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富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

●英語礼拝 第2日曜日

 フェローシップタイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から

English Worship Service(英語のホームページ)、 富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

〒939-8082 富山県富山市堀川小泉町681

電話 076-491-2273

2016-07-21

2016.7.17

 『ネヘミヤに学ぶ 』〜共同体を奮い立たせる人〜 (ネヘミヤ2:16〜20)
 アルタクセルクセス王の好意を受けて総督としてエルサレムに帰還してきたネヘミヤは、まずエルサレムの現状を調べるために、ある夜密かに視察に出ます。特にネヘミヤは誰にも相談することなく夜通し城壁を歩き回り、その破壊された状況をしっかりと調査します。その後、どれほどの期間が流れたでしょうか。ついにネヘミヤはユダの人々にこれからの計画を知らせ始めます。ここでも神の時を待ち、時が満ちたところで共同体に呼びかけるネヘミヤの姿に出会います。
 ネヘミヤはユダの人々に城壁再建の働きに加わってもらうために、今まで神がどのように助けられたのか、アルタクセルクセス王がどのように自分に城壁の再建を赦してくれたのかなどの経緯について証しし始めます。「神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立った。」。(18節)・・・ネヘミヤの証しには譲ることのない順序があります。それはまず、「神の御手が恵み深くわたしを守った」ということです。すなわちエルサレム帰還と城壁再建のすべての出来事の背後に神の御手が働いてくださったこと、れをネヘミヤは確信し、そのネヘミヤの確信に満ちた言葉を通して、ユダの人々もこれらすべての出来事の上に神の恵みの御手が働いていることを確信し、快く信仰の応答をすることができたわけです。これは一人の人の信仰の証しがもつ力がいかに素晴らしいかについて私たちに教えてくれます。一人の人が神の恵みの御手の業を信じて一歩を踏み出そうとする時に、その人の証しを通して周りの人々がまた励まされ、その確信を自らの確信として受け取り、一人からまた一人へとビジョンが広がっていく、これこそ信仰の証しのもつ力なのです。
 ところが、ネヘミヤとユダの人々が城壁再建に取り組もうと心を合わせたその時に、さっそく妨害の声に遭います。“ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェム”(19節)これからしばらくネヘミヤと共同体の働きを妨害し続ける人々の名前です。そうです。私たちの信仰の営みにはこのような妨害の声が付きまといます。それは外側からやってくる言葉であるばかりでなく、しばしば私たちの心の内からも湧き上がってきます。「無理だ、駄目だ、出来ない、意味のないことだ」などなど。・・・しかしそこでネヘミヤは力強く語ります。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。」(20節)・・・これこそネヘミヤ記を貫く信仰の確信であり、聖書全体が証ししている信仰の確信です。私たちにとってもまたこの朝、主が私たち一人一人に求めておられる信仰告白がここに語られています。「天にいます神御自ら、わたしたちに成功させてくださる」。そうです。この働きを成功へと導かれるのは人間の力、人の頑張り、人間の計画と知恵によるのではありません。ただ、天にいます神御自ら!この信仰告白によって共同体は奮い立たされ神の業に励むことができるでしょう。ハレルヤ

2016.7.17

〜七夕祭の日
宇宙に旅立つ大西さん〜

 7月7日、一人の日本人男性が宇宙に旅立ちました。その名は大西さん。子供の頃より宇宙に行く大きなあこがれをもっていました。多くの志願者の中から選ばれ宇宙船に乗って銀河のかなたへ旅立ちました。なんという素晴らしいことか、彼の夢が実現したのです。
 私も子供の頃よく夜空を見上げては、知らない世界に憧れをもっていたが、神様は彼を選んで宇宙へと旅立たせてくださったのだと信じております。幸運な彼、それがはからずも7月7日七夕まつりの日。これにはなにか意図的に神様がお作りになったロマンのような感じがします。彼の幼い頃からの夢が七夕祭りのこの日実現したのです。
 人はそれぞれ決められた生き方があるな...私は毎日立山の麓で汗と泥にまみれながら、また猿を追いかけながらの生活...。これも人生。幼い頃にはこんな生活するとは思いもよらなかった自分。
 これが神様が私に与えてくださった人生の終着なのかと思います。高期高齢者となり、これからの人生はどうにもならない自分の人生。残された人生は、大自然と向き合って、汗と泥と仲良く生きて行こうと思います。
A.M姉

2016.7.10

〜 外壁補修工事に際して 〜
“神よ、今こそわたしの手を強くしてください。(ネヘミヤ6:9)”
 いよいよ明日から長い時間祈りつつ備えてきた教会の外壁補修工事が始まります。恐らく外壁の塗装は数十年間も行なわれないままで、外から見える鉄筋もだいぶサビついているように見えます。私たちがこれからも礼拝する場所、豊かな交わりをもっていく場所である礼拝堂ですから、期待と喜びをもって、何よりも祈りをもって補修工事を支え見守っていきたいと思います。今回の工事を担当してくださる方は昨年の牧師館の寒さ対策工事をされた三上和彦兄です。愛する神の御手が三上兄を祝福され強めてくださいますように・・・。また工事の間の天候が守られるようにも祈りましょう。
信仰的な面から考えると、私たちも常に補修が必要な存在であることを告白せざるを得ません。神の前で常に正しく完璧な人はいないからです。ところどころサビついてしまったり、亀裂が生じていたり、腐ってしまったりしているかもしれません。神の愛の御手で補修していただかなければ、いつ崩れてしまうか、雨漏りをしてしまうか分かりません。私たちの弱さや傷、その破れと穴を、主イエスの愛で満たすことによって、私たちの教会は、またあなたとわたし神の家族は美しい神の宮として、また世界の傷ついた人々の安息の場としての役割を担うことになるでしょう。“神よ、今こそ私たちの手を強くしてください。”と祈りつつ、夏のすべての歩みを主に信頼して参りましょう。シャローム!

2016.7.10

 『 武器よりも賛美の力で 』   (歴代誌下20:21)
“彼は民と協議したうえで、主に向かって歌をうたい、主の聖なる輝きをたたえる者たちを任命し、彼らに軍隊の先頭を進ませ、こう言わせた。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」”(歴代誌下20:21)

 聖書の中にあるイスラエルの戦争に際しての描写がとても興味深いです。すなわち、軍隊の先頭に神を賛美する者たち、今で言えば聖歌隊を進ませるという、世界のどこの国もやったことのない方法で戦いに挑んでいったことが記されています。
敵と戦う槍も剣ももっていない聖歌隊にできるとすれば、ただ信仰と歌声をもって神を賛美しながら敵に向かって行進することでした。そして聖書聖歌隊の歌声と共に神が敵を退かれたと記しています。
 クリスチャンは武器でなく神への賛美をもってこの世の悪、不義に立ち向かう人です。聖書が教える真理は“どんな武器よりも神への賛美が勝る”ということです。わたしたちが人生のどのような場面にあっても、すべてを知っておられ、全てを治めておられる神が、神の子どもたちに最善を与えられるという信仰をもって神を賛美すると、神は悪を退き勝利を賜ってくださるのです。
 世界がテロと災害、欲望などに満ち荒れ果てている中、人々は光と希望、勇気を失い暗闇に包まれています。そんな中、同じく武器をとったり、歯には歯、目には目というこの世の価値観で戦おうとしているのかもしれません。しかしそれでいいのでしょうか。戦争が生み出すのは戦争しかありませんし、復讐が生み出すものは復讐しかありません。そして戦争と復讐は人類の歴史が終わらない限り続くことになるでしょう。
 ぜひ賛美することの恵みを知っていただきたい。神を賛美することはこの世のどんな武器よりも強く、賛美が溢れる所では神の愛と平和、神による勝利が成し遂げられるはずです。とりわけ最も激しい戦いが繰り広げられている私たちの心が、神への賛美のメロディーで満ちるようになれば、人知を超える平和と感動が実現することになるでしょう。わたしたちのすべきことはすべてを治めておられる神を認め賛美すること、賛美の中で神の愛の約束を生きることです。神はわたしたちの信仰の賛美をお聞きになりどのような場においても勝利を賜ることでしょう。ハレルヤ

