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2017-09-01 愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須

toxandoria2017-09-01

愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)大前提とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』


(プロローグ画像) アルテミジア・ジェンティレスキ『悔悛するマグダラのマリア』1620-1620


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The Penitent Magdalene.c. 1617-1620. Oil on canvas. Palazzo Pitti, Florence. 146 x 109 cm 

 

・・・アルテミジア・ジェンティレスキ(1593 - 1652)は17世紀イタリアカラヴァッジオ派の画家で、当時としては珍しい女性の画家であった。彼女が被害者であるレイプ事件の訴訟の公文書が残ることからジェンダー研究の対象としても知られる。父が指導者と指名した画家アゴスティーノ・タッシhttp://u0u1.net/Fmj1から性的暴行を受け、裁判の身体検査などでも暴行の立証責任を理由に公的な屈辱を受けるなど悲惨な体験をした。その後の20年間は男性への嫌悪感と復讐心、激しいルサンチマンの情念を滾らせて歴史画、女傑像などを描いた。


・・・『悔悛するマグダラのマリア』は激しい心の痛みとそれでも幸せな女性として生きようとする強烈な意志(裁判のあとアルテミジアはフィレンツェの画家、ピエール・アントニオ・ディ・ヴィンツェンツォ・スティアテッシと結婚させられた)の間で引き裂かれ怒涛の如く揺れ動く彼女の内心の真理の現出者たる自画像であり、又それはカラヴァッジオ・バロック風のアンビバレントに身を焦がす迫力ある「理想美のイデアと残酷な実在」が薄皮一枚でせめぎ合う凄まじい“共和”のリアルである。


(当記事の目的)「感情の政治学」を悪用する作為へのアンチテーゼ

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・・・いま世界では過激セクトによる社会の分断化、例えば米国トランプ政権下の白人至上主義Vsアンチヘイト派の断絶、欧州各国の過激移民排斥の拡大、または日本におけるマイファースト極右勢力の拡大傾向が問題視されているが、ツイッター、FacebookなどSNS等のWeb利用拡大に伴う「エコーチェンバー(Echo Chamber)http://u0u0.net/FuUt」が更にその傾向を加速すると懸念されている。が、矢張り、これも見方を変えれば「感情の政治学」の問題である。 


・・・ところで、当記事(Ser.(1)(2))の狙いは、今まで殆ど見過ごされてきた<「政治(経済)」と「感情(情念)」の関係>を、両者の関わり合いと思しき切り口をほんの少しだけ掘り下げてその様子を冷静に観察することにある。そのプロセス民主主義の新たな地平と見なすべき「リベラル共和主義」の確かな手掛かりを探す試みでもある。


・・・また、最も純粋な意識の描写である現象学の視覚を援用しつつ内心とコミュニケ―ションの核心へと向かう「感情の政治学」の視座からは、アルカイダやISのテロとも通底するイスラムワッハーブ派の問題(憎悪と欲動の情念に因る急進革命の意志)http://u0u1.net/FlG2やイラン・シリアを巡る混迷、あるいは今や異様に燃え盛る北朝鮮ミサイル問題の如き「国際政治犯罪」への減感作効果の模索という側面で些かなりとも何かヒントが得られるのではないか?とも思われる。


1「新自由主義」暴走の舞台、グローバル市場経済で「個の不安感情」と「ポピュリズム」が激化する背景


1−1近代以降の政治学が無視してきた、超越的なるものと共鳴する情念(感情)の問題


(映画『ハンナ・アレント』の問題意識−1/『悪の凡庸さ』とは何か?)


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映画『ハンナ・アーレント』(http://ur0.biz/FmDH )は、第2次世界大戦中にナチス収容所から逃れ米国に亡命した思想家であり政治哲学者でもあったハンナ・ア(-)レント(ドイツ在住ユダヤ人)の不屈の戦いの核心部分を描いた作品である。


映画解説http://urx.nu/5PNI より転載。

・・・ナチスによる迫害を逃れ米国へ亡命したユダヤ人の女性哲学者ハンナ・アレントを描いた歴史ドラマ。1960年代初頭、アレントは元ナチス高官アドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴記事を執筆・発表するが、それは大論争を巻き起こし、アレントも激しいバッシングを受ける。その顛末を通して「絶対悪とは何か。考える力とは何か」を問うとともにアレントの強い信念を描きだしている。


◆映画レポート『欧米におけるユダヤ人問題の底知れない根深さを提示(高崎俊夫:映画.com』より部分転載/全文はコチラ☞ http://urx.nu/5PO4 

・・・ドイツ系の亡命ユダヤ人哲学者ハンナ・アレントの「悪の陳腐(凡庸)さ」という言葉は、1960年代初頭にナチス戦犯アイヒマンの裁判を傍聴した彼女が「ザ・ニューヨーカー」誌に発表した長篇レポートで知られることになった。彼女は<アイヒマンは冷酷非情な怪物ではなく、上官の命令を唯々諾々と遂行する『凡庸な能吏』の如き存在にすぎない>と喝破した。そして、その<自ら思考する能力の欠如(←コレは現在の我われ日本国民一般の“無関心”と官僚の権力への追従の問題に通じる!←toxandoria、補足)>こそが、未曽有のホロコーストを引き起こしたとする論旨は、この映画の中で引用されるアイヒマンの世俗的で虚ろな表情(実際の裁判映像)を見るとリアルに納得させられる。


・・・


既婚であったマールブルク大学の恩師マルティン・ハイデガーと恋愛(不倫)関係のあと、アレントはフライブルク大学のフッサールの下で一学期を過ごし、更にハイデルベルク大学へ移り、そこではヤスパースの指導も受けている。ハンナ・アレントは、自らが経験したナチズム(全体主義)の衝撃的体験から、『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”(ということが事実だ!)』という言葉を残している。


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2017年8月13日夜に放送された旧日本軍「731部隊」に関するドキュメンタリーNHKスペシャル/731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜 http://urx.mobi/FjZq』が、いま中国でも反響を呼んでいる、と日経が報じた(↓*)。肝要なのは、これを機会に我われ日本国民も、アレントの言葉「悪の陳腐(凡庸)さ」(どの人間にも上司の命令を黙々と遂行する凡庸な能吏の如く、現状に安住する傾向が見られるというリアリズム)を再確認することであろう。


* NHKの「731部隊」番組、中国で反響呼ぶ 815日経http://urx.mobi/FjZI

・・・【北京=永井央紀】NHKが13日夜に放送した旧日本軍「731部隊」のドキュメンタリー番組が、中国で反響を呼んでいる。中国国営中央テレビは15日昼のニュースで「細菌兵器や人体実験に関する兵士の証言テープを公開し、残忍な犯罪行為を異例にも認めた」と紹介。中国外務省の華春瑩副報道局長は記者会見で「真相を明らかにする日本の知識人の勇気を称賛する」と語った。


・・・


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日本の政治状況も、米国のトランプ現象(デジタル焚書型の“悪の凡庸さ”の出現!?)でも同じことだが、今や世界中が「反知性主義」の典型とも言えるポピュリズム(大衆扇動型政治)による深刻な「社会の分断化」に飲み込まれつつあるかに見える。


<参考> デジタル焚書 

・・・反知性主義を批判するときに必須の問題意識。例えば長文の新聞記事、本、雑誌記事、論文、講演など一定の長い文脈で表現される<人間の統合意識>よりも、<ネット上のツイート、レス等の断片>の方が真っ当な「真理」であると、権威的にor 作為で人々を誤解させる悪質な行為。これはAI(人工知能)が創出する(正確には、と期待されている?)人工意識の問題(人間の意識とAI(人工意識)との差異は何か?あるいは、シンギュラリティなる錯誤の概念について考え、正しく批判すること)にも関わる重要なテーマ。Cf. ⇒ http://urx.mobi/FknG


・・・


しかし、だからこそアレント「悪の陳腐さ(凡庸さ)」が、必ずしも文字通りに「知性が劣る人々、“知能が低いのでバカだ”と見なされる側の人々」のことだけを指すものではない、という歴史と現実に気付くべきなのだ。それどころか、知能・学識・見識ともに優れた人々が、いとも容易く「悪の陳腐さ(凡庸さ)」に嵌り、積極的に又は唯々諾々とファシズム(全体主義)に協力した悪しき事例の枚挙には暇がなく、それは今の安倍政権下の日本でも進行中のことだ。


例えば、旧日本軍「731部隊」の“細菌兵器を開発した科学者たち”のあの真に忌むべき問題であり、あるいはハイデガーカール・シュミット(ドイツの思想家、法学者、政治学者、哲学者)ら超一流の知能と見識をもつ知識人・インテリ層の人々のファシズムへの協力(ナチス入党)の問題である。無論、カール・ヤスパース(1883-1969/哲学者・精神科医)のように頑としてナチスへの協力を拒み続けた事例もある。


そして、これらファシズムへ協力した第一級の知識人らの専門分野は自然科学・科学技術、人文・社会科学という具合で、それは凡ゆるアカデミズム(ロゴス)分野に拡がっている。


