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2018-05-03 「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適

toxandoria2018-05-03

「民主主義=永久の課題であること」を理解し、本格的OTT産業化に適応すべくAIナルシス社会のリスクを制御する日本国憲法の新たな役割を発見するのがポスト・アベの課題

<注>OTT産業(化)の委細は、(2-3)「米国法思想史の概観・・・」を参照乞う。

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…(一枚目)ハッブル宇宙望遠鏡から撮った地球、(二枚目)地球上のミクロコスモスの一つ(出典:いずれもpinterest-Japan)


【動画】The Best of Debussy

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プロローグ)AIデジタル・ナルシスの天敵?「ルドン(アルマン・クラヴォ−の慧眼に因る)“因果リアリズム美”」の発見はプラグマティズムの先取り?


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【プロローグ画像の説明】

[一枚目の画像]

オディロン・ルドンレオナルド・ダ・ヴィンチ礼賛」ca.1900 板パステル 116×50cm アムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)https://www.stedelijk.nl/en 

・・・このパステル画はレオナルド『聖アンナと聖母子』の聖アンナを思わせる。幼児キリストを慈愛に満ちたまなざしで見つめる聖アンナの傍らにある大きな瞳のような図像は、我われ鑑賞者の驚きと畏敬の念をイメージ化したような不思議な感覚を呼び起こすが、それらは美しい花々と混然一体化しており、そこには紛れもなくルドン的な生命のリアリズムが満ちている。


[二枚目の画像]

同『グラン・ブーケ(大きな花束)』 1901 作品所蔵©三菱一号館美術館 (Mitsubishi Ichigokan Museum, Tokyo)/出典:在日フランス大使館HP)  

https://jp.ambafrance.org/article12727 

・・・「ルドン−秘密の花園」展が2月8日(木)から5月20日(日)まで、東京・丸の内の三菱一号館美術館で開催中。本展はフランスの画家、オディロン・ルドンが植物や花をモチーフに描いた作品に焦点を当てている。

・・・ルドンの花の絵には、18世紀ロココ様式時代のフランス絵画を代表する巨匠シャルダンらの花の絵の特徴であるヨーロッパ風の装飾的な美しさよりも、なぜか日本的なアニミズム風の空気が漂うように思われる。それにしても、この大作グラン・ブーケには何という大きな生命力が満ち満ちていることか!


[三枚目の画像]

同「夢想(わが友アルマン・クラヴォーの思い出に)」 ? 1891 リトグラフ(素材:紙) 21.0×15.8cm 岐阜県美術館 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/221801/1 (文化遺産オンライン

・・・この一連の作品は、「黒の時代」から「色彩の時代」へルドンが移行し始めた頃のものである。そのため、それまでの「黒の時代」の特徴であった幻想的なミクロの生物や神話的な人物(アルマン・クラヴォーの世界?)とともに花々や植物のイメージが現れている。

・・・そして、この石版画でも、その細部をよく凝視すると殆ど漆黒で塗りこめられた室内空間のあちらこちらには、数多くの微小な生命体のようなものが浮遊しており、窓の外では清涼な空気の中で、それはもはや心象風景であるが<緑の木の葉>が風にそよぐ。

・・・恰も「実はこの二つの空間がミクロ・マクロの両世界を代表しており、更にそれを凝視するルドンと鑑賞者の精神が幻想空間(これぞエトノス環境!)を創造する」が如きである。


[四枚目の画像]同

「『ゴヤ讃』:(2)沼の花、悲しげな人間の顔」1885 リトグラフ(素材:紙)  27.5 x 20.7? 国立西洋美術館 http://collection.nmwa.go.jp/G.2009-0029.html 

[五枚目の画像]

同「幼児のようなものたちもいた(石版画集、『ゴヤ礼賛』4)」1885 23.8×19.7? 東京、個人増(出典:Bunkamura http://www.bunkamura.co.jp/old/museum/lineup/07_redon/works.html )

・・・これら四枚目・五枚目のモチーフも、まさに(後述するとおり)ルドンが探求した“中間の媒介的生命”たる「アルマン・クラヴォーの世界」のイメージであるのだろう。


[六枚目の画像]Flore de la Gironde by Armand Clavaud(1828-1890)/Published 1882 by G. Masson in Paris

・・・このアルマン・クラヴォーの原著、関連情報はコチラ↓

https://openlibrary.org/books/OL25199470M/Flore_de_la_Gironde

[七枚目の画像×2枚]

ミズハコベ(水繁縷)のイメージと種子(直径、約1?)/前者(水繁縷/イメージ)の出典= http://mikawanoyasou.org/data/mizuhakobe.htm後者・同種子の出典=File:Callitriche palustris capa52 002 php.jpg(ウィキペディアコモンズ画像)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Callitriche_palustris_capa52_002_php.jpg 

・・・アルマン・クラヴォーが特に研究に没頭していたとされるミズハコベは湿地・水田・湖沼などで多く見られるが、オオバコ科の植物であり水田雑草としても知られている。

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・・・以下、https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/x537877687 より部分転載(開始)・・・

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オディロン・ルドン(Odilon Redon/1840-1916)は、フランス南西部ボルドーで生まれたが、たいへん虚弱な体質のため生後2日で、ボルドー近郊のペイルルバード(有名ボルドーワインの産地)の保母のもとに預けられた。「寂寞として不毛の原野」とルドンが読んだメドック地方のこの土地と孤独癖の少年時代との記憶が、彼の内向的な性格を深め、あの「黒」の時代を形成するに至る(画像は同地シャトーがラベルの『シャトー・ペイル・ルバード 2012』/出典、https://item.rakuten.co.jp/kbwine/c/0000002659/ )。


その「黒」が結晶していくのは、最初の石版画集『夢の中で』を出した1879年、39歳のころからで、画家としてはむしろ晩成型の方に属する。それまでルドンはいろいろな曲折を経ているが、モローからの影響のほかに、いくつかの大きな転機があった。


20歳の折に知り合った微生物研究の植物学者アルマン・クラヴォ−(A. Clavoud/1828−1890/ボルドーの植物園で働いていた人物)の影響がまずあげられるだろう。クラヴォ−は自分の研究のほかに、ポー、フローベールボードレールなどをルドンに教えた人だが、ルドンはこう書いている。


「・・・彼は無限に極小なものの中で仕事をしました。彼は、うまくいえませんが、知覚できない世界の果てで、動物性と植物性、この花やこの生き物の、「中間の媒介的生命」を探求し続けたのです。日中の数時間、ただ光の作用によってだけの“動物”である、この神秘的な要素を探したのです。」


・・・以上、[東野芳名:ルドン、人と芸術/週刊朝日百科・世界の美術、17号]より、部分転載(了)・・・


我々は、このようにルドンが書いたことの中で<クラヴォ−が「中間の媒介的生命を、日中の数時間、ただ光の作用によってだけの“動物”である、この神秘的な要素(実は、科学的に見ればそれは植物であるのだが、それら植物の中で確かに観察される“動物”的な要素を、つまり恰も動物の如く蠢き、動き回る要素)を探していた」>という部分に注目すべきであろう。


無論、このような感覚は現代人の高度に科学的な視点で理解すれば幻想にすぎないはずだが(実は、そう思わされているだけなのだが・・・)、なぜか我々は日々の日常生活の中で、今でも何気なく、時折、そのように感じることがある。


この種の幻想的な感覚、あるいは科学の道具であるはずの顕微鏡ら観察機器を通して新たな現象を発見したり、あるいは体験するような時の驚きの感覚について、なぜかそれがとても懐かしいと思われるような不思議な感慨、ないしは新鮮な感動や喜びをさえ感じるのではないか。おそらく、ルドンはそのような意味での<幻想>体験を描き続けたのである。


オディロン・ルドンの絵や版画が、美しく、いつまでも新鮮で、こよなく魅力的であり続けるのは、我われ人間(人間の意識)が、そのような意味で常に何かを幻想できる生き物であることの証である。つまり、そのような感性(特に、エトノス環境と深部共鳴する(審)美的感性など/例えば、エピローグで触れる俵屋宗達の繊細で壮麗な美学!)があるからこそ、我われ人間は、紛れもなく自律的で、より自由な人間として、しなやかに生き続けられることになるのではないか。

  

更に、この論点(特に、1960年代後半〜のネオ・プラグマティズム)には、人工知能(AI)&ビッグデータ(BD)の融合が創造する「AIデジタル・ナルシス(超類型化AI社会)」が「個人、つまり個々の人間として尊重されるべき国民の権利」(我が国でいえば日本国憲法第13条と同25条が規定する)を脅かしつつあるという新種の巨大リスクに対する強力な天敵となる可能性が期待される(委細、本論で後述)。


・・・


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・・・(1)民主主義は“普遍を求める永久に未完(未了)のプロセス”である、(2)政体(constitution)の如何を問わず<常在的に多数派である「凡人」(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>を分かり易く「公文書」等で保証するのが政治権力の役割である、という二点の理解を共有することが「リベラル共和制」の前提となる。特に、(2)は民主制に限ることではなく政体の違いを問わぬ国家統治の基礎的条件である。・・・


・・・


1「国体論」複合カルト(アベ国体カルト)の正体


・・・それは「民主主義は永久に未完である!」という現実に関わる無知と無関心、その異様な空気に釣られた一般国民は<安倍「国体論」複合カルト(アベ国体カルト)をルソーの市民宗教(民主主義日本国民の紐帯)と同一視する>という悍ましい罠に嵌っている!・・・


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今や堂々と?<数多の嘘と改竄の山バカリ、そして全てが虚構の塊りという只の権力亡者にすぎぬ>というブザマな実像を衆目に曝す、「国体論」複合カルトたる安倍政権の正体を、白井聡氏の新著『国体論‐菊と星条旗‐』(集英社)が的確に抉りだし注目を集めている。

その安倍政権の正体である現代の国体論は、白井氏が指摘するとおり<戦前の国体(顕密二元論での天皇の政治利用)+米国流の強かな戦後日本統治のマヌーバ(maneuver/戦略)>であるが、実は、更なるその深層には、なかなか分かり難いことなのだが、 “これからの日本にとり非常に重要な課題になると見るべき” 二つの問題点(悲観と希望の両面に関わる)が潜むことを見逃すべきではないだろう。

<注>ルソーの市民宗教および戦前の国体(顕密二元論での天皇の政治利用)については、下記★を参照乞う。

★[戦前の国体論と顕密二元論での天皇の政治利用]幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、松陰「白日」の削除を謀るアベ独裁は戦前構造災の再来/敗者と異論への寛容(思想)の回復が必須 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 

その一つが終戦時にポツダム宣言(敗戦)の受諾を拒否した「宮城事件」(きゅうじょうじけん)だ。これは天皇の首のすげ替えを謀り皇居(宮城)を襲った“生長の家”過激派によるクーデター(未遂)事件である。

つまり、“生長の家”過激派信者であった陸軍省勤務の一部将校と近衛師団参謀が引き起こしたものだが、“同”穏健派が中心となり鎮圧された。しかし、生き残ったその過激派残党から日本会議が派生しており、紛れもなく彼らが安倍“国体カルト”政権の背後霊(戦前型国体論に因る内側からのマヌーバの黒幕)となっていることだ。

因みに、近年のことだが、“生長の家”は政治との断交を宣言しているが、それはおそらく表向きのことであろう。なぜなら、今でも日本会議の中枢を占める幹部らの多くは生長の家の信者であるからだ(それは閣僚を務めた、あるいは現閣僚らの中にも存在する)。そして、同“家”の中では過激派Vs穏健派なる、カルトに付き物の内ゲバ暗闘が今も続いていると見るべきである。 

(参考画像情報/右端下)事実上、官僚の世界(首相補佐官や各省庁トップや幹部ら)では天皇の首が既に、安倍晋三のそれへ挿げ替えられている!

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それに加え懸念されるのが、おそらく。これは選挙における自民党の票集めと各カルト教団そのものの勢力拡大ニーズが、カネメ問題も絡みつつ都合よく一致したことに因ると思われるが、事実上のカルト、日本会議を凝縮・結晶のタネとして旧統一教会らを含む複数の実に妖しげな教団が安倍政権を支援するため癒着・結晶化しており、事実上、安倍政権がカルト・コンソーシアム化していることだ。

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しかも、この「安倍政権の複合カルト化」なる病巣が、今度は、時代の先端ないしは日本経済の救世主か?とさえ持て囃される「AIシンギュラリティ信仰」と絡み始めており、そこから日本がデジタル専制国家(AIデジタル・ナルシス=超類型化AI社会)と化すリスクが助長・暴走しつつある(添付画像にある『内閣府経済財政諮問会議「2030年展望と改革タスクフォース」第1回会合資料』/齊 藤 元 章(株式会社PEZY Computing・・・/「最強の科学技術基盤出現と、到来する前特異点・特異点」・・・』、つまり此の由々しき<お仲間スペックイン(政府主導の偽装合法談合)>には、その意味での暴走傾向が透けて見える(関連参照⇒(3−2))。

もう一つは希望の方向へ繋がる問題点である。米国流の強かな戦後日本統治のマヌーバ、つまり、これまで述べた事情から米国の統治戦略下で誕生した日本国憲法という側面があるのは全否定できない。が、だからこそ同時に<それがニューディール政策の柱となった米国リベラル共和的な側面の影響を色濃く受けており、“格差拡大”で疲弊しつつある現代の日本経済にも良循環への途を拓く可能性を日本国憲法は秘めている>という点を見逃すべきではない。より具体的に言えば、日本国憲法には平和主義と共に「20世紀初頭以降の理想と掲げつつも、その肝心の米国でも未了となっている、理想の文化資本主義・実現の条件となる先進的思想」が存在するのである(関連資料:↓◆1、2)。

◆1 スティーブン・フェルドマン著、猪股弘貴・訳『アメリカ法思想史』―信山社―(猪股氏自身も未だ研究途上らしいが、同氏は日本国憲法とニューディールの関連性を指摘!)

◆2 リベラル共和主義の土壌、文化資本主義へ覚醒した歴史上の先進事例/マネー資本主義(市場原理)の機能不全、「大恐慌」下の米国で取り組まれたTVA「テネシー川流域開発公社」(文化資本主義政策)の再評価 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713 


ポストモダニズムの日本でも必須と思われるネオ・プラグマティズム(“米国型リベラル共和”志向)の視点


2−1 プラグマティズムの現代的意義


19世紀後半にアメリカで誕生したプラグマティズムついて、日本で知る人はまだあまり多いとは言えない。そのうえ「実用性だけを追求する、アメリカ的な目先のカネメに好都合な道具主義だ!」という見方が根強く、それが固定観念化している。そして、圧倒的な実利第一の戦勝国アメリカには“強固な日米同盟”で追従するのが一番だ!という、このような意味での日米の根本的相互“誤解”に基づく、一般日本人の一種の割り切った空気(この日本国民の“戦前から引き継ぐ弱点”を十分承知の上で悪辣に利用するのが#日本会議、#安倍晋三ら!)が漂うのも確かだ。

果ては、嘘・改竄・隠蔽が垂れ流すウソに塗れた大スキャンダルの巣窟(それは、まるで出口ナシの“汲取便所”状態?)と化した安倍政権が、それでも非常に強固な3割支持層(目下のところ!特に男性の中堅ビジネスマンと就活前後の若年層にこの傾向が強く現れている)によって支持されるという不可解な現象の背景にあるのが、この“強固な日米同盟”で追従するのが一番だ!という倒錯した意識(根本的な米国に関わる誤解)ではないか?とも思われる。

ところで、生涯にわたり哲学書は一冊も書かなかったが、「形而上学メタフィジカル)クラブ」のメンバーの一人で、かつプラグマティズムで著名なウィリアムジェームズらと親交があったオリバー・ウェンデル・ホウムズ・ジュニア博士(19世紀後半〜20世紀初めに活躍した米国の法律家・連邦最高裁陪席裁判官)は、「南北戦争」に参戦し米国民同士の残虐な殺戮戦を生き抜いた経験から、『思想は決してイデオロギー(他の人々へ強制する)に転嫁してはならない、戦争はどのような思想もイデオロギーも無力化する只の殺し合いだから!』という重要な殆ど経験的な信念を手に入れたとされる。

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因みに、同名書の著者ルイ・メナンドによれば「メタフィジカル・クラブ」のネーミングは、形而上学へ過剰に傾斜する哲学や思想の危険性を危惧するという意味で付けられたとされる。また、ホウムズと親交があったウィリアム・ジェームズはデューイらと並ぶプラグマティズムの創始者のひとりで、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えつつ特にパースを支援して世に広めた人物として重要である。

付言すると、ここでホウムズが命がけの戦争経験で理解したのは「様々な開かれた考え方の一つである思想と、他者に対し無条件でそれを受け入れるように強制するイデオロギーは全く別物」ということだ。しかし、ほんの少し留め金が外れるだけで、いとも容易くイデオロギー化する思想はその取扱い次第で残虐な殺戮戦争の条件となり得るのだ。たとえ、そこに論理的・合理的(rational)な理由があるとしても。そして、このことがプラグマティズム哲学を貫く伏流として流れ続けている。


2−2 プラグマティズムの概要(通史ではなく主要論点に絞り込む)


(プラグマティズム創始者の一人、パースの慧眼『道具主義』が意味すること)


エピローグで取り上げたルドンが言う「中間の媒介的生命」(幻想的なものに見える現実であると同時にその幻想の主役でもあり得るもの/言い換えれば、論理と普遍性(精緻な概念規定)の対極にあるリアリズム)とほぼ同じ対象(または現象)と思われる「因果の連鎖が構成する実在(リアル)」に注目したのが、プラグマティズムの創始者の一人とされるチャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce/1839- 1914)だ。

無論、論理哲学者パースが注目した「因果の連鎖が構成する実在(リアル)」とは、動・植物のジャンルに限ることだけではなく、生物・無生物を含む自然のすべてと人間社会そのものをも含む森羅万象の一部、つまり「因果リアリズム」(絶対“観念”の真理ではなく、エトノス環境と深部共鳴しつつ、それなりの正しさを現出させる限定合理的な意味での実在の因果的な塊り)のことである。

パースは「トークン(個性的な個々の実在/因果連鎖)とタイプ(抽象的な普遍・論理)の峻別」(Type-token distinction)という重要な着眼点をも提供しており、これは「超類型化AI社会」(AIデジタル・ナルシス/デジタル専制社会化)の時代へ着実に入りつつある我が国にとっても非常に重要であり、その視点から新しい「普遍観念」創造の可能性を提供することが予想される。

パースが言う「プラグマティズムの格率(基準)」が意味するのは、“例えばカント流の明晰な概念規定は、いわば精密な観察に基づく諸データの統計処理から得られる中心点、ないしはその表象”なので、それがリアルな意味を持つか否かは別問題であり、あくまでも実証実験(実践活動)の結果を見なければ分からないということだ。

この場合に前者がタイプ(明晰な概念規定)、後者は個々の個性的トークン(因果の個々のリアル/それは必ず中心点からバラついて分布する個性的な存在ということになる!の意味で多様性を持つ)に対応することになり、この観点こそプラグマティズムが重視する限定合理主義の意義(無限の道筋(プロセス)で、それなりの正しさの有意性の評価を重視すべきということ、つまりその意味でプラグマティズムは乗り物の如きリアルな道具である!)を支えることになる。

つまり、リベラル共和の実現を志向する米国モダニズム社会の胎盤というべきプラグマティズム(厳密にいえば、クワインローティらのネオ・プラグマティズム)には、最先端のエトノス環境論をすら先取りする「さしあたりの生き方としての民主主義」(逆に言えば、“普遍”と“法の支配”を掲げる“民主主義”観念に因るリアルな道筋では“永遠に未了”(エンドレス)の努力が求められる!)という重要な視点が潜むと思われる(エトノス環境の委細はコチラ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160504 )。


(民主主義の根本たる“普遍”観念に関わる重要な格率を提示したデューイ『プラグマティズム道具論』)


・・・今や世界中で閉鎖系の壁をもたらしつつあるとさえ見える<民主主義の基本たる“普遍”観念>に対し、それを再び開放系へ転換するためのヒントとなる可能性が高い!・・・

デューイは、自らのプラグマティズム哲学の出発点として、独仏「大陸哲学」と英米「分析哲学」の根本的な差異を重視する。それは、前者が<古代ギリシャの小規模都市国家直接民主制を理想と掲げる/現代の事例で言えばハイデガーハンナ・アーレントら/関連参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109>のに対し、後者は<今の日常における“さしあたりの生き方としての民主主義”を重視する/ヴィットゲンシュタイン論理実証主義はその終着点と言える>という違いである。

独仏「大陸哲学」のカント流の精緻な概念規定から(無論、哲学史・思想史を概観すれば何がしかの影響を分析哲学からも得ている!)、大革命などの歴史を経たうえ<法の支配、自由、平等、博愛、基本的人権>など現代民主主義に必須の「普遍」観念が定着してきた反面、21世紀の現代は大衆社会グローバルに巨大化し、更にそこへネット環境の深化等の新たな要素が加わること(旧来型のマスメディアに代わり、ツイッターフェイスブック、ブログなどのネットワークメディア側から絶えずリアル・オルタナティブ情報が発信されるようになったこと)もあり、今や古代ギリシャ都市国家がモデルの「普遍」観念だけでは、到底、そのトレンドに抗うことができない状況となり、そのため深刻な分断が拡大しつつあると見ることができるようだ。つまり、新たに「普遍」とは何か?が今や再び問われていることになる。

一方、経験主義をベースとする英米「分析哲学」も還元主義の限界という深刻な壁に突き当たっているものの(ブレークスルーを量子物理学の世界へ求めつつあるようだが…)、特に建国(独立)後のアメリカでは、「南北戦争」の経験(強制イデオロギー化した思想をめぐる同じ国民同士での殺戮戦という悲惨な経験)から生まれた<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”を重視する/デューイ>というプラグマティズム哲学が、トランプ大統領なる<分断王>の登場で混迷する今のアメリカでこそ、その本格的な再評価が期待されているともいえる。

そこでデューイのプラグマティズムで絶対に忘れるべきでないのが「保障された言明可能性」という考え方であり、これは「凡人の正しさ」を保証する問題とも呼ばれる。それは<現在における“さしあたりの生き方としての民主主義”とは、言ってみれば『聖人・君子ならぬ、国民層の大多数を占める“凡人”の正しさの保証手段をシッカリ確保して社会的信用を維持すること』を最大限に重視すべきだ>ということだ。

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当然、このことから導かれるのが、例えば<公文書・ドキュメント資料、民間のビジネス文書あるいは歴史資料類は法に基づいて厳重に保管・保存すべき>だという『公文書管理(法)』の大原則である。だからこそ、目下のところ<アベさまのウソの山>を糊塗するための<公文書に関わる改竄・廃棄・隠蔽そして作為的な記憶喪失(アベ様によるヤラセ記憶喪失の政治利用?w)>なる大スキャンダルで揺れる日本は肝に銘ずるべきである。

それに、このような意味で民主国家の政治家として、というよりも時代を超えた(政治体制の如何を問わず!の意味で)人間としての基本中の基本である「ウソを吐いてはならない!」ということが分からぬ安倍晋三には、「倫理」を語りそれを他人に強要する資格が全くないことは、火を見るより明らかなことである

因みに、この「凡人の正しさ」を確保すべきという問題は当記事の冒頭(プロローグの末尾)で書いた<(2)政体の別を問わず、常在的に多数派である「凡人」(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>を分かり易く「公文書」等で保証するのが政治権力の役割だ!これこそポピュリズムのそもそもの意義だ!)ということに関わる、国家統治の基本中の基本であり、現下の安倍政権が唾棄すべき程に由々しい限りであるのは、この大原則を完全に無視して公文書・ドキュメント類を弄(もてあそ)んでいることである。

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例えば、第一次世界大戦中のウォルター・リップマン(著書『世論』(邦訳/岩波文庫)、『幻の公衆』(邦訳/柏書房)で名高いアメリカのジャーナリスト)は、同様の危機意識を前提としつつ「ポピュリズムを悪用するナチズムが必ず出現するので、各民族の自治権は確立してもハプスブルクを解体してはならない」とウィルソン大統領に進言することで表現していた。

それは、科学・合理的な理念(素描と透視図法的視点へ傾斜した美術様式を好む美意識)と反素描的なスピノザ流の観念論的理念(例えばフェルメールの如く17世紀オランダ市民社会で好まれた独特のクオリアを求めるような美意識)という、西欧の伝統化した二つの相矛盾する世界観の葛藤が様々な問題を抱えつつありながらも、未だ良い意味でハプスブルクが育んできた歴史・文化に関わる“限定的ではあったにせよ寛容な態度”が一定の信用を繋いでいたからだ(具体的に言えば、それは1871年10月13日の“オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の寛容令の発布”で、事実上、帝国内の信教が自由となったことに因る)。

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逆に言えば、どのような政体を採るにせよ、ルソーの「市民宗教」に相当する<「大衆、凡人」(草莽=一般国民)の正しさの意識(信用)>の観念をつなぎ留め得る(言い換えれば、その“所詮は関係者らのネポティズム(おなかま政治)へ依存してしまう気まぐれ”な凡人たち(この傾向は、情報化・大衆化社会が深化するほど強くならざるを得ない/リップマン)が安住できる文化・公共的な意識空間)は最低限の条件になるということだ。

市民革命・仏大革命・独立革命後の、否、それどころか現在の欧州やアメリカ合衆国といえども、それが必須であるのは理解されていても、理想のルソー「市民宗教」と“普遍”を完璧に保証する制度は実現されていない。その弱点を突くのがナチス的なもの、つまり安倍晋三「国体論」等であり、それらに共通するのが公文書・ドキュメント・歴史資料等の改竄・廃棄・隠蔽・偽造という多数の草莽が暮らす社会の岩盤と国家統治の体制&システムを崩壊させる実に卑怯で愚かな蛮行である。


(今こそ再認識されるべきクーン『パラダイムの転換』の意義)


パラダイム転換」論で名高い科学史家トマス・クーン(ハーバード理論物理学の博士号を得ている)はプラグマティズムの哲学者とは見られていないが、その思想(考え方)はまさにプラグマティズム的である。例えば、クーンは、アリストテレスの「質的変化の運動論」(運動は、原因と目的を持つ質の変化であると考えた)が全く正しいことに気づいていた。

それは、重力の法則(重力方程式)が正しいことは実証実験と重力方程式で確かめられるにも拘らず、“重力が神の意志(目的を与える何らかの存在に因るもの)であるのか否か?”を、実は現代科学でも、その根本的な部分についてはアリストテレスの方法以外では説明できないからだ。しかも、重力だけでなく時間についても、やはりアリストテレスが説くとおりで、我々は今でも目に見える空間や物質の位置的な、あるいは質的な変化としてしか、その変化そのものを認識できないのである。

クーンは、「基礎的概念(前提となる考え方/アリストテレスの運動論では“すべての根源は質の変化にある”という考え方)と基礎的用語法」しだいで、現代においてすら、たとえそれが同じ真理について語り合っている場合であるとしても、何時でもどこでも、認識や理解についての深刻な「分断」が起こり得ることに気づいたのであった。

つまり、アリストテレスが運動の「真理」について知らなかったのではなく、そのための前提となる考え方が、近代以降の物理学と全く違っていたため、アリストテレスと近代人・現代人との間で共通認識を持つことができなかったことになる。そして、これと同じ現象が社会科学のフィールドでも起きていることをクーンは体験した。

そこで、クーンは「基礎的概念(理論)と基礎的用語法」を経験的に共有することで、人々の議論はかみ合うようになるので、特にアカデミズムの世界では、「ある領域の研究者たちが基礎的な理論とモデルとなる考え方」を共有することが最重要であると見て、その「専門家が共有すべき考え方」をパラダイムと名付けた。

また、クーンは、このようなパラダイムは必ず複数のものが生ずることになるので、自然科学か社会科学であるかの別を問わず、それらは古代から現代に向かって決して直線的に発展してきたのではなく、それどころか、基礎理論との乖離が起こるたびに些かの修正か加わり、絶えず数多のパラダイムが変奏曲の如く生まれ続けるため、パラダイムの発展のイメージは必ずスパイラル(螺旋状)のものとなると見たのである。

まさに、このイメージは、W.V.O.クワインのネオ・プラグマティズムの核心部分、「人間のリアル因果の説明=それは、環境との新たな共鳴が連続する中で絶えずエンドレスに修正され続けなければならない」という観察とピタリと符合している。 


(ネオ・プラグマティズムは米国型リベラル共和の培地/W.V.O.クワイン『ネオ・プラグマティズム』の斬新な視点)


ところで、英米「分析哲学」の終着点はヴィットゲンシュタインの「論理実証主義」とされており、その「論理実証主義」に厳しい批判を加え、その壁を乗り越えた哲学がW.V.O.クワインのネオ・プラグマティズムであるが、先ず「分析的真理(個別的真理)と総合的真理(普遍観念的真理)は区別できない」というクワインの主張が重要である。逆に言えば、クワインは「個々の分析的真理(意識の対象となる個々のリアル因果/パースのトークンに相当?)と総合的真理(意識の対象となる観念・表象/パースのタイプに相当?)は区別できる」とする立場を「論理実証主義の第一のドグマ」として批判したことになる。

そして、「此の点」は人間の意識の問題と深く関わっていると思われるうえに、その「分析的真理と総合的真理」に関わると見るべき、プロローグで取り上げた『中間の媒介的生命(東野芳名氏)』を連想させて興味深い。因みに、現代哲学の多くは人々が広く共有する言語をベースに認識や価値観の問題を捉え直そうとする試みに挑戦しているが、このように分析対象を意識自体から言語へ再び転換する研究を言語論的転回と呼ぶ。

これは余談だが、おそらくヒトに限らず、基本的という意味では言語を持たぬ動物も同じく「分析的真理と総合的真理」をどう理解すべきか?という問題と深く関わっていると思われるうえ、実に興味深いことだが、AI・ビッグデータ研究および脳研究の深化・共鳴と共に此のこと、およびヒトと動物の意識の違い(言い換えれば、言語の役割)が深く理解されつつある。

クワインは「言語論的真理」も還元主義であり、それは人間のリアル(リアル因果)を捉えてはいないと見て批判したが、これは「論理実証主義の第二のドグマ」と名付けられている。要するに、クワインによる「論理実証主義の二つのドグマ」に対する批判から、新たに理解されたのは<環境(正確に言えばエトノス環境)との日々新たな共鳴のなかで人間のリアル(リアル因果)は永遠に未了であり続けるのが必然で、それは絶えず内外環境と共鳴しつつ修正され続けている、ということになる。

そして、この辺りは、ネオ・プラグマティズム、正統保守主義歴史修正主義ならぬ!)、トマス・クーン『パラダイム転換』などと奥深くで反響し合っていることを感じさせる。因みに、クワインは自らの哲学を次のようなメタファーで要約している。

・・・すなわち、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る私たちの知識や信念の総体は「周縁部(フリンジ/fringe)でのみ経験と接する人工の構築物」ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされるのである。この描像の下では、理論(あるいは“思想”としてのイデオロギー)と合致しない観察結果が得られたときに生ずるのは、なんらかの特定の仮説の撤回ではなく、その信念体系内の各命題に割り当てられていた真理値の再配分なのであり、絶えず、そこには多くの選択の余地が残ることになる。(言い換えれば、本物の“思想”は無限の可能性が絶えず拓ける状態にあり続けることになる!←補、toxandoria)》(中山康雄著『科学哲学』(人文書院、p88))


2−3 米国法思想史の概観/プレモダニズム、モダニズム、ポストモダニズムの流れは「リベラル共和」を志向するプラグマティズムの深化と共に歩んできた


・・・プレモダニズム、モダニズム、ポストモダニズムの流れ・・・

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ごく普通に考えてみれば人間の意識の営みの中枢にある諸概念がそれ自身の力だけで変化することはあり得ない。それどころか普段の我われが常にそれを意識するかしないかはともかく、まさにクワインが指摘するとおりであるが、各々の信念体系内部ではエトノス環境との間での共鳴が発生しており、その内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分が絶えず行われている。これは米国法思想史の流れでも矢張り同じことであり、それが西欧哲学の流れと共鳴しつつ変遷してきたことが観察される。

一方、ある広範で、時には大変革を伴う社会的事件が知的変化を促す結果として、法思想が変遷してきたことが理解できる。その意味での重要な事件としては南北戦争、ベトナム反戦運動、公民権を巡るブラックパワー運動などを挙げることができる。中でも特にメタフィジカル・クラブのメンバーの一人、オリバー・ウェンデル・ホウムズ・ジュニアのプラグマティズム意識の誕生を促した南北戦争の影響が重要である(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 )

それは、米国史で最大の62万人という戦死者を出した「南北戦争」(同じ国民同士の非常に残虐な殺し合い)へ参戦した過酷な経験がホウムズに対し「些かでも油断すると、穏当な思想であっても、それは教条的イデオロギー(他人へそれを強制するもの)へ変質し易いこと、いったん殺戮戦争が始まってしまえば、その戦場では如何なる思想もイデオロギーも全く無力化すること」を知らしめた。そして、そのことが「それなりの正しさを重視して今を生抜く」ための哲学、プラグマティズ(それは、建国(独立)いらいリベラル共和を志向してきたと見るべき米国法思想の核心となっている)の誕生を促したのである。

スティーブン・フェルドマン著『アメリカ法思想史―プレモダニズムからポストモダニズムへ―』(信山社)の著者・猪俣弘貴氏によれば、プラグマティズムを法哲学の核心と見る米国法思想の特徴は「思想と社会的利益は複雑で弁証法的な関係において相互に作用する」と考える点にあるようだ。

従って、米国における「法」は、公正な利益を実現するための道具(パースの道具主義の意味/それは限定合理主義のそれ(無限の道程の中で、それなりの正しさの有意性の評価を最重視し、それを実現する道具/参照⇒2−2)であることになる。そして、そのような意味で、「法」が常に米国の最も重要な社会制度の背骨であることを全否定する米国民は殆どいない。

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そのため、事実上、今や国家そのものがグローバルOTT産業化(https://www.hivelocity.co.jp/blog/27343/)しているので(無論これは比喩的な言い方だが)、従来型製造業と同じ感覚でトランプが中国IT企業を敵視するあまり過剰攻撃すると、天に唾を吐くの謂いで、その敵視“貿易”政策が米国自身の憲法問題(特に、米国民の生存権に関わる)に変質してトランプをブーメラン攻撃(支持率低下へ直結)することもあり得ると考えられる(参照/添付、一枚目の画像)。

・・・同書に従って、以下に米国法思想史の流れを纏めておく・・・

[プレモダニズム期](米国独立〜南北戦争)

・・・欧州と同じく、自然法思想に忠実であった時代。市民革命と独立戦争を指導した自然法思想が米国法体系の基礎であると考えられていた。

[モダニズム期](ポスト南北戦争〜1960年代前半)

・・・プラグマティズム(メタフィジカル・クラブ/関連参照⇒(2−1))の影響を受け始め、それが定着した時代。言い換えれば、憲法が、パース流の「公正な利益(限定合理主義の果実)を実現するための道具」として、日常的に適用され続ける裁判規範として捉えられることが定着したことになる。

・・・世界大恐慌のあと、このプラグマティズム流の「公正な利益」に加えてフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策に反映された「社会的な公正」(特に、個人の尊厳と生存権に関わる適正な分配の意味でのディールを重視する!)の考え方が憲法の基礎に流れ込んだ。

・・・それは、大恐慌や金融危機の時に、自由原理主義アダム・スミス“市場の神の見えざる手”の短絡的解釈に因る誤解!)の決定的な弱点(マネー原理主義故のノモス的(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713 )な欠陥)が必ず露出することを学んだからである。

[ポスト・モダニズム期](1960年代後半〜現在)

・・・クワインおよびローティ(委細、エピローグで後述)らのネオ・メタフィジカル、および分析哲学者・ディヴィッドソン(委細、後述)らの影響を受け始めた時代。大きく捉えれば、欧州の自然法思想の弱点を更に修正するネオ・プラグマティズムの考え方が深く影響しつつある。


3 個人の尊厳を重視する「欧州(EU)GDPRの先進的規定とそれを見習いつつある米国/一方、政財労界&メディアおよび国民の殆どが無自覚かつ無防備な日本


3−1 恐るべきAIデジタル・ナルシス(超類型化AI社会リスク)の脅威


・・・日本では、多数派国民が「AI-SNS社会化に特有のフィルター・バブル」(=AIデジタル・ナルシス(超類型化AI社会リスク))らのリスクの問題に殆ど無関心である現実が、安倍政権の<“公文書”改竄・削除・隠蔽>と相まって、この二つの合併症である<共約不可能性(incommensurability)>症候群の重篤化を促す!・・・


(1) それ故、一般国民目線でAIデジタル・ナルシスを制御し、共約不可能性を解消する新たな「日本国憲法の役割」の発見が急務

すでに述べたことだが、プラグマティズム創始者の一人、パースは「トークン(個性的な個々の実在/因果連鎖)とタイプ(抽象的な普遍・論理)の峻別」(Type-token distinction)という重要な着眼点を提供しており、これは「超類型化AI社会」(≒AIデジタル・ナルシス/デジタル専制社会化)の時代へ着実に入りつつある我が国にとっても非常に重要で、新しい「普遍観念」創造の可能性を提供することが予想される。

なお、共約不可能性とは、例えば 1と√2の比のように、いかなる整数比によっても表現できない量的関係を表す数学用語で、「共通の物指しで測れないこと」を意味する。科学史家、科学哲学者のトマス・クーンが『科学革命の構造』(1962)において科学史上の異なる研究パラダイム間の関係を表現するために用いたことによって、科学史、科学哲学の重要な用語となった。


(2)「国体論」複合カルトの果てに潜む「AIデジタル・ナルシス」(超類型化AI社会リスク)暴走の危機!


