Hatena::ブログ(Diary)

富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

●主日(日曜日)礼拝 午前10時半から
●水曜祈祷会 午後7時半から
●金曜ディボーション(黙想の時) 午前9時半から
●英語礼拝 第2日曜日
(コーヒータイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から)

●聖書の学び 毎週火曜日
●ハングル教室 毎週木曜日
(コーヒータイム:午後7時から 講義と練習:午後7時半から)

教会写真集はブログ「小さな泉の写真集」へ。
English Worship Service(英語のホームページ)、 富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

〒939-8081 富山県富山市堀川小泉町681

電話 076-491-2273

2017-09-30

2017.10.1

〜 3人の笑顔と献身から見える希望 〜  “
先週は神の家族の祈りと支えのもと、M兄とH教会に遣わされてきました。H教会は現在無牧のまま、3人の方々が礼拝を大切に守っていました。そのうちの一人はH教会の開拓の時から60年間、他の二人は50年間教会を支え続けてこられたそうです。3人のお姿からは決して暗闇も、不安も、失望もありませんでした。
 皆さんは、無牧になった今年度、まず6ヶ月間だけ礼拝を続けてみて教会を閉鎖するか続けるかを決めようとされたそうです。しかしその日からもう6ヶ月の歳月が過ぎようとしています。
礼拝の後、心のこもった弁当をいただきながら、これから金沢教会と富山小泉町教会が交互に月一度の宣教と主の晩餐の奉仕にあずかることを話し合いました。その時3人の皆さんは笑みを浮かべながら感謝と喜びを表してくださいました。話し合いの後、教会の周りと牧師館を見せていただきました。3人の皆さんはいつでも牧師が住めるように牧師館を綺麗に管理していて、時間を割いて教会の周りの草むしりや庭を整備しておられました。
 恵み深い神はこれからH教会をどのように導かれ、どのような計画をもっておられるでしょうか。神の御業は人の数でもなければ、人の能力でもない。まことに、“教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものである”ことを再び教えられた一日でした。これからも引き続き北陸3教会の協力と宣教の業のために祈りましょう。
“主よ、H教会の3人の働き人を祝福し、彼らの祈りと献身を用いて御業を成し遂げてください!”

2017.10.1

『ただ、信仰によって』 〜ツヴィングリ〜 (ローマの信徒への手紙10:14〜17)
 ルターより始まった本格的な宗教改革のバトンを受け継いだ人が、スイス生まれのツヴィングリでした。ツヴィングリはルターが生まれてからちょうど2ヶ月後、スイスのトッゲンブルク州の裕福な農家で生まれました。ツヴィングリのお父さんは地元の有力者であって、彼はマルティン・ルターのお父さん同様、息子のツヴィングリを最も優れた学問を受けさせるため、スイス最高であったウィーン大学バーゼル大学で学ばせました。
 ツヴィングリは子どもの時から祖国スイスへの愛国心が格別だった人で、後の彼の伝記を書いていた作家たちはそろって、“ツヴィングリは根っからのスイス愛国主義者であった。”と記すほどでした。マルティン・ルターが個人の信仰の葛藤とカトリック教会の腐敗に悩んで宗教改革の道に入ったのに対して、ツヴィングリは祖国スイスの社会と民族の問題で悩んでいく内に宗教改革の道へと入ったわけであります。
 ツヴィングリの宗教改革は大変過激なものでした。ローマ・カトリックの伝統と象徴を容赦なく除去していきました。礼拝堂の燭台、聖人像、聖画、聖職者の礼服、十字架など見えるものを徹底して排除していきました。マルティン・ルターは「聖書が禁じていないことは行ってもよい」としていたことに対して、ツヴィングリは「聖書が命じていないことは決して行なってはならない」としていたのです。ツヴィングリの改革の結果、礼拝は簡略化され、牧師たちによる御言葉中心の説教が行われるようになりました。また信徒たちの理解できないラテン語ではなく、分かりやすい母国語で聖書を朗読し説教をすることに変わったのです。ツヴィングリもルター同様、「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」という宗教改革の原則を明確に立っていました。彼の書いた本の中で、「信仰だけが人間の罪の赦しの確かさを与えてくれる。これが私たちの信仰と、私たちが神の恵みによって宣べ伝えている教えの要点である」と語り、「私たちの教えていることは、ことごとく聖書から学んだことである」と語り、彼が御言葉をいかに大切にしていたのかが分かります。
 聖書の御言葉から少しの違いも許さなかった改革者ツヴィングリ。また彼は祖国スイスを愛し、スイス社会全体を改革しようとした真の改革者でした。彼は常に御言葉に立って、“どうすれば神の喜ばれる正しい教会と社会を築いて行けるか”を一生の課題としていました。チューリッヒには、聖書と剣を一緒に手にもっているツヴィングリの像が立っています。聖書の御言葉を握りつつ、教会と社会全体を改革するために命をかけて戦ったツヴィングリの改革精神、その精神は後にカルヴァンに受け継がれ、その後イギリスの「ピューリタン(聖くする)」に続いていくことになります。
“実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)”

2017.10.1

〜生き物も全ては神のプレゼント〜
 ベランダの植木鉢に鳩が巣を作って、卵が2つ。
 かえるのかしら?と半信半疑で、調べたら「土鳩は空飛ぶドブネズミで、ばい菌だらけだから直ぐに撤去した方がいい」とあり、旦那も鳥が嫌いなのでどうしたものかと思っているうちに、小さいのが居て、見る見る間に大きくなっていきました。
 この鳩も私の所に偶然きたのではないのだからと考え、見守る事に。今では毎日楽しみです。最近は私を威嚇して突いてきます。
 野生なのでもういじれませんが、さあ〜ここ14階からどのように飛んで巣立っていくのでしょうか?淋しいけど無事に巣立ってと祈っています。
                   T.K姉

