Hatena::ブログ(Diary)

富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

●主日(日曜日)礼拝 午前10時半から
●水曜祈祷会 午後7時半から
●金曜ディボーション(黙想の時) 午前9時半から
●英語礼拝 第2日曜日
(コーヒータイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から)

●聖書の学び 毎週火曜日
●ハングル教室 毎週木曜日
(コーヒータイム:午後7時から 講義と練習:午後7時半から)

教会写真集はブログ「小さな泉の写真集」へ。
English Worship Service(英語のホームページ)、 富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

〒939-8081 富山県富山市堀川小泉町681

電話 076-491-2273

2017-07-19

2017.7.19

 〜指導者の謙遜を考える〜
 先月からリビングライフのテキストは民数記です。エジプトを脱出したイスラエルの民らが荒野の40年間の旅を終え、いよいよ神の約束された地カナンを眺めているところまで来ています。そのような中、私の心に刻まれる一人の人がモーセでした。イスラエル共同体のリーダーとして神に選ばれ、生涯を神と民の間で、命をかけ、最善を尽くしてきたモーセの姿から指導者のもつべき姿勢を教えられます。その中でも何より素晴らしく迫ってくるモーセの姿こそ、初心を忘れず、神と人との前で、執り成す人として、神と人に仕える謙遜さでした。神と顔と顔を合わせ交われた唯一の人、特別な権威とリーダーシップを授かりながらも、一生涯選ばれた者としての使命感と信仰の良い緊張感を失わないモーセでした。その姿が大きな感動と響きとなって私に迫ってくるような近頃でした。
 最近、支持率の低下で尻に火がついてしまった一人安倍首相のことを思います。恐らくいつまでも高い支持率を保てると錯覚していたことでしょう。だから国民からの反対の声を素直に受け止めることはできなかったかもしれません。先日、反対する国民たちに向け、安倍首相の口から出た言葉、「こんな人たちに負けない」・・・謙遜や反省を知らず、上の目線で国民を見下ろしているその姿勢が、支持率急落という結果に現れている現状です。
 真の指導者であるイエス・キリストは“神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ2:6〜8)”という、徹底した真の謙遜なリーダーの姿勢を示されました。この世の指導者たちが、いやこれから指導者になろうとする人々が、モーセのように、イエス・キリストのように謙遜さと仕える姿勢を貫くことができるように・・・。シャローム!

2017.7.16

『 いかに貴いことか 』 (詩編36:6〜11)
 ダビデは、自分のことを「主の僕」(1節)であると告白します。イスラエルの王であったダビデでしたが、彼にとって真の幸いこそ、主の庭を慕って、主の家に住み、朝を迎えること、まことの王なる神を礼拝し、王なる神への愛を現わすことを彼の人生の目的としていました。ですからダビデは自分のことを「主の僕」と公に歌うことができたのです。
 詩編36編は闇と光が入り混じっている人間の人生を表しているような詩です。とりわけ詩人は人生の中で「最も貴いことは何であろうか」ということについて教えてくれます。「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ、あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す。」(36:8〜9) これは人生の中の究極的な価値あるものについての問いかけであって、詩人はその問に答えているのです。
 聖書が私たちに“あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:21)”と教えているように、人々は、自分が大切にしている宝物をもっていて、それを誇りに思い、自慢するのが普通です。それでは、詩編36編の詩人が私たちに自慢し紹介している宝物は何でしょうか。それこそ、“神の慈しみ”でした。ここでの「慈しみ」と訳されている言葉は、“ヘッセード”、“神の契約の愛”です。詩人は何か目に見えるある宝石や、何かのものではなく、“神が人と約束してくださった愛こそが最も貴い宝物である”と歌っているのです。
 神の家族の皆さん、神の愛を表すこの「ヘッセード」は、ただ単純に説明できる「愛」という概念や理念ではありません。それは出来事を通して示される神の愛なのです。神が愛する人のために成し遂げられた愛の業、これは人にはできないただ神のみにできる愛の業のことです。人の可能性が絶望に変わった時に、神の愛によって示される希望と可能性の現れが“ヘッセード”なのです。
 聖書が教える神の慈しみの業として、出エジプトの神の愛する民への圧倒的な神の救い、また荒野の40年間の導きと守り、乳と蜜の流れる地カナン授与など、神の民イスラエルの全歴史を通して示された愛こそ神の慈しみ(ヘッセード)だったのです。だから詩人はこのような神の業を実際体験した人として、“神の慈しみ(ヘッセードの愛)はいかに貴いことか!”と嘆声を挙げながら、この歌を聞く人々に、“神の愛の翼の陰に身を寄せる時に得られる幸い”を勧めているのです。
 教会開拓57年、教会組織17年を迎えるわが教会の歩みの上に注がれた神の慈しみはいかに貴いことでしょうか。また、あなたの人生の歩みにおいて示された神の愛の業を振り返って見てください。あなたへの神の慈しみはいかに貴いことでしょうか。ぜひ信仰と讃美の声を合わせ、神のヘッセードの愛をほめたたえましょう。ハレルヤ

