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富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

チャペルコンサート: 7月10日 (日)10:30- 12:00
教会の音楽スタッフによる声楽・バイオリン・ピアノ三重奏のコンサートです。コンサートのあとは茶菓をお楽しみください。駐車場があります。

英語礼拝と英会話教室を行っています。英語のホームページはこちらです。

  • English Worship Service
  • ●英語礼拝 第2日曜日

     フェローシップタイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から

    ●英会話教室  毎週水曜日 午後4時から

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    富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

     

    〒939-8082 富山県富山市堀川小泉町681

    電話 076-491-2273

    2016-05-10

    2016.5.8

    〜 息子との幸せな時 〜
     先月から毎日の楽しみが一つ増えました。それは息子とのディボーションの分かち合いです。一日を終え眠りにつこうとする息子との約10分間の御言葉の分かち合いは親子の対話にとどまらず、自分自身の霊性訓練にも大きな恵みとなります。まだ中学1年生ではありますが、父親との交わりを通して聖書の読み方の成長や御言葉を黙想することの楽しさに気づいてくれる姿を見ると自然に笑みがこぼれます。
    “どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。(詩編119:9)”        
     わたしたち小泉町教会の子どもたちが毎日御言葉に触れ、御言葉から知恵を得、神の御心を選んで歩むことができればいかに素晴らしいことでしょうか。わたしたちを取り囲む世界は、絶えず社会の風潮に合わせることを求めます。いつの間にかそれが優先順位となり、わたしたちも必死になって時代の流れや共通の価値観に合わせようとしているのが当たり前になっているのかもしれません。しかしここでもう一度立ち止まり“イエス様だったら?!”と尋ね確かめて見ることです。とりわけわたしたちの愛する子どもたちの将来のために、子どもたちが神の国と神の栄光のために用いられるビジョンのために・・・。息子と御言葉の分かち合いがいつまで続くか分かりませんが、できる限り長く続けたいと願うのは欲張りすぎでしょうか。   

    2016.5.8

     『世界の片隅で起こる主の癒し 』(使徒言行録9:36-43)

     本日の聖書箇所では、ヤッファの街で亡くなったタビタという婦人の弟子をペテロが訪ね、蘇らせる奇跡が記されています。この話では、服を作ってはやもめたちに与えていた忠実な奉仕者のタビタ、信仰をもって主のわざを引き継いだペテロ、そして神がタビタを助けてくださると堅く信じていたヤッファの教会共同体が出会い、そこに神の癒しの働きが起こります。
    聖書では「弟子」と呼ばれるタビタですが、その献身ぶりは街角の小さな教会の中でしか知られていなかったようです。他にも同じように自分が住んでいる小さな場所で我が身を捧げている人々はたくさんいます。ヤッファの教会の姿は私に、自分がこれまで関わってきた諸教会をいろいろな意味で思い出させます。それらは、広く名前が知られてはいませんが、それぞれが置かれた小さな場所でキリストに忠実であるべくひたすらつとめてきています。ごく普通の人々が普通のつとめを果たしている、普通の環境の中でも、みなが神のみわざに対して心を開いているなら、彼らは普通を超えた教会なのです。主の復活のできごとから2000年たった今も、わたしたちはその意味を忘れません。「キリストが今も生きて、世における主の業を続けておられる」という希望を常に抱いて生きる私たちは、「イースター・ピープル」、常にイースターを生きる人々であり教会です。
     タビタ、ペテロ、そしてヤッファの信徒たちが日々行っていたのは病院で患者さんに付き添う牧師さんのような役割で、今では「ミニストリー・オブ・プレゼンス」と呼ばれる奉仕です。「プレゼンス」は「そこにいる」こと、他人とともにいるために自分の時間を使うことです。タビタはやもめたちの中にいて、彼女たちの必要を満たしてあげていました。タビタ自身に癒しが必要になったときは教会の兄弟姉妹が彼女のためにペテロを探しに出かけました。
    この教会でも、英会話教室やファミリーキャンプ、教会学校や諸集会、そしてこれから始まる「小さな泉の村」に自分の時間を割いて共に集まるみなさんの活動から癒しが生まれています。一方、誰もがきっとこの教会で自分自身が癒された経験を持つでしょう。神の癒しが世界のこの小さな場所で行なわれている証しをどうぞ他の方に伝え、教会へ誘ってあげてください。
                  ローラ・フーシー宣教師

    2016.5.8

     ハレルヤ!いつも私たち家族のためにお祈りとご支援をしていただき心から感謝いたします。福岡での学びも残り1年となりました。1日1日をさらに大切にして、神様に従順に仕え歩んでいきたいと思います。4月14日の夜に熊本県で大きな地震がおきた時は、主人が病院でのアルバイトがあり、自宅には私と子供たちしかいませんでした。地震で家が揺れはじめたと同じ時に、携帯電話地震速報のメールが届きました。福岡県でも震度3〜4ほどの地震があり、寮は4階ですのでかなり揺れました。そしてどんどん揺れが強くなっていきました。この時には、まさか熊本県がとてもひどい状況だということは知ることが出来ず、次の日の朝にテレビを見てとても驚き言葉になりませんでした。それから4月16日に更に大きな地震がおきました。この時の地震が本震だったため、14日の時より揺れがとても強くその後も何度も余震があり朝方まで眠ることができませんでした。これまでにない不安の中で福岡にも大きな地震がおきるかもしれないと考え、また祈りながらも恐れていた私に神さまは、今私が置かれている状況を教えてくださいました。私はただただ恐れていただけで、熊本県の方や大分県の方がどれほど辛い思いをされているかをしっかりと見ることができていなかったのです。その時に私が今できることは、被害にあわれている方々のために祈り続けることだと改めて思わされました。そして東日本大震災で被害にあわれた方々や、またたくさんの自然災害で被害にあわれた方々のことをいつも覚えお祈りをし、支援を継続して忘れることがないようにしていかなければいけないことも強く思いました。これからも私が出来ることをしていきたいと思います。   
                         M.Y 姉   

