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2014-09-01 安倍内閣(偽愛国)の決定的誤りは、正統保守に必須の二理念『情念統

toxandoria2014-09-01

安倍内閣(偽愛国)の決定的誤りは、正統保守に必須の二理念『情念統制、論理構成』の相互補完性と国民主権ナショナリズムの無理解を恥じもせず露骨メディア支配で国民扇動に只管“精”を出すこと




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attributed to Johannes Vermeer「Saint Praxedis」1655 Oil on canvas 102 × 83 cm Barbara Piasecka Johnson Collection Foundation. USA


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・・・この絵は、現在放送中のNHKドラマ10『聖女』(出演:広末涼子、永山絢斗ほか/脚本家・大森美香が“人間の深い心の闇”と“究極の愛”の相克を描く禁断のラブ・サスペンス/主人公で連続殺人の容疑者を広末涼子が好演!)のサブ・モチーフとして効果的に使われている。


【画像2/調和】モネ『かささぎ』(ノルマンディー地方の冬景色)

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・・・季節外れかも知れぬが清涼感あるモネの最高傑作の一枚とされる印象派絵画を取り上げた。(新国立美術館、20140709〜20141020オルセー美術館展―描くことの自由―(http://urx.nu/bgj3 )から

・・・Claudo Monet(1840-1926)「The Magpie」1868-1869 Oil on canvas 89x130cm Musee d'Orsay 、Paris

・・・寒々とした冬の光景にもかかわらず、この静寂と懐かしいようで幸せな光は一体どこから来るのか? この温もりがあるモネの光は何なのだろうか?この絵のテーマとされる“かささぎ”(中央部の左側あたり)の向こうに広がる冬の遠景には、なぜか平和な安堵感のような空気が広がっている。そこには、苛烈化し、<中間層が没落しつつある現代のグローバル市場原理主義社会が見捨てた何か>があるように思われる。

・・・「第一回印象派展」が写真師ナダールの店で開催された1874年(明治7/日本で自由民権運動が開始された時)から6年後の1868年(明治元)に、モネは『かささぎ』を描き始めた。

・・・井上毅(この頃は参事院議官・内閣書記官長兼任で、保守的な漸進主義の考え方から先ずプロイセン型国家を構想すべしと主張した人物であったが)は、司法省の西欧使節団(8人)の一員として1872年(明治5/フランスでライシテ(厳格政教分離原則)が定着した頃)に渡欧しており、フランス中心に司法制度の調査研究を行った。

・・・井上毅は、法治国家立憲主義の原則を重んじる考えで、それによって保障される国民の権利(国民主権)は国家といえども正当な法的根拠がない限り奪うことが出来ないと主張していたため(国民主権ナショナリズムを尊重する正統保守的な考え方!詳細、後述)、これらを否定する反動的主張(“国民=戦争道具化”論)に対し毅然と立ち向かった。従って、“君側の奸”の「超然権力主義」(憲法ムリくり解釈による政府の反国民主権クーデタ化)に対しても議会軽視であると批判し、法制局長官の時には議会に有利な判断を下すことが多かった。


プロローグ0)日本「政府」が凄惨な戦争へ暴走した戦前の歴史を忘れ去った日本国民! 戦前に倣って「憲法の受援規範」を無視し再び「超法規権力の出現を謀る追憶のカルト」が安倍内閣の正体!


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■正統保守ならぬ日本の偽装極右!安倍首相一派、日本会議国会議員懇談会新憲法制定議員同盟のホンネは“この勇姿?”(戦前型“世界最終戦争”への決意=偽装“積極平和”主義)を全世界へ示すこと。日本国民は、正統保守とは何かをよく考えて、この安倍一派の完璧なカルト狂想(偽装極右)を篤く支持していることを恥じるべきだ!http://urx.nu/brYD

・・・*日本会議国会議員懇談会/1970年代から改憲や元号法制化、夫婦別姓反対の運動をすすめていた右翼改憲団体を再編・総結集し1997年5月に設立された「日本会議」の国会版。日本の侵略戦争は正しかったという歴史観に立ち天皇元首化、憲法9条全面改定、国民「国防の義務」、国民主権削除などを主張。会長の平沼赳夫氏(「日本維新の会国会議員団代表)は総選挙前の昨年3月、「(国会に)252名を超える同志」とその勢力を誇示。

・・・その平沼赳夫『日本会議・国会議員懇談会』会長の血縁にあたる養父・平沼騏一郎(A級戦犯)は、戦前の保守・右派勢力の黒幕(フィクサー)として暗躍し、帝人事件(1934(昭和9年)のでっち上げ疑獄事件)や企画院事件(1939〜1941年、多数の企画院職員・調査官らが左翼“嫌疑”のみで治安維持法違反で検挙・起訴)を引き起こした典型的な“天皇の政治利用”型の極右(正確には右翼ならずカルトの正体を隠す偽装極右)政治家。

・・・*新憲法制定議員同盟/改憲だけを目的に掲げ自民、公明、民主、みんななど各党の議員を結集している集団。1955年に旗揚げした「自主憲法期成議員同盟」が前身で2007年3月に再発足。2009年総選挙で加盟議員が大量落選したが直近の総選挙で多くのメンバーが国政復帰。


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■秘密指定の内容(指標)を具体化せよ!∵法令違反隠蔽不可(これは法治国で当然なのでナンセンス!)とジャーナリスト刑事罰対象の二点が最悪!戦前『国体の本義(昭12)』流(↓*)で政府が超法規権力化すれば秘密指定は遣り放題化する!⇒(特定秘密法)運用基準「甚だ不十分、改訂を」米・安保専門家、パブコメ提出 -823 朝日http://urx.nu/bhmZ 

・・・ *大正デモクラシーで昭和10年代に旧「国体論/天皇現人神論」は最大危機を迎えた、しかし文部省が強弁『国体の本義(昭12)』をでっち上げ、軍事超然権力は天皇を「現人神」に再び祭り上げた/普通選挙運動・労働運動など“新しい社会(民主主義思想)の流入と発見”の最中に、突然『国体の本義』が登場した裏に透ける政治的謀略(政府権力を超法規化する)の影(2014-08-01toxandoriaの日記より)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20140801


(プロローグ1)邪悪な政治的情念に毒された日本会議、安倍晋三ら「偽装極右(追憶のカルトの正体を隠し正統保守を騙る極右)」の対極、モンテスキュー『法の精神』の断章


人間社会は、「情念・理性・利益」の三つ巴の構成要素から成るが、その人間の「情念」が、邪悪たれと人間を絶えず突き動かしているにもかかわらず、実は邪悪ならざる謙虚で中庸で公正(倫理的)な理性(国民主権ナショナリズムを評価する正統保守的スタンス/詳細、後述)の方が、宿命的に多様な不条理に包囲された人間の利益にかなうという現実こそ、人間にとって幸福なこと(唯一の救い)だ。―モンテスキュー『法の精神』―(この“人間にとって唯一の救い”を徹底無視するのが、安倍晋三が代表する愚鈍で傲慢な『超然(超法規)権力』派である。←toxandoria、補足)


(関連情報)


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■【<完全無欠の“超越的宗教観念(“八紘一宇と皇国史観”の融合という狂信)と“唯我独尊で強権”的な軍国主義>を夢想する“追憶のカルト”ゆえの悲劇!】日本会議・創生日本・国家基本問題研究所神道政治連盟国会議員懇談会(安倍晋三会長)ら“美しい戦争と原発一極型経済”を国民へ強要する複合カルト構造(1%派)の思惑で動く安倍“発狂or追憶のカルト”政策!を逃げずに直視せよ!⇒「特攻を美化してはだめ」元隊員ら、戦争知らない若者に警鐘 815 AFP・・・以下、記事内容(815 AFP)の転載(省略)・・・. http://urx.nu/b2MT

・・・書店では「大東亜戦争は絶対に敗けるはずのない戦争だった!」「太平洋戦争はアジア解放戦争として成功だった!」等、極論や暴論特有の「天にも昇る痛快さと刹那的エクスタシー(超法規を狂想する擬装極右特有の倒錯・極楽的快美感)」を売りにする本や雑誌が増えている。戦争を知る世代が減り、当事者の苦悩や厳しい戦争のリアリズム(残忍、愚かしさ!)から目を逸らすことへの抵抗が薄れている。@山崎雅弘via Twi20140812只のオッサンがリツイートhttp://urx.nu/bhyI


(プロローグ2)カントの「情念」統制理念と「論理」構成理念


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・・・この画像(撮影日2014年8月27日 14:56、京都)は、miiyumiyu @reimondokobati さま より。


「情念」統制理念は「高次元で永遠に実現不可能なものであるが、その高次(High-Dimension)の目標とすべき理念を掲げることでのみ、邪悪へ傾斜しがちな情念を統制しつつ現実的(リアル)政治の改良への取り組み努力が持続できる(理性の情念統整的使用)」ことになる。これこそ“情念統制理念と論理構成理念の相互補完性”が意味することだ。


そして、例えば<顕幽論軍神(靖国神社)型の祭政一致(宗教原理主義or国家神道の如き超然宗教原理主義*)か、あるいはフランス・ライシテ型の厳格政教分離か、あるいは平和主義か、あるいは国民主権ナショナリズム(正統保守)か・・・>などの選択が、その「情念」統制理念の典型ということになる。


