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富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

2016年クリスマス諸集会 於:小泉町教会

●英語クリスマス礼拝 12月11日(日)14:00-
●こどもクリスマス 12月17日(土)10:30-
●クリスマスイブ礼拝(キャンドルサービス)12月24日(土)19:00-
●クリスマス礼拝 12月25日(日)10:30-
※お気軽にお越しください。駐車可、誘導します。

富山市民クリスマス(メサイア合唱)12月16日(金)19:00-<市内教会と協働, 会場富山市民プラザ>

2016-11-22

2016.11.20

〜 互いに思いやるクリスマスの季節 〜
 先週は小泉町教会の神の家族と牧師にとって大変慌ただしい一週間でした。S兄の召天と葬儀諸式、牧師の連盟の定期総会出席と牧師のいない中で行われた諸集会、H兄とK姉の結婚式、そして今日の午後からは小さな泉の村に出かけることまで・・・。何より私が嬉しく思っているのは、突然の奉仕の依頼にも慌てない、神の家族の皆様の心からの奉仕と配慮、執り成しです。まさに「神の家族」と呼ばれるにふさわしい、恵みに富んだ一週間でした。こころから感謝します。
 また、これからはクリスマスと年末に向けて忙しい時を過ごすことになります。キリスト教会にとっては一年中最も力を注ぐべき伝道の時であり、一年間の働きを締めくくる時でもあります。しかし神の家族にいつもお願いしているのは、忙しさにイエス様との交わりと御言葉の黙想が埋もれてはならないことです。忙しいからぜひ、心を静め御言葉を黙想し、祈りの中で神の知恵と力をいただいて諸行事に加わりましょう。そして何より忘れてはならないこと、神の家族の中に様々な悩みや弱さをもっている方々への思いやりと愛に根差した執り成しがそれです。救い主のお誕生によって実現した神の祝福を心がけながらクリスマスと年末の時を過ごして参りましょう。
“いと高きところには栄光、神にあれ、
   地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカによる福音書2:14)”

2016.11.20

『小さな群れよ、恐れるな 』ルカによる福音書12:31〜34)
 2000年前、イエス様を慕い求めてきた人たちは数えきれないほど大勢いました。しかし、実際にイエス様に従い、神の国を求める弟子たちは小さな群れに過ぎませんでした。12名の小さな群れであった弟子たちは、自分たちの目に見える小ささのゆえに不安を抱き恐れていたことでしょう。ここで「群れ」と訳されている言葉は元々「羊の群れ」を意味します。ですからイエス様が弟子たちを「小さな群れ」と呼ばれていたのは、彼らを弱々しい羊の群れと同じように見ておられたことでしょう。羊の群れは羊飼いがいなければ何もできないからです。
 人は大体自分自身が多数の群れに属している時に安心感を覚えます。しかし自分が目を引くことのできない小さな群れに属していると常に不安と恐れにさらされるようになります。これから弟子たちに迫ってくるだろう苦難と迫害、食べることと着ることなどで不安が広がり、恐れに捕らわれてしまう・・・。これは今現在の日本社会においても変わりはないでしょう。圧倒的なこの世の壁を前にしてキリストに従おうとする人たちは小さな群れに過ぎない。
 しかしそこでイエス様の言葉が弟子たちの小さくなった心を揺れ動かします。「小さい群よ、恐れるな」。「恐れるな」という言葉は聖書全体を貫通する、神ご自身が、神の民への約束の言葉として、「神が共におられるから恐れるな」という意味になるのです。真の羊飼いであり全能者なる神が共にいてくださるのであれば、たとえどんなに小さな者であっても大いなる力を発揮することができるはずです。それだけではない。イエス様は神の国を信じ、神の国への希望と期待をもって生きる小さな群れを喜ばれるお方であると紹介しています。
 次に、イエス様は神の国にふさわしい者になるための二つの命令を示しておられます。まずは、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」ということと、「富は天に積みなさい」ということです。「施し」とは旧約聖書から信仰共同体に求められる大切な愛の形です。この世の富とは、神から与えられたものであり、神に返すべきものです。ですから、貧しい人への施しは神への信仰の現れであり、神と人への愛の現れであるのです。また、「富を天に積む」とは、私たち人が最も大切にしている富を、神の御心に適うところへ、すなわち神の国のために用いることを意味します。そして「富を天に積む」具体的な形として示されているのが「施し」なのです。
 私たち小泉町教会の小さな群れは今日の礼拝後、小さな者たちへの施しに参ります。これはただの人に見せるための慈善活動ではありません。イエス様の約束に基づいた神の国への信仰による施しであって、天に富を積む恵みであることを心にしっかり刻むべきです。イエス・キリストはご自身の体と血を貧しい人たちのために施してくださいました。そのことによって神の国を実現することができたのです。小泉町教会の小さな群れもイエス・キリストに倣い、神の国を日々の生活の中で味わい、神の国の祝福に与りますように・・・。ハレルヤ

2016.11.20

富山マラソンにチャレンジ〜
 仕事は毎日残業で忙しく、家に帰れば食べる→お風呂→家事→疲れ果てて寝る、の繰り返しに疑問を感じる日々。体力をつければ疲れにも病気にも強くなり、もっと子供たちと遊ぶことができると思った私は自分へのチャレンジとしてフルマラソン完走を2016年の目標とした。早速富山マラソンにエントリーし練習開始!とはいうものの、練習する時間もない慌ただしい毎日。休日はゆっくり寝たいところだが、早起きして練習をすることにした。初めはただただ疲れるだけの辛い練習だったが、家族の為、自分の為と気持ちを奮い立たせ走ることを続けていると、10キロは気持ちよく走ることができるようになっていた。その後も、家から15キロ程離れた公園に子供たちを連れて遊びに行った後は走って帰宅、妻をパン屋へ連れて行った後は走って帰宅というように工夫しながら練習を続け大会前には20キロ走れるようになった。 しかし42.195キロ練習することがないまま本番を迎えた。不安な挑戦だったが、皆さんの祈りや家族の応援に背中を押されもはや自分だけの戦いじゃないという気持ちで走り、また同じ挑戦をしている他人ともアイコンタクトなどで励まし合いながら4時間22分で無事完走することが出来た。この挑戦に何か感じるものがあったのか、これまで私にあまり甘えてくることがなかった長男がよく私に甘えてくるようになった。とてもとても辛い挑戦だったが、その先には皆の笑顔が輝いて見えた。
              H.S兄

2016.11.13

〜 何か思いがけないことが生じたかのように驚かない! 〜
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。”(汽撻肇蹐亮蟷罍粥В隠押
 最近の私たちの身の周りをはじめ世界中における出来事を見ると、なかなか理解に苦しむことが続いています。とりわけ私たちが祈り求めていたことが正反対の結果になるという経験をする中、戸惑い、辛く悲しい思いに捕らわれてしまうのです。“家族の救いを求めているのに突然病気にかかったり、福音を伝えているのに迫害を受けたり、世界の平和を祈っていたら戦争が広がってしまう・・・。神は私の祈りを聞いておられないだろうか、神は私たちに祝福どころか災いをくださるお方ではないか”と失望し落ち込んでしまう私たちではないでしょうか。
 しかし聖書は教えてくださいます。“今あなたの身に起こっていることで、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。”と。私たちの身の周り、いや世界各地で起きている出来事は、すべてが神の支配のもとで行われているものであって、“むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。(汽撻肇蹐亮蟷4:13)”と励ましておられるのです。ですから、小さくならず、不安に落ちず、聖霊様から来る人知を超えた平安と愛、希望に満たされることです。
 神の家族の皆様、あなた方は神の愛してやまない大切な子どもです。シャローム!

