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富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

+++集会案内+++

●主日(日曜日)礼拝 午前10時半から
●水曜祈祷会 午後7時半から
●金曜ディボーション(黙想の時) 午前9時半から
●英語礼拝 第2日曜日
(コーヒータイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から)

●聖書の学び 毎週火曜日
●ハングル教室 毎週金曜日
(コーヒータイム:午後7時から 講義と練習:午後7時半から)

教会写真集はブログ「小さな泉の写真集」へ。
English Worship Service(英語のホームページ)、 富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

〒939-8081 富山県富山市堀川小泉町681

電話 076-491-2273

2018-11-03

2018.10.28

〜 家族を救ってください 〜
 先週の金曜日の朝、S兄より二番目のお兄さんが天に召されたとの連絡をいただきました。月曜日に突然倒れ緊急入院してから5日目、医者から“すい臓がんの末期で、既に肝臓や肺に転移していてもう希望がない!“という宣告を受け、しばらく闘病生活を予想していた矢先のあまりにも早い死でした。S兄とは年子で友達のように仲良く、また頼りにしていたお兄さんであったそうです。
 実は、S兄からの要望もあり、木曜日の南砺市礼拝を終え、入院先の赤十字病院を訪ねました。お兄さんは牧師の訪問を快く受け入れてくださり、短い時間ではありましたが、イエス・キリストの十字架の愛と贖い、復活と永遠の命の福音と死は終わりでなく、新しい始まりであることを伝え、心を合わせて祈るひとときを過ごしました。お兄さんは牧師が言う通り、目を閉じ、牧師の言葉に耳を傾けてくださいました。恐らくキリスト教会の牧師に出会ったのも初めてだったでしょうし、聖書の御言葉を聞いて祈るということも初めてのはずです。しかしお兄さんは、辛うじて息をしながら、素直に祈りに心を合わせてくださいました。そして、“また会いましょう!”という約束をして病室を後にしました。それから一日も立たないうちに帰らぬ人となりました。
 教会の伝道執事でもあるS兄は、“家族にもっと早くから福音を伝えていればよかった!”とご自身を責める言葉を何度も語っていましたが、主がS兄の心をご存じであり、お兄様の死を通して特別な御心を示されようとすることを信じ執り成し続けたいと願います。
 この秋、神の家族の周りに多くの方が病で苦しんでいる知らせが届いています。ぜひ、皆で信仰と愛を合わせ、執り成しの祈りをささげましょう。そして、愛する家族の救いのために勇気を出して、福音の言葉を語り始めましょう。後に悔いることがないように・・・。神の望まれる時間、神の働かれる時間は”今“です。シャローム!

2018.10.28

《執事による宣教》
『主よ、あなたがご存知です』
(ヨハネによる福音書21:15〜19)
 今年の春から農業に従事し、毎日初めてのことばかりで失敗の連続です。私の失敗は先輩達が過去に経験したものばかりです。信仰生活においても自分の過去の経験、疑問やつまずきを話すことが誰かの恵みになると考えます。
 私が救われる前に抱いていた疑問は、神は愛であられるのに何故救われず滅びるものを放置されるのか?地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた子羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。(ヨハネの黙示録13:8)とあるように救われる者は天地創造の時から決まっているのか?イスカリオテのユダは滅びに至るように定まっていたのか?等です。まず、人の救いには何が必要なのでしょう。御子イエスを信じる信仰です。すなわち自分が神様に対して死刑に値する罪人であり、主イエスがその罪を全て負って十字架で死んでくださり、墓に葬られ、三日目によみがえり、今も生きて父なる神の右に座し執り成していてくださる。主イエスをそのようなお方であると信じて告白するなら救いを得て永遠の命に入ります。イスカリオテのユダの裏切りとペトロがイエスを捨てて逃げた行為は神様に対する罪としては同じです。違いはペトロはイエスを神の子と信じ告白していたことです。ユダももイエスを売った後、悔い改めてイエスを神と認め主の元に立ち返ったなら救われたのです。滅びは自らが選んだのです。
 神は誰も滅びることを望まれず、定めてもおられません。只、自由意思を与えられたのです。例えばAを選んでもBを選んでも結果がAにしかならないならそもそも選択権を与えられていないのです。人が滅びを選んだ場合神様は悲しみながらもそれを尊重されます。神は愛であるが故に人を意のままに操るロボットにはなさいませんでした。
 何故天地創造の前から命の書に名が記されている者と記されていない者がいるのかと言えば、時間というものは主イエスによって造られました。ですから主イエスは時間という制約を全く受けないお方です。そのような方にとって人が人生の中の何時救われたかよりも、死ぬ前に救われたか否かのほうが重要です。人生のいずれかの時点で救われるのであれば全てを知っておられる神様の書に名が記されていても不思議では無いのです。命の書に名前を記すか否かは事実上その者自身が選ぶことを許しておられるのです。ですから私達は今すぐにでも救いを受けとることこそが神様に喜ばれることなのです。27年前教会を去り、イエスを棄てた私もユダと同罪です。しかし閔牧師を通して「あなたは私を愛するか?」と優しく声をかけて下さいました。「主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です。」とお答えします。
                                            S.Y執事

2018.10.28

旧約聖書入門12 〜「苦難の書ヨブ記」を読んで    
 ヨブはある日突然財産である牛、ろば、らくだ千百頭がことごとくうばわれ、多数のしもべたちが殺され、しかも十人の子女が突風によって死に絶えた。それでもヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た、また裸でかしこに帰ろう、主が与え主が取られたのだ、主の御名はほむべきかな」と語っている。またヨブの妻が「神を呪って死になさい」と迫ると「我々は神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」と答えた。
 ヨブは神の前に正しい人であって罪は何もなかった。それでも苦難を受けた。私だったらとても耐えられなく、神を呪ってマイナス思考になったと思う。しかし、主は苦難をとおしてわたしをととのえ、主のみこころにかなった者としてくださいます。主のみちびきに感謝して毎日を過ごしたいです。
                  M.T姉

2018.10.21

〜 御言葉を反芻する生活
“いかに幸いなことか…主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(詩編1:1〜3)”
 牛、羊、山羊などは、一般に反芻動物と呼ばれています。反芻(はんすう)とは、四つある胃袋を用いて一度飲み込んだ食べ物を再び口の中に戻して咀嚼するという過程を繰り返すことで食物を消化することを意味します。
 私が日本に来て最初にしたアルバイト先が焼肉屋で、メニューの中に「ミノ(第一胃、ハチノス(第二胃)、センマイ(第三胃)」があり、これらが牛の胃袋の順番であることを知りました。その時、聞いた話では第四胃は汚すぎるため食べないということでしたが、後で確認したところ、第四胃も「ギアラ」という名前で売られていることを知りました。これら四つの胃袋は少し匂いはしますが、それぞれ独特な歯ごたえがあってとても美味しいです。
 焼肉の四つ胃の話はここまでにして、キリスト者にとっての反芻する生活を考えてみたいと思います。先週の合同教会学校でも話しましたが、神の御言葉は霊的糧であり、その御言葉を食べる時がディボーション(黙想)の時なのです。しかし聖書は、一度呑み込んだ言葉を、一度きりでそのまま消化し排泄するのでなく、一度呑み込んだ糧を再び取り戻し、御言葉の隠れていた味と栄養を味わうことを求めているのです。それを御言葉の反芻とよぶならば、詩編1編の“昼も夜も口ずさむこと”がまさしく御言葉の反芻を表しているのです。御言葉を反芻する生活こそ、クリスチャンの信仰の成長と霊的祝福に欠かせません。
 “天高く馬肥ゆる秋”です。神の家族も御言葉を反芻する中で、体も、心も、魂も豊かにされますように…。シャローム!

2018.10.21

『 わが魂よ、主をたたえよ 』詩編103:1〜5、20〜22)
 “忘れる!忘れない!忘れてはならない!忘れてほしい!”・・・わたしたちの歴史(共同体・個人)においてこの「忘れる」という言葉が意味することは、本当に大きいと思います。キリスト者にとって、最も大切なことと言えば、救われたことへの確信でしょう。わたしの罪と汚れ、傷と痛み、弱さがイエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、すべて赦され癒されたこと、そして、サタンの奴隷から神の子どもになるという、救いの喜びと感動!この救いの感動の記憶は忘れることもできなければ、忘れてはならないものであります。しかし、時間の流れとともにその感動が薄れ、やがては形式的信仰生活だけが残ってしまう・・・。  まさにイスラエルがそうでした。何度も神に救われ、数えきれないほど神の愛と恵みを受けていながらも、神に反抗し、神から離れ、自己中心の道を歩み、やがては神に裁かれてしまう歴史を辿ってしまったのです。その中でも、「礼拝する民」としてのアイデンティティーを失ってしまったがために、神の裁きが下ったのだということを悟ります。そこで、詩編103編の詩人は、礼拝者の模範とされるダビデの詩を用いて、イスラエルの民に礼拝することの素晴らしさを示します。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。」(103:1)   
 詩人であり王であったダビデは、7回も繰り返し「主をたたえよ」と勧めます。そして、主をたたえるべき存在を、「わたしの魂、わたしの内にあるものがこぞって」賛美するようにと命じているのです。本来、「わたしの内にあるもの」とは、内臓を指す表現ですが、古代人は人の魂が、内臓の中に入っていると考えていました。ですから、「わたしの内にあるもの」とは、「心の中心、すなわちその人の全存在ももって」主をたたえることを、命じているのです。そして22節では、主をたたえるべき存在を、「主に造られたものすべて」が、しかも「主の統治されるところの、どこにあっても」主を礼拝し賛美しなければならないことを、大切に告げているのです。
 現代のキリスト者の多くは、昔のイスラエルの民のように、礼拝を形式化し、主日礼拝を奉げれば、もう自分はキリスト者としての義務を果たしたかのように生活している気がしてなりません。神の慈しみと恵みに感動するのは、もう昔の話だと平気な顔をした人々…。 しかしどうでしょうか。聖書は何と語っているでしょうか。
 ここで、「たたえよ」と訳されている言葉は、もともと「ひざまずく、ひれ伏す」という意味から出た言葉です。「ひざまずく」とは、どのような意味を持っているでしょうか。これは、“降伏する”という意味でしょう。真の王なる神に、自分の王座を明け渡して、その前にひざまずくこと、聖なる神の御前に畏れおののきつつ、両手を挙げて主を礼拝し、ほめたたえるのが、讃美の本当の意味なのです。しかし、そのような礼拝者の姿、賛美する者の姿は、神殿礼拝の時のみならず、「主の統治されるところ、どこにあっても」求められていることを忘れてはならないのです。ハレルヤ

2018.10.21

 今月(10月号)のリビングライフの引用分を是非、小泉町教会の兄弟姉妹と分かち合いたくて投稿させて頂きます。
〜リビングライフ10月号、序章P12 5.心配事を主に委ねる訓練〜
「心配は、起こってもいない事を前もって考え、疑似体験するようなものです。心配しても、心配事はなくなりません。サタンは、心配と恐れによって人類をコントロールしてきました。そうして、本来味わうべき感謝や喜び、幸せを奪ってきたのです。イエス様も、心配する私たちに『あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか』(マタイ6:27)と言い、心配しないようにと言っておられます。」「『あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』(1ペト5:7)〜 
 不安と心配が忍び込んできたら、『私は祈る者だ!心配しない!不安を受け入れない』と宣言しましょう。」
以上が今月のリビングライフの中で私の魂に強烈に響いた箇所であり、実践することにより御国に一歩近づける気持ちになります。皆さんは、いかがお感じになりますか?
T.k兄

2018.10.14

〜 「アーメンコーラス」 が歌える?!〜
 毎年12月の前半には教派を超えての諸教会が共に力を合わせ「メサイア」を歌う「富山市民クリスマス」を開催しています。小泉町教会も長い間、市民クリスマスに加わらせてもらっていることを感謝します。
 私も富山に来て以来の11年間、休まず聖歌隊に加わり「メサイア」を歌ってきました。最初の2007年には島田兄の半強制的(?)な勧めに従い、聖歌隊席には立ちましたが、「ハレルヤコーラス」以外はほとんど初めての曲だったので口パクをするしかありませんでした。・・・その後、年を重ねるに連れてある程度歌えるようにはなりましたが、なかなか自信がもてない曲があります。それが「メサイア」のフィナーレの歌である「アーメンコーラス」です。“アーメン”という言葉のみが繰り返され、四声の各パートがうまく合わなければ後味悪く終わってしまうため最も大切な曲でもあります。しかしアーメンの洪水の中、一瞬気を抜くとどこを歌っているのかわからなくなり、その後は口パクするしかなくなる…。
 “アーメン”は、“信じます、そうなりますように、そのとおりです”という確信に満ちた言葉としての意味をもっていますが、「アーメンコーラス」を歌う時は、確信どころか、いつも不安と不信仰、緊張に走っているような自分がいるのです。周りからは”閔先生がいるから安心です!“と言ってもらっていますが、心の底には「アーメンコーラス」の前に震えている自分がいます。
 今年の市民クリスマスでは「アーメンコーラス」がちゃんと歌えるでしょうか。アーメンという確認に満ちた御言葉を、もとの意味通り力強く歌えるようにしっかり練習を重ねたいものです。ハレルヤ

