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2017-11-09 [希望のトポス] 愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情

toxandoria2017-11-09

愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(2/2) M.アンリ『情感の現象学』から見える『感情の政治学』の可能性


J. M. W.ターナー『ノアハム城』

f:id:toxandoria:20171109090632p:image:w550

…J. M. W. Turner「Norham Castle, Sunrise」c.1845 Oil paint on canvas  90.8 x 121.9 Tate、London 


イマージュ動画】ラヴェル「夜のガスパールMaurice Ravel - Gaspard de la nuit  

D

f:id:toxandoria:20171109091003p:image:w360:right

Pianist: Jean-Efflam Bavouzet/公式㏋http://www.bavouzet.com/ 

・・・「夜のガスパール」(ガスパールは東方の三博士の1人Caspar に由来する男性名)はボードレールにも影響を与えたという夭折した詩人アロイジュス・ベルトラン(1807〜1841)の64篇で成る散文詩集のタイトル。ラヴェルはこの中から幻想的で怪奇性の強い3篇を選び、そのイメージに大変な技巧を織り交ぜながら情熱的なピアノ曲に仕上げた(出典:『ラヴェル:夜のガスパール、作品解説』http://urx.mobi/GM3n)。




プロローグ) ハイデガー「ゾルゲ」(思い遣り)の源流、クーラ(ペルセポネー)寓話


f:id:toxandoria:20171109091253j:image:w200:left「ハイデガー『存在と時間』—「気づかう人(homo curans)」としての人間」/京都大学吉田南総合図書館、http://ur0.pw/GIZZ (画像は、イシス・ペルセポネー像 (クレタのイラクリオンにある考古学博物館蔵、ウイキより))


・・・ドイツの哲学者ハイデガーは、その主著『存在と時間』で、人間存在を「気づかい」(ラテン語でcura/ケア(care)の語源)という語で特徴づけた。標語的に言えば人間はホモ・クーランス(気づかう人)となる。この点を把握するとき私たちは人間を深く理解できると同時に「思考がそこで運動せざるをえない根本的な場」と呼べるものを捉えることができる。by limitlesslife http://ur0.pw/GIZX


・・・が、近年はハイデガーの「気づかう人」(およびハイデガー哲学そのもの)には人間相互の気づかいに留まらず、魔術的・悪魔的・ロマン主義的な成分の“強者側の一方的勝利も当然と見なすエトノス(委細、後述)としての絶対的・宇宙的・多(両)義的な「自然と生命」そのものの宿命”が視野に入っていたと理解されている。そのためか?ナチスを歴史的好機(必然の歴史的瞬間=カイロス)と見たハイデガーは、一時期、フライブルグ大学総長“拝命”後の同年(1933)にナチスに入党した。


・・・「ゼウスとデーメーテールとの間に生まれた娘ペルセポネー(Persephone/源流は古代エジプトの女神イシス(アセト)神/“権力と支配”の神)」(添付、彫像(クレタのイラクリオンにある考古学博物館蔵)の画像はウイキより)はギリシア神話に登場する女神で冥界の女王であるが、コレー(乙女)、クーラ(気づかい)とも呼ばれる。


[クーラ(ペルセポネー)寓話]


レンブラント『ペルセポネー(クーラ)の略奪』

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…Rembrandt「The Rape of Proserpine1631」oil on oak panel 84.8 cm× 79.7 cm . Gemäldegalerie der Staatlichen Museen zu Berlin /Persephone=Cura、http://urx.red/GFBR 


<注>ギリシャ神話「ペルセポネーの略奪」の物語はコチラ ⇒ http://urx.red/GG3C


・・・両義的、つまり人間的かつ悪魔的という意味でH.アーレントリベラル共和主義の擁護者)に大きな影響を与えたハイデガーのゾルゲ(気遣い、思い遣り、関心)・・・


(クーラ(ペルセポネー)寓話)


ハイデガーの著書『存在と時間』では、その第42節「現存在の前存在論的自己説明に関わる“気遣い、思い遣り、関心(Sorge)”としての現存在の実存論的解釈の確証」のためとして、古代ローマ人ヒュギヌスが伝える『クーラ寓話』(そもそもはギリシア神話)が示されている。なお、ハイデガーのゾルゲ“気遣い、思い遣り、関心(Sorge)”は、この物語の主人公クーラをも連想させるドイツ語である。以下に、その物語の概要を『関本洋司のブログ、http://urx.red/GFBR』より転載させて頂く。


・・・昔、クーラ(ペルセポネー、豊穣の女神デーメーテールの娘/気遣い、思い遣り、関心)が河を渡っていたとき、クーラは白亜を含んだ粘土を目にした。クーラは思いに沈みつつ、その土を取って形作りはじめた。すでに作り終えて、それに思いをめぐらしていると、ユピテルジュピター、収穫)がやってきた。


・・・クーラはユピテルに、それに精神をあたえてくれるように頼んだ。そしてユピテルはやすやすとそれを成し遂げた。クーラがそれに自分自身の名前をつけようとしたとき、ユピテルはそれを禁じて、それには自分の名前であるユピテルがあたえられるべきだ、と言った。


・・・クーラとユピテルが話し合っていると、テルス(大地)が身を起こして、自分がそれに自分のからだを提供したのだから、自分の名前テルスこそそれにあたえられるべきだ、と求めた。


・・・かれらはクロノス(時間/ローマ神話では農耕神サトゥルヌスと同一視される)を最高裁定(審級)者に選んだ。そしてクロノスはこう判決した。ユピテルよ、お前は精神(収穫の精華)をあたえたのだから、このものが死ぬとき、精神を受け取りなさい。テルスよ、お前はからだをあたえたのだから、(このものが死ぬとき)からだ(死せる肉体)を受け取りなさい。さてクーラよ、お前はこのものを最初に形作ったのだから、このものの生きているあいだは、このもの(生きている肉体)を所有していなさい。


・・・ところで、このものの名前についてお前たちに争いがあることについては、このものは明らかに土humusから作られているのだから、人間homo(→ホモサピエンス)と呼ばれてしかるべきであろう


・・・


(知的“略奪”か“倫理”か?の両義性でリベラル共和主義の擁護者たるH.アーレントに大きな確執を与えたハイデガー“ゾルゲ(クーラ)”(気遣い)の問題)


ハイデガーは、上の『クーラ寓話』の中でサトゥルヌス(クロノス)が象徴する「時間」の支配的役割を重視しており(一般に外見・相貌・位置・形状などの変化で時間を知覚することから“エイドス(形相)、いわば視覚”重視の哲学・現象学)、それがハイデガー哲学に、冥界の王ハーデース(美の女神アフロディーテと、その息子エロースらの目論みの下でクーラを略奪するhttp://urx.red/GG3C)にも似て魔術的とも言える抗い難い強い力を与えることになった。


そのため、<カール・ヤスパースの共和的・人道的倫理観(只の堅物の意味に非ず!愛と美と性を司るギリシア神話の女神アフロディーテの息子エロースが象徴するパーソナリティー風ながらも異者協和的でプラトニックな精神)>と<M.アンリ「情感(生)の現象学」の対極であり、かつ略奪者(アブダクション)的で魔術師的なハイデガー>という、二人の知的巨人に師事したH.アーレントは、彼らの両義性の下で大いに悩み抜き、遂には激しい確執の泥沼に飲み込まれた。


<注>アブダクション(abduction)

・・・原義は略奪・拉致で、仮説形成とも訳される。米国の哲学者C.S.パース(C.S. Peirce/1839-1914/プラグマティズムの創始者)がアリストテレスの論理学をもとに提唱し、帰納法、演繹法と並ぶ第三の推論法として新たな科学的・哲学的発見等に不可欠と主張した。


なお、当然ながら真理探究の魔術師であった巨人ハイデガーの広大な視野には「宇宙的な意味での全世界のなかに必然性として潜む魔術的・悪魔的なもの(権力的暴走、ファシズム、戦争、テロ、殺人、破壊願望、猟奇性など)、ことごとく一切の“悪”が入っていたと考えられる。

・・・


また、同じく上で述べたハイデガーのゾルゲ(Sorge)の一般的な意味は「生活環境や過去・現在・未来をも含む凡ゆる内外の環境と自分以外の存在者としての全世界に対し、その世界内存在としての人間が関心を持ち、それらを深く気遣い思い遣りつつ関わり続けること」とされており、又そのような意味で、世界へ如何に気遣いしつつ関わるかで人の生きる意味が異なってくることについてもハイデガーは論考を深めたと理解されている。


因みに、『クーラ寓話』の「大きな自然に包まれている人間存在の奇跡」という含意は、<AIは意識を持てるのか?>という悩ましい問題と絡みつつ、近年において再び注目されるようになったが、それは「エトノス」の観念に近いのではないかと思われる(ヒト並にAIがエトノス観念を持つのは不可能であろうが)。なお、エトノスの定義は既定のものがないので、仮にtoxandoriaが纏めた内容を、自身のブログ記事等から以下に修正転載)しておく。