2016.11.13

『 幼子の口によって 』詩編8:1〜10)
“主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。(8:2)
 この聖句を繰り返して黙想し口ずさむのであれば、私たちは日常生活における慌ただしく事細かなことから宇宙に満ちた創造者の御手による神秘の前に立たされることになります。まさに詩篇8篇は最初から最後まで大いなる神、その恵みを褒めたたえていることが分かります。人が素晴らしい何かを見て“おー!”と感嘆できるということほど、造された者に求められる姿です。その反面、何を見ても驚くことも、感動することも知らない人は造られた者として持つべき魂の命の泉を失ってしまった人であるでしょう。
 詩人は、世界中に満ち溢れる神の息吹を感じています。それはあまりにも美しく、圧倒的です。彼は幼子と乳飲み子の口によって主の威厳をたたえると述べています。すなわち私たちの存在が神への賛美そのものであるという意味でもあるのです。そこで詩人はいよいよ、この詩のクライマックスに該当する言葉をもって賛美します。
“そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。(8:5)” 
 創造者の前に立っている自分自身を見つめると、神の愛を受けるほどの資格などいっさいもっていないような惨めな存在であることを認めざるを得ません。神の似姿で造られ、神の代理人という使命をいただきながらも、罪による欲望の奴隷となってしまい、もともと神より授かった尊い命の働き人としての価値を失っている私たちであるのです。なのに、創造者であり、父なる神は罪と汚れ、弱さ、様々な問題課題の中で苦しむ私たちへの愛をあきらめておられない。私たち罪人たちを憐れまれ、ご自身の命を捨ててまで救い出してくださるのです。ここに私たちの存在の根拠があるのです。
 本日は子ども祝福式、父なる神は私たちに「幼子と乳飲み子のような」心と信仰をもって神の前に立つことを望んでおられます。幼子、乳飲み子はただひたすら目に見える神の業に素直に反応します。大人のような偏見も、頑なさもなく、自分を飾ることもしません。幼子は親の胸に抱かれて平和を得、親の愛の眼差しに満足します。
 小泉町教会の小さな者一人一人が、神の恵みとその愛に素直に反応し、日々口をもって大いなる神の御業をほめたたえ、幼子のように神の国を信じ、神の国の恵みを味わい生きることができますように・・・。ハレルヤ

2016.11.13

〜ロックドアウト〜
 車の中にキーを置いたままでロックしてしまったり、オートロックになっているホテルの客室で鍵を持たずに部屋を出てしまったり。その締め出された状態のことを私は「”ロックドアウト”された」なんて言っています。
 そして、つい先日、私は”ロックドアウト”されてしまったのです。近頃、公私共に忙しい中、気持ちも態度も高ぶった状態になっていた私は、土曜日に休日出勤し、おそらく”どや顔”と言われているような形相で仕事を終え、事務所のドアをバン!と締め・・・ロックドアウト! 帰りに施錠しなければならないビルの入口の自動扉の鍵、帰宅する車のキー、我が家の玄関の鍵は、私に鍵をかけられた部屋の扉の中に置き去り・・・。私は寒い廊下にポツリと独り、「秋の日はつるべ落とし」とはよく言ったもので、心と一緒にあたりも暗く、冷え込んでいく中、泣く泣く同僚に連絡をとり、助けに来てもらった惨めな私。高ぶり、”どや顔”だった私は消えた・・・あ〜思い出したくない!
 最初、高ぶった私に愛の鞭を打たれた神様の話を書かせていただくつもりでしたが、ペンを執る段になり、ロックドアウトされた惨めな私は、神様をロックドアウトして締め出している愚かな私だったじゃないか!と、気付かされました。
 それなのに、ロックドアウトされたときに私の手元に携帯電話を置いてくださっていた神様は、なんという情け深いお方なのでしょう。私は永遠の「神様の愛」をすぐに消えてしまう朝の露のようにしてしまっていました。(ホセア書6章4節…先週のメッセージより)
この原稿をお受けし、ひとつ気付くことができたことに感謝しています。神様は寒く暗いところで、両手を広げて待っておられるのかな…
 神様、ありがとう。ごめんなさい。
                 K.I姉

2016.11.6

 〜 肉による同胞のために 〜
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となっても よいとさえ思っています。(ローマ9:3)
 先週一週間は私にとって悲しみの時、嘆きの時でした。海の向こう韓国から聞こえてきた衝撃的なニュースのためでした。どう考えても信じがたい大統領に関わるスキャンダル。国全体が一人の女性によってもてあそばれてしまうという前代未聞の出来事に驚くばかりです。玉ねぎのように皮をむいてもむいてもまた出てくる犯罪の数々・・・。
 以前から韓国の政治、経済、宗教、その中でもキリスト教会の堕落を訴え、神の裁きを語ってきた私でした。まるでバビロンの地から祖国の南ユダ王国の滅亡を預言していたエゼキエルのように、また肉による同胞であるユダヤ人たちの救いのために命をかけて執り成していた異邦人使徒パウロのように、自分の祖国の罪とキリスト教会の堕落のゆえに心を痛め執り成し続けてきました。
 私は前回の牧師室便りにおけるアメリカ大統領選の話に加え、今韓国で起きている一連の出来事の根本的原因こそ、韓国キリスト教会の堕落にあると思っています。すでに韓国社会の既得権益となっているキリスト教会が、韓国社会の不正、腐敗、偶像崇拝、倫理の崩壊などに目をつぶってしまったがために、悪しき力が社会の隅々にまで潜み、影響力を広めることになったのです。昔イスラエルの国がそうであったように・・・。求められるのは、まず、キリスト教会とキリスト者一人一人の悔い改め、そこから神によるリバイバルが始まるのです。私は信じます。神が韓国を鞭を通して新しくされ、主のために再び用いられることを・・・。シャローム! 

2016.11.6

『 人の愛、神の愛 』 (ホセア6:1〜6)
 主なる神はわたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。(4節)”と嘆いておられます。神が求めている道とは全く関係のない違った道を歩もうとするイスラエルの民に向かって、心から嘆いておられる神の御声です。
 続けてホセアは、神が告発する人の愛について、“お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ!”と宣言します。ここで“愛”と訳されている言葉は“ヘッセード”、契約関係に基づく誠実な愛のことです。聖書における「ヘッセード」とは、「夫と妻の結婚の誓約」を交わすように、ご自身の民に向けられた神の愛を表す言葉であると同時に、神に対するイスラエル民からの誠実なる愛を表す言葉でもあります。すなわち、神はホセアを通じてイスラエルには本当の「ヘッセードの愛」がないことを嘆いておられる。神が私たち神の子どもたちと交わされた愛は永遠に変わることのない愛の約束だったのに、イスラエルの愛は朝の霧のような、朝の太陽の光にすぐに消え失せてしまう露のような、たった一瞬の愛に過ぎないと告発しているのです。
わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。(6節)”
 夫なる神が喜ばれるのは「ヘッセードの誠実な愛であって、神ご自身を、全人格をもって知ることです。何かの行いや形だけの関係ではない。」という言葉です。
 聖書で教える神は、愛する子どもたちを裁くことを好まれる方ではありません。むしろ子どもたちの帰りを待っておられるお父さんであり、愛する妻のために命まで捨てる愛で贖われる夫なる神です。神様の御心は裁きと滅びでなく、癒しと祝福です。神は子どもたちが自らの罪を悟り、十字架の赦しのもとに帰ってくることを待っておられるお方、この世の欲望と罪の誘惑に陥り、深い絶望の暗闇の中を彷徨っていた人が主のみもとに立ち帰ることを切に待っておられるお方なのです。ここに私たちが失望し落胆しなくてもいい理由があるのです。たとえ、あなたが死の陰の谷を歩むことがあっても、希望の歌を歌える理由がここにあるのです。
 イエス・キリストの十字架のもとに立ち帰り、悔い改め、心を注いで主を知ろうとする人、心を注いで神のヘッセードの愛を黙想し、生きた礼拝を献げようとする人を主は喜ばれ、その人を通して神は深い暗闇に包まれている世界に光を照らしていかれることでしょう。日々の実生活を通して神のヘッセードの愛を翻訳して生きる小泉町教会のお一人お一人でありますように・・・。ハレルヤ

2016.11.6

〜ハングル教室の恵み〜
 9月からハングル教室が始まりました。「ハングル」とは正確には文字のことです。なぜなら「韓国語」か「朝鮮語」か区別が微妙だからです。世界の権力争いの中で南北に引き裂かれた民族の悲しみが、「〇〇語」の定義すら許してくれないことからまず私たちは知るべきです。
 洪正實姉を講師に迎えてのハングル教室、現在固定受講者は5名ですが、9月からの6回において「韓国旅行中」を除いて欠席者は一人もなしという熱心な学びとなっています。閉講時も有志が集まり自主学習や情報交換の場となります。
 祈りで始まり、「神は愛です」「イエスさまのお名前で祈ります」など信仰の表現も学びながら、ハングルの読み方と発音、日常会話の学びを進めています。ハングルがカタカナや英字に見えることから突飛な「暗記法」が発案されて笑いが起こります。その時間平行して若者の集いを導いておられる閔師も時々顔を出されます。
 思えば日本の侵略戦争下で朝鮮半島の人々は日本名・日本語の使用を強制されたのでした。今その暴力を赦し、日本の福音による救いのために、かつての侵略国の言葉で感動の宣教をされ、ひとりひとりを主の前へ導く牧会をされている牧師御一家への感謝と尊敬をこめて私たちは愛する兄弟国の言葉を学びます。
                S.M姉