2018.10.14

『 御言葉に立つ 』 (イザヤ40:6〜9)
 クリスチャン生活の中で毎日起きている3つの奇跡があるそうです。
まず、イエス様を信じているといいながら聖書の言葉を読もうとしないこと、次は、イエス様を愛しているといいながら人々にイエス様の愛を伝えないこと、最後に、それにも関わらずイエス様を信じて愛していると堂々と話していることだという奇跡・・・。私たちはいかがでしょうか。
 10月は宗教改革を振り返り、学ぶ月です。ヨーロッパ各地で起きた宗教改革の流れには共通する特徴がありました。それは言うまでもなく「聖書」という神様の御言葉を大切にし御言葉の上に立とうとしていた人たちが用いられたということです。宗教改革を成し遂げる力となっていた「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」という三原則も、最初の「聖書のみ」がなければ成り立たなかったはずですし、聖書の御言葉の上に立ったからこそ揺らぐことなく中世カトリックとの戦いに勝利することができたのです。ウィクリフ、ヤン・フス、マルティン・ルター、ジャン・カルバン、ツビングリなど宗教改革の先駆者たちは、ただ神の御言葉のみが、堕落した教会を聖くすることができ、御言葉の力によってのみ教会のリバイバルが成し遂げられると信じていたのです。しかし「御言葉の上に立つ」という信仰姿勢は、現代の私たちの信仰生活においても同じく適用しなければならないことを覚えましょう。とりわけ目まぐるしく変わっていく現代世界を生きる私たちが土台を置くべきところこそ、「御言葉」の上に立ち、御言葉に従い、御言葉に導かれることであることを心がけるべきです。
“草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(40:7〜8)”
 「我ここに立つ」、マルティン・ルターがヴォルムス公会議において命をかけて叫んだ言葉です。この叫びには神と御言葉への揺るがないルターの信仰が現されています。この言葉は時代と状況を超えて、すべてのクリスチャンにチャレンジしてくるのです。「今、あなたが立っている場所はどこなのか」と。宗教改革の精神を振り返るこの季節、私たちの信仰が立っている土台が御言葉であるかを確かめましょう。すべてのものが変わりつつあるこの時代、そして私たちを変える力こそ聖書の御言葉であることをもう一度心がけましょう。願わくは、“霊の糧である御言葉を食べなければ一日を始めない!”という覚悟をもって、毎日、口を広く開けて御言葉をいただき、御言葉による変革へと導かれる祝福されたお一人お一人でありますように・・・。シャローム!

2018.10.14

〜先日のディボーションから〜
「いかに楽しいことでしょう
主に感謝をささげることは
いと高き神よ、御名をほめ歌い
朝ごとに、あなたの慈しみを
夜ごとに、あなたのまことを
のべ伝えることは(詩篇91:2-3)」

 私は福島で東日本大震災にあってから「悩んでもしょうがない、将来に起こるかもしれない苦難を想像して落ち込んでいたら損だ、今を楽しく生きて、楽しいことだけ考えよう」と、以前からポジティブだったのが益々楽観的になってきました。
 教会の水曜祈祷会で聖書を教わるうちに「自分だけ悩みも無く、毎日楽しく生活していていいのだろうか」と思った時もありますが、最近は、「いかに楽しいことでしょう」毎朝起きて、今日は何があるだろうか?今日のディボーションでは神様は何を示してくださるか?などと楽しく、感謝してすごすことは良い事だと教えてもらいました。
 神様に感謝して、毎日楽しく生きていけば、神様が私の行く道を照らしてくれると信じています。そう感じられてから、ますますポジティブになってきたような? 
T.K姉

2018-10-10

2018.10.7

〜 マラナタ信仰を生きる 〜
“いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。     
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです(汽謄汽蹈縫5:16-18)”

 三週連続で大型台風日本列島に上がってきて大きな被害をもたらしました。まれにないことで日本中の人が不安な日々を過ごしていることでしょう。これで今年の台風は終わりでしょうか。これからもまたやってくるでしょうか。…またインドネシアでは大地震津波による悲惨な災害に見舞われ、悲しい涙が流されています。主の憐れみと助けを祈りましょう。
 先週のある日一日の働きを終え、夜遅く牧師館に戻ろうとする時、私の周りを覆うような虫たちの大合唱が聞こえてきました。“あ、君たちも生きているよね。神より造られた被造物として最善を尽くして生きているよね。君たちには心配はないよね。ただ創造者なる神を賛美するだけだよね。”・・・その時伝わってくる恵み、平安、そして悟り…。虫たちの姿を通して、終末を生きる知恵を教えられているのだ。“そう、明日のことは明日自らが心配してくれるのだ。今はただ主に委ねられたことを、最善を尽くしてなしていくのだ。私の傍らで共に歩まれる主イエスを見、主と共に息をしつつ、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することを貫くのだ。”
 聖書が教える確かな事実は、これから私たちの願いとは裏腹に、ますます自然災害が広がるようになること、私たちの思いを超える出来事が起きるということでしょう。しかし私たちは恐れてはなりません。主を信じ、主の再臨を待ち望み、いつでも目を覚まして備え、最善を尽くして神の国と義を求めることです。宗教改革者のマルティンン・ルターが「明日地球の滅亡がやって来るとしても、私は今日一本のリンゴの木を植える」と語ったように、神の民である私たちは、主イエスの愛と福音を一人でも多くの人に伝えることです。シャローム!

2018.10.7

『 互いに重荷を担う 』 (ガラテヤの信徒への手紙6:1〜5)
 いよいよ、ガラテヤの信徒への手紙を締めくくる最終章に入りました。律法か、恵みかを叫び、恵みに生きるキリスト者の自由を掲げてきたパウロは、最終章に来て恵みに生きるキリスト者と教会に求められる生き方を示します。
 パウロは、5章で聖霊によって歩み、聖霊の実を結ぶ、信仰者の心の内側の人格に結ばれる実について述べていましたが、6章に入ると、その心の人格が外側にどう現れるべきかについて教えます。パウロは5章で「隣人を自分のように愛しなさい」(5:14)の律法の隣人愛を勧めましたが、6章に入って「互いに重荷を担う」(2節)という具体的な指針を示すことで話を進めています。すなわち、愛をもって互いに仕え合う生活は、互いに重荷を担い合う生活です。パウロはここで、「キリストの律法」という言葉を用います。互いの重荷を担い合うようになれば、旧約の律法ではないキリストの律法(主の晩餐の時の新しい契約)、すなわち愛の戒めが全うされることになります。さらにここで注意したいことは、まず、自分自身が重荷を負っている存在であると認めることです。私たちは絶えず他人の重荷に関心を示します。しかし、「自分自身もまた重荷を負う人間であり、誤りを犯しやすく、助けを必要とする弱い存在であること」に目覚めることから始まるのです。主イエス・キリストが十字架を通して私たちの身代わりとなり罪と罰を担われたように、私たちも主イエスに倣い、互いに重荷を担い合うことへと歩み始めるべきです。
 とりわけ自分が隣人の重荷を負ったからといって、自分が特別な存在となったかのように高ぶり、傲慢になってはなりません(6:3〜4)。人を助けることは「キリストの律法」であり、キリスト者として当然あるべき姿であることをよく吟味しながら生活すべきです。当時のギリシャ世界では、他人を助ける善行に対して、公に代価が払われるような慣習がありました。しかしパウロの教えは、世界の価値観と正反対のことを示しています。キリスト者は右手が行った良い業を左手が知らないように自分を誇らない、また、喜ぶ者と共に喜び、泣く人と共に泣く生活を心がけて生きる人です。愛する神の家族の皆さん、私たちはいかがでしょうか。私たちの共同体は、互いの重荷を担い合っているでしょうか。偉そうに人の上に立とうとしたり、人を裁いたり、傲慢に振舞ったりはしていませんか。
 主イエスの十字架に立ち帰ることです。そこで、“君は罪人だったよ、君は赦されない罪の奴隷であって、滅びてしまう人生であったのだ。そんなあなたのためにわたし(イエス・キリスト)が十字架の血潮ですべてを赦し、あなたを罪ない者に清めてあげたのだ!だから、互いに罪赦された者として、めいめいが恵みに生きる者として、人に仕える僕となることだ!”と言われる主イエスの御声をいただき、御心をしっかりと心に刻み従うことです。
 10月は今から500年前に起きた「宗教改革」を記念する季節です。宗教改革こそ、「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」という信仰告白の上に立って成し遂げられた神による恵みの御業でした。ぜひ、“新しいぶどう酒を入れるために新しい革袋を備える”神の家族でありますように・・ハレルヤ

2018.10.7

〜子ども礼拝に寄せて〜
 今日からいよいよ子ども礼拝が始まります。神に祝福された子どもたちの新しい礼拝が始まることに、大きな喜びを感じます。
 9月下旬の金曜日ディボーションが終わった後、子ども礼拝の準備が行われるのを知り、今まで子ども礼拝の準備に携わる機会がなかった私は、H姉とS姉が、その奉仕をされるのを知って、ならば良い機会、お手伝いをさせて頂こうとご一緒させて頂きました。
 2階の東側の一室に礼拝所ができることになり、荷物が片付いた部屋のレイアウトを考えた後、家具を移動し掃除機をかけ、以前からあったグレーのカーペットを部屋の片方に寄せ、その空いたスペースに、以前一階の礼拝堂室に、皆で力を合わせて敷いた、ピンクの四角いピースの残りを敷くことになりました。
 おおよそで必要なピースを一枚ずつ置きながら何枚いるかを数え、必要枚数が決まったところで、しっかりと一枚ずつ空いたスペースに敷いていきました。
 そして、タテヨコを順に並べ埋めて、最後の一枚までがピッタリと隙間なくカッターで切ることもなく、まるであつらえたように埋まった時には、喜びが溢れ3人で拍手し、神様に感謝を捧げました。そして、その枚数が、何と、神様の絶対数24(枚)だったのです。
新しく始まる子ども礼拝を主が祝福して下さっていると確信した、ささやかだけれど、大きな喜びに満ちた奉仕でした。  ハレルヤ、アーメン!
                       S.Y姉

2018.9.30

〜 姉妹よ、祝福の源となってください。 〜
“神があなたを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをあなたに向けてくださいますように。(詩編67:2)”
 “出会いと別れ”、これは神の御手の中にある恵みです。とりわけ突然の別れには神のその人への導きと召命が現れる時です。だから共同体としての私たちは神の導きとご計画を前にして従順にお受けすることが求められるのです。
 さて、私たちの愛して止まないS姉がご主人の突然の転勤のため、12月には東京に引っ越さなければならなくなりました。2013年の秋から5年間、S姉は小泉町教会の神の家族との交わりの中にすぐ溶け込まれ、愛を深めてこられました。豊かな賜物の持ち主で、忠実に神と教会に仕えてこられた姉妹でした。彼女は毎朝のディボーションを休むことなく、火曜日の聖書の学び、水曜祈祷会、金曜ディボーションタイムなど、平日の諸集会に努めて出席され牧師にとって大きな励みとなっていました。それだけではなく、S姉はCS教師、食事当番、路傍伝道、小さな泉の村など、ありとあらゆる教会の奉仕の場にご自身の力がある限り参加し神の家族と力を合わせてくださいました。その他にも彼女しかできないパソコンを用いての働きにも忠実でした。牧師としては一人の人に奉仕が集中することは好ましくないということを貫いてきたつもりですが・・・、彼女の働きはますます広がっていきました。神の家族の中に彼女を頼りにして来られた方々もたくさんいることでしょう。それほど、神はS姉を、小泉町教会を通して信仰の訓練と恵みを与えられ、また彼女の豊かな賜物と忠実さを用いられてこられたと信じます。そして神はS姉を新たな地へと遣わそうとされます。願わくはS姉の行く先々で祝福の源となりますように・・・。
 神の家族の皆さん、S姉との別れを悲しむ前に、これからの2ヶ月間の時間を大切に過ごしましょう。彼女が小泉町教会においていかに素晴らしい存在であったかを称賛し、また彼女が担っていた働きを分け合い、補い合うことを喜びましょう。S姉が明るく喜びをもって旅立っていけるようにしてあげましょう。シャローム!