<注記>*「大日本帝国憲法(1889公布、1890施行)」では、文面に“信教の自由“が明記されていた(条文、下記▲)が、それは「国家神道は宗教ならず宗教を超えたものである」(神社非宗教論=国家神道はハイレベル超然宗教であるとする一種のカルト観念or論点外しの詭弁による“信教の自由“の単純な“お飾りお題目化”戦術)という超然権力によるムリくり強権的法解釈(“理性の情念統整的使用”の悪徳への傾斜)に立脚しており、<“神道と神社を他宗教の上位に置くのは「明治(大日本帝国)憲法」の「信教の自由」と矛盾しない”との公式見解(超法規的情念に因って権力を野放図に行使できるという一方的宣言)>に基づくものであった。

▲大日本帝国憲法第28条の条文=「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」

・・・1889年の「勅令第12号」(大日本帝国憲法公布・皇室典範公布と同年)によって官立・私立の全学校における宗教教育が禁止され、<「宗教ではない」とムリくり解釈された「国家神道」は一般宗教を超越したものとして、いわば超然国策カルト的に理解される>ことになる。翌1890年には、「教育勅語」の発布で軍国主義一色で洗脳するため国民教化の基本が示され、日本は全能の「国家神道(軍神靖国)」が<一般宗教・政治・道徳・教育・科学>の上に超然と君臨する<異常カルト皇国史観国家政体>と化した。

・・・このように<明治憲法(大日本帝国憲法)の“政教分離の原則(信教の自由)”は明治政府の強権憲法解釈(“理性の情念統整的使用”の悪徳への傾斜)によって“国家神道”と矛盾しないとされたことが、いま現在の「安倍『日本会議だらけ』内閣」にまでおよぶ日本の近・現代史における全ての誤りの発端>であったことは間違いがない。

・・・つまり、この明治期における初期条件の根本的誤り(というより明治政府による国民への嘘(“理性の情念統整的使用”の悪徳化による明治憲法のムリくり解釈)の押付け)こそが、その後の日本(戦前〜戦中〜戦後)へ連鎖的に悪影響をもたらしたという意味で諸悪の根源である。


・・・


一方、「論理」構成理念は「情念の大きな構成要素である欲望(悪徳へ傾斜しがちな情念)を合理的に抑制・制御しつつ、政治的に実現可能でモデラートな理念(理性の論理構成的使用)」のことである。例えば、<脱原発か、縮原発か、あるいは秘密保護法に関わる“秘密指定の内容(指標)”をどう具体化するか>などの方向性ないしは関連する制度設計の具体的選択はその典型となる。


しかし、全知全能ならぬ人間の「理念」であるからこそ、「情念」統制理念と「論理」構成理念の二つは、共に、再現不能な一回性の歴史経験(遡行が不可能な時間の流れである因果律に支配された一期一会的で貴重な自然・社会的経験、つまり日常的に我々自身を取り巻く広義の歴史経験)から積極的に学び取ることによってのみ、そのあるべき方向性は微調整され得ることになる。


従って、その時間の遡行が不可能な過去の歴史世界の完全な取戻しは可能(歴史は完全修正が可能)であるとする異常イデオロギーの持ち主たち(例えば、日本会議、神社本庁、創生日本、国家基本問題研究所、神道政治連盟国会議員懇談会、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会、安倍晋三のお友達一派ら)が「美しい戦争(このみいくさ/国民玉砕自爆テロ戦争)ができる戦前レジーム(国家神道・靖国顕幽論による国家支配体制)の取戻し」に絶対的に囚われるとすれば、彼らは恐るべき「追憶のカルト観念」の奴隷だということになる。


なお、「理念」についてのこの峻別はカント(Immanuel Kant/1724 - 1804)が創始者だが、それより古いルネサンス期のマキャヴェリ(Niccolò Machiavelli,/1469- 1527)も「現実には見えない、実在しない理想の共和国や君主国(理性の情念統整的使用に相当)」と「権力に関わる個々の事実の諸相(理性の論理構成的使用に相当)」で同様の考え方を示している。また、以下▼の説明も大いに参考となる。


▼理念についてのシンプルな備忘録(構成的理念と統整的理念)・・・理性の統整的使用こそが真のイノベーションをもたらす/廣江慈郎オルタナティブ・ブログ、http://blogs.itmedia.co.jp/jrx/2012/08/post-b53a.html


フランス革命は「国民主権ナショナリズム(正統保守理念)」の確立であった!/“愛国”は<安倍「日本会議だらけ」内閣>の如く国民主権を無視する“カルト偽装極右派の専売特許”ならず!


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今頃になり、日本会議ら「偽装極右派」(正統保守を騙り、かつ戦前型の狂想政治の取戻しに拘る“追憶のカルト”の正体を隠す偽装極右国家ナショナリズム派)が、事実上、安倍自民党政権を操っていることが、漸く一般国民の間でも知られつつあるようだ(特に、地方紙である東京新聞河北新報北海道新聞京都新聞など、および一部の中央紙&共産党機関紙・赤旗などが関連情報を報じている)。


つまりそれは、終戦後も続く「国体論(皇国史観)を巡る内ゲバ的暗闘」のプロセスで「正統保守」の芽が潰えてしまった(意図的に潰された?)という悪しき状況の傍らで、自民党とその強固な支持基盤の中枢である日本会議(自民集票組織のコア/自民基礎票1000〜1500万の約7割を固める/構成員:約3万人、加盟団体会員数:約800万人)、神社本庁、神道政治連盟国会議員懇談会(安倍晋三・会長/2014年7月7日現在、自民党を中心に289名の国会議員(衆議院211名・参議院78名))、創生日本、国家基本問題研究所”など、いわゆる“詐称”保守団体(自らの“追憶のカルト”の正体を隠しつつ正統保守を騙る一派)のなかに過激な「国体論(皇国史観)/玉砕(このみいくさ)原理主義」だけが生き残ってきたことを意味する。


なお、特に国政選挙等で目立つ5〜6割棄権層(無関心ウロ・キョロ多数派国民層/消極的選択で結果的に長い物に回収される“事大主義”派)は、これら“詐称”保守(偽装極右派)を、言い換えれば日本会議らを基盤とする安倍自民党政権を消極的ながら支持しているという自覚に欠けているようだ。従って、これら無関心ウロ・キョロ多数派の国民層が覚醒せぬかぎり、小選挙区制の問題を脇に置くとすれば、いくら国政選挙を繰り返しても、この悪しき日本の政治状況は変わらぬことになる。


しかも、彼ら偽装極右派は、天皇の政治利用を良しとする、そして必要であれば玉(天皇の首)のすげかえすらも良しとする非常に強欲な特権意識(天皇の政治利用を当然視するご都合主義で身勝手な皇国史観を掲げる君側の奸に特有な)に囚われた狂想カルトであるうえに、一般の日本国民を玉砕戦争(このみいくさ)の手駒(靖国英霊配下の戦争ロボット的存在である一般国民に基本的人権はない!)と見なしている。だから、原発事故なども自らの身に大きな被害が及ばぬ限り屁のカッパ!ということになる(安倍政権の背中を押し続ける日本会議ら「偽装極右ナショナリズム派」の委細については、下記ブログ記事◆を参照乞う)。


◆[暴政]「日本会議」問題! 強弁『国体の本義』(昭12)で天皇を現人神へ再び祭り上げた超然クーデタそっくり!ムリくり『集団的自衛権憲法解釈』閣議決定の安倍総理は美しい「このみいくさ」取戻しを謀る「追憶のカルト」http://urx.nu/aCs3


(フランス革命の歴史は、ライシテ(フランス型の厳格な政教分離原則=“国民主権ナショナリズム”の受け皿としての公共観念)完成へのプロセス)


フランス革命で「人権宣言人間と市民の権利の宣言、フランス革命の基本原則」(1789)が書かれた後のフランスの政治体制は18〜19世紀をとおして共和制、帝政、反動体制、復古主義、第二帝政、共和制・・・という具合で目まぐるしい紆余曲折を繰り返す。そして、概ねこれは最高政治権力をめぐる<王党派と共和派の揺り戻しと奪回の暗闘の歴史>であるが、その根底には.「キリスト教カトリック)」と「政教分離の原則」の対立軸が複雑に絡んでいた。


このプロセスの終わりごろ、つまり1870年代(第三共和制の時代)になって漸く“政教分離の原則に基づく政治と宗教の具体的なあり方を規定する言葉”としてライシテが造語(ローマ・カトリック教会権力に対抗する“世俗的、俗人的”を意味するlaiqueを名詞化してlaiciteとした)された。


この時に意図されたのは、“国民主権ナショナリズム”の受け皿としての公共空間を法制的に確保することで、フランス国内で安定的に政治と宗教を共生・共存させることである。そして、このライシテが初めてフランス共和国憲法の中に現れ、「公共空間・公共意識と宗教の分離」が厳格に謳われたのは、パリコミューン(1871)後に制定された「第三共和国憲法」(1875)が1884(明治17)年に改正された時であった。因みに、それに少し先立つ1880(明治13)には日本で「愛国社」が「国会期成同盟」と改称しており、1881(明治14)年は国会開設の詔(1890年を期して国会開設・憲法発布を約した勅諭)が出された(愛国社についての委細は後述/参照⇒“第2章‐(潰えた日本型正統保守の源流1)”)。


(実は1884年のライシテ完成(憲法上)で決着するフランス革命の勃発は“正統保守”的価値観の基盤となる“国民主権ナショナリズム”意識の誕生であった/近年、根本的に変わりつつあるフランス革命への評価)


一義的に定義し難いとされる「ナショナリズム(国家主義)」であるが、ごく一般的に見ればそれは“古代から続く一貫した国民意識である”とする“よく考えるほど掴みどころのない定義”が常識とされてきた。そして特にその傾向は日本の「皇統一系と純粋大和民族を前提とする皇国史観ナショナリズム」で強く意識されてきた。そして、それこそが「皇国史観に基づく戦前型“国体論”の決定的欠陥」である。


