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富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

+++集会案内+++

●主日(日曜日)礼拝 午前10時半から
●水曜祈祷会 午後7時半から
●金曜ディボーション(黙想の時) 午前9時半から
●英語礼拝 第2日曜日
(コーヒータイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から)

●聖書の学び 毎週火曜日
●ハングル教室 毎週金曜日
(コーヒータイム:午後7時から 講義と練習:午後7時半から)

教会写真集はブログ「小さな泉の写真集」へ。
English Worship Service(英語のホームページ)、 富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

〒939-8081 富山県富山市堀川小泉町681

電話 076-491-2273

2018-08-25

2018.8.26

〜牧師の優先順位を考える〜
“良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。(ヨハネ福音10:11〜12)”  
 今週の礼拝では福岡野方教会に赴任して初めて帰省した宮田祐亮牧師の宣教と幸姉による証しを分かち合います。就任してから一年と5ヶ月。ご夫妻にとっては短いようで長い時だったでしょう。神学生の立場から牧師になって牧会の現場に出ると夢と現実の違いに戸惑いを覚えることになります。とりわけすべての出来事において牧師の判断と責任が問われるため、重く圧し掛かる荷の重さのゆえに心苦しくなる時も多々あるのも事実です。だから牧師は絶えず主イエスの御心を求め従う訓練を続け、その中で成長していくのです。
 実は先週のことですが、宮田師ご一家が夏の休暇を許され、富山に帰省の旅に出て富山に近づいたところ、野方教会の103歳の教会員が召天されたとの知らせが届きました。せっかくの夏の休暇、しかも牧師になって初めての帰省ということだったので、突然の教会員の召天の知らせはご夫妻を悩ませたことでしょう。しかし、富山に着いて早速、野方教会の方々に連絡を取り、前夜式や葬儀などの諸式の相談をした上で、宮田師は一人で福岡に向かうことを選びました。宮田師の一つの教会の牧師としてのその姿を誇りに思いつつ、主に感謝をささげました。
 牧師の模範となる方こそ主イエスです。主イエスは真の良い羊飼いとして、羊のために最も良いものを与え、命まで捨てることを良しとされたお方です。主イエスは現代の牧師たちに「あなたの優先順位を確かめなさい」と尋ねられるでしょう。近頃、度重なる牧会者の犯罪と間違いこそ、優先順位を正しく立てなかったゆえの結果でしょう。願わくは、世界の牧師たちが雇い人のマインドではなく、主イエスに示されている良い羊飼いとしてのアイデンティティーをもって、謙遜に主の御心を訪ね求め、愛に基づく牧師の優先順位を新たに立てていくことができるように・・・。シャローム!

2018.8.26

イエスのように愛し合う 』 (汽茱魯佑亮蟷4:7〜12)
 ハレルヤ!久しぶりに、愛する小泉町教会の皆さまと共に、礼拝をおささげ できます幸いを感謝いたします。いつも、私たち家族と野方教会のために祈ってくださり、ありがとうございます。
 聖書が一貫して貫いているメッセージ、それは「愛」ではないでしょうか。キリスト教会は、互いに愛し合うこと、イエスさまの愛を見本にして、愛し合うことを、何よりも第一生き方として選び歩んできました。1960年に富山小泉町教会は、この地に建てられて宣教活動が開始されました。この長い歴史の中で、私たちは、一体何を第一として歩んできたでしょうか。キリストの弟子の群れとして、互いに愛し合う事、そのことを第一として歩んでこれたでしょうか。私たちは今日、もう一度互いに愛し合うこと、教会にとって一番大切なそのことの意味を、もう一度心に留めながら、神さまからの御言葉をいただきたいと思います。
 皆さんは愛する人へ、愛を伝えるために、愛情を現わすとしたらどんなことをされますか?結婚されている方であれば、お連れ合いに、また、ご家族や、ご兄弟、または親しい友人、そして教会の兄弟姉妹に対してはどうでしょうか?一つは、「愛していると」と声をかけること、言葉で表現することですね。または、その人が喜ぶようなことを行動で表すことです(プレゼント)。色々な表現方法があると思います。それでは、皆さんは教会の兄弟姉妹の皆さんに、どのような方法をもって愛をしめしていますか?マザー・テレサが、愛の反対は憎しみではなく無関心ですと言ったのは有名な話ですが、あなたは愛をしめすために、どのような具体的行動をとっておられますか?
 今日は、まさに神の愛について、まっすぐに教えているヨハネの手紙から、神さまのみ言葉を受け取っていきましょう。今日の箇所から、互いに愛し合うことの深い意味を知ることができます。「神は愛である」ということは、もう信仰生活が長い方であればあるほど、何度も何度も親しんでおられるみ言葉だと思います。そして、それは私たちの信仰の根本的なものなのです。
                野方教会(福岡) 宮田祐亮牧師

2018.8.26

〜猛暑に思う〜
 テレビの天気予報の午後7時の時報前の放送はできるだけ見逃さないようにしている。農家でなくてもこの時間の放送を利用している人は多いらしい。私は野良をこの放送を見るために、いつも間に合うように野良仕事から帰宅するような日課をしている。        
 農家はこの時間の予報は欠かせないのである。予報はたまに外れることもあるが、ほとんど90%正確である。科学の進歩で正確に観測ができるのだとのこと。ありがたいことである。 ここしばらくの天気予報の内容は、猛暑の放送ばかりである。いつ雨が降るのだろうかと雨を待つ私。朝夕の庭木、花や畑の水やりは、すべて私の役目である。毎日の水やりは私の日課である。
 灌水していると草木や花などは何か私に話しかけてくる様子の仕草が伝わってくる様な感じがする。毎日30度以上の暑さの中、彼らも人間と同様に生きるために戦っているのだと思います。
 神さまはこのようにして、人間と共生できるようにして下さったのだと信じます。それにしては、ここしばらく野猿達を見かけないのである。野猿達も猛暑で、大樹の下で暑さをしのいでいるのかなあ…。暑いので人里には降りてくるのは大変なのかなあ…。きっと野猿達も暑さと空腹に耐えながら懸命に生きているのだと思います。私たち人間も草木や花などに負けないで、この暑さを乗り越えたいと思います。  8月12日記
             A.M姉

2018.8.19

『 礼拝から平和へ 』詩編122:1〜9)
 “わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」 わたしは願おう、わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」(詩122:8〜9)”
 「主の家に行こう、と人々が言ったとき、わたしは嬉しかった」(2節)・・・この最初の文章から、私たちは礼拝者が備えるべき礼拝精神を教えられます。すなわち、礼拝に参加することは、義務や形式でなく、喜びと楽しさ、感動に満ちるものであることを示しています。私たち礼拝者にとって、主の宮に上り、礼拝する喜び以上に感動的なことはないでしょう。礼拝は、義務よりは喜びをもって進むべき時、神の臨在の場所で神に出会い、神の御言葉をいただき、神より、勇気と希望と命と力、生きる知恵と揺るがない約束をいただき、それに私たちの信仰が一つとされるのが礼拝です。だからこそ、礼拝は生きているものであり、その礼拝において、最も際立つのが喜びであって、嬉しさなのです。
 そして、もう一つの重要な礼拝精神が4節に記されています。それは、「すべての部族、主の部族が主の御名に感謝をささげる」というところです。ここで「すべての部族」とは、イスラエルの全部族を指していますが、今の私たちに照らして見ると、礼拝者とその家族すべてが、礼拝に集うことを意味するのです。そうです。礼拝そのものが喜びであるのは確かですが、すべての家族の中で、自分一人だけが礼拝に集うということでは、完全な礼拝の喜びと嬉しさを味わうとは言えないでしょう。だから詩人は、自分が属している家族みんなが礼拝に集うことを期待し歌っているわけですし、それこそ、本当の幸いであると言えるのです。すべての家族が集える礼拝には、自然と「感謝」が満ちることになるでしょう。神にささげる礼拝は、私たちが喜ぶためだけではなく、私たちを創造し、命を与え、神の栄光のために生きるように導き、助けてくださる神への感謝が伴われることで、本当の礼拝と呼ぶことができるのです。
 喜びと感謝に満たされ、礼拝を献げている詩人は、エルサレムの平和、その城壁のうち、その城郭のうちの平和を祈るようにと勧めます。神を礼拝する神殿がある聖なる都は、平和の場所にならなければなりません。詩人が歌っている平和こそ、個人の平和ではなく、礼拝する神の民全体に与えられる平和であり、神の民全体が、望み、もたらすべき平和なのです。エルサレム、すなわち、神の聖なる都に住むすべての人は、「兄弟」であり「友」なのです。これは、世界の国々、民族、部族を超えての礼拝者としての「神の家族」を指しているのです。
 神の臨在の場所、神の都エルサレム愛する人は、神を愛する者であり、神の家を慕う人は、神を慕い求めるゆえに、神の祝福を受けることになります。そして、喜びと感動と感謝をもって礼拝する者たちは、真の平和を愛し、平和を祈り、平和を作り出す者としての一歩を踏み出すことになるのです。
 世界中の礼拝者が、喜びと感謝の礼拝から、イエス・キリストの十字架による真の平和を知り、エルサレム、すなわち神の神殿である、一人一人の兄弟と友の平和を祈り、平和からもたらされる幸いを生きるように・・・。ハレルヤ

2018.8.19

 小泉町教会の水曜祈祷会に出席して約2か月が過ぎ、たくさんの恵みを受けています。私自身は福音派の教会員ですが、教会が自宅から遠いこともあり、祈祷会には参加していませんでした。祈祷会に行きたいという思いはずっと持っていました。
 一昨年に富山市民クリスマス聖歌隊に初参加しました。当時、辛いことがあり落ち込んでいた私を友人が誘ってくれたのがきっかけでした。そこで小泉町教会の清水姉と知り合い、受難日礼拝や、小さな泉の村へのボランティア参加などで小泉町教会との関わりが出来ていき、祈祷会へと導かれました。皆さんに暖かく迎え入れられ、聖書を学ぶ楽しさ、共に祈る嬉しさに、自分の信仰が息を吹き返していくような感覚を持ちました。
 「祈祷会に行きたい」という祈りに主は答えてくださいました。それは自分が通う教会ではなかったけれど、教派を越えた「神の家族」という広い視野で信仰を捉えるよい機会となりました。主のこれからの導きに期待しつつ、続けて祈祷会に出席したいと願っています。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3
                  T.K姉