因みに、ヤスパース(ハイデルベルク学派http://ur0.pw/FxXFの中心人物/哲学者・精神科医)には、妻がユダヤ人である故のナチスに対する抵抗姿勢の貫徹で大学を追われ、妻の強制収容所送りの圧力では自宅に2人で立て籠もり通したエピソードがある。結局、ヤスパース夫妻は自殺する以外に打つ手がなくなるまで追い詰められたが、強制収容所への移送予定日も残すところ数十日のところで、辛うじて連合軍のハイデルベルク占領となり移送を免れた


このようなエピソードを持つヤスパースは「ドイツ国民一人ひとりが、それぞれ自分が負うべき罪について身の丈に合わせ主体的に考えるべきだ」という前提を明確化する偉大な功績を遺した。ヤスパースはナチス・ドイツの侵略戦争やホロコーストなどの「罪」を四つの次元、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上学的な罪に分けたが、これで漸く「政治的・法律的な責任」(前二つ)と「内面的な責任」(後二つ)を峻別して考えることが可能となった(出典:仲正昌樹著『日本とドイツ、二つの戦後思想』—光文社新書−)。


これで、一人ひとりのドイツ人が自分の能力に見合う自覚の程度に応じて「人道に対する罪」を具体的に理解することが可能となり、自分はそれに対する反省の行動を是非とも実践すべきだという人道に関わる意志を一般のドイツ国民が共有できるようになった。


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このように見ると、戦後ドイツ人の人道に関わる責任意識が日本と比較にならぬほど高いレベルに達していたことが分かる。このことは<ドイツと日本の政治家の品格の違いの第一原因>ともなって長く尾を引くことになり今に至っている。但し、現在、そのドイツでも「極右Afd、議席獲得?」の問題が急浮上している(Cf./添付画像)


ところで、ハイデガーやカール・シュミットの如く、今でも世界で第一級の知能を備えた知識人と見なされる学者らがなぜ易々とナチスに入党し、そのファシズム政治の協力者たる『悪の凡庸さ』(既に見たとおり、これはアレントの命名であり、彼らがナチス権力の命令を黙々と遂行して独裁的な政治権力の言いなりになる“凡庸な能吏”のごとき存在に徹したことを意味する)に甘んじたのか?については、依然として、今も深い謎となっている。


この問題への答えの一つには、「ハイデガーのナチ関与が彼の哲学思想、特に『存在と時間』(Sein und Zeit/1927年初版/解釈学的現象学の核心を論じた)と深く内的に関係していることが判明した!/ヴィクトル・ファリス著、山本 尤訳『ハイデガ−とナチズム』(原著1987,名古屋大学出版会1990)のような、一見、これは尤もだと思わせてくれる解釈がある。しかし、これはハイデガーの業績全体、特に解釈学的現象論を全否定しかねぬこととなり、かなり無理があるようだ。


なお、ハイデガーの解釈学的現象論とは<フッサールが 「現象学の枢軸」である 「志向性の問題」として「純粋意識」を取り出したことに対し(委細、後述)、ハイデガーが「その意識そのものへの問いは立てられているのか?」と訊ねたことで始まった議論である。


そして、ハイデガーは「フッサールの純粋意識への問いは立てられておらず、 それは恰もアプリオリな対象事物の如く見なされており、結局、意識そのものの解釈がなおざりにされている」と見ており、「そもそも存在に時間が加わることでこそ生の実存が現れるのであり、純粋意識とは生のそのような時間の解釈を加えた覚知(気づき)であるべきだ」と主張した(出典:ハイデガーのフッサール批判/加藤恵介・神戸山手大学紀要第14号 (201212)http://urx.mobi/FkNm)。


(映画『ハンナ・アレント』の問題意識−2/再認識すべきアレントの言葉『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”』)


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昨今の「グローバル経済」時代における新自由主義の暴走をすら予見できる水準まで、非常に鋭くかつ的確に「資本主義の本質的欠陥」を抉り(水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済‐集英社新書‐』P252〜、他)、その解決策の処方箋たる「リベラル共和主義」の可能性にまで触れていたカール・シュミット(1888‐1985/一時、ナチスに協力した思想家・法哲学者)の仕事(稲葉振一郎『政治の理論』‐中公叢書‐、Cf. http://urx.mobi/FkDk)を全否定することも困難なことである。


つまり、シュミットは、第一次大戦後のワイマール政権における議会制民主主義自由主義の限界と脆弱性を鋭く、忌憚なく批判したため、結果的にナチス政権樹立に有利な(別に言えば、人間世界のギリシャ悲劇的な“両義性のリアリズム”を見抜いた実に厳しい)法理論を展開したことになり、今でも両義的で苛烈な評価が付き纏う天才的なドイツの法学・政治哲学者である。


いわば、シュミットは超人的でエソテリック(esoteric/深遠)な視点で“人間存在の根源を見据えつつ“性悪・性善の双方がせめぎ合う両義性のリアリズムを重視する観点”から、政治権力の源泉が“超越的でエトノスとも共鳴する情念の海に浮かぶ暴力的なもの”(古代共和制ローマの象徴であるファスケスで統制されたむき出しの斧or刃に相当する/関連参照 ⇒ http://urx.nu/4szD )であることを見据えていた。


因みに、このシュミットの“敵=友理論”http://urx.blue/FtgLを、安倍晋三らが好む<お仲間(クローニー)orおともだち政治>と同一視するのは浅薄な誤解である!w ともかくも、そのシュミットの冷徹なリアリズムの眼は、混迷の只中に巻き込まれつつある現代であればこそ通用する<法哲学・政治哲学上の卓見>と理解するべきものであろう。


また、ハイデガーにせよ、シュミットにせよ彼らが前提していたのは、おそらく<人間社会を統べる政治は、そもそも恐怖、恐れ、歓びなどの感情で最深部が支えられており、それはリベラル民主制でも、君主制でも、ファシズムでも変わらない。だからこそ、たとえ現代民主制であっても、国民の感情を介しつつ超越的で神的なエネルギーと繋がる回路を潜伏させている>という信念であったと考えられる(関連参照⇒デュルケーム『宗教生活の原初形態』http://ur2.link/FqO4)。


無論、これが現代民主主義(立憲君主制)の「政教分離の原則」の否定に直結するものではなく、むしろ、議会制民主主義を採る多くの国々では、これは全く逆説的な理解(つまり、だからこそ自然も含めた超越的なものへの恐れを前提としてこそ生ずる倫理観の上に構築された間主観性で繋がるリアル人間社会が重要になる!)となる訳だ。従って、そうであればこそ我々は民主<憲法>の上で厳格な「政教分離の原則」を謳っていることになる。


ところで、我々が想起すべき問題は、一時期、ハイデガーと恋愛(不倫)関係にあったハンナ・アレントが、自らが経験したナチズム(全体主義)に関わる衝撃的体験から、『“ナチスの人々は私たち自身と同じ人間だった”(ということが事実だ!)』という言葉を残していることだ。


言い換えれば、これは(純粋かつ理詰めで物事を考える潔癖な方々には、おそらく承服しかねることかも知れぬが)『アドルフ・ヒトラー、安倍晋三らのファッショ的な独裁者、あるいは日本会議などの極右グループに所属するか、それに何らかのシンパシーを感じる人々と、我われその他一般の日本人との間には、人間としての本質において、それほど大きな違い(差異)はない!』ということである。


更に言えば、その両者は殆ど同じ成分を共有しているのであり、そこに差異があるとしても、物理量的な比喩で言えば、それは高々で薄皮一枚、というところであるだろう。


しかしながら、その比喩的な意味での「高々で薄皮一枚の差異」とは何か?実はコレに気付き、コレを自覚できるか否かが人類社会の、特に日本国民の近未来を決定づけることになる可能性が高い(関連参照↓◆)。


◆【ホモ・サピエンスだけが、少なくとも今まで自然生態系の頂点に立ちつつ文明・文化を繋ぐことができた理由】


・・・ライプニッツのモナド論を取り込んだAIシミレーション(西川アサキ『魂と体、脳』‐講談社選書メチエ‐』)では、仮想エージェント(最小単位の論理回路)が多数派に対して例えば相転移の如く「同調する振る舞い」が観察されるが、より驚くべきことに同じことが自然界の原子・分子レベルでも起こっている。


・・・が、ヒトの意識を司る脳機能の観察では、例えば脳科学者・金井良太(意識の研究で国際的に活躍する認知神経科学・脳科学者、アラヤ・ブレイン・イメージングCEO)の『政治的信条に関わる脳構造』(著書『脳に刻まれたモラルの起源』—岩波書店−)の脳の情動部位に関する観察によれば、タカ派(極右・超保守派)は恐怖心や臆病な性質との相関が高く、逆にハト派(リベラル)は太っ腹や鷹揚な性質との相関が高いことが観察されており、薄皮一枚の後者のリードがヒトの社会を辛うじて持続させてきたと考えられるようだ。


・・・つまり、自然現象ではベクトルの流れに任せ放置すると、人間社会の虐殺(全滅)へ至るプロセスとソックリのこと、例えば「相転移」の如き物理的変化が起こる。しかし、個々人が「自由意思」(コレが薄皮一枚の差異の中身!/政治学に置き換えれば、コレが『リベラル共和主義』の意味、http://u0u1.net/FlkF)を持つ人間社会では、どんな環境下でも最後の瞬間まで誰も奪うことができない精神の自由(実存選択の意思=未来への希望)が残されている(フランクル『夜と霧』‐みすず書房‐、大岡昇平『野火』‐新潮文庫‐/ここでの“野火”は他者の存在のシンボルと考えられる)。よって、人間は無機質な原子・分子の世界とは異なることを最認識すべき!ということになる。Cf. ☞ http://u0u1.net/FlkE 


1−2市民的自由主義の深層に潜む「ラカン鏡像の逆説」(無限後退するアイデンティティパラドクスの罠)


グローバル化に因る個々人の不安感情の湧出源は『ラカン鏡像』のアイデンティティ・パラドクス!)


