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2017-05-18 盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵

toxandoria2017-05-18

盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている


(Cover Images/江戸期における都会的シック(粋)&トビウオ(水平に身を置く人々)が跳ねたワンショット、ほか/池上英子の所論による)


<注0>(1)盲点に相当するRAS作用の委細は↓(3−3)を参照。(2)安倍晋三・日本会議神社本庁ら「尊皇テロ愛国妄想(偽装極右)派」らはクオラムセンス(民主感覚)欠損病の囚人!/その意味は、例えば『尊皇テロ愛国妄想 !悪の政治編集に嵌った安倍政権ジレンマ/共謀罪は暴走権力側が標的遺伝子(比喩的に見れば一般国民の内心)を作為で改変し<事前の復讐>を果たす「倒錯した一種のゲノム(内心)編集法制(自国民向け先制攻撃ツール)」であり、国力劣化を招くだけでテロ対策には無効の愚策!』に発現している!http://ur0.link/Dy3A


<注1>『美と礼節の絆』(NTT)の著者、池上英子のプロフィールはコチラ⇒EIKO IKEGAMI (PhD、Harvard Univ.) is Professor of Sociology at The New School for Social Research. http://ur0.link/DiiL


雲谷等顔「花見鷹狩図屏風」(桃山時代の風流/江戸期『風流』のルーツ)

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・・・雲谷等顔は戦国時代末期〜江戸初期にかけ活躍した画家で幕末まで続く雲谷派の祖。桜の季節になると中世の日本人は花笠をつけ笛・太鼓で“やすらいはなや”と囃し花の下で踊る慣わしがあった。それは「やすらい花」と呼ばれ、今も多くの神社などに残照が遺る(出典:『美と礼節の絆』)。これが「風流」群舞の美であり、現代の安倍晋三・式『オレ様の美しいニッポンの花見』とは余りにも異なる麗しい姿だ。/当画像は http://urx2.nu/DlPQ より)


―江戸の都会的シック(粋)―


歌川豊国『文読む女』

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               喜多川歌麿『婦女人相十品 文読む女』

               f:id:toxandoria:20170518035234j:image:w350

…左は、ロサンゼルス.カウンティ美術館所蔵、Joe & Etsuko Price Collection(池上英子『美と礼節の絆』が表紙で採用)http://pricecollection.blogspot.jp/

…右は、日本切手の図案として採用された喜多川歌麿の作品。http://ur0.pw/DhO4


―ワンショット、江戸期のトビウオ(自覚して水平に身を置く人々)が跳ねた瞬間―


千住酒合戦(千住酒合戦図高田與清『擁斎漫筆』よりhttp://urx2.nu/DlQb

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・・・これは文化12年(1815/高田屋嘉平が国後島でロシア軍船に拿捕された年)に、江戸のはずれ千住で催された酒飲競技会を描いた絵である。この企画の意図は単純なもので酒飲みの技量を競い只酒を大量に振舞うこと。主催者は「鯉隠居」を自称する現地の俳人(宿屋店主)で、参加者は身分の別を問われず、例えば酒井抱一、谷文晁ら文人ら、あるいは俳人、画家、町人、武士、農民、女性らも参加していた。これは当時の江戸に身分差を越えた経済・社会と文化・教養・趣味の両ネットワークが交差する「水平空間」が存在したことを意味する(出典:池上英子『美と礼節の絆』)。


プロローグ)現行「象徴天皇制」(日本国憲法/歴史を真正面から見据える正統保守)の愛国の心(広義のエトノス郷土愛)では何が不都合なのか?


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・・・神社本庁、日本会議、安倍晋三らは非民主主義的な「戦前的価値観」(排外的“クオラムセンシング欠落病”/戦前型“尊皇愛国テロリズムイデオローグ”)の取り戻しのため明治憲法型への<改憲>を執拗に画策するが、現行「象徴天皇制」(日本国憲法/正統保守)で何が不十分なのか?・・・

・・・(追記)これ↑は6年前の写真だが、神社本庁の肝入りで約6万枚も全国神社で掲示するようにと配られた「日本人でよかった!」ポスターのモデル(左端の画像)が、実は中国人の女性だった、との落ちがついた!w いっそのこと「アジア人でよかった!」とするべきだったのでは?w


<関連資料/↓▲1、2>

▲1 430NHKスペシャル『憲法70年 “平和国家”はこうして生まれた』(日本国憲法はGHQの押し付け、を真っ向

否定するNHKの検証番組)が、いま静かな話題!20170502リテラ http://ur0.link/DiiK

▲2 憲法70年/この歴史への自負を失うまい20170502朝日新聞・社説http://ur0.link/DiiI

・・・安倍晋三と自民党の選挙スローガン「日本を取り戻す」は、戦後日本70年(象徴天皇制の憲法、国民主権、人権尊重、平和主義)を全否定する特異なグロテスク穴クロ歴史観に基く危険な意思。森友の「教育勅語スキャンダルが何よりの証拠。


<補足>その安倍晋三・神社本庁・日本会議・靖国神社らが囚われている、異常な意思の病理は『江戸プロトモダニティー』欠損病!『江戸プロトモダニティー』とは、江戸幕府パターナリズムの支配下にはあったものの“近代〜現代にも繋がる日本オリジナル民主主義の原型と見なすことができる、古来の伝統日本文化を高く評価しつつ身分差を超えて水平的・内生的・自律的に自ら積極的にその奥義を究めようとする、市場経済ネットワークを伴う一種の知的プラグマティズム活動が江戸期の民衆社会を中心に存在したこと”を意味する(出典/↓▲3、4)。


▲3 池上英子著『美と礼節の絆/日本における国際文化の政治的起源』(NTT出版、2005)

▲4 ピーター・ノスコ他編、池上英子他著『江戸のなかの日本、日本のなかの江戸』(柏書房、2016)


<注2>定足数感知(クオラムセンシング)とは?


R.デサール&S.L.パーキンズ著『マイクロバイオームの世界』(紀伊國屋書店/2015原著)によると、近年のマイクロバイオーム研究で多くの細菌がクオラムセンシング(定足数感知/quorum sensing)のシステムを進化させてきた。クオラムセンシングは、ある一部の細菌が「正体が知れぬ相手に対し仮の名づけ(ネーミング)を行い、その見立てに応じ自らのシグナル伝達要素(分子)、又は自由誘導因子(オートインデューサー/同種菌が生産するシグナル物質)などの分泌(フェロモン様の物質であるクオルモンらの産生)を調整するシステムのこと。


我われヒトの体内エトノス空間と外界である自然エトノス環境との仕切りにも、これまで考えられてきたほど明確で強靭な壁が築かれている訳ではないことが分かってきた。むしろ自己アイデンティティーの保全は強靭・強固な壁よりも<強かなしなやかさ>で保全されていることになる(エトノスの定義はコチラ⇒http://urx2.nu/DlSk)。


安倍総理が目指す戦前への回帰なる「尊皇テロ愛国妄想」は、“北”同様の「アジア型クローニー利権政治」/その異常病理が齎す深刻な“国民の内心のネジレ”への対論


1−1 正統保守と偽装極右(安倍首相らが信奉する国家神道&尊皇テロ愛国妄想権力)の混同が多数派層の内心のネジレを増幅し、不要な『改憲』へ日本を連れ込みつつある!


<関連情報/↓▲5>


▲5 首相「9条に自衛隊明記」 改憲2020年施行目標に/「戦い続ける覚悟」「絶好の時」 首相メッセージに賛否

20170503朝日、http://ur0.link/DiiG  http://ur0.link/DiiH 


・・・喫緊の課題、それは日本のアキレス腱、「国家神道」(≒日本会議、神社本庁)マターを超克すること!そして、『国家神道』患者集団、安倍政権へのベスト対抗策は正統保守の意義をあらゆる機会に掲げ直し、それを国民一般(多数派層)が共有すること。・・・


・・・安倍様バンザイ!若者のダントツ支持拡大は“無知&不勉強”による「国家神道」派アベ極右と正統保守の同一視が主因! ⇒ 日経2.24〜26世調で「2021.9マデ安倍首相で行く!」賛成63%が反対28%に大差!18〜39歳の若者層の支持がダントツに大きい!36日経 20170308只のオッサン(脱原発への急転向者) @shinkaikaba http://ur0.pw/Cj28


そのためには戦前を一括りの悪徳(又は誤謬)と見立て、一本調子でバッサリと「国家神道」(皇国史観の核心エセ・イデオローグ)を糾弾し批判する傾向が強かった戦後の歴史学の視座を転換することが先ず肝要。いまこそ真正(正統)保守の意義(民主主義Stage2の入口となり得ること)を再認識し、それを国民一般と共有できるようにするのが『国家神道』患者集団(日本会議 一派)、稀代の一強政権と見なされている安倍政権へのベスト対抗策。


つまり、戦後歴史学の視座というある意味で解像度が著しく劣化したオペラグラス映像の中で以下に示す「二点」の差異を軽視してきたため、我々は特に「(2)の意義(正統保守)の重要性」を見落してしまったのでは?と思われる。


(1)皇統一系と純粋大和民族を頑なまでの基本原理とする誤謬の皇国史観ナショナリズム

・・・片山杜秀・島薗 進/共著「近代天皇論」(集英社新書)によれば、近代国家づくりの精神的エネルギーとして維新政府が担ぎ出した古代律令制における祭政一致のためのミソロジー(神話論理)では、「神としての天皇と臣民ナショナリズム」が表裏一体化であった。また、3章(▲15)で触れるが、古代天皇制は徳治主義から「象徴天皇⇔人民/平等論」の観念であったとする、異論もある!つまり、皇国史観ナショナリズムの元とされる主流古代史の殆どが捏造であった可能性が高い!