・・・エトノスは『半永久的な絶対的・持続的<生>の流れの中で受肉した個人の身体(有限な個々人の“生”)を含む内外の自然・人工環境に加え、ヒトの生命と社会生活の維持に必須のローカルな一定地域の自然・歴史・文化・記憶環境と深く共鳴しつつ“<生命>と人間性を未生(未来)へ繋ぐ揺り籠”とし得る開放系の間主観性・共有観念、または過去〜現在〜未来におよび生存環境の微小馴化を受け入れつつ絶対的<生>の“持続性”と往還的な歴史的関係性、および多元的で寛容な個人・集合・社会・共同体を重視する意識の総体』である。・・・


<注>歴史的に見たエトノス(ethnos)


・・・古代ギリシア語で、村や都市に集住する「民衆」(デモス/demos)の周辺に住み、その「民衆」以外の部族集団を指したエトノスは、相対的に立場が変われば志向アフェクト(意識)のベクトルが反転するので、自ずと真逆の意味になる(善・悪の立場の入れ替わりがあり得る)のも当然である。従って、そもそもエトノスは胡桃の殻の如く固陋な評価を伴う概念ではない。


・・・それ故、これは歴史・政治・科学・倫理などの諸条件しだいで、その意味が変容する非常に柔軟な用語である。だからこそ、歴史・政治・科学・倫理の背骨となる「絶対的な“生”」の意味を探求する倫理・哲学あるいは宗教の役割が益々重要になるとも言える。


・・・加えて、<生命・意識・文化の持続に必須であるローカルな自然、歴史、風土、文化との対話、そしてそれに因るエトノス自身の射程の一定の変容も必須!>の条件が付くので、エトノスは固定観念化したイデオローグではあり得ない。


1 M.アンリとフッサール現象学の差異


1−1 M.アンリ『実質的現象学』(情感の現象学)


(フッサールとM.アンリ/フッサール形相(視覚)、M.アンリ質量(情感)なる両作用因の差異)



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・・・フッサール現象学の概要については下の記事◆を参照乞う・・・

◆20170901toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)、大前提とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』http://urx.red/GTNP(人物画像はウイキより)


・・・


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我われ個々の人間は、自己なる存在の核心について深く気付いているか否かにかかわらず、日々に様々な感情と共に恰も揺曳する“かげろう”(陽炎)の如く生き続けている。また、我われが無意識も含む「記憶」(およびエトノス環境の影響/委細、後述)から寸時も逃れることができないのも現実である。(以下、M.アンリ著『実質的現象学』(叢書ウニベルシタス)を参照しつつ、論を進めて行く/人物画像はhttp://urx.red/GTN5より)


また、仮に自分一人が、あるいは自らを含む一定数の人々が、仮に、いま突然に此処で死ぬようなことがあるとしても、自らの周辺を含み、この世界に生きるその他大勢の人々は、やがて何事もなかったかの如く今までどおり生き続けてゆくだろう。が、このように流れ去る世界の中で、個々人の「絶対的主観性」を保障する<現象学的実在性(真理)>とは何であるのか?


M.アンリ(Michel Henry/1922−2002/フランスの哲学者・現象学者)は、このような視座から論考を深めて行ったと思われる。そして、同じ現象学と呼ばれるものであっても、M.アンリは、<フッサール現象学における「形相(エイドス)、質料(ヒュレー)」の作用因(アリストテレスによる)>と、<自ら(M.アンリ)の現象学における「絶対的主観性」に内在する作用因>を全く異なるものとして峻別した。


<注>アリストテレスの言う4種の作用因

・・・形相因(エイドス)、質料因(ヒュレー)、始動因(起動因/アルケー)、目的因(テロス)の4つ。


・・・


従って、M.アンリの<実質的・志向的現象学/普通の意識では見えず、かつ理解不能な個々人の内奥にある真理の中核たる意識作用(コギタチオ)の探求プロセス>におけるエイドス(形相)とヒュレー(質量)の両者に相当する概念は、フッサール現象学とは異なり、外部世界の現象学的な形相的「与件/現出」以外の実在とも共鳴し得る多様な志向性(様々なベクトルを帯びた意識)を獲得することになった。


言い換えれば、M.アンリの現象学では、作用因としてヒュレー(質量)が最も重視されていることになる。もっと分かり易く言ってしまえば、M.アンリは、個々人の絶対的主観性の意識作用(コギタチオ)の実在性として視覚と結びつき易い形相(エイドス)よりも触覚・痛覚らとの親和性を十分に想像させる質料(ヒュレー)を採用していることになる。


そして、M.アンリは絶対的主観性の実在性(その中核に内在する真理)の現象学的な「与件(現れ)」として「感情」の表出を措定する。その絶対的主観性の核心(自己性の湧出源)となる「与件」の背後、個々の絶対的主観性の中核には、その与件(現れ)を含む広大な「感情の海」(超越論的情感性/affectivite)が存在すると見るのがM・アンリの特徴である。


つまり、「視覚」以外の知覚(内感の窓口としての触覚なども含む)を重視しているという点が、「視覚」という個々の形相的な与件(現れ)と結びつき易いエイドス(形相たる意識内容(コギタートゥム/cogitatum))を重視するフッサール現象学(やや設計主義的な理性の現象学)と、片や触覚を重視するM.アンリの現象学(“感情の海”の拡がりを想定する情感性の現象学)の根本的な差異であると思われる。


なお、[神谷英二:情感性と記憶―アンリ現象学による試論(1)/福岡県立大学人間社会学部紀要2005,vol.14,No.1,21―36 http://u0u1.net/GN7E]によれば、<情感性(affectivite)とは何か?の問い>に、M.アンリ以前のヨーロッパ哲学は必ずしも十分な答えを提示してきたとは言えないようだ。


・・・


ところで、M.アンリの「情感の現象学」はゲーテ・ロマン主義を源流とするハイデガーの魔術的・悪魔的な「脱‐自」論(直線的な時間の経過と形相のダイナミックな交差・介在で触発される、視覚に因る即効的・短絡的なエクスタシー覚醒/心的内容に直接関わる強力なエイドス外在主義、形相因傾斜型のテーゼ)と異なり、そのような時間と交差するまでもなく先ず自己に内在する“生”の本質が自らを受容し、自己自身を内感する現象学的なエクスタシー覚醒であり、即ちそれがM.アンリの「情感(affectivite)の現象学」の核心(自己性の現象学的本質)ということになる。


<注>ゲーテ・ロマン主義(ドイツロマン主義の本格的始祖)について


・・・巨人ゲーテのロマン主義は両義的・多義的であるが、これは、例えば科学精神の成果であるはずの産業革命(産業技術革命)がロマン主義精神(沸騰する情念)によって支えられたという側面もあることを想えば理解し易いと思われる。


・・・換言すれば、そもそも人間の「生命の発露としてのグノーシス神秘主義的な精神」そのものが本源的にロマン主義的な存在(観念欲動的な“生”/欲動は欲望に非ず、それをも含む強い生命力と理解すべき)であるという、そのこと自体を全否定することはできない。


・・・問題は、ロマン主義と限定合理主義との、いわば両成分のバランスを取ることの意義に気付くか否かである。つまり、科学の進化にもかかわらず合理原理主義は、おそらく永遠に魔術のジャンルであり続ける可能性が高いということだ。


<注>合理原理主義(主観的合理性)が“魔術のジャンル!である(例えば、今の世界を席巻する自由原理主義(新自由主義)の如き合理原理主義は魔術の罠に墜ちやすい)”ことについては、下の記事(◆)のホルクハイマーに関する部分を参照乞う。


◆20170901toxandoriaの日記/愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ(1/2)大前提とすべき危機の哲学、フッサール『現象学的還元』http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170901 

 

・・・ワンポイント(主観合理原理主義)で全ての現実が説明可能で、それで人間の真理が確保されるという異常情念に因るアフェクト(志向意識)に嵌り出現するのがマッド・サイエンティストシンギュラリティ、あるいはタイムマシンの実現などを単純に信奉する人々)だが、それにはAI学者、生物学者、科学・物理学者ら自然系に限らず人文・社会系も含む人々が連なっている。


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・・・例えば、日本会議に共鳴するアナクロ「追憶のカルト」なる魔術派の人々、又は<『情念の現象学』など全ての現象学>を<一種の錯覚に過ぎない“精神、信念、欲求らの命題的態度”に嵌った内的錯乱の非科学的な誤った表現>と見なす“心の哲学系”の学者ら(例えば、『消去主義的唯物論』のポール・チャーチランド(米国の神経哲学者)ら)も、おそらくマッド・サイエンティストと同類の思考回路の人々と見るべきかもしれない。