2018.8.12

〜 主よ、もう一人を助けさせてください 〜
   “殺してはならない。(出エジプト20:13)”
 メル・ギブソン監督が、沖縄戦で最も激しかった前田高地での戦いを背景にして、作り上げた戦争映画が『ハクソーリッジ』( Hacksaw Ridge)という映画です。しかし、この映画はただの戦争映画ではなく、戦争の悲惨さの中で、一人の人の命がいかに大切であるか、また、平和を作り出す者としての、キリスト者のあるべき姿を示してくれる名作です。
 映画の主人公は実在の人物であるデズモンド・ドス。彼は、十戒のうち六戒の“殺してはならない”という神の命令に従い、「良心的兵役拒否者」として銃を持つことを拒否しながらも、辛うじて衛生兵として戦争に参加することになります。彼の心を支えていたのは、「隣人を自分のように愛しなさい、敵をも愛しなさい」という、主イエスの御言葉、また「死んでいく人を救う」という召命でした。デズモンドは、“何人殺したのか”が誇りとなる戦場において、“死んでいく人を助ける”ことに焦点を置いて走り回ります。激しい戦闘が繰り広げられる中、デズモンドは、身の危険にさらされながらも、“主よ、もう一人助けさせてください。もう一人・・・”と祈りつつ、敵陣に向います。彼が救った75名の兵士の中には、アメリカ軍だけでなく、日本軍も含まれていたことから、国家や民族を超えた神の愛が、彼を働かせていたことが分かります。神の愛の前に、民族や国家の壁は崩されていき、一人の命の尊さが輝きます。
 神の家族の皆さん、御言葉を実際の生活に100%適用しながら生きるということは、大変難しいことです。そういうことは、人の頑張りや努力によってできるものではありません。イエス・キリストの十字架の愛に心打たれつつ、生きておられる神の臨在と、御言葉に励まされる時に初めてできることでしょう。私たちも、霊的戦争が繰り広げられる戦場に遣わされた福音の衛生兵であることを覚えつつ、死んでいく一人一人のところに出かけましょう。シャローム!

2018.8.12

『涙を流される神 』 (ヨナ4:5〜11)
 あなたの人生の中において神様の御心に逆らった経験はありませんか。自分も知らずに、神の御心に逆らうことがしばしばあるのも事実です。しかし、預言者ヨナは、自分の意志で神の御心に逆らうことを選びます。最初、神から預言者として召された時には、自分の同胞たちに向けて、神の言葉を伝える預言者としての夢に燃えていたヨナだったでしょう。しかし、ヨナへの神の御心は同胞ではなく異邦人へ、しかも、最も軽蔑していた敵国のアッシリア首都ニネベでの預言活動でした。その時、ヨナが感じたであろう神への失望と憤りは、言葉にならないほどのものだったでしょう。そこでヨナが選ぶべき選択肢は、一つしかありませんでした。神と召命から離れ、遠くへ逃れること・・・。
 しかし、愛なる神は再びヨナを訪ねられ、使命を新たにしてくださいます。ヨナがいくら嫌っていても、神はヨナを通して異邦人の救いの御業を成し遂げようとされたのです。しかし、民族主義者のヨナも変わろうとしません。ヨナはニネベの人々を救おうとする愛も、情熱も、憐れみもないまま、義務感からなる口先だけの伝道しかできませんでした。
 しかし、全く心のないヨナの伝道ではありましたが、ニネベの町に思いもよらない大きな悔い改めが広がることになります。そのことを聖書は、ニネベの王をはじめ牛や羊までも断食しながら悔い改め、神の憐れみを乞い願うリバイバルが起きたと証言します。ニネベの命懸けの悔い改めをご覧になった神は、裁きのご計画を思い直されました。
 しかしヨナは、神がニネベへの災いをやめ、憐れまれたその決定に対して腹を立て抵抗します。ヨナはイスラエルだけの神が、異邦人にも同じ恵みと救いを与えられるということを、決して受け入れることはできませんでした。ヨナのこのような態度に対して、神は、神の愛と救いが全世界、全宇宙的に及ぶべきものであること、一人も滅びることなく永遠の命を得させようとする御心を、一本のとうごまの木の出来事を通して、大切に教えてくださいます。
 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ4:9〜11)
 ここで「惜しむ」と訳されているヘブライ語は“フス”です。これはもともと“〜のために涙を流す”という意味をもっています。神は御手で造られたすべての生き物を愛しておられます。そして、その生き物たちの命が無残に殺され、消えてしまうことをご覧になりながら、悲しみの涙を流されます。神の御言葉を携えて、世界に遣わされた者であるキリスト者は、涙を流される神に倣い世界の殺されていく人々や生き物たちを憐れみつつ、涙を流さなければなりません。
 本日、平和礼拝を献げている神の家族の皆様。今も神様が涙を流されながら救おうとされる人々が全世界に存在していることを覚えましょう。たとえその人々が私たちの敵であって、私たちが嫌う人であっても、神はその一人一人の救いを望まれ、私たちを神の代わりに遣わそうとしておられます。私たちが備えるべきものこそ、“神の涙”です。

2018.8.12

 神は言われた、あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。でも、私は心を尽くして自分自身を愛して、魂を尽くしてもっと自分を愛して、力を尽くして、家族を愛して居ます。この罪だらけの私を主よ、憐れんでください、神の御言葉の前では一つも実現出来ないこの自分が凄く切なくなります。心の中からは神の教えた通りしたいのだけど、出来ない自分が嫌になる時がいっぱいです。でも、こんな心になる事にも感謝してます、この気持ちも神様からの恵みである事を確信して、神に感謝してます。
 これからの信仰の歩みを聖霊の助けを求め心尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛して歩みたいです。感謝します。
                 A.S姉

2018.8.5

〜 信仰告白を確かめよう! 〜
“わたしはこの岩(信仰告白)の上にわたしの教会を建てる。(マタイ16:18)”
 本日は月の第一週目の主日礼拝で、主の晩餐式を執り行ないます。主の晩餐式は十字架にかけられる夜、主イエスが弟子たちに“神の国が実現するまで記念しなさい”と命じられたキリスト教会の命にかかわる大切な礼典です。そのため、私たち小泉町教会は主の晩餐式の場において十字架の信仰を確かめ、新たにしていただいています。そして主の晩餐式の時に、初代教会の時から続けられてきた「信仰告白」を確かめ、声を合わせて告白しているのです。
 そうです。主の晩餐式は主イエスの十字架の贖いの恵みに対する信仰をもつ神の家族が、目に見える信仰の証しとして執り行うものです。ですから、“主イエスの十字架の出来事が私のためである”という信仰をもつ人々が参与するのであり、主イエスの十字架と復活への信仰がなければ、いくらパンを裂いて、ぶどう酒を飲んだとしても何の意味もありません。もっと美味しいパンとぶどう酒を望むのであれば、デパートや専門店にいけばいいでしょう。信仰共同体に連なる一人一人が信仰をもって執り行うためにそこに恵みがあり、感動があるのです。
 神の家族の皆さん、小泉町教会の信仰告白があることを知っていますか。私たちの群れにも「使徒信条や二ケア信条」のような信仰告白があります。もちろん、短い文章としてまとまったものではありませんが、私たちが証しすべき信仰の内容を一つ一つとまとめたものです。全部を読もうとすると少し長いですが、ぜひ普段の生活の中で定期的にわが教会の信仰告白を黙想し確かめる時を過ごしていきましょう。そしていつどこでも、“あなたの教会の信仰告白を示してほしい!”と求められたら、迷うことなく大胆に語ることができますように・・・。シャローム!

2018.8.5

『キリスト者の自由』 (ガラテヤの信徒への手紙5:1〜6)
“この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)”
 キリスト者の自由の「マグナカルタ」(大憲章)と言われる箇所です。“私たちに自由を得させるために、イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪の代価を払い、奴隷の子から自由の子にしてくださった。だから私は自由である!“と宣言できるようになったのです。神の子とされたキリスト者は、主イエスがくださる自由を生きることになります。パウロは、キリストが私たちを罪の呪いと束縛から解放してくださったのは、神の子どもたちが自由を生きるためであって、キリストの福音によって救われた人の人生こそが自由であると言います。それゆえキリスト者はどのような形でも、“奴隷の軛に二度とつながれてはならないのです。(1節)”と警告しているのです。
 長い間、牢に囚われていた人が、自由になっても牢にいた時の習慣をなかなか捨てられないように、罪から贖われて神の子として救われた私たちも、罪人の時の習慣を捨てることは難しい場合があります。しかし、いつまでも罪の軛につながれたまま生きることはできないのです。早くこの軛から自由にならなければなりません。それではどうすればいいだろうか。・・・その時、聞こえてくる声があります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28〜30)そうです。 主イエスの招きに応え、主イエスがくださる軛をいただき、共に歩む決心をすることです。
 続けてパウロは、“割礼かキリストか、律法か恵みか”といった福音における根本的な問題を、自由との関連で取り上げます。律法の下で義と認められるために割礼を受けようとする者たちに、キリストから離れる危険性を指摘し、ただ聖霊によって義の望みを持つ者だけが、キリストと結ばれて救われると説明します。もし割礼を受け、律法主義を生きようとするならば、キリスト者に与えられた自由が無効になり、再びすべての律法を守る義務を負い、その結果、キリストと無関係な者になり、十字架の恵みから落ちることになるのです。パウロにとって信仰の中心となる教えについての妥協は決してゆるされないことでした。
 キリストによって義とされたら、以前の律法は救いの根拠として用いることはできません。もし律法によって義とされるなら、キリストを信じることで救われるという恵みから離れ、自分の行いが救いの基準になってしまうからです。もちろんキリスト者の真の信仰は善い行いに現れますが、それは救いを得るためのものではなく、キリストの恵みと愛を受けた者としての実践として現れるものです。すなわちこの時の行いとは神からの賜物であり、救われた者としての信仰を証しする道具です。ですから、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です(5:6)。」・・・そうです。律法の義務や恐れの中に愛は生まれません。だからこそ、私たちには自由が与えられていますし、自由の中でこそ、私たちは愛する事ができるのです。ハレルヤ!      