2018.9.30

『 肉か、霊か 』 (ガラテヤの信徒への手紙5:16〜26)
“霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません(5:16)。”
 福音を知り、イエス・キリストを信じて救われた者にも、依然として残されているのは人間の本性とも言える肉的な性質です。バプテスマ(洗礼)を受けクリスチャンとなれば、奇跡的に新しい人になり新しい人生を始めることができるのかと思う人は多いでしょう。しかしそのような思いは錯覚であり、不可能なことです。むしろクリスチャンになったことで、今までは悩みもしなかったことが悩みの理由となったり、全く気にしていなかったことが気になるように変わったりします。なぜならば、その人の内側に聖霊によって新しい人が生まれたからです。すなわち、神を知らなかった時にその人を支配していた「罪ある人間の本性」に対して、イエス・キリストを信じたことで新しく生まれた「神の子としての聖い性質」が葛藤を引き起こし戦いを始めたからです。この罪の支配下にある「肉の自分」と、聖霊の支配下にある「神の子としての自分」の両者は熾烈な戦いを繰り広げるようになり、人生の終わりまでこれが続くことになります。
 そこで私たちが知らなければならないのは、私たちのもつ罪の本性は、この世にあっては消えることなく、絶えず刺激し、私たちを罪の支配下に捕えて置こうとすることです。その罪の影響下にいる人は、いかなる肉的な頑張りや努力をしても絶えず失望に陥ってしまい、罪責の罠に囚われてしまうのです。・・・しかし父なる神は私たちを愛し、私たちを罪の支配から解放してくださるために、聖霊を与えてくださり、聖霊の導きと感動に従って生きるようにと道を示してくださいました。ハレルヤ
 パウロは私たちに尋ねます。「肉に従うか、霊に従うか」と。肉に従って生きる人は、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」(5:19〜21)すなわち、肉の業を行なうようになり、神とは関係のない人生を歩むようになると指摘します。しかし、聖霊に従って生きる人は、豊かな実を結ぶようになることを約束しています。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(5:22〜23)の実を結ぶと教えます。これらの実は人の努力で得るものでなく、ただ聖霊に満たされて生きる人に与えられる恵みです。ここでパウロが肉の「業」、聖霊の「実」と表現していることに注目しなければなりません。
 聖霊に従うことは決して難しいことではありません。なぜなら、それも聖霊が助けてくださるからです。その人は、日々聖霊の息吹を感じ、聖霊と共に歩む恵みを知り、人知を超えた喜びと平和で満ち溢れるようになり、生活の中には豊かな実が結ばれるようになるでしょう。これらは人の努力や頑張りによって得られるものではありません。
神の家族の皆さん、私たちクリスチャン、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまった」(5:24)ことを覚えましょう。だから肉の欲に従うのでなく、日々、聖霊を信頼し、聖霊に相談し、聖霊に従いましょう。聖霊は肉の目には見えませんが、神の子どもたちの内側に生きておられ、絶えず導き豊かな実を結ばせてくださるお方であることを味わいながら生きる幸いをいただきましょう。ハレルヤ

2018.9.30

〜中部連合交流会報告〜
 先主日9月23日から翌日24日に、金沢教会にて、当教会所属のバプテスト連盟中部連合の交流会が行われました。隔年開催の今回は、金沢教会が新会堂(田口先生のお話では99%完成)を提供してくださいました。教会員自身さえまだ使っていなかった数々の施設を、連合諸教会の90名近くの参加者に開放し、引越しまもない忙しい時にホストとして奉仕してくださる金沢教会のみなさんに「神によって成る教会、与える幸い」の実践を見ることができました。
 今回のテーマは「フィリピ書」と「讃美」。浦和教会の山中臨在(ともなり)牧師を講師と讃美指導に迎えました。開会礼拝では小泉町教会で「花も」の特別讃美を捧げ、山中先生より「幸せなら手をたたこう」のメッセージをいただきました。二日目には早天礼拝、讃美礼拝を捧げました。讃美礼拝は「招きの言葉」から主の祈り、献金の祈り、祝祷(4人の牧師による合唱)まで、歌によって進行しました。音楽に合わせた手話、若者のリードによる踊りの賛美も捧げました。宣教は田口先生で、フィリピ4章のパウロの喜びを解き明かされたあと、人形「モンちゃん」との二重?唱による賛美をしてくださいました。後日、小泉町教会からの参加者のみなさんから、本稿にも証しが寄せられることでしょう。         
週報係

2018.9.23

〜子ども礼拝に備えながら 〜
“どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。                   あなたの御言葉どおりに道を保つことです。(詩編119:9)”
 9月は日本バプテスト連盟に連なる諸教会が「教会学校月間」として守っています。バプテスト教会アイデンティティーを成すものの大切な一つが「聖書主義」です。信仰の土台であり唯一の規範となるもの、教会の命となるべきものが聖書です。わが教会の信仰告白の第一の項目は「旧約39巻、新約27巻からなる「聖書」は神の霊感を受けて書かれたものであり、イエスがキリストであることを証言しており、わたしたちの信仰の唯一の規範であると信じる。」です。また日本バプテスト連盟の信仰宣言も「私たちの信仰宣言の中心はイエス・キリストであり、その基盤は聖書である。私たちは聖書が聖霊の導きによって書かれた、信仰の唯一の規範であると信じ、これに基づいている」という文章から始まります。これほどまでに、聖書バプテスト教会の存在理由と言えましょう。・・・ところが、最近のバプテスト諸教会の中では、福音理解の違いと言い、各個教会主義というバプテスト派の大切な特徴を曲解して、福音の内容を否定したり、都合良く変えようとしたりする試みが著しくなっている現実です。主イエスは今の現実をご覧になりどう語られるでしょうか。
 10月から始まる「子ども礼拝」のために二人の姉妹を中心に必要な物の備えをしています。今現在はわずかな人数の子どもたちですが、心を込めて2階の子ども部屋を片付け、綺麗に掃除し、またカーペットを敷き、新しい座布団を買い、パネルを備える・・・。教師たちの願いはただ一つ、子どもたちがこの場所で行われる子ども礼拝を通して神の愛を知り、福音に触れ、生きた礼拝者に成長すること。・・・“主よ、助けたまえ。導きたまえ。”

2018.9.23

『サーバント・リーダーシップ 』 (マルコによる福音書10:42-45)
 サーバント・リーダーという言葉を聞いたことがありますか?私は東京にいたので知らなかったのですが、閔先生が数年前にテーマとして取り上げたことがあるそうです。私は今墨田区に本部のある社会福祉法人賛育会で理事として職員の研修の講師を担当しているのですが、期せずして昨年から管理職のリーダーシップ育成研修にサーバント・リーダーシップの理論を取り入れています。「サーバント・リーダーシップ」の理論は、米国の元AT&T(通信会社)マネジメントセンター所長であったロバート・グリーンリーフ氏が、1970年に提唱したリーダーシップ理論です。企業や組織にはカリスマリーダーシップなど様々な指導者育成の理論がありますが、グリーンリーフは「リーダーとしてのサーバント」という、一見矛盾するような考え方を提唱したのです。
 リーダーは指導者、つまり教え導く人。サーバントは、奉仕者、つまり仕える人なのです。
私たちは、しばしば組織や団体の中で自分たちの団体にはリーダーがいないと嘆きます。私たちが思い描くリーダーは、力強く、自分たちや組織をぐいぐい引っ張り、組織の目的や夢を叶えてくれるようなリーダーです。
 ちょうど新約聖書の時代にローマ帝国に支配されていたユダヤ民族がローマから独立させてイスラエルを再び偉大な国に導く指導者を求めていたように、リーダーというイメージには強さや自信に満ちた信頼感が伴うのです。
 サーバントというイメージには、そのような強さは感じられず、弱々しささえ感じます。
ロバート・グリーンリーフは、サーバント・リーダーの考えを、ヘルマン・ヘッセ短編小説「東方巡礼」を読んで、閃いたそうです。これからの企業、大学、教会、いやどんな組織も、国の指導者でさえ、リーダーがサーバントである組織が発展すると説きました。
 彼の予測通り、今日、世界中で成功している多くの企業は、サーバント・リーダーシップの理論で発展しています。日本でも資生堂、星野リゾート、ユニクロなどは有名です。アメリカの片田舎の喫茶店を世界的なカフェスターバックスにした社長は、数店であった時にサーバント・リーダーシップの本を読んで感動し、マネージャーにグリーンリーフの本を配ったそうです。
 私たちクリスチャンは知っています。真のサーバント・リーダーの提唱者であり、実践者はイエス様であることを。そして、私たちの教会は閔牧師を筆頭にサーバント・リーダーの人でいっぱいです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによる福音書10章45節)
                                                島田 茂

2018.9.23

 今年は、暑い夏でした。
 暑さの中での慣れない現場仕事に今後負わされるであろう責任の重圧に心身共に疲れ果て、年齢を感じさせる今日この頃です。自分の技術と体力を越えたオーバーワークを会社から強いられている気がして、毎朝、不安と怖れの中で神様に救いを求めるディボーションをしてから出勤しています。
 救いの確信を得られない信仰薄き我が心を恥じます。
 聖書ローマ5:3に「苦難を誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを。」と記されています。
 先日、福岡教会の分級(教会学校)のリーダーから、私は神様から一対一の特別な訓練を賜っているのでは?と啓示とも思える言葉を手紙で頂きました。
 9/16の賛美礼拝後の信徒会は、楽しい交わりの中で必要を賜った恵みの一時でした。坂上兄の大学生の息子さんとの会話のお話しは、強烈な印象を受けました。
 こんな、取るに足りない私は、小泉町教会の皆様をはじめ、沢山のクリスチャンの方々に支えられて生かされています。
 御心ならば、富山に戻り皆さんと伴に奉仕をしたいです。どうかお祈り下さい。
                     T.K兄

2018.9.16

〜神の宝石として輝きを放つために 〜
“しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、        金のようであることが分かるはずだ。(ヨブ23:10)”
 ダイアモンドは素敵な輝きを放つだけでなく、その強度においてもこの世のどんなものより強いため、世界の人々に最も愛されている宝石です。しかし、ダイアモンドとは正反対とも言えるものとして、少しの力を加えることでつぶされてしまう炭があります。炭は真っ黒で形を見ても何の価値も見出すことができません。しかし驚くべきことは、あまりにも正反対と思われるダイアモンドと炭が“炭素”という同一の元素のカタマリであるということです。不思議です。成分がまったく同じものなのに、何が原因であれほどの違いが生じたのでしょうか。その理由は、“鍛練”という過程を通ったか否かによって決定づけられます。ダイアモンドは深い地の中で強力な地熱や地圧によって長い間、鍛錬され全く新しい性質に造り上げられたもの、しかし、炭は火に燃やされた後残されるただの炭素のカタマリに過ぎない(もちろん最近では炭もダイアモンドまでの価値はないにしろ、色々なところに利用されています)。
 神は人をダイアモンドのように輝く、貴い存在とするために、あらゆる試練(テスト)や苦難を与え、それらを通った者を選んで、神の栄光が現される者にしようとされるお方。愛なる神は、お造りになられたすべての人を神の栄光を現わしながら輝きを放つことができる者として、また神に愛されている者として愛の香りを漂わせながら歩める者として用いようとされていることを覚えましょう。
 収穫の季節を迎え、あなたをダイアモンドのように輝かそうとされる神の熱心を知り、御手に触れていただきましょう。あなたを襲ってくるすべての試練や苦しみはあなたをダイアモンドのように輝く宝石とするための神の道具です。シャローム!

2018.9.16

『 福音がもたらした奇跡 』  (列王記下7:3〜11)          
 聖書の中には予想もしない人物や出来事を通して神の御業が成し遂げられる場面がいくつもあります。本日の聖書の物語はまさにそのうちの一つです。
 本日の聖書箇所には四人の重い皮膚病(ツァラアト)の人たちが登場します。当時の北イスラエル社会において重い皮膚病にかかるということは神に呪われ天罰が下ったということとされました。そのため、彼らはサマリア城の中に入ることが許されず、社会的、宗教的にイスラエル共同体から隔離されてしまっていました。
 丁度その頃に、イスラエルの地に大変な飢饉が襲ってきたのです。それに加え、アラム王国(今で言えばシリア)による侵略を受けることになります。当時のアラムはイスラエルよりはるかに強い軍事力を持っていて、虎視眈々とイスラエルを狙っていた国でした。いよいよアラム軍は北イスラエル首都サマリア城を包囲することになります。飢饉という自然災害と敵国による侵略とで、危機的状況に追い込まれていた北イスラエルでした。
 このような絶望的状況の中、神は呪われていた四人の重い皮膚病を患っていた者たちを用いられます。神は彼らを遣わして北イスラエル共同体を救いへと導かれることになります。誰にも予想できなかったことが起きたのです。神は、まず、四人の病人たちに“良い知らせ(福音)”を味わわせられ、今まで彼らをいじめ、苦しめていたイスラエル共同体にその“福音の良い知らせ”を伝えさせられるという奇跡を成し遂げられます。
 四人の重い皮膚病の人たちを通して、死と絶望の町であったサマリアが喜びと勝利の讃美に溢れる町に変えられる。これこそ人の思いをはるかに超える神の方法であり、絶望のうちに働かれる希望の神のお姿なのです。
 わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」(9節)
 福音を目の当たりにした四人の病人たちの告白です。この告白には、福音を味わった人の抱くべき姿勢が示されています。しかし、今までイスラエル共同体から疎外され蔑まれてきた彼らでした。ですから知らない振りをしても誰からも非難されることはないはずです。しかし一つ確かなことは“福音の良い知らせは独り占めにするものではない”ということです。良い知らせは隣人と分かち合うことに意味があり、そこにこそ福音を授けられた神の御心が現れているのです。神の恵みの良い知らせを体験した人は、その良い知らせを隣人に伝えずにはいられません。
 愛する神の家族の皆さん、日本中が不安と絶望に陥っています。とりわけ災害地にいる人々を襲っている不安と恐怖の重さは計り知れないでしょう。今日、最も惨めで弱い四人の重い皮膚病の人たちを遣わされた神は、私たち小さな群れを隣人の方へ遣わそうとされます。神が、先に福音を授けられた私たちの小さな力、小さな奉仕、小さな一歩を通して、死んでいく人々をよみがえらせ、祝福をもたらす奇跡を起こしてくださいますように・・・。ハレルヤ

2018.9.16

 8月の休暇では1年半ぶりに富山へ帰省し小泉町教会の兄弟姉妹の皆さまとお会いすることができ、また私たち家族を喜んで迎えてくださり心から感謝いたします。福岡に導かれて4年半、そして野方教会に導かれて1年半がたちました。もうこんなにも月日がたっていることに驚き、毎日があっという間に過ぎていくのを実感しています。特に、野方教会へ導かれてからの日々は今までで1番早く過ぎているように思えます。いつも緊張感があり、悩むことも多くありました。私自身、牧師の妻として何か出来ているのかと考えたり牧師の妻だから何かしないといけないのでは…と、自分にプレッシャーをかけたりと少し心が疲れてしまう時もありました。また今年から、息子の幼稚園の役員を任され、さらに福岡連合牧師配偶者会の幹事の奉仕も担っており、昨年よりも忙しく過ごすことになりました。そして、牧会の中でも様々なこともあり私たちにとって試練の時もありました。神さまの御心がわからない、神さまが遠くに感じることもあり自分の弱さに向き合わされ辛い日々が続くことも経験しました。しかしその時に神さまは、語りかけてくださるのです。「そのようなときこそ祈りなさい。」と。自分中心の考えになっていた私に、神さまはこのように教えてくださり感謝しております。また今年の夏には富山の神の家族の皆さまとお会いでき、私たち家族はとても慰められ励まされ心が元気になって福岡に戻ることが出来ました。母教会へ帰り信仰の原点に戻り、自分を見つめ直すようにと神さまはこの帰省を用意してくださったのだと思います。小泉町教会の兄弟姉妹の皆さまのお祈りによって私たちは支えられていることを感謝いたします。これからも神さまに仕え共に歩んでまいりたいと思います。またお会い出来る日を楽しみにしています!
                  宮田 幸