2016-11-03

2016.10.30

〜 宗教改革礼拝の回復から 〜
 秋になって学校や町内会、会社、団体など、日曜日を用いて運動会やフェスティバル、総会などを立て続けに開いています。今日も娘の小学校でフェスティバルがあって、学校側に、わが家がクリスチャンであるため礼拝を優先しなければならないことを伝え、理解を得て、娘が登場するプログラムを礼拝の前の時間にやってもらうことにしました。快く受け入れてくださった先生や学校側に感謝しつつ、常にこのような葛藤に立たされている神の家族の苦しみを、愛する主が励ましてくださいますように祈っています。キリスト者は、礼拝者、礼拝によって一週間を始め、礼拝によって一週間を終えることを心がける存在です。  
 しかし、日本社会において礼拝優先の生活を貫くことは大変厳しいことでしょう。とりわけ週末も出勤する職場をもつ方々はなおさらのことだと思います。どうすればいいだろうか…。そこで私が赴任した時から皆さんに提案したのが、「神の家族が希望する時間に合わせて、拝を献げるようにしたい」ということでした。その結果、今は土曜日の夕礼拝が定着していますし、その他、毎週ではありませんが、日曜日の朝9時、午後7時30分などの礼拝が献げられています。先週の日曜日は皆さんの要望で、夕方6時、7時30分、夜8時30分と三回の礼拝がありました。ある面、時間が定まっていないということによる牧師としての大変さもありますが、その大変さをはるかに超える恵みが、毎回の礼拝から与えられていることを賛美いたします。
 本日は宗教改革記念礼拝礼拝が形式化され、この世の価値観に染まっていた時代、信仰の先人たちが命をかけて守り抜いた礼拝への感動と命を大切に受け継ぎ、主に喜ばれる神の家族となりますように・・・。シャローム!

2016.10.30

宗教改革を生きる 』〜光の中を歩む〜(汽茱魯佑亮蟷1:5〜10)
 宗教改革の三大原理として知られるのは、「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」です。それに加わるもう一つの大切な原理こそが、「万人祭司」です。全てのキリスト者は、神の御前に「王の系統を引く祭司」であることをペトロは示しています。“あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。(汽撻肇2:9)”・・・マルティン・ルターが宗教改革を始めた当時のローマ・カトリックでは、聖職者と信徒を上下関係に分け、聖職者の中にも段階を作る制度がありました。ルターはこれを批判し、神の御前には上下関係や段階のような差別はなく、すべての人は神の御前では等しく尊い存在であることを告げました。そのためプロテスタント教会においては、基本的に牧師と信徒の上限関係はありませんし、あってはならないことです。ただし、それぞれに委ねられた職務の違いを重んじ、敬い合うことなのです。
 とりわけ、本日の御言葉に示されている「光の子として歩む」ために強調されているのが、「悔い改めと罪の赦し」の問題です。私たちは知っています。救われたキリスト者であれば、誰もが主なる神の御前に祭司として、自らの罪の赦しを受け取ることができるばかりでなく、同時に教会共同体における互いの罪の赦しのためにも執り成し合うことができるということを。聖書が教える「悔い改め」は、今まで罪の道を歩んでいた私たちの心の変化、すなわち私たちの物の見方、価値観、生き方が変革され、私たちの生活のすべてが今までとは全く異なるものとして変えられることを意味します。この変化は徹底的なものであり、その人の内面と外面の両方の変化を含みます。ですから、キリストの教会共同体は、悔い改めを通して光の子とされ、新しい命をいただいた者同士が互いの罪を告白し合い、執り成し祈り合う群れに変わっていくのです。共同体の一人一人が、本当の悔い改めを体験し、真の意味での罪の赦し合う恵みの中に生きていくことができれば、その共同体は、イエス・キリストの十字架の愛がもたらす恵みと信仰の命に満たされ、常に宗教改革の実を結ぶことになるでしょう。
 願わくは、小泉町教会の神の家族一人一人がイエス・キリストの十字架に出会い、悔い改めへと導かれ、罪赦された恵みと喜びに満ち溢れますように。悔い改めは信仰の結果であり、信仰によって結ぶ実です。真の悔い改めを体験した者は、一個人の生活にとどまらず、教会共同体の変革をもたらす者として、互いが罪の告白を担い合うように変えられ、赦しのための執り成しの重荷をも担い合うことにまで成長していくことでしょう。
 私たちは闇から解放され、イエス・キリストの十字架から注がれる光に照らされ、光の中を歩み、闇の中に生きる人々を光の方へと導くことのできる働き人として呼び出されたことを覚えたいものです。ハレルヤ

2016.10.30

〜野菜栽培・難しい〜
 私は毎日野良仕事をして、息子夫婦とその子供達との5人家族です。夫が専業農家だったので、逝った後、その後を継いで、小規模にして私のできる範囲で何とか耕作しておりますが、今秋の9月下旬より10月の月は、秋天という日は無かったと言ってよい位いつも梅雨のような空模様が多く、気温も低い日が続き、秋野菜の成長に悪影響。
 私は、毎年富山YMCAの文化の日の「蚤の市」(チャリティバザー)に、自家野菜を提供して協力しているので、今年も例年と同じ日に播種して、毎年の農業日誌を参考にして追肥や除草の作業をしているが、今秋はどうしたことか低温続き、困ったものだと空を見上げては神様に祈ってみたが現実はそう簡単なものではない。
気温を上昇させる為にトンネルにしてビニールシートを覆い、追肥作業を多く施してみたものの成長は今いち…。
 農業は気温との関係の密なもの、特に稲作は…。なかなか思い通りにいかないものである。専業農家は、大きなビニールハウスを建て、その中に電熱を入れて野菜栽培に大きな経費を費やし毎日管理も大変であるが、露地栽培は太陽の恵みが必要である。
 野菜の高騰はどうにもならないもの、私たちは粗末にせずにお神さまの恵みと感謝して頂きましょうね。
               A.M姉

2016.10.23

〜 時と働き人を見極める 〜
 “かつてないほどの、嫌われ者同士の戦い”とも言われているアメリカ大統領選挙も、いよいよ大詰めを迎えています。世界一の影響力をもつ国の大統領選挙ということもあって、世界の注目が集まっています。しかし、私が注目したところは、アメリカのキリスト教倫理(プロテスタンティズム)の崩壊についての危惧です。ピューリタン(清教徒)たちによって建てられたアメリカの歴史は、キリスト教の信仰と聖書倫理に基づいて成り立ったと言っても過言ではないでしょう。しかし、時の流れと共にキリスト教信仰と倫理が薄れてきていて、近頃のアメリカの現実は、旧約聖書預言者による裁きのメッセージが適用されてもおかしくないような気がするのは、私だけでしょうか。その確かな根拠として挙げられるのが、共和党大統領候補にドナルド・トランプ氏が選ばれたということです。
 共和党の最大の支持基盤となっているのは、福音派(エバンジェリカル)と言われるキリスト教会です。聖書を忠実に生きようとする保守的立場に立っている群れです。そのような共和党が選んだ候補が、信仰的・倫理的にあまりにも問題を多く抱えているトランプ氏だったのが驚きでした。口を開くと、絶えず嘘をつき、弱者への配慮、差別発言、あまりにも軽々しく核戦争のことを口にし、最近は性的スキャンダルが絶えない人、むいてもむいても玉ネギのように問題が出てくる人を、共和党の教会とクリスチャンたちが選んだのです。彼らは「現役政治家への不信、成功した実業家への漠然とした期待など」の理由で目をつぶったのです。トランプ氏を選んだキリスト教会と信徒たちに、神はどう語られるだろうか・・・。ローマ法王がトランプ氏を指して、“彼はキリスト者ではない。”と語ったことを覚えつつ、アメリカ大統領選のために祈りましょう。また、アメリカのキリスト教会とクリスチャンたちの変革を祈りましょう。
  

