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富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

チャペルコンサート: 7月10日 (日)10:30- 12:00
教会の音楽スタッフによる声楽・バイオリン・ピアノ三重奏のコンサートです。コンサートのあとは茶菓をお楽しみください。駐車場があります。

英語礼拝と英会話教室を行っています。英語のホームページはこちらです。

  • English Worship Service
  • ●英語礼拝 第2日曜日

     フェローシップタイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から

    ●英会話教室  毎週水曜日 午後4時から

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    富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

     

    〒939-8082 富山県富山市堀川小泉町681

    電話 076-491-2273

    2016-06-17

    2016.6.12

    〜 兄弟会の新しい一歩を応援しつつ 〜
     健康な教会の判断基準の一つとして、教会の各会がそれぞれ生き生きと活動していくことであると思います。
     全国のどこの教会においても女性会がない教会はありませんし、女性会中心の活動がなされていることでしょう。小泉町教会も女性の方々が中心的に活動しています。しかしそんな中、壮年たちも各会としては組織されていなくてもすでにキリストの体のための多くの働きに関わってきています。定期的に昼食を準備し、営繕、草むしりや花壇整備など、また特別行事がある度に、駐車場案内、路傍伝道などなど、目立たないけれども必要とされる時にはいつも最善を尽くしてきました。そこで、神は兄弟たちに御心を示され、一つの統一した働きをするためには兄弟たちの力を一つにまとめる会を作ることになったわけです。・・・先週の日曜日の午後、まず4人の壮年が集いました。その時に決まったこととして、会の名称を「兄弟会」とすること、兄弟会のリーダーを南川兄が担当することでした。成人した兄弟であれば誰もが入れるということで「兄弟会」と名付けましたが、後に青年会などが結成されるのであれば、会の名前を変更することになるかもしれません。
     今からわたしたちの群れは夏を迎え、チャペルコンサート、ファミリーキャンプ、英会話教室キャンプ、平和集会などのプログラムを行なうことになります。すべてが神の福音を宣べ伝えるために大切な諸行事です。新しい一歩を踏み出す兄弟会の皆さんをはじめ、小泉町教会の神の家族が力を込めてイエス・キリストの愛と救いが届けられる諸行事となりますように・・・。シャローム!

    2016.6.12

    『 ネヘミヤに学ぶ 』〜御言葉に立って祈る人〜 (ネヘミヤ書1:1〜11)
     先週からネヘミヤ記を分かち合っています。ペルシア王の献酌官をしていたネヘミヤのもとに、祖国エルサレムの悲惨な状況を知らせるニュースが届きました。その知らせを聞いたネヘミヤは、座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天の神に祈りをささげはじめます。その時献げたネヘミヤの祈りは、今現代のキリスト者の祈りがどうあるべきかについて模範を示してくれます。とりわけ執り成しの祈りが何であるかについて知ることができます。
     先週分かち合ったように、ネヘミヤは神を賛美した後、自分の罪、父の家の罪、イスラエル共同体全体の罪のための悔い改めの祈りをささげます。ネヘミヤは神の御前に進むためには、まず心からの悔い改めがなければ近づくことができないことを知っていたことでしょう。しかも彼とは直接関係のなかった先祖たちの犯した罪の歴史と自分自身を一体化することで執り成しの場へと進むのです。わたしたちはネヘミヤを通して、信仰とは決して一人の救いだけにとどまらず、信仰共同体の救いまでも含むものであることを教えられます。
     ネヘミヤは、更に進んで神の約束に目を留めることになります。神は、イスラエルの犯した罪のゆえに滅ぼされ、バビロン捕囚といった悲しみに落されたけれども、イスラエル共同体が悔い改め、主に立ち帰り、戒めを守り行なうのであれば、主なる神は必ず赦してくださると、申命記30:1〜4で約束しておられます。ネヘミヤは、神のその約束の上に立って「思い起こしてください」と訴えます。そうです。ネヘミヤの祈りは、御言葉の約束の上に立つ祈りでした。わたしたちの信じる神は、御言葉の約束されたことを守られるお方です。神は今日も神の人に御言葉を通して語られ、御言葉を通して関係を深めておられます。成熟したキリスト者は、自分の思いや感情に頼る人ではなく、常に御言葉の約束に立って祈り、御言葉の約束を生きる人です。その人はどのような試練や妨害、状況にも振り回されることはないのです。
     最後に、ネヘミヤは具体的なリクエストで祈りを終えます。それは、「今日」、アルタクセルクセス王の前に立つ時、王から憐れみを受けることができるようにしてほしい!という願いでした。ネヘミヤの祈りは、漠然としたものではありませんでした。ネヘミヤは11節を通して、自らを「神の僕」と、アルタクセルクセス王を「この人」と呼びます。これは、「主の主、真の支配者こそ神」であるという信仰告白です。神の前に、ペルシア帝国の王はただ一人の人に過ぎません。あなたの目の前の人を恐れないことです。すべてを支配しておられる神を信じ、一歩を踏み出す人は幸いです。

    2016.6.12

     もう25年も前の話。(数えてびっくり!)
     主人の仕事の都合で、米国ミシガン州に2年ばかり住んでいたときの、サンクスギビングという日本のお正月に似ている祝日に経験した出来事です。
     当時、クリスマスやサンクスギビングといった重要(?)な祝日には、ショッピングセンターやレストラン、マクドナルドにいたるまで、店を閉めていました。 外国人である我が家族は休日ルンルンで、アナーバーという学生街に出かけていました。 学生たちはそれぞれの実家に帰っていたのか、街はひっそりとし、お昼になっても、美味しいにおいで誘ってくるお店もなく、「えっ?私たち、何か食べたい!」と焦って、お店を探したところ、少し高級そうでしたが、一店だけ開いている(ように見えた)レストランを見つけました。「ええい、日本人だけど入れてくれるだろう」と、思い切って店内に… 何かが違う。何が?????メニューがない。
     座ると、自動的に決まった料理(日本のおせちのようにサンクスギビングの献立)が運ばれてきて。不思議な空気を感じながらデザートまでいただき、支払いをしようと請求書を求めると、英語(当たり前?)で何やらよくわからない説明。すこし理解のできたのか、主人が店内を見渡し…気づいてしまいました。「これは、ホームレスの人たちのために開かれているお店だ!!!」
     その瞬間、気まずいような、恥ずかしいような、消えてしまいたいような、(そんな気持ち、わかってください)でも、どうすることもできず、できること……少し多めのチップをテーブルに置き、ごめんなさいの気持ちを込めて頭を下げて、店を出て、一目散に帰宅しました。店員さん(?)は、いいのよ、いいのよ、というジェスチャーで「エンジョイ!ミシガン!」と、見送ってくれましたが、これがまた、私たちを恥ずかしい思いにさせたりして。それからは、「向う(アメリカ)にはこんな文化があるのよね…」と自分を正当化し、忘れてしまいたい思い出の1ページとして頭の引出しにしまいこんでいました。
     数年前の執事会で、S姉から、ホームレスの方々を支援したいとの意見が出され、そんなことは、日本のしかも富山では実現難な課題だと思っていましたが、神様にその思いをゆだね、今、「小さな泉の村」を立ち上げるにいたったS姉の信仰は本当にまぶしいです。私も、あの時の“借り”を何かの形で償えますよう、S姉の、そして小泉町教会の活動にできることから応援させていただきたいと思っています。
                   K.I姉