2017.7.16

〜「旧約聖書入門(三浦綾子)」ヨセフの物語を読んで〜
 アブラハムの子イサクの孫でヤコブの末っ子であったヨセフヤコブヨセフを偏愛した。他の十人の兄たちは、ヨセフと腹ちがいであった。またヨセフは日と月と十一の星とがわたしを拝んだと夢のことを告げた。兄たちはこの意味は星は兄たち、日と月は父と母のことで、親と兄弟もおまえを拝む日がくるというのかと怒った。そして兄たちはポテパルにヨセフを奴隷として売った。ポテパルはヨセフがどこかちがうと思い財産はすべてまかせ、この家の中で最高の地位につかせた。だが困ったことにポテパルの妻はヨセフにいい寄ってわたしと寝なさいといつも誘惑した。ある日ヨセフと妻だけになったとき、ヨセフの服をつかんだ彼女は、ヨセフは私にいたずらをしようとしたと大声で叫びポテパルにも言った。そのためヨセフは獄に入れられた。ヨセフは奴隷になって働いた時と同じように働いて、獄屋番はすべての囚人をヨセフの手にゆだねた。ヨセフは決して正直者がばかを見るとは思わず、神にあってはすべてのこと相働きて益になると思い絶望はしなかった。真理は汝らに自由を絵さすべしと新約聖書に書いてある。憎い人でも憎まぬ自由、どんな人でも受け入れる自由、正しいことをする自由、誘惑を退ける自由、こうした自由を神は私たちに与えてくださっている。神様は天から私たちを見ておられます。ヨセフのようにどんなときにも絶望せず、自分の思い通りにならないと思ってわがままを言わず、正しい自由な思いで、今日、明日と暮らしたいです。
M.T姉

2017.7.9

〜 御言葉がもたらす奇跡 〜
 先週私は、「聖書を読んだ30人」〜夏目漱石から山本五十六まで〜という本を読みました。近代日本における有名人30人を取り上げ、彼らの人生に聖書がもたらした素晴らしい出来事を紹介していました。
 その中でも私に感動を与えた人が、「田中正造」という人でした。日本の政治家で、日本初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒(あしおどうざんこうどく)事件を明治天皇に直訴した政治家として有名です。彼が初めて聖書に接したのは、1902年(明治35年)、川俣事件公判(かわまたじけんこうはん)の際にあくびをした罪で40日間の牢に入れられてしまいます。その時、差し入れられた聖書を読み、「回心」を経験します。その時、聖書を差し入れた人とは、あの有名な「内村鑑三」であると言われています。
 その日から田中正造は、聖書に親しみ、一時も聖書を手から離したことはありませんでした。彼は「聖書は読むにあらず、行なうものである」ということを悟り、「聖書を生きる」ということに焦点をおく姿勢を貫きます。その結果、「非暴力抵抗」運動が生まれ、常に「我らの負い目」に心を留め、「悔い改めによる癒し」を訴えていました。
 とりわけ私が感動したことには、彼は1913年(大正2年)9月4日、道で倒れ、死を迎えることになりますが、その時、枕元には、首にかけ持ち歩いていた黒い袋が置かれてあって、その中を開くと、手帳、聖書2冊、鼻紙、石ころ数個が出てきました。彼は最後の最後まで、聖書に生き、聖書の御言葉に支えられ生きたのです。
 愛する神の家族の皆さん、私たちを変える力こそ聖書の御言葉であることをもう一度心がけましょう。願わくは、霊の糧である御言葉を食べなければ一日を始めない!という覚悟をもって祝福された人生を歩まれるお一人お一人でありますように・・・。シャローム!

