彼らは渡来系文化(そもそも当地域(寒河江)には、関東(寒川)に居た渡来人が移住し再入植したというグローバル多元文化的な前史がある)を下地としているようだ。


これら知識人・宗教者らは「徳治・法治理念、漢字文化」などに関わる知識(社会的意識の共有化/反権力的な感情マグマの合法的意志への転嫁)を苛斂誅求な取り立てで臨む領主らに対する対抗手段とすることを目論んだ訳だが、彼らの指導を受けた白岩村の農民たちは一揆の武装蜂起やテロによる中世的な自力救済の限界を乗り超えて、日本独自の民主主義の実現へ一歩接近していたことにもなると言える。


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なお、慈恩寺(開山以来、約1300年の歴史をもつ古刹/藤原摂関家、奥州藤原氏との関係があり、そもそもは聖武天皇の勅願で天平18年(746)に婆羅門僧正が開基したとの伝承がある法相宗の古刹であった(現在は天台・真言両宗慈恩寺派の総本山/慈恩寺に関わる委細は下記▼を参照乞う/画像は寒河江市・慈恩寺三重塔(山形県指定文化財))。


▼「慈恩寺」(山形県寒河江市)について、雑感2017/11/03my-evernote

https://www.evernote.com/shard/s440/sh/cbaaeb79-ee40-41e6-a275-4486b17b315b/cf7a44dd59e3be0aaa6c72df2948c8fa


また、彼らはやがて開明を自負することになる、薩長が中心となって仕立てた明治維新・政府(上からの民主制の押し付け)を遥かに先立つ形で人治ならぬ「法治の観念」を当時の庶民・農民および領主ら支配層(最終ターゲットは幕府)へ啓蒙することも意図していたと思われる。このため、やがて、この「白岩目安」を手本(モデル/雛形)とする司法(裁判)による「苛斂誅求な暴政」への対抗の形は新潟、関東、そして全国へと及ぶことになった。


まさに、これは、皇室文化からの学び(美と礼節の絆)をルーツとする「主に富裕な庶民層を中心とする17世紀・日本のプロトモダニティ(近代市民意識の先駆け、芽生え)」(既述/1−1★)とは全く逆ベクトルの「下から上へ立ち昇った17世紀・日本の、もう一つのプロトモダニティ」であった。


いずれにせよ、これら二つの「17世紀の江戸プロトモダニティ」なる両輪の歴史(残念ながら、この様な問題意識は今のところ殆どの日本国民が理解していないと思われるが、その核心にあるのが、先ずもって江戸期における日本人の識字率(文字・文章リテラシー)の驚異的な高さ!であり、そのベース構築で大きく貢献したのが、漢字の伝来いらい遥か千年超の歴史を誇る渡来系(波状的に“前渡りし今来すること”を繰り返した中国、朝鮮)両文化の賜物でもあった。そして、特に17世紀の「白岩目安」を巡る動向(歴史的事実)は絶対に無視できない重要なファクターである、と思われる。


2 幕末の不平等条約を引き継ぐ明治期「外交」の最大“眼目”は平等「万国対峙」の確立であったが・・・


・・・かくて、近隣の中国(清朝)と朝鮮に対し“国威を輝かす国権外交”で先ず臨んだが、先行した列強と平等に対峙するためとはいえ、その露骨な侵略・植民地主義こそが、そもそも誤りであり、後世に禍根を残した・・・

 

(維新期“平等『万国対峙』の確立”の理想 ⇒“植民地・侵略主義”へ変質した契機は西郷隆盛『征韓論』(西郷の真意が何処にあったか?はともかく)にある)


f:id:toxandoria:20180106165823p:image:w300:leftいつの時代であっても、革命、侵略、戦争などを想定しつつ国家権力の側が「国民」の「国家権力による一定の保護の囲みの外へ追い出される不安」を煽るためには、これまでの「政治対象とは明らかに異質だ」と一般国民が感じる、全く新たな具体的かつ作為的な「緊張」が必要になる。


民主国家にあるまじき水準まで酷く歪んだ国政選挙制度の放置、格差&不平等税制拡大、金融財政制度改革の停滞 、経済・ 教育・科学技術・産業・労働・高齢者医療等福祉環境の劣化(例えば、悉く失敗したアベノミクス)、森友・加計・スパコン疑獄に止まらぬ政治・経済・利権が奥深くで癒着・混交する<アベ一強ユガミ政治スキャンダル>の底なしの拡大・・・と今の日本の政治の実相(リアル)は行き詰まりを見せている。


このため、「囲い込まれている安心の感情」はもはや多くの人々に共有されておらず、作家の辺見庸氏が言うように今やこの国が「新しい内戦」下にあるとするなら、権力にとってはまさに「内乱を冀(ねが)う心」(一般国民層の内心の奥深くに沸々と滾り始めたルサンチマンのマグマ)を外に移す必要があり、その「不安」の責任(原因)を新たに転嫁する対象(多数派国民層がヘイト&差別の感情を激しくぶつけるべき)へのニーズが高まる。


そもそも、専制政治であれ民主政治であれ資本主義であれ社会主義であれ共産主義であれ、「囲い込まれている安心感」や「囲みの外に出る(出される)という不安感」を「国民」に刷り込むことさえできれば「統治改革」としては「成功」となる。更に、「囲いを広げる為政者側の邪な野心、例えば安倍政権では追憶のカルト(シュゴシン(守護神)たる日本会議の異常イデオローグ、靖国顕幽論)まで付け加えることができれば「大成功」だ。つまり、「内乱を冀う心を外に移し国を興すの遠略」は国家が国家である限り有効な戦略なのだ。