    2016.6.5

    〜 あなたの呼吸、あなたを生かす祈り 〜
      
     先週の水曜祈祷会には今までの祈祷会の中で最も多い12名が集いました。7時30分より9時頃まで、12名の祈りの友がまず神を賛美し、それぞれ与えられた御言葉からの恵みを分かち合い、祈りの課題にそって執り成し祈る恵みの時を過ごしました。皆の口から“おー、12弟子か!”と喜びの叫びが上がるほど、祈祷会に加わる人数が増えることは大きな恵みであり慰めです。
     聖書は断言していいます。「祈りが生きている群れを通して神は働かれ、祈りは奇跡を呼び起こす」と。そして神は祈らない個人、祈らない共同体は用いないことを教えておられます。なぜならば神は祈りを通して働かれ、祈りの中に御業を成して行かれるからです。使徒パウロが“絶えず祈りなさい”と勧めていますが、ここで絶えずという言葉は、息をするようにという意味で、わたしたちの信仰の呼吸こそ祈りであって、祈らなければ死んでしまうことを表しているのです。神の家族の皆さんは祈りの呼吸を止めてはいませんか。
     祈祷会の出席者が多いからわたしは出席しなくてもいいと思わないで、ぜひ祈祷会に集いましょう。あなたの祈りがあなたと家族を生かし、小泉町教会と日本の国を変える力となるのです。もし、わたしたちがからし種一粒ほどの信仰をもち、祈り求めるのであれば、神は巨大な山をも動かし、わたしたちの思いをはるかに超える御業を成し遂げてくださるはずです。その出発こそ祈りです。一人の祈りから共同体の祈りへ、個人のための祈りから執り成しの祈りへと祈りの輪を広げる中で、わたしたちは大いなる神の祝福に与ることになるでしょう。シャローム!

    2016.6.5

    『 ネヘミヤに学ぶ 』〜執り成しの人〜 (ネヘミヤ書1:1〜11)
     崩れ落ちた信仰共同体の痛みと厳しい現実を胸に抱き、心から愛の執り成しを続ける一人の人。そして、祈りの答えとして神の御手が働かれる時、自ら進んで積極的に信仰共同体を建て直していく一人の人。また、様々な批判と試練、誘惑と苦難が絶えない働きの現場においては、鋭い洞察力と知恵、リーダーシップをもって乗り越えていく一人の指導者、ネヘミヤという人です。彼はすべての面において保証されていたペルシアでの生活を後にして、祖国イスラエルの厳しい現実と神のビジョンを前に、喜んで自分自身を献げる決断を下す人でもありました。
     バビロン捕囚からの「第三次帰還」(紀元前445年)を率いたのは、祈りの人ネヘミヤでした。ネヘミヤという名前は“主が慰めてくださった”の意味です。彼は異国の地で生まれ成長しました。そして、彼はペルシア王アルタクセルクセス一世の献酌官という高い地位を手にするほど成功した人でした。
     しかし、彼は決して自分の成功や身の安全だけがあれば、自分の家族や身の周りだけが平和であればいい!という意識はもちませんでした。彼の心の中には、いつも祖国への熱い想いがありました。そして、滅ぼされたままの祖国エルサレムを悲しみ、エルサレムのために執り成し続けていたわけです。すなわち、ネヘミヤは愛国者だったと言えましょう。
     ネヘミヤはエルサレムから戻ってきたハナニという親族から打ち破れていたエルサレムの城壁の現状について聞くことになります。それを聞いたネヘミヤの反応を見てください。“これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。(4節)”

     わたしたちも常に家庭の城壁にヒビが入り崩れそうになる危機に直面します。また、信仰共同体の城壁が様々な敵の攻撃を受ける中で、厳しい戦いを強いられることも経験します。それから日本社会の政治、経済、倫理などの城壁が崩れ落ちていることを目の当たりにしています。このような状況の中で求められるのが“祈り”です。ただ、漠然とした空を打つような形だけの祈りでなく、日本社会の問題課題を胸に抱き、涙と命をかける執り成しの祈りを主は望んでおられます。
     これからしばらくの間、ネヘミヤの信仰と祈りを黙想しながら、信仰共同体を建て直すビジョンを現実のものにしていく力を学んでいきたいと思います。とりわけネヘミヤの城壁再建と信仰復興のために献げられた執り成しの祈りを身につけたいと思います。生きておられる神は、あなたの祈りを用いて倒れかけているすべての城壁を建て直してくださるでしょう。

    2016.6.5

    「真実なる主の恵み」 
     主の尊いお名前を賛美します。
     まず初めに、いつも私たち夫婦の為にお祈りいただき、またサポートをいただき、心より感謝申し上げます。そして姉(黒澤)家族が貴教会に集わせて頂き、恵みに満ちた教会生活を送らせていただいていますことも感謝です。
     私たちは今、タイのバンコクにある日本語教会で、牧会の働きをさせて頂いていますが、働きをする前(正確には神学校へ行く前)、両親は私たちのことを想って、フルタイムの献身を反対していました。両親はクリスチャンだからこそ、献身者の大変さをよく知っていたからです。両親の反対を押し切って献身してよいのだろうかと、非常に悩んでいた時、あるみことばが心に迫ってきました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。」(マルコ10:29,31)これは、何よりも主を優先する者を、主は豊かな恵みで満たしてくださるという約束のことばです。このみことばを通して、神様はご自身に従う私を祝すだけでなく、私が大切に想っている家族をも祝してくださるという確信が与えられ、両親のことも主にゆだねる決心をしました。その後、神様はみことばを実現してくださり、2人の祖母、叔母、姉の長男が次々と救いに導かれ、今年のペンテコステの日には、姉の次男が貴教会で洗礼の恵みに与らせて頂きました。真実な主の御名を心から賛美致します。
                  タイ聖書福音教会伝道師 横谷環

    2016.5.29

    〜 リーダーのために祈る 〜
     先週日本中がG7サミットのことで盛り上がっていましたね。とりわけアメリカオバマ大統領が現職の大統領としては初めて広島を訪れたことが人々の関心を集めました。世界のリーダーとしてのオバマ大統領の一挙手一投足が及ぼす影響力を再三確認できた場面であったと思います。
     ナショナリズムの流れが日に日に増している世界情勢の中、何とも言えない将来への不安に包まれている近頃です。その中でもオバマ退任後のアメリカ大統領が誰になるか、あまりにも暴力的で危険な発言を続けるトランプさんがなるのではないかということで世界中が不安の目で見つめている状況です。これこそ一人のリーダーが及ぼす影響力の大きさを表す典型的な例であると言えましょう。
     聖書はリーダーのために祈ることを命じます。それほどリーダーの存在の大切さ、リーダーに求められる責任、神からの使命が重いからでしょう。しかし聖書に登場する多くのリーダーは初心を忘れ神の前で罪を犯し、イスラエル共同体もリーダーに倣い罪に妥協し堕落してしまいます、その結果神の厳しい裁きに遭ったことを聖書は繰り返し告発しているのです。神の家族の皆さん、ぜひリーダーのための祈りを休まないようにしましょう。まず、小泉町教会の牧師のため、日本バプテスト連盟に連なる諸教会の牧師たちのために、それに加え日本の安倍首相をはじめとする世界の指導者たちのためにと、祈りの境を広げていきましょう。ますます悪と暗闇が力を増している昨今の時代を見極めつつ、神の国と神の義を求めることを第一とするわたしたちの群れであるように・・・。