2018.9.9

〜 一人の伝道者を偲ぶ 〜
 先週、以前紹介したことのあるS師が召天されました。まだ50代の中盤と若く、牧師としても最も活躍すべき時に神に呼ばれたので、言葉では言い表せないほどの驚きと悲しみに包まれて過ごした一週間でした。 
 S師と初めて出会ったのは今から23年前の登戸駅でした。S師の最初の印象は「強烈」そのものでした。清潔感のある白いワイシャツ姿で、透き通るような声で、高らかに福音の言葉を伝えるS師でした。「イエス様はあなたを愛しています!イエス・キリストを信じてください」と駅内に響き渡る叫び声。・・・当時の私は、日本に来て2ヶ月足らずで、日本語も殆ど話せませんでしたが、勇気を振り絞って近づき、自分が韓国からの留学生で、クリスチャンであることを身ぶり手ぶりで伝えました。その時S師が笑顔で「閔くん、日本に来てくれてありがとう!」と親しく声をかけてくれたことを覚えています。その後、S師とは東京吉祥寺駅で路傍伝道をしたり、互いの家を行き来したりしながら交わりを深めていました。日本の地で、もう一人の兄弟を得たような感じでした。
 もともとS師は物理を専攻し、研究所に務めるエリートでした。そんな彼がある日「研究所を辞め、福音伝道者になるんだ」と神からの召命を伝えてくれました。一瞬彼の決断に驚きながら、彼のもっていた素晴らしい賜物が福音伝道者として発揮できることを期待し神の祝福を祈っていたことを思い出します。S師は、人との間に境界線を作らず、街で迷う青少年たちやホームレスの方々の中にスッと入って行ける、本当に素敵な伝道者でした。
 日本中が台風北海道地震による被害で不安と悲しみに包まれている今の時、突然のS師の召天で悲しむご家族の上に主の慰めと励ましが豊かに注がれますように…。神の家族の皆さん、人生の中に突然襲ってくる様々な出来事のゆえに振り回される私たちですが、忘れてはならないのは、すべての出来事の上に働く神の最善のご計画と導きを信じ、主の栄光が現わされることを心がけながら歩むことです。シャローム!

2018.9.9

『 試練を喜ぶ?! 』 (汽撻肇蹐亮蟷4:12〜14)
 人生を生きる中で、いつも良い日だけがあるわけではありません。晴れの日があれば、曇りの日もありますし、激しい雨が降る日もあります。時には、地震ですべてが崩れ落ちるかのような体験もします。
 これらの経験はイエスを信じるクリスチャンであっても例外はありません。むしろ、クリスチャンはその信仰のゆえに受ける苦難があるのも事実です。このような苦難に遭う時、その苦難の意味を知って生きる人は知恵ある人であり、神の祝福を生きる人であると言えましょう。使徒ペトロは苦難に遭っている神の子どもたちにとても力強い言葉をもってチャレンジします。
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです(4:12―13)。”
「火のような試練」とは、ただの比喩表現ではなく、手紙が書かれた当時の初代教会が実際、身をもって体験していた試練でありました。イエス・キリストを信じるということで、ローマの円形劇場でライオンの餌になる時もあり、火炙り刑に処せられる時もありました。そこでペトロは「ふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しむことなく、むしろ、喜びなさい。」と勧めます。すなわち、そのような試練を人生の中で被る想定内のこととして受け止めて、気持ちを落ち着かせるようにしなさいということです。なぜなら、試練こそキリストの苦しみにあずかれる恵みであるからです。宗教改革者のマルティン・ルターは試練を「第三の礼典、サクラメント」であると言いました。主の晩餐式やバプテスマ洗礼式のようにキリストと一つになる神秘であるというのです。なぜならば、苦難や試練を通して私たちはもっと清く純粋になり、神の恵みに与る恵みの手段になるからです。実際、使徒たちは迫害の苦しみにあずかる時、キリストの苦難にあずかることで喜んだ!と記されています。   
“それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び・・・、(使徒5:41)”
 愛する神の家族の皆さん、私たちの主イエス・キリストは苦しみを受けた後、栄光を受けられました。私たちがキリストの苦しみにあずかるのであれば、私たちも同じくキリストと似た者に変えられていくのです。
 最後に、ペトロは“キリストの名のために非難されるなら、それが幸いである。(4:14)”と教えます。なぜなら、“栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(4:14)”・・・聖霊は神の子どもたちといつも共におられ、試練を通して栄光から栄光へと変えてくださるお方、そして耐えられない苦難から逃れる道をも備えてくださり、それに勝てる力もくださるお方なのです。願わくは、試練からもたらされる祝福を受ける光輝く神の家族お一人お一人でありますように・・・。ハレルヤ

2018.9.9

〜新たな出会い〜
 今年のGW頃から主人が体調を崩しました。疲労の蓄積だそうです。そこで毎日自転車で30分かけて通勤していたのを車通勤に変更してもらいました。富山へ越してきて約20年、車無しで生活をした事の無い私でしたが、自転車や交通機関を使う生活になりました。楽器や楽譜等を持って出張レッスンに通うのは大変ですが、新しい発見もありました。普段車では絶対に通らない裏道を自転車で走っていたら、玄関ドアに『JESUS LOVE YOU』とプレートがかかっている家を見つけたのです。なんかとても嬉しくなりました。
 もう1つ新しくした事があります。聖書です。私は子供の頃から【新改訳聖書】で育ってきたので、すぐに心の浮かぶのも、心に響くのも新改訳聖書の言葉です。小泉町教会で使用している【新共同訳】は子供達には与えましたが、頑なに私は買いませんでした。でも、やっと買いました。これからは新共同訳ならではの恵みを発見し、祈りつつ神の真理を見出していきたいです。
K.K姉

2018.9.2

〜 福音が語られる教会 〜
 休暇中の先週の主日、息子と一緒に礼拝をささげるため近くの教会を訪ねました。その教会はバプテストでなく、違う教団でした。しかし、同じプロテスタント教会でしたので、牧師の宣教や礼拝プログラムなどを楽しみにしつつ礼拝に集いました。
礼拝を導いていたのは、その教団の引退牧師であって、教団の中でかなりの影響力をもっているようでした。礼拝は式文に従って進められ、とても新鮮でした。そして、いよいよ宣教の時になり、テキストはマルコによる福音書の主イエスが湖を歩いて弟子たちのところに来られるという場面でした。早速、牧師の方から信徒たちに質問が投げかけられました。“皆さんはイエスが湖を歩いたと信じますか。・・・信じている方は手を上げてください”・・・その声に、礼拝に集っていた人の約半分の人が手を上げていました。その後、牧師からの一言、“皆さんの信仰は素晴らしいですね。〜しかし私は、イエスが湖の上を歩いたとは信じていません。”・・・この言葉に会衆の方から“ヘー”という驚きと戸惑いの反応が飛び交いました。・・・その後、その牧師は、古くからの批評的な読みとして、イエスは海を歩いたのでなく、岸辺に立っていたけど、弟子たちが高い波のゆえにイエスが歩いてくるような錯覚をしたのだ!という説明をしました。
 礼拝を終え、教会を離れながら一人の牧師として心苦しさを覚えました。聖書の福音の御言葉がそのまま語られず、人の経験と理性、見解などによって変えられてしまい、神の奇跡が神話や嘘の領域になってしまう。しかもそのような主張がそのまま宣教で語られてしまうことを目の当たりにしながら、悲しまれる神の御顔を思い浮べました。キリスト教会の命は福音にありますし、ただ信仰によって生きることに力があることを忘れてはなりません。福音が鮮明に語られる教会が、主に喜ばれる教会です。シャローム!

2018.9.2

『 愛に基づくマラソン 』 (ガラテヤ5:7〜15)              
 パウロをはじめ、新約聖書の記者たちはクリスチャンの人生を「走り」で表現します。その代表的な御言葉として、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ3:14)」、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか(ヘブライ12:1)」などがあります。ここでの「走り」とは、完了形ではなく、継続進行を表す言葉です。すなわち短距離でなくマラソンの走りを表していることが分かります。パウロは本文の7節で、ガラテヤ教会の信徒たちの走りについて「あなたがたは、よく走っていました。」とほめています。彼らの福音に基づく信仰の走りを見てパウロは誇りに思っていたことでしょう。ところが、彼らの純粋な走りの中に割り込んで入ってきた人たちがいました。それがユダヤ教の律法主義者たちでした。彼らの誘いにガラテヤ教会の信徒たちは混乱に陥るようになってしまったのです。
 パウロは偽教師たちのことを神からのものではないと断言します。そして彼らとその教えのことを「パン種」であると指摘します。間違った教えは、教会を分裂させ滅びへと向かわせます。それはまるで、古くなったパン種が練り粉全体を腐敗させるかのようなことでした。聖書の中で用いられるパン種は良い意味の時もありますが、否定的、すなわち「不純物、不信仰、罪」などを象徴する時も多くあります。その悪い「パン種」の中で最も大きな影響力をもっていたのが「割礼」に象徴される律法主義だったのです。「割礼」とは、イスラエルの民の証明となるしるしであって、「割礼」のしるしを持たなければ、その人は神の民として認められませんでした。これは「信仰によって救われる」という福音に立って成長していたガラテヤ教会にとって大きなハードルとなっていました。
 キリスト者は罪と死の力と律法から解放された存在です。パウロは、神がキリストにあって与えてくださった自由は、肉の欲望を満たす機会とするものではなく、愛によって互いに仕え合うための自由であると教えます。律法主義に捕らわれている人は常に隣人を裁き、噛み、滅ぼそうとします。しかし、イエス・キリストの十字架の愛に触れ新しくされた人は愛からなる自由を生きます。愛こそすべての律法の要約であり、その中でも「隣人を自分のように愛しなさい」と命じられた主イエスの偉大なる戒めを生きるのが真の自由人が成すべき自由の実なのです。
 願わくは、小泉町教会の神の家族が神より与えられた自由をもって、律法的な裁き合い、縛り合いではでなく、互いに愛し合い、励まし合う、愛に基づく信仰のマラソンを走り続け、主に喜ばれる教会を形成できるように…。
 

2018.9.2

 私は小泉町教会に通うようになって半年以上経ちました。それまでは、路上生活をしていました。路上生活中、富山駅北口の毎週月曜日に行われている炊き出しに行っていました。何回か行っている間に、Sさんと出会い、自分が英語が好きなことを言ったので「こういう行事があるから来ない?」と誘われたのがきっかけです。
 初めての日曜礼拝へ。教会の中では、すでに礼拝が始まっており、さらに扉が開いていました。礼拝の途中でも参加できることを知らなかった私。その日は、諦めて帰りました。次の週の日曜礼拝の時は、勇気をもって入りました。入った瞬間、鳥肌がたちました。閔先生をはじめ、教会の皆様による暖かい歓迎に感動しました。今まで、私の人生で、映画以外で感動したり、鳥肌が立つのは今回が初めてです。
 その後から今まで色々な出会いがありました。こういうつながりを大切にしながら、今後の信仰生活につなげたいと思います。
Y.H兄

2018-08-25

2018.8.26

〜牧師の優先順位を考える〜
“良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。(ヨハネ福音10:11〜12)”  
 今週の礼拝では福岡野方教会に赴任して初めて帰省した宮田祐亮牧師の宣教と幸姉による証しを分かち合います。就任してから一年と5ヶ月。ご夫妻にとっては短いようで長い時だったでしょう。神学生の立場から牧師になって牧会の現場に出ると夢と現実の違いに戸惑いを覚えることになります。とりわけすべての出来事において牧師の判断と責任が問われるため、重く圧し掛かる荷の重さのゆえに心苦しくなる時も多々あるのも事実です。だから牧師は絶えず主イエスの御心を求め従う訓練を続け、その中で成長していくのです。
 実は先週のことですが、宮田師ご一家が夏の休暇を許され、富山に帰省の旅に出て富山に近づいたところ、野方教会の103歳の教会員が召天されたとの知らせが届きました。せっかくの夏の休暇、しかも牧師になって初めての帰省ということだったので、突然の教会員の召天の知らせはご夫妻を悩ませたことでしょう。しかし、富山に着いて早速、野方教会の方々に連絡を取り、前夜式や葬儀などの諸式の相談をした上で、宮田師は一人で福岡に向かうことを選びました。宮田師の一つの教会の牧師としてのその姿を誇りに思いつつ、主に感謝をささげました。
 牧師の模範となる方こそ主イエスです。主イエスは真の良い羊飼いとして、羊のために最も良いものを与え、命まで捨てることを良しとされたお方です。主イエスは現代の牧師たちに「あなたの優先順位を確かめなさい」と尋ねられるでしょう。近頃、度重なる牧会者の犯罪と間違いこそ、優先順位を正しく立てなかったゆえの結果でしょう。願わくは、世界の牧師たちが雇い人のマインドではなく、主イエスに示されている良い羊飼いとしてのアイデンティティーをもって、謙遜に主の御心を訪ね求め、愛に基づく牧師の優先順位を新たに立てていくことができるように・・・。シャローム!