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◆グローバル化に因る個々人の不安の感情は「ラカン鏡像」型のアイデンティティ・パラドクス!Cf.↓★1〜2 ☞『シュレーディンガーの猫を追って』 『原理 ハイゼンベルクの軌跡』813朝日http://u0u1.net/Flld /記事内容(書評)はコチラ ☞「ブック朝日コム」http://u0u1.net/Fll6 


★1「安倍的なもの」の存在こそ存立危機事態∵ 再帰的近代化↓(*)なるグローバリズムの余病(近代化はその目的・対象を吸収し尽くしてフロンティアを喪失したため、個人が自己を近代化していく段階に入ったとする、エトノス観念の対極にある一種の人間改造論!性悪説・主観的合理主義・自己責任論への傾斜で激烈な個人感情への内向化が必然となる!)を煽る手法へ没入!☞ グアムへの北ミサイルは存立危機事態ではない! 安倍首相が支持率回復のために日本国民を危険にさらそうとしている813リテラ5:01 - 2017年8月14日http://u0u1.net/Flle 

・・・(*)アンソニー・ギデンズの「再帰性/再帰的近代化」の概念について/萩原優騎 日本学術振興会特別研究員 http://u0u1.net/Fllk 


★2 ラカンの「鏡像段階論/2〜3歳頃の幼児は母親に代表される他者を鏡(可視世界への入り口)として自我形成するという「発達段階」仮説」http://u0u1.net/Fllf 

・・・『シュレーディンガーの猫を追って』の著者からは、悲劇に見舞われた者が問わずにはいられない<他にもあった可能性の中でなぜ今のこの現実なのか、という切実な思い>が読み取れる。また、『原理 ハイゼンベルクの軌跡』の著者は、ラストで、例えば「原発推進派のあなた」と、それが変容・転換してしまった「反原発派のわたし」との合わせ鏡的な左右が真逆の反映に、つまり「ラカン鏡像」型(=合わせ鏡型)のアイデンティティ・パラドクスに嵌り、遂にはそのパラドクス鏡像が感情の海面の上で無限後退して戸惑う自分を発見することになる。


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『感情の政治学』(講談社選書メチェ)の著者・吉田 徹は「完璧な合理的イデア(固定した形相美、エイドス)を政治に求め、それが常に実践(感情・情念で揺らぐリアル意識の実存)を伴うものであったことを忘却する「市民的自由主義」(方法論的個人主義合成の誤謬を無視した原子論的個人主義)は誤りである。それは、それこそがミルトン・フリードマンの新自由主義なる合理主義(マネー&物欲合理主義)をのさばらせることに繋がったからだ。」との考えを述べている。


また、吉田 徹は、政治における情念を問う数少ない政治学者である斎藤純一(早稲田大学教授)が「政治は、利害のみならず愛情や忠誠などの情念(敢えて断言すれば、それこそラカン鏡像型のアイデンティティ・パラドクスに戸惑いつつ感情の海面で無限背進(後退)する自己の再発見、ということ!/補足、toxandoria)の要素を含む価値観・世界観の抗争でもあり、コミュニケーションの媒介でその情念を民主的回路に繋ぐことで政治はより良いものとなる」と主張することに注目する。


それは、デッドロック化した資本主義経済(水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済‐集英社新書‐』/補足、toxandoria)の下で、今や人々の行動を規定していた「無限のフロンティア―を前提する安定的な価値観」が成り立たなくなっている現代では、感情面も含めた個人の判断が意識的な選択として絶えず吟味され、そのうえで選び取られ続けなければならないという、アンソニー・ギデンズ(英国の社会学者)の「再帰的近代化」(グローバル環境下における時間・空間感覚および感情表現など、人間主体側の改造必要論)が全面化していることと関係しており、この「再帰的近代化」のテーゼは<現代政治に批判的に適用すべき解釈枠組みの一つ>だとも吉田 徹は述べている。


(新自由主義アンシュタルトの暴走に追い込まれた『ラカン鏡像』幼児期ナルシズムがヘイト・人種差別テロリズムの主要な苗床である可能性が高い)


更に視点を少しズラして見れば、新自由主義(≒果てしなき格差拡大装置としてのアンシュタルトhttp://ur0.work/Fugd、/再帰的近代化のテーゼ、主観的合理主義)に取り込まれた「市民的自由主義」は、あの古代ギリシャの市民が当然視していたノモス観念(ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前/委細、後述)から最も遠い存在と化していることが分かる。


つまり、益々グローバル化が進む中で頑強な統制的権力だけを握りつつ安定的な公共財の市民への提供の義務(←カール・シュミット、アレントらの指摘/Cf. http://ur0.work/Fugd)を放棄した「小さな政府」が個々人の不安感情を煽ることになるのは当然のことであろう。


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ところで、マーサ・ヌスバウム(米国の政治哲学者http://ur0.work/Fugs)は、ラカン「鏡像段階」に重なる幼児期の子どもが<「ナルシズム」→「他人の手で処理されざるを得ない自らの排泄物が自分の意の儘にならぬことで『自己愛』ナルシズムの自尊心が深手を負う」→「強い不快感が発生し沈着する」→「その不快感の弱者らへの転嫁の欲求が生まれる」>のプロセスで身に付いた倒錯の満足感が「ヘイトや差別攻撃」の苗床となり、ひいては新自由主義(主観的合理主義)で脅迫的に凝縮され、それが激烈なヘイト・人種差別やテロの一因となっている可能性がある、と指摘している(出典:吉田 徹『感情の政治学』)。


2 フッサール現象学の概要(および、その現代的意義)


2−1“現象学誕生”の時代背景/それは現代にも重なる危機の時代であった


オーストリア帝国(1804-1867)の末期に生まれたフッサール(Edmund G. A.Husserl/1859- 1938年)がオーストリア(ウイーン)とドイツ諸都市(ゲッティンゲンなど)での研究生活の最盛期をオーストリア史に照らせば、それはオーストリア=ハンガリー(二重)帝国(1867-1918/ハプスブルク君主国の一つ)の末期〜オーストリア第一共和国の時代に重なり、又それをドイツ史で見れば19世紀後半の欧州に「強固な覇権国家体制」を敷いたビスマルクが君臨するドイツ帝国(1871-1918)の時期にほぼ重なる。


また、その時代の欧州では、第一次世界大戦後の復興の完成を先取りするかにも見えた「ワイマール共和国」(ドイツ・ワイマール憲法体制/1919-1933)が出現していた。しかし、その末期には早くも資本主義の限界が露呈し、そこから派生した世界経済恐慌(1929‐1932)の不安を突く形(第一次世界大戦(1914‐1918)の敗戦で受けた巨額賠償等へのドイツ国民のルサンチマンも一因)で出現するヒトラー・ナチス政権(1933〜)、ファシズムの闇に飲み込まれる予兆を感じさせる時代でもあった。


このような意味での不安が漂う世界史的な「大きな危機」の只中にあった19世紀後半〜20世紀初頭の「ウイーン・アカデミズム」では、エルンスト・マッハエドムント・フッサールらの科学哲学者たちが、これとは些か異なる危機意識の下で(そのような時代背景に加え、数学・論理学・物理学らが現実離れした可能性を求め天空へ舞上がり過ぎていることへの危機感から)、あの「超越論的還元の視座」の先鞭をつける決意を持つに至ったことを再認識すべきと思われる。


それは、上で見たような意味で19世紀末〜20世紀初頭の「資本主義経済がデッドロック」した時代にフッサールが現象学(現象学的還元論)を着想したことの意義は、「新自由主義(一種の過剰合理主義仮説http://urx3.nu/FnRn)に席巻されたグローバル資本主義」の暴走が、再び、世界規模で人類を脅かしつつある現代でも十分に有意性を持つと考えられるからだ。


つまり、苛烈化する一方の人間社会の今と未来を見据える上でも、フッサールの現象学は十分に有効だと思われる。そのためか、21世紀に入った頃から人文・社会科学系の研究分野では、特に人間の非合理性と合理性の折り合い方、着地点を見極めようとする研究が活発化しているようだ。また、一時期はナチス(ファシズム)にも傾倒したカール・シュミットが「資本主義の正体は、そもそも海賊資本家による略奪資本主義であった」と喝破していたことは、まさに慧眼であったと言えるだろう(出典:水野和夫『閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済』)。