また、わが国における戦後の歴史学は、戦前を一括りに批判しつつ一本調子でバッサリと「皇国史観」を糾弾する傾向が強かった。つまり、それがマルキシズムの左派であるか否か、あるいは温厚な中道(欧米流民主主義(新しい社会の発見)を尊重する派である)か、または内向的右派かなど立場の違いを問わず、ともかくも<戦前の皇国史観、軍国主義史観、米英打倒史観が日本国民の合理的ものの考え方を歪め、抑圧してきたのだから戦前の体制は全て誤りだった>という観点で戦前を十把一からげに、かなり乱暴に批判してきた。


しかし、このように大雑把な視点から単純に一括りする批判では、例えば三井甲之の思潮の変遷でその典型事例が観察されるように(関連参照⇒既出ブログ記事◆)、戦前の皇国史観(国体論)の中に、その後の展開しだいでは、現在の<安倍「日本会議だらけ」内閣>の如き擬装民主主義(国民主権の否定を下心とする!)や偽装極右ではなく、多数派の一般国民層が率直に受け入れることが可能な<立憲国家たる象徴天皇制の下で天皇家の精神基盤である伊勢神宮が象徴する日本の伝統文化を尊重する「国民主権デモクラシー国家」が成立し得るという、「日本型の冷静な正統保守思想」の創出に至る可能性が潜んでいた>ことは見落されてしまう。


しかも、そのような意味で戦前〜戦中〜戦後期に一貫して存在した<正統保守的(国民主権デモクラシー的)な“ものの考え方”の芽生え>が一般国民と主要メディアの意識で明確に捉えられ、それが広く一般国民の中で着実に共有されることはなく、残念なことにそのまま見過ごされてきた。しかも、そのことが災いの元となり、現代日本では<正統保守(国民主権を最重視する正統保守的な“ものの考え方”)と偽装極右(安倍政権の背後霊となっている日本会議らの国民主権否定派)>の区別がつけ難くなっている訳だ(委細は既述のブログ記事◆を参照乞う)。


ところで、フランス革命に関する研究の深化とともにフランス革命に関わる根本的見方が変わりつつある。その典型が「フランス革命の勃発には“国民主権ナショナリズム”の誕生の意義が関わっていた」という主張だ。そして、実はこのことが「正統保守的な“ものの考え方”」と無関係ではない。というより本来であれば“国民主権ナショナリズム”こそ愛国的「正統保守」と見るべきなのだ(ライシテ(フランス型の厳格政教分離原則)完成までのプロセスと、その委細はコチラを参照⇒2014-07-01toxandoriaの日記、http://urx.nu/boxR )。


もっと言えば、旧来の「ウヨVSサヨ」論争なるアナクロで視野狭窄な<左派or右派の尺度(イデオロギー)に従うものの考え方>でリアルな政治・経済政策を計画化する手法は、今や通用しなくなったと見るべきだろう。


しかし、残念ながら、現実の日本は<“歴史の教訓など知らぬが、コノありのままの日本が好きで何が悪いのか!”と絶叫する“過激ネトウヨ”シンパ(極く少数派)、および“誤った皇国史観(追憶のカルト)の取戻しを謀る日本会議ら”(安倍内閣の支持基盤/約1000〜1500万人規模の偽装極右)の如く特異な追憶のカルト・イデオロギー(玉砕テロリズム意識)に被れた絶対少数派(全有権者対比で高々10〜15%程度の少数派)>が篤く支持する<資本主義経済の核心(要諦部分)を決定的に無視した原発一極推進型の異常な軍需経済政策/アベノミクス>が堂々と罷り通る<超異常な社会>となっている。


(“国民主権ナショナリズム”を論じた典型は、アーネスト・ゲルナーと、著書『想像の共同体』でナショナリズムの常識的定義を覆したベネディクト・アンダーソン


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ところで、“国民主権ナショナリズム”を論じた典型は、アーネスト・ゲルナー(Ernest Gellner/1925-1995/チェコとイギリスで活躍した歴史・哲学者、パリ生まれのユダヤ人)と、著書『想像の共同体』で“古代から続く一貫した国民意識であるとするナショナリズムの常識的定義”を覆したベネディクト・アンダーソン(Benedict Richard O'Gorman Anderson/1936年- /アメリカの政治学者)である。


ゲルナーは、著書『民族とナショナリズム』で「ナショナリズムとは、もともと存在していないところに“国民”を発明することだ」と定義しており、片やアンダーソンは著書『想像の共同体』で、ナショナリズムの起源を「出版資本主義」(プリントキャピタリズム/出版の普及とともに国語化してゆく世俗語を重視し、その誰でもが理解できる国語で“国家の宿命や将来”を説くことで、その国の“想像の共同体”としてナショナリズムが喚起されると考えること)の中に発見している(委細、参照下記▼)。


松岡正剛の千夜千冊/ベネディクト・アンダーソン:想像の共同体、http://1000ya.isis.ne.jp/0821.html


要するに、フランス革命では、“政教一致と王権神授説(絶対王政)に基づく国王(国家の主権者)を頂点とするアンシャンレジームの論理”が完璧に否定され、国民であれば誰でもが平等な主権者であり、彼らは皆等しく出自や身分に関係なく政治に参加(自律的に、分に応じて物事を考えることが)できるようになった訳だ。つまり、「国家は主権者たる国民のものだ」という新たな“国民主権ナショナリズム”の論理が、アンシャンレジームの論理に取って代わったことになる。


が、ここで特に留意すべきは、フランス革命で創造された新たな“国民主権ナショナリズム”の論理が、フランス語(その歴史は8世紀後半頃の古フランス語、北部フランス(フランク王国の一地方)で一般の人々が使っていた言葉まで遡ることができる)とフランスの歴史、および「8〜9世紀頃のフランク王国由来のフランス伝統文化」を否定するどころか、むしろ高度に、かつ個性的にそれらのレベルを高めてきたということだ。


「国家は国王のものであるというアンシャンレジームの論理」はフランス革命で完膚なきまで否定されたが、そこで「新たに創造された“国民主権ナショナリズム”の論理」は、逆に、フランスの歴史と文化をフランス国民の豊かなアイデンティの中枢的構成要素として、誇り高く捉え直し、フランス革命から現代に至るまでの凡そ200年を超える時間の中でフランスの優れた伝統文化をより一層洗練されたものとするため立派に機能してきたことになる。


つまり、ここで観察されるものこそがフランス流の「正統保守」の姿であり、それは今や「サヨVSウヨ」なるアナクロで表層的なイデオロギー論(無論、左派・右派の名称は残っているが)では理解できないものとなっている。因みに、メルケル政権下で強力な国民意思が<脱原発の方向性/良き「情念」統制理念>や<法人税減税とバランスを取った一種(広義)のエロージョン(税収欠減構造)対策(結果的に税収が増える!)/「論理」構成理念>を決定した「ドイツの正統保守的なものの考え方」も、その意味ではフランスとほぼ同じである。


(関連情報)


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■これは、法人税減税とバランスを取った一種(広義)のエロージョン対策(結果的に税収が増える)でもあり、ドイツ正統保守(メルケル政権)が勝利(社会民主党の公正を求める価値感と調和し、ドイツの政治経済が進(深)化)した証!⇒ドイツ初の最低賃金制導入、来年から時給1200円704AFP  http://urx.nu/axFO ・・・以下、同記事内容(704AFP)の転載(省略)


・・・


ともかくも、驚くべきことだが日本では「国民主権を前提として日本の歴史と文化を尊重するという意味での正統保守的なものの考え方」、つまり“国民主権ナショナリズム型の誇り高い愛国”の論理の意義については殆ど意識されていない。それどころか日本会議ら偽装極右派の「国民ロボット視」戦略が見事に功を奏して、殆どの国民は「正統保守」と「偽装極右」(安倍様のお友達一派、日本会議など、自らの“追憶のカルト”の正体を隠蔽して“正統保守”を騙る意味での偽装極右)の区別がつかないという真に情けない、一種の非常にバカげた社会状況の中に放り出されている。


そして、そもそも「大日本帝国憲法の“政教分離の原則(信教の自由)”」が明治政府の強権的“憲法解釈”によって“国家神道”と矛盾しないとされたこと、および文部省『国体の本義(昭和12)』(文部省(現在の文科省)が明らかな屁理屈(神憑る皇統一系論)をムリくりに権威ある合理的“国策文書”と定義付けたもの!)による昭和天皇の現人神への本格的“祭り上げ”こそが、今に至る日本の全ての誤りの元凶であり、それを更にダメ押ししたのが<“太平洋戦争”開戦直後の神憑り戦争への補強デマゴーグ>である。つまり、それは、これ又“文部省”謹製の『日本世界観と世界新秩序の建設(文部省)/要は“日本こそが世界の救世主である”とする文部省謹製の非常にバカげた国民洗脳ツール』(参照、↓*)であった。


<注記>*『日本世界観と世界新秩序の建設(文部省、昭和17)』

・・・明治末以降に冷静な古代史研究が進み、皇国史観の基礎となる神代と歴史の間に境界線が引かれつつあることに危機感を持った時の「超然軍事政権」は、これに反撃を加えるため『日本世界観と世界新秩序の建設(文部省、昭和17)』を発表した。ここでもムリくりの屁理屈が展開されており、神代に始まる「皇統一系万世不易」が国策理念として確定し、これが爾後の「このみいくさ(国民玉砕型“聖戦テロ戦争”)」の絶対不可侵の指針とされた。http://urx.nu/b1li