2018.8.26

イエスのように愛し合う 』 (汽茱魯佑亮蟷4:7〜12)
 ハレルヤ!久しぶりに、愛する小泉町教会の皆さまと共に、礼拝をおささげ できます幸いを感謝いたします。いつも、私たち家族と野方教会のために祈ってくださり、ありがとうございます。
 聖書が一貫して貫いているメッセージ、それは「愛」ではないでしょうか。キリスト教会は、互いに愛し合うこと、イエスさまの愛を見本にして、愛し合うことを、何よりも第一生き方として選び歩んできました。1960年に富山小泉町教会は、この地に建てられて宣教活動が開始されました。この長い歴史の中で、私たちは、一体何を第一として歩んできたでしょうか。キリストの弟子の群れとして、互いに愛し合う事、そのことを第一として歩んでこれたでしょうか。私たちは今日、もう一度互いに愛し合うこと、教会にとって一番大切なそのことの意味を、もう一度心に留めながら、神さまからの御言葉をいただきたいと思います。
 皆さんは愛する人へ、愛を伝えるために、愛情を現わすとしたらどんなことをされますか?結婚されている方であれば、お連れ合いに、また、ご家族や、ご兄弟、または親しい友人、そして教会の兄弟姉妹に対してはどうでしょうか?一つは、「愛していると」と声をかけること、言葉で表現することですね。または、その人が喜ぶようなことを行動で表すことです(プレゼント)。色々な表現方法があると思います。それでは、皆さんは教会の兄弟姉妹の皆さんに、どのような方法をもって愛をしめしていますか?マザー・テレサが、愛の反対は憎しみではなく無関心ですと言ったのは有名な話ですが、あなたは愛をしめすために、どのような具体的行動をとっておられますか?
 今日は、まさに神の愛について、まっすぐに教えているヨハネの手紙から、神さまのみ言葉を受け取っていきましょう。今日の箇所から、互いに愛し合うことの深い意味を知ることができます。「神は愛である」ということは、もう信仰生活が長い方であればあるほど、何度も何度も親しんでおられるみ言葉だと思います。そして、それは私たちの信仰の根本的なものなのです。
                野方教会(福岡) 宮田祐亮牧師

2018.8.26

〜猛暑に思う〜
 テレビの天気予報の午後7時の時報前の放送はできるだけ見逃さないようにしている。農家でなくてもこの時間の放送を利用している人は多いらしい。私は野良をこの放送を見るために、いつも間に合うように野良仕事から帰宅するような日課をしている。        
 農家はこの時間の予報は欠かせないのである。予報はたまに外れることもあるが、ほとんど90%正確である。科学の進歩で正確に観測ができるのだとのこと。ありがたいことである。 ここしばらくの天気予報の内容は、猛暑の放送ばかりである。いつ雨が降るのだろうかと雨を待つ私。朝夕の庭木、花や畑の水やりは、すべて私の役目である。毎日の水やりは私の日課である。
 灌水していると草木や花などは何か私に話しかけてくる様子の仕草が伝わってくる様な感じがする。毎日30度以上の暑さの中、彼らも人間と同様に生きるために戦っているのだと思います。
 神さまはこのようにして、人間と共生できるようにして下さったのだと信じます。それにしては、ここしばらく野猿達を見かけないのである。野猿達も猛暑で、大樹の下で暑さをしのいでいるのかなあ…。暑いので人里には降りてくるのは大変なのかなあ…。きっと野猿達も暑さと空腹に耐えながら懸命に生きているのだと思います。私たち人間も草木や花などに負けないで、この暑さを乗り越えたいと思います。  8月12日記
             A.M姉

2018.8.19

『 礼拝から平和へ 』詩編122:1〜9)
 “わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」 わたしは願おう、わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」(詩122:8〜9)”
 「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしは嬉しかった」(2節)・・・この最初の文章から、私たちは礼拝者が備えるべき礼拝精神を教えられます。すなわち、礼拝に参加することは、義務や形式でなく、喜びと楽しさ、感動に満ちるものであることを示しています。私たち礼拝者にとって、主の宮に上り、礼拝する喜び以上に感動的なことはないでしょう。礼拝は、義務よりは喜びをもって進むべき時、神の臨在の場所で神に出会い、神の御言葉をいただき、神より、勇気と希望と命と力、生きる知恵と揺るがない約束をいただき、それに私たちの信仰が一つとされるのが礼拝です。だからこそ、礼拝は生きているものであり、その礼拝において、最も際立つのが喜びであって、嬉しさなのです。
 そして、もう一つの重要な礼拝精神が4節に記されています。それは、「すべての部族、主の部族が主の御名に感謝をささげる」というところです。ここで「すべての部族」とは、イスラエルの全部族を指していますが、今の私たちに照らして見ると、礼拝者とその家族すべてが、礼拝に集うことを意味するのです。そうです。礼拝そのものが喜びであるのは確かですが、すべての家族の中で、自分一人だけが礼拝に集うということでは、完全な礼拝の喜びと嬉しさを味わうとは言えないでしょう。だから詩人は、自分が属している家族みんなが礼拝に集うことを期待し歌っているわけですし、それこそ、本当の幸いであると言えるのです。すべての家族が集える礼拝には、自然と「感謝」が満ちることになるでしょう。神にささげる礼拝は、私たちが喜ぶためだけではなく、私たちを創造し、命を与え、神の栄光のために生きるように導き、助けてくださる神への感謝が伴われることで、本当の礼拝と呼ぶことができるのです。
 喜びと感謝に満たされ、礼拝を献げている詩人は、エルサレムの平和、その城壁のうち、その城郭のうちの平和を祈るようにと勧めます。神を礼拝する神殿がある聖なる都は、平和の場所にならなければなりません。詩人が歌っている平和こそ、個人の平和ではなく、礼拝する神の民全体に与えられる平和であり、神の民全体が、望み、もたらすべき平和なのです。エルサレム、すなわち、神の聖なる都に住むすべての人は、「兄弟」であり「友」なのです。これは、世界の国々、民族、部族を超えての礼拝者としての「神の家族」を指しているのです。
 神の臨在の場所、神の都エルサレム愛する人は、神を愛する者であり、神の家を慕う人は、神を慕い求めるゆえに、神の祝福を受けることになります。そして、喜びと感動と感謝をもって礼拝する者たちは、真の平和を愛し、平和を祈り、平和を作り出す者としての一歩を踏み出すことになるのです。
 世界中の礼拝者が、喜びと感謝の礼拝から、イエス・キリストの十字架による真の平和を知り、エルサレム、すなわち神の神殿である、一人一人の兄弟と友の平和を祈り、平和からもたらされる幸いを生きるように・・・。ハレルヤ

2018.8.19

 小泉町教会の水曜祈祷会に出席して約2か月が過ぎ、たくさんの恵みを受けています。私自身は福音派の教会員ですが、教会が自宅から遠いこともあり、祈祷会には参加していませんでした。祈祷会に行きたいという思いはずっと持っていました。
 一昨年に富山市民クリスマス聖歌隊に初参加しました。当時、辛いことがあり落ち込んでいた私を友人が誘ってくれたのがきっかけでした。そこで小泉町教会の清水姉と知り合い、受難日礼拝や、小さな泉の村へのボランティア参加などで小泉町教会との関わりが出来ていき、祈祷会へと導かれました。皆さんに暖かく迎え入れられ、聖書を学ぶ楽しさ、共に祈る嬉しさに、自分の信仰が息を吹き返していくような感覚を持ちました。
 「祈祷会に行きたい」という祈りに主は答えてくださいました。それは自分が通う教会ではなかったけれど、教派を越えた「神の家族」という広い視野で信仰を捉えるよい機会となりました。主のこれからの導きに期待しつつ、続けて祈祷会に出席したいと願っています。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3
                  T.K姉

2018.8.12

〜 主よ、もう一人を助けさせてください 〜
   “殺してはならない。(出エジプト20:13)”
 メル・ギブソン監督が、沖縄戦で最も激しかった前田高地での戦いを背景にして、作り上げた戦争映画が『ハクソーリッジ』( Hacksaw Ridge)という映画です。しかし、この映画はただの戦争映画ではなく、戦争の悲惨さの中で、一人の人の命がいかに大切であるか、また、平和を作り出す者としての、キリスト者のあるべき姿を示してくれる名作です。
 映画の主人公は実在の人物であるデズモンド・ドス。彼は、十戒のうち六戒の“殺してはならない”という神の命令に従い、「良心的兵役拒否者」として銃を持つことを拒否しながらも、辛うじて衛生兵として戦争に参加することになります。彼の心を支えていたのは、「隣人を自分のように愛しなさい、敵をも愛しなさい」という、主イエスの御言葉、また「死んでいく人を救う」という召命でした。デズモンドは、“何人殺したのか”が誇りとなる戦場において、“死んでいく人を助ける”ことに焦点を置いて走り回ります。激しい戦闘が繰り広げられる中、デズモンドは、身の危険にさらされながらも、“主よ、もう一人助けさせてください。もう一人・・・”と祈りつつ、敵陣に向います。彼が救った75名の兵士の中には、アメリカ軍だけでなく、日本軍も含まれていたことから、国家や民族を超えた神の愛が、彼を働かせていたことが分かります。神の愛の前に、民族や国家の壁は崩されていき、一人の命の尊さが輝きます。
 神の家族の皆さん、御言葉を実際の生活に100%適用しながら生きるということは、大変難しいことです。そういうことは、人の頑張りや努力によってできるものではありません。イエス・キリストの十字架の愛に心打たれつつ、生きておられる神の臨在と、御言葉に励まされる時に初めてできることでしょう。私たちも、霊的戦争が繰り広げられる戦場に遣わされた福音の衛生兵であることを覚えつつ、死んでいく一人一人のところに出かけましょう。シャローム!

2018.8.12

『涙を流される神 』 (ヨナ4:5〜11)
 あなたの人生の中において神様の御心に逆らった経験はありませんか。自分も知らずに、神の御心に逆らうことがしばしばあるのも事実です。しかし、預言者ヨナは、自分の意志で神の御心に逆らうことを選びます。最初、神から預言者として召された時には、自分の同胞たちに向けて、神の言葉を伝える預言者としての夢に燃えていたヨナだったでしょう。しかし、ヨナへの神の御心は同胞ではなく異邦人へ、しかも、最も軽蔑していた敵国のアッシリア首都ニネベでの預言活動でした。その時、ヨナが感じたであろう神への失望と憤りは、言葉にならないほどのものだったでしょう。そこでヨナが選ぶべき選択肢は、一つしかありませんでした。神と召命から離れ、遠くへ逃れること・・・。
 しかし、愛なる神は再びヨナを訪ねられ、使命を新たにしてくださいます。ヨナがいくら嫌っていても、神はヨナを通して異邦人の救いの御業を成し遂げようとされたのです。しかし、民族主義者のヨナも変わろうとしません。ヨナはニネベの人々を救おうとする愛も、情熱も、憐れみもないまま、義務感からなる口先だけの伝道しかできませんでした。
 しかし、全く心のないヨナの伝道ではありましたが、ニネベの町に思いもよらない大きな悔い改めが広がることになります。そのことを聖書は、ニネベの王をはじめ牛や羊までも断食しながら悔い改め、神の憐れみを乞い願うリバイバルが起きたと証言します。ニネベの命懸けの悔い改めをご覧になった神は、裁きのご計画を思い直されました。
 しかしヨナは、神がニネベへの災いをやめ、憐れまれたその決定に対して腹を立て抵抗します。ヨナはイスラエルだけの神が、異邦人にも同じ恵みと救いを与えられるということを、決して受け入れることはできませんでした。ヨナのこのような態度に対して、神は、神の愛と救いが全世界、全宇宙的に及ぶべきものであること、一人も滅びることなく永遠の命を得させようとする御心を、一本のとうごまの木の出来事を通して、大切に教えてくださいます。
 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ4:9〜11)
 ここで「惜しむ」と訳されているヘブライ語は“フス”です。これはもともと“〜のために涙を流す”という意味をもっています。神は御手で造られたすべての生き物を愛しておられます。そして、その生き物たちの命が無残に殺され、消えてしまうことをご覧になりながら、悲しみの涙を流されます。神の御言葉を携えて、世界に遣わされた者であるキリスト者は、涙を流される神に倣い世界の殺されていく人々や生き物たちを憐れみつつ、涙を流さなければなりません。
 本日、平和礼拝を献げている神の家族の皆様。今も神様が涙を流されながら救おうとされる人々が全世界に存在していることを覚えましょう。たとえその人々が私たちの敵であって、私たちが嫌う人であっても、神はその一人一人の救いを望まれ、私たちを神の代わりに遣わそうとしておられます。私たちが備えるべきものこそ、“神の涙”です。

2018.8.12

 神は言われた、あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。でも、私は心を尽くして自分自身を愛して、魂を尽くしてもっと自分を愛して、力を尽くして、家族を愛して居ます。この罪だらけの私を主よ、憐れんでください、神の御言葉の前では一つも実現出来ないこの自分が凄く切なくなります。心の中からは神の教えた通りしたいのだけど、出来ない自分が嫌になる時がいっぱいです。でも、こんな心になる事にも感謝してます、この気持ちも神様からの恵みである事を確信して、神に感謝してます。
 これからの信仰の歩みを聖霊の助けを求め心尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛して歩みたいです。感謝します。
                 A.S姉

2018.8.5

〜 信仰告白を確かめよう! 〜
“わたしはこの岩(信仰告白)の上にわたしの教会を建てる。(マタイ16:18)”
 本日は月の第一週目の主日礼拝で、主の晩餐式を執り行ないます。主の晩餐式は十字架にかけられる夜、主イエスが弟子たちに“神の国が実現するまで記念しなさい”と命じられたキリスト教会の命にかかわる大切な礼典です。そのため、私たち小泉町教会は主の晩餐式の場において十字架の信仰を確かめ、新たにしていただいています。そして主の晩餐式の時に、初代教会の時から続けられてきた「信仰告白」を確かめ、声を合わせて告白しているのです。
 そうです。主の晩餐式は主イエスの十字架の贖いの恵みに対する信仰をもつ神の家族が、目に見える信仰の証しとして執り行うものです。ですから、“主イエスの十字架の出来事が私のためである”という信仰をもつ人々が参与するのであり、主イエスの十字架と復活への信仰がなければ、いくらパンを裂いて、ぶどう酒を飲んだとしても何の意味もありません。もっと美味しいパンとぶどう酒を望むのであれば、デパートや専門店にいけばいいでしょう。信仰共同体に連なる一人一人が信仰をもって執り行うためにそこに恵みがあり、感動があるのです。
 神の家族の皆さん、小泉町教会の信仰告白があることを知っていますか。私たちの群れにも「使徒信条や二ケア信条」のような信仰告白があります。もちろん、短い文章としてまとまったものではありませんが、私たちが証しすべき信仰の内容を一つ一つとまとめたものです。全部を読もうとすると少し長いですが、ぜひ普段の生活の中で定期的にわが教会の信仰告白を黙想し確かめる時を過ごしていきましょう。そしていつどこでも、“あなたの教会の信仰告白を示してほしい!”と求められたら、迷うことなく大胆に語ることができますように・・・。シャローム!

