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2005-04-03 自由と実践理性の葛藤、その現代的意味(1/2)

自由と実践理性の葛藤、その現代的意味(1/2)


<注>この記事はB/Nです。


 西垣通氏(東京大学大学院情報学環教授)によると、人間の知能については次のとおり二つの立場の異なる見方があるそうです。(2004.9.16付・朝日新聞文化<知能というもの>)


(1)絶対知仮説


 この根本にあるのは、「我われ人間を含めた生物環境世界は一体不可分だという関係論的」な考え方。また、この仮説に従うと、人間の「知能」は論理操作能力記憶力の組み合わせだということになる。別に言えば、大宇宙には「絶対的な真理の大陸」、更に言い換えれば「神の知」(絶対的知から成る神の世界)の領域があるとする立場である。そして、我われ人間は、そのほんの一部を分有している存在に過ぎないことになり、その「知」は、「神の領域」(まさにプラトンのイディアの世界/狭義の暗黙知1)、「人間の自由意志」及び「人間が操る抽象論理/狭義の暗黙知2」の三要素で構成されるということになる。


(2)相対知仮説(暗黙知仮説/広義の暗黙知)


 「知能は人間という生物種に特有なもの、つまり相対的な存在」だという考え方。この立場によると、我われは、「人間という生物種に特有の知覚器官と脳神経系媒介にして周辺の環境世界に対処している」ことになる。我われ人間の知は生物進化の結果として偶然に得られたものであり、それが絶対的に正しいという根拠は存在しないこことになる。つまり、この場合における我われ人間の知能は、我われ人間にとってのみ役に立つ存在に過ぎないということになる。別に言えば、人間は、人間だけのための「相対知」を超えた「暗黙知」(異なる生物種の立場からすれば、多くの相対知が存在し得ることになり、またメタ次元の暗黙知も想定できる)にも支配されていることになる。


 そこで、この「二つの知」に関する認識論的に異なった立場を代表する典型的な視座を歴史の中で探してみると、前者(1)が13世紀スコットランド神学者、その緻密な論証態度から「精妙博士」と称されたヨハネス・ドウンス・スコトウス(Johanes Duns Scotus/ca.1265-1308)の「人間意志の神学」に、後者(2)が20世紀前半のアメリカ認知心理学ジェームズ・ギブソン(James J. Gibson/1904-79)の「アフォーダンス理論」(ギブソンがafford(供給する)から派生させた造語/生物が、周辺環境に働きかけることで環境から情報を与えられながらリアリティ創造して行くというイメージが込められている)の考え方にほぼ対応することがわかります。


プラトン主義に染まっていた、13世紀頃までのスコラ神学(哲学)の考えでは、「人間の意志の力」は「神の理性による真理認識に従属する力」だと見なされていました。つまり「絶対的・超越的な神の知」が森羅万象の手本であり、人間の存在も含めたあらゆる自然的・人工的存在は、この「絶対的・超越的な神の知」を忠実に模倣するように努めなければならないとされていたのです。ところで13世紀のスコットランドに聖フランチェスコ(FrancescoD'Assisi/1182-1126/清貧・貞潔・奉仕と花や小鳥に至る森羅万象とのアニミズム的な愛の交流を実践したフランチェスコ会の創始者/当初、そのアニミズム的な愛の実践とアウグスティヌス批判が異端視された)の実践を理論的に説明する神学者、ヨハネス・ドウンス・スコトウスが現れます。彼は、フランチェスコ派のスコラ神学者で、後にパリ大学教授となる人物です。スコトウスの立場を端的にいえば、プラトン哲学の大きな影響を受けたアウグスティヌス神学とキリスト教の融合を徹底的に批判したということです。また、スコトウスは「絶対超越的な神の存在」を論理的証明しようとした最初の神学者だとされており、これ以降のスコラ神学では、このような立場が伝統となるのです。


  スコトウスの説明によると、「絶対的に正しい自由意志」を持っている神は純粋にその意志のみから世界を創造し、その生まれた世界を見て「神の理性に照らして“善し”と判断した」というのです。それ以前のプラトンの影響を受けた考えでは、天界には様々な絶対善なるイデアが既に存在しており、神(デミウルゴス)がこのイデアを模倣して世界を創ったとされていました。そして、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus/354-430/初期キリスト教西方教会で最大の教父/著書『神の国』)は、このようなプラトンの世界創造説をキリスト教のなかに取り入れたのです。アウグスティヌスによると、神は自分の「知性」が元々持っていたイデアを見て、この世界を自らの「意志」で創ったということになります。つまり、この場合にイデアが意味するのは「神の絶対的な知的理解」が前提となっているということです。