・・・なお、現象学は<主観と客観世界のアウフヘーベンを志向>しつつ人間の精神と社会の持続的成長を探求するものであると説いたヘーゲルの『精神現象学』を高祖としている。一方、ポール・チャーチランドらの『消去主義的唯物論』は、“AI研究等と同期しつつ高度化する脳科学の進歩によって、いずれ“素朴心理学”などの説明過程は完全に破棄され、無用の長物となる時が来るという“過激”な合理論を主張する。これは、ヒトらの『生命』と“生きる意味そのもの”を不経済な夾雑物と見なす<市場原理主義と同類の悪魔的な合理原理主義>に他ならないと思われる。


・・・この様な由々しき傾向を反面教師的に見れば、それはリベラル共和(啓蒙)主義の精神をハートランドとしつつ絶えざる日常生活(エトノス環境内での人間を含む生物の“生”)を重視する意識の維持と充実を求める市民層の多元的で強い自律意思(共生志向の主権者意識)にこそ、普通一般の人々の日々に新たな民主主義への希望(アナクロニズムの対極)があるということである(Cf. ツヴェタン・トドロフ『日常礼賛』http://ur0.work/GXuf)。


・・・


(ダン・ザハヴィによるM.アンリの評価)


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ダン・ザハヴィ(Dan Zahavi/1967‐ /デンマークの哲学者・現象学者)は、著書『自己意識と他性/現象学的探求』(叢書ウニベルシタス)の原著(1999)でコペンハーゲン大学教授の資格を得た、現象学的「主観性」研究の分野で世界をリードする研究者である(人物画像はウイキより)。


いまザハヴィは、古典的デカルト的な立場での研究が絶対に承認しようとしない<ある一定のエトノス(『大文字の“生”(委細、後述)』の影響下にあるという意味で“先反省”)的な複合性と多様性を自我の「生」(個々の生命力の核心)に、作用因としてのヒュレー(質量)分析の手法で帰属させようとするM.アンリの実質的現象学(情感の現象学)>を高く再評価している。


更に、近未来を見据えるザハヴィは、無意識、催眠、記憶、倫理学・美学(レヴィナス、ガダマー、ディーター ヘンリッヒなど)、先端AI研究、脳科学などもその視野に入れつつある。


また、これを翻訳した中村拓也氏(同志社大学文学部准教授)の同書“あとがき”によれば、特にザハヴィの<無媒介的認知的自己意識(先反省的自己意識)>は、往々にして哲学的思考などで見られる難解な概念の捏造ではなく、それは体験的な偏在性として誰にでも日常的に起こり得る主観的「自己—顕現」(個々人の内感フィールドにおける自己覚醒)レベルの問題、つまり個々人の「主観性の核心」を抉り、それを『感情の現象学』的な立場で説明し得る堅牢な言葉である。


例えば、近年、世界的に問題となりつつあるネオ・ナチズムなど極右政治勢力(欧米各国の極右派、日本における日本会議(周知のとおり、それは靖国顕幽論の取り戻しと国家神道への回帰を謀る安倍自民党政権の守護神!)などが急速に台頭しつつある政治状況の深層には、M.アンリの「情感の現象学」のテーマとも深く関わる問題が潜む可能性があり、特にザハヴィの<無媒介的認知的自己意識>が重要なテーマとして注目されている(《注記》無媒介的認知的:言語等の意識的コミュニケーション介在が存在しない次元、いわば其れ以外の多様な回路でエトノス環境の影響下にある、無意識等の認知作用のこと)。


因みに、「自己意識(self-consciousness)」は自己に向かっている意識そのもの(つまりノエシス)だけを指し自己がそれを意識しているか否かは無関係である概念なので、「前反省的自己意識(prereflective self-consciousness/ザハヴィの言葉で言えば無媒介的認知的自己意識)」は、<自己自身はそれを意識はしていないが前意識(無意識・深層意識)は自己を確実に志向(無意識に意識)していると思われる状態>を指す。


この「無媒介的認知的自己意識」は、<いわばヒトを含む個々の生命体には“自らの破滅をももたらしかねない自己破壊的リスクとエントロピーを増加させる自滅(無限背進・後退)型のマイファースト利己主義への没入、あるいは自然&文化破壊、歴史修正主義(時間性の錯乱)、ファシズム、殺人、テロ、復讐先取(@カズオ・イシグロ/委細、エピローグで後述)、猟奇・残虐嗜好などへの激烈な衝動をもたらし続ける前意識の系譜(エス/das Es)”が普遍的に存在している可能性が高い>という、非常に厄介な事態(現実)を示唆している。特に、人間の場合はそれが権力者を“政治権力の暴走”へ誘導するリスキーな情念、ということになる。そして、安倍晋三トランプ、金正恩らの暴政は紛れもなくこの魔術(悪魔)信仰のジャンルに入るだろう。


だからこそ、今や「政治思想史」と「感情の政治学」はこの非常に悩ましい問題(無媒介的認知的自己意識)との対峙が避けられなくなっている。因みに、“二つのエス”の内容を具体的に見ておけば、それは<(1)『必要であればファシズム(個の生命を破壊する)もエトノス破壊(戦争あるいはファシズム独裁・テロ・ヘイト・殺人・猟奇行為等の犯罪)も当然視する “狂想”』および(2)『不均衡解消作用としてオートポエーシス的な根源的生命力の基盤を提供する“健全”な意思』>、という<「二つのノエマ」の前意識>である(関連参照⇒『エス(das es)と純粋経験について』http://ur0.work/GXxn)。 


そして、これら「二つの前意識」は夫々が「情念(前意識に潜む)のノエマ/いつでも意識化され得る情念の内容」として自覚的な意識に大きな影響を与えることになる(更なる“二つのエス”の委細は下の記事◆を参照乞う)。


◆20170320・toxandoriaの日記/安倍・トランプ・ルペンら極右「オレオレ反知性主義」に代わる「民主主義Stage2」の土壌、エトノス、マイクロバイオーム、コンシリエンス、AI活用は、EUが苦闘する「新世界」へのプレゼンスhttp://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20170320


・・・


例えば、古典的な自由平等の「建国の精神」への回帰を標榜するウルトラ保守層(Rust Belt白人層、人種差別主義者)らの熱烈なトランプ支持層が、そもそも自らを困窮化させた元凶である「自由原理主義(新自由主義、小さい政府)なる“格差”拡大がホンネの偽イデオローグ」を未だに篤く信奉しリベラル共和派(限定自由主義派)を厳しく批判する姿は大きな「自己矛盾」だが、この重篤な「米国分断」病の寛解のためにもM.アンリ『感情の政治学』由来の知恵(ヒュレー/触覚等の内感をより重視する)を生かし、その「前意識」の病理を摘出して衆目に曝しつつ、そのこと自体を広く啓蒙する工夫が求められる。


実は、<ナチス・ドイツでも、今の安倍政権下の日本でも、トランプ政権下の米国でも、肝心の“格差”を押し付けられ最も騙されている筈の国民層が中心となり、その“格差”を押し付ける偽イデオローグ(現代日本でいえばアベノミクス)を篤く支持し続けている(支持し続けてきた)>という、絶対に見逃すべきでない現実があることに、もっと我われは注目すべきである(エピローグで、これと関連することとして、現代日本における若年層の選挙行動に関わる興味深いデータを記述する)。


ともかくも、ザハヴィは、現象学者としてはじめて『・・・脆弱性(個の“生”にとっての決定的な弱点)を内蔵する前意識の系譜』が、「無媒介的認知的自己意識」の絶対に避け得ない大きな成分であること、いわば“このような自己意識(コギト/cogito)の最深部の意識作用(コギタチオ/cogitatio)へ影響を及ぼすと考えられる未知の感情メカニズム)の暴発”に直結する脆弱な意識の成分であることを明確に示したと言えるだろう。


なお、先に見たとおり、ザハヴィは無意識、美学・倫理学、先端AI研究、脳科学などの所謂コンシリエンス(consilience/人文社会・科学両知の融和的統合)http://qq3q.biz/FpPZ)のフィールドをも自らの研究の視野に確実に取り込みつつあるが、必然的に、そこには「目下、AIと脳科学がクロスするフィールド」等で研究が進む、個々の生体内ネットワークの一環であるRAS(ヒューリスティック(限定的)な合理性、意識統合!」のために必須の盲点)の問題が絡んでくると思われる。


<注>RAS(脳幹網様体賦活系)について【意識のみならず全ての生体機能は“オッカムの剃刀”(思考節約の原理)方式で「程ほどの効率」と「ほぼ満足できる安全」の両面を同時に実現する】


・・・意識に限らず、ある身体システム(知覚作用など)が十分に情報統合的・限定効率的に、そしてほぼ満足できる安全を確保し機能している時には、例えばそれが「視覚」の場合では脳幹基底部ゾンビ(無意識作動のフィールド)の情報遮断フィルター(脳の盲点(Scotoma)に相当するRAS(脳幹網様体賦活系http://urx.mobi/GM1m)作用による「Blind spot/盲点」の発生で、敢えて「ヒューリスティック(限定的http://urx.mobi/GM1x)な合理性/つまり、統合合理性!」の実現(目的に応ずるベスト知覚機能の確保/ここでは目的の物を見る視覚)と同時に、その人間(個々の生体)の「個体生命の安全も確保」していることになる(出典:ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ著『意識はいつ生まれるのか』―亜紀書房―/委細は下の記事◆を参照乞う)。 


