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2017-09-01 愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須

toxandoria2017-09-01

愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)大前提とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』


(プロローグ画像) アルテミジア・ジェンティレスキ『悔悛するマグダラのマリア』1620-1620


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The Penitent Magdalene.c. 1617-1620. Oil on canvas. Palazzo Pitti, Florence. 146 x 109 cm 

 

・・・アルテミジア・ジェンティレスキ(1593 - 1652)は17世紀イタリアカラヴァッジオ派の画家で、当時としては珍しい女性の画家であった。彼女が被害者であるレイプ事件の訴訟の公文書が残ることからジェンダー研究の対象としても知られる。父が指導者と指名した画家アゴスティーノ・タッシhttp://u0u1.net/Fmj1から性的暴行を受け、裁判の身体検査などでも暴行の立証責任を理由に公的な屈辱を受けるなど悲惨な体験をした。その後の20年間は男性への嫌悪感と復讐心、激しいルサンチマンの情念を滾らせて歴史画、女傑像などを描いた。


・・・『悔悛するマグダラのマリア』は激しい心の痛みとそれでも幸せな女性として生きようとする強烈な意志(裁判のあとアルテミジアはフィレンツェの画家、ピエール・アントニオ・ディ・ヴィンツェンツォ・スティアテッシと結婚させられた)の間で引き裂かれ怒涛の如く揺れ動く彼女の内心の真理の現出者たる自画像であり、又それはカラヴァッジオ・バロック風のアンビバレントに身を焦がす迫力ある「理想美のイデアと残酷な実在」が薄皮一枚でせめぎ合う凄まじい“共和”のリアルである。


(当記事の目的)「感情の政治学」を悪用する作為へのアンチテーゼ

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・・・いま世界では過激セクトによる社会の分断化、例えば米国トランプ政権下の白人至上主義Vsアンチヘイト派の断絶、欧州各国の過激移民排斥の拡大、または日本におけるマイファースト極右勢力の拡大傾向が問題視されているが、ツイッター、FacebookなどSNS等のWeb利用拡大に伴う「エコーチェンバー(Echo Chamber)http://u0u0.net/FuUt」が更にその傾向を加速すると懸念されている。が、矢張り、これも見方を変えれば「感情の政治学」の問題である。 


・・・ところで、当記事(Ser.(1)(2))の狙いは、今まで殆ど見過ごされてきた<「政治(経済)」と「感情(情念)」の関係>を、両者の関わり合いと思しき切り口をほんの少しだけ掘り下げてその様子を冷静に観察することにある。そのプロセス民主主義の新たな地平と見なすべき「リベラル共和主義」の確かな手掛かりを探す試みでもある。


・・・また、最も純粋な意識の描写である現象学の視覚を援用しつつ内心とコミュニケ―ションの核心へと向かう「感情の政治学」の視座からは、アルカイダやISのテロとも通底するイスラムワッハーブ派の問題(憎悪と欲動の情念に因る急進革命の意志)http://u0u1.net/FlG2やイラン・シリアを巡る混迷、あるいは今や異様に燃え盛る北朝鮮ミサイル問題の如き「国際政治犯罪」への減感作効果の模索という側面で些かなりとも何かヒントが得られるのではないか?とも思われる。


1「新自由主義」暴走の舞台、グローバル市場経済で「個の不安感情」と「ポピュリズム」が激化する背景


1−1近代以降の政治学が無視してきた、超越的なるものと共鳴する情念(感情)の問題


(映画『ハンナ・アレント』の問題意識−1/『悪の凡庸さ』とは何か?)


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映画『ハンナ・アーレント』(http://ur0.biz/FmDH )は、第2次世界大戦中にナチス収容所から逃れ米国に亡命した思想家であり政治哲学者でもあったハンナ・ア(-)レント(ドイツ在住ユダヤ人)の不屈の戦いの核心部分を描いた作品である。


映画解説http://urx.nu/5PNI より転載。

・・・ナチスによる迫害を逃れ米国へ亡命したユダヤ人の女性哲学者ハンナ・アレントを描いた歴史ドラマ。1960年代初頭、アレントは元ナチス高官アドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴記事を執筆・発表するが、それは大論争を巻き起こし、アレントも激しいバッシングを受ける。その顛末を通して「絶対悪とは何か。考える力とは何か」を問うとともにアレントの強い信念を描きだしている。


◆映画レポート『欧米におけるユダヤ人問題の底知れない根深さを提示(高崎俊夫:映画.com』より部分転載/全文はコチラ☞ http://urx.nu/5PO4 

・・・ドイツ系の亡命ユダヤ人哲学者ハンナ・アレントの「悪の陳腐(凡庸)さ」という言葉は、1960年代初頭にナチス戦犯アイヒマンの裁判を傍聴した彼女が「ザ・ニューヨーカー」誌に発表した長篇レポートで知られることになった。彼女は<アイヒマンは冷酷非情な怪物ではなく、上官の命令を唯々諾々と遂行する『凡庸な能吏』の如き存在にすぎない>と喝破した。そして、その<自ら思考する能力の欠如(←コレは現在の我われ日本国民一般の“無関心”と官僚の権力への追従の問題に通じる!←toxandoria、補足)>こそが、未曽有のホロコースト引き起こしたとする論旨は、この映画の中で引用されるアイヒマンの世俗的で虚ろな表情(実際の裁判映像)を見るとリアルに納得させられる。


・・・


既婚であったマールブルク大学の恩師マルティン・ハイデガーと恋愛(不倫)関係のあと、アレントはフライブルク大学のフッサールの下で一学期を過ごし、更にハイデルベルク大学へ移り、そこではヤスパースの指導も受けている。ハンナ・アレントは、自らが経験したナチズム(全体主義)の衝撃的体験から、『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”(ということが事実だ!)』という言葉を残している。


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2017年8月13日夜に放送された旧日本軍「731部隊」に関するドキュメンタリーNHKスペシャル/731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜 http://urx.mobi/FjZq』が、いま中国でも反響を呼んでいる、と日経が報じた(↓*)。肝要なのは、これを機会に我われ日本国民も、アレントの言葉「悪の陳腐(凡庸)さ」(どの人間にも上司の命令を黙々と遂行する凡庸な能吏の如く、現状に安住する傾向が見られるというリアリズム)を再確認することであろう。


* NHKの「731部隊」番組、中国で反響呼ぶ 815日経http://urx.mobi/FjZI

・・・【北京=永井央紀】NHKが13日夜に放送した旧日本軍「731部隊」のドキュメンタリー番組が、中国で反響を呼んでいる。中国国営中央テレビは15日昼のニュースで「細菌兵器や人体実験に関する兵士の証言テープを公開し、残忍な犯罪行為を異例にも認めた」と紹介。中国外務省の華春瑩副報道局長は記者会見で「真相を明らかにする日本の知識人の勇気を称賛する」と語った。


・・・


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日本の政治状況も、米国のトランプ現象(デジタル焚書型の“悪の凡庸さ”の出現!?)でも同じことだが、今や世界中が「反知性主義」の典型とも言えるポピュリズム(大衆扇動型政治)による深刻な「社会の分断化」に飲み込まれつつあるかに見える。


<参考> デジタル焚書 

・・・反知性主義を批判するときに必須の問題意識。例えば長文の新聞記事、本、雑誌記事、論文、講演など一定の長い文脈で表現される<人間の統合意識>よりも、<ネット上のツイート、レス等の断片>の方が真っ当な「真理」であると、権威的にor 作為で人々を誤解させる悪質な行為。これはAI(人工知能)が創出する(正確には、と期待されている?)人工意識の問題(人間の意識とAI(人工意識)との差異は何か?あるいは、シンギュラリティなる錯誤の概念について考え、正しく批判すること)にも関わる重要なテーマ。Cf. ⇒ http://urx.mobi/FknG


・・・


しかし、だからこそアレント「悪の陳腐さ(凡庸さ)」が、必ずしも文字通りに「知性が劣る人々、“知能が低いのでバカだ”と見なされる側の人々」のことだけを指すものではない、という歴史と現実に気付くべきなのだ。それどころか、知能・学識・見識ともに優れた人々が、いとも容易く「悪の陳腐さ(凡庸さ)」に嵌り、積極的に又は唯々諾々とファシズム(全体主義)に協力した悪しき事例の枚挙には暇がなく、それは今の安倍政権下の日本でも進行中のことだ。


例えば、旧日本軍「731部隊」の“細菌兵器を開発した科学者たち”のあの真に忌むべき問題であり、あるいはハイデガーカール・シュミット(ドイツの思想家、法学者、政治学者、哲学者)ら超一流の知能と見識をもつ知識人・インテリ層の人々のファシズムへの協力(ナチス入党)の問題である。無論、カール・ヤスパース(1883-1969/哲学者・精神科医)のように頑としてナチスへの協力を拒み続けた事例もある。


そして、これらファシズムへ協力した第一級の知識人らの専門分野は自然科学・科学技術、人文・社会科学という具合で、それは凡ゆるアカデミズム(ロゴス)分野に拡がっている。


因みに、ヤスパース(ハイデルベルク学派http://ur0.pw/FxXFの中心人物/哲学者・精神科医)には、妻がユダヤ人である故のナチスに対する抵抗姿勢の貫徹で大学を追われ、妻の強制収容所送りの圧力では自宅に2人で立て籠もり通したエピソードがある。結局、ヤスパース夫妻は自殺する以外に打つ手がなくなるまで追い詰められたが、強制収容所への移送予定日も残すところ数十日のところで、辛うじて連合軍のハイデルベルク占領となり移送を免れた


このようなエピソードを持つヤスパースは「ドイツ国民一人ひとりが、それぞれ自分が負うべき罪について身の丈に合わせ主体的に考えるべきだ」という前提を明確化する偉大な功績を遺した。ヤスパースはナチス・ドイツの侵略戦争やホロコーストなどの「罪」を四つの次元、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上学的な罪に分けたが、これで漸く「政治的・法律的な責任」(前二つ)と「内面的な責任」(後二つ)を峻別して考えることが可能となった(出典:仲正昌樹著『日本とドイツ、二つの戦後思想』—光文社新書−)。


これで、一人ひとりのドイツ人が自分の能力に見合う自覚の程度に応じて「人道に対する罪」を具体的に理解することが可能となり、自分はそれに対する反省の行動を是非とも実践すべきだという人道に関わる意志を一般のドイツ国民が共有できるようになった。


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このように見ると、戦後ドイツ人の人道に関わる責任意識が日本と比較にならぬほど高いレベルに達していたことが分かる。このことは<ドイツと日本の政治家の品格の違いの第一原因>ともなって長く尾を引くことになり今に至っている。但し、現在、そのドイツでも「極右Afd、議席獲得?」の問題が急浮上している(Cf./添付画像)


ところで、ハイデガーやカール・シュミットの如く、今でも世界で第一級の知能を備えた知識人と見なされる学者らがなぜ易々とナチスに入党し、そのファシズム政治の協力者たる『悪の凡庸さ』(既に見たとおり、これはアレントの命名であり、彼らがナチス権力の命令を黙々と遂行して独裁的な政治権力の言いなりになる“凡庸な能吏”のごとき存在に徹したことを意味する)に甘んじたのか?については、依然として、今も深い謎となっている。


この問題への答えの一つには、「ハイデガーのナチ関与が彼の哲学思想、特に『存在と時間』(Sein und Zeit/1927年初版/解釈学的現象学の核心を論じた)と深く内的に関係していることが判明した!/ヴィクトル・ファリス著、山本 尤訳『ハイデガ−とナチズム』(原著1987,名古屋大学出版会1990)のような、一見、これは尤もだと思わせてくれる解釈がある。しかし、これはハイデガーの業績全体、特に解釈学的現象論を全否定しかねぬこととなり、かなり無理があるようだ。


なお、ハイデガーの解釈学的現象論とは<フッサールが 「現象学の枢軸」である 「志向性の問題」として「純粋意識」を取り出したことに対し(委細、後述)、ハイデガーが「その意識そのものへの問いは立てられているのか?」と訊ねたことで始まった議論である。


そして、ハイデガーは「フッサールの純粋意識への問いは立てられておらず、 それは恰もアプリオリな対象事物の如く見なされており、結局、意識そのものの解釈がなおざりにされている」と見ており、「そもそも存在に時間が加わることでこそ生の実存が現れるのであり、純粋意識とは生のそのような時間の解釈を加えた覚知(気づき)であるべきだ」と主張した(出典:ハイデガーのフッサール批判/加藤恵介・神戸山手大学紀要第14号 (201212)http://urx.mobi/FkNm)。


(映画『ハンナ・アレント』の問題意識−2/再認識すべきアレントの言葉『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”』)


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昨今の「グローバル経済」時代における新自由主義の暴走をすら予見できる水準まで、非常に鋭くかつ的確に「資本主義の本質的欠陥」を抉り(水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済‐集英社新書‐』P252〜、他)、その解決策の処方箋たる「リベラル共和主義」の可能性にまで触れていたカール・シュミット(1888‐1985/一時、ナチスに協力した思想家・法哲学者)の仕事(稲葉振一郎『政治の理論』‐中公叢書‐、Cf. http://urx.mobi/FkDk)を全否定することも困難なことである。


つまり、シュミットは、第一次大戦後のワイマール政権における議会制民主主義自由主義の限界と脆弱性を鋭く、忌憚なく批判したため、結果的にナチス政権樹立に有利な(別に言えば、人間世界のギリシャ悲劇的な“両義性のリアリズム”を見抜いた実に厳しい)法理論を展開したことになり、今でも両義的で苛烈な評価が付き纏う天才的なドイツの法学・政治哲学者である。


いわば、シュミットは超人的でエソテリック(esoteric/深遠)な視点で“人間存在の根源を見据えつつ“性悪・性善の双方がせめぎ合う両義性のリアリズムを重視する観点”から、政治権力の源泉が“超越的でエトノスとも共鳴する情念の海に浮かぶ暴力的なもの”(古代共和制ローマの象徴であるファスケスで統制されたむき出しの斧or刃に相当する/関連参照 ⇒ http://urx.nu/4szD )であることを見据えていた。


因みに、このシュミットの“敵=友理論”http://urx.blue/FtgLを、安倍晋三らが好む<お仲間(クローニー)orおともだち政治>と同一視するのは浅薄な誤解である!w ともかくも、そのシュミットの冷徹なリアリズムの眼は、混迷の只中に巻き込まれつつある現代であればこそ通用する<法哲学・政治哲学上の卓見>と理解するべきものであろう。


また、ハイデガーにせよ、シュミットにせよ彼らが前提していたのは、おそらく<人間社会を統べる政治は、そもそも恐怖、恐れ、歓びなどの感情で最深部が支えられており、それはリベラル民主制でも、君主制でも、ファシズムでも変わらない。だからこそ、たとえ現代民主制であっても、国民の感情を介しつつ超越的で神的なエネルギーと繋がる回路を潜伏させている>という信念であったと考えられる(関連参照⇒デュルケーム『宗教生活の原初形態』http://ur2.link/FqO4)。


無論、これが現代民主主義(立憲君主制)の「政教分離の原則」の否定に直結するものではなく、むしろ、議会制民主主義を採る多くの国々では、これは全く逆説的な理解(つまり、だからこそ自然も含めた超越的なものへの恐れを前提としてこそ生ずる倫理観の上に構築された間主観性で繋がるリアル人間社会が重要になる!)となる訳だ。従って、そうであればこそ我々は民主<憲法>の上で厳格な「政教分離の原則」を謳っていることになる。


ところで、我々が想起すべき問題は、一時期、ハイデガーと恋愛(不倫)関係にあったハンナ・アレントが、自らが経験したナチズム(全体主義)に関わる衝撃的体験から、『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”(ということが事実だ!)』という言葉を残していることだ。


言い換えれば、これは(純粋かつ理詰めで物事を考える潔癖な方々には、おそらく承服しかねることかも知れぬが)『アドルフ・ヒトラー、安倍晋三らのファッショ的な独裁者、あるいは日本会議などの極右グループに所属するか、それに何らかのシンパシーを感じる人々と、我われその他一般の日本人との間には、人間としての本質において、それほど大きな違い(差異)はない!』ということである。


更に言えば、その両者は殆ど同じ成分を共有しているのであり、そこに差異があるとしても、物理量的な比喩で言えば、それは高々で薄皮一枚、というところであるだろう。


しかしながら、その比喩的な意味での「高々で薄皮一枚の差異」とは何か?実はコレに気付き、コレを自覚できるか否かが人類社会の、特に日本国民の近未来を決定づけることになる可能性が高い(関連参照↓◆)。


◆【ホモ・サピエンスだけが、少なくとも今まで自然生態系の頂点に立ちつつ文明・文化を繋ぐことができた理由】


・・・ライプニッツのモナド論を取り込んだAIシミレーション(西川アサキ『魂と体、脳』‐講談社選書メチエ‐』)では、仮想エージェント(最小単位の論理回路)が多数派に対して例えば相転移の如く「同調する振る舞い」が観察されるが、より驚くべきことに同じことが自然界の原子・分子レベルでも起こっている。


・・・が、ヒトの意識を司る脳機能の観察では、例えば脳科学者・金井良太(意識の研究で国際的に活躍する認知神経科学・脳科学者、アラヤ・ブレイン・イメージングCEO)の『政治的信条に関わる脳構造』(著書『脳に刻まれたモラルの起源』—岩波書店−)の脳の情動部位に関する観察によれば、タカ派(極右・超保守派)は恐怖心や臆病な性質との相関が高く、逆にハト派(リベラル)は太っ腹や鷹揚な性質との相関が高いことが観察されており、薄皮一枚の後者のリードがヒトの社会を辛うじて持続させてきたと考えられるようだ。


・・・つまり、自然現象ではベクトルの流れに任せ放置すると、人間社会の虐殺(全滅)へ至るプロセスとソックリのこと、例えば「相転移」の如き物理的変化が起こる。しかし、個々人が「自由意思」(コレが薄皮一枚の差異の中身!/政治学に置き換えれば、コレが『リベラル共和主義』の意味、http://u0u1.net/FlkF)を持つ人間社会では、どんな環境下でも最後の瞬間まで誰も奪うことができない精神の自由(実存選択の意思=未来への希望)が残されている(フランクル『夜と霧』‐みすず書房‐、大岡昇平『野火』‐新潮文庫‐/ここでの“野火”は他者の存在のシンボルと考えられる)。よって、人間は無機質な原子・分子の世界とは異なることを最認識すべき!ということになる。Cf. ☞ http://u0u1.net/FlkE 


1−2市民的自由主義の深層に潜む「ラカン鏡像の逆説」(無限後退するアイデンティティパラドクスの罠)


グローバル化に因る個々人の不安感情の湧出源は『ラカン鏡像』のアイデンティティ・パラドクス!)


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◆グローバル化に因る個々人の不安の感情は「ラカン鏡像」型のアイデンティティ・パラドクス!Cf.↓★1〜2 ☞『シュレーディンガーの猫を追って』 『原理 ハイゼンベルクの軌跡』813朝日http://u0u1.net/Flld /記事内容(書評)はコチラ ☞「ブック朝日コム」http://u0u1.net/Fll6 


★1「安倍的なもの」の存在こそ存立危機事態∵ 再帰的近代化↓(*)なるグローバリズムの余病(近代化はその目的・対象を吸収し尽くしてフロンティアを喪失したため、個人が自己を近代化していく段階に入ったとする、エトノス観念の対極にある一種の人間改造論!性悪説・主観的合理主義・自己責任論への傾斜で激烈な個人感情への内向化が必然となる!)を煽る手法へ没入!☞ グアムへの北ミサイルは存立危機事態ではない! 安倍首相が支持率回復のために日本国民を危険にさらそうとしている813リテラ5:01 - 2017年8月14日http://u0u1.net/Flle 

・・・(*)アンソニー・ギデンズの「再帰性/再帰的近代化」の概念について/萩原優騎 日本学術振興会特別研究員 http://u0u1.net/Fllk 


★2 ラカンの「鏡像段階論/2〜3歳頃の幼児は母親に代表される他者を鏡(可視世界への入り口)として自我形成するという「発達段階」仮説」http://u0u1.net/Fllf 

・・・『シュレーディンガーの猫を追って』の著者からは、悲劇に見舞われた者が問わずにはいられない<他にもあった可能性の中でなぜ今のこの現実なのか、という切実な思い>が読み取れる。また、『原理 ハイゼンベルクの軌跡』の著者は、ラストで、例えば「原発推進派のあなた」と、それが変容・転換してしまった「反原発派のわたし」との合わせ鏡的な左右が真逆の反映に、つまり「ラカン鏡像」型(=合わせ鏡型)のアイデンティティ・パラドクスに嵌り、遂にはそのパラドクス鏡像が感情の海面の上で無限後退して戸惑う自分を発見することになる。


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『感情の政治学』(講談社選書メチェ)の著者・吉田 徹は「完璧な合理的イデア(固定した形相美、エイドス)を政治に求め、それが常に実践(感情・情念で揺らぐリアル意識の実存)を伴うものであったことを忘却する「市民的自由主義」(方法論的個人主義合成の誤謬を無視した原子論的個人主義)は誤りである。それは、それこそがミルトン・フリードマンの新自由主義なる合理主義(マネー&物欲合理主義)をのさばらせることに繋がったからだ。」との考えを述べている。


また、吉田 徹は、政治における情念を問う数少ない政治学者である斎藤純一(早稲田大学教授)が「政治は、利害のみならず愛情や忠誠などの情念(敢えて断言すれば、それこそラカン鏡像型のアイデンティティ・パラドクスに戸惑いつつ感情の海面で無限背進(後退)する自己の再発見、ということ!/補足、toxandoria)の要素を含む価値観・世界観の抗争でもあり、コミュニケーションの媒介でその情念を民主的回路に繋ぐことで政治はより良いものとなる」と主張することに注目する。


それは、デッドロック化した資本主義経済(水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済‐集英社新書‐』/補足、toxandoria)の下で、今や人々の行動を規定していた「無限のフロンティア―を前提する安定的な価値観」が成り立たなくなっている現代では、感情面も含めた個人の判断が意識的な選択として絶えず吟味され、そのうえで選び取られ続けなければならないという、アンソニー・ギデンズ(英国の社会学者)の「再帰的近代化」(グローバル環境下における時間・空間感覚および感情表現など、人間主体側の改造必要論)が全面化していることと関係しており、この「再帰的近代化」のテーゼは<現代政治に批判的に適用すべき解釈枠組みの一つ>だとも吉田 徹は述べている。


(新自由主義アンシュタルトの暴走に追い込まれた『ラカン鏡像』幼児期ナルシズムがヘイト・人種差別テロリズムの主要な苗床である可能性が高い)


更に視点を少しズラして見れば、新自由主義(≒果てしなき格差拡大装置としてのアンシュタルトhttp://ur0.work/Fugd、/再帰的近代化のテーゼ、主観的合理主義)に取り込まれた「市民的自由主義」は、あの古代ギリシャの市民が当然視していたノモス観念(ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前/委細、後述)から最も遠い存在と化していることが分かる。


つまり、益々グローバル化が進む中で頑強な統制的権力だけを握りつつ安定的な公共財の市民への提供の義務(←カール・シュミット、アレントらの指摘/Cf. http://ur0.work/Fugd)を放棄した「小さな政府」が個々人の不安感情を煽ることになるのは当然のことであろう。


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ところで、マーサ・ヌスバウム(米国の政治哲学者http://ur0.work/Fugs)は、ラカン「鏡像段階」に重なる幼児期の子どもが<「ナルシズム」→「他人の手で処理されざるを得ない自らの排泄物が自分の意の儘にならぬことで『自己愛』ナルシズムの自尊心が深手を負う」→「強い不快感が発生し沈着する」→「その不快感の弱者らへの転嫁の欲求が生まれる」>のプロセスで身に付いた倒錯の満足感が「ヘイトや差別攻撃」の苗床となり、ひいては新自由主義(主観的合理主義)で脅迫的に凝縮され、それが激烈なヘイト・人種差別やテロの一因となっている可能性がある、と指摘している(出典:吉田 徹『感情の政治学』)。


2 フッサール現象学の概要(および、その現代的意義)


2−1“現象学誕生”の時代背景/それは現代にも重なる危機の時代であった


オーストリア帝国(1804-1867)の末期に生まれたフッサール(Edmund G. A.Husserl/1859- 1938年)がオーストリア(ウイーン)とドイツ諸都市(ゲッティンゲンなど)での研究生活の最盛期をオーストリア史に照らせば、それはオーストリア=ハンガリー(二重)帝国(1867-1918/ハプスブルク君主国の一つ)の末期〜オーストリア第一共和国の時代に重なり、又それをドイツ史で見れば19世紀後半の欧州に「強固な覇権国家体制」を敷いたビスマルクが君臨するドイツ帝国(1871-1918)の時期にほぼ重なる。


また、その時代の欧州では、第一次世界大戦後の復興の完成を先取りするかにも見えた「ワイマール共和国」(ドイツ・ワイマール憲法体制/1919-1933)が出現していた。しかし、その末期には早くも資本主義の限界が露呈し、そこから派生した世界経済恐慌(1929‐1932)の不安を突く形(第一次世界大戦(1914‐1918)の敗戦で受けた巨額賠償等へのドイツ国民のルサンチマンも一因)で出現するヒトラー・ナチス政権(1933〜)、ファシズムの闇に飲み込まれる予兆を感じさせる時代でもあった。


このような意味での不安が漂う世界史的な「大きな危機」の只中にあった19世紀後半〜20世紀初頭の「ウイーン・アカデミズム」では、エルンスト・マッハエドムント・フッサールらの科学哲学者たちが、これとは些か異なる危機意識の下で(そのような時代背景に加え、数学・論理学・物理学らが現実離れした可能性を求め天空へ舞上がり過ぎていることへの危機感から)、あの「超越論的還元の視座」の先鞭をつける決意を持つに至ったことを再認識すべきと思われる。


それは、上で見たような意味で19世紀末〜20世紀初頭の「資本主義経済がデッドロック」した時代にフッサールが現象学(現象学的還元論)を着想したことの意義は、「新自由主義(一種の過剰合理主義仮説http://urx3.nu/FnRn)に席巻されたグローバル資本主義」の暴走が、再び、世界規模で人類を脅かしつつある現代でも十分に有意性を持つと考えられるからだ。


つまり、苛烈化する一方の人間社会の今と未来を見据える上でも、フッサールの現象学は十分に有効だと思われる。そのためか、21世紀に入った頃から人文・社会科学系の研究分野では、特に人間の非合理性と合理性の折り合い方、着地点を見極めようとする研究が活発化しているようだ。また、一時期はナチス(ファシズム)にも傾倒したカール・シュミットが「資本主義の正体は、そもそも海賊資本家による略奪資本主義であった」と喝破していたことは、まさに慧眼であったと言えるだろう(出典:水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済』)。


それに現象学と関連させつつ考えてみれば、「リベラル共和主義」の原型を古代ギリシャの都市国家、特にスパルタの厳しい政治(ファシズム的共和とリベラル共和の両義的ドラマツルギ―のせめぎ合いのトポス)に見ていたニーチェ、ハイデガー、ハンナ・アレントらの視点の中に、未発見の興味深い隠れたヒントを発見できるのではないかとも思われる。


2−2フッサール現象学の誕生/「感情の政治学」が必然であることの予兆


【「同じと思われる光景」でも各人は異なる現出(実在・真理と信ずる射影)を見る/が、一方でその最大公約の表象が客観性(間主観性)である 】


・・・我われ一人ひとりは、例えば下図『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』のような<それぞれ各人が見ている内面表象>の外へ、そのままでは絶対に出られず、これが一人ひとりの「主観性」の強固な地盤である(この左目だけで見た絵の周辺は眼窩の縁、右の出っ張りは自分の鼻先、中央には自分の寝そべった両脚とペンを持つ右手が見える)。しかし、その避け得ない内面の差異を話し言葉など様々な記号(表象)を介在させた多様な表現の交換、あるいは文章(文脈)化・ボデイランゲージなど積極的コミュニケーションの工夫で一定の実在(真理)のイメージ(or表象)、つまり「間主観性」の共有化は可能だ。・・・


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Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body stretched out in his studio; limited by the curvature of the eye socket, one sees his nose and beard. http://ur0.link/F5BD


このこと(同じと思しき光景を見ても、各人は異なる現出(実在・真理と信ずる射影)を見ており、その最大公約の表象が客観性である)を真逆に言えば、普段に、我々の一人ひとりは同じものを見ているように思い込んでいても(これはよほど強固な自覚(または覚醒への意志)を持たぬ限り日常生活では避けるのが中々困難な錯覚!)、実は誰一人として同じものを見てはいないということだ。


また、ここでの最大公約(数)なるコトバは比喩で使っているので最小公倍(数)でも構わない、要はそれこそが『話し合い、あるいは個々の情報の擦り合わせなどで漸く同定・共有される、ある実在(真理)についての客観的な“表象”、つまり間主観性であることを意味する。


そして、このような認識が正しいことは、植民地資本主義の限界とカルト同然のナチス的な空気拡大への危機意識で覆われつつあった19世紀後半〜20世紀初頭に活躍したオーストリアの物理学者、エルンスト・マッハの影響を受けたフッサールの厳密な主観性の検証である超越的「現象学的」還元のプロセス、つまりその科学哲学的な分析によって確認されている。


f:id:toxandoria:20170831153205p:image:w400:leftだからこそ、特に 政治・行政の現場では厳密な客観性と公正を担保するため「対話(言葉の遣り取り)→文章化」のプロセス(あるいは、それらを集約した文書・記録・映像など=常にブレたりズレたりする恐れが高い表象(真理)の統一・集約・同定or規定化)を保存する必要性があることになる(Cf.  ☞ 公文書管理の重要性/この観点から見ると、日本の「特定秘密保護法」が公文書管理の常識を外れているとの海外からの指摘がある! http://urx3.nu/FnRA)。


我々が日常で見ているのは、何につけ射影の寄せ集め的なもの、つまり直接的で物語的なものである。例えば、それは机の形が平行四辺形(現出/フッサールはこれを記号とも呼ぶ)に見えるような遠近法的で瞬時的な分かり易い現出(ものごとの現われ)に関わる感覚・体験の流れであり、これが深刻な錯覚をもたらす主な原因となっている。一方、我々はそのような状況の中で生きており、そうでなければ生きられない生き物でもあり、ここが厄介なのだ。


但し、平行四辺形の場合のイメージ記号と異なり言語という“記号”では現出と現出者(真理のイデア)の間に同等性(イメージ的相同性)はない。また、知覚的直接性(映像)は、想起・連想などと比べより直接的でありながら、それでも知覚映像はリアル(真理)に対し直接的ではなく現出(本質直観/一つのor特定の“射影”)で媒介された直接性である。その意味で、一般の知覚映像も一部分のリアルに過ぎない。


従って、どこまでも我々は 「内的な表象」(本質直観=マッハの内面的な表象)の世界に閉じ込められていることになり、これは言語などによるコミュニケーションの難しさを意味するとともに、「それ故にこそ、誤解を小さくするため、より積極的なコミュニケーションが重要であること」も示唆している(が、姑息な安倍政権は、その<射影がもたらす錯覚をどんどん肥大化させる政策>を一環して採っている)。


その先には“その机の形は長方形(現出者/この場合は長方形の机という真理)であること、つまり一定時間の流れとも関わりつつ見えてくる現出者(長方形の真理)に関わる知覚・経験”が出現する過程があり、この現出者こそが現象学的な意味での実在(同一性)で、フッサールはこれを“客観の同一性の表象は多角的で多様な表象(夫々の本質直観)で媒介される”と表現する。


また、この“現出(各射影)⇒現出者への過程”をフッサールは“現出(各射影)を突破して現出者(真理)を知覚または経験する”と表現しており、このベクトルを更に「志向性」とも呼ぶが、これは「意識」作用と殆ど同義である。なお、この“現出を突破して現出者へ到達する”ために必須となるのが、フッサールが言う「エポケー/判断中止(ごく自然な思い込みの流れを停止する省察でマッハ的な内面の光景へ引き戻し(これがマッハの第一義的還元)、それに照らして現出者(真理)を理解する!)」の意識作用である


【そもそも現象学とは何か?/形相的還元 、超越論的還元 、現象学的還元】

ところで、エドムント・フッサール(1859−1938)の「現象学」は、19世紀末の揺籃期〜20世紀初頭の幼生期を経て、さらに第二次世界大戦後〜現代に至る長きにおよび、20世紀の思想全体に大きなインパクトを与え続けてきた。


現代社会そのものは、益々、グローバル市場原理主義(新自由主義)の奔流に押し流されつつあり、しかもAI・ロボティクス・バイオテクノロジー等の先端科学技術の進展が急加速しており、「これからも身体と全生命の揺り籠の役目を果たし続けると思われてきた自然環境・地域風土・地域文化等についても、我われは、一人ひとりがそもそもの意味と役割を根こそぎ問い直さなければならないという、まことに厳しくも苛烈な「再帰的近代化」時代の真っただ中に入ったといえる。


深刻化するばかりの経済格差の拡大を本源とするテロリズム、あるいはマイファースト極右http://urx2.nu/FDZ6らの残虐な暴力性の噴出が後を絶たなくなっており、近代合理性と倫理・哲学がどのようにこれらと折り合うべきかが喫緊の課題となっている。


それは恰もフッサールが『イデーン/1913』(委細、後述)の出版で「現象学」研究を本格化させ始めた19世紀末〜20世紀初頭の全世界的にファシズムを予感させたあの「危機の時代」を彷彿させるものがある。が、このような時だからこそ、我われはフッサール現象学の根本と方法論を正しく理解することが必須になったともいえるだろう。


フッサール現象学で重視すべきベーシックな論点は『現象学的還元』と『無前提性』の問題である。そこで、そもそも「現象学とは何か?」について先ず触れておきたい。これは肝心「かなめ」の点であるので、下記の文献資料(◆↓)からその説明に該当する文章を部分転載しておく。


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◆榊原哲也・著『フッサール現象学の生成/方法の成立と展開』‐東京大学出版会


・・・ここから転載はじまり・・・現象学(Phanomenologie)とは、文字通りには「現象」(Phanomen)についての「学問」(Logos)ということであるが、フッサールの場合、それは、意識に現れてくる現象に定位(注目)し、それをありのままに見つめ、この現象の背後、あるいは手前で働いている「意識の志向性」(意識≒“志向性の作用”と見てもよい)をロゴス(学問)的に解明する営みを意味する。・・・ここで、一旦、転載中止/下記の補足へ・・・


<補足>「意識が生まれる瞬間」に関わる重要な推論

・・・西川アサキ(哲学者、批評家/情報哲学)は、最大の関心事がAIロボット内で生まれる可能性がある「わたし」(つまり意識)の問題としているが、現時点でその「わたし」は(a)自己組織化させる、(b)研究者(orプログラマー)が外部からプログラムする、の二つの方向からのアプローチが進んでいる。最新のAIを駆使した「意識」が発生する瞬間のシミュレーションでは、最小単位の構造となるプログラム・モジュール(そこに至る前段プロセスでは、脳内ニューロンネットワークでもそうであるが、実に夥しい数の“デッドロック・ペア”( 堂々巡りに囚われた最小単位の論理回路))が出現する。そして、意識発生の瞬間(一定の志向性が決まる瞬間)には「デッドロックで対峙する二組の最小単位モジュール(デッドロック・ペア)が双方の能力(夫々が相手方の中に自らの欠損(不足する点)の補完を期待しつつ求める能力)に有意となる未来への信用(確率論的な信用)」が基本となり相互作用することが分かってきた(これはSer.2で後述の『“現象学”的な意味での記述論理(抒情論理(toxandoria造語!))の問題に繋がると推測される!』)。http://urx3.nu/FoEr


・・・


・・・ここから、再び転載に戻る・・・ここで「意識」とは(哲学史上の説明をひとまず置けば)目覚めていて、ごく普通に何かを意識していることだと理解しておいてよいし、「意識に現れてくる現象」とは、目覚めている際に何かに目を向けたり、何か物音を聞いたり、物事を考えたりしている場合の、それら意識されている物事の、意識に現れているが儘のありさまを指している。


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意識に現れてくる現象とは最終的には私の周囲に拡がるこの「世界」そのものであるが、その際によく注意してこの現象を見つめてみると、例えば知覚しつつ意識されている現象としてのこの「花瓶」は、「花瓶」として意識されてはいるが実際に意識に与えられているのはその花瓶の一側縁(現出)に過ぎない(添付は参考画像/ヤン・ブリューゲル『木製花瓶に生けた花』 Jan Bruegel the Elder(1568-1625/ピーテル・ブリューゲルの次男/“花のブリューゲル”と呼ばれた) 「Flowers in a Wooden Vessel」 ca.1606-07 Kunsthistorisches Museum、Wien http://qq3q.biz/Fpcz)。


また、私に意識されているこの「世界」は、ごく一部分しか私に与えられていないのに、私は、この「世界」が私に現れている周囲を超えて拡がっていることをも何処かで意識している。実際に意識に与えられているもの(与件/=現出(補足、toxandoria))と、何かとして捉えられているその意味(現れている周囲を超えて拡がっている世界/補足、同)との間には、実はこのように常に差異が存在しており、それにもかかわらずこの差異は、普段は殆ど自覚されず跳び越えられているのである。


この差異を架橋して「与件(現出)」を何か「として」捉える働きをしているのは、フッサールによれば意識以外の何ものでもない。この与件に向かってそれを何とかして或る意味において捉える(統握する)働きを彼は意識の「志向性」(Intentionalitat/関連↑既述、<補足>【「意識が生まれる瞬間」についての重要な西川アサキの推論】 )と呼ぶ。


しかも、この志向性はまったく恣意的に働くのではなく、その働きのうちには何らかの規則的・普遍的構造(ロゴス/ここでは学問的・論理的な理性)が認められる。こうして、フッサールは、意識現象の手前で意識現象を成り立たせるために常にすでに働いている意識の志向性のロゴスを解明することによって、 周囲に拡がる <世界という現象>と<それが現れてくる場としての意識ないし自己>との関係を明らかにしようとした。


つまり、意識の志向性の解明としての「現象学」によって、周囲の「世界全体/世界という現象」に問いを向け、自己とその世界との関わり全体についての哲学―「現象学的哲学」―を目指そうとしたのである。


現象学の方法、すなわち「現象学的方法」とは、まさに、そうした営みへ引き戻すことであり、これこそが「超越論的還元」(但し、これは第二義の超越論的還元で、既述のとおり、第一義のそれはマッハ的光景への引き戻し/補足、toxandoria)である。それは、このプロセスの遂行にあたって、まずもって意識に現れてくる諸現象を純粋にありのままに見つめ、そこに潜む普遍的構造を記述するために形成された方法である。・・・ここで転載おわり・・・


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<補足>射影(夫々の現出)的な内心への囚われ、そこでの堂々巡りこそが「動物一般のそれ」にも似たカルトの心象風景である


・・・より広い周辺の「世界全体」への視座は一種の“習慣(P. ブルデューhttp://qq3q.biz/FpcE)”である。ヒトの文明・文化・伝統などもその意味で“習慣”の一種だ。但し、その“習慣”は絶えず更により広い世界と繋がろうとする客観的合理性(委細、後述)との交信・交流で絶えず補正することで健全性が保たれる。そこでこそ初めて出現するのが、絶えず揺らぎながらも「真理を志向する意識に対する信用で繋がり続ける間主観性の空間」である。


・・・このように、ヒトは何らかのコミュニケーションを介さなければ、現象学でいう直接的な「出現」で体験する純粋経験(又は、それに近い一定の狭い範囲の内心世界)の意識から、その外(より広い周囲の意識世界、絶えず真理へ導く地平) へ出る(突き抜ける)ことは絶対できない。他方、普段に我々は自分自身が十分に馴染んだ、一定の狭い範囲の意識世界でしか安心して生きられないのも現実だ。


・・・そこでヒト(人間の文化や伝統・習慣の世界)にとって重要となるのが言語・映像・イメージ・象徴ら様々な記号を介した多様なコミュニケーションである。但し、対話が重要なのは当然だが、必ずしもそれだけではなく、受け身でない主意(意志)的な読書やリアル書店の探訪、あるいはSNS等の活用、旅行体験、芸術鑑賞など多様な広義の文化・交流活動をもその補完手段(豊かな感情の海を醸成する場の確保、±のプネウマ(エトノス的な気息、精気、情念が発酵するトポス))と見る柔軟な文化的生活に馴染むのも重要と思われる。


・・・これは、イヌ・ネコ・サルなどの動物一般、または様々なカルト一派らが夫々の確信的な内心(狭い囚われへの誘惑/例えば安倍政権の背後霊(追憶のカルト)とされる日本会議、あるいはオーム真理教、統一協会らカルト)の世界の外(記号を介すコミュニケ―ションで新たな“習慣の世界(より広いフリンジ、周辺 、地平)”)へ漕ぎ出すことが容易ではないこと、を想像すれば直ぐ理解できることだ。


・・・


なお、厳密に言えばフッサールは 「現象学の方法」を(1)形相的還元、(2)超越論的還元の二つに大きく区分しており、その要点を纏めると次のようになる。


(1)形相的還元・・・人間心理へ「射影」(多くの人々が同じと見る光景)との関りで大きな影響を与える「イデア(理念的な真理)と一定の時間の流れ(真理としての歴史観)についての、エポケー(判断中止)によるイメージ空間的な現象学的還元


(2)超越論的還元(既述の第二義的還元/当然、その前提が第一義的還元)・・・一種の信頼性(専門的ロゴス(諸学問)が既に共有している記号(言語など)による共有観念、パラダイム)で繋がる間主観性のロゴス表象空間に関わる、エポケー(判断中止)による現象学的還元 ← コレは後述する「無前提性の原理」へ繋がる。


(3)「(1)+(2)」が、超越論的現象学的還元となる

 ☞ それは、これら二つの現象学的還元を実行することで、我われは『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』の図像 http://urx3.nu/FaY4 の外へ、つまり<各人が夫々に見ている内面表象の世界>の外へ、漸く、突破できるということだ。この厳密な現象学的還元によって展望し得る、より広い共有世界(E.フッサールの用語で言えば間主観性、相互主観性または共同主観性)こそが、我われ個々人のアイデンティティーが共和(協和)するための外洋(大海原)であるという自覚を我々はもつことができる。それがフッサール『超越論的現象学的還元』の意味の核心である。


【無前提性の原理とは何か?】


まず、同じく[ ↑◆榊原哲也著『フッサール現象学の生成−方法の成立と展開』‐東京大学出版会‐ ]から関連する部分を転載する。


・・・


・・・ここから転載はじまり・・・純粋記述(意識に現れているありさまを 、ありのままに捉えて記述する現象学の手法)としての現象学は、さらに「実に様々な理論的諸学の準備に役立ち」、「純粋論理学の土台」ともなる。というのも、純粋論理学を含む「論理学者」に関して言えば、彼は、「根本的な抽象」によって「自らのイデア的対象やイデア的連関の本質を明証的に把握」しようとするが、この「抽象」が「何らかの諸体験に基づく抽象」である以上、それら諸体験の「純粋記述」こそが、そうした「根本的抽象」の「基盤」をもなすと考えられるからである。


こうして記述的心理学たる「純粋現象学」は、経験的心理学のみならず、純粋論理学も含め、「さまざまな『学』(ロゴス)がその内に根を有する中立的研究の領域」として位置づけられるのである。


さらにもう一つの要諦がある。フッサールによれば、記述的心理学たる現象学は、「認識論的研究」が要求する「無前提性の原理」をも満たすとされる。「認識論」とは、彼によれば、「説明」を事とする諸理論に対して、「認識的思考作用(ここでの“認識”は感覚が介在する理解も含めた説明が連鎖する意識、と考えると分かり易い/補足、toxandoria)のイデア的本質ないしは意味についての一般的解明」を行うことによって、諸理論における認識一般を「解明」する「諸理論の理論」を目指すものである。


それゆえ、現象学は、権利上「あらゆる経験的諸理論に先立ち」、いかなる理論的前提もその内に含んでいてはならず(=無前提性)、体験の実的成素だけをそのままに正確に受け取る「十全的に充実化する直観」に立ち返ることを通じて「純粋な認識諸形式と諸法則を明晰判明にする」ものでなければならない。


つまり、まさに記述的心理学たる現象学こそは、すでに述べたように、「理論の単なる前段階」たる「純粋記述」として、―経験的発生的心理学のように心理的体験の実的成素を超えて心理物理的な理論化を行うことではなく―「与えられている思考体験や認識体験」の「実的成素」だけを純粋に記述することによって、志向作用や認識作用の本質的特徴を」明らかにしていく営みであるからである。