    2016.5.29

     『 神の家に住む 』(詩篇84:1〜13)           
     先日、稲垣さんと敦賀の「人道の港ムゼウム」という小さな博物館を訪ねました。6000人のビザで有名な杉原千畝さんの発給したビザでヒトラーの魔手を逃れたユダヤ難民が、シベリア鉄道ウラジオストックまで来て、そこから敦賀に上陸していたことを知ったからでした。敦賀の市民はこれらユダヤ難民を受け入れ、宿を貸し、銭湯を提供し、病人の手当てをしたのです。安心して住む家がある、ということを、ユダヤ人の一人は「ここは天国だ」と言いました。
     家族がともに住むということがどれほど大切なものかを震災の現場からの報告で痛いほど感じます。家とは、ともに生きる場であり、命の交わりの場であるということです。
     今日のみ言葉を通して、詩人は、「神と共に一つの家に住むことが最高の幸せである」と言います。キリストがクリスマスに生まれ、私たちを迎え入れてくださいました。人が神の傍に住む、神と共に生きるということが、私たちにとって最高、最大の目的なのです。神と共に生きることなくして、他のことは全く色あせてしまうのです。
     神は、どんなに人間が反抗しても、私たちと共に住むということをあきらめないのです。神は私たちと共に住み、共に悩み、共に泣き、共に生きることを望まれます。
     神は新しく、「共に住む」ということを願われます。神は、内在する神として私たち一人一人のもとにやってきた!のです。それは「聖霊」と呼ばれます。この人は嬉しくて仕方ない!と喜びで顔を輝かせているのです。幸せだと言っているのです。誰かが、この人を見たら、「あなたはなぜ、そんなに嬉しいのですか?」と問わずにはおれないような幸いな人について語っているのです。聖霊が宿ってくださっているからです。
     あなたは何かをするためにここにいるのではありません。
    ただ、神と共にいることが大事であり、神がそれを望まれていることが大事なのです。
     この箇所で住むということを「ヤーシャブ」という言葉であらわしています。意味は、一箇所に留まっていること、移住すること、座ること、何もしていないこと、結婚することなどです。端的に、一緒にいることが目指されています。あのザアカイはイエスを自分の家に迎えました。そうしたら、ザアカイは変えられてしまいました。
     神が私たちのところに来られ、内在する神、聖霊として絶対に離れない交わりへとわたしたちを導いておられるのです。
                                      田口 昭典

    2016.5.29

     福岡に転勤になり早や10ケ月が過ぎました。こちらの生活にもなんとか慣れ、仕事もやっと起動に乗りつつあります。これも一重に皆様の御祈りの賜物であり、感謝しております。
     家族と離れて暮らす事は辛く、孤独に慣れることはなかなかできません。先週は、大型連休で富山に帰省して、家族と一週間程過ごし福岡に戻った翌朝、目が覚めた時、子供達がそばにいるような感覚があり、福岡に戻っている事がわかると恐ろしい孤独感にみまわれました。私は本当に弱い寂しがりやの情けない男です。その日は、日曜日でいつも行っている教会へ日曜礼拝に出席させて頂きました。帰り際に牧師先生に声を掛けられ、その日は礼拝後の食事も、他の行事もなかったので近くの公園の茶屋で食事をご馳走して頂くことになりました。牧師先生とは歳も近く、お互いの身の上話をさせて頂き、豊かな楽しい時間を過ごすことが出来ました。
     コリント12-9 「すると主は、『わたしの恵みはあなたに充分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
    今日も主に依り頼み感謝して歩んで参ります。
    小泉町教会におきまして大いなる恵みと祝福が与えられますようお祈り致します。アーメン。
                             T.K 兄

    2016-05-27

    2016.5.22

     『 心を動かされて生きる 』(エズラ1:1〜6、競謄皀藤魁В隠供
     キリスト者であれば誰もが聖霊に心を動かされて生きる人であると言えます。なぜならば聖霊によって心を動かされなければ福音を信じることも、イエス様に従うこともできないからです。聖霊に心動かされることで悔い改めに導かれますし、救いの出来事も聖霊が心を動かされる中で起きることになるのです。ですから、この世においていかに頑なな人であっても、聖霊が心を動かしてくださるのであれば、その人は自分が罪人であること、またイエス・キリストが自分自身のために十字架にかかり命を捨て、身代わりとなってくださったと確信し、イエス様と共に勝利の道を歩むことになるのです。
     しかし聖霊が心を動かされる人はキリスト者だけに限りません。“主がペルシアの王キュロスの心を動かされた。”(1節)今日の聖書に登場するキュロス王はペルシア帝国の王でした。異国の王であって、当時世界を支配していた最高の権力者が、聖書の神、イスラエルの神に心を動かされるということは考えられないことです。しかし聖書は主なる神がキュロス王の心をどのように動かされたのかをキュロス王の言葉で次のように証言しています。“天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。”(2節)と。・・・そうです。その人がどんな背景を持ち、どのような特徴をもっている人であれ、聖霊に心を動かされる人、聖霊に心を動かされ立ち上がる人を通して、神の業が始まり、神の栄光が現されることになるのです。
     また神は神の御心に動かされて生きる一人だけでなく、同じく神に感動し、心動かされている人々を加えてくださいます。キュロス王の心を動かされた神は、今度はイスラエル共同体の心を動かされます。(5節)とりわけ神がキュロス王とイスラエル共同体の心を動かされた目的がエルサレム神殿を建てるためであったと聖書は教えます。神がいかにイスラエル共同体からの生きた礼拝を望んでおられたのかがうかがえます。
     このような聖霊による働きは、今わたしたちが生きているこの時代においても同じです。わたしたちが何か始めようと計画する時、わたしたちを励まし、確かに導かれるのは、まず心を動かされることからです。聖霊がわたしたちの心を強く動かし、確かな信仰と勇気をくださる時、わたしたちはキュロス王のように、イスラエル共同体のように、初代教会の人々のように変えられるはずです。
     今朝、わたしたちの教会が、また一人一人の日々が、聖霊に心を動かされ、感動し、喜んで御心に従うことができれば、神はわたしたちの群れを通して素晴らしい御業を始められることでしょう。

    2016.5.22

    〜バプテスマの信仰告白〜
     僕は小さい時からこの教会に通ってきました。そして、いつの間にか通うことが習慣になっていました。それから5年生になってから、教会に来る時間を受験勉強に費やしたいと思うようになりました。その時から神様との関係が離れてしまったように思いました。しかし、神様は受験の時、知識と勇気をくださいました。その時から神様を心から信じるようになり、この一年間で多くの事を学びバプテスマに至りました。・・・「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」(ルカ11:6)
     僕はまだ13歳ですが、今までに多くの罪を犯してきました。人は、目には生きているように見えますが、根から切り離された花のように神から離れている人は、もうすでに死んでいます。なぜなら罪の代価が死だからです。
     しかし、神様は独り子を信じる者が一人も滅びないようイエス様を贈り、罪の代価を背負ってくださいました。その時、神様と人との間にできている谷に十字架をかけて下さいました。そして三日目に復活し、希望を与え、永遠の命を与えてくださいました。そして、今も聖霊様が僕を導いてくださることを信じます。
     僕は、今から罪まみれだった自分を捨て、新しく生まれ変わります。そして神様に従い続けることを約束します。また、今から建てていく信仰の基を、御言葉の上に築くことを約束します。また神様の無償の愛をしっかりと受け入れます。そして、十字架の横の柱「人と自分との関係」を現実にするため、イエス様のことをまだ知らない人のために懸命に伝えることを約束します。アーメン!
                 K.N兄