2017.9.24

 〜 日本語教室を始めるにあたって 〜
 “すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ(詩編117:1)”
 本日は証し礼拝であると同時に、多言語礼拝として献げられます。証し礼拝を始めたのは、牧師だけが主イエスからのメッセージを語るのではなく、神の家族お一人お一人が日々の生活の中で体験した主イエスの臨在と導き、御言葉の恵みなどを聖霊の導かれる中で分かち合うためでした。また多言語礼拝は、今年のペンテコステ礼拝で初めて試みたもので、小泉町教会の礼拝に出席している国や民族、言葉の違う神の家族が、それぞれの母国語で礼拝に参与し、神の国の恵みを現実に味わうことを目的としています。ぜひそれぞれの言語が礼拝を通じて一つになるという恵み、母国語で礼拝することによって得られる感動と慰めを大いにいただきますように…。
 主イエスは、小泉町教会の小さな群れが、外国からの弱い人々の逃れの町となり、憩いの場となることを望んでおられることでしょう。しかし、神を礼拝したいという熱心をもって教会を訪ねてきても、日本語が分からないため礼拝の深いところまで入ることができず、心に寂しさを感じている方々の姿を見ます。彼らにとって日本語は大きな壁となっている現実です。そのため、“私たちにできることを示してください”と祈っていたところで与えられた御心が、「外国の方々のための日本語教室」を始めることでした。まだまだ時間がかかるとは思いますが、「日本語教室」の実として、礼拝が恵みに変わり、日本語を通して信仰する感動を証しすることができますように。ぜひ日本語教室のために執り成しつつ、神の家族の内に隠されていた賜物を見つける恵みをいただきましょう。シャローム!

2017.9.24

〜私の好きなダニエル
 旧約聖書預言者の中で、私はダニエルが一番好きです。そりゃ容姿端麗、頭脳明晰、堅い信仰(その順か)と三拍子そろった人ではありますが、私の好きな理由は他にあります。
 ダニエルは少年のときから、他者を生かしたいと常に願う人でした。ダニエルたちが肉食モリモリでなければ自分の首が危うい、と困るバビロンの侍従長に「野菜と水の生活を10日間だけ試させてください」とやんわり交渉します。バビロンの王が見た夢の謎をただひとり解ける身でありながら、まず他の知者たちが殺されないようにと願い出ます。おじいちゃんになってからのダニエルがもっと好きです。先祖の罪を心から嘆き、赦しと救いを願う祈りを一心に捧げます。恐ろしい幻に世はどうなるのかと心を痛め、解説にやってきた天使の前で、へのへのになってしまいます。そんなダニエル老に天使は「愛されている者よ、平和を取り戻し、しっかりしなさい(10:19)」という主のみことばを告げます。なおも世の行方を案ずるダニエルに主が「終わりまであなたの道を行きなさい」と告げられるところでダニエル書は終わります。世は人の「やさしさ」を求めますが、人間ダニエルに神が与えたもうたこの賜物こそがまことの人の「やさしさ」ではないかといつも思います。
                 S.M姉

2017-09-18

2017.9.17

〜 神の国のビザを取っていますか。 〜
 先週、義理の母の日本滞在のための特定活動ビザを申請するために入国管理局に行きました。以前からビザが下りることの難しさを知っていたので、出来る限りの資料を備えてから入国管理局へ向かいました。案の定、準備しておいた資料の他に違う書類を追加するようにと言われましたね。その書類とは全く予想してなかったものでしたので、少し戸惑いながら日本という国に迎え入れられるための資格の厳しさをもう一度身をもって体験することになりました。もちろん、入国管理局の方々も正確かつ厳しくしなければ、国の秩序と民の安全を守ることができないでしょうね。ぜひ年老いた義理の母が愛する家族と暮らすことが許されるようにお祈りくださいね。
 義理の母のビザの件で忙しく過ごしながら、神の国(天国)に属する民として、天国のビザを取るために備えるべきものがあまりにも単純で簡単であることに感謝しなければと思わされましたね。“主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる。”“正しい人は信仰によって生きる。”“しかし、言(主イエス)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。”など、神の前に備えるべきものは何か目に見える書類や資格、誇りとすべき行いではなく、ただ主イエスの十字架の愛と復活を信じ、主イエスを救い主と受け入れる“という信仰のみが要るのです。神はすべての人を等しく愛し、決して差別される方ではない。・・・神の家族の皆さん、あなたは神の国のビザをもっていますか。また神の国にふさわしく生きていますか。

2017.9.17

『わが救いの神のゆえに』 (ハバクク3:16〜19)
 本日は「敬老祝福式」です。小泉町教会にとって敬老祝福式を迎える兄弟姉妹の存在こそ、宝物であり、感謝の条件となっていることを嬉しく思います。
 イスラエル人が愛する知恵の書タルムードには、“世界で一番知恵のある人は学ぶ人であり、世界で一番 幸せな人は感謝を生きる人である。”という言葉があります。すなわち幸せのドアを開ける鍵こそ、“感謝を生きる”ということであるのです。
 本日私たちは、苦難のただ中であっても、揺るがない信仰をもって神だけにすがり、神が隠しておいた宝物を見つけ出した一人、ハバククの信仰告白を通して感謝すべき理由と感謝する生活に恵みを分かち合いたいと思います。
 ハバククは何も残っていない状況に追い込まれていました。“いちじくの木に花が咲かず、ブドウの枝が実をつけず、オリーブの実も見えなく、牛舎から牛がいなくなる”という、絶望そのものが目の前に広がっていたのです。しかし、ハバククの唇からはむしろ賛美の歌声が流れていくことが分かります。目に見えるハバククの周りは絶望でありましたが、彼の目は“目に見えない”神の方に向けられています。これこそ信仰者の姿勢であると言えましょう。
“しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。 わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる。(3:18〜19)”
 わたしたちの信仰は目に見えるものに根拠を置くのではありません。わたしたちの目に見えるのが、不可能、失望の連続であっても、そのことのゆえにわたしたちの信仰は揺れません。なぜならば、わたしたちの目に見えるものは被造物であって、わたしたちの信仰はそれらすべてを造られた創造者なる神にあり、今日も世界の背後で働かれ治めておられる神に希望をおいているからです。「聖なる高台を歩む」というのは、すべての試練と苦しみを乗り越えた後の勝利者としての姿です。
 実際に、キリスト者を取り囲む様々な課題は、わたしたちを失望に陥れるほどの力をもっています。 しかし、これらのすべての試練と苦しみにも関わらず、キリスト者は必ず勝利するということを、ハバククは高台に立って、信仰の頂上から私達に教えているのです。
願わくは、目に見えるものに騙されず、目には見えないけれど、確かに存在され働かれる神に感謝の賛美を献げる神の家族でありますように・・・。神は、その人に聖なる高台を歩く恵みをくださるでしょう。ハレルヤ