また、この時には「単一大和民族(攘夷論の一つの根拠)」論が前提とされていたが、昭和10年代〜戦中期は軍部の露骨な政治介入で「天皇の政治利用」の傾向が強まり、東アジア植民地獲得(帝国主義)を支える「日本人混合民族論」へ急傾斜している。しかも、興味深いことに、終戦後は、再び左派・右派の別を問わず「単一大和民族論」が主流となった。いわば簡単に科学的検証の結論など出そうもない「日本民族」出自の問題は、これもご都合主義的に、政治権力によるムリくり解釈が繰り返されてきたことになる。


つまり、東アジアでの植民地獲得政策を積極的に拡大させたため、それ以降は、今までの皇国史観に因る日本の歴史と決定的に異なる困難な事態を抱え込むことになった訳だ。その事態とは異民族の同化をめぐる伝統「国体論/皇国史観」の有効性についての議論であり、その核心に潜むのは<近代日本の伝統トラウマである『世界に誇るべき純血単一大和民族』なる妄想>と、<異民族統治の正当性を主張するための「ネオ国体論」(次々と新たに獲得する植民地と異民族についての同化政策を視野に入れた新たな屁理屈の要請」>の相克ということである。


ところで、終戦後におけるその最悪の終着点が<“平和憲法を破棄して、美しい自爆テロ戦争(このみいくさ)ができる戦前の日本を取り戻すべし!”との驚くべき平泉澄の主張>であり、その<狂信カルト>の囁きは、1954年(昭和32)6月30日に首相(吉田茂)官邸で行われた「自民党憲法調査会第二分科会」において自民党国会議員らの心の奥深くに流し込まれたのであった(具体的には、後述する『3 田中智学「八紘一宇」は、安倍「日本会議だらけ」内閣(追憶のカルト)の中枢に潜む平泉澄「皇国史政治観(聖戦玉砕このみいくさ)」を補完するもう一本の狂信の柱』を参照乞う)。


なお、この<超然たる行政権力が司法(司法の概念と天皇の位置づけ)と国民主権に優越するという民主主義国家にあるまじき“悪しき近代日本の伝統(慣行)=いわゆる『閣議決定万能論』や『玉(天皇の首)のすげかえも辞さぬ“天皇の密教型政治利用”』>など“超然権力の行使を当然視する日本的で異様な考え方”は、直近の<安倍内閣のムリくり憲法解釈変更による集団的自衛権行使の閣議決定、あるいは遣り放題の秘密指定を睨みつつ意図的に秘密指定の内容(指標)を具体化せず、しかも骨抜き監視制度をゴリ押しした“アベ式特定秘密保護法の制定”>などの特に異様に目立ったケースに止まらず、今もわが国の政治・行政の凡ゆる局面で当然視されている訳だ!


そして、その戦前型の悪しき「追憶のカルト」の土壌を抜け目なく提供しつつ、国民へ向けて悪徳に満ちた洗脳の風を執拗に送り続けているのが、事実上、平泉澄と靖国顕幽論の受け皿である“日本会議、創生日本、国家基本問題研究所、神社本庁、神道政治連盟国会議員懇談会”ら“詐称”正統保守団体である。


2 “世界最終戦争の覇者”が日本(軍国日本)であるとする田中智学の八紘一宇の思想/平泉澄と共鳴する「強力な日本型悪性カルト」の柱


(潰えた日本型正統保守の源流1)そもそも自由民権運動は“国民主権ナショナリズム”であった


自由民権運動は、1874 (明治7) 年1月の「民選議員設立建白書」を契機に始まったとされるデモクラシー(憲法制定や国会開設)の確立を目指す、日本で最初の下から民主主義を求める運動であり、10数年間におよび続いたこの運動の中から各地で数多くの政治結社が誕生した。そして、この流れの嚆矢は1874(明治7)年1月12日に結成された「愛国公党」(“明治6年の政変(朝鮮・アジア政策に関わる西郷隆盛らの征韓論をめぐる政変であり、その真相は未だに不明の部分が多い)”で下野した板垣退助らが副島種臣邸に同士を集めて結成した)であるとされるが、この愛国公党は余り活発化せず自然消滅する。


そこで、板垣退助は同年4月16日に高知で「立志社」(西日本の氏族層が中心となった組織)を設立し、再び、反政府運動に乗り出した。やがて、全国に拡がる自由民権運動に関わる結社を糾合すべきと考えた板垣は1875(明治8)年2月に大阪で「愛国社」を創立したが、やがて1877(明治10)年に西南戦争(西郷隆盛を担いだ鹿児島士族の反政府武力蜂起/士族反乱の最大で最後のもの)が起こる。


西南戦争が終結した直後の1878年9月になると、武力闘争に限界を感じて“言論と大衆組織の動員で明治政府の専制政治(君側の奸らによる超然権力を当然視する、異様な文化・歴史観念に囚われた政治!)を批判することの意義”に漸く目覚めた人々が、大阪で「愛国社」を再興する大会を開催した。そして、これ以降の自由民権運動は、政府側からの様々な弾圧を受けながらも、次第に勢力を拡大して国会開設を要求してゆくことになった。


この自由民権運動が開始された頃の歴史で注目すべきは、その時に作られた政治結社に「愛国公党」、「愛国社」など“愛国”の名が付けられていたことである。現代の我々は“愛国”といえば、いわゆる右派ないしは<安倍「日本会議だらけ」内閣>を強力に後押しする偽装極右派(日本会議など)の独占であり、とても左派的あるいは中道的あるいは穏健保守的な活動に相応しいものとは思っていないはずだ。


しかし、よく考えてみると<“歴史の教訓などは知らぬが、ありのままの日本が好きで何が悪いのか!”と絶叫する極く少数の思考停止型“ネト・ウヨ”>らは論外とすれば、“愛国の感情”が極右派ないしは、偽装極右派の独占だという固定観念は可笑しなことである。例えば、「正統保守」のスタンスを重視する筆者(toxandoria/いわゆる左派でも右派でもなく(強いて旧来の分け方からすれば中道左派か?w)に愛国心が似つかわしくないと糾弾されるのは論外である!(w)むしろ、“ネト・ウヨ”や偽装極右派よりも遥かに深くて篤い“愛国”心を持っていると自負している(w)。


そこで、想起すべきは第1章で取り上げた<近年、根本的に変わりつつあるフランス革命への評価>ということだ。つまり、「愛国社」を創立した板垣退助や「愛国社」再興大会を開催した人々らが果たしてライシテやフランス革命の意義をどのように理解していたかはともかくとすれば、これら自由民権運動の創始者たちが、その意識の片隅に“国民主権ナショナリズム”的な考え方(正統保守へ発展する可能性を秘めたイデオロギー!)を持っていたことは、ほぼ毎違いないと考えられる。


しかし、残念ながら、自由民権運動の嚆矢におけるこの“国民主権ナショナリズム”的な考え方の芽生えは、爾後の<偽装極右/現在の安倍“日本会議だらけ内閣”と安倍晋三一派に重なる君側の奸(靖国顕幽論に因る“国民=戦争ロボット”論(これが英霊・軍神靖国顕幽論の正体!)を深く信奉する狂信徒)>一派が席巻する日本現代史のプロセスで抑圧・抹消され、今に至っていることになる。


(潰えた日本型正統保守の源流2)フランス革命と明治維新の根本的違いとは?「自由民権運動の意義」に潜む未来への可能性の発見


既に述べたことと一部重なるが(参照、第1章)、日本の明治維新とフランス革命を比較すると、その根本的違いは「君主」のあり方(革命に際しての処遇のあり方)であることが理解できる。つまり、フランス“革命”(Revolution)ではアンシャンレジーム(旧体制)を根底から崩壊させて「主権」を国王から国民の側へ移行させるためルイ16世はギロチンで断罪された。


他方、明治“維新”(Restoration)では「天皇」の存在が前面に押し出されて国家体制の“復活”(Restoration)が意図されたため、天皇が新国家「日本」の「主権」者と位置付けられ、国民一般(万民)は主権者たる天皇の支配下にある限りにおいて平等の権利を持つ存在と位置づけられた。従って、明治維新は「革命」ではなく「王政復古」であり、いわゆる「一君万民」体制の定義づけ(幕藩体制の完全否定)ということであった。


言い換えれば、明治維新では、「王政復古」を恰も「革命(革新)」であるかのように見せるために、擬装工作とまでは言えないとしても、敢えて“君主(天皇)制をめぐる日本的曖昧さ”を遺すという政治的配慮が謀られたということになるだろう。因みに、この明治維新に付き纏う日本的曖昧さを利用しつつ偽装極右の正体を隠蔽して善良な国民層を誑かす意図で名付けられたのが今の「日本維新の会」である。従って、彼らが同じく「次世代の党」らと共に偽装極右一派として安倍自民党の補完役(or補完どころか擬装極右派の急先鋒!)であることは間違いがない。


ともかくも、日本型の本格的な“国民主権ナショナリズム”の実現を掲げた自由民権運動は、超然たる政治権力を独裁的に振るう明治新政府を<もう一つの可能性としての「天皇の原理」(象徴天皇制というコトバこそ使わなかったが)>で厳しく批判したのであった。つまり、その批判の矛先は明治新政府なる<一握りの“君側の奸”が仕切る「天皇の政治利用」体制=本来あるべき正統保守としての、“国民主権”による「一君万民」体制からの逸脱>へ向けられていたことになる。