2016.7.10

チャペルコンサートに寄せて〜
 今年もまた神様の恵みによりミルトスの面々の健康が支えられ、奉仕の場であるチャペルコンサートが開かれることを心より感謝します。
「主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」詩篇149:1
 合唱を長年続けていたというだけで専門的な声楽の学びもしたことがないわたしソリストのまね事をしてよいものかどうか、チャペルコンサートが最初に行われた時から今もずっと思ってはいます。勧められ賛美させてもらっていますが兄弟姉妹方の神様への賛美の代弁、あるいは神様からのみことばの紹介の役割が果たせたら…と願います。
 バイオリン、お箏、ピアノの達人の姉妹方、そして合唱仲間と賛美出来ることを主に心より感謝しつつ。ご出席下さっているすべての方々と共に、音楽の響きの中に神様のご栄光、ご愛を感じられますように祈ります。
S.M姉

2016-07-03

2016.7.3

神の国か、欲望の国かの選択
"「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。(汽茱魯佑亮蟷4:20)"
 英国EU離脱の影響が世界を揺り動かしています。そしてアメリカ大統領選挙ではトランプさんの差別と葛藤をあおるような言動がますます激しくなってきています。興味深いことに英国アメリカの現在をつなぐ言葉こそ、葛藤であり、差別、ナショナリズムであるでしょう。若者と年寄り、人種、イスラム教とキリスト教、国と国との葛藤が広がり、それに伴う差別が深刻化している状況です。それに加え、“わが国、わが民族だけが良ければいい!”と言うナショナリズムが世界を支配しています。これらの中に潜んでいるのは利己主義の欲望!  英国も、ヨーロッパの国々も、アメリカもキリスト教信仰の上に立った歴史をもっていますし、今もなおその影響は変わりません。だからローマ法王がトランプさんを指して“彼はクリスチャンではない。”と言った言葉に対して、猛反発したのでしょう。しかし聖書が教えている福音は、葛藤や差別ではなく愛であって、ナショナリズムでなく神の国であることを世界のキリスト者たちは忘れないことです。今こそ敵であったユダヤ人が強盗にあった時、愛と憐れみをもって最善を尽くしたサマリア人のように、隣人を愛する教えに立ち返る時、愛の福音を実践する時ですシャローム!

2016.7.3

 『 ネヘミヤに学ぶぁ戞禅Г蠅弔槌える人〜
   ネヘミヤ2:4〜10、マルコ福音書13:11
 本日のマルコによる福音書13:11の内容は「小黙示録」とも言われるところで、終末の時に訪れる教会共同体とクリスチャンへの迫害のことが記されています。「地方法院に引き渡され、会堂でうちたたかれ、総督や王の前に立たされて、証をすることになる」という内容です。しかし、ここでイエス様は、恐怖と不安に怯えていた弟子たちに約束してくださいます。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、聖霊が教えられることを話せばいい」と言われる。そしてイエス様は、その迫害の時こそ「証しの時」であると教えておられるのです。そうです。聖霊なる神は、わたしたちといつ、どこでも共におられ、時に適った知恵と助けを与えてくださるお方なのです。
 キリスト者は聖霊の助けを信じ祈り続ける人です。イエス様自らも時に適った聖霊の助けを祈りつつ歩まれたことを聖書は教えているのです。
 そして本日の聖書のもう一人ネヘミヤもイエス様同様、祈りによって導かれた人でした。アルタクセルクセス王から、「何を望んでいるのか」と問われた時、ネヘミヤが取った行動は「天にいます神に祈る」ことでした。突然訪れたチャンス、たったの一瞬の時でした。普通の人は慌てて頭にあったことをすぐ口にしてしまうことでしょう。しかしネヘミヤはそうではありませんでした。彼はいつもそうであったように、まず短く矢を射るように簡潔で焦点を絞った祈りを天にいます神にささげます。ネヘミヤは慌ただしく流れていく時間、それでも一瞬立ち止まって神の助けと知恵を求め祈るのです。このことこそ使徒パウロが勧めていた“絶えず祈りなさい”という言葉の実践であるでしょう。
 神の助けを信じ、祈りをささげたネヘミヤは、すでに心に備えていた計画をアルタクセルクセス王に述べます。「エルサレム城壁と町を再建したいということと、ユダに着くまでの安全と城壁再建のための材料をもらうための書状が必要であること」を。わたしたちはここでネヘミヤが神に祈り、神が与えてくださった機会のためにしっかりと備えていたことを学ぶことができます。そうです。わたしたちは神が恵みによって応えてくださることを祈り求めつつ、祈りの中で神と相談しながら次のことを準備することも大切です。
 わたしたちの祈りの生活はいかがでしょうか。たったの一瞬であっても自分の知恵を捨て、聖霊の助けと知恵を求め祈りましょう。そして、祈りと共に信仰の中で備えをし、導かれたことを恐れずに実行していくことです。神は生きた祈りの人を通して御業を成し遂げられるお方です。ハレルヤ

2016.7.3

〜私の妻もクリスチャンです〜
 私の妻がクリスチャンとなったのは、今から約16年も前のことです。
私の家族は、その頃長崎県大村市古賀島町にあるバプテスト連盟の古賀島キリスト教会に通っていました。当時、牧師をされていた梅野先生という女性の方が熱心に教えてくださり、妻はバプテスマへと導かれました。
 妻は、大村市にいた時は熱心に教会に通い礼拝を守り、教会の聖書研究などの活動にも積極的に参加していたのですが、名古屋に転勤後は、私の病気などいろいろなことがあって徐々に教会から離れてしまいました。聖書も読まず、祈りもしない状況が数年間続いていましたが、今年に入り、私が閔先生からイエス・キリストの十字架との出会い、聖霊の導きと働き、そして、神の国への希望を教えられたことにより、神様から心を動かされたからでしょうか。妻に対して、「祈りなさい。そして、聖書を読みなさい。」と語りかけることができ、そして、家族が住む名古屋に帰った時には、妻とともに再び祈ることができたのです。神様の精霊が閔先生を通して働いてくれたのだと信じています。
 妻がまだ名古屋で教会に通っていた頃、妻の親友で子供の健康問題で悩んでいた女性に聖書を送ったことがありました。それがきっかけとなって、その親友だけでなく、その夫と子供も、つまり家族全員がクリスチャンとなったのです。私は、妻の信仰が、聖書を親友に送った時の信仰に再び戻ることを願い信じて愛なる神様に祈り続けようと思います。 
                   S.N 兄