2017.9.17

 みなさんは毎日ディボーションをかかさずおこなっていますか?私の妹はクリスチャンになってから毎朝早朝、誰にも邪魔されない静かな場所でその時間を大切にしているようです。姉である私はまず早朝に起きる意志の強さがありません。眠気と忙しさに邪魔され、とても祈りの余裕がありません。でも、こんな私に救いの手を差し伸べてくれるのが毎朝7時過ぎに携帯電話を介して送られて来る「今日の御言葉―丸山芳浩牧師」の聖書のメッセージです。すきま時間にスマホを介して熱いメッセージを読む事は救いであり、叱咤激励であり、癒やしです。先週先々週と閔先生はルターの宗教改革のメッセージをしてくださいました。その時代のグーテンベルクが発明した印刷機のお陰で聖書が一般の人々に広まるようになりました。机に向かい、聖書を開き、静まって祈り、神様との霊的交流を持つ時間も大事ですが、パソコンやスマホで動画を介して聖書のメッセージをいとも簡単に受け取り活用する事もできます。ルターが生きていた中世ヨーロッパに比べ本当に幸せな事だなと思います。今日も神様が色々な方法で私との関係を強くしようとし、私ならではの最善の場所と時間を与えてくださっている事を顧み、感謝したいです。
                   K.K姉

2017.9.10

〜 心の欲望にまかせられた人間 〜
 “そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。(ローマの信徒への手紙1:24)
 先週のテレビの朝の情報番組で大きく取り上げられていたのが国会議員の不倫疑惑の話でした。政治家の不倫問題は今になって突然起きたわけではなく、昔から絶えず騒がれてきた問題でした。国民によって選ばれ、国民に良い影響力をもたらし、公益のために働くべき政治家たちですが、彼らはなぜお金や性的な誘惑に陥り、また欲望に走ってしまうのでしょうか。もちろん彼らも最初に政治家になろうと志を立てた時は純粋さと正義感に燃えていたことでしょう。しかし自分がある程度の地位を得、周りからも認められるようになってからは知らず知らずと世の風潮に染まってしまい、今までその人を支えていた良心は鈍くなり、権力に伴う高慢と情欲に支配されてしまうことになるのです。大切なことは、それらの誘惑から自分の心と身をどこに置くべきかでしょう。
  しかしこれらの情欲の誘惑は政治家や権力者だけに限る問題ではない。どんな人であっても同じ罠にかかってしまう可能性があることを否定できないのです。なぜなら人は皆罪人であって、心の欲望に動かされてしまう存在だからです。またクリスチャンだからこれらの誘惑と無関係であるとは言えないのです。聖書の中にも偉大な信仰の人であっても、性的誘惑、お金と権力の誘惑に陥ってしまい、神の裁きを受けた人をたくさん挙げられますし、今でもそのような心の欲望による誘惑にさらされている私たちです。これらのサタンの誘惑に打ち勝つ道こそ、「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」(汽撻肇蹌院16)と言われるイエス様に目を注ぎ、御言葉の知恵と聖霊の助けをいただくことでしょう。また、神より授かった人生における秩序を大切に守り続けることです。主イエスが私たちを「地の塩、世の光」と呼ばれていることを一時も忘れてはなりません。シャローム!

2017.9.10

『ただ、信仰によって◆〜マルティン・ルター〜 (詩編46:1〜12)
 本日の詩編46編は宗教改革者のマルティン・ルターによって有名になった詩編として知られています。ルターはこの詩編46編を歌いながら、巨大なローマ・カトリックが支配する世界とその伝統と戦いながら福音による自由と恵みの信仰を訴え続けたのです。
 1483年ドイツの裕福な鉱業家の息子として生まれたルターは、もともと法学を専攻していた学生でした。しかし、若いルターにはなかなか解決できない悩みがありました。それこそ、罪の問題でした。ルターはとても真面目で、彼は適当に罪と妥協して生きることが許せなかった人でした。やがてルターは、法学をやめ、修道院に入り、徹底して修道院の規則を守り、断食と罪の告白(懺悔)、自己否認、人への施しなどを繰り返すことを通して救いを得ようとしていました。しかし、いくら断食をし、心を鍛え、善い行いをしても罪責から逃れることはできませんでした。
 そのようなルターの人生の転機が訪れたのは、ヴィッテンベルク大学で聖書学の教授になった時でした。1515年、ルターはローマの信徒への手紙を黙想する中で“福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1:17)”の御言葉に心打たれ、「ただ、信仰によってのみ救われる」という信仰義認の確信に至るのです。この時からルターは“信仰のみ、恵みのみ、聖書のみ”という宗教改革の三大原則を掲げることになりました。すなわち、信仰によってのみ救われるのであれば、当時の世界を支配していたローマ・カトリックの司祭による執り成しの伝統は要らなくなるのです。しかも免罪符販売による天国への約束の教えがいかに空しいかを知っていたルターは、95箇条の論題をヴィッテンベルク大学礼拝堂の正門に貼りつけることによって、ローマ・カトリックの間違いを公に指摘したわけです。その後、95箇条の論題はドイツ語で翻訳され、全ヨーロッパにたちまち広がることになります。これに対しローマ・カトリックは彼を異端と定めることになります。彼は意図していなかったですが、神は彼を宗教改革の先頭に立たせ、聖書翻訳、万人祭司論という福音を明らかにされたのです。ルターは絶えず、「信仰の土台は聖書のみ」であることを訴え続けました。1521年ヴォルムス帝国議会においては、ローマの教皇庁に彼の主張の撤回を求められた時、「我ここに立つ」という言葉をもって聖書のみの信仰を貫き通したことは有名な話です。
 私たちの生活においても、様々な苦難が絶えず襲ってきます。そのような苦難を前にして、私たちのちっぽけな力では、やがて疲れ果て倒れてしまうのです。しかし、本日の詩人のように、自分を頼りとせず、力を捨て、神の前に静まり、万軍の主の圧倒的な力に依り頼み、ルターのように賛美の声を高く上げることです。そうすれば、神は「必ず、そこにいまして助けてくださる」のです。これはいかに素晴らしい約束でしょうか。私たちの避けどころ、私たちの砦、苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる神の約束を信頼し、祝福の日々を過ごして参りましょう。ハレルヤ