それに現象学と関連させつつ考えてみれば、「リベラル共和主義」の原型を古代ギリシャの都市国家、特にスパルタの厳しい政治(ファシズム的共和とリベラル共和の両義的ドラマツルギ―のせめぎ合いのトポス)に見ていたニーチェ、ハイデガー、ハンナ・アレントらの視点の中に、未発見の興味深い隠れたヒントを発見できるのではないかとも思われる。


2−2フッサール現象学の誕生/「感情の政治学」が必然であることの予兆


【「同じと思われる光景」でも我われは異なる現出(実在・真理と信ずる射影)を見ている/が、一方でその最大公約の表象が客観性(間主観性が保証する)である 】


・・・我われ一人ひとりは、例えば下図『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』のような<それぞれ各人が見ている内面表象>の外へ、そのままでは絶対に出られず、これが一人ひとりの「主観性」の強固な地盤である(この左目だけで見た絵の周辺は眼窩の縁、右の出っ張りは自分の鼻先、中央には自分の寝そべった両脚とペンを持つ右手が見える)。しかし、その避け得ない内面の差異を話し言葉など様々な記号(表象)を介在させた多様な表現の交換、あるいは文章(文脈)化・ボデイランゲージなど積極的コミュニケーションの工夫で一定の実在(真理)のイメージ(or表象)、つまり「間主観性」の共有化は可能だ。・・・


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Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body stretched out in his studio; limited by the curvature of the eye socket, one sees his nose and beard. http://ur0.link/F5BD


このこと(同じと思しき光景を見ても、各人は異なる現出(実在・真理と信ずる射影)を見ており、その最大公約の表象が客観性である)を真逆に言えば、普段に、我々の一人ひとりは同じものを見ているように思い込んでいても(これはよほど強固な自覚(または覚醒への意志)を持たぬ限り日常生活では避けるのが中々困難な錯覚!)、実は誰一人として同じものを見てはいないということだ。


また、ここでの最大公約(数)なるコトバは比喩で使っているので最小公倍(数)でも構わない、要はそれこそが『話し合い、あるいは個々の情報の擦り合わせなどで漸く同定・共有される、ある実在(真理)についての客観的な“表象”、つまり間主観性であることを意味する。


そして、このような認識が正しいことは、植民地資本主義の限界とカルト同然のナチス的な空気拡大への危機意識で覆われつつあった19世紀後半〜20世紀初頭に活躍したオーストリアの物理学者、エルンスト・マッハの影響を受けたフッサールの厳密な主観性の検証である超越的「現象学的」還元のプロセス、つまりその科学哲学的な分析によって確認されている。


f:id:toxandoria:20170831153205p:image:w400:leftだからこそ、特に 政治・行政の現場では厳密な客観性と公正を担保するため「対話(言葉の遣り取り)→文章化」のプロセス(あるいは、それらを集約した文書・記録・映像など=常にブレたりズレたりする恐れが高い表象(真理)の統一・集約・同定or規定化)を保存する必要性があることになる(Cf.  ☞ 公文書管理の重要性/この観点から見ると、日本の「特定秘密保護法」が公文書管理の常識を外れているとの海外からの指摘がある! http://urx3.nu/FnRA)。


我々が日常で見ているのは、何につけ射影の寄せ集め的なもの、つまり直接的で物語的なものである。例えば、それは机の形が平行四辺形(現出/フッサールはこれを記号とも呼ぶ)に見えるような遠近法的で瞬時的な分かり易い現出(ものごとの現われ)に関わる感覚・体験の流れであり、これが深刻な錯覚をもたらす主な原因となっている。一方、我々はそのような状況の中で生きており、そうでなければ生きられない生き物でもあり、ここが厄介なのだ。


但し、平行四辺形の場合のイメージ記号と異なり言語という“記号”では現出と現出者(真理のイデア)の間に同等性(イメージ的相同性)はない。また、知覚的直接性(映像)は、想起・連想などと比べより直接的でありながら、それでも知覚映像はリアル(真理)に対し直接的ではなく現出(本質直観/一つのor特定の“射影”)で媒介された直接性である。その意味で、一般の知覚映像も一部分のリアルに過ぎない。


従って、どこまでも我々は 「内的な表象」(本質直観=マッハの内面的な表象)の世界に閉じ込められていることになり、これは言語などによるコミュニケーションの難しさを意味するとともに、「それ故にこそ、誤解を小さくするため、より積極的なコミュニケーションが重要であること」も示唆している(が、姑息な安倍政権は、その<射影がもたらす錯覚をどんどん肥大化させる政策>を一環して採っている)。


その先には“その机の形は長方形(現出者/この場合は長方形の机という真理)であること、つまり一定時間の流れとも関わりつつ見えてくる現出者(長方形の真理)に関わる知覚・経験”が出現する過程があり、この現出者こそが現象学的な意味での実在(同一性)で、フッサールはこれを“客観の同一性の表象は多角的で多様な表象(夫々の本質直観)で媒介される”と表現する。


また、この“現出(各射影)⇒現出者への過程”をフッサールは“現出(各射影)を突破して現出者(真理)を知覚または経験する”と表現しており、このベクトルを更に「志向性」とも呼ぶが、これは「意識」作用と殆ど同義である。なお、この“現出を突破して現出者へ到達する”ために必須となるのが、フッサールが言う「エポケー/判断中止(ごく自然な思い込みの流れを停止する省察でマッハ的な内面の光景へ引き戻し(これがマッハの第一義的還元)、それに照らして現出者(真理)を理解する!)」の意識作用である


【そもそも現象学とは何か?/形相的還元 、超越論的還元 、現象学的還元】

ところで、エドムント・フッサール(1859−1938)の「現象学」は、19世紀末の揺籃期〜20世紀初頭の幼生期を経て、さらに第二次世界大戦後〜現代に至る長きにおよび、20世紀の思想全体に大きなインパクトを与え続けてきた。


現代社会そのものは、益々、グローバル市場原理主義(新自由主義)の奔流に押し流されつつあり、しかもAI・ロボティクス・バイオテクノロジー等の先端科学技術の進展が急加速しており、「これからも身体と全生命の揺り籠の役目を果たし続けると思われてきた自然環境・地域風土・地域文化等についても、我われは、一人ひとりがそもそもの意味と役割を根こそぎ問い直さなければならないという、まことに厳しくも苛烈な「再帰的近代化」時代の真っただ中に入ったといえる。


深刻化するばかりの経済格差の拡大を本源とするテロリズム、あるいはマイファースト極右http://urx2.nu/FDZ6らの残虐な暴力性の噴出が後を絶たなくなっており、近代合理性と倫理・哲学がどのようにこれらと折り合うべきかが喫緊の課題となっている。


それは恰もフッサールが『イデーン/1913』(委細、後述)の出版で「現象学」研究を本格化させ始めた19世紀末〜20世紀初頭の全世界的にファシズムを予感させたあの「危機の時代」を彷彿させるものがある。が、このような時だからこそ、我われはフッサール現象学の根本と方法論を正しく理解することが必須になったともいえるだろう。


フッサール現象学で重視すべきベーシックな論点は『現象学的還元』と『無前提性』の問題である。そこで、そもそも「現象学とは何か?」について先ず触れておきたい。これは肝心「かなめ」の点であるので、下記の文献資料(◆↓)からその説明に該当する文章を部分転載しておく。


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◆榊原哲也・著『フッサール現象学の生成/方法の成立と展開』‐東京大学出版会


・・・ここから転載はじまり・・・現象学(Phanomenologie)とは、文字通りには「現象」(Phanomen)についての「学問」(Logos)ということであるが、フッサールの場合、それは、意識に現れてくる現象に定位(注目)し、それをありのままに見つめ、この現象の背後、あるいは手前で働いている「意識の志向性」(意識≒“志向性の作用”と見てもよい)をロゴス(学問)的に解明する営みを意味する。・・・ここで、一旦、転載中止/下記の補足へ・・・


<補足>「意識が生まれる瞬間」に関わる重要な推論

・・・西川アサキ(哲学者、批評家/情報哲学)は、最大の関心事がAIロボット内で生まれる可能性がある「わたし」(つまり意識)の問題としているが、現時点でその「わたし」は(a)自己組織化させる、(b)研究者(orプログラマー)が外部からプログラムする、の二つの方向からのアプローチが進んでいる。最新のAIを駆使した「意識」が発生する瞬間のシミュレーションでは、最小単位の構造となるプログラム・モジュール(そこに至る前段プロセスでは、脳内ニューロンネットワークでもそうであるが、実に夥しい数の“デッドロック・ペア”( 堂々巡りに囚われた最小単位の論理回路))が出現する。そして、意識発生の瞬間(一定の志向性が決まる瞬間)には「デッドロックで対峙する二組の最小単位モジュール(デッドロック・ペア)が双方の能力(夫々が相手方の中に自らの欠損(不足する点)の補完を期待しつつ求める能力)に有意となる未来への信用(確率論的な信用)」が基本となり相互作用することが分かってきた(これはSer.2で後述の『“現象学”的な意味での記述論理(抒情論理(toxandoria造語!))の問題に繋がると推測される!』)。http://urx3.nu/FoEr