2017.7.9

『 生きて働く御言葉 』 (イザヤ55:8〜11)
 雨が続く梅雨の季節です。梅雨こそ神が日本の国に与えてくださった祝福であります。この梅雨の季節にふさわしい御言葉です。イザヤ55:10〜11です。
“雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。”
  この御言葉はただの雨と雪を説明するためではありません。預言者イザヤが雨と雪を通して語ろうとしたことは、“わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない”という、神の御言葉は決して失敗することなく、必ず成し遂げられるという確信に満ちています。神の御言葉はどんな人であっても、どのような状況の中であっても、必ず御心のままに成し遂げられるという絶対的な確信の告白なのです。
 御言葉は私たちの魂に栄養を供給する糧です。ですから、信仰が成長していくクリスチャンは日ごとに魂の糧である御言葉を食べ、その御言葉の中で神を見出します。詩編81:11には、  “口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。”という言葉がありますが、その通り、成長するクリスチャンは、日々神の御言葉に飢え渇き、慕い求める人です。そこで、神はその人を養い、成長させてくださるのです。しかし、一つ確かなことは、その人は一瞬に変わることはないということでしょう。時間をかけて、毎日御言葉を食べ、御言葉に触れる中で徐々に変わっていくのです。 
 神の御言葉は雨のように、水のように静かに、また優しく私たちの内に入ってきますが、ゆっくりと私たちの頑なな心に影響を与えます。私たちの日々の御言葉の黙想、ディボーションは神の御言葉を私たちの心と生活の内に受け入れる行為です。その御言葉が私たちの魂の栄養となり、細胞となり、血となり、筋肉となって、私たちを成熟したクリスチャンとしてくれるのです。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55:8〜9)”
 大切なことは、あなたへの神の御心、神の道を教えていただくことです。あなたへの神の御心、神の道を知って歩む人生ほど素晴らしく幸いな人生はないからです。時々、あなたの思いと期待通りにことが進まなくても、父なる神を信頼して歩むことです。なぜならば、わたしの思いより神の思いが最善だからです。神はその神の御心と神の道を私たちに教えるために、生きて働く御言葉を与えてくださったのです。ハレルヤ

2017.7.9

「病院にて」
 先日、脚の手術から2年目の定期検診のため、富山大学付属病院へ行ってきました。レントゲン受付のブースで待っていると、ちょうど向かい側に、美しい緑の木々が見えるガラス張りの広い廊下があり、そこに並べられているテーブルと椅子に座っている人々が目に入ってきました。
 そのコーナーには、食事をしている人、疲れたような表情の人、車いすの人、一緒に来た人と話をしている人などさまざまな人々が、病院という空間の中で時間を共有し座っていました。
 病院に来ている人たちは、基本的には体のどこかに支障があるか、その付き添いかだと思います。それぞれさまざまな事情を抱え、そこに座っていることでしょう。その人々をぼんやり眺めているうちに、大学病院という場所柄、このなかには深刻な病状で、深い悩みの中にいる人や、健康診断で引っ掛かり、精密検査に来て不安に押し潰されそうな人も少なからずいるのだろうと思いました。
 そして、同時に、悩みや不安の中にいる人達が、イエス様の十字架の恵みを知れば、その悩みや不安が祈りと共に平安に変わることを知れば、どんなに良いだろうかと思い祈りました。
今、不安なことの多い世の中にあって、光り輝くイエス様の救いと恵みを多くの人々に知ってもらいたい、知らせたいと思ったひとときでした。
                     S.Y姉

2017.7.2

 〜 賛美に生きる 〜
 ハレルヤ!主の御名を賛美いたします。本日は待ちに待ったチャペルコンサートが開かれます。チャペルコンサートを迎える皆様に紹介したい詩があります。
             ・・・泣かないでください・・・
母をうしなった私のために     心の中は キリストが
泣かないでください        不思議なくらいに     私と共に
もう泣かないでください      静かなのです       おられるからでしょうか。