2018.8.5

『キリスト者の自由』 (ガラテヤの信徒への手紙5:1〜6)
“この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)”
 キリスト者の自由の「マグナカルタ」(大憲章)と言われる箇所です。“私たちに自由を得させるために、イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪の代価を払い、奴隷の子から自由の子にしてくださった。だから私は自由である!“と宣言できるようになったのです。神の子とされたキリスト者は、主イエスがくださる自由を生きることになります。パウロは、キリストが私たちを罪の呪いと束縛から解放してくださったのは、神の子どもたちが自由を生きるためであって、キリストの福音によって救われた人の人生こそが自由であると言います。それゆえキリスト者はどのような形でも、“奴隷の軛に二度とつながれてはならないのです。(1節)”と警告しているのです。
 長い間、牢に囚われていた人が、自由になっても牢にいた時の習慣をなかなか捨てられないように、罪から贖われて神の子として救われた私たちも、罪人の時の習慣を捨てることは難しい場合があります。しかし、いつまでも罪の軛につながれたまま生きることはできないのです。早くこの軛から自由にならなければなりません。それではどうすればいいだろうか。・・・その時、聞こえてくる声があります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28〜30)そうです。 主イエスの招きに応え、主イエスがくださる軛をいただき、共に歩む決心をすることです。
 続けてパウロは、“割礼かキリストか、律法か恵みか”といった福音における根本的な問題を、自由との関連で取り上げます。律法の下で義と認められるために割礼を受けようとする者たちに、キリストから離れる危険性を指摘し、ただ聖霊によって義の望みを持つ者だけが、キリストと結ばれて救われると説明します。もし割礼を受け、律法主義を生きようとするならば、キリスト者に与えられた自由が無効になり、再びすべての律法を守る義務を負い、その結果、キリストと無関係な者になり、十字架の恵みから落ちることになるのです。パウロにとって信仰の中心となる教えについての妥協は決してゆるされないことでした。
 キリストによって義とされたら、以前の律法は救いの根拠として用いることはできません。もし律法によって義とされるなら、キリストを信じることで救われるという恵みから離れ、自分の行いが救いの基準になってしまうからです。もちろんキリスト者の真の信仰は善い行いに現れますが、それは救いを得るためのものではなく、キリストの恵みと愛を受けた者としての実践として現れるものです。すなわちこの時の行いとは神からの賜物であり、救われた者としての信仰を証しする道具です。ですから、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です(5:6)。」・・・そうです。律法の義務や恐れの中に愛は生まれません。だからこそ、私たちには自由が与えられていますし、自由の中でこそ、私たちは愛する事ができるのです。ハレルヤ!      

2018.8.5

 私の伝道対象者は30代〜70代の知人男性です。日頃からよく助言をくれ、私が失業すると直ちに職探しをしてくれる善き友人達です。彼等に聖書の話をすると必ず「うちは浄土真宗だから。」と返ってきます。ところが、浄土真宗について詳しく聞いても教義的なものは殆ど知りません。とても信仰とは言えません。そもそも救いの必要性を感じていません。私達がお伝えすべき方は命を得る為の唯一の道イエス・キリストです。「わたしは、道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のみもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6) 聖書の内容を一度に理解出来る人は少ないでしょう。繰り返し御言葉の種を蒔き続けなければなりません。そこで7月の南砺市礼拝で語られた「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」(使徒言行録18:9〜10)に励ましを頂いています。主の栄光が永久にありますように。
                S.Y兄

2018.7.29

〜 子ども礼拝のために!〜
 先月のCSリーダー会でA姉から“ぜひ、子ども礼拝を始めてほしい”との提案があり、リーダー全員が前向きに進めることに心を合わせました。愛する主の導きが楽しみです。
 実のところ、牧師のビジョンの中には子ども礼拝のための計画がかなり前からありましたし、ある時には実際に試みた時もありました。しかし、なかなか条件が整えられず、道が開かれないまま、神の時を待つ祈りの中で時間だけが流れてきた次第です。
 教会の業というのは牧師一人によって推進され、牧師が引っ張っていけるものであってはなりません。もし牧師や影響力のある人によって無理に進められるのであれば、教会はどこかで疲れてしまい、躓いてしまうことになるでしょう。いつも確認しているように、“教会は人によってなるものではなく、神によってなるもの”であるからです。
 幼い時から自ら進んで神を礼拝することを身に覚えることは、その子どもの人生に関わる大きな力となります。 今までの小泉町教会の子どもたちのための礼拝とすれば、「子どもとともに」という、大人の礼拝に付け加えられるような形で行われていました。ですから「子どもとともに」の10分余の時間を終えると、子どもたちは自由時間を楽しむことになります。もちろん自由に子どもを遊ばせることもある面、良いことであるとは思いますが、子どもたちを一人の礼拝者へと育てるためには限界があることも事実です。子どもたちが主人公となって自ら礼拝を作っていくことを学ぶことで、その子は世界のどこに行っても生きた礼拝者としてのアイデンティティーをもって歩むことになるでしょう。
 そのため9月からCSリーダーと共に心を合わせ祈りつつ、子ども礼拝を具体化していこうと思います。いろいろと試行錯誤もあるでしょう。しかし、主なる神は時に適って万事を益としてくださるでしょう。神の家族も共に執り成してくださり、一人の礼拝者作りに力を加えてくだされば幸いです。主の最善を期待しつつ・・・。シャローム!

2018.7.29

『生きる力を与える愛』 (第二コリント5:13—14)
 愛は人間存在の最も根源的な欲求である。人は誰でも誰かに愛されたいと願っている。愛など必要ないといくら強がりを言っても、私たちは愛なしには生きていけないのです。みんな愛を求め、それを得られず傷ついたり、失望したりするのです。たった一人でもいい、私のことをわかってくれる人がいれば、私たちは生きることが出来るのです。
 愛される経験、すなわち「私は愛されている」と感じるとき、生きる力、勇気が湧きます。
私は山田洋次監督と渥美清さんのコンビの映画「男はつらいよ」シリーズの映画が大好きです。ギネスブックに登録されているというから驚きです。何がいいのか?それはこの映画が「愛で満ちている」からです。フーテンの寅さんは、自分のことではなく、他人のことで悩み、悲しみ、腹を立て、親身になってその人を支える。いつも振られる役回りで、周囲をハラハラさせるけれどもみんな彼の存在によって、元気をもらっている。それは寅さんが愛の人だからである。
 寅さんこと、渥美清の兄弟は皆クリスチャン、お連れ合いも熱心なクリスチャンだという。その愛に囲まれて寅さんという人格が築かれていった。病床にあって洗礼を受け、クリスチャンとして天に召されたという。山田洋次監督は、「僕は渥美清さんほど謙遜な人を知らない」と言っている。愛と祈りに支えられた人生であった。
 使徒パウロは「キリストの愛が私たちに迫っている」と告白する。これはキリスト教迫害者が経験した体験的告白である。キリストの愛を知ってから、彼は一切のものを塵芥と思うようになった。彼は、「一人の人がすべての人のために死んだ」と十字架の意味を悟った。あれほど迫害をした自分を許し、捉え、用いるキリストの前に彼は我を忘れた。私が生きているのではない。キリストが私の中で生きているとさえ告白する。パウロは、共に歩まれるキリストをいつも信仰の目で見、聞き、祈り、感じていた。
 キリストの愛は人を生かし、人を助け、人を育てる力である。人は愛なしには生きられない。キリストの愛は、人に尊厳を与え、人を生かす。キリストの愛は、いと小さきものに注がれる無償の愛である。神の愛は具体的には、聖書では、インマヌエルの事実に現れる。「神我らと共に」である。神の愛は私たちの力の源である。共にあることの安心、心強さ、というものである。母の懐に抱かれる幼子は安らかである。私たちも、キリストの愛の懐に憩うとき、安心である。
 モーセは一介の羊飼いであった。それも逃亡中の殺人犯であった。絶対権力者のファラオにモーセが立ち向かうとことはほとんど考えられないことであった。無謀であった。しかし神は、「私は必ずあなたと共にいる」と約束する。そしてモーセは立った。不可能を可能にしたのは神の約束の言葉である。
 マタイは冒頭で「インマヌエル」を語り、最後にもう一度「世の終わりまであなたがたと共にいる」と「インマヌエル」を語ります。誰が私の人生を導き、守るのか?自分を任せることのできるのは誰か?会社か?政治家?学校の先生か?キリストの愛が強く迫っている。この愛に捉えられて、この愛を信じて神の家族を形成しよう。
                       田口昭典

2018.7.29

〜FEBCニュース〜
 月一度、週報ボックスに「FEBCキリスト教ラジオ放送局」の刊行物が届けられています。ある姉妹が捧げてくださっているものですが、いろいろな教派の牧師、神父、教師のみなさんによる聖書の解説と、ラジオ放送の聴取者の投稿などが掲載されています。
 最近の聖書の解説には、「使徒言行録」のイエスの母マリアと女たちが、男の弟子たちと心を合わせて祈っていたのがとても重要なことであった...という話がありました。主イエスが十字架にかかられたとき、男の弟子たちが皆主を捨てて逃げ出したことを女たちは責めず、その赦しの中心に、人間としての悲しみは最も大きかったであろう母、マリアがいたというのです。他には、イエスを「ダビデの子」と呼んで熱狂する群衆の姿に、自国の利益優先で指導者を選ぶ人々を重ね合わせ、主がそれをよしとなさらなかったことを照らし出す解説も共感できるものでした。
 聴取者の投稿には求道・信仰生活における悩みの率直な告白もあれば、みことばや主イエスの御品格への新鮮な感動の言葉もあります。最近では復活の主がピラトや祭司長たちに現れることなく、全てを失って漁師に戻るしかなかったペトロの日常の中に帰ってこられた「控えめな復活」に注目した投稿に心が暖かくなりました。是非、月々のニュースレターに目を通してみてください。
週報係

2018.7.22

〜 水をください 〜
“女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ4:15)”  
 連日の猛暑で息することさえ辛かった一週間でしたね。毎朝起きて最初に確認するのが天気予報ですが、毎日の晴れのマークと予想気温に不安を覚える近頃です。毎日のテレビやラジオからの呼びかけでも“水を飲んでいますか。熱中症になりますから、こまめに水を飲んでくださいね。”としつこく言われているほどです。わが家も子どもたちを学校に行かせる時、必ず確認して持たせるものが水筒です。
 先週は、礼拝堂や牧師館の周りの草がだいぶ伸びていたので、暑くならないうちにと思って朝早く草むしりをしましたが、やっぱり汗のシャワーと喉の渇きが続く。今年も牧師館の周りでキュウリ、トマト、ナス、レタスなどを栽培していますが、一日だけでも水をやらなかったら、あっという間に枯れてしまう、もちろん花壇の花たちもそうです。その時、花と野菜たちの叫び声が聞こえてくるような気がするのです。“水をください。私たちは渇いて死にそうです”と。・・・最近のイギリスでは、猛暑で水が足りなくなったため、ホースを使っての水やりに多額の罰金が課せられるほどだそうですね。
 私たちの体も、すべての生き物も、水を飲まずに生きられるものは存在しません。中には“水を飲まなくても生きられればいいのに、一日一度だけ飲むことで渇かない水があればいいのに”などつぶやく人もいるでしょう。しかし水がなければ生きられません。それがすべての生き物への神のご計画なのです。ぜひ、雨が降り注ぐことを祈りましょうね。
 同じように、私たちの信仰においての熱中症にならないためには、命の水を飲むことです。キリスト者が飲むべき水こそ、命の御言葉であり、聖霊であると聖書は教えます。ぜひ、毎朝目覚める時、聖霊様に祈りましょう。“命の水をください。私の魂を潤し、渇きを満たす水をください。恵みの雨を降らせてください”と。シャローム!