・・・


・・・ここから、再び転載に戻る・・・ここで「意識」とは(哲学史上の説明をひとまず置けば)目覚めていて、ごく普通に何かを意識していることだと理解しておいてよいし、「意識に現れてくる現象」とは、目覚めている際に何かに目を向けたり、何か物音を聞いたり、物事を考えたりしている場合の、それら意識されている物事の、意識に現れているが儘のありさまを指している。


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意識に現れてくる現象とは最終的には私の周囲に拡がるこの「世界」そのものであるが、その際によく注意してこの現象を見つめてみると、例えば知覚しつつ意識されている現象としてのこの「花瓶」は、「花瓶」として意識されてはいるが実際に意識に与えられているのはその花瓶の一側縁(現出)に過ぎない(添付は参考画像/ヤン・ブリューゲル『木製花瓶に生けた花』 Jan Bruegel the Elder(1568-1625/ピーテル・ブリューゲルの次男/“花のブリューゲル”と呼ばれた) 「Flowers in a Wooden Vessel」 ca.1606-07 Kunsthistorisches Museum、Wien http://qq3q.biz/Fpcz)。


また、私に意識されているこの「世界」は、ごく一部分しか私に与えられていないのに、私は、この「世界」が私に現れている周囲を超えて拡がっていることをも何処かで意識している。実際に意識に与えられているもの(与件/=現出(補足、toxandoria))と、何かとして捉えられているその意味(現れている周囲を超えて拡がっている世界/補足、同)との間には、実はこのように常に差異が存在しており、それにもかかわらずこの差異は、普段は殆ど自覚されず跳び越えられているのである。


この差異を架橋して「与件(現出)」を何か「として」捉える働きをしているのは、フッサールによれば意識以外の何ものでもない。この与件に向かってそれを何とかして或る意味において捉える(統握する)働きを彼は意識の「志向性」(Intentionalitat/関連↑既述、<補足>【「意識が生まれる瞬間」についての重要な西川アサキの推論】 )と呼ぶ。


しかも、この志向性はまったく恣意的に働くのではなく、その働きのうちには何らかの規則的・普遍的構造(ロゴス/ここでは学問的・論理的な理性)が認められる。こうして、フッサールは、意識現象の手前で意識現象を成り立たせるために常にすでに働いている意識の志向性のロゴスを解明することによって、 周囲に拡がる <世界という現象>と<それが現れてくる場としての意識ないし自己>との関係を明らかにしようとした。


つまり、意識の志向性の解明としての「現象学」によって、周囲の「世界全体/世界という現象」に問いを向け、自己とその世界との関わり全体についての哲学―「現象学的哲学」―を目指そうとしたのである。


現象学の方法、すなわち「現象学的方法」とは、まさに、そうした営みへ引き戻すことであり、これこそが「超越論的還元」(但し、これは第二義の超越論的還元で、既述のとおり、第一義のそれはマッハ的光景への引き戻し/補足、toxandoria)である。それは、このプロセスの遂行にあたって、まずもって意識に現れてくる諸現象を純粋にありのままに見つめ、そこに潜む普遍的構造を記述するために形成された方法である。・・・ここで転載おわり・・・


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<補足>射影(夫々の現出)的な内心への囚われ、そこでの堂々巡りこそが「動物一般のそれ」にも似たカルトの心象風景である


・・・より広い周辺の「世界全体」への視座は一種の“習慣(P. ブルデューhttp://qq3q.biz/FpcE)”である。ヒトの文明・文化・伝統などもその意味で“習慣”の一種だ。但し、その“習慣”は絶えず更により広い世界と繋がろうとする客観的合理性(委細、後述)との交信・交流で絶えず補正することで健全性が保たれる。そこでこそ初めて出現するのが、絶えず揺らぎながらも「真理を志向する意識に対する信用で繋がり続ける間主観性の空間」である。


・・・このように、ヒトは何らかのコミュニケーションを介さなければ、現象学でいう直接的な「出現」で体験する純粋経験(又は、それに近い一定の狭い範囲の内心世界)の意識から、その外(より広い周囲の意識世界、絶えず真理へ導く地平) へ出る(突き抜ける)ことは絶対できない。他方、普段に我々は自分自身が十分に馴染んだ、一定の狭い範囲の意識世界でしか安心して生きられないのも現実だ。


・・・そこでヒト(人間の文化や伝統・習慣の世界)にとって重要となるのが言語・映像・イメージ・象徴ら様々な記号を介した多様なコミュニケーションである。但し、対話が重要なのは当然だが、必ずしもそれだけではなく、受け身でない主意(意志)的な読書やリアル書店の探訪、あるいはSNS等の活用、旅行体験、芸術鑑賞など多様な広義の文化・交流活動をもその補完手段(豊かな感情の海を醸成する場の確保、±のプネウマ(エトノス的な気息、精気、情念が発酵するトポス))と見る柔軟な文化的生活に馴染むのも重要と思われる。


・・・これは、イヌ・ネコ・サルなどの動物一般、または様々なカルト一派らが夫々の確信的な内心(狭い囚われへの誘惑/例えば安倍政権の背後霊(追憶のカルト)とされる日本会議、あるいはオーム真理教、統一協会らカルト)の世界の外(記号を介すコミュニケ―ションで新たな“習慣の世界(より広いフリンジ、周辺 、地平)”)へ漕ぎ出すことが容易ではないこと、を想像すれば直ぐ理解できることだ。


・・・


なお、厳密に言えばフッサールは 「現象学の方法」を(1)形相的還元、(2)超越論的還元の二つに大きく区分しており、その要点を纏めると次のようになる。


(1)形相的還元・・・人間心理へ「射影」(多くの人々が同じと見る光景)との関りで大きな影響を与える「イデア(理念的な真理)と一定の時間の流れ(真理としての歴史観)についての、エポケー(判断中止)によるイメージ空間的な現象学的還元


(2)超越論的還元(既述の第二義的還元/当然、その前提が第一義的還元)・・・一種の信頼性(専門的ロゴス(諸学問)が既に共有している記号(言語など)による共有観念、パラダイム)で繋がる間主観性のロゴス表象空間に関わる、エポケー(判断中止)による現象学的還元 ← コレは後述する「無前提性の原理」へ繋がる。


(3)「(1)+(2)」が、超越論的現象学的還元となる

 ☞ それは、これら二つの現象学的還元を実行することで、我われは『Ernst Mach, Visual Field; looking through Mach’s left eye at his own body』の図像 http://urx3.nu/FaY4 の外へ、つまり<各人が夫々に見ている内面表象の世界>の外へ、漸く、突破できるということだ。この厳密な現象学的還元によって展望し得る、より広い共有世界(E.フッサールの用語で言えば間主観性、相互主観性または共同主観性)こそが、我われ個々人のアイデンティティーが共和(協和)するための外洋(大海原)であるという自覚を我々はもつことができる。それがフッサール『超越論的現象学的還元』の意味の核心である。


【無前提性の原理とは何か?】


まず、同じく[ ↑◆榊原哲也著『フッサール現象学の生成−方法の成立と展開』‐東京大学出版会‐ ]から関連する部分を転載する。


・・・


・・・ここから転載はじまり・・・純粋記述(意識に現れているありさまを 、ありのままに捉えて記述する現象学の手法)としての現象学は、さらに「実に様々な理論的諸学の準備に役立ち」、「純粋論理学の土台」ともなる。というのも、純粋論理学を含む「論理学者」に関して言えば、彼は、「根本的な抽象」によって「自らのイデア的対象やイデア的連関の本質を明証的に把握」しようとするが、この「抽象」が「何らかの諸体験に基づく抽象」である以上、それら諸体験の「純粋記述」こそが、そうした「根本的抽象」の「基盤」をもなすと考えられるからである。


こうして記述的心理学たる「純粋現象学」は、経験的心理学のみならず、純粋論理学も含め、「さまざまな『学』(ロゴス)がその内に根を有する中立的研究の領域」として位置づけられるのである。


さらにもう一つの要諦がある。フッサールによれば、記述的心理学たる現象学は、「認識論的研究」が要求する「無前提性の原理」をも満たすとされる。「認識論」とは、彼によれば、「説明」を事とする諸理論に対して、「認識的思考作用(ここでの“認識”は感覚が介在する理解も含めた説明が連鎖する意識、と考えると分かり易い/補足、toxandoria)のイデア的本質ないしは意味についての一般的解明」を行うことによって、諸理論における認識一般を「解明」する「諸理論の理論」を目指すものである。


それゆえ、現象学は、権利上「あらゆる経験的諸理論に先立ち」、いかなる理論的前提もその内に含んでいてはならず(=無前提性)、体験の実的成素だけをそのままに正確に受け取る「十全的に充実化する直観」に立ち返ることを通じて「純粋な認識諸形式と諸法則を明晰判明にする」ものでなければならない。