2016.6.26

『 ネヘミヤに学ぶ 』〜絶えず祈る人〜(ネヘミヤ記2:1〜8)
“「おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」この時、わたしは献酌官として王に仕えていた。“(1:11)
 祖国イスラエルのためにネヘミヤは涙と断食、御言葉による祈りをささげました。そしていよいよ彼が置かれた具体的な場面をもって神の干渉を祈ります。しかし神はすぐには応えてくださらない。「今日」と願っていたネヘミヤの祈りは4ヶ月も経ったある日に応えられることになります。ネヘミヤの「今日」は応えられませんでしたが、神は4ヶ月という祈りと備えの時間をネヘミヤに与えてくださいました。そうです。祈りはまず待つことから始まるのです。ネヘミヤは4ヶ月という時間を、毎日「今日」という時として受けとめ神の時に備えたわけです。
 いよいよネヘミヤにアルタクセルクセス王の前で神の恵みの計画を話すチャンスが訪れます。しかもそのチャンスはネヘミヤの方からの積極的な声掛けによるものでなく、王からのネヘミヤへの思いやりから始まっていることが目を引きます。王の献酌官であったネヘミヤでしたので、王の前で「暗い表情」をすることはあってはいけないことでしたし、そのことでネヘミヤは危険にさらされてもおかしくない状況でした。しかし、神はネヘミヤが祈った通り、「王の憐れみを受ける」ように王の心を変えてくださったのです。そうです。わたしたちの献げる祈りは人を動かす力があることを覚えましょう。
 とりわけ本日のネヘミヤの祈りの姿から、どんな時に置かれても祈ることを忘れない祈りの人に出会います。「何を望んでいるのか」というアルタクセルクセス王の質問に対してネヘミヤは慌てて自分の望みを打ち明けたり、恐れのあまりその場を避けたりすることはしませんでした。彼のとった行動とは、「天にいます神に祈る」ことでした。王の質問を前にしてわずかな時間しかありませんでしたが、絶えず祈る彼の生活習慣通り、一瞬であっても神の知恵と力を求めて祈ります。このようなネヘミヤの祈りの姿勢は普段身に慣れていなければできないものでした。どんなに忙しく、慌ただしい状況に置かれていても祈りより優先すべきものはないことを心掛けましょう。
 最後に、ネヘミヤは祈りと共に「祈りが応えられることを信じて、次なる備えをする信仰の人」でした。神の働きをするためには「祈り」と共に「祈りのための備え」が求められます。“祈れば何とかなる!”といって何もしない信仰は正しくないでしょう。祈りを知っている人は「祈りと共に祈りが応えられることを信じて備える人」なのです。わたしたちは神が恵みによって導かれることを信頼し、その備えも神の恵みによって行なうのです。わたしたちの祈りはいかがでしょうか。

2016.6.26

「西南100周年」
今年2016年は、西南学院創立100周年の記念の年です。先日は100周年の記念式典が行われました。西南学院は、1916年、米国南部バプテスト派遣宣教師C.K.ドージャー先生によって福岡市に設立されました。創設者の遺訓 “Seinan, Be True to Christ”(西南よ、キリストに忠実なれ)は、学院の建学の精神として、現在もなお大切に受け継がれています。西南学院は1916(大正5)年、福岡市初の男子の私立中学校として、当初104人の生徒と9人の教職員でスタートしたそうです。戦時中は、日米関係が悪化するなか、キリスト教主義学校に対する風当たりが強くなり、苦難の時代が続きましたが、今では幼稚園、保育所、小中高、大学、大学院あわせて約1万人の学生・生徒・園児が学んでいます。
私は今、西南の建学の中心である神学部において学びがゆるされていることを心から感謝いたします。当たり前のようにして毎日学んでいるこの西南学院が、たくさんの人々の努力と献金、祈りが積み上げてられて設立されたということを改めて学び考えさせられました。そこには、キリスト教を日本に伝えたいという南部バプテストの人々の熱い祈りがあり、はるばる遠い異国の地まで献身し全てを捧げられた宣教師の先生方の尊いお働きがありました。この100年という月日はとうてい想像もできない年月です。しかし100周年のいまこそ建学の精神である「西南よ、キリストに忠実なれ」という言葉を胸に刻みつつ、神学校での最後の一年間の学びに励んでまいります。
宮田祐亮神学生

2016.6.19

〜 解決の道こそ十字架の愛です! 〜
 先日、再び世界を恐怖に陥れた最悪の乱射事件がアメリカオーランドで起きました。一人のアフガニスタンアメリカ人による乱射によって多くの方が犠牲になりました。世界のマスコミは今回の事件の原因探しに熱心です。「過激派イスラムによる無差別テロだ」とか、「ヘイト(憎悪)行為だ」とか、「銃規制をしてないからだ」などなど。とりわけ大統領選挙を控えているアメリカでもあるわけですから、これらの争いはなお激しくなっていくでしょう。
 本当にイスラムの人をアメリカ社会から除くことで平和な社会ができるでしょうか。白人だけの社会になれば、日本人だけの社会になれば、今の葛藤や差別などの社会の問題はなくなるでしょうか。・・・いいえ、この世が続く限り、これらの問題は絶えず続くでしょう。むしろますます悪くなっていくと聖書は教えています。なぜならば、自然人としての人は罪人であって、自己中心、欲望に生きる存在だからです。それではどうすればいいのか。
 聖書が教えている解決の道こそ「愛」、イエス・キリストの十字架の愛によって示されたアガペーの愛に生きることです。イエス・キリストの十字架の愛の前にはすべての人が赦されるべき罪人であり、すべての人がイエス・キリストが命を捨てて救おうとされた尊い存在であるからです。
 昨日わたしたちは第二回目の「小さな泉の村」を開きました。そこに満ちていたのは「愛」、目には見えませんでしたが、小泉町教会の神の家族とその場に集われた方々との間はイエス様の十字架の愛による絆で一つとされていたのです。願わくは、わたしたちの小さな泉から周りの人々が永遠の愛と命の水を得られますように・・・。

2016.6.19

『 祝福を祈る 』(コリントの信徒への手紙13:13)
 キリスト者は、祝福を伝える存在です。イエス・キリストが、わたしたちキリスト者を世界に遣わされた目的はただ一つ、世界の人々を、神の愛で祝福することにあります。聖書は、天地創造の場面から、世の終わりを告げるヨハネの黙示録の場面に至るまで、繰り返し、キリスト者が祝福を携えていく者であることを記しています。とりわけ、本日のコリントの信徒への手紙13:13は、聖書の中に記されている数えきれない神の祝福の中でも、最も優れた祝福を紹介してくれます。
“主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように・・・。”
 この祝福の言葉は、今現在多くの教会で、礼拝における祝祷として用いられている箇所です。わたしもこの祝福に基づいて祝祷をしています。それでは、なぜこの祝福の言葉が、礼拝における祝祷として用いられるようになったのでしょうか。それは、この「祝福の祈り」の中には、キリスト教信仰の核心とされる「三位一体の神」による祝福が、しっかりとした言葉となってわたしたちに語られているからです。三位一体の神による祝福は神学や教理の領域でなく、毎日わたしたちに注がれる最も素晴らしい祝福であるのです。
 まず、「主イエス・キリストの恵み」です。本来わたしたち人間は、罪のゆえに、滅びていくしかない存在でした。しかし、神は独り子イエス・キリストをわたしたちの罪の身代わりにとして十字架にかけられ、命を捨ててまで愛され、贖われました。このイエス・キリストの恵みによって、わたしたちはすべての罪から赦され、死の呪いから救われ、神の子とされ、救いの道を歩めるようになったわけです。そしてこのキリストの恵みは、時間と空間を超えてこの世のすべての人に注がれていることを覚えましょう。この世のどんな人も、このキリストの恵みから外されてしまう人は一人もいません。
 次に、「神の愛」です。罪を犯したあなたとわたしを罪と滅びから救うために、父なる神ご自身が人となられた、それが独り子イエス・キリストです。そして父なる神は、その独り子を十字架の上で死なせるほど、わたしたちへの無条件で完全な愛を示されたのです。これこそ神の愛、アガペーの愛です。
 最後に、「聖霊の交わり」です。「交わり」と言う言葉は、ギリシャ語の「コイノニア」と言う言葉で「親密で深い交わり」という意味として使われる言葉です。すなわち、聖霊との交わりを通してわたしたちは父なる神の愛と独り子イエス・キリストの恵みを知ることができますし、約束された祝福を聖霊を通して実際に生きる力を得ることになるのです。
これらの三位一体の神の祝福を生きる存在がキリスト者です。神はその祝福を暗闇の中にいる人々に携えていくことを望んでおられます。祝福にあずかり、祝福を祈る人を通して神の国は広がっていくことでしょう。ハレルヤ