2018.7.22

『路傍伝道への誘い』マタイによる福音書 28:19-20)     
 毎月第4週の午後に路傍伝道が予定されています。本日は「皆で路傍伝道に行こう」と言う話です。その前に幾つかのことを確認したいと思います。
 聖書は神の霊感を受けて書かれた偽りなき書である(2テモテ3:16)。主イエスは神であり全てのものを創られた。(ヨハネ1:1〜3)。神は愛である(1ヨハネ4:16)。神の約束は必ず成就される(2コリント1:19〜20)。伝道は主イエスご自身からの命令です「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいた全てのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます(マタイ28:19〜20)。伝道には様々な恵みの要素が散りばめられています。伝道は受けた者にとっては永遠の命を得、伝えた者には訓練と祝福となり神様の喜びとなります。特に路傍伝道は人から誉められることが少なく神様からの褒賞が大きいと考えられます(マタイ6:1〜3)。
 路傍伝道で出会う多くの方々は神様に愛され救われるべき備えられた人々です。私たちの救いは多くの信仰の先輩達の努力が集まったものです。まるでジグソーパズルのように沢山のピースで構成されています。声をかけた方が直ちに救われなくても彼らにとっての救いの最初或いは何個目かのピースになるかもしれません。またその方が救われた後私達の大切な家族や知人に福音を伝えてくれるかもしれません。「神のなさることは、全て時にかなって美しい(コヘレト3:11)」。多くの恵みと同時に締め切りがあり(「終わりの日」や肉体の死)、その結果滅びに至る者もいるということも痛みと共に厳粛に受け止めなければなりません「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている(ヘブル9:27)。それが何時なのかは誰にもわかりません。人には様々な制約があり全員が路傍に立つことは出来ないかもしれませんが、家族や知人への伝道に励み祈りをもって路傍へ送り出していただければと思います。主の栄光が永久にありますように。
                   S.Y兄

2018.7.22

〜主にある交わり〜
 私が小泉町教会を訪れたのは約3年前の「楽しい聖書の学び」でした。きっかけは、富山市民クリスマスでの閔先生のお話と、世界祈祷日での姉妹方との交わりでした。私はK教会員ですが、いつも温かく迎えていただき感謝です。
 私は富山へ7年前にやって来ました。(母の見守り介護の為...両親の故郷)私自身は東京で生まれ育ち、60歳になって初めて富山へ転居したので、とても不安な日々を送っていました。
 母教会は「Sバプテスト教会」です。中3の時にバプテスマを受け、青年期まで楽しく教会生活を過ごし、守られて来ました。しかし、20代半ば頃より自分自身に大きく躓き、教会から離れてしまったのです。そして約40年近く経ち、この富山の地で再び神様の御前に帰ることができたのです。教会へはもう二度と戻れないと思っていたのに...。ある夜、ラジオ深夜便で、ナレーターの中村啓子さんの声を聞き心惹かれました。朗読会がK教会で開かれると知り、会場を探したのが教会へ戻るきっかけとなりました。
 なんと長い年月さまよい歩いた人生だったのでしょう...。
 富山に来て、母との関係がうまく築けず、日々真っ暗なトンネルの中にいました。でも神様はこんな私を見捨てず、再び招いてくださり、光を与えてくださいました。
 主にある交わりは、教派を越え、神の民として共に祈り、共に讃美し、共に奉仕する喜びです。
 どうぞこれからも共に歩んでいきましょう。       
S.K姉  

2018-07-14

2018.7.15

〜生きた礼拝者の目をもって〜
“みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。(ヤコブ1:27)”  
 神を礼拝するとはどういうことでしょうか。綺麗な服を着て、立派な礼拝堂で、綺麗な讃美をし、流暢な祈りの言葉を羅列し、備えた献金をささげ、牧師より聖書のメッセージを聞き、満足して礼拝堂から家に帰るということが礼拝でしょうか。昔から礼拝というと、目に見える形式を大切に守り、繰り返し真面目にこなしていくことに重みをおいていました。そうすることで、神への心理的な安定、また自らの信仰生活に満足感を覚えていたことでしょう。しかし、そのような目に見える宗教生活のみを大切にすることで、見えない神との人格的な交わりや、神が求められる礼拝者としての生き方を粗末にしてきたのかもしれません。まさしく、世界に正しい神の言葉を発信すべきキリスト教会とキリスト者たちが、むしろ世界の流れや価値観に呑み込まれないことを心がけることです。今の私たちの教会とキリスト者の礼拝とその生き方は正しいところに立っているでしょうか。間違った道を歩いている世界に向けて神の御心を発信しているでしょうか。かえって、教会が世界の罪と悪を正当化してしまっているような現実ではないでしょうか。
 私たちの生きている日本社会を、生きた礼拝者として、預言者の目をもってしっかりと見つめることです。そんな中で様々なことが見えてくるでしょう。今も神は、神の愛と憐れみを携え、悲しい涙を流す人々に良い知らせを分かち合い、常に神の正義を慕い求め、神の国を実現しようと働く一人の生きた礼拝者を求めておられるはずです。そして、神はその人に御声を聞かせ力を賜ることでしょう。愛する神が生きた礼拝者である神の家族お一人お一人を喜ばれ、わが群れを通して神の国の栄光を現わされますように…。シャローム!

2018.7.15

『苦難の中からの歌』詩編107:1〜15)
“苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった。(107:6)”
 私たちの神は、神の人をその苦難の中から救い出してくださるお方です。詩編107編は、イスラエル共同体に属している人々が味わったそれぞれの苦難の内容を語りながら、それぞれの厳しい苦難の中から、ふさわしい御業をもって救い出された神への感謝を、一つにまとめて共同体の信仰告白として声高らかに歌っているのです。“主に感謝せよ。主は慈しみ深く人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。(107:8)”と。
 先週私たちは西日本豪雨によって死者だけで200名を超えるという大きな災難に遭いました。多くの方が言われるように、まるで東日本大震災を見るかのような状況なのかもしれません。私たちに出来ることを探しつつ、神の憐れみと慰め、助けを切に祈りましょう。
 さて、このような苦難のただ中で私たちは詩人のように讃美できるでしょうか。もしあなたがその試練の只中にあったとしたらどのような反応を見せるでしょうか。パウロ“だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・(ローマ8:35)”と語っているように、私たちの身の周りに起きるどのような出来事も神の愛から引き離すことはできないことを歌っています。
 私たちの神はご自身の恵みを神の民に示すために、人間の力では救い出せない状況へと追い込まれることがあります。それは神の子どもたちを苦しめるためではなく、神がどのような方であるかを、また、どんな状況においても神が救い出されることを経験させるためです。聖書の歴史の中にも何度もそのようなことが記されています。かつての出エジプトにおいても、荒野においても、バビロン捕囚においてもそうでした。それらの厳しい出来事を通して、神はご自身がどんな方であるか、神が望まれるのが何であるかを、また、全能なる神の力を示すために、厳しい試練と苦難を与えられたのです。災害の経験、厳しい病の経験、飢え渇きの経験、束縛の経験、先の見えない行き詰まりの経験、また、失敗と挫折、敵による患難、労苦、そうしたすべてが、やがて神への信仰告白へと変えられることを体験するのです。
 20日は、私たち「富山小泉町キリスト教会」の教会組織18周年記念日です。教会開拓からは58年、その間に、信仰の先輩たちは試練と苦難、挫折など、今の私たちが知らない歴史を経験して来られたことでしょう。そこで考えてみるのです。今は天に召されている信仰の先輩たちは58年を振り返りながら、“神のなされたことはすべてその時に適って美しかった!(コヘレト3:11)”と讃美の声をあげられることでしょう。
 これからの私たちの人生の航海においても、いろいろな苦難に遭い、不安や心配に覆われ、失敗する時があるでしょう。でも、その時、すべてが神の御手の助けと導きの中にあることを信じ、恵みと慈しみに満ち溢れる神に讃美の声を上げつつ歩み続ける神の家族お一人お一人、また富山小泉町キリスト教会の群れであるように。ハレルヤ

2018.7.15

岡山からの手紙〜
 いつも私たち家族のためにお祈りくださり、ありがとうございます。主人が定年になったので、故郷に帰ってきました。お互いの両親が4人とも健在で、義父が自動車免許を返納したので、福山の地での再雇用という選択はできませんでした。夫婦でアルバイトをしながら、主人は義父母の送迎、農業と忙しくしています。私も久しぶりに仕事に復帰したので、「定年後って、こんなに忙しいんだ。」というのが正直な実感です。
 これから年老いていく両親のこと、老朽化している家屋と農機具、地域の人々との共同農作業分担などを考えると、課題はたくさんあります。愚痴が出そうになるときは、主を見上げることにしています。「明日のことまで思い悩むな」と語ってくださるイエス様を知っていて良かったなと思います。おかげで、一つ一つ目の前のことに集中して取り組むことができますし、今日すべきことをしたら、後はきっとイエス様が良いようにしてくださると信じて、平安でいることができます。
 私たちが住む久米南町には教会がないので、隣の美咲町の教会に通っています。主人も月に2回くらいは一緒に礼拝に出てくれています。それはそれで感謝なのですが、そうなると、毎週出席して欲しいなと思ってしまうのが、人情です。今は農繁期で忙しいですが、これから主人が毎週教会に行けるようお祈りいただけると嬉しいです。
                  K.K姉

2018.7.8

〜主は道を日々つくられる〜
“水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神。(イザヤ43:2〜3)”
 先週からの記録的な大雨はその範囲も広く、多くの犠牲者と多大な被害が出ていますね。本当に、大自然の圧倒的な力の前には、人間という存在がいかに小さく無力であるかを示されます。被害に遭われた方々の上に主の助けと慰めを祈りましょう。
 さて、わが家にとってもこの大雨は大変でした。ちょうど妻が韓国から義母を連れて富山に到着する日が大雨の最中だったのです。わたしは二人を迎えるために中部空港に車で向かいました。しかし東海北陸道を2時間ほど走ったところで、突然、「通行止め」の表示に出くわしました。誘導員さんからの“これ以上名古屋方面には行けない。高速も、国道も全面通行止めになっている”という驚きの知らせに、しばらく祈りの中で考え込みました。“どうすればいいだろうか・・・このまま無理してでも道を探りながら空港まで行った方がいいのか、しばらく天気がよくなるまで二人を名古屋に泊まらせた方がいいのか”など。結局、わたしはひとまず富山に戻り、妻と義母には、苦労はあるだろうが泊まらずに二人で富山まで来てもらうことが最善だと思いました。そこで二人に、まず大きな荷物は宅配便に頼み、名古屋からの新幹線で東京経由で富山に来るように勧めました。もっともその時間帯、新幹線は運転を見合わせていて、駅員さんにも「再開しても、いつまた止まるかわからない」と言われていましたが、信じてそのようにしました。果たして、新幹線の運行の遅延と混乱の中で大変な道のりではありましたが、妻と義母は夜中の12時頃に家に着くことができました。”あ、守られた、感謝!感謝!“
 大自然の前に何もできない弱い私たちですが、生きておられる主は日々道をつくられるお方、その神を信じ、これからも歩きつづけたいものです。シャローム!

2018.7.8

『 奴隷の子、自由の子 』 (ガラテヤの信徒への手紙4:21〜31)
 最初に質問から宣教を始めたいと思います。神の家族の皆さん、皆さんの日々の信仰生活は幸せでしょうか。...私たちの信仰生活は、主イエスとの交わりを通して幸せを実際に味わえるものです。もし、あなたの信仰生活が幸せではなく、何かに抑えつけられているのでなれば、それは律法的な信仰の影響下にある証拠と言えましょう。 
 本日の御言葉の中で、パウロは二つの約束を提示します。一つは律法の約束、そしてもう一つは恵みの約束です。そしてパウロはこの二つの約束を説明するためにアブラハムと二人の女性と二人の息子を登場させます。ご存知のように、二人の女性とはサラとハガルで、それぞれに息子が与えられました。サラを通して得た子が「イサク」、ハガルを通して得た子が「イシュマエル」です。パウロはイシュマエルを奴隷の子、イサクを自由の子として記します。
もともと神はアブラハムとサラの間に一人の息子を約束されました。しかし、100歳が近づいても神に約束された息子は得られなかったのです。そこでアブラハムはサラの助言を受け入れて、人間的方法と努力によって女奴隷のハガルにより一人の息子を得ることになります。その子が「イシュマエル」です。その通り、イシュマエルは「肉によって生まれた子」であるのです。ところが、イシュマエルは約束の子でなく、神はその息子を喜ばれませんでした。
 私たちがどんなことをしても、たとえ教会での奉仕をし、海外宣教をし、偉大な業を成し遂げたとしても、それらが人間的方法と計画、人間的努力でなされたのであれば、それらすべては決して神が喜ばれませんし失敗に終わるのです。大切なことは、「神の約束に基づき、神が望まれ、神が喜ばれる方法で成したのか」ということです。そうです。神の御言葉と約束に基づかなければ、無駄なことになるのです。
 アブラハムは人間的計画、肉体的努力によって息子を得ましたが、神の時が訪れた時、神の計画通り、神の方法によって一人の息子が与えられました。その子が「イサク」だったのです。すなわち、イサクは人間的計画や努力によって得た息子でなく、神の約束のもと、神の方法で、神の時に与えられた子、約束の子だったのです。サラが90歳、そしてアブラハムが100歳になった時、神の約束通り、イサクはこの世に生まれたのです。私たちは“ああ、もう少し待っていたら、神の約束を信頼して耐えていたら・・・”と思うわけですが、そこにこそ、人間の弱さがあるのです。 
 愛する皆さん、私たちの救いは、人間的方法や努力によって得られるものではないことを知っていますよね。救いは「ただ信仰によってのみ」得られるものです。ここで私たちがしっかりと心がけなければならないことは、信仰とは私たちの思いや感情からくるものではなく、神の御言葉の約束によるものであるということです。「イサク」という名前は“笑う”という意味をもっています。私たちが神の約束とご計画に従った時、神は喜びに満ち笑ってくださるでしょう。ハレルヤ