・・・それは強欲と傲慢の極み、そして余りの反知性主義というおぞましさ、人間の性(さが)という罠に堕ちた安倍政権・・・

安倍政権が退陣しようが、しまいが、<モリカケらを筆頭とする一連の大スキャンダル、アベ・ゲート事件の根本原因が、維新政府の時に仕込まれた「幕末ミッシング・リンク(戦前期のダミー市民宗教(ルソー)たる顕密二元論の隠蔽”であったこと、つまりそれはアベ型“構造災”であるという、戦前からの連続性がリアルに意識され、周知されなければ、第二・第三のアベ・カルト(今度は、超類型化AI社会リスクと更に深く癒着した!ビッグデータを高速処理するAIに対する過剰な期待がほぼ信仰の対象である神のレベルまで亢進することにより、国民層が類型化処理され、分断化されるという実に恐るべき社会的危機を意味している)が出現するのは必定である。

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なお、「超類型化AI社会リスク」(AIデジタル・ナルシス(デジタル専制社会化)とほぼ同義)は、『おそろしいビックデータ』(朝日新聞出版)の著者・山本龍彦氏の造語である。それには、恐るべき近未来の地獄絵、つまり「フィルター・バブル(『閉じこもるインターネット』の著者 イーライ・パリサーの造語)&『デイリー・ミー』(The Daily Me/キャス・サンスティーンの造語)など、愈々、本格化する超AIビッグデータ社会化が、日本国憲法の保障する“個人としての尊重”(第13条)と“最低限度の生活の保護”(第25条)」が完全破壊される時代の到来を警告するための造語である。

因みに、第1章で取り上げた「デジタル専制国家」とは、「AI+BD(ビックデータ)」の本質が、例えば下のような点●(出典:山本龍彦著『おそろしいビッグデータ』)にあるため、AIが暴走する可能性だけに留まらず、それを悪用する政治権力(“安倍政権”的な国体カルト政権?)が、再び新たな専制支配力を手中にする可能性が高まることを意味する。

●フィルター・バブル、デイリー・ミーなどで、AIシンギュラリティ信仰は際限なく人々をセグメント化するパワーを得ることになり、新たな差別(バーチャル・スラム化など、AI・BDプロファイリングによる個人『信用力』の一方的な破壊により新たな差別の発生が懸念!https://www.cvfinance.com/contents/support/report.html?act=d&kind=1&id=333)が次々と生まれる恐れが大きくなる(関連参照/3−1(2))

●AIはBD(ビッグデータ)を餌として急速に、しかも無限に生長するため、AIの判断能力とスピードに人が追いつけなくなる

プログラマーがAIディープラーニング(AI自動学習)のアルゴリスムを理解できなくなるレベルに入ると、AI暴走の懸念が高まる(Ex.テロ対策を逆手に取る予測的警察活動(Predictive Policing)https://www.nij.gov/topics/law-enforcement/strategies/predictive-policing/Pages/welcome.aspx など)

●AIのBD分析には、本質的な意味で可謬性(原理的に必ず間違いが起こり得ること)の問題が付きまとっている。例えば「相関関係もどき(うわべだけ、みせかけの相関関係)の出現」、「みせかけの有意性データの出現」など。

ところで、山本龍彦・著『おそろしいビックデータ』によれば、最も懸念すべきが「AI・BD分析」で『日本国憲法第13条が保証する“個人の尊重”』と『同25条が保証する“国民の生存権、国の社会保障的義務」”』が根底から破壊される可能性が急速に高まっていることだ。我われはネット利用環境の中で、個人プロファイリングが既に日常化しているため普段はあまり意識しないだろうが、よく考えてみれば、生活の凡ゆる側面がネット利用とクロスする次元で個人プロファイリングの監視網の中に今や際限なく取り込まれていることを自覚すると空恐ろしく感ずるのではないか。

同書の中で山本龍彦氏は、その問題点を次のように指摘している。・・・憲法上の「個人の尊重原理」は、(1)人間の尊厳(職歴・犯歴・趣味などのデータ・ステグマの否定)→(2)狭義の個人の尊重(血(民族・出自)・階級など集団からの解放)→(3)個人の尊厳(過去の差別の助長などの排除による、自律の保証)→(4)多様性の尊重(誰でもが対象となり得る新たな差別発生の排除)という4層から成っているが、野放図な「AI・BD分析」の利用は、これらの全てを根こそぎにする恐れがある。・・・

その結果として、予想されるのが「前近代への退行、AI・BD分析による個人の自由の制限(一方的に、絶えず決めさせられる私の出現!)、そして民主主義そのものの崩壊」という、まさに悪夢の如き由々しき世界の到来である。このような現実を目前として、我われはどのように対処すべきなのか?日本の「安倍国体複合カルト政権」の「お仲間ネポティズムこと政府主導“偽装合法談合”、大嘘、改竄、隠蔽、削除」など<腐臭芬々たるアベ式“大スキャンダル”の山>から、只ひたすらの逃避行を謀るバカリであるのを傍目に、欧米諸国は、着実にこの問題への先進的な対応を模索しつつある。


3−2 刮目すべき欧州(EU)GDPRの先進的規定


・・・欧州とアメリカの<民主主義と憲法>に関わる議論は日本と全く異なる状況であり、それは欧州型(“普遍”理念の重視)と米国型(個々のリアリズムを尊重するプラグマティズム)という<二つの異なる政治哲学の培地>から生まれたが、次第に同じリベラル共和の実現へと進みつつある・・・

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[資料]欧州GDPRの先端的規定、プロファイリングに異議を唱える権利(中止請求権)など/EU一般データ保護規則(GDPR)の概要(前編、後編)

http://www.intellilink.co.jp/article/column/security-gdpr01.html 

http://www.intellilink.co.jp/article/column/security-gdpr02.html

(欧州/EU)

欧州における民主主義の特徴を短く言えば「理念型“普遍”の価値=欧州連合基本権憲章、欧州人権条約で集約」を培地としつつ、同「憲章」などの価値理念が経済秩序を包摂するという思想がベースとなっていることである。従って、持続経済と経済活性化のため市場原理を活用するにしても、“普遍”の価値理念を冒すことは許さない。

ただ、既に触れた<リップマン“大衆論”>の予見どおりであるが、“グローバリズム・情報・AI”化(21世紀型の新たな巨大大衆化現象)が急速に深化しつつある昨今では、益々、一部専門家集団による政策主導への傾斜という由々しき問題が影を落とていることも否定できない。例えば、特に東欧における右傾化(というよりも、保守を騙りつつ歴史について不勉強な偽装極右化に因る社会的分断の発生)はその典型であり、いま欧州連合は、EUエリート層化した一部専門家集団(テクノストラクチュア/ガルブレイス)による政策主導のあり方について様々な修正が迫られている。

しかし、これは今の日本が嵌っている『民主主義憲法と歴史を蔑視する“反知性主義的な意味での歴史修正主義者、日本会議”らが主導する、いわば『アベ様のお仲間(ネポティズム)によるスペックイン(政府主導の偽装合法談合=モリカケ、財務省の超堕落事件および齊藤元章@PEZY ComputingのAI&スパコン・スキャンダルがその典型!)の跋扈&横行』という昨今の安倍内閣を巡る、実におぞましい<狂気政治の所業>とは全く異質であることを肝に銘ずるできであろう。

ともかくも、欧州では「民間企業による個人情報取り扱いの規制およびデータ保護(法制)」と「人間の尊厳、個人の尊厳(個人の尊重)など基本的な憲章上の価値」(日本の場合、これは日本国憲法第13条(個人の尊重)、および同第25条(国民の生存権、国の社会保障的義務)に関わる)が切り離されることなく、しっかりと議論されている(関連参照⇒上掲のEU一般データ保護規則(GDPR)の概要)。

因みに、欧州(EU)GDPRの第1条は<本規則は、自然人の基本権利および自由、ならびに、彼らの個人データ保護に対する権利を保護する>と明確に書いており、それが加盟各国の憲法の価値観を最重視していることを強調する。

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22、23、24

結局、それは『AI・BDの個人プロファイリングに対し、人々は異議を唱える権利(right to object)を有する、この権利が行使されると、事業者は原則としてプロファイリングを中止しなければならない』という、最も重要な欧州(EU)GDPRの第21条一条を支える砦となっている。AI・BDプロファイリングへの意義申立どころか、それより遥かに低次元な<アベ様の暴政>に対し、彼が嘘つきの極みであると分かりつつも、一向に何らright to objectを実行しようとしない国民が多数を占める今の日本の現状との余りの落差に愕然とするばかりである(画像参照)。

(米国)

オバマ政権下のアメリカでは、ビッグデータの利用例がマイノリティー排除や差別に繋がる懸念から、政府内部において熱心な検討が繰り返されてきている。ただ、アメリカの場合は、理念型の“普遍”に因るリベラル共和志向の欧州と異なり、プラグマティズムに因るリベラル共和志向の伝統に基づいているため、裁判所による緻密な判例を積み上げる手法で、ビッグデータの利用の規制が検討されつつある。

オバマ政権の政策を全否定することをモットーとするトランプ政権下でも、例えばトランプ大統領がモラー特別検察官の解任(トランプ自身のロシア疑惑関連で)へ踏み切れないことが象徴するとおり、アメリカではたとえ大統領であっても、米国民主主義の“虎の尾”を踏むことを意味するため、合衆国憲法と米国法制そのものに反する行為を断行するという決断へは、なかなか踏み切れない。

因みに、米国民主主義の“虎の尾”(過半超の米国民が辛うじて、しかし強固に共有する逆鱗/これは、トランプ支持が約4割で歩留まりし米国民の分断が固定化されていることの原因の一つとも考えられる)が意味するのは、もしその事態となれば米国史上で最大の政治危機(思想Vsイデオロギーの闘争であった南北戦争の火種が再燃する恐れ/関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307 )となることに加え、これまで述べてきたプラグマティズム法思想の伝統から、必然的に「薄氷を踏む憲法上の争い」に嵌ることを意味する。

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また、それが辛うじて維持されてきた司法積極主義(特に、リベラル傾斜のウオーレン・コートいらい強く意識化されてきた/出典:松井茂記『アメリカ憲法入門』―有斐閣―)の伝統ということでもある。従って、トランプ政権下のアメリカとはいえども、少なくともAI・BD利用についての規制に関するかぎり、オバマ政権で検討を重ねてきた、マイノリティ保護をはじめとする個人の基本権を尊重するという憲法上の観点からの活発な議論が停滞することは許されないことであろう。

そして、近年は「ウイスコンシン州最高裁のルーミス判決」(AI自動処理によってのみ重要な決定を下されない権利についての判決)に類する判決が、裁判所による判例法として承認される事例が多くなりつつある(関連参照/下記▼)。

▼再犯を予知するソフトウェアは人種差別的?http://www.sekaiwoyakusu.com/entry/machineracism 








(エピローグ)希望は「日本型リベラル共和」の可能性(結論に代えて)


(再認識すべき、“ルソー市民宗教”としての伝統日本文化の意義)


・・・その特質は、十分に水平的なプロトモダニティ(日本型リベラル共和意識)が歴史的に存在してきたということ・・・

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重要文化財 http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kaiga/184.htmlより部分転載

・・・すでに江戸時代(17世紀初頭〜前半、寛永期頃〜)の日本には、俵屋宗達あるいは本阿弥光悦のような“現代のエトノス環境論にすら匹敵する、マクロ・ミクロ両世界に広がる非常に広大な世界観を「巻物」なるアナログ空間(それと相対的に見れば書物(図書上の図版・画像)は頁ごとに分散したデジタル空間)のなかで見事に演出、あるいは表現できる優れた美学や芸術作品”を大いに支持し、愛好する、もはや上下の身分層を遥かに超えるという意味では、十分に水平的なプロトモダニティ(日本型リベラル共和意識のタネ)が、いわば“近代的な市民感覚の種苗”がすでに自生的に先行し、存在していた事実に驚かされる!(Cf.要参照↓★)

★盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されているhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 

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27、27−2

その意味で、日本には「リベラル共和」型の民主主義を本格的に実現する素地が十分にあると思われるが、問題はその歴史的事実に対する日本国民の覚醒の有無であり、“今や<嘘・改竄・隠蔽そして高級官僚らの作為的な記憶喪失>が溜まり過ぎて、恰も<完全出口ナシ汲取便所>式の<複合カルト妖怪>と化したアベさまに体よく騙され続けているようでは一向に埒が明かない!苦w(日本のプロトモダニティの委細は下記▼を参照乞う)。 

▼2017051・toxandoriaの日記/盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている、

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 

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28、29、30

[自民総裁選の番頭に聞く:萩生田幹事長代行「首相交代が国益に叶うか?」 日本の将来が懸かる外交こそ安倍政権の使命!20180423産経]という実に“異様な情報”(安倍“国体論”複合カルト政権の呪文?苦w)が象徴するとおり、“そのウソの山”が悉く白日に曝されたにも拘わらず、支持率が3〜4割で下げ止まり(3〜4月:読売43%、同:朝日31%)、アベ改憲すら否定されている”にも拘らず、張本人の安倍首相が未だに意気軒昂であり、その使命たる?w外交に勤しむことができるのは何故なのか?

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31、32、33

しかし、安倍首相が、外遊先で相も変わらず巨額の国民の税金を鷲掴みにしてバラ撒く“御大尽外交”に狂奔する一方で(安倍在任中のバラ撒き累計額はmin.30兆円!?)、肝心の日本外交の基盤が、添付画像の如く外務省・内閣府など中枢部分から激しく腐敗し崩壊し始めている!

結局、究極の原因は、これは以前から指摘されてきたことであるが、日本国民一般の主権者としての自覚の欠如ということであり、その「日本の民主主義のアキレス腱」が3〜4割の<固定アベ支持岩盤>として統計的に濃縮された形て表れている訳だ。より具体的に言えば、その症状を引き起こしている病原体は第1章で取り上げた『恐るべき「国体論」複合カルト(アベ国体カルト)の正体/病巣=日本会議ら』と、本来あるべき正統保守の決定的な違いを日本国民の殆どが理解していないことである。

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それに加え、最も危惧すべきは<「国体論」複合カルトの果てに潜む「AIデジタル・ナルシス」(超類型化AI社会リスク)暴走の危機!>ということであり、更にその致命的な悲劇を危惧させる動向の根本には、例えば、これも今まで見たとおりであるが、必然的にリベラル共和を志向すると思われる民主主義が先ず前提とすべき「感情」と「道理性」をめぐる政治哲学>の不在ということだ。しかも、これは必ずしも英米型のそれに拘らずとも、例えば、上で取り上げた事例サンプルの如く日本的な「伝統文化と美的感性」などを“ルソーの市民宗教”として活用できる「感情と道理性」の政治哲学(or政治美学)があり得るにも拘らずである。例えば、この日本的「伝統文化と美的感性」の新たな可能性に関わる議論は、米国の宗教・神道学者トマス・カスリスが論じている(関連参照↓★)。

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★多数派日本国民が共有する「神道」に関わる誤解/トマス・カスリス著『神道』の警告

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104















(感情と道理性をめぐる政治哲学の議論/ローティのロールズ批判、およびディビッドソン『基本的解釈』の重要な意義)

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そこで、「安倍首相・去就の問題」はさておくとして、その先に予想される「より深刻な危機」へ備える心構えの参考として、最も先進的な<「感情」と「道理性」をめぐる政治哲学>の議論に関わる、特に注目(重視)すべきと思われる論点を纏めておく(なお、以下は大賀裕樹著『希望の思想プラグマティズム入門』―筑摩書房―を参照しつつ,toxandoriaの見解を整理したものである)。

既述の「主要論点」では敢えて触れなかったがネオプラグマティズムの代表者の一人であるリチャード・ローティは、「自然の鏡」(Mirror of Nature)のメタファーで、我われの心が恰も自然の諸相の中から唯一の真理をありのままに映しだす能力がある「鏡」であるかの如く仮定するデカルト、ロック、カントらの近代哲学を批判する。また、「自由・民主主義・基本的人権」を彼らと同じく擁護しながらも、特に、カント的な理念(正しい概念・範疇の表象を規定する)を根拠とするロールズ、ハバーマス(ドイツの社会哲学者)らをも批判している。 

ジョン・ロールズは、プラグマティズムとは異なる欧州的な思潮のジャンルに入る米国の政治哲学者で、カント的構成主義で正義を説く1971年の著書「正義論」で名声を博した。ロールズは、社会契約に因る正義の原理は自己の利益を求める合理的な人々が共存するための合意がもたらす構想ととらえ、同時に、その構想が必然的に不平等をもたらすとしてホッブズに始まる功利主義を批判したのである(<注>カントには“情念統制理念、論理構成理念”の考え方があるので、必ずしも100%観念傾斜だとは言い切れない、と思われるが・・・)。

ロールズの「暫定協定(暫定契約)に基づく財産所有制民主主義」(ロールズは、これが歴史的な繰り返しの過程で必ず定着、共有されると考えていた)は<カント流の西欧的な普遍観念(功利主義と同じく“理念(観念)”の世界に傾斜し過ぎ)であり、もしこれが唯一の普遍的な正義のあり方だとすれば>、そこから生じる覇権的「強制力」は、やがて非西欧的な文化や社会と必ず衝突することになるとして、ローティはロールズを誤った意味でのプラグマティズムだとして批判した。

見方を変えれば、これは「タイプ(抽象的な普遍・論理に因る表象)Vsトークン(個性的な個々の実在/因果連鎖のリアル)」(Type-token distinction)という、非常に重要なパース(パース流プラグマティズム)の着眼点に相似していることが理解できる。つまり、正義や平等の価値を重視するのは正しいとしても、それをリアルに(我われが生身で生きる世界で)実現する方法は、エトノス環境(当然、そこには生命そのものと分離できない感情・情念・情感も含まれる)の意味での自然・文化・伝統・社会など凡ゆる内外の因果的緒条件との絡みで、日々に更新されることが必然であると見るべきだということである。 

そして、ここからローティは『道理性(reasonability)と合理性(rationality)』の違いということを導く。つまり、ローティは<ロールズが西欧近代の政治文化をベースとする正義の原理と基本的人権の観念を『万民の法』と捉え、それをそのまま他の文化圏にも適用が可能な普遍性(普遍的観念)と見る>ことに対し、“普遍”観念と因果連鎖のリアルを峻別する視点から疑義を主張したことになる。

そして、我われはローティの説く道理性(reasonability)が感情(情念)と深く関わっていること、道理性(reasonability)と合理性(rationality)は対立関係にあるものではなく、また両者の関係が一律で普遍的なものではないことも理解しなければならない。それは、合理性も感情(情念)と深く関わっているからだ。因みに、動物一般では彼らが言語を持たぬためヒトより遥かに厳しく苛烈な一回性の生のリアルを生きていると考えられる。ともかくも、人類の場合はこの道理性と合理性のバランス関係の一回性(ルドン美学が発見した“ミクロ・マクロ世界に跨り環境内を浮遊しつつ際限なく生成と消滅を繰り返す、そして夫々は掛け替えなく個性的な中間の媒介的生命の連鎖であり続ける”という目前の幻想的光景)こそが、実は言語を持つ人類の場合であっても、逆説的になるが、それこそが多様な文明・文化を育んできたのだという事実を深く理解するべきではないか?と思われる。

だから、その道理性であっても、それが唯一の観念的“普遍性”として強制権力的・武力威圧的に定義され、それを非西欧的な世界や異なる民族へ押しつけることになれば、例えば安倍政権が掲げる積極平和主義の如く衣の下の暴力(先制攻撃の刃)へ転化してしまいかねないことになる。そこで、必須となる考え方がドナルド・ディビッドソン(分析哲学の系譜の研究者といえるがカント、クワイン、ローティら欧米哲学を一つの視点から捉え直すという観点に立つ米国の哲学者)の『一つの世界についての複数の記述(根本的解釈)』の問題ということである。この視点からは「生き方としての民主主義」を重視する方向性が生まれ「討論型世論調査http://keiodp.sfc.keio.ac.jp/?page_id=22 など新たに民主主義を深化させる工夫への取り組みも始まっている。

ともかくも、『根本的解釈』について短く言うならば、それは<そもそも異なる信念をもつ者同士であっても一方に威圧的な感情が存在しない限り“程々の意思の疎通としての会話”は成り立っており、ほぼ平和裏に折り合いがつくことが多い>という考え方である。たしかに、平和裏で日常的なコミュニケーションやヒトとペットの関係等々の様々な場面を振り返ってみると、多くのケースでは、必ずしも、そこでは“普遍”的でパーフェクトな会話は必要とされておらず、その「一つの世界についての複数の記述」という交流環境にも拘らず個々の個性的文化のあり方や生ある者としての個々の生き方(尊厳性など)は尊重されている。しかし、我われは、再び、ここでデューイのプラグマティズムの「保障された言明可能性」という考え方を想起すべきである。

逆説になるが、特に高度な言語コミュニケーション社会(契約社会)の中で生きる我われ人類の場合は、そもそも当たり前であったはずのローティ―『根本的解釈』の世界を維持するためにこそ、言い換えれば「哲人・聖人・君子ならぬ凡人のための民主主義」を保全するためにこそ、血みどろの闘いのプロセスで漸く人類が手に入れた社会契約に因る“普遍”およびそれに対する批判から、一層より深く理解できるようになった道理性(reasonability)に基づく円滑なコミュニケーションのあり方などの大前提となる、政治行政の<信用>を繋ぎ留めるために必須の<公文書(ドキュメント)・歴史資料等>を最重視すべきだということになる。このような意味でも安倍内閣の<嘘・改竄・隠蔽に頼る行政手法=戦前型の国体論なるカルト幻想観念(追憶のカルト)に因る詐欺政治>は、非人道の意味でも最悪である。

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つまり、安倍政権がやっているのは<人類が経験してきた民主主義へ至る歴史を無視しつつカネメのバラマキとウソ八百を抱き合わせ、一方的かつ威圧的に相互理解をムリクリに強制する非常に野蛮な政治>であり、近々の国際関係悪化に留まらず日本社会の調和的コミュニケ―ションの崩壊が急速に高まる恐れがある。おそらく、その危険性を経験的・歴史感覚的に最もよく理解されており、その学びから得た象徴天皇制(日本国憲法)の意義に対する自らの信念(責任感)を<象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば20160816>の形で表明されたのが今上天皇である。http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

このことを、『国体論−菊と星条旗−』の著者・白井聡氏は<天皇のアルカイスム―国を支える「祈り」―>と表現しているが、当然、その深層には「古代〜江戸プロトモダニティ〜戦後〜現代」へと伏流してきた、世界に対しても大いに誇るべき日本文化(東アジア系の渡来複合文化を基層とする皇室文化が源流となる)の伝統が存在する。今こそ、このような観点から、例えば幕末期〜明治維新の英傑たち(吉田松陰坂本龍馬福沢諭吉ら)の日本的“白日”(日本的“普遍”の気づき)の意味を深く噛みしめ直すことが肝心であるだろう。それは、必ずそこから欧米流とは異なる日本型リベラル共和へ進む途が見えてくるはずであるからだ(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180307/なお、日本国憲法下の現代日本で生かすべき、十分に生かし得る天皇のアルカイスムの問題については、白井聡氏とほぼ同様の視点で、宗教学者・小山悳子氏が論じている/関連参照↓▲)。 完

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▲正統保守が基本とすべき視点/日本の心の原点を伺わせる神道書『神令』によれば、「天皇制」草創期(およそ“大化改新”以前)の伝統神道は天皇に対し民衆を平等に見なす「徳治政治」を求めていた http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160109

2018-03-07 幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、松陰「白日」の削除を謀

toxandoria2018-03-07

幕末「普遍の自生史」隠蔽は正統保守に非ず、松陰「白日」の削除を謀るアベ独裁は戦前構造災の再来/敗者と異論への寛容(思想)の回復が必須

クロード・モネ『ジヴェルニー、春の効果』

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・・・Claude Monet「Effet de printemps, Giverny」1890 100 x 60 cm oil on canvas London, Private Collection Lefevre Fine Art Ltd.

Debussy - Fantaisie pour Piano & Orchestre - Andre Gallo

D

https://www.youtube.com/watch?v=Lxjcxo7LdBI


(Preface)

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・・・メタフィジカル・クラブ(参照⇒エピローグ)のメンバーの一人、オリバー・ウェンデル・ホウムズ・ジュニア博士(19世紀後半〜20世紀初めに活躍した米国の法律家・連邦最高裁陪席裁判官/留学中の金子堅太郎の家庭教師を務めた)は、合集国(連邦)のために「南北戦争」を戦った経験から、「ボストン(最愛の郷土)と合集国が全く別物であること(普遍の価値観)を二次的な意味で再発見したとされる。一方、同様の環境下で「戊辰戦争」を戦い勝利した明治維新政府のリーダーらの多くは、この「普遍」(吉田松陰坂本龍馬らが既に気付いていた)を敢えて無視するか、あるいは無知であった。(出典:野口良平『幕末的思考』、同氏・監訳『メタフィジカル・クラブ』/いずれも“みすず書房”刊/ホウムズ・ジュニア博士の画像はウイキより)・・・






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白日隠蔽の発覚1、2、3

・・・新たに判明した歴史「事実」である<維新政府が隠蔽した「白日」の発見>を安倍晋三・内閣が毛嫌いする不可解!その「白日」とは、カント「情念統制、論理構成」の二理念とも呼応する<吉田松陰ら幕末期“草莽の獅子”たちのリベラル共和的な“普遍”への覚醒>であった!・・・


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恐るべきアベ独裁1、2、3

安倍政権に付き纏う≪『公文書改竄』常習犯罪≫の原因/今後の課題)

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・・・それは恰も“一強アベ様による<対総国民「パワハラ政治」暴走の観>を呈し始めている”が、<民主国家の「法の制定者」(つまり、主権者!)である筈の一般国民>が余りそれを感じていない?のが、今や最大のリスク(日本の存亡の危機)”となりつつある!・・・

・・・そもそも、政治・行政のドキュメント情報は「隠蔽したり、捏造・改竄したり、むやみに又は勝手に削除(消去)したり」できる、悪意を持った立場にとって好都合なツール(政治の小道具、打ち出の小槌)ではなく、それを如何に正当に評価してインテリジェンス化できるかを考えるべきものであり、それこそが政治・行政に関わる情報リテラシーについての正しい理解である・・・

独裁を意味する英語、dictatorship(動詞dictate)には、そもそも「人に要件を書きとらせる、ヒトに命令する」の意味がある。指図のコトバを書きとらせ、あるいは口頭で命令するということは、つまり人の意識や内面で発するコトバそのもの(ヒトの文化的意識の出入口たる動作環境(口と手)と意識全体)を強権的に、かつ一方(強)的に、特定イデオロギー(これは思想に非ず!)で強制支配することになる。すなわち、そのように見ると実は独裁が政治的な意味に止まらず、国家の一定フレームを共有する国民の文化トータルに対する一強支配であることが分かる。安倍政権に付き纏う<「公文書改竄」常習犯罪>の問題も此処に淵源がある!

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加えて、“驚くべき一強政権”とさえ呼ばれる安倍内閣には一般の定義(その委細はエピローグ末尾の<補足2>にある)から外れた非常に奇妙な「デジタル独裁」の傾向が顕著である。具体的に言えば、それは(1)SNS活用によるネトウヨ仲間“増殖”orインスタ映え戦術など、と(2)無定見で節操がないシンギュラリティ万歳!(経済財政諮問会議による最強の科学技術“前特異点”創造戦略)の二本柱である。

ところで、健全な思想は「寛容」であり、それは人間の生命と共に無限に深化するがイデオロギー(化石観念化して霊界を漂う面妖化した思想、例えば安倍晋三・政権、日本会議、あるいは米トランプらが囚われている“追憶のカルト”、“マイ・ファースト妄想 ”など/補、toxandoria)とは全く別物と見るべきである(参照資料:ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』―みすず書房―/<注>この書名(というより、そもそも其のクラブ名)は、過剰に形而上学世界へ傾斜することの危険性を批判し警告する意味で付けられている)。

一方、如何に過酷な状況に嵌った(あるいは、仮に欺かれたり嵌められたりして敗者(負け組)側の煉獄に堕ちた)としても、健全な思想を求め格闘しつつ、その持続を覚悟する者たちは(例えば、吉田松陰、坂本龍馬、中江兆民福沢諭吉中里介山ら)は、只の無節操な転向とは全く異質な思想のエンドレスの深化の方向性を実存化する。そのためのヒントは“大文字の生” (内外のマクロ・ミクロ双方をしっかり視野に入れた意味での全エトノス環境)に生かされている“小文字の生”(人間)に必須の「寛容かつ普遍的で共有が可能な覚醒」であり、それは「只のメタフィジカル(ひたすら天空ないしは霊界へ超然と飛翔するだけの理念)の意味ではなく、一般の国民層(つまり草莽たち)が生きるリアル・ゼロの地平にこそ必要な価値を、日々、新たに発見する」ということである(中里介山の長編小説大菩薩峠』の主人公、机龍之介の過酷で理不尽な生き様の“メタファー”が提示する覚醒!/参照資料:野口良平『幕末的思考』―みすず書房―) 


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財務省の文書書き換え1、2、3

一方、余りにも露骨な<「公文書改竄」常習犯罪>の問題が急拡大しており、最も肝心な「政権自体への信用」がフリーフォールし始めたかに見える。この裏に隠れた安倍首相の心理(ホンネ)は「敗者、異論者、敵対者」に対する不寛容、ヘイト、そして特異イデオロギー押し付けである。言い換えるなら、これらの人々を全く信用しない!ということであるが、政治理論的にも「異論者・政敵(政争の敗者)らも含めた相互信頼関係を重視」する政治が経済・財政的に最もリーズナブルであることが分かっているため、この安倍内閣の政治手法は完全に誤りである。

従って、我われ有権者は(今からでも遅くはないので)「思想とイデオロギーは本源的な意味では全く異質なものであること」(それこそが当記事の通奏低音であり、結論でもある!)についての理解を深めつつ、特に<敗者、異論、敵対者らへの寛容な思想の回復>を急ぐべきである。

f:id:toxandoria:20180305142446p:image:w300f:id:toxandoria:20180305142523p:image:w355松陰削除1、2

<注>吉田松陰・坂本龍馬らを教科書から削除!の主張(左右両サイドからの?)の背後に蠢く安倍政権・日本会議らの不可解な空気!

・・・歴史研究の成果で、吉田松陰・坂本龍馬らの思想が、実は日本会議、安倍晋三首相ら、いわゆる偽装極右派(決して彼らは正統保守に非ず!)の期待と真逆で、実は「普遍」への自生的な覚醒(正統な愛国心の根源への気づき!)であったという新たな事実が判明してきている(出典:中野良平『幕末的思考』(みすず書房))。


プロローグ)戦国期まで遡る17世紀・江戸「プロトモダニティ」(列島自生“普遍”の苗床)の源流

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・・・(左上→左下(二段目)→右下(二段目)→右下(三段目)の順)上杉本(右隻)、同・部分1:鉦叩き(左隻第5扇下部)、同・部分2:高野聖(右隻第6扇下部)、同・部分3:三条西邸(右隻第6扇中央)(画像はウイキより転載)


国宝指定(1995)の上杉本「洛中洛外図」屏風は、米沢藩藩主の上杉家に伝来したもので、米沢市上杉博物館が所蔵する。織田信長上杉謙信に贈った狩野永徳の作品(16世紀)とされる。なお、「洛中洛外図」は、戦国時代(16世紀初頭)から江戸期にかけ制作されたが現存する良質作品は約30〜40点である。


・・・


・・・おそらく日本伝統「プロトモダニティ」の原点は「洛中洛外図」屏風の世界にあるが、市民生活の全貌を表す景観を、ある高さから俯瞰しつつ個々の姿を平等に描く芸術家(画人)の行為の賜物である「洛中洛外図」には斬新なプロトモダニティ意識(西欧の遠近法とは異なる日本美学的な水平の視点)の発見ということがある。・・・

・・・そして、この伝統こそが、後年に日本列島で自生することになる地生えの普遍への覚醒たる吉田松陰の「白日」(委細、後述)、又は“一揆など武力蜂起に限らず自律的な闘い方(司法的な戦い方/その嚆矢となったのが『白岩目安往来物』)があり得ることを記憶する百姓たち(『白岩目安往来物』関連/下記の◆参照)”を誕生させた苗床であったと考えられる。・・・

◆明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学アカデミズムの土壌/が、今や『詩織さん事件』がその信頼性を崩壊させつつある!http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107

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教育勅語1、2、3

目下、盤石に見える(?)国民の支持を得て一強を誇る(奢る?)安倍政権は、愈々、この4月から全国の小学校で「道徳の“教科”化」を始動させる。しかし、明らかに、この動向には日本人を「玉砕(全滅死)をも辞さぬ自己犠牲で皇国の扶翼のために尽くすという国策“道徳心の精神世界”」(明治20年代以降の勝者側による、天皇の密教的な政治利用)へ連れ戻す(戦前回帰させる)という思惑が潜んでいる。

それは、「安倍政権が、既に、議員から提出された質問主意書に対する答弁書の形で“憲法や教育基本法に反しないような形で教育に関する『教育勅語』(衆参両議院の決議で、敗戦から3年後の1948年6月25日に勅語謄本は焼却されている)を教材として用いることは否定されない”、と決議しているからだ。

因みに、勅語謄本の焼却(廃棄)に敗戦から3年もの時間を要した背景には、占領軍が天皇の権威(これは“顕教(文化)”的の意味)の利用で占領を円滑に進めようとした意図が隠れている。

しかし、この『教育勅語』に関わる戦後史の一コマは日本会議を守護神と仰ぎ必死で戦前回帰を追い求める、換言すれば天皇の“密教”的な政治利用(政権の意思で好きなように国民を動かし、戦わせ、働かせるための祈祷・呪術の道具としての天皇)の取り戻しを謀る安倍政権が決して正統保守ではなく、只の偽装極右(高々でそれは殆ど非合法な“暴力団かギャング、あるいは暴力テロ組織”のジャンル)であることの証拠にもなっている。 

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保守こそリベラル1、2、3

つまり、それは列島トータルの滅亡が危ぶまれる混乱の極みであった幕末期の「尊皇攘夷Vs尊皇開国」のドグマ・フレーム思考から一歩も外へ踏み出ていないからだ。本来なら、幕末期〜維新期〜敗戦〜現代に至る日本政治に関わる約150〜200年の文化・精神史の視座から、内外のリベラル共和、客観合理(ネオ・プラグマティズム/関連で末尾“エピローグ”を参照乞う)の深化らに関わる動向なども、より大きく俯瞰しつつ爾後の日本であるべき正統保守(リベラル共和主義も取り込む形での)の姿を構想するのが筋である。

1 明治維新政府が隠蔽した「幕末期“普遍”意識」自生の問題

・・・おそらく、「アヘン戦争」の情報が「幕末期“普遍”意識」自生のプレリュードとなった! そして、宇都宮黙霖・山県大華との対話で「白日」(自生の普遍意識)に覚醒した吉田松陰は、偽装極右の教祖でも、テロリストでも、「顕密二元論」(密教的な“天皇の政治利用”)の祖でもなかった!・・・

皇国史観」の神話論理(ミソロジー)が、初めは「維新政府」内で少数の<非主流派>であった尊皇テロリスト派によって更に観念的に過激化され、やがてそこから軍国主義国家・日本の諸政策が誕生したとの原田伊織氏(『三流の維新、一流の江戸』(ダイヤモンド社)の著者)の見方にほぼ同意するものの、その尊皇テロリストの筆頭として吉田松陰が入れてあることには賛同しかねる。

というか、これは従来の大方の見方であったのかも知れない。しかも、だからこそ日本会議、安倍晋三・首相らのアナクロ偽装極右派(彼らは決して正統保守に非ず!)の人々は、そのような意味で明治20年代以降に輪郭がハッキリしてくる「顕密二元論システム」(参照、<注>↓)創造の第一義的な貢献者として吉田松陰を高く評価してきた節がある。

しかし、そもそも吉田松陰の思想の変遷には分かり難い点があった。それは、近年の日中関係史研究の中から、このことについて根本的疑義を突きつける事実が発見されているからであり、例えば王暁秋著・木田知生訳『中日文化交流史話』(日本エディタースクール)によると、林則徐(英国の植民地主義へ抵抗した清朝の官僚)らとも親しかった魏源の著書を吉田松陰が読んでおり、その大きな影響を受けていたからである。

アヘン戦争後の中国で新思想の提唱者として中国人に対し「世界に目を開かせる」役割を担った知識人の代表者である魏源の著書『開国図志』と『聖武記』は佐久間象山(尊皇開国派)・吉田松陰(いま述べたとおり松陰には状況体験と知識・思考の深化に伴う思想内容の変化があるので、その時点での尊皇攘夷派の意味!)ら幕末日本の知識人へ紛れもなく大きな影響を与えており、これが彼らの尊皇開国、尊皇攘夷思想の基盤を作ったと考えられるのだ。

つまり、松陰は特異イデオロギーに囚われたテロリストどころか、ルイ・メナンドが著書『メタフィジカル・クラブ』で教えてくれる“本物の思想の人”(自分が選ばなかった選択肢が常にあり得ることへ十分に柔軟な配慮ができる人物!)であったのだ(この論点についてはエピローグで更に少し詳しく触れる)。

さて、「幕末的思考」(みすず書房)の著者・野口良平氏によれば、驚くべきことに、吉田松陰は山県大華、宇都宮黙霖との対話の経験からカント「a論理構成理念、b情念統制理念」の区分(その委細は後述する)から導かれる考え方、つまり「普遍」の観念のレベルに殆ど到達しており、吉田松陰はその自らが想像した、この列島「自生」の重要な観念を「白日」という言葉で言い表していた。

言ってみれば、松陰は「大和魂」(そもそもはカミカゼ・玉砕などとは無関係な渡来系文化を柔軟に吸収・消化した後に伝統化を志向して形成された列島文化の固有性)と「白日」(人類・世界の普遍性)という、普通の考えでは繋がり難い二つの項を結びつける正統な思考回路を全くの徒手空拳で創造していたことになる(とはいえ、ハリス来日の安政3年(1856)に行われた大華・黙霖との対話で何らかのヒントを学び取ることで!?/特に、黙霖との対話の影響が大きいと思われる)。


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なお、山県大華は長州藩「明倫館」の学頭にして朱子学者の人物だが、吉田松陰との間で行われたその「国体論争」で名高く、松陰の師にあたる人物。両者の意見は激しく対立したことが知られているが、当時、すでに80代であった山県大華が、「(その時の松陰の)日本中心の考え方は時代遅れであり」、「せめて朱子学の祖国である今(その当時の)の中国並に世界へ視野を向けるべきだ(おそらく、正統保守的な意味での「幕末期“普遍”意識」自生のプレリュードと見るべき「アヘン戦争」(1840 - 1842)を意識したか?)」と説いていたことが注目される(画像はウイキ)。

<補足>見過ごされてきた「斉藤竹堂、渡辺崋山、高野長英の先行的な慧眼」

・・・それは「アヘン戦争」に潜む欧米侵略主義の“野蛮さ”(植民地資本主義の限界、正体)の核心が当時の欧米民主主義思想の裏面(欠点)であることを見抜き、自生の「普遍」観念の必要性を警告していた。これは単純な攘夷論に非ず!