2018.8.5

 私の伝道対象者は30代〜70代の知人男性です。日頃からよく助言をくれ、私が失業すると直ちに職探しをしてくれる善き友人達です。彼等に聖書の話をすると必ず「うちは浄土真宗だから。」と返ってきます。ところが、浄土真宗について詳しく聞いても教義的なものは殆ど知りません。とても信仰とは言えません。そもそも救いの必要性を感じていません。私達がお伝えすべき方は命を得る為の唯一の道イエス・キリストです。「わたしは、道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のみもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6) 聖書の内容を一度に理解出来る人は少ないでしょう。繰り返し御言葉の種を蒔き続けなければなりません。そこで7月の南砺市礼拝で語られた「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。」(使徒言行録18:9〜10)に励ましを頂いています。主の栄光が永久にありますように。
                S.Y兄

2018.7.29

〜 子ども礼拝のために!〜
 先月のCSリーダー会でA姉から“ぜひ、子ども礼拝を始めてほしい”との提案があり、リーダー全員が前向きに進めることに心を合わせました。愛する主の導きが楽しみです。
 実のところ、牧師のビジョンの中には子ども礼拝のための計画がかなり前からありましたし、ある時には実際に試みた時もありました。しかし、なかなか条件が整えられず、道が開かれないまま、神の時を待つ祈りの中で時間だけが流れてきた次第です。
 教会の業というのは牧師一人によって推進され、牧師が引っ張っていけるものであってはなりません。もし牧師や影響力のある人によって無理に進められるのであれば、教会はどこかで疲れてしまい、躓いてしまうことになるでしょう。いつも確認しているように、“教会は人によってなるものではなく、神によってなるもの”であるからです。
 幼い時から自ら進んで神を礼拝することを身に覚えることは、その子どもの人生に関わる大きな力となります。 今までの小泉町教会の子どもたちのための礼拝とすれば、「子どもとともに」という、大人の礼拝に付け加えられるような形で行われていました。ですから「子どもとともに」の10分余の時間を終えると、子どもたちは自由時間を楽しむことになります。もちろん自由に子どもを遊ばせることもある面、良いことであるとは思いますが、子どもたちを一人の礼拝者へと育てるためには限界があることも事実です。子どもたちが主人公となって自ら礼拝を作っていくことを学ぶことで、その子は世界のどこに行っても生きた礼拝者としてのアイデンティティーをもって歩むことになるでしょう。
 そのため9月からCSリーダーと共に心を合わせ祈りつつ、子ども礼拝を具体化していこうと思います。いろいろと試行錯誤もあるでしょう。しかし、主なる神は時に適って万事を益としてくださるでしょう。神の家族も共に執り成してくださり、一人の礼拝者作りに力を加えてくだされば幸いです。主の最善を期待しつつ・・・。シャローム!

2018.7.29

『生きる力を与える愛』 (第二コリント5:13—14)
 愛は人間存在の最も根源的な欲求である。人は誰でも誰かに愛されたいと願っている。愛など必要ないといくら強がりを言っても、私たちは愛なしには生きていけないのです。みんな愛を求め、それを得られず傷ついたり、失望したりするのです。たった一人でもいい、私のことをわかってくれる人がいれば、私たちは生きることが出来るのです。
 愛される経験、すなわち「私は愛されている」と感じるとき、生きる力、勇気が湧きます。
私は山田洋次監督と渥美清さんのコンビの映画「男はつらいよ」シリーズの映画が大好きです。ギネスブックに登録されているというから驚きです。何がいいのか?それはこの映画が「愛で満ちている」からです。フーテンの寅さんは、自分のことではなく、他人のことで悩み、悲しみ、腹を立て、親身になってその人を支える。いつも振られる役回りで、周囲をハラハラさせるけれどもみんな彼の存在によって、元気をもらっている。それは寅さんが愛の人だからである。
 寅さんこと、渥美清の兄弟は皆クリスチャン、お連れ合いも熱心なクリスチャンだという。その愛に囲まれて寅さんという人格が築かれていった。病床にあって洗礼を受け、クリスチャンとして天に召されたという。山田洋次監督は、「僕は渥美清さんほど謙遜な人を知らない」と言っている。愛と祈りに支えられた人生であった。
 使徒パウロは「キリストの愛が私たちに迫っている」と告白する。これはキリスト教迫害者が経験した体験的告白である。キリストの愛を知ってから、彼は一切のものを塵芥と思うようになった。彼は、「一人の人がすべての人のために死んだ」と十字架の意味を悟った。あれほど迫害をした自分を許し、捉え、用いるキリストの前に彼は我を忘れた。私が生きているのではない。キリストが私の中で生きているとさえ告白する。パウロは、共に歩まれるキリストをいつも信仰の目で見、聞き、祈り、感じていた。
 キリストの愛は人を生かし、人を助け、人を育てる力である。人は愛なしには生きられない。キリストの愛は、人に尊厳を与え、人を生かす。キリストの愛は、いと小さきものに注がれる無償の愛である。神の愛は具体的には、聖書では、インマヌエルの事実に現れる。「神我らと共に」である。神の愛は私たちの力の源である。共にあることの安心、心強さ、というものである。母の懐に抱かれる幼子は安らかである。私たちも、キリストの愛の懐に憩うとき、安心である。
 モーセは一介の羊飼いであった。それも逃亡中の殺人犯であった。絶対権力者のファラオにモーセが立ち向かうとことはほとんど考えられないことであった。無謀であった。しかし神は、「私は必ずあなたと共にいる」と約束する。そしてモーセは立った。不可能を可能にしたのは神の約束の言葉である。
 マタイは冒頭で「インマヌエル」を語り、最後にもう一度「世の終わりまであなたがたと共にいる」と「インマヌエル」を語ります。誰が私の人生を導き、守るのか?自分を任せることのできるのは誰か?会社か?政治家?学校の先生か?キリストの愛が強く迫っている。この愛に捉えられて、この愛を信じて神の家族を形成しよう。
                       田口昭典

2018.7.29

〜FEBCニュース〜
 月一度、週報ボックスに「FEBCキリスト教ラジオ放送局」の刊行物が届けられています。ある姉妹が捧げてくださっているものですが、いろいろな教派の牧師、神父、教師のみなさんによる聖書の解説と、ラジオ放送の聴取者の投稿などが掲載されています。
 最近の聖書の解説には、「使徒言行録」のイエスの母マリアと女たちが、男の弟子たちと心を合わせて祈っていたのがとても重要なことであった...という話がありました。主イエスが十字架にかかられたとき、男の弟子たちが皆主を捨てて逃げ出したことを女たちは責めず、その赦しの中心に、人間としての悲しみは最も大きかったであろう母、マリアがいたというのです。他には、イエスを「ダビデの子」と呼んで熱狂する群衆の姿に、自国の利益優先で指導者を選ぶ人々を重ね合わせ、主がそれをよしとなさらなかったことを照らし出す解説も共感できるものでした。
 聴取者の投稿には求道・信仰生活における悩みの率直な告白もあれば、みことばや主イエスの御品格への新鮮な感動の言葉もあります。最近では復活の主がピラトや祭司長たちに現れることなく、全てを失って漁師に戻るしかなかったペトロの日常の中に帰ってこられた「控えめな復活」に注目した投稿に心が暖かくなりました。是非、月々のニュースレターに目を通してみてください。
週報係

2018.7.22

〜 水をください 〜
“女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ4:15)”  
 連日の猛暑で息することさえ辛かった一週間でしたね。毎朝起きて最初に確認するのが天気予報ですが、毎日の晴れのマークと予想気温に不安を覚える近頃です。毎日のテレビやラジオからの呼びかけでも“水を飲んでいますか。熱中症になりますから、こまめに水を飲んでくださいね。”としつこく言われているほどです。わが家も子どもたちを学校に行かせる時、必ず確認して持たせるものが水筒です。
 先週は、礼拝堂や牧師館の周りの草がだいぶ伸びていたので、暑くならないうちにと思って朝早く草むしりをしましたが、やっぱり汗のシャワーと喉の渇きが続く。今年も牧師館の周りでキュウリ、トマト、ナス、レタスなどを栽培していますが、一日だけでも水をやらなかったら、あっという間に枯れてしまう、もちろん花壇の花たちもそうです。その時、花と野菜たちの叫び声が聞こえてくるような気がするのです。“水をください。私たちは渇いて死にそうです”と。・・・最近のイギリスでは、猛暑で水が足りなくなったため、ホースを使っての水やりに多額の罰金が課せられるほどだそうですね。
 私たちの体も、すべての生き物も、水を飲まずに生きられるものは存在しません。中には“水を飲まなくても生きられればいいのに、一日一度だけ飲むことで渇かない水があればいいのに”などつぶやく人もいるでしょう。しかし水がなければ生きられません。それがすべての生き物への神のご計画なのです。ぜひ、雨が降り注ぐことを祈りましょうね。
 同じように、私たちの信仰においての熱中症にならないためには、命の水を飲むことです。キリスト者が飲むべき水こそ、命の御言葉であり、聖霊であると聖書は教えます。ぜひ、毎朝目覚める時、聖霊様に祈りましょう。“命の水をください。私の魂を潤し、渇きを満たす水をください。恵みの雨を降らせてください”と。シャローム!

2018.7.22

『路傍伝道への誘い』マタイによる福音書 28:19-20)     
 毎月第4週の午後に路傍伝道が予定されています。本日は「皆で路傍伝道に行こう」と言う話です。その前に幾つかのことを確認したいと思います。
 聖書は神の霊感を受けて書かれた偽りなき書である(2テモテ3:16)。主イエスは神であり全てのものを創られた。(ヨハネ1:1〜3)。神は愛である(1ヨハネ4:16)。神の約束は必ず成就される(2コリント1:19〜20)。伝道は主イエスご自身からの命令です「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいた全てのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます(マタイ28:19〜20)。伝道には様々な恵みの要素が散りばめられています。伝道は受けた者にとっては永遠の命を得、伝えた者には訓練と祝福となり神様の喜びとなります。特に路傍伝道は人から誉められることが少なく神様からの褒賞が大きいと考えられます(マタイ6:1〜3)。
 路傍伝道で出会う多くの方々は神様に愛され救われるべき備えられた人々です。私たちの救いは多くの信仰の先輩達の努力が集まったものです。まるでジグソーパズルのように沢山のピースで構成されています。声をかけた方が直ちに救われなくても彼らにとっての救いの最初或いは何個目かのピースになるかもしれません。またその方が救われた後私達の大切な家族や知人に福音を伝えてくれるかもしれません。「神のなさることは、全て時にかなって美しい(コヘレト3:11)」。多くの恵みと同時に締め切りがあり(「終わりの日」や肉体の死)、その結果滅びに至る者もいるということも痛みと共に厳粛に受け止めなければなりません「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている(ヘブル9:27)。それが何時なのかは誰にもわかりません。人には様々な制約があり全員が路傍に立つことは出来ないかもしれませんが、家族や知人への伝道に励み祈りをもって路傍へ送り出していただければと思います。主の栄光が永久にありますように。
                   S.Y兄