(2)同じ皇国史観(国体論)の中に潜んでいた純日本型の「冷静な正統保守思想」創出の可能性(伊勢神宮軍国主義の象徴ではなく、天皇家と伝統日本文化が共有する精神性の象徴と見立てる、象徴天皇制の下での国民主権デモクラシー国家、または国民主権ナショナリズム国家論も存在していた((1)の異論と関連する!


f:id:toxandoria:20170518050103p:image:w400 しかも、そのことが悪循環的な意味で災いの元となり、今の日本では<正統保守(国民主権を最重視する正統保守的な“ものの考え方”)と偽装極右(安倍政権の背後霊となっている日本会議らの靖国顕幽論にかぶれた国民主権否定派の妄想(似非)イデオロギー)>の区別が一筋縄ではつけ難い袋小路に嵌っている。渦中の『森友学園=安倍晋三記念小学校』スキャンダル、あるいはそれに続き露呈しつつある大疑獄?『アッキード2こと今治・加計学園アベ・ルート』スキャンダル(http://ur0.pw/Cj2k )などが、この悪循環的な政治文化、悪しき日本型「構造災」の伝統の上で起こっていることは言うまでもない。


1−2 “尊皇テロ愛国妄想権力”の天敵は、常に「中間ゾーン」(水平空間)を求める大衆が只の夜盗と化した暴走権力(此処では安倍政権!)に対峙し「飛礫」を投げつける行動


・・・安倍晋三・日本会議らが実現を謀る戦前型「偽装極右」(尊皇テロ愛国妄想派、偽装極右権力)の政治は正統保守に非ず、それは邪悪な欲望に占拠された夜盗・ゴロツキ集団らの妄想に過ぎない!・・・


池上英子『美と礼節の絆』によると、徳川幕府(徳川政府/大公儀(おおこうぎ)と称した)や幕藩体制下の各大名たちの政治組織体は、そもそも幕府自身の行政機構も各藩政府も、それぞれ徳川将軍または各大名領主たちの「家政」の延長に過ぎなかった。しかも、その幕府の大公儀の権威は戦国時代以降の野心的戦争(私的エゴ闘争)の結果として誕生していたため、それぞれの公的性格(それら権力の正当性と正統性)はそもそも疑わしいものであった。


そのため、徳川幕府が「古来の歴史を背景とする皇室(朝廷)と京都の貴族文化が持つ象徴的・美的パブリック圏/日本文化の核心たる“美と礼節”の領域」を大公儀のバックボーンとして利用せざるを得なかった。これこそ、日本の歴史・文化の本流と見るべき日本の「権力と美学」の<保守>に関わる絶対に避け得ない事情であった。


それ故、日本の正統保守を定義する場合に避けて通れないのが此の意味での「皇室・朝廷文化」にルーツを持つ「美的パブリック圏」(日本の文化と学芸の領域における皇室(朝廷)・貴族文化の公的権威を象徴する「有職」に関わる知識・教養・知恵の共有空間)の問題である。


なお、その「皇室・朝廷文化」の更なる高祖と見なすべき渡来系の政治文化(渡来系の民族・文化と共存する、ある意味で寛容と平和主義が伝統文化の胎盤であったと見るべき国風文化(広義の日本朝廷文化)が生まれる、その直前頃までの流れ)についての委細は、(下↓▲6)を参照して頂きたい。因みに、全くのゼロ・デフォルトから世界に冠たる日本の国風文化が生まれたとするのも同類の妄想である。 

▲6 奈良時代以前の日本(平城京までの“百済風日本”)は『日本(平安京以降の“伝統国風文化の日本”)』ではなかった!/(そもそも重層的な『東アジア文化受容の歴史』が『寛容で世界に誇るべき日本伝統文化』の源流であった)2015-01-07・toxandoriaの日記、 http://ur0.link/DiiF


従って、<教育勅語と軍人勅諭が天皇の意識を離れて国民を戦争道具視する軍部の手玉に取られた>彼(か)の<幕末〜明治維新〜戦前>期の日本を謳歌した、そして現代の安倍・自民党政権に取り憑いた日本会議・神社本庁ら「偽装極右派」(尊皇テロ愛国妄想派、偽装極右権力を信奉する一派)のエセ・イデオローグは、断じて正統保守と見なすことなど出来ず、それは夜盗・ゴロツキ集団ら邪悪な欲望に占拠された輩の妄想に過ぎないことになる(偽装極右に関わる委細は下↓▲7を参照)。

▲7 天皇の意思を離れ「教育勅語→軍人勅諭」のプロセスを踏んだ「敗戦の歴史」へ粛々と回帰する、日本国民主演ノホホンお笑劇場!2017/04/10・ever-note http://ur0.link/DiiE


・・・中間ゾーン、「水平空間」(平等空間)を求める大衆が「飛礫」を投げつける行動とは?・・・


水平空間とは「身分差を超えた見知らぬ人同士の緩やかな繋がり/strangership、Bonds of Civility:Cambridge University Press」(池上英子、http://ur0.link/DiiU )のことである。そして、およそ武士の台頭が始まる古代後期(平安末期)〜鎌倉期以降の武士階級による垂直構造の成立だけでは政治的ヒエラルキー、いわば社会の制度的分節化が実現し、やがて国家形成が実現することには至らなかったと考えられる。


その意味で、無論これは日本だけのことではないが、武士・商人・金融業者・手工業者・学者・文人・知識人・芸術家・農民らの身分の違いを超えた緩やかな繋がりが存在し、それが絶えざる拡がりのダイナミズムを帯び続けるという社会現象の出現は、国家形成が制度的に実現し、国家が成立するための必須要件であったとも言える。


言い換えれば、身分階級(階層)や地方政府・官僚組織・軍事機構らの整備とは別次元でのstrangershipが拡散し拡大する傾向は、国家の形成と存続にとっての必須条件であり、それは封建制度下の社会でも、現代の民主主義社会でも同じことだと言える。そして、それこそが国家と社会における大衆(多数派、ポピュリズム層)の分担的役割の真の意味でもある。


従って、統治制度の種別の如何(それが王制か?民主制か?などの差異)を問わず、たとえそれがどのような国家体制であるとしても国王や為政者(国家権力、統治政府)が絶対に無視できないのが大衆・ポピュリズム層の存在であり、又、その国王・為政者・権力者らが最も恐れるのが此の一般大衆(多数派層)から心底の怒りや怨嗟を伴う強い反撃(真っ向からの強い批判)を蒙り、一斉に遠慮なく批判(飛礫)浴びせられることだ。


そこで、我々は、日本の戦国期における強大な武装権力者であった織田信長豊臣秀吉徳川家康らの武将たちが、戦場で投げつけられる「飛礫」で深刻に悩まされたとされていること、また彼らプロの武将・武人たちが、軍団同士で激しく戦いを交わす各戦場においてすら、時によっては、一般大衆から大量に飛来する「飛礫」(ひれき/石つぶて)で悩まされていたという事実があったことも想起しなければならない。


網野義彦(1928 – 2004/歴史学者)によれば(出典:関西学院大学リポジトリ(repository)/古層と飛礫: 丸山思想史と網野史学の一接点に関する覚書き、冨田 宏治http://urx.mobi/Dj3D )、「飛礫」は10世紀末から文献に出てくるが、鎌倉時代の強訴では、しばしば激しく飛礫が打たれて(投げられて)おり、その行動のルーツは古代朝鮮で行われていた「石戦」にあるようだ。例えば、朝鮮に出兵した秀吉の大軍団は、半島の民衆が仕掛る激しい「石戦」の抵抗に悩まされた。また、武田信玄が公式に「石投げ隊」を組織しており、明治期の百姓一揆でも「石うち」による打ち壊しが横行した。


ともかくも、<安倍政権とそれに連座する一派、つまりその既得権益構造を篤く支持する日本会議、神社本庁、靖国神社ら、およびそれに只管同調するバカリの中枢官僚機構と財・労・学・司法・メディア界>らの一角を横断的に占拠しつつ異常繁殖して、今や面妖な一強の怪物と化した、安倍自民党なる現代日本の「悪徳poo権力構造」が最も恐れるのは何かを冷静に凝視することが肝心である。その意味では、この厳しい中立的批判の初動因となるべき、ジャーナリズムの(江戸期などでは出版業者らの活動が担ったの責任は時代の別を問わず重いということになる。


つまり、「水平空間」(知的プラグマティズムに因り、精神的自由を絶えず求め続ける身分差を超えた見知らぬ人同士の緩やかな繋がり/strangership)を自覚する多数派ポピュリズム層(現代の民主主義国家ではアナーキズムよりも基本的に正統保守的価値観にシンパシーを持つ多数派(ごく普通)の人々)が、<非常に異様化するまで仲間内で凝り固まったあげく日本伝統の雅で粋な“風流”の空気をすら理解できぬまで無粋化した病的・独裁的な権力構造、安倍晋三・一派なる権力集団>に向かって心底からの怒りで自覚的に対峙することが先ず肝要である。


そして、そこで激しく「飛礫」を投げつける行動(現代で言えば、激しいデモ攻勢を仕掛けたり、選挙の投票で圧倒的意思を表すなど、そのような意味での実力行使)こそが、“尊皇テロ愛国妄想権力”下で今や異常な利権の伏魔殿と化した中央権力構造ヒエラルキーに対する決定的脅威となる現実があることについては、今も昔も変わりはないことになる。