・・・斉藤竹堂:仙台藩・養賢堂で学んだ人物、著書『鴉片(あへん)始末』/渡辺崋山:三河国田原藩の藩士・画家、著書『慎機論』/高野長英:江戸の医者・蘭学者、著書『戊戌夢物語』

宇都宮黙霖は江戸時代末期の聾唖の勤王僧だが、水戸学の「尊皇敬慕」に強い抵抗感を持っており、“そもそも民を安んじる王道”(古神道の重要な理念/専門研究者の一部は、既にその中に象徴天皇の観念があると主張!Ex.神道学者・小山悳子氏http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160109 )と武力支配の「幕府の覇道」は両立せず草莽(底辺の庶民層)にこそヒトの真の価値があるとも主張していた(<注>勤王は勤皇と同意/佐幕派に対して京都朝廷のために働いた一派)。

伊藤博文の「内閣制度」創設に重なる<「顕密二元論システム」完成と「吉田松陰らの白日」隠蔽>の問題

日本の内閣制度(立憲議会制度)を作ったとされる伊藤博文には、もう一つの隠れた実像を見るべき、との知見が提示されている(出典:中野良平『幕末的思考』‐みすず書房‐)。

明治維新の初頭(明治4年)まで生きた津和野藩出身の国学者・大国隆正は、非常な勉強家であり、そのため一応は内外の情報を広く知悉していた。しかし、その大国が『グロティウスの万国公法』を、おそらく作為で<万世一系の皇国史観による国体論>の中へ読み替えていた可能性が高いこと(著書『新真公法論』)は一般的には殆ど知られていない(ネット上に検証資料がある/参照↓◆)。そもそも大国隆正は「靖国顕幽論」の基盤を構築した平田篤胤の門下生でもあるので宣なる哉、納得!ではあるが。

神戸大学経済経営研究所:新聞記事文庫/外交 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10169381&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

この『グロティウスの万国公法』の皇国史観(国体論)への読み替え(つまりパクリ!)が、会沢正志斎(江戸末期の水戸学を代表する学者)らの特異イデオローグとも融合しつつ、明治期の日本の政治思想界の『底流』に大きな影響を与えていたと考えられる。

「1881年(明治14年)の政変」の後に維新政府内の主導権争いが繰り返されるうち、やがてその異常な『底流』が『深層奔流』となり、更に、一応は民主主義的なカムフラージュと如何にも洗練されたような修辞が施され、“女好き”で知られる伊藤博文の内閣制度の完成(明治18年)へ流れ込んでいったが、それこそが「顕密二元論による皇国日本の支配システム」である。

<注>(1)1881年(明治14年)の政変 (2)伊藤博文の“女好き(女狂い?)、についての委細は下記を参照。

(1)⇒ 維新期にはプロイセン型“国家主義”(制限民主政)と英国型“立憲民主政”(正統保守主義)なる二つの理想が混在し、せめぎ合っていた http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107 

(2)⇒ アベの<ウロボロス“尻ぬぐい粉飾”構造>に嵌った美しい?https://www.evernote.com/shard/s440/sh/a70918f7-c62b-465b-af10-8609f9ab1430/18e82249fa1c1df90bfcc44c67f0fa9c

そして、この「顕密二元論による皇国日本の支配システム」の暴走が太平洋戦争の悲劇(日本国民から基本的人権を剥奪し、侵略戦争主義を押し付ける方向)に雪崩れ込んだのは言うまでもない。無論、安倍晋三・首相の“非常に不自然な改憲強行”の不退転の意思!の背後に潜むのは、この戦前型「顕密二元論による皇国日本の支配システム」の取り戻しであることは間違いがないし、その強力なブースターが日本会議である。

しかもそれだけではない。実は、伊藤博文が「大日本帝国憲法」の起草者の一人である伊東巳代治(殆ど学者同然であった内閣書記官長)に命じて作らせた英訳版は「The Constitution of the Empire of Japan」であり、 英語に堪能な伊東巳代治 (同じく学者同然の官僚、井上毅・金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画した)が誤訳するはずはないので、おそらく伊藤博文が指示していたか、又は他の政権内から指示があり、伊藤がこれに知らぬふりを決め込んだか何れかの可能性がある。

f:id:toxandoria:20180305164552p:image:w450:left偽装民主主義

ともかくも、このような流れの中で、当時の日本政府は国内では「大」日本で国民層を威圧する一方、対外的には東アジアで初の民主主義憲法を詠い、かつ“吉田松陰らに端を発する『自生(列島に自生えしていた白日の観念=日本型リベラル共和的な正統保守思想へ深化する可能性を秘めた普遍の観念)』”を隠蔽しつつ、天賦人権論と真逆に国民主権を否定する“顕密二元論による皇国日本の支配システム”を完成させていたことになる

<注>顕密二元論システム(天皇の“密教的な政治利用”)について

・・・これは、明治20年代〜終戦期(敗戦まで)に日本を一強支配した、神憑りファッショによる日本の独裁支配システム。別に言えば「顕密二元論システム」(皇国日本の支配システム/天皇の“密教的な政治利用”へ傾斜した統治方式)。そもそもの嚆矢は、事実上、伊藤博文が黙認したことに因るのでは?と考えられる。 

・・・久野修(哲学者、評論家)による「天皇の権威と権力を通俗(顕教)と高等(密教)の二様解釈で組み合わせて政治利用する」との用法が嚆矢とされるが、“顕教”は伝統文化的な天皇制への国民の共感の利用、“密教”は特定の政治目的のため天皇制を利用すること、と考えると理解し易い。

・・・なお、「明治十四年(1881)の政変」の後に大日本帝国の骨格として成立したプロイセン・モデル・官僚体制の定着と共に、およそ明治20年代に戦前日本の「ダミー市民宗教」である「顕密二元論システム」(天皇の“密教的な政治利用”)の着想がほぼ現れたと見るべきだが、それには「a神道系」、「b文化・芸術系」、「cリアル政治」の三つの伏流がある(a〜cの委細は、それぞれ下記を参照乞う)。

a ⇒国家神道・患者、穴クロ安倍晋三/明治維新期における廃仏毀釈・神仏分離⇒国家神道の流れ https://www.evernote.com/shard/s440/sh/2aef4fc7-a2bb-4815-858a-4c87aa1fab50/1177931b96714cec353f0c76d9b913d3 

b ⇒太平洋戦争を煽り現実逃避(イロニー)で国民の惨禍を賛美した日本浪漫派なる悪の華 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20130924 

c ⇒アベ(安倍晋三)の<ウロボロス“尻ぬぐい粉飾”構造>に嵌った美しい?日本!

https://www.evernote.com/shard/s440/sh/a70918f7-c62b-465b-af10-8609f9ab1430/18e82249fa1c1df90bfcc44c67f0fa9c 

https://www.evernote.com/shard/s440/sh/a70918f7-c62b-465b-af10-8609f9ab1430/18e82249fa1c1df90bfcc44c67f0fa9c

3 カント「情念統制、論理構成」の峻別、それは「普遍」観念を培地とするリベラル共和主義の理解と深化に必須の条件

(カントには、理念を情念統制理念と論理構成理念に区別すべきとの考え方があった)

カントには<理念を情念統制理念と論理構成理念に区別すべき>との考え方があり、カントのこの慧眼の無視こそが、「構造災」の系譜として今に繋がる我が国の科学技術政策のジレンマをもたらしたといえる(構造災の委細については以下、(1−2)で詳述).。このカントの考え方を整理すると以下のようになり、a、bを明確に区分して自覚することが所謂「普遍性」に繋がる。

a:情念統制理念:たとえ実現可能性から離れているとしても、持続的に目指すべき“方向性”(一定の統制された情念に基づく )

b:論理構成理念:論理と実践によって徐々に実現されるべき内容

f:id:toxandoria:20180306015850p:image:w360:rightf:id:toxandoria:20180306015946p:image:w360:left

スパコン1、2

今の日本で言えば、ここで言う構造災は、「特にAI、原子力利用、生命科学など先端科学技術分野までもが、一強化した政治権力(安倍政権)に媚び、迎合、忖度、又はマイファースト・エゴ利権の先兵」と化すこと、つまり余りにも由々しき「先端科学の“錬金術”化の問題」となって現れつつある(<注>左画像のアベPMは、各省庁内を巡っているとされる“安倍首相の秘密指令(クロをシロにせよ!との特命指示)”を意味する!)。

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ネオ構造災1、2

また、過去の典型となるのが「無謀な太平洋戦争(その敗戦史プロセス満州事変ポツダム宣言に及ぶ十五年戦争)が内外でもたらした悲惨」と、あの「恐るべき3.11フクシマ過酷原発事故が引き起こした悲劇」である。

『情念』統制理念とは高次元なのでたとえ永遠に実現不可能なものである場合でも、その目標とすべき理念を掲げることでのみ、悪へ誘惑されがちな情念を統制しつつ現実(リアル政治/『論理』構成理念)の改良へ取り組む努力が持続できる(理性の情念統整的使用)」ことになる。それが“情念統制理念と論理構成理念の相互補完性の原理”が意味することだ。 

(“情念統制理念、論理構成理念”がリベラル共和主義の前提となる理由)

既述のとおり、「a情念統制、b論理構成、」の区分を明確に自覚することが所謂「普遍性」に繋がる訳だが、そもそも理念を求める意識がなければ人間は生きることの意味が永遠に理解できなくなる。つまり、理念とはヒトが生きることの意味を絶えず再検証するために必須のものである。言い換えれば、それは人間が薄暗い道を先へ先へと些かの予見を持ちつつ歩むために必須の灯火(ともしび)である。

その意味で一定の理念に照らした「予見」を必要条件とするヒトの意識の内容は「情念」と「論理」から成っていることになる。また、このような意味での「情念」と「論理」のカップリングで成り立つ意識はヒトと他の動物、あるいはAIとの差異を際立たせる特徴ともなっている。因みに、このような視点から見ればAIシンギュラリティ信仰(狂信的な論理的知能礼賛主義)を告白する下記、二冊の本は反面教師の意味では読むに値するかも知れない(苦w)。

●ニック・ボストロム『スーパー・インテリジェンス/超絶AIと人類の命運』(日経出版)

●ポール・チャーチランド『物質と意識/消去主義的唯物論』(森北出版)

これは、後で論じる「個体生命維持のためRAS作動で常に捨てられている8〜9割の生体内“情報”」の問題とも絡むのだが、この「予見、情念、論理」のスリー・ペアの動作を、経営・政治またはスポーツの戦術などリアル現場へ落として見た場合に留意すべきことがある。

それは、その場面ごとの結果に繋がる<一つの選択の意思決定>は、必ずしも十分に論理的な選択ではありえず、殆どの場面では8〜9割の関連情報が常在的に捨てられているということだ(感情・情念の応援も得て残余を捨てずには決められない!)。つまり、ここでは委細を省くが、これは「限定(ヒューリスティック)合理主義/客観的合理性(主観合理主義の対概念)」に絡む問題で、関連して重要なのは<傲慢が最大のリスクで、謙虚・反省そして持続的な信用こそが最大の得物(有益なツール)!>という現実を理解することである(関連参照↓下記▼)。

ホルクハイマー「客観的合理性、主観的合理性」の峻別について

・・・「現代の危機」が、フッサール「現象学」が誕生した19世紀末〜20世紀初頭「ファシズム胎動期」の「危機」に重なるのは自明といえる。従って、フッサール「無前提性の原理」とホルクハイマー「客観的合理性」には深部で共鳴するものがあり、その先には矢張り<コンシリエンス(人文社会・科学両知の融和的統合)の時代>到来の必然性が感じられる。http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170901 

ところで、“何かが起こる場合には必ず論理的に説明できる原因がある”という、ごくありふれたリアル事象に対し、何やら難しそうな「充足理由の原理」と命名したのはG.ライプニッツ(17世紀ドイツの数学者、哲学者)である。

しかし、ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―によれば、近年のAIを活用した先端的な脳研究分野でも、人間の「論理展開の能力」(科学合理的判断力)と「感情・情念」が深く相関していることが観測されており、我われが普通に見聞している「人に関わる充足理由の原理」(人が原因となる個々のリアル事象)は、ライプニッツが予期(懸念?)したとおり、そう単純でないことが理解されつつある。

例えば、同書によれば、生体内部では「ヒューリスティック(限定的)な統合合理性」の実現(個々の目的に応ずるベスト知覚機能の確保/例えば、目的対象物を確実に見る必要性)のため、敢えて「RASによる視覚の死角/脳内フィルター機能、脳幹網様賦活系(reticular activating system in brainstem)が必要情報だけに絞り込むため発生する脳内の死角」を発生させ個の生体の「生命全体の安全を確保」している。そして、無論これは視覚だけに限るものではない。

なお、このRAS作動による個体維持の機能の存在は「進化論的軍拡競争」(ダーウイン進化論の先を見据えた一種の限定合理性の選択による種の保存則の問題で、アベ様らが好む軍事国家主義とは真逆の知見!というよりも自然・エトノス環境の摂理(永続性の原理)?(関連参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104

つまり、人間の意識の核であるノエマ(ノエシスが感受し、考えるその内容/ノエシスは感受し、考える作用それ自身)も同じことで、おそらくその「生命全体の安全保障」のための意識の焦点化と共に凡そ8〜9割以上の情報(夥しい数の射影の廃棄/“フッサール現象学で言う現出、個々人にとってのリアル”の残余)が常在的にRAS作動で捨てられているという実に驚くべきほど精妙な意識の真相が理解できることになる。

換言すると、この「人間の意識についての観察」は、明らかに、先に述べた<「予見(理念に基づく)、情念、論理」のスリー・ペア動作>のリアル問題とも絡んでいる。つまり、これは従来の一般常識、AIシンギュラリティあるいはビッグデータ信仰などには反するのかも知れぬが、「捨てられた情報、敵対する情報、敗者の情報(意思)、無視された情報、無駄と思われる情報(or仕事、趣味など)」の中にこそ我われの無限の可能性と未来があることになる。その意味からしても、アベ様、トランプなどを巡る<異様に傲慢に見える諸現象>は愚の極みとも言えるだろう。

因みに、米合集国の哲学者・心理学者で、意識の流れの理論を提唱しジェイムズ・ジョイスユリシーズ』ら米国文学に大きな影響を与え、かつパースやデューイと並ぶプラグマティストの代表者でもあるウィリアム・ジェイムズは特定の学派や学術伝統に囚われない教育を受けたことが知られており、この事例も「無視された情報、無駄と思われる情報」などが、人間の未来にとり如何に重要であるかを示唆している(出典:ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』)。

このように逆説的な観点から見れば「大文字の“生”」(エトノス環境と同意⇒関連参照↓◆)の構成要因たる「個々の“生”」(個体)の維持に関わる緻密で、深遠な作用系を理解するにつけ、我われは持続的な<生命の安全と文化深化>のためにも社会的「間主観性」(最大公約or最小公倍的射影)を同定し保持する記録・ドキュメント、および絶えざるコミュニケーション(生命と共に歩む、理念と記憶を持続させる作業)の非常に重要な意義が十分に理解できるはずだ。

◆『情感の現象学』の共同体論/“M.アンリの現象学”の特質 http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109 

因みに、19世紀米国の哲学者・論理学者・数学者で、かつプラグマティズムの創始者として知られるチャールズ・サンダース・パースの結論は、<人間の知識とは社会的なものである>ということだった。これは、米国思想に対する彼の最も偉大な貢献である。なぜなら、「ヒトの心は、どの心も異なった仕方で、それは同じ心でさえも、異なった瞬間に事象を映し出すし、又それは同じ時間だけ同じ状態に止まってくれる訳でもない」からである。(出典:ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』)

また、このような視点から見ても、常在的にシロをクロと強弁しつつ記録文書や証拠ドキュメント類を次々に廃棄・隠蔽し、又はデータ類を改竄・偽装・捏造し続ける(具体的には“PMメモ”なる官邸発の怪文書を徘徊させることで官僚らの現場へ圧力をかけ続ける)安倍内閣の政治手法(小児的な安倍晋三氏の恐るべき資質上の欠陥 “耐性の欠如”に起因する/別に言えば、この世界(社会と自然)には自分が想像する以上の耐性があるので何でも自分の思い通りになると勘違いしていること!)は余りにも異常だ。理想の「リベラル共和」(関連で下記★を参照乞う)とまではいかなくとも、いやしくも民主主義国を名乗る日本政府がやるべきことではない。

★あるべき必然の流れとしてのリベラル共和主義へ(H・アレントフーコーのノモス・エトノス観念)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170713 

因みに、上で観察してきたことに鑑みれば、安倍首相の“PMメモ”方式での<証拠ドキュメント類を次々に廃棄・隠蔽し、又はデータ類を改竄・偽装・捏造し続ける>という、ひたすら権力維持だけが目的の異常な行為は、言ってみれば、日本国民の未来の可能性の殆ど全てを破壊するに等しい蛮行であり、万死に値する犯罪に他ならない。いずれ、このままでは日本が予期せぬ根源的な超リスク(自然災害のみに非ず!)に襲われるのが必定である。

4 今に繋がる日本型「構造災」の系譜、勝者「独裁」ご用達の「錬金術」で満足する『日本型テクノストラクチュア』のジレンマ

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論文数1、2

・・・それは、明治維新政府が罹患した「政治的な勝者が敗者へ、制限された主権を与えるべきとする倒錯エセ民主主義(ダミー市民宗教/顕密二元論=天皇の“密教的な政治利用”)の異常観念(これは、決して“思想”に非ず“他へ、その受け入れを強いるイデオロギー”)」(リベラル共和“思想”の対極)の落とし子・・・

4−1 『臨機調事件』を端緒として“戦前〜戦後(高度成長期)〜現代(3.11フクシマ第一原発過酷事故)”へと引き継がれた『日本型テクノストラクチュアの欠陥』

<注>テクノストラクチュア(technostructure)は、J.K.ガルブレイスが『新しい産業国家』 The New Industrial State (1967) で用いた言葉であり、国家経営または大企業経営の実際上の意志決定に参加する実力者の一群を指す。

一般に日本型の「構造災」といえば、それは<太平洋戦争の開戦間際に起こった『臨機調事件』を端緒として“戦前〜戦後(高度成長期)〜現代(国策原発→3.11フクシマ第一原発過酷事故)”へと引き継がれた『日本型テクノストラクチュアの欠陥』>を指す。

この問題は、松本三和夫氏(東大教授/科学技術社会学者)が著書『構造災、科学技術社会に潜む危機(2012)』(岩波書店)で初めて取り上げている。以下は、同書の要点を参照しつつ私見を加え、重要と思しき点を纏めたものである。

・・・

「3.11フクシマ第一原発過酷事故」の引き金は千年に一度とされる大地震であるが、日本伝統の構造災という観点から見れば、原子炉の本源的脆弱性が根底に潜むと言う意味で、この悲惨な過酷事故には、矢張り、それは起こるべくして起こったと見なすべき前史がある。

それが、「臨機調事件」(臨時機関調査会事件)と呼ばれる、1938年8月に竣工予定の最新鋭駆逐艦の主要タービン翼折損事故であり、具体的には「艦政本部式タービン翼折損事故」と呼ばれている(その艦政本部式タービン(艦本式タービン)の詳細はコチラ⇒ http://urx.nu/3KrK )。

この前代未聞の大事故は、太平洋戦争開戦が間近な1937年12月29日に起こった。軍国主義時代の軍事技術は最大限の人材、情報、資材、予算が投入されるが、何よりも当時の戦いにおいて特に開戦直後の戦況の方向性を決める最新鋭駆逐艦の建造であっただけに、その特徴は「最重要国策である故に予算が戦時国債を裏付けとする青天井」だったという点にある(コレは、どこか今の安倍政権が煽りたてる時の政治・経済手法に似ているではないか?苦w)

1938年4月1日・制定『国家総動員法・第二条/(昭和13年法律第55号)』で、動員対象のトップに位置付けられたのは軍艦で、その中でも最新鋭かつ高性能の機動力を求められるのが駆逐艦であった。そして、ともかくも国際的緊張が高まる中での開戦に備える切り札でもあり、かつ日本の独創的開発であると自負してきただけに、艦政本部式タービン事故は開戦直前の日本にとって非常に深刻なものとなった。

それは、この時に日本海軍で標準化されたタービン技術の事故は、他のどの艦船でも起こり得ることになるからであり、事実、同年12月29日から4日間の内に、同型艦の5隻で同様の事故が連鎖的に発生した。しかし、おざなりとも言える責任者の懲罰だけで決着がつけられ、現在に至るまで、当事件の顛末についての詳しい調査は殆ど行われてこなかった。

この「開戦直前の時であったことを理由に隠蔽された大事故」が紛れもなく日本型の伝統「構造災」の典型であることは、以下の三つの事実(問題点)が明快に裏付けている。しかも、これらの点が余りにもフクシマ(3.11フクシマ第一原発過酷事故)の問題点とソックリであることに驚かされる。

●秘密主義・・・注目に値するのは、海軍史上で最悪とされる別の「第四艦艇事件」(関連参照⇒ http://urx.nu/3KrY )が帝国議会・議事録に遺されているのに、当事件だけは帝国議会へ報告された形跡が一切ない(松本三和夫氏が調べた限り、議事録に遺されていない/削除か?)。

●想定に基づく対症療法の増殖(これが技術対応上の最大の欠陥)

●間違った先例の踏襲による、事故原因の隠蔽と先送り・・・政権関係者の内側で、真の原因とされる事実が一応確認されたのは、対米開戦から1年半近くが経過した1943年4月であった。

この「臨機調事件」に関わる深刻な問題はそれだけにとどまらない。終戦後の日本では、敗戦への反省から「平和文化の重視」と「科学技術振興による新国家づくり(高度成長へつながる目標づくり)」が目指されることになった。この目標そのものに間違いはない。

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原子力マフィア1、2

問題は、<その“余りにも邪悪”な目標づくりに資する重要な経験>として<戦前ないしは戦中に形成された実に信用ならぬ、欠陥テクノストラクチュアが主導する日本型“構造災”のプロセス>が形を変えて、戦後から現代へ繋がる過程へソックリ引き継がれてきた、という点にある。

このプロセスが、今や再び、ポスト・3.11フクシマのアベ自民党政権によって、バカばかしくも“実に見事!”に、労働法制の改悪(オランダモデル(参照↓▲1〜2)と真逆の、“働きかた”を偽装した“働かせかた改悪への途”の設計!)と相まって復元(取り戻)されつつあるかに見えるのが不気味だ。しかも、自覚がない?多数派の国民層は政府の為すがままに身を任せているかにさえ見える。

▲1 アベの<働かせかた改革>ではなくオランダ・モデル<働きかた改革>に学ぶべき1 ☞ 「パブリック」には適切な定義も和訳もない?日本は「公私二元論」の国【長坂寿久氏×武田隆氏対談1/D.オオンラインhttp://diamond.jp/articles/-/156818 

▲2 同上2 ☞ 日本の「働き方改革」は本当に正しいのか?オランダの成功から学べること【同上】http://diamond.jp/articles/-/159480 

4−2 今に繋がる『欠陥“日本テクノストラクチュア”』の淵源・・・加藤弘之井上哲次郎、山川健二郎ら“忖度&欺瞞アカデミズム”の問題

それは、おおよそ「幕末期」頃から列島へ徐々に浸透していた欧州啓蒙思想の核心である「ルソー市民宗教」への対抗軸の構築を目的として、明治維新政府の中で権力を掌握した一派が内政における自らの体制固めのために着想した純日本型「ダミー市民宗教」の問題である。そして、明治維新期〜戦前期にまたがり、政界と日本テクノストラクチュア、および一般国民層へ大きな影響を与えた<学界アカデミズムの巨頭>と呼ぶべき学者たちが存在した。

<注>ルソー市民宗教について

・・・「ルソーの市民宗教」は、ルソー<社会契約論>の中で「立法者(それが“主権者たる国民”の意味)の対立項(市民宗教の神)」とされる概念(いずれもJ.J.ルソーに因る)である。因みに、驚くべきことだが吉田松陰、井上 毅らもある段階でその「立法者」の意味に自生的に気付いていた可能性が高い!また、フランス第三共和国の時に渡仏した井上 毅は、おそらく教育勅語を自ら書く羽目となったことに大きなジレンマを感じていた節がある(関連⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107)。それは、その井上が後のライシテの先駆けとなるフランス型の“より厳格な政教分離の観念”にも気付いていた節さえあるからだ。

・・・伊藤博文ら明治20〜30年代の権力者らは、日本伝統の国民性を強化し、かつ幅広い共感力の基盤として新しい政治体制の中枢へそれを確実に組み込みたいと思い、この「ルソーの市民宗教」を意識しつつ国家神道の創造に基づく新たな天皇制の定着化(顕教としての天皇信仰、および密教たる“天皇の政治利用”技術の確立)を図った。つまり、それがダミー市民宗教の着想であり、その具体の形が「顕密二元論システム」(教育勅語がその技術の中核)なる実に巧妙な戦略であった。因みに、この方向への着実な進行を謀る過程で先行したのが廃仏毀釈と呼ばれる仏教破壊の扇動である。

・・・そもそも、「ルソーの市民宗教」には、大革命後のプロセスでロベスピエール「理性の崇拝」などに因る大混乱が観察されるとおり、その概念の曖昧さというアキレス腱(欠点)があったが、一方で、多くの人々が結束し共和するために何等かの宗教的な、あるいは精神的な培地となる概念的、情念的な空間が必須となるのも現実である(この点は、クワイン(米)のネオ・プラグマティズムと共鳴するところがあり、興味深いが『エピローグ』で後述)。

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苦悩1、2

・・・このため、井上 毅(中江兆民との交流、そして第三共和政憲法・時代のフランスへ留学・見聞の経験もあり、フランス流“政教分離”の意味に気付いていた節がある!)らは激烈な苦悩を経て“万世一系の皇統”(天皇信仰)を市民宗教の「座」へ据えたことになるが、所詮、それはダミーであり、やがてそれは雌伏していた『新論(国体論)/会沢正志斉』、平田篤胤『顕幽論』らに回収され、遂には神国日本の暴走へと変質した。

・・・

なお、複雑な抗争プロセスを制し、結局、明治期の権力を掌握した政治勢力を単純に薩長一派だと見なすのは、却って、現代の安倍政権にも繋がる<「幕末期」から「維新期」にかけて隠蔽されてきた白日(列島で自生した普遍観念)の問題>の所在を見えにくくする可能性が高い(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107、および当記事の“第2章:隠蔽された『吉田松陰の白日』の問題”)。 

ところで、ここで言う「ダミー市民宗教」とは<『明治十四年(1881)の政変』で勝者側に立った明治政府の策謀の賜物である。つまり、それは“幕末期における吉田松陰ら草莽の獅子らの苦闘から芽生えた“自生的な『国民主権』意識”を隠蔽するものとして着想され、それを伊藤博文(内閣制度の創始者にして初代総理大臣)が黙認したと思われる(密教的な“天皇の政治利用”)>のことだ。

因みに、当時の日本政府は国内では「大」日本(“大”日本帝国憲法)で国民層を威圧する一方、対外的には東アジアで初の民主主義憲法(伊藤巳代治・訳『The Constitution of the Empire of Japan』)を詠いつつ、その実は “顕密二元論による皇国日本の支配システム”を隠蔽していたことになる。伊藤博文は、この事実を敢えて無視していた可能性が高い。 

そして、この「顕密二元論システム」(密教的な“天皇の政治利用”)が戦前〜戦中期の<国家総動員体制>を効果的に演出したことは周知のとおりである(関連参照↓◆)。

◆明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学アカデミズムの土壌http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107 

・・・

ところで、“構造災”史の概観で先ず分かったのは、技術段階での構造災の三要素、「秘密主義、想定に基づく対症療法の増殖、間違った先例の踏襲に因る事故原因の隠蔽」が戦前において既に存在したことであるが、更にそれを<より重篤なシステム構造災>へ濃縮する政・官・学・財(民)の戦前・戦中期の“官民”馴れ合い(より正確には“恫喝⇔忖度”)方式までもが、そっくり<戦後日本の経済発展プロセス>へ引き継がれてきたのであった。

それは、「上位下達の国策を掲げる科学技術総動員の目的で設立された技術院(1942.1.31−1945.9.4/1942(昭和17)年1月31日に勅令41号をもって設置された科学技術行政機関)の内側に「構造災の三要素」が潜んでいたのは明らかであるからだ。

そのため、国策<隠蔽>の至上命令に資するための悪知恵として「修正・交渉・調整の過程で利害関係者の総意が当初の理念から程よくかけ離れた地平で骨抜きにされる精妙な偽装政策の仕掛けを創り、仕込むために有効な政官学財民に跨る運用経験」が、戦後の「高度成長期」〜現在の安倍晋三・政権に至る日本の行政プロセスで熟成されてきたことになる。

それは、輝かしき『日本テクノストラクチュア』の伝統と呼ぶには余りにもお寒い限りであるが、「勝者たる最高権力者が右すれば右へ、左すれば左へと、いとも容易くなびく、科学技術ならぬ“忖度”方式の日本錬金術」とでも呼ぶべき、おぞましく魔術化した「科学技術のあり方に関わる異様な伝統」である。

アイロニカルに言えば、それは時代を遥かに先取りした日本型コンシリエンス(人文・科学両知の融和的統合(consilience)関連参照↓★)の殆どカルト信仰的な、別に言えば「ダミー市民宗教」の成果であった、とも言えるのではないか?(苦w)

★客観「知」を心底で憎む追憶のカルト(日本会議が守護霊の安倍政権)、その靖国『顕幽論』是非の意識が日本の命運を分けるhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104 


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以下では、“人文社会・科学”両知の領域を越え『日本テクノストラクチュア』の伝統に大きな影響を与えた、そして明治期におけるこの悪しき伝統のスターター(始動用電動機)の役割を果たした代表的な人物として、今も日本の科学技術アカデミズムに影響力を及ぼす加藤弘之、井上哲次郎、山川健二郎の三名を取りあげておく(そのプロフィール描写の情報については、中野良平『幕末的思考』(みすず書房)から主なヒントを得た)。なお、彼らの多くが東大アカデミズム関係者であることから、あるいは“東大バカ論”なるあんちょこなドグマに誘われる向きがあるかも知れぬが、それは明治維新期の“白日”隠蔽の責任を薩長一派論で一括りして“真犯人”を取り逃がす短絡と同轍である。だから、過激陰謀論に与しないのと同意でその類の論を張るつもりは毛頭ない。又それは、何らかの意味で我われ末端の一般国民が、その“バカな東大アカデミズム”信仰なる空気のお零れを紛れもなくありがたく頂戴している“バカの仲間である”ことが現実でもあるからだ。どのような類の人間だ!と相手や特定集団を揶揄しようが、所詮はみな同じ人間なのである。

牽強付会自然科学の論理で天賦人権論を否定しつつ『ルソー社会契約論の思想』を帝国大学アカデミズムの名で葬り去った初代東大総長・加藤弘之)

まず、帝国大学令が1886年(明治19年)に公布されたことに注目すべきである。これによって1877年(明治10年)創立の東京大学(事実上、(1)開成学校と(2)東京医学校の連合体)が同令に基づき「(東京)帝国大学」へ改称された。なお、開成学校は明治時代初期に東京府に設立された文部省管轄の洋学研究・教育機関で、その源流は安政4年(1857年)に江戸幕府が新設した蕃書調所(直轄の同上機関)である。

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この時、東京開成学校(法理文三学部)の「綜理」(医学部綜理は池田謙斎)であった加藤弘之が初代東京大学「総理」(後の総長に当たる)となっており、そのため加藤が事実上の初代東大総長(学長)とされている(加藤弘之の画像はウイキ)。

ここで想起すべきは(関連後述)、帝国大学令・公布が「明治十四年(1881)の政変」の後に大日本帝国の骨格として成立したプロイセン・モデル官僚体制(幕末〜維新初期における“主権”闘争の“勝者側”公式論理)の定着と共に、事実上、戦前日本の「ダミー市民宗教」である「顕密二元論システム」の着想がほぼ同期して出現したという歴史的「事実」である。

具体的に言えば、その“勝者側”の公式論理(特異イデオロギー・皇国史観に因る)とは「“勝者側”が設計したシステム護持は“善”、それを根底から厳しく批判し転覆を図るものは“悪”と決めつけるイデオロギーの体系化」である。因みに、一般に思想とイデオロギーは同義として殆ど問題はないが、厳密に言えば勝者側(or敵対する双方)の支配的「思想」はそれが敗者(敵対者)側に教条的に強制されがちとなるので、その意味で思想とイデオロギーを使い分ける立場がある。従って、終戦時まで日本を一色に染め尽くした「顕密二元論システム」(密教的な“天皇の政治利用”)はイデオロギーと呼ぶのが適切である(この点も、クワイン(米)のネオ・プラグマティズムと共鳴し、興味深いが『エピローグ』で後述)。

そして、初代東京大学「総理」加藤弘之は、そのような「顕密二元論システム」イデオロギーの奔流の中でも特に「自然科学系学術用語・用法」に関わる公式の厳密な定義で<勝者に対する敗者の不可侵性>を、言い換えれば<天皇に対する臣民の不可侵性>を規定することに貢献した。そもそも加藤は旧出石藩(いずしはん/但馬国の藩、現在の兵庫県豊岡市)の兵学指南の家柄で徳川政権に忠実に使えていたが、同時に佐久間象山に洋学(蘭学・自然科学・啓蒙思想など)を学んだ知識人でもある。

維新後、その才能を見込まれ明治政府の官僚となった(一回目の転向!)加藤は、著書『人権新説』で、それまで肯定していた<天賦人権論>を全面否定(180°転換/二回目の転向!)し、外来のダーウイニズム進化論、又は優生論(但し人種改良の必要性は認めたが白人優生には反論)を口実とする<優勝劣敗に因る権利発生論/勝者側が敗者へ賦与するのが国家主権だとする不可解なイデオロギー>を発表し、「顕密二元論システム」を推進するため「ルソー社会契約論の思想」そのものを帝国大学アカデミズムの名の下に葬った。

(“観念論”創始者の名の下に牽強付会なダミー市民宗教たる「顕密二元論」を自然科学も視野(現象即実在論)に入れつつ遍く国内に定着させる役割を担った東大教授・井上哲次郎)


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初代東大総長・加藤弘之と同じく、帝国大学アカデミズムの名の下に明治政府の「顕密二元論システム」を国中に普及し、それを定着させるための露払い役を担ったのが東大教授・井上哲次郎である。つまり、井上は体制側イデオローグとして明治政府の道徳主義(顕密二元論システムの論理)の思想界での役割実行を率先した人物である(画像はウイキ)。

一方、井上は、欧米哲学の多くを日本に紹介し、帝国大学において日本人として初めて哲学の教授となり、かつ新体詩運動の先駆者としても貢献しており、哲学用語「形而上」(メタフィジカル/Metaphysical)の初訳者としても名高い。従って、その欧米哲学に関わる啓蒙家としての側面は高く評価すべきであるが、国体的宗教論と国体護持の政治潮流に飲み込まれたというか、自ら率先してそれを鼓舞する方向へ傾斜したと見るべき人物である(参照↓▲関連資料)。

▲井上哲次郎における宗教と国民道徳/哲学的宗教・倫理・国体http://repository-old.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/58444/1/B17871_summary.pdf

加藤弘之が「自然科学系学術用語・用法」に関わる厳密な公式の定義で<勝者に対する敗者の不可侵性>を、つまり<天皇に対する臣民の不可侵性>を規定することに貢献した(いわば“密教”に関わる国民の具体的活動である産業興隆の側面の強化を分担した)のに対し、井上哲次郎は「道徳用語」の分野で、その役目を果たした。いわば“顕教”に関わる国民の文化的な側面の強化を分担したと言える。  

(同じく牽強付会な論理の下で、現代の安倍政権にまで繋がる“富国強兵”目的の錬金術”、国策「科学技術」を定義した九州帝国大学初代総長・山川健次郎

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結論を先に言ってしまうなら、今の日本でも、自然科学アカデミズム(特に科学技術)が、例えば安倍政権の如き「偽装極右」権力の<“愛国”を騙る富国強兵政策なる国策「錬金術」への迎合・忖度の要求>という異常なポリシーに対し殆ど頭が上がらないのは山川健次郎の伝統下にあるからとさえ言える(画像はウイキ)。

山川健次郎は明治から昭和初期にかけての物理学者、教育者であり、会津藩時代は白虎隊の兵士として明治政府と「戊辰戦争」を戦った経験がある。が、戦後は維新政府に才能を認められ国費で米国留学をしており、そのあと東京帝国大学に登用され(日露戦争の時には既に東大総長)、更にその後は九州帝国大学の初代総長に就いている。

この山川については、<「戊辰戦争」に敗れ敗者となった壮年期以降には、会津藩に対する当初の忠誠心が勝者たる国家(維新政府)への「愛国心」へ一気に転じ、日露戦争の時には既に東大総長であったにも関わらず、陸軍に対して「一兵卒として従軍させろ!」と山川自身が押し掛けたという>異様なエピソードも残っている。

それは、“生涯にわたり自分は考え方を首尾一貫させた”(山川浩(健次郎の兄)の著書『京都守護職始末』の中で健次郎・本人が語っているとされている)と固く信じ切っていた健次郎自身の論理には<敗者の復権と引き換えに勝者への強い依存を深めざるを得なくなるというパラドクス>が宿っていたからだと考えられる(出典:中野良平『幕末的思考』)。要は、山川も加藤弘之に負けず劣らずの“ジコチュー型の変節の人”であり、現代風に言えばサード・オピニョンの視座が眼中に一切なかったことになる。

かくして、山川健次郎は総力戦としての第一次世界大戦が始まると、挙国一致の国防体制(特に国策科学技術の必要性)を熱心に説き、大正期のリベラル・民主文化はダミー市民宗教「顕密二元論」にとって危険と見なし、大正末期以降は「国本社」(極右団体/会長=検事総長・大審院院長の平沼騏一郎)の副会長として「教育勅語」を讃え、「忠死」や女たちの「殉節」(節操のため率先して死を選ぶこと)も語るようになっていた。これこそがストレートに日本会議や安倍晋三・首相の“異次元的で面妖な穴クロ価値観”に繋がっているのではないか?と思われる。余談だが、このような意味でも「長州派Vs会津派なるネトウヨ・レベルの内ゲバ闘争」が観察されるのは奇怪かつ笑止である。

(エピローグ)“日本型構造災”克服のため、特に国民が覚醒すべき<ホッブズを超えた「敗者の論理」(エトノス観に因る限定合理主義)>の意義

・・・現下の<アベ問題=戦前型“偽装極右/追憶のカルト”の再来>に潜むもの、それは兆民、諭吉、透谷、漱石らが発見した、<勝者の論理に潜在する「耐性の欠如」が助長する「構造災の膨張」>という恐るべき超リスク・・・

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讒謗律1、2

西郷隆盛「征韓論」の真意の解釈に関わる議論の決着はついていないので、それはともかく置くこととすれば(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20180107 )、「明治六年(1873)政変」 のあと、維新政府が讒謗律と新聞紙条令で新聞の口封じと国民の目隠しを謀った歴史があることを先ず想起すべきだ。

これは、勝者たる維新政府の主流派が、西郷の「征韓論」を力づくで抑え込んだため政府首脳である参議らの半数と軍人、官僚約600人が職を辞した、後の「西南戦争」(明治10年(1877))の原因となった事件であり、同戦争で敗れた西郷らは政争の敗者であることが確定したが、問題は、それに止まらない。それは、この事件こそ<政府内の政策論争の勝者が寛容な「思想」ではなく、「特定イデオロギー」で政敵と国民一般を軍事・官憲力を使ってでも強権的に折伏し制圧するという戦前日本政治の悪しき伝統>の嚆矢となる事件であったからだ。しかも、何を血迷ったのか?安倍政権は、目下のところこの“戦前日本の悪しき伝統”の取り戻しに必至である。

そして、そのような強権政治の第二弾が「1881年(明治14年)の政変」であり、それによって吉田松陰らによる血みどろの努力の中から奇跡的に自生していた<「白日」(普遍)の発見という歴史事実>が巧妙に隠蔽され、代わりの「ダミー市民宗教(顕密二元論)」を掲げることで、恰も当時の日本で理想の先進的な民主主義制度が実現するが如く偽装した歴史があったことは、既に書いたとおりであ。

他方、この「政敵と国民一般を軍事・官憲力を使ってでも強権的に制圧するという戦前の日本政府の政治手法」に対し、政治哲学、政治思想、芸術・文学活動などの各分野で熱心な批判活動に傾注したのが、中江兆民(明六社での人権思想普及活動、政権中枢の井上 毅らとの交流努力)、福沢諭吉(“瘦せ我慢の説”で人権論を展開)、北村透谷(政治権力者による優勝劣敗(格差必然論)を一種の御都合主義!と見抜いた)、夏目漱石(維新政府が主導する文化政策の軽薄さを作品で厳しく批判!)らである。

ところで、彼らに共通するのは、主権者・一般国民に必須の「感情の政治学」の発見ということだ。言い換えるならば、それは“思想とイデオロギー(勝者側の圧倒的で激烈な一人ヨガリ感情の敗者への強制、つまり被支配者側に対する一方的、又は独裁的なそれの押し付け)は異なる!”という「厳然たる目前の現実(リアリズム)」についての<一般国民レベルの共有感情に基づく気付き>である。

ヒトラーにせよ、スターリンにせよ、安倍晋三にせよ・・・<余りにも理不尽でホッブス的な暴力闘争の渦の中での勝者の一人ヨガリ感情に囚われた異常論理>に共通するのは<「耐性の欠如」と、「格差(優生学的な優勝劣敗)を当然視」する非科学的な意味での致命的欠陥が潜んでおり、戦前の日本では、それが<ダミー市民宗教たる「顕密二元論システム」(密教的な“天皇の政治利用”)>という圧倒的な一強支配イデオロギーの形となり日本全体を支配し、日本国民を無謀な侵略戦争へと煽り立てた。

そのような意味でのアナクロ感情による支配体制を取り戻そうとする安倍晋三、日本会議らの暴政へ対抗し得るのは一般国民の覚めた私的感情(維新政府が隠蔽を謀った水平的な共有感情に因る主権者意識)と、<江戸プロトモダニティー等の伝統文化に関わる再評価に基づく正統保守の価値観こそが欧米リベラル共和主義と共鳴するという確固たる自律思想(イデオロギーに非ず!)の発見!>ということである。

Cf. 真っ赤な嘘と傲岸不遜の塊が安倍の正体!その恐るべき資質上の欠陥<耐性の欠如>こそ前代未聞の国難!https://www.evernote.com/shard/s440/sh/097b3564-35cd-4813-b2b7-9026e3c9ab17/66843b8e7c83f6a6b0fcf9d5b8bb5d9a  

・・・歴史経験と文化の積み重ねだけから学び得る寛容(トレランス/宿命的な魔性の封印・制御)については、リベラル共和を成熟させてきたオランダ・ベルギー(旧フランドル)の歴史に学ぶべきだということの再発見が重要だがhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080127、実は、アメリカにもその大きな可能性が潜む。それがコンシリエンスとエトノス観に基づく一種の限定合理性(ネオ・プラグマティズム)への気づきということ!・・・

イデオロギーの押し付け合いを巡る「戊辰戦争」的な意味での抗争(これまで述べてきたとおり、明治維新政府は“戊辰戦争が実は国家主権(ここでは単純に勝者を意味するものではなく、リベラル共和、天賦人権論的な意味での主権者の意味!)を巡る激烈な抗争であった”)の歴史は、<ダミー市民宗教「顕密二元論システム」(密教的な“天皇の政治利用”)>を創造した日本史だけの専売特許と見るのは誤りである。

それは、例えば19世紀半ば(ほぼ日本の幕末期ピークの頃に重なる/1853ペリー来航、1858日米修好通商条約、1858−59安政の大獄)のアメリカでも、事実上、当時のアメリカの勝者の立場(北部が名実共に勝者となるのは、米国史で最大の62万人の戦死者を出した南北戦争の後だが)であった「北部」の内部にも“近未来の合州国の主導権を巡る抗争が、いわば「主に経済的な理由で南部・奴隷制を支持する一派」と「それに対峙する反対(連邦主流)派」による激烈な分断の結果としてのイデオロギー抗争があったからだ。

因みに、南北戦争から約70年後に世界経済恐慌が起こり、それから約80年後にリーマンショックが起きている。更にその10年後、南北戦争から約150年後に当たる今のアメリカではトランプ大統領の下で、恰も南北戦争のデジャヴの如き一般国民の間での「分断」が起きており、その背景は全く異質ながら、幕末の終焉(明治維新)から150後の日本でも<アベ一強なる「ダミー市民宗教/異常イデオロギー顕密二元論」の取り戻しを謀るアナクロ権力>を巡り、一般国民が深刻な「分断」の脅威に晒されている。

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「幕末的思考」(みすず書房)の著者・野口良平氏が中心となり翻訳したルイ・メナンド著、野口良平・那須耕介・石井素子訳「メタフィジカル・クラブ」(2011刊、2001原書/みすず書房)という注目すべき本がある。これはルイ・メナンド(英米文芸・言語学、ハーヴァード大教授)の初邦訳であり、『思想は決してイデオロギーに転嫁してはならない』という重要な殆ど経験的な信念の提示である。つまり、それは「南北戦争」への反省(クラブメンバーが身近に見聞した“過酷な戦争のリアルに対しては如何なるイデオロギーも無力で無意味化する”ことへの気付き/米国民としての二次的な“普遍”の気付き)に立脚し、若き哲学者たちが興したプラグマティズムの思想が、いかにして米国精神の礎石を築きあげたのかの緻密な論証と描写となっている。この本は米国研究の要であり、ピューリツァー(歴史部門)賞を受賞している。

監訳者の野口良平氏によれば、これは「広い意味での形而上学(メタフィジカル)への批判」(このクラブの名は形而上学を客観視する目的で付けられている)―既存のイデオロギーやアカデミズムのあり方の検証−への志向であり、それは言い換えれば「人間同士の感受性や価値観の違いと、お互いの自由への顧慮」を最重視すべきであり、“これは一般的に常識化しているプラグマティズムの理解とは異なり、それは目先の実用主義や産業・市場原理主義とも異なる一種の『エトノス環境』観(関連参照⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109 )に基づく限定合理主義の立場ということ”である(“・・・”の部分は野口氏の直接的な言及ではなく、toxandoriaが解釈的に補足したものである)。

<補足>無教会主義の先導者であるエマソン(19世紀米国の哲学者、作家、詩人)がプラグマティズムに影響を与えたとされるが、無神論とも見なされることがあるエマソンの超越主義(真理は直接自然から体得できるので神は真理を明らかにする必要はないとする)はアニムズム、or現代風に言えばエトノス観のジャンルにも見える。

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ルイ・メナンド「メタフィジカル・クラブ」が指摘する内容との絡みで、いま最も注目しているのはW.V.O.クワイン(1908−2000/米国の哲学者・論理学者で、20世紀の哲学者の中で最も影響力のある人物の一人)のネオ・プラグマティズムであるが、残念ながらスペースの限界で、その委細は又の機会とする。代わりにクワイン哲学のエッセンスと見るべき内容を以下★に記す(クワインの画像はhttp://www.kyotoprize.org/laureates/willard_van_orman_quine/ より)。

★クワイン哲学の最も肝心な部分を記述した“くだり”があるので、中山康雄著『科学哲学』(人文書院、p88)から下に引用・転載する。委細は省くが、この非常に謙虚で、かつ融通無碍(“オバートンの窓” http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109的な意味で)なクワイン哲学(そのネオ・プラグマティズム)の核心は、「ルソー市民宗教の欠点」(関連⇒(1−2))を補う可能性があるのではないか?とさえ思われる。・・・《この全体論のイメージを提示する際に、クワインは次のようなメタファーを用いている。すなわち、地理や歴史から物理学や数学、論理学までに至る私たちの知識や信念の総体は「周縁部(フリンジ/fringe)でのみ経験と接する人工の構築物」ないしは「境界条件が経験であるような力(持続的ダイナミズム)の場」とされるのである。この描像の下では、理論(あるいは“思想”としてのイデオロギー)と合致しない観察結果が得られたときに生ずるのは、なんらかの特定の仮説の撤回ではなく、信念体系内部の各命題に割り当てられていた真理値の再配分なのであり、そこには多くの選択の余地があることになる。(言い換えれば、本物の“思想”は無限の可能性が絶えず拓ける状態にあることになる!←補、toxandoria)》

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<補足1>W.V.O.クワインの「要素還元主義」批判に基づくネオ・プラグマティズム

・・・自然における階層性を認めたとすれば、上位階層で成立する基本法則とそこに用いられる基本概念は、必ずそれより一つ下位の階層において成立する基本法則および基本概念に翻訳あるいは書換えが可能であると考える立場(デジタル階層性と異なる点に注意!/出典:http://urx.nu/7qAh )。

・・・そこで、まずクワインは「具体的経験とアプリオリ命題」で現実を完璧に分析できるとする手法の限界を指摘する。次に、数学と論理学の厳密な体系の上で真実の姿をただ一通りに捉えることはどんな認識・言語をもってしても不可能であることを証明し、非常に人間的で謙虚な科学哲学を構築した。

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・・・因みに、論理偏重ではなく、現実(因果)を重視する科学哲学、つまりこのクワインのネオ・プラグマティズムの観点からすれば、日本原子村の傲慢(https://twitter.com/shinkaikaba/status/968198238959382528)のみならず、オランダ(欧州)モデルと真逆の裁量労働制・拡大や高度プロフェッショナル制・導入(いずれもヒト労働力の余りにも単純な道具視であり真のプラグマティズムとは無関係!)、又はシンギュラリティ万歳!(最強の科学技術基盤出現と、到来する前特異点/内閣府経済財政諮問会議:齊藤元章@PEZY Computing/(株)et.al., http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/2030tf/281003/shiryou5.pdf )、果ては日本核武装論までひけらかしネトウヨらを煽り立てる安倍晋三首相のトンデモ日本国家主義を信奉する輩の独善的イデオロギーは、とても近代国家知性主義的態度とはいえず、非科学的・非民主主義的・反知性主義的なカルト、魔術・妖術、高々で幻影・手品師マジックの類以外の何物でもない!)