そして、この根本的矛盾を内包した<一握りの“君側の奸”による「天皇の政治利用」体制=本来あるべき“国民主権”による「一君万民」からの逸脱>は、明治期〜戦前〜戦中〜戦後そして現在の<安倍「日本会議だらけ」政権下における“美しい戦争(軍国主義)と原発一極型経済(軍需)政策の国民への押付け>に至るプロセスに潜み続けており、それは今や日本の近未来の政治体制にも暗い影を落としている。


因みに、自由民権運動の視野に入っていたと見なすべき<もう一つの可能性としての「天皇の原理」>との関わりで想起されるのは、本居宣長と同時代の伊勢神宮の神道学者(神職)、出口延佳(1615〜1690)の『天皇・人民平等論』(現代のコトバで言えば、象徴天皇制に近い考え方!)である。近年は本居宣長の天皇現人神論が神の代理人たるローマ教皇からヒントを得た可能性も指摘されているが、伊勢神宮の神道学者・出口延佳は、宣長と全く正反対という意味で<神の前での平等な恩寵というキリスト教思想>から大きな影響を受けた人物と見なされており、それまでの神道学者より更に前へ一歩進んだ新しい考え方を構想していた。


なんと、出口延佳は日本古来の伝統神道を正しく伝える者としての誇りと使命感から、一般的理解とは真逆の『天皇・人民平等論』を説いていたのである(出典:小山悳子(神道学者、比較宗教学者)著『日本人の求めた元神(カミ)』‐日本図書センター‐)。つまり、そこでは<純粋精神・多元文化主義としての皇国史観>が現代でも通用する「正統保守/象徴天皇制下での国民主権デモクラシー型ナショナリズム」へ深化する可能性が芽生えていたのである(関連、参照. ⇒ http://urx.nu/atS9 )。


また、このような観点は、プロローグで触れた「情念統制理念と論理構成理念」の問題とも関わっており、それは未来への一筋の光(本格的な正統保守的な政治観念へ発展する希望)を見せてくれることになるのだが、委細は後述する。


(潰えた日本型正統保守の源流3)自由民権運動の中核には、いわゆる“右翼″と共鳴するという現実があった/創始期「玄洋社」の情熱の源はフランス革命型の国民主権ナショナリズム意識!


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・・・以下は、[中島岳志著『アジア主義、その先の近代へ』―潮出版社―]を参照しつつ、「フランス革命型の国民主権ナショナリズム意識」について考えるところを纏めたものである。・・・


我々のようにごく普通の日本国民が、戦前〜戦中期にわたり皇国史観一色に染まった歴史を振り返るとき、それら国家主義(ナショナリズム)や天皇制の問題を十把一絡げにして理解するという、一種の固定観念に囚われてしまいがちであるのは、ある程度はやむを得ないことかもしれない。しかし、“愛国”(および憂国)は決して“右翼の特権”ではあり得ず、同様の意味合いで“平和主義”も“左翼の特権”ではあり得ないはずなのだ。


だから、平板な「ウヨVSサヨ」論争の次元に止まるかぎり、我々は詐称「正統保守」派が「1%派(原子村・軍需産業等の既得権益派)」のため準備した<狡猾に天皇を政治利用するという悪しき詭弁論>に体よく騙されてしまい、彼らの、詭弁論の術中に回収されてしまう恐れがある。それは、安倍晋三一派ら“追憶のカルト”の恐るべき正体が、実は<愛国と正統保守>を騙る悪辣極まりない社会的悪性腫瘍化した偽装極右集団であるからだ。


つまり、それでは何時まで経っても日本を仕切るのが日本会議、神道政治連盟国会議員懇談会(安倍晋三会長)ら<社会的悪性腫瘍化した国民玉砕カルト(このみいくさ)狂いの一派>であるということになる。しかも、留意すべきは<彼ら偽装極右派の多くが、実は“愛国と正統保守”を自らの特権であるかのごとく巧みに喧伝する一方で、彼らがホンネでは一般国民層を支配する方便として「軍神・英霊靖国/その核心は“一般国民を戦争ロボット視”する平田篤胤の顕幽論」を掲げているということだ(顕幽論の委細はコチラを参照乞う⇒http://urx.nu/biUJ および下記▼)。


▼【関連情報/注目!“靖国問題の本質が幽顕思想(顕幽論)にある”ことを客観的に指摘した珍しい番組!/2時間番組の<録画(動画)>付!】『BSフジ・プライムニュース:靖国問題の本質とは?A級戦犯合祀したワケ 政治と神道をひもとく/ゲスト井上順孝 國學院大學教授、原武史 明治学院大学教授』2014年08月12日、http://urx.nu/bng7


そこで、<愛国と正統保守の真の意味>を探るため、どうしても避けられないのは、日本右翼の源流とされる旧福岡藩(黒田藩)士が中心となり1881年(明治14)に結成された、アジア主義を抱く政治団体「玄洋社」の問題である。戦後、彼らがGHQによって「日本の国家主義と帝国主義者のなかで最も気違いじみた一派」と見なされ解散を命令されたこと、そして彼らが戦前〜戦中期においては、<軍事ファッショ政権と化した日本政府>に取り込まれた挙句、内外で暗躍する政府工作員の真相を秘した過激テロ極右集団へと堕落してしまったのは確かである。


およそ「日清戦争」以降の玄洋社は、軍事政権化した日本政府の論理に取り込まれつつ「過激テロ極右集団」として、逆に軍部・官僚・財閥および政界へ次第に大きな影響力を及ぼすようになり日清戦争〜日露戦争第一次世界大戦〜太平洋戦争で数多の情報収集や裏工作へ関与する一方で、大アジア主義を掲げる彼らは中国の孫文、李氏朝鮮の金玉均(キム・オッキュン/李朝時代後期の開明派として知られる政治家)をはじめ欧米諸国の植民地下にあるイスラム指導者らアジア各国の独立運動家を強力に支援するという、自己矛盾的な鵺(ヌエ)の如き存在と化して行った。


しかし、やはり自由民権運動の一結社として出発した創始期における「玄洋社」のイデオロギーを少し腑分けしてみると、そこには軍国主義へ急傾斜した日本政府の詭弁論に絡め捕られてしまうより前の、つまり彼らの<行動が激しく混乱し始める時期より前の時代における非常にユニークで優れた「先進的理念」が潜んでいたこと>に気づかされる。しかも、それは近未来の日本にとっても十分に参考となる重要な発想であったと考えられる。


つまり、<玄洋社が掲げたアジア主義>には「欧米諸国がアジア諸国に対し不平等条約を押し付けて植民地支配を拡張するのは断じて許すべきでなく、その欧米列強の横暴な帝国主義に対抗するためアジア諸国は手を結ばなければならない。そのため、先ず中国や朝鮮国内の封建的旧体制(アンシャンレジーム)を打倒すべきであり、“日本・中国・朝鮮は互いに“国民主権ナショナリズム”をベースとする新たな民主主義体制を打ち立てるため連帯すべきである“という基本的な考え方」があったのだ。つまり、彼らは<紛れもなく、その意味でフランス革命型の「愛国自由民権運動」のイデオロギー>から出発していたのである(玄洋社“国民主権ナショナリズム”の顛末については、中島岳志著『アジア主義、その先の近代へ』―潮出版社―を参照乞う)。


3 田中智学「八紘一宇」は、安倍「日本会議だらけ」内閣(追憶のカルト)の中枢に潜む平泉澄「皇国史観(聖戦玉砕このみいくさ)」を補完するもう一本の狂信の柱


ところで、田中智学(1861 -1939)は明治中期以降の日蓮主義運動を指導した僧侶・宗教家であり、大正〜昭和期に「国柱会」(智学が創設した法華(日蓮)宗系在家仏教団体)の指導者となった人物であるが、その思想の最大の特徴は「国体」(万世一系の祖・天照大神の子孫たる天皇中心の政体/平田篤胤『顕幽論(幽顕思想)』、本居宣長『皇国史観(天皇現人神論)』、水戸学(尊皇攘夷思想の源流の一つ)などで思想が深められた)と「仏法(日蓮主義運動)」の“狂信的”な結合にある。


その「“狂信的”な結合」が意味するのは、例えば<天皇を古代インドで理想的な王を指す概念である転輪聖王(てんりんじょうおう/王に必須の全ての能力を有し正義に因って統治する存在)と同一視しており、天皇はまた法華経に登場する四菩薩(衆生に最も因縁が深い観音・弥勒・普賢・文殊)の現れである「賢王」でもあり、天皇は他派と邪神の『折伏』によって地上の凡ゆる「愚王」どもを降伏させ現世を統一する世界最終戦争の入り口に立つ存在だ>と考えるような点である。


田中智学にとり日蓮の教えは「国体観念」そのものとなり、その『折伏』が国家規模で拡大し政治権力の中枢と癒合し完全一致したときにこそ、「王仏冥合/おうぶつみょうごう」と「法国冥合」が成立することになる。つまり、これは「妙法」(正しくも不可思議な仏の教え)と「国家」が一体化する「政教一致」(一種の神仏習合的なカルト“国家神道観念(准国歌『海行かば』を愛唱するセカイ系決断主義/皇国史観で聖戦(セカイ最終戦争)を戦う日本は世界の救世主だという異常観念)”の完成)ということになる。

【参考動画/戦前〜戦中期に准国歌とされた『海行かば』/現在は、安倍政権を強固に支える「日本会議、創生日本」等(正統保守ならぬカルト偽装極右一派の殿堂!)の御用達“愛唱歌”】但し、“海行かば”を作曲した信時潔にも、詞の作者・大伴家持にも罪はない!(参照⇒http://urx.nu/byac )