それゆえ、フッサールは「無前提性の原理」が、「現象学的に見て完全には実現され得ない、〔つまり、「体験の現象学的成素のうちに現実的に見出されない」〕ような一切の「原理的」仮定を排除すること」に他ならず、「あらゆる認識論的研究は、純粋に現象学的な根拠に基づいて遂行されなければならない」とも語っている。


記述的心理学たる現象学の純粋記述は、―理論としての経験的発生的心理学とは異なり―あらゆる理論的仮定を排除した、体験の実的成素(意識が殆ど介在しない、言葉と経験との只の繋がり/補足、toxandoria)の純粋記述として、無前提的なものであり、それゆえどのような認識論的(ロゴス的)研究も、この現象学の純粋記述に基づいてなされなければならないのである。 ・・・ここで転載おわり・・・


・・・


以上を言い換えるなら、フッサールが、諸学問の理論がその基盤を喪失しつつあるかに見えた19世紀末〜20世紀初頭の世界的リスク(戦争の危機と経済格差拡大、および学問の空疎化)の拡大トレンドに抗いつつ「無前提性の原理」を条件とする『現象学(超越論的現象学的還元)』 によって、「諸学問・諸科学の限界の突破を試みた」ということである。


しかも、グローバル市場原理の奔流(個人主義的な主観的合理性の暴走)に押し流されて殆ど<自己目的>化したかにさえ見えるAI・バイオテクノロジー等の先端技術研究が急加速することで、今や生命の培地であった筈の自然環境と人間文化(多元文化)そのものの意味が根底から問い直されつつある現代の状況が、フッサールの時代に酷似していることに驚かされる。


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また、「現象学」は、人類にとり悪夢の如きこの時代を大転換させ得る新たな希望の光にも見えてくるはずだ。それは、このフッサール『現象学』が、エトノス観念http://qq3q.biz/FpPQを前提とする新たな人類文化の時代、コンシリエンス(consilience/人文社会・科学両知の融和的統合の時代)http://qq3q.biz/FpPZhttp://qq3q.biz/FpPQ>の先取りとも思われるからだ。因みに、人類文化のエッセンスは、「形相(意味に包まれたイデア(エイドス))の意識(志向)化(客観的合理性)→共有(間主観性)化の継承」という点にあると考えられる。


例えば、近年の科学史研究では、コペルニクス的転回で近代精神の幕開けを飾った「近代天文学」創始期の師である「古代末期〜中世期のイスラム天文学(アラビア科学)」が政治・交易経済・農牧畜業など、当時の庶民層の日常的生活文化を支えた「占星術の世界観」の中で育まれたことが解明されている(http://ur0.work/Fuex)。それは、まさにコンシリエンス(客観的合理性)の世界であったことになる。


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<補足>ホルクハイマー「客観的合理性、主観的合理性」の峻別について


・・・M.ホルクハイマー(1895 – 1973/ドイツの哲学者・社会学者、フランクフルト学派の代表、アドルノとの共著『啓蒙の弁証法』で名高い)は、古代ギリシャから凡そ16世紀頃まで広く認識されていた客観的合理性(中世哲学が代表する観念/世界秩序に関わる冷静、謙虚、かつ統合的で直観的な原理)と主観的合理性(傲慢化し易い還元的・道具的理性)の区別が、近世以降は混同されるようになったと、警鐘を鳴らしている。


・・・<政治・経済の科学(主観的合理性)化の典型>ともいえる新自由主義(過剰化した市場原理主義、作為的アンシュタルトの一種)が、この「主観的合理性」の代表と考えられるが、今や、AI研究がその最先端に到達しつつあるため、流石にAI研究に携わる専門家自身の中から、<AIが体現しつつある主観的合理性の暴走に関わる大きな危機意識>が出始めている(参照/添付画像↑『AI自動制御兵器“Go and Forget!は究極の非人道!』)。


・・・いずれにせよ、このような意味での「現代の危機」が、フッサール「現象学」が誕生した19世紀末〜20世紀初頭「ファシズム胎動期」の「危機」に重なるのは自明といえるであろう。従って、フッサール「無前提性の原理」とホルクハイマー「客観的合理性」には深部で共鳴するものがあり、その先には矢張り<コンシリエンス(人文社会・科学両知の融和的統合)の時代>到来の必然性が感じられる。


2−3 フッサール現象学「射影のリアリズム」の再認識/「“意識(感情の政治学)”が浮かぶ海」の発見


2−3−1“フッサール「射影の直観経過」が意味するのは「“意識”が浮かぶ海の発見」ということ


・・・それは客観性(間主観性)の担保である記録(プラトン的イデア、つまり真理を包む形相の保全)の破壊と“もてあそび”が瞬時にしてファシズムへの暗転を呼ぶ、ということ・・・http://ur0.link/FyO6


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・・・トランプ、安倍晋三らに決定的に欠ける「現象学的還元」的な意識!/無論、現象学的還元なる重要な視座の発見はフッサールの功績であるが、この難解な専門用語による説明を待つまでもなく、実は、この種の意識(例えば、間主観性の共有の拡がりが『人間社会』の成立の前提であるということ)がヒトの文明進化(厳密には深化!)にとって重要なのは、常識人なら既に十分理解してきた筈だ。しかし、新自由主義アンシュタルト(その特異な“主観的合理主義なる感情”の暴走を良しとする空気)が社会常識の絶妙な均衡を破り、悪しき方向へ反転させた。・・・


<補足>「間主観性」前史と「ネオ・フィードバックシステム(基礎情報学)」の関わり


(1)[西欧中世「決疑論」から近代啓蒙主義(“間主観性”観念の歴史的な形成プロセス)への流れ]

・・・西欧中世カトリック教会の「決疑論」(カトリック告解の指針、思考方法が中世スコラ哲学を経て精緻化し、それは近代(16〜17世紀)になると個人の道徳判断の指針・説明へと発達した)と、近代啓蒙主義における「間主観性」観念の発達&共有化(政教分離原則、議会制民主主義、現代憲法、現代司法・裁判制度、又は近代以降のジャーナリズム成立などに繋がる)についての理解が重要! http://ur0.biz/FmDF 


(2)[間主観性とネオ・フィードバックシステム(基礎情報学)の共鳴]

・・・(1)の視点の敷衍・拡張が「基礎情報学」で言うネオ・フィードバックシステム(マシン内部のフィードバック処理回路を越えた人間社会、人間の歴史、自然・生命環境全体、すなわち内外の全エトノス環境と相互交流する意味での新しいフィードバックシステム)の概念!Cf. ☞ 基礎情報学/ネオ・サイバネティクスの研究、論考発表サイト:西垣 通・研究室/山梨英和大学 専任講師・大井奈美http://ur2.link/Fqtt


・・・


「間主観性」なる言葉はフッサールが初めて使用したとされるが、それには見過ごせない前史がある。各人が持つ狭隘な意識(ある一定の志向性、つまり感情を持つ個々の内心)とは別に、それを超えて「紛れなく客観的な時間と空間が存在しており、人々の間にはそれと同等の意味合いを持つ意識空間が広範に共有されつつ拡がっている」という観念を、特に近世以降の近代・現代人が(それを明確にするにはホルクハイマーの二つの理性(合理性)に関わる逆説的な理解も必要となるが/委細、後述)持つようになったことには、この「決疑論」の深化過程での「主観的合理性/委細、後述」(≒自由意思)の発見が貢献したといえる。 


エピローグで少し詳しく書くつもりだが、その意味でも、「リベラル共和主義国(国民主権国家)」と「ファシズム国家」の差異は紙一重であり、恰もそれは既述の<量子コンピューターの原理でもある「量子力学ダイナミズム」、あるいは「ラカン鏡像の逆説」(鏡像→自我形成、のプロセスの失敗で、“無限後退”なるアイデンティティ・パラドクスの罠に嵌る)>の微妙な均衡の作用と酷似している。


そして、この紙一重の差異(せめぎ合いの場)を制しつつ辛うじて「リベラル国民主権社会」を実現させるカギを握るのが意識の海に浮かぶ「感情の政治学」の問題であると思われる。つまり、ヒトの意識(ノエシス)は「感情の海に浮かぶ小島の如きもの」ではないか?ということだ。一般に、超越論的現象学的還元で純粋経験なる原印象「空間」を発見したフッサールは感情の問題を無視していると「誤解」されてきた。


しかし、近年、AI・脳研究の進化とM.アンリの現象学(情感・情念と記憶の関連性を探求http://ur0.link/FzNM)についての理解の深化(委細、当記事Ser.2で詳述の予定)で、フッサールが「イデーン1」(後述)で論じたノエマ(意識の対象的側面)が、実は情感(情念、感情)の海に浮かぶ、何らかの協和的回路に取り込まれつつ非常に厳しく最小限度に選択された意味の塊であり、それが志向性(ベクトル)を帯びた意識をもたらすのでは?と理解されるようになってきた。これは、まさに<AI・脳研究と現象学の共鳴による感情の海>の発見である。


言いかえれば、いまAI・脳研究のフィールドでは「意識(現象学で言う志向性ベクトル)の発生と感情の深い繋がり」が、新たな先端サイエンス知として理解されつつあるのだ。それは、根本的にAIと異なる「“環境・文章フレーム”の積極的読解力」(自らの生命維持条件である内外環境への高度な感受性を持続させ得る能力、いわば意志と感情が混然一体化した生命意識とでも言うべき情念の大海原)こそが、AIならぬ人間の「節度ある自由意思」のバックボーンだと考えられるということである(Cf.⇒http://ur0.work/FulY)。


2−3−2 射影(見かけのイメージ)に大きく影響される無辜の多数派国民層を主体とする此の程度の支持率Up(改造後の安倍内閣)は想定内と見るべき!


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f:id:toxandoria:20170901012848p:image:w360f:id:toxandoria:20170901012849p:image:w360

ところで、我が国では20170803に内閣改造が行われたが、安倍政権の<お友達らが好む「異常なカルト物語りの世界」へ日本国民を強引に連れ込み、そこで激しく日本国民を凌辱しようとする悪辣な意図、そしてそのための悪質な隠蔽工作は些かも変わっていない。それどころか、以前にも増して、その「総国民“連れ込み作戦”」に関わる彼らお仲間の意志を貫徹するための薄汚い戦術は、より悪辣化し、より卑怯化しつつある(参照/添付画像)。

Cf. ☞ 『<永遠のゼロ(バカ?ハゲーッ?)式、ヤラセ視聴者の会>の一面広告(御用広報紙/読売・産経)!← この広報費用の出所は官邸機密費?』http://ur2.link/FqxY 


しかし、安倍政権の<見かけだけで善良な国民を徹底的に騙しぬこうとする、一見、小利口で策略的に見える「日本会議」流?の“カルト式洗脳戦術”なる軽薄な演出の化けの皮はすぐにハゲ落ちることになるだろう。それは、フッサールが著書『イデーン』(参照/下記◆)で指摘した「射影のリアリズム(直観経過)」に関わる<知覚・意識/ヒトとしての思慮分別をもって外界の事物や身体内部の状態を統合的に理解する働き>に関わる理解が彼らの著しく狭窄化した視野からスッポリ抜け落ちているからだ。


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◆イデーンI‐1純粋現象学への全般的序論(Erstes Buch, Allegemeine Einfuhrung in die reine Phanomenologie 1913)エトムント・フッサール 訳:渡辺二郎(みすず書房)1979 http://ur2.link/Fqyn

・・・前半、省略・・・しかし現象学的還元と本質直観についてどのような態度を採るにせよ、当の方法論自体について、まず世の人々は良く熟知しなければならないであろう。そして、その二方法の射程について、まず何よりもフッサール自身が最初に綿密に考究した最も基本的な論述が、この『イデーンI』の前半部分にほかならないのである。」(訳者あとがき


さて、フッサールが著書『イデーン』で使った「射影」は「現出」(瞬時的・微分的な感覚・体験の流れ/本質直観とも同意)と同義である。そして、「様々な現出(諸現出)」は「現出者」(真の実在、真理/ここでは、そこに実在する長方形の机)に向かって突破する(意識的に突き進む)ことになる。なお、フッサールは現出を記号とも呼ぶ。例えば、そこにある長方形の机がある視点(見る人の意識、ノエシス)から平行四辺形に見える場合、その平行四辺形がコレ(射影、本質直観)に相当する。


が、ここで留意すべきは<この時、諸現出である平行四辺形の形は異なる視点の数だけ現出1、現出2、現出3・・・、現出nという具合で、そこにある視点の数に対応して無数に存在することだ(同一の視点が場所を移動するケースでも、現出1、現出2、現出3・・・、現出nは時間の流れに沿った現出(射影、本質直観)の変化になる)。


そして、フッサールはこの無数の現出が一つの基体(ここでは意識の核の意味)に収斂し全体的意味が凝縮した塊(おそらく、複数のデッドロック・ペア/Cf. 2−2『「意識が生まれる瞬間」に関わる重要な推論/西川アサキ』)をノエマ(意識の対象的側面:これが、人間の意識の主軸たる“感情と表裏一体の自由意思”の源泉では?と思われる/補足、toxandoria http://urx.mobi/FA0F, )と呼んでいる。


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<補足>ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―の「盲点RAS」の発生と、フッサール「ノエマ」の関連性

・・・同書によれば、生体内部では「ヒューリスティック(限定的http://qq2q.biz/DoHD )な統合合理性」の実現(目的に応ずるベスト知覚機能の確保/例えば、目的対象物を確実に見る視覚)のため、敢えて「RAS」を発生させ個々の生体の「生命の安全も確保」している。つまり、人間の意識の核であるノエマも同じことで、おそらくその意識化と共に99%以上の情報(夥しい数の射影)は常に捨てられている。だからこそ、生命の安全と文化深化のためにも間主観性(最大公約or最小公倍的射影)を同定・保持する記録・ドキュメント、およびコミュニケーションの役割が重要になる。

・・・ Cf. ☞ 安倍内閣は隠蔽&“記録・記憶抹殺”オンパレード!その異常さはカルト「幻想政治」劇場のおつもり? http://ur2.link/FqOP


2−3−3 ヒトは「同じと思しき光景」(多様な射影の集り)を見ても、各人は異なる現出(それを実在、真理だと思い込む夫々の射影)を見ている


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・・・その多様な射影の集りの最大公約(or公倍)の表象が客観性(≒間主観性/集合意思的に統合された真理)である。従って、政治・行政の現場では特に記録(ドキュメント/アリストテレスのイデア、つまり真理を包む諸形相(エイドス)の同定)の共有と保全管理が重要になる!・・・


フッサール現象学で、現出と現出者に加えて重要なのは「現出」に関わる「把持→原印象→予持」という直観(瞬間)的な時間の流れに沿う「直観経過の概念」(or視点移動の概念/無論、長時間、一点に止まれば内外環境の変化で移動と同様の直観経過となり得る)であり、それらは「把持=すでに経過した過去の現出の保持、予持=これから到来する現出の予期、原印象=両者の中間で今の現出の受容」と定義される。


また、ドキュメント(何らかのエクリチュール記録)の役割は、刻々と変化しつつ消え去る「直観経過のプロセス」の或る一定幅の流れ全体を保全し、その社会全体の共有「記憶」(歴史素材)として繋ぎ止めることであり、このプロセスは、常識的には意外と思われるかも知れないが、凡ゆる芸術の創造・創作活動の現場でも観察されることだ。


特に音楽の場合の「直観経過の概念」が理解し易い。ドレミファソラシドの音が続き、例えばレ音の原印象(現出n)で意識が止まった瞬間では、過ぎ去ったばかりの過去のド音の把持(現出n-1)と共に、すでにその瞬間に我々は未来のミ音を予持(現出n+1)しているのである。こうして、我々が音楽を聴く時には、各音の諸現出をバラバラに聴いているのではなく、常に、個性的な演奏者が演奏する一纏まりの優れた演奏作品を全体的な音楽の流れ(それが、現象学で言うリアルの<現出者=その一回性の芸術価値>である!)として聴いて(知覚し、鑑賞して)いるのである(無論、音楽では、楽譜作品と演奏作品の二重構造となっている)。


<参考/チェリビダッケの音楽の現象学>


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チェリビダッケの音楽観を示す、唯一の講演録。セルジュ・チェリビダッケ『音楽の現象学』石原良哉 訳2017 (アルファベータブックス)・・・ベルリン・フィル首席指揮者、シュトゥットガルト放送交響楽団首席指揮者などを歴任、多くの伝説的名演を残したチェリビダッケが、1985年にミュンヘン大学で満員の聴衆を集め行なった歴史に残る講演録。音楽の現象学とはなにか。黒板とピアノを使い、名指揮者が熱く語った内容を忠実に本に再現。2度の重版の後、長らく品切れになっていたが、この度チェリビダッケの全ての来日に立会った訳者の石原良也氏による来日時の記録や素顔のマエストロを描いた貴重な交流録を加え増補新版として出版。コンサート記録付。


・・・


ともかくも、このような「把持→原印象→予持」のプロセスの流れを繋ぐのが意志的な意識(瞬時的・微分的な志向・意識体験)の働きである。


ここで特に留意すべきは、この「志向体験(瞬間的・微分的意識)を含めた直観経過である現出の場面」が極めて短く殆どが瞬時的な出来事であることから、我々が、その短いプロセス(見かけである射影・現出の連続)を突破して「現出者」へ至る(その真の実在、つまりそこにある真理を評価し正当に知覚し得るレベルへ到達する)暇は殆どなく、その時々の「見かけの射影」に影響され易くなる(一種の催眠or洗脳効果)ということだ。


だからこそ、この「直観経過の現出的な瞬間、つまり我われが見かけに嵌り騙され易い場面」は幻影師、手品師、悪徳権力、あるいは現下の安倍政権、日本会議らの如き悪辣なカルト政治勢力、全体主義ファッショ一派らの格好の舞台装置となり、あるいは重宝な小道具となるのである。


(エピローグ)「新自由主義アンシュタルト」への傾斜が、“リベラルVs共和”が鬩ぎ合う両義的「射影」の場面、つまり首の皮一枚の抑制を破り瞬時に「ファシズム」へ暗転させる


・・・【再び、何れか?の選択を迫られる日本】(1)感情ファクター重視の関係性の政治(生命の安全保障)で新自由主義の政治を置換することが可能であり、それが急務だ!(吉田 徹『感情の政治学』—講談社−)/(2)『社会(間主観性の空間/客観的合理主義)など存在しない、存在するのは個人(再帰的近代化で解放された主観的合理主義の個人)だけだ』マーガレット・サッチャー・・・


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◆内部はニーチェ『悲劇の誕生』を巡る如き暗闘の様子だが、上層部の対・安倍政権<忖度>が元凶!全面的に国民を信用し、NHKは<自らの内部暗闘>に関わる一切を外部化し「国民の議論」へ一任すべき!

・・・Cf. ☞ 【QT】青年期の(≒時代を問わず、リベラル共和主義を求める)理想は、その一切が常に懐疑に付されることで再び鍛えあげられ、普遍的なものへと編み変えられる。このことを<ニーチェの思想>は教えてくれる。http://ur0.biz/FmEM /但し、普遍的な人間社会の反映でもある<ニーチェの思想>はファシズムとリベラル共和の両義性(古代ギリシャのドラマツルギ―)で彩られている。その普遍を求めるためのカギはカール・シュミット、ハイデガー、ハンナ・アレントらにある。(補足/toxandoria) http://urx.red/Fsl4


f:id:toxandoria:20170901031021p:image:w450f:id:toxandoria:20170901031023p:image:w440

◆【トランプ現象で動揺する米国政治は「マクロン大統領の仏と全く異質な“リベラルVs共和主義”闘争の修羅と化した!/米国「憲法修正第1条」正当解釈の変更→米・極右の変質(白人至上主義へ)、は世界にとって超リスク!】http://urx.red/Fsla

・・・Cf. ☞ 5月に就任した仏マクロンの支持率が10ポイントDnし54%になった(7.23公表/816では36%!)。が、「共和主義」否定(コミュニティ破壊)に走るトランプのDn(35%、8.30)と、共和主義の再構築を図る仏マクロンのそれでは理由(ベクトル)が全く異なる!マクロンは、これからが正念場か?http://urx3.nu/EUyH 、http://urx.red/Fsol


裁量的・ケインズ的な総需要管理政策を批判したミルトン・フリードマンがケインジアンから転向して新自由主義(小さい政府)の経済理論でノーベル経済学賞を受賞した(1976)のに続き、10年後にはジェームズ・ブキャナンが「公共選択論」(社会は自己利益の最大化を志向する利己的人間から成るという前提で政治・社会をミクロ経済で体系化したフリードマンの新自由主義を補完する理論)の基礎を作り同じくノーベル経済学賞を受賞した。


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ギャンブル・アンドリュー『自由経済と強い国家/サッチャリズムの政治学』(1990、みすず書房)によると、その新自由主義思想のエッセンスは『市場原理主義、サプライサイド重視、小さな政府(公共部門の縮小と民営化)、労働市場の柔軟化(人件費の経費化/労働力の商品化)、権威主義(強権)的・国家中心主義的な政権運営』ということになる。


ところで、吉田 徹『感情の政治学』(講談社)によると、米国の政治学者アンソニー・ダウンズ(政治学の数理分析の基盤を作った/http://urx.blue/FsUE)が仮説「合理的投票者のパラドクス」を発表(1962)しており、これによれば、理論上でも経験上でも、自分が投票した1票(差)でその有権者が望む政策が決定したケースは殆どゼロに近いので、バカな人間ほど真面目に投票に行く?ことになる。つまり、「ヒトはなぜ投票するのか?の実像」は未だに謎のままだ。


また、同書によれば、直接民主制の理念を重んずるスイスが1970年代から郵便による投票の併用を始め、続いてインターネット投票も採用して投票率の向上を図ってきた。しかし、これで投票率が上がるという効果は得られておらず、今まで高投票率を誇ってきた地域や過疎地域、あるいはローカルになればなるほど、逆に、それらでは投票率が下がってしまった。


その理由として、小さなコミュニティになればなるほど、むしろ投票所に足を運ぶ有権者が「投票した自らの行為そのもの」に高い満足感と誇りを感じていることによるのではないか?という分析がある。投票行為には合理性よりも「何らかの、様々な社会的関係性に因る感情・情念的な要因」が大きく影響を与えていることが窺われるのだ。ここから、一般に投票率が低い傾向にある大都会でも、何らかの正当な方法で人間関係の活性化を図る工夫で投票率の高まる可能性がある、ともいえる。


ところが、ここで「仮に新自由主義の主観的合理性の人間観が“ほぼ”100%近くまで普及した(広く、社会一般で受け入れられた)」と仮定すると、恐るべき事態になることが予想される。それは、その途端に、あのアンソニー・ダウンズの「合理的投票者のパラドクス」の仮設が、仮説であることを止めて、リアルなものとなるからだ。


f:id:toxandoria:20170901034610j:image:w350:leftバカな国民はせっせと真面目に投票所へ足を運び、利口で合理的な国民は中央集権(強権or時により軍事国家主義)的な小さい中央政府(福祉・厚生・公正を切り捨てる)」の言いなりが得策だ!と判断する。そこで出現するのが利己的自由の徹底である筈なのに、その自由を謳歌する国が一気に肝心の「自由原理」を捨て去り、「ファシズム軍事国家」へ暗転するという地獄の如き光景である。が、これは決してお伽噺ではなく、我われはその地獄への道を着実に進みつつあるのだ。f:id:toxandoria:20170901034611p:image:w380:leftf:id:toxandoria:20170901034612p:image:w300:right


つまり、新自由主義の根幹にあるのは「ひたすら強権的(軍事・外交・安全保障・国民統制的な意味で)な小さい中央政府が、貪欲で利己(主観合理主義)的な個人が求める選好のチャンスを与える政治に取り組みさえすれば、あとは福祉も医療も教育も殆ど無視して徹底的にその利己的個人と企業活動の自由に任せておけば皆が幸せになれる」という異常な社会観であり、そこには人間の主意的な意識を支える最も肝心な「感情(情感・情念)のファクター」が関与する余地が殆ど存在しない。


因みに、マルクス主義がその典型であるが、政治学の伝統には社会構造決定論という考え方(上部の社会構造が社会における下位構造に属する人間のあり方を決めるという理解)があるが、新自由主義もそれと同じく社会構造決定論(1%派のための合理、非合理の二分法で社会構造を仕訳するアンシュタルト)だと見なすことができるので、これに異を唱えたのが社会学者P. ブルデューである。


P. ブルデューが新自由主義を批判する論点は、<社会における人間のあり方は一つの選択(いわば感情の海に漂う一つの意識的な選択)に過ぎず、その他の殆どの選択肢は捨てられているので、絶えず歴史の中から別の可能性をも拾い上げて再検証するという柔軟な視野を取り入れることが肝要で、例えばミクロ経済的「選好」も、それは人間社会のハビトウスだ(習慣=関係性のダイナミズム/人間の無限の可能性の中の一つに過ぎない)と捉えるべきである>ということだ。


また、「国家(中央政府)が、専ら主観合理的(利己的)な個人に対して、彼らが求める選好のチャンスを与え続ける」ということは、あのカール・シュミット、ハイデガー、ハンナ・アレントらが重視した「ノモスの観念」と真逆のものであることに気づかされる。


「法」としてのノモスは古代ギリシア都市国家(古代民主共和政)の社会概念であるが、より古い時代には「神々と父祖伝来の伝統(現代風に言えばエトノス、自然・伝統文化環境)が定めた行動規範」としての「法」、あるいは同じく、そこに住む住民が平等に与えられる「ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前」を意味していた。


従って、ノモス法は現代的な理解である文章で表現された抽象的な「法」の内容だけではなく、一定地域の自然環境、土地、建物、市街地、橋、道路など目に見えるモノとしての公共財(インフラ)と離れ難い存在であった。現代風に言えば、それはエトノス自然環境とも離れ難い存在であり、フーコーの“統治理性”(リベラル共和のための、地球上の全ての生命環境が明確に視野に入った統治理性)を理解するための必須概念となる(ノモス論の委細はコチラ ⇒ http://urx.blue/FsXs )。


ともかくも、フッサールの現象論から始めた「新自由主義」批判の旅は、漸く、「感情の政治学」の入り口に辿り着いたようだ。更なる旅は第二部(2/2)へ譲り、そこではアンリ・ミシェルの、いわば「感情の現象論」を取りあげてみたいと思っている。(完) 

2017-07-13 仏マクロンが感知したリベラル共和への希望/ノモス、文化資本、エト

toxandoria2017-07-13

仏マクロンが感知したリベラル共和への希望/ノモス、文化資本、エトノス・パターナリズムが“新自由主義(アンシュタルト)”克服のカギ


(Cover Images)


f:id:toxandoria:20170720063155p:image:w450 f:id:toxandoria:20170720064206p:image:w450

http://www.vaux-le-vicomte.com/actualite/visitez-aux-chandelles/



飛騨(下呂・高山・古川)の風景、2017初夏


下呂(合掌村)

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高山

f:id:toxandoria:20170713044822j:image:w370:right  f:id:toxandoria:20170713044911j:image:w500

f:id:toxandoria:20170713044948j:image:w450:right  

                       

  

f:id:toxandoria:20170713045039j:image:w470:left f:id:toxandoria:20170713045127j:image:w470古川(下、二枚)


D

daft (stupid)Trump?Quand l'armée française joue Daft Punk

・・・委細の説明はコチラ ➡ https://twitter.com/shinkaikaba/status/887584572363292673



1 仏マクロン政権でニコラ・ユロ環境大臣が誕生した画期的意義


・・・原発17基廃棄は『リベラル共和主義』でフランス再生!の象徴・・・

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・・・Cf[20170713朝日社説]民進党 勘違いしていませんかhttp://urx3.nu/EGNp


・・・


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<注1>エトノス・パターナリズム

・・・ここでのパターナリズム(父権主義)の定義は「自由な個人の自己利益を保護するため、当人の意に反し、その“選択”(市場における選好)に抑制的に介入すること」を正統視する立場とする。エトノス・パターナリズムは「広義の内外環境(エトノス)とヒトの内面の両方の関係」に配慮したパターナリズムを指す(エトノスの委細は後述)。


<注2>アンシュタルト(Anstalt)

・・・一般的には、公共施設、刑務所・病院・学校などの公的営造物、観測所などのことであるが、マックス・ウェーバーはこれを「家以外の私的統治権力の拠点としての教会、修道院の官僚機構、労働組合、更にそれらをモデルとしている学校、軍隊、工場、病院」などによる私的な統治権力の意味として使用した。

・・・この概念を援用しつつ、より広く理解すれば、今や「果てしなき格差拡大装置」と見るべき新自由主義なる“ホモエコノミクス(経済合理的人間)が重宝する怪物と化した市場原理が支配する内外の空間“こそ現代世界の代表的なグローバル・アンシュタルトということになる。

・・・但し、この私的な統治権力であるアンシュタルト(市場原理)をオール悪と一括りに断定するのは短絡であり、むしろそれは善と悪が混在する両義的なものと見るべきだろう。それどころか、悪へ傾斜したアンシュタルト、例えば「市場原理主義の暴走」で出現する<格差>の放置など、種々の不条理を逆説的に気付かせるのはそのアンシュタルトに関わる冷静な観察であり、次に、その気付きへ如何に対処すべきかという政治的思考の地平に浮上するのが「リベラル共和主義」の問題である。

・・・また、そのような深層に潜む最も肝心な問題を発見し、絶えず<アリの一穴>を穿ち続けるのがジャーナリズムの本来の役割であるが、特に近年の日本メディアは、暴走権力側が一方的に下賜する情報に対し、いそいそと過剰な<忖度>回路を提供するだけの<倒置・倒錯のジレンマ>に嵌っている。 


・・・


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ニコラ・ユロ氏は元「緑の党」である。更に情報を集める必要があるが、仏「緑の党」は新環境相ユロ氏ら現実主義派と極左系急進派『服従しないフランス』(多くがコチラへ移動)に分裂したため『緑の党』自身の国民議会での議員数は減少した模様?しかし、おそらくマクロン新大統領は「リベラル共和主義」(フランス共和主義の再建)を近未来の視野に入れたようだ?(関連情報、http://urx.red/EsDdhttp://urx.red/EsDn


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このため、ユーロ・コミュニズムor欧州エコロジー急進派の可能性からすれば後退とも見えるが、この流れが「仏新自由主義」路線の大きな変革(アンシュタルトとしての暴走“新自由主義”の超克)の可能性、および「市場原理上の効率性」と「原発なる核平和利用の技術リスク」(戦争リアリズム経済論の裏ヴァージョンにすぎない代物!)の両面評価による、仏原発政策の大きな転換という新たな希望の道筋への可能性が高まったともいえる。


また、その現実主義はフランス民主主義(仏革命以来の伝統を引き継ぐ仏第五共和国憲法下の)、ひいてはEU全体の民主主義を、ドイツとの協力一致で更に深化させ得る「権限=権限問題」の克服の可能性が大きくなりつつあり、その新たな胎動の芽生えがフランスで見られる可能性が高まりつつある。それが「リベラル共和主義」への新たな動向だと思われる。


『“EU⇔各国”の権限分担』の問題は、G.H.ミード(米国プラグマティズム社会学者)の「客我(社会的自我)/I」と「自我/me」による「ヒトの社会関係におけるダイナミクス“進化”」を連想させる。仮に、「リベラル共和主義」へ深化するとしても、そのプロセスは容易ではないが、そこでは必ず“他者の態度の内面化”の繰り返しが伴うはずなので、時間は必要としても格差・移民の難問も解決方向への新たな展望が期待される。


具体的に見れば、EUの『権限=権限、問題/“EU⇔各国”での分担』は、マーストリヒト条約(1993発効)、リスボン条約(2009同)を経て、個別授権原則、補完性原則、比例性原則の三つの内容が明確化されてきたが(参照、http://urx.red/EsG5 )、今後はEUのリーダーである仏・独の両国が、おそらくリベラル共和主義的な方向性の中で現実的な対応を採る可能性が高い(特に環境・エネルギー政策、経済格差是正、人権・移民などの分野)。


因みに、20170702都議選で小池都知事が率いる都民ファーストが、安倍政権(ウルトラ極右ファッショ/19〜20世紀型の戦争リアリズム経済論なるアナクロ妄想の虜、追憶のカルト/侵略戦争〜冷戦構造型戦争リアリズム経済論/原発(原子力平和利用なる巧妙な印象操作)も同じジャンル)が応援する都議・自民党に圧勝したことを称賛する報道が溢れる一方で、その小池知事の正体(安倍と同じ日本会議のウルトラ極右ファッショの異常価値観で同衾)を暴き、指摘する報道が皆無に近いのは何故か?


それは、所謂ウソ・ニュース(ネット上のSNS等で穿たれ多孔化した現実世界のアナから、十分な文脈が省かれた部分的な意味だけが他の断片化した意味と容易に接着しつつ日常的に発生する/社会学者・鈴木健介、http://urx.red/EsI1)の爆発に、主要メディアが怖気づいているのも一因と思われる。従って、日本メディアはトランプ禍の米国の現況を他山の石とするべきであろう。


もし、それがなければ、仏マクロン政権の「アンシュタルトとしての新自由主義」を超克しようとする先進的な動向はおろか、おそらくポスト・トランプの米国ではフランス同様に「リベラル共和主義」型の民主主義(格差が解消不能な新自由主義の修正)へ向かわざる得ないと予想されるため、日本は最大の同盟国として頼む肝心の米国の最新動向にも益々大きく後れをとる可能性が高い。


(関連情報)

・・・以下は、フランス環境相に元“緑の党”二コラ・ユロ氏が就任したことを報じる、「緑の党グリーンジャパン」と「時事コム」の部分転載・・・


◆フランス環境相に元緑の党二コラ・ユロ氏/20170519緑の党グリーン・ジャパンhttp://greens.gr.jp/world-news/20304/ 


・・・途中、省略・・・マクロン政権の経済政策は新自由主義的な面があり、原発推進派が環境大臣に任命されると予想されていただけに、この人事に衝撃が走っている。特に、ユロ氏の入閣が報じられると株価が下がった電力会社は警戒心を露わにし「今後も原発がこれまで通り推進されることを望む」という文書を公表した。・・・途中、省略・・・ユロ氏はメディアの取材に、「原子力産業のビジネスモデルは、過去のものだ、再生可能エネルギーの方が競争力がある」と語り、再生可能エネルギーへのシフトを目指すとしている。・・・以下、省略・・・


◆ユロ環境大臣誕生/イタリアボローニャで開かれていた先進7カ国(G7)環境相会合に出席したフランスのニコラ・ユロ環境大臣=20170612/AFP・時事 山口昌子 702jiji.com http://www.jiji.com/jc/v2?id=2017franceactu_02 


ついに、ニコラ・ユロがマクロン新政権で環境移行連帯相に就任した。首相、内相に次ぐ政府のNo.3のポスト。しかも内務、法務相とともに国務相(副首相格)の肩書付き。新政権の環境問題重視、市民参加の象徴である。・・・途中、省略・・・ユロは政府の指南役として活躍した実績があり、パリで昨年末開催のCOP21(第21回締約国会議)では大統領特使として参加国を回り、根回しもした。・・・途中、省略・・・今回、大臣への誘いを快諾したのは、「希望と未来」を託した若いマクロン大統領に期するところ大だからかもしれない。=「ふらんす」2017年7月号掲載=


2 あるべき必然の流れとしてのリベラル共和主義へ(H・アレントフーコーのノモス・エトノス観念)


(“産業社会論→同組織論”の変遷で見える資本主義(20世紀以降)の変質)


・・・そこに透けるのは、“国家理念不在(というより、戦前型『軍事国家主義』への回帰をカルト狂信(追憶のカルト)的に願望する異常な政治意識下で)のアベノミクスなる経済政策は見せかけの雇用増加なる、根本的な政策意識(健全な国家理念)の不在による労働生産性の劣化をごまかすという悪意に満ちた「印象操作」だった、という恐るべきリアル!・・・


およそ、「19世紀帝国主義の時代」から「東西冷戦終焉の時期」(ソビエト連邦の崩壊:1991年)頃まで(その日本のピークは1960年代高度成長期)の時代に、社会経済のパラダイムとして世界を支配していたのが「産業社会論」である。


それは、ガルブレイス、W・W・ロストウらを代表者とするものだが、端的に言えば「テクノロジー万能」信仰が<「市場原理」と「所有重視論」(ストック論)>に優越する時代であった。また、その時代の特徴は、米国の産軍複合体が西側諸国の国民を睥睨する環境の下で、米ソの二大軍事大国が競合する時代(戦後日本は米国の傘の下で平和主義を素直に主張できた時期)であった。


この産業社会論の時代に続くのが、今度はゲーム理論情報科学などの新しい分析手法を取り入れつつ、「市場原理」を<「テクノロジー」と「所有」>の上に置いて「金融、法人、労働力、福利厚生、技術研究・開発力など全ての要素費用」を商品(神の見えざる手の操作対象)と見なすネオリベラリズム(新自由主義)」の時代に入り、今に至っている。


換言すれば、これが長期的な完全競争市場に「企業組織の要素」(金融、法人、労働力、技術力など)と「企業そのもの」の代謝と同化(スクラップ&ビルド/M&Aらの市場原理による効率化)を任せる「産業組織論」の時代である。因みに、この考え方のリーダー格はハーバード学派とシカゴ学派の二派であるが、後者の方がより厳格な市場原理主義の方向へ傾斜している(参考/http://ur0.work/Exlj)。


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しかし、上で見た「市場原理」主義の暴走の為すがままに任せていれば、やがて、その矛盾で格差拡大が持続的に拡大するに止まらず、トマ・ピケティが『21世紀の資本/r(資本の収益率)>G(GDPの成長率)』で指摘したとおり資本主義そのものが崩壊(終焉)する恐れがある。


つまり、誤謬の「流動性の罠からの脱出論」に因る異次元緩和(アベノミクスのベースキャンプ)が日銀(安倍政権)によって、更に強引に続けられることになれば(金融資産増加と不動産価格の上昇がGDP増加率より高い状態が長く続けば)、財政破産リスク(ベイル・イン(min.一定の預金額削減)、株価・不動産等の減価(min.3〜5割程度?))の確率が高まる。


f:id:toxandoria:20170720152257j:image:w250そのため必須となるのが、大胆な軌道修正の決断で「市場原理」を<所有(ストック)、労働力、福利厚生、技術研究・開発力(テクノロジー)など諸々の要素費用>の下に置くこと、いわば<市場原理を様々な要素費用のツールとして明確に位置づけたうえで、井手英策『経済の時代の終焉』(岩波書店)が提示する“相互扶助・再分配等で市民生活へ安心感と信用を取り戻す、斬新な国家財政・戦略への変更http://ur0.work/ExEq”を併せて実行する>という根本的な発想転換である。


言い換えれば、それは「ネオ産業組織論」の時代へと船出するため、勇気を奮って大きく舵を切り方向転換をする「政治的な決断」だ。中でも特に重要なのは稲葉振一郎『政治の理論』に倣いつつマルクスの用語で表現すれば「ルンペン・プロレタリアート新自由主義の超格差社会で続々と生み出される無産者層/資本主義社会の底辺部で主権者意識が希薄化し無産化した貧民層」のストックを確実に底上げできるよう、財政・金融・税制・成長・福祉に関連する諸政策を具体化する」ことだ(参考:ストック型社会論、http://foss-stock.org/home/stock1)。


それは、現在の「市場原理型の格差拡大構造」を放置した儘の分配論とは全く異次元のことであり、現在、この新たな方向へ舵を切る可能性が最も高いと思われるのが、冒頭でも触れた仏マクロン政権であろう。それは、そもそも市場原理主義者と見なされてきたマクロンが、元“緑の党”の活動家ニコラ・ユロをNo.3の重要ポスト・環境大臣に抜擢した決断に表れている。


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然るに、安倍政権は、バブル崩壊リーマン・ショック後の日本の凋落トレンドへの歯止めを意識してか(あるい『追憶のカルト』妄想の囚われにより)、今や、堂々と軍事大国路線(19世紀型の古色蒼然としたアナクロ産業組織論/その手法は新自由主義と野合するだけの戦前ソックリの国民調教&同主権剥奪式の国家経営/アベノミクス失敗を隠蔽する暴政)へと更に舵を切りつつある。


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因みに、服部茂幸『偽りの経済政策/格差と停滞のアベノミクス』(岩波新書)は、アベノミクスなる経済政策は見せかけの雇用増加なる労働生産性の劣化をごまかすための悪意に満ちた「印象操作」だったことをリアルに摘出している。


特に、同書の中で服部茂幸が「深刻さではそれらに匹敵するにも拘らず、いまも持続する“格差と貧困”の問題は大恐慌や金融危機に比べ余り目立たないので“そんな問題は昔からあった、いつの世でもあることだ”という説明で簡単に騙されてしまう、と指摘しているのが印象深い。


つまり、アベノミクス下の日本経済は“格差を抱え込んだ見かけだけの低成長が長期化する”という一種の難病に罹患している。その見かけだけの低成長が持続する環境の中で、一応は雇用状況が改善している(と、見えるだけ!)。


が、ここで“一応”の言葉を加えたのは、デフレ脱却にも実体経済の回復にも失敗した日銀異次元緩和(リフレ派のマネー増刷/マネーばらまき原理主義)の下、トータルの延べ就業時間が微減か横ばいである一方で就業者数が増加したのは主に短時間就業者数が増加したこと、いわば労働生産性上昇率がほぼゼロであったことを含意する。


労働生産性の上昇は、仮にそれが低いとしても(アベノミクスでは、それがほぼゼロ!!)リアル経済成長を進める上でも最も重要なファクターである。特に、少子化傾向が続くと見込まれる日本での労働生産性の上昇(同時に、その上昇を如何なる産業分野に振り替えつつ、それを効果的に分担し合うか)は死活的に重要な問題である。だから、中長期的に今のままの状況(アベノミクスなるインフレ政策一本やりのマネタリズム)が続けば、日本の経済成長はほぼ絶望的になる、と服部茂幸は指摘する。


また、文化資本主義という用語こそ使わないが、同書の中で、服部茂幸は世界大恐慌の時に米ルーズベルト大統領が行った「ニューディール」(1933〜1936)に、もう一度、率直に学ぶべきだとも主張する。この政策に関わる議論は今も続いており、極端な例では「結局、ニューディールは無効だったが第二次世界大戦へ向かう戦時特需がポスト大恐慌の世界経済の救世主になった!」という、殆ど暴論に近い「戦争救世主論」(戦争リアリズム経済論)もある(ニューディールの柱の一つ、TVAについては第三章で触れる)。


ごく冷静に考えれば、実は、大恐慌や金融危機の時には、自由原理主義(アダム・スミス“市場の神の見えざる手”の短絡的理解に因る誤解!)の決定的な弱点(マネー原理主義故にノモス的(ノモスの委細は後述)な意味で非常に重要な元手(資本/付加価値として創造されるマネーの元手)の存在を完全に見落としていること)が赤裸々に露呈している訳であり、その希少な機会を利用しない手はないのだ(文化資本主義については、第三章で詳述する)。


(そもそも共和主義とは何か/先見的なH・アレントのノモス観念の再発見)


共和主義(古代ギリシア都市国家の如く市民・国民の全員が政治に参加するか、あるいは現代フランスの如く選挙で選ばれた代表者が国政に当たり、国民全員の利益と厚生のため国を統治すべしとする政治思想)は民主主義と同一視されがちだが、必ずしもそうとは限らない。


16世紀〜18世紀に現在のオランダおよびベルギー北部フランデレン)に存在したネーデルラント連邦共和国(1581年のオランダ独立宣言で成立)は貴族代表制の共和主義であったし、理論上は君主国の共和政もあり得る。例えば、これは安倍政権が内心で崇めているらしい(?w)“名バカり&国民主権・完全否定”の特殊事例だが、「北」もれっきとした共和国(朝鮮民主主義人民共和国)である。


一般的には仏大革命(1789)の3年後に出された「共和制宣言」(1792)で成立したフランスの「第一共和制」(1792−1804)以降の時代になってから、選挙で選ばれた代表者による共和主義(共和制)が普通のことであると、広く世界で認識されるようになった。しかし、ここで忘れてならないのは、古代末期〜中世〜近世初期においては君主制が普通であり、歴史的に共和主義のリアリズムを見出すには一気にギリシア・ローマの古代・古典時代へ遡る必要があることだ。


そして、その古代ギリシア時代のアテナイスパルタらの都市国家(直接民主主義の共和制)の中に、「非常に厳格な共和主義のルーツ」を発見したのがC.シュミット(法学者/ワイマール体制の議会民主主義、自由主義を批判し、一時、ナチに協力)、ハイデガー(解釈学的現象学を確立し実存主義へ大きな影響を与えた哲学者/同じく、一時、ナチに協力/ハイデガーとナチの関係は下記★を参照乞う)、H.アレント(独出身、米国で活躍した哲学者、ポピュリズムファシズムの関係等の研究で重要/Cf. http://urx.blue/Eufz)らである。


アレントは、特にスパルタを重視しており、そこには例えば“そもそも民主主義と自由主義は原理的に相反関係にあるということ”など、今や止まるところを知らぬかにさえ見える日本政治の極右化トレンド(“安倍&小池”「両ファッショの深部共鳴など)、あるいはトランプに翻弄される米国らにも相通ずるアポリアの発見があり、その儘そっくり現代世界にも通じる非常に困難な問題点”を発見している(稲葉振一郎『政治の理論』)。


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<補足1>5月に就任した仏マクロンの支持率が10ポイントDnし54%になったことが7.23に公表された(816現在では、更に下がって36%となった!苦w)。しかし、「共和主義」否定(コミュニティ破壊)に走るトランプの支持率Dnと、共和主義の再構築を図る仏マクロンのそれでは理由が全く異なるので、これからがマクロンの正念場かも?