2016.6.19

三浦綾子旧約聖書入門「バベルの塔」を読んで
バベルの町を作ろうとした人々は神の域に迫ろうとしました。人間は神になろうとしても、それはできません。日本は戦争中に天皇を生ける神としました。これに異をとなえる者はたちまち投獄され、命さえも奪われました。
 人間は人間で、神となることはできないし、また動物や太陽や月をおがんだりしても、それは信仰にはならないのです。
 神様の知恵は人間の知恵よりもすぐれているし、キリストだけが神なのです。
 キリストは愛なる方で、十字架にかけられても「父よ、彼らの罪を許してください。彼らは何をしているか知らないのです」と祈られました。敵さえも愛されるキリストは、2000年たった今も、富山小泉町教会で会うことができます。
 一人暮らしをしていると幸せだなと思うこともありますが、悲しいつらいこともあります。でも日曜日の礼拝や水曜日の祈り会は私の心の支えになっているし、キリストに出会える日です。

2016-06-17

2016.6.12

〜 兄弟会の新しい一歩を応援しつつ 〜
 健康な教会の判断基準の一つとして、教会の各会がそれぞれ生き生きと活動していくことであると思います。
 全国のどこの教会においても女性会がない教会はありませんし、女性会中心の活動がなされていることでしょう。小泉町教会も女性の方々が中心的に活動しています。しかしそんな中、壮年たちも各会としては組織されていなくてもすでにキリストの体のための多くの働きに関わってきています。定期的に昼食を準備し、営繕、草むしりや花壇整備など、また特別行事がある度に、駐車場案内、路傍伝道などなど、目立たないけれども必要とされる時にはいつも最善を尽くしてきました。そこで、神は兄弟たちに御心を示され、一つの統一した働きをするためには兄弟たちの力を一つにまとめる会を作ることになったわけです。・・・先週の日曜日の午後、まず4人の壮年が集いました。その時に決まったこととして、会の名称を「兄弟会」とすること、兄弟会のリーダーを南川兄が担当することでした。成人した兄弟であれば誰もが入れるということで「兄弟会」と名付けましたが、後に青年会などが結成されるのであれば、会の名前を変更することになるかもしれません。
 今からわたしたちの群れは夏を迎え、チャペルコンサート、ファミリーキャンプ、英会話教室キャンプ、平和集会などのプログラムを行なうことになります。すべてが神の福音を宣べ伝えるために大切な諸行事です。新しい一歩を踏み出す兄弟会の皆さんをはじめ、小泉町教会の神の家族が力を込めてイエス・キリストの愛と救いが届けられる諸行事となりますように・・・。シャローム!

2016.6.12

『 ネヘミヤに学ぶ 』〜御言葉に立って祈る人〜 (ネヘミヤ書1:1〜11)
 先週からネヘミヤ記を分かち合っています。ペルシア王の献酌官をしていたネヘミヤのもとに、祖国エルサレムの悲惨な状況を知らせるニュースが届きました。その知らせを聞いたネヘミヤは、座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天の神に祈りをささげはじめます。その時献げたネヘミヤの祈りは、今現代のキリスト者の祈りがどうあるべきかについて模範を示してくれます。とりわけ執り成しの祈りが何であるかについて知ることができます。
 先週分かち合ったように、ネヘミヤは神を賛美した後、自分の罪、父の家の罪、イスラエル共同体全体の罪のための悔い改めの祈りをささげます。ネヘミヤは神の御前に進むためには、まず心からの悔い改めがなければ近づくことができないことを知っていたことでしょう。しかも彼とは直接関係のなかった先祖たちの犯した罪の歴史と自分自身を一体化することで執り成しの場へと進むのです。わたしたちはネヘミヤを通して、信仰とは決して一人の救いだけにとどまらず、信仰共同体の救いまでも含むものであることを教えられます。
 ネヘミヤは、更に進んで神の約束に目を留めることになります。神は、イスラエルの犯した罪のゆえに滅ぼされ、バビロン捕囚といった悲しみに落されたけれども、イスラエル共同体が悔い改め、主に立ち帰り、戒めを守り行なうのであれば、主なる神は必ず赦してくださると、申命記30:1〜4で約束しておられます。ネヘミヤは、神のその約束の上に立って「思い起こしてください」と訴えます。そうです。ネヘミヤの祈りは、御言葉の約束の上に立つ祈りでした。わたしたちの信じる神は、御言葉の約束されたことを守られるお方です。神は今日も神の人に御言葉を通して語られ、御言葉を通して関係を深めておられます。成熟したキリスト者は、自分の思いや感情に頼る人ではなく、常に御言葉の約束に立って祈り、御言葉の約束を生きる人です。その人はどのような試練や妨害、状況にも振り回されることはないのです。
 最後に、ネヘミヤは具体的なリクエストで祈りを終えます。それは、「今日」、アルタクセルクセス王の前に立つ時、王から憐れみを受けることができるようにしてほしい!という願いでした。ネヘミヤの祈りは、漠然としたものではありませんでした。ネヘミヤは11節を通して、自らを「神の僕」と、アルタクセルクセス王を「この人」と呼びます。これは、「主の主、真の支配者こそ神」であるという信仰告白です。神の前に、ペルシア帝国の王はただ一人の人に過ぎません。あなたの目の前の人を恐れないことです。すべてを支配しておられる神を信じ、一歩を踏み出す人は幸いです。

2016.6.12

 もう25年も前の話。(数えてびっくり!)
 主人の仕事の都合で、米国ミシガン州に2年ばかり住んでいたときの、サンクスギビングという日本のお正月に似ている祝日に経験した出来事です。
 当時、クリスマスやサンクスギビングといった重要(?)な祝日には、ショッピングセンターやレストラン、マクドナルドにいたるまで、店を閉めていました。 外国人である我が家族は休日ルンルンで、アナーバーという学生街に出かけていました。 学生たちはそれぞれの実家に帰っていたのか、街はひっそりとし、お昼になっても、美味しいにおいで誘ってくるお店もなく、「えっ?私たち、何か食べたい!」と焦って、お店を探したところ、少し高級そうでしたが、一店だけ開いている(ように見えた)レストランを見つけました。「ええい、日本人だけど入れてくれるだろう」と、思い切って店内に… 何かが違う。何が?????メニューがない。
 座ると、自動的に決まった料理(日本のおせちのようにサンクスギビングの献立)が運ばれてきて。不思議な空気を感じながらデザートまでいただき、支払いをしようと請求書を求めると、英語(当たり前?)で何やらよくわからない説明。すこし理解のできたのか、主人が店内を見渡し…気づいてしまいました。「これは、ホームレスの人たちのために開かれているお店だ!!!」
 その瞬間、気まずいような、恥ずかしいような、消えてしまいたいような、(そんな気持ち、わかってください)でも、どうすることもできず、できること……少し多めのチップをテーブルに置き、ごめんなさいの気持ちを込めて頭を下げて、店を出て、一目散に帰宅しました。店員さん(?)は、いいのよ、いいのよ、というジェスチャーで「エンジョイ!ミシガン!」と、見送ってくれましたが、これがまた、私たちを恥ずかしい思いにさせたりして。それからは、「向う(アメリカ)にはこんな文化があるのよね…」と自分を正当化し、忘れてしまいたい思い出の1ページとして頭の引出しにしまいこんでいました。
 数年前の執事会で、S姉から、ホームレスの方々を支援したいとの意見が出され、そんなことは、日本のしかも富山では実現難な課題だと思っていましたが、神様にその思いをゆだね、今、「小さな泉の村」を立ち上げるにいたったS姉の信仰は本当にまぶしいです。私も、あの時の“借り”を何かの形で償えますよう、S姉の、そして小泉町教会の活動にできることから応援させていただきたいと思っています。
               K.I姉