つまり、まさに記述的心理学たる現象学こそは、すでに述べたように、「理論の単なる前段階」たる「純粋記述」として、―経験的発生的心理学のように心理的体験の実的成素を超えて心理物理的な理論化を行うことではなく―「与えられている思考体験や認識体験」の「実的成素」だけを純粋に記述することによって、志向作用や認識作用の本質的特徴を」明らかにしていく営みであるからである。


それゆえ、フッサールは「無前提性の原理」が、「現象学的に見て完全には実現され得ない、〔つまり、「体験の現象学的成素のうちに現実的に見出されない」〕ような一切の「原理的」仮定を排除すること」に他ならず、「あらゆる認識論的研究は、純粋に現象学的な根拠に基づいて遂行されなければならない」とも語っている。


記述的心理学たる現象学の純粋記述は、―理論としての経験的発生的心理学とは異なり―あらゆる理論的仮定を排除した、体験の実的成素(意識が殆ど介在しない、言葉と経験との只の繋がり/補足、toxandoria)の純粋記述として、無前提的なものであり、それゆえどのような認識論的(ロゴス的)研究も、この現象学の純粋記述に基づいてなされなければならないのである。 ・・・ここで転載おわり・・・


・・・


以上を言い換えるなら、フッサールが、諸学問の理論がその基盤を喪失しつつあるかに見えた19世紀末〜20世紀初頭の世界的リスク(戦争の危機と経済格差拡大、および学問の空疎化)の拡大トレンドに抗いつつ「無前提性の原理」を条件とする『現象学(超越論的現象学的還元)』 によって、「諸学問・諸科学の限界の突破を試みた」ということである。


しかも、グローバル市場原理の奔流(個人主義的な主観的合理性の暴走)に押し流されて殆ど<自己目的>化したかにさえ見えるAI・バイオテクノロジー等の先端技術研究が急加速することで、今や生命の培地であった筈の自然環境と人間文化(多元文化)そのものの意味が根底から問い直されつつある現代の状況が、フッサールの時代に酷似していることに驚かされる。


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また、「現象学」は、人類にとり悪夢の如きこの時代を大転換させ得る新たな希望の光にも見えてくるはずだ。それは、このフッサール『現象学』が、エトノス観念http://qq3q.biz/FpPQを前提とする新たな人類文化の時代、コンシリエンス(consilience/人文社会・科学両知の融和的統合の時代)http://qq3q.biz/FpPZhttp://qq3q.biz/FpPQ>の先取りとも思われるからだ。因みに、人類文化のエッセンスは、「形相(意味に包まれたイデア(エイドス))の意識(志向)化(客観的合理性)→共有(間主観性)化の継承」という点にあると考えられる。


例えば、近年の科学史研究では、コペルニクス的転回で近代精神の幕開けを飾った「近代天文学」創始期の師である「古代末期〜中世期のイスラム天文学(アラビア科学)」が政治・交易経済・農牧畜業など、当時の庶民層の日常的生活文化を支えた「占星術の世界観」の中で育まれたことが解明されている(http://ur0.work/Fuex)。それは、まさにコンシリエンス(客観的合理性)の世界であったことになる。


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<補足>ホルクハイマー「客観的合理性、主観的合理性」の峻別について


・・・M.ホルクハイマー(1895 – 1973/ドイツの哲学者・社会学者、フランクフルト学派の代表、アドルノとの共著『啓蒙の弁証法』で名高い)は、古代ギリシャから凡そ16世紀頃まで広く認識されていた客観的合理性(中世哲学が代表する観念/世界秩序に関わる冷静、謙虚、かつ統合的で直観的な原理)と主観的合理性(傲慢化し易い還元的・道具的理性)の区別が、近世以降は混同されるようになったと、警鐘を鳴らしている。


・・・<政治・経済の科学(主観的合理性)化の典型>ともいえる新自由主義(過剰化した市場原理主義、作為的アンシュタルトの一種)が、この「主観的合理性」の代表と考えられるが、今や、AI研究がその最先端に到達しつつあるため、流石にAI研究に携わる専門家自身の中から、<AIが体現しつつある主観的合理性の暴走に関わる大きな危機意識>が出始めている(参照/添付画像↑『AI自動制御兵器“Go and Forget!は究極の非人道!』)。


・・・いずれにせよ、このような意味での「現代の危機」が、フッサール「現象学」が誕生した19世紀末〜20世紀初頭「ファシズム胎動期」の「危機」に重なるのは自明といえるであろう。従って、フッサール「無前提性の原理」とホルクハイマー「客観的合理性」には深部で共鳴するものがあり、その先には矢張り<コンシリエンス(人文社会・科学両知の融和的統合)の時代>到来の必然性が感じられる。


2−3 フッサール現象学「射影のリアリズム」の再認識/「“意識(感情の政治学)”が浮かぶ海」の発見


2−3−1“フッサール「射影の直観経過」が意味するのは「“意識”が浮かぶ海の発見」ということ


・・・それは客観性(間主観性)の担保である記録(プラトン的イデア、つまり真理を包む形相の保全)の破壊と“もてあそび”が瞬時にしてファシズムへの暗転を呼ぶ、ということ・・・http://ur0.link/FyO6


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・・・トランプ、安倍晋三らに決定的に欠ける「現象学的還元」的な意識!/無論、現象学的還元なる重要な視座の発見はフッサールの功績であるが、この難解な専門用語による説明を待つまでもなく、実は、この種の意識(例えば、間主観性の共有の拡がりが『人間社会』の成立の前提であるということ)がヒトの文明進化(厳密には深化!)にとって重要なのは、常識人なら既に十分理解してきた筈だ。しかし、新自由主義アンシュタルト(その特異な“主観的合理主義なる感情”の暴走を良しとする空気)が社会常識の絶妙な均衡を破り、悪しき方向へ反転させた。・・・


<補足>「間主観性」前史と「ネオ・フィードバックシステム(基礎情報学)」の関わり


(1)[西欧中世「決疑論」から近代啓蒙主義(“間主観性”観念の歴史的な形成プロセス)への流れ]

・・・西欧中世カトリック教会の「決疑論」(カトリック告解の指針、思考方法が中世スコラ哲学を経て精緻化し、それは近代(16〜17世紀)になると個人の道徳判断の指針・説明へと発達した)と、近代啓蒙主義における「間主観性」観念の発達&共有化(政教分離原則、議会制民主主義、現代憲法、現代司法・裁判制度、又は近代以降のジャーナリズム成立などに繋がる)についての理解が重要! http://ur0.biz/FmDF 


(2)[間主観性とネオ・フィードバックシステム(基礎情報学)の共鳴]

・・・(1)の視点の敷衍・拡張が「基礎情報学」で言うネオ・フィードバックシステム(マシン内部のフィードバック処理回路を越えた人間社会、人間の歴史、自然・生命環境全体、すなわち内外の全エトノス環境と相互交流する意味での新しいフィードバックシステム)の概念!Cf. ☞ 基礎情報学/ネオ・サイバネティクスの研究、論考発表サイト:西垣 通・研究室/山梨英和大学 専任講師・大井奈美http://ur2.link/Fqtt


・・・


「間主観性」なる言葉はフッサールが初めて使用したとされるが、それには見過ごせない前史がある。各人が持つ狭隘な意識(ある一定の志向性、つまり感情を持つ個々の内心)とは別に、それを超えて「紛れなく客観的な時間と空間が存在しており、人々の間にはそれと同等の意味合いを持つ意識空間が広範に共有されつつ拡がっている」という観念を、特に近世以降の近代・現代人が(それを明確にするにはホルクハイマーの二つの理性(合理性)に関わる逆説的な理解も必要となるが/委細、後述)持つようになったことには、この「決疑論」の深化過程での「主観的合理性/委細、後述」(≒自由意思)の発見が貢献したといえる。 


エピローグで少し詳しく書くつもりだが、その意味でも、「リベラル共和主義国(国民主権国家)」と「ファシズム国家」の差異は紙一重であり、恰もそれは既述の<量子コンピューターの原理でもある「量子力学ダイナミズム」、あるいは「ラカン鏡像の逆説」(鏡像→自我形成、のプロセスの失敗で、“無限後退”なるアイデンティティ・パラドクスの罠に嵌る)>の微妙な均衡の作用と酷似している。


そして、この紙一重の差異(せめぎ合いの場)を制しつつ辛うじて「リベラル国民主権社会」を実現させるカギを握るのが意識の海に浮かぶ「感情の政治学」の問題であると思われる。つまり、ヒトの意識(ノエシス)は「感情の海に浮かぶ小島の如きもの」ではないか?ということだ。一般に、超越論的現象学的還元で純粋経験なる原印象「空間」を発見したフッサールは感情の問題を無視していると「誤解」されてきた。


しかし、近年、AI・脳研究の進化とM.アンリの現象学(情感・情念と記憶の関連性を探求http://ur0.link/FzNM)についての理解の深化(委細、当記事Ser.2で詳述の予定)で、フッサールが「イデーン1」(後述)で論じたノエマ(意識の対象的側面)が、実は情感(情念、感情)の海に浮かぶ、何らかの協和的回路に取り込まれつつ非常に厳しく最小限度に選択された意味の塊であり、それが志向性(ベクトル)を帯びた意識をもたらすのでは?と理解されるようになってきた。これは、まさに<AI・脳研究と現象学の共鳴による感情の海>の発見である。


言いかえれば、いまAI・脳研究のフィールドでは「意識(現象学で言う志向性ベクトル)の発生と感情の深い繋がり」が、新たな先端サイエンス知として理解されつつあるのだ。それは、根本的にAIと異なる「“環境・文章フレーム”の積極的読解力」(自らの生命維持条件である内外環境への高度な感受性を持続させ得る能力、いわば意志と感情が混然一体化した生命意識とでも言うべき情念の大海原)こそが、AIならぬ人間の「節度ある自由意思」のバックボーンだと考えられるということである(Cf.⇒http://ur0.work/FulY)。


2−3−2 射影(見かけのイメージ)に大きく影響される無辜の多数派国民層を主体とする此の程度の支持率Up(改造後の安倍内閣)は想定内と見るべき!