(Cf.⇒http://urx3.nu/EUyH


<補足2>ハイデガーとナチズムの関係

・・・ハイデガーは、西洋文明の巨大化に危機意識を持ったことから、ナチスへ入党した。しかし、論文で田野大輔氏が指摘するとおり(参照/下記URL)、「結局、本質的には過剰な道具的理性(ある意味で偏狭な科学合理・還元主義の視点で自然を見下す近代人間社会の傲慢さの極み)の支配に加担することにすぎない」と理解する。このナチズム本性を見抜いたハイデガーは、やがてナチズムと距離を置くことになった。http://urx.blue/EuhB


(ノモス観念的なアレントの「社会」から見えてくるリベラル共和主義の可能性)


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そもそも、エトノス内におけるエントロピー解放手段としての暴力装置(暴政、戦争、財政危機など)を内蔵せざるを得ない国家(統治パターナリズム)の基盤である「法」の根源が、C.シュミット、ハイデガー、H・アレントらの如くノモス(nomos/ノモス法/あるいは、そこに住む住民が平等に与えられる“ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前”だと見る位置に立てば、アレントの「社会」の先に、政治・経済が協働して当たるべき真の役割(アレントの難解さをフーコーの視座で再構成したもの/同上『稲葉振一郎』)が見えてくる。


これこそが、そこから浮上する「リベラル共和主義」(リベラリズムと共和主義の十分な均衡による貧困問題などの根本的解決)という新たな方向性だ。そこでは<「現代の民主主義国家における統治権力(パターナリズム)と個々の労働者の間を仲介する「労働組合の役割」をノモス法の原点と照らして本格的に見直す>ことが最も重要な課題である。つまり、一般の国民・市民層の『日常生活の営み』という日常経済のリアリズムの活性化に関わる政治活動に、常時、取り組むことが最も重要な労働組合の役割であり、特に無産化したルンペン・プロレタリアートの有産化への取り組みが急務である。


別にいえば、只の既得権と利権の「保守機関」と化している労働組合を“社員(市民)の日常生活とビジネス現場の活性(政治)化”を支える有効な組織へと、その位置づけを見直す)」ことである(同上『政治の理論』。


「労働組合」は、リベラル共和主義の時代にこそ、貧困の根本的な解決のために必須の“産業民主主義(産業組織論)のベース・キャンプ”となるべきだ。そこへ、もう一つ加えるべきは(委細は後で触れるが)、内外の市民層が主役となるアソシエーションの問題(日下部 史郎『新自由主義に抗して―スーザン・ジョージ世界市民運動―』)である。


今や、「左派Vs右派」の対立意識をここに持ち込むのは只のアナクロニズムであろう。そして、アレントが「貧困は、“公益と私益の、又は民主主義と自由の相反関係”から生ずる」と言いながら、その解決先を示していないかに見える点も難解さの原因ではないか。


また、古代ギリシアのポリス(特にスパルタの共和政)を理想とするアレントの“リベラリズムへの厳格な批判”が、一面では超保守主義(過剰パターナリズム)にさえ見えてくることもその難解さの原因かも知れないが、このアレントの「社会」の難解さ(それは政治・行政に関わるアレントとフーコーの視野対象の差異に起因する)からこそ、リベラル共和主義の可能性が見えてくるのだ(同上『政治の理論』)。


(リベラル共和主義に必須のインフラとして文化資本主義、ノモス、エトノス、フーコーの統治理性、マイクロバイオーム、クオラムセンシングが共鳴する)


・・・文化資本主義とノモス・・・


先に結論を言ってしまえば、リベラル共和主義の理解には、文化資本主義、ノモス、エトノス、フーコー“統治理性”、クオラムセンシングなど、先進的な人文社会・自然科学の両分野に跨る概念の統合的な理解(両者の客観統合のトポス/コンシリエンス(consilience)、http://u0u0.net/EyJ6)が必須と思われ、その統合的な理解の中から「政治と経済に関わる創造的でユニークな観点」が続々と湧き出すと考えられる。その委細は最終章(第4章)に回すとして、ここはその主要キーワードの定義の説明に止める。


アレントの「社会」から見えてくるリベラル共和主義の可能性を明確に視野に取り込むためには、ノモス(nomos)についての理解が最も重要なカギである。文化資本主義については次章(第3章)に任せるが、先ずここではエトノス、フーコーの統治理性、クオラムセンシングについて簡単に触れておく。


・・・ノモス(nomos)・・・


「法」としてのノモスは古代ギリシアの社会概念で、より古い時代には「神々と父祖伝来の伝統(現代風に言えばエトノス、自然・伝統文化環境)が定めた行動規範」としての「法」、あるいは同じく、そこに住む住民が平等に与えられる「ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前」を意味していた。


従って、ノモス法は現代的な理解である文章で表現された抽象的な「法」の内容だけではなく、一定地域の自然環境、土地、建物、市街地、橋、道路など目に見えるモノとしての公共財(インフラ)と離れ難い存在であった。現代風に言えば、それはエトノス自然環境とも離れ難い存在であり、フーコーの“統治理性”を理解するための必須概念となる。


・・・エトノス・・・


エトノス(ethnos)とは『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化環境と深く共鳴して“人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”となし得る開放系の共有観念、および風土または過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化(マイクロバイオーム世界の理解)を常に受け入れつつも、その伝統的なヒューマン・スケールの全体性の“持続”を最も重視する、非常にしなやかで幅が広い寛容の意識、およびその受け皿となるローカルの風土』を意味する。


しかし、そのethnosは古代ギリシア語に由来しており、それは村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団のことを意味するから、エトノスの意味は、そこに置かれる人々の立ち位置が変われば正反対になり得るので、そもそも絶対的で画一的な評価を伴う言葉ではなかった(関連、http://u0u0.net/EyB6)。おそらく、それは「生命」現象そのものと同じく、永遠に揺らぎつつも持続性を必死で繋ぎとめるべきものであるのかも知れない。


・・・マイクロバイオーム・・・


R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著・刊)によると、我々の体内に棲む膨大な数の細菌類がマイクロバイオーム(Microbiome)という宇宙的な規模の纏まり(ウイルスまで入れると、それは超100兆個の新世界、宇宙規模!の発見を意味する!)であり、彼らの全て(そのDNAも含む)が刻々とヒトの細胞やDNA、およびエトノス環境と直接的な遣り取り(水平移動・交換・交流・共感・妥協)をしつつ我われの身体の生理機能を調整し持続させていることが、ここ数年来の研究で急速に解明されつつある。


因みに、今でも先端科学知の典型と見なされているものの疾うに2003年に全DNA解読が完了した「ヒトゲノム・プロジェクト」では、従来型の科学観の範疇のままではその更なる医学的・社会的応用の側面で限界が見えている。そのため、愈々、DNA研究でも、これからは「エトノス(マイクロバイオームの新世界を視野に加えた新たな自然主義の視点)、コンシリエンス、AI活用」などによるビッグデータ解析型への脱皮が求められている。


・・・クオラムセンシング(定足数感知)・・・


同じく、R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著)によると、近年のマイクロバイオーム研究で多くの細菌がクオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)のシステムを進化させてきた。


クオラムセンシングは、ある一部の細菌が「正体が知れぬ相手に対し仮の名づけ(ネーミング)を行い、その見立てに応じ自らのシグナル伝達要素(分子)、又は自由誘導因子(オートインデューサー/同種菌が生産するシグナル物質)などの分泌(フェロモン様の物質であるクオルモンらの産生)を調整するシステムのこと。


我われヒトの体内エトノス空間と外界である自然エトノス環境との仕切りにも、これまで考えられてきたほど明確で強靭な壁が築かれている訳ではないことが分かってきた。


むしろ自己アイデンティティーの保全(政治理論の分野と、この科学知を比喩的な連結を試みると、例えば国民主権を保全する意義とその必要性がリアルに理解できる!)は強靭・強固な壁よりも<強かなしなやかさ>で保全されていることになる。だから、このような自然科学の先端知が、フーコーの統治理性の問題と深部共鳴することが容易に想像される。


・・・「リベラル共和主義」の条件となるフーコーのノモス・エトノス的な統治理性・・・


フーコーの統治理性の対象には、このようなノモス・エトノス的な意味で非常に危ういとも言える、地球上の全ての生命環境が明確に視野に入っていたと思われる。


しかも、その対象は“国家とその国民層(法的統制)”だけに止まらず、法的統制と共鳴するエトノス自然環境とマイクロバイオームに繋がる生命世界(生政治/『監獄の誕生』)、果ては“家政⇒市場原理主義の過程で変遷してきた”経済・財政・社会(アダム・スミスの『見えざる手』=市場なる匿名的権力)に翻弄され続ける市民社会に至るまで、という具合で非常に広範に及ぶ。


そこで、我々が注目すべきは、アレントとフーコーの両者が、共に取り組んだ仕事のテーマが「人間性の歴史、つまりリベラリズムの歴史」への評価という点で共通していることだ。この視点こそが「リベラル共和主義」の可能性の問題に繋がる訳だが、その委細についても第4章へ譲ることにする。


3 そもそも「文化資本主義」(リベラル共和主義と相性が良く、ネオリベの過激な副作用、“格差拡大”で疲弊した経済の良循環化が可能な)とは?


・・・ノモス・エトノス観念でこそ理解し得る文化資本は、リベラル共和主義の土壌!・・・


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「文化資本(主義)」には確たる定義が定まっている訳ではない。が、ここでは池上淳著『文化資本論入門』(京都大学学術出版会)などを参照しつつ、仮説的に方向性を見据えるという、ごくゆるい視点に立って、近未来の日本のあり方をも考えてみたい。また、フレーム的な役割を担うと思われる素材の一部として、それをめぐるヒントを幾つか纏めておく(池上淳:京都大学名誉教授/財政学、文化経済学)。先ず、ここでは俯瞰的に「文化資本主義の革新的役割」と思われる点について、稲葉振一郎の「フーコーの“リベラリズムの統治理論”」の説明(『リベラル共和主義』より)などを参照して纏めておく。


(関連/参考情報


『アベノミクスこと“安倍晋三『追憶のカルト』+ネオリベ(新自由主義)なる理念不在のインチキ経済・財政政策”が、近未来の日本に暗澹たる影を落とし始めた現実』の恐るべき事例


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★【酷すぎ】内閣府が年金支給開始年齢を70歳よりも後にできる制度作りの検討を開始!有識者検討会「75歳とか、もっと延ばしてもいい」

Yahoo!ニュース朝日新聞) 2017.7.19 http://yuruneto.com/nenkin-naikakuhu/


・・・


●文化資本主義の革新的役割は、「外国人、観光客、都会人、ビジネスマン、その他の庶民層など諸々の民族・性差・身分差・年齢・職業などの壁を越えた多様な来訪者である外在性との触れ合い、つまり異質性と親密さの空間を共創(造)することである。これは、<「我々の知識や信念の総体は、周縁部(fringe)でのみ個々の経験と接しつつ、夫々の信念体系内の各命題に割り当てられていた真理値を再配分する人工の構築物として変化し続ける」という、あのウィラード.クワイン(米国の哲学・論理学者)の「ヒトのコミュニケーションを説明するメタファー」を連想させる(関連参照/http://urx2.nu/EFpU)。


●また、文化資本とは、例えば池上英子『江戸期プロトモダニティhttp://u0u0.net/EyAB』の如き伝統・文化から生まれるスピリットを地域の伝統産業などの中に取り込みつつ内在化させて、そこから新たな外在性(偏執的なマネタリズム市場原理を超えた付加価値創造的な視点の発見など)を生み出す、まさに「“リベラル共和主義”の時代に相応しく、ノモス・エトノスも十分視野に入れた持続的で漸進的な経済活動の原動力となり得るもの」である。


●端的に言えば、文化資本主義は旧来の新自由主義(マネー市場原理主義の暴走)の奔流に飲み込まれてしまった、大量画一生産とグローバルスタンダード(世界標準化)なる、現代の世界でメジャー視されている「新自由主義に基づく資本主義経済」へのアンチテーゼである。


(文化資本主義の基礎構造について/三つの類型)


先ず、この『文化資本論入門』が示す文化資本の四つの類型からエッセンスを敢えて三つに集約すると以下のとおりになる(ベースは池上淳氏による分類/一部をtoxandoriaがアレンジ)。


(1)国や地域の総合イメージの母胎となる有形無形の「象徴型文化資本」(集合意識も含む累積された歴史経験の象徴)


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・・・日本の「象徴天皇制」はその最たるものと言えるだろう。委細は下記ブログ記事◆を参照して頂くとして、上の池上英子『江戸期プロトモダニティ』の記述を部分転載の形で、少しだけ此の問題に触れておくならば、それは「徳川幕府は古来の歴史を背景とする皇室(朝廷)と京都の貴族文化が持つ象徴的・美的パブリック圏(日本文化の核心たる“美と礼節”の領域)を大公儀のバックボーンとして利用せざるを得なかった。これこそ、日本の歴史・文化の本流と見るべき日本の権力と美学の<保守>に関わる絶対に避け得ない事情であった。それ故、日本の正統保守を定義する場合に避けて通れないのが此の意味での皇室・朝廷文化にルーツを持つ美的パブリック圏(日本の文化と学芸の領域における皇室(朝廷)・貴族文化の公的権威を象徴する有職に関わる知識・教養・知恵の共有空間)の問題である。」ということだ。

・・・その意味でも、戦前型への「追憶のカルト」(安倍政権が執拗に謀る現人神天皇制の取り戻し=正統保守を騙る、偽物ウルトラ保守の意味で偽装極右と呼ぶべき!/リベラル共和主義と真逆の暗黒世界への退却!)は、日本の未来の運命に関わるオール政治・文化・経済を破壊する致命的な誤謬である。


◆盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている/2017-05-18toxandoriaの日記、http://urx2.nu/EFlf


(2)目に見える見えないかの別を問わず、地域固有の「空気」に触れる中で、職人、商人、顧客(市民と来訪者)が生み出す地域固有の伝統や習慣、リピーターらとの対話による商談システムと品質デザイン等の創造開発、生産・流通・消費システムの開発など。


(3)(1)象徴型文化資本(換言すれば、正統保守的な価値観/補足、toxandoria)を媒介とした「目に見える広義の文化遺産」と「目に見えない広義の文化遺産」の統合が生み出す、「都市と農村・地方の交流」、「広義の社会人大学など地域アカデミズムの立ち上げ」、「広域公共文化圏の育成」など。


エンドレスに文化資本のタネを発見し続けるためのプロセス/池上 惇氏による)


(a)旧来の資本主義における経済資本は「マネーを増やす元手」であるが、文化資本は「文化そのものを生み出す元手」である。>


(b)最も重要な「文化資本」のベースは「象徴型文化資本」の理念の理解を深めることだが、リアル経営体が持つ「組織名」、「企業名」などから着手し、具体的活動を先行させることが先ず肝心である。

・・・この方針のもと、池上氏は遠野(岩手県)、高山(岐阜県)、京都などで文化政策まちづくり活動を実践してきた。


(c)次のステップとして大切なのは、(b)の経験を介しつつ地域固有の(a)「象徴=シンボル」の背後にある集合意識的な深層を探求することで、具体的な文化資本に基づく個々のアソシエーション的な活動の中で「目に見えない新たな文化資本」を発見してゆくこと。

・・・つまり、あくまでも文化資本は「マネーではなく、文化そのものを生み出す元手」であることを忘れないことが大切であり、マネーの増加(旧来の経済で言えば付加価値創造、経済成長)はその結果とみるべきである。


(リベラル共和主義への希望の土壌、文化資本が育む“アソシエーション経済”のネットワーク創造への期待)


今や、全世界は事実上の主流経済派である新自由主義(ネオリベラリズム)の錦旗の下で生き残りをかけた激烈なグローバリズム競争が進行中であるが、その最先端は国際金融市場である。そして、その新自由主義のトレンドはIOT、AI(人工知能)らの進歩と相まって日々にムーアの法則を遥かに凌駕するほどの驚愕すべき勢いで急激に加速しており、その激烈な副作用である格差の拡大が止まるところを知らずの恐るべき状況となっている(ムーアの法則:インテル創業者の一人、ゴードン・ムーアが唱えた“半導体の集積率は1年半で2倍になる”という経験則)。


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その新自由主義が如何にして何時に誕生し、如何なる戦略下でグローバル展開がなされてきたかについては、「戦後の米国一極支配体制の成立史」と「多国籍コンソーシアム」の二つの切り口から分析・批判して、新たな可能性の方向である「社会運動家スーザン・ジョージのアソシエーション(トランスナショナル世界市民運動)の可能性」を報告する注目の書、日下部 史彦著『新自由主義に抗して スーザン・ジョージと世界市民運動』(SSBパブリケーションズ)が6月末に刊行されているので、ここに併せてご案内しておく。是非、一読をお勧めする。


さて、池上淳著『文化資本論入門』によると、それは逆説的な現象であるが、近年はIOT、AI(人工知能)ら情報処理技術がますます高度化するにつれて「画一的な製品を大量生産する形」から、まったく正反対に「各顧客の多様で個性的なニーズに合わせることを得意とする多品種少量生産の体制」が可能となってきている。


このように新たな生産工程(生産工場)が誕生する可能性が拡大するトレンドの萌芽は、過疎化など周辺環境の劣化に伴い急速に失われつつある日本古来の伝統産業や伝統工芸技術、あるいは個性的で希少なエトノス・自然環境も含む歴史遺産などを再発見し(当然、日本だけとは限らないが)、いよいよ本格的にそれらを再活性化するか、あるいは内外の人々との繋がりを最重視するアソシエーションへと高度化するチャンスが次々に生まれるようになるとも考えられる。


無論、この場合のアソシエーションは、政治・経済的な市民の連帯・提携運動というよりも、地域産業や地域の個性的魅力に関わる問題意識の共有化、類似の伝統工芸技術等に関するアイデアの創造、又は広域観光事業などについての非常に幅が広い連携とネットワーク活動の意味である。ところで、この伝統産業・伝統工芸技術などに関わる多品種少量生産については次のような特徴がみられる。


例えば、ある優れた職人の仕事の制作工程では、AI装備等の機械に任せられる部分と、機械では実現できない精妙かつ精巧な熟練した人間、つまり職人の技巧、判断力、感の発揮などが繰り返され深化する工程の中には、その技術(者)自身が絶えず成長して行くファクターが混在していることが多いとされる。その意味で、これは芸術的価値や芸術世界の創造性との接点とも見えてくる。


一例を挙げると、近年は韓国・中国で日本伝統の「木造家屋」建築技術(クギを使わない木組み技術)と優れた日本産の森林(家屋建築)材への関心が高まっており、日本自身が見失いかけている木造伝統技術を再生し、それを輸出産業化するチャンスでは?と期待が膨らんでいる。そもそも木組み技術は古代に半島・中国から伝来したものだが、これら両先輩国では殆ど関連技術が消滅しており、日本が得意とする一定の少量特注生産へのAI技術を活かした対応などに期待が集まっている(関連/参照↓◆)。


◆韓国でヒノキブーム 日本の木造建築学ぶ20170526岐阜新聞

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20170526/201705260917_29731.shtml


大量生産の論理・工程をこれら伝統産業の中で内部化する(そのためのビッグデータ等の判定・評価はAIが得意!)ことによって、どのような顧客ニーズにも臨機応変に応えることが可能な製品を一定量ごとに適量生産する体制が整うと同時に、それら仕事の受注により、一人ひとりの優れた職人の仕事そのものが更に磨かれる機会が増え、より優れたものとなる可能性が高まる。しかも、その代替が困難な特殊な技術をやる気がある後継者へ確実に伝えることも容易となる訳だ。


そのような形で伝統産業の遺産が潜在する日本全国の町や村、あるいは諸都市の中に点在する旧市街地や津々浦々に埋もれ消えかかりつつある伝統産業、伝統工芸技術などを意欲的に発掘し、あるいは再発見し、それらに関わる新たなベンチャー投資や、新たなニーズを掘り起こし、又それらの生産活動にに取り組むことで、人口減・過疎化・高齢化・後継者難・シャッター通り化などで悩む地域経済の活性化も可能となる。


一方、これらを内外の観光事業とリンクすれば、そこから波及する産業と経済活動の範囲が格段に拡大することが期待できる(関連/参照↓◆)。


◆岐阜県(高山市など)には外国人観光客が集まる!

http://www.connect-to-world.com/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C/ 


◆フォト・ギャラリー/高山市などの風景、アラカルト

https://goo.gl/photos/yhyhCdeMd4WyiQYg8


(リベラル共和主義の土壌、文化資本主義へ覚醒した歴史上の先進事例)


・・・ヒントは、<マネー資本主義(市場原理)が暴走するか又は大恐慌の時に顕著に意識化される、マネーならず「特に地域におけるノモス、エトノス(自然・文化環境)」こそが我々の共通の元手(持続を保証する資本)だというリアル>についての気付き・・・


第1章のアンシュタルトに関わる説明でも触れたが、統治パターナリズムとしてのリベラル共和主義の可能性は、その暴走についての冷静な観察の中でこそ発見できることになる。例えば、私的な統治権力である市場原理主義が暴走した時に出現する<格差>の不条理を、逆説的に気付かせるのもその暴走するアンシュタルト自身だ。そして、その気付きへどう対処すべきか、という政治的な思考の地平から浮上するのが「リベラル共和主義」への希望の問題である。


ところで、稲葉振一郎『政治の理論』によれば、フーコーは精神医学・刑事司法などについての様々な言説の詳細な歴史的・文化的・学問的な分析によって、従来は「権力」と見なされてこなかった社会的な営み、つまりその文化・歴史・学問・技術的な体系の中に「権力」の作動と動因が観察されることを発見している。従って、フーコーの政治哲学には必然的に次第に科学史探求的な色彩を帯びて行くという特徴がある。


このようにして、フーコーの政治哲学(統治理性)に関わる視野の範囲は人文・社会科学という狭いドメインに止まらず、マイクロバイオーム的な視野も含むアプローチによる生物学、医学、生理学、生命科学、環境・生態学などの所謂「生政治」(凡ゆる生命・社会環境と個体生命を一元体に集約統治する権力/カトリックのヒトの“内面・生命現象”に関わる管理構造からヒントを得た司牧者権力、バイオポリテクス)のフィールドへと拡がって行くが、恰もそれは東 浩紀が「環境管理型権力」と名付けたノモス・エトノス的な、あるいはアンシュタルト的な概念に重なってくる。


その「環境管理型権力」は人々が自らの意志で楽しく行動する(繰り返しテーマパーク施設を訪れるリピーター型思考に因る)ことで、結果的に容易には可視化し難い強力なノモス(ネオ・ノモス?)的、アンシュタルト的な権力に管理・操作されてしまうという未来社会に想定されるイメージだ(出典:東浩紀、大澤真幸自由を考える』−NHK出版協会−http://ur0.link/EBcE)。


見方を変えれば、我々が、AI・IOTらの進化と共にこのフーコー「生政治」的なアンシュタルト統治の世界の中心に向かって、やや一方的に取り込まれつつあるのは間違いがないと言えるだろう。だからこそ、いま最もリアルに意識すべきものが、先に触れたエトノスとコンシリエンス(人文&社会両知の親和的融合)の認識という革新的な方向への発想転換である。なぜなら、それこそが民主主義のミニマム条件である「自由」と「生存権」を主体的(主権者的)に守り続けるための必須条件と思われるからだ。


更に重要なのはそのような意味で我々の日常性の次元が決定的な「生政治」の方向へ展開するという意味で全く異次元なアンシュタルト社会の到来に備えるため求められるのが、いまや無効化した「新自由主義」に代わるものとして位置づけるべき「文化資本」と市民生活の「日常性」に関わる政治・経済的なイメージの確立である。それは、我われ命ある者の「日常性」(文化資本に基く日常生活リアリズム経済論/国民層の日常性、つまり日々の生活の営みこそが持続的な経済成長の元手であることへの覚醒!)こそが「リベラル共和主義」のベースであり、それこそが持続的な経済成長の必須要因であるからだ。


(1)マネー資本主義(市場原理)の機能不全、「大恐慌」下の米国で出現したTVA「Tennessee Valley Authorityテネシー川流域開発公社」の文化資本主義の観点からの再評価


第一次世界大戦後の軍縮期を経て起きた大恐慌(マネー資本主義(市場原理)の機能不全)の泥沼から脱出するため、それまでの古典的・自由原理的な経済政策から、政府が市場経済に積極的に関与する政策へと転換した米F.ルーズベルト大統領のニューディール(1933〜1936)は、当時から今に至るまで、その効果に関わる評価では様々な議論が戦わされてきた。しかも、世界で初めてケインズ乗数理論を取り入れたとの定説そのものまでも疑う(同理論とは無関係だとする)議論まで現われている。


いずれにせよ、ルーズベルトはグラス・スティーガル法の制定(銀行法とも呼ばれる対金融活動の規制法/連邦預金保険公社・設立と“銀行⇔証券”の分離)と金融緩和策の緩急の組み合わせで金融収縮(取り付け騒ぎ)に終止符を打ち、米国の景気回復への道筋を敷いたことは間違いがなく、それは第二次世界大戦後の資本主義諸国の経済政策にも多様で大きな影響を与えたとされる。


なお、1999年11月に共和党が多数を占めた上・下院は「グラス・スティーガル法を廃止」し、銀行・証券・保険を兼営する総合金融サービスを自由化する法律を可決、クリントン大統領(民主党)が署名して同廃止法が成立した。このため新自由主義が金融をも自由競争に曝すこととなり米国経済は、その後、金融工学(コンピュータマネーゲーム)商品が暴走し、リーマン・ショックなどの問題を引き起こすことになった。


ともかくも、マネー資本主義(市場原理)の機能不全である「大恐慌」下の米国に出現した、一連のニューディールの主柱の一つであった「テネシー川流域開発公社」の仕事は、欧米史上で初めて「文化資本の理念を身につけた民間人(財界人、学者、弁護士ら)」が、政府の所有する放置されていた資産・資本を基礎に、「金融(マネー)市場での投機」経済から、機能不全と化した「資本(信用崩壊で殆ど無価値化したマネー)活用の場」を、「ルンペン・プロリアート化した雇用者マネーのフロー&ストックを増やす場」へ転換したという意味で、まさに「文化資本主義」を実行したプロジェクトとして高く評価すべきであると、『文化資本論』の著者・池上 惇氏が指摘している。


(2)日本/明治維新政府が特に日露戦争以降に悪しき精神主義の原理として<印象操作>で悪用した幕末前期の経世家、二宮尊徳の「仕法」(文化資本経営)に関わる再評価


二宮尊徳(通称/金治郎)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家であり、明治期以降に各地の小学校などに建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿(負薪読書図/ルーツは中国の朱買臣図http://urx.mobi/EBSnで、これが狩野派の伝統的な画題として定着していた)の記述は、明治14年(1881年)発行の『報徳記』が初出であるとされるが、これは尊徳の実像ではない。


報徳の地域再生構想や実践は「報徳仕法」と呼ばれるが、同じく池上 惇氏はこのシステムは現代にも十分に活かせる、まさに「文化資本主義」の実践であったことを指摘している。「報徳仕法」のエッセンスを端的に言えば以下のようになる。


「農業にせよ、商業にせよ、工業にせよ、あるいは公(幕府・諸藩ら)の財政であっても、およそ凡ゆる事業・公共事業は地域資源(環境も含めた自然、伝統文化、ヒト)の有効活用と合理的な計算を基礎としつつも、常に関係者全ての支持と共感を得ることが大前提で、近江商人と同じく三方よし(自分、相手、世間)を忘れず実践することにあり、余剰の金銭(付加価値創造としてのマネーの増加)はその結果である」


しかし、この二宮尊徳の先進的な「文化資本主義」の理念は、特に僥倖の勝利(まぐれ勝ち!)に過ぎなかった「日露戦争」以降には「国軍の父」とも称される山縣有朋らを中心とする人脈によって、軍事国家主義を支える偏った精神主義の方向へ著しく捻じ曲げられ(仕法オリジナルの文化資本主義的なエトノス観念的(≒リベラル共和主義的)な経営の実践は禁止となり)、結果的にそれは一般的にも「富国強兵国家」の精神的な原理としてだけ見られるようになり、まさに<印象操作>的に悪用されてしまった(参考⇒京都学園大学経済学部教授・川田耕『道徳と主体』

http://urx.mobi/EBSN)。


4 市場原理をリベラル共和主義の有意ツール化する/“見えざる手”の暴走を乗り越えるためのパターナリズムの方向性


・・・「中庸」を前提とする「合理性の限界」への気付きが決め手!・・・


現実的に人間は非論理的な行動をとることが多いが、経済合理的な個人(ホモエコノミクス)が前提の理論モデルは非合理な個人行動のモデルを構築する上でも大数観察的に有効(投票結果予測の出口調査に相当する)と考えられており、この合理性モデルをベンチマーク(比較のために用いる指標)として構築・活用するアプローチは一般に方法論的合理主義と呼ばれ、市場における消費者の選考(選択行動)の評価などで幅広く活用されている。


また、この“経済主体の嗜好や行動様式を表現する最も基本的な概念”である「選好」は、選択肢の集合上に定義される二項関係を意味しており、無差別関係(どの2点でも互いに差別がない水準を示す関係)や効用関数(ある財の組合せが示す効用水準の関係)も選好(関係)から導かれる(選好が合理性の条件を満たすとき、全く同じ情報を持つ効用関数が無数に存在することも知られている)。


しかし、ある経済主体(ホモエコノミクス)が2つの選択肢aと bについて、どのような主観的評価をしているかは直接観察することが出来ないので、経済学では直接観察することが可能な実際の行動の観察を通じて(効用関数に時間の要素を加味した動学的な視点を加えて)経済主体の選好を推定することになり、これが「顕示選好理論」と呼ばれる。


この顕示選好理論の実用性を直観的に分かり易く表現すれば、それは「顕示選好理論に基づく市場観察から得られた、ホモエコノミクスの最も代表的な消費行動パターン・モデル」を抽出して、ミクロ経済学の諸領域である、マーケティング、消費者行動分析、企業行動分析などで多面的に有効活用することができる、ということである。


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ところが、この顕示選好理論の規約定義(暗黙の約束事として前提されているルール)は「いずれにしても、ある経済主体(ホモエコノミクス)が自分自身の判断と責任で選択したものは、その個人の利益であると見なす/アダム・スミス“神の見えざる手”」ということであるが、実はこの点こそがホモエコノミクスを主人公とする「自由放任主義」物語の致命的な欠陥である。それは、「全ての“アダム・スミスの思想大系”が“神の見えざる手”一色だとするのは根本的誤解」だということが、次第に明らかとなってきているからだ(出典:若松良樹『自由放任主義の乗り越え方』(勁草書房))。


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この若松良樹『自由放任主義の乗り越え方』によれば、認知心理学の手法を経営学に導入した「行動経済学」の理論に基づく論文「A Behavioral Approach to Law and Economics 2000/Christine M. Jolls , Cass R. Sunstein,and Richard Thaler http://urx.mobi/ECbD /未邦訳」が、<実際の人間には市場原理主義が前提するホモエコノミクスとは異なる、下の「三つの限界がある」こと>を明らかにしている。言いかえれば、クリスティーヌ. M.ジョルズ(Christine M. Jolls/行動経済学者、労働法学者http://urx.mobi/ECci )、キャス・サンスティーン(Cass R. Sunstein/法学者、環境法学者http://urx3.nu/EGyH)らが、かの「自由放任主義」から新自由主義に繋がる一連の物語の致命的<欠陥>を見事に指摘したことになる。


(1)計算合理性の限界

・・・これは計算能力の限界に因るもの。チューリングマシンコンピューター、AI)の計算可能性問題(停止性問題の決定不能性定理http://u0u1.net/ECBy)に留まらず、例えば米トランプの如き思い付き型「恫喝政治」や安倍政権が好む「アベノミクスの失敗を絶対に認めず弥縫策(AI万能ツール視、原発リスクのゴリ推進、軍需&カジノ経済など)を出しまくるバクチ経済政策」は計算が不可能な“まさか(不確実性)=信用崩壊”の世界へ国民を陥れることに繋がる(浜矩子、http://urx3.nu/AHiu )。


(2)人間の意志力の限界(強靭な意志力の驕りは中庸に敵わず!/偶然に生れ落ち持続する生命の論理に反する!)

・・・哲学で言う「意志の弱さ」に相当。これも米トランプの思い付き型という「恫喝政治」に典型事例が観察される。長期的な利益(持続性)を無視させて「目先の短期利益」の方向へ人々を巧みに誘い込むトランプ・ポピュリズムは、この「人間一般の意志の弱さ」の逆利用。


(3)マイファースト自己利益の限界(オレ様のお零れ分配での共生ならぬ皆で仲良く共倒れの誤謬!)

・・・「マイファーストに因る“自己利益”最大化の意志」と「多レパートリー可能性の中の一つを選択することにより持続性を保証しつつ共有利益を確保する意志」、のいずれかについての選択(意志)は相矛盾する。驚くべきことに、後者「多レパートリー可能性の中の一つの選択」はヒトの脳内での「意識」発生(意識統合)or生命(の持続)の問題と相似している。他方、捨てられた99%超レパートリーの検証が歴史と生命実存の意味、とも言える!(関連参照⇒http://u0u1.net/ECBM)。


・・・だからこそ、資本主義の持続性を保証する中庸な「限定合理性」、および人々にその必要性を認識させ得る一定の抑制パターナリズム(=エトノス・パターナリズム/絶えずノモス・エトノス環境との調和へ十分に配慮しながら、国民総意の主権者意識を実行する統治権力/統合的な『主意主義』)が必須であることの理解の共有(リベラル共和主義の可能性へのアプローチ)が肝要となる・・・


<注3>主意主義(voluntarism)

・・・人間の精神の中で、「意志」(意思に方向性が加われば意志、と仮に定義しておく)の働きを知性・理性や感情よりも重視する哲学・神学上の立場のことで、主知主義(知性・理性を重視)、主情主義(感情を重視)と対置される。現在、先端的な脳科学・AIなどの研究分野におけるヒトの意識の研究でも、人間をヒトたらしめる要素(アイデンティティー)の決定的なファクターとして「意志」(or意思)の問題が重視されている。

・・・主意主義と深く関連する「人間の自由意思」の問題で忘れてならない人物に13世紀スコットランドの神学者ヨハネス・ドウンス・スコトウス(その思想の徹底的な緻密さから精妙博士(Doctor Subtilis)と呼ばれる)がおり、彼はフランチェスコ派スコラ神学者で、後にパリ大学教授となった人物(http://u0u1.net/ECHx)。

・・・スコトウスは、先ず「絶対的に正しい自由意思」を持つのは神のみであるから神は先ず純粋にその自由意思で世界を創造したと理解し、アウグスティヌスの「自由と理性の両者に対する神の絶対的先行性」を留保して、神だけが持つ「正しい自由意思」が神自身の「理性(知)性」の判断とは無関係に先ず世界を創った、と考えた。

・・・更に、スコトウスは、神に劣後する人間の「自由意思」が常に善悪について「絶対的な善」を選ぶことはあり得ないながらも、偉大なる神の見守りの下にある人間(その意味でも謙虚であるべき)には一定の判断力が、つまり善か悪かの道が選べる最小限の「理(知)性」は与えられており、同時にその人間が正しい判断を下すことができるよう一定の自律的な「自由意思」も与えられていると考えた(中庸の宗教観/これは、カルト宗教の危険性についての逆説的な論証ともなっている!)


・・・


上に掲げた「限定合理性」を確保するための検討で、更に必要となる各論的な方向性として、『自由放任主義の乗り越え方』の著者、若松良樹は以下の課題を指摘する。なお、これら各論の検討については、その一部が第五章と重なる部分もあるうえ、ここでの更なる議論はページ数の容量限界もあるので、項目の列記に止めておく。


リバタリアン・パターナリズム(一匹目のキマイラ/誤解されたままのアダム・スミス“神の見えざる手”の別ヴァージョン)の台頭と限界

●最大化としての合理性、完全合理性の失敗(同じく、二匹目のキマイラ/同上)

●最も有効と思われる「中庸の徳」なる限定合理性(既述のとおり、そもそもアダム・スミス“神の見えざる手”が誤解の賜物であった)

●コンシリエンスによる行動経済学・生態学的な合理性の有意性の検討が喫緊の検討課題(ノモス、エトノス観念との関連性が大きい!←補足、toxandoria)


5 リベラル共和主義の核心は、無産者層の“有資産化とリアル政治参加”機会の拡大


(リベラル共和主義の核心1/無産者層の“有資産化”が持つ重要な意義の再確認)


・・・第二章で、産業組織論の観点から「無産者層の“有資産化”が持つ意義」について既に述べているが、ここでは些か異なる観点から同じことを考えてみる・・・


いまの世界は新自由主義がもたらし続ける格差、いわば「ルンペン・プロレタリアート(無産層化)の増加傾向」を如何にして弱め、ひいてはそれを解消できるかの課題を突き付けられている。そして、格差解消と持続的な経済を創造することへの希望を託したということ、換言すれば「新たなリベラル共和国」フランスへの深化を期待するという点で、つまり反知性主義の米トランプとは異なる<共和主義・再構築の意志>への共感という意味で圧倒的な国民の支持を受け登場したのが、フランスの若いマクロン大統領である。


その仏マクロン政権への期待は、今まで見たことからだけでも明らかなのだが、エトノス意識下での持続成長のカギとなる<「無産者層の有資産層化」を実現する“日常の政治学”(そのカギとなる形骸化した労組問題の解決が急務!)の重要性についての覚醒(目覚め、気づき)>があったのではないか?と思われることだ。


一般的に、見かけでは街頭デモやストライキ活動が活発であることなどから、フランスは労働組合の活動が活発だと思われている。しかし、少し細部をクローズアップしてみると、実は、フランスの労働組合の組織率は、官民の全セクターで全7 〜8%程度、民間企業は5%程度と推計され、これは欧州諸国では最も低い組織率である。因みに、日本は全セクターで17.3%(2016年/http://ur0.biz/EE0l


しかし、フランスの労働協約の適用率は92%と驚異的な高さであり、ほぼ全ての労働者がその適用範囲に入っている。それは、フランスでは労働省の省令(1936〜、http://ur0.biz/EE0u)によって労働協約が産業別に締結されているが、組合員か非組合員かの別は問わずに、該当する産業で働くすべての労働者に、その労働協約の結果が拡張して適用されることになっているからだ。この点は日本と決定的に異なっている。


フランスの労働組合活動(労使関係)には別の面でも大きな特徴がある。それは(労使双方ともだが)、彼らの多くは法律・労働法の専門家であるか、あるいは一人ひとりが何らかの分野の専門家である。つまり、フランスの労働組合活動では特に左派系のインテリ層の人々が専従で仕事に携わっていることが多い。


然るに、イデオロギー的には急進左派であるにせよ、又は一般にその真逆と理解されているリバタリアン(急進リベラリズム)にせよ、新自由主義に席巻された資本主義の現状の下で両者は、益々、夫々が急進ウルトラ化した。一層“先鋭化”したからこそ、彼らは「民主主義と自由主義(自由原理主義)は両立しない」というアレントの主張(ノモス法の原点)に嵌ったまま戸惑っている可能性が高い。が、アレントの真意は古典的な「ノモス法の原点」に、ただ止まることではない。その証拠にフーコーの思考をそこで介在させると、既に見てきたとおりだが、そこから明らかにリベラル共和主義(ノモス・エトノスをベースとする中庸な文化資本主義の時代)への希望が見えてくる(稲葉振一郎『政治の理論』のtoxandoria的な解釈だが・・・)。


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また、金融資本市場(マクロンは、その勝ち組である投資銀行キャリアを持つ/これを批判する向きもあるが、その分だけデジタル・文化資本主義時代への対処の知恵を持つ人物と見るべきであろう)、軍需産業、加えて原発関連産業の三分野はフランス経済の中枢基盤を形成してきたが、そのフランスでは国策の有力産業分野である原子力系、軍事技術系の労働組合活動が、良きにつけ悪しきにつけ大きな影響力を持ち、結局、彼らは既得権化して現在に至っている。つまり、全就業者数に占める一定の割合の大きさ(前者、後者共にmax.3%程度、と推測)から、これも又エリート層の、ある意味で特権と化してきた原子力と軍事技術関連という両産業分野の労働組合活動が全体の労働環境に何らかの影響を与え続けていることが理解できる。


なお、3.11フクシマの過酷な原発事故経験にもかかわらず<原発推進御用組合>と揶揄される大労組の寄り合い組織である「連合」を中核支持基盤とする民進党(その原発政策)が一向に煮え切らず、しょせんは安倍・自民党の国策「原発推進」に追随する形、ひいては与党・自民党政権の補完勢力化していることが、甚だ残念ながら、日本国民一般の意識を曇らせたまま(関連参照↓◆)にしている元凶である。一刻も早く、仏マクロン並みの「リベラル共和主義の可能性」への覚醒が民進党に求められる所以である


【労組問題どころか、日本人の「雇用関連」意識は幼稚すぎる!】日本の勤労者の約4割が「36協定」(労基法36条:法定労働時間(1日8時間1週40時間)を超えて労働させる場合や、休日労働をさせる場合には、あらかじめ労働組合と使用者で書面による協定を締結しなければならない)を知らないという調査結果もある!https://www.teamspirit.co.jp/workforcesuccess/law/36agreement.html


・・・


ところで、第二章で触れたとおり、「リベラル共和主義」的な社会の原点を古代ギリシャ・スパルタの統治(軍事国家的統治権力、自律市民を前提とする自由(リベラリズム)、市民に平等な主権を認める民主主義が共存する)に見ていたアレントの「社会論」には“そもそも民主主義と自由主義(自由原理主義)は両立しない”の言説の如く難解な点があるのは確かだ。


しかし、アレントらが重視するノモスの“そもそもの意義”が「ノモス法で定められた、その地域の環境(自然・ノモス・伝統文化・社会インフラ)の平等な分け前(取り分)を地域の住民に分け与えることだ」という理解を援用すれば、「新自由主義が暴走して格差が拡大するばかリの恐るべき資本主義社会の現況」に辟易している我々にも、改めて、希望の方向への重要なヒントを与えてくれる。 


そして、これも第二章で触れたことだが、その中でも特に重視すべきユニークな発見は、「現代の民主主義国家における統治権力(パターナリズム)と個々の労働者(雇用者)の間を仲介する「産業民主主義」(経営に一定の雇用者の参加を認める考え方/特に文化資本主義では必須となる)の主柱としての労働組合の本質的な役割をノモス法の原点を想起しつつ根本から問い直す」ということである。その意味で、労働者の団結権(労組活動)はノモス法的に考えれば労働者の生存権を守り、新自由主義の副作用である「格差」拡大のジレンマを解消するためのれっきとしたツールとなり得る。


ともかくも、このように考えれば第一章で書いた<仏マクロン政権でニコラ・ユロ環境大臣が誕生した画期的な出来事>の意味が、よりリアル化して理解できるはずだ。そして、おそらくマクロンは、「無産者層の有資産層化」を実現する“日常の政治学”に関わるフランス社会の意識改革のため、ある意味で特権化してき<フランスの雇用関係(労組活動)の改善>に加え、「格差」を解消するための柱として<消費貸借と金融取引>のファクターを基本政策に確実に取り入れつつ、旧弊化した原子力産業らへの見直しにも取り組むことになると考えられる。


(リベラル共和主義の核心2/特に日本の選挙(供託義務)には『無産者層と左派』を排除するという非民主主義(非共和主義)的で異常な政治論理が未だに潜む)


・・・ここでの表題は(リベラル共和主義の核心2/無産者層の“リアル政治参加と日常性の政治化”の機会拡大)と書きたいところだった!・・・


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しかし、日本の選挙制度(1950年に制定された公職選挙法)では、1925年制定「普通選挙法」の「供託義務」が、そのまま引き継がれ放置されているので、そこには『無産者層と左派』を排除するという非民主主義(非共和主義)的で異常な政治論理が潜んでいる。


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供託金の問題は、共謀罪、文書管理法の問題と共に日本の民主主義(厳密には、国民主権に基づくエトノス・パターナリズム型(当記事冒頭の<注1>を参照)の統治)の根幹であるが、メディアが殆ど真剣に取りあげないこともあって、一般的に関心が薄い。第三者機関のチェック、裁判所(司法)の意識改革らと連動した、市民・国民自身の覚醒が全てのカギとなる(右画像は、20170712中日新聞http://urx2.nu/EFRtより転載)。


そして、その核心部分は、「日本国憲法:第四十四条」の<「両議院の議員及びその選挙人の資格は、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」の“誰でも選挙に出馬する事が出来る”との主旨>が名目だけになっており、もっぱら既存政党にとり有利で、供託金を上げれば上げるほど無産者層らの新人をリアル政治から排除できるという、非民主主義(非共和主義)的な制度となっている。


このため、供託金制度は違憲無効であるとしていくつかの訴訟が起こされてきたが、裁判所は憲法47条が国会議員選挙制度の決定に関して国会に合理的な範囲での裁量権を与えていることを指摘した上で、供託金制度は不正目的での立候補の抑制と慎重な立候補の決断を期待するための合理的な制度であるなどとして、いずれも合憲判決を出してきた(1999年には最高裁が2度の合憲判決を出している)。


直近の供託金違憲訴訟では、2017年6月9日の第4回公判(東京地裁)で、裁判長が冒頭から、さらに突っ込んだ審議を行いたいと話し始めるなど、些か空気が変わり始めた気配があり、特に今後の裁判所の判断動向を注視すべきであるhttp://ur0.biz/EEfhやはり、全てのカギを握るのは「日本国民」一般の<リベラル共和主義を求める意思>と<メディアの奮起>である。なお、日本の供託金が世界各国と比較してどれほど高く、かつ異常なものであるかを知るには下★の情報が詳しいので参照乞う。(完)


★日本の選挙の謎・世界で抜きん出て高い供託金制度!http://ur0.biz/EEfJ

★供託金(ウイキペディア)http://ur0.biz/EEg3  

2017-05-18 盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵

toxandoria2017-05-18

盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている


(Cover Images/江戸期における都会的シック(粋)&トビウオ(水平に身を置く人々)が跳ねたワンショット、ほか/池上英子の所論による)


<注0>(1)盲点に相当するRAS作用の委細は↓(3−3)を参照。(2)安倍晋三・日本会議神社本庁ら「尊皇テロ愛国妄想(偽装極右)派」らはクオラムセンス(民主感覚)欠損病の囚人!/その意味は、例えば『尊皇テロ愛国妄想 !悪の政治編集に嵌った安倍政権ジレンマ/共謀罪は暴走権力側が標的遺伝子(比喩的に見れば一般国民の内心)を作為で改変し<事前の復讐>を果たす「倒錯した一種のゲノム(内心)編集法制(自国民向け先制攻撃ツール)」であり、国力劣化を招くだけでテロ対策には無効の愚策!』に発現している!http://ur0.link/Dy3A


<注1>『美と礼節の絆』(NTT)の著者、池上英子のプロフィールはコチラ⇒EIKO IKEGAMI (PhD、Harvard Univ.) is Professor of Sociology at The New School for Social Research. http://ur0.link/DiiL


雲谷等顔「花見鷹狩図屏風」(桃山時代の風流/江戸期『風流』のルーツ)

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・・・雲谷等顔は戦国時代末期〜江戸初期にかけ活躍した画家で幕末まで続く雲谷派の祖。桜の季節になると中世の日本人は花笠をつけ笛・太鼓で“やすらいはなや”と囃し花の下で踊る慣わしがあった。それは「やすらい花」と呼ばれ、今も多くの神社などに残照が遺る(出典:『美と礼節の絆』)。これが「風流」群舞の美であり、現代の安倍晋三・式『オレ様の美しいニッポンの花見』とは余りにも異なる麗しい姿だ。/当画像は http://urx2.nu/DlPQ より)


―江戸の都会的シック(粋)―


歌川豊国『文読む女』

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               喜多川歌麿『婦女人相十品 文読む女』

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…左は、ロサンゼルス.カウンティ美術館所蔵、Joe & Etsuko Price Collection(池上英子『美と礼節の絆』が表紙で採用)http://pricecollection.blogspot.jp/

…右は、日本切手の図案として採用された喜多川歌麿の作品。http://ur0.pw/DhO4


―ワンショット、江戸期のトビウオ(自覚して水平に身を置く人々)が跳ねた瞬間―


千住酒合戦(千住酒合戦図高田與清『擁斎漫筆』よりhttp://urx2.nu/DlQb

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・・・これは文化12年(1815/高田屋嘉平が国後島でロシア軍船に拿捕された年)に、江戸のはずれ千住で催された酒飲競技会を描いた絵である。この企画の意図は単純なもので酒飲みの技量を競い只酒を大量に振舞うこと。主催者は「鯉隠居」を自称する現地の俳人(宿屋店主)で、参加者は身分の別を問われず、例えば酒井抱一、谷文晁ら文人ら、あるいは俳人、画家、町人、武士、農民、女性らも参加していた。これは当時の江戸に身分差を越えた経済・社会と文化・教養・趣味の両ネットワークが交差する「水平空間」が存在したことを意味する(出典:池上英子『美と礼節の絆』)。


プロローグ)現行「象徴天皇制」(日本国憲法/歴史を真正面から見据える正統保守)の愛国の心(広義のエトノス郷土愛)では何が不都合なのか?