D


・・・


従って、「賢王」である天皇は、日蓮仏法に因る「世界統一の天業」に着手し、「愚王」どもを倒す戦いに挑むことになり、天皇の戦争行為は世界への侵略ではなく、世界統一への道義的プロセスだということになる。そして、これによって「日本的宇宙統一」が成就され、「八紘一宇」の世界が現前することになる。この「八紘一宇」(世界を一つの家にする皇化運動を意味する)こそ、『日本書紀』の神武天皇のくだりに出てくる「八紘(あめのした)を掩(おほ)いて宇(いえ)と為(せ)む」を元に田中智学が明治36年(1903)に造語したものである。


やがて、「日中戦争(1937〜1945/支那事変(〜1941))」の勃発を受けて第一次近衛内閣が開始した「国民精神総動員運動(昭和12年9月〜)」において、「八紘一宇」は大日本帝国の公式イデオロギー&国民教育・教化方針として公認された。かくして、「八紘一宇」は石原莞爾(1889- 1949/陸軍軍人、最終階級は陸軍中将/関東軍作戦参謀として板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、田中智学の『国柱会』に入会している!)らによって、我が日本民族がアジアへ侵攻する大義とされることになった。


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大日本帝国の公式イデオロギーとして公認された田中智学の「八紘一宇」なる狂信イデオロギーは、平泉澄による「聖戦玉砕(このみいくさ)原理主義」型の皇国史観と相俟って、戦前〜戦中期の日本国民をカルト狂信的な戦争遂行へと扇動し駆り立てたことになる。しかも、これら二つのカルト狂信イデオロギーは、戦後になっても自民党、およびその背後霊たる日本会議、創生日本、国家基本問題研究所、神道政治連盟国議員懇談会ら“詐称”保守団体(美しい“追憶のカルト”の正体を偽装する極右)のなかに注ぎ込まれ、現在に至っている。なお、平泉澄による「聖戦玉砕(このみいくさ)原理主義」型の皇国史観(田中智学の『八紘一宇』の狂信的イデオロギーで補強された)が、これら“詐称”保守団体のなかに注ぎ込まれた経緯でキモとなるくだりについては「既述のブログ記事◆」を参照乞う。


ともかくも、「大日本帝国憲法の“政教分離の原則(信教の自由)”」は明治政府の強権的な憲法解釈によって“国家神道”と矛盾しないとされたこと、および文部省『国体の本義(昭和12)』による昭和天皇の現人神への格上げ(祀り上げ)こそが、今に至る日本の全ての錯誤の元凶であり、それを更にダメ押ししたのが<開戦直後に文部省が作った神憑り戦争への補強デマゴーグ>たる『日本世界観と世界新秩序の建設(文部省、昭和17)』(参照→*)であった。・・・*古代史研究が進み皇国史観の神代と客観的歴史の間に境界線が生まれたことに危機感を抱いた超然軍事政権はこれに反撃するため“謹製屁理屈”を発表。ここでムリくりに神代に始まる「皇統一系万世不易」が国策理念として確定され、これが爾後の「国民玉砕型“聖戦テロ戦争”」の絶対不可侵の指針とされた。http://urx.nu/bxkJ


そして、終戦後におけるその最悪の終着点が<“平和憲法を破棄して、美しい自爆テロ戦争(このみいくさ)ができる戦前の日本を取り戻すべし!”との驚くべき平泉澄の主張>であり、その<狂信カルト>の囁きが、既述のとおり、1954年(昭和32)6月30日に首相(吉田茂)官邸で行われた「自民党憲法調査会第二分科会」において自民党国会議員らの心の奥深くに流し込まれた。そして、今やこの恐るべき呪いのコトバが安倍晋三首相の脳髄に大きな影響を与えていることになる。


4 「情念統制理念と論理構成理念、これら二つの理念の相互補完性」についての自覚に欠ける<安倍「日本会議だらけ」内閣>の危険性/内閣“怪”造しても何も変わらず、むしろ益々“妖怪”化!(苦w)


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■案の定だが、ヘイトとデモの見分けがつかぬ(or意図的か?)アナクロ安倍「日本会議だらけ」内閣は日本の恥であり、かつ世界の大笑いモノ!⇒自民党、国会デモの規制を検討「仕事にならない」 ヘイトスピーチPTが議論830huf.p http://urx.nu/bslp

・・・【言論危機】自民党ヘイトスピーチPTが、ヘイトスピーチと同列にして国会周辺のデモ規制を検討するという。高市早苗政調会長は「仕事にならない」という。民主主義の意味が理解できないこの人たちの知的レベルを国民公開でテストしてほしい。金子勝 @masaru_kanekovia Twitter Web Client2014.08.29 08:24只のオッサン他、502人がリツイートhttp://urx.nu/bsrI 

・・・【「情念統制理念と論理構成理念、これら二つの理念の相互補完性」についての自覚に欠ける<安倍「日本会議だらけ」内閣>の危険性(内閣“怪”造しても何も変わらず、むしろ益々“妖怪&カルト”化!(苦w)(稲田女史の迫力ある画像はウイキより転載)】閣僚予定ではないらしいが? バリバリ日本会議の稲田朋美氏は<平田篤胤、靖国顕幽論(国民=戦争ロボット論)の国家護持と首相靖国参拝の阻止を謀る忘恩の輩に道徳と教育を語る資格ナシ!>を主張する超穴クロ主義者で、<靖国は不戦の誓いの場所でなく、いったん祖国に戦いあれば後に続くと国民が誓う所(徴兵組織の一環)だ!>が信条 ⇒ 一方、トップに従う石破氏(見かけ倒しのへなチョコか?)は地方相軸に調整、政調会長に稲田朋美氏有力830毎日、http://urx.nu/bsxo


4−1 正統保守の条件は「情念統制理念と論理構成理念の二元性」の調和に永遠に取り組む謙虚さ


・・・安倍「日本会議だらけ」内閣は「靖国顕幽論(悪しき情念統制)」で「リアル論理統制」の完全支配を謀る追憶のカルト・・・


(いまこそ再認識すべき資本主義における“信用”の問題/経済における“良き情念統制理念”を最重視する経済学者A・O・ハーシュマンの指摘)


周知のとおり、未だに共産主義を掲げる中国・ベトナム・北朝鮮などでも“市場経済”を介する以外に拡大する一方の人間の欲望の受け皿となり得るものが存在しないのは明らかであるから、今や資本主義の限界の問題は旧来の「ウヨVSサヨ(右派VS左派)のイデオロギー対立」の次元では歯が立たぬものとなっている。また、限界効用の微分的増加についても経済理論上は資本主義と共産主義が合わせ鏡の如き両面的描像であることは証明されているので(参照 ⇒ ポーランドが生んだ新古典主義の大経済学者オスカル・ランゲの業績、http://urx.nu/b8j3 )、問題は配分問題(付加価値分配/資本⇔労働間の所得弾性値の奪い合いをどう調整するか?)に絞られている。


従って、資本主義経済の活力源である市場について“そもそもの基本的動力源”として想定されてきたのは、主に以下の3点であるが、今や最も重視すべきは(2)の「A・O・ハーシュマンが指摘する、経済における『信用』の取戻しによる資本主義経済の軌道修正(配分問題の解決)」という観点であることは論を待たないであろう。


(1)マックス・ヴェーバーは著書『プロテスタンティズムの倫理(予定説を前提とする)と資本主義の精神』で、彼らのその倫理観こそがプチ・ブルジョア(中間層)中心の市民社会の推進力であると見た。


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(2)市民社会は、「マグナ・カルタ権利の章典ピューリタン革命〜フランス革命〜米国独立革命」の歴史プロセスの観察のなかでこそ、そして<契約(信用)に基づく「資本主義(市場主義)経済」の発展にこそ「絶対王権(現代で言えば超然化権力)の神憑り暴走」を抑制する効果が期待できること>を学んだとして、経済学者A・O・ハーシュマンが再認識した「経済における信用(市民層が自律意識を高める基盤)」の問題。

・・・このハーシュマン(参照⇒http://urx.nu/bxje )の指摘は<アダム・スミスケインズの原点/倫理観と公平分配(超格差拡大の是正)こそが経済成長(一般国民層の信用に基づく消費活動の活性化)を促す要だとする意味での原点(“過剰金融市場原理主義の弊害”の克服にも繋がる)>の問題にも重なる。


(3)アングロサクソン型経済(金融市場原理主義経済)発展におけるCPU(中央演算装置)型起動&安全調整エンジンとしての中央銀行の発明(役割)。

・・・・・・ナポレオン戦争時の英国の戦費調達のため工夫されたロスチャイルド・モデル(債権融資モデル)をひな形に中央銀行が誕生した。この流れは金融市場原理主義と金融工学を介して「企業信用リスク」を取引するクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の膨張からリーマン・ショックへのプロセスを歩んだ。


・・・


従って、「混迷と危機が深まる一方のフクシマを無視したままでの“世界一絶対安全な原発”の宣言(新たな原発安全神話)」、原発を巡る「グリーンパラドクス(一国の脱・縮原発が・原発系企業の海外移転を促進して周辺国などの原発推進が逆に活発化すること)」と「国際核処分場のパラドクス(モンゴル闇核処分場計画などへの期待だけで原発利用が活発化すること)」なる原子力推進に関わる決定的二大矛盾の放置、あるいはフクシマ無視のままでの原発再稼働と原発輸出の促進、中韓との対立に関わる「外交努力の放棄」と「軍神顕幽論カルト靖国」(美しい追憶のカルト)を大義とする軍需経済(潜在核武装たる原子力平和利用、輸出三原則のなし崩し緩和など)への急傾斜、果てはむしろ「超格差拡大トレンド」を促進する法人税減税・対中小企業外形標準課税政策など、余りにも無神経に一般国民層の「不安」を煽る政策へ前のめる<安倍「日本会議」ばかり内閣>の暴走ぶりは、今や常軌を逸しているという他はない。


エピローグ)括目すべき“「情念」統制理念、「論理」構成理念の相互補完性”と“国民主権ナショナリズム”の意義


・・・田中智学「八紘一宇」の“悪しき愛国”情念の現実化、石原莞爾「関東軍」の暴走に一気に押し流された日本・・・


(“歴史の教訓などあずかり知らぬが、ありのままの今の日本が好きで何が悪いか?オレは愛国派だ!との絶叫”のレベルに止まれば“悪しき愛国”偽装極右派のカモとなるだけ!)