  ところが、スコトウスは、この「神の知性の絶対的先行性」を無視して、神の「自由意志」は神の「知性」の判断とは無関係に世界を創ったと考えたのです。また、スコトウスは、人間の「自由意志」も「絶対的な善」ではあり得ないから、人間の「理性」の善悪にかかわる判断を抜きにして、その人間の「自由意志」が正しい判断をすることはあり得ないと考えました。しかし、同時にスコトウスは、「意志」は「理性」の判断力のおかげで自由なのではなく、神の「自由意志」と同様に人間の「意志」それ自身が持つ力ゆえに自由なのだとも考えました。それまでの中世ヨーロッパの伝統的な考え方は、古代ギリシア奴隷制と対比される自由市民の立場が原点であったので、「自由」であるためには、まず正しい「理性」の判断が必要だ(奴隷には正しい理性がないと考えられていた)ということになっていましたが、スコトウスは「理性」に従属しない人間の「自由意志の力」を認めるという立場を取ったのです。即ち、初めてこの時に近・現代的な意味での「人間の絶対的な自由意志」の概念誕生したのです。


  しかし、このスコトウスの「人間の絶対的な自由意志」の概念には、ある厳しい条件が付いていたのです。スコトウスは、「理性」に従属しない「意志」の働きにこそ「自由」の根拠があるのだと考えた訳ですが、同時に、スコトウスは「理性」の働きには「論理の罠」という本性的必然が纏わり付くと主張していたのです。また、スコトウスは“「意志」は主要な原因であるが、「理性」は副次的な原因である。なぜなら「意志」は自由に動き、その運動によって他のものを動かすからである。一方、対象を認識する「理性」は本性的に一定の場でだけ働くものだから方向性を示す意志との協働がなければ、決して「一定の方向へ向かう意欲的な働き」という意味での十分な能力は持つことができない。だから、「意志」こそが第一義的な主要原因なのだ。”と主張しました。スコトウスは、人間の「自我」の根拠としての「自由意志の能力」と「理性による善悪についての論理的・合理的判断能力」を切り離して見せたのです。そのため、これ以降の人間は「善」と「悪」の両方向のベクトルを併せ持つ「自己分裂」的存在であるということになったのです。


  次に、スコトウスは「三位」、つまり『神』と『子』と『聖霊』のなかの『聖霊』の重要役割に注目します。スコトウスは、「聖霊」は人間の「自由意志」を指導する力、つまり「実践理性」の働き(倫理的な働き)をするものだと説明したのです。人間の「自由意志」は、その「意志」を「正しく導く認識」を与えてくれる「聖霊」の助けが必要なのであって、それなしに人間の「自由意志」は正しく作用することができないと主張したのです。つまり、スコトウスは、人間の自由意志を導くために「神がもたらす理性」ともいうべき「聖霊の能力」(正しい方向性を示す作用)を「人間の理性」より高い次元に位置づけたのです。結局、神の恩寵を享受するというキリスト教を信仰する人間にとっての究極の目的は、このような「人間を導く聖霊の力」を謙虚に受け入れる敬虔な心と中庸精神環境を整えながら、誠実な信仰生活を実践することで漸く達成できるものだというのです。これが、スコトウスの「人間の絶対的な自由意志」に付帯する厳しい条件だったのです。


  ところが、それにもかかわらずスコトウスがせっかく導き出してくれた「人間の自由意志」についてのこのような正しい理解と認識は、主に次の三つの方向に沿って、その後の歴史の展開とともに甚だしく誤解されることになるのです。(詳細はBlog[現代人が原理主義に取り憑かれる謎(自由意志についての誤解)](1/2)http://takaya.blogtribe.org/archive-200406.html、参照)


(a)王権神授説の誤解(近世ヨーロッパ絶対王権の成立)


(b)「暗黒の中世」への単純なアンチ・テーゼとしての誤解(近代合理主義精神と近・現代科学の発達)