2016.10.23

『 善い業を行なって歩む 』(エフェソ2:8〜10)
“なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(2:10)”
 キリスト教の中心は「恵み」にあります。「神が罪人である人類を愛して独り子を贈られ、その独り子が十字架の上で罪人たちの身代わりとなって死んでくださった。だから、御子イエス・キリストを主と心から信じ受入れる人は、神の子とされ救われる」という福音こそ、価なく与えられた神からの贈り物、「恵み」なのです。ここには一つの法則が生じます。まず、神からの恵みが与えられ、その恵みを罪人が「信仰によって」受入れ、「信仰によって」救いが実現するという法則です。“事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。(2:8-9)”パウロが彼の書いたすべての手紙において、繰り返し強調していた福音の核心がここにあるのです。それほど恵みと信仰による「福音理解」は、決して忘れられたり、歪曲されたりしてしまってはならない大切な真理なのです。
 しかしここで問題となるのが、「行い」の位置づけです。パウロは、救われるのは信仰によるのであって、行いによるのではない!と断言します。それは、だれも救われたことに誇ることのないようにするためでした。しかし、ここには一つの落とし穴が存在します。それは、“信仰さえあれば、あとは万事O.Kなのか、悪い行いをし続けてもかまわないのか。”ということです。答えはいいえ!イエス・キリストの十字架によって救われ新しく造られた者は、その恵みに心打たれ感動し、神が前もって準備してくださった善い業を、積極的に行なって歩むことになるのです。キリストによって生まれ変わった人は、聖霊様との交わりの中で、“何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえて、行なって歩む”ように常に心がけるのです。これこそ、“イエス様だったらどうされるだろうか!”という問いかけの中で生きていくキリスト者の姿でしょう。
 世界情勢、自然、経済、倫理など、どこを見ても希望の見出せないような現実を前にして、恵みを授かった者として私たちはどう生きていくべきでしょうか。今から500年前、「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」という旗をかかげながら宗教改革という善い業を成し遂げられた神が、厳しい現実を生きている私たちキリスト者に、準備しておられる善い業があるでしょう。願わくは、小泉町教会の小さな神の家族が、神が前もって備えておられた善い業を黙想し、聖霊の助けと導きのもと、具体的な行いへと歩き出す群れでありますように・・・。ハレルヤ

2016.10.23

 締め切りを過ぎて、慌てて身の回りで起きている出来事から小さな泉の恵みのトピックになりそうなものを考えていると、どれも?いえ、むしろ、すべてクリスティアニティにつながることに気づきました。例えば、日本YMCA大会の実行委員として関わることができたこと、タイでの研修、YMCAでの子どもたちや保護者の方、ボランティアの学生との関わり、家族、友達などなど。そして、それらは、今、自分自身が神様、聖霊、イエス・キリストに守られてつながって生きていること、聖書に問いかけて道を歩んでいることを教えてくれます。気づくことができたのは、閔先生と小泉町教会のみなさまのおかげだと思います。
 私が閔先生に出会ったのは、2015年11月の世界YMCA/YWCA同時祈祷週の富山YMCAの集いでした。「Let there be hope 〜希望あれ〜」のテーマのもと、私たちは閔先生とイエス・キリストの十字架の意味について学びました。今考えると、この出会いが私の生きる希望になったのではないかと思います。閔先生は、この集いで最後に私たちが歩むべき道は「暗闇の中の隣人に希望の光を照らしつつ、敵さえも愛しなさいと命じられたイエス・キリストの証人として生きることです。」と最後に締めくくられました。
 私もこれからそのように平和な社会の実現のために生きることができたら幸いです。小泉教会のみなさま、これからもご指導よろしくお願いいたします。
 感謝して。
                M.Y姉

2016-10-16

2016.10.16

〜 私は主に愛されていますから 〜
 長い間、癌との厳しい戦いを続けているN兄弟からメールをいただきました。“診察の結果、体のあちこちに転移していて、来週から抗癌剤の点滴治療を受けることになります“という知らせでした。兄弟の癒しを祈っていましたので、戸惑いつつ“主の十字架の命の働きを祈ります。主よ助けたまえ!”というメールを送りました。その後、再び届いたN兄弟からのお言葉、“ご心配なく、私は主に愛されてますから!”・・・
 小泉町教会の開拓当時から歩みを共にしてきた兄弟でした。最近は、胃腸除去手術の影響でまともに食事もできず、栄養不足や貧血などの理由で倒れられたり、意識をなくされたりする時も度々ありながら、電話やお会いした時には、いつも明るい声で語りかけてくれた兄弟でした。教籍番号1番という大切な意味をもつ兄弟でありますので、神の家族は集う度に主の癒しを祈り求めていましたが、お体の病状は厳しさが増している状況です。
 それでは私たちの祈りが応えられてないことになるでしょうか。いいえ、私たちキリスト者は、絶えず永遠の命が約束されている神の国を見上げつつ、しかし、与えられている地上での生活に最善を尽くしながら生きるのです。何より、「命は神のものである」という信仰をしっかり持ちつつ、主の癒しと奇跡を信じて祈るのです。「私たちの祈りが御心に適いますように・・・」 そして私たちが口をそろえて証しすべきことこそ、「私は主に愛されていますから」ということでしょう。N兄弟の信仰に感謝しつつ、主の癒しと助けを祈り続けて参りましょう。
“だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。”

2016.10.16

『 愛は共に希望を描くこと 』 (雅歌2:10〜17)
 今日の聖書箇所の雅歌書は、イスラエルの結婚式の時に読まれる書物です。もともとソロモン王がシュラムの乙女に恋をして、彼女を誘い、幸せな将来を築いていく内容であると言われています。ソロモン王は、愛するシュラムの乙女に手を差し伸べ、一緒に行こうと誘っている。二人の間にはいろんな事情でしばらく離れざるを得なかった時期がありました。しかし、いよいよソロモン王がすべてを整えて、愛するシュラムの乙女を迎えに来たのです。そして声をかけます。“恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。”と。・・・皆さん、愛する人と共に手をつないで進む将来はいかに素晴らしいでしょうか。もちろん、本文の言葉のように、人生の冬のように厳しい試練の時が訪れるかもしれませんし、狐たちが私たちの生活を乱すような葛藤の時もあるでしょう。しかし、愛する人が共にいて、その人と手を放さず、一つとなって希望を歩むことで、二人は豊かな喜びと幸せを描いていけることになるのです。
 聖書の記者は、ソロモン王を神様であると、シュラムの乙女をわたしたちキリスト者であると、その関係を説明しています。花婿なる神は、私たち一人一人を恋人として、交わりの場、共に喜び楽しむ場へと誘っておられます。大切なことは、愛する人の招きに応えることができず、今置かれている人生の冬のような寒さに負け、狐たちの妨げに振り回されてしまっていてはならないのです。とりわけ、私たちが神と最初に恋した時の感動を回復すること、そして、その愛を10年経っても、いや20年、30年、50年経ったとしても、その愛への感動とその時の興奮を忘れることなく、繰り返し思い起こすことです。また、その愛の交わりを生活の中で実践していくことによって、私たちの毎日はイエス様との新鮮な愛の関係を築けることになるでしょう。
 私たちの愛する神は、あなたと私と愛し合うために、神ご自身が人となって天からこの地に降って来られました。それが神の独り子がお生まれになったクリスマスの出来事です。そして、独り子なるイエス様は、30年間の生涯を通して私たち人間社会の中に入って来られ、一人一人の弱さも、汚さも、醜さも、すべて愛の中に受け入れて抱きしめてくださいました。そして、最後には十字架を通して命をかけた愛の究極の形を示してくださったのです。
 イエス様は、今日も十字架の傷跡の手を差し伸べながら私たちを招いておられます。“恋人よ、美しいひとよ、さあ、立って出ておいで。一緒に行こう”と。そのイエス様の十字架の愛の招きの手をしっかりとつかむことです。そして、イエス様が描いておられる神の国への希望をあなたと私に語りかけておられます。
 願わくは、イエス様の招きに応えつつ、周りにいる貧しき者、暗闇の中で苦しむ者、小さく弱い者らに手を差し伸べ、イエス・キリストを紹介できる私たちでありますように・・・。ハレルヤ