2018.7.22

〜主にある交わり〜
 私が小泉町教会を訪れたのは約3年前の「楽しい聖書の学び」でした。きっかけは、富山市民クリスマスでの閔先生のお話と、世界祈祷日での姉妹方との交わりでした。私はK教会員ですが、いつも温かく迎えていただき感謝です。
 私は富山へ7年前にやって来ました。(母の見守り介護の為...両親の故郷)私自身は東京で生まれ育ち、60歳になって初めて富山へ転居したので、とても不安な日々を送っていました。
 母教会は「Sバプテスト教会」です。中3の時にバプテスマを受け、青年期まで楽しく教会生活を過ごし、守られて来ました。しかし、20代半ば頃より自分自身に大きく躓き、教会から離れてしまったのです。そして約40年近く経ち、この富山の地で再び神様の御前に帰ることができたのです。教会へはもう二度と戻れないと思っていたのに...。ある夜、ラジオ深夜便で、ナレーターの中村啓子さんの声を聞き心惹かれました。朗読会がK教会で開かれると知り、会場を探したのが教会へ戻るきっかけとなりました。
 なんと長い年月さまよい歩いた人生だったのでしょう...。
 富山に来て、母との関係がうまく築けず、日々真っ暗なトンネルの中にいました。でも神様はこんな私を見捨てず、再び招いてくださり、光を与えてくださいました。
 主にある交わりは、教派を越え、神の民として共に祈り、共に讃美し、共に奉仕する喜びです。
 どうぞこれからも共に歩んでいきましょう。       
S.K姉  

2018-07-14

2018.7.15

〜生きた礼拝者の目をもって〜
“みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。(ヤコブ1:27)”  
 神を礼拝するとはどういうことでしょうか。綺麗な服を着て、立派な礼拝堂で、綺麗な讃美をし、流暢な祈りの言葉を羅列し、備えた献金をささげ、牧師より聖書のメッセージを聞き、満足して礼拝堂から家に帰るということが礼拝でしょうか。昔から礼拝というと、目に見える形式を大切に守り、繰り返し真面目にこなしていくことに重みをおいていました。そうすることで、神への心理的な安定、また自らの信仰生活に満足感を覚えていたことでしょう。しかし、そのような目に見える宗教生活のみを大切にすることで、見えない神との人格的な交わりや、神が求められる礼拝者としての生き方を粗末にしてきたのかもしれません。まさしく、世界に正しい神の言葉を発信すべきキリスト教会とキリスト者たちが、むしろ世界の流れや価値観に呑み込まれないことを心がけることです。今の私たちの教会とキリスト者の礼拝とその生き方は正しいところに立っているでしょうか。間違った道を歩いている世界に向けて神の御心を発信しているでしょうか。かえって、教会が世界の罪と悪を正当化してしまっているような現実ではないでしょうか。
 私たちの生きている日本社会を、生きた礼拝者として、預言者の目をもってしっかりと見つめることです。そんな中で様々なことが見えてくるでしょう。今も神は、神の愛と憐れみを携え、悲しい涙を流す人々に良い知らせを分かち合い、常に神の正義を慕い求め、神の国を実現しようと働く一人の生きた礼拝者を求めておられるはずです。そして、神はその人に御声を聞かせ力を賜ることでしょう。愛する神が生きた礼拝者である神の家族お一人お一人を喜ばれ、わが群れを通して神の国の栄光を現わされますように…。シャローム!

2018.7.15

『苦難の中からの歌』詩編107:1〜15)
“苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった。(107:6)”
 私たちの神は、神の人をその苦難の中から救い出してくださるお方です。詩編107編は、イスラエル共同体に属している人々が味わったそれぞれの苦難の内容を語りながら、それぞれの厳しい苦難の中から、ふさわしい御業をもって救い出された神への感謝を、一つにまとめて共同体の信仰告白として声高らかに歌っているのです。“主に感謝せよ。主は慈しみ深く人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。(107:8)”と。
 先週私たちは西日本豪雨によって死者だけで200名を超えるという大きな災難に遭いました。多くの方が言われるように、まるで東日本大震災を見るかのような状況なのかもしれません。私たちに出来ることを探しつつ、神の憐れみと慰め、助けを切に祈りましょう。
 さて、このような苦難のただ中で私たちは詩人のように讃美できるでしょうか。もしあなたがその試練の只中にあったとしたらどのような反応を見せるでしょうか。パウロ“だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・(ローマ8:35)”と語っているように、私たちの身の周りに起きるどのような出来事も神の愛から引き離すことはできないことを歌っています。
 私たちの神はご自身の恵みを神の民に示すために、人間の力では救い出せない状況へと追い込まれることがあります。それは神の子どもたちを苦しめるためではなく、神がどのような方であるかを、また、どんな状況においても神が救い出されることを経験させるためです。聖書の歴史の中にも何度もそのようなことが記されています。かつての出エジプトにおいても、荒野においても、バビロン捕囚においてもそうでした。それらの厳しい出来事を通して、神はご自身がどんな方であるか、神が望まれるのが何であるかを、また、全能なる神の力を示すために、厳しい試練と苦難を与えられたのです。災害の経験、厳しい病の経験、飢え渇きの経験、束縛の経験、先の見えない行き詰まりの経験、また、失敗と挫折、敵による患難、労苦、そうしたすべてが、やがて神への信仰告白へと変えられることを体験するのです。
 20日は、私たち「富山小泉町キリスト教会」の教会組織18周年記念日です。教会開拓からは58年、その間に、信仰の先輩たちは試練と苦難、挫折など、今の私たちが知らない歴史を経験して来られたことでしょう。そこで考えてみるのです。今は天に召されている信仰の先輩たちは58年を振り返りながら、“神のなされたことはすべてその時に適って美しかった!(コヘレト3:11)”と讃美の声をあげられることでしょう。
 これからの私たちの人生の航海においても、いろいろな苦難に遭い、不安や心配に覆われ、失敗する時があるでしょう。でも、その時、すべてが神の御手の助けと導きの中にあることを信じ、恵みと慈しみに満ち溢れる神に讃美の声を上げつつ歩み続ける神の家族お一人お一人、また富山小泉町キリスト教会の群れであるように。ハレルヤ

2018.7.15

岡山からの手紙〜
 いつも私たち家族のためにお祈りくださり、ありがとうございます。主人が定年になったので、故郷に帰ってきました。お互いの両親が4人とも健在で、義父が自動車免許を返納したので、福山の地での再雇用という選択はできませんでした。夫婦でアルバイトをしながら、主人は義父母の送迎、農業と忙しくしています。私も久しぶりに仕事に復帰したので、「定年後って、こんなに忙しいんだ。」というのが正直な実感です。
 これから年老いていく両親のこと、老朽化している家屋と農機具、地域の人々との共同農作業分担などを考えると、課題はたくさんあります。愚痴が出そうになるときは、主を見上げることにしています。「明日のことまで思い悩むな」と語ってくださるイエス様を知っていて良かったなと思います。おかげで、一つ一つ目の前のことに集中して取り組むことができますし、今日すべきことをしたら、後はきっとイエス様が良いようにしてくださると信じて、平安でいることができます。
 私たちが住む久米南町には教会がないので、隣の美咲町の教会に通っています。主人も月に2回くらいは一緒に礼拝に出てくれています。それはそれで感謝なのですが、そうなると、毎週出席して欲しいなと思ってしまうのが、人情です。今は農繁期で忙しいですが、これから主人が毎週教会に行けるようお祈りいただけると嬉しいです。
                  K.K姉

2018.7.8

〜主は道を日々つくられる〜
“水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神。(イザヤ43:2〜3)”
 先週からの記録的な大雨はその範囲も広く、多くの犠牲者と多大な被害が出ていますね。本当に、大自然の圧倒的な力の前には、人間という存在がいかに小さく無力であるかを示されます。被害に遭われた方々の上に主の助けと慰めを祈りましょう。
 さて、わが家にとってもこの大雨は大変でした。ちょうど妻が韓国から義母を連れて富山に到着する日が大雨の最中だったのです。わたしは二人を迎えるために中部空港に車で向かいました。しかし東海北陸道を2時間ほど走ったところで、突然、「通行止め」の表示に出くわしました。誘導員さんからの“これ以上名古屋方面には行けない。高速も、国道も全面通行止めになっている”という驚きの知らせに、しばらく祈りの中で考え込みました。“どうすればいいだろうか・・・このまま無理してでも道を探りながら空港まで行った方がいいのか、しばらく天気がよくなるまで二人を名古屋に泊まらせた方がいいのか”など。結局、わたしはひとまず富山に戻り、妻と義母には、苦労はあるだろうが泊まらずに二人で富山まで来てもらうことが最善だと思いました。そこで二人に、まず大きな荷物は宅配便に頼み、名古屋からの新幹線で東京経由で富山に来るように勧めました。もっともその時間帯、新幹線は運転を見合わせていて、駅員さんにも「再開しても、いつまた止まるかわからない」と言われていましたが、信じてそのようにしました。果たして、新幹線の運行の遅延と混乱の中で大変な道のりではありましたが、妻と義母は夜中の12時頃に家に着くことができました。”あ、守られた、感謝!感謝!“
 大自然の前に何もできない弱い私たちですが、生きておられる主は日々道をつくられるお方、その神を信じ、これからも歩きつづけたいものです。シャローム!

2018.7.8

『 奴隷の子、自由の子 』 (ガラテヤの信徒への手紙4:21〜31)
 最初に質問から宣教を始めたいと思います。神の家族の皆さん、皆さんの日々の信仰生活は幸せでしょうか。...私たちの信仰生活は、主イエスとの交わりを通して幸せを実際に味わえるものです。もし、あなたの信仰生活が幸せではなく、何かに抑えつけられているのでなれば、それは律法的な信仰の影響下にある証拠と言えましょう。 
 本日の御言葉の中で、パウロは二つの約束を提示します。一つは律法の約束、そしてもう一つは恵みの約束です。そしてパウロはこの二つの約束を説明するためにアブラハムと二人の女性と二人の息子を登場させます。ご存知のように、二人の女性とはサラとハガルで、それぞれに息子が与えられました。サラを通して得た子が「イサク」、ハガルを通して得た子が「イシュマエル」です。パウロはイシュマエルを奴隷の子、イサクを自由の子として記します。
もともと神はアブラハムとサラの間に一人の息子を約束されました。しかし、100歳が近づいても神に約束された息子は得られなかったのです。そこでアブラハムはサラの助言を受け入れて、人間的方法と努力によって女奴隷のハガルにより一人の息子を得ることになります。その子が「イシュマエル」です。その通り、イシュマエルは「肉によって生まれた子」であるのです。ところが、イシュマエルは約束の子でなく、神はその息子を喜ばれませんでした。
 私たちがどんなことをしても、たとえ教会での奉仕をし、海外宣教をし、偉大な業を成し遂げたとしても、それらが人間的方法と計画、人間的努力でなされたのであれば、それらすべては決して神が喜ばれませんし失敗に終わるのです。大切なことは、「神の約束に基づき、神が望まれ、神が喜ばれる方法で成したのか」ということです。そうです。神の御言葉と約束に基づかなければ、無駄なことになるのです。
 アブラハムは人間的計画、肉体的努力によって息子を得ましたが、神の時が訪れた時、神の計画通り、神の方法によって一人の息子が与えられました。その子が「イサク」だったのです。すなわち、イサクは人間的計画や努力によって得た息子でなく、神の約束のもと、神の方法で、神の時に与えられた子、約束の子だったのです。サラが90歳、そしてアブラハムが100歳になった時、神の約束通り、イサクはこの世に生まれたのです。私たちは“ああ、もう少し待っていたら、神の約束を信頼して耐えていたら・・・”と思うわけですが、そこにこそ、人間の弱さがあるのです。 
 愛する皆さん、私たちの救いは、人間的方法や努力によって得られるものではないことを知っていますよね。救いは「ただ信仰によってのみ」得られるものです。ここで私たちがしっかりと心がけなければならないことは、信仰とは私たちの思いや感情からくるものではなく、神の御言葉の約束によるものであるということです。「イサク」という名前は“笑う”という意味をもっています。私たちが神の約束とご計画に従った時、神は喜びに満ち笑ってくださるでしょう。ハレルヤ