2018.7.8

〜力ある主の御言葉〜
 愛する富山小泉町教会の皆様。暑い夏を迎えて如何お過ごしでしょうか。
昨年末,東山教会において,薬物依存症からの回復を目指しているダルクの会メンバーの方の証を紹介させていただきます。
 ダルクの会のメンバーであるKさんは,母子家庭で生まれ育ち,幼かった自分のことをほったらかして遊びに行く母親とのわだかまりなどから,十代中頃から薬物を使用するようになりました。警察に何度逮捕され,刑務所に何度服役しても,そして,妊娠してさえも薬をやめることができなかったそうです。Kさんに転機が訪れたのは,刑務所に服役していた数年前のクリスマスの時でした。10分間ほど許されていた新聞閲覧の際,新聞に書かれていたある言葉に目がとまったそうです。その言葉は,「父よ,彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」でした。その時,Kさんは,キリスト教のことは何も知らなかったそうですが,その言葉が心に強く迫ってきて,今まで自分がどんなに悪いことをしてきたのかということが分かり,目から涙があふれ出て止まらなかったそうです。そして,今度こそ薬を絶対にやめようと決心し,刑務所から出所後,ダルクの会に入ったそうです
 Kさんは,ダルクに入会後,薬を断つことができ,会に関わりのあるクリスチャンの方々の導きで,教会に通うようになり,今では,クリスチャンになりたいという思いがあるそうです。
 私は,Kさんの証を聞いて,主イエス・キリストの御言葉は,本当に救いが必要な人には,すごい力を発揮するんだなということを改めて実感することができました。イエス様は,今この時も,失われた子羊を探して働かれています。神様の愛に感謝!愛する小泉町教会の皆様,再会の時までお元気で。
                S.T兄

2018-07-03

2018.7.1

若者たちへの叫び 〜
“若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい、・・・青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
(コヘレト11:10〜12:1)”

 先週火曜日、奥田で起きた刃物や拳銃によって二人が殺害されるという事件が日本中を揺るがしました。21歳で、陸上自衛隊で勤務した事のある青年による残酷な殺人事件でした。それに先立って、先月の新幹線殺傷事件を起こしたのも22歳の青年でありました。彼らに何が起きたのでしょうか。新幹線事件の犯人は、しきりに“俺は死ぬんだ、生きる価値はない”と語っていたそうです。生きてきた日より生きていく日がまだまだ長い、将来への希望を抱いて生きるはずの若者が希望を失い、自分自身の存在の価値を見出せない現実をどう見るべきでしょうか。
 とりわけ自分自身の人生を否定することにとどまらず、他人の命を害することまでも平気で行ってしまうことこそ、今現在の日本社会が抱えている最も大きな問題ではないかと思うのです。そしてそのことを当たり前のように、もう解決の道がないというふうに諦めてしまう社会的雰囲気に包まれている現実です。
 神よりいただいた人生の中で最も輝くべき青春時代、私たちの愛する若者たちのために涙をもって執り成しつつ、父なる神の愛のメッセージを、声を上げて叫びましょう。“あなたは愛されている、あなたは全世界全宇宙に一人しかいないほど尊い、だからあなたの若さを喜び楽しみ、創造主を心に留めて生きよ”と。シャローム!

2018.7.1

『 キリストが形づくられるまで 』(ガラテヤの信徒への手紙4:8〜20)
 以前、「神なき時代」という言葉がしきりに使われ「神の死の神学」が盛んに議論され、実際に世界的運動にもなった時代がありました。その中で“神はすでに死んでしまった概念に過ぎない。世界は人間の力で変えて行くべきだ"という主張や運動が社会を覆うようになりました。そこで人は神を離れるところに自由があると思い、神を否定し、人が大切にしていたものや価値を神の座に置くことにしました。しかし、神なき自由どころか、自らが作った神々に支配される現実となってしまっているのです。
 パウロは、「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(9節)と問いかけます。「神から知られている」とは、ただ単に神から知られているという意味ではなく、私たちこそ「神の愛の対象であり、神との親密な交わりを許されている」ということを表します。そして神がその愛のしるしとして、罪の中で滅びていく私たちを救うために御子イエス・キリストをこの世に送ってくださったことを教えます。これこそ「福音」でした。
 パウロの伝えようとした福音こそ、神の独り子が旧約聖書の約束通り、十字架にかかりすべての罪の贖いとなり、すべての人々の身代わりとして死んでくださったことでした。ガラテヤの信徒への手紙は十字架にかけられたイエス・キリストに焦点を合わせているのです。また、パウロが語り続けていた福音とは、十字架の上で死なれたイエス・キリストが死より復活されたということです。そして復活されたイエス・キリストは天に昇り父なる神の右に座られ支配しておられ、ご自身の代わりに聖霊を贈られ今も神の民と共に生きておられるという、とてもシンプルな内容です。
 最初に救われたクリスチャンたちはこのようなシンプルな福音を携え、人々に“ただイエス・キリストの名に基づく罪の赦しと救い”を伝えたのでした。ガラテヤ教会が最初にパウロより受けた福音がまさにこれでした。しかし、開拓者のパウロが離れ去り、しばらく時が流れると、福音というシンプルな信仰に、少しずつ理論的説明が加えられ、福音を生きることより、福音を守るということに重点が置かれるように変わっていきました。ちょうどその時にガラテヤ教会に入ってきた偽りの教えが、旧約の律法の行いが伴わなければ救いもない!というものでした。罪人の救いはただイエス・キリストを信じる信仰によって得られると言われていた福音から、旧約の割礼や救われるための方法論、その後時代の流れの中で、礼拝の形式、マリア崇拝など、最初の福音がいろんなもので飾られるようになり、いつの間にか、信仰する喜びと感動が薄れ、福音でないものに支配されてしまうように変わってしまったのです。
 そこで叫ばれるパウロの言葉に耳を傾けましょう。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(19節)ここにキリスト教信仰の究極の形が示されます。キリスト者の内に「キリストが形づくられる」こと、私とあなたを通してキリストを見ることを神は望んでおられるのです。ハレルヤ

2018.7.1

〜大先輩でメル友〜
 先月18日に天に召されたN兄との一番の思い出は3年前の「喜びのメール事件」です。
 すでになかなか礼拝に来られない体調だったN兄。その時期私は閔先生と交代で、金曜日に礼拝のお知らせメールを兄弟姉妹に送る奉仕にあずかっていました。たまたまある週、メールを送るのを遅らせた時がありました。土曜の朝、私と共にいた姉妹が自分の携帯を見て「キャーしみちゃんNさんに連絡連絡!」その声は、はしゃいでいました。
 なぜなら、彼女にN兄からメールが来たのでした。「いつものメールが来ない、Sさんに何かあったの」と。ヒェ〜そんな風に心配してくださってたとは...。教籍番号第壱番の大先輩に、私からメールなんか失礼じゃないかしらと、いつも気後れしながら送っていたのに。
 嬉しさに興奮しちゃって指が震え、ボタン(当時ガラケー)がなかなか押せなくてもっと焦ったのを覚えています。
 それからは気後れせず喜んでメールを送りました。豊かな信仰の大先輩だからこそと思い、教会・兄弟姉妹のためのお祈りのお願いを添えて送ることもありました。ときどき、返事をいただきました。私に「忙しそうだけど無理しないように」と書いてくださったこともありました。最後の返信はある日曜の朝「行きたかったけど無理ですごめんなさい」でした。先に召されたM兄もN兄も、今も私の携帯(今はスマホ)の住所録に名を置かれ、それを見るたび心の中でメールを送る私です。

2018.6.24

〜 神学校週間を迎えて 〜
 教会の歴史は証人たちの歴史です。初代教会のペトロを始めとする12弟子と7人の執事たち、そして各時代、世界各地域における証人たちの献身によって教会は成長を続けることができました。
「証人」(ギ:マルトゥスμαρτυς)は「殉教者」という意味から出た言葉です。すなわち、キリストの証人は命をかけてキリストの福音を宣べ伝える覚悟をもって生きる存在と言えましょう。先週のリビングライフでは「ステファノ」の物語が主な内容でした。ステファノ(「冠」の意味)は教会の歴史における「最初の殉教者」です。彼はまさに殉教の死を覚悟しての福音宣教に臨みます。そして聖書はステファノの殉教から、エルサレムから世界へと福音が広がっていったことを記しています。
 日本の地においても多くの殉教者の血が流された歴史があります。しかし殉教者の犠牲によって福音が広がるどころか、むしろ隠れてしまうことになりました。そしてなかなか隠れたところから公に福音を告げ知らせる教会や働き人が見えない現状です。どうすればいいだろうか・・・。しかし私は信じます。一人も滅びることを望まない神は、日本の歴史の中の殉教者たちの犠牲を無駄に、そのままにして置かれる神でないことを。
神学校週間を迎え、西南学院大学、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校で学んでいる神学生たちと教えている先生方が、今一度キリストの証人となることを確かめつつ、福音を携え世界のどこへでも快く遣わされ、救われる人を起こすことができますように…、また、わが群れから献身者が起こされることも期待し執り成し祈りましょう。
“死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。(ヨハネ黙示録2:10)”

2018.6.24

『 証人たちの応援 』ヘブライ人への手紙12:1〜3)
 伝道開拓から58年、富山伝道所から今日の富山小泉町キリスト教会になるまでの歩みのうちに、神は時に適って働き人を与えられ、御業を成し遂げてくださいました。その神の御手の業は私たちを通して今もなお続けられていることを讃美いたします。
 先週の6月18日、教会の出発時から58年間の歴史を共にして来られたN兄が召天されました。23歳の若さで教会開拓に加わっていた青年、また教籍番号1番という象徴的存在としてわが教会を支えていたN兄は、81歳という神よりいただいた人生を全うされ、今は天の御国で先に召された証人たちの群れに加わりました。恐らく今は他の証人たちと共に、地上に遺された私たちのために応援の拍手を送ってくださることでしょう。   
 私はN兄の葬儀を終え、主日礼拝の宣教を準備する中で、ヘブライ12:1〜3の箇所を思い浮かべました。ヘブライ人への手紙を書いた記者は、今を生きながら福音伝道のためにこの世の苦難に遭っている私たちに向けて、目には見えないが、「おびただしい証人」が応援のエールを送っていることを告げています。ここでの証人とは、キリストの十字架と復活の証人として信仰を告白し、自分が得た福音を宣べ伝え、天に召され、今は天の御国にいる信仰の先輩たちのことを指します。本日の御言葉は、天にあるこれらの証人たちが、今福音の証人として信仰の競走を続けている私たちを見守りながら、応援の拍手を送ってくれていると記しているのです。
そうです。私たちはまさにおびただしい群衆で埋め尽くされている競技場でひたすら走る競技者のようなものです。そのおびただしい群衆の中には、先日召されたN兄をはじめ、小泉町教会の歴史を刻んできた証人たちが天国の勝利の栄冠をかぶって私たちの走りに拍手を送っているのです。
 もちろん私たちの走りの中で、つまずき倒れてしまう時もありますし、ところどころ厳しい障害物に引っかかる時もあるでしょう。しかし、私たちの前には主イエス・キリストが模範となられ、キリスト御自ら私たちと共に走る同伴者となってくださるという約束がなされていることはいかに幸いなことでしょうか。
クリスチャンは天国を見上げつつ、今を生きる存在です。今神の家族を押しつぶそうとする重荷や罪があるでしょうか。また、皆さんを悲しませている苦難、迫害がありますか。そこで気力を失い疲れ果ててはいませんか。ぜひ、覚えてください。神の家族お一人お一人のために、天の栄光と喜びを捨て、恥をもいとわないで苦しみを受け、十字架の死をも耐え忍び、今は天の御国で私たちのために執り成し、聖霊を通して共に歩んでおられるイエス・キリストを。その主イエスを見つめながら、お一人お一人に定められている競走を忍耐強く走り抜くことです。主イエス様が栄光の冠を備えて待っておられることを信じ、互いに励まし合いつつ主に喜ばれる共同体を作り上げていきましょう。
                  

2018.6.24

 R姉の家で行われている中国語礼拝に5月の第二日曜日から、参加しています。初対面の方もいるので、テーブルを囲んで皆が寄り添い、各自の近況や自己紹介などを聞くことから始まります。それが一巡すると、決められたプログラムがないアットホームな中で皆が讃美歌を歌い、礼拝が行われていきます。   
 閔先生が日本語で宣教の御言葉を語り、それをA姉妹が中国語に翻訳して兄弟姉妹たちが聞くという形で進んでいきます。日本で暮らして何年も経っている方が多いので、最低限、片言の日本語は話せますが、宣教で語られる御言葉の微妙なニュアンス、深い部分などは、やはり母国語で聞いた方がよくわかるからです。フリーの時間は、皆さんの流暢で元気な中国語が、私の頭の上を飛び交います。中国語ってスピード感、半端ないです!(^o^)
 中国語礼拝に集う方々の多くは、信仰に篤く、また神様に対してストレートで熱い思いを抱いておられます。それを目(ま)の当(あ)たりにして、とても良い刺激を受け、信仰について考える時を与えられました。
 今はそれぞれの国の言葉で話す私たちですが、天の御国には、きっと言葉の壁もないでしょう。今もこれからも、神の家族として、愛し合いながら御言葉の恵みを共に味わいたいと思います。 
                 S.Y姉