 この詩はまばたきの詩人と言われた「水野源三」さんの作品です。重度の脳性麻痺により手足も動かず、口もきけない。できるのはお母さんが指さす五十音表の音の箇所でまばたくことでした。ですから、一つの詩を完成するためには、大変な忍耐と意志、また神の愛が必要とされました。しかし、それだけではない。もしお母さんが彼の賜物に気づかなかったら、また家族の温かい愛とあきらめない支えがなかったら、決してできなかったことでした。その中でも、彼をまばたきの詩人とするために愛を貫かれたお母さんの信仰と愛がなければ、適うことのないことでした。
 上記の詩は、30年間水野源三さんの手足となり、彼の人生と働きを支えてくれていたお母さんを亡くした時に書いた詩です。多くの人は彼の詩もお母さんを亡くしたことで終わりだろうと思っていました。しかし、彼が詩の中で語るように、不思議なくらい静かに詩を書き続ける。その理由こそ、十字架のキリストの愛、キリストが共におられる安心感、そして永遠の命への信仰の確かさのゆえでした。賛美はどんな状況も超えて輝くもの。賛美に生きましょう。

2017.7.2

『 渇きを満たされるイエス様 』 (ヨハネによる福音書4:14)
 いよいよ蒸し暑い季節がやってきました。この季節には少し動いただけで汗が流れ、熱中症にならないために水分を補充しなければなりません。とりわけ長時間道を歩いたり、外で体を使う仕事をした後に飲む冷たい水はどんな飲み物より美味しく、体と魂が生き返るような思いがします。水は疲れを癒し、さらに歩き続ける力、働き続ける力を与えてくれます。けれども、水をどんなにたくさん飲んでも体に蓄えることはできず、時が経てば再びのどは渇き、働く力、歩く力は萎えてしまうのです。
 昔から人は一度食べることでもうお腹が空くことのない食物、一度飲んだら、もう渇くことのない水、そんな水があったらいいな!と、食べること、飲むことの大変さをつぶやいてきましたが、そんなものはないことを知っているがために、人は絶えず、食べ物、飲み物を求め続けている現実です。
 聖書では、心の渇きをのどの渇きにたとえています。心の渇きとは、何をやっても満たされない心のことです。満たされない心とは、私たちの身の周りのありとあらゆるところにあるのではないでしょうか。職場、学校、家庭など。・・・絶えず結果が求められている仕事、なかなかうまくいかず躓いてしまう人間関係、ギクシャクとした家族関係。もちろんそんなことはないという人もいるかもしれませんが、多くの人々が抱えている満たされない心の渇きのゆえの叫びを耳にしている私たちです。もしかすると自分の心が渇いていることすら気づいてない私たちかもしれません。
 そのような心の渇きを、満たし潤すことのできる方がおられると聖書は紹介しています。
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、
永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネによる福音書4:14)”
 その渇かない水とは、イエス・キリスト、あなたのために十字架の上で命を捨ててくださった方であると教えます。イエス・キリストを心に受け入れ、その愛を信じる時、その人の中で感じていた心の渇きは癒され、そのイエス・キリストはその人の心の中で泉となって、絶えずコンコンと命の水が湧き出てその人の人生を潤してくれるのです。
 あなたが感じている渇きはいかがでしょうか。その渇きを満たすためにイエス様はあなたを招いておられます。その招きに応えて永遠に渇くことのない祝福の人生を歩みますように・・・。ハレルヤ

2017.7.2

 あれは4月の木曜の晩、教会の「ハングル教室」に行こうと自転車を漕いでいると、見慣れた方が同じ道を小走りに。イースターの特別讃美の練習へと急ぐ「ミルトス」の姉妹でした。その晩はハングル教室の部屋に隣接する礼拝堂で練習でした。隣から響く格調高い演奏を受け、ハングル教室での参加者の話題もいつもより上品に?...ミルトスの三姉妹、忙しい時間をやりくりしての練習は決して楽なことではないでしょうが、きっと聖霊様の励ましがあったのでしょう、時折聞こえる楽しそうな声もその晩の教会を良い雰囲気にしてくれました。
 小泉町教会の教会員からなるトリオ「ミルトス」の賜物は、神に仕え人に仕えながら高い演奏能力を発揮し続けるところだと思います。練習の合間に教会会計の用事で銀行に走る人も、教会学校でこどもたちとてんわわんやしながら演奏に入る人も、晩の練習が終わってまた職場に戻る人もいます。世の目から見れば決して「芸術的でない」環境から、天上の音楽を神に捧げる三人です。
 ミルトスの三姉妹と、ともに歌い演奏してくださる共演のみなさん、準備と運営に奉仕する私たち、そして本日の指揮者・総監督・スポンサーでもある主イエス・キリストでお送りする今日のコンサートを、みんなで楽しみましょう。
                 S.M姉