2018.7.8

〜力ある主の御言葉〜
 愛する富山小泉町教会の皆様。暑い夏を迎えて如何お過ごしでしょうか。
昨年末,東山教会において,薬物依存症からの回復を目指しているダルクの会メンバーの方の証を紹介させていただきます。
 ダルクの会のメンバーであるKさんは,母子家庭で生まれ育ち,幼かった自分のことをほったらかして遊びに行く母親とのわだかまりなどから,十代中頃から薬物を使用するようになりました。警察に何度逮捕され,刑務所に何度服役しても,そして,妊娠してさえも薬をやめることができなかったそうです。Kさんに転機が訪れたのは,刑務所に服役していた数年前のクリスマスの時でした。10分間ほど許されていた新聞閲覧の際,新聞に書かれていたある言葉に目がとまったそうです。その言葉は,「父よ,彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」でした。その時,Kさんは,キリスト教のことは何も知らなかったそうですが,その言葉が心に強く迫ってきて,今まで自分がどんなに悪いことをしてきたのかということが分かり,目から涙があふれ出て止まらなかったそうです。そして,今度こそ薬を絶対にやめようと決心し,刑務所から出所後,ダルクの会に入ったそうです
 Kさんは,ダルクに入会後,薬を断つことができ,会に関わりのあるクリスチャンの方々の導きで,教会に通うようになり,今では,クリスチャンになりたいという思いがあるそうです。
 私は,Kさんの証を聞いて,主イエス・キリストの御言葉は,本当に救いが必要な人には,すごい力を発揮するんだなということを改めて実感することができました。イエス様は,今この時も,失われた子羊を探して働かれています。神様の愛に感謝!愛する小泉町教会の皆様,再会の時までお元気で。
                S.T兄

2018-07-03

2018.7.1

若者たちへの叫び 〜
“若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい、・・・青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
(コヘレト11:10〜12:1)”

 先週火曜日、奥田で起きた刃物や拳銃によって二人が殺害されるという事件が日本中を揺るがしました。21歳で、陸上自衛隊で勤務した事のある青年による残酷な殺人事件でした。それに先立って、先月の新幹線殺傷事件を起こしたのも22歳の青年でありました。彼らに何が起きたのでしょうか。新幹線事件の犯人は、しきりに“俺は死ぬんだ、生きる価値はない”と語っていたそうです。生きてきた日より生きていく日がまだまだ長い、将来への希望を抱いて生きるはずの若者が希望を失い、自分自身の存在の価値を見出せない現実をどう見るべきでしょうか。
 とりわけ自分自身の人生を否定することにとどまらず、他人の命を害することまでも平気で行ってしまうことこそ、今現在の日本社会が抱えている最も大きな問題ではないかと思うのです。そしてそのことを当たり前のように、もう解決の道がないというふうに諦めてしまう社会的雰囲気に包まれている現実です。
 神よりいただいた人生の中で最も輝くべき青春時代、私たちの愛する若者たちのために涙をもって執り成しつつ、父なる神の愛のメッセージを、声を上げて叫びましょう。“あなたは愛されている、あなたは全世界全宇宙に一人しかいないほど尊い、だからあなたの若さを喜び楽しみ、創造主を心に留めて生きよ”と。シャローム!

2018.7.1

『 キリストが形づくられるまで 』(ガラテヤの信徒への手紙4:8〜20)
 以前、「神なき時代」という言葉がしきりに使われ「神の死の神学」が盛んに議論され、実際に世界的運動にもなった時代がありました。その中で“神はすでに死んでしまった概念に過ぎない。世界は人間の力で変えて行くべきだ"という主張や運動が社会を覆うようになりました。そこで人は神を離れるところに自由があると思い、神を否定し、人が大切にしていたものや価値を神の座に置くことにしました。しかし、神なき自由どころか、自らが作った神々に支配される現実となってしまっているのです。
 パウロは、「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(9節)と問いかけます。「神から知られている」とは、ただ単に神から知られているという意味ではなく、私たちこそ「神の愛の対象であり、神との親密な交わりを許されている」ということを表します。そして神がその愛のしるしとして、罪の中で滅びていく私たちを救うために御子イエス・キリストをこの世に送ってくださったことを教えます。これこそ「福音」でした。
 パウロの伝えようとした福音こそ、神の独り子が旧約聖書の約束通り、十字架にかかりすべての罪の贖いとなり、すべての人々の身代わりとして死んでくださったことでした。ガラテヤの信徒への手紙は十字架にかけられたイエス・キリストに焦点を合わせているのです。また、パウロが語り続けていた福音とは、十字架の上で死なれたイエス・キリストが死より復活されたということです。そして復活されたイエス・キリストは天に昇り父なる神の右に座られ支配しておられ、ご自身の代わりに聖霊を贈られ今も神の民と共に生きておられるという、とてもシンプルな内容です。
 最初に救われたクリスチャンたちはこのようなシンプルな福音を携え、人々に“ただイエス・キリストの名に基づく罪の赦しと救い”を伝えたのでした。ガラテヤ教会が最初にパウロより受けた福音がまさにこれでした。しかし、開拓者のパウロが離れ去り、しばらく時が流れると、福音というシンプルな信仰に、少しずつ理論的説明が加えられ、福音を生きることより、福音を守るということに重点が置かれるように変わっていきました。ちょうどその時にガラテヤ教会に入ってきた偽りの教えが、旧約の律法の行いが伴わなければ救いもない!というものでした。罪人の救いはただイエス・キリストを信じる信仰によって得られると言われていた福音から、旧約の割礼や救われるための方法論、その後時代の流れの中で、礼拝の形式、マリア崇拝など、最初の福音がいろんなもので飾られるようになり、いつの間にか、信仰する喜びと感動が薄れ、福音でないものに支配されてしまうように変わってしまったのです。
 そこで叫ばれるパウロの言葉に耳を傾けましょう。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(19節)ここにキリスト教信仰の究極の形が示されます。キリスト者の内に「キリストが形づくられる」こと、私とあなたを通してキリストを見ることを神は望んでおられるのです。ハレルヤ

2018.7.1

〜大先輩でメル友〜
 先月18日に天に召されたN兄との一番の思い出は3年前の「喜びのメール事件」です。
 すでになかなか礼拝に来られない体調だったN兄。その時期私は閔先生と交代で、金曜日に礼拝のお知らせメールを兄弟姉妹に送る奉仕にあずかっていました。たまたまある週、メールを送るのを遅らせた時がありました。土曜の朝、私と共にいた姉妹が自分の携帯を見て「キャーしみちゃんNさんに連絡連絡!」その声は、はしゃいでいました。
 なぜなら、彼女にN兄からメールが来たのでした。「いつものメールが来ない、Sさんに何かあったの」と。ヒェ〜そんな風に心配してくださってたとは...。教籍番号第壱番の大先輩に、私からメールなんか失礼じゃないかしらと、いつも気後れしながら送っていたのに。
 嬉しさに興奮しちゃって指が震え、ボタン(当時ガラケー)がなかなか押せなくてもっと焦ったのを覚えています。
 それからは気後れせず喜んでメールを送りました。豊かな信仰の大先輩だからこそと思い、教会・兄弟姉妹のためのお祈りのお願いを添えて送ることもありました。ときどき、返事をいただきました。私に「忙しそうだけど無理しないように」と書いてくださったこともありました。最後の返信はある日曜の朝「行きたかったけど無理ですごめんなさい」でした。先に召されたM兄もN兄も、今も私の携帯(今はスマホ)の住所録に名を置かれ、それを見るたび心の中でメールを送る私です。

2018.6.24

〜 神学校週間を迎えて 〜
 教会の歴史は証人たちの歴史です。初代教会のペトロを始めとする12弟子と7人の執事たち、そして各時代、世界各地域における証人たちの献身によって教会は成長を続けることができました。
「証人」(ギ:マルトゥスμαρτυς)は「殉教者」という意味から出た言葉です。すなわち、キリストの証人は命をかけてキリストの福音を宣べ伝える覚悟をもって生きる存在と言えましょう。先週のリビングライフでは「ステファノ」の物語が主な内容でした。ステファノ(「冠」の意味)は教会の歴史における「最初の殉教者」です。彼はまさに殉教の死を覚悟しての福音宣教に臨みます。そして聖書はステファノの殉教から、エルサレムから世界へと福音が広がっていったことを記しています。
 日本の地においても多くの殉教者の血が流された歴史があります。しかし殉教者の犠牲によって福音が広がるどころか、むしろ隠れてしまうことになりました。そしてなかなか隠れたところから公に福音を告げ知らせる教会や働き人が見えない現状です。どうすればいいだろうか・・・。しかし私は信じます。一人も滅びることを望まない神は、日本の歴史の中の殉教者たちの犠牲を無駄に、そのままにして置かれる神でないことを。
神学校週間を迎え、西南学院大学、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校で学んでいる神学生たちと教えている先生方が、今一度キリストの証人となることを確かめつつ、福音を携え世界のどこへでも快く遣わされ、救われる人を起こすことができますように…、また、わが群れから献身者が起こされることも期待し執り成し祈りましょう。
“死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。(ヨハネ黙示録2:10)”