<参考>トランプ現象で分断化!に見える米国だが、過半超の人々は「メタフィジカル・クラブ」(定説ではなく、ルイ・メナンドが指摘する真のプラグマティズム精神(一種の限定合理主義)に覚醒している!?

◆目玉を自負する税制改革(法人税減税)も不支持が多く、トランプ支持で比較的“高い”と言えるのはテロ対応と僥倖の好況「経済」だけ!「北・財政・移民」ら関連の政策はメタメタ!; Trump Rated Best on Terrorism, the Economy; Better on Taxes Gallup 

http://news.gallup.com/poll/228149/trump-rated-best-terrorism-economy-better-taxes.aspx

◆【トランプ“教師の銃武装による反撃”法整備論(一種のアベに似た狂信観念への遁走)がプラグマティカルに徹底批判されるのは必定!】一方で、近年における銃保有世帯の割合は著しく低下している! ⇒ 米、やまぬ乱射と銃自殺/保有数の削減、一歩ずつ223日経/FT  

https://twitter.com/shinkaikaba/status/967114379236802561 

◆【過半超の米国人は自動運転車に懐疑的!】More than half Americans Hit the Brakes on

Self-Driving Cars/10 million self-driving vehicles will be on the road worldwide by 2020,

http://news.gallup.com/poll/228032/americans-hit-brakes-self-driving-cars.aspx 

◆【ネット上の個人情報保護の新トレンドから取り残される日本!】早くもEUでは、20180525にGDPR(The General Data Protection Regulation)が施行されるが、同様の動きはEUや中国だけでなく米国を始め世界中に広がりつつある。https://www.ipa.go.jp/files/000064473.pdf https://twitter.com/shigejam/status/965026468467126272


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<補足2>【動画】世界トレンドと真逆の「身の程を忘れつつ“デジタル専制”&“出口を見失ったジャブジャブ金融拡大”(AIシンギュラリティ金融工学ほか)へ溺れる儘の安倍政権下で日本が世界で孤立する懸念を論評した注目すべきTV番組!/20180302BS11オンデマンド寺島実郎《未来先見塾》―日米株価乱高下の理由―ゲスト:白井さゆり(慶應義塾大学総合政策学部教授)http://vod.bs11.jp/video/insideout-miraisenkenjyuku/20180302/ 

(Appendix)

当記事のなかで、文脈に応じ折りにふれ参照してきた『幕末的思考』、『メタフィジカル・クラブ』の二冊は、一読しただけではとても汲めども尽きぬほどの非常に豊饒な視野を与えてくれる優れた本である。ので、参考までとして下に“みすず書房”の案内文を転載の形で紹介しておく。

なお、共に“みすず書房”刊であり、前者は野口良平氏の著書、後者はルイ・メナンド著の原書を野口良平・那須耕介・石井素子の三氏が共訳したものである(監訳:野口良平氏)。


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幕末から明治への列島の歩みは、暗から明への昇華ではない。それは、列強による開国への圧力を前に、尊皇攘夷から尊皇開国への転向とその隠蔽、新政府の正統性の急造を伴いながら、慌しい近代国家建設を余儀なくされる過程であった。しかしそこでは、植民地化への危機感と理不尽への抵抗を糧に、普遍的価値のうえに新社会を構想する思考が、徒手空拳で模索されてもいた。中国や西欧からの輸入ではない、この国に地生えの思考が育まれる契機は、しかし、生みの親でもある対外的「危機感」に圧迫され、皇国主義イデオロギーの席巻という試練のなかで影を潜めていった。帰結の一つは、現在も続く第二極の不在である。

本書は、「明治維新」という事後的な枠を通しては見えてこないその思考――幕末的思考――の系譜を、吉田松陰、中岡慎太郎、坂本龍馬、福沢諭吉、中江兆民、北村透谷、夏目漱石、朝河貫一、中里介山らに辿り、その画期性を歴史の行間にあぶりだした精神史的試論である。松陰の「やむにやまれぬ大和魂」の射程、中岡と坂本の連携を支えた地べたの普遍感覚、私情こそ公的なものの源泉であると見た福沢や、後発近代社会こそが民権論を実践できるという兆民の価値転倒の試み、『こゝろ』で「先生」の殉死に託した漱石の抵抗、介山『大菩薩峠』が描く明治がこない世界――。

彼らの未成の思考を紡ぎ直すこと。その今日的意味の切実さを、幕末の人びとの経験は我々に教えている。

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南北戦争は連邦存続と奴隷解放のために戦われたと理解されがちだが、実際はイデオロギー対立の殺し合いによる解消という側面が強い。62万の戦死者を出して維持された連邦、民主主義とは、一体何だったのか。・・・以下省略/コメント欄へ続く・・・

2018-01-07 明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見

toxandoria2018-01-07

明治150年の“あるべき”眼目はその前の江戸プロトモダニティの発見!それは東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学アカデミズムの土壌/が、今や『詩織さん事件』がその信頼性を崩壊させつつある!


【Cover Image】Claude Monet/The Cart:Snow-Covered Road at Honfieur, with Saint-Simeon Farm.

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・・・c.1867. 65× 92,5 cm Oil on canvas. Musee d'Orsay, Paris, France


プロローグ首相官邸HP「明治の精神に学ぶ日本人の強み」とは何を意図するのか?


・・・明治維新期が近代日本幕開けの一画期であったのは確かながらも、そう単純ではない賛美・礼賛史観、暗黒史観、理想史観などの区別!・・・


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明治維新は確かに「“普遍的価値観”追求」開始の画期であったと見るべきで、「明治の精神」(正体は“立憲主義、富国(経済)政策”確立と植民地・侵略戦争主義の葛藤)を一括りで捉えようとして「明治維新の強み/国民の戦争志向精神への雪崩込み(軍事国家ナショナリズム植民地主義への突入)という戦前期の暴走奔流」だけを高く評価しようとする日本政府の姿勢に違和感!2017年12月30日 只のオッサン@shinkaikaba https://twitter.com/shinkaikaba/status/946872688756252672

・・・@hi_kashi 苅部直氏はグローバル化の現在での国民国家的な維新顕彰の問題点を指摘。むしろ維新は普遍的価値観の追求であったとの指摘は重要 自由、平等こそ「明治の精神」 維新150年、苅部直・東京大学教授に聞く1227朝日、

https://twitter.com/hi_kashi/status/945987278341410816 

・・・Cf.1「明治礼賛」でいいのか 政府は来年「150年記念事業」を大々的に計画20170210東京夕刊・毎日、https://mainichi.jp/articles/20170210/dde/012/010/002000c 

・・・Cf.2「明治150年」に向けた関連施策の推進について(20171104首相官邸)

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/ 


2017/12/6共同通信によると、日中両政府が沖縄県・尖閣諸島などをめぐる東シナ海での偶発的衝突を回避する「海空連絡メカニズム」設置案について、上海で開いた「高級事務レベル海洋協議」で大筋合意した。これは自衛隊と中国軍が接近時の連絡方法などをあらかじめ定めて衝突を防ぐ仕組みで、日中間の最大懸念の一つである尖閣を巡る緊張緩和と日中の関係改善の流れが加速することが期待されると報じられている。


おそらく、これは、「北」問題をさて置くとすれば習近平が内部分断の圧力(“中国近・現代史の特異性”由来=米・日・共和国・民国による、清朝末期いらいの“三つ巴”ならぬ“四つ巴(or五、六つ巴)”の極東地域における植民地争奪戦という過酷な“近代史”の悪しき余韻)を抑制し、外部分断(加害)力の張本人である米国および日本(特に米国)とリアルかつ前向きに対峙する余裕を持ち始めたということかも知れない。


つまり、東西冷戦下の中国(民国、人民共和国ともに)ですら<自らの法治規範モデル>を日本の優れた文化力に求めていた節があること(委細:本文で後述)からしても、今こそ近世における真の極東史を直視しつつ、歴史的な意味での極東諸国の対米警戒(日本でも左右派の垣根を越えて深くこの意識が潜在する)を解く努力に邁進するのが日本の役目だとする下記ブログの指摘は重要である。

 ☞ 北朝鮮危機 日本の役割は「米朝対話」を促すこと1123ブログ・山ちゃん

https://ameblo.jp/kalle2/entry-12327267502.html 


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しかし、安倍政権はこの歴史的事実を完全に無視しており、それどころか更なる国民の犠牲をすら厭わぬ冷酷な態度で隷米(厳密に言えば、“トランプ氏と100%一致!”との物言いで対“米国産軍複合体勢力”盲従=正統保守ならぬ対米盲従の偽装極右)の姿勢を貫いている!

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画像で掲げた本(中村元哉・著『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』―講談社―)の<中国を中心とする近代極東史のエピソード中華人民共和国・成立後の顛末も含む)>は、「今や中国自身をも酷く蝕む共産党一党独裁の弊害」と「今後も含めその軌道修正に貢献し得る日本政治の役割」>を考えさせてくれる。特に「中華民国・中華人民共和国」両憲法と「日本国憲法の憲政観念(厳格な法治観念と“日本国憲法”の平和主義)」が決して無縁でないことが分かり驚かされる。


因みに、民国(中国大陸にあった中華民国/1912〜49)が掲げていたスローガンである五族共和(漢族、満州族、蒙古族、回(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)およびチベット族の五民族の協調を謳ったものだが、そもそも言語も異なる民族の数は遥かにもっと多い)にあるとおり、古来、中国の政治権力には多民族を束ねて統治するという宿命が付き纏っており、それは近代から現代に至る中国でも変わりがない。


例えば、満州人の王朝である清朝を倒し漢人国家を復興する意味の「排満興漢」が清朝支配下の革命運動のスローガンとして使われていた。そもそも清朝成立後の時代のそれは明朝の復活を意味するが19世紀になると漢人国家の復興を期すナショナリズムの色彩を帯び孫文ら革命派の重要スローガンとなった。そして、現代中国でもこの“漢人問題”は潜在すると見るべきである。


古来、「一般に中国では西洋、東洋、中国大陸(自国辺り)を区分する世界観がそれほど強くなかった」(例えば20世紀初頭の中華民国の時代に至るまで中国王朝・中央政府が所管する国家財政は、一部の直轄地を除き伝統的に家政的な性格を持ち続けた)ため、日本のように極端なアジア主義(例えば、田中智学皇国史観と国体思想に基づく日本植民地主義による世界統一の原理として 1903年に造語した八紘一宇の如きスローガン)が生じる可能性は小さかった。


しかし、これは日本と比較しての意味合いであるが、れっきとした漢字文化という非常に優れた基層(古来のオリジナル伝統文化)があったにもかかわらず、日本よりも桁違いに広大な国土と厳しい自然環境の風土、そして多民族から成る中国は国民の過半超を遥かに超える割合で占め続けてきた庶民層(特に農民層)の中から「プロトモダニティ」(“近代民主主義”成立の前提となる高い識字率など)の基本条件を効率的に自生させることは困難であったと見るべきかもしれない。


他方、目下、日本政府は「明治150年」にスポットを当てて日本国民の愛国心とナショナリズムの鼓舞に必死のようであるが、その「明治維新の画期」(西欧的な意味での日本近代化)への水先案内人と見るべき重要な「プロトモダニティ」が存在することを見落とすべきではない。そして、その重要な「二つのプロトモダニティ文化」は、奇しくも、徳川幕府体制下の「17世紀江戸時代」に自生しており、ある意味でこれら二つの近現代日本文化の苗床とも言える前提条件がなければ、あるいは「明治維新の画期」も、後で詳述する東アジア文化圏の中で飛びぬけた存在感を示す日本「法学」アカデミズムの伝統も存在し得なかったのではないか、と思われる。


1 重要なのは維新期に先立つ17C江戸プロトモダニティ、二つを発見すること


1−1 皇室文化を胎盤とする江戸プロトモダニティ


(日本『正統保守』の心髄、美と礼節の絆(江戸プロトモダニティー)の発見)


【画像】江戸の都会的シック(粋)、ほか/江戸期のトビウオ(自覚してシビックな水平に身を置く人々)が跳ねた瞬間/千住酒合戦


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・・・一枚目、歌川豊国『文読む女』はロサンゼルス.カウンティ美術館所蔵、Joe & Etsuko Price Collection(池上英子『美と礼節の絆』が表紙で採用)、二枚目の喜多川歌麿『婦女人相十品 文読む女』は日本切手の図案として採用された作品。


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・・・千住酒合戦図高田與清『擁斎漫筆』よりhttp://urx2.nu/DlQb

・・・これは文化12年(1815/高田屋嘉平が国後島でロシア軍船に拿捕された年)に、江戸のはずれ千住で催された酒飲競技会を描いた絵である。この企画の意図は単純なもので酒飲みの技量を競い只酒を大量に振舞うこと。主催者は「鯉隠居」を自称する現地の俳人(宿屋店主)で、参加者は身分の別を問われず、例えば酒井抱一、谷文晁ら文人ら、あるいは俳人、画家、町人、武士、農民、女性らも参加していた。これは当時の江戸に身分差を越えた経済・社会と文化・教養・趣味の両ネットワークが交差する「水平空間」が存在したことを意味する(出典:池上英子『美と礼節の絆』)。

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ピーター・ノスコ他編『江戸のなかの日本、日本のなかの江戸』―柏書房―によると、J.F.クーパー(1789 – 1851/米国の作家・批評家)は、1838年(ペリーが日本の浦賀に来航する16年前)の著書『平等について』の中で「今や我々は権利の平等を謳う文明社会の住人であるとはいえ、同時に、本質的には個人間に線引きをしていることに変わりがない。つまり、それでもなお我々は“何らかの差異を相互に意識させられており、逆説的に差異と平等を同時に求める矛盾した存在”」なのだと嘆いている(ピーター・ノスコ:カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大教授/日本思想史)。


このことは、イデオロギーや政治制度を超えた<人間社会における逆説の真理>として先ず受け入れておくべきかもしれない。だからといって、この真理は文明の果実を享受する現代の民主主義社会を全否定するものではなく、むしろ肝心なことはそのような前提(その逆説の真理と矛盾)の先にこそあると考えられる。それは、このような観点に立ってこそ初めて民主主義の完成は持続的な永遠のテーマ(油断を許さぬ、そして決して強靭とは言えない)であることが理解されるからだ。


ところで(ここで述べた内容とは真逆の構図となるが)、例えば徳川幕藩体制下の日本でも、「れっきとした封建的身分制の江戸時代」であったにも拘らず<似たような意味での真理を含む逆説>が、いわば<封建制の身分差を超えた水平空間への希求>が存在した。その分かりやすい典型が上の画像『千住酒合戦』の事例である。そして、池上英子・著『美と礼節の絆』は、「その水平空間は江戸期における“弱い紐帯としての公(比較的裕福な庶民層を中心に身分差を越えて自生しネットワーク形成された公)”故の強みでもあった”と述べている。


無論、俳句・和歌・絵画らの文芸や趣味の交遊(交友)関係の拡がりは江戸期社会における公式の見方では劣位の私的領域と見なされていたものの、徳川幕府の分割統治で閉じ込められ分断されていた人々が、こうして私的領域(弱い紐帯の平等なパブリック圏)で結びついていたばかりか、文芸の世界という共通の媒介項によって共通の歴史を持つことになったのは確かだ。


その意味で、日本の文化的・美的イメージは、近代日本の国民国家が勃興する明治維新期より遙か前に、この国の「水平・平等空間(弱い紐帯の平等なパブリック圏)を求める、多数派層の人々の自律的な自己意識」の中心的な受け皿になっていたと言える。これが、刮目すべき「江戸プロトモダニティー」の意義である。


俳諧・狂歌・川柳には「連」と呼ばれるネットワークがあり、江戸・大坂など大都市だけでなく、文人・作家・絵師らをも巻き込むその繋がりは全国に拡がっていた。また、江戸期においてはその根本的な歌風の革新こそ余り見られなかったが、やはり和歌(一般への本格的な普及は鎌倉時代ごろから興り南北朝時代から室町時代にかけて大成された)についても、上は貴族・武士階層から下は農民・町民に至るまで凡ゆる身分層の人々がそれを愛好していた。


ところで、これらの文芸や趣味を支える日本美学の元は「皇室・朝廷文化」にルーツを持つ「伝統美と公的な礼節のパブリック圏」(日本の文化と学芸の両領域における皇室(朝廷)・貴族文化の公的権威を象徴する「有職」に関わる知識・教養・知恵の共有空間)であり、しかも「日本史の竜骨(keel/大公儀のバックボーン、の比喩)」でもある天皇制の根本には、古代期から受け継がれてきた象徴的・美的パブリック圏(日本文化の中核を成す正統保守的な“美と礼節”の象徴)の問題がある。


他方、一般社会における日常的な交際文化(文芸や趣味の領域)について見た場合も、そこにはこの象徴的・美的パブリック圏と共鳴する『江戸プロトモダニティー』の名に値する水平空間が紛れもなく存在したのであり、それこそが明治維新〜現代にまで繋がる日本の近代化・現代化(民主主義化)を準備する非常に良質な胎盤となった。つまり、それは決して幕末〜維新期に準備され、偽装極右派(現在の安倍自民党政権らに繋がる)が上から押し付けた「尊皇愛国テロリズム妄想」(国民主権を否定する天皇の密教的政治利用)の賜物ではなかったのである。


(『江戸プロトモダニティー』、弱い紐帯の平等なパブリック圏の5つの特質)


・・・その「江戸プロトモダニティー」(弱い紐帯の平等なパブリック圏)は、特に下の5つの点において17世紀オランダのみならず凡よそ17〜19世紀頃の啓蒙期ヨーロッパ諸国の市民社会よりも遥かに優れた点が多く見られることに驚かされる(上掲の『美と礼節の絆』より一部分を抜粋・転載し、更に(2)などの内容を若干補足した)なお、ここでは全体スペースの関係から、(3)と(4)以外は項目だけに止めるので、その委細については下記◆を参照乞う。・・・


◆盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている20170518toxandoriaの日記、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170518 


(1)取引情緒コスト、つまり礼節(civility/市民社会に必須の中間ゾーン)の発見

(2)都会的に洗練された「風流」と「粋」(シック)の出現

(3)特に都市部における驚異的な江戸時代「識字率」の高さ

・・・近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてある程度の推定が可能な、明治初期の自署率調査(文部省年報)が存在する。それによれば、1877年に滋賀県で実施された最古の調査では男子89%、女子39%、全体64%であり、青森県や鹿児島県ではかなり低く(20%程度)、相当に地域格差があったと考えられる(ウイキ情報http://u0u1.net/Dk3a )。

・・・但し、江戸・大坂・京都などの都市部での識字率は寺子屋制度に支えられており、それはかなり高く、少なくとも全体で70〜80%程度(農民層を含む庶民層に限定しても60〜70%程度?)はあったと考えられる。17〜18世紀の欧米の識字率が高々で20〜30%程度であったと推測されるのと比べれば、江戸期・日本の識字率が驚異的であったのは確かだ(出典、http://u0u1.net/Dk3o http://u0u1.net/Dk3r )。


(4)識字率の高さを基盤とする、江戸期の活発な「商業出版」活動(全国規模に拡がった江戸“商業ネットワーク”の下地)

・・・江戸期プロトモダニティーの性格は商業出版産業の隆盛に支えられていたと見て過言ではない。日本最初の営業カタログである「和漢書籍目録」(1666)には書籍2589点が掲載されており、それは徐々に増え続けて1692年には7181点となっている。やがて18世紀には出版業者・販売業者が新しい読者層を開拓したため大衆読者層が指数関数的に拡がり、幕府の公式記録(1808)では江戸の貸本屋数が銭湯の数を超え656軒になっている。

・・・江戸期の商業出版は様々な社会的・認知的ネットワーク群の橋渡しをしたが、特に注目すべきは、そのネットワークが交差し拡大する過程が、現代社会学的な意味での非常に多様なパブリック圏と流通ネットワークを派生的・波及的に創造したことにある。中央集権的な幕藩体制の分節構造に組み敷かれながらも、一方ではそれが「身分差を越えた多様で水平的な文化・市場経済パブリック圏」として全国規模で拡大し、それこそが江戸期・日本の活力源であった。

(5)美的社交の場たる、いけ花、碁・将棋、歌舞・音曲、酒飲み合戦、絵画・浮世絵、古典解読、古書画、古美術、古器物など「水平空間」の創造


1−2 皇室文化からの学びと異質な「自生的に闘い(自律的な戦い方)を記憶する百姓たち」の江戸プロトモダニティ(目安往来物の拡散)


近年における「日本法制史・日本教育(教科書)史」の研究分野の新たな検証と努力で、特に中世〜17世紀の「目安往来物」の役割が看過できないことが分かってきた。そもそも「往来物」とは、中国(唐)伝来の『杜家立成雑書要略』(とかりっせいざっしょようろく/正倉院宝物)を始祖とする、千年以上にわたりその利用が日本列島内の庶民層にまで普及してきた、実際の手紙(交換文書)等を手本とする、漢字での文体表現を活かす文章作成のための教科書のような性質の文書写本である。


つまり、それは多様なテーマの書簡や交換文書が手書き写本の形で繰り返し再生されたものであり、やがてそれが実際に役立つ手書き文字と用語、社会的知識、社会常識などを庶民・農民らの庶民層の人々が学ぶための教材として幅広く利用されるようになっていたことが明らかとなりつつある。


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しかも、特にこの本が取りあげている「目安往来物」(“目安”とは、理不尽な課税・徴税について農民らが作ったお上(諸藩ないしは幕府)への訴状(公正な裁判を求める切実な要望書)の要旨を箇条書きにしたものを指す)の写本の分量が従来知られてきた以上に非常に膨大なものであることが分かってきた(出典:八鍬友広『闘いを記憶する百姓たち/江戸時代の裁判学習帳(目安往来物)』‐吉川廣文館‐)。


つまり、その「目安往来物」の具体定内容は一揆などの裁判事件に関わる訴状・訴訟関連の記録文書などであるが、山形地方・白岩村(現在の寒河江市西村山郡)のそれ(白岩目安)が、その後に日本列島中で普及することとなった「目安往来物」の最初のもの(雛形)であった(これは実に瞠目すべきことである!)という意味で、特に重要であることが分かってきた。


そして、白岩村の農民層らに対する指導者的な役割を担っていた出羽三山、慈恩寺等の修験者・神官・僧侶・関連宗教者・知識人らの存在と役割が注目されており、彼らは渡来系文化(そもそも当地域(寒河江)には、関東(寒川)に居た渡来人が移住し再入植したというグローバル多元文化的な前史がある)を下地としているようだ。


これら知識人・宗教者らは「徳治・法治理念、漢字文化」などに関わる知識(社会的意識の共有化/反権力的な感情マグマの合法的意志への転嫁)を苛斂誅求な取り立てで臨む領主らに対する対抗手段とすることを目論んだ訳だが、彼らの指導を受けた白岩村の農民たちは一揆の武装蜂起やテロによる中世的な自力救済の限界を乗り超えて、日本独自の民主主義の実現へ一歩接近していたことにもなると言える。


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なお、慈恩寺(開山以来、約1300年の歴史をもつ古刹/藤原摂関家、奥州藤原氏との関係があり、そもそもは聖武天皇の勅願で天平18年(746)に婆羅門僧正が開基したとの伝承がある法相宗の古刹であった(現在は天台・真言両宗慈恩寺派の総本山/慈恩寺に関わる委細は下記▼を参照乞う/画像は寒河江市・慈恩寺三重塔(山形県指定文化財))。


▼「慈恩寺」(山形県寒河江市)について、雑感2017/11/03my-evernote

https://www.evernote.com/shard/s440/sh/cbaaeb79-ee40-41e6-a275-4486b17b315b/cf7a44dd59e3be0aaa6c72df2948c8fa


また、彼らはやがて開明を自負することになる、薩長が中心となって仕立てた明治維新・政府(上からの民主制の押し付け)を遥かに先立つ形で人治ならぬ「法治の観念」を当時の庶民・農民および領主ら支配層(最終ターゲットは幕府)へ啓蒙することも意図していたと思われる。このため、やがて、この「白岩目安」を手本(モデル/雛形)とする司法(裁判)による「苛斂誅求な暴政」への対抗の形は新潟、関東、そして全国へと及ぶことになった。


まさに、これは、皇室文化からの学び(美と礼節の絆)をルーツとする「主に富裕な庶民層を中心とする17世紀・日本のプロトモダニティ(近代市民意識の先駆け、芽生え)」(既述/1−1★)とは全く逆ベクトルの「下から上へ立ち昇った17世紀・日本の、もう一つのプロトモダニティ」であった。


いずれにせよ、これら二つの「17世紀の江戸プロトモダニティ」なる両輪の歴史(残念ながら、この様な問題意識は今のところ殆どの日本国民が理解していないと思われるが、その核心にあるのが、先ずもって江戸期における日本人の識字率(文字・文章リテラシー)の驚異的な高さ!であり、そのベース構築で大きく貢献したのが、漢字の伝来いらい遥か千年超の歴史を誇る渡来系(波状的に“前渡りし今来すること”を繰り返した中国、朝鮮)両文化の賜物でもあった。そして、特に17世紀の「白岩目安」を巡る動向(歴史的事実)は絶対に無視できない重要なファクターである、と思われる。


2 幕末の不平等条約を引き継ぐ明治期「外交」の最大“眼目”は平等「万国対峙」の確立であったが・・・


・・・かくて、近隣の中国(清朝)と朝鮮に対し“国威を輝かす国権外交”で先ず臨んだが、先行した列強と平等に対峙するためとはいえ、その露骨な侵略・植民地主義こそが、そもそも誤りであり、後世に禍根を残した・・・

 

(維新期“平等『万国対峙』の確立”の理想 ⇒“植民地・侵略主義”へ変質した契機は西郷隆盛『征韓論』(西郷の真意が何処にあったか?はともかく)にある)


f:id:toxandoria:20180106165823p:image:w300:leftいつの時代であっても、革命、侵略、戦争などを想定しつつ国家権力の側が「国民」の「国家権力による一定の保護の囲みの外へ追い出される不安」を煽るためには、これまでの「政治対象とは明らかに異質だ」と一般国民が感じる、全く新たな具体的かつ作為的な「緊張」が必要になる。


民主国家にあるまじき水準まで酷く歪んだ国政選挙制度の放置、格差&不平等税制拡大、金融財政制度改革の停滞 、経済・ 教育・科学技術・産業・労働・高齢者医療等福祉環境の劣化(例えば、悉く失敗したアベノミクス)、森友・加計・スパコン疑獄に止まらぬ政治・経済・利権が奥深くで癒着・混交する<アベ一強ユガミ政治スキャンダル>の底なしの拡大・・・と今の日本の政治の実相(リアル)は行き詰まりを見せている。


このため、「囲い込まれている安心の感情」はもはや多くの人々に共有されておらず、作家の辺見庸氏が言うように今やこの国が「新しい内戦」下にあるとするなら、権力にとってはまさに「内乱を冀(ねが)う心」(一般国民層の内心の奥深くに沸々と滾り始めたルサンチマンのマグマ)を外に移す必要があり、その「不安」の責任(原因)を新たに転嫁する対象(多数派国民層がヘイト&差別の感情を激しくぶつけるべき)へのニーズが高まる。


そもそも、専制政治であれ民主政治であれ資本主義であれ社会主義であれ共産主義であれ、「囲い込まれている安心感」や「囲みの外に出る(出される)という不安感」を「国民」に刷り込むことさえできれば「統治改革」としては「成功」となる。更に、「囲いを広げる為政者側の邪な野心、例えば安倍政権では追憶のカルト(シュゴシン(守護神)たる日本会議の異常イデオローグ、靖国顕幽論)まで付け加えることができれば「大成功」だ。つまり、「内乱を冀う心を外に移し国を興すの遠略」は国家が国家である限り有効な戦略なのだ。


ところで、「内乱を冀(ねが)う心」というコトバは、1873(明治6)年の「征韓論政変」の直接的契機となった「朝鮮国遣使」問題(日本商人の密貿易を理由に朝鮮側が日本を“無法の国”と呼ばわったことへ、開国直後の維新政府が国威を輝かす国家戦略の大前提下で如何に対処するかが大論争となった/李氏朝鮮は様々な事情等から当時は未だ鎖国状態、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1182871906)に際し、筆頭「征韓」派の西郷隆盛が、太政大臣三条実美に対し、その「征韓論」の意味は「内乱を冀う心を外に移し国を興すの遠略」であると説明したとされる史実(西郷隆盛書簡、板垣退助宛、1873.8.17)に由来する。


当時、明治維新の相次ぐ変革で既得権を失った士族層の不満は爆発寸前にあり(ピークは“ 1874(明治7)年2月‐3月、1876(明治9)年10月‐12月、1877(明治10)年2月‐9月”/明治10年には征韓論争で敗れ下野した西郷隆盛が原因となり西南戦争が起こる)、他方、各地では暴政に対する民衆の一揆も続発していた。


因みに、西郷の真意については諸説があり未だにその決着はついていない。例えば、江戸城“無血開城”での勝海舟らとの交渉・交流から西郷には正統保守主義的イデオロギー(急進的啓蒙の実行は逆効果なので、日朝の夫々の国の伝統と国民の主権を尊重しつつ軍事強化主義へ傾斜せず教育に注力して先ず民心(民度)を高めるべしとの考え方)があったとの説もある。


しかし、少なくとも当時は国内の社会不安がもたらす政府への反発を抑えるため、一人歩きし始めた「征韓論」(西郷の真意はともかく、結局、これが爾後の時代における日本侵略主義イデオローグのルーツとなった/出典:勝田政治・著『明治国家と万国対峙』、関連後述)を利用しつつ、一般国民の不満の矛先を朝鮮へ向けようとしていたのは確かだと思われる。


首相官邸HPの“明治150年”を盛り上げるためか、西郷隆盛を人情噺風味で(?)救国の英雄の如く取りあげる大河ドラマ『西郷(せご)どん』のNHKテレビを筆頭に各メディアがコレぞとばかり西郷どん大翼賛の空気を煽り始めているが、果たして如何なものか?である。


事実上、国際情勢に関する限り当時の日朝両国の多数派国民は盲目同然であった。但し、コレは識字率のことに非ず、特に当時の庶民層を含む日本人の識字率は世界トップクラス!で、それは、(1−1)と(1−2)で既述のとおりである。また、これは日本文化の基層を持続的に固めてきた“歴史的・文化的”な事実(古代いらい波状的に伝来した中国、朝鮮からの渡来系“漢字”文化の賜物)に因るものだ。


f:id:toxandoria:20180106170103j:image:w220:rightなお、このような論点をより実証的に証明・強化し文化に関わる内面の意識から気付かせてくれる優れた著作(添付画像)があるので参考資料として紹介しておく(芳賀 徹著『文明としての徳川日本』‐筑摩書房‐)。ともかくも、国民に正統保守的な観念を根付かせるべきという西郷の秘めたる狙いがあったか否か?という“西郷の真意”に関わる「征韓論」解釈の決着はついていない。


ところで、岩倉具視(京都、公家/内務優先を唱え征韓論に反対の立場)、大久保利通(薩摩/ 初代内務卿(実質上の首相)を務めた内閣制発足前の政界リーダー/産業振興による富国政策を重視 /征韓論で江藤新平、西郷らと対立)、大隈重信(佐賀/立憲主義を目指す内政改革と殖産興業 を主張し征韓論に反対/会計検査制の創設にも尽力)、木戸孝允(桂 小五郎/長州/台湾出兵など、国威を海外に張る外政論に反対し立憲主義、三権分立の確立およびマスコミの重視を主張)、伊藤博文(長州/木戸と同じく外政論に反対/ 初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣プロイセン法の影響を受けたが国際協調主義)らもこの意味で言えば同様の正統保守的な考え方を持っていたとされる。


ともかくも、この征韓論(論争)の影響(中国・朝鮮ら周辺諸国を野蛮な国家と見下す(実は殆ど一心同体的な歴史・文化(漢字文化圏)・民族のヒュレーを共有/我われの日常生活空間において常に体験し続ける皮膚or内蔵感覚に近い概念とも言える“実在性として視覚と結びつき易い形相(エイドス)よりも触覚、痛覚、快・不快感らとの親和性を十分に想像させる現象学的な作用因”であるヒュレーについての委細はコチラ ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109)は現代、安倍政権下の日本にも深い影を落とす。なお、西郷隆盛・大久保利通・ 木戸孝允は明治維新の三傑とされる。


(維新期にはプロイセン型“国家主義”(制限民主政)と英国型“立憲民主政”(正統保守主義)なる二つの理想が混在し、せめぎ合っていた)


f:id:toxandoria:20180106171048p:image:w200:left近年の研究成果である 勝田政治・著『明治国家と万国対峙』(角川選書、2017年8月・刊)によれば、一般的な理解(大久保が日本近代化モデルとして採ったのはプロイセン流の議会制限型の君主制だとする説)と大きく異なり、そのモデルは意外にも英国型の殖産勧業(人民産業)行政(民力・民度の向上が最大の狙い)で、そこで目論まれた国家政体もプロイセン型ではなく「英国型立憲君主制」で内務省もフランス内務省をモデルとするものであった。


この「事実」があるにも拘わらず、その死後に大久保の腹案であった筈の 英国モデル「内務省」構想がどのような経緯を経て(定説と異なる理解の流れで)プロイセン・モデルの官僚体制へと歪曲され(定説では井上 毅が深く関わったとされる)、遂には<「国家神道」(超然宗教の名を付与された大日本帝国の精神基盤)を支える内務官僚組織>に一方的に支配される官僚制度(植民地主義の侵略国家・日本を支える)へと変質したのか?


その具体的な過程については、別途、詳細な研究成果を待たねばならない(これも定説に従い、列強並みの軍事力強化による対等な万国対峙を目指した“山形有朋”一人の軍事国家主義にそのことを帰することで、果たして満足できるのか?)。いずれにせよ、このような大久保らについての新たな発見によって、維新開始〜内閣制度創始の時期における<正統保守のルーツの在り処とその変遷の姿>を正しく理解することが重要と思われる。


つまり、大日本帝国の骨格としてプロイセン・モデルの官僚体制を定着させたのは「明治十四年(1881)の政変」と見るのが従来の説明であるが、必ずしもそれだけではないと考えられる。因みに、「明治十四年(1881)の政変」とは、1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中で憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上馨が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である(なお、大隈重信は翌・明治十五年に早稲田大学を創設している)。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったとされる。


ともかくも、それはその後にも、例えば井上毅(明治十四年の政変で大隈重信らを追放する勢力に加担したが、同上政変の時に井上は未だ参事院議官・内閣書記官長兼任で、自らは「保守漸進主義」(これは正統保守そのもの!)の考え方から先ずプロイセン型国家を構想すべし、つまり プロイセン型の憲法を先ず導入すべしと主張していた)らが英国型の立憲主義(議会重視)にも注目していた節があるからだ。実は、井上毅は究極的には現代の日本国憲法下の象徴天皇制に近い「顕教的な天皇の政治利用」をさえ考えていたのではないかと思われる。


(敗戦後70年超の現在でも日本の立憲民主政は未完である!だからこそ、戦前の価値観をバッサリと一括りで全否定する態度は却って危険!)