2 刮目すべき江戸プロトモダニティーの現代的意義(その重要性)


2−1 日本「正統保守」の心髄、美と礼節の絆(江戸プロトモダニティー)の発見


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ピーター・ノスコ他編『江戸のなかの日本、日本のなかの江戸』―柏書房―によると、J.F.クーパー(1789 – 1851/米国の作家・批評家)は、1838年の著書『平等について』の中で「今や我々は権利の平等を謳う文明社会の住人であるとはいえ、同時に、本質的には個人間に線引きをしていることに変わりがない。つまり、それでもなお我々は“何らかの差異を相互に意識させられており、逆説的に差異と平等を同時に求める矛盾した存在”」なのだと嘆いている(ピーター・ノスコ:カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大教授/日本思想史)。


このことは、イデオロギーや政治制度を超えた<人間社会における逆説の真理>として先ず受け入れておくべきかもしれない。だからといって、この真理は文明の果実を享受する現代の民主主義社会を全否定するものではなく、むしろ肝心なことはそのような前提(その逆説の真理と矛盾)の先にこそあると考えられる。それは、このような観点に立ってこそ初めて民主主義の完成は持続的なテーマであることになるからだ。


ところで(ここで述べた内容とは真逆のヴェクトル構図となるがw)、例えば徳川幕藩体制下の日本でも、「れっきとした封建的身分制の江戸時代」であったにも拘らず<似たような意味での真理を含む逆説>が、言い換えれば<封建制の身分差を超えた水平空間への希求>が存在したのであり、その分かりやすい典型が同じくCover Imagesで取りあげた『千住酒合戦』の事例である。そして、池上英子『美と礼節の絆』は、「その水平空間は江戸期における“弱い紐帯としての公”故の強みでもあった”と述べている。


無論、俳句・和歌・絵画らの文芸や趣味の交遊(交友)関係の拡がりは江戸期社会における公式の見方では劣位の私的領域と見なされていたものの、徳川幕府の分割統治で閉じ込められ分断されていた人々が、こうして私的領域(弱い紐帯の平等なパブリック圏)で結びついていたばかりか、文芸の世界という共通の媒介項によって共通の歴史を持つことになったのは確かだ。


その意味で、日本の文化的・美的イメージは、近代日本の国民国家が勃興するより遙か前に、この国の「水平・平等空間(弱い紐帯の平等なパブリック圏)を求める、多数派層の人々の自律定な自己意識」の中心的な受け皿になっていたと言える。これが、刮目すべき「江戸プロトモダニティー」の意義である


俳諧・狂歌・川柳には「連」と呼ばれるネットワークがあり、江戸・大坂など大都市だけでなく、文人・作家・絵師らをも巻き込むその繋がりは全国に拡がっていた。また、江戸期においてはその根本的な歌風の革新こそ余り見られなかったが、やはり和歌(鎌倉時代ごろから興り南北朝時代から室町時代にかけて大成された)についも、上は貴族・武士階層から下は農民・町民に至るまで凡ゆる身分層の人々がそれを愛好していた。


ところで、これらの文芸や趣味を支える日本美学の元は「皇室・朝廷文化」にルーツを持つ「伝統美と公的な礼節のパブリック圏」(日本の文化と学芸の両領域における皇室(朝廷)・貴族文化の公的権威を象徴する「有職」に関わる知識・教養・知恵の共有空間)であり、しかも「日本史の竜骨(keel/大公儀のバックボーン、の比喩表現)」でもある天皇制の根本には、古代期から受け継がれてきた象徴的・美的パブリック圏(日本文化の中核を成す正統保守的な“美と礼節”の象徴)の問題がある。


他方、一般社会における日常的な交際文化(文芸や趣味の領域)に関する限り、そこには『江戸プロトモダニティー』の名に値する水平空間(弱い紐帯の平等なパブリック圏))が紛れもなく存在したのであり、それこそが明治維新〜現代にまで繋がる日本の近代化・現代化(民主主義化)を準備する非常に良質な胎盤となった。つまり、それは決して幕末〜維新期に準備され、偽装極右派(現在の安倍自民党政権らに繋がる)が上から押し付けた「尊皇愛国テロリズム妄想」(国民主権を否定する天皇の密教的政治利用)の賜物ではなかったのである。


2−2 江戸プロトモダニティーが17世紀オランダの日常礼賛(T.トドロフ)と共鳴!/経済のリアリズム(正統保守的ポピュリズム感性の謳歌)に関わる二つの源流


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「写実、寓意(道徳、啓蒙)、画家自身の眼という三要素がもつれて格闘(entangle)するプロセスの中に17世紀オランダ(レンブラントの時代とも称された近世オランダの黄金時代)の画家たちは、単純にそれら三つの夫々には還元できない、ある種の人間的で統合的な美意識を伴うリアルな文化的・経済的な新しい価値創造の作用を発見した」とツヴェタン・トドロフ(仏の文芸批評家)は著書『日常礼賛』(白水社)で主張している。 


つまり、これら三つの要素と中間市民層の『日常生活』(それへの飽くなきこだわり)という日々に変化するエトノス(自然&世界観)との緊張関係の中で彼らは次々と「美意識と経済フロンティア(多元的付加価値の創造作用)」を発見し続けた。それは<資本主義経済の持続性(その結果としての成長)を請け負い保証するプラットフォーム(共感に満ちた水平空間と市場ネットワーク)が普通一般の市民層の日常生活>の中にこそ存在するという発見であった。 


それまで圧倒的な宗教権力の支配に従属してきた人間の本質的なもの、いわば<自由意思と正統宗教意識の適度な調和と距離感を重視する啓蒙思想(信頼・信用を繋ぐ共同主観性、言い換えれば政教分離という理想空間のイデオロギー)>にこそ相応しい、多数派市民層が中心の“日常生活”(反知性主義ならぬ中庸な正統保守ポピュリズム)の意義の発見ということだ。無論、この当時のオランダの「政教分離」は、まだ未完の「発展プロセス途上」ではあったが。


そして、それに必要な一定限度の貨幣「量」およびその多数派市民層(17世紀オランダでは各自治都市の自律意識を持った一般市民層)の日常生活を支え得る、過剰(バブル)にならぬ程度のほどほどの貨幣流通「速度」の確保の意味(重要性)の再発見にも重なる(ツヴェタン・トドロフ著『日常礼賛』についての更なる説明は下↓▲8を参照)。なお、経済学で貨幣流通「速度」とは同一の貨幣が一定期間内に何回持ち主を変えるかの平均/実はほとんど忘れられてきたが、ケインズはこれを最重視していた!)

▲8 新国家観が欠落する偏狭『AI万能GDP600兆円の未来/アベノミクス教』は日本瓦解のプロセス!一方、啓蒙主義ルネサンスを説く『民主主義の内なる敵』の著者、T.トドロフは『日常礼賛』で未来の可能性を見据える2016-11-07・toxandoriaの日記、http://urx.blue/DrO5


ともかくも、17世紀オランダの市民生活(イギリス産業革命から100年以上も前の時代)で何よりも重視された価値は多数派中間層の日常生活(日常礼賛)であった。また、この時代のネーデルラント共和国(ほぼ現在のオランダに重なる)辺りの各自治都市住民の『日常生活』ニーズは衣食住の満足だけではなく、画商を通して一定の経済価値を伴いつつ新たに発見される芸術(美)的価値(特に絵画)等がそのジャンルに入っていた。

このため、中産層市民の各家庭は少なくとも1〜2枚以上の絵画作品を所有しており、17世紀オランダでは既に他国に先駆けて、画商の活躍が活発であった。因みに、『日常生活』の関わりで、オランダ新教徒内部では神と人間を巡る<自由意思>に関わる論争が行われてきたが、それは現代の<新自由主義>を巡る論争にも繋がる重要な問題である。


更に、より重要なのは、このトドロフが描写する17世紀オランダ市民社会の日常生活の場面でも文化・経済パワーが身分差を越えた一定の「水平空間」で躍動する光景が観察されており、それが日本の江戸期(17〜19世紀)におけるプロトモダニティーと深く共鳴する点があることだ。


・・・ところで、その「江戸プロトモダニティー」(弱い紐帯の平等なパブリック圏)は、特に下の5つの点において17世紀オランダのみならず凡よそ17〜19世紀頃の啓蒙期ヨーロッパ諸国の市民社会よりも遥かに優れた点が多く見られることに驚かされる(上掲の『美と礼節の絆』より一部分を抜粋・転載し、更に(2)などの内容を若干補足した)・・・ 


(1)取引情緒コスト、礼節(civility/市民社会に必須の中間ゾーン)の発見

・・・今や世界的に大きな影響を与えつつある非常に悪趣味で野暮(反知性主義的、poo的)な米国トランプ大統領的「取引/deal」感覚とは全く異質な「取引に要する美的感覚を仲介する情緒コストとしての礼節」という、ある意味で斬新な人間性(人間としての悦びを持続させるには礼節が必須だとするリアリズム)の発見、そして「それが齎す信頼性の水平空間(弱い紐帯の平等なパブリック圏)における共有」という現実社会に関わる鋭敏な感性(クオラムセンス、クオラムセンシング)こそが江戸プロトモダニティー、または江戸ネットワーク文化・経済・結社・浮世(社会)のエッセンスであった。