    2016.5.15

    〜 十年一昔、バプテスマの恵みを思い出す 〜
     富山小泉町キリスト教会に赴任して早くもそろそろ10年目に入ります。古くからのことわざに「十年一昔」という言葉がありますが、その言葉通り、わたしたちの教会を取り囲む状況は全く変わってきたことに驚きを覚えます。10年前の教会の周りには田んぼが多く残っていましたし、家もそれほど多くありませんでしたね。田んぼや自然がなくなったせいか、毎年目にしていたキジの親子も見えなくなりましたし、鳥たちの鳴き声も、今頃のカエルたちの大合唱も聞こえなくなりました。自然が大好きなわたしから見たら寂しいことです。 また町のどこからも見えていた十字架塔も次々と建つ家々に囲まれて見えなくなっています。このように激しく変わっていく世にあって、わたしたちの教会はどのような変化を遂げてきたでしょうか。                       
    “だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。”(コリント5:17)“新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。”(マタイ9:17)
     本日バプテスマを受けるN兄とは5回に亘る聖書の学びの時を過ごしました。10年前の幼い幼稚園児の姿はもうありません。しっかりとした神様への信仰告白ととても誠実で真摯な一人の信仰者の発見に感謝と喜びの賛美を献げるのみです。大きい身長がどこまで伸びるか分かりませんが、神への信仰においてもますます伸びていき、神と教会の誇りとなる望兄を夢みていきたいと願います。神の家族の皆さんはバプテスマを受けた時の感動を覚えていますか。その時と比べて皆さんの信仰はどのように変わっていますか。シャローム!

    2016.5.15

    『命をもたらす風なる聖霊 』創世記1:1〜2、 使徒言行録2:1〜4)             
     ペンテコステおめでとうございます。本日は教会の誕生日であり、イエス様の約束された助け主としてわたしたちのうちにやって来られた聖霊を喜び祝う礼拝です。世界の人々の中にクリスマスのことを知らない人はいませんし、イースターについても何とか分かっていることでしょう。しかし、ペンテコステというとほとんどの人は知りません。けれども、ペンテコステ、すなわち聖霊が人の歴史のただ中に来られたことによって世界は変革を迎えたわけですし、新しい創造の業が始まることになったのです。   
     聖霊が初代教会の群れの上に激しい風と共に臨まれた日に起きた変化として、まず弱虫であったペトロが偉大な伝道者に変えられましたし、他の弟子たちも地の果てとされていた場所に命をかけて伝道する人に造り変えられます。また120名の敗北者たちが福音の勇者に変わります。もしペンテコステがなかったら、ここ日本まで福音が伝わってくることはなかったし、私たちはいまだ救いを知らない民になっていたはずです。特に、聖霊は今も生きて働かれる方、私たちを日々導かれ、交わってくださるお方であるので、聖霊なしではわたしたちの教会も、わたしたちの人生も、希望も語れませんし、成り立たなかったはずです。
     命をもたらす聖霊は一人一人の魂の内に、また共同体の内にご自身を吹き込まれることですべてを新しくしてくださいます。聖書は聖霊の働きを創世記1:1,2から早速記しています。「初めに、神は天地を創造された。・・・神の霊が水の面を動いていた。」 ・・・創造のただ中におられ命をもたらされた聖霊の働きはその後、人を造られる時も、紅海を渡る出エジプトの時も、エゼキエルが見た枯れた無数の骨を希望の集団と変えられる時も、そして初代教会の誕生も地の果てに至る福音の勇士とするために人々が変えられる時も、聖霊が圧倒的な命をもたらす風として働かれるさまを聖書は描いてくれます。
     聖霊は目には見えないけれども、風のように、息のように、わたしたちを囲み、わたしたちを生かし、行くべき道を作り、永遠に変わることのない命で包んでくださるお方なのです。ですから、聖霊との交わりと助けがなければ私たちは何もできませんし、命溢れる信仰生活も、また命を生み出す働きもできないのです。そうです。教会の命は聖霊の風に満たされることにかかっているのです。 

    2016.5.15

    〜いつも誰かが待ってくれている場所〜
     私は連絡もせず教会にふらっと立ち寄る事があるのですが、いつも必ず閔先生が出迎えて下さり時には奉仕中、学び中の兄弟姉妹にまで会える小泉町教会が大好きです。先週の昼食準備は急な来客があり約束通りの時間に行けませんでしたが、忙しい閔先生に代わりなんとG兄が教会を守ってくれており感謝と感動で一杯になりました。
     最近よく近所の子供たちやその母親が散歩がてらうちに立ち寄ってくれます。先週の教会帰りにも沢山のおもちゃでパンパンになったリュックを担いだ子が私たちの帰りを待っていました。張り切って来たにも関わらず誰もいない家の前で不安げな顔をしていましたが、私たちが帰るとすぐに笑顔になり一緒に遊ぼうとおもちゃを広げてくれました。うちに遊びに来てくれる子供たちはいつも楽しそうにしてくれていますが、そんな子供たちを見ていると教会で出迎えられ笑顔になる自分と重なります。神の家族に会える第二の家である教会、開かれたその家をいつも守って下さっている閔先生ご家族に改めて感謝申し上げます。そしてうちも他人にとっても落ち着く温かい愛で溢れる開かれた家であり続けられるよう祈ります。
    I.A姉
     

    2016-05-10

    2016.5.8

    〜 息子との幸せな時 〜
     先月から毎日の楽しみが一つ増えました。それは息子とのディボーションの分かち合いです。一日を終え眠りにつこうとする息子との約10分間の御言葉の分かち合いは親子の対話にとどまらず、自分自身の霊性訓練にも大きな恵みとなります。まだ中学1年生ではありますが、父親との交わりを通して聖書の読み方の成長や御言葉を黙想することの楽しさに気づいてくれる姿を見ると自然に笑みがこぼれます。
    “どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。(詩編119:9)”        
     わたしたち小泉町教会の子どもたちが毎日御言葉に触れ、御言葉から知恵を得、神の御心を選んで歩むことができればいかに素晴らしいことでしょうか。わたしたちを取り囲む世界は、絶えず社会の風潮に合わせることを求めます。いつの間にかそれが優先順位となり、わたしたちも必死になって時代の流れや共通の価値観に合わせようとしているのが当たり前になっているのかもしれません。しかしここでもう一度立ち止まり“イエス様だったら?!”と尋ね確かめて見ることです。とりわけわたしたちの愛する子どもたちの将来のために、子どもたちが神の国と神の栄光のために用いられるビジョンのために・・・。息子と御言葉の分かち合いがいつまで続くか分かりませんが、できる限り長く続けたいと願うのは欲張りすぎでしょうか。   