2017.9.10

〜「ノアの方舟」を学んで〜
 教会学校で、示された思いを分かち合いたいと思います。ここのところ稲垣兄を中心に「創世記」を学びましたが、「ノアの方舟」のところで、方舟に乗れずに滅んでしまった人々に同情というか痛みを覚えました。彼らの中に自分の姿を見たのだと思います。旧約聖書の中には、時々神様に見放されたり、裁きによって殺される人たちをみることがあります。そんなとき痛みや疑問を感じる場合があります。しかし、そんな時、方舟に乗って生き残った義人であるはずのノアの家族を見て神様は「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言われます(創世記8:21)。私自身、彼らと同様に罪人としていつ命を絶たれても文句の言えない者であったことを思い知らされました。「義人はいない。ひとりもいない。(ローマ書3:10)」私の心を全てご存知でありながらなおも、「赦したい」「生かしたい」と願って下さる神様に対して疑問をはさむなどなんと傲慢なことであったかと思います。
 これからも教会学校の学びが益々祝されることを願っています。
                   S.Y兄

2017-09-06

2017.9.3

〜 恐れを締め出す愛の人へ 〜
 一昨日のディボーションタイムで、ある姉妹から、「9月1日は子どもの自殺が最も多くなる日」であるということを耳にしました。夏休み明けで学校が始まり、いじめや友人とのトラブルなどに悩む18歳以下の子どもたちが自ら命を絶ってしまうという・・・。初めてその話を聞いたので、大変驚きました。テレビでも特集番組を編成するほど社会問題になっている現状です。
 大人の方々は思うでしょう。“昔私が子どもの頃には、はやく夏休みが終わり、学校に行って友だちと遊ぶことを楽しみにしていたのに・・・”と。何が原因でこのように変わってしまったのでしょうか。学校が子どもたちにとって楽しい場所、喜びの場所になることは、もうできないのでしょうか。そこで、子どもたちに何とか助け手となるため、大人たちは必死になって「逃れ場」を作ろうとする。“図書館や保健室に来て!学校に行かなくていいよ!…”と。
 子どもたちのために執り成しつつ、示される御心がある。“本当の逃れ場こそ、私たちの教会でなければならない。主イエスが疲れている人、重荷を負っている人に向けて、「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と招いておられたように、疲れていて、様々な悩みを持つ子どもたちが自由に教会を訪ね、主イエスの胸に抱かれて真の癒しと安息を得、自分自身の命がいかに尊いか、いかに愛されているのかを知ってもらいたい。
 ただし、これは子どもたちに限る悩みではないでしょう。先週日本中の人々は、北朝鮮からのミサイルのことで大パニックになってしまいました。とりわけ政府やマスコミの対応によって益々恐怖や不安、憤りなどが高まり、落ち着かない日々を過ごしたはずです。しかし、いかがでしょうか。私たちを苦しめていることは目に見える出来事より、心の内にある漠然とした不安、恐れではないでしょうか。神の家族の皆さん、神の愛には恐れがありません。むしろ神の愛によって恐れを締め出すことができるのです。求められるのは神の愛、その愛に生き、愛を伝えることです。シャローム!

2017.9.3

『ただ、信仰によって』宗教改革の先駆者たち〜 (ローマの信徒への手紙8:35〜37)
 今週から私たちは、宗教改革500周年を迎えて宗教改革者たちの信仰を分かち合うことで恵みをいただこうとしています。
 多くの人は宗教改革の始まりをマルティン・ルターが95箇条の論題をヴィッテンベルク大学の聖堂正門に貼り付けた1517年と見ています。そして今年はちょうど500周年になる記念すべき年であります。しかし宗教改革の歴史は1517年10月31日、突然訪れた恵みではない。ルターが歴史の全面に出る前、歴史を支配される神は長い年月を通して宗教改革の備えをしてこられたのです。堕落した教会の改革と聖書信仰の復興のため、命をかけていた宗教改革の先駆者たちがいたことを忘れてはなりません。その先駆者の中で浮き彫りになっている二人の人、イギリスのウィクリフと、ボヘミアのヤン・フス。本日はその二人を中心に、主の恵みをいただきたいと思います。
 主イエスが昇天されてから4世紀の初期までのキリスト教会は、ローマ帝国より様々な迫害を受けていました。しかし、そのような迫害の時代であっても、キリスト教会は旧・新約聖書の正典を完成し、カタコムの地下教会での純粋な信仰を守り続けていました。ところが、ミラノ勅令により、信仰の自由を保障され、キリスト教がローマの国教になることによって、地下にいた教会は地上の教会として、しかも圧倒的な力をもつようになりました。王や貴族たちがクリスチャンになり、王宮のように立派な礼拝堂が次々と建てられ、聖職者たちが大きな力を振るう権力者に変わっていきます。政治と教会が癒着してしまう歴史が始まったのです。国と教会が密接な関係を築く中、教会は信仰の純粋さを失ってしまい、堕落の道を歩むことになります。その教会の堕落の極めとなったのが、免罪符販売の問題でした。免罪符販売は後の宗教改革の火種となります。
 そんな中、14世紀半ば、イギリスのオクスフォード大学で神学と哲学を教えていたジョン・ウィクリフは、ローマ・カトリック教会と教皇を攻撃し、非難した最初の人となりました。彼は聖書の御言葉に照らして、ローマ・カトリックの伝統を具体的に批判しながら、「すべての人は各自が聖書を学び探求する権利があると、聖書は神の権威で満ちていて、御言葉はどんな人でも救いに導くため、単純に理解できるようにしなければならない」と主張し、ラテン語聖書を英語で翻訳することになります。またボヘミアのヤン・フスは、ウィクリフの神学や主張に魅了され、聖書に基づく教会改革を情熱的に伝え続けた人でした。フスもウィクリフ同様、教会の絶対的な基準こそ、キリストの教えであって、キリストの教えは聖書にあるとし、「教皇と聖職者の権威はキリストの御言葉に従う時のみ認められる」と語っていました。後に二人ともローマ教皇庁より異端とされ、殉教の道を歩むことになります。
 宗教改革の先駆者たちは、ただ神の御言葉のみ信じつつ、主イエスの歩まれた十字架の道に従いました。まさに宗教改革は神の愛のしるしである十字架にすがりつつ、勝利者の道を歩む人によって成し遂げられるでしょう。