2016.6.5

〜 あなたの呼吸、あなたを生かす祈り 〜
  
 先週の水曜祈祷会には今までの祈祷会の中で最も多い12名が集いました。7時30分より9時頃まで、12名の祈りの友がまず神を賛美し、それぞれ与えられた御言葉からの恵みを分かち合い、祈りの課題にそって執り成し祈る恵みの時を過ごしました。皆の口から“おー、12弟子か!”と喜びの叫びが上がるほど、祈祷会に加わる人数が増えることは大きな恵みであり慰めです。
 聖書は断言していいます。「祈りが生きている群れを通して神は働かれ、祈りは奇跡を呼び起こす」と。そして神は祈らない個人、祈らない共同体は用いないことを教えておられます。なぜならば神は祈りを通して働かれ、祈りの中に御業を成して行かれるからです。使徒パウロが“絶えず祈りなさい”と勧めていますが、ここで絶えずという言葉は、息をするようにという意味で、わたしたちの信仰の呼吸こそ祈りであって、祈らなければ死んでしまうことを表しているのです。神の家族の皆さんは祈りの呼吸を止めてはいませんか。
 祈祷会の出席者が多いからわたしは出席しなくてもいいと思わないで、ぜひ祈祷会に集いましょう。あなたの祈りがあなたと家族を生かし、小泉町教会と日本の国を変える力となるのです。もし、わたしたちがからし種一粒ほどの信仰をもち、祈り求めるのであれば、神は巨大な山をも動かし、わたしたちの思いをはるかに超える御業を成し遂げてくださるはずです。その出発こそ祈りです。一人の祈りから共同体の祈りへ、個人のための祈りから執り成しの祈りへと祈りの輪を広げる中で、わたしたちは大いなる神の祝福に与ることになるでしょう。シャローム!

2016.6.5

『 ネヘミヤに学ぶ 』〜執り成しの人〜 (ネヘミヤ書1:1〜11)
 崩れ落ちた信仰共同体の痛みと厳しい現実を胸に抱き、心から愛の執り成しを続ける一人の人。そして、祈りの答えとして神の御手が働かれる時、自ら進んで積極的に信仰共同体を建て直していく一人の人。また、様々な批判と試練、誘惑と苦難が絶えない働きの現場においては、鋭い洞察力と知恵、リーダーシップをもって乗り越えていく一人の指導者、ネヘミヤという人です。彼はすべての面において保証されていたペルシアでの生活を後にして、祖国イスラエルの厳しい現実と神のビジョンを前に、喜んで自分自身を献げる決断を下す人でもありました。
 バビロン捕囚からの「第三次帰還」(紀元前445年)を率いたのは、祈りの人ネヘミヤでした。ネヘミヤという名前は“主が慰めてくださった”の意味です。彼は異国の地で生まれ成長しました。そして、彼はペルシア王アルタクセルクセス一世の献酌官という高い地位を手にするほど成功した人でした。
 しかし、彼は決して自分の成功や身の安全だけがあれば、自分の家族や身の周りだけが平和であればいい!という意識はもちませんでした。彼の心の中には、いつも祖国への熱い想いがありました。そして、滅ぼされたままの祖国エルサレムを悲しみ、エルサレムのために執り成し続けていたわけです。すなわち、ネヘミヤは愛国者だったと言えましょう。
 ネヘミヤはエルサレムから戻ってきたハナニという親族から打ち破れていたエルサレムの城壁の現状について聞くことになります。それを聞いたネヘミヤの反応を見てください。“これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。(4節)”

 わたしたちも常に家庭の城壁にヒビが入り崩れそうになる危機に直面します。また、信仰共同体の城壁が様々な敵の攻撃を受ける中で、厳しい戦いを強いられることも経験します。それから日本社会の政治、経済、倫理などの城壁が崩れ落ちていることを目の当たりにしています。このような状況の中で求められるのが“祈り”です。ただ、漠然とした空を打つような形だけの祈りでなく、日本社会の問題課題を胸に抱き、涙と命をかける執り成しの祈りを主は望んでおられます。
 これからしばらくの間、ネヘミヤの信仰と祈りを黙想しながら、信仰共同体を建て直すビジョンを現実のものにしていく力を学んでいきたいと思います。とりわけネヘミヤの城壁再建と信仰復興のために献げられた執り成しの祈りを身につけたいと思います。生きておられる神は、あなたの祈りを用いて倒れかけているすべての城壁を建て直してくださるでしょう。

2016.6.5

「真実なる主の恵み」 
 主の尊いお名前を賛美します。
 まず初めに、いつも私たち夫婦の為にお祈りいただき、またサポートをいただき、心より感謝申し上げます。そして姉(黒澤)家族が貴教会に集わせて頂き、恵みに満ちた教会生活を送らせていただいていますことも感謝です。
 私たちは今、タイのバンコクにある日本語教会で、牧会の働きをさせて頂いていますが、働きをする前(正確には神学校へ行く前)、両親は私たちのことを想って、フルタイムの献身を反対していました。両親はクリスチャンだからこそ、献身者の大変さをよく知っていたからです。両親の反対を押し切って献身してよいのだろうかと、非常に悩んでいた時、あるみことばが心に迫ってきました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。」(マルコ10:29,31)これは、何よりも主を優先する者を、主は豊かな恵みで満たしてくださるという約束のことばです。このみことばを通して、神様はご自身に従う私を祝すだけでなく、私が大切に想っている家族をも祝してくださるという確信が与えられ、両親のことも主にゆだねる決心をしました。その後、神様はみことばを実現してくださり、2人の祖母、叔母、姉の長男が次々と救いに導かれ、今年のペンテコステの日には、姉の次男が貴教会で洗礼の恵みに与らせて頂きました。真実な主の御名を心から賛美致します。
              タイ聖書福音教会伝道師 横谷環

2016.5.29

〜 リーダーのために祈る 〜
 先週日本中がG7サミットのことで盛り上がっていましたね。とりわけアメリカオバマ大統領が現職の大統領としては初めて広島を訪れたことが人々の関心を集めました。世界のリーダーとしてのオバマ大統領の一挙手一投足が及ぼす影響力を再三確認できた場面であったと思います。
 ナショナリズムの流れが日に日に増している世界情勢の中、何とも言えない将来への不安に包まれている近頃です。その中でもオバマ退任後のアメリカ大統領が誰になるか、あまりにも暴力的で危険な発言を続けるトランプさんがなるのではないかということで世界中が不安の目で見つめている状況です。これこそ一人のリーダーが及ぼす影響力の大きさを表す典型的な例であると言えましょう。
 聖書はリーダーのために祈ることを命じます。それほどリーダーの存在の大切さ、リーダーに求められる責任、神からの使命が重いからでしょう。しかし聖書に登場する多くのリーダーは初心を忘れ神の前で罪を犯し、イスラエル共同体もリーダーに倣い罪に妥協し堕落してしまいます、その結果神の厳しい裁きに遭ったことを聖書は繰り返し告発しているのです。神の家族の皆さん、ぜひリーダーのための祈りを休まないようにしましょう。まず、小泉町教会の牧師のため、日本バプテスト連盟に連なる諸教会の牧師たちのために、それに加え日本の安倍首相をはじめとする世界の指導者たちのためにと、祈りの境を広げていきましょう。ますます悪と暗闇が力を増している昨今の時代を見極めつつ、神の国と神の義を求めることを第一とするわたしたちの群れであるように・・・。