2018.6.24

『 証人たちの応援 』ヘブライ人への手紙12:1〜3)
 伝道開拓から58年、富山伝道所から今日の富山小泉町キリスト教会になるまでの歩みのうちに、神は時に適って働き人を与えられ、御業を成し遂げてくださいました。その神の御手の業は私たちを通して今もなお続けられていることを讃美いたします。
 先週の6月18日、教会の出発時から58年間の歴史を共にして来られたN兄が召天されました。23歳の若さで教会開拓に加わっていた青年、また教籍番号1番という象徴的存在としてわが教会を支えていたN兄は、81歳という神よりいただいた人生を全うされ、今は天の御国で先に召された証人たちの群れに加わりました。恐らく今は他の証人たちと共に、地上に遺された私たちのために応援の拍手を送ってくださることでしょう。   
 私はN兄の葬儀を終え、主日礼拝の宣教を準備する中で、ヘブライ12:1〜3の箇所を思い浮かべました。ヘブライ人への手紙を書いた記者は、今を生きながら福音伝道のためにこの世の苦難に遭っている私たちに向けて、目には見えないが、「おびただしい証人」が応援のエールを送っていることを告げています。ここでの証人とは、キリストの十字架と復活の証人として信仰を告白し、自分が得た福音を宣べ伝え、天に召され、今は天の御国にいる信仰の先輩たちのことを指します。本日の御言葉は、天にあるこれらの証人たちが、今福音の証人として信仰の競走を続けている私たちを見守りながら、応援の拍手を送ってくれていると記しているのです。
そうです。私たちはまさにおびただしい群衆で埋め尽くされている競技場でひたすら走る競技者のようなものです。そのおびただしい群衆の中には、先日召されたN兄をはじめ、小泉町教会の歴史を刻んできた証人たちが天国の勝利の栄冠をかぶって私たちの走りに拍手を送っているのです。
 もちろん私たちの走りの中で、つまずき倒れてしまう時もありますし、ところどころ厳しい障害物に引っかかる時もあるでしょう。しかし、私たちの前には主イエス・キリストが模範となられ、キリスト御自ら私たちと共に走る同伴者となってくださるという約束がなされていることはいかに幸いなことでしょうか。
クリスチャンは天国を見上げつつ、今を生きる存在です。今神の家族を押しつぶそうとする重荷や罪があるでしょうか。また、皆さんを悲しませている苦難、迫害がありますか。そこで気力を失い疲れ果ててはいませんか。ぜひ、覚えてください。神の家族お一人お一人のために、天の栄光と喜びを捨て、恥をもいとわないで苦しみを受け、十字架の死をも耐え忍び、今は天の御国で私たちのために執り成し、聖霊を通して共に歩んでおられるイエス・キリストを。その主イエスを見つめながら、お一人お一人に定められている競走を忍耐強く走り抜くことです。主イエス様が栄光の冠を備えて待っておられることを信じ、互いに励まし合いつつ主に喜ばれる共同体を作り上げていきましょう。
                  

2018.6.24

 R姉の家で行われている中国語礼拝に5月の第二日曜日から、参加しています。初対面の方もいるので、テーブルを囲んで皆が寄り添い、各自の近況や自己紹介などを聞くことから始まります。それが一巡すると、決められたプログラムがないアットホームな中で皆が讃美歌を歌い、礼拝が行われていきます。   
 閔先生が日本語で宣教の御言葉を語り、それをA姉妹が中国語に翻訳して兄弟姉妹たちが聞くという形で進んでいきます。日本で暮らして何年も経っている方が多いので、最低限、片言の日本語は話せますが、宣教で語られる御言葉の微妙なニュアンス、深い部分などは、やはり母国語で聞いた方がよくわかるからです。フリーの時間は、皆さんの流暢で元気な中国語が、私の頭の上を飛び交います。中国語ってスピード感、半端ないです!(^o^)
 中国語礼拝に集う方々の多くは、信仰に篤く、また神様に対してストレートで熱い思いを抱いておられます。それを目(ま)の当(あ)たりにして、とても良い刺激を受け、信仰について考える時を与えられました。
 今はそれぞれの国の言葉で話す私たちですが、天の御国には、きっと言葉の壁もないでしょう。今もこれからも、神の家族として、愛し合いながら御言葉の恵みを共に味わいたいと思います。 
                 S.Y姉

2018-07-02

2018.6.17

〜心を一つにして 〜
 “そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒2:46〜47)”
 先週のチャペルコンサートは例年より多くの方が集われ恵みも多いひと時でしたね。ミルトスの3姉妹の神の愛に輝く演奏をはじめ、共演されたカペラの方々の美しいハーモニー、また發田姉の洗練されたピアノも素晴らしかったと思います。
 しかしいつも何より嬉しく思うのは、神の家族お一人お一人の喜びと感謝に満たされた心からの奉仕こそがチャペルコンサートをもっと輝くものに作り上げたということでしょう。チラシ作成、チラシ配り、駐車案内、掃除、受付と案内、司会、礼拝奉仕、軽食、写真撮影、執り成しなどなど、一つ一つの奉仕が美しく組み合わされて得られた祝福であったと思います。
 6月のリビングライフのテキストは使徒言行録です。初代教会の魅力溢れる姿と、救われる人が日々与えられる成長物語が描かれています。その中で浮き彫りのように目が留まるのが「心を一つにして」という言葉でしょう。12使徒は12使徒の役割を、7人の執事は教会から求められる奉仕の役割を、また、各信徒たちは各自に与えられた賜物を教会共同体のために喜んで用いました。しかしこれらすべてを一つに合せ、美しい教会を築き上げられたのが聖霊であったことを忘れてはなりません。その聖霊が今のわが教会にも同じく声をかけられる。「心を一つにして!!!」と。

2018.6.17

『アッバ、父よ』 (ガラテヤ信徒への手紙4:1〜7)
“あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。(ガラテヤ4:6)”
 キリスト教が他の宗教と決定的に違うところは、信じている神との関係ではないかと思います。それこそ、神を「父よ!」と呼ぶことができるということでしょう。神は人を造られた。しかし人を支配するため、操縦するために造ったのではない。むしろ創造者である神と親しく交われる存在として創造されたのです。そのことを詩編8編では、“神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました。(6〜7節)”と記しているのです。しかし、人は神の人への御心に反抗し神に背く罪を犯したために、神の御国から追い出され罪と死の奴隷の身分に落ちてしまいます。その後、人類は神とは何の関係もない存在として滅びの道を辿るのですが、神は人の滅びて行くのを喜ばれず、神と人との関係の回復のために神の独り子イエス・キリストをこの世界に贈ってくださったのです。イエス・キリストは十字架にかかり人類の罪の贖いとして死んでくださったことによって、それまで切れていた神と人との間を繋いでくださったのです。  
 神はイエス・キリストを信じる信仰によって、罪の奴隷として死んでいく私たちが神の子となる道を全ての人に開いてくださいました。罪の奴隷から神の子となる身分の変化というのは、天地をも揺るがすような大きな変化です。しかも、使徒パウロは本日の御言葉を通して、私たちはイエス・キリストの十字架の愛によって、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるようになったと教えます。それだけではない。神は私たちを相続者とし、神の国を相続できるようにしてくださったというのです。
 「アッバ」とはアラム語で、幼い子どもが父親を呼ぶ時に使う「パパ」というとても親近感のある言葉です。聖書の中でこの言葉を好んで使われた方が、イエス・キリストです。主イエスは私たちが神を「アッバ」(パパ)と呼べるほど、その関係を親しいものに変えてくださり、神との親しい親子関係への確証をもたせるために聖霊をあたえてくださったのです。パウロは聖霊の助けがなければ「アッバ、父よ」と叫ぶことができないと教えます。
 今日は父の日です。願わくは、私たちの神に向かって「アッバ、父よ」と声を出して語りかけることのできる神の家族お一人お一人でありますように・・・。わたしたちに与えられたお父さんを愛し、お父さんのご苦労を覚えお祝いする日ですよね。わたしは父の日を迎え、神の家族と共に、真のお父さんである神を黙想し、父なる神と素晴らしい愛で結ばれている恵みの旅を続けたいと願っています。ハレルヤ!  

2018.6.17

 先週12日にトランプ大統領と金正恩委員長との歴史的な会見がシンガポールで行われました。日本の多くのマスコミは、金委員長の身長がハイヒールで高くなっているなど、この会見の本質的な意味を歴史的に語ることなく、報道したことにあきれましたが、この会見が実現した前提は、4月27日文在寅大統領と金正恩委員長が互いの国境線を超えて握手し南北首脳会談を実施したことによります。
 私は、2015年9月に北朝鮮との国境線DMZ非武装地帯にある鉄原で韓国YMCA同盟国境平和学校主催の国際平和会議に出席しました。国境平和学校は、2013年から韓国YMCA同盟平和生命センター所長ジュン・シソック博士が校長となり、韓国政府と連携し、南北朝鮮の平和統一と和解の研究のために開講されました。ジュン・シソック博士と教授陣や学生は、毎日国境のソイ山に登り平和の祈りを捧げています。
 私は、そのような人々の熱心な執り成しの祈りが、今回の平和会見に繋がったと信じます。文在寅大統領は、釜山YMCAの理事をされ、韓国キリスト教協議会の人権委員もされた方です。祈りをもって会見に臨まれたのだと思います。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」(テモテ一2章1節)これからも南北朝鮮の平和統一のために執り成しの祈りを捧げたいと思います。
                     S.S兄

2018.6.10

〜 嘆きを踊りと讃美に! 〜
“あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。  わたしの魂があなたをほめ歌い、沈黙することのないようにしてくださいました。(詩編30:12,13)”
 先週は大変忙しい一週間を過ごしました。チャペルコンサートの準備と同時に、夏のファミリーキャンプの準備会、小さな泉の村、エアコン工事、その他諸集会など、そのような忙しさの中、私の頭と神経を集中させたのは人生の最期を迎えようとしている一人の兄弟の様子でした。すでに死の宣告を受けた兄弟でしたので、常に電話の方に体の全感覚が集中していました。牧師便りの原稿を書いている今にも電話がかかってきたら病院の方に出かけなければなりません。牧師にとって優先順位があるとすれば、まずは神を礼拝すること、その次は病に苦しまれる方や死を迎えられる方への配慮です。とりわけ死を宣告された方とご家族との関わりは牧師にとって最も大切で、また難しいことです。
 私たちは人生の航海の中で、病や試練のゆえに、時には涙したり、不安に覆われたり、信仰が小さくなるような時を過ごしてきました。絶えず目の前に見えるものに心を奪われてしまい、神につぶやきたくなる時もありました。しかし、クリスチャンは目に見えるものに心を奪われず、目に見えないものに信仰と心を向ける人です。まだ、目には見えないけれども暗闇の後には必ず朝の黎明がやって来ることを信じる人です。今は粗布を着て嘆いてしまうけれど、後には喜びを帯として踊りと讃美の場へと導かれることを夢見る人です。ここに、クリスチャンの信仰の素晴らしさがあるのです。
 神の家族の皆さん、今涙がとまらないような夜を過ごしていませんか。希望の光が見えなく、暗闇に閉じ込められているような自分が見えるでしょうか。元気を出して賛美しましょう!主イエスが十字架にかけられた姿で、あなたの涙と暗闇の只中に共におられます。そして、やがて復活の勝利の光と喜びをもってあなたの人生に関わってくださることでしょう。 主イエスはあなたの人生の夜を決して一人ぼっちで歩ませることはなさいません。シャローム!