◆20170518-toxandoriaの日記/盲点「RAS/江戸プロトモダニティー」は安倍晋三ら偽装極右派の天敵/仏教と国家神道の“量子的もつれ”、「神仏習合史」に真相が隠されている、http://urx.mobi/GM1a


(『情感の現象学』の共同体論/“M.アンリの現象学”の特質)


M.アンリとフッサール現象学の差異については、当(1−1)の冒頭で既に触れたので、ここでは、M.アンリ『実質的現象学』(叢書ウニベルシタス)などを手がかりに「情感の現象学」の特質である、M.アンリ「共同体論」について整理しておく。なお、エイドス(形相)偏重のフッサール現象学の批判的継承が、M.アンリにヒュレー(質量)重視の“感情の現象学”の発見をもたらしたと考えられる。


そこで先ず留意すべきは、往々にしてこれらは混同され易いのだが、M.アンリは「情感性(感情)」と「感覚(感性)」を全くの別物であるとして区別することだ。フッサールは感情を<精神的な知覚作用としての“考える作用”>と同じノエシス(因みに“考える内容”はノエマ)と見る一方で、M.アンリは「感情は常に自己感情(自己が自己感情を内感するもの)である」と見ている。


<注>ノエマ(noema)とノエシス(noesis)

・・・両者とも古代ギリシャ語のnoeo(見る)に由来する言葉。ノエシスは<考える作用それ自身>、反対にノエマは<ノエシスが考える内容>である。


・・・


感情とは自己の内側で自らを志向(アフェクト)する存在であり、例えば、愛の感情とは自己(自己の愛)そのものが“内側で自己の愛それ自身を受容し内感する”ものだ。故に情感性と他者を知覚する感覚(感性)は構造的に全く異質なベクトルを持つ知覚の二つのジャンルである」とM.アンリは説く。


従って、どれほど二人が愛し合っているとしても、つまり、双方がそれぞれ相手(相方の他者)へ深い愛情を感じている(と一般に思われる)熱烈な恋愛の場面でも、「感情の現象学」的に見れば、その双方が共に<自己が他者の内側へ入り込み、他者の内側に宿った自己の愛を、他者の内側で直接的に内感すること>は絶対にできないということだ。つまり、M.アンリの現象学的に言えば、個々人の「自己の愛」は何処までも孤独であることになる。


しかし、M.アンリは「絶対に体験(内感)し得ない他性の意識(コギタチオ)の中核(上で見たとおり、個々人のそれは永遠に孤独である)に寄り添うことは誰でもができる。但し、そのためには自己が絶対的“生”(エトノス(自然・生命・文化・歴史環境)に相当すると思われる、大文字の“生”/補、toxandoria)の意味に覚醒することが絶対的な条件になる」とも説いている(関連参照⇒M.アンリの受肉の存在論、共‐パトス/出典:松下哲久『現代フランス哲学における感情と共同性の問題』http://u0u1.net/GN8q)。 


・・・


つまり、M.アンリは個々人の肉体の身体性を<エトノスとも共鳴する圧倒的に奥の深いパトス(情感性)>と捉えていることになり、それがM.アンリの「自己‐触発」、換言すれば「情感の現象学(超越論的内的経験)」の基底である。言い換えれば、ここでの現象学的「触発」とは、自己自身(自己の真理と同時に自己の“共‐パトス”の大きな可能性)に関わる<自己の身体的な情感性についての覚醒的で画期的な発見>とも言えるだろう。


また、M.アンリで留意すべきは、個々人の「生」(生命)の核心にあるものがストレートに他性(他の人々の意識の核心)と結びつくものではなく、それは何処までも孤独な個性(個々の意識/コギタチオ)であり続けるということだ。但し、感情(自己感情)による自己自身(自己の真理)の発見は、より大きな“生”が介在する関係性を志向する意識(アフェクト/超越論的情感性、つまり生の内に存在する“共”—パトスの作用因)となり他性との共感を創る回路が保障されることになる。


つまり、そのような回路を提供する、より大きな“生”の条件は何か?ということになるが、M.アンリはそれを個々(人)の「生」を超えた<絶対的で大きな生>と呼ぶ。この<絶対的で大きな生>は分かりにくく聞こえるが、例えば冒頭(エピローグ)で触れた「エトノス」を連想すれば理解し易いのではないか?


それは、あくまでも個々人は孤独で孤立した存在であるとはいえ、<絶対的な生(エトノス環境内の“小文字の『生』”の意義)>と「情感の現象学(超越論的内的経験)の可能性」についての気づき(発見)によって、我われは、共感・共鳴・共存し、互いに寄り添う共同体(共—パトス/人々が寄り添うことによる情念の共鳴)の中で生き続ける可能性が絶えず拓けるのではないか、という希望である。 


但し、忘れてならないことがある。それは、ハンナ・アーレントがハイデガーとヤスパースの間での確執の体験で気づいたように(関連委細は後述)、M.アンリが現象学的に抽出してみせたヒトの自己性(その中核は前意識を含むコギタートゥム(cogitatum)/自己の中核となる真理の領域)には、“共—パトス”だけでなく、ハイデガー哲学にその典型が覗われる“魔術的な闇の成分”も存在する可能性が高いということだ。


因みに、ヤスパースは「ハイデガー哲学には魔術(悪魔)的なものが潜む」と述べている(Cf.当記事『1−1 M.アンリとフッサール現象学の差異(ダン・ザハヴィによるM.アンリの評価/二つのエス)』、小森謙一郎『アーレント最後の言葉』et 早稲田レポジトリ・博士学位論文『ヤスパース倫理学の射程/実存倫理〉から〈理性倫理〉へ』http://ur0.biz/GOuK)。つまり、啓蒙主義もこのような意味で前意識と感情の現象学の関連性から改めて捉え直すべき時代に入ったと思われる。


ともかくも、M.アンリの<絶対的な“生”=大文字の“生”(委細、後述)>の視界に入るのは我われホモサピエンスにとどまらず、人間以外の生命全般でもある。その意味で、M.アンリの哲学(情感の現象学)はキリスト教的な観念というよりも、むしろa『原始アニミズム的な伝統神道』(安倍政権が取り戻しを謀る、明治維新期に捏造された国家神道(b靖国顕幽論に因る)はこれと全く異質!)、あるいは神仏習合下の仏教文化(特にb『法相宗』系統の大乗仏教)に馴染んできた日本人にも親しめるアニミズムの空気を感じさせる(a、bについての委細は下の記事◆を参照)。


◆20170114toxandoriaの日記:第四章/伝統神道の原点と見るべき神道書『神令』によれば、「天皇制」草創期(およそ“大化改新”以前)の神道は天皇に対し民衆を平等に見る徳治政治を求めていた!http://ur2.link/GRZ8

◆20170114toxandoriaの日記:第二章/日本会議・神社本庁らが国民の無意識層で再発現させた戦前型「客観“知”への激しい憎しみ」、それは異常な平田篤胤仕込の「顕幽論」(インテマシ―過剰)http://ur2.link/GRZ8


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因みに、現代に遺る純粋な法相宗・寺院は奈良の興福寺と薬師寺の二寺だけとなっており、その肝心の始祖である中国の法相宗は途絶えている。ただ、今も日本では東大寺(法相宗系の華厳宗)、あるいは慈恩寺(山形県・寒河江市http://urx2.nu/GPf7)など真言系などと習合した形でその看過すべきでない希少な精神が細々と伝えられている(慈恩寺『寒河江市』は行基が開山し聖武天皇の勅願で天平18年(746)に婆羅門僧正が開基したとの伝承がある/一枚目の画像は維摩居士坐像(定慶作/興福寺)二枚目の画像は慈恩寺三重塔(山形県指定文化財)、出典=http://urx2.nu/GPfr及びウイキ)。


<参考>法相宗の核心である「維摩経」の要点


・・・「維摩経」の主人公である維摩詰(維摩居士)は在家菩薩の代表とされる。大乗仏教の最も基本的な考え方が「空(空観/くうがん)」と「人間の平等観」であり、それが「般若経」で説かれ、更にそこから派生的に「華厳経」「法華経」「阿弥陀経」「無量寿経」「維摩経」などの経典が作られた。特に留意すべきは、維摩経の「空」の考え方が般若経よりもより現実的で、生身の人間(人生、小文字の“生”)の機微を重視することだ。


・・・見逃すべきでないもう一つのポイントは、在家の長者(商業・交易に携わる有徳の富豪)である維摩詰の活躍した時代が、およそ紀元前後頃のインド北部で実際に存在したヴァイシャ―リーと呼ばれる「共和政体の商業都市国家」(貨幣経済が発達し東西交易で栄えたグローバル商業都市/マガダ国の首都パータリプトラの繁栄と並び立っていた)であったということだ。そして、「維摩経」のエッセンスを集約すれば以下のとおりとなる。