    2016.5.1

     〜 病床の神の家族のために 〜
     
    “主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです”(ヨハネ福音書11:3)        
    “信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。”(ヤコブ5:15)
     先週は二人の兄弟がそれぞれ手術と感染症の治療のため入院されることになりました。早速神の家族に祈りを要請するメールを送り、電話をかけました。牧師の牧会活動において最も緊張する時、心を配る時こそ神の家族が病気にかかる時です。いかに素晴らしい信仰をもっていようと病気を前にして不安を覚えない人はいないでしょうし、死を恐れない人はいないはずです。一人の病気が及ぼす影響は多大なもので、まずはその人自身、それから家族、知人、そして教会共同体にも及ぶのです。ただし、聖書が教える病気にかかるということが、ただ単純に悪いこと、悲しいことではないこと、かえって神の栄光が現れる恵みとなることを心掛けましょう。
     イエス様は愛していた兄弟ラザロが重い病気にかかっていることを知らされながらも、すぐさま駆けつけることはなさいません。むしろ無視するかのように振る舞われます。マリアをはじめ周りの人々はイエス様の態度から冷たさを感じていたことでしょう。しかしそこには「復活信仰」の確かさを求められていたことが示されています。とりわけ聖書には神の家族に病人の救いのための「信仰に基づく祈りの力の素晴らしさ」を知らせようとされる御心が明らかにされています。2016年度の歩みを始めようとする神の家族の皆さん、「信仰に基づく共同体の祈り」が人を癒し、神の業を成し遂げる力であることを教えようとされる父なる神の計画に応える群れでありますように・・・。

    2016.5.1

     『 小さな泉から命の川へ 』(エゼキエル47:1〜12)

     ある日わたしは夢を見ました。その夢は小泉町教会のバプテスマ槽から大量の水があふれ流れ、礼拝堂をいっぱいに満たし、その水が外へと溢れ出る夢でした。びっくりして目覚めたのですが、起きてからしばらく心の興奮をおさめ切れず、眠ることができませんでした。そして、その時示された聖書の箇所が本日のエゼキエル書の御言葉でした。
     さて、エゼキエルは神の使いに導かれて神殿に入る幻を見ました。神殿に入ったエゼキエルは、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、大量の水が神殿に流れていくのを見ることになります。これまで何度も何度も神殿の入り口に連れ戻されていたエゼキエルでしたが、気が付かなかったほどの湧水でした。そこで、エゼキエルは御使いの声に従って水が流れている神殿を歩きながら、その水の水位を測ることになります。最初は、水がくるぶしまで達し、その後、膝に達し、次は腰まで達していきます。そして、もはや渡ることのできない川となり、その後は泳がなければ渡ることのできないほどの深い川に変えられたことが記されています。それからその水は神殿から流れ出て、至る所を覆うことになります。その川の水が通ると、死んでいた土地に木々が生え、汚れていた水は綺麗な水に変えられていきました。“この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。”(9節)
    ここでイエス様の言われる言葉を聞きましょう。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)またわたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:38)・・・わたしたちを癒し、生かし、命をもたらす水こそ、聖霊です。この世の誰でも聖霊に満たされる時、そこには大いなる変化を経験することになります。愛する神の家族の皆さん、わたしたちはイエス・キリストの十字架の愛に贖われ、神の子とされ、今は聖霊の宿られている神の神殿であることを覚えましょう。
    わたしには夢があります。毎週の神の神殿である小泉町教会の礼拝から命の水が湧き出て、礼拝に集う一人一人が命の水を飲み、聖霊の恵みの川に浸されること、そこから神の家族の毎日が聖霊の命の川で自由に泳げる生活となりますように、そして神の家族から流れていく命の水が世界を変え、死んでいた人々を生かし、世界を福音の命で潤すことになりますように・・・。ハレルヤ

    2016-04-26

    2016.4.24

    〜 パンを水に浮かべて流す 〜
    “あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。”(コヘレト11:1)
     旧約聖書のコヘレトの言葉です。ここで「パン」とはわたしたちが手にしている持ち物、賜物、働きのことを指しています。すなわち、人が所有していたものを、握り込まないで手を開き、貧しき者、社会弱者、災難に遭った人たちのために放してあげることです。今の世界がここまで弱肉強食と言った競争社会、差別社会になっている理由こそ、“自分のもの”と握り込んでいるからです。主イエスはわたしたちに“あなたの手に握っているものを放してやりなさい。わたしがそうであったように!”と語りかけておられます。人が握っていた物を水に浮かべて流すことで、神はわたしたちの捧げたものを無駄になさらず、やがてブーメランのように、恵みを賜ってくださるはずです。このことは主イエスも言われた言葉です。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)・・・。
     世界各地で地震や火山噴火などの自然災害に遭い苦しんでいます。熊本地域における今回の地震は今まで経験してきた地震とはだいぶ変わった姿を見せています。これから収束していくだろうか、逆に広がっていくか不安の中で見守っていかなければなりません。今の時、わたしたちに求められることは、持っているパンを恵みの水に浮かべて流すことです。価なく受けた主イエスの十字架の愛に倣い、価なく恵みの水に流すことです。そうすれば、神は人知を超えた祝福をくださることでしょう。今、あなたの手に握られているものを水に流すことはできますか。

    2016.4.24

    『 星と輝く人々 』(ダニエル12:3、マタイ福音書5:14〜16)