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f:id:toxandoria:20170901012848p:image:w360f:id:toxandoria:20170901012849p:image:w360

ところで、我が国では20170803に内閣改造が行われたが、安倍政権の<お友達らが好む「異常なカルト物語りの世界」へ日本国民を強引に連れ込み、そこで激しく日本国民を凌辱しようとする悪辣な意図、そしてそのための悪質な隠蔽工作は些かも変わっていない。それどころか、以前にも増して、その「総国民“連れ込み作戦”」に関わる彼らお仲間の意志を貫徹するための薄汚い戦術は、より悪辣化し、より卑怯化しつつある(参照/添付画像)。

Cf. ☞ 『<永遠のゼロ(バカ?ハゲーッ?)式、ヤラセ視聴者の会>の一面広告(御用広報紙/読売・産経)!← この広報費用の出所は官邸機密費?』http://ur2.link/FqxY 


しかし、安倍政権の<見かけだけで善良な国民を徹底的に騙しぬこうとする、一見、小利口で策略的に見える「日本会議」流?の“カルト式洗脳戦術”なる軽薄な演出の化けの皮はすぐにハゲ落ちることになるだろう。それは、フッサールが著書『イデーン』(参照/下記◆)で指摘した「射影のリアリズム(直観経過)」に関わる<知覚・意識/ヒトとしての思慮分別をもって外界の事物や身体内部の状態を統合的に理解する働き>に関わる理解が彼らの著しく狭窄化した視野からスッポリ抜け落ちているからだ。


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◆イデーンI‐1純粋現象学への全般的序論(Erstes Buch, Allegemeine Einfuhrung in die reine Phanomenologie 1913)エトムント・フッサール 訳:渡辺二郎(みすず書房)1979 http://ur2.link/Fqyn

・・・前半、省略・・・しかし現象学的還元と本質直観についてどのような態度を採るにせよ、当の方法論自体について、まず世の人々は良く熟知しなければならないであろう。そして、その二方法の射程について、まず何よりもフッサール自身が最初に綿密に考究した最も基本的な論述が、この『イデーンI』の前半部分にほかならないのである。」(訳者あとがき


さて、フッサールが著書『イデーン』で使った「射影」は「現出」(瞬時的・微分的な感覚・体験の流れ/本質直観とも同意)と同義である。そして、「様々な現出(諸現出)」は「現出者」(真の実在、真理/ここでは、そこに実在する長方形の机)に向かって突破する(意識的に突き進む)ことになる。なお、フッサールは現出を記号とも呼ぶ。例えば、そこにある長方形の机がある視点(見る人の意識、ノエシス)から平行四辺形に見える場合、その平行四辺形がコレ(射影、本質直観)に相当する。


が、ここで留意すべきは<この時、諸現出である平行四辺形の形は異なる視点の数だけ現出1、現出2、現出3・・・、現出nという具合で、そこにある視点の数に対応して無数に存在することだ(同一の視点が場所を移動するケースでも、現出1、現出2、現出3・・・、現出nは時間の流れに沿った現出(射影、本質直観)の変化になる)。


そして、フッサールはこの無数の現出が一つの基体(ここでは意識の核の意味)に収斂し全体的意味が凝縮した塊(おそらく、複数のデッドロック・ペア/Cf. 2−2『「意識が生まれる瞬間」に関わる重要な推論/西川アサキ』)をノエマ(意識の対象的側面:これが、人間の意識の主軸たる“感情と表裏一体の自由意思”の源泉では?と思われる/補足、toxandoria http://urx.mobi/FA0F, )と呼んでいる。


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<補足>ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―の「盲点RAS」の発生と、フッサール「ノエマ」の関連性

・・・同書によれば、生体内部では「ヒューリスティック(限定的http://qq2q.biz/DoHD )な統合合理性」の実現(目的に応ずるベスト知覚機能の確保/例えば、目的対象物を確実に見る視覚)のため、敢えて「RAS」を発生させ個々の生体の「生命の安全も確保」している。つまり、人間の意識の核であるノエマも同じことで、おそらくその意識化と共に99%以上の情報(夥しい数の射影)は常に捨てられている。だからこそ、生命の安全と文化深化のためにも間主観性(最大公約or最小公倍的射影)を同定・保持する記録・ドキュメント、およびコミュニケーションの役割が重要になる。

・・・ Cf. ☞ 安倍内閣は隠蔽&“記録・記憶抹殺”オンパレード!その異常さはカルト「幻想政治」劇場のおつもり? http://ur2.link/FqOP


2−3−3 ヒトは「同じと思しき光景」(多様な射影の集り)を見ても、各人は異なる現出(それを実在、真理だと思い込む夫々の射影)を見ている


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・・・その多様な射影の集りの最大公約(or公倍)の表象が客観性(≒間主観性/集合意思的に統合された真理)である。従って、政治・行政の現場では特に記録(ドキュメント/アリストテレスのイデア、つまり真理を包む諸形相(エイドス)の同定)の共有と保全管理が重要になる!・・・


フッサール現象学で、現出と現出者に加えて重要なのは「現出」に関わる「把持→原印象→予持」という直観(瞬間)的な時間の流れに沿う「直観経過の概念」(or視点移動の概念/無論、長時間、一点に止まれば内外環境の変化で移動と同様の直観経過となり得る)であり、それらは「把持=すでに経過した過去の現出の保持、予持=これから到来する現出の予期、原印象=両者の中間で今の現出の受容」と定義される。


また、ドキュメント(何らかのエクリチュール記録)の役割は、刻々と変化しつつ消え去る「直観経過のプロセス」の或る一定幅の流れ全体を保全し、その社会全体の共有「記憶」(歴史素材)として繋ぎ止めることであり、このプロセスは、常識的には意外と思われるかも知れないが、凡ゆる芸術の創造・創作活動の現場でも観察されることだ。


特に音楽の場合の「直観経過の概念」が理解し易い。ドレミファソラシドの音が続き、例えばレ音の原印象(現出n)で意識が止まった瞬間では、過ぎ去ったばかりの過去のド音の把持(現出n-1)と共に、すでにその瞬間に我々は未来のミ音を予持(現出n+1)しているのである。こうして、我々が音楽を聴く時には、各音の諸現出をバラバラに聴いているのではなく、常に、個性的な演奏者が演奏する一纏まりの優れた演奏作品を全体的な音楽の流れ(それが、現象学で言うリアルの<現出者=その一回性の芸術価値>である!)として聴いて(知覚し、鑑賞して)いるのである(無論、音楽では、楽譜作品と演奏作品の二重構造となっている)。


<参考/チェリビダッケの音楽の現象学>


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チェリビダッケの音楽観を示す、唯一の講演録。セルジュ・チェリビダッケ『音楽の現象学』石原良哉 訳2017 (アルファベータブックス)・・・ベルリン・フィル首席指揮者、シュトゥットガルト放送交響楽団首席指揮者などを歴任、多くの伝説的名演を残したチェリビダッケが、1985年にミュンヘン大学で満員の聴衆を集め行なった歴史に残る講演録。音楽の現象学とはなにか。黒板とピアノを使い、名指揮者が熱く語った内容を忠実に本に再現。2度の重版の後、長らく品切れになっていたが、この度チェリビダッケの全ての来日に立会った訳者の石原良也氏による来日時の記録や素顔のマエストロを描いた貴重な交流録を加え増補新版として出版。コンサート記録付。


・・・


ともかくも、このような「把持→原印象→予持」のプロセスの流れを繋ぐのが意志的な意識(瞬時的・微分的な志向・意識体験)の働きである。


ここで特に留意すべきは、この「志向体験(瞬間的・微分的意識)を含めた直観経過である現出の場面」が極めて短く殆どが瞬時的な出来事であることから、我々が、その短いプロセス(見かけである射影・現出の連続)を突破して「現出者」へ至る(その真の実在、つまりそこにある真理を評価し正当に知覚し得るレベルへ到達する)暇は殆どなく、その時々の「見かけの射影」に影響され易くなる(一種の催眠or洗脳効果)ということだ。


だからこそ、この「直観経過の現出的な瞬間、つまり我われが見かけに嵌り騙され易い場面」は幻影師、手品師、悪徳権力、あるいは現下の安倍政権、日本会議らの如き悪辣なカルト政治勢力、全体主義ファッショ一派らの格好の舞台装置となり、あるいは重宝な小道具となるのである。


(エピローグ)「新自由主義アンシュタルト」への傾斜が、“リベラルVs共和”が鬩ぎ合う両義的「射影」の場面、つまり首の皮一枚の抑制を破り瞬時に「ファシズム」へ暗転させる


・・・【再び、何れか?の選択を迫られる日本】(1)感情ファクター重視の関係性の政治(生命の安全保障)で新自由主義の政治を置換することが可能であり、それが急務だ!(吉田 徹『感情の政治学』—講談社−)/(2)『社会(間主観性の空間/客観的合理主義)など存在しない、存在するのは個人(再帰的近代化で解放された主観的合理主義の個人)だけだ』マーガレット・サッチャー・・・


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◆内部はニーチェ『悲劇の誕生』を巡る如き暗闘の様子だが、上層部の対・安倍政権<忖度>が元凶!全面的に国民を信用し、NHKは<自らの内部暗闘>に関わる一切を外部化し「国民の議論」へ一任すべき!