因みに、「同上の政変」で大隈重信が政府から追放された後も益々高揚する自由民権運動への対抗策として政府が出した「国会開設の勅諭」(1890(明治23))の起草者も井上 毅なので、ここで井上の暗躍が功を奏し、名ばかり英国議会モデル(内実はプロイセン流の非政党内閣制(天皇を唯一の主権者とする))への誘導が成功した、と 勝田政治氏は理解されているようだが、この点については果たしてそうだろうか?との疑問が湧く。

それは、先に述べたとおり井上の考えていた天皇のあり方が実は現代の「日本国憲法」の象徴天皇制(憲法上で主権者を国民とする)に近いものであった(天皇に因る人治の徳政を期待しつつ憲法上で天皇を主権者とする、大日本帝国の天皇の密教的な政治利用に対して)可能性が高いからであり、同じく、井上 毅については、彼が法制局長官の時に大隈重信の命で携わった教育勅語(原案作成)についても、次のようなエピソードがあるからだ。 

・・・<井上は、a「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」、b「教育勅語は宗教、哲学、政治、イデオローグとは関わりない中立的な内容で記す/後述する、ケルゼン“純粋法学”の概念に近い?」ことを前提として、つまり宗教色など世俗性を排することを企図して教育勅語の原案を作成した。また、井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対して、その中止を進言した(c)が、山形有朋の「教育勅語」制定の意思が変わらないことを知り、再び、自ら教育勅語起草に関わるようになり、この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。> 井上 毅が<この>ように紆余曲折した一連の経緯には、戦前の国家主義(大日本帝国)の黎明期に活躍した人物らの内心には正統保守的な考え方(現代のリベラル共和主義に繋がる可能性をも秘めた)と、現代の安倍晋三・日本会議らに繋がる偽装極右(エセ保守)的な考え方が混在していたことを示唆する。別に言えば、現代の「政治哲学」的な観点からすれば上のaに「哲学」が入っている点に曖昧さを感じるもののa・b・cが事実であるとすれば、やはり井上毅の内心にはライシテ(laicite/フランスの厳格な政教分離原則/Cf.↓注記2)的な観念が存在したと考えられる。因みに、教育勅語が軍人勅諭と共に皇国史観的な内容として偏向解釈のうえ、国民へ押し付けられ、それが戦中期まで尾を引く結果となったのは絶大なまで影響力を強めた軍部の介入によるものであったことが知られている。・・・

(注記)ライシテという言葉の歴史上の初出は1870年代の初め頃とされているが、司法省の西欧使節団(8人)の一員として井上 毅は1872年(明治5/フランスでライシテ(フランスの厳格な政教分離原則の観念)が定着し始めた頃)に渡欧しており、フランス中心に司法制度の調査研究を行った。

・・・

従って、現代の我々が「戦前の価値観をバッサリと一括りで全否定する態度は、却って危険である」と思われる。益々、冷静な批判力が求められる所以である。その意味では、当書『明治国家と万国対峙』の著者・勝田政治氏が「有能な井上毅は、国家主義の基盤たるプロイセン流の憲法(明治憲法)を伊藤博文らに制定させるため暗躍した」という記述に止まっている点に物足りなさを感じる。


3 世界との関連性を十分に意識しつつ「共和国たる20世紀中国」の憲政をめぐる歴史を俯瞰すると、「“日⇔中憲政”交流史」に透ける日本「法学」の影響力の大きさが浮上する


・・・特に日露戦争前後から日中国交正常化ころまでの中国近現代史を俯瞰すると、<維新期〜戦前の国家主義・立憲主義の混在⇒戦争直前期〜戦中・国家主義の暴走⇒戦後立憲主義の苦闘、その日本政治の全過程を清濁併せ呑み凝視してきた中国>が理解できる! ・・・


(先ず日本国民が自覚すべき“日⇔中/憲政”交流史に透ける日本「法学」の影響力の大きさ)


f:id:toxandoria:20180106171659j:image:w200:right周知のとおり、吉田松陰尊皇攘夷思想は明治維新期〜戦前軍国主義日本、そして現在の安倍政権と、そのシュゴシン(守護神)たる日本会議の極右的スタンスに至るまで深く影響してきたというのが一般的理解だが、近年の日中関係史研究の中から、このことについて根本的疑義を突きつける事実が発見されている(出典:王暁秋著、木田知生訳『中日文化交流史話』―日本エディタースクール―)。


それによると、林則徐(英国の植民地主義へ抵抗した清朝の官僚)らとも親しかった魏源は、アヘン戦争後の中国で新思想の提唱者として中国人に対し「世界に目を開かせる」役割を担った知識人の代表者である。魏源の著書『開国図志』と『聖武記』は佐久間象山(尊皇開国派)・吉田松陰(尊皇攘夷派)ら幕末日本の知識人へ大きな影響を与えており、これが彼らの尊皇開国、尊皇攘夷思想の基盤を作ったと考えられる。


おそらく明の時代まで遡る日中間のかなり色濃い文化的な双方交流の関係に加え、ほぼ明治維新期に重なる清朝末期(清滅亡・宣統帝退位は1912(明治45)年)以降は、植民地主義化した日本から中国に対する外交・政治的な関りが増すことも周知のとおりである。そして、ポスト日露・日清戦争あたりから、国力が弱体化する一方の中国に対し日本からの外交・政治的な圧力が更に強化されることになり、これが爾後の反動、つまり過剰な中華ナショナリズム形成の契機となった。


と同時に、この頃の清国の王朝(光緒帝)は、中国が歴史的に多民族で構成されてきたという宿命から、新たな「中華民族の概念」を創造しつつ自らの国を近代的な意味での国民国家へ変容させるという非常に重い課題を突き付けられていた。このため、先ず京師大学堂(1912年以降は北京大学)の整備をバックとするアカデミズムと教育の改革に着手していた。


このような状況下で中国に対する日本側からの政治とアカデミズムが混交する形での影響力(個々の良し悪しの問題はさて置くとして)が増すことになったが、特にそれを大きく憲政史の観点から凝視することが重要と思われる。この「日・中両国を巡る一種のグローバル」史を考察する場合に特に見逃せぬ点として、中村元哉氏(津田塾大学教授/既出、『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』の著者)は下の二点を指摘している。


(1)憲政の土台となる、律令に因る人治から法治化へ転ずる試みは間違いなく清朝に始まった。それは、治外法権(不平等条約)の撤廃という政治上の要請に基づき法制の近代化が待ったなしだったからだ。そして、その最大の功労者は清朝末期の法学者・沈家本(しんかほん)で、彼は司法の独立を期して特に刑法典「大清現行刑律」の編纂に尽力した。このため、1940年代までには、刑法と民法を区分する六法によって支えられる近代法制へ置き換えられた。


(2)この時代の清朝は、およそ40〜50年くらい西欧文明を先行して受け入れた日本を成功モデルと見なしており、主に日本経由で西欧に関する諸情報を取り入れ始めた。それは、清朝からすれば民族・風土・地理学的にコンパクトで効率的な(既述の“二つの江戸プロトモダニティ”までがリアルにその視野に入っていたか否か?は未検証であるが/補足、toxandoria)、しかも同文同様の(古代以来という意味で歴史的に漢字・中国文化を深く共有する)日本は最適のモデルと見えたからである。このため、日清・日露戦争の頃から日本留学ブームが始まっており、清朝の近代化に不可欠な新しい概念(特に社会・法制・憲政関連の)が日本語(日本で創られた漢字、いわゆる国字)を介して次々と導入された。

・・・立憲民主主義国家の「憲政の構築に不可欠な用語」に絞ってみると、中国へ西欧的な新しい概念を伝えた日本語(国字/和製漢語)の事例は下記(⇒)のとおりである。特に「法学」分野を中心とする日本アカデミズムの存在感は圧倒的なものであったことが分かるが、見逃せないのは同様の傾向が共産党一党独裁下にある「中華人民共和国」となった現在も続いていることである。

 ⇒ 社会、権利、議会、憲政、憲法、共和など

・・・なお、「国体」なる和製漢語も日本から中国へ導入(逆輸入)されたが、このコトバの当初の意味(概念)が日本と中国では決定的に異なっていたことに注意を要する。明治憲法下の日本では国柄(国の形を天皇の身体と同一視する曖昧で特異な神権政治的概念)と同義、つまり万世一系の現人神たる天皇が統治する皇国の意であった。今の憲法学では国の主権のあり方(君主制or共和制)をさし、主権の運用の違いとしての政体(専制or立憲)と区別する。他方、20世紀 初頭の中国(新政(中華民国と清朝の並立)時代の清朝末期)へ移植された(統治権の所在と最高機関の所在が曖昧のまま、国の形の意味として)コトバ、国体はやがて中華民国(1911・辛亥革命、1912・孫文〜)初期の<「国体」論争>のプロセスで、権力の暴走を防ぎ得る後者(最高機関の所在)の概念として定着するかに見えたが、その後はあまり中国では使われなくなってしまった。


(中国における日本『法学』アカデミズムの圧倒的な存在感の中核は美濃部達吉(戦前)と横田喜三郎(戦後)を介した「純粋法学」(ケルゼン)の影響力) 


このような意味での中国における日本「法学」アカデミズムの圧倒的な存在感の中でも絶対に見逃せないのが美濃部達吉(戦前)と横田喜三郎(戦後)を介した「純粋法学」(ケルゼン)の影響力の大きさである。しかも、それはある意味で現在の共産党一党独裁下にあるはずの人民共和国でも同じことが言えると思われる(この問題意識は、既出、中村元哉・著『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』の重要な論点の一つである)。


そこで、先ず現代においても世界の大勢で理解が共有されている、『法学』アカデミズムにおける「純粋法学」(ケルゼン(Hans Kelsen)/1881 1973/オーストリアの公法・国際法学者)の重要性について中村元哉氏が同著書の中で書かれている部分をそのまま以下に転載しておく。


・・・ケルゼンの純粋法学理論とは、規範と事実を峻別する新カント主義の二元論を背景にして法学に倫理的価値判断や政治的価値判断を混在させることなく、実定法のみを取りあげることを主張した理論である。実定法そのものを純粋に認識しようとした彼は、規範概念によって国家理論や法理論を構築しようとし、規範こそがすべての上位に位置する原理だと捉えた。この純粋法学は根本規範を頂点とする法の段階説を導き出し、法の最上位に位置し蓋然性を規定する憲法も根本規範によってその妥当性を獲得する、とした。以上のような法学、政治学、行政学の新展開のなかで、中国の憲政の準備は進められて行った。・・・


f:id:toxandoria:20180106173842p:image:w300:left・・・[補足、toxandoria] → 倫理的価値判断については、昨今のAI進化あるいはコンシリエンス(人文社会・科学両知の融和傾向)の深化とそのカバー領域の拡大で、今や法に限らぬ凡ゆる分野で古典的なそれとは異質の発想が求められる時代へ入ったとはいえ、人類の存続そのものが完全に絶望的とならぬ限り、一定の理想を目的とする蓋然性が大きい『憲法』の規定についても、それがケルゼン理論的な意義を失うことはないと考えられる。/関連で、ヒトが生きる意味そのものを冒涜する典型(アンチ・ケルゼン)と思しき、シンギュラリティ―信仰的、ないしはトランプ流のコントラリアン(逆張り)思考的な空気に毒された?と思しき人物、ピーター・ティールに関して“他山の石”的な興味深い情報があるので、下記★も参照乞う!・・・


★ピーター・ティールがトランプを支持する本当の意味——テクノロジーが「政治」(それを統制すべき役割の法はおろか?!)を飲み込み始めたJun. 10, 2017松島倫明(NHK出版/学芸図書編集部編集長)<注>ピーター・ティールは「ペイパルマフィアシリコンバレーで数々の有名企業を立ち上げる天才起業家集団」の中でドンと呼ばれており、リバタリアン(共和党右派シンパとされるが、厳密には、諸悪の根源が政府による規制(法に基づく)にあるとする、“貧困問題などへの着眼は良しとしても、実はいとも容易く戦争はおろか政治権力の暴走へ従属し易い、ご都合的orクローニー(お仲間)式の過激ビジネス自由原理”主義)であり、かつ熱烈なトランプ支持者。https://www.businessinsider.jp/post-3426 


・・・


同じく中村元哉氏によると、そもそもは儒教の人治主義一色に塗り込められてきた中国を根底から変革して個人の自由を確保しようとした陳独秀が1915年に上海で開始した「新文化運動」(文化革命)の思潮がその受け皿となったのだが、先ず清末〜民国(中国大陸にあった中華民国)の時代にかけ一貫して注目され続けたのが日本の美濃部達吉であった。やがて、その影響もあって清末から受容されていた大陸法系の行政法学が1910年代の中国でも主流を占めることになる。


その後、英米法などとの論争の時代を経たうえ、東京帝国大学に留学した法学者が美濃部達吉を基盤に中国の行政法学を1920年代の後半に中国で確立した。この学説に対する高い評価は満州事変以降も続き中国の憲政思潮に対する日本の影響が強く残り続けることになる。しかも、日中戦争が近づく1930年代になっても美濃部学説は高く評価され続けており、当学説を含む日本の行政法学が中国の行政法学を此の1930年代にこそ基礎づけたのである。


1940年代の戦時になると流石に日本の法学の影響は薄れたが、その流れの過程で日中両国の司法には意外な関係性が生まれてくる。戦前の中国の法学会はケルゼンの純粋法学を中国流に受け入れようと努力したが、意外なことに戦時期に入っても、今度は同じくケルゼンを紹介する横田喜三郎『純粋法学』(岩波書店、1935)の翻訳を法学者・劉燕谷(りゅうえんこく)が完成させており、それを戦後に再版して、純粋法学を正しく中国に定着させようとした。


更に、このように日本を介し全面的に紹介された純粋法学は、戦後の中国の憲政実施の準備と合さるかのように、韓徳培らによって肯定的に受容された。特に、韓は純粋法学を全面擁護して、これを全ての法学者が拠って立つべき出発点だと高く評価した(韓徳培『ケルゼンと純粋法学』ほか)。彼は、戦後中国の自由主義思想を代表する『観察』誌で自由を訴えた法学者であり、共産党の一党独裁下で成立した中華人民共和国(1949〜 )の時代になっても、武漢大学で国際法学者として活躍した人物である。


中村元哉氏によれば、ケルゼンの純粋法学は政治的な法学支配に対抗し得る法理論であり、凡ゆるイデオロギーを批判する性格を持っている。そのため、これは驚くべきことだが、それからやや後になるが人民共和国成立後の「新民主主義」段階(1945〜1952年頃まで中国共産党の路線でもあった毛沢東の指導体制/主要政敵の崩壊が主たる目的の中国人民協商会議・綱領に因るものであるが、曲がりなりにも共和国を名乗る必要性(というか、むしろそれを名乗る必然の論理)から、この綱領は民主主義の名を冠している)から「反右派闘争」(1957.6〜年末にかけて中国で行なわれた右派分子に対する思想・政治闘争)の時代に至るまで、ケルゼン関係の著作は細々ながら広く翻訳され続けており、その影響力は、解放後のグローバル市場世界に愈々本格的に、しかも今度は十分に全世界に対して責任を持って参加せざるを得なくなった現在の中国にも、何らかの影響を与え続けている。


(“人類文明の行く末、そして世界の流れ”との関連性の俯瞰から浮上する、日中“憲政”交流史に透ける日本「法学」の影響力の大きさの背景にあるのは同じ漢字文化圏、同文同様の思考世界における日本文化への高い評価ということ)


・・・しかし、今や『詩織さん事件』なる蟻の一穴が日本法学アカデミズムの信頼性を根こそぎ崩壊させつつある!・・・


ポーランドの偉大な経済学者オスカル・ランゲが理論的に証明していること(ランゲ・モデル(1))を引き合いに出すまでもなく、既にエトノス環境(2)における運命共同体であることが市場経済的にも実証されたといえるこのグローバル世界が、今や原理主義的な意味での共産主義などの社会・経済に関わる特定イデオロギーやアナクロ極右化の類の固定観念の支配下に収まるほど単純でないことは周知となっている((1)、(2)については下記を参照)。

(1) ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320 、

(2) ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109


他方、中村元哉氏が著書『対立と共存の日中関係史/共和国としての中国』の中で繰り返し指摘されているとおり、特に20世紀の中国史を共和国の歴史(つまり憲政史)として描写すると明らかとなる「殆ど運命共同体の如く対立と共存の関係を持続させてきた日本と中国」という構造の発見はなかなか一般的には、殊に肝心の日本政府関係者(厳密に言えば安倍政権の)らにとっては理解されにくいことのようだが、一般国民は薄々ながらこのことについての自覚が芽生えつつあるかに見える。


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そして、このことは直近の世論調査の結果が暗示している。それは、「いくら安倍首相が固い決意を表明しようとも、改憲を急ぐべきではない」という意識が日本国民の約7割を占めていることである(添付画像)。これは、おそらく日本国民の殆どがその深層心理と重なる部分で「日本会議に主導された“追憶のカルト”式、アベ改憲の危うさ」(記事の冒頭でふれた維新期の征韓論を淵源とする侵略主義が狂信・暴走化した“追憶のカルト”についての委細はコチラを参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104 )を直観しているからだと思われる。


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問題は、<「戌笑う」と改憲決意!戌年の今年こそ憲法のあるべき姿を!>と年頭に発言した、安倍首相の<国民の最大の懸念をすら笑い飛ばす驚くべき軽薄さ、というより実に不快なミスマッチ異物感がムンムンする、そして恰もそれが不気味に湯気立つような不潔感にある。アベ流の軽薄さ、つまりこの臭い立つ汚物感の如き下品なノリが罷り通ることとなり、やがて<何でもポケット《AIシンギュラリティ》時代に相応しく“めっちゃインスタ映えする《ドラえもん式アベ改憲2018》の汚名が歴史に遺ることになるのだろうか?(添付画像)


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振り返れば、日本の法学アカデミズムを高く評価しつつ中国が美濃部達吉(戦前)と横田喜三郎(戦後)を介した「純粋法学」(ケルゼン)の影響力を持続的に受け入れ、しかもその影響力は今も続いており、それが習近平政権の未来にさえ影響する可能性が高いという現実が観察される土壌には、同じ東アジア文明・漢字文化圏で同文同様の思考形式(文化意識)を、おそらく古代史以来の悠久の時間の過程で共有してきたという歴史的なリアリズムがある。


従って、いま何よりも懸念すべきは『追憶のカルト』の妄想に突き動かされるままに、国民の意思を無視するか、あるいはそれを凡ゆる手練手管を繰り出して誤魔化しつつ、安倍政権が自らとそのお仲間らが望む方向へ改憲をゴリ推すことだ。それは、既述のとおりの極東地域における植民地争奪戦という過酷な“近代史”の悪しき余韻を、その余韻の儘に止めるどころか、再びその悪夢をリアル国際政治の場で蘇らせ、東アジアに止まらぬ全世界からの<戦前型日本リバイバルへの警戒心>を取り戻してしまう恐れがあるからだ。


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因みに、一見では全く異次元の出来事のように見えるかもしれないが、<日本メディアの沈黙を傍目に各国の主要メディアが急に次々取り上げ始めたためグローバルに公然化することで、あの「詩織さん事件」なる日本政府(安倍政権)が公式に?に隠蔽したアベシンパ・ジャーナリストによるレイプ犯罪のリアルが今や全世界向け重大ニュースとして拡散中という異常事態>が日本人そのものを深く傷つけつつあると見るべきだ。いわば、それは安倍政権下で起きつつある此の余りにも理不尽で動機不純な<レイプ型「改憲」>の実像と「詩織さん事件」が深部共鳴することで、世界中からより厳しい警戒の視線を浴びられることになるのは今や時間の問題!と思われるからだ。


この「詩織さん事件」なる日本政府によって公式に?隠蔽された女性ジャーナリストへのレイプ犯罪は、只の日本政治(安倍政権)の異常性の指摘という範疇に止まることはあり得ず、アナクロ日本会議(靖国顕幽論)の画策の下で安倍政権が推し進める<レイプ型「改憲」>への暴走、つまり「アベ一強アナクロ政権への日本司法の過剰忖度問題の公然化」と深く重なり合うことで、当記事の核心である<日本「法学」アカデミズムへの高い国際的信頼性の伝統>が根こそぎ崩壊しつつあるかに見え始めている。だから、これは東アジア漢字文化圏のみならず世界中の民主主義と共和政国家の損失であり、全世界的な危機でさえある!


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従って、このような時であるからこそ同様に悠久の時間(日本側からすれば広義の日本の古代化(日本国の幼生期)以来の時間)を刻んできたユーラシア大陸の東端に跨る広域文化圏であるとの意識(それこそが、東アジアで圧倒的な存在感を示す日本法学アカデミズムの土壌であった!)を深耕させることが最も肝要となる訳だが、残念ながら、ここでその先を書き込むスペースはない。そこで、注目すべき歴史学者・深谷克己氏(早大名誉教授)の著書『東アジア法文明圏の中の日本史』(岩波書店)から、関連する部分を下に引用することに止めることとしたい。


・・・社会が政治的支配・被支配ではなく長老・祈祷者などの経験知と託宣に導かれ、集団の合意によって行為を決定する「運営社会」から、特段の有力者か少数上位者の意思で左するか右するかを指図する「政治社会」へ変化することが「古代化」である。中でも日本史では、当初から東アジアの「古典古代」を継受するという(自意識を持つ)大陸諸王朝群の更に周辺に位置して、かつ王への上昇を欲求するいくつもの集団(日本列島でいえば渡来系、倭人系の諸豪族から成る数多の集団)が一段上へと争闘を繰り返し鬩ぎあう地域であったため、国際的な力が往復的に働く中で消長し、長い時間を要した古代化となった。・・・(途中、略)・・・そのような意味での「古代化」は数世紀にわたる長い過程であって、初めから「日本国」だったのではない。「別れて百余国」と記された時代から奴国・邪馬台国等の小国あるいは連合国時代を過ぎて何世紀も後に東アジア法文明圏(中国冊封圏)において承認される「国号」として「日本」、「日本国」が称され始めた。日本列島にはなお独立性の強い広大な政治的勢力、部族社会が各地に跋扈しており、それらに対抗しつつ幼生期の日本国は国際関係において優越した地位を得たということである。・・・


・・・また、古代以後にも、広い範囲の「唐物(からもの)」文物の渡来は留まることがなかった。ことに古代の「日本国幼生期」に、東アジア古典古代を継ぐ中華王朝の政治文化を吸引し続けたことによって、「外来文化の影響」を超えて、自らの「体質」(特に日本的と見なすべき超個性的な中華帝国よりも或る意味で高度化し洗練された体質)に近い域にまでそれが進んだ。最初に吸収したものから更に二次的に紡ぎ替えて日本風になった事物も数多くあり、身辺化して派及が気付かれなくなっているものさえあるが、それらが日本の文化と政治の「基層」的な構成要素となったと言ってもいいくらいである。・・・(完)


[エピローグ]映画、上海の伯爵夫人(脚本:カズオ・イシグロ)について


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https://www.cinematoday.jp/movie/T0004818

・・・この映画の舞台は1936年(南京事件1年前) の上海 であるが、それは「当ブログ記事の重要モチーフとなる、中華人民共和国が成立して「新民主主義」段階(1945〜1952年辺り)へ移行する直前の時代の中国・疎界地周辺の空気を良く描いている。


この映画を初めて観た時(2006)に些か驚いたことを記憶している。それは、この映画が感動の「ラブロマンス」であるとともに、静かながら深く心に残る「反戦映画」であったからだ。恐らく、この「反戦映画」の側面を強くアピールする宣伝では集客が困難になるとの判断があったのか、当時のこの映画の宣伝文の類にそのことを覗うくだりは片鱗もなかったが。(なお、この映画は、そのノーベル文学賞・受賞の契機になったとも言えるカズオ・イシグロ原作の映画化である『日の名残り』(『上海の伯爵夫人』 と同じジェームズ・アイヴォリー監督))と共にツタヤのレンタルで鑑賞できる)。


無論、『上海の伯爵夫人』の脚本は、あのブッカー賞(英国内ではノーベル文学賞より高い評価が与えられている!)に輝く英国文学の名手、カズオ・イシグロの書き下ろしであり、名匠ジェームズ・アイヴォリー監督の感動的で風格ある文芸作品だ。そして、ここでもアイヴォリー映画の主人公たちは“たとえ彼らがどのような星の下にあるとしても、常にひた向きに、誠実に自分の目前のリアリティーを凝視し、いつでも相手や周囲に対して十分過ぎるほどの思いやりを持つことができる強い人間として生き続ける”のだ。


しかも、この『上海の伯爵夫人』を観た後には、主人公たちのひた向きな生き方への感動とともに「戦争の恐ろしさ・愚かさ、そして戦争へのめりこむ追憶のカルト一派(今で言えば安倍晋三、金正恩、トランプら)のバカバカしさ」が深く強烈な印象として心に残る。無論、“平和! 平和! 平和!”と何百万回も叫び続けることは大切だが、このような映画の鑑賞が人々の心の奥深くへ与える影響力も決して無視できぬほど大きいのではないだろうか?そのような意味で、これは今こそ鑑賞に値する秀作だと思っている。


ラストシーンに近い場面(この映画の舞台は1936年、つまり南京大虐殺が起こる1年前の上海)だが、主人公ジャクソンレイフ・ファインズ/国際連盟で活躍した米国の元外交官だが不幸な運命の悪戯で妻子を亡くし、自らは盲目となっている)を侵攻する日本軍の砲撃から救おうと訪れたマツダ(真田広之/実は日本軍部のスパイ)がジャクソンから、それを断られた時に“信頼関係を築いた友人”としてのマツダが残す言葉が脳裏に焼きつく。


『あなたは、本物の白い伯爵夫人とともに生きて新しい別の世界を築くべきだ! が、自分は日本が“美しい国”なる一等国になることを信じ自分の任務を果たすだけだ・・・・・・』(白い伯爵夫人(The White Countess)はジャクソンの夢が実現して出来た店(バー)/落ちぶれたロシア貴族である、伯爵夫人(ソフィア)を演ずるのはナターシャ・リチャードソン


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https://iwj.co.jp/wj/open/archives/279662

当然のことながら、この映画が作られたのが2005年であるので、2006年の日本で“美しい国”を標榜する、安倍晋三(歴史修正主義者)政権が誕生することなど知る由はなかっただろう。しかし、結果的に見て、カズオ・イシグロとジェームズ・アイヴォリーは見事に今の“偽装極右化したうえに、益々、異様化しつつある日本”(つまり、今や何も憚ることなく緊急事態条項(事実上の治安維持法!)を“改憲”の“最優先目的”化することを堂々と宣言するレベルまで凶暴化したアベ一強下の日本!/添付画像)の姿を見通していたようである。


少し補足しておけば、 「国民主権を最優先する憲法」に、言い換えれば「立憲主義を蓋然的に規定する民主“憲法”」に<緊急事態>を書き込むのは、事実上、総統・総裁型権力の暴走を許すナチ(戦前)型「国家総動員法」の復活であり、かつ戦前型“治安維持法”成立に道を拓くことになるということだ。それは、ダン・ザハヴィの現象学的「主観性」の用語で言えば、必ず、ヒトの自我の深奥に潜み蠢く悪徳(全天候型の悪魔的な権力)意思の存在(例えば、アベ一強政権の如き)に対し、国民主権の取り扱いを100%(全面)委任するという恐るべき事態を招来することと同意である(ダン・ザハヴィの委細はコチラ⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20171109)。


なお、この映画のヒロイン(ソフィア)を演ずるナターシャ・リチャードソンの母親は英国の名女優のヴァネッサ・レッドグレイヴ(彼女はこの映画で、ソフィアの義母の姉オルガを演じている)である。彼女は、映画「ジュリア」でアカデミー助演賞を受賞し、舞台では2003年にユージン・オニールの「夜への長い航路」でトニー賞を受賞している。また、彼女は反体制の闘士としても有名で、政治的発言やデモへの活発な参加などでもよく知られている。欧米の映画や舞台芸術の懐は深い。


・・・追加、参考情報・・・

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このザマ、つまりアベ一強政権がもはや向かうところ敵なしと思ってか?今や好き放題であるこの異常な状態の最中に、もし本当に“緊急事態条項”が憲法に書かれたらどうなる?苦w ◆↓☞「ドラマ『相棒』に“官邸のアイヒマン”北村滋内閣情報官が登場!? 公安が反町や仲間由紀恵を監視・恫喝する場面も/安倍官邸は公安警察を使って官僚たちを勤務時間外もその監視下に置くなど、徹底!2018.01.06 リテラ http://lite-ra.com/2018/01/post-3721.html 

・・・◆それは、ダン・ザハヴィの現象学的「主観性」の用語で言えば、必ず、ヒトの自我の深奥に潜み蠢く悪徳(全天候型の悪魔的な権力)意思の存在(例えば、アベ一強政権の如き)に対し、国民主権の取り扱いを100%(全面)委任するという恐るべき事態を招来することと同意である。 https://www.evernote.com/shard/s440/sh/dff1b946-a2c4-473d-bd49-61500c725a1a/76cc3c4cdf50bae9bdc4ac09f03fef29  


・・・【多数派層の国民には殆ど見えなくなっている、日本の恐るべき現実!】そして、遂に「日本外交の危機」を宣言!? 笑うに笑えぬ<偽装極右>権力の情けなさではないか!

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2017-11-09 [希望のトポス] 愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情

toxandoria2017-11-09

愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(2/2) M.アンリ『情感の現象学』から見える『感情の政治学』の可能性


J. M. W.ターナー『ノアハム城』

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…J. M. W. Turner「Norham Castle, Sunrise」c.1845 Oil paint on canvas  90.8 x 121.9 Tate、London 


イマージュ動画】ラヴェル「夜のガスパールMaurice Ravel - Gaspard de la nuit  

D

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Pianist: Jean-Efflam Bavouzet/公式㏋http://www.bavouzet.com/ 

・・・「夜のガスパール」(ガスパールは東方の三博士の1人Caspar に由来する男性名)はボードレールにも影響を与えたという夭折した詩人アロイジュス・ベルトラン(1807〜1841)の64篇で成る散文詩集のタイトル。ラヴェルはこの中から幻想的で怪奇性の強い3篇を選び、そのイメージに大変な技巧を織り交ぜながら情熱的なピアノ曲に仕上げた(出典:『ラヴェル:夜のガスパール、作品解説』http://urx.mobi/GM3n)。




プロローグ) ハイデガー「ゾルゲ」(思い遣り)の源流、クーラ(ペルセポネー)寓話


f:id:toxandoria:20171109091253j:image:w200:left「ハイデガー『存在と時間』—「気づかう人(homo curans)」としての人間」/京都大学吉田南総合図書館、http://ur0.pw/GIZZ (画像は、イシス・ペルセポネー像 (クレタのイラクリオンにある考古学博物館蔵、ウイキより))


・・・ドイツの哲学者ハイデガーは、その主著『存在と時間』で、人間存在を「気づかい」(ラテン語でcura/ケア(care)の語源)という語で特徴づけた。標語的に言えば人間はホモ・クーランス(気づかう人)となる。この点を把握するとき私たちは人間を深く理解できると同時に「思考がそこで運動せざるをえない根本的な場」と呼べるものを捉えることができる。by limitlesslife http://ur0.pw/GIZX


・・・が、近年はハイデガーの「気づかう人」(およびハイデガー哲学そのもの)には人間相互の気づかいに留まらず、魔術的・悪魔的・ロマン主義的な成分の“強者側の一方的勝利も当然と見なすエトノス(委細、後述)としての絶対的・宇宙的・多(両)義的な「自然と生命」そのものの宿命”が視野に入っていたと理解されている。そのためか?ナチスを歴史的好機(必然の歴史的瞬間=カイロス)と見たハイデガーは、一時期、フライブルグ大学総長“拝命”後の同年(1933)にナチスに入党した。


・・・「ゼウスとデーメーテールとの間に生まれた娘ペルセポネー(Persephone/源流は古代エジプトの女神イシス(アセト)神/“権力と支配”の神)」(添付、彫像(クレタのイラクリオンにある考古学博物館蔵)の画像はウイキより)はギリシア神話に登場する女神で冥界の女王であるが、コレー(乙女)、クーラ(気づかい)とも呼ばれる。


[クーラ(ペルセポネー)寓話]


レンブラント『ペルセポネー(クーラ)の略奪』

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…Rembrandt「The Rape of Proserpine1631」oil on oak panel 84.8 cm× 79.7 cm . Gemäldegalerie der Staatlichen Museen zu Berlin /Persephone=Cura、http://urx.red/GFBR 


<注>ギリシャ神話「ペルセポネーの略奪」の物語はコチラ ⇒ http://urx.red/GG3C


・・・両義的、つまり人間的かつ悪魔的という意味でH.アーレントリベラル共和主義の擁護者)に大きな影響を与えたハイデガーのゾルゲ(気遣い、思い遣り、関心)・・・


(クーラ(ペルセポネー)寓話)


ハイデガーの著書『存在と時間』では、その第42節「現存在の前存在論的自己説明に関わる“気遣い、思い遣り、関心(Sorge)”としての現存在の実存論的解釈の確証」のためとして、古代ローマ人ヒュギヌスが伝える『クーラ寓話』(そもそもはギリシア神話)が示されている。なお、ハイデガーのゾルゲ“気遣い、思い遣り、関心(Sorge)”は、この物語の主人公クーラをも連想させるドイツ語である。以下に、その物語の概要を『関本洋司のブログ、http://urx.red/GFBR』より転載させて頂く。


・・・昔、クーラ(ペルセポネー、豊穣の女神デーメーテールの娘/気遣い、思い遣り、関心)が河を渡っていたとき、クーラは白亜を含んだ粘土を目にした。クーラは思いに沈みつつ、その土を取って形作りはじめた。すでに作り終えて、それに思いをめぐらしていると、ユピテルジュピター、収穫)がやってきた。


・・・クーラはユピテルに、それに精神をあたえてくれるように頼んだ。そしてユピテルはやすやすとそれを成し遂げた。クーラがそれに自分自身の名前をつけようとしたとき、ユピテルはそれを禁じて、それには自分の名前であるユピテルがあたえられるべきだ、と言った。


・・・クーラとユピテルが話し合っていると、テルス(大地)が身を起こして、自分がそれに自分のからだを提供したのだから、自分の名前テルスこそそれにあたえられるべきだ、と求めた。


・・・かれらはクロノス(時間/ローマ神話では農耕神サトゥルヌスと同一視される)を最高裁定(審級)者に選んだ。そしてクロノスはこう判決した。ユピテルよ、お前は精神(収穫の精華)をあたえたのだから、このものが死ぬとき、精神を受け取りなさい。テルスよ、お前はからだをあたえたのだから、(このものが死ぬとき)からだ(死せる肉体)を受け取りなさい。さてクーラよ、お前はこのものを最初に形作ったのだから、このものの生きているあいだは、このもの(生きている肉体)を所有していなさい。


・・・ところで、このものの名前についてお前たちに争いがあることについては、このものは明らかに土humusから作られているのだから、人間homo(→ホモサピエンス)と呼ばれてしかるべきであろう


・・・


(知的“略奪”か“倫理”か?の両義性でリベラル共和主義の擁護者たるH.アーレントに大きな確執を与えたハイデガー“ゾルゲ(クーラ)”(気遣い)の問題)


ハイデガーは、上の『クーラ寓話』の中でサトゥルヌス(クロノス)が象徴する「時間」の支配的役割を重視しており(一般に外見・相貌・位置・形状などの変化で時間を知覚することから“エイドス(形相)、いわば視覚”重視の哲学・現象学)、それがハイデガー哲学に、冥界の王ハーデース(美の女神アフロディーテと、その息子エロースらの目論みの下でクーラを略奪するhttp://urx.red/GG3C)にも似て魔術的とも言える抗い難い強い力を与えることになった。


そのため、<カール・ヤスパースの共和的・人道的倫理観(只の堅物の意味に非ず!愛と美と性を司るギリシア神話の女神アフロディーテの息子エロースが象徴するパーソナリティー風ながらも異者協和的でプラトニックな精神)>と<M.アンリ「情感(生)の現象学」の対極であり、かつ略奪者(アブダクション)的で魔術師的なハイデガー>という、二人の知的巨人に師事したH.アーレントは、彼らの両義性の下で大いに悩み抜き、遂には激しい確執の泥沼に飲み込まれた。


<注>アブダクション(abduction)

・・・原義は略奪・拉致で、仮説形成とも訳される。米国の哲学者C.S.パース(C.S. Peirce/1839-1914/プラグマティズムの創始者)がアリストテレスの論理学をもとに提唱し、帰納法、演繹法と並ぶ第三の推論法として新たな科学的・哲学的発見等に不可欠と主張した。


なお、当然ながら真理探究の魔術師であった巨人ハイデガーの広大な視野には「宇宙的な意味での全世界のなかに必然性として潜む魔術的・悪魔的なもの(権力的暴走、ファシズム、戦争、テロ、殺人、破壊願望、猟奇性など)、ことごとく一切の“悪”が入っていたと考えられる。

・・・


また、同じく上で述べたハイデガーのゾルゲ(Sorge)の一般的な意味は「生活環境や過去・現在・未来をも含む凡ゆる内外の環境と自分以外の存在者としての全世界に対し、その世界内存在としての人間が関心を持ち、それらを深く気遣い思い遣りつつ関わり続けること」とされており、又そのような意味で、世界へ如何に気遣いしつつ関わるかで人の生きる意味が異なってくることについてもハイデガーは論考を深めたと理解されている。


因みに、『クーラ寓話』の「大きな自然に包まれている人間存在の奇跡」という含意は、<AIは意識を持てるのか?>という悩ましい問題と絡みつつ、近年において再び注目されるようになったが、それは「エトノス」の観念に近いのではないかと思われる(ヒト並にAIがエトノス観念を持つのは不可能であろうが)。なお、エトノスの定義は既定のものがないので、仮にtoxandoriaが纏めた内容を、自身のブログ記事等から以下に修正転載)しておく。


・・・エトノスは『半永久的な絶対的・持続的<生>の流れの中で受肉した個人の身体(有限な個々人の“生”)を含む内外の自然・人工環境に加え、ヒトの生命と社会生活の維持に必須のローカルな一定地域の自然・歴史・文化・記憶環境と深く共鳴しつつ“<生命>と人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”とし得る開放系の間主観性・共有観念、または過去〜現在〜未来におよび生存環境の微小馴化を受け入れつつ絶対的<生>の“持続性”と往還的な歴史的関係性、および多元的で寛容な個人・集合・社会・共同体を重視する意識の総体』である。・・・


<注>歴史的に見たエトノス(ethnos)


・・・古代ギリシア語で、村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団を指したエトノスは、相対的に立場が変われば志向アフェクト(意識)のベクトルが反転するので、自ずと真逆の意味になる(善・悪の立場の入れ替わりがあり得る)のも当然である。従って、そもそもエトノスは胡桃の殻の如く固陋な評価を伴う概念ではない。


・・・それ故、これは歴史・政治・科学・倫理などの諸条件しだいで、その意味が変容する非常に柔軟な用語である。だからこそ、歴史・政治・科学・倫理の背骨となる「絶対的な“生”」の意味を探求する倫理・哲学あるいは宗教の役割が益々重要になるとも言える。


・・・加えて、<生命・意識・文化の持続に必須であるローカルな自然、歴史、風土、文化との対話、そしてそれに因るエトノス自身の射程の一定の変容も必須!>の条件が付くので、エトノスは固定観念化したイデオローグではあり得ない。


1 M.アンリとフッサール現象学の差異


1−1 M.アンリ『実質的現象学』(情感の現象学)


(フッサールとM.アンリ/フッサール形相(視覚)、M.アンリ質量(情感)なる両作用因の差異)



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・・・フッサール現象学の概要については下の記事◆を参照乞う・・・

◆20170901toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)、大前提とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』http://urx.red/GTNP(人物画像はウイキより)


・・・


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我われ個々の人間は、自己なる存在の核心について深く気付いているか否かにかかわらず、日々に様々な感情と共に恰も揺曳する“かげろう”(陽炎)の如く生き続けている。また、我われが無意識も含む「記憶」(およびエトノス環境の影響/委細、後述)から寸時も逃れることができないのも現実である。(以下、M.アンリ著『実質的現象学』(叢書ウニベルシタス)を参照しつつ、論を進めて行く/人物画像はhttp://urx.red/GTN5より)


また、仮に自分一人が、あるいは自らを含む一定数の人々が、仮に、いま突然に此処で死ぬようなことがあるとしても、自らの周辺を含み、この世界に生きるその他大勢の人々は、やがて何事もなかったかの如く今までどおり生き続けてゆくだろう。が、このように流れ去る世界の中で、個々人の「絶対的主観性」を保障する<現象学的実在性(真理)>とは何であるのか?