2017.9.3

 今年も市民クリスマス・日本語バージョン「メサイア(抜粋)」合唱練習の季節がやってきました。毎年、9月頃より始まり、12月の本番に備えて当番教会(今年は聖マリア教会)でほぼ毎日曜日の午後練習があります。合唱の練習と共に、コーヒー&お菓子のブレイクタイムに他教会の方たちとお話したり出来るのも恵みです。
 子どもがまだ小さかったとき、ハレルヤ合唱を客席で聴きながら、いずれは私も合唱に参加したいと思ったことを懐かしく思い出します。今や、合唱三昧の日々を過ごす私ですが、この市民クリスマスに参加したのが、学生時代以来遠ざかっていた合唱の世界に戻るきっかけになったのかもしれません。・・・抜粋    
 メサイア合唱も、いずれはもう少し曲を増やそうといいつつ、6曲どまりですが、みなさん歌い慣れてこられ、年々、聴き応えのある合唱になっているようです。「今年も元気で歌いに来られました」と懐かしのメンバーとお互いの無事を神様に感謝し、また、新しいメンバーとの出会いも期待しつつ、共に賛美を献げたいと思います。ぜひ、ご一緒に、歌いましょう♪
                       S.M 姉

2017.8.27

〜 忘れること、忘れてはならないこと 〜
 数年ぶりに顔と顔を合わせた父親の認知症の症状がだいぶ進んでいて、息子が今日本にいるのも、日本で何をしているのかも、また孫たちの存在も憶えていない状況。よく言われているのが、新しい記憶の方から頭から消えていくということですが、まさに10分前に教えたことを再び尋ねても分からない・・・。しかし昔のある時の出来事に関しては細かいところまではっきり覚えていて驚きでした。それに加え、時には妄想に捕われ予想もしなかった行動に出る。その父親を長年支えていた母親の体力は著しく衰えていて、これ以上、母に父の世話を任せておくことはできないし、医者からの勧めもあったため、急遽、父親を老人療養施設にお願いすることになりました。複雑な思いの中、父なる神が親たちの健康と信仰を守ってくださるようにとゆだねつつ、富山に帰る備えをしています。
 私が東京のH教会で働いていた時、S病院の患者さんたちの病床牧会をしていました。入院患者さんの中には、日本バプテスト連盟の歴史において大きな足跡を残したM先生もいました。当時のM先生はかなり重い認知症を患っていて、家族のことも、働きのことも、教会のことも憶えておらず、まさに幼稚園児のような行動をとっておられました。しかし不思議でしょう。M先生が天に召される最後の日まで忘れていなかったことが「主の祈り」と讃美歌の「いつくしみ深き」、また祈りの生活でした。当時、私の声に合わせて大きな声で歌っていた先生の姿から大きな恵みを受けていたことを思い起こします。
 神の家族の皆さんはいかがでしょうか。皆さんが人生の終わりを迎える前に、絶対に覚えておきたいこと、忘れてはならないことは何でしょうか。また忘れてしまいたいことは何でしょうか。すべては忘れてしまっても、これだけは憶えておきたいことがあれば、私たちの人生を支配される神にお願いしましょう。シャローム!

2017.8.27

『主よ、あなたはどなたですか?』  (使徒言行録 9章1節〜6節)
 今朝の奨励で示された聖書の箇所「サウロは地に倒れ、『サウルサウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか?』」このサウロ、つまりパウロイエス・キリストの迫害者から伝道者へと変えられたこの回心の告白は、使徒言行録の中に3回出てきます。22章6節〜8節パウロエルサレムでユダヤ人に捉えられた際の民衆の前での弁明と26章12節〜15節囚人としてローマに送られる前にアグリッパ王とフェストゥス総督の前での弁明の3回です。
 パウロは、イエス・キリストを直接知る弟子ではなく、むしろ迫害者であるにもかかわらず、神様から一方的に選ばれ、イエス・キリストの使徒として、特に、異邦人を救いに導く伝道者としての使命を与えられた出来事は、極めて不思議で、俄かには信じがたく作りごとに思われます。しかし、旧約聖書から新約聖書に至る全体の構造の中で、聖書を読めば読むほど2千年の時を経ても、このパウロの回心の出来事とその後の伝道の歩みは、イエス・キリストの福音の拡がりと鮮やかに確かなものとしてつながります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3章16節)というメッセージは、パウロの残した多くの手紙によって、かみ砕かれた言葉として説得力をもって私たちに今も語りかけます。
 パウロは、キリキヤ州タルソス生まれのローマ帝国市民のユダヤ人として、死者の復活を信じるファリサイ派に属する熱心なユダヤ教徒であり、ギリシャ語もヘブライ語も堪能に話せます。テント造りを生業としつつ、議論にたけており、熱心さのゆえにユダヤ教の律法と秩序を破壊するように思える、イエスによる救いを信仰する新しい教えに反対して、積極的に迫害に加わっていました。
 パウロの回心は、「たちまち目からうろこのようなものが落ち、元どおりに見えるようになった。」と伝えられています。イエスに救われキリスト教に導かれた私たち一人ひとりもそれぞれが神様に選ばれた者として今を生きています。それは、私たちに特別な才能や知識があるからではなく、パウロがキリストの迫害者としての経験によって選ばれたように、私たちも与えられている場所と経験によって選ばれているのだと思います。特に、負‐マイナスと思われる経験や性質がイエス・キリストの福音のためにもちいられるのではないでしょうか。「主よ、あなたはどなたですか?」と問いかけたとき、私たちの目からもうろこが落ちるのではないでしょうか?      
                          証し:島田茂

2017.8.27

 7月から8月にかけて与えられた長期休暇が終了しようとしています。休暇の前はあれもこれもしようと思っていましたが、休暇中もいろいろな仕事が舞い込み、思うようにはいきませんでした。しかし、就職して以来初めてと言っていいほど、精神的にも体調的にもかなりリラックスをして過ごすことができたことを感謝しています。
 9月からは再び忙しさの中に巻き込まれるのかと思うと不安が先立ちますが、不思議なのですが、きっとその忙しさの中でこそ神様の御手が見えるように思います。
休暇終了まで、休息を与えてくださった神様に感謝しつつ、仕事再開の準備を神様の御翼のもとで準備したいと思います。
 暑い夏も、もう少しです。閔先生やご家族、兄弟姉妹の体調が守られますようお祈りします。
                 M.K 姉