2017.6.25

〜 一人の伝道者の最後の言葉 〜
 去る4月10日、「世の光」ラジオ牧師として日本中に福音のメッセージを語り続けておられた羽鳥明(はとり・あきら)先生が召天されました。享年96歳でした。16歳の時にイエス・キリストに出会い、80年に及んだクリスチャン生活でした。その中でも1951年から57年間に及んだラジオ伝道は多くの人を救いの道へ、また献身の道へと導いた素晴らしい働きでした。
 羽鳥先生は、召される2週間ほど前に、寝たきりの状態で突然メッセージを熱く語り始めました。それはまるで伝道者としての人生を終え、神の前で報告するようなお姿でした。以下は、その時のメッセージの一部分です。
“神様、あなたの恵みによって、私たちから新しい命を与え、新しい人生を送ることができます。わたしは16歳の解きに、罪に目覚め、罪を恐れ、罪を悲しみ、そして、神様の恵み、神様の救い、神様の本当に新しい生活を経験するようになりました。
 私たちの子どもの時に、私たちが悪いことを知るということはあんまりしりません。悪くないと思ってやってます。しかし、本当にイエス様の十字架の光の前に、私たちが、思い切って、「神様お赦しください。神様、新しい人生を与えてください。」そういうふうに、悔い改めてクリスチャンになりました。クリスチャンの中でも、本当に苦しみを受けて、本当に罪の贖いを受けることができる、そのことは、なんという恵みでしょうか! ”

 今週一週間は神学校週間です。伝道者として一生涯、語り続けた福音のメッセージを、病床において、しかも召される直前まで語らずにはおられなかった羽鳥先生のお姿は、神学校で学ぶ神学生たちに大きな感動とチャレンジになるでしょう。神の国のための献身者たちの生涯が、福音を語りながら終えられるように・・・。シャローム!

2017.6.25

『 手を差し伸べる主イエス 』 (マルコによる福音書1:40〜45)
 イエス様が生きておられた時代、一人の人間の人格を尊重するという文化や思想はあまり見られませんでした。もちろん、社会的、宗教的に高い地位についていた人は別として、ほとんどの人たちはイスラエル社会と生活の中で人々から「尊重される」ということは大変珍しいことでありました。
 とりわけ病の中にある病人や社会的に差別を受けていた人たちは、自らのことを「尊重されるべき存在」とは到底考えられませんでした。もちろん、イエス様に出会った人の中にはニコデモやアリマタヤ出身のヨセフは人々から尊重される社会的地位をもっていた人もいましたが、実際イエス様に愛され、イエス様が交わってくださった対象はそのほとんどが社会的・宗教的に見捨てられた人々でした。
 盲人で物乞いのバルティマイ、娼婦であったマグダラのマリア、徴税人であったマタイとザアカイ、汚れた民であったサマリア人の女、また悪霊に捕らわれていた人々、重い皮膚病を患っていた人々など。当時のイスラエル社会において蔑まれ、いじめられて当然の人々を訪ねられ熱く交わっておられたことを聖書は記しています。そのようなイエス様のお姿に、人々はイエス様が罪人の家に入り、罪人らと食事を共にし交わっていると非難し訴えました。その時、非難する人々に向けられたイエス様の言葉は大きな響きとなってイスラエル社会を揺れ動かしたのです。
 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31〜32)
 本日御言葉に登場する重い皮膚病を患っていた人は当時のイスラエル社会のうち、最も悲惨な存在、人々から見捨てられた存在でした。彼らはエルサレム城の外側の定められた場所に隔離されていて、健康な人のグループに入ることが許されませんでしたし、彼らに近づくこともできませんでした。もし重い皮膚病の人に近づいたり、触れたりした人も同じく汚れてしまうことになったからです。
 しかし、イエス様は彼らが近づくことを拒んだことがありませんし、自ら進んで近づいて行かれたと聖書は記しています。それだけではない。イエス様は彼らを「深く憐れんで、手を差し伸べて触れて」くださいます。汚く悲惨な重い皮膚病の上に手を差し伸べ触れてくださり、癒してくださるイエス様の姿には、一人一人神に造られた人の尊さを回復しようとする神の熱情が見えます。そうです。イエス様の前に近づけない人も、その御手に回復させられない人も一人もいないはずです。イエス様は今もあなたを癒そうとし、神からの尊さを回復しようとされることを期待しましょう。 そしてイエス様の御手に触れていただくためにもう一歩近づきましょう。主はあなたを癒し、あなたを通して救いの御業を成し遂げられることでしょう。癒し主なる主イエスを賛美し証ししていきましょう。ハレルヤ