2016.10.16

〜小さい者〜
 主の御名を賛美いたします。私の仕事は年がら年中忙しく、特に今月はさまざまな行事で特に忙しくなります。よく言われることですが、『忙』は『心がなくなる』という意味だそうです。今月は、私も子どもたちも、仕事仲間同士も子ども同士も寛容な心が特になくなる時期にだと思います。そんな時にはよくもめ事がおきて、余計に心がギスギスします。昨年の私のクラスは運動会の競技の部で最下位の成績、合唱コン クールでは逆に最優秀賞を受賞し、「神様のなさることは・・・」と思わせられたものでした。今年もただいま現在合唱コンクールに向けて練習の指導の真っ最中です。自分の4分の1ほどの年齢の子どもたちと過ごすことは、微笑ましいこと、ビックリすること、腹が立つことなどが次から次へと起こります。若いときは、自分の都合に合わせて子どもたちを動かしてきたように思いますが、年をとるとなかなか若い子どもたちにはつきあいきれません。そんなときはかなりの疲れを覚えるようになりました。
 しかし、年をとればとるほど子どもたちやその背後の家庭も見えてくるようになりました。いろいろなことに追われ、何かに苛まれている、可哀想な人たち。私と同じかもしれません。神様の心で子どもたちを見れば優しくなれますが、仕事上の立場で見ると厳しい言葉で、責め立てるような目で見ています。神様に救われてよかったです。週に一度教会に招かれて(来させられて)感謝です。神様しか人の心を救えるお方はいないのです。そんな方に、救われてよかったです。負ではなく正(+)のスパイラルです。
 先週のSさんの話のタイトルは『小さき者』でした。よく考えれば、私も『小さき者』たちに囲まれて過ごしているのです。こちらが心を傾ければ、むこうも心をかたむけてくれます。疲れますが神様の助けと皆様のお祈りで感謝して仕事ができています。それを心から感謝します。
              M.K姉

2016.10.9

〜 心からの感謝をうたとして 〜
 わたしは昨日から今日まで岐阜各務原バプテスト教会の教会設立19周年記念特別伝道集会の講師として御言葉と賛美をもって福音を伝えています。
 各務原バプテスト教会は今から19年前、ブラジルの工場労働者らによって建てられた教会です。教会開拓当時は70人ほどの教会員で賑わっていましたが、2008年のリーマンショック以後、多くのメンバーがブラジルに帰国することになり、今は小さな群れが無牧の中、中部地方連合の諸先生方の協力の中で礼拝に励んでいる状況です。
 今日の礼拝と宣教はポルトガル語の通訳になるためいろいろと難しさはあると思いますが、ぜひお祈りください。祖国を離れて地球の反対側にきて働きつつも、信仰生活に励もうとする各務原教会の神の家族を励まし、救われる人が起こされますように・・・。「心からの感謝をうたとして」は今年の各務原教会の主題標語です。各務原教会が置かれている現実は厳しいかもしれませんが、心からの感謝をうたとして歩もうとするその美しい信仰を父なる神は喜ばれほめられることでしょう。同じく愛する小泉町教会の礼拝の上に聖霊による恵みと祝福が満ち溢れますようにお祈りいたします。神の家族お一人お一人を心から愛し祝福します。
“主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。(ゼファニヤ3:17)”

2016.10.9

「『もっとも小さな者』支援への導き」マタイによる福音書25:40)
 始めに「小さな泉の村」の働きを与えてくださった神様と、支えておられる兄弟姉妹に感謝します。
 世界的に不況の嵐が吹き荒れた2008年12月に、仕事や住まいを失って路頭に迷う人々を支えるため、日比谷公園に「派遣村」が開設されました。同じように富山でも不況の影響を受け、翌2009年1月から仕事や家を失った路上生活者や、生活困窮者を支援するため、月1回の炊き出しをする活動が始まりました。その団体が、「あったか相談村」です。「小さな泉の村」が誕生するきっかけとなった団体です。炊き出しの活動は、2009年1月から形を変えつつも命をつなぐ「食事」&「居場所」となりました。
 話は変わりますが、思春期の頃、なぜそう思ったかをはっきり覚えてはいないのですが「40歳台になったら仕事を辞めて、社会に貢献するために奉仕活動をしよう」と、私は心秘かに思っていました。その後、月日が流れ忙しい日々を送るうちに、そのような思いは心の奥底に埋もれてしまいました。それから、更に月日が流れたある雪の降る寒い夜に、私は富山駅の地下広場で、冷たいコンクリートの上に新聞紙と段ボールで作った狭い空間で寝ているホームレスさんを真近で見て心が痛み、さらに別の日のやはり雪の降る夜に、ボロ布のようなコートを身にまとい、凍える地下道をヨボヨボと歩く、年老いた小さなホームレスさんに遭遇して心が揺さぶられ、勇気を出してその人に近寄り言葉をかけました。
 そして、「はっきり言っておく。私の兄弟であるこのもっと小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)の御言葉により、この方々をサポートしていこうと思い、たどりついたのが、「あったか相談村」でした。しかし、『あったか相談村』は、2016年3月で活動をやめることになり、自信も何もない私に、その活動を細々と続けていこうという思いが突然与えられたのです。
 ちょうど同じ時、教会では閔先生が教会の働きの一つとして、教会外での慈善活動を考え始めておられたのです。その符合は今思っても、とても不思議な出来事です。そして、その小さな話しから、教会外の働きとして活動をサポートするという方向に話が進んでいくことになり、すばらしい神様の時と導きで、2016年5月14日から「小さな泉の村」という素敵な名前に変えられ、再生しスタートすることになりました。ふり返ると、ほんとうにそれは思いもしないことでした。別々の場所で動いていたものを、神様はそのみ手を動かして「小泉町教会」と「小さな泉の村」を結びつけてくださったのです。そして、この活動を続ける勇気と場所を私たちに与えて下さいました。そこへ至るその一つ一つが必然性を持って、神の秩序の内に整えられ、神様のみ手の内に導かれたことを感謝します。
 神様は、私たちの愛する小泉町教会に集う兄弟姉妹を、「小さな泉の村」の働き手として祝福し、選んでくださいました。それは、小泉町教会が、聖霊と主のご愛に満たされた教会だからだと信じています。    
               S.Y姉

2016.10.9

〜一匹の羊として〜
 ある日の礼拝メッセージは、99匹の羊を野原に残して、1匹の羊を探す箇所からのメッセージでした。その中で、「あなたは99匹の羊でしょうか?それとも失われた1匹の羊でしょうか?」と、問いかけられました。その時、私の頭にひらめいたのは、「私は1匹狼だ!」という思いでした。
 主人の転勤で数年ごとに引っ越しています。誰も知った人がいない土地に行って、人と出会い、親しくなっていくのは大変です。良い出会いも神様は与えてくださっていますが、受け入れてもらえない思いをすることもあります。そんな時は、「一人でもいいじゃない、強くたくましく生きていこう」と、自分に言い聞かせていました。
 だから、「一匹狼」という言葉が頭に浮かんだのだと思います。そんな私の心に神様は語りかけてくださいました。「狼になろうとしないで、羊のままでいなさい」と。
肩に入っていた力が抜け、楽になっていきました。神様がいつもそばにいてくださるのだから、心を鎧で固める必要はないと、気づかされました。
 そうすると不思議なもので、嫌われないようにと、必死に空気を読んだりすることなく、自然体で人と交われるようになりましたし、一人でいる時間もまた神様から与えられた恵みの時間として、感謝できるようになりました。これからも、ともにいてくださる神様に導かれて歩んでいきたいです。
K.K姉

2016.10.2

〜 命への黙想 〜
 秋雨前線の影響で、雨が降り続いている富山です。私は、季節に対する好き嫌いはありませんので、雨の日が続いても、特別な気持ちの変化はありません。しかし、家事をする主婦にとって雨が続くことは、かなりのストレスになりますし、気圧の変化に敏感な体質の方にとっては、大変辛いことであるでしょう。“すべては神様から与えられたものだから、感謝しよう!”と思っても、なかなか思う通りにはならない私たちの心と体です。
 近頃は礼拝堂の飾る花を鉢物にしています。その理由は、長く花を楽しめることと、経済的にも得だからです。 しかし、鉢物にしてから私を悩ませることがあります。それは水やりのことです。説明書や花屋さんの情報からは、だいたい、“土の部分が乾いたら水をやりなさい!とか、一週間一回のペースで水をやればいい!”と言われ、その通りに行っているのですが、いつの間にか鉢物が根っこから腐ってしまうことをどうすればいいのか・・・。素人ながらも、愛と最善を尽くしてやっているつもりですが、なかなかうまくいかず試行錯誤の連続です。しかし、水の問題は鉢物だけではありません。花壇の花も最近の大雨が続いたせいで、根っこから腐って枯れているものが見られます。雨は命をもたらすもので、あまり気にしないでいたのですが、花にとってそれぞれに必要な雨の量が違うということと、それほど育て方に注意を払うべきであること、何より命は神の御手にあることを、再三教えられています。
 愛なる神は、神の家族お一人お一人のことを知っておられ、各自にふさわしい最善の恵みを、時に適って注いてくださるお方、私たちを通して、神の栄光を現されることを信じつつ、命に満たされ歩み続けましょう。シャローム!  