ところで、「内乱を冀(ねが)う心」というコトバは、1873(明治6)年の「征韓論政変」の直接的契機となった「朝鮮国遣使」問題(日本商人の密貿易を理由に朝鮮側が日本を“無法の国”と呼ばわったことへ、開国直後の維新政府が国威を輝かす国家戦略の大前提下で如何に対処するかが大論争となった/李氏朝鮮は様々な事情等から当時は未だ鎖国状態、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1182871906)に際し、筆頭「征韓」派の西郷隆盛が、太政大臣三条実美に対し、その「征韓論」の意味は「内乱を冀う心を外に移し国を興すの遠略」であると説明したとされる史実(西郷隆盛書簡、板垣退助宛、1873.8.17)に由来する。


当時、明治維新の相次ぐ変革で既得権を失った士族層の不満は爆発寸前にあり(ピークは“ 1874(明治7)年2月‐3月、1876(明治9)年10月‐12月、1877(明治10)年2月‐9月”/明治10年には征韓論争で敗れ下野した西郷隆盛が原因となり西南戦争が起こる)、他方、各地では暴政に対する民衆の一揆も続発していた。


因みに、西郷の真意については諸説があり未だにその決着はついていない。例えば、江戸城“無血開城”での勝海舟らとの交渉・交流から西郷には正統保守主義的イデオロギー(急進的啓蒙の実行は逆効果なので、日朝の夫々の国の伝統と国民の主権を尊重しつつ軍事強化主義へ傾斜せず教育に注力して先ず民心(民度)を高めるべしとの考え方)があったとの説もある。


しかし、少なくとも当時は国内の社会不安がもたらす政府への反発を抑えるため、一人歩きし始めた「征韓論」(西郷の真意はともかく、結局、これが爾後の時代における日本侵略主義イデオローグのルーツとなった/出典:勝田政治・著『明治国家と万国対峙』、関連後述)を利用しつつ、一般国民の不満の矛先を朝鮮へ向けようとしていたのは確かだと思われる。


首相官邸HPの“明治150年”を盛り上げるためか、西郷隆盛を人情噺風味で(?)救国の英雄の如く取りあげる大河ドラマ『西郷(せご)どん』のNHKテレビを筆頭に各メディアがコレぞとばかり西郷どん大翼賛の空気を煽り始めているが、果たして如何なものか?である。


事実上、国際情勢に関する限り当時の日朝両国の多数派国民は盲目同然であった。但し、コレは識字率のことに非ず、特に当時の庶民層を含む日本人の識字率は世界トップクラス!で、それは、(1−1)と(1−2)で既述のとおりである。また、これは日本文化の基層を持続的に固めてきた“歴史的・文化的”な事実(古代いらい波状的に伝来した中国、朝鮮からの渡来系“漢字”文化の賜物)に因るものだ。


f:id:toxandoria:20180106170103j:image:w220:rightなお、このような論点をより実証的に証明・強化し文化に関わる内面の意識から気付かせてくれる優れた著作(添付画像)があるので参考資料として紹介しておく(芳賀 徹著『文明としての徳川日本』‐筑摩書房‐)。ともかくも、国民に正統保守的な観念を根付かせるべきという西郷の秘めたる狙いがあったか否か?という“西郷の真意”に関わる「征韓論」解釈の決着はついていない。


ところで、岩倉具視(京都、公家/内務優先を唱え征韓論に反対の立場)、大久保利通(薩摩/ 初代内務卿(実質上の首相)を務めた内閣制発足前の政界リーダー/産業振興による富国政策を重視 /征韓論で江藤新平、西郷らと対立)、大隈重信(佐賀/立憲主義を目指す内政改革と殖産興業 を主張し征韓論に反対/会計検査制の創設にも尽力)、木戸孝允(桂 小五郎/長州/台湾出兵など、国威を海外に張る外政論に反対し立憲主義、三権分立の確立およびマスコミの重視を主張)、伊藤博文(長州/木戸と同じく外政論に反対/ 初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣プロイセン法の影響を受けたが国際協調主義)らもこの意味で言えば同様の正統保守的な考え方を持っていたとされる。


ともかくも、この征韓論(論争)の影響(中国・朝鮮ら周辺諸国を野蛮な国家と見下す(実は殆ど一心同体的な歴史・文化(漢字文化圏)・民族のヒュレーを共有/我われの日常生活空間において常に体験し続ける皮膚or内蔵感覚に近い概念とも言える“実在性として視覚と結びつき易い形相(エイドス)よりも触覚、痛覚、快・不快感らとの親和性を十分に想像させる現象学的な作用因”であるヒュレーについての委細はコチラ ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109)は現代、安倍政権下の日本にも深い影を落とす。なお、西郷隆盛・大久保利通・ 木戸孝允は明治維新の三傑とされる。


(維新期にはプロイセン型“国家主義”(制限民主政)と英国型“立憲民主政”(正統保守主義)なる二つの理想が混在し、せめぎ合っていた)


f:id:toxandoria:20180106171048p:image:w200:left近年の研究成果である 勝田政治・著『明治国家と万国対峙』(角川選書、2017年8月・刊)によれば、一般的な理解(大久保が日本近代化モデルとして採ったのはプロイセン流の議会制限型の君主制だとする説)と大きく異なり、そのモデルは意外にも英国型の殖産勧業(人民産業)行政(民力・民度の向上が最大の狙い)で、そこで目論まれた国家政体もプロイセン型ではなく「英国型立憲君主制」で内務省もフランス内務省をモデルとするものであった。


この「事実」があるにも拘わらず、その死後に大久保の腹案であった筈の 英国モデル「内務省」構想がどのような経緯を経て(定説と異なる理解の流れで)プロイセン・モデルの官僚体制へと歪曲され(定説では井上 毅が深く関わったとされる)、遂には<「国家神道」(超然宗教の名を付与された大日本帝国の精神基盤)を支える内務官僚組織>に一方的に支配される官僚制度(植民地主義の侵略国家・日本を支える)へと変質したのか?