・・・現代社会学的に見ても、市民的交際に関わる文化またはその様式としての「シヴィリティー/civility/礼節、礼儀正しさ」とは、個人が他者と交流するための「儀礼技術としての側面」があり、それによって親密過ぎず、といって敵対的でもない一種の「中間ゾーンの信頼、社会的信用関係」が促進される。端的に言えば、この江戸プロトモダニティーのエッセンスはピエール・ブルデュー(仏の社会学者)のハビトウス(habitus/自覚されにくいまで習慣化した知覚・行為・思考パターンを生み出す性向)に近い。


<注3>pooの意味についてはコチラを参照 ⇒ コンシリエンス(人文社会&科学両知の客観統合のトポス)を敵視し軍事強化だけを謀るトランプと安倍は「北」同然の“ 奇病 poo 権力症 ” なる暴走カルト権力 2017/05/05ever-note、http://urx.blue/DrPE


・・・問題は、江戸プロトモダニティーのエッセンスとして結露した「粋で美しい日本文化のイメージ」が、日本会議、神社本庁、安倍晋三らが強弁する如く、この日本列島の中で全くのゼロからカミカゼの御神託で生み落とされたのではないことだ。つまり、それは「東アジア文化圏の一隅である日本列島が寛容に外来性を受け入れてきた結果として、非常に多様な文化の坩堝」の中で熟成され、そこから創発したものだと認識することが肝要だ。古来、踏襲されてきた「皇室・宮廷文化の“日本文化の中核としての象徴性”」の問題、あるいは儒学・朱子学エッセンスとしての武士道の問題にしても然りである。


(2)都会的に洗練された「風流」と「粋」(シック)の出現(“文化資本主義”へのヒント)

・・・「やすらい花」に代表される風流の美学は桃山時代あたりから現れていたが、18世紀末になると遊女文化を源流とする慎みと誇りの感覚を伴う洗練されたエロティシズムの感覚が好まれるようになり、やがてそれは町人文化を母体として更に洗練され、着物や小物類の色彩や意匠だけでなく生活スタイルや内面的な資質をも含む「粋」の美学として結晶した(関連参照/Cover Images)。

・・・また、この庶民感覚から生まれた都会(江戸)的美学の典型は、やがて皇室・貴族社会系の伝統美学と共鳴することで日本民族の古典は<江戸的な個性>を付与されることになり、そこから今に繋がる日本伝統のクオラムセンシング的な美学が形成されたと見るべきである。

・・・この意味での日本の正統美学(正統保守の感性)は「安倍政権、日本会議らが盛んに囃し立てるpooで国籍不明の“日本人で良かった!”」なるアナクロニズム(穴黒?w)の美しい(実は醜悪な!)神国ニッポンとは全く異質であり、しかもそれは最もテンポラリーで、かつ喫緊の課題である“文化資本主義”(http://ur0.pw/Dxix)創造へのヒントも与えているようだ。


(3)特に都市部における驚異的な江戸時代「識字率」の高さ

・・・近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてある程度の推定が可能な、明治初期の自署率調査(文部省年報)によれば、1877年に滋賀県で実施された最古の調査では男子89%、女子39%、全体64%であり、青森県や鹿児島県ではかなり低く(20%程度)、相当に地域格差があったと考えられる(ウイキ情報http://u0u1.net/Dk3a )。

・・・但し、江戸・大坂・京都などの都市部での識字率は寺子屋制度に支えられており、それはかなり高く、少なくとも全体で70〜80%程度(庶民層に限定しても60〜70%程度?)はあったと考えられる。17〜18世紀の欧米の識字率が高々で20〜30%程度であったと推測されることに比べれば、江戸期・日本の識字率が驚異的であったのは確かだ(出典、http://u0u1.net/Dk3o  http://u0u1.net/Dk3r)。


(4)識字率の高さを基盤とする、江戸期の活発な「商業出版」活動(全国規模に拡がっていた江戸“商業ネットワーク”の下地)

・・・江戸期のプロトモダニティーの性格は商業出版産業の隆盛に支えられていたと見て過言ではない。日本最初の営業カタログである「和漢書籍目録」(1666)には書籍2589点が掲載されており、それは徐々に増え続けて1692年には7181点となっている。やがて18世紀には出版業者・販売業者が新しい読者層を開拓したため大衆読者層が指数関数的に拡がり、幕府の公式記録(1808)では江戸の貸本屋数が銭湯の数を超え656軒になっている。

・・・江戸期の商業出版は様々な社会的・認知的ネットワーク群の橋渡しをしたが、特に注目すべきは、そのネットワークが交差し拡大する過程が、現代社会学的な意味での非常に多様なパブリック圏と流通ネットワークを派生的・波及的に創造したことにある。中央集権的な幕藩体制の分節構造に組み敷かれながらも、一方ではそれが「身分差を越えた多様で水平的な文化・市場経済パブリック圏」として全国規模で拡大し、それこそが江戸期・日本の活力源であった。


(5)美的社交の場たる「水平空間」(弱い紐帯の平等なパブリック圏)の創造


f:id:toxandoria:20170518054022j:image:w450  D

け花、碁・将棋、歌舞・音曲、酒飲み合戦、絵画・浮世絵、古典解読、古書画、古美術、古器物などによる私的空間での水平的な人々の結びつき(一定限度まで幕府が黙認していた水平的パブリック圏)/全国規模の句会、画家等の文人ネットワーク、耽奇会(たんきかい/http://u0u1.net/Dk66)など様々な事例がある。

・・・一般的に伝統社会では、血縁、身分、宗教、地域社会など、自分が生まれついた環境やネットワークからなかなか外へ出られないことが多いが、日本列島に住む多数派層の人々が自ら選び取った様々な趣味や道楽を中心に据えつつ、身分差を越えて水平的に軽やかに、しかも広域的なネットワークを通じて緩やかに絆を結ぶことが可能な知恵・文化・歴史を獲得し広く共有してきたのは世界に誇るべきことだ。しかし、これは所謂「日本ファースト」、「日本人でよかった!」(プロローグ画像)とは全く異質な開放系の感性の賜物であることを忘れてはならない。


<注4>江戸時代後期の『耽奇漫録(たんきまんろく)』

・・・耽奇会という文人の会合の記録。文政7年(1824)5月15日〜翌8年11月13日まで20回にわたり開催され、珍奇な古書画、古器物などを持ち寄り、考証を加え論評しあった。曲亭馬琴、山崎美成、屋代弘賢、谷文晁などが参加。http://urx3.nu/DmLC


3 正統保守と偽装極右の混同に因る多数派層の内心のネジレを解消するためのヒントは、比喩で言えば仏教と国家神道の“量子的もつれ”、特に近代「神仏習合史」の理解にある


・・・「神仏分離廃仏毀釈」強行の土壌は江戸プロトモダニティーの直視を避けた仏教界(経典がない神道と異なり宇宙観・生命観も視野に入る唱道宗教!)がセクト主義に溺れ普遍的「教化イデオローグ」創生を怠ったことにある。つまり、西欧カトリック懐疑論に相当する“民衆の立場に立つ教化イデオローグの創生”を怠った日本仏教!それが維新期における国家神道(尊皇テロ愛国妄想派)の横暴を許した一因!・・・


<注5>寺院の寺子屋について・・・但し、中世の寺院に由来するとされる寺子屋が江戸期の庶民層の高い識字率の維持に貢献した功績は評価すべきである(既述/2−2−(4)関連)。なお、寺子屋は関西の呼び名であり、関東(江戸)では筆学所、あるいは幼童筆学所と呼ばれた。http://urx.blue/DrXr http://urx.blue/DrXx

<注6>苛烈な「神仏分離と廃仏毀釈」の概要については下の記事★を参照。

★「国家神道」患者、安倍晋三アナクロのルーツ/明治維新期における「廃仏毀釈・神仏分離⇒国家神道」の流れ2017-03-20・toxandoriaの日記、http://urx.blue/Ds1l


3−1「教化イデオローグ」創生を怠った仏教の仮面を剥ぐ!/「神仏習合」史に潜む、“虚栄”に溺れる日本仏教が江戸プロトモダニティーの寄生化していた側面


(維新政府(尊皇テロ愛国妄想権力)によって野蛮かつ過激に行われた『廃仏毀釈』)


江戸時代の仏教寺院は江戸幕府が宗教統制の一環として設けた寺請制度(寺請証文を民衆に義務付け、キリシタンでないことを寺院に証明させる)によって、結局は、いわゆる檀家を持つ回向寺(菩提寺/絶対多数派の寺院)は檀家制度にシッカリ組み込まれていった(当然、その過程では後述の祈祷寺⇒回向寺の移行もあった)。


このため、江戸時代の仏教界は仏教思想の深化と普及の努力によって庶民を教化・啓発するというインセンティブへの回路が大概は断ち切られていたことになる(寺子屋の識字率での貢献は例外)。他方、檀家を持たない祈祷寺は徳川家をはじめとする各大名家が自らの利益祈願や一族の繁栄、武運の無事などを目的に建立したものだが、例えば、真言宗や天台宗系の寺院などで護摩祈祷によって御本尊に対し無病息災、治病・招福、家内安全などの願いごとの成就を祈祷することが行われていた。


そして、庶民層もこれら武家の流儀に倣い回向寺と祈祷寺を使い分けるのが普通であったため(当然、両者を兼ねる寺もある)、江戸期の仏教界にはトリビアな知識から脱し普遍的「知」の方向へ庶民層を啓発する役割意識が弱かったことになる。否、それどころか、寺院生活史の特殊性から寺院間の格差が次第に拡大する傾向であったため逆に大いに困窮し、経済面から堕落した寺々も多かった(関連参照/↓▲9))。