その率直な気持ちは分かるものの<“歴史の教訓などは知らぬが有りの儘の日本が好きで何が悪いか!”と叫ぶ“ネト・ウヨ”層(極く少数派と思われ、むしろ5〜6割の多数派国民は何事につけ様子見するウロ・キョロ層であるのが現実!)の“曖昧な事大主義の情念”に流されるのは危うい。それは、ほんの少し現代史を顧みるだけでも<日本の自由民権運動はフランス革命に近い“国民主権ナショナリズム意識”の目覚めであったという歴史があること、現代に繋がる日本“右翼″の源流と見るべき創始期「玄洋社」の活動には、同じく“国民主権ナショナリズム”を前提とする非常に寛容で、多元文化主義的で、しかも壮大なアジア共存の発想があったこと、あるいは戦後における極右思想家・三井甲之には正統保守化(象徴天皇制としての歴史・文化的皇国史観)への転向の兆しが確実に見られたこと(この論点の委細は既述ブログ記事◆を参照乞う)など、一般の常識を大きく覆すような日本の正統保守が芽生えた歴史の片鱗が次々と発見されるからだ。


そして、<そのような意味で歴史に埋もれ完全に見過ごされてきた“日本国民自身による国民主権ナショナリズム意識”の目覚め(近・現代史の中に紛れもなく日本における正統保守の可能性が存在した!)という事実>が、今後も更にこのまま無視され、只々、徒に放置されて行くとするならば、近未来の日本が恐るべき方向へ流されて行く可能性が見えてくる。


なぜなら、戦前〜戦後におけるこれら“国民主権ナショナリズム意識”の“無視”という悲惨な現実の傍らで、着実に構築されてきた<田中智学「八紘一宇」と平泉澄「皇国史観(聖戦玉砕このみいくさ)」の融合がもたす“狂信&カルト化した異様な情念”/「日本国民の戦争ロボット化」を目指す偽装極右派と軍事権力が「太平洋戦争」なる非人道的玉砕戦へ全ての日本国民を連れ込む口実として使った元凶ジャーゴン(jargon/意味不明ながらも危険な呪文)!>が、現在の自民党(安倍内閣)とその強靭な背後霊たる日本会議、創生日本、国家基本問題研究所、神社本庁、神道政治連盟国会議員懇談会らの中に注入されており、それが今や煮えたぎっているからだ。


ともかくも、わが国には、戦前〜戦中〜戦後〜現在にわたる日本の近現代史の一端を垣間見るだけでも、本来なら日本政治の主柱として育成されるべき「正統保守」の萌芽が次々と潰されるか、あるいは自然消滅の歴史を繰り返す一方で、偽装極右派(靖国顕幽論カルトの正体を隠蔽しつつ正統保守を騙る既得権益(原子村とも重なる1%利権派)の死守を謀る一派)の奇怪な柱がふてぶてしく育ってきたというおぞましい現実があるのだ。


しかも、もし我われ一般国民の大部分を占める“ウロ・キョロ層(国政選挙での常在5〜6割棄権層に重なる)”が何時まで経っても、このような“事実”に気づこうとせず、あるいは「正統保守(国民主権ナショナリズム)の柱を育てる意義(重要性)」について無頓着であるならば、最悪の場合、我われ日本を含む東アジア一帯もウクライナパレスチナ・シリア・イラクなどの悲惨な地獄絵図と決して無縁ではないという恐るべき現実を突き付けられるだろう。つまり、我われ日本国民は余りにも自身の直近の歴史(近現代史)を知らな過ぎるのだ。


(国民主権ナショナリズムを深く知る手掛かりは“京都学派の『世界史の哲学/歴史・自然・文化地理(東アジア交流史の発想)』にある)


そこで重要なのが、近現代史の再学習(特に、幕末〜明治維新〜大正デモクラシー期〜軍国主義化へのプロセス(戦前・戦中)〜戦後〜現代)に加えて、東アジアについての「歴史・自然・文化地理」という概念を意識することだ。残念ながら、“太平洋戦争の論理”に飲み込まれたため、その当時での成果は得られなかったものの、1940年代の前半に活躍した京都学派(西田幾多郎と田辺元に師事した哲学者が形成した学派)の哲学者たちが提唱した『世界史の哲学』の中にそのヒントがある(参照⇒『京都学派とは何だったのか?』http://urx.nu/beI2 )。


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委細は別途の機会に譲らざるを得ないが、1942年に京都学派の高山岩男(1905 -1993/西田幾多郎より俊秀と評された山形出身の哲学者/非常にユニークな発想の歴史観を提示したが、残念ながら戦時中は戦争の論理に回収・利用されてしまった)が出版した『世界史の哲学』の中で強調した点が参考になるだろう。以下に、その主張のポイントを纏めておく。


『・・・世界や世界史の認識は近代ヨーロッパの拡張によって現実性を持つようになったが、それはあくまでヨーロッパ中心史観(欧米中心史観)で構成されたものなので、真の意味での世界の現前ではない。ヨーロッパ的世界(欧米的世界)はあくまでも特殊的世界の一つなので、それを超える普遍的世界の世界史の認識が重要だ。そこで、広義の地理の概念が重要となる。歴史は常に地理との行為的総合において成立するものなので、我われを取り巻く自然は、長年の人間の営みによって人間化された歴史的自然であり、文化的自然である。そして、歴史の地理性と地理の歴史性の相互媒介によって世界史が発生する。』


つまり、このような「歴史・自然・文化地理=本格的な東アジア共存・交流史」的な考え方をベースとしつつ、「良き情念」統制理念(例えば、日本の近代史の中で何度も芽生えては消えて行った(or消されてきた?)国民主権ナショナリズム意識、あるいは日本国憲法の平和主義と象徴天皇制)と「リアル論理」構成理念(例えば、脱原発か、縮原発か、あるいはアダム・スミスとケインズの原点への回帰/倫理観と公平分配こそが経済成長(一般国民層の信用に基づく消費活動の活発化)を促す要だとする意味での原点の見直し=“過剰金融市場原理主義の弊害”の超克)の相互補完的な役割分担、あるいは国民主権ナショナリズムの重要性についての覚醒、言い換えれば政治・経済に付き纏う『超然権力化なる傲慢』の抑制を可能とする、いわば多元文化の共存と連帯を重視する知恵の再確認こそが肝要ではないかと思われる。


そして、これら新しい視点を組み合わせた斬新な発想で外交と政治・経済政策を立て直す努力を尽くすことが、実は本気で直近の戦争経験を反省するということであり、そこで得られるユニークな知見と新たな気づきを活かしてヘイト・スピーチなどの苦渋の壁を乗り越えてこそ、いよいよ日本が本格的に東アジア全体の平和と経済発展に貢献できる方向性が見えてくるのではないか?


(安倍“追憶のカルト”政権の如き“良き情念統制理念とリアル論理構成理念の相互補完性”の自覚に欠ける“偽装極右的な傲慢さ”は『超然(超法規的)権力化』なる『人間原理』の罠を呼び寄せる)


ところで、八紘一宇(田中智学が創設した法華(日蓮)宗系在家仏教団体・国柱会によるイデオローグ)と、これまた唯我独尊的な皇国史観(聖戦玉砕このみいくさテロリズム/平泉澄)を融合させつつ引き継いだ石原莞爾(満州事変〜日中戦争〜太平洋戦争〜敗戦に至る狂信プロセスの火付人/委細、後述)らは、自らの煩悩を特に智学の日蓮主義によって乗り越えて、更に特異な「世界統一ヴィジョン」(人間原理(宇宙論)に酷似する特異な観念世界)を膨らませることになる。


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<注記>人間原理(宇宙論)

・・・「それを観測できる人間がいるから宇宙は存在する」という人間存在を前提とする宇宙論(添付図では右側)。これは、端的に言ってしまえば「人間が存在しなければ宇宙は存在しない」という非常に傲慢な「絶対的人間中心主義」という「逆説の罠」(一種のカルト観念)に嵌ったことを意味する(この図は、http://urx.nu/bodz より転載)。

・・・それは、近代以降の自然科学の基盤が「観測と実証」を媒介とする「要素還元主義」の積み重ねで進化してきたというプロセスに“過剰に逆行する”ことになるからだ。つまり、神ならぬ人間にとって大事なのは、徒に傲慢化するのではなく「人間原理」と「宇宙原理」のバランスを維持する謙虚さであるはずだ。

・・・今や、ネット上で公開されている塩基配列ダウンロードを基本とし新たなDNA配列を人工的に合成(創造)して「新種のウイルスや微生物」(新種の生命体)を作り、それをビジネス目的で量産するのは究極の科学技術(要素還元主義の極み)の大きな成果だと高く評価されつつあるようだ(参照、下記の関連情報◆)。