2017.8.20

〜 歴史の悲劇を繰り返さない! 〜
 神の家族の皆さん。わが家は皆さんの祈りに支えられ、恵まれた時を過ごしていることを感謝します。
 そして本日(20日)にはウルサン市にあるミレロ教会で二回の宣教奉仕をすることになっています。以前から親しくしていた牧師先生からの要望があり、引き受けることにしました。心の内からはゆっくり過ごしたいという思いもありましたが、神の命令であると信じ感謝をもって主の恵みを伝えようとしています。ぜひ、お祈りください。
 さて、先週はアメリカから悲しいニュースが届きました。過去、人種問題で多くの犠牲者を出し、深い傷跡を残していた悲しい歴史を再び繰り返そうとしている。白人至上主義を掲げるクー・クラックス・クラン(KKK)とネオナチなどのグループとこれに抗議するグループが衝突し30人余りが死傷した事件が起き、トランプ大統領が白人至上主義を擁護する立場に立っているような態度をとっていることが大きな問題となっています。以前からKKKがトランプを支持していることは承知の通りで、一人の間違った選択がもたらすだろう悲劇を危惧する近頃です。
 差別の歴史こそ、非聖書主義であり、神に挑戦するサタン(告訴する者)による罪であり、人類を破滅に追い込む罠、悲劇の源です。差別のあるところには必ず暴力と戦争が伴い、殺し合いが生じました。
 神はすべての人類を救うために、独り子をこの世に遣わされ、十字架の上で死なせられました。また主イエスは、最も小さき者、異邦人などを尊ぶことを教えられ、神を愛することと隣人を自分のように愛することを命じられたことを忘れてはなりません。私たち神の家族の群れは断固として隣人を差別するという歴史の悲劇を繰り返さないことを誓いつつ、まず私たちの身近なところから十字架の証人として平和の福音を宣べ伝えることでしょう。

2017.8.20

『 見えない事実を描きたくて 』 (エフェソの信徒への手紙3:18-19, ヘブライ人への手紙11:1-3)
 私の信仰生活の中で大きな割合を占めているのが、絵を描くことです。週報のイラスト、こどもメッセージ、教会学校資料、折々に発行する文書など、奉仕の中で描かせていただくこともあれば、個人的に突然描きたくなることもあります。
 本日読んでいただいた聖書箇所のとおり、信仰そして神は直接は目に見えません。しかし、それを絵という目に見えるもので、その大きな大きなものの、ほんのちょっとの切れっ端でも間接的に表せるかどうか。それがとても面白い挑戦であり、そのために御言葉を黙想し、聖霊の助けをいただくことが大きな恵みになっています。実は、私は絵といえばマンガ(劇画ではなく)しか描けません。ですから、本物そっくりとか壮大なものを描こうとは思わず、思い切って単純化し、不自然でもそこから現れるものを求めて描いています。
 御言葉を絵にするとき、聖書のメッセージは、その時その時のものではなく、つながっていることをよく示されます。小泉町教会の礼拝の一場面が、御言葉とピッタリ来ることもあります。描いてはみたが良くなかったというのも結構あって、どこがよくないかを黙想するのが、また恵みです。最初に自分で目指したイメージと全く違う展開になって、自分の絵ではなく、聖霊様の導きなのだろうかと思うこともあります。また、こどもメッセージの絵は、まずストーリーがないと描けませんから、与えられた聖書箇所をどういう切り口で語って行くか、自分がその箇所につまずいたままでは、絶対絵も話もできませんから、黙想も調査も必要になります。
 今の課題は、十字架の主を、心からの感動を持って描きたいということです。でも、今はためらいがあるので全然ダメなのです。自分が主を傷つけ、十字架につけているということを、まだ自分で受け入れていないようなのです。
最後に、教会の礼拝・伝道・活動の中に、つたない絵のための場所を空けてくださっている小泉町教会の神の家族に、心から感謝いたします。
                      証し:S.M 姉

2017.8.20

 4月5月と神戸で入院生活をしていました。
その時、閔先生夫妻が電話で対応してくださり、リビングライフを病院でも手にすることができました。
 その時の感動がノンクリスチャンの私の信仰を強め、6月下旬から毎日、朝、礼拝を捧げることができるようになりました。
 毎朝、会堂でお祈りを捧げることができると、不思議なほどに心が整い、遠くの地で困難の中生活している人たちのために自分ができることを探せるようになりました。
小さなものとして生きることに喜びを持てるようになり心が強められていく事が、実感できる日々を送っています。
 人知を越えた平安がもたらされることを祈り、信仰が苦しみから一人一人の心を救い、求め続け、祈り続ける大切さをこれからも信仰者の方お一人お一人と
分かち合っていければと強く願っています。
                   S.N 姉

2017.8.13

〜ワン・ボイス〜
1.愛と平和で心を満たして 世界中がイエスは主だと知るため 栄光をみせてください
この声をひとつにして この心ひとつにして あなたの栄光のために もちいてください
2.今こそみんなで主を賛美しよう 世界中がイエスは主だと知るため わたしにも何かできる
この声をひとつにして この心ひとつにして あなたの栄光のために もちいてください

今月の賛美の「ワン・ボイス」という歌です。私は今の世界の混乱と分裂を目の当たりにしながら、今こそ求められることが、世界中のクリスチャンが信仰と心を合わせ、一つの声で“イエス・キリストこそ救い主であり、平和の主である。イエス・キリストを知らせることこそ、真の平和の実現の道であること”を告げ知らせることであると信じます。
 主イエスが十字架にかけられる前の夜、弟子たちに語られ祈られた最後のメッセージが“一つになる”ことでした。神の民の群れがキリストの愛によって一つにならなければ、決して神の国を広めることもできなければ、分裂と争いを試みるこの世における戦いから勝利することもできないからです。実際に、最初の教会が生まれた時から、キリストの教会は絶えず分裂してきました。同じキリスト教という名を掲げながらも、時には宗教戦争へ、殺し合いへと変質し、数えきれないほどの教派や教団に分裂を続けイエス・キリストの最後の祈りに逆らってきた悲しい教会の歴史でした。キリストの教会が教派、教団を超えて一つとなり、愛と平和のために一つの声をもって福音を告げ知らせなかったがゆえに、戦争と殺し合いの満ちる世界にさせてしまったのです。
 2000年前、弟子たちに一つになることを望まれた主イエスは、今も変わらない願いをもって叫んでおられることを覚えましょう。願わくは、神の家族お一人お一人がキリストの愛と平和のために信仰と祈りと心、声を一つにして神の栄光のために用いられ、主に喜ばれる賛美を献げられますように・・・。シャローム!