    2016.5.8

     『世界の片隅で起こる主の癒し 』(使徒言行録9:36-43)

     本日の聖書箇所では、ヤッファの街で亡くなったタビタという婦人の弟子をペテロが訪ね、蘇らせる奇跡が記されています。この話では、服を作ってはやもめたちに与えていた忠実な奉仕者のタビタ、信仰をもって主のわざを引き継いだペテロ、そして神がタビタを助けてくださると堅く信じていたヤッファの教会共同体が出会い、そこに神の癒しの働きが起こります。
    聖書では「弟子」と呼ばれるタビタですが、その献身ぶりは街角の小さな教会の中でしか知られていなかったようです。他にも同じように自分が住んでいる小さな場所で我が身を捧げている人々はたくさんいます。ヤッファの教会の姿は私に、自分がこれまで関わってきた諸教会をいろいろな意味で思い出させます。それらは、広く名前が知られてはいませんが、それぞれが置かれた小さな場所でキリストに忠実であるべくひたすらつとめてきています。ごく普通の人々が普通のつとめを果たしている、普通の環境の中でも、みなが神のみわざに対して心を開いているなら、彼らは普通を超えた教会なのです。主の復活のできごとから2000年たった今も、わたしたちはその意味を忘れません。「キリストが今も生きて、世における主の業を続けておられる」という希望を常に抱いて生きる私たちは、「イースター・ピープル」、常にイースターを生きる人々であり教会です。
     タビタ、ペテロ、そしてヤッファの信徒たちが日々行っていたのは病院で患者さんに付き添う牧師さんのような役割で、今では「ミニストリー・オブ・プレゼンス」と呼ばれる奉仕です。「プレゼンス」は「そこにいる」こと、他人とともにいるために自分の時間を使うことです。タビタはやもめたちの中にいて、彼女たちの必要を満たしてあげていました。タビタ自身に癒しが必要になったときは教会の兄弟姉妹が彼女のためにペテロを探しに出かけました。
    この教会でも、英会話教室やファミリーキャンプ、教会学校や諸集会、そしてこれから始まる「小さな泉の村」に自分の時間を割いて共に集まるみなさんの活動から癒しが生まれています。一方、誰もがきっとこの教会で自分自身が癒された経験を持つでしょう。神の癒しが世界のこの小さな場所で行なわれている証しをどうぞ他の方に伝え、教会へ誘ってあげてください。
                  ローラ・フーシー宣教師

    2016.5.8

     ハレルヤ!いつも私たち家族のためにお祈りとご支援をしていただき心から感謝いたします。福岡での学びも残り1年となりました。1日1日をさらに大切にして、神様に従順に仕え歩んでいきたいと思います。4月14日の夜に熊本県で大きな地震がおきた時は、主人が病院でのアルバイトがあり、自宅には私と子供たちしかいませんでした。地震で家が揺れはじめたと同じ時に、携帯電話地震速報のメールが届きました。福岡県でも震度3〜4ほどの地震があり、寮は4階ですのでかなり揺れました。そしてどんどん揺れが強くなっていきました。この時には、まさか熊本県がとてもひどい状況だということは知ることが出来ず、次の日の朝にテレビを見てとても驚き言葉になりませんでした。それから4月16日に更に大きな地震がおきました。この時の地震が本震だったため、14日の時より揺れがとても強くその後も何度も余震があり朝方まで眠ることができませんでした。これまでにない不安の中で福岡にも大きな地震がおきるかもしれないと考え、また祈りながらも恐れていた私に神さまは、今私が置かれている状況を教えてくださいました。私はただただ恐れていただけで、熊本県の方や大分県の方がどれほど辛い思いをされているかをしっかりと見ることができていなかったのです。その時に私が今できることは、被害にあわれている方々のために祈り続けることだと改めて思わされました。そして東日本大震災で被害にあわれた方々や、またたくさんの自然災害で被害にあわれた方々のことをいつも覚えお祈りをし、支援を継続して忘れることがないようにしていかなければいけないことも強く思いました。これからも私が出来ることをしていきたいと思います。   
                         M.Y 姉   

    2016.5.1

     〜 病床の神の家族のために 〜
     
    “主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです”(ヨハネ福音書11:3)        
    “信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。”(ヤコブ5:15)
     先週は二人の兄弟がそれぞれ手術と感染症の治療のため入院されることになりました。早速神の家族に祈りを要請するメールを送り、電話をかけました。牧師の牧会活動において最も緊張する時、心を配る時こそ神の家族が病気にかかる時です。いかに素晴らしい信仰をもっていようと病気を前にして不安を覚えない人はいないでしょうし、死を恐れない人はいないはずです。一人の病気が及ぼす影響は多大なもので、まずはその人自身、それから家族、知人、そして教会共同体にも及ぶのです。ただし、聖書が教える病気にかかるということが、ただ単純に悪いこと、悲しいことではないこと、かえって神の栄光が現れる恵みとなることを心掛けましょう。
     イエス様は愛していた兄弟ラザロが重い病気にかかっていることを知らされながらも、すぐさま駆けつけることはなさいません。むしろ無視するかのように振る舞われます。マリアをはじめ周りの人々はイエス様の態度から冷たさを感じていたことでしょう。しかしそこには「復活信仰」の確かさを求められていたことが示されています。とりわけ聖書には神の家族に病人の救いのための「信仰に基づく祈りの力の素晴らしさ」を知らせようとされる御心が明らかにされています。2016年度の歩みを始めようとする神の家族の皆さん、「信仰に基づく共同体の祈り」が人を癒し、神の業を成し遂げる力であることを教えようとされる父なる神の計画に応える群れでありますように・・・。

    2016.5.1

     『 小さな泉から命の川へ 』(エゼキエル47:1〜12)

     ある日わたしは夢を見ました。その夢は小泉町教会のバプテスマ槽から大量の水があふれ流れ、礼拝堂をいっぱいに満たし、その水が外へと溢れ出る夢でした。びっくりして目覚めたのですが、起きてからしばらく心の興奮をおさめ切れず、眠ることができませんでした。そして、その時示された聖書の箇所が本日のエゼキエル書の御言葉でした。
     さて、エゼキエルは神の使いに導かれて神殿に入る幻を見ました。神殿に入ったエゼキエルは、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、大量の水が神殿に流れていくのを見ることになります。これまで何度も何度も神殿の入り口に連れ戻されていたエゼキエルでしたが、気が付かなかったほどの湧水でした。そこで、エゼキエルは御使いの声に従って水が流れている神殿を歩きながら、その水の水位を測ることになります。最初は、水がくるぶしまで達し、その後、膝に達し、次は腰まで達していきます。そして、もはや渡ることのできない川となり、その後は泳がなければ渡ることのできないほどの深い川に変えられたことが記されています。それからその水は神殿から流れ出て、至る所を覆うことになります。その川の水が通ると、死んでいた土地に木々が生え、汚れていた水は綺麗な水に変えられていきました。“この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。”(9節)
    ここでイエス様の言われる言葉を聞きましょう。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)またわたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:38)・・・わたしたちを癒し、生かし、命をもたらす水こそ、聖霊です。この世の誰でも聖霊に満たされる時、そこには大いなる変化を経験することになります。愛する神の家族の皆さん、わたしたちはイエス・キリストの十字架の愛に贖われ、神の子とされ、今は聖霊の宿られている神の神殿であることを覚えましょう。
    わたしには夢があります。毎週の神の神殿である小泉町教会の礼拝から命の水が湧き出て、礼拝に集う一人一人が命の水を飲み、聖霊の恵みの川に浸されること、そこから神の家族の毎日が聖霊の命の川で自由に泳げる生活となりますように、そして神の家族から流れていく命の水が世界を変え、死んでいた人々を生かし、世界を福音の命で潤すことになりますように・・・。ハレルヤ