<“しょせんは「我空法有(がくうほうう)」のみで、人間の真我(アートマン/おそらく、これはデカルト、フッサール、M.アンリらが言うコギト(cogitoに重なる?)も含めた意味での森羅万象の永続的な形相(エイドス)は存在しないので、我われ人間は一瞬一瞬の出会い(「縁」で生じる個々の「法」の繋がり)を共有して一期一会の今を真摯に生きつつ固有で伝統的な真の文化を未来へ伝える努力を継続すべきだ。同じ意味で人間は本来的に平等な存在であるから、苦しみも、新たに創造される経済価値も、でき得る限り平等に分かち合い、広くリアルな社会と世界での良循環が実現するように努めるべきである。有徳の長者らリーダーは、これら大乗の考え方を基礎とする人間社会での「信(信用)」(富める者は喜んで与える、貧しいものは努力して豊かになれる)をベースとする良循環社会(不平等と格差を前提とする『悪循環社会』ではなく)を築くよう努めるべきだ。また、菩薩・天女らの神通力を別とすれば、我われは一瞬一瞬の出会いを共有しつつ現実を生きるしかないのであるから、未来予知や予言の類はあり得ないとして否定する。>


2 『感情の政治学』(共—パトス)で持続的に拓くリベラル共和の新たな可能性


・・・『アーレント最後の言葉』の現代的意義/リベラル共和主義の持続的「生起」の条件を模索したハンナ・アーレント・・・


(アーレントがメモに遺した二つのフレーズの謎解きに挑戦する小森謙一郎『アーレント最後の言葉』の警鐘、それが意味することとは?)


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・・・小森謙一郎『アーレント最後の言葉』が示唆する、“感情の政治学”の現代的意義・・・


(プロローグ)でもふれたが、恰も「真理探究」一筋の自然科学者の如き略奪者(アブダクション)的で魔術(錬金術)師的なハイデガーと、それと真逆の「倫理傾斜」主義で共和精神的なヤスパースの二人に師事したH.アーレントは、その二人の両義的な哲学の下で大いに悩み抜いた。なお、彼女の博士論文である『始まりの本/アウグスティヌスの愛の概念』(原著・出版、1929)は、ヤスパースの指導と、ハイデガーの影響のもとに書かれた(http://urx3.nu/GQ3H)。


H.アーレントは、著書『精神生活』(原著・出版、1978/(unfinished at her death, Ed. Mary McCarthy, 2 vols. /New York: Harcourt Brace Jovanovich)で小カトーの功績と意義の象徴とも言える『アーレント最後の言葉』の中のフレーズ“敗れた大義”(ゲーテ《ファウスト》より)を引用しつつ、《人間の条件》について結論を述べている。因みに、小カトーの意義とは、小カトーが<十分に議論し考え抜かれた多数派の民意を常に最重視するリベラル共和主義を諦めずに維持し生起し続けることの重要性>を我われに教えている、ということを意味する。


そのアーレントの《人間の条件》とは、(1)労働(エトノス環境と身体に直結する活動)、(2)制作(芸術にその典型が見られる、より自由な人間的側面)、(3)行為(人間固有の言語・ロゴス活動)の三つであり、これらの中で(3)が最も重要である。しかし、これらは単純に序列化されるべきではない。


肝心なのは、<人間の“感情”と密接に繋がる(1)をベース(生活の糧を得る基盤でもある)としつつ、(2)も常に大切にして(この“より自由”な空間の中で人間としての意思が培われる)、(3)の言語活動で表現し、コミュニケーションする、・・・そして再び(1)→(2)→(3)の回路へもどる・・・>という形で、身体と精神の関係を良循環の持続の流れの中に置くべきだ、ということになる。


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この《人間の条件》の良循環が失われ最も重要な「自分で十分に考えること(3)」ができなくなると、アーレントが『エルサレムアイヒマン』で書いた<悪の陳腐さ(悪の凡庸さ)に染まる(甘んじるばかりの)人間>が、ひいては、そのような国民ばかりとなった全体主義国家(ファシズム体制)が創られることになる(関連、後述)。


このような意味で、H.アーレントの「人類社会と個々の“生”にとって普遍的に役立つ思想」は、その余りにも過酷な“確執”に巻き込まれた彼女自身の内奥(コギタートゥム)」の“地獄”から生まれたと考えられる。だからこそ、<小森謙一郎『アーレント最後の言葉』が示唆する“感情の政治学”再発見の現代的意義>には特別の重みが感じられることになる訳だ。


つまり、アーレントが遺した『最後の言葉』の重要な意義は、この二人の巨人(一時期はナチスに入党していた魔術(錬金術)師的なハイデガーと、それと真逆の「倫理傾斜」主義で共和精神的なヤスパースの二人)の狭間で悩み抜いたからこそ、アーレントは、今や再び大きなレゾンデートルの危機に襲われつつある人間社会への警句と理解すべき重要な二つのフレーズを我々に遺すことができたと考えられる。


そして、その意義は下のように纏めることができる。


f:id:toxandoria:20171109112739p:image:w550:right《個々人の自己意識(b小文字の“生”)の中核(前意識が代表する無媒介的認知的自己意識(先反省的自己意識)/ダン・ザハヴィ)とエトノス(a大文字の“生”)の両領域(全生命・生存圏)を繋ぐ「感情の海の深層」に潜む「魔術的・悪魔的な闇」(ハイデガーのゾルゲが象徴する)の誘惑は永遠に続くものである。が、だからこそ我々は決して諦めてはならず、エンドレスの<生起>を決意する持続的な<『啓蒙思想』再生への意思>こそが、絶えざる<リベラル共和主義>復興の決め手になる、ということだ。同時に、それこそが「b」のレゾンデートルであり、かつエトノス環境(a)のなかで「ヒトおよび生命全般(b)」が“薄氷の希望を保持” しつつリアルな自然感情のバランスに包まれて生き抜くことが可能となるのである(感情自然主義)。》


<注>「小文字の“生”」、「大文字の“生”」

・・・M.アンリ「受肉の存在論(共‐パトス)」についての論考で松島哲久氏(倫理学/大阪薬大名誉教授)が取りあげた概念。「小文字の“生”」はヒトを含む個々の生命体、「大文字の“生”」は地球上の生命圏全体を指す「絶対的“生”」の意味。これは、おそらく(プロローグ)で取りあげた「エトノス」の概念に重なると思われる。(M.アンリ『受肉の存在論(共‐パトス)』の出典→『現代フランス哲学における感情と共同性の問題』http://urx2.nu/GPeh


・・・


・・・上の意義を、より深く理解するためのヒントは<ハイデガーのゾルゲ(気遣い、思い遣り、関心)とヤスパースの倫理・哲学の狭間で生じたH・アーレントの心理的軋轢>のなかにある!・・・


小森謙一郎『アーレント最後の言葉』によれば、ハンナ・アーレントが遺して逝ったとされる最後のフレーズは、下の二つ(1)(2)である。この後に続けて、小森謙一郎はこう書いている(同書プロローグより、部分転載)。・・・『従って、問いはこうなる。最後の言葉には、果たしてどのような記憶が賭けられているのか? 闇が覆った後になお残るものがあるとすれば、それは何か?』


f:id:toxandoria:20171109115014p:image:w300:right(1)勝てる大義は神々の心に叶った。(ここでは、結果的に国民のポピュリズムシーザーの専制(終身独裁官就任)を承認したことを意味する/ローマ帝政初期の詩人ルカヌスの《内乱》より/関連する右端の画像はウイキ)、http://urx2.nu/GPjd

f:id:toxandoria:20171109115348p:image:w300:right(2)敗れた大義はカトー(シーザーの生涯の政敵となった人物/共和政ローマ期の元老院派の政治家。哲学者でもあり高潔で実直、清廉潔白な人物として知られているが、最後は敗れて自害した/小カトーとも表記)の心に叶った。己の道から魔法(魔術)を遠ざけて、呪文のことばをすっかり忘れることができるなら、自然よ、ただ単なる男としてお前の前に立つのなら、ひとりの人間として存在する甲斐もあるだろうに。(ゲーテ《ファウスト》より)』(関連する右の画像はウイキ)


そして、『アーレント最後の言葉』の著者は<敗れた「大義のエンドレスの生起」にこそ希望がある!諦めてはならない!>の主張で同書の扉を閉じる。解釈の分かれる論点などが満載なので、様々な読み方があるだろうが、以下では、<未だにリアル政治(および政治学)は「感情を胎盤とする生の実存の理解」に追いついていない!>という観点から、関連すると思しき雑考を書いておきたい。


・・・


恋多き女でもあったH.アーレントだが・・・)


f:id:toxandoria:20171109115841j:image:w280:left映画『ハンナ・アーレント』でも描写されているがハイデガーとアーレントは不倫関係であった。その辺りの事情を纏めたドイツ文学者・中野京子氏のブログ記事『アーレントとハイデガー/哲学者たちの恋、http://urx.blue/GGoR』があるので、関連する部分を下に転載させて頂く(画像はhttp://urx.red/GT7bより)。