2016.10.2

『 輝かしい選び 』(エフェソの信徒への手紙1:3〜14)
この世を生きていく中で、私たちは誰かを選ぶ時もあれば、その反対に、誰かから選ばれる時もあります。そして、この「選び」には、常に理由と目的があります。学校を選ぶ時も、職場を選ぶ時も、結婚する時も、また、ある職務に選ばれる時にも、必ずふさわしい理由があるわけです。人間社会における選びが、これほど大切であるのに、創造者であり天の父なる神が、私たち罪人を神の子どもとして選ばれたことには、それにふさわしい理由と目的があることは確かでしょう。その神が、皆さんと私を神の子どもとして選ばれた理由と目的を、共に御言葉から学びましょう。
 まず、私たちをご自分の前で聖なる者、汚れのない者にするためでした。(4節)
神の私たちへの選びの理由が、神が私たちを愛するがために、“聖なる者、汚れのない者”にされたのです。ここで語られている「聖なる、汚れのない」という表現は、「神に献げられた道徳的・宗教的に完全な状態」であることを意味します。この世の誰が「完全な聖さ」をもつことができるでしょうか。罪人である私たちには不可能なことです。しかし、聖書は「キリストの愛によって」可能になると宣言します。イエス・キリストが、十字架の上で流された血潮による赦しの恵み、その力によって、すべての罪、汚れは消え去り、全く新しい神の子どもが現れるのです。
 次に、私たちを輝かしい恵みをたたえる者にするためでした。(6節)
神から与えられた輝かしい恵みとは、神がその愛する御子によって与えてくださった、代価を求めない恵みのことです。“わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。(7節)”イエス・キリストの十字架から注がれた恵みは、「輝かしい恵み」です。その恵みの輝きに生きる人は、暗闇から解放され、光の子としてのアイデンティティーを生きることになるでしょう。
 最後に、相続者として神の栄光をたたえるためでした。(12節)
これは、父なる神が、私たちを選ばれた最終的な目的です。私たちは、キリストにおいて聖なる者とされ、輝かしい恵みをいただいた相続者、すなわち、約束された神の国を相続する子とされた。恵みの相続者に求められる人生は、父なる神の恵みと、その栄光をほめたたえる「賛美」となることです。神の栄光を現すために選ばれた、「賛美」としての私たちであることを、心がけながら生きることです。                           日々、聖霊に助けられながら、選ばれた者として輝き続ける私たちでありますように・・・。ハレルヤ

2016.10.2

三浦綾子『ロトとその娘たち』を読んで」
 創世記19章にはロトの話が書かれています。ロトはアブラハムを慕って親族と別れて見ず知らずの他国に旅立って行きました。そして、ロトはアブラハムから離れて、「ソドミズム」と言われるほど性に乱れた町に住みました。ロトはこの町が神に裁かれる時がくることを予感していました。ロトは二人の御使いを迎えて自分の家にお泊まりくださいと願いました。この二人はロトにソドムの町が、町の咎のために滅しつくされると言いました。
 現代も、神様はわたしたちが罪から救われるように願っておられます。天候の異変などをしめして世の人に知らせ、キリストをとおして救われて信じて、悔い改めて新しく生きて、永遠の命を得るように、世の中が罪から救われて新しい命に生きるように願っておられます。アブラハムもまた、ロトが離れていっても、ロトが守られるように祈っていました。
信仰はひとりだけではできません。ふたりまた三人が祈っているところに神様はあらわれてくださいます。私は手術を受けました。兄弟姉妹の祈りのおかげで手術から一週間で退院することができました。キリストはわたしたちの祈りをいつも共にいてかなえてくださいます。また、ヤコブの手紙1章12節「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された命の冠を受けるからです」とあります。私は病室にいた時、このみ言葉で励まされました。この命を大切に生きていきたいです。富山小泉町キリスト教会のみなさまよろしくお願いします。
 そして本文に戻りますが、二人の御使いは、ロトの娘の婚約者を助けるように言ったので、ロトは話しに行きましたが二人ともこんな朝早くに逃げたりしませんとことわりました。またロトの妻は逃げましたが、うしろをふりむいたので塩の柱となりました。ロトがゾアルの町に着いたその時、ものすごい地鳴りとごう音がひびいて、ソドムゴモラ硫黄と火によって滅びました。そして、その姉娘が父親に産んだ子はモアブ人の先祖となり、妹の産んだ子はアモン人の先祖となりました。
 私たちもさまざまな人と出会いあるいは事件、警告を受けているのに自分だけの安全を求めていないでしょうか。いろんなできごとをとおして今も生きておられる神様に見放されないように生きていきたいものです。
                  M.T姉

2016.9.25

 〜 出会いと別れの祝福 〜
“主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、
打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。(詩編37:23)”

 本日わたしたちは主にある兄弟との別れを惜しむひと時をもちます。地方の教会の宿命とも言えるのが転勤や大学進学などにより神の家族を送り出さざるを得ないことです。しかし「出会いと別れ」はまことに神の御手によるものですので、寂しくても祝福の祈りをもって送り出すべきです。
 今回富山を離れるS兄は2年ほど前に転勤でわたしどもの教会に来られ、主にある豊かな交わりの時を過ごすことができました。S兄は情熱に満ち満ちて、御言葉に常に真剣であり、受けた御言葉を生活の中に適用しようと心がけている兄弟でした。とりわけ兄弟と共に過ごした夕礼拝は大きな恵みの時でした。兄弟は御言葉を聞く度に積極的に質問をし、御言葉からの感想を述べ、周りの方々に新鮮な刺激を与えていましたね。信仰者が御言葉に触れた時の喜怒哀楽を素直に現わしてくれた砂川兄から私も大きな励ましを受けました。S兄の新しい生活における一歩一歩が御手の中で祝福され確かなものとなりますように、また兄弟の生活を通して神の栄光が現れるように執り成したいと願います。
願わくは、主なる神が小泉町教会の群れにも新しい出会いを与えられ、ますます豊かな命を生み出す働きへと導かれますように、そして常に話し合ってきたことですが、富山に根を下ろしている地元の方々をイエス様の御前に連れて来れるような伝道の働きに励む神の家族であるように・・・。

2016.9.25

〜行きたくないところへ〜
「あなたは若い時には自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
(ヨハネによる福音書21:18より)
 夏の暑さがひと段落し、わが家の庭の花たちも暑さに耐え、ほっと一息。今、蘇ったように美しく、生き生きと咲いています。自分で「行きたいところに行けない」花たちが、夏の強い日差しや嵐にじっと耐え、置かれた場所で時を待つ健気(けなげ)な姿に、教えられ励まされます。まるで聖書のみ言葉のように生きている花たちです。
 10年前、夫が病で障害者となり、私たちは、まさに冒頭の御言葉のように「行きたくないところに連れて行かれる」身となりました。たくさんの試練も与えられました。でも、神様は、続く21:19で 「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『私に従いなさい』と言われた。」、という大切なメッセージを下さいました。
 今もまだ信仰の道を、行ったり来たりしている私ですが、置かれた場所で、静かに咲いているきれいな花たちの姿に励まされ、「私に従いなさい」と言われたイエス様の御手が、私の手をとらえていて下さる十字架の恵みに感謝しています。
 子どものように無邪気に喜んだり、涙ぐんだりしている夫をみていると疲れた体と心が知らず知らずのうちに癒され、私も笑顔になっています。それは夫の弱さの内に、神の栄光が現れているからかなと思う今日この頃です。  
                 S.Y姉

2016-09-22

2016.9.18

 〜 老いを喜んで生きる 〜
 わたしの父は認知症を患っていて、その症状も少しずつ進んでいる状況です。先日の映像通話ではわたしが日本で暮らしていることも忘れていて、ただ末子の顔を映像で見て、声を聞くことで泣きながら喜んでいた父でした。いつも家族のために黙々と働いてきた父。父の感じていただろう責任感の重さと常に最善を尽くしていた姿に感謝します。そのようにいつも変わらない姿で強く私たち家族を支えてくれると思っていた父でしたが、最近はしょっちゅう居眠りをしたり、ぼうっとして外を見つめていたり、母に頼りっきりでわがままな面がよく出てきたりしているそうです。また一人で風呂に入ることもできなくなったり、トイレを忘れたり、部屋を忘れたりするそうです。
 昔から“年を取ると子どもに戻る”と言われていますが、まさにそうです。いつまでも頼りになる存在として、いつでもそこにいてくれると思っていた父は今、少しずつ子どものようになっています。その姿を見るのが辛い人もいるでしょう。しかしある面、子どもになるということは神の国に近くなる神の祝福ではないでしょうか。イエス様が御言葉の中で、“はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。”(マタイ18:3)と言われたことを覚えましょう。今までの人生の中で支配されてきた罪と欲望から解放され、子どものように素直に神の国を心に受け入れる恵みの時なのかもしれません。
 感謝なことに、最近父は母に導かれて毎週教会に行っていますし、家庭礼拝の時を過ごしています。どこに行っても母の手を放そうとしません。父の外なる人は衰えていますが、内なる人は子どものような命と喜びに満たされていることを賛美します。愛する神の家族の皆さん、老いは創造者なる神が人に定められた恵みの時、天国の命を身近に感じられる希望の時です。この恵みと希望に包まれ老いを生きていきましょう。シャローム!