その具体的な過程については、別途、詳細な研究成果を待たねばならない(これも定説に従い、列強並みの軍事力強化による対等な万国対峙を目指した“山形有朋”一人の軍事国家主義にそのことを帰することで、果たして満足できるのか?)。いずれにせよ、このような大久保らについての新たな発見によって、維新開始〜内閣制度創始の時期における<正統保守のルーツの在り処とその変遷の姿>を正しく理解することが重要と思われる。


つまり、大日本帝国の骨格としてプロイセン・モデルの官僚体制を定着させたのは「明治十四年(1881)の政変」と見るのが従来の説明であるが、必ずしもそれだけではないと考えられる。因みに、「明治十四年(1881)の政変」とは、1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中で憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である(なお、大隈重信は翌・明治十五年に早稲田大学を創設している)。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったとされる。


ともかくも、それはその後にも、例えば井上毅(明治十四年の政変で大隈重信らを追放する勢力に加担したが、同上政変の時に井上は未だ参事院議官・内閣書記官長兼任で、自らは「保守漸進主義」(これは正統保守そのもの!)の考え方から先ずプロイセン型国家を構想すべし、つまり プロイセン型の憲法を先ず導入すべしと主張していた)らが英国型の立憲主義(議会重視)にも注目していた節があるからだ。実は、井上毅は究極的には現代の日本国憲法下の象徴天皇制に近い「顕教的な天皇の政治利用」をさえ考えていたのではないかと思われる。


(敗戦後70年超の現在でも日本の立憲民主政は未完である!だからこそ、戦前の価値観をバッサリと一括りで全否定する態度は却って危険!)

因みに、「同上の政変」で大隈重信が政府から追放された後も益々高揚する自由民権運動への対抗策として政府が出した「国会開設の勅諭」(1890(明治23))の起草者も井上 毅なので、ここで井上の暗躍が功を奏し、名ばかり英国議会モデル(内実はプロイセン流の非政党内閣制(天皇を唯一の主権者とする))への誘導が成功した、と 勝田政治氏は理解されているようだが、この点については果たしてそうだろうか?との疑問が湧く。

それは、先に述べたとおり井上の考えていた天皇のあり方が実は現代の「日本国憲法」の象徴天皇制(憲法上で主権者を国民とする)に近いものであった(天皇に因る人治の徳政を期待しつつ憲法上で天皇を主権者とする、大日本帝国の天皇の密教的な政治利用に対して)可能性が高いからであり、同じく、井上 毅については、彼が法制局長官の時に大隈重信の命で携わった教育勅語(原案作成)についても、次のようなエピソードがあるからだ。 

・・・<井上は、a「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」、b「教育勅語は宗教、哲学、政治、イデオローグとは関わりない中立的な内容で記す/後述する、ケルゼン“純粋法学”の概念に近い?」ことを前提として、つまり宗教色など世俗性を排することを企図して教育勅語の原案を作成した。また、井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対して、その中止を進言した(c)が、山形有朋の「教育勅語」制定の意思が変わらないことを知り、再び、自ら教育勅語起草に関わるようになり、この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。> 井上 毅が<この>ように紆余曲折した一連の経緯には、戦前の国家主義(大日本帝国)の黎明期に活躍した人物らの内心には正統保守的な考え方(現代のリベラル共和主義に繋がる可能性をも秘めた)と、現代の安倍晋三・日本会議らに繋がる偽装極右(エセ保守)的な考え方が混在していたことを示唆する。別に言えば、現代の「政治哲学」的な観点からすれば上のaに「哲学」が入っている点に曖昧さを感じるもののa・b・cが事実であるとすれば、やはり井上毅の内心にはライシテ(laicite/フランスの厳格な政教分離原則/Cf.↓注記2)的な観念が存在したと考えられる。因みに、教育勅語が軍人勅諭と共に皇国史観的な内容として偏向解釈のうえ、国民へ押し付けられ、それが戦中期まで尾を引く結果となったのは絶大なまで影響力を強めた軍部の介入によるものであったことが知られている。・・・

(注記)ライシテという言葉の歴史上の初出は1870年代の初め頃とされているが、司法省の西欧使節団(8人)の一員として井上 毅は1872年(明治5/フランスでライシテ(フランスの厳格な政教分離原則の観念)が定着し始めた頃)に渡欧しており、フランス中心に司法制度の調査研究を行った。

・・・

従って、現代の我々が「戦前の価値観をバッサリと一括りで全否定する態度は、却って危険である」と思われる。益々、冷静な批判力が求められる所以である。その意味では、当書『明治国家と万国対峙』の著者・勝田政治氏が「有能な井上毅は、国家主義の基盤たるプロイセン流の憲法(明治憲法)を伊藤博文らに制定させるため暗躍した」という記述に止まっている点に物足りなさを感じる。