    2016-04-26

    2016.4.24

    〜 パンを水に浮かべて流す 〜
    “あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。”(コヘレト11:1)
     旧約聖書のコヘレトの言葉です。ここで「パン」とはわたしたちが手にしている持ち物、賜物、働きのことを指しています。すなわち、人が所有していたものを、握り込まないで手を開き、貧しき者、社会弱者、災難に遭った人たちのために放してあげることです。今の世界がここまで弱肉強食と言った競争社会、差別社会になっている理由こそ、“自分のもの”と握り込んでいるからです。主イエスはわたしたちに“あなたの手に握っているものを放してやりなさい。わたしがそうであったように!”と語りかけておられます。人が握っていた物を水に浮かべて流すことで、神はわたしたちの捧げたものを無駄になさらず、やがてブーメランのように、恵みを賜ってくださるはずです。このことは主イエスも言われた言葉です。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)・・・。
     世界各地で地震や火山噴火などの自然災害に遭い苦しんでいます。熊本地域における今回の地震は今まで経験してきた地震とはだいぶ変わった姿を見せています。これから収束していくだろうか、逆に広がっていくか不安の中で見守っていかなければなりません。今の時、わたしたちに求められることは、持っているパンを恵みの水に浮かべて流すことです。価なく受けた主イエスの十字架の愛に倣い、価なく恵みの水に流すことです。そうすれば、神は人知を超えた祝福をくださることでしょう。今、あなたの手に握られているものを水に流すことはできますか。

    2016.4.24

    『 星と輝く人々 』(ダニエル12:3、マタイ福音書5:14〜16)

     あなたが憧れているスターはいますか。そのスターは誰でしょうか。芸能人かもしれませんし、政治家、スポーツ選手かもしれません。それから、人は憧れのスターの真似をしたり、自分もスターになろうと夢見たりしているのかもしれません。神の家族はいかがでしょうか。
    ダニエルのことを思います。幼い頃、愛する祖国を離れ、敵国のバビロンに捕虜として連れられて来て、バビロン王に仕える。しかしダニエルは、神の民としてのアイデンティティー、神の民としてのプライドを忘れることはありませんでした。そして、神はダニエルバビロンだけでなく、その後のペルシアにおいても、素晴らしく輝く星として用いてくださいます。異国の地、異国の神々の世界において神の民として生きるということは、大変なことだったでしょう。しかもその異国の地で、人々が憧れる「スターになる」ということは奇跡のようなことだったのかもしれません。
    “目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。”
     この世における「星と輝く」人とは、優秀な人、能力のある人、権力のある人などを指しましょう。しかし、聖書宣言する星と輝く人は、「目覚めた人、多くの者の救いとなった人」です。ここで「目覚めた人」とは、思慮深い人、注意深く分別のある賢明な人を指します。すなわち神の霊を受け、時代を見極める知恵を得ている人が、星のように輝くことになるのです。それだけでなく、神が求められる星と輝く人は、暗闇の中にいる多くの人を、神の救いの方へと導く人であると教えます。
     愛する神の家族の皆さん、今わたしたちの生きている世界は暗闇です。自然災害、戦争、不義と不法といった闇に覆われている状況です。しかし、星は、暗闇の中にあってもっと輝きますし、星は自分の置かれた場所を離れず、暗闇の現実に悩む多くの人を導くのです。このような人を、神は「神の国におけるスターである」と言われるのです。
     本日は2016年度定期総会の日です。主イエスは小泉町教会の群れに向け、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)と御声をかけてくださいます。神の家族お一人お一人の歩みが、時代をしっかり見極める知恵をもち、多くの者の救いとなる星(スター)と輝く一年でありますように・・・。

    2016.4.24

    〜「小さな泉の村」出発信仰!〜   
    わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25・40)

     先月の24日、路上生活者支援の活動を7年間続けてきたグループ『あったか相談村』の最後の活動がサンフォルテで行われました。平日にも関わらず、会場には利用者のおじさんたちを始め、ボランティアさん、弁護士さん、富山ダルクの会、介護施設、司法書士会青年会の方々、など、支援に関わった人々が集合し、「あったか村」の最後を祝福するように、協力して楽しそうに料理する姿が見られました。 
     富山小泉町教会からも、見学を兼ねて7名の兄弟姉妹が参加しました。お忙しい中、参加して下さった兄弟姉妹の想いに、こころが暖かくなりました。できあがった料理をみんなで囲みつつ「あったか相談村」は、7年間の幕を閉じました。
     しかし、一度閉じたその活動が、すばらしい神様のタイミングと導きで、2016年5月14日(土)から富山小泉町教会のバックアップにより、「小さな泉の村」として再生することになりました。
     「あったか相談村」の代表Nさんの最後のあいさつで、「村」が再生して続くことを聞き、「よかったね〜」と喜ばれたボランティアさんのほっとしたような笑顔や、心から嬉しそうに笑ったおじさんの笑顔が、目に焼き付いています。
     冒頭に記したみ言葉を心に刻み、「小さな泉の村」が「主の愛」にあふれた場所として、そこに集う「小さな人々」のいやしと喜びになるよう、切に祈っています。
                     S.Y姉

    2016.4.17

    〜 御言葉が変える〜
    “世にもとうとく清きふみあり 古く汚れてはあれど 子は亡き母の愛したまいし 神の言葉聖書なり〜♪♪”
     わたしが幼い時、母とよく歌っていた讃美歌の一部です。英語の曲名は「My mother’s bible」。わたしが覚える母も上記の賛美歌のように、聖書が好きで、手から聖書を離したことがない敬虔なクリスチャンでした。その中でも、いつからでしょうか。母は聖書全巻を筆写してから、今はもう筆写したノートを3巻ももっています。母の人生は御言葉を愛し、御言葉によって変えられ、御言葉に生かされ祝福されてきた人生であったと言えましょう。恐らく母は今日も聖書を手にしながら、富山にいる息子のために祈りをささげていることでしょう。
     最近の小泉町教会の群れにおいて何よりも嬉しい変化が起きています。「リビングライフ」を通して一人一人の生活が御言葉によって力づけられていること、また聖書の学び、水曜祈祷会、ディボーションタイム、夕礼拝などを通して御言葉による命と感動に包まれているということ、それが教会の群れ全体に良い影響を与えているということです。諸集会の参加者もだんだんと増えてきています。しかしただの人数だけの増加に限らず、一人一人の全人格と生活が変えられていることが喜びです。人の力や知恵でなく、ただ御言葉による変化と恵みなのです。・・・ 
     そうです。御言葉にはすべてを変える力があります。御言葉に渇きを覚え、真心から御言葉に触れる人は誰でも変わらずにはいられないはずです。“天地は滅び失せても神の言葉は決して落ちることはない”という御言葉を信じつつ、共に御言葉の岩の上に立ち新年度の歩みに励んで参りましょう。シャローム!