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・・・神社本庁、日本会議、安倍晋三らは非民主主義的な「戦前的価値観」(排外的“クオラムセンシング欠落病”/戦前型“尊皇愛国テロリズムイデオローグ”)の取り戻しのため明治憲法型への<改憲>を執拗に画策するが、現行「象徴天皇制」(日本国憲法/正統保守)で何が不十分なのか?・・・

・・・(追記)これ↑は6年前の写真だが、神社本庁の肝入りで約6万枚も全国神社で掲示するようにと配られた「日本人でよかった!」ポスターのモデル(左端の画像)が、実は中国人の女性だった、との落ちがついた!w いっそのこと「アジア人でよかった!」とするべきだったのでは?w


<関連資料/↓▲1、2>

▲1 430NHKスペシャル『憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた』(日本国憲法はGHQの押し付け、を真っ向

否定するNHKの検証番組)が、いま静かな話題!20170502リテラ http://ur0.link/DiiK

▲2 憲法70年/この歴史への自負を失うまい20170502朝日新聞・社説http://ur0.link/DiiI

・・・安倍晋三と自民党の選挙スローガン「日本を取り戻す」は、戦後日本70年(象徴天皇制の憲法、国民主権、人権尊重、平和主義)を全否定する特異なグロテスク穴クロ歴史観に基く危険な意思。森友の「教育勅語スキャンダルが何よりの証拠。


<補足>その安倍晋三・神社本庁・日本会議・靖国神社らが囚われている、異常な意思の病理は『江戸プロトモダニティー』欠損病!『江戸プロトモダニティー』とは、江戸幕府パターナリズムの支配下にはあったものの“近代〜現代にも繋がる日本オリジナル民主主義の原型と見なすことができる、古来の伝統日本文化を高く評価しつつ身分差を超えて水平的・内生的・自律的に自ら積極的にその奥義を究めようとする、市場経済ネットワークを伴う一種の知的プラグマティズム活動が江戸期の民衆社会を中心に存在したこと”を意味する(出典/↓▲3、4)。


▲3 池上英子著『美と礼節の絆/日本における国際文化の政治的起源』(NTT出版、2005)

▲4 ピーター・ノスコ他編、池上英子他著『江戸のなかの日本、日本のなかの江戸』(柏書房、2016)


<注2>定足数感知(クオラムセンシング)とは?


R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著)によると、近年のマイクロバイオーム研究で多くの細菌がクオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)のシステムを進化させてきた。クオラムセンシングは、ある一部の細菌が「正体が知れぬ相手に対し仮の名づけ(ネーミング)を行い、その見立てに応じ自らのシグナル伝達要素(分子)、又は自由誘導因子(オートインデューサー/同種菌が生産するシグナル物質)などの分泌(フェロモン様の物質であるクオルモンらの産生)を調整するシステムのこと。


我われヒトの体内エトノス空間と外界である自然エトノス環境との仕切りにも、これまで考えられてきたほど明確で強靭な壁が築かれている訳ではないことが分かってきた。むしろ自己アイデンティティーの保全は強靭・強固な壁よりも<強かなしなやかさ>で保全されていることになる(エトノスの定義はコチラ⇒http://urx2.nu/DlSk)。


安倍総理が目指す戦前への回帰なる「尊皇テロ愛国妄想」は、“北”同様の「アジア型クローニー利権政治」/その異常病理が齎す深刻な“国民の内心のネジレ”への対論


1−1 正統保守と偽装極右(安倍首相らが信奉する国家神道&尊皇テロ愛国妄想権力)の混同が多数派層の内心のネジレを増幅し、不要な『改憲』へ日本を連れ込みつつある!


<関連情報/↓▲5>


▲5 首相「9条に自衛隊明記」 改憲2020年施行目標に/「戦い続ける覚悟」「絶好の時」 首相メッセージに賛否

20170503朝日、http://ur0.link/DiiG  http://ur0.link/DiiH 


・・・喫緊の課題、それは日本のアキレス腱、「国家神道」(≒日本会議、神社本庁)マターを超克すること!そして、『国家神道』患者集団、安倍政権へのベスト対抗策は正統保守の意義をあらゆる機会に掲げ直し、それを国民一般(多数派層)が共有すること。・・・


・・・安倍様バンザイ!若者のダントツ支持拡大は“無知&不勉強”による「国家神道」派アベ極右と正統保守の同一視が主因! ⇒ 日経2.24〜26世調で「2021.9マデ安倍首相で行く!」賛成63%が反対28%に大差!18〜39歳の若者層の支持がダントツに大きい!36日経 20170308只のオッサン(脱原発への急転向者) @shinkaikaba http://ur0.pw/Cj28


そのためには戦前を一括りの悪徳(又は誤謬)と見立て、一本調子でバッサリと「国家神道」(皇国史観の核心エセ・イデオローグ)を糾弾し批判する傾向が強かった戦後の歴史学の視座を転換することが先ず肝要。いまこそ真正(正統)保守の意義(民主主義Stage2の入口となり得ること)を再認識し、それを国民一般と共有できるようにするのが『国家神道』患者集団(日本会議 一派)、稀代の一強政権と見なされている安倍政権へのベスト対抗策。


つまり、戦後歴史学の視座というある意味で解像度が著しく劣化したオペラグラス映像の中で以下に示す「二点」の差異を軽視してきたため、我々は特に「(2)の意義(正統保守)の重要性」を見落してしまったのでは?と思われる。


(1)皇統一系と純粋大和民族を頑なまでの基本原理とする誤謬の皇国史観ナショナリズム

・・・片山杜秀・島薗 進/共著「近代天皇論」(集英社新書)によれば、近代国家づくりの精神的エネルギーとして維新政府が担ぎ出した古代律令制における祭政一致のためのミソロジー(神話論理)では、「神としての天皇と臣民ナショナリズム」が表裏一体化であった。また、3章(▲15)で触れるが、古代天皇制は徳治主義から「象徴天皇⇔人民/平等論」の観念であったとする、異論もある!つまり、皇国史観ナショナリズムの元とされる主流古代史の殆どが捏造であった可能性が高い!


(2)同じ皇国史観(国体論)の中に潜んでいた純日本型の「冷静な正統保守思想」創出の可能性(伊勢神宮軍国主義の象徴ではなく、天皇家と伝統日本文化が共有する精神性の象徴と見立てる、象徴天皇制の下での国民主権デモクラシー国家、または国民主権ナショナリズム国家論も存在していた((1)の異論と関連する!


f:id:toxandoria:20170518050103p:image:w400 しかも、そのことが悪循環的な意味で災いの元となり、今の日本では<正統保守(国民主権を最重視する正統保守的な“ものの考え方”)と偽装極右(安倍政権の背後霊となっている日本会議らの靖国顕幽論にかぶれた国民主権否定派の妄想(似非)イデオロギー)>の区別が一筋縄ではつけ難い袋小路に嵌っている。渦中の『森友学園=安倍晋三記念小学校』スキャンダル、あるいはそれに続き露呈しつつある大疑獄?『アッキード2こと今治・加計学園アベ・ルート』スキャンダル(http://ur0.pw/Cj2k )などが、この悪循環的な政治文化、悪しき日本型「構造災」の伝統の上で起こっていることは言うまでもない。


1−2 “尊皇テロ愛国妄想権力”の天敵は、常に「中間ゾーン」(水平空間)を求める大衆が只の夜盗と化した暴走権力(此処では安倍政権!)に対峙し「飛礫」を投げつける行動


・・・安倍晋三・日本会議らが実現を謀る戦前型「偽装極右」(尊皇テロ愛国妄想派、偽装極右権力)の政治は正統保守に非ず、それは邪悪な欲望に占拠された夜盗・ゴロツキ集団らの妄想に過ぎない!・・・


池上英子『美と礼節の絆』によると、徳川幕府(徳川政府/大公儀(おおこうぎ)と称した)や幕藩体制下の各大名たちの政治組織体は、そもそも幕府自身の行政機構も各藩政府も、それぞれ徳川将軍または各大名領主たちの「家政」の延長に過ぎなかった。しかも、その幕府の大公儀の権威は戦国時代以降の野心的戦争(私的エゴ闘争)の結果として誕生していたため、それぞれの公的性格(それら権力の正当性と正統性)はそもそも疑わしいものであった。


そのため、徳川幕府が「古来の歴史を背景とする皇室(朝廷)と京都の貴族文化が持つ象徴的・美的パブリック圏/日本文化の核心たる“美と礼節”の領域」を大公儀のバックボーンとして利用せざるを得なかった。これこそ、日本の歴史・文化の本流と見るべき日本の「権力と美学」の<保守>に関わる絶対に避け得ない事情であった。


それ故、日本の正統保守を定義する場合に避けて通れないのが此の意味での「皇室・朝廷文化」にルーツを持つ「美的パブリック圏」(日本の文化と学芸の領域における皇室(朝廷)・貴族文化の公的権威を象徴する「有職」に関わる知識・教養・知恵の共有空間)の問題である。


なお、その「皇室・朝廷文化」の更なる高祖と見なすべき渡来系の政治文化(渡来系の民族・文化と共存する、ある意味で寛容と平和主義が伝統文化の胎盤であったと見るべき国風文化(広義の日本朝廷文化)が生まれる、その直前頃までの流れ)についての委細は、(下↓▲6)を参照して頂きたい。因みに、全くのゼロ・デフォルトから世界に冠たる日本の国風文化が生まれたとするのも同類の妄想である。 

▲6 奈良時代以前の日本(平城京までの“百済風日本”)は『日本(平安京以降の“伝統国風文化の日本”)』ではなかった!/(そもそも重層的な『東アジア文化受容の歴史』が『寛容で世界に誇るべき日本伝統文化』の源流であった)2015-01-07・toxandoriaの日記、 http://ur0.link/DiiF


従って、<教育勅語と軍人勅諭が天皇の意識を離れて国民を戦争道具視する軍部の手玉に取られた>彼(か)の<幕末〜明治維新〜戦前>期の日本を謳歌した、そして現代の安倍・自民党政権に取り憑いた日本会議・神社本庁ら「偽装極右派」(尊皇テロ愛国妄想派、偽装極右権力を信奉する一派)のエセ・イデオローグは、断じて正統保守と見なすことなど出来ず、それは夜盗・ゴロツキ集団ら邪悪な欲望に占拠された輩の妄想に過ぎないことになる(偽装極右に関わる委細は下↓▲7を参照)。

▲7 天皇の意思を離れ「教育勅語→軍人勅諭」のプロセスを踏んだ「敗戦の歴史」へ粛々と回帰する、日本国民主演ノホホンお笑劇場!2017/04/10・ever-note http://ur0.link/DiiE


・・・中間ゾーン、「水平空間」(平等空間)を求める大衆が「飛礫」を投げつける行動とは?・・・


水平空間とは「身分差を超えた見知らぬ人同士の緩やかな繋がり/strangership、Bonds of Civility:Cambridge University Press」(池上英子、http://ur0.link/DiiU )のことである。そして、およそ武士の台頭が始まる古代後期(平安末期)〜鎌倉期以降の武士階級による垂直構造の成立だけでは政治的ヒエラルキー、いわば社会の制度的分節化が実現し、やがて国家形成が実現することには至らなかったと考えられる。


その意味で、無論これは日本だけのことではないが、武士・商人・金融業者・手工業者・学者・文人・知識人・芸術家・農民らの身分の違いを超えた緩やかな繋がりが存在し、それが絶えざる拡がりのダイナミズムを帯び続けるという社会現象の出現は、国家形成が制度的に実現し、国家が成立するための必須要件であったとも言える。


言い換えれば、身分階級(階層)や地方政府・官僚組織・軍事機構らの整備とは別次元でのstrangershipが拡散し拡大する傾向は、国家の形成と存続にとっての必須条件であり、それは封建制度下の社会でも、現代の民主主義社会でも同じことだと言える。そして、それこそが国家と社会における大衆(多数派、ポピュリズム層)の分担的役割の真の意味でもある。


従って、統治制度の種別の如何(それが王制か?民主制か?などの差異)を問わず、たとえそれがどのような国家体制であるとしても国王や為政者(国家権力、統治政府)が絶対に無視できないのが大衆・ポピュリズム層の存在であり、又、その国王・為政者・権力者らが最も恐れるのが此の一般大衆(多数派層)から心底の怒りや怨嗟を伴う強い反撃(真っ向からの強い批判)を蒙り、一斉に遠慮なく批判(飛礫)浴びせられることだ。


そこで、我々は、日本の戦国期における強大な武装権力者であった織田信長豊臣秀吉徳川家康らの武将たちが、戦場で投げつけられる「飛礫」で深刻に悩まされたとされていること、また彼らプロの武将・武人たちが、軍団同士で激しく戦いを交わす各戦場においてすら、時によっては、一般大衆から大量に飛来する「飛礫」(ひれき/石つぶて)で悩まされていたという事実があったことも想起しなければならない。


網野義彦(1928 – 2004/歴史学者)によれば(出典:関西学院大学リポジトリ(repository)/古層と飛礫: 丸山思想史と網野史学の一接点に関する覚書き、冨田 宏治http://urx.mobi/Dj3D )、「飛礫」は10世紀末から文献に出てくるが、鎌倉時代の強訴では、しばしば激しく飛礫が打たれて(投げられて)おり、その行動のルーツは古代朝鮮で行われていた「石戦」にあるようだ。例えば、朝鮮に出兵した秀吉の大軍団は、半島の民衆が仕掛る激しい「石戦」の抵抗に悩まされた。また、武田信玄が公式に「石投げ隊」を組織しており、明治期の百姓一揆でも「石うち」による打ち壊しが横行した。


ともかくも、<安倍政権とそれに連座する一派、つまりその既得権益構造を篤く支持する日本会議、神社本庁、靖国神社ら、およびそれに只管同調するバカリの中枢官僚機構と財・労・学・司法・メディア界>らの一角を横断的に占拠しつつ異常繁殖して、今や面妖な一強の怪物と化した、安倍自民党なる現代日本の「悪徳poo権力構造」が最も恐れるのは何かを冷静に凝視することが肝心である。その意味では、この厳しい中立的批判の初動因となるべき、ジャーナリズムの(江戸期などでは出版業者らの活動が担ったの責任は時代の別を問わず重いということになる。


つまり、「水平空間」(知的プラグマティズムに因り、精神的自由を絶えず求め続ける身分差を超えた見知らぬ人同士の緩やかな繋がり/strangership)を自覚する多数派ポピュリズム層(現代の民主主義国家ではアナーキズムよりも基本的に正統保守的価値観にシンパシーを持つ多数派(ごく普通)の人々)が、<非常に異様化するまで仲間内で凝り固まったあげく日本伝統の雅で粋な“風流”の空気をすら理解できぬまで無粋化した病的・独裁的な権力構造、安倍晋三・一派なる権力集団>に向かって心底からの怒りで自覚的に対峙することが先ず肝要である。


そして、そこで激しく「飛礫」を投げつける行動(現代で言えば、激しいデモ攻勢を仕掛けたり、選挙の投票で圧倒的意思を表すなど、そのような意味での実力行使)こそが、“尊皇テロ愛国妄想権力”下で今や異常な利権の伏魔殿と化した中央権力構造ヒエラルキーに対する決定的脅威となる現実があることについては、今も昔も変わりはないことになる。


2 刮目すべき江戸プロトモダニティーの現代的意義(その重要性)


2−1 日本「正統保守」の心髄、美と礼節の絆(江戸プロトモダニティー)の発見


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ピーター・ノスコ他編『江戸のなかの日本、日本のなかの江戸』―柏書房―によると、J.F.クーパー(1789 – 1851/米国の作家・批評家)は、1838年の著書『平等について』の中で「今や我々は権利の平等を謳う文明社会の住人であるとはいえ、同時に、本質的には個人間に線引きをしていることに変わりがない。つまり、それでもなお我々は“何らかの差異を相互に意識させられており、逆説的に差異と平等を同時に求める矛盾した存在”」なのだと嘆いている(ピーター・ノスコ:カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大教授/日本思想史)。


このことは、イデオロギーや政治制度を超えた<人間社会における逆説の真理>として先ず受け入れておくべきかもしれない。だからといって、この真理は文明の果実を享受する現代の民主主義社会を全否定するものではなく、むしろ肝心なことはそのような前提(その逆説の真理と矛盾)の先にこそあると考えられる。それは、このような観点に立ってこそ初めて民主主義の完成は持続的なテーマであることになるからだ。


ところで(ここで述べた内容とは真逆のヴェクトル構図となるがw)、例えば徳川幕藩体制下の日本でも、「れっきとした封建的身分制の江戸時代」であったにも拘らず<似たような意味での真理を含む逆説>が、言い換えれば<封建制の身分差を超えた水平空間への希求>が存在したのであり、その分かりやすい典型が同じくCover Imagesで取りあげた『千住酒合戦』の事例である。そして、池上英子『美と礼節の絆』は、「その水平空間は江戸期における“弱い紐帯としての公”故の強みでもあった”と述べている。


無論、俳句・和歌・絵画らの文芸や趣味の交遊(交友)関係の拡がりは江戸期社会における公式の見方では劣位の私的領域と見なされていたものの、徳川幕府の分割統治で閉じ込められ分断されていた人々が、こうして私的領域(弱い紐帯の平等なパブリック圏)で結びついていたばかりか、文芸の世界という共通の媒介項によって共通の歴史を持つことになったのは確かだ。


その意味で、日本の文化的・美的イメージは、近代日本の国民国家が勃興するより遙か前に、この国の「水平・平等空間(弱い紐帯の平等なパブリック圏)を求める、多数派層の人々の自律定な自己意識」の中心的な受け皿になっていたと言える。これが、刮目すべき「江戸プロトモダニティー」の意義である


俳諧・狂歌・川柳には「連」と呼ばれるネットワークがあり、江戸・大坂など大都市だけでなく、文人・作家・絵師らをも巻き込むその繋がりは全国に拡がっていた。また、江戸期においてはその根本的な歌風の革新こそ余り見られなかったが、やはり和歌(鎌倉時代ごろから興り南北朝時代から室町時代にかけて大成された)についも、上は貴族・武士階層から下は農民・町民に至るまで凡ゆる身分層の人々がそれを愛好していた。


ところで、これらの文芸や趣味を支える日本美学の元は「皇室・朝廷文化」にルーツを持つ「伝統美と公的な礼節のパブリック圏」(日本の文化と学芸の両領域における皇室(朝廷)・貴族文化の公的権威を象徴する「有職」に関わる知識・教養・知恵の共有空間)であり、しかも「日本史の竜骨(keel/大公儀のバックボーン、の比喩表現)」でもある天皇制の根本には、古代期から受け継がれてきた象徴的・美的パブリック圏(日本文化の中核を成す正統保守的な“美と礼節”の象徴)の問題がある。


他方、一般社会における日常的な交際文化(文芸や趣味の領域)に関する限り、そこには『江戸プロトモダニティー』の名に値する水平空間(弱い紐帯の平等なパブリック圏))が紛れもなく存在したのであり、それこそが明治維新〜現代にまで繋がる日本の近代化・現代化(民主主義化)を準備する非常に良質な胎盤となった。つまり、それは決して幕末〜維新期に準備され、偽装極右派(現在の安倍自民党政権らに繋がる)が上から押し付けた「尊皇愛国テロリズム妄想」(国民主権を否定する天皇の密教的政治利用)の賜物ではなかったのである。


2−2 江戸プロトモダニティーが17世紀オランダの日常礼賛(T.トドロフ)と共鳴!/経済のリアリズム(正統保守的ポピュリズム感性の謳歌)に関わる二つの源流


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「写実、寓意(道徳、啓蒙)、画家自身の眼という三要素がもつれて格闘(entangle)するプロセスの中に17世紀オランダ(レンブラントの時代とも称された近世オランダの黄金時代)の画家たちは、単純にそれら三つの夫々には還元できない、ある種の人間的で統合的な美意識を伴うリアルな文化的・経済的な新しい価値創造の作用を発見した」とツヴェタン・トドロフ(仏の文芸批評家)は著書『日常礼賛』(白水社)で主張している。 


つまり、これら三つの要素と中間市民層の『日常生活』(それへの飽くなきこだわり)という日々に変化するエトノス(自然&世界観)との緊張関係の中で彼らは次々と「美意識と経済フロンティア(多元的付加価値の創造作用)」を発見し続けた。それは<資本主義経済の持続性(その結果としての成長)を請け負い保証するプラットフォーム(共感に満ちた水平空間と市場ネットワーク)が普通一般の市民層の日常生活>の中にこそ存在するという発見であった。 


それまで圧倒的な宗教権力の支配に従属してきた人間の本質的なもの、いわば<自由意思と正統宗教意識の適度な調和と距離感を重視する啓蒙思想(信頼・信用を繋ぐ共同主観性、言い換えれば政教分離という理想空間のイデオロギー)>にこそ相応しい、多数派市民層が中心の“日常生活”(反知性主義ならぬ中庸な正統保守ポピュリズム)の意義の発見ということだ。無論、この当時のオランダの「政教分離」は、まだ未完の「発展プロセス途上」ではあったが。


そして、それに必要な一定限度の貨幣「量」およびその多数派市民層(17世紀オランダでは各自治都市の自律意識を持った一般市民層)の日常生活を支え得る、過剰(バブル)にならぬ程度のほどほどの貨幣流通「速度」の確保の意味(重要性)の再発見にも重なる(ツヴェタン・トドロフ著『日常礼賛』についての更なる説明は下↓▲8を参照)。なお、経済学で貨幣流通「速度」とは同一の貨幣が一定期間内に何回持ち主を変えるかの平均/実はほとんど忘れられてきたが、ケインズはこれを最重視していた!)

▲8 新国家観が欠落する偏狭『AI万能GDP600兆円の未来/アベノミクス教』は日本瓦解のプロセス!一方、啓蒙主義ルネサンスを説く『民主主義の内なる敵』の著者、T.トドロフは『日常礼賛』で未来の可能性を見据える2016-11-07・toxandoriaの日記、http://urx.blue/DrO5


ともかくも、17世紀オランダの市民生活(イギリス産業革命から100年以上も前の時代)で何よりも重視された価値は多数派中間層の日常生活(日常礼賛)であった。また、この時代のネーデルラント共和国(ほぼ現在のオランダに重なる)辺りの各自治都市住民の『日常生活』ニーズは衣食住の満足だけではなく、画商を通して一定の経済価値を伴いつつ新たに発見される芸術(美)的価値(特に絵画)等がそのジャンルに入っていた。

このため、中産層市民の各家庭は少なくとも1〜2枚以上の絵画作品を所有しており、17世紀オランダでは既に他国に先駆けて、画商の活躍が活発であった。因みに、『日常生活』の関わりで、オランダ新教徒内部では神と人間を巡る<自由意思>に関わる論争が行われてきたが、それは現代の<新自由主義>を巡る論争にも繋がる重要な問題である。


更に、より重要なのは、このトドロフが描写する17世紀オランダ市民社会の日常生活の場面でも文化・経済パワーが身分差を越えた一定の「水平空間」で躍動する光景が観察されており、それが日本の江戸期(17〜19世紀)におけるプロトモダニティーと深く共鳴する点があることだ。


・・・ところで、その「江戸プロトモダニティー」(弱い紐帯の平等なパブリック圏)は、特に下の5つの点において17世紀オランダのみならず凡よそ17〜19世紀頃の啓蒙期ヨーロッパ諸国の市民社会よりも遥かに優れた点が多く見られることに驚かされる(上掲の『美と礼節の絆』より一部分を抜粋・転載し、更に(2)などの内容を若干補足した)・・・ 


(1)取引情緒コスト、礼節(civility/市民社会に必須の中間ゾーン)の発見

・・・今や世界的に大きな影響を与えつつある非常に悪趣味で野暮(反知性主義的、poo的)な米国トランプ大統領的「取引/deal」感覚とは全く異質な「取引に要する美的感覚を仲介する情緒コストとしての礼節」という、ある意味で斬新な人間性(人間としての悦びを持続させるには礼節が必須だとするリアリズム)の発見、そして「それが齎す信頼性の水平空間(弱い紐帯の平等なパブリック圏)における共有」という現実社会に関わる鋭敏な感性(クオラムセンス、クオラムセンシング)こそが江戸プロトモダニティー、または江戸ネットワーク文化・経済・結社・浮世(社会)のエッセンスであった。

・・・現代社会学的に見ても、市民的交際に関わる文化またはその様式としての「シヴィリティー/civility/礼節、礼儀正しさ」とは、個人が他者と交流するための「儀礼技術としての側面」があり、それによって親密過ぎず、といって敵対的でもない一種の「中間ゾーンの信頼、社会的信用関係」が促進される。端的に言えば、この江戸プロトモダニティーのエッセンスはピエール・ブルデュー(仏の社会学者)のハビトウス(habitus/自覚されにくいまで習慣化した知覚・行為・思考パターンを生み出す性向)に近い。


<注3>pooの意味についてはコチラを参照 ⇒ コンシリエンス(人文社会&科学両知の客観統合のトポス)を敵視し軍事強化だけを謀るトランプと安倍は「北」同然の“ 奇病 poo 権力症 ” なる暴走カルト権力 2017/05/05ever-note、http://urx.blue/DrPE


・・・問題は、江戸プロトモダニティーのエッセンスとして結露した「粋で美しい日本文化のイメージ」が、日本会議、神社本庁、安倍晋三らが強弁する如く、この日本列島の中で全くのゼロからカミカゼの御神託で生み落とされたのではないことだ。つまり、それは「東アジア文化圏の一隅である日本列島が寛容に外来性を受け入れてきた結果として、非常に多様な文化の坩堝」の中で熟成され、そこから創発したものだと認識することが肝要だ。古来、踏襲されてきた「皇室・宮廷文化の“日本文化の中核としての象徴性”」の問題、あるいは儒学・朱子学エッセンスとしての武士道の問題にしても然りである。


(2)都会的に洗練された「風流」と「粋」(シック)の出現(“文化資本主義”へのヒント)

・・・「やすらい花」に代表される風流の美学は桃山時代あたりから現れていたが、18世紀末になると遊女文化を源流とする慎みと誇りの感覚を伴う洗練されたエロティシズムの感覚が好まれるようになり、やがてそれは町人文化を母体として更に洗練され、着物や小物類の色彩や意匠だけでなく生活スタイルや内面的な資質をも含む「粋」の美学として結晶した(関連参照/Cover Images)。

・・・また、この庶民感覚から生まれた都会(江戸)的美学の典型は、やがて皇室・貴族社会系の伝統美学と共鳴することで日本民族の古典は<江戸的な個性>を付与されることになり、そこから今に繋がる日本伝統のクオラムセンシング的な美学が形成されたと見るべきである。

・・・この意味での日本の正統美学(正統保守の感性)は「安倍政権、日本会議らが盛んに囃し立てるpooで国籍不明の“日本人で良かった!”」なるアナクロニズム(穴黒?w)の美しい(実は醜悪な!)神国ニッポンとは全く異質であり、しかもそれは最もテンポラリーで、かつ喫緊の課題である“文化資本主義”(http://ur0.pw/Dxix)創造へのヒントも与えているようだ。


(3)特に都市部における驚異的な江戸時代「識字率」の高さ

・・・近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてある程度の推定が可能な、明治初期の自署率調査(文部省年報)によれば、1877年に滋賀県で実施された最古の調査では男子89%、女子39%、全体64%であり、青森県や鹿児島県ではかなり低く(20%程度)、相当に地域格差があったと考えられる(ウイキ情報http://u0u1.net/Dk3a )。

・・・但し、江戸・大坂・京都などの都市部での識字率は寺子屋制度に支えられており、それはかなり高く、少なくとも全体で70〜80%程度(庶民層に限定しても60〜70%程度?)はあったと考えられる。17〜18世紀の欧米の識字率が高々で20〜30%程度であったと推測されることに比べれば、江戸期・日本の識字率が驚異的であったのは確かだ(出典、http://u0u1.net/Dk3o  http://u0u1.net/Dk3r)。


(4)識字率の高さを基盤とする、江戸期の活発な「商業出版」活動(全国規模に拡がっていた江戸“商業ネットワーク”の下地)

・・・江戸期のプロトモダニティーの性格は商業出版産業の隆盛に支えられていたと見て過言ではない。日本最初の営業カタログである「和漢書籍目録」(1666)には書籍2589点が掲載されており、それは徐々に増え続けて1692年には7181点となっている。やがて18世紀には出版業者・販売業者が新しい読者層を開拓したため大衆読者層が指数関数的に拡がり、幕府の公式記録(1808)では江戸の貸本屋数が銭湯の数を超え656軒になっている。

・・・江戸期の商業出版は様々な社会的・認知的ネットワーク群の橋渡しをしたが、特に注目すべきは、そのネットワークが交差し拡大する過程が、現代社会学的な意味での非常に多様なパブリック圏と流通ネットワークを派生的・波及的に創造したことにある。中央集権的な幕藩体制の分節構造に組み敷かれながらも、一方ではそれが「身分差を越えた多様で水平的な文化・市場経済パブリック圏」として全国規模で拡大し、それこそが江戸期・日本の活力源であった。


(5)美的社交の場たる「水平空間」(弱い紐帯の平等なパブリック圏)の創造


f:id:toxandoria:20170518054022j:image:w450  D

け花、碁・将棋、歌舞・音曲、酒飲み合戦、絵画・浮世絵、古典解読、古書画、古美術、古器物などによる私的空間での水平的な人々の結びつき(一定限度まで幕府が黙認していた水平的パブリック圏)/全国規模の句会、画家等の文人ネットワーク、耽奇会(たんきかい/http://u0u1.net/Dk66)など様々な事例がある。

・・・一般的に伝統社会では、血縁、身分、宗教、地域社会など、自分が生まれついた環境やネットワークからなかなか外へ出られないことが多いが、日本列島に住む多数派層の人々が自ら選び取った様々な趣味や道楽を中心に据えつつ、身分差を越えて水平的に軽やかに、しかも広域的なネットワークを通じて緩やかに絆を結ぶことが可能な知恵・文化・歴史を獲得し広く共有してきたのは世界に誇るべきことだ。しかし、これは所謂「日本ファースト」、「日本人でよかった!」(プロローグ画像)とは全く異質な開放系の感性の賜物であることを忘れてはならない。


<注4>江戸時代後期の『耽奇漫録(たんきまんろく)』

・・・耽奇会という文人の会合の記録。文政7年(1824)5月15日〜翌8年11月13日まで20回にわたり開催され、珍奇な古書画、古器物などを持ち寄り、考証を加え論評しあった。曲亭馬琴、山崎美成、屋代弘賢、谷文晁などが参加。http://urx3.nu/DmLC


3 正統保守と偽装極右の混同に因る多数派層の内心のネジレを解消するためのヒントは、比喩で言えば仏教と国家神道の“量子的もつれ”、特に近代「神仏習合史」の理解にある


・・・「神仏分離廃仏毀釈」強行の土壌は江戸プロトモダニティーの直視を避けた仏教界(経典がない神道と異なり宇宙観・生命観も視野に入る唱道宗教!)がセクト主義に溺れ普遍的「教化イデオローグ」創生を怠ったことにある。つまり、西欧カトリック懐疑論に相当する“民衆の立場に立つ教化イデオローグの創生”を怠った日本仏教!それが維新期における国家神道(尊皇テロ愛国妄想派)の横暴を許した一因!・・・


<注5>寺院の寺子屋について・・・但し、中世の寺院に由来するとされる寺子屋が江戸期の庶民層の高い識字率の維持に貢献した功績は評価すべきである(既述/2−2−(4)関連)。なお、寺子屋は関西の呼び名であり、関東(江戸)では筆学所、あるいは幼童筆学所と呼ばれた。http://urx.blue/DrXr http://urx.blue/DrXx

<注6>苛烈な「神仏分離と廃仏毀釈」の概要については下の記事★を参照。

★「国家神道」患者、安倍晋三アナクロのルーツ/明治維新期における「廃仏毀釈・神仏分離⇒国家神道」の流れ2017-03-20・toxandoriaの日記、http://urx.blue/Ds1l


3−1「教化イデオローグ」創生を怠った仏教の仮面を剥ぐ!/「神仏習合」史に潜む、“虚栄”に溺れる日本仏教が江戸プロトモダニティーの寄生化していた側面


(維新政府(尊皇テロ愛国妄想権力)によって野蛮かつ過激に行われた『廃仏毀釈』)


江戸時代の仏教寺院は江戸幕府が宗教統制の一環として設けた寺請制度(寺請証文を民衆に義務付け、キリシタンでないことを寺院に証明させる)によって、結局は、いわゆる檀家を持つ回向寺(菩提寺/絶対多数派の寺院)は檀家制度にシッカリ組み込まれていった(当然、その過程では後述の祈祷寺⇒回向寺の移行もあった)。


このため、江戸時代の仏教界は仏教思想の深化と普及の努力によって庶民を教化・啓発するというインセンティブへの回路が大概は断ち切られていたことになる(寺子屋の識字率での貢献は例外)。他方、檀家を持たない祈祷寺は徳川家をはじめとする各大名家が自らの利益祈願や一族の繁栄、武運の無事などを目的に建立したものだが、例えば、真言宗や天台宗系の寺院などで護摩祈祷によって御本尊に対し無病息災、治病・招福、家内安全などの願いごとの成就を祈祷することが行われていた。


そして、庶民層もこれら武家の流儀に倣い回向寺と祈祷寺を使い分けるのが普通であったため(当然、両者を兼ねる寺もある)、江戸期の仏教界にはトリビアな知識から脱し普遍的「知」の方向へ庶民層を啓発する役割意識が弱かったことになる。否、それどころか、寺院生活史の特殊性から寺院間の格差が次第に拡大する傾向であったため逆に大いに困窮し、経済面から堕落した寺々も多かった(関連参照/↓▲9))。

▲9 和田謙寿(駒沢大学名誉教授)『江戸時代中葉以降における寺院生活史の考察』http://ur0.pw/DuFm


いずれにせよ、これらの理由で幕末期へ向けて堕落・退廃した寺院が多かったことが、庶民の啓発どころか多くの寺院が庶民層の批判と怒りの対象とされてしまい、幕末〜維新期の「廃仏毀釈」運動が爆発的に過激化して全国へ拡大する異常社会現象と化したとの見方もある(各藩政府による廃寺等の寺院整理は幕末期に各地で先行していた)。なお、これら回向寺、祈祷寺の他に機内を中心に立地する「古代〜中世初期」以降に建てられた、少数派ながら大規模の学問寺(東大寺、法隆寺、興福寺、延暦寺、金剛峯寺、聖林寺etc)、および門跡寺院(皇族・公家が住職の寺院)がある。


例えば、東大寺・興福寺などの学問寺は、研究・教育(大学相当)、出版・印刷、建設事業(宮大工等)、金融業(御布施収入管理・融資等)、医薬業、芸能事務所不動産業(農事を含む寺内領地経営)etcの一大コンソーシアムであった。また、例えば藤原氏の氏寺である興福寺は法相宗(唯識集)の研究で古代〜中世以降に多くの解釈的な仏教思想上の業績を遺すが、江戸期における一般庶民層への波及的な影響は殆どなかったと考えられる(関連参照⇒2014-05-02・toxandoriaの日記、http://urx3.nu/DndB)。


ついでながら、上掲▲9などを手掛かりに江戸時代(後半期)の寺院数をごく大雑把に捉えてみると、それは約50万寺と推測され、そのうち神仏習合していた寺社数(寺と神社が習合していた件数)は約20万件(寺・社同数の部分)であり、同時期の神社数も寺院数と同じく約50万件であった。


これが、主に維新期の明治政府による神仏分離令と廃仏毀釈および天皇主権(実質的“国民主権”否定)の「国家神道」体制下で郷社・村社・氏神らの小社の廃止と合併強制によって、「寺院、神社」の総数が各10万件程度まで一気に激減しており、如何に神仏分離と廃物毀釈が過激かつ野蛮に行われたかが理解できる。


現在の寺数は約8万寺(僧侶34万人)、神社数は約7.9万社(小社を入れると約8万社、神職数は兼業があり推計が困難だが神社本庁(宗教法人)の管理下で2万人程度、他業務との兼職カウントで8万人程度か?)となっている/寺数・神社数はhttp://urx2.nu/Dle7 より)。


つまり、江戸後半に約100万件あった神社・仏閣の立地(50万社+50万寺、内20万件が神仏習合/30万寺+30万社+神仏習合20万件、と同じことw)が維新期の「神仏分離→廃仏毀釈/神社の“国家神道”基準の廃棄・統合、および“国家神道”新社の創建」で各10万社・10万寺へ激減!という驚くべき現実が傍証している。これは維新期に仏像等も含め約9割の寺社が国策で廃棄・統合されたということであり、教科書には詳しく書かれていないが、これは日本伝統文化の破壊という蛮行以外の何物でもなかった!