     あなたが憧れているスターはいますか。そのスターは誰でしょうか。芸能人かもしれませんし、政治家、スポーツ選手かもしれません。それから、人は憧れのスターの真似をしたり、自分もスターになろうと夢見たりしているのかもしれません。神の家族はいかがでしょうか。
    ダニエルのことを思います。幼い頃、愛する祖国を離れ、敵国のバビロンに捕虜として連れられて来て、バビロン王に仕える。しかしダニエルは、神の民としてのアイデンティティー、神の民としてのプライドを忘れることはありませんでした。そして、神はダニエルバビロンだけでなく、その後のペルシアにおいても、素晴らしく輝く星として用いてくださいます。異国の地、異国の神々の世界において神の民として生きるということは、大変なことだったでしょう。しかもその異国の地で、人々が憧れる「スターになる」ということは奇跡のようなことだったのかもしれません。
    “目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。”
     この世における「星と輝く」人とは、優秀な人、能力のある人、権力のある人などを指しましょう。しかし、聖書宣言する星と輝く人は、「目覚めた人、多くの者の救いとなった人」です。ここで「目覚めた人」とは、思慮深い人、注意深く分別のある賢明な人を指します。すなわち神の霊を受け、時代を見極める知恵を得ている人が、星のように輝くことになるのです。それだけでなく、神が求められる星と輝く人は、暗闇の中にいる多くの人を、神の救いの方へと導く人であると教えます。
     愛する神の家族の皆さん、今わたしたちの生きている世界は暗闇です。自然災害、戦争、不義と不法といった闇に覆われている状況です。しかし、星は、暗闇の中にあってもっと輝きますし、星は自分の置かれた場所を離れず、暗闇の現実に悩む多くの人を導くのです。このような人を、神は「神の国におけるスターである」と言われるのです。
     本日は2016年度定期総会の日です。主イエスは小泉町教会の群れに向け、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)と御声をかけてくださいます。神の家族お一人お一人の歩みが、時代をしっかり見極める知恵をもち、多くの者の救いとなる星(スター)と輝く一年でありますように・・・。

    2016.4.24

    〜「小さな泉の村」出発信仰!〜   
    わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25・40)

     先月の24日、路上生活者支援の活動を7年間続けてきたグループ『あったか相談村』の最後の活動がサンフォルテで行われました。平日にも関わらず、会場には利用者のおじさんたちを始め、ボランティアさん、弁護士さん、富山ダルクの会、介護施設、司法書士会青年会の方々、など、支援に関わった人々が集合し、「あったか村」の最後を祝福するように、協力して楽しそうに料理する姿が見られました。 
     富山小泉町教会からも、見学を兼ねて7名の兄弟姉妹が参加しました。お忙しい中、参加して下さった兄弟姉妹の想いに、こころが暖かくなりました。できあがった料理をみんなで囲みつつ「あったか相談村」は、7年間の幕を閉じました。
     しかし、一度閉じたその活動が、すばらしい神様のタイミングと導きで、2016年5月14日(土)から富山小泉町教会のバックアップにより、「小さな泉の村」として再生することになりました。
     「あったか相談村」の代表Nさんの最後のあいさつで、「村」が再生して続くことを聞き、「よかったね〜」と喜ばれたボランティアさんのほっとしたような笑顔や、心から嬉しそうに笑ったおじさんの笑顔が、目に焼き付いています。
     冒頭に記したみ言葉を心に刻み、「小さな泉の村」が「主の愛」にあふれた場所として、そこに集う「小さな人々」のいやしと喜びになるよう、切に祈っています。
                     S.Y姉

    2016.4.17

    〜 御言葉が変える〜
    “世にもとうとく清きふみあり 古く汚れてはあれど 子は亡き母の愛したまいし 神の言葉聖書なり〜♪♪”
     わたしが幼い時、母とよく歌っていた讃美歌の一部です。英語の曲名は「My mother’s bible」。わたしが覚える母も上記の賛美歌のように、聖書が好きで、手から聖書を離したことがない敬虔なクリスチャンでした。その中でも、いつからでしょうか。母は聖書全巻を筆写してから、今はもう筆写したノートを3巻ももっています。母の人生は御言葉を愛し、御言葉によって変えられ、御言葉に生かされ祝福されてきた人生であったと言えましょう。恐らく母は今日も聖書を手にしながら、富山にいる息子のために祈りをささげていることでしょう。
     最近の小泉町教会の群れにおいて何よりも嬉しい変化が起きています。「リビングライフ」を通して一人一人の生活が御言葉によって力づけられていること、また聖書の学び、水曜祈祷会、ディボーションタイム、夕礼拝などを通して御言葉による命と感動に包まれているということ、それが教会の群れ全体に良い影響を与えているということです。諸集会の参加者もだんだんと増えてきています。しかしただの人数だけの増加に限らず、一人一人の全人格と生活が変えられていることが喜びです。人の力や知恵でなく、ただ御言葉による変化と恵みなのです。・・・ 
     そうです。御言葉にはすべてを変える力があります。御言葉に渇きを覚え、真心から御言葉に触れる人は誰でも変わらずにはいられないはずです。“天地は滅び失せても神の言葉は決して落ちることはない”という御言葉を信じつつ、共に御言葉の岩の上に立ち新年度の歩みに励んで参りましょう。シャローム!

    2016.4.17

    『あなたはわたしのもの』(イザヤ43:1〜7)                    
    “彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。”(43:7)
     神は、わたしたち神の民を創造された時の御心を、「創造し」「形づくり」「完成した」という言葉で表現されています。ここに書かれている「創造し、造られ、完成する」は、ほぼ同じ意味で使われる言葉です。しかしヘブライ語原文を見ると、その意味が、だんだんと発展の過程を辿っていることが分かります。まず、神が「ご計画の中で人を創造され」、「形づくられ」、最後に「完成される」という、それほど神は格別な御心の中であなたとわたしを創造されたわけです。
     神の創造とは、無から有への創造であります。そして神の創造におけるクライマックスとなるのが、人間の創造であったことを聖書は教えます。神の似姿で、神の品性をもって造られた人間の創造こそ、神の創造の御業におけるクライマックスであったのです。人は創造者なる神と交われる存在、神の御心を知り、神と共に世界を作り上げていく格別な存在として創造されました。聖書は人間を造られた後、そのすべての創造されたものをご覧になって「極めて良かった!」と歓声を上げる神を紹介しています。
     神はこのように創造された傑作品となった人をご覧になりながら、次のような感想を述べられています。“わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している”(43:4)と。だから神は人に向かって“恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。”(43:1)と宣言しておられるのです。ここで注目したい言葉が「あなたはわたしのもの」です。この言葉は神を信じる人にいかに素晴らしい安心感と確信を与えてくれるでしょうか。あなたがどのような状況に置かれていても、どれほど破れに満ちていても、罪と悪に汚れ、いろんなことに失敗してしまい落ち込んでしまったとしても、あなたの神はあなたを見放したり、見捨てたりすることは決してないという保証の言葉なのです。だからあなたは恐れることはないのです。自分自身に自信が持てず、小さくなってしまうこともないのです。神は今日もあなたの名前を呼び、親しく交わってくださいます。ハレルヤ