3 世界との関連性を十分に意識しつつ「共和国たる20世紀中国」の憲政をめぐる歴史を俯瞰すると、「“日⇔中憲政”交流史」に透ける日本「法学」の影響力の大きさが浮上する


・・・特に日露戦争前後から日中国交正常化ころまでの中国近現代史を俯瞰すると、<維新期〜戦前の国家主義・立憲主義の混在⇒戦争直前期〜戦中・国家主義の暴走⇒戦後立憲主義の苦闘、その日本政治の全過程を清濁併せ呑み凝視してきた中国>が理解できる! ・・・


(先ず日本国民が自覚すべき“日⇔中/憲政”交流史に透ける日本「法学」の影響力の大きさ)


f:id:toxandoria:20180106171659j:image:w200:right周知のとおり、吉田松陰尊皇攘夷思想は明治維新期〜戦前軍国主義日本、そして現在の安倍政権と、そのシュゴシン(守護神)たる日本会議の極右的スタンスに至るまで深く影響してきたというのが一般的理解だが、近年の日中関係史研究の中から、このことについて根本的疑義を突きつける事実が発見されている(出典:王暁秋著、木田知生訳『中日文化交流史話』―日本エディタースクール―)。


それによると、林則徐(英国の植民地主義へ抵抗した清朝の官僚)らとも親しかった魏源は、アヘン戦争後の中国で新思想の提唱者として中国人に対し「世界に目を開かせる」役割を担った知識人の代表者である。魏源の著書『開国図志』と『聖武記』は佐久間象山(尊皇開国派)・吉田松陰(尊皇攘夷派)ら幕末日本の知識人へ大きな影響を与えており、これが彼らの尊皇開国、尊皇攘夷思想の基盤を作ったと考えられる。


おそらく明の時代まで遡る日中間のかなり色濃い文化的な双方交流の関係に加え、ほぼ明治維新期に重なる清朝末期(清滅亡・宣統帝退位は1912(明治45)年)以降は、植民地主義化した日本から中国に対する外交・政治的な関りが増すことも周知のとおりである。そして、ポスト日露・日清戦争あたりから、国力が弱体化する一方の中国に対し日本からの外交・政治的な圧力が更に強化されることになり、これが爾後の反動、つまり過剰な中華ナショナリズム形成の契機となった。


と同時に、この頃の清国の王朝(光緒帝)は、中国が歴史的に多民族で構成されてきたという宿命から、新たな「中華民族の概念」を創造しつつ自らの国を近代的な意味での国民国家へ変容させるという非常に重い課題を突き付けられていた。このため、先ず京師大学堂(1912年以降は北京大学)の整備をバックとするアカデミズムと教育の改革に着手していた。


このような状況下で中国に対する日本側からの政治とアカデミズムが混交する形での影響力(個々の良し悪しの問題はさて置くとして)が増すことになったが、特にそれを大きく憲政史の観点から凝視することが重要と思われる。この「日・中両国を巡る一種のグローバル」史を考察する場合に特に見逃せぬ点として、中村元哉氏(津田塾大学教授/既出、『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』の著者)は下の二点を指摘している。


(1)憲政の土台となる、律令に因る人治から法治化へ転ずる試みは間違いなく清朝に始まった。それは、治外法権(不平等条約)の撤廃という政治上の要請に基づき法制の近代化が待ったなしだったからだ。そして、その最大の功労者は清朝末期の法学者・沈家本(しんかほん)で、彼は司法の独立を期して特に刑法典「大清現行刑律」の編纂に尽力した。このため、1940年代までには、刑法と民法を区分する六法によって支えられる近代法制へ置き換えられた。


(2)この時代の清朝は、およそ40〜50年くらい西欧文明を先行して受け入れた日本を成功モデルと見なしており、主に日本経由で西欧に関する諸情報を取り入れ始めた。それは、清朝からすれば民族・風土・地理学的にコンパクトで効率的な(既述の“二つの江戸プロトモダニティ”までがリアルにその視野に入っていたか否か?は未検証であるが/補足、toxandoria)、しかも同文同様の(古代以来という意味で歴史的に漢字・中国文化を深く共有する)日本は最適のモデルと見えたからである。このため、日清・日露戦争の頃から日本留学ブームが始まっており、清朝の近代化に不可欠な新しい概念(特に社会・法制・憲政関連の)が日本語(日本で創られた漢字、いわゆる国字)を介して次々と導入された。

・・・立憲民主主義国家の「憲政の構築に不可欠な用語」に絞ってみると、中国へ西欧的な新しい概念を伝えた日本語(国字/和製漢語)の事例は下記(⇒)のとおりである。特に「法学」分野を中心とする日本アカデミズムの存在感は圧倒的なものであったことが分かるが、見逃せないのは同様の傾向が共産党一党独裁下にある「中華人民共和国」となった現在も続いていることである。