2017.8.13

『平和を訓練する 』 (ローマの信徒への手紙12:17〜21)
 平和のない世界、安息のない生活で日々苦しんでいることでしょう。争いと葛藤、分裂が日常化している世界の中を生きている私たちです。しかし、争いと葛藤、分裂といったことは最近できた言葉ではありません。これらは人類の歴史の長さほど長い歴史をもっています。人間の歴史が始まったのとほぼ同時に分裂と紛争の歴史が始まったのです。そして分裂と戦いは現在進行形である。・・・家庭において、教会において、職場において、国と国との関係において、絶えず分裂と争いが起きていることを、身をもって体験する現実です。
 主イエスが私たちに求められるのが平和を作り出す者になることです。しかしこれはある日突然出来上がるわけではない。そこで使徒パウロは私たちに平和を訓練することを勧めています。
“だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。(17〜18)”
 聖書は私たちに“悪に悪を返さないように”と教えます。「惡」という字は、お墓を表す「亞」と、「心」が結合して出来た文字で、“他人が死んでしまうことを願う心”という意味です。律法では「歯には歯、目には目、やられたらやり返す」という教えをもって、悪に対抗することを教えてきました。しかし、イエス・キリストの教えこそ十字架の福音であります。神の子どもであるキリスト者はキリストに倣い、自分を迫害する敵さえも赦し、どこにおいても福音の源となってすべての人に対して、善を行うように心がけ訓練する者です。続けて使徒パウロは“すべての人と平和に暮らしなさい。”と勧めます。もちろん、この勧めは簡単に行なえることではありません。私たちの人生の数えきれない人との出会いの中で、どうしても赦すことのできない人がいるのも事実でしょう。ですから、すべての人と平和に暮らすことは人間の力によってできることではないのです。これこそイエス・キリストが歩まれた十字架によって開いてくださった平和とゆるしの道を歩むことを決断することです。主イエスは、十字架にかかりながらも、ご自身を嘲笑う人たちのために「彼らの罪を赦してほしい」と祈られ、すべての罪人と神との和解を実現され平和の主となられたのです。
 続けてパウロは、復讐を神の怒りに任せる訓練、敵が飢えたら食べさせ、渇いていたら飲ませるという積極的な働き人へと招いています。聖書の語る平和、主イエスが十字架の上で成し遂げられた平和と和解の夢をあきらめず、いついかなる時や場合においても、主イエスが平和を与えてくださるという約束を信じ生きることです。
 願わくは、私たちを取り囲む暴力と葛藤、争いの世の真ん中に立ち、訓練した平和を作り出す者としてのお一人お一人でありますように・・・。ハレルヤ

2017.8.13

〜小学校の同窓会〜
 8月6日に大阪の小学校5年6年生のクラス会を京都でしました。昨年に続き2回目で、小学校を卒業して40年以上が過ぎています。担任の先生を入れて、9人が集まり、また来年も集まろうと言って別れました。
 40年も経つのに根本は変わらないものなのか、当時にすぐに戻れるのです。同級生が『40年なんて一瞬やなぁ〜』と言うと、『じゃあ後一瞬で死んでまうで〜』と大阪弁で、ポンポンと会話が飛びます。イヤイヤ、40年はみんなそれぞれいろんなことがあり、苦労もあったのでしょう。これからもまだまだ楽しい事ばかりでない日がたくさんあると思いますが、毎年笑って昔話ができ、一年間何があったか報告できるクラス会なればイイなぁ〜と祈っていきたいです。
 一緒に京都のホテルに2泊した友人はクリスチャンで、今旦那さんと離婚調停がうまくいかずに、今度は訴訟になるとか?来年はどうなっているやら?私も富山での生活、教会に来るのをまた1年積み重ねてどうなっているのでしょうか?一瞬の一生の短い期間を一生懸命に生きたいと願います。
                    T.K 姉

2017-08-05

2017.8.6

『 ゆるし 』 マタイによる福音書18:21〜35)
 私たちは平和を覚える8月を過ごしながら、主にある真の平和を祈っています。
とりわけ日本が含まれている極東アジアは、北朝鮮によるミサイルや核実験、それに関わるアメリカ中国ロシアの対応を見ると、戦争が起きてもおかしくないような近頃です。皆さんは最近の世界情勢に触れながら、最も求められることは何だと思いますか。・・・私に示されているのは「ゆるし」です。
 イエス様の当時、イスラエル社会は、裁きと告発、批判で満ちていました。“3回まではゆるしなさい。しかし4回目は絶対ゆるしてはならない。”という戒めが公に教えられていたことが記されるほどでした。そのような社会的雰囲気の中で、弟子ペトロがイエス様に一つの質問を投げかけます。
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」(21節)
この質問には、“先生、ファリサイ派の人たちは2回まで、またラビたちは3回までと言っていますが、私たちイエス様の弟子たちであれば、7回くらいゆるしてあげればいいしょうか”と誇らしげに言っているペトロの姿があります。
 ところが、ゆるしの質問はしているものの、イエス様が伝えようとされた本当のゆるしの本質は知らなかったことが分かります。そうです。「ゆるし」を数えはじめることで、もうゆるしではなくなるのです。
 その時聞こえてくるイエス様の声に耳を傾けましょう。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(22節)・・・7回×70倍ですから、490回ゆるしなさいという意味でしょうか。それから491回目からは決してゆるしてはいけないということでしょうか。・・・いいえ、これは無制限のゆるしを教えられる場面です。イエス・キリストは絶えずゆるされるお方、生涯そのものがゆるしの生涯であったことを聖書は教えているのです。
 そこで語られたのが、「仲間を赦さない家来のたとえ」でした。まず、決して返済することができないほどの借金をしていた家来、その借金を帳消しにしてあげる王、帳消しにされた家来にわずかな借金をしていた仲間が登場します。そして主イエスは、“あなたこそ、決して返済することのできない借金を神から帳消しにされた人ではないか。”と私たちに問いかけられます。
 愛する皆さん、ゆるしが人を変え、世界を変えます。イエス・キリストの十字架を通して神が私たちの過去、現在、未来の罪をすべて赦してくださり、神の子どもにしてくださったその愛のゆるしのゆえに、私たちは新しく生まれたことを心に刻みつつ、世界の人々にゆるしによる主の平和を広げなければならないのです。ハレルヤ