    2016.4.17

    『あなたはわたしのもの』(イザヤ43:1〜7)                    
    “彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。”(43:7)
     神は、わたしたち神の民を創造された時の御心を、「創造し」「形づくり」「完成した」という言葉で表現されています。ここに書かれている「創造し、造られ、完成する」は、ほぼ同じ意味で使われる言葉です。しかしヘブライ語原文を見ると、その意味が、だんだんと発展の過程を辿っていることが分かります。まず、神が「ご計画の中で人を創造され」、「形づくられ」、最後に「完成される」という、それほど神は格別な御心の中であなたとわたしを創造されたわけです。
     神の創造とは、無から有への創造であります。そして神の創造におけるクライマックスとなるのが、人間の創造であったことを聖書は教えます。神の似姿で、神の品性をもって造られた人間の創造こそ、神の創造の御業におけるクライマックスであったのです。人は創造者なる神と交われる存在、神の御心を知り、神と共に世界を作り上げていく格別な存在として創造されました。聖書は人間を造られた後、そのすべての創造されたものをご覧になって「極めて良かった!」と歓声を上げる神を紹介しています。
     神はこのように創造された傑作品となった人をご覧になりながら、次のような感想を述べられています。“わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している”(43:4)と。だから神は人に向かって“恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。”(43:1)と宣言しておられるのです。ここで注目したい言葉が「あなたはわたしのもの」です。この言葉は神を信じる人にいかに素晴らしい安心感と確信を与えてくれるでしょうか。あなたがどのような状況に置かれていても、どれほど破れに満ちていても、罪と悪に汚れ、いろんなことに失敗してしまい落ち込んでしまったとしても、あなたの神はあなたを見放したり、見捨てたりすることは決してないという保証の言葉なのです。だからあなたは恐れることはないのです。自分自身に自信が持てず、小さくなってしまうこともないのです。神は今日もあなたの名前を呼び、親しく交わってくださいます。ハレルヤ

    2016.4.17

    富山で仕事を与えられ〜
     僕は2016年度から富山YMCAの舟橋村にある学童保育で働くことになりました。それまで、大学を卒業した後いろんな場所で働いてきました。こうしていろんな場所をふらふらしながら生きていくと、「一つの場所にとどまって働いたほうがいいよ」と言われることがたまにあります。もともと安定志向の薄い僕の性格もありますが、神様が様々な場所へ導いてくれたのではないのかな、っと思うことがあります。大学を卒業した直後、指の骨を折り働く予定だった山小屋に行くことができなくなり、卒業していきなり仕事がなくなったこともありました。当時は落ち込み、不安になることもありましたが、仕事が始まるほんの数日前というあまりのタイミングの悪さに逆に神様が「山小屋に行くのはやめてけ」と言っているのかなと、思うようになりました。オーストラリアから富山に帰って来る時も、友人の結婚式や飼っていて犬の寿命のことなどが重なり予定よりも早くに帰国することになりました。YMCAで働かないかと誘われたのもこの直後になります。オーストラリアにいるときからきちんと子ども相手の仕事がしたいと思っていたので、これも神様の導きだと思っています。前にやっていた仕事が終わり、次の仕事を探している時は不安で惨めになることがありました。しかし聖書にも、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、みなそなえて与えられるであろう。あすのことで思いわずらうな。あすの苦労はあす自身が思いわずらうであろう。」とあるので、この先何かあっても、神様がそなえてくださあるように祈っていきたいと思います。神様が与えてくださった富山の地での仕事を一日一日頑張っていきたいです。
    S.H 兄

    2016.4.10

    〜 光に包まれて旅立つ 〜
     先週は息子の中学校入学式がありました。親であれば誰もが経験することではあると思いますが、心から込み上げてくる感動と神様への感謝に満ちた一日でした。しかし、まったく新しい旅だからでしょうか、緊張と不安で固くなっている息子に安心感と期待を与えようといろいろと励ましの言葉をかけたりしましたが、本人が感じることは格別なものだったでしょう。同じように、新年度を迎え、入園、入学、進学、就職、引っ越しなど、新たな旅に出かける神の家族が多くいます。子どもたちの進むべき道を備え助けてくださる父なる神が、一人一人の歩みを祝福し、最善を賜りますように・・・。
     さて、小泉町教会も新たな体制とビジョンをもって旅を始めました。本日の礼拝では、新たな旅のために先頭に立って仕える新執事とCS教師の就任式を執り行います。キリストの体なる教会における奉仕者はみな仕えるものになるべきです。執事は「給仕する者」という意味をもっているように、喜びと謙遜さをもって仕える存在ですし、教師は「主であり、先生である」イエス・キリストが弟子たちの足を洗われる模範を示してくださったように、キリストの御心を示すべき働き人です。
     また神の家族は選ばれた人たちのために祈り合い、励まし合い、助け合い、愛し合うことが求められていることでしょう。その上、何より大切なことは神の家族お一人お一人のもっている賜物を健康なキリストの体作りのために用いることにあります。キリストの体は一部の働き人の頑張りや能力だけでは成り立たないことを知っています。
     愛なる神が希望の光に包まれて旅立つ小さな群れを祝し、進むべき道を照らし導いてくださいますように・・・。

    2016.4.10

    『漁に出る 』(ヨハネ21:1-14)                      
     私たちは、ときどきは今やっていることから完全に離れて、心を休める必要を感じます。今日読むヨハネ福音書の箇所で、イエス様の弟子たちもそんな気持ちだったのではないでしょうか。本日の出来事までの何週間かは彼らにとって波乱の日々だったからです。イエス様の十字架上の死と復活を経験した彼らにとっては喜怒哀楽がジェットコースターのように上がったり下がったりの日々でした。ある夜、ペテロと他の何人かの弟子たちは、ガリラヤ湖へ漕ぎ出ました。勝手のわかる昔からの仕事になぐさめと落ち着きを求めたのでしょう。しかし夜が明けて日が昇る時、彼らは予想もしないできごとに遭遇しました。イエス様がもう一度現れ、彼らが本当に求めていた慰め、満足、確信を与えてくださったのです。「自分たちはいったい何者なんだ」と心に疑問を抱いていた弟子たちは、岸から声をかけてきた人をイエス様と知って、岸辺でともに朝食をとることで、その答えを思い出したのです。そう、イエス様の弟子、人間を獲る漁師です。この朝食で、彼らは再び弟子として、出て行って神の国のために人々をイエス様の弟子とする命を受けました。
     私たちもいろいろなことに圧倒される日々を過ごしています。課題に直面する毎日。今自分を取り巻く暗闇から逃げ出したいとひとりで飛び出して、道を見失い希望も失って、「私は一体何なの?」という疑問にとらわれてしまうのです。そんなとき思い出してみましょう。イエス様が自分の過ごす日々のどこにおられるでしょうか、あるいはイエス様に初めて出会ったのは人生のどんな局面だったでしょうか。それを思い出せば、「私は何なのか」という疑問にも、「私たちは神の子供たち、イエス・キリストの弟子」という答えを思い出すでしょう。弟子である私たちにイエス様はどうやって祈るかを教えてくださり、隣人を愛するようにと、飢えた人に食べさせ渇いた人に飲ませ、やもめとみなしごを支え、主の名によって世界中の人を弟子にするようにと教えてくださいました。私たちはイエス様のものなのです。
    新年度の新しい日が始まります。イエス様は待っておられます。岸に戻って、イエス様と合流し、ともに漁に出かけましょう。
                     カーソン・フーシー宣教師