 ⇒ 社会、権利、議会、憲政、憲法、共和など

・・・なお、「国体」なる和製漢語も日本から中国へ導入(逆輸入)されたが、このコトバの当初の意味(概念)が日本と中国では決定的に異なっていたことに注意を要する。明治憲法下の日本では国柄(国の形を天皇の身体と同一視する曖昧で特異な神権政治的概念)と同義、つまり万世一系の現人神たる天皇が統治する皇国の意であった。今の憲法学では国の主権のあり方(君主制or共和制)をさし、主権の運用の違いとしての政体(専制or立憲)と区別する。他方、20世紀 初頭の中国(新政(中華民国と清朝の並立)時代の清朝末期)へ移植された(統治権の所在と最高機関の所在が曖昧のまま、国の形の意味として)コトバ、国体はやがて中華民国(1911・辛亥革命、1912・孫文〜)初期の<「国体」論争>のプロセスで、権力の暴走を防ぎ得る後者(最高機関の所在)の概念として定着するかに見えたが、その後はあまり中国では使われなくなってしまった。


(中国における日本『法学』アカデミズムの圧倒的な存在感の中核は美濃部達吉(戦前)と横田喜三郎(戦後)を介した「純粋法学」(ケルゼン)の影響力) 


このような意味での中国における日本「法学」アカデミズムの圧倒的な存在感の中でも絶対に見逃せないのが美濃部達吉(戦前)と横田喜三郎(戦後)を介した「純粋法学」(ケルゼン)の影響力の大きさである。しかも、それはある意味で現在の共産党一党独裁下にあるはずの人民共和国でも同じことが言えると思われる(この問題意識は、既出、中村元哉・著『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』の重要な論点の一つである)。


そこで、先ず現代においても世界の大勢で理解が共有されている、『法学』アカデミズムにおける「純粋法学」(ケルゼン(Hans Kelsen)/1881 1973/オーストリアの公法・国際法学者)の重要性について中村元哉氏が同著書の中で書かれている部分をそのまま以下に転載しておく。


・・・ケルゼンの純粋法学理論とは、規範と事実を峻別する新カント主義の二元論を背景にして法学に倫理的価値判断や政治的価値判断を混在させることなく、実定法のみを取りあげることを主張した理論である。実定法そのものを純粋に認識しようとした彼は、規範概念によって国家理論や法理論を構築しようとし、規範こそがすべての上位に位置する原理だと捉えた。この純粋法学は根本規範を頂点とする法の段階説を導き出し、法の最上位に位置し蓋然性を規定する憲法も根本規範によってその妥当性を獲得する、とした。以上のような法学、政治学、行政学の新展開のなかで、中国の憲政の準備は進められて行った。・・・


f:id:toxandoria:20180106173842p:image:w300:left・・・[補足、toxandoria] → 倫理的価値判断については、昨今のAI進化あるいはコンシリエンス(人文社会・科学両知の融和傾向)の深化とそのカバー領域の拡大で、今や法に限らぬ凡ゆる分野で古典的なそれとは異質の発想が求められる時代へ入ったとはいえ、人類の存続そのものが完全に絶望的とならぬ限り、一定の理想を目的とする蓋然性が大きい『憲法』の規定についても、それがケルゼン理論的な意義を失うことはないと考えられる。/関連で、ヒトが生きる意味そのものを冒涜する典型(アンチ・ケルゼン)と思しき、シンギュラリティ―信仰的、ないしはトランプ流のコントラリアン(逆張り)思考的な空気に毒された?と思しき人物、ピーター・ティールに関して“他山の石”的な興味深い情報があるので、下記★も参照乞う!・・・


★ピーター・ティールがトランプを支持する本当の意味——テクノロジーが「政治」(それを統制すべき役割の法はおろか?!)を飲み込み始めたJun. 10, 2017松島倫明(NHK出版/学芸図書編集部編集長)<注>ピーター・ティールは「ペイパルマフィアシリコンバレーで数々の有名企業を立ち上げる天才起業家集団」の中でドンと呼ばれており、リバタリアン(共和党右派シンパとされるが、厳密には、諸悪の根源が政府による規制(法に基づく)にあるとする、“貧困問題などへの着眼は良しとしても、実はいとも容易く戦争はおろか政治権力の暴走へ従属し易い、ご都合的orクローニー(お仲間)式の過激ビジネス自由原理”主義)であり、かつ熱烈なトランプ支持者。https://www.businessinsider.jp/post-3426 


・・・


同じく中村元哉氏によると、そもそもは儒教の人治主義一色に塗り込められてきた中国を根底から変革して個人の自由を確保しようとした陳独秀が1915年に上海で開始した「新文化運動」(文化革命)の思潮がその受け皿となったのだが、先ず清末〜民国(中国大陸にあった中華民国)の時代にかけ一貫して注目され続けたのが日本の美濃部達吉であった。やがて、その影響もあって清末から受容されていた大陸法系の行政法学が1910年代の中国でも主流を占めることになる。


その後、英米法などとの論争の時代を経たうえ、東京帝国大学に留学した法学者が美濃部達吉を基盤に中国の行政法学を1920年代の後半に中国で確立した。この学説に対する高い評価は満州事変以降も続き中国の憲政思潮に対する日本の影響が強く残り続けることになる。しかも、日中戦争が近づく1930年代になっても美濃部学説は高く評価され続けており、当学説を含む日本の行政法学が中国の行政法学を此の1930年代にこそ基礎づけたのである。


1940年代の戦時になると流石に日本の法学の影響は薄れたが、その流れの過程で日中両国の司法には意外な関係性が生まれてくる。戦前の中国の法学会はケルゼンの純粋法学を中国流に受け入れようと努力したが、意外なことに戦時期に入っても、今度は同じくケルゼンを紹介する横田喜三郎『純粋法学』(岩波書店、1935)の翻訳を法学者・劉燕谷(りゅうえんこく)が完成させており、それを戦後に再版して、純粋法学を正しく中国に定着させようとした。