▲9 和田謙寿(駒沢大学名誉教授)『江戸時代中葉以降における寺院生活史の考察』http://ur0.pw/DuFm


いずれにせよ、これらの理由で幕末期へ向けて堕落・退廃した寺院が多かったことが、庶民の啓発どころか多くの寺院が庶民層の批判と怒りの対象とされてしまい、幕末〜維新期の「廃仏毀釈」運動が爆発的に過激化して全国へ拡大する異常社会現象と化したとの見方もある(各藩政府による廃寺等の寺院整理は幕末期に各地で先行していた)。なお、これら回向寺、祈祷寺の他に機内を中心に立地する「古代〜中世初期」以降に建てられた、少数派ながら大規模の学問寺(東大寺、法隆寺、興福寺、延暦寺、金剛峯寺、聖林寺etc)、および門跡寺院(皇族・公家が住職の寺院)がある。


例えば、東大寺・興福寺などの学問寺は、研究・教育(大学相当)、出版・印刷、建設事業(宮大工等)、金融業(御布施収入管理・融資等)、医薬業、芸能事務所不動産業(農事を含む寺内領地経営)etcの一大コンソーシアムであった。また、例えば藤原氏の氏寺である興福寺は法相宗(唯識集)の研究で古代〜中世以降に多くの解釈的な仏教思想上の業績を遺すが、江戸期における一般庶民層への波及的な影響は殆どなかったと考えられる(関連参照⇒2014-05-02・toxandoriaの日記、http://urx3.nu/DndB)。


ついでながら、上掲▲9などを手掛かりに江戸時代(後半期)の寺院数をごく大雑把に捉えてみると、それは約50万寺と推測され、そのうち神仏習合していた寺社数(寺と神社が習合していた件数)は約20万件(寺・社同数の部分)であり、同時期の神社数も寺院数と同じく約50万件であった。


これが、主に維新期の明治政府による神仏分離令と廃仏毀釈および天皇主権(実質的“国民主権”否定)の「国家神道」体制下で郷社・村社・氏神らの小社の廃止と合併強制によって、「寺院、神社」の総数が各10万件程度まで一気に激減しており、如何に神仏分離と廃物毀釈が過激かつ野蛮に行われたかが理解できる。


現在の寺数は約8万寺(僧侶34万人)、神社数は約7.9万社(小社を入れると約8万社、神職数は兼業があり推計が困難だが神社本庁(宗教法人)の管理下で2万人程度、他業務との兼職カウントで8万人程度か?)となっている/寺数・神社数はhttp://urx2.nu/Dle7 より)。


つまり、江戸後半に約100万件あった神社・仏閣の立地(50万社+50万寺、内20万件が神仏習合/30万寺+30万社+神仏習合20万件、と同じことw)が維新期の「神仏分離→廃仏毀釈/神社の“国家神道”基準の廃棄・統合、および“国家神道”新社の創建」で各10万社・10万寺へ激減!という驚くべき現実が傍証している。これは維新期に仏像等も含め約9割の寺社が国策で廃棄・統合されたということであり、教科書には詳しく書かれていないが、これは日本伝統文化の破壊という蛮行以外の何物でもなかった!


(日本仏教には“徳川幕府”および“明治政府”以降の権力下で“虚栄の自我像”に溺れ、堕落しパラサイト化してきた側面がある)


f:id:toxandoria:20170518054727j:image:w250B・フォール著『仏教の仮面を剥ぐ』(トランスビュー社)という手厳しい仏教批判の本(原書2009、日本版2016)がある。B・フォール(Bernard Faure/1948− )は、禅・密教・神仏習合など幅広い観点から主に日本と東アジアの宗教文化を研究する非常に卓越した宗教学者コロンビア大学教授)である。そして、この本は我われ日本人がドップリ浸かっている仏教の常識を覆す論点で溢れている。


しかし、フォールの狙いは、仏教を厳しく批判し罵倒して、それを根底から否定したり、あるいは葬り去ったりしようとすることにあるのではない。フォールの本心はその真逆で、特に日本の仏教(仏教界)自身がその弱点を十分自覚することで、自らそれを修正しつつこれからも益々日本(人)と未来の日本発展のため役立って欲しいという温かい眼差しを持っている。


・・・そこで、当書の中からB・フォールが指摘する主な仏教の弱点を拾ってみると以下のとおりである(一部、toxandoriaの解釈も補足した)・・・


(1)8〜13世紀頃の日本仏教は「一行専修主義」(小乗)へ過剰没入する傾向にあったため、それ以外の多くの人々が参加する実践を否定するという意味で寛容さに欠けていた。


(2)特に、日蓮宗の根本経典「法華経」は基本的に過剰セクト主義(過剰論争主義から他派を徹底的に攻撃し排除する)であるため、日蓮宗とその在家組織である創価学会は今でも強引布教(折伏)主義で普遍的・客観的な視座を否定する一種のカルト性を帯びている。


(3)同じく、創価学会の世俗面の現れである公明党が「仏教的な意味での平和の党」だと見なすのは(それが自称であるとしても)根本的誤解!何故なら、これは法華経に限らぬことだが、そもそも仏教はセクト間の闘争をやむを得ぬこととしてきた(その典型事例は近世チベットにおける武力闘争の歴史がある/無論、キリスト教も同じ傾向を持っていたが、宗教戦争宗教改革を経て啓蒙主義イデオローグを派生・結実させた!←toxandoria補足)。


(4)このため日本でも古代末期〜近世における寺院の一大「武装集団化(僧兵の自衛軍団化)」の歴史がある(が、法華経(急進日蓮主義)と過激化した一向宗(浄土真宗)は例外と見れば、そもそも仏教そのものに先制攻撃的な『聖戦思想』はない)。但し、太平洋戦争を振り返れば田中智学が創設した過激日蓮宗系在家仏教団体「国柱会」のイデオローグ<八紘一宇>があり、この異常思想も安倍内閣と維新へ潜伏している。(委細参照⇒2014-09-01・toxandoriaの日記、http://ur0.pw/DuK5 )(←“但し、太平洋戦争・・・”以降はtoxandoria補足)


(5)しかし、仏教には「政治的処刑の論理」がある。つまり、「大多数の生命の救済のために少数の殺戮(これをも含む“慈悲の殺人”の類)はやむなし」とする、ミソロジーである(これは死刑是認論とも関係するが非常に重い課題!)。但し、大乗と異なり小乗(上部座の一行専修仏教)はこの“慈悲の殺人”を否定している。


(6)神仏習合に先立つ本地垂迹説は「日本の神々の本地(正体)がインドの仏たちである」とする考え方だが、後に、神道側が反発してインドの仏たちの正体は日本の神々だとする反本地垂迹説を主張したため、やむなく「神仏一体説(神仏習合)」になったという経緯がありここから更に派生したのが荒唐無稽な「梵和同一説」である(toxandoria補足/関連参照↓▲10)

▲10 安倍晋三の「軍事国家主義」に潜む病巣は、『正当歴史認識と生の具体性(未生/国民主権の核心)への眼差し』の決定的な欠落2015-01-07・toxandoriaの日記、http://urx2.nu/Dldr


(7)創価学会(800万人強)を除けば、今も最大信徒数(約700万人)を誇る浄土真宗本願寺派には強い反権力の意志から歴史的に暴力・武力闘争との親和性があるが(強大な権力に対抗し過激化した一向一揆の歴史がある)、明治維新期以降にはこれが災いし、結局、太平洋戦争期には最大勢力であった浄土真宗を先頭に仏教界が国家神道のエセ・ミソロジーに飲み込まれ「国家総動員体制」の無謀な戦争へ引きずり込まれた直近の歴史がある。これは、悪徳権力と対峙する「公界」(1−2、の水平空間を求める大衆が飛礫を投げつける行動)の問題とも深く関わるという意味で極めて現代的な課題でもある(toxandoria補足)


(日本仏教が“民主イデオローグ”と真に融和する条件/それはカトリック「決疑論」が西欧プロトモダニティーの社会文脈深化で貢献した役割を学ぶこと)


・・・特に、江戸期における「庶民層のリアル生活と仏教界の相克の歴史」と「自らの苛烈な受難経験でもある廃仏毀釈の歴史」を率直に学び直す!それこそ日本仏教が“近・現代的な意味で民主主義イデオローグ化”するための必須条件である・・・


この問題のヒントを得るため、西欧啓蒙思想の前段の歴史で重要とされる「決疑論」(casuistry)について少し触れておく。決疑論の原義はローマ・カトリック教会の教父に与えられた「善悪を判断するための告解(神の赦しを得るための告白)の際の指針」のことで、それは中世のスコラ学で特に重視されたものであった。やがて近代(16世紀〜17世紀の啓蒙期)に入ると個人の「道徳的」判断への指針または説明論理として発達した。特に西欧ではそれが近代小説の各ジャンル(多様で豊富な日常に関わるプロトモダニティー的な文脈的フィクション社会問題などを固定化する文学技法)を発達させることに繋がった。


ところで、この「決疑論」の核心にあるのは<日常のリアル生活では、客観知(知性主義)を憎むカルトや悪徳の観念が、反知性主義的で異常な精神環境(内面世界)へ我われを必ずや誘い込む(これは“確信の誘惑”と呼ばれる/関連参照⇒マトウラーナ&バレーラ著『知恵の樹』(ちくま学芸文庫http://urx2.nu/AGF8 )という、自らが失敗した歴史経験を踏まえて現実を厳しく直視しようとする強固なカトリック側の意思>であった。