・・・ハンナ・アーレントがマールブルク大学哲学教授だった35歳のマルティン・ハイデガーに出会ったのは、18歳のとき。たちまち恋に陥り、不倫の関係へ。やがてヒトラーが政権を握り、ユダヤ人だったアーレントはアメリカへ亡命。一方ハイデガーは親ナチだったから学長へとのぼりつめ、自分の師フッサールやヤスパースを追放する。戦後、アメリカで華々しく活躍するアーレントによって、ハイデガーの立場はいわば「救われる」。


・・・ふたりの恋は大きく3期に分けられる。第1期は、官能的な恋の2、3年。戦争をはさんで、その後の中年期(これがドロドロ)、最後はふたりが死ぬまでの1、2年だ。アーレントが亡くなるのは1975年、その5ヵ月後にハイデガーは他界する。不思議な関係だ。真実なのだろうか。つまりこれほどの卑劣漢を、これほど長く愛し続けたアーレントの思いの深さとは何なのか。しかも彼女はどうしようもなくハイデガーに惹かれながら、夫のブリュッヒャーなしでは生きられないほど支えられてもいる。


・・・ここで、引用終わり・・・


ところで、小森謙一郎『アーレント最後の言葉』によると、ドイツ出身(ドイツ・ユダヤ人)のシオニストパレスチナでのイスラエル建国に貢献した人物の一人、クルト・ブルーメンフェルト(アーレントをシオニズムへ導いた人物http://urx2.nu/GPjU)ともプラトニックな友愛のエロス、つまり一種の恋愛関係であったことが覗われる。


同書によれば、そもそもドイツ・ユダヤ人系の知識人には「ドイツ・ロマン派」の源流とされる巨人ゲーテの思想の影響を受けた人物が多い。ゲーテの思想を一括りにするのは困難だが、敢えて政治学的な側面で大きく腑分けすると、それは「勝てる大義」(リアルな“小文字の生”の歴史から遊離した超ロマン主義の観念でポピュリズムを有効に操作しようとする強権主義)と「敗れた大義」(人間の“小文字の生”と自由・平等の理念を重視する共和主義)の両義性を帯びており、その意味では悪魔(魔術)的とされるハイデガーもロマン主義のジャンルと思われる。


このため、やがてアーレントとブルーメンフェルトの間には非常に悩ましい軋轢が生ずることとなり、究極的に、アーレントはブルーメンフェルトらの指導で建国されたイスラエルをナチス・ドイツと同質の「悪の陳腐(凡庸)さ」の亡者たちが仕える国家であり、堕落したポピュリズム・シオニスト国家だと見なすに至ったと考えられる。


また、ハンナ・アーレントが1963年に雑誌『ザ・ニューヨーカー』でアドルフ・アイヒマンの裁判記録、『エルサレムのアイヒマン─悪の陳腐さについての報告』を連載形で執筆することになった動機も、この辺りにあるのではないか?と思われる。


要は、イスラエルのポピュリズム・シオニスト(政府関係者)らは「ユダヤ人の近・現代代史、特にドイツ人化したユダヤ人の歴史」を正しく学ぼうとせず、伝説的なユダヤ民族の伝統化した妄想(お伽噺)に囚われたままでいると、アレントがイスラエル建国に携わったドイツ・ユダヤ人のシオニスト指導者を厳しく批判したことになる。


(エピローグ)愈々、グローバル新自由主義に置き換えるべき「感情の政治学」が必須の時代へ/日本で『感情の政治学』を正常に起動・生起し持続させるための条件


(1)『感情の政治学』を成立させるためのベーシックな視点


結局、H.アーレントが『人間の真理』を実現するための<活動力>探求のプロセスで已む無く巻き込まれて行った<ハイデガーらの「大文字の“生”の摂理(エトノス&コギト両者の内)に潜む魔術(悪魔)的な闇」>と<ヤスパースの倫理観(小文字の“生”を未来へ繋ぐための絶えざる“リベラル共和”「生起」への意思(“生”へのアフェクト))>との狭間で体験した<アーレントの激烈な葛藤の物語>の教訓は<エトノス&コギトの主要成分であるゾルゲ(気遣い、思い遣り、関心)をめぐるゲーテ「ファウストの悪魔」(自己意識の内容(コギタートゥム)の中核に潜む前意識の闇)と、リベラル共和主義の擁護者としてのアレント自身の究極の闘いであった>ということになるのではないか。


しかし、このゾルゲ(クーラ/参照、プロローグ)をめぐるゲーテ「ファウストの悪魔」(自己意識の内容(コギタートゥム)の中核に潜む前意識の闇)との究極の闘いは、ひとりH.アーレントに止まるものと見るべきではない。それどころか、それは特に“アベ一強政治権力”なる『感情の政治学』的な背理に苦渋する現代日本の国民一人ひとりに関わる肝心要の問題と理解すべきである。


逆説になるが、今の苦境下に置かれた我われ自身の日々の生活こそが、愈々、これから日本でも『感情の政治学』が重要になるという問題意識のベースとなり得る稀少なリアル歴史経験であるので、これを奇貨として活かすべきなのだ。なお、『感情の政治学』の著者・吉田徹によれば、『感情の政治学』が成立する要件には、「化」(どのように政治に関わるか)、「間」(関係者の政治で、現代世界を席巻する新自由主義の政治を置き換える)、「群」(群れて行動する)、「怖」(恐怖がそもそも存在した場所)、「信」(なぜ政治に信用が必要か)の5つのポイントがある。


(2)2017「衆議院議員選挙」の結果から見えてくること(『感情の政治学』的な診断)


そこで、ここでは直近の衆議院議員選挙の結果を参照しつつ、当記事の主要な論点である「ゾルゲ」(気遣い、思い遣り、関心)をキーワードに『感情の政治学』の切り口から見た<現代日本政治の喫緊の課題>を具体的に摘出しておく。


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それは、長らく<一強体制>を誇ってきた<安倍自民党政権の国民(国民主権)に対する「気遣い、思い遣り」の決定的な欠落>が、<約半数の「国政選挙での無関心層」(常在棄権層)の固定化>を更に強化し、結果的に<国民の期待と安倍政権側の意思との間に生じた深い溝が折角の高額な700億円もの巨額を投じた選挙を介しても一向に埋まらず、却って、益々、その亀裂が深刻化するばかり>という異常な病理に嵌っていると思われるからだ。 


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そのため、国民意識の深層では非常に不健全なルサンチマン(折あらば、せめて《もはや不可抗力のアベ一強》に代わるetwas(何か)に対し仕返しをして鬱憤を晴らしたいという不健全な怨嗟の感情)のマグマが煮えたぎり始めている節がある。そこで、押さえておくべき重要な一つの視点がある。それは、ナチス登場の場合など実に唾棄すべき不都合な悪用のケースがあるものの、ポピュリズム自体は必ずしも「悪」ではないということだ。しかし、トランプと安倍晋三なる“今を盛りの“らぶらぶ”・カップルと見なすべき二人の悪しきポピュリスト”は、そのナチスそっくりの実に唾棄すべき不都合なポピュリスト性(戦争・御仲間&クライエンテリズム嗜好)という点で、気が合っているのではないか?と思われる。

・・・Cf.小池百合子前原誠司の失脚の裏に米国政府 在米日本大使館の内部文書入手〈週刊朝日〉】1108AERAdot. http://urx.blue/GX2h 

:総選挙後、在米日本大使館がまとめた内部文書を本誌は入手した。《改憲勢力が発議可能な3分の2を確保した総選挙結果は米国には大歓迎の状況だ。むしろ米国が意図して作り上げたとみていい。民進党を事実上、解党させて東アジア安全保障負担を日本に負わせる環境が改憲により整う非常に好都合な結果を生み出した》そして《日本が着実に戦争ができる国になりつつある》と分析。こう続く。《米国には朝鮮有事など不測の事態が発生した時に、現実的な対応が出来る政治体制が整う必要があったが、希望の小池百合子代表が踏み絵を行ったのは米国の意思とも合致する》(以上、部分転載)


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そこで、ヤン=ヴェルナー・ミュラー著「ポピュリズムとは何か」(岩波書店 2017)について松岡正剛氏(松岡正剛の千夜千冊、http://ur2.link/GSuh)が、トランプ・安倍晋三の両者のポピュリズム性について書いていること(両人のポピュリズムは、全体論(holism)に憧れ、「残余なき全体」を標榜しているという点でナチズムと同じ!とも指摘している)が的を射ており面白いので、下に部分転載しておく。 