・・・しかし、もしその時にすべからく“情念”の大きな影響を受けざるを得ない人間(しかも“情念”がなく“論理計算”だけの存在であるなら、それが人間とは言えない!)の「情念に因る恣意性」(例えば、安倍『日本会議だらけ』靖国顕幽論内閣の如く“追憶のカルト”へ過剰偏執して超然権力を弄ぶ情念)に対する歯止めが効かなければ、その人間(観測者、科学技術者、その成果を利用する政治権力者、経済人、およびこれから人間と世界について様々なことを学ぶ学生・青少年ら)は、一瞬にして<非常に傲慢な「絶対的人間中心主義」という“人間原理”の“アベコベ世界”の落とし穴にスッポリ嵌る>ことになるだろう。


(関連情報)


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◆合成生物学(構成生物学)は、<情念統制(倫理)的視点>の導入による人間原理(人間絶対中心主義のカルト観念*)なる「逆説の罠」の回避が喫緊の課題!⇒(ザ・テクノロジー、バイオ編:下)最強の糸を編み出す微生物、合成生物を競う時代!生態系破壊やテロの懸念も 820朝日http://urx.nu/bgfG


(田中智学「八紘一宇」と軍事力が融合し暴走した愛国カルト、石原莞爾の「関東軍」に一気に押し流された日本/天皇も取り消し不能となった“熱河侵攻作戦”(石原莞爾『最終戦争論』の現実的“引き金”になったと見るべき戦争)を絶対的に支持した国民感情の暴発!)


そのような意味での傲慢化の結果、日本の戦前期に引き起こされたのが<世界最終戦争/参照、注記*>の初期条件と位置付けられた「柳条湖事件(1931)」に端を発する『満州事変(1931〜1933)』であり、それこそが、<セカイ系決断主義(日本を世界救世主と見立てる)のイデオローグたる皇国史観で聖戦・玉砕戦(このみいくさ/神風テロリズム)を戦う日本は“世界の救世主”だという異常観念>の完成ということであった。


<注記>*石原莞爾『最終戦争論』

・・・1942年に石原莞爾が書いた『最終戦聾論』では、“悠久の昔から東方道義の道統を伝持あそばされた天皇が、間もなく東亜連盟の盟主、次いで世界の天皇と仰がれることになるのは、我われの固い信仰であります”と述べ、更に“東洋の王道”と“西洋の覇道”の最終戦争に勝利しなければならない!と説いている。


・・・


この「民族自決」を口実とする満州事変の首謀者・石原莞爾は、満州国建設について「王道楽土」と「五族共和」の理想郷とする『人間(厳密に言えば、日本人)原理的な一種の非現実的カルトの世界』を夢想しつつ、柳条湖事件を始めとする陰謀を仕掛けたことになる。つまり、田中智学と平泉澄の特異イデオローグを観念的に融合させつつ引き継いだ石原莞爾の<「八紘一宇」なる世界統一ヴィジョン/悪しき「情念」型の理念>は、関東軍という具体的な軍事力と結びつきリアル世界で実行されたことになる。


そして、ここで観察されるのは、まさに<「情念」統制理念と「論理」構成理念の相互補完的役割>を重視する、現実的な人間世界での調和・協心(コンコーダンス/concordance)についての自覚(人間の傲慢化を回避する知恵)の決定的な不在ということであり、同時に<国民主権(国民主権ナショナリズム)意識>の決定的な欠落ということである。


因みに、「熱河作戦」(1932(昭和7)年3月、関東軍が満州国の安定化を理由に北京北部(万里長城の北)に接する熱河地方(現在の河北省、遼寧省及び内モンゴル自治区の交差地域に相当)へ侵攻した事件)の危険性に気づいた昭和天皇が、いったん裁可した作戦承認の取り消しを指示したが、関東軍作戦成功を誉めそやす<マスメディアの煽り、激烈な扇動>もあって、いったん舞い上がった国民の熱狂(1万の軍勢で40万の中国軍を蹴散らした関東軍への篤い支持)を押し止めることは不可能だった。


その結果が「国際連盟脱退/全権・松岡洋介」(1933(昭和8)年3月27日)⇒「日中戦争(盧溝橋事件/1937.7.7〜)」⇒「大政翼賛会発足(1940.10〜)」⇒「太平洋戦争・開戦」(1941年12月8日)の流れとなった。


(関連情報)


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■『権力側におもねながら国民を睥睨する、現代マスメディアの煽りの事例』韓国・挺対協の影響で“女子挺身隊”を呼称とした植村記事は誤りだが“公認慰安婦の存在”(軍関与資料/防衛庁図書館、陸支密受第二一九七号 )は消せない。それより朝日は、817政府広報/原発アニミズム論掲載の罪の方が重い!*⇒慰安婦で朝日は何を検証すべきだったか/木村幹神戸大教授 827 HuffP. via Twi http://urx.nu/bmgO 

・・・*同時に巨額の原子村&政府広報(添付画像、二枚目)を載せる朝日もアベ様へのタカリ・メディア!w⇒東電が東北電と共に六カ所に5年連続10億円寄付。福島賠償支払や除染費用を遅らせた電力料値上の批判も無視。利用者が電気代で負担!六カ所はタカリ村化!電力改革急げ!817@金子勝氏via Twi只のオッサンがリツイートhttp://urx.nu/bmh7

・・・おまけに、朝日は“アベ様との密着度も高く?“何でも幸福にする党”(w)とかのカルト宗教政党・出版物(w)”の全面広告(20140828)も、という具合で、このところ“金目”のお仕事に暇がない!(画像、三枚目)


(今や後進国とすら呼べぬほど劣化した日本政治の現況、児戯に類する安倍“日本会議だらけ”内閣の“世界・人間・民主主義”についての余りにも異常なカルト的認識は全世界に対する赤っ恥!!)


そもそも、所詮は永遠に不完全な存在である“神ならぬ身の人間”が、神の存在にさえ伍(匹敵)するパーフェクトな社会(セカイ統一的な政治経済体制/この異様な考え方は“人間原理”の“日本人原理”ヴァージョンと見ることが可能である、つまりそれは“日本人が存在しなければ地球も宇宙も存在しない”という特異な観念であるw)を創造することが可能であり、それによって最終的な人間の理想世界をリアル化(現前)できるという考え方は、“宇宙および地球の自然環境の意味を完璧に無視した人間(これがホンマの日本人なのか?)”の傲慢不遜な態度であり、高慢化の極みである。


世界が多元的であること(殆ど予測不能で、しかも不透明な多元性に満ちているの)は、それこそ人間の歴史と現実社会の絶えざる矛盾の連続と因果(時間)の流れをリアルに凝視すれば理解できるはずであり、そのような“ごく当たり前”の認識ができないとすれば、それは歴史認識も生活経験も足りない児戯に類することになる。


しかしながら、<その児戯に類すること(カルト的夢想である『日本人原理』)>と、<永遠に実現が不可能であるとはいえ良き理想としての「情念」統制理念(例えば、平和主義や脱原発の理念)を永遠に掲げつつその実現のために“あるべき「論理」構成理念”の実現に必死で取り組み続けるという多元的現実世界の中で人道と人間倫理由来の調和的真理(コンコーダンス)を追究し続けること>とが意味するのは全く別次元の問題である。


因みに、いま安倍「日本会議だらけ」内閣は、必死になって「日本会議ご指南の方向性に沿った教育改革」に取り組み中であるが、本居宣長の誤解に由来する天皇現人神論も、軍神靖国英霊信仰の核心たる平田篤胤の顕幽論(幽顕思想)も、皇国史観(平泉澄)も、八紘一宇(田中智学)も、あるいは神風「玉砕テロ戦争(このみいくさ)論」も、むしろ学校の歴史教育の中で反面教師的な批判対象の教材(日本近現代史の負のエピソード)として大いに青少年らへ教えるべきであり、それら「時の政治権力が、日本の近現代における児戯に類する『人間原理』の罠に嵌った大失敗の歴史」について学ばせることで、国民一般の批判力を大いに高めるべきである(苦w)。


それに止まらず、軍国主義が佳境に入りつつある時代に「日本とはどのような国か」について、その新たな「国体の条件」を政府が責任を持って明らかに示すと豪語する一方で、実際には、上から目線の強権的スタンスで、「失権しつつあった天皇現人神論」の回復を目的とする屁理屈『国体の本義(1937/昭和12)』を大急ぎで文部省が編纂・刊行したこと(しかも、そのやり口は“安倍政権”のムリくり憲法解釈閣議決定による集団的自衛権行使決定”のプロセスに酷似していること)などを、大いに学校教育(近現代史)の中で教えるべきである。しかし、その安倍「日本会議だらけ」内閣の失敗を再び文部省監修式の屁理屈でムリくりに正統化しようとすれば世界中から危険視され、非難の的となり、間違いなく世界中から嘲笑されるだけのことであろう。


然るに、我が日本では“皇国史観こそが古代から続く一貫した国民意識である”とする「政教一致(靖国顕幽論)型のアナクロ愛国ナショナリズム」の定義に<安倍「日本会議だらけ、追憶のカルト」政権>が偏執的にしがみつき、それを必死で国民へ再び押し付けようとする、つまり「国民主権を否定」しつつ「戦前〜戦中期型の“このみいくさ(国民玉砕テロリズム)“型愛国ナショナリズム」を国民一般へ強制しようと謀るという真に情けない政治状況に嵌っている(関連参照⇒“基本的人権”を削除する自民党改憲草案の問題点 http://urx.nu/6Y8z http://urx.nu/aftR )。

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