(c)自然法についての誤解(自由主義から新自由主義への暴走


  特に、(b)に関する誤解は、現代の我われにとって功罪相伴う両義的な大きな意味をもたらすことになります。フランシスコ派のスコラ哲学者で、その博識により「驚異博士」と呼ばれたイギリスロジャー・ベーコンRoger Bacon/ca1219-92)の経験主義的な科学研究の態度は近代科学の源とされるほど重要なものですが、この頃からスコトウスの“人間の意志は、その意志のみで自由である”という側面だけが強調されるようになったのです。つまり、人間の意志の自由という側面だけが、スコトウスのもう一つの条件である“人間の意志は実践理性の助けが必要であること”(正しい目的や方向を示してくれる聖霊の働き/森羅万象のなかに偏在(ユビキタス)する聖霊が与えてくれるものとしての理性の力)から切り離されてしまったのです。アウグスティヌス的な「絶対知を持つ神の世界」、つまりキリスト教の絶対的な支配がもたらした「暗黒の中世」へのアンチ・テーゼの役割をスコトウスの神学が担わされることになったため、ある意味で、それは仕方のないことでもあります。しかし、人間の自由意志についてのこのような側面を、その後の哲学者や科学者たちが余りにも持て囃し過ぎたため、人間の思想は、次第に「善」であり続けるための根拠を見失ってゆくのです。やがて、人間の思想は「神をも畏れぬ傲慢さ」を身につけるようになり、このようなスコトウスへの決定的な誤解は後の時代になるほど拡大され、遂にはパスカル(Blaise Pascal/1623-62/フランスの科学者、思想家)の思想の中に見られるように、我われ人間は、近・現代人に特有な底知れぬ「不安意識」を持つことになります。つまり、パスカルは近代合理主義(聖霊から切り離された自由意志と人間の理性だけが支配する精神環境)と人間中心主義が行き着く先は“人間が生きる意味の喪失”(神の死)であることを予感していたのです。

  要するに、このようなスコトウスの「人間意志の神学」の根本的な誤解が近代合理主義、科学合理主義の発達を促してきたことになる訳です。つまり、スコトウスの「人間の自由意志」についての誤解の中で、特に(b)の方向性から生まれた近代合理主義精神と近・現代科学の発達は「絶対知仮説」を前提としていた訳です。「神の絶対知」のほんの一部を分有する人間の「知」の働きを構成するのは、「人間の自由意志」と「人間が操る抽象論理」の二大要素です。我われ人間は、このような仮説の下で実験をし、理論を構成して科学法則という絶対的な神の「知」にかかわる新しい領域を手に入れることが出来るようになったのです。現在進みつつある破格の大容量コンピュータの開発や人口知能の研究なども、このような方向性の延長上に足場を固めているのです。しかし、その合理的な世界を見下ろす天空には絶えず「絶対的な真理の大陸」(絶対的な神の知の領域)が聳え立っています。


  ところで、このようなスコトウスの「人間の自由意志」についての誤解の上に築かれてきた「絶対知」と対照的なのが「相対知」の立場です。西垣氏によれば、「相対知」を支えるのは、人間など生物の行動と環境世界とが一体不可分であるという関係論的な思考だということになります。例えば、我われがある環境の中で行動すると、人間特有の環境世界が身体を介して「立ち現れて」くるというのです。これは、まさにジェームズ・ギブソンが唱えた「アフォーダンス理論」の考え方に重なります。このような「相対知仮説」では、絶対・永遠の真理と思われる科学的法則でさえも、たまたま人間の知覚器官と脳神経系でとらえられた環境世界とうまく適合する一種のルールだということになるのです。


  米・コーネル大学の認知心理学者ジェームズ・ギブソンの最初の著書『視覚世界の知覚』(1950)の刊行で「アフォーダンス理論」が誕生しますが、それはユニークな新しい認知心理学の誕生で、この理論は「生態実在論」(エコロジカルリアリズム)と呼ばれています。ギブソンは空軍の依頼を受けて“戦闘機パイロットの離着陸時における視覚の研究”に取り組み、それが「アフォーダンス理論」の発表に結びついたのです。動物が周囲にある出来事やモノについて知るためには、自分と周辺環境との間の相対的な変化、つまり運動(動き)の中にありながらも不変でありつづける性質(特徴)を探しあてなければならないと考えられます。逆に言えば、これは動きがなければ見えないものでもあるのです。「生態光学」(エコロジカル・オプティックス)と呼ばれるアフォーダンスの考え方によると、動物が動くことによって、例えば、個々の対象物上の各点ごとに存在する包囲光(ある一点に降りそそぐ、あらゆる方面からの放射光と反射光のすべて)が身体の上下・左右への移動に伴って包囲光配列構造(包囲光配列を構成する立体角)を変化させるにもかかわらず、光源との間で包囲光が形成する角度に「一定の対応関係」を発見することになり、ギブソンはこれを「視覚の不変項」と呼びました。