 

f:id:toxandoria:20171109124258p:image:w300:rightf:id:toxandoria:20171109124406p:image:w300:right【安倍政権が“大衆恩顧主義&お仲間意識”クラスタ集団であることの証拠は加計・森友だけに非ず、例えばCJクールジャパン(現状:開設4年目の全投資24件の過半が赤字等で事実上の失敗!戦略不在でお仲間だけが膨張!)その政策全般が、ひいては今や日本全体と日本資本主義トータルがその業病に冒されている!】大衆恩顧主義&お仲間意識⇒http://ur2.link/GSuh、1106日経記事http://urx.blue/GUgD /2013年以降設立、官民ファンド14の委細はコチラ⇒http://urx.blue/GUgO 


《本書は2016年夏の、トランプがまだ大統領になっていなかった時期の著作だが、ポピュリズムが本来の社会的多元性を蝕む反多元主義(antipluralism)や、政治家がご希望の注文に応じてみせる大衆恩顧主義(mas-clientelsm)にもとづいていることを証してみせた。ドナルド・トランプはこう主張した、「ただひとつ重要なことは、人民の統一(the unification of the people)である。なぜなら他の人々(the other people)はどうでもいいからだ(ナチズムと同じ!/補、toxandoria)。また、恩顧主義(クライエンテリズム≒只のお仲間意識から公金横領ウロボロス互酬型の悪徳趣味へ堕落してクラスタ集団”化するのが必定!)とは、庇護者(パトロン)になりたがる政治家が業界団体や職能団体や地方コミュニティをクライエント(顧客)として、さまざな政策的サービスを供給することをいう。安倍晋三が加計学園と特区を重ねたやりかたはクライエンテリズムの典型だった。》


ところで、そもそも政治権力の行使にあたっては、その支配体制(王制、独裁君主制、立憲議会制など)の別を問わず、権力側の権威維持のためにも最終的には国民の総意が納得したという<オバートンの窓(委細、後述)を介した国民総意(民意)の承認という形式>を取ることが必ず必要であり、その意味でのポピュリズムを含めて考えれば、立憲議会制国家の「選挙制度」不備で生じた<安倍自民党政権による、国民の預託意思とギャップがある安倍一強体制の出現=日本民主主義の形骸化(名バカり民主主義化)/20171103BS11・寺島実郎『未来先見塾』>という無残な姿は余りにも異常である。


f:id:toxandoria:20171109124745p:image:w360f:id:toxandoria:20171109124821p:image:w360

上の画像は、【20171103BS11・寺島実郎『未来先見塾』の動画、http://urx2.nu/GPux】より部分転載したものだが、これに従って「アベ一強下で名バカり民主主義国家と化した日本病」の病原体が浸潤・転移した箇所(●)を以下に整理しておく。先ず、今の病状を総括的に診断すれば<絶対得票率(有権者総数を分母とする)17〜18%台の自民党が、約61%の議席を絶対的に占有し続けているという大矛盾>が『日本の国政選挙の欠陥』を証明している、ということだ。


以下●の状況も併せ見れば、より明快に理解できるのだが、毎回、約700億円もの巨費(血税)を投じつつ《“政権側の悪事(犯罪政治)”の禊だけを目的とする、只のお祓い儀式化した、しかも「仕組み(制度)上の作為で捏造されるに等しい“何でも横ばい”なる国民意思(約半数が常在無関心化!)をただ確認するだけの“欠陥”国政選挙》を、十数年にわたり漫然と繰り返し続けてきた現代の日本は一体どんな民主主義国家なのだ?という思いが高まるばかりである。


●2014対比で、2017(今回)の投票率は何ら変わらず53%前後、横ばい

・・・委細は省くが、実はその前との対比でも殆ど変わっていない(以下、同じ)。つまり、日本の国政選挙では約5割の棄権層(無関心層)が定着するという悪しき現象が見られる。


●自民党・得票率(比例区)も、約33%で推移しており、投票率と同様に横ばい


自民党・絶対得票率(有権者総数を分母とする)は17〜18%台であり、横ばい


●自民党・議席占有率も、約61%で変わらぬ傾向であり、横ばい

・・・これに公明議席が加算され、与党が約2/3を占める傾向も変わらず、横ばい


●党別の比例区得票率から見えてくること

・・・与党45.8%(自民33.3+公明12.5)、リベラル派29.5%(立憲19.9+社民1.7+共産7.9)、維新(極右)6.1%、希望(旧民進、ヌエ的存在?)17.4%中道?極右?/よって、これら極右系野党(維新、オール希望?)が与党側へなびけば現代日本ファシズム体制が一気に実現する可能性が高まる!が、これが国民のリアル総意(預託意思)と言えるのか?


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・・・因みに、絶望に墜ちたと揶揄されながらも約1000票の得票を確保した“ヌエ的存在”と見るべき希望(旧民進)が、今後の改「改憲」動向に大きな影響を与えることが垣間見える。

[Cf. Twitter/<共同世調/希望の党支持層、約1千万の8割=安倍政権の憲法改正に反対http://urx3.nu/GPOx>Vs<内閣支持率54%に上昇/憲法に自衛隊明記、賛成44%で反対を凌駕1103日経>は、愈々メディア絡み<“真実Vsフェイク”「国民意思」争奪戦>開始の意味!?http://urx3.nu/GPOy


国民の意思、先の寺島実郎氏(『未来先見塾』)の言葉で言えば“国政選挙における国民の預託”を<ダンテ《神曲》の地獄・煉獄ならぬ《欠陥国政選挙の空焚き地獄》>へ押し込め、そこで国民のルサンチマンが内向・鬱積して高圧化するに任せて無責任に放置する、見て見ぬふりをするという日本政治の姿は、最早ただの欠陥選挙制度と言うよりも“国政選挙に名を借りた、れっきとした一種の国策犯罪行為”と見るべきであろう。


しかも、この“国策犯罪行為”の理不尽については政界、司法界、財界、労働界、メディア界、アカデミズムら日本のリーダーたる、いわゆる知識層の人々は殆どが重々承知のことであるはずだ。しかし、寺島実郎氏らごく少数の例外を除いて、この種の批判(危機感の披歴)は殆ど耳にすることがない。


そのため、この欠陥選挙制度を自らのための奇貨とすら見なす特権階層・既得権益階層あるいはアナクロ極右派(日本会議など)を代弁する現下の政治権力側の意思(ハッキリ言えば身勝手な悪意とお仲間意識!)は、このような“極悪犯罪的な政治”の深刻な余波を各方面へ波及させつつある。そして、それは特に日本の近未来を担うべき若い年代の国民層の選挙行動において観察される。


例えば、某調査では今回の衆議院選挙でも“約6割!の無関心層”を除く“18〜29歳・青年層”の約4割強(NHK出口・調査では49%)が熱烈な安倍自民党の支持者であることが分かったと一部で報じられているが、それは“無関心層”込みの全体比(同年代の有権者総数を分母とする)で見れば、何のことはない、矢張り、おそらくそれは高々で16〜20%程度に過ぎない、と推計される。


つまり、日本の青・少年層は、立派な?大人達の投票行動を上回る健気さで?その悪しき大人たちの選挙行動を手本としつつソックリもの真似をしていることになる。しかも、彼ら若年層の“棄権層(無関心層)”の割合は6割に達しており、それは大人達の平均5割の常在「無関心(棄権)層」を遥かに超えている。これを、<日本民主主義の危機!>以外に何と呼べば良いのか?


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しかし、既に海外メディアからは、この日本の欠陥選挙制度を放置することについて厳しい批判の報道が出始めている(添付画像は、その事例)。これもガイアツに頼るしか解決の途がないと言うのだろうか?


(3)『感情の政治学』を起動・生起させる第一の条件は、欠陥「選挙制度」(衆議院の“小選挙区比例代表並立制”および世界に類例がない“供託金制”)の改革


[欠陥「選挙制度」(衆議院の“小選挙区比例代表並立制”の改革]


・・・先ず「欠陥選挙制度」を改革し、『感情の政治学』の舞台である<オバートンの窓>を開き、国民意思をエンドレスに生起させる環境を整備することが肝要・・・


この問題と関連して注目すべきは、第二章『・・・小森謙一郎『アーレント最後の言葉』が示唆する、“感情の政治学”の現代的意義・・・』で書いたとおり、H.アーレントの<『人間の真理』を実現するための活動力の定義>である。アイヒマンの「悪の陳腐さ」についての批判をベースに書いたとされるアーレントの著書『精神生活』における《考えることの大切さ、思考の大切さ》についての論考のなかに初めて登場している。


つまり、日本の「欠陥選挙制度(国民の意思が正統に得票率に反映されない“欠陥”選挙制度(特に衆議院・小選挙区比例代表並立制)」が<オバートンの窓(Overton window)>を閉じており、このため『約半数の棄権層(無関心層)=《考えること、および思考の大切さ》を忘れた無感動で無“感情”な人々』を日本社会の中に固定化・常在化させるという、民主主義国家には全く不適切な、日本の近未来にとって、実に深刻かつ不幸な事態を出現させている。