2018.6.10

『 いつどこでも讃美 』 詩編 34:2〜5)
 「いつくしみ深き」、この讃美歌は世界中で、そして日本においても最も愛唱されている讃美歌の一つです。教会では、礼拝をはじめ、祈祷会、葬儀、結婚式などありとあらゆる場において歌われ続けています。それではなぜ、「いつくしみ深き」という讃美歌はこれほどまで愛されているのでしょう。この歌には、救い主なるイエス・キリストが神の子どもたちのためにどのような働きをされ、どのように交わってくださるのかが示されています。
 この歌の作詞者は、ジョセフ・スクライヴェン(1819〜1886)という名の19世紀のアイルランド人です。彼の生涯は、この世的には全く恵まれないものでした。大学卒業後に、結婚式を目前にしてその婚約者を湖の事故で亡くしてしまい、仕事においても破産してしまいます。スクライヴェンはその後アイルランドからカナダに渡り、教鞭を執りながら、不幸な人や貧しい人たちのための奉仕活動にその生涯を献げることになります。彼は、その奉仕活動の中で出会った女性と二度目の婚約をしますが、その彼女も結核を患い、帰らぬ人となるのです。彼は二度に亘る愛する婚約者との死別を経験し大きな悲しみに包まれることになります。もし私たちがこのような状況に置かれたらどのような反応を見せたでしょうか。恐らく神を恨み自分自身は呪われた人生であると嘆いていたに違いありません。しかし、スクライヴェンは、悲劇のただ中にあっても故郷のアイルランドで病に苦しむ母を慰めるために、詩を送ることになりますが、その詩が「いつくしみ深き」という讃美歌だったのです。まさに神を呪いたくなるほどの試練と苦悩を味わいつつも、彼は「悩み苦しむ自分を傍らで励まし、力づけてくれた友なるキリストを母に伝えたい」という思いでこの詩を贈ったのでした。
 そうです。主イエスは、弱い者、苦しむ者、悲しむ者、世の友から捨てられたと感じる者の友となって一緒に歩んでくださるお方です。その約束のしるしとなったのが、「十字架」なのです。この世の罪と全く関係のない聖なる神の独り子が、私たち罪人たちの身代わりとして十字架にかかり命を捨ててくださった。聖書では主イエスの十字架について次のように記しています。    
“彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5)”
 本日のチャペルコンサートを通じて、ぜひ共におられる主イエスと、その方のゆえにいつどこでも讃美できる恵みを知ることのできる皆様でありますように・・・。ハレルヤ! 

2018.6.10

〜「帰還後」の聖歌隊
 最近のディボーションでは、イザヤ書の後半詩編を通じて、神がイスラエルをバビロン捕囚から帰還させてくださる赦しと回復の恵みを味わいました。きっと、帰還後の礼拝では感動をもってこれらのみことばが歌われたことでしょう。
 帰還後「礼拝の回復」が最優先課題としていかに熱心になされたか「エズラ記」と「ネヘミヤ記」に記されています。
 神殿での奉仕に必要な「レビ人」たちが散らされた先から捜し集められました。そのときには、「慈しみ深い神の御手がわたしたちを助けてくださり」とエズラ8:18に記されています。
 聖歌隊の再編成とその奉仕はネヘミヤ12章に書かれています。レビ人の中から数名が「賛歌の責任を負い」、その仲間たちが「交替で賛美と感謝を唱えた」と記されています。
 詠唱者たちは、エルサレムの周辺に村を作って住んでいました。ネヘミヤの不屈の指導で城壁が再建されると、その奉献式のため皆がエルサレムに集められ、二つの合唱隊として組織されました。両隊は城壁の上を右と左へそれぞれおそらく賛美しながら進み、神殿で合流しました。そこで、両隊が心を一つにして大合唱を捧げたのでしょう。
 小泉町教会でも、詠唱・奏楽者、奉仕者、そして礼拝者にこのように恵まれて、与えられた主の宮で、今年も大いなる讃美の礼拝チャペルコンサート」を捧げることができ、慈しみ深い神の御手の助けに感謝いたします。「今日は、聖なる日」です。      
週報係

2018-06-08

2018.6.3

〜 愛が冷えて行く時代 〜
“しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分
自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を
知らず、神を畏れなくなります。(競謄皀藤魁В院腺押法
 先週の水曜祈祷会では、リビングライフの御言葉の恵みを語り合ってから、祈りの課題を分かち合いました。その中で、近頃の日本や世界情勢の激変と、それに伴う悲しい出来事と、苦しむ人々のために祈ってほしいというリクエストが、皆さんから寄せられました。
 聖書は、主イエスの再臨とこの世の終わりは必ずやってくると教えています。その教えを信じ、一人でも多くの人に救いの福音を知らせるため、命をかけて全世界に遣わされていた伝道者たちを覚えています。実際、初代教会の信徒たちは、「マラナータ、主よ、来てください」という信仰をもって、終わりの時を走り抜きました。当時の信徒たちは、主イエスが昇天されてまもなく戻って来られると信じていたため、世界情勢の変化、社会倫理や文化の堕落などに非常に敏感に反応しながら生きていたのです。・・・それでは、現代のキリスト者はどうでしょうか。本当に終末の時が来ることと、主の再臨を待ち望んでいるでしょうか。難しい質問かもしれません。なぜならば、多くの方から再臨があるとすれば、私の世代ではなく、もう少し後に来てほしいし、今の時をもう少し楽しみたいという声を聞いているからです。
 考えてみると、すでに終わりの時が来ていると言ってもおかしくない時代を生きている私たちです。しかし終末は来てほしくないため、終末を思わせる徴に対し、あえて目をつぶり、耳をふさいでいる私たちかもしれない。皆さんはいかがでしょうか。次週はチャペルコンサートです。しかし、ただ音楽を楽しむ時でなく、愛の福音が語られ歌われる時です。愛が冷えていく時代の最中、イエス・キリストの十字架の愛を生き、その愛を広める神の家族でありますように・・・。シャローム!

2018.6.3

イエスを着ていますか 』 (ガラテヤの信徒への手紙3:26〜29)
 パウロは、神の恵みを知ってイエス・キリストを救い主と受け入れた人が、いかに素晴らしい祝福に与っているのかを話し始めます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(26節)・・・ 律法の下では、私たちは皆が罪人でした。しかし、今や恵みの約束を通して私たちはキリストを知り、救いに入れられ、神の子とされる新しい時代の中を、生かされるようになったのです。神の呪いと裁きから逃れられない罪人が、神の子となるということ、これほど素晴らしい恵みがあるでしょうか。
 「洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(27節) パウロは、私たちが神の子とされることを洗礼(バプテスマ)の恵みを用いて「キリストに結ばれた者」、「キリストを着た者」と表現します。「キリストに結ばれた者」、これは植物の「接ぎ木」をイメージした言葉です。前の段落で、「親と子」のイメージを用いたパウロが、ここではキリストという台木とその台木に接がれた接ぎ木のイメージで、神と私たちとの関係を言い表しているのです。ここで興味深いことは、この二つのイメージのどちらも命の結びつきがあるということです。そうです。私たちは、キリストという台木に接がれて命をいただき、生きる者とされた。イエス・キリストに結ばれることで命の養いをいただき、愛を注がれ続けて成長していく。だから、イエス・キリストから離れては生きていくことはできないのです。洗礼(バプテスマ)は、そういう意味で、キリストに結ばれ命が流れるようになった出来事であり、また、キリストにある神の子としての、新しい霊的存在の誕生を表していると言えるのです。また、パウロはバプテスマを受けてキリストに結ばれることを、「キリストを着る」ことになると教えます。罪に染まっていて、神の御前にそのまま進み出ることのできない私たちに、父なる神はすべてを聖めるイエス・キリストという上着を着せてくださり、キリストによって、私たちは聖い者となったことを宣言してくださるのです。ここでの「キリストを着る」という言葉は、十字架のイエス・キリストに聖められ、日々の生活において主イエスに似た者として生きるという意味でもあります。昔から人の着る服によって、人のイメージを変えたり、その服によって生活も変えられるのを目の当たりにしてきました。同じように私たちがキリストを着るということは、その人がどんな人であっても関係なく、キリストと一つになることです。
 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(28節)・・・ そうです。主イエス・キリストの十字架によって罪赦され、キリストという上着を着せていただいたことによって、神は民族の違い、階級の違い、人種、性別の違いに目を留めることをなさらず、ただ「キリストにおいて一つ」になされると宣言されるのです。
 愛する神の家族の皆さん、隣を見てください。隣の兄弟と姉妹が着ているイエス・キリストという美しい服を見ていますか。互いにイエス・キリストを着ている者として誇り、キリストにおいて一つとされたことを喜びましょう。ハレルヤ

2018.6.3

三浦綾子旧約聖書入門
「11美しき物語・ルツ記」を読んで〜

 紀元前1150年から1050年のころ、イスラエル民族がエジプトを出てから、サウルやダビデが王となって出るまでの間の100年、ユダのベツレヘム飢饉があった。ナオミは、その夫エリメレクと共に、二人の男の子マフロンとキリオンを連れて、食を求めてモアブの地に行った。だが、その地で夫エリメレクに先立たれた。ナオミはふたりの男の子を成長させてこの二人とルツとオルパが結婚したが、この二人の男子も先立って行ったのです。嫁のオルパは泣き泣き姑に接吻して離れて行ったが、ルツはお姑さんの信じる神はわたしの神なのですと行ってナオミといっしょにベツレヘムの町へ行った。ルツは、ベツレヘムに行けば、異国の民となり差別されることがわかっているのに、ナオミといっしょに生きることを選びました。
 私はこのルツのような立場だったら、ナオミと生きることを選ばず、オルパのように別れたと思います。またルツは、キリストの系図の中にその名が書かれてあります。キリストは、罪のない方なのに、私たちのために十字架にかかってくださり、三日目によみがえられました。そして聖霊を私たちに与えてくださいました。人は生きて行く中で、いろんな課題があり、傷つくこともあります。苦しみにも会いますが、その苦しみの意味を思うとき、苦しみ「が」苦しみ「で」なくなることがあります。私はこれからは自分の益のためになることを求めず、ルツのように、主のしもべとして生きていきたいです。    
                  M.T姉

2018.5.27

〜 忙しさの中で 〜
“わたしの愛する兄弟たち、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。
主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは
知っているはずです。(コリント15:58)”
 いよいよ教会の一年間の歩みにおいて最も忙しい時期が始まっています。ペンテコステ礼拝、ピクニック、チャペルコンサート、ファミリーキャンプと5月から7月まで立て続けに執り行われる諸行事を前にして執事をはじめ奉仕者、神の家族お一人お一人も忙しい思いに駆られることでしょう。この世においても季節的に良い時であるため、学校や会社、町内などもいろいろと計画を立てていることを知っています。そんな中、神の家族の皆さんは時間的に余裕がなく、また体力的、霊的にも疲れを覚えていくかもしれません。
 願わくは、人間的な力に頼らず、聖霊の力をいただいて諸行事を執り行うことを心がけますように・・・。また、一人で頑張るのでなく、神の家族と共に力を合わせ、互いに励まし合いつつ主の業に臨みましょう。何か気になることや人があったら、先に怒ったり批判したりするより、まず一言祈ってから牧師や執事に話しかけてください。また、どのような奉仕をするにしても、その奉仕を主イエスがご覧になり喜んでおられることを覚えましょう。そして何より、教会の諸行事はただの行事で終わってはならないことを覚えましょう。毎年行われ、もうマンネリ化して喜びや感動が感じられなければ、その行事を行なう意味も必要もないのです。そして最も大切なこととして、すべての行事は主を知らない人々を招き救おうとされる神の御心の熱心が注がれる時であることを信じましょう。使徒パウロが勧めているように、”私たちが主の業に常に励むのは、私たちの苦労が決して無駄にならないことを知る“ことでしょう。シャローム!