  この「視覚の不変項」について、佐々木正人著『アフォーダンス、新しい認知の理論』(岩波書店)は次のように説明しています。


・・・例えば、我われ知覚者がある机の周囲をゆっくり動きながら移動するとした場合、立体角(放射光に沿って視線が机の形をなぞってできる角度)の変化を通して知覚されるその机の姿は様々な形の台形に変形します。しかし、それにもかかわらず、我われは、そこに“同じ一つの机”を意識(知覚)するのです。それはなぜか? 机の形は知覚者の視点の移動によって様々な台形に変形するが、そこで次々と現れる台形の四隅の角度と辺の関係には常に変化しない一定の比率があります。すなわち、この不変の比率が、その机がどのような「姿」であるかを特定するのです。このように、見るという動作で観察者が行っていることは包囲光の配列から不変項を取り出すことなのです。そして、決定的に重要なことは、何かを見ている人の頭、眼、首、胴体、下肢、つまり全身が微妙に、あるいはよく動いているという“現実”です。もし、我われ人間が動かない存在であったとするなら、固定された一つの包囲光配列に表現された立体角だけから対象が何であるかを推論しなければなりません。しかし、我われは動くことが可能なので、そのような不十分な情報から推論する必要がないのです。もし情報が足りないならば、視点を変えることで、十分な情報を光の中に探せばよいのですから・・・


  これは、眼を感覚器、脳を情報処理&蓄積装置とするケプラー以来の視覚理論を覆すものです。つまり、「不変項」は“アフォーダンスを知るための情報”ということになるのです。そして、このアフォーダンスは“環境の性質”であるとともに“動物行動の性質”でもあるのです。言い換えると、アフォーダンスは“環境と動物が一体的な存在であること”を表していることになるのです。具体例をもう一つ挙げると、例えば“曲げたり、捻ったり、巻きつけたりできることが紐の一般的な性質”ですが、それらの性質こそが紐のアフォーダンスです。また、我々を取り囲む大気は“重力・熱・光・音(振動)及び各種のガス類(酸素炭酸ガス)など揮発性の物質”で満たされていますが、これら多様なエネルギー流動の中にもアフォーダンスを特定する「情報」が存在していると、ギブソンは考えました。つまり、アフォーダンスはシニフィアン(意味するもの)としての「情報」に対応する、シニフィエ(意味されるもの)としての「意味」であり、我われ人間にとって重要な「価値」でもあるということになるのです。


  この理論の特徴は、動物が環境世界から「不変項」という『情報』を受け取り、その中に「アフォーダンス」という、動物が生きていくために必要な『意味』(価値)を認知するという点にあるのです。動物(生物)たちは、環境の中で行動することで動物(生物)としての経験(成長史・発達史)を積み重ねてこそ環境世界の中で生きられるということであり、その過程で得る「情報」と『意味』は、ある程度の長い時間をかけるほど有意義性が高まるとも考えられるのです。このように「相対知」を前提とするアフォーダンス理論の考え方は、従来の「絶対知」を前提とした認知心理学に対して、まさに“コペルニクス的転換”とも言えるほど画期的なものであると見做されています。そして、近年は、ますますその再評価の声が高まりつつあり、マッハ(Ernst Mach/1838-1916/オーストリア物理学者・哲学者/ニュートン力学の時間・空間の概念を批判的に検討し、また実証主義的経験批判論の先駆者でもある)の「現象学物理学」とともに新しい世界観・科学観・倫理観などへの突破口となる可能性があると考えられています。


  これら二つの「知の仮説」に関して、もう一つ注意しなければならない観点があります。それは「狂信的なカルト」の問題です。リアリズム認識の混乱、つまり抽象的観念の世界を堂々巡りする罠に嵌るという意味では「宗教原理主義」も「科学原理主義」も似たような精神環境であると思われます。そして、特に「絶対知仮説」における「絶対的な神の領域」と「相対知仮説」における「暗黙知の領域」がカルトへ短絡する陥穽を仕掛けてくると考えられます。例えば「絶対知仮説」の主要素である「自由意志」と「抽象論理」は合理的思考・科学的思考の必須の手段ですが、同時に人間が自らの進むべき方向性を見失った場合に、それは容易に「カルト」への入り口と化し得るのです。このような意味で、我われ一般市民は、近年、社会的大事件を引き起こし我が国の某カルト教団のメンバーに理工系の優れた頭脳たちが多数参加していたという事実を忘れるべきではないようです。ここで想起すべきは、スコトウスが説いた“堂々巡りの「論理の罠」(カルトへの誘い)から逃れるために必要なものは「実践理性」(倫理)の働き”だということです。また、「絶対知仮説」がもたらす原理主義の代表が「自由原理主義」と「人間が操る抽象論理」の暴走ですが、今、米国一国主義を支えるパワーとして特に問題視すべきなのが「自由原理主義」(際限なく人間の自由意志をもて囃す立場)です。その具体的な姿は「新自由主義」思想に基づく「グローバル市場原理主義」となって現れています。


(2004.9.21 News-Handler、初出)

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