2016.5.29

 『 神の家に住む 』(詩篇84:1〜13)           
 先日、稲垣さんと敦賀の「人道の港ムゼウム」という小さな博物館を訪ねました。6000人のビザで有名な杉原千畝さんの発給したビザでヒトラーの魔手を逃れたユダヤ難民が、シベリア鉄道ウラジオストックまで来て、そこから敦賀に上陸していたことを知ったからでした。敦賀の市民はこれらユダヤ難民を受け入れ、宿を貸し、銭湯を提供し、病人の手当てをしたのです。安心して住む家がある、ということを、ユダヤ人の一人は「ここは天国だ」と言いました。
 家族がともに住むということがどれほど大切なものかを震災の現場からの報告で痛いほど感じます。家とは、ともに生きる場であり、命の交わりの場であるということです。
 今日のみ言葉を通して、詩人は、「神と共に一つの家に住むことが最高の幸せである」と言います。キリストがクリスマスに生まれ、私たちを迎え入れてくださいました。人が神の傍に住む、神と共に生きるということが、私たちにとって最高、最大の目的なのです。神と共に生きることなくして、他のことは全く色あせてしまうのです。
 神は、どんなに人間が反抗しても、私たちと共に住むということをあきらめないのです。神は私たちと共に住み、共に悩み、共に泣き、共に生きることを望まれます。
 神は新しく、「共に住む」ということを願われます。神は、内在する神として私たち一人一人のもとにやってきた!のです。それは「聖霊」と呼ばれます。この人は嬉しくて仕方ない!と喜びで顔を輝かせているのです。幸せだと言っているのです。誰かが、この人を見たら、「あなたはなぜ、そんなに嬉しいのですか?」と問わずにはおれないような幸いな人について語っているのです。聖霊が宿ってくださっているからです。
 あなたは何かをするためにここにいるのではありません。
ただ、神と共にいることが大事であり、神がそれを望まれていることが大事なのです。
 この箇所で住むということを「ヤーシャブ」という言葉であらわしています。意味は、一箇所に留まっていること、移住すること、座ること、何もしていないこと、結婚することなどです。端的に、一緒にいることが目指されています。あのザアカイはイエスを自分の家に迎えました。そうしたら、ザアカイは変えられてしまいました。
 神が私たちのところに来られ、内在する神、聖霊として絶対に離れない交わりへとわたしたちを導いておられるのです。
                                  田口 昭典

2016.5.29

 福岡に転勤になり早や10ケ月が過ぎました。こちらの生活にもなんとか慣れ、仕事もやっと起動に乗りつつあります。これも一重に皆様の御祈りの賜物であり、感謝しております。
 家族と離れて暮らす事は辛く、孤独に慣れることはなかなかできません。先週は、大型連休で富山に帰省して、家族と一週間程過ごし福岡に戻った翌朝、目が覚めた時、子供達がそばにいるような感覚があり、福岡に戻っている事がわかると恐ろしい孤独感にみまわれました。私は本当に弱い寂しがりやの情けない男です。その日は、日曜日でいつも行っている教会へ日曜礼拝に出席させて頂きました。帰り際に牧師先生に声を掛けられ、その日は礼拝後の食事も、他の行事もなかったので近くの公園の茶屋で食事をご馳走して頂くことになりました。牧師先生とは歳も近く、お互いの身の上話をさせて頂き、豊かな楽しい時間を過ごすことが出来ました。
 コリント12-9 「すると主は、『わたしの恵みはあなたに充分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
今日も主に依り頼み感謝して歩んで参ります。
小泉町教会におきまして大いなる恵みと祝福が与えられますようお祈り致します。アーメン。
                         T.K 兄

2016-05-27

2016.5.22

 『 心を動かされて生きる 』(エズラ1:1〜6、競謄皀藤魁В隠供
 キリスト者であれば誰もが聖霊に心を動かされて生きる人であると言えます。なぜならば聖霊によって心を動かされなければ福音を信じることも、イエス様に従うこともできないからです。聖霊に心動かされることで悔い改めに導かれますし、救いの出来事も聖霊が心を動かされる中で起きることになるのです。ですから、この世においていかに頑なな人であっても、聖霊が心を動かしてくださるのであれば、その人は自分が罪人であること、またイエス・キリストが自分自身のために十字架にかかり命を捨て、身代わりとなってくださったと確信し、イエス様と共に勝利の道を歩むことになるのです。
 しかし聖霊が心を動かされる人はキリスト者だけに限りません。“主がペルシアの王キュロスの心を動かされた。”(1節)今日の聖書に登場するキュロス王はペルシア帝国の王でした。異国の王であって、当時世界を支配していた最高の権力者が、聖書の神、イスラエルの神に心を動かされるということは考えられないことです。しかし聖書は主なる神がキュロス王の心をどのように動かされたのかをキュロス王の言葉で次のように証言しています。“天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。”(2節)と。・・・そうです。その人がどんな背景を持ち、どのような特徴をもっている人であれ、聖霊に心を動かされる人、聖霊に心を動かされ立ち上がる人を通して、神の業が始まり、神の栄光が現されることになるのです。
 また神は神の御心に動かされて生きる一人だけでなく、同じく神に感動し、心動かされている人々を加えてくださいます。キュロス王の心を動かされた神は、今度はイスラエル共同体の心を動かされます。(5節)とりわけ神がキュロス王とイスラエル共同体の心を動かされた目的がエルサレム神殿を建てるためであったと聖書は教えます。神がいかにイスラエル共同体からの生きた礼拝を望んでおられたのかがうかがえます。
 このような聖霊による働きは、今わたしたちが生きているこの時代においても同じです。わたしたちが何か始めようと計画する時、わたしたちを励まし、確かに導かれるのは、まず心を動かされることからです。聖霊がわたしたちの心を強く動かし、確かな信仰と勇気をくださる時、わたしたちはキュロス王のように、イスラエル共同体のように、初代教会の人々のように変えられるはずです。
 今朝、わたしたちの教会が、また一人一人の日々が、聖霊に心を動かされ、感動し、喜んで御心に従うことができれば、神はわたしたちの群れを通して素晴らしい御業を始められることでしょう。