2018.5.27

【本日の証し】
     『 いつか、青空』ローマの信徒への手紙8:18-30)   
 「ここはねぇ、窓からの景色が拡がり、青空が見えるんだよ。本当にありがたいよ。毎日、ありがたい、ありがたいの連続だよ!」水曜日に父を訪問しました。父は、101歳となる直前、約65年間住んだ渋谷の家を出る決断をし、私が監事をしている社会福祉法人賛育会のサービス付き高齢者向け住宅「清風ヒルズ金井」に引っ越しました。父がここでの生活を楽しんでいることに家族はホッとしています。
 「茂、いつかいいことあるよ。」日本がベトナム戦争支援を続け、沖縄を永久にアメリカの基地化とする1971年11月沖縄返還協定国会批准が決まった日に、高校2年生だった私は、沖縄ではなく修学旅行先の京都で自暴自棄となり、仲間と煙草を吸いながらウィスキーをがぶ飲みし、停学処分になりました。私を引き取りに東京駅に迎えに来た父は、「茂、お前が戦争反対や差別など世界のために活動していることは知ってるよ。でも、もっと身近なことからやったらいいんじゃないか。停学なんか気にしないでいいよ。いつかきっといいことあるよ。」私は、脳天を打ちつけられたようになりました。
 「お前のことをいつも祈っているよ。」修学旅行の途中で護送付きで返させられた新幹線の中の数時間、私の目は吊り上がり、父が「島田家の面汚し、勘当だ」と怒るだろうと予想しました。過激派のシンパだったため、いよいよ家を出て、より直接的で過激な活動に突入しようと暗い決意をしていました。私の予想に反した父の言葉に、私は正直戸惑いました。「お前が何をしようが、どんなことも神様は知っているんだよ。いつか必ずいいことがあるよ。だから、周りのことから始めたらどうかい。」と。私は、なんでそんなことが言えるんだと思う反面、安堵したような気持になり、互いを殺し合うようになった過激派の活動から目を覚まされたようになりました。
 「♪あ〜りがぁたや、ありがたや♪」1916年3月18日に日本橋の袂で生まれた父は、虚弱体質だったため3歳で母親と埼玉県飯能に移り住み、清流を望む自然の中で身体も丈夫になり、クリスチャンだった母親から聖書を学びました。1938年に陸軍に召集され、重機関銃の兵隊として訓練中馬にけられて入院、その間事務方に転じて、1940年南京に派兵、そこでYMCAに関わるようになりました。上官との衝突がきっかけとなり1942年1月にシンガポール戦線に転出され、第2次部隊の一員としてシンガポールに入りました。そこで中国人の母と出会ったのです。
 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8章28節)父の中で通奏低音のように流れている聖書の言葉です。感謝です。                                島田 茂  

2018.5.27

 僕の働いているH学童保育室は今年度からもともとH保育所があった場所に移り変わりふなはしアフタースクールとしてスタートすることになりました。
 もともと保育所があった場所なのでとても広く、子どもたちも開放的でのびのびと過ごしています。
 園庭も広いので晴れた日は外へ出て楽しそうに過ごしています。
 今までも自然豊かなところだったのですが、いまでは一層自然に触れることが多くなりました。
 毎日カエルやクモやドジョウなどを捕まえてきています。
 建物も変わるとともに中身もまた、大きく変えていっているところです。
「新しいぶどう酒は、新しい革袋にいれるものだ」というイエス様の言葉の通りにいろんなものを新しくして良いアフタースクールを作っていきたいです。
              S.H兄

2018.5.20

〜 聖霊による一致の讃美を! 〜
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは
過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙4:18)”

 先週木曜日の午後、二番町教会で「台湾エデン・盲人喜び合唱団」のコンサートがありました。目の見えない4人の兄弟たちは、素晴らしい歌声とユーモアのある言葉と証しをもって明るくコンサートを導いていました。きっとコンサート場に集まった会衆全員は自然と心が開かれ、心温まる感動に包まれたことでしょう。実に聖霊が働かれた恵みの時でしたね。そう、誰かの支えがなければ何もできないけれど、その4人の兄弟たちは暗闇ではなく光に包まれ、かえって光を放っていたのです。そのような明るさは主イエスに出会わなかったら得られなかったもの、その主イエスへの感謝と喜びを心からの讃美と証しをもって現していました。短いコンサートでしたが、神のなされる業の素晴らしさに賛美せざるを得ませんでした。弱い者を用いて強い者を辱められるという神の御言葉は真実です。
 今私たちはペンテコステの時を迎え、イスラエル中東において繰り広げられている虐殺と争いを見ながら、大きな悲しみに包まれています。2000年前、最初のペンテコステの日に起きた恵みこそ、国、民族、言葉、人種、性別、貧富の差など関係なく、すべての人に等しく聖霊が臨まれ、神の国が実現されたことを聖書は記しています。ペンテコステの日こそ、真の平和と和解による一致が実現された日、そのために聖霊は教会とキリスト者たちに臨まれ、今もなお同じく働いておられることを心に抱くべきです。
 本日は多言語で行われるペンテコステ讃美礼拝です。隣の方がどこの国の言葉で歌っていても、当惑せず、聖霊が私たちを神の子ども、神の家族と結んでくださったことを喜びつつ、声高らかに賛美いたしましょう。ハレルヤ! 

2018.5.20

『 聖霊が臨まれると 』ルカによる福音書4:16〜21)
 ハレルヤ!約束された聖霊を贈られた神を賛美します。本日はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。聖霊が来られキリスト教会が誕生し、イエス・キリストによる福音が全世界、地の果てまで広がるようになった、キリスト教会の3大祝日の一つです。ペンテコステの聖霊の命と恵みが神の家族の上に豊かに注がれますように・・・。
 いよいよ主イエスはメシアとしての働きの出発点に立ちました。その時、主イエスが告げられた最初の言葉が、イザヤ61章のメシア預言の箇所でした。旧約聖書で繰り返し預言されていた「救い主、メシア」こそ、ご自身であることを公に告げられ、メシアとしてこれからなされる御業が何であるかを教えてくださるのです。
 まずは、「貧しい人に福音を告げ知らせること」、それから「捕らわれている人に解放を告げること」、また「目の見えない人に視力の回復を告げること」、最後に「圧迫されている人を自由にし、主の年を告げること」でした。そうして、これらの預言の御言葉が実現したことを宣言されます。
 これらのメシアとしての主イエスの働きの内容を通して分かることは、主イエスはすべて間違っていたことを回復してくださるお方だということです。それは、人間を常に苦しめていた経済的、政治的、身体的圧迫からの回復であって、真の癒しがなされることを告げているのです。とりわけメシアとしての主イエスの目が、経済的、政治的、身体的な社会的弱者たち、疎外された者たちに向けられ深い愛と憐れみをもって、元来の完全で健康な状況に戻してくださる。主イエスが来られたことによって、すでに「恵みの年、神の国」が実現したことを宣言しておられるのです。
 しかし、ここで私たちが注目して見るべきことは、これらのメシアの働きには前提があるということです。そう!神はメシアを通して真の癒し、回復の恵みを与えられる。しかし、そのメシアなる主イエスの働きを始めさせその御業を支える方こそ、神の御霊、聖霊であるということです。「主の霊がわたしの上におられる。」すなわち、聖霊が主イエスの上に臨まれるところで、新しい神の創造と神の国が実現されることになるのです。そうです。主イエスの働きは聖霊が臨まれたことから始まったのであって、主イエスのすべての働きは聖霊が共になされたものであって、その働きの中心が、「癒しであって、回復」であったわけです。なるほど、主イエスは聖霊によってマリアに宿られ、聖霊に導かれて荒野に行ってサタンの誘惑を受けられました。そして、聖霊によってその誘惑に打ち勝ち、また、聖霊に満たされて癒しと回復の恵みの年の業を成していかれたのです。そして聖霊に支えられて十字架の道を歩まれ復活の勝利を成し遂げられたのです。すなわち、主イエスの働きは聖霊によらずになされたことは何一つありませんでした。
 そして主イエスはペンテコステを迎える私たちの群れに、約束された聖霊を待ちなさいと命じられ、聖霊に満たされて生きることを望まれます。愛する神の家族の皆さん、あなたはどうでしょうか、聖霊を待ち望み、また聖霊に満たされ、聖霊に導かれて歩んでいるでしょうか。ぜひ聖霊に満たされ癒しと回復の働きに励んでいきますように・・・。ハレルヤ! 

2018.5.20

〜庭の雑草、畑の雑草
 家の周りや畑の草とりを毎日、少しの時間にも草とりをしていますが、抜いても抜いても生えてくる雑草、こんなに抜いても雑草はなくならないのだ、何故だろう?草はどこでも生きている、道端、畑、川の土手、いつも乗る駅のホームの割れ目からも、それが雑草によってその草の種類が違うのである。不思議なことである。アスファルトの割れ目にも雑草の花が咲いている。それがとっても美しく、抜くのに惜しくて、素朴にひっそりと咲いているのを見ると、私は手をすくめるのである。神様がこんなコンクリートの割れ目にもひとつの生命を芽ばえさせて下さっておいでになるのだと思い。これは旧約聖書の頃からあったのだと信じます。
 それが場所によって生えている雑草の種類が違うのである。不思議不思議川の土手の草は頑固ですごく根が深く大雨が降った時には土手をしっかりと守って洪水を防ぐためにしっかりと守ってくれるように、雑草には適材適所があると思います。
 神様がそこの場所に必要な雑草を与えてくださったのだと、感謝しております。あまり愚痴を言わないようにして農作業に励みたいと思います。
               A.M姉