2017.6.25

 今年はとても豊かで充実したペンテコステの日を過ごせて本当にうれしくおもっています。
 いろいろ不安もありましたが、大変成功(?)したミニバザーは、小泉町教会のすべての家族と共に新しい可能性と夢を見ることができたすばらしい経験でした。お互いの支えあいと赦しあいがあって、そして何よりも神様にゆだねられたからこそ新しい挑戦ができたのだと思います.ペンテコステの日を転機にして、何もできなかった弱い弟子達を立ち上がらせて、伝道へと導かれた聖霊が、私達にも同じく働いてくださったのだと思われて感謝の気持ちで胸いっぱいです。
 そしてもう一つのすばらしい挑戦になった多国語礼拝も、本当に感動溢れる礼拝でした。
 まさに、天の御国で、神のみ前ですべての国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった白い衣を着ている群衆たちと一緒に賛美する黙示録の場面が浮かんできました。
 そうです、神様は、すべての言葉で賛美されるべきお方です。これからも、聖霊の働き溢れるより豊かな礼拝をささげていきたいと願います。
                      H.J姉

2017-06-24

2017.6.18

〜 忘れてはいませんか 〜
先週、名古屋平針教会の牧師就任式から戻る際に、ガソリンの針が丁度半分くらいを指していました。
 富山を出る時のメーターはほぼ満タンになっていて、今はちょうど半分だから、“もうこれで富山までの帰りも大丈夫だろう!”という思いでした。ところが、砺波に近づいた時、メーターが危険信号を送っていました。“どうしよう・・・。”一瞬、頭が真っ白になって早くガソリンスタンドを探さなきゃと思い、高岡で急いで高速を降り、探し始めました。ところが、もう暗くなっている田舎のどこにも見当たらない。車が道で止まってしまうのではないかという不安がよぎりました。ハンドルをしっかり握って、祈り続けましたね。そしてやっと見つけ出したガソリンスタンド・・・。その時の感動と安堵感は言葉では言い表せないものでした。先ほどまでの不安は嘘のように消えていました。ハレルヤ
 しかし、それだけではありませんでした。水曜日の朝、子どもたちの学校から連絡が来て、“子どもたちのビザが切れて、不法滞在の身になりました。はやく方法を探してください。”という電話でした。もともと満了日が6月初旬であった子どもたちのビザを、自分のビザの満了日の7月だという間違った情報を思い込んでしまった結果でした。自分の油断を嘆きつつ、急いで市役所にいき、必要資料を手にし入国管理局に駆けつけました。幸い、入国管理局の方々の手早い対応のお陰で、その日の内にビザは更新され、子どもたちはもともとの地位を回復することができました。ホッと息をつきながら、神に感謝の祈りをささげるしかありませんでした。
 今週経験した出来事から得られた恵みの教え。どんなことにも決して油断しないこと、また常に身の周りの事柄をチェックする習慣を身に着けることを心がけること。これはまたキリスト者の霊的な面においても適用できることでしょう。今は神の計画においてどの時期であるか、また魂が渇いて底をついているのに気付かず、突っ走っているのではないか、と。