更に、このように日本を介し全面的に紹介された純粋法学は、戦後の中国の憲政実施の準備と合さるかのように、韓徳培らによって肯定的に受容された。特に、韓は純粋法学を全面擁護して、これを全ての法学者が拠って立つべき出発点だと高く評価した(韓徳培『ケルゼンと純粋法学』ほか)。彼は、戦後中国の自由主義思想を代表する『観察』誌で自由を訴えた法学者であり、共産党の一党独裁下で成立した中華人民共和国(1949〜 )の時代になっても、武漢大学で国際法学者として活躍した人物である。


中村元哉氏によれば、ケルゼンの純粋法学は政治的な法学支配に対抗し得る法理論であり、凡ゆるイデオロギーを批判する性格を持っている。そのため、これは驚くべきことだが、それからやや後になるが人民共和国成立後の「新民主主義」段階(1945〜1952年頃まで中国共産党の路線でもあった毛沢東の指導体制/主要政敵の崩壊が主たる目的の中国人民協商会議・綱領に因るものであるが、曲がりなりにも共和国を名乗る必要性(というか、むしろそれを名乗る必然の論理)から、この綱領は民主主義の名を冠している)から「反右派闘争」(1957.6〜年末にかけて中国で行なわれた右派分子に対する思想・政治闘争)の時代に至るまで、ケルゼン関係の著作は細々ながら広く翻訳され続けており、その影響力は、解放後のグローバル市場世界に愈々本格的に、しかも今度は十分に全世界に対して責任を持って参加せざるを得なくなった現在の中国にも、何らかの影響を与え続けている。


(“人類文明の行く末、そして世界の流れ”との関連性の俯瞰から浮上する、日中“憲政”交流史に透ける日本「法学」の影響力の大きさの背景にあるのは同じ漢字文化圏、同文同様の思考世界における日本文化への高い評価ということ)


・・・しかし、今や『詩織さん事件』なる蟻の一穴が日本法学アカデミズムの信頼性を根こそぎ崩壊させつつある!・・・


ポーランドの偉大な経済学者オスカル・ランゲが理論的に証明していること(ランゲ・モデル(1))を引き合いに出すまでもなく、既にエトノス環境(2)における運命共同体であることが市場経済的にも実証されたといえるこのグローバル世界が、今や原理主義的な意味での共産主義などの社会・経済に関わる特定イデオロギーやアナクロ極右化の類の固定観念の支配下に収まるほど単純でないことは周知となっている((1)、(2)については下記を参照)。

(1) ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320 、

(2) ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109


他方、中村元哉氏が著書『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』の中で繰り返し指摘されているとおり、特に20世紀の中国史を共和国の歴史(つまり憲政史)として描写すると明らかとなる「殆ど運命共同体の如く対立と共存の関係を持続させてきた日本と中国」という構造の発見はなかなか一般的には、殊に肝心の日本政府関係者(厳密に言えば安倍政権の)らにとっては理解されにくいことのようだが、一般国民は薄々ながらこのことについての自覚が芽生えつつあるかに見える。


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そして、このことは直近の世論調査の結果が暗示している。それは、「いくら安倍首相が固い決意を表明しようとも、改憲を急ぐべきではない」という意識が日本国民の約7割を占めていることである(添付画像)。これは、おそらく日本国民の殆どがその深層心理と重なる部分で「日本会議に主導された“追憶のカルト”式、アベ改憲の危うさ」(記事の冒頭でふれた維新期の征韓論を淵源とする侵略主義が狂信・暴走化した“追憶のカルト”についての委細はコチラを参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104 )を直観しているからだと思われる。


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問題は、<「戌笑う」と改憲決意!戌年の今年こそ憲法のあるべき姿を!>と年頭に発言した、安倍首相の<国民の最大の懸念をすら笑い飛ばす驚くべき軽薄さ、というより実に不快なミスマッチ異物感がムンムンする、そして恰もそれが不気味に湯気立つような不潔感にある。アベ流の軽薄さ、つまりこの臭い立つ汚物感の如き下品なノリが罷り通ることとなり、やがて<何でもポケット《AIシンギュラリティ》時代に相応しく“めっちゃインスタ映えする《ドラえもん式アベ改憲2018》の汚名が歴史に遺ることになるのだろうか?(添付画像)


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振り返れば、日本の法学アカデミズムを高く評価しつつ中国が美濃部達吉(戦前)と横田喜三郎(戦後)を介した「純粋法学」(ケルゼン)の影響力を持続的に受け入れ、しかもその影響力は今も続いており、それが習近平政権の未来にさえ影響する可能性が高いという現実が観察される土壌には、同じ東アジア文明・漢字文化圏で同文同様の思考形式(文化意識)を、おそらく古代史以来の悠久の時間の過程で共有してきたという歴史的なリアリズムがある。


従って、いま何よりも懸念すべきは『追憶のカルト』の妄想に突き動かされるままに、国民の意思を無視するか、あるいはそれを凡ゆる手練手管を繰り出して誤魔化しつつ、安倍政権が自らとそのお仲間らが望む方向へ改憲をゴリ推すことだ。それは、既述のとおりの極東地域における植民地争奪戦という過酷な“近代史”の悪しき余韻を、その余韻の儘に止めるどころか、再びその悪夢をリアル国際政治の場で蘇らせ、東アジアに止まらぬ全世界からの<戦前型日本リバイバルへの警戒心>を取り戻してしまう恐れがあるからだ。