(日本仏教には“徳川幕府”および“明治政府”以降の権力下で“虚栄の自我像”に溺れ、堕落しパラサイト化してきた側面がある)


f:id:toxandoria:20170518054727j:image:w250B・フォール著『仏教の仮面を剥ぐ』(トランスビュー社)という手厳しい仏教批判の本(原書2009、日本版2016)がある。B・フォール(Bernard Faure/1948− )は、禅・密教・神仏習合など幅広い観点から主に日本と東アジアの宗教文化を研究する非常に卓越した宗教学者コロンビア大学教授)である。そして、この本は我われ日本人がドップリ浸かっている仏教の常識を覆す論点で溢れている。


しかし、フォールの狙いは、仏教を厳しく批判し罵倒して、それを根底から否定したり、あるいは葬り去ったりしようとすることにあるのではない。フォールの本心はその真逆で、特に日本の仏教(仏教界)自身がその弱点を十分自覚することで、自らそれを修正しつつこれからも益々日本(人)と未来の日本発展のため役立って欲しいという温かい眼差しを持っている。


・・・そこで、当書の中からB・フォールが指摘する主な仏教の弱点を拾ってみると以下のとおりである(一部、toxandoriaの解釈も補足した)・・・


(1)8〜13世紀頃の日本仏教は「一行専修主義」(小乗)へ過剰没入する傾向にあったため、それ以外の多くの人々が参加する実践を否定するという意味で寛容さに欠けていた。


(2)特に、日蓮宗の根本経典「法華経」は基本的に過剰セクト主義(過剰論争主義から他派を徹底的に攻撃し排除する)であるため、日蓮宗とその在家組織である創価学会は今でも強引布教(折伏)主義で普遍的・客観的な視座を否定する一種のカルト性を帯びている。


(3)同じく、創価学会の世俗面の現れである公明党が「仏教的な意味での平和の党」だと見なすのは(それが自称であるとしても)根本的誤解!何故なら、これは法華経に限らぬことだが、そもそも仏教はセクト間の闘争をやむを得ぬこととしてきた(その典型事例は近世チベットにおける武力闘争の歴史がある/無論、キリスト教も同じ傾向を持っていたが、宗教戦争宗教改革を経て啓蒙主義イデオローグを派生・結実させた!←toxandoria補足)。


(4)このため日本でも古代末期〜近世における寺院の一大「武装集団化(僧兵の自衛軍団化)」の歴史がある(が、法華経(急進日蓮主義)と過激化した一向宗(浄土真宗)は例外と見れば、そもそも仏教そのものに先制攻撃的な『聖戦思想』はない)。但し、太平洋戦争を振り返れば田中智学が創設した過激日蓮宗系在家仏教団体「国柱会」のイデオローグ<八紘一宇>があり、この異常思想も安倍内閣と維新へ潜伏している。(委細参照⇒2014-09-01・toxandoriaの日記、http://ur0.pw/DuK5 )(←“但し、太平洋戦争・・・”以降はtoxandoria補足)


(5)しかし、仏教には「政治的処刑の論理」がある。つまり、「大多数の生命の救済のために少数の殺戮(これをも含む“慈悲の殺人”の類)はやむなし」とする、ミソロジーである(これは死刑是認論とも関係するが非常に重い課題!)。但し、大乗と異なり小乗(上部座の一行専修仏教)はこの“慈悲の殺人”を否定している。


(6)神仏習合に先立つ本地垂迹説は「日本の神々の本地(正体)がインドの仏たちである」とする考え方だが、後に、神道側が反発してインドの仏たちの正体は日本の神々だとする反本地垂迹説を主張したため、やむなく「神仏一体説(神仏習合)」になったという経緯がありここから更に派生したのが荒唐無稽な「梵和同一説」である(toxandoria補足/関連参照↓▲10)

▲10 安倍晋三の「軍事国家主義」に潜む病巣は、『正当歴史認識と生の具体性(未生/国民主権の核心)への眼差し』の決定的な欠落2015-01-07・toxandoriaの日記、http://urx2.nu/Dldr


(7)創価学会(800万人強)を除けば、今も最大信徒数(約700万人)を誇る浄土真宗本願寺派には強い反権力の意志から歴史的に暴力・武力闘争との親和性があるが(強大な権力に対抗し過激化した一向一揆の歴史がある)、明治維新期以降にはこれが災いし、結局、太平洋戦争期には最大勢力であった浄土真宗を先頭に仏教界が国家神道のエセ・ミソロジーに飲み込まれ「国家総動員体制」の無謀な戦争へ引きずり込まれた直近の歴史がある。これは、悪徳権力と対峙する「公界」(1−2、の水平空間を求める大衆が飛礫を投げつける行動)の問題とも深く関わるという意味で極めて現代的な課題でもある(toxandoria補足)


(日本仏教が“民主イデオローグ”と真に融和する条件/それはカトリック「決疑論」が西欧プロトモダニティーの社会文脈深化で貢献した役割を学ぶこと)


・・・特に、江戸期における「庶民層のリアル生活と仏教界の相克の歴史」と「自らの苛烈な受難経験でもある廃仏毀釈の歴史」を率直に学び直す!それこそ日本仏教が“近・現代的な意味で民主主義イデオローグ化”するための必須条件である・・・


この問題のヒントを得るため、西欧啓蒙思想の前段の歴史で重要とされる「決疑論」(casuistry)について少し触れておく。決疑論の原義はローマ・カトリック教会の教父に与えられた「善悪を判断するための告解(神の赦しを得るための告白)の際の指針」のことで、それは中世のスコラ学で特に重視されたものであった。やがて近代(16世紀〜17世紀の啓蒙期)に入ると個人の「道徳的」判断への指針または説明論理として発達した。特に西欧ではそれが近代小説の各ジャンル(多様で豊富な日常に関わるプロトモダニティー的な文脈的フィクション社会問題などを固定化する文学技法)を発達させることに繋がった。


ところで、この「決疑論」の核心にあるのは<日常のリアル生活では、客観知(知性主義)を憎むカルトや悪徳の観念が、反知性主義的で異常な精神環境(内面世界)へ我われを必ずや誘い込む(これは“確信の誘惑”と呼ばれる/関連参照⇒マトウラーナ&バレーラ著『知恵の樹』(ちくま学芸文庫http://urx2.nu/AGF8 )という、自らが失敗した歴史経験を踏まえて現実を厳しく直視しようとする強固なカトリック側の意思>であった。


従って、端的に言えば「B・フォールが指摘する日本仏教が創唱宗教(作為的権力意思が工作した国家神道の屁理屈は論外であるがw、例えば伝統神道の如きアニミズム宗教ならぬ宗教論理的な経典を備える宗教)として“本格的に民主主義イデオローグ”化するための基本」は、先ずこのカトリック「決疑論」的な意味での体験的な歴史反省から仏教自身が新たなetwasを学び取り「多数派である一般庶民層の人間としての権利を真っ向から受け止めて評価し得る視座を仏教世界の中に本格的に取り込むこと」ではないか、と考えられる。


3−2 日本国憲法「象徴天皇制」の意義の再意識化(再認識)は、日本仏教にとっても自らパラサイト状況を本格的に脱するチャンスとなる


(神仏習合の歴史に透ける日本仏教の弱点の直視こそが、『象徴天皇制』(日本国憲法のかなめ)再認識のための必須条件)


・・・日本仏教の弱点の直視とは、“国民の死後への過剰傾斜ではなく、江戸プロトモダニティーの如き一般国民の『日常の生』への眼差しを強化することである。つまり、日本の一般国民が、「水平空間」(平等空間=永遠の公界)で表現する「批判と行動」(限定合理性を求め続ける一般国民層の自由意思)を恐れず真っ向から受け止めて「民主主義国家」に相応しい国家権力の象徴とは何か?を仏教者が真剣に自問自答することでもある。・・・ 


<注7>神道の歴史を中心に据えた視座から整理した「神仏習合の歴史」の概要は、下記▲11を参照乞う。

▲11 多数派日本国民が共有する「神道」に関わる誤解/トマス・カスリス著『神道』の警告/2017-01-04・toxandoriaの日記、http://qq2q.biz/DnYH


<注8>「公界」(くがい)とは?

・・・そもそも「公界」は公共あるいは「私」に対する「公」の概念を指す言葉であるが、元々は中国で用いられていた言葉で、禅宗用語として日本に伝えられた。禅宗では俗界から離れた修行の場やそこで修行する僧侶を指した。

・・・中世史家、網野善彦(歴史学者)によれば「無縁」は主従関係や親族などといった表の「縁」と切れた状態で、そこから「無縁・公界・楽」の世界へと「無縁」になった人々が入って行った。

・・・その「無縁・公界・楽」の特徴は、表の世界にはない自由性があり、未開社会から受け継いだ年功序列の価値観は残されていたものの、横の平等性が保たれており、しかも平和で自立した機能をもっていた。


・・・


先のB・フォールが指摘した(1)〜(7)では取りあげなかったが(必ずしも、それが仏教の欠点とは言えないので)、フォールは、仏教の根本にある「無我」という考え方が究極的に「自我」の消滅に繋がる点を表層的に解釈することの危険性を指摘している。それは、諸行無常→諦観へ直結(短絡)することになれば他者に対する「人格」上の尊重意識が育たぬばかりか、「主権」者的な意識も希薄化することになるからだ。


それにもかかわらず、実際には先の『江戸時代中葉以降における寺院生活史の考察』(▲12)でも窺い知ることができるのだが、特に、回向寺(菩提寺/多数派の寺院)らの僧侶たちの中には“宗教者としての生き方”よりも、基本的に幕藩(権力)体制(檀家制度)下に安住できる有利な立場にあることから、この“浮世”(一般庶民層が生きる過酷な現世、リアル社会)に対して一般庶民層よりも遥かに堕落的に適応してしまった輩が、つまり過剰世俗化・悪徳化する(ゴロツキ風の悪徳坊主や淫乱・放蕩生活に溺れる)者たちも、かなり多かったことが理解できる。


更に、そもそもインド発祥の仏教にはサンスクリット社会(仏教に限らずヒンズー教らも同じこと)が共有するカースト差別意識アーリア人の先住民支配の方便→職業分担の観念、へ変質したものと考えられる、http://urx3.nu/Dnpy/その意味では、森羅万象に関わる新たな民主主義意識とも言える、先端的なエトノス思想とは真逆の観念と思われる)が伴っており、これが後になってもサンガ(仏教共同体)、あるいは日本の仏教社会における尼僧への差別意識や女性一般への蔑視意識が長く残り続ける原因となってきた。


これら仏教の弱点とも言える点に共通する特徴を端的に言うならば、それは「理想(仏教上の高踏な観念的世界)と現実(汚濁に満ちたリアル生活社会、浮世)」の差異を「不二」と見なし、そのままに放置し一歩引いて観察することがベストだとする傍観主義(一種の諦観?)にあると考えられる。逆に言えば、これは森羅万象を「理想と現実」に分けて考えたり、そのように理解したりすることが無意味だとする非常に厳しい(ある意味で身勝手な)不可知論だ。


が、例えば学問寺の筆頭とも見るべき興福寺(法相宗)では、次々と新自由主義の喉奥から吐き出される面妖なホモ・エコノミクスキマイラを制御するため、つまり新自由主義の暴走を制御し「自由と合理主義」のバランスを取って現代のグローバリズム経済社会を乗り切るためにも役立ちそうな優れた思想(維摩経)についての研究が、既に相当古い時代において集大成されているが(関連参照⇒2014-05-02・toxandoriaの日記、http://urx3.nu/DndB )、残念ながら、これらは机上の空論の高踏的な立ち位置に止まってきた、と思われる。


3−3 日本仏教には、一種の限定合理性に覚醒していた江戸プロトモダニティーを再発見し、それを新たな仏教的“理由の空間”を介し未来へ繋ぐ役割がある


(日本人の自由意思(意識)の原点は、およそ6世紀以降の非常に長い『神仏習合』の歴史経験から学んだ“理由の空間”の中にある)


今や、日本も含む世界は、自由意思、特に「ホモ・エコノミクス(完全合理的人間観)を前提する新自由主義」暴走の制御可能性を巡って、ますます混迷を深めつつある。他方、全ての日本人がそのことを自覚しているかどうかは疑問だが、今まで見てきたとおり、日本人の自由意思(意識)の原点は進化論的軍拡競争(一種の限定合理性)の意義に覚醒していたともいえる江戸プロトモダニティー期をピークとする、およそ6世紀以降の非常に長い『神仏習合』の歴史経験が心身に深く沁み込んだ『理由の空間』(神ならぬ人間の最小限の自由意思)の中にある。


維新期における非常に過激な「神仏分離→廃仏毀釈」の過程は、見方によっては明治政府(現在の安倍政権、日本会議、神社本庁らに繋がる尊皇テロ愛国妄想の系譜の創始者)による<腐敗した仏教界と、それにもめげず台頭していた多数派層の水平意識の覚醒であった江戸プロトモダニティー>を諸共に根絶やしにしようとする作為の結果であったのではないか?ということだ。


これは、コンシリエンス(人文知・科学知の親和的融合)など先端<知>が強く意識しつつある「進化論的軍拡競争」(一種の限定合理性)とは真逆の、非常に過激な「先制攻撃型政治権力」の異常でテロリズムにも通じる危険な政治意思である。因みに、最新の神道研究の成果などを踏まえると、古神道のルーツは縄文・弥生両文化の古層(抗争・混在・融和の歴史)に繋がるだけでなく、それが「ユーラシア文化圏」全体にまで広がっていることが分かってきている(関連参照⇒2016-06-26・toxandoriaの日記、http://ur0.work/DsCq )。


また、仏教がインド・アーリア文化の坩堝から誕生していることを併せ考えれば、日本仏教がこれから創発し得る限定合理主義(適切な環境条件下で使われるヒューリスティクス(heuristics))に因る“新しい民主主義イデオローグ”の視座が、西南アジア・インド・欧州・中国・東南アジアまでの更なる広域文化圏(イスラム教・キリスト教圏をも含む)をも包摂し得るという意味でも、世界への多大な貢献の可能性すら秘めていることになる(八紘一宇に似てる?が、全然違う!w)。


また、この日本仏教がこれから創発し得る限定合理主義(適切な環境条件下で利用されるヒューリスティクス(heuristics))に因る“新しい民主主義イデオローグ”の視座が、愈々、これから更なる苦闘のプロセスを歩むであろう「再生へ向かうEUの新たな挑戦」にも何らかの形(例えば、幕藩体制下での、堕落した仏教を半面教師として生まれたともいえる、非常に優れた江戸プロトモダニティー創生の歴史は、新たなパターナリズム(EU内における“権限=権限”関係の再構築)の仕組みを模索するEUのためにも十分に役立つ斬新な視点を提供できる?)で貢献し得るのではないか?


然るに、これらの悉くは、<戦前日本の「国家神道」体制をモデルとする先制攻撃型軍事国家>の復活を謀る、安倍内閣、日本会議、神社本庁らの<名ばかり民主主義の尊皇テロ愛国妄想なる偽イデオローグ=正統保守ならぬ偽装極右>とは全く異次元の世界である!w


(維新期以降の日本には、全仏教界が国家総動員体制の国策戦争へ引きずり込まれ、特に太平洋戦争では「戦争」へ積極的に加担した苦い歴史がある)


これは先にも触れたことだが、B・フォールによれば、一向宗信徒は悪徳権力と対峙しつつ積極的に「公界」を求めてきた歴史を持つが、時により彼らは恰も独立小国の如き強烈なセクト意識から過激な武力戦闘集団と化した。つまり、端から“仏教徒=平和原理主義”に見立てるのは根本的誤りであり、結局、彼らの意識は意外にも忽ち暗転して最大信徒数を誇る浄土真宗派を先頭に全仏教界が「国家総動員体制」の国策「戦争」へ引きずり込まれ、むしろ積極的に戦争へ加担することになったという太平洋戦争期の歴史がある。


また、維新期の関連史に少し触れておくと、本願寺派総本山「西本願寺」参政の島地黙雷は、1872年(明治5年)に西本願寺からの依頼で左院視察団(岩倉使節一行の約2ヶ月後に左院がヨーロッパに派遣した視察団で主に仏・英両国の議会制度の調査、研究を目的とした)と同行し欧州方面の視察旅行を行なった。


しかし、近代西欧の宗教制度「政教分離」(特に仏のライシテ(laicite)に近い考え方)に基づく黙雷の「治教」理論は西欧近代国家の政教分離を視野に入れた日本初の啓蒙政策(神ならぬ人間の最小限の自由意思を支える論理を日本の一般国民へ教える)の試みで、その後の近代日本における信教の自由と政教分離(公的空間における厳格な政教分離)の導入に多大な貢献をなすかに見えた。

が、この「治教」理論は、その後の日本政府の屁理屈で「国家神道」を支える理論として改竄され、捻じ曲げられた。しかも、それは「国家神道」(宗教に非ざる超宗教であるとの文部省と軍部が創った公的な屁理屈)の下で、国民を国家総動員の国策に積極加担させる思想洗脳ツールと化してしまった(出典:阪本是丸著『近世・近代神道論考』−弘文堂−)。


(何故、このような理不尽が起こったのか?この疑問を解くには「理由の空間」と「原因の空間」の違いを正しく理解する必要がある)


・・・人間には受動的「思考停止」(ドグマ・ゾンビ脳化)に甘んずるよりも、真っ向からそれへ対峙する「批判と行動」(生命維持に必須の限定合理性)を選択する自由意思(意識)があることを知るべきだ・・・


そもそも、人間に宿る「情念」そのものには、いわゆる倫理的ないしは社会契約論的な意味での善と悪の区別は未だなく、それが一定の共通な社会意識の下で「理念」へ昇華したレベルで、その新たな「善と悪を区別する明確なエトノス観念(冷静・中庸・客観的な自然観)と社会意識」が“生まれ”た(歴史的に見れば“啓蒙思想が誕生した”!)と考えられる。


つまり、人間の意識の主軸は感情(意欲)と表裏一体の自由意思であるが、それは絶えず“原因の空間(因果/所詮は人間の力が及ばぬリアル現象、現実の流れ)”と“理由の空間(神ならぬ人間の最小限の自由意思を支える論理)”を区別して観察している訳だ。しかも両者は対立するとの理解も決定的誤りである。それは、この両者が合わせ鏡の如く密接に結びつき、恰も量子世界の素粒子の如くもつれた(entangle)状態であるのが人間の意識の正体(それが生きる意味でもある!)だからである。


因みに、E.O.ウイルソンは著書『ヒトはどこまで進化するのか』(亜紀書房)の中で、前者(原因の空間)について「連続性の(人文・社会的な)視点での究極的説明が理解できる能力/なぜ、その機能(例えば、手・足・指など)があるのか?」、後者(理由の空間)について「機能(科学)的な視点で最もプラグマティックに説明できる能力/その機能はどう使うのか、これからどう使うべきか?」であると述べている。


ところで、なぜ安倍政権、日本会議、神社本庁らは此のように不可解で、非論理的で、かつ非人権的なエセ民主主義の異常イデオローグ(総国民玉砕論が支配する先制攻撃型の軍事国家論)が跋扈した戦前〜戦中期の世界へ日本国民を再び連れ戻すつもりなのか?


様々な原因が考えられるが、その核心は阪本是丸・国学院大学教授(歴史学者・神道学者)が上掲書『近世・近代神道論考』(弘文堂)の中で下(『・・・・』)の如く指摘するとおりであり、その強力なインセンティブの中心に鎮座するのが「国家神道」復活の問題である(関連参照↓▲13)。

▲13 緊急事態『改憲』に隠れる真の狙い、「国家神道」(偽エトノス)と先制攻撃「軍事研究」の復活/日本のエトノスと未生の可能性を完全消滅させる確信犯的な感情構造の病理2016-06-26・toxandoriaの日記、http://qq2q.biz/Dokg


『ともかくも戦前〜戦中〜戦後〜現在と連綿と続いた日本社会全体の意識の流れの総体の上に今の日本(と安倍政権/←補足、toxandoria)があると見なせば、当然ながら現在の政治状況にまで繋がる大きな影響力が国家神道から流出しているのは明らかであり、その意味で国家神道は終戦で潰えたどころか隠然と今も活性化していると見るべきである』


そして、やはり見逃せないのは「近代仏教思想史」上の汚点とすら感じられる日本仏教の仮面の下に隠されている<ミソロジー(宗教論理)上の矛盾>ということだ(これはカナダの宗教学者B・フォールの慧眼が指摘する問題意識である)。


つまり、この「神仏習合の矛盾点の凝視」(例えば、下記(1)、(2))を敢えて避けてきたのではないか?ということが考えられる。又、そのような仏教ミソロジーの矛盾にも拘らず我われは今も紛れなく「神仏習合」的な曖昧模糊とした日常の生活感覚で生きているからだ(関連参照⇒↑▲14 カスリス『神道』 /(2)については下▲15を参照)。

(1)「仏教は平和原理主義である」という誤解を敢えて封印してきた

(2)古来の伝統神道と、それをベースとする古代天皇制では「天皇⇔人民・平等論」の観念が存在した

▲15伝統神道の原点と見るべき神道書『神令』によれば、「天皇制」草創期(“大化改新”以前)の神道は天皇に対し民衆を平等に見る徳治政治を求めた。神道学者、小山悳子(とくこ)によれば、神道書『神令』(伝:大納言・一条兼良、筆/兼良は室町時代の公卿・古典学者)の成立期は、およそ“大化改新”以前(中国伝来の儒教受容が本格化するより前の時代)。http://qq2q.biz/Do00 


(“理由の空間”の視座から歴史的に把握できる『象徴天皇制』の重要な意義)


・・・そもそも象徴天皇の考え方は大化の改新以前の古代天皇制にも存在した。他方、現在の象徴天皇は、直近の太平洋戦争で日本国民自身が、ありのままの“原因の空間”(時間遡及が絶対不可能な歴史プロセス)の中で多大な内外の犠牲のうえで漸く自らの手で学び得たものであり、それは日本の未来の水平空間で生き抜くトビウオのためにこそ役立つ希少な知恵の象徴である。・・・


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ところで、AI研究とクロスする最先端の脳研究(ヒトの意識研究)によると、人間の頭蓋骨内には約1000億個のニューロンがあるが(宇宙で想定される銀河のmin.数に匹敵!)、その内訳は「a意識の在り処と見るべき“視床‐皮質系”(大脳皮質と視床)/200億個」、「b小脳&基底核/800億個」である。特に驚くべきはb(脳内ニューロンの8割を占める小脳と基底核)が「意識とは殆ど無関係なゾンビ(状態)」であることだ。


そして、意識の発生については殆どが未解明のままである一方で以下の点が明らかとなりつつある。


●AI意識探求の原点は、脳内ニューロンの活動量と同期発火を前提とするニューラルネットワーク・モデルだが、近年、その両者が直接的には意識と無関係である現象が発見されている。(ニューロン・モデルAIの限界?)


●意識(頭蓋骨内aに関わる部分)は、「無数の可能性のレパートリー」(同bに関わるゾンビ部分)に支えられている


●意識の基本的特性二つ(統合情報理論)⇔(1)情報の統合/ほぼaに対応、(2)情報の豊富さ/ほぼbに対応


●意識統合のため脳内では非常に効果的で限定効率的(ヒューリスティック)な情報圧縮作業が進行している


・・・おそらく、その処理計算プロセスはシャノンの「対数関数計算に因る情報圧縮」が近い?(シャノン情報理論では2を底とする2進対数関数でビットに合わせた)。又、知覚可能な情報量は「無数の可能性×無数の組み合わせ」なので莫大になり、知覚的な観察だけでは対応しきれず脳内では凡ゆる方法での揺さぶり(一種の量子アニーリングに似た効果?/関連参照⇒http://ur2.link/Dpgi)が行われる。


・・・【意識のみならず全ての生体機能は“オッカムの剃刀”(思考節約の原理)方式で「程ほどの効率」と「ほぼ満足できる安全」の両面を同時に実現する】意識に限らず、ある身体システム(知覚作用など)が十分に情報統合的・限定効率的に、そしてほぼ満足できる安全を確保し機能しているなら、例えばそれが「視覚」の場合では脳幹基底部ゾンビの情報遮断フィルター(脳の盲点(Scotoma)に相当するRAS(脳幹網様体賦活系http://qq2q.biz/DoHs)作用による「Blind spot/盲点」の発生で、敢えて「ヒューリスティック(限定的http://qq2q.biz/DoHD)な合理性/つまり、統合!」の実現(目的に応ずるベスト知覚機能の確保/ここでは目的の物を見る視覚)と同時に、その人間(個々の生体)の「個体生命の安全も確保」している(出典:ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―)。


因みに、この「意識に関わる新しい知見」を、例えばE.O.ウイルソンの<「原因の空間」と「理由の空間」>に併せて考えると興味深いことが分かる。例えば、次々と因果・連鎖的に生起する目前の現実・現象(リアル)が「原因の空間」、その無限に生起するリアル連鎖(現象)について過去と未来をも視野に入れて観察し“それはなぜ起こるのか?これから、それは何に応用できるか?”を絶えず考える人間の意識が「理由の空間」だと言い換えてもよい(当然、その目前のリアルには、この世界で誕生し明らかに既に存在する自分自身や、その他の多くの人々の身体も含む)。


ところで、先に見た「意識内の非常に効果的で限定効率的な情報圧縮作業」は何を目的として行われているのか?という疑問が沸き起こってくるはずだ。


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無論、第一義的には「個々の生命体の安全を確保する」ことであるだろうが、特に、社会的ネットワーク関係と自然利用の文化を深化させてきた人間の場合はそれだけに止まらず、長谷川英祐氏(北大大学院農学研究院准教授)が仮説(提起)する「永続性の原理(進化論的軍拡競争)」(軍拡競争のコトバが付くが、安倍晋三・首相、日本会議、神社本庁らが好む先制攻撃型『軍国主義』ベストの話ではない!w)が、その目的ではないかと思われる。つまり、これはダーウイン進化論のバックグラウンドとして生物一般が身に帯びてきた「種の永続性を確保する巧妙な戦略」である(関連参照⇒http://ur2.link/DpgQ)。


他方、この「永続性の原理」と真逆なのが、目下、安倍晋三首相、日本会議、神社本庁らが、ムリクリ「改憲」の強行を突破口にして、絶対に自らの手で実現しようとやっきになっている「戦前の美しい日本を取り戻す!=国家神道カルトによる戦前型国体の復活」戦略である。


それは、人間の意識統合が「“原因の空間”たる内外のエトノス環境と反応して常に莫大な規模に達する『無数の可能性のレパートリー情報』をRAS(脳幹網様体賦活系)型システムで効果的かつ限定効率的に情報処理しつつ絶えず新たな“理由の空間”を探求している」のと対照的であるのが「表面的には如何にも全く普通の意識統合と同様にRAS型情報処理を行うかの如く狡猾かつ巧妙に装いつつ、その“エトノス”部分を“一定の特異観念”(例えば国家神道ベストの狂信!)に固定した(or作為で固定させた)脳内異常情報処理システム」としての「カルト観念」である。


このため、安倍晋三首相、日本会議、神社本庁ら「カルト観念」(脳内異常情報処理システム)から、実に奇怪なエセ現実のトリック(リアル政治、リアル政策を騙る詐欺的政治)が出現することになる。


つまり、「ある特定の因果律(原因の空間)」の結果が「過去の因果律(原因の空間)」に対し、現在から過去へと遡って影響を与える(言い換えれば“過去の歴史を書き換えてしまう”こと、更に言えば“過去の中に歴史と異なるもう一つの現実を出現させる”)ことが当然視されるという奇怪な現実(実はトリック幻影)が現前することになるのだ。


安倍政権・閣僚の殆どがメンバーである日本会議、オーム真理教、幸福の科学、旧統一協会世界平和統一家庭連合)らカルトと呼ばれる集団の悉くは、紛れもなく此の異常な精神環境(脳内異常情報処理システム)を共有していることになる。その意味では、多数派国民層から篤く信認されていると“思しき”安倍政権のトリック幻影政治の前で、今や批判のコトバも対抗するための為す術をも殆ど失ったかに見える日本は、開闢以来の危機に見舞われている。


だからこそ、唯一のナビゲーション・コンパスとなるのが「象徴天皇制」だ。それこそが紛れもなくありの儘の日本の“原因の空間”(時間遡及が絶対不可能な歴史過程)で学び得た、これからも日本の水平空間で生き抜くトビウオたちにこそ役立つ希少な知恵の象徴であるからだ。従って、国家の主権者たる我われ日本国民には、その代替不能な知恵を未来へ繋ぐため日々をそれに照らしつつ、絶えず新たな“理由の空間”の創造へ挑戦する義務があることになる。


そこで、やはり注目すべきは千数百年にも及ぶ神仏習合という代替不能な歴史・宗教・文化経験の光を浴び続けてきた日本仏教が、特に「江戸プロトモダニティー」のリアリズムに見合った「トビウオたちのためのイデオローグ」(“アナクロ尊皇テロ妄想派”駆除の特効薬)の創生を怠り、ひたすら“虚栄と世俗的欲望”に溺れてきた傾向があることだ(3−1、で既述/B・フォールの指摘)。


江戸期の日本仏教界は幕藩体制(檀家制度)というパターナリズムの下で、ある意味で程々に安住できる有利な立場であったにも拘らず、世界に冠たる「江戸プロトモダニティー」に見合った日本型「啓蒙イデオローグ」の創生どころか、もっぱら葬式仏教として惰眠を貪る堕落の側面があったことは否めない。そのため幕末・維新期以降の尊皇テロリズム派の似非イデオローグに被れた日本会議・安倍晋三首相ら穴クロ幻影師・詐欺師たちが、その悪しき作法の踏襲である“仏教の政治利用”なる旗印の下で今の日本を堂々と大手を振り闊歩していると見ることもできる。


例えば、あのフクシマ原発過酷事故の直後に仏教界の一部から出された、日本政府に対する「脱原発要求の声」は何処へ消え去ったのであろうか?


仏教の根本的なミソロジーからすれば、古神道由来のアニミズム論を方便として使った神社本庁の「原発推進論」(悪質な屁理屈ミソロジー)は論外としても、今も日本国民の潜在意識の奥深くに沁み込んでいる「神仏習合の歴史経験」(委細参照↓▲16)の視点からすれば、生命の根源であるエトノス環境を根絶やしにする原発利用が理不尽であることについては、全仏教界が率先して、もっと声を大にして主張して然るべきではないか?

▲16[神仏習合の歴史経験]自省的考察『神道、および神仏習合の歴史的概観/政治権力との野合でウロボロス化した日本伝統の神の道?』2017/05/10・ever-note http://ur2.link/DpKA 


それこそが、表題に掲げた<発見!江戸プロトモダニティーは、クオラムセンス(民主感覚)欠損病の囚人、安倍晋三・日本会議・神社本庁ら「アナクロ尊皇テロ愛国妄想派」駆除の特効薬>が真に意味する裏面の主張である。


ところで、「最先端の脳研究(ヒトの意識研究)の知見」で触れたことだが、最先端AI研究でもニューラルネットワーク・モデル(ヒトの脳をモデルとした意識研究)の限界が見え隠れしている。しかし、それなりに一定の成果も得られているので、肝心なことは「現行AI研究の成果」と「その限界」の両方を視野に入れたコンシリエンス(consilience/人文・科学知の融和的統合)による取り組みが益々必要になる、ということだ。


これは、差異の追究をベースとする科学知と統合(統合意識)の追究をベースとする人文知(社会科学・宗教研究も含む)のメタ次元での融和的統合を試みるべきだということを意味する。それは、現行の脳研究でも明らかであるが、ヒトの意識はおそらく生命個体のリアル安全保障のためにヒューリスティック(限定効率的)な統合を絶えず行っており、いま生きているその瞬間ごとに膨大な量の情報を捨て続けているからだ。


つまり、その捨ててきた情報(少なくとも、何らかのエクリチュールとして記され(遺され)たものは膨大な歴史情報の中に埋没している)が全く無意味なものとは言えないはずだ。そして、この問題に真正面から向き合うべき役割を担うのが人文知であり、特に宗教だということになるのではないか?従って、安倍晋三、日本会議、神社本庁らが謀る歴史修正主義に因る国家神道カルトや、その「国家神道」関連体制の促進が目的の「改憲」、「象徴天皇制と平和主義」放棄の断行などは言語道断である!


残された歴史情報から新たな知見を発見することと、ご都合主義で過去の歴史事実を現在にそのままの形で取り戻しを謀ることは全く異次元の問題だ。つまり、過去の因果プロセスを掘り出し、それを現在と未来のプロセスへリアルに繋ごうとする行為(後者)は、紛れもなくリアル認識の病であり、それこそ安倍晋三を筆頭とする「尊皇テロ愛国妄想派」がクオラムセンス(民主感覚)欠損病の囚人であることの証左である。


直近の戦争経験から学んだ成果である日本国憲法の根本たる「平和主義」の理想が、同じくその憲法の根本である「象徴天皇」にしても、これら両者に関わる価値観がれっきとした日本古来の信仰と天皇制の中に根付いてきたものでもあること((前者/平和主義)→参照/▲6、後者/象徴天皇(天皇と国民は平等である故に天皇は国民意思の象徴と見た)→参照▲15)については、仏教界が、自ら積極的に古来相互に深く影響し合ってきた神仏習合の歴史を率直に振り返れば理解できることである。


古来、仏教界と神道界が相互に深く影響し合ってきた「神仏習合」の歴史の中には、ヒトの意識が生命個体の安全保障のために、つまり、やむなくヒューリスティックス(限定効率)のため捨ててきた莫大な情報が歴史・文化遺産として無尽蔵に存在しており、それらは確実に豊かな近未来の日本の民主主義&経済Stage2(コンシリエンス的文化資本主義の時代?)/http://urx.red/DqCk 」のためにもに役に立つ、いわば未来のトビウオたちが『日常礼賛』を持続するための新たな糧となる宝の山でもあるはずだ。

2017-03-20 安倍・トランプ・ルペンら極右「オレオレ反知性主義」に代わる「民主

toxandoria2017-03-20

安倍・トランプ・ルペンら極右「オレオレ反知性主義」に代わる「民主主義Stage2」の土壌、エトノス、マイクロバイオーム、コンシリエンス、AI活用は、EUが苦闘する「新世界」へのプレゼンス!


プロローグ



Paul Gauguin「Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?」1897–1898

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・・・Oil on canvas、139 cm × 375 cm Museum of Fine Arts、 Boston・・・関連参照⇒後述の[3−目的論のジレンマ・・・]


【動画】The Sound of Music 新妻聖子

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【動画】La La Land (2016)

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・・・「民主主義Stage2/コンシリエンス的文化資本主義の時代」どころか<安倍・稲田・籠池“アブノーマル倒錯”政治>の触手が深くネットリ絡み合う<ディープ穴クロニズム>のお仲間たち!彼らの赤く爛れ腫れあがる二・三枚舌が舐めくり回しのたうつ日本の惨状!(ラ・ラ・ランドの米国(アンチ・トランプ派の)およびカナダ(J.トルドー・エトノス政策の)と対照的に!苦w)http://ur0.pw/Cj0J



1「国家神道」(教育勅語クランケ(患者)、安倍晋三アナクロのルーツ


・・・明治維新期「廃仏毀釈・神仏分離 ⇒ 国家神道の流れ」には、富国強兵「日本」で庶民層の内心(最奥部)を一元的に強制管理する強靭「監視社会」設計の意図(意味)があった・・・


1−1「国家神道」患者、安倍晋三アナクロのルーツ/明治維新期における廃仏毀釈・神仏分離⇒国家神道の流れ


(安倍政権の内奥に流れ込む『幕末〜維新期以降のオルト・ファクト(アナクロ社会リアリズム)観念』の核心とは?)


自らの政権(そもそも尊皇テロリスト派が主流の)が操縦し易いように“大衆・衆愚の内心の最深部を“国家”神道一色(虚構、狂信、妄想観念)で塗り込め洗脳するため維新政府が採った<明治憲法下でのエセ政教分離政策>のプロセスで無視できないのが、島地黙雷(本願寺派総本山、西本願寺・参政)の近代西欧の宗教制度「政教分離」に基づく「治教」理論(島地黙雷の西欧視察の体験と知見に基づく啓蒙理論)であった。


しかし、維新政府のみならず爾後の日本政府が「国家神道」を支える理論としてそれは都合よく捻じ曲げられてきた、という恐るべき歴史が存在する。そして、その流れが今の安倍政権へも大きな影響を与えている現実を、一般日本国民は勇気を奮って明確に理解すべきだ(委細は省くが、関連で下記★を参照乞う)。また、この尊皇テロリスト式「国策洗脳」の遣り口は渦中の森友・加計両学園アベ・スキャンダル、フクシマ無視ムリクリ原発推進、アベ式軍事国家日本ら背任的「国策シナリオ」にも重なる。


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★阪本是丸・国学院大学教授(歴史学者・神道学者)の著書『近世・近代神道論考』(弘文堂)の中に、“廃仏毀釈は法難(やむを得ぬ歴史的必然の流れ)であるというのが、およそ20世紀末〜21世紀初め頃の仏教・神道系アカデミズム界の共通認識であった”という記述があるが、それは今でも全く同じ状況であるだろう。http://ur0.pw/Cj1D


因みに、阪本是丸は著書『近世・近代神道論考』(弘文堂)の中で、次のようにも述べている。

・・・『ともかくも、戦前〜戦中〜戦後〜と、連綿と続いてきた日本社会全体の意識の流れの延長線上に今の日本があると見るならば、当然ながら現在の政治状況にまで繋がる大きな影響力が「国家神道」から流出していると見るべきであり、その意味で「国家神道」(および、その基盤である教育勅語)は終戦で潰えたどころか、歴然として今も活性化していると見なすべきである。』


(戦前〜戦中期の錯誤リアリズム意識『国家神道』は、終戦で潰えたどころか今も国民の支持率が高い安倍政権下で活性化している)


・・・共謀罪にせよ 憲法改正にせよ、安倍内閣が採る遣り口は戦前における内務省・文部省ら権力手先機関の<開き直り詭弁>であり、それは一般国民層の内心へ「国家神道」(篤胤・顕幽論へ偏向したカルト狂信)を奥深く浸透させた大日本帝国(軍事国家主義)の手法と全く同じ!・・・


先に取り上げた阪本是丸氏の鋭い指摘を真逆の視座から凝視すると、次のような疑問が涌くはずだ。つまり、それは<古代〜中世〜近代に跨る非常に長い神仏習合の歴史がある一方で、「仏教」(見事な仏典(諸経典)を持つ唱導宗教!)あるいは日本文化の古層と重なる「伝統神道」自身が、主権者たる一般国民を十分に慮ることが出来る「中庸な政治イデオローグ」を自らの内側から結晶させることができなかったのは何故かという問題だ。


老婆心から加えておくが、宗教の視座から政治マターを考えること自体は善悪とは無関係である。それどころか、宗教が一切の政治マターを思考から排除すれば、それは意識ある生きた人間のための宗教とはなり得ないことになる。但し、そのような意味での宗教的思考が特定の宗教や宗派の利益だけのため片利的に利用されることになれば、それは悪となる。だから、欧州史の中で熟成された「政教分離」意識の根本にある、このような意味を理解するのも民主主義の基本である。


つまり、それは、この致命的な思考技術上の欠陥(庶民層の意識面から見れば、ごく普通の人々が夫々の分に応じて政治・経済・厚生・教育などの社会制度に関する理念的な部分をアレコレと考える習慣が不在だという重篤な欠点)を抱え込んだまま、幕末〜維新期〜戦前〜戦後期〜、そして今にまで至る過程を漫然と歩んできたため、我々は未だに直近の悲惨な敗戦経験ですら、それを正しく学び、それを新たな理念の創造に生かすことができないのではないか?ということだ。

1−2「国家神道」には、富国強兵「日本」で庶民層の内心(最深奥部)を強制的に一元管理し洗脳する強靭「監視社会」設計の意味があった


(近代日本の病理的オルト・ファクト(尊皇テロリストの錯誤リアリズム意識)、『“国家神道”支配がベスト&ファースト』の狂想に呪われたアベノミクス


・・・アベ「国家神道」復活の策動に潜む維新期アナクロ二ズムの病巣/幕末〜維新期の支配者らの深層意識には反知性的で愚昧な庶民層の内心を国家神道一色で塗り込めつつ近代国家に相応しい経済の実現を謀るべしとの自らの反知性を棚上げした真逆ベクトルの倒錯観念が憑りついていた・・・http://ur0.pw/Cj1x


維新期の廃仏毀釈・神道分離(神仏混淆の習慣を排し、神社と寺院とをはっきり区別する考え方)の先行史と見ることも可能な水戸藩・長州藩・薩摩藩・津和野藩・富山藩・相良藩らの「寺院整理と廃仏毀釈」(仏教弾圧)の概観から予想外に理解できたことがある(因みに、維新期の廃仏毀釈と神道分離令に至る幕末からのプロセスでmin.7〜8割の寺院・祠堂・仏像等が破毀されたが(小規模祠堂と仏像等の被害の占有が大きい)、その結果が今の神社数8.8万、寺院数8.6万)。


それは、これらの背景に江戸中〜後期の国学研究、特に古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学の援用で「中華思想」を真っ向から倒置・逆転させ、そこから強引に創作した「中倭(日)思想」を前提とする考え方が、乱暴に言えば、中華思想のパクリ的な模倣(換骨奪胎)が荻生徂徠の著書『政談』であったことになる。


江戸中〜後期の国学研究の特徴は、先ず宗教と経世学を峻別すべしとすることであり、これは一種の“政教分離”風の考え方ながら、啓蒙思想が確立する流れの中の欧州で生まれ、遂にはライシテ(仏/公共空間における非常に厳しい政教分離原則)へ到達したものとはまったく似て非なる、それとは根本的に異質な、まことにご都合主義的な概念である。


換言すれば、それは<宗教(神道)の政治利用(国策神道原理で経済成長を謀る)>という、現代経済学の常識から見れば実に奇怪な経世論(経済論理)である。因みに、周知のとおり(必ず日本史教科書に書いてある!)、当書は将軍吉宗に献上されたが、吉宗が「享保の改革」でこれを参考にした形跡はない。


なお、この荻生徂徠の思想を引き継いだ太宰春台(江戸中期の儒学者)が“経済”というコトバを日本国内で定着させ、それが今の日本でも使われる、エコノミーの訳語となったという事実があることにも何故か非常に空恐ろしい空気を感じる。


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だから、幕末〜明治維新期頃から定着した徂徠・春台流の“知性がない大衆の内心を国策の“国家”神道一色の虚構(妄想観念)で塗り固めて現実経済と社会厚生の効率化を実現するのが最善策だとするオルト・ファクト(今から見ればアナクロ社会リアリズム)を絶対視する、実に奇怪なゾンビ観念を、特に安倍晋三ら特権支配層が今も引きずっていると見ることができる。


(そもそも昭和天皇は「自らは人間である」と自覚されていた)


・・・また、時の権力によって「天皇は現人神である!」と一般国民は繰り返し洗脳されてきた。そして、その強制洗脳のピークは太平洋戦争の開戦前夜と戦中期であった。・・・


戦前の日本を「皇国史観」批判の眼で大きく一括りすることに慣れ切った向きは意外に思うかも知れぬが、幕末以前から存在する皇国史観、および明治期以降の国体論(近代国家日本の根本はどうあるべきかを問う議論)における主流派(多数派)は、「天皇の権威はその神格化の伝統よりも、天皇家の精神基盤であり続けてきた伊勢神道が代表する日本伝統文化(国風文化の伝統)に根差す個々の天皇の人間としての活動、すなわち個々の天皇の優れた人格と倫理性、いわば一般国民へのその思いの強さにこそ求められるべき」だとする、いわゆる良識派であった。


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しかし、『三流の維新、一流の江戸』(ダイヤモンド社)の著者・原田伊織によれば、本居宣長が完成させた「皇国史観」の神話論理(ミソロジー/これは山崎闇斎平田篤胤・顕幽論らのルーツともなり、水戸学の水戸光圀、会沢正志斎らが更にそれを強烈な日本ファーストの方向へ濃縮する)は、が少数の<非主流派>であった維新政府(尊皇テロリスト)によって更に観念的に過激化され、やがてそこから軍国主義国家・日本の諸政策が誕生する。


つまり、「皇国史観」(国家神道の基盤)の神話論理は、自らが超然宗教であるという屁理屈(御用イデオローグ)を騙り始めることで、遂には八紘一宇(天皇を世界の頂点と見立てた天の屋根の下で全の世界を一つの家の如く理解すること/現下の安倍晋三内閣と自民党の大勢が此の“ゾンビ奇想”に強く憧れているのは周知のとおり!)という、戦前〜戦中期における「侵略戦争」遂行の大スローガンとなり、間もなく、直接的な国民統制のための「教育勅語、治安維持法」などが派生的に誕生した。


<補足>1889(明治22)年の勅令第12号で官立・私立の全学校での宗教教育が禁止となり、国策「非宗教」と定義された国家神道は宗教を超越する教育の基礎(超然宗教)とされ、翌1890年には「教育勅語」発布となり国民道徳の基本(愛国玉砕精神)が示され「国家神道」が宗教・政治・教育を包摂した。


・・・


但し、近年の諸研究によって、国家神道の宗家とされる本居宣長のミソロジーは伝統文化に関わる美学的ないしは文学的に高度に洗練された観念であったにもかかわらず、それを後継者達がご都合主義の天皇の政治利用で曲解してしまったため、広く一般の人々もその誤解を素直に信じてきた節のあることが明らかとなりつつある(宣長の神話論理の誤解に関する詳細は下記◆を参照乞う)。


◆2013-05-07toxandoriaの日記/日本会議&神政連の『伝統神道と本居宣長』曲解が安倍自民の主権制限「改憲」と戦前型「国民モルモット化」なる暴政の元凶、http://ur0.pw/Cj1G


<参考>安倍政権、日本会議らが大いに好むヤマト民族の誇りとヤマト魂の根源とされる「国家神道ミソロジー」が、実は、半島系文化の中核であった朱子学に淵源することも日本では殆ど意識されていない!これも、武士階層(幕府体制イデオローグ支持基盤)の意識の深層からスピン派生した、安倍晋三らが崇める「国家神道」原理主義がカルト・ナルシズム以外の何物でもないことの傍証となっている。

・・・そもそも江戸幕府・御用学問(官学)の中枢に根づいていたのは、統治技術の基盤として高度に洗練された半島系の朱子学であった。そして、朱子学は李退渓(又は李滉とも/16世紀中期・李氏朝鮮の儒学者、二大儒者の一人)の創始だが、これは林羅山、山崎闇斎or吉田松陰(松陰の武士道はこの半島朱子学系と葉隠系の折衷と言える)らのルートで、特に江戸期の日本へ大きな影響を与え、それは江戸幕府の御用学問(官学)の中枢となった。

・・・また、朱子学は日本極右の一つの源流でもある尊皇攘夷論の元祖(水戸藩・水戸光圀の大日本史など)へも影響を与えており、果ては、驚くべきことに最も日本的でピュアな精神の現れとされる武士道(山鹿素行らによる国風文化と朝鮮朱子学の高度な臨界的融合)へも大きな影響を及ぼしてきたことは、実に興味深い「近親憎悪感情が絡む文化と歴史の共鳴現象」である。


・・・


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因みに、「国家神道」が支えた「国体論」に関わる思潮の流れのポイントを列記すると、凡そ、それは<明治22(大日本帝国憲法公布)〜明治末期頃/国家神道(神社非宗教論なる一種のカルト的超然宗教の観念)に因る天皇現人神論の時代>⇒<大正初期〜昭和10年頃/大正デモクラシー(外来民主主義思想)と天皇機関説の影響に因る人間天皇が意識された時代>⇒<昭和12年〜戦中期〜終戦期/文部省謹製の強弁『国体の本義』による天皇現人神観が絶対強制された時代>という流れになる。


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昆野伸幸著『近代日本の皇国史観再考、国体論』(ぺりかん社)によれば、そもそも即位直後(昭和元年)〜文部省が『国体の本義/天皇現人神論を正統化するため文部省が作った屁理屈!』(昭和12)を発表する頃までの昭和天皇は<ご自身が人間であること>を明確に自覚されていた。


無論、それ以前の天皇の多くも、自らが神であるとは本気で思ってはいなかったが、江戸中〜後期の国学研究、特に古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学の援用で「中華思想」を真っ向から倒置・逆転させ(漢民族の国家『明』の滅亡(1644)が契機となった)、そこから創作した「中倭(日)思想」を前提としたものが、荻生徂徠の著書『政談』である(幕府へ献上されたが、将軍・吉宗は享保の改革で此の考え方を採用していない)。


だから、終戦直後の昭和天皇の『人間宣言(詔書、19460101(S21))/新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ・・・』は、アベ様のお友達一派らが強弁する如く、なにもムリくりにGHQから言わされたのではなく、敗戦までのプロセスの中から自ら誤謬を学び取り、昭和天皇が再び我に返られた(皇国史観のカルト洗脳が解けた)と見なすべきである


別に言えば、“そもそも明治末期頃〜昭和初期にかけて(これも現代では多くの人々が誤解しているが)、実は「天皇機関説」こそが国家公認の憲法学説であった(1900(明治33)〜1935(昭和10)頃)ので「昭和天皇ご自身も天皇機関説を当然のものとして受け入れていた」ことに基づくと思われる。


しかし、『国体の本義(昭和12)』と、それに併行する『軍部の台頭』で活発化した『国体明徴運動』が<国策強化のための論理(安倍首相の憲法ムリくり解釈“詭弁”とソックリ!)>として公認され、更に、軍事国家権力側が一方的にその洗脳工作と広報を強化する中で、今度は天皇機関説が国体に反する学説だとして集中的な排撃を被ることになった。

天皇機関説は大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、「統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として統治権を行使する」と説いたもの、つまり国家法人説に基づき憲法学者美濃部達吉らが主張した学説で「天皇主権説」(穂積八束、上杉慎吉らが主張)と対立した。


(大正期以降の「皇国史観(国体論)」の大混乱/「人間である」と自覚する昭和天皇は、如何にしてリアル「現人神」へ“再び”祭り上げられたか?)