2017.8.6

〜神を賛える国歌
「おお、神は、我らを祝福してくださる。あなたの豊かで良き励ましをもって!戦うべき敵が現れた時、あなたの癒しをもって助けてください。かくも長くあなたが罰せられた我ら民族を、安息の時へお運びください、過去と未来の罪によって、あなたに苛まれた民を・・・」
 あなたの助けによって、わたしたちの父祖が得たこの地は美しく、あなたが立てた私たちの旗は砦に翻る。しかし、ああ哀れ!我らの過ちによって、あなたの怒りが湧き上がり、次々と敵がこの国を侵しました。あなたの地が、あなたご自身の子らの罪ゆえに、その子達を墓場に送られたことが、何度あったことか。ああ!自由は死者の血から生まれることはなく、虐げられた隷属民の涙が、我ら孤児らの燃え上がる目より落ちる!
 哀れ、主よ、我らに危機の波が押し寄せた時は守護の力をお与えください。かくも長くあなたが罰せられた我らを・・・」
 これは、ある国の国歌の要旨です。その名も「賛称」というそうです。長い戦乱と侵略に苦しむ歴史の中にあったこの国が1903年に採用した国家、今ディボーションで学んでいる詩編の内容とよく似ていて胸を打ちます。

週報係

2017-08-03

2017.7.30

 〜 命のある限り 〜                
 105歳にして現役の医師を続けていた日野原重明先生が、7月18日に召天されました。 1911年、メソジスト教会の牧師の次男として生まれ、7歳に受洗し、母親の命をある医師が救ってくれたことから医学の道を志すようになり、生涯をクリスチャン医師として全うされました。
 神の人モーセは詩編90編で、“人生の年月は七十年程のもので、健やかな人が八十年を数える”と記していますが、日野原先生はそれをはるかに上回る105歳まで、神より頂いた体の健康に気をつけながら、生涯現役で医師としての使命を全うされましたね。           
 その中でも私が感心したのは、クリスチャンに大変厳しい日本の状況の中、常に堂々とクリスチャンであることを証しし、生きることへの素晴らしさを伝え続けてきたことでした。『私を変えた聖書の言葉』の本の中で先生は、「“いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(コリント13:13)”・・・私は今でもこの聖句が一番私の心の導きになっている。この聖句の意味は、歳と共に実ってゆき、私の老いを成熟させてくれているように思う。」と語りました。実に、“命のある限り”神より授かった医師としての愛の使命を貫き通した日野原先生の生涯に拍手を送ります。         
 先週、韓国の両親と義理の母から届いた病気の知らせに心痛む日々でしたが、親たちの信仰と愛に根づいた最善の働きと献身の歩みを知っているので、神の御手に親たちのすべてをゆだねるばかりです。               
 願わくは、神の家族お一人お一人も、命のある限り、主に与えられた使命と愛の業を全うされますように・・・。
“命のある限り、わたしは主を賛美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう(詩編146:2)。”

2017.7.30

『 神がわからなくなっても 』創世記22:1-19)      田口昭典牧師(金沢キリスト教会)
神の祝福の中の日々で
 アブラハムは75歳の時、行く先を知らずに神の導きに従って旅に出た。あなたに子どもが与えられるという神の約束の言葉を受けた。それから25年経って、息子イサクが与えられた。イサクは、アブラハムにとって神の約束の成就であり、彼を見ることによって、神を深く信じることができる存在であった。幸せな日々を送っていたアブラハムに突然試練が襲います。神が理不尽な要求がなされます。「息子イサクを焼き尽くす捧げ物として献げよ」と。
アブラハムは神の意図が全く理解できなかったと思います。どんなに解説しても、説明しても、納得のいく答えはありません。ただ、はっきり言えることはアブラハムは神がわからなくなった。自分の今までの考えや信仰では理解できない謎に直面させられた。

はい、という返事
 神の呼びかけ「アブラハムよ」に対して彼は「はい」と答えます。7節に、イサクが「私のお父さん」と呼びかけると、「ここにいる。私の子よ」と答えます。11節に、天からの御使が「アブラハムアブラハム」との呼びかけに「はい」と答えます。ここでの返事は、みな同じ言葉です。「私はここにいます(ヒネニイー)」です。
 アブラハムはアダムのように逃げ、隠れしません。私は逃げません。恐れません。おゆだねします。御心のままにしてください。アブラハムは自分でわからなくなってしまった神を見ようとするのではなく、神の前に出て、神に見てもらって、神の眼差しの中で生きると決意したのです。

備えてくださる主
 備えるという言葉は、「見る」という意味の言葉です。それは、主が見ていてくださるという意味です。主は、私たちの全てをご覧になり、最善をなしてくださるのです。アブラハムはそのような神の眼差しを信じていました。それは、神の摂理を信じる信仰です。摂理の語源は「プロ+ヴィデオ」で「前もって見る」という意味です。

神がわからなくなっても
 神がわからなくなってもいいのです。でも、その時、信仰を捨ててはいけません。信仰は与えられるものです。神がいつも新しく信仰を与えてくださいます。神に委ねて歩みましょう。                         

2017.7.30

九州北部豪雨緊急支援募金〜
 今年の夏は暑くなったと思ったら土砂降りの雨が降ったりと、変な天気が続いています。
富山でも37度もの猛暑日があった後に大雨が降ったりしました。特に7月5日におこった九州北部豪雨では大変な被害が出て今でも多くの人たちが苦しんでいます。
 YMCAではその人たちの為に少しでも力になろうと募金活動を行っています。僕は23日にグランドプラザで募金活動をしてきました。その日もザーザーと雨の降る日にも関わらず、多くの方に協力していただきました。また、途中で募金活動に参加してくれる方もいた事があり、とても嬉しかったです。何か苦難がある時こそ一人一人の助け合いが大切だと感じた一日でした。                      S.H兄