2017.6.18

『 バランスのとれた礼拝者 』 (ヨハネによる福音書4:23〜24)
 私たちはこの6月、ペンテコステ礼拝を中心に、主の教会における聖霊の働きと祝福を分かち合ってきました。 まことに聖霊は天地創造の時から神と共に働かれ、神の民の上に臨まれることでイスラエルの歴史を導かれました。またイエス・キリストの誕生から公生涯、十字架、復活を通して共に働かれ、神の国の業を成し遂げられたことを聖書は描いています。そしていよいよ、イエス様が約束された通り、ペンテコステの日に初代教会の弟子たちの上に聖霊が降り、教会に命と力を与える聖霊の時代を開かれたのです。その後、聖霊はイエス・キリストを信じ、心と人生の中に受け入れたすべての人のうちに住まわれるようになりました。そして聖霊との交わりを喜び、日々聖霊に満たされたいと願う人を生きた礼拝者と呼ばれ、その礼拝者を通して神の栄光を現わしてくださいます。 
 本日の聖書箇所は、「生きた礼拝礼拝者」について紹介してくれる大切な聖書箇所です。イエス様は、真の礼拝とはある時間と場所に限ることではないこと、何より礼拝者の生活、礼拝者の存在と人生そのものが真の礼拝であって、そんな中での聖霊様との交わりを通して捧げられる礼拝を主が喜ばれることを教えておられるのです。とりわけ私たちがどんな形の礼拝をささげるとしても、その礼拝が「霊(Spirit)と真理(Truth)をもって」ささげる礼拝であれば、その礼拝は神に喜ばれる生きた礼拝となることを宣言しておられます。
 そうです。私たちの献げる礼拝が、「霊と真理」が一つとなる礼拝であることで、私たちは感動と恵みに満たされ、成長と成熟を味わうことになるのです。「霊と真理」この二つの要素は、まるで+と−が合わせられて初めて電気を作れるように、この二つのうち、一つだけが強調されたり、もう一つを粗末にしてしまうのであれば、私たちの礼拝は真の礼拝からくる力と命をいただくことはできないのです。
 主イエスが望まれるのは、バランスのとれた教会とクリスチャンであることを心に刻みましょう。その中でも、本日の御言葉の教えである「霊と真理をもって」礼拝することにその鍵であると言えましょう。まず、頭は神の御言葉にいただくことで、常に主を知る知恵と確信に満たされながら、また、心は聖霊に熱く燃えて祈りに励み、聖霊による聖さを保ち、聖霊の導きに生きる礼拝者の姿。あなたは「霊と真理」のバランスの取れた礼拝者ですか。また、私たちの教会は、「霊と真理」のバランスの取れた礼拝を主に献げているでしょうか。
愛する神の家族の皆さん、私たちを礼拝の場へと導くのは、イエス・キリストを通して示された真理の御言葉です。そして、私たちを真の礼拝者へと導く力こそ聖霊です。聖霊は私たちを神の生きておられる臨在へ、私たちを悔い改めと回心へ、新しい創造へと導かれるでしょう。ハレルヤ

2017.6.18

映画「ナザレのイエス」を見て
 一ヶ月ほど前まで、水疱瘡で学校にも、教会にも行けない、つらい時を過ごしていましたが、神の家族の祈りのお陰で治ることができました。感謝です。
 家にいる間、「ナザレのイエス」という映画を見ました。実写版で見ることによって、文字の聖書とはまた違う、大きな感動がありました。
 イエス様の御言葉の力強さ、人々への愛と十字架、復活、そして、母マリアの従順さ、洗礼者ヨハネの熱心さ、祭司や律法学者らの堕落、使徒たちの弱さと成長、聖書に表されているイエス様の愛と神の偉大さを目で実際に見る、良い機会になりました。
 イエス様は天に昇られる前に、使徒たちをご自分の証人として立て、また聖霊を与えられました。イエス様が愛を行なわれたように、ヨハネが裁きを預言したように、使徒たちがイエス様のことを伝えて行ったように、自分も、神の僕、イエス様の証人として、神の国のために、学校などで、光と塩として福音を現わしていけるよう、弱い私を、神様が強めてくださいますように、神の家族の皆さん、どうか祈ってください。
 これからも、聖書の学びを休まず、毎日行いたいです。
             M.J兄