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NHK推奨のTV放映?稲田朋美・防衛相(夫・龍示氏が詐欺集団の森友学園の顧問弁護士!):教育勅語の精神、取戻すべきと思う!http://ur0.pw/Cj1Z )この儘では全国民が安倍様バンザ〜イ!を言わされるぞ!!只のオッサン@shinkaikaba ⇒ 全国民が「安倍首相バンザイ」と言うのか!308ブ・半歩前へ?  2017年3月9日http://ur0.pw/Cj25


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「大日本帝国憲法(1889公布、1890施行)」では、文面に“信教の自由“が明記されていた(条文、下記*)が、それは「国家神道は宗教ならず宗教を超えたものである」(神社非宗教論=国家神道は超然宗教であるとする一種の屁理屈(本気ならカルト観念w)という超然権力による強権的法解釈に立脚しており、<神道・神社を他宗教の上位に置くのは憲法の「信教の自由」と矛盾しないとの公式見解>に基づくものであった。


*大日本帝国憲法第28条の条文=「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」


1889年の「勅令第12号」(大日本帝国憲法公布・皇室典範公布と同年)によって官立・私立の全学校における宗教教育が禁止され、<「宗教ではない」とムリくり解釈された「国家神道」は一般宗教を超越したものとして、いわば超然的に理解される(実は、強制された!)>ことになる。翌1890年には、「教育勅語」が発布され、軍国主義一色で洗脳するため国民教化の基本が示され、日本は「国家神道」が<宗教・政治・道徳・教育・科学(科学技術)>の上に超然と君臨する異常政体と化した。


このように、<明治憲法(大日本帝国憲法)の“政教分離の原則(信教の自由)”は明治政府の強権憲法解釈によって“国家神道”と矛盾しないとされたことが、今に至る迄の日本の近・現代史における全ての誤りの発端となった>ことは間違いがない。


つまり、この明治期における初期条件の根本的誤り(というより明治政府による国民への嘘(明治憲法のムリくり解釈)の押付け)こそ、その後の日本(戦前〜戦中〜戦後)へ連鎖的悪影響をもたらすという意味で、諸悪の根源になったと考えられる。そして、いま安倍政権が取り戻そうと必死になっているのは、この「明治政府による国民への嘘(明治憲法のムリくり解釈)の押付け」であった「国家神道」再現へのプロセスに他ならない。


やがて、帝国主義の更なる深化は、昭和10年代に入ると「徹底した天皇の政治利用を伴うネオ国体論(皇国史観ルネッサンス)」を求めるようになる。一方、帝国主義の更なる深化と併行して、大正デモクラシーで開花した“新しい社会(国民主権、自由主義、政教分離など民主主義に関わる基本的諸観念)の発見”という新たな外来ファクター(本格的な民主主義思想)の流入が、伝統的「皇国史観」の存立基盤そのものを脅かすようになり、当時の日本は<民主主義VS伝統的「皇国史観」>の対決構図を孕む危機的状況に陥った。


つまり、『伝統神道と本居宣長』の曲解というアキレス腱(現人神の国(古代的祭政一致の国)が此の世界に君臨し得るという尊大な皇国史観)を抱えながら“そもそも皇国史観の尊厳の元は何に由来するか?”という最も基本的な疑問を解かず、それを放置したまま遣り過ごしてきたため、「皇国史観(国体論)が、愈々“拡大する植民地”と“新しい社会の発見”の挟撃を受けることとなり、日本は昭和10年代に国家自身と日本国民のアイデンティティー危機というクライマックスを迎えたことになる。


しかも、そのため、当時の国体論の内側は、この根本問題の解釈をめぐる様々な流派が生まれて深刻な衝突と分裂を繰り返す大混乱に陥っていたのだが、終戦直後から現在に至るまで行われてきた“皇国史観(戦前)批判」の主流的方法(論)”は、この「皇国史観」内部での国体論をめぐる“アイデンティティーの混乱”を殆ど見過ごしてきており、それは「戦前の誤った皇国史観」だとして、一派一括りでバッサリと言及されることが多かった。


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そして、このため正統保守の芽も摘み取られてしまい、逆に、安倍晋三、日本会議、神社本庁らの悪玉菌(偽装極右派)が異常繁殖し、多数派国民層も悪玉(偽装極右)と善玉(正統・中道保守)の見極めがつかぬ不幸な状況へ追い込まれたのである。


(右傾化現象に共通するレイシズム(日本会議にその典型が見られるヤマト民族『系譜』の狂信)は、多数派の庶民層をアナクロ・ゾンビ国家観へ誘い込む陥穽となる)


・・・関連で、後述の<3−(2)−(・・・DNA観察から見える『 “民族主義、レイシズム=非合理”の発見』>を参照乞う・・・


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安倍様バンザイ!若者のダントツ支持拡大は“無知&不勉強”による「国家神道」派アベ極右と正統保守の同一視が主因! ⇒ 日経2.24〜26世調で「2021.9マデ安倍首相で行く!」賛成63%が反対28%に大差!18〜39歳の若者層の支持がダントツに大きい!36日経 20170308只のオッサン(脱原発への急転向者) @shinkaikaba http://ur0.pw/Cj28

・・・わが日本の喫緊の課題、それは日本のアキレス腱、「国家神道」(≒日本会議)マターを超克すること!そして、『国家神道』患者集団、安倍政権へのベスト対抗策は正統保守の意義をあらゆる機会に掲げ直し、それを国民一般(多数派層)と共有することである。・・・


そのためには、戦前を一括りの悪徳(又は誤謬)と見立て、一本調子でバッサリと「国家神道」(皇国史観の核心イデオローグ)を糾弾し批判する傾向が強かった戦後の歴史学の視座を転換することが先ず肝要であり、いまこそ真正(正統)保守の意義(民主主義Stage2の入り口となり得る!こと)を再認識し、それを国民一般と共有できるようにするのが『国家神道』患者集団(日本会議 一派)、稀代の一強政権と見なされている安倍政権へのベストの対抗策になるだろう。


そして、戦後歴史学の視座というある意味で解像度が著しく劣化したオペラグラス映像の中で以下に示す「二つの点」の差異を軽視することとなってきたため、我々は特に「(2)の意義(正統保守)の重要性」を見落してきたのではないかと思われる。


(1)皇統一系と純粋大和民族を頑なまでの基本原理とする皇国史観ナショナリズム

・・・それは、既述の片山杜秀・島薗 進/共著「近代天皇論」(集英社新書)によれば、近代国家づくりの精神的エネルギーとして維新政府が担ぎ出した古代律令制における祭政一致のためのミソロジー(神話論理)であり、「神としての天皇と臣民ナショナリズム」の表裏一体化であった。


(2)同じ皇国史観(国体論)の中に潜んでいた純日本型の「冷静な正統保守思想」創出の可能性(伊勢神宮を軍国主義の象徴ではなく、「天皇家と伝統日本文化」が共有する精神性の象徴と見立てる、象徴天皇制の下での国民主権デモクラシー国家、または国民主権ナショナリズム国家


結果的に、例えば大雑把な視点で単純に一括りで批判する人々からは、今でもそれは典型的な極右だと誤解されている三井甲之(参照http://ur0.pw/Cj2b )の思潮変遷のプロセスに「正統保守の可能性」の芽生えが観察されることなどは見落されてしまう。


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しかも、そのことが悪循環的な意味で災いの元となっており、今の日本では<正統保守(国民主権を最重視する正統保守的な“ものの考え方”)と偽装極右(安倍政権の背後霊となっている日本会議らの、靖国顕幽論にかぶれた国民主権否定派の妄想(似非)イデオロギー)>の区別が一筋縄ではつけ難い袋小路に嵌っている。渦中の『森友学園=安倍晋三記念小学校』スキャンダル、あるいはそれに続き露呈しつつある大疑獄?『アッキード2こと今治・加計学園アベ・ルート』スキャンダル(http://ur0.pw/Cj2k )などが、この悪循環的な政治文化、悪しき日本型「構造災」の伝統の上で起こっていることは言うまでもない。






(正統保守ならぬ幕末〜維新期・尊皇テロリズムを継ぐ偽装極右、『安倍政権、日本会議』こと国策強盗一派の強靭<監視体制>に仕切られる日本の悲惨!)


・・・テロ&右傾化で混迷するEUで重要な役割が期待される『ポーランド伝統の中道政治意識(19世紀ポジティビズムの伝統を継ぐ中道右派)』と余りにも対照的!なお、ポーランド伝統の中道政治意識については、「2−(2)、(3)」で後述する・・・


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◆『スノーデン』(超監視社会)が警告すること/オリバー・ストーン監督、批判と皮肉の矛先はトランプ政権にまで… http://eiga.com/movie/81862/interview/ 

・・・米国家安全保障局(NSA)、CIAの職員だったスノーデンは、一般に米国では国家機密を暴露した人物とされているが欧州では高く評価。米トランプ大統領はその意義(AI同然化のネット空間に自由が存在しないという恐るべき現実!)に気づくか?が試されている。『スノーデン』(オリバー・ストーン)

・・・これは「日常コミュニケーションの犯罪化」に止まらず、例えば安倍政権が強行成立を図る「共謀罪(テロ等準備罪)」のごとく内心最深部(前意識)の監視を謀る暴走権力の極みだ!⇒ 共謀罪の狙いはテロ対策ではない!スノーデンの警告に耳を傾けよ 合法化される政府の国民監視20170223 小笠原みどり 現代ビジネス 20170223@shinkaikaba

・・・共謀罪の狙いはテロ対策ではない! スノーデンの警告に耳を傾けよ/合法化される政府の国民監視 @小笠原みどり20170223現代ビジネス・講談社 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50957 


・・・


日本経済新聞世論調査(2.24〜2.26実施)によると、安倍晋三が2021年9月まで首相を続けることに「賛成」が63%で、同「反対」28%を大きく上回ったとされる。同じく、次の政権の首相にふさわしい人を聞いたところ「安倍晋三」と答えた人が21%で最多であり、2位と3位の小泉進次郎・自民党農林部会長、小池百合子都知事がいずれも16%で追う、となっている。


しかし、何よりも驚かされるのは、年代別で見た場合の安倍首相への期待度(支持)の異常なほどの高さである。つまり、同調査によると、既に森友学園関連の逆風、「安倍晋三記念小学校」スキャンダルが明るみへ引き出されつつあった時の調査にもかかわらず、この異様なほどの支持率の高さである(日経の調査が捏造では?の議論は置いておくとして、w)。


同調査によると[年代別で見た場合の安倍首相は若年層に人気だ。18〜39歳で安倍首相を選んだ人は40%に達し、12%の小池氏と橋下徹前大阪市長らを大きく引き離す]となっており、文字通り、これからの日本を背負う若年層に限れば、安倍晋三の支持率は他の追随を許さぬほど絶大で、恰もそれはヒトラー・ユーゲントならぬ「安倍晋三・ユーゲント」の観を呈している。


おそらく、この若年層のアベ支持率の異常な高さの背景は、彼らに「正統保守と偽装極右の違いを判断する知識(と歴史センス)が欠けている/だから、安倍晋三・稲田朋美らが持ち出す穴クロ教育勅語への批判力も皆無!」ということだと考えられる。一方、安倍首相(同会議の幹部メンバー)自身も含む日本会議派の人々は、自らこそ日本の伝統文化と正統な愛国心を持つ本物の日本人であると意識しているらしいが、実は彼ら自身が日本の歴史と伝統文化を正しく理解しているか?は甚だ疑わしく、むしろ彼らはトンデモ歴史観の信者であるに過ぎぬ!例えば今村雅弘・復興大臣( #日本会議)の低劣な、フクシマ自主避難者らへの404“暴言”はその現れだ。

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つまり、彼らは正統保守主義者などではなく、幕末〜維新期における「尊皇テロリズム」狂信(天皇の密教(御利益)的政治利用派/自己利益ないしはお仲間利益のために多数派国民層を食物としてもかまわぬという考え方の国策強盗団を志向する名ナバカリ似非愛国政党派、又はゴロツキ徒党集団)に嵌った輩である、というべきだ。


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因みに、「江戸時代の身分別人口比」(明治3年(1870)、太政官調査/http://ur0.pw/Cj1N

)で、江戸末期〜維新初期ころの身分別人口比を見ると、華族・士族・卒(下級武士等)4.14%、神官・僧尼1.25%、平民(農・工・商)90.6%で、しかもこのうち農民が約80%の圧倒的な大きさ占めると推測される。


従って、「尊皇テロリズム」狂信派(密教的天皇利用派)が、これら絶対多数派の農民層を大いに怖れ、一気に軍事「皆兵国家」の基盤として取り込んでしまうべく、彼らを「国家神道」の最優先すべき洗脳ターゲットと見立てたのは当然のことであった。つまり、これは恰も戦国期の織田信長豊臣秀吉徳川家康らが常に最も恐れた<農民層に重なる「一向宗(浄土真宗)」門徒へ残虐な弾圧政策を仕掛けたこと>とほぼ同じ意味を持っていたことになる。


また、この構図を現代日本に当て嵌めれば、安倍政権、日本会議、神社本庁ら尊皇テロリズム(偽装極右)派の後裔を自負する彼らは、自らの<日本史とグローバル世界のリアリズムに関する無知と思い違い>を棚上げにして、彼らが上から目線で見下す国民多数派層(しかし、同時に内心ではその多数派からの反発を最も怖れている!)を、再び、「教育勅語と国家神道」で体よく洗脳してしまうことができると思っている節がある。なんというアナクロニズムの発想か!


今や日本は、下◆の如く最悪の国難に直面しているが、上のような意味での偽装極右派である安倍政権は、この喫緊の課題への真剣な取り組みを先送りしつつ相変わらず「フクシマ&東芝が象徴する疾うにデッドロックと化した原発政策」と「『北&中国』を出汁に使うアナクロ軍国主義」へ突き進むバカリとなっており、[2−(2)、(3)]で後述する、EU(民主&資本主義ステージ2)型の血が滲むような奮闘へ取り組む意思が微塵も見られない。真に悲惨な状況である。


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◆安倍政権&日銀はアベノミクスの“三”番煎じ?シムズ理論(ヘリコプタ・マネーならぬミサイル・マネーで異次元世界へ飛翔?)などに色目を使わず、多数派国民層への正統な目線を回復させ、井手英策氏らの新自由主義(似非イデオローグ/“相互扶助・分配・共助”蔑視)批判を受け入れ、一刻も早く難局の打開へ挑戦せよ!http://ur0.pw/Cj1R


2「テロ・右傾化・新自由主義」のアナクロ洗脳、「リリース&恫喝(飴と鞭)」のループを解き「コンシリエンス&AI」で共生の新世界を拓くには何が必要か?


・・・いまEUが苦悶し模索する「民主主義Stage2」の根幹/それはポピュリズムと癒着し易いアナクロニズム(極右)の致命的欠陥への気付き・・・


(1)トランプorルペンら極右の欺瞞(反知性主義の正体)を見据えるEUのネクスト、それは左右派の垣根を超える「民主主義Stage2」への挑戦


・・・今こそ、左右派の垣根を超えた「民主主義Stage2」を本気で模索する時!・・・


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社会学者大澤真幸が、20170312朝日(下記★1)で、<トランプが勝利した米大統領選の過程ではクリントン派のリベラルが一貫して正しいことを主張していたにも関わらず、彼らは絶えずツボを外していたという興味深い視点>を主張している。


が、そのツボとは何か?それは、ネオリベラリズム(新自由主義)の暴走で貧困層へ堕ちた人々の苦痛を知性主義に宿命的に付き纏う上から目線の傲慢さ(殆どのリベラルにその意図はないとしても、負け組の貧困層の目線からすればそのように見えてしまうことは十分に頷ける!)ということだ。言い換えれば、それこそ地政学的な意味でのヨーロッパではなく、一つの世界観としての欧州啓蒙主義、知性主義、理想主義に由来するリベラリズム(自由主義)のことだ。


また、大澤は、<同じ欧州と米国の亀裂について、仏のE・トッド(歴史人口学者・家族人類学者)は2002年の著書『帝国以後』(2003/文春新書)で既に見抜いており、更にトッドは2016年に“米国のラストベルトが象徴する低学歴・中年白人層の死亡率が異常に高いことから今回の大統領選では新たな階級闘争意識が雌雄を決する”と見通していた。だからクリントンの敗北は米国でのヨーロッパ的知性主義(リベラル派)の敗北を意味するのだ>とも指摘している(関連参照/下記★2)。


しかし、既にEU(その関係者ら)も当記事で大澤が指摘していること(リベラル・中道派が攻撃されたツボ、彼らリベラル派が傲慢に見えてしまう知性主義の欠陥について)は理解しており、そのための対応策も十分に練られつつあると思われる。そして、直近に起きた、その象徴的な出来事が後述する、「EUがポーランド出身のトゥスク大統領(常任議長)を再任」したことである(トゥスクの出身国ポーランド(今は、嘗てトゥスク政権を批判していた『法と正義』の極右政権)は反対したが)。


★1(ひもとく)トランプが立つ世界 リベラルな多文化主義の敗北 大澤真幸

20170312朝日、http://ur0.pw/Cj2s 


★2 トランプ勝利を支えたと見るべき「米国・宗教右派」(プア―・ ラストベルト にほぼ重なる バイブル・ベルト の人々)と「日本会議」の決定的差異とは?http://ur0.pw/Cj2x

・・・その決定的差異は、やはり <古代〜中世〜近代まで非常に長く続いた神仏習合の歴史の中で、立派な仏典(諸経典)を持つれっきとした唱導宗教であるはずの仏教の奔流から市民・庶民層の人権を重視する中庸な政治的イデオロギー(古代の仏教鎮護国家論は全く異質!)を結晶させることが叶わなかったとの意味で、一種の思想史上の欠陥を日本が抱え込んだまま名バカりの現代民主主義国家を標榜してきた>という点にあり、そこに維新期〜安倍政権に迄およぶ国家神道派がしぶとくつけ入るという構図である。


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因みに、トランプ(“化石燃料&原子力”エネ政策、古典的保護主義、暴走新自由主義、の三政策(リーマン再来を呼びかねない愚策?)を掲げ、環境・AI・バイオ等新世界への希望に盲目なアナクロ・ジレンマに嵌っている!/関連参照↓★3)がリベラル派のツボ(一見、上から目線に見える弱点)を攻撃するために使った「超格差から生まれた欲求不満を外敵(移民、テロ等)へ転嫁しつつ非道徳的な正当性を欠く激烈なフレーズと妄想観念をぶちかますこと」で扇動する手法は(しかも、そのアンチ・リベラルの具体的代替策は相変わらず空白のまま!)、ラストベルトの白人層と共和党で一定の勢力を持つ宗教右派層(キリスト教原理主義派)が主体の約40%台のトランプ固定支持層が支えているものの、これがいつまで続くかは見通せない(関連参照⇒Gallup Daily Trump Job Approval Gallup http://ur0.work/CeIl )。


★3【動画】BS11 寺島実郎の未来先見塾〜時代認識の副読本〜3月10日(金)「トランプ政権経済政策の死角」(真壁昭夫(信州大学 経法学部教授)との対談)http://ur0.pw/Cj2z

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また、これは右傾化しつつある欧州諸国にも共通することだが、ルペンにせよ、その他諸国の極右派にせよ、彼らが採る手法に米トランプと大差がある訳ではない。乱暴に言えば、これら極右ないしは極右モドキに共通するのは<狭い範囲の仲間内でしか通用しない妄想の尺度(物差し)で作ったリアル感を如何にも分かり易く扇動口調で語りかけ、人々の不満を解消しつつ味方へ誘い込む>という、いかさま師、手品師、幻影師らが使うソレである。


そして、特に問題なのは、同様に見えるがこれらと全く異質なわが日本、安倍政権の文字通り古色蒼然たる国家主義と戦前期のカミカゼ神国に激しく憧れる復古主義だ。それは、<正統保守ならぬ幕末〜維新期・尊皇テロ派の狂想を引継ぐ偽装極右、国策強盗団である『安倍政権、日本会議』一派に仕切られる日本の悲惨!/テロ&右傾化で混迷するEUで重要な役割が期待される『ポーランド伝統の中道政治意識(中道右派)』と余りにも対照的>という、我われ普通の感覚を持つ日本人が全世界に向けて顔向けができないほど恥ずべき“深刻なアナクロ二ズム病”に嵌っているからだ。


(2)左右派の垣根を超える「民主(&資本)主義Stage2」とは?


・・・それは、多数派国民層の極右アナクロニズム没入を回避するため「ランゲ・モデル的理念の再認識」を、「AI活用等の地平で発見・着想されたコンシリエンス(委細、後述)」の知見で再開示・再表現しつつ、より分かり易い啓発のための努力を継続すること・・・


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異常な高給取りのスーパー経営者もなく、「ある程度の社会的モビリティも 備わっている全員中流化」をめざしていた、かつての日本の行き方は、格差を前提とする「ネオリベ・エリートエスタブリッシュメント)資本主義」(過剰な市場原理主義に吞み込まれたリベラル民主主義社会を土壌とする)とは異質のはずであった(以上は、上掲書『EU騒乱』より部分転載)。


無論、イデオロギー的にそれを全否定する立場や考え方もあるだろうが、市場における勝者or敗者が一方的に一人勝ちする資本主義(orいずれにせよ市場機能を媒介する経済へ移行せざるを得ない宿命にあった共産主義/現在の中国の姿に、この矛盾が如実に現れている!苦w)などあり得ないのだ。そして、このことはポーランドの偉大な経済学者、オスカル・ランゲが理論的に証明していることだ(ランゲ・モデル/関連参照↓*1)


*1【欧州連合(EU)の根本にあるランゲ・モデル的理念の再認識】安倍晋三らの如き“擬装アナクロ保守”ならぬ、『正統保守』とはどのような立場と考えるべきか?/ポーランドが生んだ経済学者オスカル・ランゲの市場社会主義(欧州連合EUの根本理念)が一つのヒントになる(以下・・・   ・・・は、20130923toxandoriaの日記、http://ur0.pw/Cj2F より部分転載)


・・・「元々がヤヌス的な意味での合わせ鏡的存在であった極左と極右の対決と論争(資本主義VS共産・社会主義、ごく平たく言えば『未だにネット上などで延々と続けられている“お前はウヨだ!お前はサヨだ!”の類の不毛な論争』が愚の骨頂であるコト(それは、「フクシマ3.11原発過酷事故」等由来の過酷な放射線を平等に浴び続ける現下の日本国民の“茹でガエル”状態と殆ど同義であり、このことを見過ごすならば、結局は“皆が同じ穴のムジナ”と化す!こと)の意味については、ポーランドが生んだ大経済学者オスカル・ランゲの市場社会主義(欧州連合、EUの根本理念)に関する数理経済学上の業績(ランゲ・モデル)!が見事に説明している。


・・・周知のとおり、欧州連合(EU)の根本理念は<富の独占・偏在による格差がもたらす不平等と社会全体の非効率のトレードオフ>への危機感を最大限に重視する公正な社会機能、ソシアル(憲法によって正当な自由が保障された国民の一人ひとりが“社会貢献と相互扶助の役割、および社会的義務の意義”を心底から自律的に自覚できる民主主義社会)を理想とするということだった。そして、当然ながら、そこで市場経済を捨てるということは意味しておらず、別に言えば、それはランゲ・モデルが理念化されたものであるといえよう。


・・・無論、現実の欧州各国には左派・右派あるいは宗教系政党などが存在するが、いわば、それらはEU(欧州連合)のメタ次元の理念ともいえる「市場社会主義」と「政教分離の原則(フランスのライシテ(laicite)など/その核心的意味は、個人的信仰の自由と他宗教への十分な配慮・尊重・寛容が鉄則とされていること)」の下でこそ存在意義があるということだ。


・・・<未だに、戦前型・軍国ファシズムを信条とする偽装極右派への回帰を隠然と画策する勢力が大きな顔をし続ける日本(Ex.安倍政権なる“追憶のカルト”政治/本居宣長の国学についての誤解(詳細、後述)に基づく軍神・靖国英霊信仰と原発カルト・アニミズム信仰の国策融合を謀る”という意味での“聖なる破廉恥”化)、および相変わらず超市場原理主義の呪縛に嵌ったままの米国トランプ政権>と<EU(欧州連合)>の根本的違いは此の点にある。


・・・そして、アカデミズム・レベルでの厳密な用語(術語)の定義はともかくとすれば、各国で多数派を占める一般国民層のレベルにおいて、このようなメタ次元の理念である「市場社会主義」と「政教分離の原則」についての理解の深まり、つまり<些かでもその保全努力を怠ればたちまち崩壊する恐れがあるフラジャイルな、民主主義の共有観念(間主観性としてのソシアル空間)>を更に改良しようと努力するEU(欧州連合)の政治のあり方こそ、まさに新しい「正統保守」の一つの姿であると見るべきかもしれない(関連参照/後述の『3−“AIとヒト”の意識の差異』)。


このような欧州連合(EU)の根本理念と比べてみても、様々な欠点があったとはいえ戦後70年の日本も「ソシアル」への一つのモデル・プロセスであった。しかし、残念ながら今や日本は、その反対の意味での「市場原理主義に呑み込まれたネオリベ・エリートが支配する思い違いのリベラル(安倍自民も民主党も、この意味で同じアナクロに嵌っている!)」の帝国、および多数国民層がノホホ〜ンの空気の中で選んでしまった「偽装極右」権力(日本会議が仕切り、三権分立のバランスを喪失したという自覚も消え失せたアベ・カルト・アナクロ極右政治)に呑み込まれている。


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・・・しかし、今なら未だ日本は、薄皮一枚の苛烈な意識変革の鬩ぎ合いの戦場に呑み込まれてしまったEU(欧州連合)と共に21世紀型へ改良・再生された民主主義と経済社会の、いわば「民主主義・資本主義Stage2」のリーダーになる可能性は残っている、と考えるべきだろう(関連参照↓*2)。もう、ほとんどのこされた時間は少ないかも知れぬが。そして、此処で気づくべきなのが後述する<エトノス、マイクロバイオーム、コンシリエンス、AI活用>こそ、我われを新世界(古典的な資源浪費&環境破壊型のそれではない無限の成長可能性に満ちたニューワールド)へ導くプロセスであり、土壌であるということだ。


*2 今や「テロと右傾化の次は何か?」を考えるべき時だから、これを邪魔する錯誤の復古主義者たち、#日本会議、#安倍晋三・記念「国家神道小学校」(#森友学園)ら、アナクロ&野合カルト一派は早々に白旗を掲げて日本の表舞台から退場せよ!Cf.広岡裕児『EU騒乱―テロと右傾化の次に来るもの―』(新潮社)只のオッサン(脱原発への急転向者)‏@shinkaikaba 2017年2月25日


・・・


上掲の『EU騒乱―テロと右傾化の次に来るもの―』によれば、上で見たとおり、広義のアナクロニズムの呪縛に深くはまり込んだままの米トランプ政権、あるいは日本の安倍政権と異なり、薄皮一枚の過酷なアナクロニズムへの揺り戻しの誘惑(テロと右傾化の大波)の飛沫を全身に浴びながらも、いまEUは果敢に未来世界、「民主&資本主義Stage2」へ挑戦しており、その中核理念は「戦争の建設」(民主主義のための戦争)ならぬ「平和の建設」(戦争を回避する平和の実現)への新たな決意である。


それを経済面から見た場合、確実にその視野に入っているのが<エトノス(エトノス環境)、マイクロバイオーム、コンシリエンス、AI活用>の概念に因る新世界(人類のためのニューワールドの開拓)ということである。委細は次章に譲るが、その一例として「EUにおけるロボット・AI技術におけるコンシリエンス的な考え方の先行性」の核心部分を以下◆に紹介しておく(出典:『欧米における AI ネットワーク化に関連する政策・市場動向』平成28年4 月/一般財団法人マルチメディア振興センター提供資料http://ur0.pw/Cj2J )。


◆「文化>科学(AI等先端技術)」と見立てる、人間知の位置づけ・・・これはコンシリエンス(人文知と科学(科学技術)知の友好的融合)のベースとなる重要な観点である。新興技術の規制における倫理・哲学の役割は、その技術に社会的意味付けを与えることであり、その使用法に関する「文化」を規定することである。そして、そのポイントは次の二つ。


(1)欧州では、忘れられる権利やデータ保護等の規則導入等、社会と人間への影響を想定した具体的(で、かつコンシリエンス的/補足、toxandoria)な制度整備や、論点整理等が進展している点が、今後の日本における議論や対応策の検討のうえで、参考になると思われる。


(2)(6the Future of Intelligence:LCFI)がケンブリッジ大学に設立され、人類に利益をもたらすための AI の在り方について、コンピュータ科学、認知学、哲学、社会科学などの多分野にわたる学際研究を進めるとしている(Brexitにも拘らず、必然的にアカデミズム界の英=EUの結びつきは強い)


(米トランプor仏ルペンら極右の欺瞞(目的論の囚人こと反知性主義が共有するゾンビ性の正体)に気づいたEUの苦闘が更に続く!)


・・・苦悩のEUを象徴する劇的な出来事! ⇒「EUがポーランド出身のトゥスク大統領(常任議長)を再任(トゥスクの国ポーランド(今はゾンビ的な極右『法と正義』が独裁政権を司る/感情の反転とも見える幽霊はヒトのため有益な側面もあるが、一切無感動なゾンビは機械的冷酷さが正体!)は反対したが・・・)・・・


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・・・以下、[20170310朝日、http://ur0.pw/Cj2Z ]より、部分転載・・・


・・・欧州連合(EU)は9日、ブリュッセルで首脳会議を開き、5月末で2年半の任期が切れるトゥスク常任議長(大統領に相当)の再任を決めた。任期は2019年11月末まで。同氏の出身国ポーランド(与党の『法と正義』政権)が反対し、異例の多数決となったが、他の国々が賛成した。

・・・『法と正義』はトゥスク氏が首相(当時の与党、中道右派の『市民プラットフォーム(PO)』は西欧的な民主主義の価値観の政党)だった時の野党で、司法の権限や報道の自由を制限しかねない法改正を実施しているが、これは法の支配の原則に違反する可能性があるとして、EUが調査を続けている(『法と正義』(PIS)の暴走を批判する市民からの批判デモが活発化している!/補足、toxandoria)。Cf. 「欧州委員会、ポーランドの最新情勢を討議し、補足的勧告を発出」EU News http://ur0.pw/Cj35 


・・・トゥスク氏は、難民危機への対応など加盟国の意見が割れる場面で、手堅い交渉手腕を発揮しており、ドイツのメルケル首相ら大半の首脳が首脳会議を前に再任への賛成を表明していた。トゥスク氏は会見で「より良い欧州、さらなる統合のために働く」と抱負を述べた。


【補足】


・・・PO(市民プラットフォーム)政権は都会に住む高学歴、高所得者に支持者が多かった。そこで、前政権は低所得者の支持を得ようと富裕層に保持者が多かった任意の個人年金を基礎年金に統合し、積立額の一部の財源化を図ったため、PO支持者が見せしめにPIS(法と正義)に投票、もしくは無投票という行動に出たが、これが主な原因となり極右『法と正義』への政権交代となった。


・・・その後、極右『法と正義』政権は、恰も日本の安倍政権の如く<ポピュリズム政策に加えて、憲法裁判所の人事権への過剰介入、恐怖政治を思わせる反テロ法(政府による個人メール閲覧等を可とする)等の可決、国営放送人事(キャスター)への介入>などを強行しているため国民の反発が強まっているが、米トランプ政権と同様に一定の強固な支持層の壁が崩れていない。

・・・以上は、[2017-01-24/NATOの対ロシア戦略の要ポーランドの民主主義逸脱 必ずしもロシア脅威論だけではない欧州http://ameblo.jp/azianokaze/entry-12241215452.html]より、部分転載・・・


・・・しかし、スラブ圏(特にロシア)と西欧圏(特に独・仏)に跨る文化交流的、地政学的な意味で「欧州の心臓」とも呼ばれるポーランド政治の<国民主権と寛容の価値を勝ち取るための紙一重の闘いに持続的に耐え抜く強かさ>が発揮されるのはこれからだ、と思われる。因みに、トゥスク氏はポーランド伝統のシュラフタ系(規範的精神(積極的な生活態度)の生き方を率先すべきと自覚し、その意識を自負するポーランド独特の伝統貴族社会に存在する文化/19世紀以降の『ポジティビズム運動』(強制分割された領土の回復、義務教育の普及などによるポーランド国家の回復を志向する正統保守型の中道政治活動をリードしてきた/その受け皿が『市民プラットフォーム(PO)』))の人物(関連参照/シュラフタ文化の委細はコチラ⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101111 )。


(関連情報)


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オランダの総選挙にトランプ勝利のツボ(知性主義の敗北)がストレートに伝染(うつ)らなかった要因は複雑だが、一つ言えるのは欧州が既に自身の“逆ツボ”(知性主義の敗北を乗り越えるためのヒント/民主(&資本)主義Stage2)にマジで気づいた可能性があること!矢張り、アベ・アナクロ(幽霊ならぬカルト・ゾンビ)菌が過酷汚染した『アベ独裁の大日本帝国』とは雲泥の差! ⇒  オランダ下院選、与党自民党が第1党維持 極右は第2党に2017 03 16 JST http://jp.reuters.com/article/netherlands-election-exit-poll-idJPKBN16M2ZM 

・・・[補足/20170316日経]「批判票」の極右への集中を防いだのが、多党乱立というオランダの選挙制度左派の躍進も目立つ。特に若者の支持を集めたのが環境政党グリーン・レフト。支持者の約35%を18〜34歳の若年層が占める(←この点が日本(若年層=アベ・穴黒カルト汚染)の現状と対照的!)。http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM16H6E_W7A310C1EA2000/ 

・・・[関連情報]英BBCが詳報!森友スキャンダル!“アベ・ネーミング”幼稚園児が軍歌に合わせて行進!/A scandal over schools, land and nationalism in Japan、

http://www.bbc.com/news/world-asia-39252192 


3 エトノス、コンシリエンス、マイクロバイオーム、AIの<協働知>が拓く「目的論のジレンマ」から脱出する道、そして「新世界発見」の展望


・・・それは、一般国民のための新大陸の発見/本格化する民主主義Stage2へのアプローチ・プロセス・・・


(カルト妄想的な目的論への過剰な拘りがアナクロニズム・ゾンビの病巣)


しばしば存在論に対置されることが多い「目的論」は、人間を含む森羅万象が究極的に何を目指しつつ何処へ向かっており、何を実現しようとしているのか?を考察する立場であり、素直に言えば、これは哲学命題というよりも自意識を持つ人間共通の思い(健全な人間の意識)でもある。


冒頭に掲げた、ゴーギャンビジネスマン(株式仲買人)→都会・田園を往還する画家→自殺未遂(ゴッホと共同生活)→原始自然の画家(タヒチ他)→原始自然を侵す植民地経済(暴走資本主義と癒着した権力)との確執生活・・・、の波乱に富む生き方を貫いた)の絵画「Where Do We Come From?・・・」は、まさにこの意識をイメージ化した傑作といえる。


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ところが、科学に埋め込まれたレイシズムをテーマとする分子人類学者ジョナサン・マークスの著書『元サルの物語』(青土社)は、特に生物進化を扱うサイエンス分野の研究プロセスで、その目的論が「科学(進化論的な考え方)と神学(創造論)の致命的衝突を回避するための便法(科学と神学の安易な野合・癒着)として、一定の狡猾な政治意思の下で巧みに利用されてきた」ことを冷静に抉り出している。


それによれば、創造論(我われの意識に潜在する)の原点に巣食う妄想原理主義、カルト情念的(その癌病巣化の典型が安倍晋三らの「国家神道」アナクロニズム、あるいは欧米に潜伏するA.C.ゴビノー(ナチズムの源流/http://qq1q.biz/Cnuy)の貴族主義的レイシズム、あるいはマディソン・グラント(http://qq1q.biz/Cnzr)の進化論的優生学(レイシズムの一種)らの如きゾンビ的なものが広く一般的に再評価されつつある。


つまり、自らの始原的妄想の掘り起こしこそが外来テロ等への安全保障となり、それこそが最も有効な方策だと理解されかねない危機的な社会情勢となっている。そして、特にアナクロ極右らの政治的異常観念に高い関心が集まることで、極右派のポピュリズム扇動がヒトならぬゾンビが潜む陥穽の中へ多数派層を一気に誘い込む恐れが高まっている。


(“AIとヒト”の意識の差異)


・・・洗脳に嵌ったケース等を除けばヒトは基本的にアナクロ二ズム(ゾンビ意識的なもの)のリスクに対する客観的・自律的な認識力と評価能力が高いが、非エトノス・マシン(後述するマイクロバイオームなど内外生命環境との持続的共鳴で刻々変化する文脈的理解から超然とした)であるAIにはそれがあり得ない。・・・・


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憲法学者・木村草太が、記事『あすを語る/憲法・社会:“批判中毒”脱するヒント/20170217朝日』の中で、AIの妄想的報酬(リワード・デリュージョン/Reward Delusion /AIが偽の報酬体験のインプットで、容易に誤ったor悪意ある目的を持つようになること)とヒトの批判中毒を同列視すると理解し得る小論を書いていたが、これには根本的な誤解があると思われる。


つまり、言い換えれば、これは「成功or失敗体験の褒めすかしで妄想(誤った価値判断の基準)を与え続けると、ディープ・ラーニングで自ら学習するAIは容易に妄想判断の中毒回路(中毒症状)に嵌ることが明らかとなっている!」という、AI研究における最先端の知見に関わる言及である。しかし、同じAIの先端研究フィールドでは、派生的に「AIの深層学習(ディープ・ラーニング)」から、AIの意識(未だ“AIの意識の可能性”、というべきであるが!)と人間の意識の根本的な(これは、むしろ決定的というべきかもしれない)差異が明らかとなりつつある。


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端的に言うなら、それは<AI(厳密に言えば“予測される”AIの意識)とヒトの意識の決定的差異は「内心最深部(前意識)⇔エトノス環境(後述)」の共鳴の有無ということであり、子孫への継承生命体ならぬAIにはこれができない!他方、ヒトはその意味での共鳴学習の文脈意識化が可能である。その結果、間主観性の豊かな果実である民主主義の観念が共有されるようになり、それを未来へ繋ぐ理念固定の装置として憲法が着想された!>ということになる。因みに、その委細は後述の[未来へのカギはAI活用の土壌・・・]で触れるが、アナクロやカルトに侵された政治権力(Ex.今の安倍政権)は、この「ヒトの最内奥(最深部意識、前意識)の洗脳」を謀る政策へ猪突猛進しており、それがテロ防止を騙る「共謀罪」(合法化される政府の国民監視)である。


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しかし、しょせん機械の一種であるAIに限らず、他の動物一般とも異なる、そのような意味でのヒト(人間)の意識の特性(特異性)については、今までも人文・社会系の研究過程における局面で様々な先見的気付きの事例が散見される。その中から、最も重要と思われる非常に興味深いものを一つ取り上げておく。それは、思想史学者・互盛央(講談社勤務、元岩波書店『思想』編集長)の「二つのエス」(互盛央著:エスの系譜/沈黙の西洋思想史‐講談社‐)の指摘である。下のブログ記事(★4)を手掛かりに、そのポイントを簡単に紹介しておく(更に詳しくは、当ブログ記事を参照乞う)。


★4 20101210toxandoriaの日記/『ゾンビ(新自由主義)vs幽霊(人間のための自由原理)』間に横たわるバカの壁http://ur0.pw/Cj3c (以下・・・   ・・・は、二つのエスについての抽出&部分転載)


【それ(エス/das es≒間主観性)には次の二つの流れがある】


(1) リヒテンベルク→フィヒテ→シェリングビスマルクヒトラー→(リバタリアニズム)、という『“政治権力の暴走へ従属し易い”という意味での脆弱性(弱点)が伴う前意識の系譜』

・・・これは一種の政治的狂気であり、ファシズム、一党独裁的コミュニズム、ランディアン・カルト(米国型自由原理の源流/徹底利己&差別主義/近代史を否定したAyn Randの客観主義哲学(Objectivism)に因る)らに共通する内容となっている。


(2) リヒテンベルク→フォイエルバッハニーチェフロイト、という『エトノス環境(委細、後述)と繋がり共鳴する、(1)より深い無意識の系譜』

・・・これは(1)「前意識の系譜」と異なり脆弱性どころか非常に強靭な安定を「人間社会」へもたらす一種のバランサー能力(オートポエーシス的な不均衡解消作用=DNAのエトノス環境内での自己複製プロセスで見られるアーキテクチャにも似た根源的な生命力!?/参照⇒http://u0u0.net/Cgm1 )を秘めており、AI意識研究との関連で重要な課題になると思われる。


(アナクロ極右へ誘う“目的論の陥穽”を克服しつつ近未来の“民主(&資本)主義Stage2”へ我々を力強く導くカギは何か?)