    2016.4.10

    〜入会の証し〜   
    わたし中国吉林省生まれです。朝鮮民族に属しています。
    二十代前半に友人の紹介で始めて聖書を見せてもらい、教会で礼拝とお祈りをし、インターネットでも説教を聞いて、信仰が芽生え、26歳の頃、京都純福音教会でイエス様を救い主と告白してバプテスマを受けました。
    その後、今の夫と結婚し富山での生活が始まりました。智成を妊娠すると、赤ちゃんにあげるべき一番大切なものはこの世の中のどんな物より、神様をプレゼントすることだと確信するようになりました。そのため、まず自分自身から神様を正しく知る必要があると思い、聖書を読みはじめました。理解出来ない部分も沢山ありましたが、御言葉を読むことで心が平安になり、感動のあまり涙が出たこともあります。自分が正しいと思っていた事が実は愚かな事だと悟るようになりました。良い事をし、正しく生きようとしても、心の中をすべて知っておられる神様の前では罪人に過ぎない自分に気づかされたのです。
    罪のないイエス様が十字架の上で私の罪を贖ってくださったこと、私を救い神様の子供とする為に神様がイエス様を復活させてくださったことを感謝します。神様の霊である聖霊様を贈り、導いてくださる神様を賛美し愛します。何より、小泉町教会へ導いてくださったことを感謝します。物足りない私ですが、皆さんと一緒にイエス様の体なる教会を愛し、再臨のイエス様に合う日まで力を合わせて歩んでいきたいと思います。
    A.S 姉

    2016-04-07

    2016.4.3

     『 光の子として歩む 』(エフェソ5:8〜10、イザヤ60:1〜2)                     
     わたしは画家のレンブラントの描いた絵が大好きです。レンブラントは「光の画家」、「光の魔術師」と呼ばれているほど、彼の絵には、人生の闇と人生における疲れと悲しみがそのまま現れています。レンブラントは人間の存在の根底にある闇と不安、痛みを隠そうとしません。だから、彼の絵は暗いです。しかし、彼の絵が絶望的ではないのは、真っ暗な闇を照らす一筋の光があるからです。わたしはその光に感動し、上からの慰めを得るわけです。
     キリスト者は、光に出会った人です。その光こそ、神からの光で、イエス・キリストの死と復活を通して照らされている光です。聖書はその光を受け入れた人のことを「光の子」と呼んでいます。そして光に出会った人々は、多くの場合、深い暗闇の前で絶望した経験をもつ人々であったことが分かります。深い暗闇を経験したからこそ、光の素晴らしさ、その感動と恵みを生きることができるからです。わたしもその内に一人であったことを告白できます。あなたはいかがでしょうか。
     本日与えられている聖書箇所は、まさにそのような経験をした人に贈る御言葉です。“あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。”(エフェソ5:8)

     今わたしたちが生きている世界は、御言葉にあるように、暗闇がますます力を増しているような世界です。どこを見ても出口の見えない、生きる希望さえ失ってしまうような暗闇に覆われている状況です。ここで求められる働きこそ、「光の子」であるキリスト者が立ち上がることです。“光の子として歩む”とはどういう意味でしょうか。それは、この暗闇の世の空しいことに心を奪われることなく惑わされないで生きるということです。そのため光の子は“主が喜ばれることを吟味して行なう”(エフェソ5:10)ことを求められています。すなわち、自分自身の思いや自分自身の喜びのためではなく、神の御心を成し遂げるために、自分自身を喜んで差し上げることです。
     2016年度、「世の光となる一人のキリスト者、世の光となる教会共同体」というビジョンを抱いて進みたいですね。光の子として、暗闇の中を歩む周りの人々を心から憐れみ、もっている光を隠すことなく、口をもって、また愛の行いをもって輝かすことです。わたしたちの照らす光に暗闇から救われる人が起こされますように・・・。ハレルヤ

    2016.4.3

    〜 みんなで花園作ろう 〜
     ♪みんなで花園つくろう 花を咲かそう。世界の人に御神の 愛の花咲かせましょう。
    ♪福音の種を蒔こう 花を咲かそう。真心こめて十字架のみことばを 伝えましょう!!!

     ハレルヤ!2016年度が始まりました。この一年、52週ある主日礼拝と小さな群れのすべての歩みが、すべてを新しくされる神の御手に委ねられ、新しくなることを期待したいと思います。
     先週から牧師館の前の花壇を整備しています。「小泉町教会の第一印象」を与える場所であるのに、あまりその役割を果たしていないと思ったからです。毎年春が来て花が咲けば、それなりに美しくは見えますが、花が散ってしまうとジャングル化してしまう現実です。神の家族と相談し、いろいろと悩んだ末、まったく新しい花を植え、花壇を一新することに至りました。しかし、そんな中で一番悩まされているのが、以前植えてあった花の根っこがあまりにも頑固で、また深く広がっているということです。新しい花を植えたり、種を蒔いたりしてもその頑固な根っこのせいでなかなか芽を出したり、根付いたりすることは期待できない状況です。
     最初に「みんなで花園つくろう」というゴスペルの歌詞を書きましたが、まさに今年度わたしたちは力を合わせ、新しく美しい花園をつくり、神と周りの方々に喜んでもらいたいと思います。そのため花壇の根っこを綺麗に取り除き、新しい土を補充し、肥料をやり、新しい花を植え育てるという過程が残っています。ぜひ力を合わせましょう。そして、目に見える花壇だけでなく、聖霊様に神の家族お一人お一人の内側の花壇にある古くて頑固な根っこを取り除いていただき、喜びと恵みの新しい花を咲かせ、良き香りを漂わせる一年となりますように・・・。シャローム!

    2016.4.3

     最近、読書に集中できなくて、すぐに眠くなるようになっていました。年かなと思っていたのですが、もしかして、老眼かも?と気づき、老眼鏡をあつらえました。そうすると、再び読書に集中できるようになったのです。 
     信仰の世界でも、同じようなことがあると思います。イエス様というレンズを通さないと、はっきりと見えないのに、自分の目だけに頼ってしまいがちです。そのために、どれほど、失敗をしてきたことか。・・・過去に戻って、やり直せたらと思うことがたくさんあります。特に子育てにおいて・・
     でも、イエス様のレンズを通して教えられることは、過去を悔やむのではなく、今を感謝して喜んで生きることです。もっと早く老眼鏡を買っていれば、もっとたくさんの本を読めていたはずですが、それを悔やむ暇があったら、老眼鏡の助けを借りて、今、一生懸命読書をしたほうが良いに決まっています。
     同じように、和解と回復をもたらしてくださる神様を信じて、イエス様に祈り、イエス様からの知恵をいただいて、今、できることを精一杯やりたいなあと思うのです。そうしていると、子どもたちが生きて存在してくれていることが、どれほどありがたいことかと、しみじみと思うのです。
                  K.K 姉