2016.5.22

〜バプテスマの信仰告白〜
 僕は小さい時からこの教会に通ってきました。そして、いつの間にか通うことが習慣になっていました。それから5年生になってから、教会に来る時間を受験勉強に費やしたいと思うようになりました。その時から神様との関係が離れてしまったように思いました。しかし、神様は受験の時、知識と勇気をくださいました。その時から神様を心から信じるようになり、この一年間で多くの事を学びバプテスマに至りました。・・・「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」(ルカ11:6)
 僕はまだ13歳ですが、今までに多くの罪を犯してきました。人は、目には生きているように見えますが、根から切り離された花のように神から離れている人は、もうすでに死んでいます。なぜなら罪の代価が死だからです。
 しかし、神様は独り子を信じる者が一人も滅びないようイエス様を贈り、罪の代価を背負ってくださいました。その時、神様と人との間にできている谷に十字架をかけて下さいました。そして三日目に復活し、希望を与え、永遠の命を与えてくださいました。そして、今も聖霊様が僕を導いてくださることを信じます。
 僕は、今から罪まみれだった自分を捨て、新しく生まれ変わります。そして神様に従い続けることを約束します。また、今から建てていく信仰の基を、御言葉の上に築くことを約束します。また神様の無償の愛をしっかりと受け入れます。そして、十字架の横の柱「人と自分との関係」を現実にするため、イエス様のことをまだ知らない人のために懸命に伝えることを約束します。アーメン!
             K.N兄

2016.5.15

〜 十年一昔、バプテスマの恵みを思い出す 〜
 富山小泉町キリスト教会に赴任して早くもそろそろ10年目に入ります。古くからのことわざに「十年一昔」という言葉がありますが、その言葉通り、わたしたちの教会を取り囲む状況は全く変わってきたことに驚きを覚えます。10年前の教会の周りには田んぼが多く残っていましたし、家もそれほど多くありませんでしたね。田んぼや自然がなくなったせいか、毎年目にしていたキジの親子も見えなくなりましたし、鳥たちの鳴き声も、今頃のカエルたちの大合唱も聞こえなくなりました。自然が大好きなわたしから見たら寂しいことです。 また町のどこからも見えていた十字架塔も次々と建つ家々に囲まれて見えなくなっています。このように激しく変わっていく世にあって、わたしたちの教会はどのような変化を遂げてきたでしょうか。                       
“だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。”(コリント5:17)“新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。”(マタイ9:17)
 本日バプテスマを受けるN兄とは5回に亘る聖書の学びの時を過ごしました。10年前の幼い幼稚園児の姿はもうありません。しっかりとした神様への信仰告白ととても誠実で真摯な一人の信仰者の発見に感謝と喜びの賛美を献げるのみです。大きい身長がどこまで伸びるか分かりませんが、神への信仰においてもますます伸びていき、神と教会の誇りとなる望兄を夢みていきたいと願います。神の家族の皆さんはバプテスマを受けた時の感動を覚えていますか。その時と比べて皆さんの信仰はどのように変わっていますか。シャローム!

2016.5.15

『命をもたらす風なる聖霊 』創世記1:1〜2、 使徒言行録2:1〜4)             
 ペンテコステおめでとうございます。本日は教会の誕生日であり、イエス様の約束された助け主としてわたしたちのうちにやって来られた聖霊を喜び祝う礼拝です。世界の人々の中にクリスマスのことを知らない人はいませんし、イースターについても何とか分かっていることでしょう。しかし、ペンテコステというとほとんどの人は知りません。けれども、ペンテコステ、すなわち聖霊が人の歴史のただ中に来られたことによって世界は変革を迎えたわけですし、新しい創造の業が始まることになったのです。   
 聖霊が初代教会の群れの上に激しい風と共に臨まれた日に起きた変化として、まず弱虫であったペトロが偉大な伝道者に変えられましたし、他の弟子たちも地の果てとされていた場所に命をかけて伝道する人に造り変えられます。また120名の敗北者たちが福音の勇者に変わります。もしペンテコステがなかったら、ここ日本まで福音が伝わってくることはなかったし、私たちはいまだ救いを知らない民になっていたはずです。特に、聖霊は今も生きて働かれる方、私たちを日々導かれ、交わってくださるお方であるので、聖霊なしではわたしたちの教会も、わたしたちの人生も、希望も語れませんし、成り立たなかったはずです。
 命をもたらす聖霊は一人一人の魂の内に、また共同体の内にご自身を吹き込まれることですべてを新しくしてくださいます。聖書は聖霊の働きを創世記1:1,2から早速記しています。「初めに、神は天地を創造された。・・・神の霊が水の面を動いていた。」 ・・・創造のただ中におられ命をもたらされた聖霊の働きはその後、人を造られる時も、紅海を渡る出エジプトの時も、エゼキエルが見た枯れた無数の骨を希望の集団と変えられる時も、そして初代教会の誕生も地の果てに至る福音の勇士とするために人々が変えられる時も、聖霊が圧倒的な命をもたらす風として働かれるさまを聖書は描いてくれます。
 聖霊は目には見えないけれども、風のように、息のように、わたしたちを囲み、わたしたちを生かし、行くべき道を作り、永遠に変わることのない命で包んでくださるお方なのです。ですから、聖霊との交わりと助けがなければ私たちは何もできませんし、命溢れる信仰生活も、また命を生み出す働きもできないのです。そうです。教会の命は聖霊の風に満たされることにかかっているのです。 

2016.5.15

〜いつも誰かが待ってくれている場所〜
 私は連絡もせず教会にふらっと立ち寄る事があるのですが、いつも必ず閔先生が出迎えて下さり時には奉仕中、学び中の兄弟姉妹にまで会える小泉町教会が大好きです。先週の昼食準備は急な来客があり約束通りの時間に行けませんでしたが、忙しい閔先生に代わりなんとG兄が教会を守ってくれており感謝と感動で一杯になりました。
 最近よく近所の子供たちやその母親が散歩がてらうちに立ち寄ってくれます。先週の教会帰りにも沢山のおもちゃでパンパンになったリュックを担いだ子が私たちの帰りを待っていました。張り切って来たにも関わらず誰もいない家の前で不安げな顔をしていましたが、私たちが帰るとすぐに笑顔になり一緒に遊ぼうとおもちゃを広げてくれました。うちに遊びに来てくれる子供たちはいつも楽しそうにしてくれていますが、そんな子供たちを見ていると教会で出迎えられ笑顔になる自分と重なります。神の家族に会える第二の家である教会、開かれたその家をいつも守って下さっている閔先生ご家族に改めて感謝申し上げます。そしてうちも他人にとっても落ち着く温かい愛で溢れる開かれた家であり続けられるよう祈ります。
I.A姉
 

2016-05-10

2016.5.8

〜 息子との幸せな時 〜
 先月から毎日の楽しみが一つ増えました。それは息子とのディボーションの分かち合いです。一日を終え眠りにつこうとする息子との約10分間の御言葉の分かち合いは親子の対話にとどまらず、自分自身の霊性訓練にも大きな恵みとなります。まだ中学1年生ではありますが、父親との交わりを通して聖書の読み方の成長や御言葉を黙想することの楽しさに気づいてくれる姿を見ると自然に笑みがこぼれます。
“どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。(詩編119:9)”        
 わたしたち小泉町教会の子どもたちが毎日御言葉に触れ、御言葉から知恵を得、神の御心を選んで歩むことができればいかに素晴らしいことでしょうか。わたしたちを取り囲む世界は、絶えず社会の風潮に合わせることを求めます。いつの間にかそれが優先順位となり、わたしたちも必死になって時代の流れや共通の価値観に合わせようとしているのが当たり前になっているのかもしれません。しかしここでもう一度立ち止まり“イエス様だったら?!”と尋ね確かめて見ることです。とりわけわたしたちの愛する子どもたちの将来のために、子どもたちが神の国と神の栄光のために用いられるビジョンのために・・・。息子と御言葉の分かち合いがいつまで続くか分かりませんが、できる限り長く続けたいと願うのは欲張りすぎでしょうか。   

2016.5.8

 『世界の片隅で起こる主の癒し 』(使徒言行録9:36-43)