従って、端的に言えば「B・フォールが指摘する日本仏教が創唱宗教(作為的権力意思が工作した国家神道の屁理屈は論外であるがw、例えば伝統神道の如きアニミズム宗教ならぬ宗教論理的な経典を備える宗教)として“本格的に民主主義イデオローグ”化するための基本」は、先ずこのカトリック「決疑論」的な意味での体験的な歴史反省から仏教自身が新たなetwasを学び取り「多数派である一般庶民層の人間としての権利を真っ向から受け止めて評価し得る視座を仏教世界の中に本格的に取り込むこと」ではないか、と考えられる。


3−2 日本国憲法「象徴天皇制」の意義の再意識化(再認識)は、日本仏教にとっても自らパラサイト状況を本格的に脱するチャンスとなる


(神仏習合の歴史に透ける日本仏教の弱点の直視こそが、『象徴天皇制』(日本国憲法のかなめ)再認識のための必須条件)


・・・日本仏教の弱点の直視とは、“国民の死後への過剰傾斜ではなく、江戸プロトモダニティーの如き一般国民の『日常の生』への眼差しを強化することである。つまり、日本の一般国民が、「水平空間」(平等空間=永遠の公界)で表現する「批判と行動」(限定合理性を求め続ける一般国民層の自由意思)を恐れず真っ向から受け止めて「民主主義国家」に相応しい国家権力の象徴とは何か?を仏教者が真剣に自問自答することでもある。・・・ 


<注7>神道の歴史を中心に据えた視座から整理した「神仏習合の歴史」の概要は、下記▲11を参照乞う。

▲11 多数派日本国民が共有する「神道」に関わる誤解/トマス・カスリス著『神道』の警告/2017-01-04・toxandoriaの日記、http://qq2q.biz/DnYH


<注8>「公界」(くがい)とは?

・・・そもそも「公界」は公共あるいは「私」に対する「公」の概念を指す言葉であるが、元々は中国で用いられていた言葉で、禅宗用語として日本に伝えられた。禅宗では俗界から離れた修行の場やそこで修行する僧侶を指した。

・・・中世史家、網野善彦(歴史学者)によれば「無縁」は主従関係や親族などといった表の「縁」と切れた状態で、そこから「無縁・公界・楽」の世界へと「無縁」になった人々が入って行った。

・・・その「無縁・公界・楽」の特徴は、表の世界にはない自由性があり、未開社会から受け継いだ年功序列の価値観は残されていたものの、横の平等性が保たれており、しかも平和で自立した機能をもっていた。


・・・


先のB・フォールが指摘した(1)〜(7)では取りあげなかったが(必ずしも、それが仏教の欠点とは言えないので)、フォールは、仏教の根本にある「無我」という考え方が究極的に「自我」の消滅に繋がる点を表層的に解釈することの危険性を指摘している。それは、諸行無常→諦観へ直結(短絡)することになれば他者に対する「人格」上の尊重意識が育たぬばかりか、「主権」者的な意識も希薄化することになるからだ。


それにもかかわらず、実際には先の『江戸時代中葉以降における寺院生活史の考察』(▲12)でも窺い知ることができるのだが、特に、回向寺(菩提寺/多数派の寺院)らの僧侶たちの中には“宗教者としての生き方”よりも、基本的に幕藩(権力)体制(檀家制度)下に安住できる有利な立場にあることから、この“浮世”(一般庶民層が生きる過酷な現世、リアル社会)に対して一般庶民層よりも遥かに堕落的に適応してしまった輩が、つまり過剰世俗化・悪徳化する(ゴロツキ風の悪徳坊主や淫乱・放蕩生活に溺れる)者たちも、かなり多かったことが理解できる。


更に、そもそもインド発祥の仏教にはサンスクリット社会(仏教に限らずヒンズー教らも同じこと)が共有するカースト差別意識アーリア人の先住民支配の方便→職業分担の観念、へ変質したものと考えられる、http://urx3.nu/Dnpy/その意味では、森羅万象に関わる新たな民主主義意識とも言える、先端的なエトノス思想とは真逆の観念と思われる)が伴っており、これが後になってもサンガ(仏教共同体)、あるいは日本の仏教社会における尼僧への差別意識や女性一般への蔑視意識が長く残り続ける原因となってきた。


これら仏教の弱点とも言える点に共通する特徴を端的に言うならば、それは「理想(仏教上の高踏な観念的世界)と現実(汚濁に満ちたリアル生活社会、浮世)」の差異を「不二」と見なし、そのままに放置し一歩引いて観察することがベストだとする傍観主義(一種の諦観?)にあると考えられる。逆に言えば、これは森羅万象を「理想と現実」に分けて考えたり、そのように理解したりすることが無意味だとする非常に厳しい(ある意味で身勝手な)不可知論だ。


が、例えば学問寺の筆頭とも見るべき興福寺(法相宗)では、次々と新自由主義の喉奥から吐き出される面妖なホモ・エコノミクスキマイラを制御するため、つまり新自由主義の暴走を制御し「自由と合理主義」のバランスを取って現代のグローバリズム経済社会を乗り切るためにも役立ちそうな優れた思想(維摩経)についての研究が、既に相当古い時代において集大成されているが(関連参照⇒2014-05-02・toxandoriaの日記、http://urx3.nu/DndB )、残念ながら、これらは机上の空論の高踏的な立ち位置に止まってきた、と思われる。


3−3 日本仏教には、一種の限定合理性に覚醒していた江戸プロトモダニティーを再発見し、それを新たな仏教的“理由の空間”を介し未来へ繋ぐ役割がある


(日本人の自由意思(意識)の原点は、およそ6世紀以降の非常に長い『神仏習合』の歴史経験から学んだ“理由の空間”の中にある)


今や、日本も含む世界は、自由意思、特に「ホモ・エコノミクス(完全合理的人間観)を前提する新自由主義」暴走の制御可能性を巡って、ますます混迷を深めつつある。他方、全ての日本人がそのことを自覚しているかどうかは疑問だが、今まで見てきたとおり、日本人の自由意思(意識)の原点は進化論的軍拡競争(一種の限定合理性)の意義に覚醒していたともいえる江戸プロトモダニティー期をピークとする、およそ6世紀以降の非常に長い『神仏習合』の歴史経験が心身に深く沁み込んだ『理由の空間』(神ならぬ人間の最小限の自由意思)の中にある。


維新期における非常に過激な「神仏分離→廃仏毀釈」の過程は、見方によっては明治政府(現在の安倍政権、日本会議、神社本庁らに繋がる尊皇テロ愛国妄想の系譜の創始者)による<腐敗した仏教界と、それにもめげず台頭していた多数派層の水平意識の覚醒であった江戸プロトモダニティー>を諸共に根絶やしにしようとする作為の結果であったのではないか?ということだ。


これは、コンシリエンス(人文知・科学知の親和的融合)など先端<知>が強く意識しつつある「進化論的軍拡競争」(一種の限定合理性)とは真逆の、非常に過激な「先制攻撃型政治権力」の異常でテロリズムにも通じる危険な政治意思である。因みに、最新の神道研究の成果などを踏まえると、古神道のルーツは縄文・弥生両文化の古層(抗争・混在・融和の歴史)に繋がるだけでなく、それが「ユーラシア文化圏」全体にまで広がっていることが分かってきている(関連参照⇒2016-06-26・toxandoriaの日記、http://ur0.work/DsCq )。


また、仏教がインド・アーリア文化の坩堝から誕生していることを併せ考えれば、日本仏教がこれから創発し得る限定合理主義(適切な環境条件下で使われるヒューリスティクス(heuristics))に因る“新しい民主主義イデオローグ”の視座が、西南アジア・インド・欧州・中国・東南アジアまでの更なる広域文化圏(イスラム教・キリスト教圏をも含む)をも包摂し得るという意味でも、世界への多大な貢献の可能性すら秘めていることになる(八紘一宇に似てる?が、全然違う!w)。


また、この日本仏教がこれから創発し得る限定合理主義(適切な環境条件下で利用されるヒューリスティクス(heuristics))に因る“新しい民主主義イデオローグ”の視座が、愈々、これから更なる苦闘のプロセスを歩むであろう「再生へ向かうEUの新たな挑戦」にも何らかの形(例えば、幕藩体制下での、堕落した仏教を半面教師として生まれたともいえる、非常に優れた江戸プロトモダニティー創生の歴史は、新たなパターナリズム(EU内における“権限=権限”関係の再構築)の仕組みを模索するEUのためにも十分に役立つ斬新な視点を提供できる?)で貢献し得るのではないか?