・・・それは、AI活用の土壌でもあり触媒でもあるエトノスとコンシリエンス・・・


(1)人間など個々の生命体を内外から包摂するカオス環境としてのエトノス


エトノス(ethnos)は、端的に言えば「人間等の個々の生命体を内外から包摂する広義の環境」(詳しく言えば、下記『・・・』の定義となる)を意味するが、そもそもは「先住民とその文化の尊厳性を十分に理解する立場/語源の古代ギリシア語でのそれは、村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団」の意味であった(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20160301 )。

・・・『人間の生命と社会生活の維持に必須となる一定のローカル地域の自然・歴史・文化と深く共鳴して“人間性と社会性(ソシアル)を未生(未来)の発展のための揺り籠”となし得る開放系の共有観念と風土、または過去〜現在〜未来に渡り生存環境の微小馴化を常に受け入れつつも、その伝統的な全体の“持続性”を最重視する寛容で広範なカオス的集合意識、およびその受け皿となる自然風土と精神環境』の意味である(関連で下記▼参照乞う)。


▼政治的ネクロフィリア安倍内閣のオフィーリア・コンプレックスバシュラール・エトノス、「水のイマージュ」による批判/2016-05-04toxandoriaの日記http://ur0.pw/Cj3k


・・・


因みに、カナダでは中道左派政党「自由党」の若き党首ジャスティン・トルドー首相が、歴史・文化・社会的伝統に見合う国民協調型ミドルパワー国家をめざす変革への新しい取り組みを進めている。そして、このポスト・グローバリズム時代における民主主義再生への新たな希望のエネルギーとなったのが、カナダの伝統である多元文化主義の奥に潜む「寛容のホスピタリティ≒エトノス観念」の重要な意義に関わる若者層の覚醒であった。


なお、 宿命的に先住民問題を抱えるカナダの歴史では先住多層文化エトノスの気付きへのプロセス (歴史・文化・環境・科学についてのシニフィエ(文脈上の意味)的な理解に基づくレイシズムの否定) が前提となってきたが、2015年の政権就任にあたり、ジャスティン・トルドー首相は、「これら先住民に対する人権上の対応に関わる法的整備が今まで遅れてきたという事実を率直に認めた」ことが、カナダ国民から広く支持されている。


(2)目指すべきは人文・科学知の融和的統合(コンシリエンス/consilience)による啓蒙主義ルネサンス


(“人間のAIと異なる高度な読解力(エトノス&歴史意識)”についての気付きこそが「民主主義ネクスト(Stage2)」への最短コース)


そもそも、自然・生命意識としての「情念」自体には、いわゆる倫理的ないしは社会契約論的な意味での善と悪の区別は未だなく(ルネ・デカルトと共に17世紀・近世哲学の創始者の一人で、社会契約論による政治哲学の嚆矢でもあるトマス・ホッブスの“万人の万人に対する闘争”状態に相当)、それが一定の社会意識の下で「理念」へ昇華されたレベルで、その新たな「善と悪を区別する明確なエトノス的意識(冷静・客観的な自然観)と社会的意識」が“生まれ”た(歴史的に見れば“啓蒙思想の誕生”!)と考えられる。


そして、ヒューバート・ドレイファス人工知能に対して鋭い哲学的批判を続ける米国の哲学者、チャールズテイラー(同じ立場、カナダの政治・分析哲学者)、ツヴェタン・トドロフ(仏の文芸批評家・記号学者・社会思想家)、E.O.ウイルソン(米国の昆虫学者、社会生物学者)、あるいは『文化進化論/ダ―ウイン進化論は文化を説明できるか』の著者アレックス・メス−ディ(英国の文化進化論学者)、ハーバート・ギンタス(米国の行動心理・経済学者)らが共有する最も重要な認識は、人間の意識の特徴である「因果(連続するリアル)と論理(法則抽象化の能力)」を峻別(自覚的に区別)するということだ。


人間の意識の主軸は自由意思(感情と表裏一体の)であるが、それは絶えず“原因の空間(因果/究極的には人間の力が及ばぬリアル現象の連鎖である現実の流れ)”と“理由の空間(神ならぬ人間の最小限の自由意思を支える論理)”を区別して観察している、ということだ。但し、この両者は対立するもの、との理解で止まるのも決定的な誤りと思われる。それは、この両者が合わせ鏡の如く密接に結びつき、恰も量子世界の素粒子の如きもつれた(entangleした)状態であることが人間の意識の正体(それが、生きる意味でもある!)と見るべきだからである。


因みに、E.O.ウイルソンは著書『ヒトはどこまで進化するのか』(亜紀書房)の中で、前者(原因の空間)について「連続性(人文・社会的な由来と目的)の視点から究極的説明が理解できる能力/なぜ、その機能(例えば、手・足・指など)があるのか?」、後者(理由の空間)について「機能的(科学的・中立的で)な視点から最も直截的に説明できる能力/その機能をどのように使うのか?」であると述べている。


そして、その先に見据えるのが両能力を更に生かせる“より高度で多元的な意識”の誕生、つまり新たな人文・科学知の融和的統合(コンシリエンス)による啓蒙主義ルネサンスである。このような観点からすれば、いかにフラジャイルな民主主義といえども、コンシリエンスによって更なる改良と進化が可能であることは自ずから明らかだとさえ言えるだろう。


(マイクロバイオームが拓く新世界への希望/DNA観察から見える「“民族主義、レイシズム=非合理”の発見」)


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R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著・刊)によると、我々の体内に棲む膨大な数の細菌類がマイクロバイオーム(Microbiome)という宇宙的な規模の纏まり(ウイルスまで入れると、それは超100兆個の新世界、宇宙規模!の発見を意味する!)であり、彼らの全て(そのDNAも含む)が刻々とヒトの細胞やDNA、およびエトノス環境と直接的な遣り取り(水平移動・交換・交流・共感・妥協)をしつつ我われの身体の生理機能を調整し持続させていることが、ここ数年来の研究で急速に解明されつつある。


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他方、両義的な意味での「テロと右傾化」(主因は、グレー・ゾーンのリアル生活で絶望し絶対的な孤立地獄に堕ちた、つまり“現実的人生への絶望感”に憑りつかれた若者らの同リアルに対する神憑りのリベンジ意識/その感染・拡大・洗脳汚染/参照、ジェイソン・バーク著『21世紀のイスラム過激主義』―白水社―)トレンドの脅威を目前にしているとおり、AIシンギュラリティ到来が喧伝される現代でも、我われは「科学の仮面を被ったカルトor宗教原理主義的な創造論(アンチ進化論、アンチ・ラマルキズム/唯一絶対者への完全隷属で安心感を得る固着妄想)に回収されるリスクに曝されている。


しかし、冷静に考えれば理解できるはずだが、カルトや宗教原理主義が科学を支配下に置こうとして一向にめげずに挑戦し続ける背景にあるものは、これらマイクロバイオーム的なビッグ・データ(この場合は、超ミクロ世界におけるビッグデータ)および巨大タイムスケール(宇宙地質学と人文的歴史学を十分視野に入れた長大な時間意識/これもビッグデータのジャンル!)に関わる意識の欠損(無関心・不勉強・理解不足)に因る視野狭窄ということだ。


例えば、ごく新しい知見によれば、ヒトの個性(アイデンティティ)の規定に関わるDNAが全体に占めるシェアは0.1%、同じく人種間の差異(黒人か白人か日本人か中国人か…?など)は僅か0.2%のDNAで決まっていることが明らかとなっており、この点からも、カルト諸派や宗教原理主義の創造論あるいは日本のヤマト民族覇権主義、美的ナルシス・神国的皇統一系論(安倍政権、日本会議、神社本庁らの妄執)などが如何に視野狭窄であるかが理解できる。


また、今でも先端科学知の典型と見なされているものの疾うに2003年に全DNA解読が完了した「ヒトゲノム・プロジェクト」では、従来型の科学観の範疇のままではその更なる医学的・社会的応用の側面で限界が見えている。そのため、愈々、DNA研究でも、これからは「エトノス(マイクロバイオームの新世界を視野に加えた新たな自然主義の視点)、コンシリエンス、AI活用」によるビッグデータ解析型への脱皮が求められている。


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因みに、一般的には殆ど関心が向けられていないが、ビルゲイツ財団ら民間の協力も得て2016年5月に前オバマ政権下で決定した「国家マイクロバイオーム・イニシアティブ」(プロジェクト)をトランプ新政権が何処まで本気で取り扱うかが懸念されている。


それは、このイニシアティブは「普通は可視化できない宇宙規模の莫大なマイクロバイオーム・コミュニティーがDNAも含む実に多種多様な混生体の微小パーツを我われヒトとの間で遣り取りしているという事実を発見したからには、更に人体や人間社会をより良く理解するには人口・政治・経済・思想・文化・人種・宗教らの要素の他に、今度はマイクロバイオームがヒトの多様なエトノス・コミュニティーに及ぼす影響についても、あらためて内外環境的な視座から観察する必要がある」という理解を前提にしているからだ。


また、そのためマイクロバイオーム世界が示唆する「全生命現象の根本に見られる一種の寛容と妥協の論理」を最重視しつつ「AI活用によるビッグデータ分析等の新たな研究手法」に取り組むことが必須であることも前提されており、この根本的な思考方法が排外的で独善的なトランプ政権の発想と真逆であるからだ(関連参照⇒May 13, 2016 National Microbiome Initiative Launched http://urx.mobi/ClI0 )。


(『クオラムセンシングの有意性』の発見/新たな生命観の発見とAI活用による、『民主主義stage2』&『ソシアル時代』への挑戦) 


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国会での安倍晋三首相の言動で特に目立つのが、自らの“疑惑”追及の場面などで必ず出てくる「そのように私を追及するレッテル貼り、あるいはネーミングによる悪意の印象付けはやめて欲しい!」という言葉だが、その特異な用語の繰り返しは、恰も健全な血液を嫌うゾンビ体が健常な血液の注入で次第に自らが浄化され健常化することを恐れているかの如き異様な光景である。


ところで、上掲書によると近年のマイクロバイオーム研究で多くの細菌がクオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)のシステムを進化させてきたことが分かりつつある。クオラムセンシングとは、「未だ正体が知れぬ相手に対し仮の名づけ(見立て上のネーミング、名詞化)を行い、その見立て上のネーミングに応じて自らのシグナル伝達分子、あるいは自由誘導因子(オートインデューサー)などの分泌をコントロールするシステムのことだ。


つまり、このクオラムセンシングで、ヒトの体内にある細胞と、あるいはそこに棲む細菌類と他の内外細菌ら異分子・異端・外来種との間で、基本的には寛容な共鳴・共振・交流・交換・結合が絶えず行われており、そのプロセスで自己細胞の側でのバイオフィルム(ヌメリらの構造体)形成や、あるいは真逆に有害病原性の侵入許容の機序が生成されたりしていることになる。


従って、近年では病原体の感染も従来考えられていたほどストレートなものではなく、より複雑で多面的なクオラムセンシングと免疫系の絡み合いの帰結であることが分かりつつある(単純に、“病原菌感染=病状発現”になるとは限らぬということ!)。


因みに、人体構成物の約90%は無害化した微生物由来のもので、同構成物の内max.3%が比較的新しい侵入微生物由来、そして残余7%が自己創出の細胞(正味のオリジナル自己は7%だけ!苦w)である。従って、我われヒトの体内エトノス空間と外界である自然エトノス環境との仕切りにも、これまで考えられてきたほど明確で強靭な壁が築かれている訳ではないことが明らかとなりつつある。むしろ、それは強靭・強固よりも<強かなしなやかさ>と言うべきであろう。


まことに驚くべきことだが、このような最新のマイクロバイオーム研究の知見が明らかにしつつあるのは「ヒトを含むあらゆる生命(生命体)における生命維持に必須の秩序の根本原理が、実は全生命(真正細菌(Bacteria)、古細菌(Archea)、真核生物(動植物・菌類・原生生物ほか)の個体周辺に分厚い壁を築き他者や異分子を排除することではなく、強固なアイデンティティ(民主主義のネクスト・ステージを保証する個別的正統保守性)を未来に繋ぐのはエンドレスの寛容と妥協に因る円滑なコミュニケーションの持続ではないか?」という予見知(未だ暗黙知レベルと見なすべきなので)である。


いずれにせよ、これら先見的な分野に関わる研究では、そのような新しい構想への端緒となり得るマイクロバイオームの世界やクオラムセンシング・システムに止まらず、文化トータルの視覚から自然科学と人文・社会科学を融和的に統合(コンシリエンス)しつつ、マクロ・ミクロのビッグデータと巨視的タイムスケールを視野に入れることが必須条件と考えられるので、それこそ、絶えざる改良の過程で日々にソフィスティケートされる柔軟な生命観に足場を置く、そのような意味で<人間のために十分役立つAI活用型の新しいソシアル活動(自然現象と異なり何故に人間社会では自由(実存)が最重視されるべきなのか?という生命論の根本的な疑問への解の発見のための協働作業)が求められることになるだろう(Cf.下記ブログ記事▼)。


▼2017-01-04toxandoriaの日記/[希望のトポス]客観「知」を心底で憎む追憶のカルト、その靖国『顕幽論』是非の意識が日本の命運を分ける/希望は量子論・AI・脳科学らの最先端で必然の流れ「自然・人文科学」融合(コンシリエンス)が生まれつつあること!

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104


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最後に、AI活用で忘れてならい倫理の問題について付記しておく。それは、ベンチャー、Araya Brain Imagingで脳科学者の立場からAI「人工意識」の開発に取り組む金井良太(脳神経科学者/英サセックス大学准教授、アラヤ・ブレイン・イメージングCEO)の著書『脳に刻まれたモラルの起源/人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店)によれば、人間の脳の構造には「本能的な感覚としての倫理観を司る部位」(おそらく進化論的プロセスで蓄積!)があることなど極めて重要な事実が確かめられつつある、ということだ。


金井良太の研究に関わる委細は、同じくコチラ(⇒ http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170104 )を参照していただくこととして、目下、日本でも危険性の拡大が懸念されるのが、軍事大国家化を急ぐ安倍政権下でサイエンス(科学、科学技術)が「軍事研究」へ急傾斜させられる恐れがあることだ。それは、今まで見たとおり文明・文化・経済と地球上の全ての生命を持続させ保全する観点からすれば、軍事強化に名を借りたサイエンスとAIの軍事フィールドへの傾斜利用は、人類にとって殆ど自殺行為に等しい愚行であることが明らかだからである。 完

2017-01-04 客観「知」を心底で憎む追憶のカルト、その靖国『顕幽論』是非の意識

toxandoria2017-01-04

客観「知」を心底で憎む追憶のカルト、その靖国『顕幽論』是非の意識が日本の命運を分ける/希望は量子論・AI・脳科学らの最先端で必然の流れ「自然・人文科学」融合(コンシリエンス)が生まれつつあること!


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峰の原高原』の冬景色(信州、長野県須坂市仁礼)

・・・[pixpot、信州の霧氷・樹氷「峰の原高原・志賀高原http://www.pixpot.net/articles/u_d_view/304/sinsyu-muhyo/ ]より転載
















プロローグ)ヒエロニムス・ボッス『荊を冠ったキリスト』の意味


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Hieronymus Bosch(ca1460-1516)「Christ Crowned with Thorns」 1500s. Oil on panel 73×59cm National Gallery 、London


f:id:toxandoria:20170104033023j:image:w200:leftマトウラーナとバレーラの名著『知恵の樹』(ちくま学芸文庫http://urx2.nu/AGF8 )は、ヒエロニム・ボッスのこの絵の意味を決定するのは右下にいる人物の描写だと述べる。その男は衣をシッカリ掴んでイエスを地面へ向けて強引に抑えつけているように見える。その人物はイエス(この場合は英知の象徴)の自由を制限し、イエスの注意を自分の方へムリヤリ向けさせようとしており、その男はこんな風に言っている。「さあ、私の言うことを聞いて、私が言うことは絶対に間違いないのだから!」


マトウラーナとバレーラによると、これは「確信の誘惑」と呼ばれる“カルト(非分析的・閉鎖的で客観知を憎む、しかも暗い情動の方へ過剰傾斜した反知性主義的で異常な精神環境(カルトなど)←補足、toxandoria)への誘いの描写”だ。とはいえ、普通、我われ人間が“これは正しいと思う確信の世界にしか生きられぬ弱い存在”であるのは事実であり、“そのこと自体に善し悪しの区別はない”のも現実だ。そこで、その意味での確信的思い込み(人間一般が抱える弱み)のことを、マトウラーナとバレーラは“盲目の孤独”と呼ぶ。


この“盲目の孤独”を乗り越えるため必須となるのが、周辺と生命個体内の自然・社会両環境(エトノス環境/関連参照http://ur2.link/AIgK)との間に形成される“広義の愛に満ちた虚構世界”の広がり、つまり“信用・信頼・交歓・交換”を繋ぐ「観念、感性の両面から成る間主観性」(インテマシーとインテグリティーが調和する社会性/委細、後述)に満ちた世界である。


D

Lara Fabian - Pas Sans Toi


1「AIシンギュラリティー信仰」へのアンチテーゼ/量子論・AI・脳科学ら先端研究が暗示する「自然・人文科学」融合(コンシリエンス)の必然性


<注>AIシンギュラリティー信仰

・・・例えば、“まさか(不確実性)”への運任せが前提条件のため確率計算が不可能な安倍内閣の「嵩上げGDP支援によるAI&原発一極利用式バクチ経済政策」などを意味する(Cf.⇒ http://qq1q.biz/AHHH )。


1−1 人文・自然科学融合の地平(1)量子論・AI研究フィールド


<注>人文・科学知の融和的統合(コンシリエンス/consilience)の委細についてはコチラを参照!⇒20161107toxandoriaの日記、http://urx3.nu/AH4L 


(西川アサキの情報基礎論)


f:id:toxandoria:20170104033437j:image:w250:right西川アサキ(東大大学院情報学環助教/基礎情報学、AI研究・情報哲学者)は、著書『魂と体、脳』(講談社選書メチエ)で人間の意識をクオリアと呼び、それは「内外世界の認識力、意思(志)、理解・共感力、知識などを総合したもので、かつ対外部的に秘密(私的かつ入れ子的に幾重にも内向)化する性質の脳の統合作用」と説明しているが、興味深いのはこの理解の後段の部分の「対外部的に秘密化(過激なまで暗く内向化)する性質」である。


それは、(第3章−1)で後述するトマス・カスリス「インテマシー/インテグリティー」論の「神道スピリチュアリティー」(真珠湾奇襲攻撃を端緒として、日本を太平洋戦争の悲劇的プロセスへ連れ込む主な原因となったマイナー精神環境の内側の暗部、いわば国家神道の核心である靖国『顕幽論』(委細、後述))と強く共鳴するものがあるからだ。


つまり、カスリスが、「先史時代〜奈良遷都までの古神道期の神道スピリチュアリティー」と「終戦期までに及ぶ1801年(本居宣長の死)以降の神道スピリチュアリティー」は全く別物と見るべきだと主張するとおりで、西川アサキが定義する人間のクオリア内部の「対外部的に暗く秘密化する性質」が極限まで内向(過激なまで秘密化)したものが日本会議神社本庁安倍晋三らに取り憑く「追憶のカルト」((a)“国民主権”削除、“象徴天皇制”廃止、“国家神道/靖国軍神”復活等が前提の改憲、と(b)敗戦否定et al.)の正体ではないか?と考えられる訳だ。


(a)については、「自民党改憲草案」があからさまに書いているので、一般にも徐々に知られつつあるのだが、(b)安倍晋三・首相らの敗戦否定のホンネについては、今のところ表面的な取り繕いと安倍政権に迎合するメディアプロパガンダ(↓★1)が功を奏しており、一部の海外知識人らの「安倍晋三・首相らの危うい発言(敗戦否定を過去に明言した事実)についての厳しい指摘と警告」(↓★2)にもかかわらず、まことに残念ながら此の点に関する危機意識を多数派の国民層は殆ど持っていない。


★1 「アリガトウ」96歳の元米兵、安倍首相とハグ(「日米関係の"癒しの頂点"だ」 安倍首相の真珠湾訪問、海外メディアが好意的に伝える(NY.Timesなどは謝罪の言葉ナシ、と報じているが?)/Huff.P. 日本版)20161228朝日、http://qq1q.biz/AHHQ


★2 オリバー・ストーン監督、米日韓加中英豪沖台の専門家など53名 真珠湾訪問に際し安倍首相の歴史認識(の正体とホンネ)を問うSunday, December 25, 2016/Oliver Stone and internatonal scholars and activists send an Open Letter to Prime Minister Abe on the eve of his Pearl Harbor visit.  http://qq1q.biz/AHHR


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ところで、西川アサキは、<基礎情報学理論、哲学[特にジル・ドゥルーズ(1925-1995/数学的素養がある哲学者)のライプニッツ論『襞』]、科学哲学[特にG.W.ライプニッツ(1646-1716/哲学・科学哲学・数学者)のモナド論]>、および<AIシュミレーションが日々にもたらしつつある新たな知見・発見>を結合する思考実験(科学原理に反しないことを前提に行われる論理思考)で、まことに興味深い複数の「社会心理学上の、あるいは政治学上の未来に関わる新たな可能性(希望の方向性)」を推論している。それらの中から、特に興味深い三点を以下に紹介しておく。


(1)「意識が生まれる瞬間」についての重要な推論/西川アサキは、最大の関心事がAIロボット内で生まれる可能性がある「わたし」(つまり意識)の問題だとしているが、現時点でその「わたし」は(a)自己組織化させる、(b)研究者(orプログラマー)が外部からプログラムする、という二つの方向からのアプローチが進んでいる。最新のAIを駆使した「意識」発生の瞬間のシミュレーションでは、最小単位の構造を支えるプログラム・モジュール(そこに至る前段プロセスでは、脳内ニューロンネットワークでもそうであるが、実に夥しい数の“デッドロック・ペア”( 堂々巡り に嵌った最小単位の論理回路)が出現する。そして、意識発生の瞬間(志向性が決まる瞬間)には「デッドロックで対峙する二組の最小単位のモジュール(二組のデッドロック・ペア)が双方の能力(夫々が相手方の中に自らの欠損(不足している点)の補完を期待しつつ求める能力)に関わる未来への信用(確率論的な意味での信用)」が基本となって相互作用していることが分かってきた。


・・・上の図は、同書の中に掲載されている川人光男著「脳の計算理論」(川人光男/国際電気通信基礎技術研究所・所長、http://ur2.link/AIgR)にある「川人の自我モデル」の部分転載である。


・・・西川アサキが言う「デッドロック・ペア」は右端の二対のモジュール・モデルで、そのうち左側の順(ベクトル)モデルは「自分が属する脳の動きのシュミレーション」(知覚や体験を仮に創り出すキャッシュ(一時記憶的)動作)、右側の逆(ベクトル)モデルは「自分の属する脳の動作規則の抽出」(世界と自分は、今このような構造を持っているはずだ、という信念を創り出す動作/これが意識化の第一歩、自我創成への入り口?)ということになる。


・・・西川アサキによれば、左側の順モデルのペアは、お互いの能力を必要とするからこそ動きがとれずデッドロックしているが、外部からプログラマーが仮の「信用」を与えると(未だ、この部分(デッドロック解除のプロセス)の自己創出は実現していない)、「たとえ矛盾が起きても何回かのやりとりのなかで何とかなる」という「未来への信用」が双方で創出され、そのデッドロックは解消されて右端の逆(ベクトル)モデルのペアが創出される。このプロセスと、以下に述べる「リスク(確率計算が可能)と不確実性(同計算が不可能な“まさか”の世界)の違い」の問題は、ダ―ウイン進化論の限界(矛盾点)を補完すると考えられる<「進化論的軍拡競争」と「(生物種の)永続性の原理(仮説)/人文・科学両「知」融合(コンシリエンス)の地平で立ち上がる原理!」>(下記★3、参照)にも関わってくる可能性があると思われる。



★3【進化論的軍拡競争、永続性の原理】を無視する<“日本会議”指南、無謀「軍拡競争」の意思>を隠蔽する悪徳工作の一環! ⇒ 安倍晋三首相「パールハーバーは和解の象徴」20161228産経フォトhttp://ur0.biz/AGbk

f:id:toxandoria:20170104034658j:image:w360:right・・・「進化論的軍拡競争」は、カッコウやホトトギスなどの鳥がオオヨシキリなどの巣に卵を産んで育てさせる「鳥の托卵」の研究から、「托卵されたオオヨシキリがその托卵された卵を巣の外に捨てたり、あるいは逆に托卵した卵が巣の外へ捨てられないよう、カッコウやホトトギスがオオヨシキリに似た卵を産んで托卵したりする」ようになる「リスク分散の行為」であることが確認されている。


・・・この「進化論的軍拡競争」や「一つの巣の中に必ず1〜2割出現する、普通の状態では一切働かない怠け者アリの存在(働きアリが力尽きた時に働き出しバッファ役を担う)」などが、いずれもダ―ウイン進化論と矛盾しないことが理解されてきたため、ダ―ウイン進化論を包摂する上位概念として仮説されているのが「永続性の原理」(結局、“エトノス環境と調和しつつ自らの種の永続性を最重視し行動する生物”だけが絶滅を免れるという原理!:長谷川英祐・北大大学院農学研究院・准教授/関連参照⇒http://urx2.nu/AGL5 )。


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<注>自動掃除機(ロボット)への応用で実用化に成功した米国ロボット工学者ロドニー・ブルックスが作ったAI「ゲンギス」(http://urx2.nu/AGL7 )は、そのタスクを極めて単純なものに絞った自己組織化の成功事例なので、「意識の自己創成」過程を研究する、上で取り上げた「川人の自我モデル」のシュミレーション回路とは異質の「脳を持たず、神経ネットワークのみで環境から学習する包摂アーキテクチャ」である。


・・・


・・・因みに、この「信用」の問題で重要となるのが西川アサキによる「リスク(確率計算が可能)と不確実性(同計算が不可能な“まさ”かの世界)の違い」を理解することである。つまり、リスクは一定の確率計算が可能な予測(推計)であるので、その確率分布に応じてある程度の「信用」(必要とする相手の能力への期待)が関係者の間に生まれるが、不確実性とは、例えば現下・日本の安倍政権が「アベノミクス失敗を認めず、次から次へと繰り出す弥縫策」の連続で、あるいは「まさか男、米トランプ大統領の登場」で、日本と世界が“まさか”の混沌化(先が読めない不幸な状況)に深く嵌りつつあるが如きことである(Cf. ⇒ 安倍内閣と多数派国民が失敗アベノミクス直視を忌避するのは何故http://urx2.nu/AGLx )。


・・・また、この<意識が生まれる瞬間>に必須となる「未来への信用」は、後述する西垣 通(東京経済大学教授、前東京大学大学院情報学環教授/基礎情報学)の「ネットによる集合知民主主義の統合モデル/HACS(階層的自律コミュニケーションシステム)」および金井良太(意識の研究で国際的に活躍する認知神経科学・脳科学者、アラヤ・ブレイン・イメージングCEO)の「脳の構造に本能的感覚(但し、おそらく進化論的プロセスで蓄積した!)として備わっている倫理観」との関連性があると考えられる。


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(2)同じ不確実性でも、例えばEU統合のような“『権限⇔権限』関係を包括する入れ子モナドロジー的な囲い込み環境”に因る内在リスクを前提する不確実性の場合のAIシュミレーションでは、意外にも共可能性(共存と常識を支持する多数派集団(社会))が現れ、それを前提しない場合では逆にデッドロック(対応・処理不能の堂々巡り)状態が観察される。


・・・Cf.1 20171204日本経済新聞に森井裕一氏による遠藤乾著『欧州複合危機』の書評が掲載された。「来年は独仏でEUの将来をも決め得る選挙の年となる。中間層を納得させながら国際環境の変化に対応する政策を展開する時間は独仏やEUに残されているのか」20161219@中公新書http://qq1q.biz/AHLp 


・・・Cf.2 脳科学者・金井良太(委細、後述)の『政治的信条に関わる脳構造』(著書『脳に刻まれたモラルの起源』収録)の脳の情動部位に関する観察によれば、極右・超保守派は恐怖心や臆病な性質との相関が高く、逆にリベラル派は太っ腹や鷹揚な性質との相関が高いことが観察されている、ことは興味深い!(苦w)



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(3)【人間社会における、「リアル支配力」と実存重視の「知性主義」は基本的に無関係であることを再認識すべき!/ライプニッツのモナド論を取り込んだAIシュミレーションでは、仮想エージェントが多数派に対して「同調する振る舞い」が観察されるが、より驚くべきは、同じことが自然界の原子・分子レベルでも起こっていることだ!】


・・・Cf.1 因みに、自然現象ではベクトルに任せ放置すると、人間社会の虐殺へ至るプロセスとソックリのこと、例えば相転移現象が起こる。しかし、個々人が自由意思を持つ人間社会では、どんな環境下でも最後の瞬間まで誰も奪うことができない精神の自由(実存選択の意思)が残されている(フランクル『夜と霧』)。よって、人間は無機質な原子・分子の世界とは異なることを最認識すべき!そして、このような知見に立ちつつ改めて「堕落した日本メディア」の役割を問い直すべし!


・・・Cf.2 森千香子『排除と抵抗の郊外/フランス〈移民〉集住地域の形成と変容』(第16回大佛次郎論壇賞)は西川アサキ『魂と体、脳』と併せ読むべき(困難な問題でこそ人間は多数派に同調する傾向がある。それは伊坂幸太郎『マリアビートル』にヒントを得てライプニッツ・モナド論を取り込んだ西川アサキのAIシュミレーションでも観察される/ 虐殺はなぜ起こるか?を考えさせる西川アサキのAI シュミレーションの意義!)、そして森千香子氏の観察は今こそ全ての人々が理解すべき重要な人間社会の現実!20161220只のオッサンhttp://ur0.biz/AGcL 


・・・Cf.3 森千香子さんが『排除と抵抗の郊外 フランス〈移民〉集住地域の形成と変容』で第16回大佛次郎論壇賞を受賞。おめでとうございます!弊社からは『国境政策のパラドクス』『排外主義を問い直す』(共に編著)が刊行されています。@勁草書房編集部 http://ur0.biz/AGcM


(関連情報)


◆SNSは「噓ニュースとデマ情報の濃霧」に巻込まれ、既存メディアは「信頼性劣化とトランプ式“まさか”無責任orパノプティコン権力」らの小道具取扱い化の壁にぶつかりデッドロック!これからの要は、市民意識・SNS・既存メディアのAI活用による融合 → 新メディア創造、の方向へ向かうのでは?20170104@只のオッサン RT to @‏@ikinahito123/メディアの主役は明らかにソーシャルメディアだが、信頼性の高い新聞社などは、情報の正確さで勝負できるはず。・・・【断絶を超えて】3)拝啓ツイッター大統領様:20170104日本経済新聞/名門紙が戦う脅威 米国を代表する有力紙ワシントン・ポストの本社7階。紙が散らばる昔ながらの編集局はない。サイト訪問者数、記事閲覧数……。編集局の中央の大型モニターに様々な分析データが並ぶ。ニュースが今、どうネット上で読まれているか。編集者は刻一刻と変わるデータを横目にスマートフォンで見やすい「画面づくり」にエンジニアらと知恵を絞る。ポストが米アマゾン・ドット・コム創業者のジェフ・ベゾス氏を社主に迎えたのは3年前・・・https://twitter.com/hanachancause/status/816553740920422401 


・・・


(西垣 通の情報基礎論)


f:id:toxandoria:20170104040310j:image:w220:left西垣 通著『ネット社会の正義とは何か』(角川選書)によると、軽く考えれば一見同じように見えるシステムである生命体と機械の決定的な違いを明快に示してみせたのがチリの生物学者ウンベルト・マトウラーナとフランシスコ・バレーラが1970〜80年代に提唱した「オートポイエーシス(自己創出理論/Autopoiesis)」である(関連参照⇒プロローグ/ヒエロニムス・ボッス『荊を冠ったキリスト』の意味)。


これは生命体が自分自身を創り出す(個体で見れば子孫を残す)ことを意味するが、脳細胞と脳内の記憶も、同じく過去の記憶をもとにして更新・蓄積されてゆく。それに対して機械システムの一種であるコンピューターは、人間の誰かが設計し、回路を組み立て、プログラムを組み込んだものである。従って、機械はそれに対してアロポイエティック・システム(allopoietic system/alloは(外部から挿入される“他者・異物”の意味)と呼ばれる。


然るに、例えば米国のロボット工学者ブルックス、西川アサキ、川人光男(以上、既述)あるいは後述の金井良太らAI関連フィールドの先端研究によって、Autopoiesisである人間(の意識)とAIマシン(の意識)の違い(差異)が分からなくなる?という議論が出始めており、それどころか、そのトレンドのなかで最も急進的なのがレイ・カーツワイル(関連参照⇒『AIを巡る楽観論と悲観論のジレンマ』http://urx2.nu/AGN7 )のシンギュラリティー(AIが人間の知能を超える)論だ。果たして、AIマシンは人間を超えて神的な存在となり得るのだろうか?(Cf.⇒ http://u0u1.net/AFCb


が、西垣 通はそうはならないだろうと見ており、それよりも最適解がある一定の社会・政治的テーマに絞ったHACS(階層的自律コミュニケーション・システム/ネットによる集合知民主主義の統合モデル)による国民層の多様な「集合知」の発見と活用に更に取り組むべきだとしている(Cf.⇒ http://u0u1.net/AFEu )。それは、未だにSNS(ツイッター、フェイスブックなど)の活用の殆どが<商用広報or同好会的親睦ツール、うっぷん晴らし発言の場、果てはウソ・ニュース発信源、非正規データベース化した非文脈的情報の氾濫>などの段階に留まっている現状であり、主要メディアの代替役も未だ道遠しであるからだ。


因みに、同書のなかでの西垣の議論で最も注視すべきと思われるのは下の二点である。


(1)そもそも、従来の自然言語(話し言葉と文字や記号として書かれる書き言葉)もデジタル(変換)言語(DB(データベース)レベルで言えば、正規DBと非正規DB)も同じ「機械語」であるという発想転換が先ず肝要だ!(正規DB=特定の目的で収集し体系化されたもの、例えば住所録・電話帳・顧客情報ら/非正規DB=ツイート、メール内容などWebに氾濫する断片情報を集めたDB(一般のまとめサイトも此処に入る)で、嘘ニュース、悪質デマ、陰謀工作ネタ等の情報源に使われる可能性が高い)


(2)「AIの知(仮に、近未来においてAI意識が創出される?としても)」と「人間の知(文脈的・エトノス環境的意識)」の違いを理解するには、先ず西欧中世の「決疑論」と近代啓蒙主義における「観念的な間主観性」意識の発達&共有化(これが政教分離原則、議会制民主主義、現代憲法、現代の司法・裁判制度、あるいは近代以降のジャーナリズムの成立などに繋がった)の問題についての理解が重要! ⇒ この視点が基礎情報学で言うネオ・フィードバックシステム(機械内部のフィードバック処理回路を越えた人間社会、人間の歴史、自然・生命環境の全体、すなわち内外の全エトノス環境と相互交流する意味での新しいフィードバックシステム)の概念である!


まず(1)の問題であるが、人間が古来馴染んできた自然言語であってもそれが書物に記されると、途端にその意味内容は潜在化し、いったん機械情報化する。すなわち、その意味ではデジタル(変換)言語も自然言語も同じである(そこにある差異は書物等とコンピューターという、書き言葉、話し言葉などの“情報”を収容するツールの違いだけ!)。


だからこそ我々は“書物・本・文書・言明などを(自分の意思、常識、あるいは権威ある一定の倫理・哲学的解釈、学説、科学合理的知見、司法判断らに照らしつつ)文脈的に読み解く”という表現を使っている訳だ。当然ながら、この意味で(1)と(2)は深く繋がっていることになるし、また、このような視点は「ヒューバート・ドレイファス人工知能に対して鋭い哲学的批判を続ける米国の哲学者)のコンピューター批判」にも通じるものがある!(関連参照↓◆)


◆“人間のAIと異なる高度な読解力(エトノス&歴史意識)”の再発見がカギ、そこで目指すべきは人文・科学知の融和的統合(コンシリエンス/consilience)による啓蒙主義ルネサンス!20161107toxandoriaの日記、http://urx3.nu/AH4L 


因みに、(2)の「決疑論」(casuistry)について少し触れておくと、その原義はローマ・カトリック教会の教父に与えられた「善悪を判断するための、告解(神の赦しを得るための告白)の際の指針」のことであり、それは中世のスコラ学で特に重視された。やがて近代(16世紀〜17世紀)になると個人の道徳的な判断への指針の説明として発達し、やがて特に西欧ではそれが小説の各ジャンル(多様で豊富な文脈的フィクションを固定化する文学技法)を発達させることになった。


また、この「決疑論」を一定の言説(ある学説・司法判断・常識的解釈など)についての文脈的理解という観点から、欧州社会を歴史的・俯瞰的に概観すると非常に興味深いことが見えてくる。それは、混沌の時代→政教(祭政)一致権力の時代→双方(教皇権・皇帝(王)権)権力抗争の時代→ローマ法・教会法・決疑論が鼎立の時代(〜16世紀頃)→近代啓蒙主義時代→政教分離と現代憲法成立、という「宗教権威・政治権力・司法に関わる三つ巴の絡み合い(権威⇔権力闘争)の文脈的理解の発展プロセスが、殆どソックリ人間一般の歴史に重なって見えてくるということだ。


おそらく此のことと関連すると思われるが、西垣 通は、同じ情報基礎論の西川アサキが<人間社会についてのAIシュミレーションで、仮に全ての個人を完全開放系(司法の威信が激劣化した社会環境)へ投げ入れると仮説したところ、その社会が一気に不安定化して「行政独裁⇔アナーキー無政府状態)」の間を激しく彷徨する恐るべきループの罠に嵌る社会現象>を観察したと報告している。


1−2 人文・自然科学融合の地平(2)脳科学(+AI)研究フィールド 


『脳の多層的な情報処理機構を取り入れたディープニューラルネットは、ビッグデータの蓄積と普及に伴って、人工知能研究に革命をもたらしています。しかし、 意味の理解や自発的行動といった生物が持つ自然な知能を実現するには依然として程遠いのが現状です。本研究では、意識と脳に関する理論的研究を援用することで、人工システムに主観的感覚や意志を実装し、実生活環境での多様なデータの処理に活用することを目指します。(金井良太:Araya Brain Imagingの活動について』http://qq1q.biz/AHM0 より転載)


・・・


f:id:toxandoria:20170104042334j:image:w250:leftベンチャー、Araya Brain Imaging(http://www.araya.org/ )で脳科学者の立場からAI「人工意識」の開発に取り組む金井良太(脳神経科学者/サセックス大学准教授、アラヤ・ブレイン・イメージングCEO)の著書『脳に刻まれたモラルの起源/人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店)によると、人間の脳の構造に「本能的な感覚としての倫理観を司る部位」(おそらく進化論的プロセスで蓄積!)があることなど極めて重要な事実が確かめられつつある。


f:id:toxandoria:20170104042444p:image:w600f:id:toxandoria:20170104042521p:image:w750


そして、このことが科学的・客観的に確認されれば(そうなる可能性は非常に高い!)、ジェレミ・ベンサムの功利主義に基づいて「最大多数の最大幸福を求める経済合理性」の問題が、それほど単純なものではないこと(→その終着点が自由原理主義で本当に良いのか?)が説明できることになりそうだ。そこで、この問題と関連するくだりを同書から以下に部分転載しておく。


・・・人間は、他人と共感し合い信頼関係をもつことで、幸福感を得る。そして、モラルファウンデーションの感情のように、自然と他人を傷つけたくない気持ちや、穢れを身の回りから遠ざけたいという感覚が、脳には生まれつき備わっている(Moral foundations theory/ http://urx2.nu/AGNu )。そのため、自分の不利益になるような状況でも、他人や社会のために行動を起こすことがある。お金を儲けることよりも、世の中に貢献したいという気持ちは、欺瞞ではなく人間らしい本能的感情の一種である。また、その延長でエウダイモニア(eudaimonia/幸福を意味するギリシア語/原義は各個人の守護神となる、よき euダイモン daimōnに守られている状態のことだが、 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』のなかで魂のうちの理性的部分の活動、すなわち純粋に観照的な生活をエウダイモニアとみなしてこれを最高善に位置づけた。http://ur0.biz/AG4m )のような自分の能力を発揮して徳のある行動をしたいという欲求があり、人はそこに生きがいを見出す。・・・ 


因みに、金井良太(Araya Brain Imaging)の手法でネットワーク内部の情報の統合を定量化(意識のモデル構造が把握)できたとしても、それが人間並みの個性を身につけられるか否かの問題は永遠に残ると考えられる。無論、金井良太の挑戦はそんなことは十二分に承知していると思われる。むしろ、おそらく西川アサキが指摘するとおりで、スピノザが積み残した「そのモナド論の未来が不在であること」(西川アサキと異なり、スピノザは未来時間もその全てがモナド内に入っていると考えた)と関係する。


つまり、殆ど無限に近い大・中・小の意識内容のズレが遍く常在することこそが人間個々人の個性(未来へ向かう時間の流れに沿った内外のリアル・エトノス環境と永遠に?共鳴する状況)を創り出しており、その個々の人間の<只一回性(一期一会)の個性>のエンドレスの創発こそが、我々人類の未来であるからに他ならない(エトノスの委細はコチラ参照⇒http://qq1q.biz/AHMh )。


なお、この種の人間の近未来に関わる論点は、[1−2 人文・自然科学融合の地平(1)量子論・AI研究フィールド・・・/★3 ダ―ウイン進化論の限界(矛盾点)を補完すると考えられる、「進化論的軍拡競争」と「(生物種の)永続性の原理(仮説)=人文・科学両「知」融合の地平で立ち上がる新たな原理]と奥底で深く関わることになると思われる。


2 日本会議・神社本庁らが国民の無意識層で再発現させた戦前型「客観“知”への激しい憎しみ」、それは異常な平田篤胤仕込の「顕幽論」(インテマシ―過剰)


・・・文化の特徴を仕切る二つの重要な視点/インテマシーとインテグリティー(トマス・カスリスの独創的な用語から学ぶべきこと)・・・


f:id:toxandoria:20170104173111j:image:w250:left後述する著書『神道』(ちくま学芸文庫、2014/原著『Shinto:The Way Home、2014)より先にトマス・カスリスは原著『インテマシーあるいはインテグリティー/哲学と文化的差異』(法政大学出版、翻訳版2016/原著『Intemacy or Integrity、2002』を著している。ところで、その用語インテマシーに「親密さ」という辞書的な一般的訳語を、同じくインテグリティーに「完全無欠の状態」の訳語を当てはめ、一応事足れりでは大きな誤解を招くことになる。しかも、現実的に両者の概念を短く表現するのは容易なことではなく、ならば、これを正確に理解するには同書を読むしかないということになる。(苦w)


そこで、同書の解説なども敢えて無視しつつ、カスリスがこの本を書いた主要な目的(それは西欧文化と東洋文化の最もベーシックな差異について考えることであり、特に前者と日本文化との差異は何か?について深く考察することであると思われるので、敢えて、独断的な訳語を当てはめてみる。また、特に留意すべきは、同書が後にカスリスが著すことになる『神道』(原著)の伏線ではないかと思われることだ。


以上から、ここでは両用語の概念を分かり易くするため「インテマシー:非分析的感性に基づく共感優先の文化指向性」、「インテグリティー:分析的感性に基づく契約概念的な文化指向性」という仮訳語を当てはめる。また、同書のなかで、インテマシーについてカスリスが最も簡潔に表現している箇所を抽出すると以下の通りである。


・・・ラテン語における語源が喚起するイメージに従うと、インテマシーとは、心に秘めたもの(intimus)を親しい友人(intimusないしintima)に打ちあける(intimare)ことである。換言すればインテマシーとは、つまるところ心の奥底にあるものを分かち合うことなのだ。そして、これと同じようなことは、例えばある生態系における植物相と動物相のあいだ、あるいは素粒子物理学における物質とエネルギーの間のインテミットな関係としても考えることができる。(驚くべきことに、量子生物学の分野では既にこのような考え方の科学研究手法が採られている!←補足、toxandoria)・・・


また、インテグリティーついてカスリスが最も簡潔に表現している箇所を抽出すると以下の通りである(以下は、一部をアレンジして転載)。


・・・ものの世界でのインテグリティーの事例を挙げるならば、例えば海中における水と塩の関係、つまり両者はどのような点で異なっており、かつ関係し影響し合っているか?というようなことだ。人間の場合のインテグリティーでは、例えば自己充足的なアイデンティティーを備えている(各々が立派な人格を備えた人である場合の)人間関係は美徳であり、それは基本的に堕落したり無節操になったりせず、ある一定の行動規範や普遍的価値観を前提に分析的に行動し関係者双方による契約関係を尊重することになる、というようなことだ。・・・ 


そして、東洋文化に比べると一般に西欧文化はインテグリティー的な文化指向性へ大きく傾斜しており、特に日本文化はその逆のインテマシー的な傾向が強く、又それこそが西欧文化とは本質的に異なるという意味で優れた日本伝統文化の基盤を形成しているとカスリスは見ている。



f:id:toxandoria:20170104043441j:image:w180 [この絵は老女か若い女か?]