・・・Cf. ☞ 【QT】青年期の(≒時代を問わず、リベラル共和主義を求める)理想は、その一切が常に懐疑に付されることで再び鍛えあげられ、普遍的なものへと編み変えられる。このことを<ニーチェの思想>は教えてくれる。http://ur0.biz/FmEM /但し、普遍的な人間社会の反映でもある<ニーチェの思想>はファシズムとリベラル共和の両義性(古代ギリシャのドラマツルギ―)で彩られている。その普遍を求めるためのカギはカール・シュミット、ハイデガー、ハンナ・アレントらにある。(補足/toxandoria) http://urx.red/Fsl4


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◆【トランプ現象で動揺する米国政治は「マクロン大統領の仏と全く異質な“リベラルVs共和主義”闘争の修羅と化した!/米国「憲法修正第1条」正当解釈の変更→米・極右の変質(白人至上主義へ)、は世界にとって超リスク!】http://urx.red/Fsla

・・・Cf. ☞ 5月に就任した仏マクロンの支持率が10ポイントDnし54%になった(7.23公表/816では36%!)。が、「共和主義」否定(コミュニティ破壊)に走るトランプのDn(35%、8.30)と、共和主義の再構築を図る仏マクロンのそれでは理由(ベクトル)が全く異なる!マクロンは、これからが正念場か?http://urx3.nu/EUyH 、http://urx.red/Fsol


裁量的・ケインズ的な総需要管理政策を批判したミルトン・フリードマンがケインジアンから転向して新自由主義(小さい政府)の経済理論でノーベル経済学賞を受賞した(1976)のに続き、10年後にはジェームズ・ブキャナンが「公共選択論」(社会は自己利益の最大化を志向する利己的人間から成るという前提で政治・社会をミクロ経済で体系化したフリードマンの新自由主義を補完する理論)の基礎を作り同じくノーベル経済学賞を受賞した。


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ギャンブル・アンドリュー『自由経済と強い国家/サッチャリズムの政治学』(1990、みすず書房)によると、その新自由主義思想のエッセンスは『市場原理主義、サプライサイド重視、小さな政府(公共部門の縮小と民営化)、労働市場の柔軟化(人件費の経費化/労働力の商品化)、権威主義(強権)的・国家中心主義的な政権運営』ということになる。


ところで、吉田 徹『感情の政治学』(講談社)によると、米国の政治学者アンソニー・ダウンズ(政治学の数理分析の基盤を作った/http://urx.blue/FsUE)が仮説「合理的投票者のパラドクス」を発表(1962)しており、これによれば、理論上でも経験上でも、自分が投票した1票(差)でその有権者が望む政策が決定したケースは殆どゼロに近いので、バカな人間ほど真面目に投票に行く?ことになる。つまり、「ヒトはなぜ投票するのか?の実像」は未だに謎のままだ。


また、同書によれば、直接民主制の理念を重んずるスイスが1970年代から郵便による投票の併用を始め、続いてインターネット投票も採用して投票率の向上を図ってきた。しかし、これで投票率が上がるという効果は得られておらず、今まで高投票率を誇ってきた地域や過疎地域、あるいはローカルになればなるほど、逆に、それらでは投票率が下がってしまった。


その理由として、小さなコミュニティになればなるほど、むしろ投票所に足を運ぶ有権者が「投票した自らの行為そのもの」に高い満足感と誇りを感じていることによるのではないか?という分析がある。投票行為には合理性よりも「何らかの、様々な社会的関係性に因る感情・情念的な要因」が大きく影響を与えていることが窺われるのだ。ここから、一般に投票率が低い傾向にある大都会でも、何らかの正当な方法で人間関係の活性化を図る工夫で投票率の高まる可能性がある、ともいえる。


ところが、ここで「仮に新自由主義の主観的合理性の人間観が“ほぼ”100%近くまで普及した(広く、社会一般で受け入れられた)」と仮定すると、恐るべき事態になることが予想される。それは、その途端に、あのアンソニー・ダウンズの「合理的投票者のパラドクス」の仮設が、仮説であることを止めて、リアルなものとなるからだ。


f:id:toxandoria:20170901034610j:image:w350:leftバカな国民はせっせと真面目に投票所へ足を運び、利口で合理的な国民は中央集権(強権or時により軍事国家主義)的な小さい中央政府(福祉・厚生・公正を切り捨てる)」の言いなりが得策だ!と判断する。そこで出現するのが利己的自由の徹底である筈なのに、その自由を謳歌する国が一気に肝心の「自由原理」を捨て去り、「ファシズム軍事国家」へ暗転するという地獄の如き光景である。が、これは決してお伽噺ではなく、我われはその地獄への道を着実に進みつつあるのだ。f:id:toxandoria:20170901034611p:image:w380:leftf:id:toxandoria:20170901034612p:image:w300:right


つまり、新自由主義の根幹にあるのは「ひたすら強権的(軍事・外交・安全保障・国民統制的な意味で)な小さい中央政府が、貪欲で利己(主観合理主義)的な個人が求める選好のチャンスを与える政治に取り組みさえすれば、あとは福祉も医療も教育も殆ど無視して徹底的にその利己的個人と企業活動の自由に任せておけば皆が幸せになれる」という異常な社会観であり、そこには人間の主意的な意識を支える最も肝心な「感情(情感・情念)のファクター」が関与する余地が殆ど存在しない。


因みに、マルクス主義がその典型であるが、政治学の伝統には社会構造決定論という考え方(上部の社会構造が社会における下位構造に属する人間のあり方を決めるという理解)があるが、新自由主義もそれと同じく社会構造決定論(1%派のための合理、非合理の二分法で社会構造を仕訳するアンシュタルト)だと見なすことができるので、これに異を唱えたのが社会学者P. ブルデューである。


P. ブルデューが新自由主義を批判する論点は、<社会における人間のあり方は一つの選択(いわば感情の海に漂う一つの意識的な選択)に過ぎず、その他の殆どの選択肢は捨てられているので、絶えず歴史の中から別の可能性をも拾い上げて再検証するという柔軟な視野を取り入れることが肝要で、例えばミクロ経済的「選好」も、それは人間社会のハビトウスだ(習慣=関係性のダイナミズム/人間の無限の可能性の中の一つに過ぎない)と捉えるべきである>ということだ。


また、「国家(中央政府)が、専ら主観合理的(利己的)な個人に対して、彼らが求める選好のチャンスを与え続ける」ということは、あのカール・シュミット、ハイデガー、ハンナ・アレントらが重視した「ノモスの観念」と真逆のものであることに気づかされる。


「法」としてのノモスは古代ギリシア都市国家(古代民主共和政)の社会概念であるが、より古い時代には「神々と父祖伝来の伝統(現代風に言えばエトノス、自然・伝統文化環境)が定めた行動規範」としての「法」、あるいは同じく、そこに住む住民が平等に与えられる「ノモス法で定められた社会環境・インフラの分け前」を意味していた。


従って、ノモス法は現代的な理解である文章で表現された抽象的な「法」の内容だけではなく、一定地域の自然環境、土地、建物、市街地、橋、道路など目に見えるモノとしての公共財(インフラ)と離れ難い存在であった。現代風に言えば、それはエトノス自然環境とも離れ難い存在であり、フーコーの“統治理性”(リベラル共和のための、地球上の全ての生命環境が明確に視野に入った統治理性)を理解するための必須概念となる(ノモス論の委細はコチラ ⇒ http://urx.blue/FsXs )。


ともかくも、フッサールの現象論から始めた「新自由主義」批判の旅は、漸く、「感情の政治学」の入り口に辿り着いたようだ。更なる旅は第二部(2/2)へ譲り、そこではアンリ・ミシェルの、いわば「感情の現象論」を取りあげてみたいと思っている。(完) 

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