然るに、これらの悉くは、<戦前日本の「国家神道」体制をモデルとする先制攻撃型軍事国家>の復活を謀る、安倍内閣、日本会議、神社本庁らの<名ばかり民主主義の尊皇テロ愛国妄想なる偽イデオローグ=正統保守ならぬ偽装極右>とは全く異次元の世界である!w


(維新期以降の日本には、全仏教界が国家総動員体制の国策戦争へ引きずり込まれ、特に太平洋戦争では「戦争」へ積極的に加担した苦い歴史がある)


これは先にも触れたことだが、B・フォールによれば、一向宗信徒は悪徳権力と対峙しつつ積極的に「公界」を求めてきた歴史を持つが、時により彼らは恰も独立小国の如き強烈なセクト意識から過激な武力戦闘集団と化した。つまり、端から“仏教徒=平和原理主義”に見立てるのは根本的誤りであり、結局、彼らの意識は意外にも忽ち暗転して最大信徒数を誇る浄土真宗派を先頭に全仏教界が「国家総動員体制」の国策「戦争」へ引きずり込まれ、むしろ積極的に戦争へ加担することになったという太平洋戦争期の歴史がある。


また、維新期の関連史に少し触れておくと、本願寺派総本山「西本願寺」参政の島地黙雷は、1872年(明治5年)に西本願寺からの依頼で左院視察団(岩倉使節一行の約2ヶ月後に左院がヨーロッパに派遣した視察団で主に仏・英両国の議会制度の調査、研究を目的とした)と同行し欧州方面の視察旅行を行なった。


しかし、近代西欧の宗教制度「政教分離」(特に仏のライシテ(laicite)に近い考え方)に基づく黙雷の「治教」理論は西欧近代国家の政教分離を視野に入れた日本初の啓蒙政策(神ならぬ人間の最小限の自由意思を支える論理を日本の一般国民へ教える)の試みで、その後の近代日本における信教の自由と政教分離(公的空間における厳格な政教分離)の導入に多大な貢献をなすかに見えた。

が、この「治教」理論は、その後の日本政府の屁理屈で「国家神道」を支える理論として改竄され、捻じ曲げられた。しかも、それは「国家神道」(宗教に非ざる超宗教であるとの文部省と軍部が創った公的な屁理屈)の下で、国民を国家総動員の国策に積極加担させる思想洗脳ツールと化してしまった(出典:阪本是丸著『近世・近代神道論考』−弘文堂−)。


(何故、このような理不尽が起こったのか?この疑問を解くには「理由の空間」と「原因の空間」の違いを正しく理解する必要がある)


・・・人間には受動的「思考停止」(ドグマ・ゾンビ脳化)に甘んずるよりも、真っ向からそれへ対峙する「批判と行動」(生命維持に必須の限定合理性)を選択する自由意思(意識)があることを知るべきだ・・・


そもそも、人間に宿る「情念」そのものには、いわゆる倫理的ないしは社会契約論的な意味での善と悪の区別は未だなく、それが一定の共通な社会意識の下で「理念」へ昇華したレベルで、その新たな「善と悪を区別する明確なエトノス観念(冷静・中庸・客観的な自然観)と社会意識」が“生まれ”た(歴史的に見れば“啓蒙思想が誕生した”!)と考えられる。


つまり、人間の意識の主軸は感情(意欲)と表裏一体の自由意思であるが、それは絶えず“原因の空間(因果/所詮は人間の力が及ばぬリアル現象、現実の流れ)”と“理由の空間(神ならぬ人間の最小限の自由意思を支える論理)”を区別して観察している訳だ。しかも両者は対立するとの理解も決定的誤りである。それは、この両者が合わせ鏡の如く密接に結びつき、恰も量子世界の素粒子の如くもつれた(entangle)状態であるのが人間の意識の正体(それが生きる意味でもある!)だからである。


因みに、E.O.ウイルソンは著書『ヒトはどこまで進化するのか』(亜紀書房)の中で、前者(原因の空間)について「連続性の(人文・社会的な)視点での究極的説明が理解できる能力/なぜ、その機能(例えば、手・足・指など)があるのか?」、後者(理由の空間)について「機能(科学)的な視点で最もプラグマティックに説明できる能力/その機能はどう使うのか、これからどう使うべきか?」であると述べている。


ところで、なぜ安倍政権、日本会議、神社本庁らは此のように不可解で、非論理的で、かつ非人権的なエセ民主主義の異常イデオローグ(総国民玉砕論が支配する先制攻撃型の軍事国家論)が跋扈した戦前〜戦中期の世界へ日本国民を再び連れ戻すつもりなのか?


様々な原因が考えられるが、その核心は阪本是丸・国学院大学教授(歴史学者・神道学者)が上掲書『近世・近代神道論考』(弘文堂)の中で下(『・・・・』)の如く指摘するとおりであり、その強力なインセンティブの中心に鎮座するのが「国家神道」復活の問題である(関連参照↓▲13)。

▲13 緊急事態『改憲』に隠れる真の狙い、「国家神道」(偽エトノス)と先制攻撃「軍事研究」の復活/日本のエトノスと未生の可能性を完全消滅させる確信犯的な感情構造の病理2016-06-26・toxandoriaの日記、http://qq2q.biz/Dokg


『ともかくも戦前〜戦中〜戦後〜現在と連綿と続いた日本社会全体の意識の流れの総体の上に今の日本(と安倍政権/←補足、toxandoria)があると見なせば、当然ながら現在の政治状況にまで繋がる大きな影響力が国家神道から流出しているのは明らかであり、その意味で国家神道は終戦で潰えたどころか隠然と今も活性化していると見るべきである』


そして、やはり見逃せないのは「近代仏教思想史」上の汚点とすら感じられる日本仏教の仮面の下に隠されている<ミソロジー(宗教論理)上の矛盾>ということだ(これはカナダの宗教学者B・フォールの慧眼が指摘する問題意識である)。


つまり、この「神仏習合の矛盾点の凝視」(例えば、下記(1)、(2))を敢えて避けてきたのではないか?ということが考えられる。又、そのような仏教ミソロジーの矛盾にも拘らず我われは今も紛れなく「神仏習合」的な曖昧模糊とした日常の生活感覚で生きているからだ(関連参照⇒↑▲14 カスリス『神道』 /(2)については下▲15を参照)。

(1)「仏教は平和原理主義である」という誤解を敢えて封印してきた

(2)古来の伝統神道と、それをベースとする古代天皇制では「天皇⇔人民・平等論」の観念が存在した

▲15伝統神道の原点と見るべき神道書『神令』によれば、「天皇制」草創期(“大化改新”以前)の神道は天皇に対し民衆を平等に見る徳治政治を求めた。神道学者、小山悳子(とくこ)によれば、神道書『神令』(伝:大納言・一条兼良、筆/兼良は室町時代の公卿・古典学者)の成立期は、およそ“大化改新”以前(中国伝来の儒教受容が本格化するより前の時代)。http://qq2q.biz/Do00 


(“理由の空間”の視座から歴史的に把握できる『象徴天皇制』の重要な意義)


・・・そもそも象徴天皇の考え方は大化の改新以前の古代天皇制にも存在した。他方、現在の象徴天皇は、直近の太平洋戦争で日本国民自身が、ありのままの“原因の空間”(時間遡及が絶対不可能な歴史プロセス)の中で多大な内外の犠牲のうえで漸く自らの手で学び得たものであり、それは日本の未来の水平空間で生き抜くトビウオのためにこそ役立つ希少な知恵の象徴である。・・・


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ところで、AI研究とクロスする最先端の脳研究(ヒトの意識研究)によると、人間の頭蓋骨内には約1000億個のニューロンがあるが(宇宙で想定される銀河のmin.数に匹敵!)、その内訳は「a意識の在り処と見るべき“視床‐皮質系”(大脳皮質と視床)/200億個」、「b小脳&基底核/800億個」である。特に驚くべきはb(脳内ニューロンの8割を占める小脳と基底核)が「意識とは殆ど無関係なゾンビ(状態)」であることだ。


そして、意識の発生については殆どが未解明のままである一方で以下の点が明らかとなりつつある。


●AI意識探求の原点は、脳内ニューロンの活動量と同期発火を前提とするニューラルネットワーク・モデルだが、近年、その両者が直接的には意識と無関係である現象が発見されている。(ニューロン・モデルAIの限界?)


●意識(頭蓋骨内aに関わる部分)は、「無数の可能性のレパートリー」(同bに関わるゾンビ部分)に支えられている


●意識の基本的特性二つ(統合情報理論)⇔(1)情報の統合/ほぼaに対応、(2)情報の豊富さ/ほぼbに対応


●意識統合のため脳内では非常に効果的で限定効率的(ヒューリスティック)な情報圧縮作業が進行している


・・・おそらく、その処理計算プロセスはシャノンの「対数関数計算に因る情報圧縮」が近い?(シャノン情報理論では2を底とする2進対数関数でビットに合わせた)。又、知覚可能な情報量は「無数の可能性×無数の組み合わせ」なので莫大になり、知覚的な観察だけでは対応しきれず脳内では凡ゆる方法での揺さぶり(一種の量子アニーリングに似た効果?/関連参照⇒http://ur2.link/Dpgi)が行われる。


・・・【意識のみならず全ての生体機能は“オッカムの剃刀”(思考節約の原理)方式で「程ほどの効率」と「ほぼ満足できる安全」の両面を同時に実現する】意識に限らず、ある身体システム(知覚作用など)が十分に情報統合的・限定効率的に、そしてほぼ満足できる安全を確保し機能しているなら、例えばそれが「視覚」の場合では脳幹基底部ゾンビの情報遮断フィルター(脳の盲点(Scotoma)に相当するRAS(脳幹網様体賦活系http://qq2q.biz/DoHs)作用による「Blind spot/盲点」の発生で、敢えて「ヒューリスティック(限定的http://qq2q.biz/DoHD)な合理性/つまり、統合!」の実現(目的に応ずるベスト知覚機能の確保/ここでは目的の物を見る視覚)と同時に、その人間(個々の生体)の「個体生命の安全も確保」している(出典:ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―)。