2016.9.18

 『 白髪になるまで 』(イザヤ46:3−4)
 聖書を見ますと、「信仰者は生涯現役」であることを教えてくれます。アブラハムは75歳になって神のビジョンを受け信仰の旅を始め、100歳になって子どもを授けられます。モーセは80歳で神に召されイスラエルエジプトから導き出すという使命を託されました。またカレブも85歳になって厳しい山地を開拓するという超人的な力を発揮する・・・、聖書の信仰の先輩たちは「信仰によって」神からの使命を果たしていったことを覚えます。願わくは、今日敬老礼拝を迎えられる小泉町教会のお一人お一人が、神より授かった使命の生涯を、まっとうされますように・・・。
 本日のイザヤ46章1〜4節には偶像の神々と真の神を対比しながら、とりわけ父なる真の神が神の民をいかに愛され、その人生を導かれ祝福されるかを教えます。1,2節に登場する「ベルとネボ」という偶像の神々は自分たちを崇拝する人々に重荷を負わせる存在として語っており、3,4節では真の神が神の民が生まれた時から彼らを背負われ、彼らの重荷を担われると語っています。とりわけ創造者なる真の神は神の民イスラエルを生まれる時から負われ、彼らが白髪になるまで背負われるという約束の言葉に注目すべきでしょう。
 「白髪になるまで」とありますが、白髪は老人の特徴です。白髪は気付かないうちにやって来ます。人間的に見ると、白髪は体力の衰えを表し、人生の終わりが近いということを意味するものです。しかし、聖書の解釈は違います。“白髪は輝く冠(箴言16:31)”、また、“白髪は老人の尊厳(箴言20:29)”と教えます。それほど、神にとって老人は敬われ、尊ばれるべき存在であると言えますし、だからこそ、白髪に対する聖なるプライドをもつべきだと思います。わたしたちが年齢を重ね、白髪になり、体力の衰えを感じる時に、いよいよ神様によって背負われるという信仰を持つことが出来たら、何と素晴らしいことでしょう。
 高齢化社会になっている日本の国においては、老人の存在が段々と軽んじられているような現状があります。しかし、たとえ日本社会からは見離されても、神は「わたしが背負う」と約束してくださいます。特に4節では、「わたし」という代名詞が3回も繰り返されることによって、私たちの神が必ず成してくださるという約束を強調しているのです。
 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)”と招かれるイエス・キリストの十字架は、今日のイザヤ46章の御言葉の約束の実現であることを覚えましょう。“白髪になるまであなたを担い、背負い、救い出すために”主イエスはわたしたちのところに来てくださり、十字架の上で両手を広げてわたしたちを待っておられるのです。そのイエス・キリストの十字架のもとに近づいて参りませんか。

2016.9.18

 いつも私たち家族の為に、お祈りとご支援をしていただきありがとうございます。夏に帰省した時には、皆さんからたくさんの励ましの言葉をいただき、また交わりをさせてもらいとても素晴らしい時を過ごすことが出来たことを心から感謝いたします。帰省をする度に、励まされ心が元気になり福岡へ戻ることが出来ています。
 9月に入り、長女の幼稚園も始まりました。年中さんになり半年がたとうとしていますが、日々成長する姿が見えてとても嬉しく思っています。長男もとても元気で、2人で遊んでは毎日のようにきょうだいゲンカをしています。その光景が面白くもあり、とても可愛くもあります。子供たちの成長が守られていることが、私たち夫婦にとっての喜びです。
 私は、家族寮に住んでいるお連れ合い同士で聖書の学びを週に1度行っています。聖書箇所を決め、1週間じっくりと読み黙想し、集まった時にそれぞれ思うことや示されたことを分かち合っています。この時間がとても良い交わりとなりお互いを分かち合うことが出来、聖書も深く知る素晴らしいものとなっています。1人で聖書を読むことも大切ですが、色々な方と聖書を読み分かち合うと様々な思いなどが聞けるので、この時間もとても大切だと実感しています。神学寮での生活も残り半年となりましたが、今出来ることを考えて1つ1つ行動していき毎日を大切に過ごしたいと思います。小泉町教会の皆さまに、神さまの祝福とお守りがありますようお祈りいたします。
              M.Y姉

2016-09-15

2016.9.11

〜 種から芽、花から将来へのビジョンへ 〜
“草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(イザヤ40:8)”
 教会の花壇の花たちが美しさを競い合っています。そしていよいよ秋桜コスモス)もその美しさの饗宴に加わろうとしています。神の家族の協力のもと整備された花壇でしたが、今は通り過ぎる方々から“綺麗ですね”と声を掛けられるようになり、町内の方々によい証しとなっていることは何よりの喜びです。春に神の家族お一人お一人が自分の名前を書いて大切に植え替えたマリゴールドは一本も死ぬことなく美しく花を咲かせ、その葉もどんどん広がっていき今はすべてのマリゴールドが一つの根からなっているようにつながっている様子がとても素晴らしいです。・・・もちろん秋が深まっていけば、やがて花は散っていき、花壇の美しさも消えていくでしょう。しかし嬉しいことはしぼんでいく花はそのまま消えてしまうのでなく、しっかりとたくさんの種を残すということです。ただの植物に過ぎないけれど、彼らは一生涯のうち、しっかりと種から芽に成長し、花を咲かせ神と人を喜ばせただけでなく、しっかりと次の春に再び花を咲かせるための備えをして終わりを迎えるということは何とも言えない恵みです。                             
 神の家族の皆さん、一生懸命に花を咲かせようと力を尽くしてきた私たちかもしれません。そんな中、力尽きてしまい、そのまましぼんでいく自らの姿に寂しさを覚えている方もいるかもしれませんね。しかし実りの季節を迎え創造者なる神の御言葉から力をいただきたいと願います。草も枯れ、花はしぼむことはすべての被造物への法則です。しかし神は恵みの実と将来への復活の種を備えられるお方、だから私たちは失望しませんし、将来への神の約束を信じて新たな一歩を始めることができるのです。シャローム!

2016.9.11

『 信仰生活は感動です 』 (ネヘミヤ記8:1〜12)
 本日与えられたネヘミヤ記8章は、城壁再建を終え、イスラエルの民が主なる神の御前に集まり、礼拝を献げる姿が記されるところです。バビロン捕囚から解放され、エルサレムに戻ってきた民たちが様々な試練に遭いながらも皆が一つとなってエルサレム城壁再建を成し遂げたのは、「イスラエル共同体は礼拝する民」というアイデンティティーのゆえでした。礼拝の民として選ばれ、礼拝による神との交わりに生きるために選ばれたイスラエル共同体が、失われていた礼拝の感動と恵みの回復こそ最も大切である、という共通認識から成し得た業であったわけです。そのためネヘミヤ記8章の御言葉は現代のキリスト教会と信徒たちにチャレンジするのです。“あなた方の礼拝は生きていますか。あなた方は聖書の御言葉に飢え渇いていますか。あなた方の信仰生活は感動に溢れていますか。”と。
 イスラエルの民にとってエルサレムの神殿を再建することや、城壁を再建するということは尊いことでした。しかしネヘミヤが私たちに伝えようとしていることは、目に見える建物としての神殿や城壁の再建よりもっと重要なことこそ、神の民による礼拝共同体を再建することだというメッセージです。イスラエル共同体はそのことを良く知っていました。イスラエル共同体は祭司であり書記官であったエズラに神の御言葉を読み上げてほしいと願います。その理由こそ礼拝共同体としての神の民の心の神殿の再建がなければ、目に見える神殿と城壁の再建の意味はないという確信があったからでしょう。その後、エズラによる聖書朗読が夜明けから正午まで長々と続きます。その間、イスラエル共同体は立ち上がって、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝したと当時の様子が描かれています。それだけではありません。民は皆、御言葉を聞いて嘆き、泣いたとあります。これこそ礼拝と御言葉がもたらした恵みであって、礼拝と御言葉が持つ力でした。
 神の御言葉は生きていて人に感動を与えます。神は言によって天と地、すべての被造物を創造され、また、見える言としてイエス・キリストをこの世に贈られ、聖霊のお働きによって御言葉を悟る知恵と信仰生活における命をもたらしてくださったのです。このように命の御言葉が語られ、御言葉を聞く人に感動を与える場が礼拝なのです。私たちは礼拝を通して命の御言葉に触れ、御言葉によって神の御心を知り、再び御言葉を携えて世界へと出かけるようにされるのです。
 私たちの礼拝はいかがでしょうか。私たちの御言葉に対する反応はいかがでしょうか。今こそ私たちの信仰生活が恵みに対する感動で再建されるべき時、目に見える形としての礼拝でなく、生きている御言葉に触れ、全人格をもって救われた民としての感動に満ちた礼拝を献げるべき時なのです。ハレルヤ