    2016.4.17

    富山で仕事を与えられ〜
     僕は2016年度から富山YMCAの舟橋村にある学童保育で働くことになりました。それまで、大学を卒業した後いろんな場所で働いてきました。こうしていろんな場所をふらふらしながら生きていくと、「一つの場所にとどまって働いたほうがいいよ」と言われることがたまにあります。もともと安定志向の薄い僕の性格もありますが、神様が様々な場所へ導いてくれたのではないのかな、っと思うことがあります。大学を卒業した直後、指の骨を折り働く予定だった山小屋に行くことができなくなり、卒業していきなり仕事がなくなったこともありました。当時は落ち込み、不安になることもありましたが、仕事が始まるほんの数日前というあまりのタイミングの悪さに逆に神様が「山小屋に行くのはやめてけ」と言っているのかなと、思うようになりました。オーストラリアから富山に帰って来る時も、友人の結婚式や飼っていて犬の寿命のことなどが重なり予定よりも早くに帰国することになりました。YMCAで働かないかと誘われたのもこの直後になります。オーストラリアにいるときからきちんと子ども相手の仕事がしたいと思っていたので、これも神様の導きだと思っています。前にやっていた仕事が終わり、次の仕事を探している時は不安で惨めになることがありました。しかし聖書にも、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、みなそなえて与えられるであろう。あすのことで思いわずらうな。あすの苦労はあす自身が思いわずらうであろう。」とあるので、この先何かあっても、神様がそなえてくださあるように祈っていきたいと思います。神様が与えてくださった富山の地での仕事を一日一日頑張っていきたいです。
    S.H 兄

    2016.4.10

    〜 光に包まれて旅立つ 〜
     先週は息子の中学校入学式がありました。親であれば誰もが経験することではあると思いますが、心から込み上げてくる感動と神様への感謝に満ちた一日でした。しかし、まったく新しい旅だからでしょうか、緊張と不安で固くなっている息子に安心感と期待を与えようといろいろと励ましの言葉をかけたりしましたが、本人が感じることは格別なものだったでしょう。同じように、新年度を迎え、入園、入学、進学、就職、引っ越しなど、新たな旅に出かける神の家族が多くいます。子どもたちの進むべき道を備え助けてくださる父なる神が、一人一人の歩みを祝福し、最善を賜りますように・・・。
     さて、小泉町教会も新たな体制とビジョンをもって旅を始めました。本日の礼拝では、新たな旅のために先頭に立って仕える新執事とCS教師の就任式を執り行います。キリストの体なる教会における奉仕者はみな仕えるものになるべきです。執事は「給仕する者」という意味をもっているように、喜びと謙遜さをもって仕える存在ですし、教師は「主であり、先生である」イエス・キリストが弟子たちの足を洗われる模範を示してくださったように、キリストの御心を示すべき働き人です。
     また神の家族は選ばれた人たちのために祈り合い、励まし合い、助け合い、愛し合うことが求められていることでしょう。その上、何より大切なことは神の家族お一人お一人のもっている賜物を健康なキリストの体作りのために用いることにあります。キリストの体は一部の働き人の頑張りや能力だけでは成り立たないことを知っています。
     愛なる神が希望の光に包まれて旅立つ小さな群れを祝し、進むべき道を照らし導いてくださいますように・・・。

    2016.4.10

    『漁に出る 』(ヨハネ21:1-14)                      
     私たちは、ときどきは今やっていることから完全に離れて、心を休める必要を感じます。今日読むヨハネ福音書の箇所で、イエス様の弟子たちもそんな気持ちだったのではないでしょうか。本日の出来事までの何週間かは彼らにとって波乱の日々だったからです。イエス様の十字架上の死と復活を経験した彼らにとっては喜怒哀楽がジェットコースターのように上がったり下がったりの日々でした。ある夜、ペテロと他の何人かの弟子たちは、ガリラヤ湖へ漕ぎ出ました。勝手のわかる昔からの仕事になぐさめと落ち着きを求めたのでしょう。しかし夜が明けて日が昇る時、彼らは予想もしないできごとに遭遇しました。イエス様がもう一度現れ、彼らが本当に求めていた慰め、満足、確信を与えてくださったのです。「自分たちはいったい何者なんだ」と心に疑問を抱いていた弟子たちは、岸から声をかけてきた人をイエス様と知って、岸辺でともに朝食をとることで、その答えを思い出したのです。そう、イエス様の弟子、人間を獲る漁師です。この朝食で、彼らは再び弟子として、出て行って神の国のために人々をイエス様の弟子とする命を受けました。
     私たちもいろいろなことに圧倒される日々を過ごしています。課題に直面する毎日。今自分を取り巻く暗闇から逃げ出したいとひとりで飛び出して、道を見失い希望も失って、「私は一体何なの?」という疑問にとらわれてしまうのです。そんなとき思い出してみましょう。イエス様が自分の過ごす日々のどこにおられるでしょうか、あるいはイエス様に初めて出会ったのは人生のどんな局面だったでしょうか。それを思い出せば、「私は何なのか」という疑問にも、「私たちは神の子供たち、イエス・キリストの弟子」という答えを思い出すでしょう。弟子である私たちにイエス様はどうやって祈るかを教えてくださり、隣人を愛するようにと、飢えた人に食べさせ渇いた人に飲ませ、やもめとみなしごを支え、主の名によって世界中の人を弟子にするようにと教えてくださいました。私たちはイエス様のものなのです。
    新年度の新しい日が始まります。イエス様は待っておられます。岸に戻って、イエス様と合流し、ともに漁に出かけましょう。
                     カーソン・フーシー宣教師