それは、今まで見てきたことから分かるはずだが、特にM.アンリ『感情の現象学』とH.アーレント『精神生活』が明らかにしたとおり、実は個々人の《考えること、特に論理的・批判的に考えるアフェクト(志向意思)》が深く“感情の海”に根差すものであるからだ。


f:id:toxandoria:20171109125931p:image:w300:right国民全体の広大な“感情の海”(国民意識の中核と深層で“共‐パトス”化する超越論的情感性)と絶えず共鳴しつつデリケートに開閉する<オバートンの窓>は「現時点における一般世論の中で、ごく自然に受け入れられ得る政策領域の広さ、あるいは担当政権による諸政策の受け入れ易さの度合い」を示す“相対概念”(絶対的かつ客観的に計測可能な広さを持つ“窓”に非ず!)で、これが相対的に広く大きいほど、多数派国民から正当視され、かつ実現可能な政策の数が多くなる(画像はウイキより/関連⇒http://ur2.link/GRNa)。


[世界に類例がない高額な“供託金制”の改革]


・・・世界に類例がない余りにも高額な日本の“供託金制”の実情と、その改革が必要であることについての委細は下の記事▼を参照乞う・・・


▼20170930my—evernote《供託金問題/日本は民主主義国家に非ず!》http://ur2.link/GSiC 


供託金の問題は、共謀罪、文書管理法の問題と共に日本の民主主義(厳密には、国民主権に基づくエトノス・パターナリズム型(http://urx.red/GT7D)の統治の根幹であるが、メディアが殆ど真剣に取りあげないこともあって、一般的に関心が薄い。第三者機関のチェック、裁判所(司法)の意識改革らと連動した、市民・国民自身の覚醒が全てのカギとなる。


そして、その核心部分は、「日本国憲法:第四十四条」の<「両議院の議員及びその選挙人の資格は、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」の“誰でも選挙に出馬する事が出来る”との主旨>が名目だけになっており、もっぱら既存政党にとり有利で、供託金を上げれば上げるほど無産者層らの新人をリアル政治から排除できるという、非民主主義(非共和主義)的で国民分断的な制度となっている。


(補足)SNSの「狭隘クラスタ化(マイナス感情の濃縮効果)」で「自己意識(コギト)の深層(コギタートゥム)に潜む“悪魔(魔術)的な闇の成分”」が顕現リアル化するリスクへの対応が必須


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<注>当論点は、『政府がツイッターの規制検討へ!座間の事件を受けて閣僚会議!/http://ur0.work/GYlb』に隠されている“政府の意図”云々とは別次元の<既存メディアのジャーナリズム意識、高度なリテラシー意識の有無の問題>である。より具体的に言えば、既存メディアが『感情の政治学』に関わる意識を持って記事を書いているか否か?ということであり、チャンス到来!とばかりに速攻で安倍内閣が持ち出した<短絡的なSNS規制論>はナンセンスである。


f:id:toxandoria:20171109130337p:image:w335f:id:toxandoria:20171109130409p:image:w300f:id:toxandoria:20171109130445p:image:w300:right

このジャンルのテーマは、必然的に、これから益々SNS等の利用方法が多様化する時代の主要メディアのあり方に深刻な影響を与えることになると考えられる。例えば、添付1〜2枚のTw画像の対比でわかるのだが、ヘッドラインや論調しだいで同様の調査「データ」から、あるいは質問方法の差異や煽りの有無などに因って殆んど真逆の結果を導く様な傾向が観察されている。また、添付3枚目の画像は主要紙のヘッドラインを並べて見たものだが、これは今回の総選挙で主要メディアがアベ様へ過剰に“忖度”した可能性が高いことを如実に示唆している。

なぜなら、それは「論理判断、アフェクト(善と悪が共有する±のベクトル意志)あるいはヤスパースが一つの理想形を体現した寛容かつ倫理的で人道的な価値判断と批判力)」といえども、M.アンリらの現象学的に見れば、矢張り、これら全てが深い『感情の海』に浮かぶ現象であり、しかも、それは薄氷を踏む思いで絶えざる“生”の生起を選択する『感情の政治学』で支えるべき、非常にデリケートな問題であるからだ。

そして、特にSNSらネットメディアが主観性の核心である前意識(無意識、潜在意識、大文字・小文字の『二つの“生”(参照、第二章の<注>)』、“魔術的・悪魔的な闇の成分/権力的暴走、ファシズム、戦争、テロ、殺人、破壊願望、猟奇嗜好、復讐先取”)などに対し深く強い刺激となっていることが覗われる。


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f:id:toxandoria:20171109130803j:image:w250:rightf:id:toxandoria:20171109130856j:image:w250:right

今年のノーベル文学賞に輝いたカズオ・イシグロ(日系・英国人/代表作:『忘れられた巨人』、『浮世の画家』、『私を離さないで』、『日の名残り』など)の一貫したテーマは、コギト(自己意識)の核心に潜む「先反省的自己意識」(ザハヴィらにとっての最大の関心事)を「記憶」の切り口にした文学的な「探求」と見ることもできそうである。


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しかし、このカズオ・イシグロの受賞を“日本にも沢山ファンがいる!”と、速攻で称賛してみせた安倍首相は、おそらくカズオ・イシグロ文学の内容など全く理解してないと思われる。他方、たまたま見聞した松江市(島根)の「小泉八雲記念館」で開催中の企画展「文学の宝庫アイルランド:ハーンと同時代を生きたアイルランドの作家たち」http://urx3.nu/Glb8は、ハーン文学を介して日本と西欧の記憶の古層の共鳴を探るという意味で非常にタイムリーである。

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また、偶然に旅先の出雲(松江)で発見した、藤岡大拙著『出雲人/日本人を煮詰めると出雲人になる』(ハーベスト出版、松江市)は、古代いらいの日本人の気質気風や言語、あるいはアニミズム的な伝統神道の独特の「宗教・文化観と記憶」の古層が、実は、そもそも多元的な国際性に根付くものであることを冷静に物語っており、正統保守からは程遠い「日本会議、靖国神社」らの特異性を冷静に逆照射していることが興味深く、ハーンが松江の人情と文化に深い愛着を持ったのも頷ける。


つまり、世界がグローバル市場原理主義一色に染まってしまったため、<大格差、社会の分断化>などの弊害に飲み込まれた多くの人々がやりきれない閉塞感(あるいは感情のマグマの空焚き?)の虜となっている時代であるからこそ、人類共通の前意識の世界に拡がる人間の記憶の闇の底に人間の真理を探る歴史、文学、芸術、文化こそが、人類共通の喫緊の課題となっている「感情の政治学」の核心に迫り得るものと思われるからだ。 


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ノーベル文学賞より先にウィットブレッド賞(英国・アイルランド在住作家に与えられる文学賞)を受賞したイシグロの作品「浮世の画家」が、実は、戦前・戦中期に日本全体を覆っていたアベ的なもの、つまり<怪奇極右幻想(追憶のカルト)なる特異な政治・宗教観念である『靖国顕幽論』>が潜む、戦前・戦中期日本人の心の闇を抉ったものである。いわば、それは妄想的愛国心と復讐の先取りの情念に溺れる記憶の闇の奥底に揺蕩う浪漫主義でありつつも、実は、奇怪で異常な感情の流れであったということだ。


ともかくも、新聞・テレビ・週刊誌ら既存のマスメディアは、特に<主観性の核心である前意識の闇の部分>へ大きなマイナスの影響を与えかねない責任の重大さを、これまで以上により強く意識して情報発信することが重要な使命であると改めて自覚すべきだ。


それは、既存メディアのマンネリズムに溺れた記事づくり(ヘッドライン、論調、アンケート調査など)が、<日常化したSNS等ネット・ツールで必然的に狭隘クラスタ(マイナス感情が濃縮)化>する個々の人々の<前意識も含む主観性の深層と闇>に対する不用意な煽りとなって、それが思わぬ形で非常にリスキーな起爆・発火装置に変容する恐れが、いよいよ高まっているからだ。


なお、フッサール、M.アンリ、ダン・ザハヴィの現象学に共通するのは<無媒介的認知的自己意識(先反省的自己意識)/これはザハヴィの用語で、前意識も含めた主観性と他者性の核心のこと>への強い関心であるが、そもそも<その自己性と他者性におけるコギト(ノエシスたる自己意識)とコギタートゥム(意識内容)は、エトノス的な外在の自然・生命・文化・情報などの凡ゆる環境から絶えず何らかの共鳴的な影響を受けていると見ることである。


そして、従来の大方の理解は「無前提性の原理」を定理と見なし(http://qq1q.biz/GQp9)、これを否定するフッサール現象学は一種の数学的な抽象性を帯びているので、感情の問題とは無関係だと見なされる傾向があったようだが、実は、フッサールを批判的に継承したM.アンリは必ずしもそうは思っていなかったようである(完)。


(補足情報)


・・・下▲に、当記事に関連する「補足情報」があります。


▲【アベ様の闇にスッポリ包まれたニッポン!】「検査院の限界=文書不備(廃棄)のせい」が可なら、誰でも遣り得が当然となり、公官庁のみならず日本で真面目に仕事するのはアホだとなる!2017/11/11 http://ur0.pw/GZno

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