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因みに、一見では全く異次元の出来事のように見えるかもしれないが、<日本メディアの沈黙を傍目に各国の主要メディアが急に次々取り上げ始めたためグローバルに公然化することで、あの「詩織さん事件」なる日本政府(安倍政権)が公式に?に隠蔽したアベシンパ・ジャーナリストによるレイプ犯罪のリアルが今や全世界向け重大ニュースとして拡散中という異常事態>が日本人そのものを深く傷つけつつあると見るべきだ。いわば、それは安倍政権下で起きつつある此の余りにも理不尽で動機不純な<レイプ型「改憲」>の実像と「詩織さん事件」が深部共鳴することで、世界中からより厳しい警戒の視線を浴びられることになるのは今や時間の問題!と思われるからだ。


この「詩織さん事件」なる日本政府によって公式に?隠蔽された女性ジャーナリストへのレイプ犯罪は、只の日本政治(安倍政権)の異常性の指摘という範疇に止まることはあり得ず、アナクロ日本会議(靖国顕幽論)の画策の下で安倍政権が推し進める<レイプ型「改憲」>への暴走、つまり「アベ一強アナクロ政権への日本司法の過剰忖度問題の公然化」と深く重なり合うことで、当記事の核心である<日本「法学」アカデミズムへの高い国際的信頼性の伝統>が根こそぎ崩壊しつつあるかに見え始めている。だから、これは東アジア漢字文化圏のみならず世界中の民主主義と共和政国家の損失であり、全世界的な危機でさえある!


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従って、このような時であるからこそ同様に悠久の時間(日本側からすれば広義の日本の古代化(日本国の幼生期)以来の時間)を刻んできたユーラシア大陸の東端に跨る広域文化圏であるとの意識(それこそが、東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学アカデミズムの土壌であった!)を深耕させることが最も肝要となる訳だが、残念ながら、ここでその先を書き込むスペースはない。そこで、注目すべき歴史学者・深谷克己氏(早大名誉教授)の著書『東アジア法文明圏の中の日本史』(岩波書店)から、関連する部分を下に引用することに止めることとしたい。


・・・社会が政治的支配・被支配ではなく長老・祈祷者などの経験知と託宣に導かれ、集団の合意によって行為を決定する「運営社会」から、特段の有力者か少数上位者の意思で左するか右するかを指図する「政治社会」へ変化することが「古代化」である。中でも日本史では、当初から東アジアの「古典古代」を継受するという(自意識を持つ)大陸諸王朝群の更に周辺に位置して、かつ王への上昇を欲求するいくつもの集団(日本列島でいえば渡来系、倭人系の諸豪族から成る数多の集団)が一段上へと争闘を繰り返し鬩ぎあう地域であったため、国際的な力が往復的に働く中で消長し、長い時間を要した古代化となった。・・・(途中、略)・・・そのような意味での「古代化」は数世紀にわたる長い過程であって、初めから「日本国」だったのではない。「別れて百余国」と記された時代から奴国・邪馬台国等の小国あるいは連合国時代を過ぎて何世紀も後に東アジア法文明圏(中国冊封圏)において承認される「国号」として「日本」、「日本国」が称され始めた。日本列島にはなお独立性の強い広大な政治的勢力、部族社会が各地に跋扈しており、それらに対抗しつつ幼生期の日本国は国際関係において優越した地位を得たということである。・・・


・・・また、古代以後にも、広い範囲の「唐物(からもの)」文物の渡来は留まることがなかった。ことに古代の「日本国幼生期」に、東アジア古典古代を継ぐ中華王朝の政治文化を吸引し続けたことによって、「外来文化の影響」を超えて、自らの「体質」(特に日本的と見なすべき超個性的な中華帝国よりも或る意味で高度化し洗練された体質)に近い域にまでそれが進んだ。最初に吸収したものから更に二次的に紡ぎ替えて日本風になった事物も数多くあり、身辺化して派及が気付かれなくなっているものさえあるが、それらが日本の文化と政治の「基層」的な構成要素となったと言ってもいいくらいである。・・・(完)


[エピローグ]映画、上海の伯爵夫人(脚本:カズオ・イシグロ)について


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https://www.cinematoday.jp/movie/T0004818

・・・この映画の舞台は1936年(南京事件1年前) の上海 であるが、それは「当ブログ記事の重要モチーフとなる、中華人民共和国が成立して「新民主主義」段階(1945〜1952年辺り)へ移行する直前の時代の中国・疎界地周辺の空気を良く描いている。


この映画を初めて観た時(2006)に些か驚いたことを記憶している。それは、この映画が感動の「ラブロマンス」であるとともに、静かながら深く心に残る「反戦映画」であったからだ。恐らく、この「反戦映画」の側面を強くアピールする宣伝では集客が困難になるとの判断があったのか、当時のこの映画の宣伝文の類にそのことを覗うくだりは片鱗もなかったが。(なお、この映画は、そのノーベル文学賞・受賞の契機になったとも言えるカズオ・イシグロ原作の映画化である『日の名残り』(『上海の伯爵夫人』 と同じジェームズ・アイヴォリー監督))と共にツタヤのレンタルで鑑賞できる)。