    2016.4.10

    〜入会の証し〜   
    わたし中国吉林省生まれです。朝鮮民族に属しています。
    二十代前半に友人の紹介で始めて聖書を見せてもらい、教会で礼拝とお祈りをし、インターネットでも説教を聞いて、信仰が芽生え、26歳の頃、京都純福音教会でイエス様を救い主と告白してバプテスマを受けました。
    その後、今の夫と結婚し富山での生活が始まりました。智成を妊娠すると、赤ちゃんにあげるべき一番大切なものはこの世の中のどんな物より、神様をプレゼントすることだと確信するようになりました。そのため、まず自分自身から神様を正しく知る必要があると思い、聖書を読みはじめました。理解出来ない部分も沢山ありましたが、御言葉を読むことで心が平安になり、感動のあまり涙が出たこともあります。自分が正しいと思っていた事が実は愚かな事だと悟るようになりました。良い事をし、正しく生きようとしても、心の中をすべて知っておられる神様の前では罪人に過ぎない自分に気づかされたのです。
    罪のないイエス様が十字架の上で私の罪を贖ってくださったこと、私を救い神様の子供とする為に神様がイエス様を復活させてくださったことを感謝します。神様の霊である聖霊様を贈り、導いてくださる神様を賛美し愛します。何より、小泉町教会へ導いてくださったことを感謝します。物足りない私ですが、皆さんと一緒にイエス様の体なる教会を愛し、再臨のイエス様に合う日まで力を合わせて歩んでいきたいと思います。
    A.S 姉

    2016-04-07

    2016.4.3

     『 光の子として歩む 』(エフェソ5:8〜10、イザヤ60:1〜2)                     
     わたしは画家のレンブラントの描いた絵が大好きです。レンブラントは「光の画家」、「光の魔術師」と呼ばれているほど、彼の絵には、人生の闇と人生における疲れと悲しみがそのまま現れています。レンブラントは人間の存在の根底にある闇と不安、痛みを隠そうとしません。だから、彼の絵は暗いです。しかし、彼の絵が絶望的ではないのは、真っ暗な闇を照らす一筋の光があるからです。わたしはその光に感動し、上からの慰めを得るわけです。
     キリスト者は、光に出会った人です。その光こそ、神からの光で、イエス・キリストの死と復活を通して照らされている光です。聖書はその光を受け入れた人のことを「光の子」と呼んでいます。そして光に出会った人々は、多くの場合、深い暗闇の前で絶望した経験をもつ人々であったことが分かります。深い暗闇を経験したからこそ、光の素晴らしさ、その感動と恵みを生きることができるからです。わたしもその内に一人であったことを告白できます。あなたはいかがでしょうか。
     本日与えられている聖書箇所は、まさにそのような経験をした人に贈る御言葉です。“あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。”(エフェソ5:8)

     今わたしたちが生きている世界は、御言葉にあるように、暗闇がますます力を増しているような世界です。どこを見ても出口の見えない、生きる希望さえ失ってしまうような暗闇に覆われている状況です。ここで求められる働きこそ、「光の子」であるキリスト者が立ち上がることです。“光の子として歩む”とはどういう意味でしょうか。それは、この暗闇の世の空しいことに心を奪われることなく惑わされないで生きるということです。そのため光の子は“主が喜ばれることを吟味して行なう”(エフェソ5:10)ことを求められています。すなわち、自分自身の思いや自分自身の喜びのためではなく、神の御心を成し遂げるために、自分自身を喜んで差し上げることです。
     2016年度、「世の光となる一人のキリスト者、世の光となる教会共同体」というビジョンを抱いて進みたいですね。光の子として、暗闇の中を歩む周りの人々を心から憐れみ、もっている光を隠すことなく、口をもって、また愛の行いをもって輝かすことです。わたしたちの照らす光に暗闇から救われる人が起こされますように・・・。ハレルヤ

    2016.4.3

    〜 みんなで花園作ろう 〜
     ♪みんなで花園つくろう 花を咲かそう。世界の人に御神の 愛の花咲かせましょう。
    ♪福音の種を蒔こう 花を咲かそう。真心こめて十字架のみことばを 伝えましょう!!!

     ハレルヤ!2016年度が始まりました。この一年、52週ある主日礼拝と小さな群れのすべての歩みが、すべてを新しくされる神の御手に委ねられ、新しくなることを期待したいと思います。
     先週から牧師館の前の花壇を整備しています。「小泉町教会の第一印象」を与える場所であるのに、あまりその役割を果たしていないと思ったからです。毎年春が来て花が咲けば、それなりに美しくは見えますが、花が散ってしまうとジャングル化してしまう現実です。神の家族と相談し、いろいろと悩んだ末、まったく新しい花を植え、花壇を一新することに至りました。しかし、そんな中で一番悩まされているのが、以前植えてあった花の根っこがあまりにも頑固で、また深く広がっているということです。新しい花を植えたり、種を蒔いたりしてもその頑固な根っこのせいでなかなか芽を出したり、根付いたりすることは期待できない状況です。
     最初に「みんなで花園つくろう」というゴスペルの歌詞を書きましたが、まさに今年度わたしたちは力を合わせ、新しく美しい花園をつくり、神と周りの方々に喜んでもらいたいと思います。そのため花壇の根っこを綺麗に取り除き、新しい土を補充し、肥料をやり、新しい花を植え育てるという過程が残っています。ぜひ力を合わせましょう。そして、目に見える花壇だけでなく、聖霊様に神の家族お一人お一人の内側の花壇にある古くて頑固な根っこを取り除いていただき、喜びと恵みの新しい花を咲かせ、良き香りを漂わせる一年となりますように・・・。シャローム!

    2016.4.3

     最近、読書に集中できなくて、すぐに眠くなるようになっていました。年かなと思っていたのですが、もしかして、老眼かも?と気づき、老眼鏡をあつらえました。そうすると、再び読書に集中できるようになったのです。 
     信仰の世界でも、同じようなことがあると思います。イエス様というレンズを通さないと、はっきりと見えないのに、自分の目だけに頼ってしまいがちです。そのために、どれほど、失敗をしてきたことか。・・・過去に戻って、やり直せたらと思うことがたくさんあります。特に子育てにおいて・・
     でも、イエス様のレンズを通して教えられることは、過去を悔やむのではなく、今を感謝して喜んで生きることです。もっと早く老眼鏡を買っていれば、もっとたくさんの本を読めていたはずですが、それを悔やむ暇があったら、老眼鏡の助けを借りて、今、一生懸命読書をしたほうが良いに決まっています。
     同じように、和解と回復をもたらしてくださる神様を信じて、イエス様に祈り、イエス様からの知恵をいただいて、今、できることを精一杯やりたいなあと思うのです。そうしていると、子どもたちが生きて存在してくれていることが、どれほどありがたいことかと、しみじみと思うのです。
                  K.K 姉