2016.9.11

〜ディボーションの恵み〜
 今日で、ディボーション生活をはじめて一年が経ちました。昨年の今ごろ、リビングライフの青少年版「sena」を使ってディボーションをはじめ、フィリピの信徒への手紙、エゼキエル書、箴言、ヤコブの手紙、マタイによる福音書、ネヘミヤ記などの聖書のみ言葉を黙想し、今は、ローマの信徒への手紙を黙想しています。
 初めてディボーションをしたときは、本当にドキドキしていました。朝の、まだうす暗い時に、目をこすりながら、祈り、黙想をして、神と話をする。とても不思議な感じでしたし、最初は少し難しかったです。しかし、一ヶ月も経つと、段々どのようにすればよいか分かるようになり、気楽に、うれしい気持ちでディボーションができるようになりました。やがて解説も余り読まずに、本当の黙想がどのようなものか分かるようになりました。
 今年に入ってからは、父の提案により毎日夜寝る前に、分かち合いをするようになりました。分かち合いの大切さも分かりましたし、父の説明により、聖書のとらえ方もよく分かるようになりました。
 そして、夏休みや連休の時には、水曜祈祷会や金曜日のディボーションタイムにも参加するようになり、色々な聖書の読み方があるということに気づきましたし、色んな人の分かち合いを聞いて恵みになりました。
 最近、ディボーションについて悩んでいることがあります。知っているだけで、行動に移さなければ意味がないということを知っていながらそれができないということです。これからディボーションを続けながら直していきたいです。
 これからも、ディボーションという大切な時間を守っていきたいです。
                   M.J兄

2016.9.4

〜 スランプを乗り越えて 〜
 いよいよ厳しかった夏を後にし、涼しい風に包まれる季節がやってきました。いろいろと慌ただしかった夏のプログラムを恵みのうちに終えることができました。何より神の家族の尊い執り成しと喜びのご奉仕に感謝いたします。本当にお疲れ様でした。生きておられる神は御言葉の約束通り最善の実を与えてくださいました。
 さて、毎年この時期になると気になるのが「霊的スランプ」ということです。一生懸命に神の業のために頑張って戦ってきたのに、突然訪れてくる無気力、懐疑、不安・・・。昨日までは喜びと情熱に満ち、平安でいられたのに、今日はどういうわけだかやる気がなくなり、何とも言えない不安と疲労感などに包まれ、心に「がんばろう!」と思えば思うほど、重く圧し掛かるものを感じる、・・・。そういったものが霊的スランプと言えましょう。
 スポーツ選手によく見られるのがスランプです。日本人が誇りに思っている天才イチロ選手でさえ、一年通じて何度かは必ずと言っていいほど経験するのがスランプです。このようなスランプはクリスチャンにもやってきます。それを霊的スランプというのです。霊的スランプは信仰の弱い強いに関係なくやってきます。聖書の物語の中にも、偉大な預言者であったエリヤ、使徒パウロなどにも見られる姿です。
 それでは、どうすれば霊的スランプから抜け出すことができましょう。スポーツ選手のようにもっと自分を鍛え、もっと頑張ればいいのでしょうか。いいえ、クリスチャンの霊的スランプの解決はただ一つ、神の懐に戻り休むこと、神の臨在の中で静まることです。そこで父なる神より命の言葉をいただき、十字架から流れる愛に感動し、聖霊なる神の息吹に触れることです。これこそ私たちクリスチャンのもつ世の人々が知らない力の源なのです。シャローム!

2016.9.4

『 逃れの町へ 』 (ヨシュア20:1〜9)
 ヨシュア記20章には約束の地カナンの分割が終わったところで、最後にイスラエルに命じられたことが記されています。その最後の命令こそ「逃れの町」を定めるということでした。“意図してでなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる。”(20:3)
 意図してでなく、過って他人を傷つけてしまったり殺してしまったりすることは、誰にでも起こり得ることです。しかしイスラエル共同体は神より授かった十戒の教えにより、他人を殺した人は必ず殺さなければならない定めがありました。しかし神は十戒に続き、意図してでなく、過って人を殺してしまった者を守るために「逃れの町」を設けることも命じられたのです。この箇所を通して私たちは旧約聖書の神が望まれる御心を知ることができます。人はよく旧約の神、とりわけカナン征服における神を無慈悲で残虐な神と思いがちです。そこから「旧約の神は裁きの神、新約の神は愛の神」という主張が力をもつようになったわけでしょう。しかしそうではない。旧約聖書に描かれている神は常に神の民と語り合い、絶えず神御自ら望まれる御心が何であるかを伝えられるお方なのです。「逃れの町」こそ、神ご自身が定められた赦しと愛、救いのしるしだったのです。神が望まれる共同体は人々の殺し合い、復讐が行われるところであってはならないのです。しかも逃れの町に逃げ込める者はイスラエル人だけでなく、当時の社会的弱者であった寄留者(在留異国人)をも含むものでした。
 一度逃れの町に受け入れられた者は逃れの町から離れない限り復讐する者から護られ平安に暮らすことが許されます。あるいはその時の大祭司が死んだらその殺人者はすべての罪から解放され自分の町に帰ることができました。その理由こそ、大祭司の死が一つの時代の終わりを象徴するという意味であったからです。この箇所には全人類の大祭司なるイエス・キリストの贖いの死による恵みの福音が描かれていることが分かります。既に私たちの大祭司であるキリストは、私たちの罪のために十字架の上で死んでくださいました。イエス・キリストの十字架のもとは私たちの逃げ込むべき逃れの町となってくださったのです。
 神の家族の皆さん、小泉町教会こそ、罪を犯し彷徨う者、人生の重荷を負い罪の中で疲れ果ててしまっている者が逃げ込める逃れの町、神の聖なる大祭司がその死によって建てられた現代の逃れの町であることを心掛けましょう。実は私たち自らも罪と死の鎖から先に逃れの町に逃げ込んだ者であったことを忘れてはなりません。
 「誰でも逃げ込んでください。大祭司なる救い主は誰も拒むことなく待っておられますよ!」と、救いを求める人々を招き入れる逃れの町の住民としての心の備えと愛の実践に生きる神の家族でありますように・・・。ハレルヤ

2016.9.4

〜時にかなった神の答え〜
 過去現在未来を通じ、祝福は上(神)からやってくると私は信じています。
 5歳で父をがんで亡くしたときは、神様なぜ?と思いましたが、今では神が私や皆の想いを超えた計画を持っておられたのだと悟りました。 
 父が亡くなって、仏教徒の家で育った母の人生が、敬虔なクリスチャンへと大きく変わったのです。母が私と二人の兄弟を常に教会へ通わせ、聖歌隊や青年会で活動させてくれました。3人の子供をひとりで育てながら何の不自由もさせず、全員を米国の大学へ送り出すほどでした。私は若いとき、それは母の強さと熱心な働きのおかげだと思っていましたが、今では母が常に祈り続け、真実な方である神に依り頼んでいたからだと知りました。
 時にかなってすべての必要を満たしてくださる天の父と、母から学んだ祈りの力をおぼえて、私は困難にあるときほど熱心に祈ります。祈りは神との会話、親友と時の経つのも忘れて話にふけるような会話です。嬉しいときも悲しいときも神に心を打ち明けます。また何が起こっても全てに感謝します。混乱の只中にあるときは気づかなくても、事が落ち着けば、不幸に見えた事が実は祝福であったことがわかるのです。
 祈りがすぐにはかなえられないこともあります。あきらめていたときに神が答えてくださることもあります。エレミヤ29:11にあるように神はわたしたちひとりひとりにご計画を持っておられます。肉の父に育てられずとも、天の父に見守られ育てられたことにとても感謝しています。
V.C姉