M.アンリ(Michel Henry/1922−2002/フランスの哲学者・現象学者)は、このような視座から論考を深めて行ったと思われる。そして、同じ現象学と呼ばれるものであっても、M.アンリは、<フッサール現象学における「形相(エイドス)、質料(ヒュレー)」の作用因(アリストテレスによる)>と、<自ら(M.アンリ)の現象学における「絶対的主観性」に内在する作用因>を全く異なるものとして峻別した。


<注>アリストテレスの言う4種の作用因

・・・形相因(エイドス)、質料因(ヒュレー)、始動因(起動因/アルケー)、目的因(テロス)の4つ。


・・・


従って、M.アンリの<実質的・志向的現象学/普通の意識では見えず、かつ理解不能な個々人の内奥にある真理の中核たる意識作用(コギタチオ)の探求プロセス>におけるエイドス(形相)とヒュレー(質量)の両者に相当する概念は、フッサール現象学とは異なり、外部世界の現象学的な形相的「与件/現出」以外の実在とも共鳴し得る多様な志向性(様々なベクトルを帯びた意識)を獲得することになった。


言い換えれば、M.アンリの現象学では、作用因としてヒュレー(質量)が最も重視されていることになる。もっと分かり易く言ってしまえば、M.アンリは、個々人の絶対的主観性の意識作用(コギタチオ)の実在性として視覚と結びつき易い形相(エイドス)よりも触覚・痛覚らとの親和性を十分に想像させる質料(ヒュレー)を採用していることになる。


そして、M.アンリは絶対的主観性の実在性(その中核に内在する真理)の現象学的な「与件(現れ)」として「感情」の表出を措定する。その絶対的主観性の核心(自己性の湧出源)となる「与件」の背後、個々の絶対的主観性の中核には、その与件(現れ)を含む広大な「感情の海」(超越論的情感性/affectivite)が存在すると見るのがM・アンリの特徴である。


つまり、「視覚」以外の知覚(内感の窓口としての触覚なども含む)を重視しているという点が、「視覚」という個々の形相的な与件(現れ)と結びつき易いエイドス(形相たる意識内容(コギタートゥム/cogitatum))を重視するフッサール現象学(やや設計主義的な理性の現象学)と、片や触覚を重視するM.アンリの現象学(“感情の海”の拡がりを想定する情感性の現象学)の根本的な差異であると思われる。


なお、[神谷英二:情感性と記憶―アンリ現象学による試論(1)/福岡県立大学人間社会学部紀要2005,vol.14,No.1,21―36 http://u0u1.net/GN7E]によれば、<情感性(affectivite)とは何か?の問い>に、M.アンリ以前のヨーロッパ哲学は必ずしも十分な答えを提示してきたとは言えないようだ。


・・・


ところで、M.アンリの「情感の現象学」はゲーテ・ロマン主義を源流とするハイデガーの魔術的・悪魔的な「脱‐自」論(直線的な時間の経過と形相のダイナミックな交差・介在で触発される、視覚に因る即効的・短絡的なエクスタシー覚醒/心的内容に直接関わる強力なエイドス外在主義、形相因傾斜型のテーゼ)と異なり、そのような時間と交差するまでもなく先ず自己に内在する“生”の本質が自らを受容し、自己自身を内感する現象学的なエクスタシー覚醒であり、即ちそれがM.アンリの「情感(affectivite)の現象学」の核心(自己性の現象学的本質)ということになる。


<注>ゲーテ・ロマン主義(ドイツロマン主義の本格的始祖)について


・・・巨人ゲーテのロマン主義は両義的・多義的であるが、これは、例えば科学精神の成果であるはずの産業革命(産業技術革命)がロマン主義精神(沸騰する情念)によって支えられたという側面もあることを想えば理解し易いと思われる。


・・・換言すれば、そもそも人間の「生命の発露としてのグノーシス神秘主義的な精神」そのものが本源的にロマン主義的な存在(観念欲動的な“生”/欲動は欲望に非ず、それをも含む強い生命力と理解すべき)であるという、そのこと自体を全否定することはできない。


・・・問題は、ロマン主義と限定合理主義との、いわば両成分のバランスを取ることの意義に気付くか否かである。つまり、科学の進化にもかかわらず合理原理主義は、おそらく永遠に魔術のジャンルであり続ける可能性が高いということだ。


<注>合理原理主義(主観的合理性)が“魔術のジャンル!である(例えば、今の世界を席巻する自由原理主義(新自由主義)の如き合理原理主義は魔術の罠に墜ちやすい)”ことについては、下の記事(◆)のホルクハイマーに関する部分を参照乞う。


◆20170901toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)大前提とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170901 

 

・・・ワンポイント(主観合理原理主義)で全ての現実が説明可能で、それで人間の真理が確保されるという異常情念に因るアフェクト(志向意識)に嵌り出現するのがマッド・サイエンティストシンギュラリティ、あるいはタイムマシンの実現などを単純に信奉する人々)だが、それにはAI学者、生物学者、科学・物理学者ら自然系に限らず人文・社会系も含む人々が連なっている。


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・・・例えば、日本会議に共鳴するアナクロ「追憶のカルト」なる魔術派の人々、又は<『情念の現象学』など全ての現象学>を<一種の錯覚に過ぎない“精神、信念、欲求らの命題的態度”に嵌った内的錯乱の非科学的な誤った表現>と見なす“心の哲学系”の学者ら(例えば、『消去主義的唯物論』のポール・チャーチランド(米国の神経哲学者)ら)も、おそらくマッド・サイエンティストと同類の思考回路の人々と見るべきかもしれない。


・・・なお、現象学は<主観と客観世界のアウフヘーベンを志向>しつつ人間の精神と社会の持続的成長を探求するものであると説いたヘーゲルの『精神現象学』を高祖としている。一方、ポール・チャーチランドらの『消去主義的唯物論』は、“AI研究等と同期しつつ高度化する脳科学の進歩によって、いずれ“素朴心理学”などの説明過程は完全に破棄され、無用の長物となる時が来るという“過激”な合理論を主張する。これは、ヒトらの『生命』と“生きる意味そのもの”を不経済な夾雑物と見なす<市場原理主義と同類の悪魔的な合理原理主義>に他ならないと思われる。


・・・この様な由々しき傾向を反面教師的に見れば、それはリベラル共和(啓蒙)主義の精神をハートランドとしつつ絶えざる日常生活(エトノス環境内での人間を含む生物の“生”)を重視する意識の維持と充実を求める市民層の多元的で強い自律意思(共生志向の主権者意識)にこそ、普通一般の人々の日々に新たな民主主義への希望(アナクロニズムの対極)があるということである(Cf. ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』http://ur0.work/GXuf)。


・・・


(ダン・ザハヴィによるM.アンリの評価)


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ダン・ザハヴィ(Dan Zahavi/1967‐ /デンマークの哲学者・現象学者)は、著書『自己意識と他性/現象学的探求』(叢書ウニベルシタス)の原著(1999)でコペンハーゲン大学教授の資格を得た、現象学的「主観性」研究の分野で世界をリードする研究者である(人物画像はウイキより)。


いまザハヴィは、古典的デカルト的な立場での研究が絶対に承認しようとしない<ある一定のエトノス(『大文字の“生”(委細、後述)』の影響下にあるという意味で“先反省”)的な複合性と多様性を自我の「生」(個々の生命力の核心)に、作用因としてのヒュレー(質量)分析の手法で帰属させようとするM.アンリの実質的現象学(情感の現象学)>を高く再評価している。


更に、近未来を見据えるザハヴィは、無意識、催眠、記憶、倫理学・美学(レヴィナス、ガダマー、ディーター ヘンリッヒなど)、先端AI研究、脳科学などもその視野に入れつつある。


また、これを翻訳した中村拓也氏(同志社大学文学部准教授)の同書“あとがき”によれば、特にザハヴィの<無媒介的認知的自己意識(先反省的自己意識)>は、往々にして哲学的思考などで見られる難解な概念の捏造ではなく、それは体験的な偏在性として誰にでも日常的に起こり得る主観的「自己—顕現」(個々人の内感フィールドにおける自己覚醒)レベルの問題、つまり個々人の「主観性の核心」を抉り、それを『感情の現象学』的な立場で説明し得る堅牢な言葉である。


例えば、近年、世界的に問題となりつつあるネオ・ナチズムなど極右政治勢力(欧米各国の極右派、日本における日本会議(周知のとおり、それは靖国顕幽論の取り戻しと国家神道への回帰を謀る安倍自民党政権の守護神!)などが急速に台頭しつつある政治状況の深層には、M.アンリの「情感の現象学」のテーマとも深く関わる問題が潜む可能性があり、特にザハヴィの<無媒介的認知的自己意識>が重要なテーマとして注目されている(《注記》無媒介的認知的:言語等の意識的コミュニケーション介在が存在しない次元、いわば其れ以外の多様な回路でエトノス環境の影響下にある、無意識等の認知作用のこと)。


因みに、「自己意識(self-consciousness)」は自己に向かっている意識そのもの(つまりノエシス)だけを指し自己がそれを意識しているか否かは無関係である概念なので、「前反省的自己意識(prereflective self-consciousness/ザハヴィの言葉で言えば無媒介的認知的自己意識)」は、<自己自身はそれを意識はしていないが前意識(無意識・深層意識)は自己を確実に志向(無意識に意識)していると思われる状態>を指す。


この「無媒介的認知的自己意識」は、<いわばヒトを含む個々の生命体には“自らの破滅をももたらしかねない自己破壊的リスクとエントロピーを増加させる自滅(無限背進・後退)型のマイファースト利己主義への没入、あるいは自然&文化破壊、歴史修正主義(時間性の錯乱)、ファシズム、殺人、テロ、復讐先取(@カズオ・イシグロ/委細、エピローグで後述)、猟奇・残虐嗜好などへの激烈な衝動をもたらし続ける前意識の系譜(エス/das Es)”が普遍的に存在している可能性が高い>という、非常に厄介な事態(現実)を示唆している。特に、人間の場合はそれが権力者を“政治権力の暴走”へ誘導するリスキーな情念、ということになる。そして、安倍晋三トランプ、金正恩らの暴政は紛れもなくこの魔術(悪魔)信仰のジャンルに入るだろう。


だからこそ、今や「政治思想史」と「感情の政治学」はこの非常に悩ましい問題(無媒介的認知的自己意識)との対峙が避けられなくなっている。因みに、“二つのエス”の内容を具体的に見ておけば、それは<(1)『必要であればファシズム(個の生命を破壊する)もエトノス破壊(戦争あるいはファシズム独裁・テロ・ヘイト・殺人・猟奇行為等の犯罪)も当然視する “狂想”』および(2)『不均衡解消作用としてオートポエーシス的な根源的生命力の基盤を提供する“健全”な意思』>、という<「二つのノエマ」の前意識>である(関連参照⇒『エス(das es)と純粋経験について』http://ur0.work/GXxn)。 


そして、これら「二つの前意識」は夫々が「情念(前意識に潜む)のノエマ/いつでも意識化され得る情念の内容」として自覚的な意識に大きな影響を与えることになる(更なる“二つのエス”の委細は下の記事◆を参照乞う)。


◆20170320・toxandoriaの日記/安倍・トランプ・ルペンら極右「オレオレ反知性主義」に代わる「民主主義Stage2」の土壌、エトノス、マイクロバイオーム、コンシリエンス、AI活用は、EUが苦闘する「新世界」へのプレゼンスhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320


・・・


例えば、古典的な自由平等の「建国の精神」への回帰を標榜するウルトラ保守層(Rust Belt白人層、人種差別主義者)らの熱烈なトランプ支持層が、そもそも自らを困窮化させた元凶である「自由原理主義(新自由主義、小さい政府)なる“格差”拡大がホンネの偽イデオローグ」を未だに篤く信奉しリベラル共和派(限定自由主義派)を厳しく批判する姿は大きな「自己矛盾」だが、この重篤な「米国分断」病の寛解のためにもM.アンリ『感情の政治学』由来の知恵(ヒュレー/触覚等の内感をより重視する)を生かし、その「前意識」の病理を摘出して衆目に曝しつつ、そのこと自体を広く啓蒙する工夫が求められる。


実は、<ナチス・ドイツでも、今の安倍政権下の日本でも、トランプ政権下の米国でも、肝心の“格差”を押し付けられ最も騙されている筈の国民層が中心となり、その“格差”を押し付ける偽イデオローグ(現代日本でいえばアベノミクス)を篤く支持し続けている(支持し続けてきた)>という、絶対に見逃すべきでない現実があることに、もっと我われは注目すべきである(エピローグで、これと関連することとして、現代日本における若年層の選挙行動に関わる興味深いデータを記述する)。


ともかくも、ザハヴィは、現象学者としてはじめて『・・・脆弱性(個の“生”にとっての決定的な弱点)を内蔵する前意識の系譜』が、「無媒介的認知的自己意識」の絶対に避け得ない大きな成分であること、いわば“このような自己意識(コギト/cogito)の最深部の意識作用(コギタチオ/cogitatio)へ影響を及ぼすと考えられる未知の感情メカニズム)の暴発”に直結する脆弱な意識の成分であることを明確に示したと言えるだろう。


なお、先に見たとおり、ザハヴィは無意識、美学・倫理学、先端AI研究、脳科学などの所謂コンシリエンス(consilience/人文社会・科学両知の融和的統合)http://qq3q.biz/FpPZ)のフィールドをも自らの研究の視野に確実に取り込みつつあるが、必然的に、そこには「目下、AIと脳科学がクロスするフィールド」等で研究が進む、個々の生体内ネットワークの一環であるRAS(ヒューリスティック(限定的)な合理性、意識統合!」のために必須の盲点)の問題が絡んでくると思われる。


<注>RAS(脳幹網様体賦活系)について【意識のみならず全ての生体機能は“オッカムの剃刀”(思考節約の原理)方式で「程ほどの効率」と「ほぼ満足できる安全」の両面を同時に実現する】


・・・意識に限らず、ある身体システム(知覚作用など)が十分に情報統合的・限定効率的に、そしてほぼ満足できる安全を確保し機能している時には、例えばそれが「視覚」の場合では脳幹基底部ゾンビ(無意識作動のフィールド)の情報遮断フィルター(脳の盲点(Scotoma)に相当するRAS(脳幹網様体賦活系http://urx.mobi/GM1m)作用による「Blind spot/盲点」の発生で、敢えて「ヒューリスティック(限定的http://urx.mobi/GM1x)な合理性/つまり、統合合理性!」の実現(目的に応ずるベスト知覚機能の確保/ここでは目的の物を見る視覚)と同時に、その人間(個々の生体)の「個体生命の安全も確保」していることになる(出典:ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―/委細は下の記事◆を参照乞う)。 


◆20170518-toxandoriaの日記/盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている、http://urx.mobi/GM1a


(『情感の現象学』の共同体論/“M.アンリの現象学”の特質)


M.アンリとフッサール現象学の差異については、当(1−1)の冒頭で既に触れたので、ここでは、M.アンリ『実質的現象学』(叢書ウニベルシタス)などを手がかりに「情感の現象学」の特質である、M.アンリ「共同体論」について整理しておく。なお、エイドス(形相)偏重のフッサール現象学の批判的継承が、M.アンリにヒュレー(質量)重視の“感情の現象学”の発見をもたらしたと考えられる。


そこで先ず留意すべきは、往々にしてこれらは混同され易いのだが、M.アンリは「情感性(感情)」と「感覚(感性)」を全くの別物であるとして区別することだ。フッサールは感情を<精神的な知覚作用としての“考える作用”>と同じノエシス(因みに“考える内容”はノエマ)と見る一方で、M.アンリは「感情は常に自己感情(自己が自己感情を内感するもの)である」と見ている。


<注>ノエマ(noema)とノエシス(noesis)

・・・両者とも古代ギリシャ語のnoeo(見る)に由来する言葉。ノエシスは<考える作用それ自身>、反対にノエマは<ノエシスが考える内容>である。


・・・


感情とは自己の内側で自らを志向(アフェクト)する存在であり、例えば、愛の感情とは自己(自己の愛)そのものが“内側で自己の愛それ自身を受容し内感する”ものだ。故に情感性と他者を知覚する感覚(感性)は構造的に全く異質なベクトルを持つ知覚の二つのジャンルである」とM.アンリは説く。


従って、どれほど二人が愛し合っているとしても、つまり、双方がそれぞれ相手(相方の他者)へ深い愛情を感じている(と一般に思われる)熱烈な恋愛の場面でも、「感情の現象学」的に見れば、その双方が共に<自己が他者の内側へ入り込み、他者の内側に宿った自己の愛を、他者の内側で直接的に内感すること>は絶対にできないということだ。つまり、M.アンリの現象学的に言えば、個々人の「自己の愛」は何処までも孤独であることになる。


しかし、M.アンリは「絶対に体験(内感)し得ない他性の意識(コギタチオ)の中核(上で見たとおり、個々人のそれは永遠に孤独である)に寄り添うことは誰でもができる。但し、そのためには自己が絶対的“生”(エトノス(自然・生命・文化・歴史環境)に相当すると思われる、大文字の“生”/補、toxandoria)の意味に覚醒することが絶対的な条件になる」とも説いている(関連参照⇒M.アンリの受肉の存在論、共‐パトス/出典:松下哲久『現代フランス哲学における感情と共同性の問題』http://u0u1.net/GN8q)。 


・・・


つまり、M.アンリは個々人の肉体の身体性を<エトノスとも共鳴する圧倒的に奥の深いパトス(情感性)>と捉えていることになり、それがM.アンリの「自己‐触発」、換言すれば「情感の現象学(超越論的内的経験)」の基底である。言い換えれば、ここでの現象学的「触発」とは、自己自身(自己の真理と同時に自己の“共‐パトス”の大きな可能性)に関わる<自己の身体的な情感性についての覚醒的で画期的な発見>とも言えるだろう。


また、M.アンリで留意すべきは、個々人の「生」(生命)の核心にあるものがストレートに他性(他の人々の意識の核心)と結びつくものではなく、それは何処までも孤独な個性(個々の意識/コギタチオ)であり続けるということだ。但し、感情(自己感情)による自己自身(自己の真理)の発見は、より大きな“生”が介在する関係性を志向する意識(アフェクト/超越論的情感性、つまり生の内に存在する“共”—パトスの作用因)となり他性との共感を創る回路が保障されることになる。


つまり、そのような回路を提供する、より大きな“生”の条件は何か?ということになるが、M.アンリはそれを個々(人)の「生」を超えた<絶対的で大きな生>と呼ぶ。この<絶対的で大きな生>は分かりにくく聞こえるが、例えば冒頭(エピローグ)で触れた「エトノス」を連想すれば理解し易いのではないか?


それは、あくまでも個々人は孤独で孤立した存在であるとはいえ、<絶対的な生(エトノス環境内の“小文字の『生』”の意義)>と「情感の現象学(超越論的内的経験)の可能性」についての気づき(発見)によって、我われは、共感・共鳴・共存し、互いに寄り添う共同体(共—パトス/人々が寄り添うことによる情念の共鳴)の中で生き続ける可能性が絶えず拓けるのではないか、という希望である。 


但し、忘れてならないことがある。それは、ハンナ・アーレントがハイデガーとヤスパースの間での確執の体験で気づいたように(関連委細は後述)、M.アンリが現象学的に抽出してみせたヒトの自己性(その中核は前意識を含むコギタートゥム(cogitatum)/自己の中核となる真理の領域)には、“共—パトス”だけでなく、ハイデガー哲学にその典型が覗われる“魔術的な闇の成分”も存在する可能性が高いということだ。


因みに、ヤスパースは「ハイデガー哲学には魔術(悪魔)的なものが潜む」と述べている(Cf.当記事『1−1 M.アンリとフッサール現象学の差異(ダン・ザハヴィによるM.アンリの評価/二つのエス)』、小森謙一郎『アーレント最後の言葉』et 早稲田レポジトリ・博士学位論文『ヤスパース倫理学の射程/実存倫理〉から〈理性倫理〉へ』http://ur0.biz/GOuK)。つまり、啓蒙主義もこのような意味で前意識と感情の現象学の関連性から改めて捉え直すべき時代に入ったと思われる。


ともかくも、M.アンリの<絶対的な“生”=大文字の“生”(委細、後述)>の視界に入るのは我われホモサピエンスにとどまらず、人間以外の生命全般でもある。その意味で、M.アンリの哲学(情感の現象学)はキリスト教的な観念というよりも、むしろa『原始アニミズム的な伝統神道』(安倍政権が取り戻しを謀る、明治維新期に捏造された国家神道(b靖国顕幽論に因る)はこれと全く異質!)、あるいは神仏習合下の仏教文化(特にb『法相宗』系統の大乗仏教)に馴染んできた日本人にも親しめるアニミズムの空気を感じさせる(a、bについての委細は下の記事◆を参照)。


◆20170114toxandoriaの日記:第四章/伝統神道の原点と見るべき神道書『神令』によれば、「天皇制」草創期(およそ“大化改新”以前)の神道は天皇に対し民衆を平等に見る徳治政治を求めていた!http://ur2.link/GRZ8

◆20170114toxandoriaの日記:第二章/日本会議・神社本庁らが国民の無意識層で再発現させた戦前型「客観“知”への激しい憎しみ」、それは異常な平田篤胤仕込の「顕幽論」(インテマシ―過剰)http://ur2.link/GRZ8


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因みに、現代に遺る純粋な法相宗・寺院は奈良の興福寺と薬師寺の二寺だけとなっており、その肝心の始祖である中国の法相宗は途絶えている。ただ、今も日本では東大寺(法相宗系の華厳宗)、あるいは慈恩寺(山形県・寒河江市http://urx2.nu/GPf7)など真言系などと習合した形でその看過すべきでない希少な精神が細々と伝えられている(慈恩寺『寒河江市』は行基が開山し聖武天皇の勅願で天平18年(746)に婆羅門僧正が開基したとの伝承がある/一枚目の画像は維摩居士坐像(定慶作/興福寺)二枚目の画像は慈恩寺三重塔(山形県指定文化財)、出典=http://urx2.nu/GPfr及びウイキ)。


<参考>法相宗の核心である「維摩経」の要点


・・・「維摩経」の主人公である維摩詰(維摩居士)は在家菩薩の代表とされる。大乗仏教の最も基本的な考え方が「空(空観/くうがん)」と「人間の平等観」であり、それが「般若経」で説かれ、更にそこから派生的に「華厳経」「法華経」「阿弥陀経」「無量寿経」「維摩経」などの経典が作られた。特に留意すべきは、維摩経の「空」の考え方が般若経よりもより現実的で、生身の人間(人生、小文字の“生”)の機微を重視することだ。


・・・見逃すべきでないもう一つのポイントは、在家の長者(商業・交易に携わる有徳の富豪)である維摩詰の活躍した時代が、およそ紀元前後頃のインド北部で実際に存在したヴァイシャ―リーと呼ばれる「共和政体の商業都市国家」(貨幣経済が発達し東西交易で栄えたグローバル商業都市/マガダ国の首都パータリプトラの繁栄と並び立っていた)であったということだ。そして、「維摩経」のエッセンスを集約すれば以下のとおりとなる。


<“しょせんは「我空法有(がくうほうう)」のみで、人間の真我(アートマン/おそらく、これはデカルト、フッサール、M.アンリらが言うコギト(cogitoに重なる?)も含めた意味での森羅万象の永続的な形相(エイドス)は存在しないので、我われ人間は一瞬一瞬の出会い(「縁」で生じる個々の「法」の繋がり)を共有して一期一会の今を真摯に生きつつ固有で伝統的な真の文化を未来へ伝える努力を継続すべきだ。同じ意味で人間は本来的に平等な存在であるから、苦しみも、新たに創造される経済価値も、でき得る限り平等に分かち合い、広くリアルな社会と世界での良循環が実現するように努めるべきである。有徳の長者らリーダーは、これら大乗の考え方を基礎とする人間社会での「信(信用)」(富める者は喜んで与える、貧しいものは努力して豊かになれる)をベースとする良循環社会(不平等と格差を前提とする『悪循環社会』ではなく)を築くよう努めるべきだ。また、菩薩・天女らの神通力を別とすれば、我われは一瞬一瞬の出会いを共有しつつ現実を生きるしかないのであるから、未来予知や予言の類はあり得ないとして否定する。>


2 『感情の政治学』(共—パトス)で持続的に拓くリベラル共和の新たな可能性


・・・『アーレント最後の言葉』の現代的意義/リベラル共和主義の持続的「生起」の条件を模索したハンナ・アーレント・・・


(アーレントがメモに遺した二つのフレーズの謎解きに挑戦する小森謙一郎『アーレント最後の言葉』の警鐘、それが意味することとは?)


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・・・小森謙一郎『アーレント最後の言葉』が示唆する、“感情の政治学”の現代的意義・・・


(プロローグ)でもふれたが、恰も「真理探究」一筋の自然科学者の如き略奪者(アブダクション)的で魔術(錬金術)師的なハイデガーと、それと真逆の「倫理傾斜」主義で共和精神的なヤスパースの二人に師事したH.アーレントは、その二人の両義的な哲学の下で大いに悩み抜いた。なお、彼女の博士論文である『始まりの本/アウグスティヌスの愛の概念』(原著・出版、1929)は、ヤスパースの指導と、ハイデガーの影響のもとに書かれた(http://urx3.nu/GQ3H)。


H.アーレントは、著書『精神生活』(原著・出版、1978/(unfinished at her death, Ed. Mary McCarthy, 2 vols. /New York: Harcourt Brace Jovanovich)で小カトーの功績と意義の象徴とも言える『アーレント最後の言葉』の中のフレーズ“敗れた大義”(ゲーテ《ファウスト》より)を引用しつつ、《人間の条件》について結論を述べている。因みに、小カトーの意義とは、小カトーが<十分に議論し考え抜かれた多数派の民意を常に最重視するリベラル共和主義を諦めずに維持し生起し続けることの重要性>を我われに教えている、ということを意味する。


そのアーレントの《人間の条件》とは、(1)労働(エトノス環境と身体に直結する活動)、(2)制作(芸術にその典型が見られる、より自由な人間的側面)、(3)行為(人間固有の言語・ロゴス活動)の三つであり、これらの中で(3)が最も重要である。しかし、これらは単純に序列化されるべきではない。


肝心なのは、<人間の“感情”と密接に繋がる(1)をベース(生活の糧を得る基盤でもある)としつつ、(2)も常に大切にして(この“より自由”な空間の中で人間としての意思が培われる)、(3)の言語活動で表現し、コミュニケーションする、・・・そして再び(1)→(2)→(3)の回路へもどる・・・>という形で、身体と精神の関係を良循環の持続の流れの中に置くべきだ、ということになる。


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この《人間の条件》の良循環が失われ最も重要な「自分で十分に考えること(3)」ができなくなると、アーレントが『エルサレムアイヒマン』で書いた<悪の陳腐さ(悪の凡庸さ)に染まる(甘んじるばかりの)人間>が、ひいては、そのような国民ばかりとなった全体主義国家(ファシズム体制)が創られることになる(関連、後述)。


このような意味で、H.アーレントの「人類社会と個々の“生”にとって普遍的に役立つ思想」は、その余りにも過酷な“確執”に巻き込まれた彼女自身の内奥(コギタートゥム)」の“地獄”から生まれたと考えられる。だからこそ、<小森謙一郎『アーレント最後の言葉』が示唆する“感情の政治学”再発見の現代的意義>には特別の重みが感じられることになる訳だ。


つまり、アーレントが遺した『最後の言葉』の重要な意義は、この二人の巨人(一時期はナチスに入党していた魔術(錬金術)師的なハイデガーと、それと真逆の「倫理傾斜」主義で共和精神的なヤスパースの二人)の狭間で悩み抜いたからこそ、アーレントは、今や再び大きなレゾンデートルの危機に襲われつつある人間社会への警句と理解すべき重要な二つのフレーズを我々に遺すことができたと考えられる。


そして、その意義は下のように纏めることができる。


f:id:toxandoria:20171109112739p:image:w550:right《個々人の自己意識(b小文字の“生”)の中核(前意識が代表する無媒介的認知的自己意識(先反省的自己意識)/ダン・ザハヴィ)とエトノス(a大文字の“生”)の両領域(全生命・生存圏)を繋ぐ「感情の海の深層」に潜む「魔術的・悪魔的な闇」(ハイデガーのゾルゲが象徴する)の誘惑は永遠に続くものである。が、だからこそ我々は決して諦めてはならず、エンドレスの<生起>を決意する持続的な<『啓蒙思想』再生への意思>こそが、絶えざる<リベラル共和主義>復興の決め手になる、ということだ。同時に、それこそが「b」のレゾンデートルであり、かつエトノス環境(a)のなかで「ヒトおよび生命全般(b)」が“薄氷の希望を保持” しつつリアルな自然感情のバランスに包まれて生き抜くことが可能となるのである(感情自然主義)。》


<注>「小文字の“生”」、「大文字の“生”」

・・・M.アンリ「受肉の存在論(共‐パトス)」についての論考で松島哲久氏(倫理学/大阪薬大名誉教授)が取りあげた概念。「小文字の“生”」はヒトを含む個々の生命体、「大文字の“生”」は地球上の生命圏全体を指す「絶対的“生”」の意味。これは、おそらく(プロローグ)で取りあげた「エトノス」の概念に重なると思われる。(M.アンリ『受肉の存在論(共‐パトス)』の出典→『現代フランス哲学における感情と共同性の問題』http://urx2.nu/GPeh


・・・


・・・上の意義を、より深く理解するためのヒントは<ハイデガーのゾルゲ(気遣い、思い遣り、関心)とヤスパースの倫理・哲学の狭間で生じたH・アーレントの心理的軋轢>のなかにある!・・・


小森謙一郎『アーレント最後の言葉』によれば、ハンナ・アーレントが遺して逝ったとされる最後のフレーズは、下の二つ(1)(2)である。この後に続けて、小森謙一郎はこう書いている(同書プロローグより、部分転載)。・・・『従って、問いはこうなる。最後の言葉には、果たしてどのような記憶が賭けられているのか? 闇が覆った後になお残るものがあるとすれば、それは何か?』


f:id:toxandoria:20171109115014p:image:w300:right(1)勝てる大義は神々の心に叶った。(ここでは、結果的に国民のポピュリズムシーザーの専制(終身独裁官就任)を承認したことを意味する/ローマ帝政初期の詩人ルカヌスの《内乱》より/関連する右端の画像はウイキ)、http://urx2.nu/GPjd

f:id:toxandoria:20171109115348p:image:w300:right(2)敗れた大義はカトー(シーザーの生涯の政敵となった人物/共和政ローマ期の元老院派の政治家。哲学者でもあり高潔で実直、清廉潔白な人物として知られているが、最後は敗れて自害した/小カトーとも表記)の心に叶った。己の道から魔法(魔術)を遠ざけて、呪文のことばをすっかり忘れることができるなら、自然よ、ただ単なる男としてお前の前に立つのなら、ひとりの人間として存在する甲斐もあるだろうに。(ゲーテ《ファウスト》より)』(関連する右の画像はウイキ)


そして、『アーレント最後の言葉』の著者は<敗れた「大義のエンドレスの生起」にこそ希望がある!諦めてはならない!>の主張で同書の扉を閉じる。解釈の分かれる論点などが満載なので、様々な読み方があるだろうが、以下では、<未だにリアル政治(および政治学)は「感情を胎盤とする生の実存の理解」に追いついていない!>という観点から、関連すると思しき雑考を書いておきたい。


・・・


恋多き女でもあったH.アーレントだが・・・)


f:id:toxandoria:20171109115841j:image:w280:left映画『ハンナ・アーレント』でも描写されているがハイデガーとアーレントは不倫関係であった。その辺りの事情を纏めたドイツ文学者・中野京子氏のブログ記事『アーレントとハイデガー/哲学者たちの恋、http://urx.blue/GGoR』があるので、関連する部分を下に転載させて頂く(画像はhttp://urx.red/GT7bより)。


・・・ハンナ・アーレントがマールブルク大学哲学教授だった35歳のマルティン・ハイデガーに出会ったのは、18歳のとき。たちまち恋に陥り、不倫の関係へ。やがてヒトラーが政権を握り、ユダヤ人だったアーレントはアメリカへ亡命。一方ハイデガーは親ナチだったから学長へとのぼりつめ、自分の師フッサールやヤスパースを追放する。戦後、アメリカで華々しく活躍するアーレントによって、ハイデガーの立場はいわば「救われる」。


・・・ふたりの恋は大きく3期に分けられる。第1期は、官能的な恋の2、3年。戦争をはさんで、その後の中年期(これがドロドロ)、最後はふたりが死ぬまでの1、2年だ。アーレントが亡くなるのは1975年、その5ヵ月後にハイデガーは他界する。不思議な関係だ。真実なのだろうか。つまりこれほどの卑劣漢を、これほど長く愛し続けたアーレントの思いの深さとは何なのか。しかも彼女はどうしようもなくハイデガーに惹かれながら、夫のブリュッヒャーなしでは生きられないほど支えられてもいる。


・・・ここで、引用終わり・・・


ところで、小森謙一郎『アーレント最後の言葉』によると、ドイツ出身(ドイツ・ユダヤ人)のシオニストパレスチナでのイスラエル建国に貢献した人物の一人、クルト・ブルーメンフェルト(アーレントをシオニズムへ導いた人物http://urx2.nu/GPjU)ともプラトニックな友愛のエロス、つまり一種の恋愛関係であったことが覗われる。


同書によれば、そもそもドイツ・ユダヤ人系の知識人には「ドイツ・ロマン派」の源流とされる巨人ゲーテの思想の影響を受けた人物が多い。ゲーテの思想を一括りにするのは困難だが、敢えて政治学的な側面で大きく腑分けすると、それは「勝てる大義」(リアルな“小文字の生”の歴史から遊離した超ロマン主義の観念でポピュリズムを有効に操作しようとする強権主義)と「敗れた大義」(人間の“小文字の生”と自由・平等の理念を重視する共和主義)の両義性を帯びており、その意味では悪魔(魔術)的とされるハイデガーもロマン主義のジャンルと思われる。


このため、やがてアーレントとブルーメンフェルトの間には非常に悩ましい軋轢が生ずることとなり、究極的に、アーレントはブルーメンフェルトらの指導で建国されたイスラエルをナチス・ドイツと同質の「悪の陳腐(凡庸)さ」の亡者たちが仕える国家であり、堕落したポピュリズム・シオニスト国家だと見なすに至ったと考えられる。


また、ハンナ・アーレントが1963年に雑誌『ザ・ニューヨーカー』でアドルフ・アイヒマンの裁判記録、『エルサレムのアイヒマン─悪の陳腐さについての報告』を連載形で執筆することになった動機も、この辺りにあるのではないか?と思われる。


要は、イスラエルのポピュリズム・シオニスト(政府関係者)らは「ユダヤ人の近・現代代史、特にドイツ人化したユダヤ人の歴史」を正しく学ぼうとせず、伝説的なユダヤ民族の伝統化した妄想(お伽噺)に囚われたままでいると、アレントがイスラエル建国に携わったドイツ・ユダヤ人のシオニスト指導者を厳しく批判したことになる。


(エピローグ)愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ/日本で『感情の政治学』を正常に起動・生起し持続させるための条件


(1)『感情の政治学』を成立させるためのベーシックな視点


結局、H.アーレントが『人間の真理』を実現するための<活動力>探求のプロセスで已む無く巻き込まれて行った<ハイデガーらの「大文字の“生”の摂理(エトノス&コギト両者の内)に潜む魔術(悪魔)的な闇」>と<ヤスパースの倫理観(小文字の“生”を未来へ繋ぐための絶えざる“リベラル共和”「生起」への意思(“生”へのアフェクト))>との狭間で体験した<アーレントの激烈な葛藤の物語>の教訓は<エトノス&コギトの主要成分であるゾルゲ(気遣い、思い遣り、関心)をめぐるゲーテ「ファウストの悪魔」(自己意識の内容(コギタートゥム)の中核に潜む前意識の闇)と、リベラル共和主義の擁護者としてのアレント自身の究極の闘いであった>ということになるのではないか。


しかし、このゾルゲ(クーラ/参照、プロローグ)をめぐるゲーテ「ファウストの悪魔」(自己意識の内容(コギタートゥム)の中核に潜む前意識の闇)との究極の闘いは、ひとりH.アーレントに止まるものと見るべきではない。それどころか、それは特に“アベ一強政治権力”なる『感情の政治学』的な背理に苦渋する現代日本の国民一人ひとりに関わる肝心要の問題と理解すべきである。


逆説になるが、今の苦境下に置かれた我われ自身の日々の生活こそが、愈々、これから日本でも『感情の政治学』が重要になるという問題意識のベースとなり得る稀少なリアル歴史経験であるので、これを奇貨として活かすべきなのだ。なお、『感情の政治学』の著者・吉田徹によれば、『感情の政治学』が成立する要件には、「化」(どのように政治に関わるか)、「間」(関係者の政治で、現代世界を席巻する新自由主義の政治を置き換える)、「群」(群れて行動する)、「怖」(恐怖がそもそも存在した場所)、「信」(なぜ政治に信用が必要か)の5つのポイントがある。


(2)2017「衆議院議員選挙」の結果から見えてくること(『感情の政治学』的な診断)


そこで、ここでは直近の衆議院議員選挙の結果を参照しつつ、当記事の主要な論点である「ゾルゲ」(気遣い、思い遣り、関心)をキーワードに『感情の政治学』の切り口から見た<現代日本政治の喫緊の課題>を具体的に摘出しておく。


f:id:toxandoria:20171109121708p:image:w450:rightf:id:toxandoria:20171109121552p:image:w430:right

それは、長らく<一強体制>を誇ってきた<安倍自民党政権の国民(国民主権)に対する「気遣い、思い遣り」の決定的な欠落>が、<約半数の「国政選挙での無関心層」(常在棄権層)の固定化>を更に強化し、結果的に<国民の期待と安倍政権側の意思との間に生じた深い溝が折角の高額な700億円もの巨額を投じた選挙を介しても一向に埋まらず、却って、益々、その亀裂が深刻化するばかり>という異常な病理に嵌っていると思われるからだ。 


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そのため、国民意識の深層では非常に不健全なルサンチマン(折あらば、せめて《もはや不可抗力のアベ一強》に代わるetwas(何か)に対し仕返しをして鬱憤を晴らしたいという不健全な怨嗟の感情)のマグマが煮えたぎり始めている節がある。そこで、押さえておくべき重要な一つの視点がある。それは、ナチス登場の場合など実に唾棄すべき不都合な悪用のケースがあるものの、ポピュリズム自体は必ずしも「悪」ではないということだ。しかし、トランプと安倍晋三なる“今を盛りの“らぶらぶ”・カップルと見なすべき二人の悪しきポピュリスト”は、そのナチスそっくりの実に唾棄すべき不都合なポピュリスト性(戦争・御仲間&クライエンテリズム嗜好)という点で、気が合っているのではないか?と思われる。

・・・Cf.小池百合子前原誠司の失脚の裏に米国政府 在米日本大使館の内部文書入手〈週刊朝日〉】1108AERAdot. http://urx.blue/GX2h 

:総選挙後、在米日本大使館がまとめた内部文書を本誌は入手した。《改憲勢力が発議可能な3分の2を確保した総選挙結果は米国には大歓迎の状況だ。むしろ米国が意図して作り上げたとみていい。民進党を事実上、解党させて東アジア安全保障負担を日本に負わせる環境が改憲により整う非常に好都合な結果を生み出した》そして《日本が着実に戦争ができる国になりつつある》と分析。こう続く。《米国には朝鮮有事など不測の事態が発生した時に、現実的な対応が出来る政治体制が整う必要があったが、希望の小池百合子代表が踏み絵を行ったのは米国の意思とも合致する》(以上、部分転載)


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そこで、ヤン=ヴェルナー・ミュラー著「ポピュリズムとは何か」(岩波書店 2017)について松岡正剛氏(松岡正剛の千夜千冊、http://ur2.link/GSuh)が、トランプ・安倍晋三の両者のポピュリズム性について書いていること(両人のポピュリズムは、全体論(holism)に憧れ、「残余なき全体」を標榜しているという点でナチズムと同じ!とも指摘している)が的を射ており面白いので、下に部分転載しておく。 

 

f:id:toxandoria:20171109124258p:image:w300:rightf:id:toxandoria:20171109124406p:image:w300:right【安倍政権が“大衆恩顧主義&お仲間意識”クラスタ集団であることの証拠は加計・森友だけに非ず、例えばCJクールジャパン(現状:開設4年目の全投資24件の過半が赤字等で事実上の失敗!戦略不在でお仲間だけが膨張!)その政策全般が、ひいては今や日本全体と日本資本主義トータルがその業病に冒されている!】大衆恩顧主義&お仲間意識⇒http://ur2.link/GSuh、1106日経記事http://urx.blue/GUgD /2013年以降設立、官民ファンド14の委細はコチラ⇒http://urx.blue/GUgO 


《本書は2016年夏の、トランプがまだ大統領になっていなかった時期の著作だが、ポピュリズムが本来の社会的多元性を蝕む反多元主義(antipluralism)や、政治家がご希望の注文に応じてみせる大衆恩顧主義(mas-clientelsm)にもとづいていることを証してみせた。ドナルド・トランプはこう主張した、「ただひとつ重要なことは、人民の統一(the unification of the people)である。なぜなら他の人々(the other people)はどうでもいいからだ(ナチズムと同じ!/補、toxandoria)。また、恩顧主義(クライエンテリズム≒只のお仲間意識から公金横領ウロボロス互酬型の悪徳趣味へ堕落してクラスタ集団”化するのが必定!)とは、庇護者(パトロン)になりたがる政治家が業界団体職能団体や地方コミュニティをクライエント(顧客)として、さまざな政策的サービスを供給することをいう。安倍晋三が加計学園と特区を重ねたやりかたはクライエンテリズムの典型だった。》


ところで、そもそも政治権力の行使にあたっては、その支配体制(王制、独裁君主制、立憲議会制など)の別を問わず、権力側の権威維持のためにも最終的には国民の総意が納得したという<オバートンの窓(委細、後述)を介した国民総意(民意)の承認という形式>を取ることが必ず必要であり、その意味でのポピュリズムを含めて考えれば、立憲議会制国家の「選挙制度」不備で生じた<安倍自民党政権による、国民の預託意思とギャップがある安倍一強体制の出現=日本民主主義の形骸化(名バカり民主主義化)/20171103BS11・寺島実郎『未来先見塾』>という無残な姿は余りにも異常である。


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上の画像は、【20171103BS11・寺島実郎『未来先見塾』の動画、http://urx2.nu/GPux】より部分転載したものだが、これに従って「アベ一強下で名バカり民主主義国家と化した日本病」の病原体が浸潤・転移した箇所(●)を以下に整理しておく。先ず、今の病状を総括的に診断すれば<絶対得票率(有権者総数を分母とする)17〜18%台の自民党が、約61%の議席を絶対的に占有し続けているという大矛盾>が『日本の国政選挙の欠陥』を証明している、ということだ。


以下●の状況も併せ見れば、より明快に理解できるのだが、毎回、約700億円もの巨費(血税)を投じつつ《“政権側の悪事(犯罪政治)”の禊だけを目的とする、只のお祓い儀式化した、しかも「仕組み(制度)上の作為で捏造されるに等しい“何でも横ばい”なる国民意思(約半数が常在無関心化!)をただ確認するだけの“欠陥”国政選挙》を、十数年にわたり漫然と繰り返し続けてきた現代の日本は一体どんな民主主義国家なのだ?という思いが高まるばかりである。


●2014対比で、2017(今回)の投票率は何ら変わらず53%前後、横ばい

・・・委細は省くが、実はその前との対比でも殆ど変わっていない(以下、同じ)。つまり、日本の国政選挙では約5割の棄権層(無関心層)が定着するという悪しき現象が見られる。


●自民党・得票率(比例区)も、約33%で推移しており、投票率と同様に横ばい


自民党・絶対得票率(有権者総数を分母とする)は17〜18%台であり、横ばい


●自民党・議席占有率も、約61%で変わらぬ傾向であり、横ばい

・・・これに公明議席が加算され、与党が約2/3を占める傾向も変わらず、横ばい


●党別の比例区得票率から見えてくること

・・・与党45.8%(自民33.3+公明12.5)、リベラル派29.5%(立憲19.9+社民1.7+共産7.9)、維新(極右)6.1%、希望(旧民進、ヌエ的存在?)17.4%中道?極右?/よって、これら極右系野党(維新、オール希望?)が与党側へなびけば現代日本ファシズム体制が一気に実現する可能性が高まる!が、これが国民のリアル総意(預託意思)と言えるのか?