但し、ここで留意すべきは、東洋文化と西欧文化が夫々100%近くまでインテマシーないしはインテグリティーの指向性に占有されているのではなく、両文化は共にこれら二つの要素(異なる指向性)を併せ持っており、その両成分(二つの自然・社会・感性的な空気)は絶えずせめぎ合いながら行きつ戻りつの振動を繰り返す状態にあるという点だ。この両者の関係についてカスリスは、ゲシュタルト心理学の「図と地の違いを説明する絵」を引き合いに出して説明する。


つまり、インテマシーとインテグリティーの差異は、その時に、その絵を見た人(西欧人か、東洋人か、あるいは日本人か)の関心が何処にあるかの違いだという訳だ。当然ながら関心の有無によって同じ絵は「異なる絵」に見える(地と図が反転する)。だからこそ、異文化は初めからすんなりと外国人には理解されにくいということになるし、逆に言えば、からこそ、異文化が交流し、双方が理解し合うのも可能だということにもなる。


また、カスリスは日本文化のインテマシー優勢の文化指向性がホログラフィカルでアニミズム的な世界観を形成し易いことを指摘している。ホログラフィカルな世界観とは、部分と全体が入れ子構造(このカスリスの発想自体が西欧的な科学哲学的なもので、それは西川アサキが取り上げたライプニッツのモナドロジーを連想させる!)になった不思議な世界観である。そして、日本文化には、例えば神社の鳥居や注連縄がそうであるのだが、これら鳥居や注連縄は包括的な神道の世界(古来の神道スピリチュアリティー/委細、後述)への入り口の機能を果たしている。


因みに、カスリスによれば、日本人の特徴であるインテマシーを代表する神道スピリチュアリティーは「自己の外へ出るのではなく世界観をホログラフィカルに内部へ没入させよ!」と強く要求する傾向があり、それが客観「知」の分析に因る契約ならぬ感情の最も暗い部分への無限の沈潜となって、遂には古来日本の大和魂の如く「天皇(国体)のための自死」が「自己犠牲⇒完全な自己保存体観念」へとホログラフィカルに反転する傾向が観察される。


従って、この点は日本文化のアキレス腱として冷静に理解する必要があるだろう。但し、関連することは次章以降で詳述するが、著書『神道』のなかで、カスリスは「古来の神道スピリチュアリティー」と「1801年(本居宣長の死)以降の政治的に創作されたイデオロギーとしての神道スピリチュアリティー」を明確に分けて考えており、ここでのアキレス腱の指摘は後者のことである(カスリスは、この二つの他に“実存的スピリチュアリティー”も指摘する/委細、後述)。


(参考情報)


◆【報告】トマス・カスリス教授講演会2016.08.25 中島隆博、川村覚文ほか、文責:金景彩(東京大学大学院・UTCP)http://urx3.nu/AH4k


3 多数派日本国民が共有する「神道」に関わる誤解/トマス・カスリス著『神道』の警告


3−1 神道的スピリチュアリティーと実存神道


f:id:toxandoria:20170104043941j:image:w250:right米国における日本思想・宗教・神道研究の第一人者であるトマス・カスリスは、一般的な意味での経典を説く「宗教/唱導宗教」(religion)とスピリチュアリティー(特に、特別の経典を持たない神道のSpiritualityには自然界に潜む超越的なものを感じ取るというリアリズム感覚が存在する)を厳密に区別することから著書『神道』(ちくま学芸文庫、2014/原著『Shinto:The Way Home、2014』)を書き始めている(第1章)。


また、神道はこの古(古代)神道由来の(1)「本質的な神道的スピリチュアリティー」とは別に、これとは全く異質な二つの特徴的な側面があり、それは(2)「実存的スピリチュアリティー」と(3)「1801年(本居宣長の死)以降に政治的に工作され、日本を太平洋戦争の悲劇(惨禍)へ連れ込み、今や再び小泉首相靖国参拝(2002)で蘇生し、現下の安倍政権がその完全取り戻しを謀る人工的スピリチュアリティー(追憶のカルト/教条的な異常イデオローグ)」のことである(←注記、人工的スピリチュアリティー(追憶のカルト)はtoxandoriaの説明的な補足)。


ここで言う「実存」は、哲学一般で言う実存(サルトルらを連想させる、本質に対し現実の重視を説く説)とは些か異なる使い方になるが、いわば歴史的に神道に纏わってきた“日常に関わる土俗信仰的な生活の知恵”ないしは“密教呪術的な政治技術”と言うような意味での実存性ということだ。


前者は、通過儀礼等での日常生活における国民一般の御利益感覚を考えれば分かり易く(今の我々も殆どこの感覚で神社を訪ねているはずだ)、後者については神仏習合時代の神道(密教曼荼羅を取り入れた両部神道、http://u0u0.net/ABAI)が、密教の呪術を政敵への呪詛や戦争の勝利祈願などで活用したことを想起すればよいだろう。


また、そもそも(1)「先史時代〜794年(奈良遷都までの古神道)の神道スピリチュアリティー」と(3)「終戦期までに及ぶ1801年(本居宣長の死)以降の神道スピリチュアリティー(政治的作為で創られた)」は全く別物と見なすべきだとカスリスは主張するが、この点についてtoxandoriaは大いに共鳴する((2)は実存的な神道スピリチュアリティー)。


それは、後者のスピリチュアリティー(3)が、結局は、現下の<安倍政権と日本会議・神社本庁らによる「国家神道」復活工作(全国神社の本宗に相応しく伊勢神宮へ戦前並みの「国家財政支援」を実現すること、および靖国神社の本格的な国策軍神&英霊神社化、そしてそのための改憲を)謀ること)の動因となっている、狂信カルト(篤胤・顕幽論)一色に染まる異常イデオローグ>にまで繋がるからだ。


従って、前者のスピリチュアリティー(1)、つまり<日本の恵まれた自然環境(および、その地質学的特徴から古来たびたび列島を襲った大地震・津波・台風襲来などへの怖れの観念)と呼応しつつ先史時代からの長大な自然史と、そのエトノス環境(内外およびマクロ・ミクロの複合的な観点から自然・人文・社会環境を包括的に直観する観念)の中で生きてきた日本人がそのエトノス(自己の体内環境も含む大自然)の中にカミを感じ、その同じカミへの怖れの心を最も大切にする>というプロセスで育まれた感性が後者(3)と全く異なるのは明らかである。


ともかくも、カスリスの著書『神道』は、これら二つのスピリチュアリティー神道(1、3)と実存神道(御利益&政治技術的神道、2の実存的スピリチュアリティー神道)の二面性(厳密に言えば、三面性!)が複雑に絡み合い、重なり合いつつ神道の歴史、ひいては日本の歴史そのもの、あるいは日本文化と政治権力の変遷史を形成してきたという、きわめて日本的な特徴を明らかにしたことになる。


f:id:toxandoria:20170104044101p:image:w400:leftそして、特に注意して観察すべきなのが(3)「終戦期までに及ぶ1801年(本居宣長の死)以降の神道スピリチュアリティー」が幕末期以降の日本近・現代史と重なる部分だ。それは、この(3)の人為的・政治的な神道スピリチュアリティーこそが戦前日本のナショナリズム、神聖「国体」論(天皇現人神論)、積極戦争植民地主義、強靭「軍国主義」、そしてカミカゼ特攻隊(自爆戦強制)の悲劇、ひいては数千万にも上る外国人・戦争被害者、200万余の日本人・戦没者、広島・長崎の原爆惨禍など、日本国民を大きな悲劇の道へ追い立てる精神的エンジンを提供することになったからだ。















(関連情報)


f:id:toxandoria:20170104044621p:image:w500f:id:toxandoria:20170104173534p:image:w450:right

◆(1−1/★2の再掲)オリバー・ストーン監督、米日韓加中英豪沖台の専門家など53名 真珠湾訪問に際し安倍首相の歴史認識(の正体とホンネ)を問うSunday, December 25, 2016 http://qq1q.biz/AHHR


f:id:toxandoria:20170104044710p:image:w350   f:id:toxandoria:20170104044741j:image:w400

◆安倍“敗戦否定&積極戦争主義”の欺瞞(狂信!国策 『国家神道』復活のホンネ共有)を暴く好記事二つ/安倍真珠湾訪問、神津会長の連合(リアリズム“原発&石油エネルギー(復活)”主義)は誰の味方なのか、http://ur0.pw/ACam 


・・・


しかも. 今でも日本国民は特に(3)の後半部が形成した「深刻な精神的アキレス腱」を抱えたままである。それどころか、日本会議、神社本庁、靖国神社、安倍政権らの戦後期から現在にまで及ぶ執拗な暗躍が功を奏す形で、<日本国憲法(象徴天皇制)と日本自身の科学&科学技術観の根幹>が、反知性主義的な政治権力(安倍政権)によって根底から破壊される危機に襲われている。


つまり、“神道スピリチュアリティー(3)”と“神道スピリチュアリティー(2)(=日常感覚化した神道の実存性”)の悪しき再癒着によって、戦前日本型の反知性主義イデオローグ『顕幽論(平田篤胤)』(委細、後述)が、今度は偽装科学主義である「AIシンギュラリティ」の衣を纏って復活しつつあるということだ。


そして、これら(1)〜(3)の違いを未だに自覚できないという、日本国民自身の精神的脆弱さに対し、安倍政権、日本会議、神社本庁ら「追憶のカルト/靖国・顕幽論」派が執拗に攻撃を仕掛け続けているが、それに対し殆どの主要メディアは同調するばかりとなっている。この危機的状況に気が付き大きな危機感を持ちつつ批判し、対抗しているのは今や天皇皇后両陛下とごく少数派の良識派の国民だけ!というのが、残念ながら、日本の惨憺たる現状である。


3−2 靖国イデオローグの系譜、その余りにもゾンビ的な追憶のカルト/平田篤胤仕込み「顕幽論」の異常性(インテマシー過剰、客観知への憎しみ)


(記紀を基に8世紀初頭から貴族社会に、やがては一部の武家社会で拡がった『皇統一系』の思想/が、それは絶対多数派の庶民層とは無縁であった)


8世紀初頭に完成した『日本書紀』が史実の根拠とされるようになった頃から、記紀の創作である「皇統一系」思想は先ず日本の貴族社会に拡がった。次いで、南北朝時代の末期頃に書かれ1370年頃までに成立した軍記物語『太平記』(南北朝時代を舞台に後醍醐天皇即位、鎌倉幕府滅亡、建武の新政、・・・二代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任までを内容とする軍記物語)が一部の武家社会へ、「皇統一系」は歴史的事実だとの認識を広める役割を果たした。


しかし、「皇統一系」は歴史事実とは言えず、むしろ王統に関わる伝承等(歴史的メタファー)の大集成という意味で評価されるべきものだ。そして、そもそも記紀は外来文化に寛容な日本文化を象徴する暗黙知の宝庫であり、それは日本人が共有する誇り高き「大いなる巨人(寛容な意識を持つ民族)の物語」であったことになる。


従って、現下の安倍政権(日本会議 政権!)が必死で謀る「一連の復古的動向/“追憶のカルト”なる病理学的に異常な世界へ引き返そうとするゾンビ的な政治情念」の根拠は、「皇国・紀元2600年/日本建国神話」(旧暦BC660年1月1日、グレゴリオ暦で読めば現在の2月11日に神武天皇が建国)という<虚構の日本史>の中へ全ての日本国民を強制回帰させようと謀る人々の<特異な妄想世界>の中にあることになる。


が、記紀の内容が誤りと嘘バカリで、国民を誑かす悪書だという訳ではなく、その貴重なメタファー(汲めども尽きぬ暗黙知の貴重な宝庫)を<あくまでも、その100%が歴史的事実だ!>と作為で曲解する“君側の奸+軍神信仰”の『狂』(追憶のカルト/異常“観念同時”、異常“間主観性”の病理)が邪(よこしま)で有害なだけであり、その往年の“君側の奸+軍神信仰”の『狂』が、今や再び「第3次安倍第2次改造内閣の暴走」で再現されつつある。 


明治維新〜戦前・戦中期におよぶ軍部支配の歴史、それは次第に強烈な『愛国玉砕(散華)戦争』なる下賜カルト観念の国民共有へと変容した)


そもそも、その根本は<明治維新政府(門閥・閨閥・閨房閥を世襲で固めつつ“天皇を担ぐ君側の奸”の野合的な連合体構造)が採用した「国体思想」戦略、現人神天皇の建国神話的カリスマ性の徹底的な政治利用>ということであった。


そこで、維新政府は「宣教使」(宣教使は官庁の名称/長官、次官、講義生、史生、判官、主典、宣教使その他の職員で構成/明治5年、廃止)の役職(国家神道普及のための国民洗脳が主務)を設け、神道学者・国学者を総動員して天皇の偉大さ、支配の正統性、それに対する国民の忠節の意義など(天孫たる現人神を批判する国民は絶対に容赦せぬ!という国策の“脅し”)を説いてまわらせた。


結局、この政策は後期水戸学の会沢安らが主張した「祭政教一致」(教=国体へ絶対貢献できるよう国民を教化・洗脳すること)を原則として行われた。そして、日本会議の影響下にある『安倍政権の官邸“教育再生会議”、http://goo.gl/JAHQf3 』は、明らかに、維新期のそれ(後期水戸学派の祭政教一致=教育現場への直接介入と洗脳教育)の取り戻しを意識している。


ところで、「国体思想」とは、「天賦人権説」(民権論、主権在民)の対極にある天壌無窮の現人神たる天皇を中心とする中央集権的官僚制国家(厳密に言えば天皇を狡猾に政治利用する“権力の強靭化”、薩長野合型“君側の奸”連合に好都合な官僚制国家)の建設を目指すものであった。


しかし、それは真っ赤なウソを根拠とする国民騙しの欺瞞政策だったし、そもそも古代律令制が古代中国(南北朝時代を統一した隋唐帝国)の模倣であったことが示唆するとおり、実は日本古代においてヤマト民族派的な排外思想は存在せず、それどころか明らかに倭国(黎明期の日本)は、東アジア漢字文化圏の一員であるという寛容な国際感覚に裏打ちされた存在であったのだ。


(靖国顕幽論の登場/平田篤胤派「神道」による神道のカルト化、その余りにも暗く不気味なゾンビ生命論型パラドクスへの没入)


「維新政府」以降の国家経営の誤りの根本は、江戸時代前期から中期の山崎闇斎荻生徂徠らの儒学者、あるいは本居宣長(江戸中期〜後期)、平田篤胤(同後期/幽顕思想(顕幽論))ら国学の流れを汲む<「後期水戸学イデオローグ」が夢想(妄想)した「祭祀と政治の一致/至高の国家的儀礼に関わる議論」の中で「愛国玉砕(散華)戦争(このみいくさ)」(日本型聖戦論)が過剰濃縮されたことにある。


f:id:toxandoria:20170104045715j:image:w200:rightf:id:toxandoria:20170104045749j:image:w250:right

平田篤胤(キリスト教、および西欧啓蒙思想も熟知していたらしい!)の「顕幽論」は、現世の殆どの人間(日本国民を殆ど野蛮で動物的な有象無象の存在と見る)には基本的な意味での人間の権利がないとする。しかも、篤胤はこの顕幽論を半ばジョークで創ったと告白さえしている!(苦w)そして、愛国玉砕戦(このみいくさ)で勝利し、大霊界へ昇り英霊の位階構造に列して初めて日本国民は人間たる基本的権利が与えられるとする(関連資料:吉田真樹著『霊魂のゆくえ』(講談社)、田中純『政治の美学―権力と表象』(東大出版会))。


また、顕幽論(“靖国神社と国家神道”の中核イデオローグ)によれば、現人神とは『記紀神話の降霊(招魂)儀式で中枢神殿(英霊が眠る靖国をこれと見立てる)の霊璽(れいじ/神や霊が宿る“よりしろ”)に憑依する神霊(エクトプラズム/人霊とは異なり神格化した英霊)となる“愛国者”の意味であり、それは皇国史観に基づく天皇だけのことを指す訳ではないとされる。


どうやら、“追憶のカルトのお仲間”たちは、その意味で安倍晋三首相を天皇より上位の現人神(英霊が降霊した存在)と見て崇めている節があり、これは恐るべき『狂』以外の何物でもない!(苦w)そして、この現人神は『世界で唯一の澄める“うぶすな”でできた“美しい国、日本”の国土を愛国戦争で死守する覚悟で玉砕した神霊が再び受肉する国土』と定義される。


しかし、愛国(国策)「原発」系の過酷な放射能汚染(およびその拡大リスク)を放置したままで、何が美しい国土の死守か!と言いたい。そこに現れているのは「非分析的感性」たる<インテマシ−過剰/関連参照⇒第3章−1 カスリス「インテマシー/インテグリティー」>と<客観“知”への憎しみ/関連参照⇒エピローグ:トマス・カスリスの神道に対する率直な思い>という、日本会議、神社本庁、安倍内閣らの余りにも常軌を逸した異常な精神環境の正体である。


4 正統保守を自覚する日本国民は安倍政権、日本会議、神社本庁ら偽装極右派(1801〜、の異常イデオロギー没入派/エセ神道スピリチュアリティー派)と、早急に一線を画すべきである!


・・・それは、正統保守と伝統日本文化の源流たる「神道」本来のスピリチュアリティー(カスリスが分類したスピリチュアリティー(1)に重なる)には世界平和への大きな貢献が期待されるから!・・・


(伝統神道の原点と見るべき神道書『神令』によれば、「天皇制」草創期(およそ“大化改新”以前)の神道は天皇に対し民衆を平等に見る徳治政治を求めていた)


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■神道・宗教学者、小山悳子(とくこ)によれば、神道書『神令』(伝:大納言・一条兼良、筆/兼良は室町時代の公卿・古典学者、http://ur0.biz/AGfm)の成立期は、およそ“大化改新”以前(中国由来の儒教の受容が本格化するより前の時代)である。


・・・[3−1 神道的スピリチュアリティーと実存神道]で触れたトマス・カスリス『神道』(ちくま学芸文庫)も、「古代神道の成立期」を「先史時代〜794年」と見ており、それは此の小山悳子の指摘にほぼ重なっている。


・・・従って、そこには弥生期〜古墳時代ころの伝統神道の最古の思想が潜むと思われ、当書の研究から更なる“日本文化と伝統神道”の古層の再発見が期待されている。しかも、この書の研究成果は安倍政権、日本会議、神社本庁らが謀る『軍神靖国“顕幽論”/追憶のカルト(国家神道)』復活工作へのアンチテーゼとなり得ると考えられる。


・・・また、小山悳子は<日本神道史における「元神からの芽生え」とされる國常立尊(虚無の元神ヨリ萌牙シタもの)の概念の展開には、現代宇宙論と神道の創生観に関わる概念的な類似性が窺われる!>と見ている。それは、『神令』の“元、気(無・虚無・非空間)ヨリ萌牙シ(もえきばし=兆し)モノ”、ビレンケン宇宙論(http://ur0.link/qfzq )、量子論・量子物理学(トンネル効果量子もつれ他)、先端発生生物学らが恰も深部共鳴しているように見えることからも想像される。


・・・つまり、寛容かつ謙虚な「正統保守」的価値、およびその意義の再発見が此の神道書『神令』のなかにある、と小山悳子は考えており、この日本古来の神道および日本の伝統文化は、東西の宗教・文化(一神教VS汎神論)の対立解消へ貢献し得る可能性をすら秘めている、と主張している(出典:小山悳子『日本人の求めた元神』(日本図書センター/Cf.⇒http://ur0.link/qfzn )。


<注>國常立尊(くにのとこたちのかみ)

・・・日本神話に登場する天地開闢の時に出現した「元神からの流出」であり、『日本書紀』においては初めての神とされる。『古事記』では国之常立神、『日本書紀』では国常立尊と表記されている。別名、国底立尊(くにのそこたちのみこと)とも呼ぶ。その元神が化生・転生して八百万の神々、つまり自然界ができたというのが伝統神道および記紀の神話論理(ミソロジー)。


・・・


ところで、上掲書の著者、小山悳子によれば、かつて自由民権運動の視野に入っていたと見なすべき<一つの可能性としての「天皇の原理」>との関わりで想起されるのが、本居宣長と同時代の伊勢神宮の神道学者(神職)、出口延佳(1615〜1690)の『天皇・人民平等論』(現代のコトバで言えば、象徴天皇制に近い考え方!いわば良い意味での天皇の顕教式利用)である。


出口延佳は日本古来の伝統神道を正しく伝える者としての誇りと使命感から、一般的理解とは真逆の『“天皇=民衆”平等論』を説いていた。つまり、そこでは<純粋精神・多元文化主義としての皇国史観>が現代でも通用する正統保守たる<象徴天皇制の下で「国民主権共和(デモクラシー型)ナショナリズム」へ深化する可能性>が芽生えていたのである(関連⇒ http://urx.nu/atS9 )。


また、同氏は「ある意味で神の領域にまで立ち入ったともいえる先端遺伝子学(発生生物学、DNA研究)の分野で、地球上の全ての人間は同じ仲間、同じ民族と結論されたのであるから、もし過去の閉ざされた情報の中で選民思想やヤマト民族(派)の如き純血民族思想が生まれたのであれば、伝統神道においても、その部分は取り去って考えるべきである。そうすることでこそ新しい神道の優れた本質(東西を繋ぐ新たな寛容の可能性)を見出してゆくことができる」と、述べている。つまり、このような視点こそが正統な歴史認識の基本なのである。


小山悳子『日本人の求めた元神』によれば、本居宣長・平田篤胤らの偏狭な日本思想(宣長の場合は、宣長が偏狭であったというより、後世の国学者・神道学者らが曲解したというべき!)、あるいは戦前の文部省謹製『国体の本義(昭和12)』と『日本世界観と世界新秩序の建設(文部省、昭和17)』、又は“生長の家”過激派の異常イデオローグなどは、そもそも寛容であった伝統神道(平安中期以前の古層日本文化と重なる)の考え方を『関東軍式、満州国統治の経営理念(国家神道方式)』にとり好都合となるよう脚色したものである(本居宣長の曲解、の委細についてはコチラを参照⇒2013-05-07toxandoriaの日記、http://urx3.nu/AH5I )。


(エピローグ1)希望の光は量子論・AI・脳科学ら先端研究での自然・人文科学融合の必然性!/トマス・カスリスの神道に対する率直な思い、からの連想


・・・それは、「神道精神の眼差しを『内』(本居宣長“ロマン主義”の曲解⇒靖国顕幽論(平田篤胤)なる、「1801年〜幕末〜明治維新〜太平洋戦争」期に作られた国家主義スピリチュアリティー(異常イデオロギー)への没入)から『外』(世界平和の象徴化の方向)へベクトル転換することが今こそ肝要だ、ということ!・・・


トマス・カスリス『神道』(ちくま学芸文庫)の『はじめに』の冒頭は、次のように書き出している。


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・・・神道を説明するのはとりわけ難しい。たいていの日本人にとってもそうだろう。神道の基本的な価値観やふるまいの形は日本文化に浸透し、伝統(日本人の日常生活←補記、toxandoria)の一部となっているので、神道を意識的に参加する「宗教」 (religion)とみなす日本人はめったにいない。・・・


そして、この『はじめに』以降の章立て(当書の構成)は、以下のようになっている。


第一章 鳥居をくぐる

第二章 日常のなかの関連性

第三章 古代神道(先史時代〜794年(平城京遷都))−草分けとなった人々

第四章 奈良から宣長へ(794〜1801年(宣長の死))−道を示した人々

第五章 すべての道は東京に通ず(1801〜2002年)

第六章 故郷への道


第一章と第二章では、初詣、七五三、縁結び、受験合格、入学、交通安全祈願など通過儀礼の入り口として神社を訪れるという行為が、殆ど無意識に近い形で日本で行われていることの意味、つまり今でも一般日本人の日常生活に浸透している「神道の日常感覚的なスピリチュアリティー(何かを感じる生活)とは何か?」を考えている。


第二章と第三章では、その「神道の日常感覚的なスピリチュアリティー」のルーツが、古代神道(先史時代〜794年(平城京遷都))の時代から1801年(本居宣長の死)、という約1000年にも及ぶ、非常に長い歴史時間の中で日本人の心身に浸透してきたものであることを理解する。


第五章では[1801年、以降の約200年をエポック期と見立てた上で、その約2/3を経た時に、漸く太平洋戦争の終戦で「伝統神道が異常化した時代」が終わり、一般の日本人は往年の『神道の日常感覚的なスピリチュアリティー(1)』を取り戻したが、2002年「小泉首相の靖国参拝」で、再び、この「異常(靖国崇拝/国家神道)⇒正常国家観(象徴天皇制)」のベクトルが逆流し始めたという、日本現代史の問題点]を分析する。無論、それが今の安倍政権(日本会議、神社本庁ら)のアナクロ暴走へ直結していることは言うまでもない。そして、問題は本論[3−2]でも取り上げた「靖国神社/顕幽論」である。


カスリスも、「顕幽論」という言葉こそ使っていないが、本居宣長のロマンチシズムへ過剰没入する思想(もののあはれ)の曲解に付け込んだ平田篤胤派の国学系神道が、幕末〜維新期の諸思想および政治権力と融合しつつ異常化の度合いを深め、神道は超然宗教であるとのお墨付きを文部省(当時)が遂に与えることとなり、天皇を現人神へ祭り上げる国体論に完全支配される国家神道(軍神・英霊を頂く靖国神社(顕幽論))に隷属する異常国家・日本が誕生したという訳だ。


実は、冷静な客観的「知」(学校教育アカデミズム)を司るべき「文部省(現在は文科省)」自身が、普遍的人間観・生命観に関わる冷静さを見失うという出来事は戦前だけのことではなく、今や人工知能(AI)やシンギュラリティのコトバが常識化しつつある現在の日本(AI立国を自負する安倍政権下の!)でも、そのような嫌な空気が流れ始めている(参照、下記の関連情報)。


(関連情報)


◆【カルト狂気、戦前型「顕幽論」の正体を露わに見せ始めた安倍内閣】安倍政権が「強権下100%現状肯定=批判的«人文知»に対する排撃政策」を教育・学界(幼児・初等〜大学・研究)・図書館に強制する動因は、日本会議 ・神社本庁の奥に潜む<顕幽論/靖国霊璽に憑依した神霊(エクトプラズム/神格英霊のリアル化)の代理人たる安倍首相を天皇より上位の現人神と見なし崇める追憶のカルト>の狂気(病的興奮)!

・・・日本会議の仕掛!国直轄の国家・国制教員免許化と国公私立の対全教員「共通理念の立法化」検討は、戦前の<超宗教とされた(1889勅令第12号)国家神道の根本教科化、翌1890の教育勅語・発布、なる軍国主義精神での国民洗脳・教化の歴史>を髣髴させ寒気を覚える!何がアベ真珠湾訪問か!20161207@只のオッサンRT@朝日・報道編成局http://urx3.nu/AH5m


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◆『ウソと狂想(追憶のカルト、靖国・顕幽論)こそがリアル(日本の現実)を変える』?/ゴマカシで目標達成@masaru_kaneko/鉛筆ナメ(対新基準微工作で?)て31.6兆円オン(かさ上げ)しGDPが一挙に532.2兆円ヘ底上げ!+AIシンギュラリティ狂信でGDP600兆円は指呼の内だ!by安倍晋三・総理大臣 evernote更新日 2016/12/08 http://urx3.nu/AH5l


・・・


このような空気を察知したのか否かは不明だが、(1−2)で取り上げた西川アサキ(情報基礎論、AI研究&哲学者)が「日本社会(おそらくアカデミズムも含む?←補足、toxandoria)は、AI・量子物理学・核理論等と人文・社会科学系“双方の先端知の融和的な協力が必須のフィールドで人間の意識に関わる問題の熟考を試みる真の科学的態度(冷静な研究スタンス)”に対する一種の憎しみの感情(いわば、客観“知”への憎しみ)に囚われているのではないか?」と述べていることが気がかりである。


また、[1−3 人文・自然科学融合の地平(2)脳科学研究フィールド]で取り上げた脳科学者・金井良太が『脳に刻まれたモラルの起源/人はなぜ善を求めるのか』(岩波書店)を書いた目的が、以下のようなことにあると述べているが、これも、今や再び戦前や戦中期に似た異様な「客観知への憎しみ」の空気が漂い始めた日本社会(その発信源は日本会議、神社本庁、原子村、日本政府、同調ヒラメ・マスメディアら)への一種の警告の言葉として読むことができそうだ。


・・・モラル、いわゆる道徳とか倫理というと、人間に固有の客観的な理性に基づく判断だと考えられ、主観的で情動的な判断と区別される。しかし、最近の脳科学や進化心理学の研究によれば、モラルは、人類が進化的に獲得したものであり、むしろ生得的な認知能力に由来するという。脳自身が望ましいと思う社会は何かを明らかにしたい。・・・


(エピローグ2)“AI利用が本格化するこれからの時代には「人文・自然科学知の融合」が必然となることを傍証する最も重要なポイントを以下に纏めて、再録しておく


・・・これら重要な事例(1)〜(7)を改めて俯瞰すると<日本会議、神社本庁らの策動の下で、本格的なAI時代に必須とされる「客観知/コンシリエンス」(人文・自然科学知の融合の必然性)を心底から憎む『追憶のカルト(安倍政権)』の異常さ(既述のとおり、安倍政権は「批判的<人文・社会科学知>に対する排撃」政策を教育・学界(幼児・初等〜大学・研究)・図書館に強制し始めている!)が如何に愚かな行為であるかが改めてクッキリ浮上する。・・・<注>(8)は、米国の昆虫・社会生物学者E.O.ウイルソンによる「コンシリエンス」の定義。(補足、http://qq1q.biz/AHDS より)


(1) AIに関わる思考実験上のことだが、「意識が生まれる瞬間」の直前に現れるシュミレーション・モジュールの最重要なファクターが「未来への信用」であることが分かってきた。(西川アサキ/情報基礎論、AI)


(2) その「未来への信用」を保証するのは確率論的な計算可能性だが(西川アサキ)、米トランプ流の行き当たりバッタリの「恫喝政治」や安倍政権が好む「アベノミクスの失敗を絶対に認めず弥縫策(AI万能ツール視、原発ゴリ推進、軍需&カジノ経済化など)を出しまくるバクチ経済」は計算が不可能な“まさか(不確実性/胴元・詐欺師らを除けば!w)”の世界へ国民を陥れることに等しく(浜矩子、http://urx3.nu/AHiu)、ダ―ウイン進化論を包摂する上位概念となる可能性が高いとして注目を浴びる「永続性の原理/“人文科学の知見に無知”という根源的愚かさ故に究極的永続性を無視する種は絶滅する!」(仮説/長谷川英祐、・北大大学院農学研究院・准教授http://urx3.nu/AHqt )から見ても決定的な誤謬となる可能性が大きい。



(3) 同じ不確実性でも、例えばEU統合のような“『権限⇔権限』関係を包括する入れ子モナドロジー的な囲い込み環境”に因る内在リスクを前提する不確実性の場合のAIシュミレーションでは、意外にも共可能性(共存と常識を支持する多数派集団(社会))が現れ、それを前提しない場合では逆にデッドロック(対応・処理不能の堂々巡り)状態が観察される。(西川アサキ)


(4) 人間社会における、「リアル支配力」と実存重視の「知性主義」は基本的に無関係であることを再認識すべき!(西川アサキ)逆に言えば、権力者にはバカでもなれるということ!この観点から主要メディアは猛省せよ!(toxandoria/w)Cf. 『国境政策のパラドクス』『排外主義を問い直す』編著の森千香子さんが『排除と抵抗の郊外/フランス〈移民〉集住地域の形成と変容』で第16回大佛次郎論壇賞を受賞。


(5) 情報基礎論の西川アサキが<人間社会についてのAIシュミレーションで、仮に全ての個人を完全開放系(司法の威信が激劣化した社会環境)へ置く(投げ入れる)と仮説したところ、その社会が一気に不安定化して「行政独裁⇔アナーキー(無政府状態)」の間を激しく彷徨するという恐るべきループの罠に嵌る社会現象>を観察したと報告。(西垣 通/情報基礎論、AI)


(6) 人間の脳の構造に「本能的な感覚としての倫理観を司る部位」(おそらく進化論的プロセスで蓄積!)があることなど極めて重要な事実が確かめられつつある。そして、このことが科学的・客観的に確認されれば(そうなる可能性は非常に高い!)、ジェレミ・ベンサムの功利主義に基づいて「最大多数の最大幸福を求める経済合理性」の問題が、単純なものではないこと(→その終着点が自由原理主義で本当に良いのか?)が説明可となりそうだ。(金井良太/脳神経科学、AI意識研究)


(7) カスリスによれば、日本人の特徴であるインテマシーを代表する神道スピリチュアリティーは「自己の外へ出るのではなく世界観をホログラフィカルに内部へ没入させよ!」と強く要求する傾向があり、それが客観「知」の分析に因る契約(エンテグリティ)ならぬ「感情の最も暗い部分」への無限の沈潜となリ、遂には古来日本の大和魂などの如く「現人神天皇(国体)のための自死(散華)」が「自己犠牲⇒完全な自己保存体観念/異常性(倒錯美意識?)」へホログラフィカルに反転する傾向が観察される。(トマス・カスリス)


f:id:toxandoria:20170104055052p:image:w200:left(8) 「人間の意識の主軸は感情と表裏一体の自由意思だが、それは絶えず“原因の空間(因果/究極的には人間の力が及ばぬリアル現象の連鎖である現実の流れ)”と“理由の空間(神ならぬ人間の最小限の自由意思を支える論理)”を区別して観察できること。この両者は対立するものではなく、両者が合わせ鏡の如く密接に結びつき、もつれた(entangleした)状態であることが人間の意識の正体(それが、生きる意味!)と見るべき。前者(原因の空間)は「連続性の視点で究極的説明が理解できる能力/なぜ、その機能(例えば、手・足・指など)があるのか?」、後者(理由の空間)は「機能的視点で至近的説明ができる能力/その機能をどのように使うのか?」である。そして、その先に見据えるべきが両能力を更に生かせる“より高度で多元的な意識”の誕生、つまり新たな<人文・科学知の融和的統合(コンシリエンス)>による啓蒙主義ルネサンスである。(E.O.ウイルソン著書『ヒトはどこまで進化するのか』)


《 完 》


(追記) 年初早々から、縁起でもなく、「追憶のカルト」の正体の凝視という<余りにも暗い日本の現状と未来>についての記事となったが、やはりその先への希望は、ここで取り上げた、非常に有能な若手研究者らによる新時代の客観知「コンシリエンス」(consilience)を構築する努力、特に「量子論・AI・脳科学ら先端分野の自然・人文科学との融合」へ意欲的に取り組む研究とベンチャー活動にある。その辺りで希望の光を感じさせる良質の「論考」をネット上で発見したので、参考まで以下に転載しておく。



■ネオ(二次)・サイバネティクスについて/基礎情報学/ネオ・サイバネティクスの研究、論考発表サイト 西垣 通・研究室/山梨英和大学 専任講師(2016-)大井奈美(早大第一文学部卒、東大学際情報学博士課程修、博士(学際情報学)[出典:http://qq1q.biz/AHEd より転載]


f:id:toxandoria:20170104055531p:image:w200:rightサイバネティクスは、自然科学の基本的な対象である物質やそのエネルギーよりも、私たち生命体がなんらかの対象をいかに観察するのかを、考察の対象としてきました。すなわち、物質よりも情報の領域に注目したのです。コンピュータというあたらしい情報処理技術の登場に刺激をうけて、私たちの認知(情報処理あるいは観察)のしくみにたいする関心が高まったことが背景にありました。


サイバネティクスは、環境と生命体との循環的な因果関係を重視します。循環的な因果関係は、たとえばエアコンに搭載されたサーモスタットのフィードバック機構を思いうかべるとわかりやすいでしょう。設定温度と室温との循環的な影響関係にそくして作動する機構ですね。


循環的な因果関係というサイバネティクスの着想を徹底させたのが、「ネオ・サイバネティクス」です。どのように徹底させたかというと、私たちの認知のしくみについて考える際に、ある時間的な一点における認知ではなく、私たちが生まれてから今にいたる認知の歴史全体を考慮に入れ、その歴史全体に循環的な因果関係という構想を導入したのです。


あらためてエアコンの例で考えてみましょう。冷房設定のとき、サーモスタットによって、室温がエアコンの設定温度を上回ればエアコンは作動し、下回ればエアコンは一時停止するでしょう。設定温度はエアコンが室温を「観察」するための「認知」の枠組といえますね。ここで設定温度は、外部の人間が機械的に設定する基準にすぎません。


しかし、私たち生命体に目を向けると、私たちが認知するときの枠組は、外部から機械的に決められるものではありません。今まで生きてきた時間のなかで経験をつうじて作られてきたものです。私たちの価値判断の基準と言い換えてもよいでしょう。ネオ・サイバネティクスが扱うのは、このような認知(観察)の枠組であり、ある時間的な一点における認知(観察)行為ではなく、それを可能にする認知(観察)の枠組そのものを問題にするのです。


このような考え方は、ハインツ・フォン・フェルスターという物理学者の記憶研究からはじまったので、フェルスターはネオ・サイバネティクスの始祖とされています。私たちは、今の状況に対処するときに、意識するにせよしないにせよ、過去の経験をある程度参照しますね。似たような状況を昔いかに評価し、どのような行動によって対処したのかを思い出すとき、私たちは単に記憶をたどっているだけではなく、そのときの価値判断の基準をふたたび学習しているのです。


いわば、体験の記憶をひきだすとき、私たちは体験をもう一度とり入れていて、ここにフィードバックの循環があります。フィードバックループによって、一人ひとりに固有の価値基準ができていくわけです。


このように記憶能力と学習能力は不可分に結びついていますが、記憶や学習だけではなく知覚能力や推論能力なども含めた全体的で統合的なプロセスとして、認知を理解する必要があります。私たちの認知は、一つひとつの機能のたんなる寄せ集めをこえて、全体として実現するはたらきなのです。要素の寄せ集め以上のはたらきを全体として実現するものを「システム」と呼びます。私たちの身体も、器官のたんなる寄せ集めではないので、システムの代表例ですね。したがってシステム理論は、ネオ・サイバネティクスにとってたいへん役立つ考え方だといえるのです。


なお、フィードバックのループを「再帰性」と言い換えることができます。私たちの再帰的な認知プロセスは、循環的に閉じています。その意味で私たちは、認知的(情報的)には、外部から内部へ情報をとりいれたり逆に与えたりする開かれたシステムではなく、内部と外部の区別が問題にならない、閉じたシステムなのですね。これを「情報的閉鎖系」と呼んでいます。しかし閉じていることは、私たちの認知プロセスがいつもぐるぐると同じ場所をめぐって現状維持に甘んじているだけということを意味しません。むしろ、状況に応じて、あたらしい情報をらせん的に創発させていく可能性がひらけており、ゆたかな創発を実現させ望ましい方向に導くことが、ネオ・サイバネティクスの重要な課題の一つとなっています。


この課題を果たすための理論的な基礎づけとして、神経生理学者のウンベルト・マトゥラーナが弟子のフランシスコ・ヴァレラとともに提唱した考え方を、オートポイエーシス理論といいます。オートポイエーシスとは「自己創出」を意味する造語です。細胞分裂を思うとわかりやすいですが、私たちは身体的には、今と同じ状態を保つために自分の体を作りつづけています。身体的なオートポイエーシスですね。老いや病はあるにせよ、成長してしまえば、基本的には現状維持を続けているわけです。この現状維持は、私たちが自分自身であるために欠かせません。


しかしそのうえで、単なる現状維持にとどまらず、コミュニケーションをつうじてあたらしい自己を創りだし、ときに自己変革さえもうけいれていくことが、千変万化する環境のなかで生きるために必要不可欠ではないでしょうか。それを可能にするのが観察(認知)という営為なのだと、マトゥラーナは考えました。意味的・情報的なオートポイエーシスが起きているのですね。


なお、ここでいう観察は、知覚とは区別されます。すでに述べたように、観察(または認知)は全体として把握されるべきものであって、知覚はその一部の機能にすぎないのです。たとえば色の認知について考えるとき、ネオ・サイバネティクスが重視するのは、「どうしてその色が私に見えているのか」という知覚の問題ではありません。むしろ、「その色が見えていると私が語るとき、私のなかでは何が起きているのか」という観察の問題なのです(括弧内は、マトゥラーナによる表現をもとにしています)。ある色は、誰にとっても同じように見える客観的な現実ではなく、むしろ、一人ひとりが過去の体験に即してつくりあげる主観的な現実なのです。この事実を、マトゥラーナは、ハトの色覚をめぐる研究データからあきらかにしました。


このように、各自の経験にもとづく歴史を背負って生きることと観察とが一体のものであると示した点で、マトゥラーナはネオ・サイバネティクスのもう一人の父とみなされています。私たち生命体の本質が「観察者」(意識のある←補足、toxandoria)として理解されたわけです。ネオ・サイバネティクスに深く関係する生命記号論は、こうした観察者としての生命体について深く考察する研究領域なのです。


現実が観察者の外部にあって、観察者はその現実を表現(表象)するのだという表象主義の考え方ではなく、現実は観察者の内部でつくられる(構成される・自己創出される)のだという考え方を、構成主義といいます。常識的には、私たちは外部から情報をインプットし、そしてまたあたらしい情報をアウトプットするという直線的で機械的な情報処理のモデルによって、認知やコミュニケーションを理解しています。この考え方は、情報処理パラダイムと呼ばれています。


しかし構成主義の立場からは、私たちはそれぞれが認知的に閉じた世界のなかに生きているのであり、情報は決して伝達されるものではなく、閉じた世界のなかで作られるものなのです。この立場は常識的な認知理解である情報処理パラダイムとは根本的に異なる(つまりラディカルな)ので、とくにラディカル構成主義と呼ばれています(ラディカル構成主義という呼称のより正確な由来は、ジャン・ピアジェの構成主義理論をラディカルに解釈したことですが、くわしくは別ページの説明を参照してください)。


私たちは、内的なフィードバックループによって、過去に構成した情報(現実)を想起しつつ新しい情報(現実)を構成しているのであり、現実の構成をつうじて、結果的に私たち自身をもつくりあげています。なぜなら、くりかえし参照される認知の枠組は、私たちのアイデンティティ(同一性)をなすものだからです。さらにいうならば、私たちの現実とは、私たちのものの見方の実現なのです。


しかし、私たちは、まったく自分勝手に現実をつくりあげているわけではありません。自分ひとりだけが世界に実在するという独我論に、ネオ・サイバネティクスは与しません。このことを、山高帽をかぶったビジネスマンのユーモラスなイラストが示しています(ゴードン・パスクによるものです)。