    2016-04-02

    2016.3.27

     わたし万物を新しくする』(ヨハネの黙示録 21:1〜8)
     イースターおめでとうございます。わたしとあなたの罪のために十字架の上で身代わりとして死んでくださり、三日目の日曜日の朝に、墓の中から復活なさったイエス・キリストを心から賛美いたしましょう。またこのイースターの朝、ヨハネ黙示録に記された復活の祝福に与っている神の民に約束されている天の御国の姿を通して父なる神の確かな希望と慰めの御言葉を分かち合いたいと願います。
     ヨハネは新しい天と新しい地をみています。最初の天と地はすべて去っていきます。神は、初めに世界と人間を創造された時、“極めて良かった”とされました。しかし、造られた世界は人間の罪と欲望によって破壊され、呻いていると聖書は教えています。しかし創造者なる神はやがて「見よ、わたし万物を新しくする」(21:5)と言われます。そして 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(21:3-4)と約束しておられます。
     「新しい天と地」とは、本質的にまったく新しくなった世界のことを言います。また「新しい天と地」とは、「神が人と共に住まわれる」というところです。そして「神が人と共に住まわれる」とは、主なる神が、わたしたちが味わうべきあらゆる悲しみ、嘆きと労苦といったものをすべてご存じであるという約束であり、やがて人間の味わう究極の苦しみである死、神の民の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるという意味であるとヨハネは歌っているのです。これこそ復活信仰をもち、復活信仰に生きている人が抱くべき天の御国への確信なのです。
     本日の礼拝の中では、先に召天された神の家族を偲びます。しかしそのことはヨハネの言葉によれば、信仰の確信からなる希望であり、祝福であることが分かります。あなたはこの確信、この希望と祝福に与っていますか。死を打ち破り復活なさったこの日、復活信仰を確かめ、天の御国の来られるのを待ち望みつつ歩み続けましょう。
    「事は成就した。わたしアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」(21:6)

    2016.3.27

      〜 復活の主と共に歩む小さな働き人として 〜
     「幸いな人、幸いな教会」という標語のもと、2015年度の歩みを続けてきました。神の家族にとっての一年間はいかがだったでしょうか。神と人から“幸いな人よ“と呼ばれるような歩みでしたか。またわたしたちの教会共同体の一年も“幸いな教会よ!”と呼ばれるにふさわしい姿だったのでしょうか。もちろん胸を張って言えればいいのですが・・・。
     さて、次週からわたしたちは新しい一年間の歩みを始めます。主なる神がどのような道を備え、どのように導かれるか楽しみです。早速先週の木曜日、「小さな泉の村」という新しい働きがスタートしました。日本社会において弱い者とされている方々への月一回の小さな奉仕です。“はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。”(マタイ25:40)という主イエスの御言葉に少しでも近づくことを喜びとする教会共同体でありたいものです。
     これからの神の家族お一人お一人が復活の主と共に歩む小さな働き人として、小さな泉から湧き出る命の水を小さな者たちに分け与えることができ、信仰と行いが一つとなる健康なキリストの体なる教会を造り上げることができますように・・・。シャローム!

    2016.3.27

    名古屋から〜
     とこしえからとこしえまで統べ治められる主の御名を賛美いたします。小泉町キリスト教会の愛兄姉皆様、ご無沙汰しております。小泉町教会から多くの恵みを頂きながら、もう6年、顔も出さずにご無礼しております。何度か伺いたいとは思いつつ、月日は経ってしまいました。週報の小さな泉の恵みからもたくさんの恵みを頂いています。この場をお借りしまして感謝申し上げます。近況ですが、官庁街における祈り会を月に1度行っています。組織の異なるクリスチャン公務員が神様の導きにより4人集まりました。個人的な事から、職場の事、政治の事等、様々な事を分かち合い祈っています。特に福音伝道について個人的には勇気をもらっています。限られた地上の歩みにおいて何ができるのか、主のみこころを求める日々です。妻、のあ、けいじゅと共に、皆様とお会いできる日を楽しみにしています。主の御手にあるすべてを感謝しつつ。
                    E.N兄

    2016.3.20

    『十字架は愛です』(ヨハネの手紙一 3:16〜18)
     今日から受難週に入ります。イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに入城されてから十字架にかかり死ぬという出来事のあった一週間を受難週と言います。
     キリスト者はキリストの人です。キリストを知っているというのはキリストの十字架を知っていると言う言葉と同じです。一人のキリスト者が神の愛をどれほど深く体験したのかは十字架をどれほど深く経験したのかに対する答えと同じです。
     あなたは十字架のイエス様に出会いましたか。わたしたちは神様についての様々な体験をもっています。しかし、わたしたちがいくら神様の存在と神様の働きに関する体験をもっていようとも、イエス・キリストの十字架の愛の体験がなければ、本当の神様との交わりに入ったとは言えないでしょう。なぜならば神はイエス・キリストを通してご自身を現されましたし、十字架の死を通して神の愛を示してくださったからです。ですから、十字架を通して成し遂げられたイエス・キリストの御業に触れることでわたしたちは神様がどのようなお方であるかをはっきりと知ることになるのです。つまり十字架を除いてわたしたちは決して神を知ることはできないのです。
     本日、与えられた聖書の御言葉、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(3:16)・・・神の愛を知るとは命を捨てた十字架の愛を知ることです。
     愛する皆さん、今のわたしたちを囲む世界は計り知れない痛みと深い傷跡で苦しんでいる人々で満ちています。また、わたしたちの内なる世界においても同じく誰にも言えない痛みと傷が存在します。しかしこれらのすべての痛みと傷は、神の独り子イエス・キリストが十字架の愛で受け取ってくださいます。罪のないイエス様が罪人のわたしたちの身代わりとして十字架の痛みと傷を帯びられるゆえに、わたしたちの救い主、命の主となられるのです。ですから、目を上げて十字架にかけられたイエス・キリストを見つめましょう。その十字架の愛にすがりつつ、神の愛に生きるあなたとわたしでありますように・・・。ハレルヤ