 本日の聖書箇所では、ヤッファの街で亡くなったタビタという婦人の弟子をペテロが訪ね、蘇らせる奇跡が記されています。この話では、服を作ってはやもめたちに与えていた忠実な奉仕者のタビタ、信仰をもって主のわざを引き継いだペテロ、そして神がタビタを助けてくださると堅く信じていたヤッファの教会共同体が出会い、そこに神の癒しの働きが起こります。
聖書では「弟子」と呼ばれるタビタですが、その献身ぶりは街角の小さな教会の中でしか知られていなかったようです。他にも同じように自分が住んでいる小さな場所で我が身を捧げている人々はたくさんいます。ヤッファの教会の姿は私に、自分がこれまで関わってきた諸教会をいろいろな意味で思い出させます。それらは、広く名前が知られてはいませんが、それぞれが置かれた小さな場所でキリストに忠実であるべくひたすらつとめてきています。ごく普通の人々が普通のつとめを果たしている、普通の環境の中でも、みなが神のみわざに対して心を開いているなら、彼らは普通を超えた教会なのです。主の復活のできごとから2000年たった今も、わたしたちはその意味を忘れません。「キリストが今も生きて、世における主の業を続けておられる」という希望を常に抱いて生きる私たちは、「イースター・ピープル」、常にイースターを生きる人々であり教会です。
 タビタ、ペテロ、そしてヤッファの信徒たちが日々行っていたのは病院で患者さんに付き添う牧師さんのような役割で、今では「ミニストリー・オブ・プレゼンス」と呼ばれる奉仕です。「プレゼンス」は「そこにいる」こと、他人とともにいるために自分の時間を使うことです。タビタはやもめたちの中にいて、彼女たちの必要を満たしてあげていました。タビタ自身に癒しが必要になったときは教会の兄弟姉妹が彼女のためにペテロを探しに出かけました。
この教会でも、英会話教室やファミリーキャンプ、教会学校や諸集会、そしてこれから始まる「小さな泉の村」に自分の時間を割いて共に集まるみなさんの活動から癒しが生まれています。一方、誰もがきっとこの教会で自分自身が癒された経験を持つでしょう。神の癒しが世界のこの小さな場所で行なわれている証しをどうぞ他の方に伝え、教会へ誘ってあげてください。
              ローラ・フーシー宣教師

2016.5.8

 ハレルヤ!いつも私たち家族のためにお祈りとご支援をしていただき心から感謝いたします。福岡での学びも残り1年となりました。1日1日をさらに大切にして、神様に従順に仕え歩んでいきたいと思います。4月14日の夜に熊本県で大きな地震がおきた時は、主人が病院でのアルバイトがあり、自宅には私と子供たちしかいませんでした。地震で家が揺れはじめたと同じ時に、携帯電話地震速報のメールが届きました。福岡県でも震度3〜4ほどの地震があり、寮は4階ですのでかなり揺れました。そしてどんどん揺れが強くなっていきました。この時には、まさか熊本県がとてもひどい状況だということは知ることが出来ず、次の日の朝にテレビを見てとても驚き言葉になりませんでした。それから4月16日に更に大きな地震がおきました。この時の地震が本震だったため、14日の時より揺れがとても強くその後も何度も余震があり朝方まで眠ることができませんでした。これまでにない不安の中で福岡にも大きな地震がおきるかもしれないと考え、また祈りながらも恐れていた私に神さまは、今私が置かれている状況を教えてくださいました。私はただただ恐れていただけで、熊本県の方や大分県の方がどれほど辛い思いをされているかをしっかりと見ることができていなかったのです。その時に私が今できることは、被害にあわれている方々のために祈り続けることだと改めて思わされました。そして東日本大震災で被害にあわれた方々や、またたくさんの自然災害で被害にあわれた方々のことをいつも覚えお祈りをし、支援を継続して忘れることがないようにしていかなければいけないことも強く思いました。これからも私が出来ることをしていきたいと思います。   
                     M.Y 姉   

2016.5.1

 〜 病床の神の家族のために 〜
 
“主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです”(ヨハネ福音書11:3)        
“信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。”(ヤコブ5:15)
 先週は二人の兄弟がそれぞれ手術と感染症の治療のため入院されることになりました。早速神の家族に祈りを要請するメールを送り、電話をかけました。牧師の牧会活動において最も緊張する時、心を配る時こそ神の家族が病気にかかる時です。いかに素晴らしい信仰をもっていようと病気を前にして不安を覚えない人はいないでしょうし、死を恐れない人はいないはずです。一人の病気が及ぼす影響は多大なもので、まずはその人自身、それから家族、知人、そして教会共同体にも及ぶのです。ただし、聖書が教える病気にかかるということが、ただ単純に悪いこと、悲しいことではないこと、かえって神の栄光が現れる恵みとなることを心掛けましょう。
 イエス様は愛していた兄弟ラザロが重い病気にかかっていることを知らされながらも、すぐさま駆けつけることはなさいません。むしろ無視するかのように振る舞われます。マリアをはじめ周りの人々はイエス様の態度から冷たさを感じていたことでしょう。しかしそこには「復活信仰」の確かさを求められていたことが示されています。とりわけ聖書には神の家族に病人の救いのための「信仰に基づく祈りの力の素晴らしさ」を知らせようとされる御心が明らかにされています。2016年度の歩みを始めようとする神の家族の皆さん、「信仰に基づく共同体の祈り」が人を癒し、神の業を成し遂げる力であることを教えようとされる父なる神の計画に応える群れでありますように・・・。

2016.5.1

 『 小さな泉から命の川へ 』(エゼキエル47:1〜12)

 ある日わたしは夢を見ました。その夢は小泉町教会のバプテスマ槽から大量の水があふれ流れ、礼拝堂をいっぱいに満たし、その水が外へと溢れ出る夢でした。びっくりして目覚めたのですが、起きてからしばらく心の興奮をおさめ切れず、眠ることができませんでした。そして、その時示された聖書の箇所が本日のエゼキエル書の御言葉でした。
 さて、エゼキエルは神の使いに導かれて神殿に入る幻を見ました。神殿に入ったエゼキエルは、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、大量の水が神殿に流れていくのを見ることになります。これまで何度も何度も神殿の入り口に連れ戻されていたエゼキエルでしたが、気が付かなかったほどの湧水でした。そこで、エゼキエルは御使いの声に従って水が流れている神殿を歩きながら、その水の水位を測ることになります。最初は、水がくるぶしまで達し、その後、膝に達し、次は腰まで達していきます。そして、もはや渡ることのできない川となり、その後は泳がなければ渡ることのできないほどの深い川に変えられたことが記されています。それからその水は神殿から流れ出て、至る所を覆うことになります。その川の水が通ると、死んでいた土地に木々が生え、汚れていた水は綺麗な水に変えられていきました。“この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。”(9節)
ここでイエス様の言われる言葉を聞きましょう。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)またわたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:38)・・・わたしたちを癒し、生かし、命をもたらす水こそ、聖霊です。この世の誰でも聖霊に満たされる時、そこには大いなる変化を経験することになります。愛する神の家族の皆さん、わたしたちはイエス・キリストの十字架の愛に贖われ、神の子とされ、今は聖霊の宿られている神の神殿であることを覚えましょう。
わたしには夢があります。毎週の神の神殿である小泉町教会の礼拝から命の水が湧き出て、礼拝に集う一人一人が命の水を飲み、聖霊の恵みの川に浸されること、そこから神の家族の毎日が聖霊の命の川で自由に泳げる生活となりますように、そして神の家族から流れていく命の水が世界を変え、死んでいた人々を生かし、世界を福音の命で潤すことになりますように・・・。ハレルヤ