無論、『上海の伯爵夫人』の脚本は、あのブッカー賞(英国内ではノーベル文学賞より高い評価が与えられている!)に輝く英国文学の名手、カズオ・イシグロの書き下ろしであり、名匠ジェームズ・アイヴォリー監督の感動的で風格ある文芸作品だ。そして、ここでもアイヴォリー映画の主人公たちは“たとえ彼らがどのような星の下にあるとしても、常にひた向きに、誠実に自分の目前のリアリティーを凝視し、いつでも相手や周囲に対して十分過ぎるほどの思いやりを持つことができる強い人間として生き続ける”のだ。


しかも、この『上海の伯爵夫人』を観た後には、主人公たちのひた向きな生き方への感動とともに「戦争の恐ろしさ・愚かさ、そして戦争へのめりこむ追憶のカルト一派(今で言えば安倍晋三、金正恩、トランプら)のバカバカしさ」が深く強烈な印象として心に残る。無論、“平和! 平和! 平和!”と何百万回も叫び続けることは大切だが、このような映画の鑑賞が人々の心の奥深くへ与える影響力も決して無視できぬほど大きいのではないだろうか?そのような意味で、これは今こそ鑑賞に値する秀作だと思っている。


ラストシーンに近い場面(この映画の舞台は1936年、つまり南京大虐殺が起こる1年前の上海)だが、主人公ジャクソンレイフ・ファインズ/国際連盟で活躍した米国の元外交官だが不幸な運命の悪戯で妻子を亡くし、自らは盲目となっている)を侵攻する日本軍の砲撃から救おうと訪れたマツダ(真田広之/実は日本軍部のスパイ)がジャクソンから、それを断られた時に“信頼関係を築いた友人”としてのマツダが残す言葉が脳裏に焼きつく。


『あなたは、本物の白い伯爵夫人とともに生きて新しい別の世界を築くべきだ! が、自分は日本が“美しい国”なる一等国になることを信じ自分の任務を果たすだけだ・・・・・・』(白い伯爵夫人(The White Countess)はジャクソンの夢が実現して出来た店(バー)/落ちぶれたロシア貴族である、伯爵夫人(ソフィア)を演ずるのはナターシャ・リチャードソン


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https://iwj.co.jp/wj/open/archives/279662

当然のことながら、この映画が作られたのが2005年であるので、2006年の日本で“美しい国”を標榜する、安倍晋三(歴史修正主義者)政権が誕生することなど知る由はなかっただろう。しかし、結果的に見て、カズオ・イシグロとジェームズ・アイヴォリーは見事に今の“偽装極右化したうえに、益々、異様化しつつある日本”(つまり、今や何も憚ることなく緊急事態条項(事実上の治安維持法!)を“改憲”の“最優先目的”化することを堂々と宣言するレベルまで凶暴化したアベ一強下の日本!/添付画像)の姿を見通していたようである。


少し補足しておけば、 「国民主権を最優先する憲法」に、言い換えれば「立憲主義を蓋然的に規定する民主“憲法”」に<緊急事態>を書き込むのは、事実上、総統・総裁型権力の暴走を許すナチ(戦前)型「国家総動員法」の復活であり、かつ戦前型“治安維持法”成立に道を拓くことになるということだ。それは、ダン・ザハヴィの現象学的「主観性」の用語で言えば、必ず、ヒトの自我の深奥に潜み蠢く悪徳(全天候型の悪魔的な権力)意思の存在(例えば、アベ一強政権の如き)に対し、国民主権の取り扱いを100%(全面)委任するという恐るべき事態を招来することと同意である(ダン・ザハヴィの委細はコチラ⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109)。


なお、この映画のヒロイン(ソフィア)を演ずるナターシャ・リチャードソンの母親は英国の名女優のヴァネッサ・レッドグレイヴ(彼女はこの映画で、ソフィアの義母の姉オルガを演じている)である。彼女は、映画「ジュリア」でアカデミー助演賞を受賞し、舞台では2003年にユージン・オニールの「夜への長い航路」でトニー賞を受賞している。また、彼女は反体制の闘士としても有名で、政治的発言やデモへの活発な参加などでもよく知られている。欧米の映画や舞台芸術の懐は深い。


・・・追加、参考情報・・・

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このザマ、つまりアベ一強政権がもはや向かうところ敵なしと思ってか?今や好き放題であるこの異常な状態の最中に、もし本当に“緊急事態条項”が憲法に書かれたらどうなる?苦w ◆↓☞「ドラマ『相棒』に“官邸のアイヒマン”北村滋内閣情報官が登場!? 公安が反町や仲間由紀恵を監視・恫喝する場面も/安倍官邸は公安警察を使って官僚たちを勤務時間外もその監視下に置くなど、徹底!2018.01.06 リテラ http://lite-ra.com/2018/01/post-3721.html 

・・・◆それは、ダン・ザハヴィの現象学的「主観性」の用語で言えば、必ず、ヒトの自我の深奥に潜み蠢く悪徳(全天候型の悪魔的な権力)意思の存在(例えば、アベ一強政権の如き)に対し、国民主権の取り扱いを100%(全面)委任するという恐るべき事態を招来することと同意である。 https://www.evernote.com/shard/s440/sh/dff1b946-a2c4-473d-bd49-61500c725a1a/76cc3c4cdf50bae9bdc4ac09f03fef29  


・・・【多数派層の国民には殆ど見えなくなっている、日本の恐るべき現実!】そして、遂に「日本外交の危機」を宣言!? 笑うに笑えぬ<偽装極右>権力の情けなさではないか!

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