    2016.3.20

    〜 神の家族への招き 〜
     本日の礼拝の中で秋田春愛姉の入会式を行ないます。秋田姉は中国の朝鮮族出身で、富山出身の日本人と結婚して今は高岡に住んでいます。共産主義国家の中国出身のクリスチャンとして今まで幾つかの日本人教会で信仰生活をしてきましたが、今まで正式に教会籍をもつことは今回が初めてだそうです。そのため初めての教会員となることへの戸惑いもあるでしょうし、負担に思うこともあることでしょう。しかし、わたしたちみんなはイエス・キリストにより救われ、父なる神様の子ども、聖書の教える神の国の民です。ヨハネ黙示録7:9“あらゆる国民、人種、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった救われた民”であることを互いに確認し心に刻むことでしょう。わたしたちの群れはどこの教会よりも聖書が教える神の国にふさわしいかも知れません。日本人教会ではありますが、インドネシア人、マレーシア人、台湾人、韓国人、中国人、アメリカ人と、世界中から集まった民が共に集い礼拝し、交わり、執り成し合っている、実に恵みとしかいいようがありません。
     本日は受難週礼拝、イエス様の十字架の道の最後の一週間の歩みを辿りつつ、命を捨てられた愛に心打たれ礼拝するひと時です。十字架のメッセージは愛であって、和解であります。切れていた神との関係における和解と隣人との和解が完成したことへのメッセージがイエス・キリストの十字架によって語られているのです。“神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。”(汽茱魯4:11)・・・イエス・キリストの十字架の前に家族になれない人は一人もいません。十字架はわたしたちの間に立ちはだかっていたすべての壁を打ち壊し、すべての人を神の家族へと招く愛のしるしだからです。シャローム!

    2016.3.20

    胃カメラと十字架〜
     ふと気がつけば白い梅の花が垣根越しに春の訪れを伝えてくれるそんな季節になりました。春は私の一番好きな季節ですが、ただこの一点において憂鬱な季節でもあります。毎年春に胃カメラを飲むことになっているからです。私の母は40代で胃癌を患い、父も胃潰瘍で手術を受けています。私も5年前に胃潰瘍になったのでお医者さんの勧めで定期的に検診を受けることにしているのです。最近では技術の進歩で極細のカメラを鼻から挿入するタイプも開発され、昔に比べだいぶ楽になったと言われますが、あいにく私は鼻腔が狭く、口からしか胃カメラを飲む事ができません。食道はものを飲み込む様に作られているので、この逆の行為を受け入れることはとても苦しくて辛い事です。診察中にカメラのホースが動くたび、吐くことの出来ない吐き気に見舞われ、よだれや涙を流し続けます。まさに拷問、この世の終わりかと思う程です。そんな試練の時、イエス様の十字架を思いおこします。『イエス様は両手両足を3本の釘で打ちつけられ、肉が裂け、血をながされた。それはどれほどの苦しみであったのか。それに比べれば私の苦しみなんてちっぽけなものだ。』その苦しみを思い浮かべながら委ねます。すると自然に体の力が抜け、苦しみが和らぎます。イエス様はご自身の為ではなく、私達に対する大きな愛を示す為に十字架にかかり極限の苦しみをお受けになりました。その満ち溢れる愛がこの世界の一人でも多くの方々が知ることができますように祈ります。 
                       K.K姉     

    2016-03-17

    2016.3.13

     〜 ゲッセマネの祈りから十字架へ進む 〜
     先週金曜日の3月11日、教会では5周忌を迎える東日本大震災を覚える祈りの時を過ごしました。 一日を通じて震災の被害に遭われた方々、今もなお悲しみの涙を流している方々のために心を合わせました。とりわけ今は受難節、イエス・キリストの受難を黙想し、十字架に至るまでの歩みを辿っている時でもあるため、災害に遭われた方々への執り成しは一層切なかったことでしょう。
     主イエスの十字架を通してあなたとわたしの罪と汚れ、弱さと痛み、絶望など人類が背負うべきすべての苦しみが解決され、救いの道が開かれるようになりました。神の独り子の十字架が背負えない問題はなく、十字架によって解決されない苦しみはありません。・・・しかし、その十字架の恵みは「祈り」がなかったら、すなわち「ゲッセマネの血の汗を流す必死の祈り」がなかったら十字架の恵みをいただくことはできなかったはずです。 神の独り子でさえ、御心に従う道を選ぶ決断を下すためには、祈りを通して神の御心を確かめなければならなかったのです。それほどゲッセマネの祈りは十字架を背負うためになくてはならない現場だったのです。
     2015年度の歩みを終え、新しい年度を迎えようとする小泉町教会の群れに求められることこそ、主イエスのゲッセマネの祈りに倣うことであると信じます。近頃の水曜祈祷会のメンバーが10名を超えようとしていることは大きな恵みです。わたしたちがいかに素晴らしい計画と夢を描いていても、ゲッセマネの祈りがなければ決して前に進むことはできないはずです。新しい年度を始めるに当たって、“わたしたちの願いどおりではなく、御心のままに。”という祈りの姿勢をもって進み出、導きを希うことでしょう。シャローム!