因みに、この「意識に関わる新しい知見」を、例えばE.O.ウイルソンの<「原因の空間」と「理由の空間」>に併せて考えると興味深いことが分かる。例えば、次々と因果・連鎖的に生起する目前の現実・現象(リアル)が「原因の空間」、その無限に生起するリアル連鎖(現象)について過去と未来をも視野に入れて観察し“それはなぜ起こるのか?これから、それは何に応用できるか?”を絶えず考える人間の意識が「理由の空間」だと言い換えてもよい(当然、その目前のリアルには、この世界で誕生し明らかに既に存在する自分自身や、その他の多くの人々の身体も含む)。


ところで、先に見た「意識内の非常に効果的で限定効率的な情報圧縮作業」は何を目的として行われているのか?という疑問が沸き起こってくるはずだ。


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無論、第一義的には「個々の生命体の安全を確保する」ことであるだろうが、特に、社会的ネットワーク関係と自然利用の文化を深化させてきた人間の場合はそれだけに止まらず、長谷川英祐氏(北大大学院農学研究院准教授)が仮説(提起)する「永続性の原理(進化論的軍拡競争)」(軍拡競争のコトバが付くが、安倍晋三・首相、日本会議、神社本庁らが好む先制攻撃型『軍国主義』ベストの話ではない!w)が、その目的ではないかと思われる。つまり、これはダーウイン進化論のバックグラウンドとして生物一般が身に帯びてきた「種の永続性を確保する巧妙な戦略」である(関連参照⇒http://ur2.link/DpgQ)。


他方、この「永続性の原理」と真逆なのが、目下、安倍晋三首相、日本会議、神社本庁らが、ムリクリ「改憲」の強行を突破口にして、絶対に自らの手で実現しようとやっきになっている「戦前の美しい日本を取り戻す!=国家神道カルトによる戦前型国体の復活」戦略である。


それは、人間の意識統合が「“原因の空間”たる内外のエトノス環境と反応して常に莫大な規模に達する『無数の可能性のレパートリー情報』をRAS(脳幹網様体賦活系)型システムで効果的かつ限定効率的に情報処理しつつ絶えず新たな“理由の空間”を探求している」のと対照的であるのが「表面的には如何にも全く普通の意識統合と同様にRAS型情報処理を行うかの如く狡猾かつ巧妙に装いつつ、その“エトノス”部分を“一定の特異観念”(例えば国家神道ベストの狂信!)に固定した(or作為で固定させた)脳内異常情報処理システム」としての「カルト観念」である。


このため、安倍晋三首相、日本会議、神社本庁ら「カルト観念」(脳内異常情報処理システム)から、実に奇怪なエセ現実のトリック(リアル政治、リアル政策を騙る詐欺的政治)が出現することになる。


つまり、「ある特定の因果律(原因の空間)」の結果が「過去の因果律(原因の空間)」に対し、現在から過去へと遡って影響を与える(言い換えれば“過去の歴史を書き換えてしまう”こと、更に言えば“過去の中に歴史と異なるもう一つの現実を出現させる”)ことが当然視されるという奇怪な現実(実はトリック幻影)が現前することになるのだ。


安倍政権・閣僚の殆どがメンバーである日本会議、オーム真理教、幸福の科学、旧統一協会世界平和統一家庭連合)らカルトと呼ばれる集団の悉くは、紛れもなく此の異常な精神環境(脳内異常情報処理システム)を共有していることになる。その意味では、多数派国民層から篤く信認されていると“思しき”安倍政権のトリック幻影政治の前で、今や批判のコトバも対抗するための為す術をも殆ど失ったかに見える日本は、開闢以来の危機に見舞われている。


だからこそ、唯一のナビゲーション・コンパスとなるのが「象徴天皇制」だ。それこそが紛れもなくありの儘の日本の“原因の空間”(時間遡及が絶対不可能な歴史過程)で学び得た、これからも日本の水平空間で生き抜くトビウオたちにこそ役立つ希少な知恵の象徴であるからだ。従って、国家の主権者たる我われ日本国民には、その代替不能な知恵を未来へ繋ぐため日々をそれに照らしつつ、絶えず新たな“理由の空間”の創造へ挑戦する義務があることになる。


そこで、やはり注目すべきは千数百年にも及ぶ神仏習合という代替不能な歴史・宗教・文化経験の光を浴び続けてきた日本仏教が、特に「江戸プロトモダニティー」のリアリズムに見合った「トビウオたちのためのイデオローグ」(“アナクロ尊皇テロ妄想派”駆除の特効薬)の創生を怠り、ひたすら“虚栄と世俗的欲望”に溺れてきた傾向があることだ(3−1、で既述/B・フォールの指摘)。


江戸期の日本仏教界は幕藩体制(檀家制度)というパターナリズムの下で、ある意味で程々に安住できる有利な立場であったにも拘らず、世界に冠たる「江戸プロトモダニティー」に見合った日本型「啓蒙イデオローグ」の創生どころか、もっぱら葬式仏教として惰眠を貪る堕落の側面があったことは否めない。そのため幕末・維新期以降の尊皇テロリズム派の似非イデオローグに被れた日本会議・安倍晋三首相ら穴クロ幻影師・詐欺師たちが、その悪しき作法の踏襲である“仏教の政治利用”なる旗印の下で今の日本を堂々と大手を振り闊歩していると見ることもできる。


例えば、あのフクシマ原発過酷事故の直後に仏教界の一部から出された、日本政府に対する「脱原発要求の声」は何処へ消え去ったのであろうか?


仏教の根本的なミソロジーからすれば、古神道由来のアニミズム論を方便として使った神社本庁の「原発推進論」(悪質な屁理屈ミソロジー)は論外としても、今も日本国民の潜在意識の奥深くに沁み込んでいる「神仏習合の歴史経験」(委細参照↓▲16)の視点からすれば、生命の根源であるエトノス環境を根絶やしにする原発利用が理不尽であることについては、全仏教界が率先して、もっと声を大にして主張して然るべきではないか?

▲16[神仏習合の歴史経験]自省的考察『神道、および神仏習合の歴史的概観/政治権力との野合でウロボロス化した日本伝統の神の道?』2017/05/10・ever-note http://ur2.link/DpKA 


それこそが、表題に掲げた<発見!江戸プロトモダニティーは、クオラムセンス(民主感覚)欠損病の囚人、安倍晋三・日本会議・神社本庁ら「アナクロ尊皇テロ愛国妄想派」駆除の特効薬>が真に意味する裏面の主張である。


ところで、「最先端の脳研究(ヒトの意識研究)の知見」で触れたことだが、最先端AI研究でもニューラルネットワーク・モデル(ヒトの脳をモデルとした意識研究)の限界が見え隠れしている。しかし、それなりに一定の成果も得られているので、肝心なことは「現行AI研究の成果」と「その限界」の両方を視野に入れたコンシリエンス(consilience/人文・科学知の融和的統合)による取り組みが益々必要になる、ということだ。


これは、差異の追究をベースとする科学知と統合(統合意識)の追究をベースとする人文知(社会科学・宗教研究も含む)のメタ次元での融和的統合を試みるべきだということを意味する。それは、現行の脳研究でも明らかであるが、ヒトの意識はおそらく生命個体のリアル安全保障のためにヒューリスティック(限定効率的)な統合を絶えず行っており、いま生きているその瞬間ごとに膨大な量の情報を捨て続けているからだ。


つまり、その捨ててきた情報(少なくとも、何らかのエクリチュールとして記され(遺され)たものは膨大な歴史情報の中に埋没している)が全く無意味なものとは言えないはずだ。そして、この問題に真正面から向き合うべき役割を担うのが人文知であり、特に宗教だということになるのではないか?従って、安倍晋三、日本会議、神社本庁らが謀る歴史修正主義に因る国家神道カルトや、その「国家神道」関連体制の促進が目的の「改憲」、「象徴天皇制と平和主義」放棄の断行などは言語道断である!


残された歴史情報から新たな知見を発見することと、ご都合主義で過去の歴史事実を現在にそのままの形で取り戻しを謀ることは全く異次元の問題だ。つまり、過去の因果プロセスを掘り出し、それを現在と未来のプロセスへリアルに繋ごうとする行為(後者)は、紛れもなくリアル認識の病であり、それこそ安倍晋三を筆頭とする「尊皇テロ愛国妄想派」がクオラムセンス(民主感覚)欠損病の囚人であることの証左である。


直近の戦争経験から学んだ成果である日本国憲法の根本たる「平和主義」の理想が、同じくその憲法の根本である「象徴天皇」にしても、これら両者に関わる価値観がれっきとした日本古来の信仰と天皇制の中に根付いてきたものでもあること((前者/平和主義)→参照/▲6、後者/象徴天皇(天皇と国民は平等である故に天皇は国民意思の象徴と見た)→参照▲15)については、仏教界が、自ら積極的に古来相互に深く影響し合ってきた神仏習合の歴史を率直に振り返れば理解できることである。


古来、仏教界と神道界が相互に深く影響し合ってきた「神仏習合」の歴史の中には、ヒトの意識が生命個体の安全保障のために、つまり、やむなくヒューリスティックス(限定効率)のため捨ててきた莫大な情報が歴史・文化遺産として無尽蔵に存在しており、それらは確実に豊かな近未来の日本の民主主義&経済Stage2(コンシリエンス的文化資本主義の時代?)/http://urx.red/DqCk 」のためにもに役に立つ、いわば未来のトビウオたちが『日常礼賛』を持続するための新たな糧となる宝の山でもあるはずだ。

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