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・・・因みに、絶望に墜ちたと揶揄されながらも約1000票の得票を確保した“ヌエ的存在”と見るべき希望(旧民進)が、今後の改「改憲」動向に大きな影響を与えることが垣間見える。

[Cf. Twitter/<共同世調/希望の党支持層、約1千万の8割=安倍政権の憲法改正に反対http://urx3.nu/GPOx>Vs<内閣支持率54%に上昇/憲法に自衛隊明記、賛成44%で反対を凌駕1103日経>は、愈々メディア絡み<“真実Vsフェイク”「国民意思」争奪戦>開始の意味!?http://urx3.nu/GPOy


国民の意思、先の寺島実郎氏(『未来先見塾』)の言葉で言えば“国政選挙における国民の預託”を<ダンテ《神曲》の地獄・煉獄ならぬ《欠陥国政選挙の空焚き地獄》>へ押し込め、そこで国民のルサンチマンが内向・鬱積して高圧化するに任せて無責任に放置する、見て見ぬふりをするという日本政治の姿は、最早ただの欠陥選挙制度と言うよりも“国政選挙に名を借りた、れっきとした一種の国策犯罪行為”と見るべきであろう。


しかも、この“国策犯罪行為”の理不尽については政界、司法界、財界、労働界、メディア界、アカデミズムら日本のリーダーたる、いわゆる知識層の人々は殆どが重々承知のことであるはずだ。しかし、寺島実郎氏らごく少数の例外を除いて、この種の批判(危機感の披歴)は殆ど耳にすることがない。


そのため、この欠陥選挙制度を自らのための奇貨とすら見なす特権階層・既得権益階層あるいはアナクロ極右派(日本会議など)を代弁する現下の政治権力側の意思(ハッキリ言えば身勝手な悪意とお仲間意識!)は、このような“極悪犯罪的な政治”の深刻な余波を各方面へ波及させつつある。そして、それは特に日本の近未来を担うべき若い年代の国民層の選挙行動において観察される。


例えば、某調査では今回の衆議院選挙でも“約6割!の無関心層”を除く“18〜29歳・青年層”の約4割強(NHK出口・調査では49%)が熱烈な安倍自民党の支持者であることが分かったと一部で報じられているが、それは“無関心層”込みの全体比(同年代の有権者総数を分母とする)で見れば、何のことはない、矢張り、おそらくそれは高々で16〜20%程度に過ぎない、と推計される。


つまり、日本の青・少年層は、立派な?大人達の投票行動を上回る健気さで?その悪しき大人たちの選挙行動を手本としつつソックリもの真似をしていることになる。しかも、彼ら若年層の“棄権層(無関心層)”の割合は6割に達しており、それは大人達の平均5割の常在「無関心(棄権)層」を遥かに超えている。これを、<日本民主主義の危機!>以外に何と呼べば良いのか?


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しかし、既に海外メディアからは、この日本の欠陥選挙制度を放置することについて厳しい批判の報道が出始めている(添付画像は、その事例)。これもガイアツに頼るしか解決の途がないと言うのだろうか?


(3)『感情の政治学』を起動・生起させる第一の条件は、欠陥「選挙制度」(衆議院の“小選挙区比例代表並立制”および世界に類例がない“供託金制”)の改革


[欠陥「選挙制度」(衆議院の“小選挙区比例代表並立制”の改革]


・・・先ず「欠陥選挙制度」を改革し、『感情の政治学』の舞台である<オバートンの窓>を開き、国民意思をエンドレスに生起させる環境を整備することが肝要・・・


この問題と関連して注目すべきは、第二章『・・・小森謙一郎『アーレント最後の言葉』が示唆する、“感情の政治学”の現代的意義・・・』で書いたとおり、H.アーレントの<『人間の真理』を実現するための活動力の定義>である。アイヒマンの「悪の陳腐さ」についての批判をベースに書いたとされるアーレントの著書『精神生活』における《考えることの大切さ、思考の大切さ》についての論考のなかに初めて登場している。


つまり、日本の「欠陥選挙制度(国民の意思が正統に得票率に反映されない“欠陥”選挙制度(特に衆議院・小選挙区比例代表並立制)」が<オバートンの窓(Overton window)>を閉じており、このため『約半数の棄権層(無関心層)=《考えること、および思考の大切さ》を忘れた無感動で無“感情”な人々』を日本社会の中に固定化・常在化させるという、民主主義国家には全く不適切な、日本の近未来にとって、実に深刻かつ不幸な事態を出現させている。


それは、今まで見てきたことから分かるはずだが、特にM.アンリ『感情の現象学』とH.アーレント『精神生活』が明らかにしたとおり、実は個々人の《考えること、特に論理的・批判的に考えるアフェクト(志向意思)》が深く“感情の海”に根差すものであるからだ。


f:id:toxandoria:20171109125931p:image:w300:right国民全体の広大な“感情の海”(国民意識の中核と深層で“共‐パトス”化する超越論的情感性)と絶えず共鳴しつつデリケートに開閉する<オバートンの窓>は「現時点における一般世論の中で、ごく自然に受け入れられ得る政策領域の広さ、あるいは担当政権による諸政策の受け入れ易さの度合い」を示す“相対概念”(絶対的かつ客観的に計測可能な広さを持つ“窓”に非ず!)で、これが相対的に広く大きいほど、多数派国民から正当視され、かつ実現可能な政策の数が多くなる(画像はウイキより/関連⇒http://ur2.link/GRNa)。


[世界に類例がない高額な“供託金制”の改革]


・・・世界に類例がない余りにも高額な日本の“供託金制”の実情と、その改革が必要であることについての委細は下の記事▼を参照乞う・・・


▼20170930my—evernote《供託金問題/日本は民主主義国家に非ず!》http://ur2.link/GSiC 


供託金の問題は、共謀罪、文書管理法の問題と共に日本の民主主義(厳密には、国民主権に基づくエトノス・パターナリズム型(http://urx.red/GT7D)の統治の根幹であるが、メディアが殆ど真剣に取りあげないこともあって、一般的に関心が薄い。第三者機関のチェック、裁判所(司法)の意識改革らと連動した、市民・国民自身の覚醒が全てのカギとなる。


そして、その核心部分は、「日本国憲法:第四十四条」の<「両議院の議員及びその選挙人の資格は、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」の“誰でも選挙に出馬する事が出来る”との主旨>が名目だけになっており、もっぱら既存政党にとり有利で、供託金を上げれば上げるほど無産者層らの新人をリアル政治から排除できるという、非民主主義(非共和主義)的で国民分断的な制度となっている。


(補足)SNSの「狭隘クラスタ化(マイナス感情の濃縮効果)」で「自己意識(コギト)の深層(コギタートゥム)に潜む“悪魔(魔術)的な闇の成分”」が顕現リアル化するリスクへの対応が必須


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<注>当論点は、『政府がツイッターの規制検討へ!座間の事件を受けて閣僚会議!/http://ur0.work/GYlb』に隠されている“政府の意図”云々とは別次元の<既存メディアのジャーナリズム意識、高度なリテラシー意識の有無の問題>である。より具体的に言えば、既存メディアが『感情の政治学』に関わる意識を持って記事を書いているか否か?ということであり、チャンス到来!とばかりに速攻で安倍内閣が持ち出した<短絡的なSNS規制論>はナンセンスである。


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このジャンルのテーマは、必然的に、これから益々SNS等の利用方法が多様化する時代の主要メディアのあり方に深刻な影響を与えることになると考えられる。例えば、添付1〜2枚のTw画像の対比でわかるのだが、ヘッドラインや論調しだいで同様の調査「データ」から、あるいは質問方法の差異や煽りの有無などに因って殆んど真逆の結果を導く様な傾向が観察されている。また、添付3枚目の画像は主要紙のヘッドラインを並べて見たものだが、これは今回の総選挙で主要メディアがアベ様へ過剰に“忖度”した可能性が高いことを如実に示唆している。

なぜなら、それは「論理判断、アフェクト(善と悪が共有する±のベクトル意志)あるいはヤスパースが一つの理想形を体現した寛容かつ倫理的で人道的な価値判断と批判力)」といえども、M.アンリらの現象学的に見れば、矢張り、これら全てが深い『感情の海』に浮かぶ現象であり、しかも、それは薄氷を踏む思いで絶えざる“生”の生起を選択する『感情の政治学』で支えるべき、非常にデリケートな問題であるからだ。

そして、特にSNSらネットメディアが主観性の核心である前意識(無意識、潜在意識、大文字・小文字の『二つの“生”(参照、第二章の<注>)』、“魔術的・悪魔的な闇の成分/権力的暴走、ファシズム、戦争、テロ、殺人、破壊願望、猟奇嗜好、復讐先取”)などに対し深く強い刺激となっていることが覗われる。


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f:id:toxandoria:20171109130803j:image:w250:rightf:id:toxandoria:20171109130856j:image:w250:right

今年のノーベル文学賞に輝いたカズオ・イシグロ(日系・英国人/代表作:『忘れられた巨人』、『浮世の画家』、『私を離さないで』、『日の名残り』など)の一貫したテーマは、コギト(自己意識)の核心に潜む「先反省的自己意識」(ザハヴィらにとっての最大の関心事)を「記憶」の切り口にした文学的な「探求」と見ることもできそうである。


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しかし、このカズオ・イシグロの受賞を“日本にも沢山ファンがいる!”と、速攻で称賛してみせた安倍首相は、おそらくカズオ・イシグロ文学の内容など全く理解してないと思われる。他方、たまたま見聞した松江市(島根)の「小泉八雲記念館」で開催中の企画展「文学の宝庫アイルランド:ハーンと同時代を生きたアイルランドの作家たち」http://urx3.nu/Glb8は、ハーン文学を介して日本と西欧の記憶の古層の共鳴を探るという意味で非常にタイムリーである。

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また、偶然に旅先の出雲(松江)で発見した、藤岡大拙著『出雲人/日本人を煮詰めると出雲人になる』(ハーベスト出版、松江市)は、古代いらいの日本人の気質気風や言語、あるいはアニミズム的な伝統神道の独特の「宗教・文化観と記憶」の古層が、実は、そもそも多元的な国際性に根付くものであることを冷静に物語っており、正統保守からは程遠い「日本会議、靖国神社」らの特異性を冷静に逆照射していることが興味深く、ハーンが松江の人情と文化に深い愛着を持ったのも頷ける。


つまり、世界がグローバル市場原理主義一色に染まってしまったため、<大格差、社会の分断化>などの弊害に飲み込まれた多くの人々がやりきれない閉塞感(あるいは感情のマグマの空焚き?)の虜となっている時代であるからこそ、人類共通の前意識の世界に拡がる人間の記憶の闇の底に人間の真理を探る歴史、文学、芸術、文化こそが、人類共通の喫緊の課題となっている「感情の政治学」の核心に迫り得るものと思われるからだ。 


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ノーベル文学賞より先にウィットブレッド賞(英国・アイルランド在住作家に与えられる文学賞)を受賞したイシグロの作品「浮世の画家」が、実は、戦前・戦中期に日本全体を覆っていたアベ的なもの、つまり<怪奇極右幻想(追憶のカルト)なる特異な政治・宗教観念である『靖国顕幽論』>が潜む、戦前・戦中期日本人の心の闇を抉ったものである。いわば、それは妄想的愛国心と復讐の先取りの情念に溺れる記憶の闇の奥底に揺蕩う浪漫主義でありつつも、実は、奇怪で異常な感情の流れであったということだ。


ともかくも、新聞・テレビ・週刊誌ら既存のマスメディアは、特に<主観性の核心である前意識の闇の部分>へ大きなマイナスの影響を与えかねない責任の重大さを、これまで以上により強く意識して情報発信することが重要な使命であると改めて自覚すべきだ。


それは、既存メディアのマンネリズムに溺れた記事づくり(ヘッドライン、論調、アンケート調査など)が、<日常化したSNS等ネット・ツールで必然的に狭隘クラスタ(マイナス感情が濃縮)化>する個々の人々の<前意識も含む主観性の深層と闇>に対する不用意な煽りとなって、それが思わぬ形で非常にリスキーな起爆・発火装置に変容する恐れが、いよいよ高まっているからだ。


なお、フッサール、M.アンリ、ダン・ザハヴィの現象学に共通するのは<無媒介的認知的自己意識(先反省的自己意識)/これはザハヴィの用語で、前意識も含めた主観性と他者性の核心のこと>への強い関心であるが、そもそも<その自己性と他者性におけるコギト(ノエシスたる自己意識)とコギタートゥム(意識内容)は、エトノス的な外在の自然・生命・文化・情報などの凡ゆる環境から絶えず何らかの共鳴的な影響を受けていると見ることである。


そして、従来の大方の理解は「無前提性の原理」を定理と見なし(http://qq1q.biz/GQp9)、これを否定するフッサール現象学は一種の数学的な抽象性を帯びているので、感情の問題とは無関係だと見なされる傾向があったようだが、実は、フッサールを批判的に継承したM.アンリは必ずしもそうは思っていなかったようである(完)。


(補足情報)


・・・下▲に、当記事に関連する「補足情報」があります。


▲【アベ様の闇にスッポリ包まれたニッポン!】「検査院の限界=文書不備(廃棄)のせい」が可なら、誰でも遣り得が当然となり、公官庁のみならず日本で真面目に仕事するのはアホだとなる!2017/11/11 http://ur0.pw/GZno

2017-09-01 愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須

toxandoria2017-09-01

愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)大前提とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』


(プロローグ画像) アルテミジア・ジェンティレスキ『悔悛するマグダラのマリア』1620-1620


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The Penitent Magdalene.c. 1617-1620. Oil on canvas. Palazzo Pitti, Florence. 146 x 109 cm 

 

・・・アルテミジア・ジェンティレスキ(1593 - 1652)は17世紀イタリアカラヴァッジオ派の画家で、当時としては珍しい女性の画家であった。彼女が被害者であるレイプ事件の訴訟の公文書が残ることからジェンダー研究の対象としても知られる。父が指導者と指名した画家アゴスティーノ・タッシhttp://u0u1.net/Fmj1から性的暴行を受け、裁判の身体検査などでも暴行の立証責任を理由に公的な屈辱を受けるなど悲惨な体験をした。その後の20年間は男性への嫌悪感と復讐心、激しいルサンチマンの情念を滾らせて歴史画、女傑像などを描いた。


・・・『悔悛するマグダラのマリア』は激しい心の痛みとそれでも幸せな女性として生きようとする強烈な意志(裁判のあとアルテミジアはフィレンツェの画家、ピエール・アントニオ・ディ・ヴィンツェンツォ・スティアテッシと結婚させられた)の間で引き裂かれ怒涛の如く揺れ動く彼女の内心の真理の現出者たる自画像であり、又それはカラヴァッジオ・バロック風のアンビバレントに身を焦がす迫力ある「理想美のイデアと残酷な実在」が薄皮一枚でせめぎ合う凄まじい“共和”のリアルである。


(当記事の目的)「感情の政治学」を悪用する作為へのアンチテーゼ

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・・・いま世界では過激セクトによる社会の分断化、例えば米国トランプ政権下の白人至上主義Vsアンチヘイト派の断絶、欧州各国の過激移民排斥の拡大、または日本におけるマイファースト極右勢力の拡大傾向が問題視されているが、ツイッター、FacebookなどSNS等のWeb利用拡大に伴う「エコーチェンバー(Echo Chamber)http://u0u0.net/FuUt」が更にその傾向を加速すると懸念されている。が、矢張り、これも見方を変えれば「感情の政治学」の問題である。 


・・・ところで、当記事(Ser.(1)(2))の狙いは、今まで殆ど見過ごされてきた<「政治(経済)」と「感情(情念)」の関係>を、両者の関わり合いと思しき切り口をほんの少しだけ掘り下げてその様子を冷静に観察することにある。そのプロセス民主主義の新たな地平と見なすべき「リベラル共和主義」の確かな手掛かりを探す試みでもある。


・・・また、最も純粋な意識の描写である現象学の視覚を援用しつつ内心とコミュニケ―ションの核心へと向かう「感情の政治学」の視座からは、アルカイダやISのテロとも通底するイスラムワッハーブ派の問題(憎悪と欲動の情念に因る急進革命の意志)http://u0u1.net/FlG2やイラン・シリアを巡る混迷、あるいは今や異様に燃え盛る北朝鮮ミサイル問題の如き「国際政治犯罪」への減感作効果の模索という側面で些かなりとも何かヒントが得られるのではないか?とも思われる。


1「新自由主義」暴走の舞台、グローバル市場経済で「個の不安感情」と「ポピュリズム」が激化する背景


1−1近代以降の政治学が無視してきた、超越的なるものと共鳴する情念(感情)の問題


(映画『ハンナ・アレント』の問題意識−1/『悪の凡庸さ』とは何か?)


f:id:toxandoria:20170831134835j:image:w250f:id:toxandoria:20170831134836j:image:w260

映画『ハンナ・アーレント』(http://ur0.biz/FmDH )は、第2次世界大戦中にナチス収容所から逃れ米国に亡命した思想家であり政治哲学者でもあったハンナ・ア(-)レント(ドイツ在住ユダヤ人)の不屈の戦いの核心部分を描いた作品である。


映画解説http://urx.nu/5PNI より転載。

・・・ナチスによる迫害を逃れ米国へ亡命したユダヤ人の女性哲学者ハンナ・アレントを描いた歴史ドラマ。1960年代初頭、アレントは元ナチス高官アドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴記事を執筆・発表するが、それは大論争を巻き起こし、アレントも激しいバッシングを受ける。その顛末を通して「絶対悪とは何か。考える力とは何か」を問うとともにアレントの強い信念を描きだしている。


◆映画レポート『欧米におけるユダヤ人問題の底知れない根深さを提示(高崎俊夫:映画.com』より部分転載/全文はコチラ☞ http://urx.nu/5PO4 

・・・ドイツ系の亡命ユダヤ人哲学者ハンナ・アレントの「悪の陳腐(凡庸)さ」という言葉は、1960年代初頭にナチス戦犯アイヒマンの裁判を傍聴した彼女が「ザ・ニューヨーカー」誌に発表した長篇レポートで知られることになった。彼女は<アイヒマンは冷酷非情な怪物ではなく、上官の命令を唯々諾々と遂行する『凡庸な能吏』の如き存在にすぎない>と喝破した。そして、その<自ら思考する能力の欠如(←コレは現在の我われ日本国民一般の“無関心”と官僚の権力への追従の問題に通じる!←toxandoria、補足)>こそが、未曽有のホロコースト引き起こしたとする論旨は、この映画の中で引用されるアイヒマンの世俗的で虚ろな表情(実際の裁判映像)を見るとリアルに納得させられる。


・・・


既婚であったマールブルク大学の恩師マルティン・ハイデガーと恋愛(不倫)関係のあと、アレントはフライブルク大学のフッサールの下で一学期を過ごし、更にハイデルベルク大学へ移り、そこではヤスパースの指導も受けている。ハンナ・アレントは、自らが経験したナチズム(全体主義)の衝撃的体験から、『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”(ということが事実だ!)』という言葉を残している。


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2017年8月13日夜に放送された旧日本軍「731部隊」に関するドキュメンタリーNHKスペシャル/731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜 http://urx.mobi/FjZq』が、いま中国でも反響を呼んでいる、と日経が報じた(↓*)。肝要なのは、これを機会に我われ日本国民も、アレントの言葉「悪の陳腐(凡庸)さ」(どの人間にも上司の命令を黙々と遂行する凡庸な能吏の如く、現状に安住する傾向が見られるというリアリズム)を再確認することであろう。


* NHKの「731部隊」番組、中国で反響呼ぶ 815日経http://urx.mobi/FjZI

・・・【北京=永井央紀】NHKが13日夜に放送した旧日本軍「731部隊」のドキュメンタリー番組が、中国で反響を呼んでいる。中国国営中央テレビは15日昼のニュースで「細菌兵器や人体実験に関する兵士の証言テープを公開し、残忍な犯罪行為を異例にも認めた」と紹介。中国外務省の華春瑩副報道局長は記者会見で「真相を明らかにする日本の知識人の勇気を称賛する」と語った。


・・・


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日本の政治状況も、米国のトランプ現象(デジタル焚書型の“悪の凡庸さ”の出現!?)でも同じことだが、今や世界中が「反知性主義」の典型とも言えるポピュリズム(大衆扇動型政治)による深刻な「社会の分断化」に飲み込まれつつあるかに見える。


<参考> デジタル焚書 

・・・反知性主義を批判するときに必須の問題意識。例えば長文の新聞記事、本、雑誌記事、論文、講演など一定の長い文脈で表現される<人間の統合意識>よりも、<ネット上のツイート、レス等の断片>の方が真っ当な「真理」であると、権威的にor 作為で人々を誤解させる悪質な行為。これはAI(人工知能)が創出する(正確には、と期待されている?)人工意識の問題(人間の意識とAI(人工意識)との差異は何か?あるいは、シンギュラリティなる錯誤の概念について考え、正しく批判すること)にも関わる重要なテーマ。Cf. ⇒ http://urx.mobi/FknG


・・・


しかし、だからこそアレント「悪の陳腐さ(凡庸さ)」が、必ずしも文字通りに「知性が劣る人々、“知能が低いのでバカだ”と見なされる側の人々」のことだけを指すものではない、という歴史と現実に気付くべきなのだ。それどころか、知能・学識・見識ともに優れた人々が、いとも容易く「悪の陳腐さ(凡庸さ)」に嵌り、積極的に又は唯々諾々とファシズム(全体主義)に協力した悪しき事例の枚挙には暇がなく、それは今の安倍政権下の日本でも進行中のことだ。


例えば、旧日本軍「731部隊」の“細菌兵器を開発した科学者たち”のあの真に忌むべき問題であり、あるいはハイデガーカール・シュミット(ドイツの思想家、法学者、政治学者、哲学者)ら超一流の知能と見識をもつ知識人・インテリ層の人々のファシズムへの協力(ナチス入党)の問題である。無論、カール・ヤスパース(1883-1969/哲学者・精神科医)のように頑としてナチスへの協力を拒み続けた事例もある。


そして、これらファシズムへ協力した第一級の知識人らの専門分野は自然科学・科学技術、人文・社会科学という具合で、それは凡ゆるアカデミズム(ロゴス)分野に拡がっている。


因みに、ヤスパース(ハイデルベルク学派http://ur0.pw/FxXFの中心人物/哲学者・精神科医)には、妻がユダヤ人である故のナチスに対する抵抗姿勢の貫徹で大学を追われ、妻の強制収容所送りの圧力では自宅に2人で立て籠もり通したエピソードがある。結局、ヤスパース夫妻は自殺する以外に打つ手がなくなるまで追い詰められたが、強制収容所への移送予定日も残すところ数十日のところで、辛うじて連合軍のハイデルベルク占領となり移送を免れた


このようなエピソードを持つヤスパースは「ドイツ国民一人ひとりが、それぞれ自分が負うべき罪について身の丈に合わせ主体的に考えるべきだ」という前提を明確化する偉大な功績を遺した。ヤスパースはナチス・ドイツの侵略戦争やホロコーストなどの「罪」を四つの次元、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上学的な罪に分けたが、これで漸く「政治的・法律的な責任」(前二つ)と「内面的な責任」(後二つ)を峻別して考えることが可能となった(出典:仲正昌樹著『日本とドイツ、二つの戦後思想』—光文社新書−)。


これで、一人ひとりのドイツ人が自分の能力に見合う自覚の程度に応じて「人道に対する罪」を具体的に理解することが可能となり、自分はそれに対する反省の行動を是非とも実践すべきだという人道に関わる意志を一般のドイツ国民が共有できるようになった。


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このように見ると、戦後ドイツ人の人道に関わる責任意識が日本と比較にならぬほど高いレベルに達していたことが分かる。このことは<ドイツと日本の政治家の品格の違いの第一原因>ともなって長く尾を引くことになり今に至っている。但し、現在、そのドイツでも「極右Afd、議席獲得?」の問題が急浮上している(Cf./添付画像)


ところで、ハイデガーやカール・シュミットの如く、今でも世界で第一級の知能を備えた知識人と見なされる学者らがなぜ易々とナチスに入党し、そのファシズム政治の協力者たる『悪の凡庸さ』(既に見たとおり、これはアレントの命名であり、彼らがナチス権力の命令を黙々と遂行して独裁的な政治権力の言いなりになる“凡庸な能吏”のごとき存在に徹したことを意味する)に甘んじたのか?については、依然として、今も深い謎となっている。


この問題への答えの一つには、「ハイデガーのナチ関与が彼の哲学思想、特に『存在と時間』(Sein und Zeit/1927年初版/解釈学的現象学の核心を論じた)と深く内的に関係していることが判明した!/ヴィクトル・ファリス著、山本 尤訳『ハイデガ−とナチズム』(原著1987,名古屋大学出版会1990)のような、一見、これは尤もだと思わせてくれる解釈がある。しかし、これはハイデガーの業績全体、特に解釈学的現象論を全否定しかねぬこととなり、かなり無理があるようだ。


なお、ハイデガーの解釈学的現象論とは<フッサールが 「現象学の枢軸」である 「志向性の問題」として「純粋意識」を取り出したことに対し(委細、後述)、ハイデガーが「その意識そのものへの問いは立てられているのか?」と訊ねたことで始まった議論である。


そして、ハイデガーは「フッサールの純粋意識への問いは立てられておらず、 それは恰もアプリオリな対象事物の如く見なされており、結局、意識そのものの解釈がなおざりにされている」と見ており、「そもそも存在に時間が加わることでこそ生の実存が現れるのであり、純粋意識とは生のそのような時間の解釈を加えた覚知(気づき)であるべきだ」と主張した(出典:ハイデガーのフッサール批判/加藤恵介・神戸山手大学紀要第14号 (201212)http://urx.mobi/FkNm)。


(映画『ハンナ・アレント』の問題意識−2/再認識すべきアレントの言葉『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”』)


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昨今の「グローバル経済」時代における新自由主義の暴走をすら予見できる水準まで、非常に鋭くかつ的確に「資本主義の本質的欠陥」を抉り(水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済‐集英社新書‐』P252〜、他)、その解決策の処方箋たる「リベラル共和主義」の可能性にまで触れていたカール・シュミット(1888‐1985/一時、ナチスに協力した思想家・法哲学者)の仕事(稲葉振一郎『政治の理論』‐中公叢書‐、Cf. http://urx.mobi/FkDk)を全否定することも困難なことである。


つまり、シュミットは、第一次大戦後のワイマール政権における議会制民主主義自由主義の限界と脆弱性を鋭く、忌憚なく批判したため、結果的にナチス政権樹立に有利な(別に言えば、人間世界のギリシャ悲劇的な“両義性のリアリズム”を見抜いた実に厳しい)法理論を展開したことになり、今でも両義的で苛烈な評価が付き纏う天才的なドイツの法学・政治哲学者である。


いわば、シュミットは超人的でエソテリック(esoteric/深遠)な視点で“人間存在の根源を見据えつつ“性悪・性善の双方がせめぎ合う両義性のリアリズムを重視する観点”から、政治権力の源泉が“超越的でエトノスとも共鳴する情念の海に浮かぶ暴力的なもの”(古代共和制ローマの象徴であるファスケスで統制されたむき出しの斧or刃に相当する/関連参照 ⇒ http://urx.nu/4szD )であることを見据えていた。


因みに、このシュミットの“敵=友理論”http://urx.blue/FtgLを、安倍晋三らが好む<お仲間(クローニー)orおともだち政治>と同一視するのは浅薄な誤解である!w ともかくも、そのシュミットの冷徹なリアリズムの眼は、混迷の只中に巻き込まれつつある現代であればこそ通用する<法哲学・政治哲学上の卓見>と理解するべきものであろう。


また、ハイデガーにせよ、シュミットにせよ彼らが前提していたのは、おそらく<人間社会を統べる政治は、そもそも恐怖、恐れ、歓びなどの感情で最深部が支えられており、それはリベラル民主制でも、君主制でも、ファシズムでも変わらない。だからこそ、たとえ現代民主制であっても、国民の感情を介しつつ超越的で神的なエネルギーと繋がる回路を潜伏させている>という信念であったと考えられる(関連参照⇒デュルケーム『宗教生活の原初形態』http://ur2.link/FqO4)。


無論、これが現代民主主義(立憲君主制)の「政教分離の原則」の否定に直結するものではなく、むしろ、議会制民主主義を採る多くの国々では、これは全く逆説的な理解(つまり、だからこそ自然も含めた超越的なものへの恐れを前提としてこそ生ずる倫理観の上に構築された間主観性で繋がるリアル人間社会が重要になる!)となる訳だ。従って、そうであればこそ我々は民主<憲法>の上で厳格な「政教分離の原則」を謳っていることになる。


ところで、我々が想起すべき問題は、一時期、ハイデガーと恋愛(不倫)関係にあったハンナ・アレントが、自らが経験したナチズム(全体主義)に関わる衝撃的体験から、『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”(ということが事実だ!)』という言葉を残していることだ。


言い換えれば、これは(純粋かつ理詰めで物事を考える潔癖な方々には、おそらく承服しかねることかも知れぬが)『アドルフ・ヒトラー、安倍晋三らのファッショ的な独裁者、あるいは日本会議などの極右グループに所属するか、それに何らかのシンパシーを感じる人々と、我われその他一般の日本人との間には、人間としての本質において、それほど大きな違い(差異)はない!』ということである。


更に言えば、その両者は殆ど同じ成分を共有しているのであり、そこに差異があるとしても、物理量的な比喩で言えば、それは高々で薄皮一枚、というところであるだろう。


しかしながら、その比喩的な意味での「高々で薄皮一枚の差異」とは何か?実はコレに気付き、コレを自覚できるか否かが人類社会の、特に日本国民の近未来を決定づけることになる可能性が高い(関連参照↓◆)。


◆【ホモ・サピエンスだけが、少なくとも今まで自然生態系の頂点に立ちつつ文明・文化を繋ぐことができた理由】


・・・ライプニッツのモナド論を取り込んだAIシミレーション(西川アサキ『魂と体、脳』‐講談社選書メチエ‐』)では、仮想エージェント(最小単位の論理回路)が多数派に対して例えば相転移の如く「同調する振る舞い」が観察されるが、より驚くべきことに同じことが自然界の原子・分子レベルでも起こっている。


・・・が、ヒトの意識を司る脳機能の観察では、例えば脳科学者・金井良太(意識の研究で国際的に活躍する認知神経科学・脳科学者、アラヤ・ブレイン・イメージングCEO)の『政治的信条に関わる脳構造』(著書『脳に刻まれたモラルの起源』—岩波書店−)の脳の情動部位に関する観察によれば、タカ派(極右・超保守派)は恐怖心や臆病な性質との相関が高く、逆にハト派(リベラル)は太っ腹や鷹揚な性質との相関が高いことが観察されており、薄皮一枚の後者のリードがヒトの社会を辛うじて持続させてきたと考えられるようだ。


・・・つまり、自然現象ではベクトルの流れに任せ放置すると、人間社会の虐殺(全滅)へ至るプロセスとソックリのこと、例えば「相転移」の如き物理的変化が起こる。しかし、個々人が「自由意思」(コレが薄皮一枚の差異の中身!/政治学に置き換えれば、コレが『リベラル共和主義』の意味、http://u0u1.net/FlkF)を持つ人間社会では、どんな環境下でも最後の瞬間まで誰も奪うことができない精神の自由(実存選択の意思=未来への希望)が残されている(フランクル『夜と霧』‐みすず書房‐、大岡昇平『野火』‐新潮文庫‐/ここでの“野火”は他者の存在のシンボルと考えられる)。よって、人間は無機質な原子・分子の世界とは異なることを最認識すべき!ということになる。Cf. ☞ http://u0u1.net/FlkE 


1−2市民的自由主義の深層に潜む「ラカン鏡像の逆説」(無限後退するアイデンティティパラドクスの罠)


グローバル化に因る個々人の不安感情の湧出源は『ラカン鏡像』のアイデンティティ・パラドクス!)


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◆グローバル化に因る個々人の不安の感情は「ラカン鏡像」型のアイデンティティ・パラドクス!Cf.↓★1〜2 ☞『シュレーディンガーの猫を追って』 『原理 ハイゼンベルクの軌跡』813朝日http://u0u1.net/Flld /記事内容(書評)はコチラ ☞「ブック朝日コム」http://u0u1.net/Fll6 


★1「安倍的なもの」の存在こそ存立危機事態∵ 再帰的近代化↓(*)なるグローバリズムの余病(近代化はその目的・対象を吸収し尽くしてフロンティアを喪失したため、個人が自己を近代化していく段階に入ったとする、エトノス観念の対極にある一種の人間改造論!性悪説・主観的合理主義・自己責任論への傾斜で激烈な個人感情への内向化が必然となる!)を煽る手法へ没入!☞ グアムへの北ミサイルは存立危機事態ではない! 安倍首相が支持率回復のために日本国民を危険にさらそうとしている813リテラ5:01 - 2017年8月14日http://u0u1.net/Flle 

・・・(*)アンソニー・ギデンズの「再帰性/再帰的近代化」の概念について/萩原優騎 日本学術振興会特別研究員 http://u0u1.net/Fllk 


★2 ラカンの「鏡像段階論/2〜3歳頃の幼児は母親に代表される他者を鏡(可視世界への入り口)として自我形成するという「発達段階」仮説」http://u0u1.net/Fllf 

・・・『シュレーディンガーの猫を追って』の著者からは、悲劇に見舞われた者が問わずにはいられない<他にもあった可能性の中でなぜ今のこの現実なのか、という切実な思い>が読み取れる。また、『原理 ハイゼンベルクの軌跡』の著者は、ラストで、例えば「原発推進派のあなた」と、それが変容・転換してしまった「反原発派のわたし」との合わせ鏡的な左右が真逆の反映に、つまり「ラカン鏡像」型(=合わせ鏡型)のアイデンティティ・パラドクスに嵌り、遂にはそのパラドクス鏡像が感情の海面の上で無限後退して戸惑う自分を発見することになる。


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『感情の政治学』(講談社選書メチェ)の著者・吉田 徹は「完璧な合理的イデア(固定した形相美、エイドス)を政治に求め、それが常に実践(感情・情念で揺らぐリアル意識の実存)を伴うものであったことを忘却する「市民的自由主義」(方法論的個人主義合成の誤謬を無視した原子論的個人主義)は誤りである。それは、それこそがミルトン・フリードマンの新自由主義なる合理主義(マネー&物欲合理主義)をのさばらせることに繋がったからだ。」との考えを述べている。


また、吉田 徹は、政治における情念を問う数少ない政治学者である斎藤純一(早稲田大学教授)が「政治は、利害のみならず愛情や忠誠などの情念(敢えて断言すれば、それこそラカン鏡像型のアイデンティティ・パラドクスに戸惑いつつ感情の海面で無限背進(後退)する自己の再発見、ということ!/補足、toxandoria)の要素を含む価値観・世界観の抗争でもあり、コミュニケーションの媒介でその情念を民主的回路に繋ぐことで政治はより良いものとなる」と主張することに注目する。


それは、デッドロック化した資本主義経済(水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済‐集英社新書‐』/補足、toxandoria)の下で、今や人々の行動を規定していた「無限のフロンティア―を前提する安定的な価値観」が成り立たなくなっている現代では、感情面も含めた個人の判断が意識的な選択として絶えず吟味され、そのうえで選び取られ続けなければならないという、アンソニー・ギデンズ(英国の社会学者)の「再帰的近代化」(グローバル環境下における時間・空間感覚および感情表現など、人間主体側の改造必要論)が全面化していることと関係しており、この「再帰的近代化」のテーゼは<現代政治に批判的に適用すべき解釈枠組みの一つ>だとも吉田 徹は述べている。


(新自由主義アンシュタルトの暴走に追い込まれた『ラカン鏡像』幼児期ナルシズムがヘイト・人種差別テロリズムの主要な苗床である可能性が高い)


更に視点を少しズラして見れば、新自由主義(≒果てしなき格差拡大装置としてのアンシュタルトhttp://ur0.work/Fugd、/再帰的近代化のテーゼ、主観的合理主義)に取り込まれた「市民的自由主義」は、あの古代ギリシャの市民が当然視していたノモス観念(ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前/委細、後述)から最も遠い存在と化していることが分かる。


つまり、益々グローバル化が進む中で頑強な統制的権力だけを握りつつ安定的な公共財の市民への提供の義務(←カール・シュミット、アレントらの指摘/Cf. http://ur0.work/Fugd)を放棄した「小さな政府」が個々人の不安感情を煽ることになるのは当然のことであろう。


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ところで、マーサ・ヌスバウム(米国の政治哲学者http://ur0.work/Fugs)は、ラカン「鏡像段階」に重なる幼児期の子どもが<「ナルシズム」→「他人の手で処理されざるを得ない自らの排泄物が自分の意の儘にならぬことで『自己愛』ナルシズムの自尊心が深手を負う」→「強い不快感が発生し沈着する」→「その不快感の弱者らへの転嫁の欲求が生まれる」>のプロセスで身に付いた倒錯の満足感が「ヘイトや差別攻撃」の苗床となり、ひいては新自由主義(主観的合理主義)で脅迫的に凝縮され、それが激烈なヘイト・人種差別やテロの一因となっている可能性がある、と指摘している(出典:吉田 徹『感情の政治学』)。


2 フッサール現象学の概要(および、その現代的意義)


2−1“現象学誕生”の時代背景/それは現代にも重なる危機の時代であった


オーストリア帝国(1804-1867)の末期に生まれたフッサール(Edmund G. A.Husserl/1859- 1938年)がオーストリア(ウイーン)とドイツ諸都市(ゲッティンゲンなど)での研究生活の最盛期をオーストリア史に照らせば、それはオーストリア=ハンガリー(二重)帝国(1867-1918/ハプスブルク君主国の一つ)の末期〜オーストリア第一共和国の時代に重なり、又それをドイツ史で見れば19世紀後半の欧州に「強固な覇権国家体制」を敷いたビスマルクが君臨するドイツ帝国(1871-1918)の時期にほぼ重なる。


また、その時代の欧州では、第一次世界大戦後の復興の完成を先取りするかにも見えた「ワイマール共和国」(ドイツ・ワイマール憲法体制/1919-1933)が出現していた。しかし、その末期には早くも資本主義の限界が露呈し、そこから派生した世界経済恐慌(1929‐1932)の不安を突く形(第一次世界大戦(1914‐1918)の敗戦で受けた巨額賠償等へのドイツ国民のルサンチマンも一因)で出現するヒトラー・ナチス政権(1933〜)、ファシズムの闇に飲み込まれる予兆を感じさせる時代でもあった。


このような意味での不安が漂う世界史的な「大きな危機」の只中にあった19世紀後半〜20世紀初頭の「ウイーン・アカデミズム」では、エルンスト・マッハエドムント・フッサールらの科学哲学者たちが、これとは些か異なる危機意識の下で(そのような時代背景に加え、数学・論理学・物理学らが現実離れした可能性を求め天空へ舞上がり過ぎていることへの危機感から)、あの「超越論的還元の視座」の先鞭をつける決意を持つに至ったことを再認識すべきと思われる。


それは、上で見たような意味で19世紀末〜20世紀初頭の「資本主義経済がデッドロック」した時代にフッサールが現象学(現象学的還元論)を着想したことの意義は、「新自由主義(一種の過剰合理主義仮説http://urx3.nu/FnRn)に席巻されたグローバル資本主義」の暴走が、再び、世界規模で人類を脅かしつつある現代でも十分に有意性を持つと考えられるからだ。


つまり、苛烈化する一方の人間社会の今と未来を見据える上でも、フッサールの現象学は十分に有効だと思われる。そのためか、21世紀に入った頃から人文・社会科学系の研究分野では、特に人間の非合理性と合理性の折り合い方、着地点を見極めようとする研究が活発化しているようだ。また、一時期はナチス(ファシズム)にも傾倒したカール・シュミットが「資本主義の正体は、そもそも海賊資本家による略奪資本主義であった」と喝破していたことは、まさに慧眼であったと言えるだろう(出典:水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済』)。


それに現象学と関連させつつ考えてみれば、「リベラル共和主義」の原型を古代ギリシャの都市国家、特にスパルタの厳しい政治(ファシズム的共和とリベラル共和の両義的ドラマツルギ―のせめぎ合いのトポス)に見ていたニーチェ、ハイデガー、ハンナ・アレントらの視点の中に、未発見の興味深い隠れたヒントを発見できるのではないかとも思われる。


2−2フッサール現象学の誕生/「感情の政治学」が必然であることの予兆


【「同じと思われる光景」でも各人は異なる現出(実在・真理と信ずる射影)を見る/が、一方でその最大公約の表象が客観性(間主観性)である 】


・・・我われ一人ひとりは、例えば下図『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』のような<それぞれ各人が見ている内面表象>の外へ、そのままでは絶対に出られず、これが一人ひとりの「主観性」の強固な地盤である(この左目だけで見た絵の周辺は眼窩の縁、右の出っ張りは自分の鼻先、中央には自分の寝そべった両脚とペンを持つ右手が見える)。しかし、その避け得ない内面の差異を話し言葉など様々な記号(表象)を介在させた多様な表現の交換、あるいは文章(文脈)化・ボデイランゲージなど積極的コミュニケーションの工夫で一定の実在(真理)のイメージ(or表象)、つまり「間主観性」の共有化は可能だ。・・・


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Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body stretched out in his studio; limited by the curvature of the eye socket, one sees his nose and beard. http://ur0.link/F5BD


このこと(同じと思しき光景を見ても、各人は異なる現出(実在・真理と信ずる射影)を見ており、その最大公約の表象が客観性である)を真逆に言えば、普段に、我々の一人ひとりは同じものを見ているように思い込んでいても(これはよほど強固な自覚(または覚醒への意志)を持たぬ限り日常生活では避けるのが中々困難な錯覚!)、実は誰一人として同じものを見てはいないということだ。


また、ここでの最大公約(数)なるコトバは比喩で使っているので最小公倍(数)でも構わない、要はそれこそが『話し合い、あるいは個々の情報の擦り合わせなどで漸く同定・共有される、ある実在(真理)についての客観的な“表象”、つまり間主観性であることを意味する。