    2016.3.13

    『自分の道を進まなければ』(ルカによる福音書4:35〜41)
     これから、イエス様は覚悟をもってエルサレムへ行かれます。過越の祭を祝うエルサレムの町に群衆の賛美を持って迎えられ、そのあと十字架にかかられるのです。本日の聖書箇所はその流れの中で起きたひとつのできごとです。イエス様はどう答えられるのか、今イースターの日曜日に向けて心の備えと黙想をするわたしたちがともに読んでいくことになります。キリストの弟子であるわたしたちがどう生きるかを見つめて、自分がどのように変われるか、どこを悔い改めることができるかを見出したいものです。
     イエス様はガリラヤ中の村々を回って、人を癒し教えを広めておられました。そこにパリサイ人が現れ、「領主ヘロデ・アンティパスがあなたを殺そうとしていますから、ここを立ち去ってください」と言います。イエス様はどう反応されるでしょうか。わたしたちの誰もが、いろいろな意味で、類似の状況に立ったことがあるはずです。命を狙われているとまでは言われなくとも、良くないことが起こる、問題が起こる、失敗する、と警告されることはよくあるものです。そのとき自分が、抱いた考えを全く変えてしまったり、受けた言葉を気にして物事が手につかなくなってしまうようなことも、多いのではないでしょうか。しかし、イエス様はつねに天の父のみこころに近くおられましたから、警告の言葉をふるい分けることができ、時間と力を使うべきでないものはハッキリと心得ておられました。そこで、世人の予想とは別の応じ方をされました。それは、ただこれまでのように自分の道を進み続けること。
     神はわたしたちひとりひとりを、またこの教会をも召し出されました。賜物も集められた経緯もいろいろのわたしたちが教会においてひとつになり、この富山で神のみこころのためにともに働くようにされたのです。わたしたちが担うべき神の御業の一部が何なのかを見出すのは、チャレンジでもあり特権でもあります。このレントの時期、わたしたちの頭や心の中でぐるぐる回っている声をじっと聞き分け、神に知恵を求めながら「聞くべきもの」と「やり過ごすもの」、「神からのもの」と「他からのもの」を区別できますように。イースターは新たにされるとき、贖いの時ですから、そこに向かって歩むわたしたちが、主のみことば「私は自分の道を進まなければならない」を確信をもって自分に適用できますように。  
                       ローラ・フーシー宣教師

    2016.3.13

    〜マインドマップ〜
     受難週で、東日本大震災から5年目をむかえた大切な週に、私のような者がこの原稿をお受けし、深く反省しています。
     ところで私には、この10年来気になっている記述法があります。それは、普通の記述法をノート法というのに対し、マインドマップというものです。ひょんなことで、目にして以来、描いてみたいと感じたものの、教えていただける人や機会にはまったく恵まれず、あきらめていました。ところが、教会で使っている帳面がちょうど年末に最後のページとなり、新年に新しいものの1ページ目を開いた時、この記述法のことを思い出しました。
     もともと、要所をおさえて人に物事を話したり、聞き取ったりすることが苦手で、図や絵で物事を考えるような私には相性の良いものだと感じているものの、学ぶこともせず、我流で描き始めることにしました。後で見直すと、ノート法とぐちゃぐちゃマップ混って感じですが、描いているときは何だか楽しいものです。
     先日、「サンフランチェスコの平和の祈り」が目に入る機会がありました。前に読んだものとは訳が違っていたようで、妙に新鮮に感じられました。今の私の必要なものだったのかな。日々、霊肉共々この世のものに支配されている中で、マインドマップの試みも神様からのチャレンジだったりして…
     ぼーっとしながら、いろんなことを考えて、春を迎えています。
                       K.I姉

    2016.3.6

     『二つのおそれ』(マルコによる福音書4:35〜41)
     人類のテクノロジーは驚くべき速さで進化しています。少し前までは考えられなかったことが、今は当たり前になっていきます。インターネットさえあれば地球の裏側の人ともすぐ繋がることができます。すでに宇宙旅行ができるようになり、車の運転は近い将来自動運転になるそうです。しかし、いくら人間の科学技術が進化したとしても、どれだけテクノロジーが発展したとしても、自然界の法則の前には私たち人間は一切無力であります。それは、聖書の時代からまったく変わっていません。私たちは波ひとつ静めることはできませんし、風ひとつ止めることはできません。突然襲ってくる自然の力を止めることはできないのです。私たちは生きる上で様々な恐れというものに遭遇します。皆さんは人生の中で感じる「恐れ」といえはどのようなことが思い浮かぶでしょうか。一番恐ろしい事と感じたご経験はどんなことでしょうか。
     今週金曜日に私たちは忘れられない日を迎えます。3.11あの東日本大震災から5年が経とうとしています。東北地方を襲った1000年に一度と言われる未曽有の大震災でした。誰も予想しえなかった津波の被害に合わせて、原発事故とまさに想像を絶する被害の大きさに日本中が言葉にならない深い悲しみに包まれました。5年経った現在でも未だに多くの人が苦しみの中にあることと思います。私たちは被災地を覚えて祈り続けていかなくてはなりません。
    私たちが恐れを感じた時どうするべきでしょうか。突然の絶望、試練が襲って来る時どうすればよいのでしょうか。弟子たちは一番近くにいるイエス様が見えませんでした。私たちはその時イエス様に気づくでしょうか。どこに目を向けるべきなのでしょうか。恐れの中でも、その問題に目を向けるのではなく、全てを支配しておられる神に目を向ける必要があります。恐れの中から神により頼むとき時、神が豊かに働いて下さいます。激しく荒れ狂う波の中でも、普段の穏やかな日常のような静かな波の中にも、どこにでも、イエス様が共におられます。その舟の上に、この教会に、そしてあなたと共にイエス様は確かにおられます。
                                     宮田祐亮神学生

    2016.3.6

    〜まず慰め人が癒されよ〜
     3月になるとあの日までの毎日が試練です。11日の東日本大震災の日。東北に住む我が愛する姉とはインターネットでいつも近況を知らせ合っていますが、この期間の彼女の心の重さが我が心をも引っ張ります。震災時も数日で復帰したネットに乗ってきた彼女の状況や思い。都市部に住む彼女は震災の甚大な被害の中では、「被害は少なかった」と言われてしまうでしょう。しかし、いいお母さんとして魅力的な女性として活き活きと過ごしたいと思い描く生活は、その日壊滅しました。家族のために心をこめて飾り付けたこまごまと可愛い品は割れ散らかり、全て片付け心を立て直そうとした矢先に起きた二度目の大きな揺れが最も残酷な破壊だったのかも知れません。頻繁な余震はその度に彼女の希望を全壊させたのでしょう。
     一方傍観者の負い目から、彼女を大胆に主の救いへと連れていく手に力が入らず、「もう何も変わらないことだけが私の願い、何も新しいことは望まない」という重い返事に、喉がつかえる私。でも最近、これは小さいけれど深い自分自身の傷であり、軽いけれど固着されている自分の荷であると知るようになりました。まず慰め人たるべき私自身がもっと主の前に近く出て、それらを癒し下ろしていただくように願い求めなければ。主は決して「そのくらい大したことはなかろう」とは言わないでくださるはずです。
    `S.M 姉