そして、このような認識が正しいことは、植民地資本主義の限界とカルト同然のナチス的な空気拡大への危機意識で覆われつつあった19世紀後半〜20世紀初頭に活躍したオーストリアの物理学者、エルンスト・マッハの影響を受けたフッサールの厳密な主観性の検証である超越的「現象学的」還元のプロセス、つまりその科学哲学的な分析によって確認されている。


f:id:toxandoria:20170831153205p:image:w400:leftだからこそ、特に 政治・行政の現場では厳密な客観性と公正を担保するため「対話(言葉の遣り取り)→文章化」のプロセス(あるいは、それらを集約した文書・記録・映像など=常にブレたりズレたりする恐れが高い表象(真理)の統一・集約・同定or規定化)を保存する必要性があることになる(Cf.  ☞ 公文書管理の重要性/この観点から見ると、日本の「特定秘密保護法」が公文書管理の常識を外れているとの海外からの指摘がある! http://urx3.nu/FnRA)。


我々が日常で見ているのは、何につけ射影の寄せ集め的なもの、つまり直接的で物語的なものである。例えば、それは机の形が平行四辺形(現出/フッサールはこれを記号とも呼ぶ)に見えるような遠近法的で瞬時的な分かり易い現出(ものごとの現われ)に関わる感覚・体験の流れであり、これが深刻な錯覚をもたらす主な原因となっている。一方、我々はそのような状況の中で生きており、そうでなければ生きられない生き物でもあり、ここが厄介なのだ。


但し、平行四辺形の場合のイメージ記号と異なり言語という“記号”では現出と現出者(真理のイデア)の間に同等性(イメージ的相同性)はない。また、知覚的直接性(映像)は、想起・連想などと比べより直接的でありながら、それでも知覚映像はリアル(真理)に対し直接的ではなく現出(本質直観/一つのor特定の“射影”)で媒介された直接性である。その意味で、一般の知覚映像も一部分のリアルに過ぎない。


従って、どこまでも我々は 「内的な表象」(本質直観=マッハの内面的な表象)の世界に閉じ込められていることになり、これは言語などによるコミュニケーションの難しさを意味するとともに、「それ故にこそ、誤解を小さくするため、より積極的なコミュニケーションが重要であること」も示唆している(が、姑息な安倍政権は、その<射影がもたらす錯覚をどんどん肥大化させる政策>を一環して採っている)。


その先には“その机の形は長方形(現出者/この場合は長方形の机という真理)であること、つまり一定時間の流れとも関わりつつ見えてくる現出者(長方形の真理)に関わる知覚・経験”が出現する過程があり、この現出者こそが現象学的な意味での実在(同一性)で、フッサールはこれを“客観の同一性の表象は多角的で多様な表象(夫々の本質直観)で媒介される”と表現する。


また、この“現出(各射影)⇒現出者への過程”をフッサールは“現出(各射影)を突破して現出者(真理)を知覚または経験する”と表現しており、このベクトルを更に「志向性」とも呼ぶが、これは「意識」作用と殆ど同義である。なお、この“現出を突破して現出者へ到達する”ために必須となるのが、フッサールが言う「エポケー/判断中止(ごく自然な思い込みの流れを停止する省察でマッハ的な内面の光景へ引き戻し(これがマッハの第一義的還元)、それに照らして現出者(真理)を理解する!)」の意識作用である


【そもそも現象学とは何か?/形相的還元 、超越論的還元 、現象学的還元】

ところで、エドムント・フッサール(1859−1938)の「現象学」は、19世紀末の揺籃期〜20世紀初頭の幼生期を経て、さらに第二次世界大戦後〜現代に至る長きにおよび、20世紀の思想全体に大きなインパクトを与え続けてきた。


現代社会そのものは、益々、グローバル市場原理主義(新自由主義)の奔流に押し流されつつあり、しかもAI・ロボティクス・バイオテクノロジー等の先端科学技術の進展が急加速しており、「これからも身体と全生命の揺り籠の役目を果たし続けると思われてきた自然環境・地域風土・地域文化等についても、我われは、一人ひとりがそもそもの意味と役割を根こそぎ問い直さなければならないという、まことに厳しくも苛烈な「再帰的近代化」時代の真っただ中に入ったといえる。


深刻化するばかりの経済格差の拡大を本源とするテロリズム、あるいはマイファースト極右http://urx2.nu/FDZ6らの残虐な暴力性の噴出が後を絶たなくなっており、近代合理性と倫理・哲学がどのようにこれらと折り合うべきかが喫緊の課題となっている。


それは恰もフッサールが『イデーン/1913』(委細、後述)の出版で「現象学」研究を本格化させ始めた19世紀末〜20世紀初頭の全世界的にファシズムを予感させたあの「危機の時代」を彷彿させるものがある。が、このような時だからこそ、我われはフッサール現象学の根本と方法論を正しく理解することが必須になったともいえるだろう。


フッサール現象学で重視すべきベーシックな論点は『現象学的還元』と『無前提性』の問題である。そこで、そもそも「現象学とは何か?」について先ず触れておきたい。これは肝心「かなめ」の点であるので、下記の文献資料(◆↓)からその説明に該当する文章を部分転載しておく。


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◆榊原哲也・著『フッサール現象学の生成/方法の成立と展開』‐東京大学出版会


・・・ここから転載はじまり・・・現象学(Phanomenologie)とは、文字通りには「現象」(Phanomen)についての「学問」(Logos)ということであるが、フッサールの場合、それは、意識に現れてくる現象に定位(注目)し、それをありのままに見つめ、この現象の背後、あるいは手前で働いている「意識の志向性」(意識≒“志向性の作用”と見てもよい)をロゴス(学問)的に解明する営みを意味する。・・・ここで、一旦、転載中止/下記の補足へ・・・


<補足>「意識が生まれる瞬間」に関わる重要な推論

・・・西川アサキ(哲学者、批評家/情報哲学)は、最大の関心事がAIロボット内で生まれる可能性がある「わたし」(つまり意識)の問題としているが、現時点でその「わたし」は(a)自己組織化させる、(b)研究者(orプログラマー)が外部からプログラムする、の二つの方向からのアプローチが進んでいる。最新のAIを駆使した「意識」が発生する瞬間のシミュレーションでは、最小単位の構造となるプログラム・モジュール(そこに至る前段プロセスでは、脳内ニューロンネットワークでもそうであるが、実に夥しい数の“デッドロック・ペア”( 堂々巡りに囚われた最小単位の論理回路))が出現する。そして、意識発生の瞬間(一定の志向性が決まる瞬間)には「デッドロックで対峙する二組の最小単位モジュール(デッドロック・ペア)が双方の能力(夫々が相手方の中に自らの欠損(不足する点)の補完を期待しつつ求める能力)に有意となる未来への信用(確率論的な信用)」が基本となり相互作用することが分かってきた(これはSer.2で後述の『“現象学”的な意味での記述論理(抒情論理(toxandoria造語!))の問題に繋がると推測される!』)。http://urx3.nu/FoEr


・・・


・・・ここから、再び転載に戻る・・・ここで「意識」とは(哲学史上の説明をひとまず置けば)目覚めていて、ごく普通に何かを意識していることだと理解しておいてよいし、「意識に現れてくる現象」とは、目覚めている際に何かに目を向けたり、何か物音を聞いたり、物事を考えたりしている場合の、それら意識されている物事の、意識に現れているが儘のありさまを指している。


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意識に現れてくる現象とは最終的には私の周囲に拡がるこの「世界」そのものであるが、その際によく注意してこの現象を見つめてみると、例えば知覚しつつ意識されている現象としてのこの「花瓶」は、「花瓶」として意識されてはいるが実際に意識に与えられているのはその花瓶の一側縁(現出)に過ぎない(添付は参考画像/ヤン・ブリューゲル『木製花瓶に生けた花』 Jan Bruegel the Elder(1568-1625/ピーテル・ブリューゲルの次男/“花のブリューゲル”と呼ばれた) 「Flowers in a Wooden Vessel」 ca.1606-07 Kunsthistorisches Museum、Wien http://qq3q.biz/Fpcz)。


また、私に意識されているこの「世界」は、ごく一部分しか私に与えられていないのに、私は、この「世界」が私に現れている周囲を超えて拡がっていることをも何処かで意識している。実際に意識に与えられているもの(与件/=現出(補足、toxandoria))と、何かとして捉えられているその意味(現れている周囲を超えて拡がっている世界/補足、同)との間には、実はこのように常に差異が存在しており、それにもかかわらずこの差異は、普段は殆ど自覚されず跳び越えられているのである。


この差異を架橋して「与件(現出)」を何か「として」捉える働きをしているのは、フッサールによれば意識以外の何ものでもない。この与件に向かってそれを何とかして或る意味において捉える(統握する)働きを彼は意識の「志向性」(Intentionalitat/関連↑既述、<補足>【「意識が生まれる瞬間」についての重要な西川アサキの推論】 )と呼ぶ。


しかも、この志向性はまったく恣意的に働くのではなく、その働きのうちには何らかの規則的・普遍的構造(ロゴス/ここでは学問的・論理的な理性)が認められる。こうして、フッサールは、意識現象の手前で意識現象を成り立たせるために常にすでに働いている意識の志向性のロゴスを解明することによって、 周囲に拡がる <世界という現象>と<それが現れてくる場としての意識ないし自己>との関係を明らかにしようとした。


つまり、意識の志向性の解明としての「現象学」によって、周囲の「世界全体/世界という現象」に問いを向け、自己とその世界との関わり全体についての哲学―「現象学的哲学」―を目指そうとしたのである。


現象学の方法、すなわち「現象学的方法」とは、まさに、そうした営みへ引き戻すことであり、これこそが「超越論的還元」(但し、これは第二義の超越論的還元で、既述のとおり、第一義のそれはマッハ的光景への引き戻し/補足、toxandoria)である。それは、このプロセスの遂行にあたって、まずもって意識に現れてくる諸現象を純粋にありのままに見つめ、そこに潜む普遍的構造を記述するために形成された方法である。・・・ここで転載おわり・・・


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<補足>射影(夫々の現出)的な内心への囚われ、そこでの堂々巡りこそが「動物一般のそれ」にも似たカルトの心象風景である


・・・より広い周辺の「世界全体」への視座は一種の“習慣(P. ブルデューhttp://qq3q.biz/FpcE)”である。ヒトの文明・文化・伝統などもその意味で“習慣”の一種だ。但し、その“習慣”は絶えず更により広い世界と繋がろうとする客観的合理性(委細、後述)との交信・交流で絶えず補正することで健全性が保たれる。そこでこそ初めて出現するのが、絶えず揺らぎながらも「真理を志向する意識に対する信用で繋がり続ける間主観性の空間」である。


・・・このように、ヒトは何らかのコミュニケーションを介さなければ、現象学でいう直接的な「出現」で体験する純粋経験(又は、それに近い一定の狭い範囲の内心世界)の意識から、その外(より広い周囲の意識世界、絶えず真理へ導く地平) へ出る(突き抜ける)ことは絶対できない。他方、普段に我々は自分自身が十分に馴染んだ、一定の狭い範囲の意識世界でしか安心して生きられないのも現実だ。


・・・そこでヒト(人間の文化や伝統・習慣の世界)にとって重要となるのが言語・映像・イメージ・象徴ら様々な記号を介した多様なコミュニケーションである。但し、対話が重要なのは当然だが、必ずしもそれだけではなく、受け身でない主意(意志)的な読書やリアル書店の探訪、あるいはSNS等の活用、旅行体験、芸術鑑賞など多様な広義の文化・交流活動をもその補完手段(豊かな感情の海を醸成する場の確保、±のプネウマ(エトノス的な気息、精気、情念が発酵するトポス))と見る柔軟な文化的生活に馴染むのも重要と思われる。


・・・これは、イヌ・ネコ・サルなどの動物一般、または様々なカルト一派らが夫々の確信的な内心(狭い囚われへの誘惑/例えば安倍政権の背後霊(追憶のカルト)とされる日本会議、あるいはオーム真理教、統一協会らカルト)の世界の外(記号を介すコミュニケ―ションで新たな“習慣の世界(より広いフリンジ、周辺 、地平)”)へ漕ぎ出すことが容易ではないこと、を想像すれば直ぐ理解できることだ。


・・・


なお、厳密に言えばフッサールは 「現象学の方法」を(1)形相的還元、(2)超越論的還元の二つに大きく区分しており、その要点を纏めると次のようになる。


(1)形相的還元・・・人間心理へ「射影」(多くの人々が同じと見る光景)との関りで大きな影響を与える「イデア(理念的な真理)と一定の時間の流れ(真理としての歴史観)についての、エポケー(判断中止)によるイメージ空間的な現象学的還元


(2)超越論的還元(既述の第二義的還元/当然、その前提が第一義的還元)・・・一種の信頼性(専門的ロゴス(諸学問)が既に共有している記号(言語など)による共有観念、パラダイム)で繋がる間主観性のロゴス表象空間に関わる、エポケー(判断中止)による現象学的還元 ← コレは後述する「無前提性の原理」へ繋がる。


(3)「(1)+(2)」が、超越論的現象学的還元となる

 ☞ それは、これら二つの現象学的還元を実行することで、我われは『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』の図像 http://urx3.nu/FaY4 の外へ、つまり<各人が夫々に見ている内面表象の世界>の外へ、漸く、突破できるということだ。この厳密な現象学的還元によって展望し得る、より広い共有世界(E.フッサールの用語で言えば間主観性、相互主観性または共同主観性)こそが、我われ個々人のアイデンティティーが共和(協和)するための外洋(大海原)であるという自覚を我々はもつことができる。それがフッサール『超越論的現象学的還元』の意味の核心である。


【無前提性の原理とは何か?】


まず、同じく[ ↑◆榊原哲也著『フッサール現象学の生成−方法の成立と展開』‐東京大学出版会‐ ]から関連する部分を転載する。


・・・


・・・ここから転載はじまり・・・純粋記述(意識に現れているありさまを 、ありのままに捉えて記述する現象学の手法)としての現象学は、さらに「実に様々な理論的諸学の準備に役立ち」、「純粋論理学の土台」ともなる。というのも、純粋論理学を含む「論理学者」に関して言えば、彼は、「根本的な抽象」によって「自らのイデア的対象やイデア的連関の本質を明証的に把握」しようとするが、この「抽象」が「何らかの諸体験に基づく抽象」である以上、それら諸体験の「純粋記述」こそが、そうした「根本的抽象」の「基盤」をもなすと考えられるからである。


こうして記述的心理学たる「純粋現象学」は、経験的心理学のみならず、純粋論理学も含め、「さまざまな『学』(ロゴス)がその内に根を有する中立的研究の領域」として位置づけられるのである。


さらにもう一つの要諦がある。フッサールによれば、記述的心理学たる現象学は、「認識論的研究」が要求する「無前提性の原理」をも満たすとされる。「認識論」とは、彼によれば、「説明」を事とする諸理論に対して、「認識的思考作用(ここでの“認識”は感覚が介在する理解も含めた説明が連鎖する意識、と考えると分かり易い/補足、toxandoria)のイデア的本質ないしは意味についての一般的解明」を行うことによって、諸理論における認識一般を「解明」する「諸理論の理論」を目指すものである。


それゆえ、現象学は、権利上「あらゆる経験的諸理論に先立ち」、いかなる理論的前提もその内に含んでいてはならず(=無前提性)、体験の実的成素だけをそのままに正確に受け取る「十全的に充実化する直観」に立ち返ることを通じて「純粋な認識諸形式と諸法則を明晰判明にする」ものでなければならない。


つまり、まさに記述的心理学たる現象学こそは、すでに述べたように、「理論の単なる前段階」たる「純粋記述」として、―経験的発生的心理学のように心理的体験の実的成素を超えて心理物理的な理論化を行うことではなく―「与えられている思考体験や認識体験」の「実的成素」だけを純粋に記述することによって、志向作用や認識作用の本質的特徴を」明らかにしていく営みであるからである。


それゆえ、フッサールは「無前提性の原理」が、「現象学的に見て完全には実現され得ない、〔つまり、「体験の現象学的成素のうちに現実的に見出されない」〕ような一切の「原理的」仮定を排除すること」に他ならず、「あらゆる認識論的研究は、純粋に現象学的な根拠に基づいて遂行されなければならない」とも語っている。


記述的心理学たる現象学の純粋記述は、―理論としての経験的発生的心理学とは異なり―あらゆる理論的仮定を排除した、体験の実的成素(意識が殆ど介在しない、言葉と経験との只の繋がり/補足、toxandoria)の純粋記述として、無前提的なものであり、それゆえどのような認識論的(ロゴス的)研究も、この現象学の純粋記述に基づいてなされなければならないのである。 ・・・ここで転載おわり・・・


・・・


以上を言い換えるなら、フッサールが、諸学問の理論がその基盤を喪失しつつあるかに見えた19世紀末〜20世紀初頭の世界的リスク(戦争の危機と経済格差拡大、および学問の空疎化)の拡大トレンドに抗いつつ「無前提性の原理」を条件とする『現象学(超越論的現象学的還元)』 によって、「諸学問・諸科学の限界の突破を試みた」ということである。


しかも、グローバル市場原理の奔流(個人主義的な主観的合理性の暴走)に押し流されて殆ど<自己目的>化したかにさえ見えるAI・バイオテクノロジー等の先端技術研究が急加速することで、今や生命の培地であった筈の自然環境と人間文化(多元文化)そのものの意味が根底から問い直されつつある現代の状況が、フッサールの時代に酷似していることに驚かされる。


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また、「現象学」は、人類にとり悪夢の如きこの時代を大転換させ得る新たな希望の光にも見えてくるはずだ。それは、このフッサール『現象学』が、エトノス観念http://qq3q.biz/FpPQを前提とする新たな人類文化の時代、コンシリエンス(consilience/人文社会・科学両知の融和的統合の時代)http://qq3q.biz/FpPZhttp://qq3q.biz/FpPQ>の先取りとも思われるからだ。因みに、人類文化のエッセンスは、「形相(意味に包まれたイデア(エイドス))の意識(志向)化(客観的合理性)→共有(間主観性)化の継承」という点にあると考えられる。


例えば、近年の科学史研究では、コペルニクス的転回で近代精神の幕開けを飾った「近代天文学」創始期の師である「古代末期〜中世期のイスラム天文学(アラビア科学)」が政治・交易経済・農牧畜業など、当時の庶民層の日常的生活文化を支えた「占星術の世界観」の中で育まれたことが解明されている(http://ur0.work/Fuex)。それは、まさにコンシリエンス(客観的合理性)の世界であったことになる。


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<補足>ホルクハイマー「客観的合理性、主観的合理性」の峻別について


・・・M.ホルクハイマー(1895 – 1973/ドイツの哲学者・社会学者、フランクフルト学派の代表、アドルノとの共著『啓蒙の弁証法』で名高い)は、古代ギリシャから凡そ16世紀頃まで広く認識されていた客観的合理性(中世哲学が代表する観念/世界秩序に関わる冷静、謙虚、かつ統合的で直観的な原理)と主観的合理性(傲慢化し易い還元的・道具的理性)の区別が、近世以降は混同されるようになったと、警鐘を鳴らしている。


・・・<政治・経済の科学(主観的合理性)化の典型>ともいえる新自由主義(過剰化した市場原理主義、作為的アンシュタルトの一種)が、この「主観的合理性」の代表と考えられるが、今や、AI研究がその最先端に到達しつつあるため、流石にAI研究に携わる専門家自身の中から、<AIが体現しつつある主観的合理性の暴走に関わる大きな危機意識>が出始めている(参照/添付画像↑『AI自動制御兵器“Go and Forget!は究極の非人道!』)。


・・・いずれにせよ、このような意味での「現代の危機」が、フッサール「現象学」が誕生した19世紀末〜20世紀初頭「ファシズム胎動期」の「危機」に重なるのは自明といえるであろう。従って、フッサール「無前提性の原理」とホルクハイマー「客観的合理性」には深部で共鳴するものがあり、その先には矢張り<コンシリエンス(人文社会・科学両知の融和的統合)の時代>到来の必然性が感じられる。


2−3 フッサール現象学「射影のリアリズム」の再認識/「“意識(感情の政治学)”が浮かぶ海」の発見


2−3−1“フッサール「射影の直観経過」が意味するのは「“意識”が浮かぶ海の発見」ということ


・・・それは客観性(間主観性)の担保である記録(プラトン的イデア、つまり真理を包む形相の保全)の破壊と“もてあそび”が瞬時にしてファシズムへの暗転を呼ぶ、ということ・・・http://ur0.link/FyO6


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・・・トランプ、安倍晋三らに決定的に欠ける「現象学的還元」的な意識!/無論、現象学的還元なる重要な視座の発見はフッサールの功績であるが、この難解な専門用語による説明を待つまでもなく、実は、この種の意識(例えば、間主観性の共有の拡がりが『人間社会』の成立の前提であるということ)がヒトの文明進化(厳密には深化!)にとって重要なのは、常識人なら既に十分理解してきた筈だ。しかし、新自由主義アンシュタルト(その特異な“主観的合理主義なる感情”の暴走を良しとする空気)が社会常識の絶妙な均衡を破り、悪しき方向へ反転させた。・・・


<補足>「間主観性」前史と「ネオ・フィードバックシステム(基礎情報学)」の関わり


(1)[西欧中世「決疑論」から近代啓蒙主義(“間主観性”観念の歴史的な形成プロセス)への流れ]

・・・西欧中世カトリック教会の「決疑論」(カトリック告解の指針、思考方法が中世スコラ哲学を経て精緻化し、それは近代(16〜17世紀)になると個人の道徳判断の指針・説明へと発達した)と、近代啓蒙主義における「間主観性」観念の発達&共有化(政教分離原則、議会制民主主義、現代憲法、現代司法・裁判制度、又は近代以降のジャーナリズム成立などに繋がる)についての理解が重要! http://ur0.biz/FmDF 


(2)[間主観性とネオ・フィードバックシステム(基礎情報学)の共鳴]

・・・(1)の視点の敷衍・拡張が「基礎情報学」で言うネオ・フィードバックシステム(マシン内部のフィードバック処理回路を越えた人間社会、人間の歴史、自然・生命環境全体、すなわち内外の全エトノス環境と相互交流する意味での新しいフィードバックシステム)の概念!Cf. ☞ 基礎情報学/ネオ・サイバネティクスの研究、論考発表サイト:西垣 通・研究室/山梨英和大学 専任講師・大井奈美http://ur2.link/Fqtt


・・・


「間主観性」なる言葉はフッサールが初めて使用したとされるが、それには見過ごせない前史がある。各人が持つ狭隘な意識(ある一定の志向性、つまり感情を持つ個々の内心)とは別に、それを超えて「紛れなく客観的な時間と空間が存在しており、人々の間にはそれと同等の意味合いを持つ意識空間が広範に共有されつつ拡がっている」という観念を、特に近世以降の近代・現代人が(それを明確にするにはホルクハイマーの二つの理性(合理性)に関わる逆説的な理解も必要となるが/委細、後述)持つようになったことには、この「決疑論」の深化過程での「主観的合理性/委細、後述」(≒自由意思)の発見が貢献したといえる。 


エピローグで少し詳しく書くつもりだが、その意味でも、「リベラル共和主義国(国民主権国家)」と「ファシズム国家」の差異は紙一重であり、恰もそれは既述の<量子コンピューターの原理でもある「量子力学ダイナミズム」、あるいは「ラカン鏡像の逆説」(鏡像→自我形成、のプロセスの失敗で、“無限後退”なるアイデンティティ・パラドクスの罠に嵌る)>の微妙な均衡の作用と酷似している。


そして、この紙一重の差異(せめぎ合いの場)を制しつつ辛うじて「リベラル国民主権社会」を実現させるカギを握るのが意識の海に浮かぶ「感情の政治学」の問題であると思われる。つまり、ヒトの意識(ノエシス)は「感情の海に浮かぶ小島の如きもの」ではないか?ということだ。一般に、超越論的現象学的還元で純粋経験なる原印象「空間」を発見したフッサールは感情の問題を無視していると「誤解」されてきた。


しかし、近年、AI・脳研究の進化とM.アンリの現象学(情感・情念と記憶の関連性を探求http://ur0.link/FzNM)についての理解の深化(委細、当記事Ser.2で詳述の予定)で、フッサールが「イデーン1」(後述)で論じたノエマ(意識の対象的側面)が、実は情感(情念、感情)の海に浮かぶ、何らかの協和的回路に取り込まれつつ非常に厳しく最小限度に選択された意味の塊であり、それが志向性(ベクトル)を帯びた意識をもたらすのでは?と理解されるようになってきた。これは、まさに<AI・脳研究と現象学の共鳴による感情の海>の発見である。


言いかえれば、いまAI・脳研究のフィールドでは「意識(現象学で言う志向性ベクトル)の発生と感情の深い繋がり」が、新たな先端サイエンス知として理解されつつあるのだ。それは、根本的にAIと異なる「“環境・文章フレーム”の積極的読解力」(自らの生命維持条件である内外環境への高度な感受性を持続させ得る能力、いわば意志と感情が混然一体化した生命意識とでも言うべき情念の大海原)こそが、AIならぬ人間の「節度ある自由意思」のバックボーンだと考えられるということである(Cf.⇒http://ur0.work/FulY)。


2−3−2 射影(見かけのイメージ)に大きく影響される無辜の多数派国民層を主体とする此の程度の支持率Up(改造後の安倍内閣)は想定内と見るべき!


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ところで、我が国では20170803に内閣改造が行われたが、安倍政権の<お友達らが好む「異常なカルト物語りの世界」へ日本国民を強引に連れ込み、そこで激しく日本国民を凌辱しようとする悪辣な意図、そしてそのための悪質な隠蔽工作は些かも変わっていない。それどころか、以前にも増して、その「総国民“連れ込み作戦”」に関わる彼らお仲間の意志を貫徹するための薄汚い戦術は、より悪辣化し、より卑怯化しつつある(参照/添付画像)。

Cf. ☞ 『<永遠のゼロ(バカ?ハゲーッ?)式、ヤラセ視聴者の会>の一面広告(御用広報紙/読売・産経)!← この広報費用の出所は官邸機密費?』http://ur2.link/FqxY 


しかし、安倍政権の<見かけだけで善良な国民を徹底的に騙しぬこうとする、一見、小利口で策略的に見える「日本会議」流?の“カルト式洗脳戦術”なる軽薄な演出の化けの皮はすぐにハゲ落ちることになるだろう。それは、フッサールが著書『イデーン』(参照/下記◆)で指摘した「射影のリアリズム(直観経過)」に関わる<知覚・意識/ヒトとしての思慮分別をもって外界の事物や身体内部の状態を統合的に理解する働き>に関わる理解が彼らの著しく狭窄化した視野からスッポリ抜け落ちているからだ。


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◆イデーンI‐1純粋現象学への全般的序論(Erstes Buch, Allegemeine Einfuhrung in die reine Phanomenologie 1913)エトムント・フッサール 訳:渡辺二郎(みすず書房)1979 http://ur2.link/Fqyn

・・・前半、省略・・・しかし現象学的還元と本質直観についてどのような態度を採るにせよ、当の方法論自体について、まず世の人々は良く熟知しなければならないであろう。そして、その二方法の射程について、まず何よりもフッサール自身が最初に綿密に考究した最も基本的な論述が、この『イデーンI』の前半部分にほかならないのである。」(訳者あとがき


さて、フッサールが著書『イデーン』で使った「射影」は「現出」(瞬時的・微分的な感覚・体験の流れ/本質直観とも同意)と同義である。そして、「様々な現出(諸現出)」は「現出者」(真の実在、真理/ここでは、そこに実在する長方形の机)に向かって突破する(意識的に突き進む)ことになる。なお、フッサールは現出を記号とも呼ぶ。例えば、そこにある長方形の机がある視点(見る人の意識、ノエシス)から平行四辺形に見える場合、その平行四辺形がコレ(射影、本質直観)に相当する。


が、ここで留意すべきは<この時、諸現出である平行四辺形の形は異なる視点の数だけ現出1、現出2、現出3・・・、現出nという具合で、そこにある視点の数に対応して無数に存在することだ(同一の視点が場所を移動するケースでも、現出1、現出2、現出3・・・、現出nは時間の流れに沿った現出(射影、本質直観)の変化になる)。


そして、フッサールはこの無数の現出が一つの基体(ここでは意識の核の意味)に収斂し全体的意味が凝縮した塊(おそらく、複数のデッドロック・ペア/Cf. 2−2『「意識が生まれる瞬間」に関わる重要な推論/西川アサキ』)をノエマ(意識の対象的側面:これが、人間の意識の主軸たる“感情と表裏一体の自由意思”の源泉では?と思われる/補足、toxandoria http://urx.mobi/FA0F, )と呼んでいる。


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<補足>ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―の「盲点RAS」の発生と、フッサール「ノエマ」の関連性

・・・同書によれば、生体内部では「ヒューリスティック(限定的http://qq2q.biz/DoHD )な統合合理性」の実現(目的に応ずるベスト知覚機能の確保/例えば、目的対象物を確実に見る視覚)のため、敢えて「RAS」を発生させ個々の生体の「生命の安全も確保」している。つまり、人間の意識の核であるノエマも同じことで、おそらくその意識化と共に99%以上の情報(夥しい数の射影)は常に捨てられている。だからこそ、生命の安全と文化深化のためにも間主観性(最大公約or最小公倍的射影)を同定・保持する記録・ドキュメント、およびコミュニケーションの役割が重要になる。

・・・ Cf. ☞ 安倍内閣は隠蔽&“記録・記憶抹殺”オンパレード!その異常さはカルト「幻想政治」劇場のおつもり? http://ur2.link/FqOP


2−3−3 ヒトは「同じと思しき光景」(多様な射影の集り)を見ても、各人は異なる現出(それを実在、真理だと思い込む夫々の射影)を見ている


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・・・その多様な射影の集りの最大公約(or公倍)の表象が客観性(≒間主観性/集合意思的に統合された真理)である。従って、政治・行政の現場では特に記録(ドキュメント/アリストテレスのイデア、つまり真理を包む諸形相(エイドス)の同定)の共有と保全管理が重要になる!・・・


フッサール現象学で、現出と現出者に加えて重要なのは「現出」に関わる「把持→原印象→予持」という直観(瞬間)的な時間の流れに沿う「直観経過の概念」(or視点移動の概念/無論、長時間、一点に止まれば内外環境の変化で移動と同様の直観経過となり得る)であり、それらは「把持=すでに経過した過去の現出の保持、予持=これから到来する現出の予期、原印象=両者の中間で今の現出の受容」と定義される。


また、ドキュメント(何らかのエクリチュール記録)の役割は、刻々と変化しつつ消え去る「直観経過のプロセス」の或る一定幅の流れ全体を保全し、その社会全体の共有「記憶」(歴史素材)として繋ぎ止めることであり、このプロセスは、常識的には意外と思われるかも知れないが、凡ゆる芸術の創造・創作活動の現場でも観察されることだ。


特に音楽の場合の「直観経過の概念」が理解し易い。ドレミファソラシドの音が続き、例えばレ音の原印象(現出n)で意識が止まった瞬間では、過ぎ去ったばかりの過去のド音の把持(現出n-1)と共に、すでにその瞬間に我々は未来のミ音を予持(現出n+1)しているのである。こうして、我々が音楽を聴く時には、各音の諸現出をバラバラに聴いているのではなく、常に、個性的な演奏者が演奏する一纏まりの優れた演奏作品を全体的な音楽の流れ(それが、現象学で言うリアルの<現出者=その一回性の芸術価値>である!)として聴いて(知覚し、鑑賞して)いるのである(無論、音楽では、楽譜作品と演奏作品の二重構造となっている)。


<参考/チェリビダッケの音楽の現象学>


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チェリビダッケの音楽観を示す、唯一の講演録。セルジュ・チェリビダッケ『音楽の現象学』石原良哉 訳2017 (アルファベータブックス)・・・ベルリン・フィル首席指揮者、シュトゥットガルト放送交響楽団首席指揮者などを歴任、多くの伝説的名演を残したチェリビダッケが、1985年にミュンヘン大学で満員の聴衆を集め行なった歴史に残る講演録。音楽の現象学とはなにか。黒板とピアノを使い、名指揮者が熱く語った内容を忠実に本に再現。2度の重版の後、長らく品切れになっていたが、この度チェリビダッケの全ての来日に立会った訳者の石原良也氏による来日時の記録や素顔のマエストロを描いた貴重な交流録を加え増補新版として出版。コンサート記録付。


・・・


ともかくも、このような「把持→原印象→予持」のプロセスの流れを繋ぐのが意志的な意識(瞬時的・微分的な志向・意識体験)の働きである。


ここで特に留意すべきは、この「志向体験(瞬間的・微分的意識)を含めた直観経過である現出の場面」が極めて短く殆どが瞬時的な出来事であることから、我々が、その短いプロセス(見かけである射影・現出の連続)を突破して「現出者」へ至る(その真の実在、つまりそこにある真理を評価し正当に知覚し得るレベルへ到達する)暇は殆どなく、その時々の「見かけの射影」に影響され易くなる(一種の催眠or洗脳効果)ということだ。


だからこそ、この「直観経過の現出的な瞬間、つまり我われが見かけに嵌り騙され易い場面」は幻影師、手品師、悪徳権力、あるいは現下の安倍政権、日本会議らの如き悪辣なカルト政治勢力、全体主義ファッショ一派らの格好の舞台装置となり、あるいは重宝な小道具となるのである。


(エピローグ)「新自由主義アンシュタルト」への傾斜が、“リベラルVs共和”が鬩ぎ合う両義的「射影」の場面、つまり首の皮一枚の抑制を破り瞬時に「ファシズム」へ暗転させる


・・・【再び、何れか?の選択を迫られる日本】(1)感情ファクター重視の関係性の政治(生命の安全保障)で新自由主義の政治を置換することが可能であり、それが急務だ!(吉田 徹『感情の政治学』—講談社−)/(2)『社会(間主観性の空間/客観的合理主義)など存在しない、存在するのは個人(再帰的近代化で解放された主観的合理主義の個人)だけだ』マーガレット・サッチャー・・・


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◆内部はニーチェ『悲劇の誕生』を巡る如き暗闘の様子だが、上層部の対・安倍政権<忖度>が元凶!全面的に国民を信用し、NHKは<自らの内部暗闘>に関わる一切を外部化し「国民の議論」へ一任すべき!

・・・Cf. ☞ 【QT】青年期の(≒時代を問わず、リベラル共和主義を求める)理想は、その一切が常に懐疑に付されることで再び鍛えあげられ、普遍的なものへと編み変えられる。このことを<ニーチェの思想>は教えてくれる。http://ur0.biz/FmEM /但し、普遍的な人間社会の反映でもある<ニーチェの思想>はファシズムとリベラル共和の両義性(古代ギリシャのドラマツルギ―)で彩られている。その普遍を求めるためのカギはカール・シュミット、ハイデガー、ハンナ・アレントらにある。(補足/toxandoria) http://urx.red/Fsl4


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◆【トランプ現象で動揺する米国政治は「マクロン大統領の仏と全く異質な“リベラルVs共和主義”闘争の修羅と化した!/米国「憲法修正第1条」正当解釈の変更→米・極右の変質(白人至上主義へ)、は世界にとって超リスク!】http://urx.red/Fsla

・・・Cf. ☞ 5月に就任した仏マクロンの支持率が10ポイントDnし54%になった(7.23公表/816では36%!)。が、「共和主義」否定(コミュニティ破壊)に走るトランプのDn(35%、8.30)と、共和主義の再構築を図る仏マクロンのそれでは理由(ベクトル)が全く異なる!マクロンは、これからが正念場か?http://urx3.nu/EUyH 、http://urx.red/Fsol


裁量的・ケインズ的な総需要管理政策を批判したミルトン・フリードマンがケインジアンから転向して新自由主義(小さい政府)の経済理論でノーベル経済学賞を受賞した(1976)のに続き、10年後にはジェームズ・ブキャナンが「公共選択論」(社会は自己利益の最大化を志向する利己的人間から成るという前提で政治・社会をミクロ経済で体系化したフリードマンの新自由主義を補完する理論)の基礎を作り同じくノーベル経済学賞を受賞した。


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ギャンブル・アンドリュー『自由経済と強い国家/サッチャリズムの政治学』(1990、みすず書房)によると、その新自由主義思想のエッセンスは『市場原理主義、サプライサイド重視、小さな政府(公共部門の縮小と民営化)、労働市場の柔軟化(人件費の経費化/労働力の商品化)、権威主義(強権)的・国家中心主義的な政権運営』ということになる。


ところで、吉田 徹『感情の政治学』(講談社)によると、米国の政治学者アンソニー・ダウンズ(政治学の数理分析の基盤を作った/http://urx.blue/FsUE)が仮説「合理的投票者のパラドクス」を発表(1962)しており、これによれば、理論上でも経験上でも、自分が投票した1票(差)でその有権者が望む政策が決定したケースは殆どゼロに近いので、バカな人間ほど真面目に投票に行く?ことになる。つまり、「ヒトはなぜ投票するのか?の実像」は未だに謎のままだ。


また、同書によれば、直接民主制の理念を重んずるスイスが1970年代から郵便による投票の併用を始め、続いてインターネット投票も採用して投票率の向上を図ってきた。しかし、これで投票率が上がるという効果は得られておらず、今まで高投票率を誇ってきた地域や過疎地域、あるいはローカルになればなるほど、逆に、それらでは投票率が下がってしまった。


その理由として、小さなコミュニティになればなるほど、むしろ投票所に足を運ぶ有権者が「投票した自らの行為そのもの」に高い満足感と誇りを感じていることによるのではないか?という分析がある。投票行為には合理性よりも「何らかの、様々な社会的関係性に因る感情・情念的な要因」が大きく影響を与えていることが窺われるのだ。ここから、一般に投票率が低い傾向にある大都会でも、何らかの正当な方法で人間関係の活性化を図る工夫で投票率の高まる可能性がある、ともいえる。


ところが、ここで「仮に新自由主義の主観的合理性の人間観が“ほぼ”100%近くまで普及した(広く、社会一般で受け入れられた)」と仮定すると、恐るべき事態になることが予想される。それは、その途端に、あのアンソニー・ダウンズの「合理的投票者のパラドクス」の仮設が、仮説であることを止めて、リアルなものとなるからだ。


f:id:toxandoria:20170901034610j:image:w350:leftバカな国民はせっせと真面目に投票所へ足を運び、利口で合理的な国民は中央集権(強権or時により軍事国家主義)的な小さい中央政府(福祉・厚生・公正を切り捨てる)」の言いなりが得策だ!と判断する。そこで出現するのが利己的自由の徹底である筈なのに、その自由を謳歌する国が一気に肝心の「自由原理」を捨て去り、「ファシズム軍事国家」へ暗転するという地獄の如き光景である。が、これは決してお伽噺ではなく、我われはその地獄への道を着実に進みつつあるのだ。f:id:toxandoria:20170901034611p:image:w380:leftf:id:toxandoria:20170901034612p:image:w300:right


つまり、新自由主義の根幹にあるのは「ひたすら強権的(軍事・外交・安全保障・国民統制的な意味で)な小さい中央政府が、貪欲で利己(主観合理主義)的な個人が求める選好のチャンスを与える政治に取り組みさえすれば、あとは福祉も医療も教育も殆ど無視して徹底的にその利己的個人と企業活動の自由に任せておけば皆が幸せになれる」という異常な社会観であり、そこには人間の主意的な意識を支える最も肝心な「感情(情感・情念)のファクター」が関与する余地が殆ど存在しない。


因みに、マルクス主義がその典型であるが、政治学の伝統には社会構造決定論という考え方(上部の社会構造が社会における下位構造に属する人間のあり方を決めるという理解)があるが、新自由主義もそれと同じく社会構造決定論(1%派のための合理、非合理の二分法で社会構造を仕訳するアンシュタルト)だと見なすことができるので、これに異を唱えたのが社会学者P. ブルデューである。


P. ブルデューが新自由主義を批判する論点は、<社会における人間のあり方は一つの選択(いわば感情の海に漂う一つの意識的な選択)に過ぎず、その他の殆どの選択肢は捨てられているので、絶えず歴史の中から別の可能性をも拾い上げて再検証するという柔軟な視野を取り入れることが肝要で、例えばミクロ経済的「選好」も、それは人間社会のハビトウスだ(習慣=関係性のダイナミズム/人間の無限の可能性の中の一つに過ぎない)と捉えるべきである>ということだ。


また、「国家(中央政府)が、専ら主観合理的(利己的)な個人に対して、彼らが求める選好のチャンスを与え続ける」ということは、あのカール・シュミット、ハイデガー、ハンナ・アレントらが重視した「ノモスの観念」と真逆のものであることに気づかされる。


「法」としてのノモスは古代ギリシア都市国家(古代民主共和政)の社会概念であるが、より古い時代には「神々と父祖伝来の伝統(現代風に言えばエトノス、自然・伝統文化環境)が定めた行動規範」としての「法」、あるいは同じく、そこに住む住民が平等に与えられる「ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前」を意味していた。


従って、ノモス法は現代的な理解である文章で表現された抽象的な「法」の内容だけではなく、一定地域の自然環境、土地、建物、市街地、橋、道路など目に見えるモノとしての公共財(インフラ)と離れ難い存在であった。現代風に言えば、それはエトノス自然環境とも離れ難い存在であり、フーコーの“統治理性”(リベラル共和のための、地球上の全ての生命環境が明確に視野に入った統治理性)を理解するための必須概念となる(ノモス論の委細はコチラ ⇒ http://urx.blue/FsXs )。


ともかくも、フッサールの現象論から始めた「新自由主義」批判の旅は、漸く、「感情の政治学」の入り口に辿り着いたようだ。更なる旅は第二部(2/2)へ譲り、そこではアンリ・ミシェルの、いわば「感情の現象論」を取りあげてみたいと思っている。(完)