2017-06-10

2017.6.11

『 立ち上がる教会 』 使徒言行録2:36〜42)
 ペンテコステの聖霊の圧倒的な力を体験したイエス様の弟子たちは立ち上がりました。恐れと不安、疑いの中で小さくなっていた彼らの暗かった心は消え、光に包まれるようになったのです。今まで彼らを捕えていた宗教指導者たちからの脅しも、ローマ軍隊の暴力や剣の恐怖も彼らを支配することはできませんでした。弟子たちは閉じてあった門を開けて、人々の前に立ちます。そして大胆にイエス様のことを宣べ伝えます。弟子たちの代表としてペトロが声を上げて神のメッセージを語り始めます。「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。」(2:14)
 ここで「声を張り上げ、話し始めた」とは、大胆に語ったことを意味します。彼はもう恥じることも、隠すもこともありません。彼が体験し、聖霊が言われることに加えたり差し引くことなく、明確な真理を語ったということです。ペトロは預言者ヨエルの言葉とダビデ王の言葉などを用いてイエス・キリストがメシアであり、聖書の約束通り、聖霊がすべての人の上に臨まれることを語ります。それから、ペトロは、神の独り子イエス・キリストの十字架の苦しみと死、また復活、昇天の出来事により、神の救いの道が開かれたことを宣言しているのです。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(2:36) ・・・そうです。神は、私たちが受けるべき裁きや呪いを、十字架のイエス・キリストに負わせられました。そのことによって、裁きと呪いの日が、神の輝かしい救いが実現された日に変えられたのです。ですから、今やイエス・キリストを信じる者は誰でも、主の救いの祝福に与ることができる。イエス・キリストを十字架にかけた罪人であって私たちを、神の裁きと呪いから免れ、救いの道を歩むようにしてくださったのです。
 人々は、ペトロの説教を通して、自分たちの取り返しのつかない罪深さに心打たれ、声を上げ、ペトロと使徒たちに尋ねます。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」(2:37)と。・・・この質問こそ、救いの入り口です。「わたしは何者で、わたしは何をすればこの罪と汚れから救われるだろうか」という人間の根源的な質問だったのです。これに対しペトロは躊躇なく宣言します。「悔い改めなさい。」(2:38)と。「悔い改め」は、私たち全存在が新しくなる過程の始まりです。悔い改めにより3,000人が救いに入れられ、教会は立ち上がりました。
 願わくは、小泉町教会の一人一人が聖霊に満たされ、ペトロのように、自分の弱さと罪深さから聖霊の助けをいただいて悔い改め、命をもたらす働き人として立ち上がり、聖霊によるリバイバルを生きる群れになるように・・・。

2017.6.11

「小さな泉」を書くのは私にとっては言葉の壁があってちょっと難しい部分があるのは事実です、でも、これも神様の恵みだと思い、また、神様に自分の心を打ち明ける大事な事だと思っています。
 最近息子がますます大きくなり力が溢れて家の中で結構うるさいので凄く隣の方に申し訳ない気持ちでいっぱいです。たまにはうるさいとも、いわれているし、凄く心細いです。そうなると自分の家が欲しくなり夫に凄く不満を感じてあれもこれも嫌になります。
 でも、神様を信じる私には自分の思いより「まず神の国を求めなさい」を思い出して、神の言う通りにしない自分が切なくなります。神の国はこの世より比べられないくらい素晴らしいのに…
 みなさん弱い私の為にお祈りをお願いします。ありがとうございます、神様に感謝します。
    A.S姉

2017.6.4

神の国礼拝垣間見る恵み 〜
“こんにちは、アンニョンハセヨ、ハロー、ニーハオ、スラマッ・バギ、・・・。”…”こんにちは“に当たる世界の言葉です。聖書の物語の中で、もともと一つの言語を使っていた人類が、神に反逆し、神に対抗しようとバベル塔を建てていた時に、神が彼らの言葉を混乱させられたことによって世界各地に散らばったと物語っています。
 それから聖書は、人の傲慢と反逆から始まった言語の混乱が一致する出来事を紹介してくれますが、それがペンテコステ(五旬節:聖霊降臨日)の出来事です。聖霊が初代教会の120人の群れに臨まれ、聖霊が語らせるままに、一人一人が違った国の言葉で話し出したわけです。
 本日、小泉町教会の礼拝は、それぞれの国の言葉を用いて執り行うことになります。普段の日本語だけでなく、慣れていない言葉が聞こえることで混乱してしまう方もいるでしょう。けれども、主の祈りや聖書、世界中のクリスチャンに愛唱されている讃美歌の意味は同じですので、広い愛の心をもって互いに受け入れましょう。真に、2000年前のエルサレムの初代教会の信徒たちが味わった恵みと感動に与れますように・・・。
 またペンテコステ礼拝後には、生活困窮者自立支援等募金協力のためのミニバザーも行なわれることになるため、恐らく初めて教会の中に入られる方もいるでしょう。ぜひ、イエス様の愛と喜びをもって歓迎し、イエス様を証しできる時といたしましょう。・・・わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35〜36)

2017.6.4

『 神の国礼拝 』使徒2:1−4、黙示録7:9−12)
 ハレルヤ! ペンテコステ礼拝を迎え、人種と国と民族、言葉の違う、愛する神の家族と共に礼拝できる恵みを賛美いたします。
 私たちは神に愛されている神の民です。ここで聖書の主題であり、神の大いなるビジョンの御言葉を覚えましょう。 “神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)。”・・・真に神の愛は、世界中のすべての人のうち一人も滅びないで、永遠の命を得ることにその焦点があります。その神の愛は、イエス・キリストの地上における最後の命令にもはっきりと記されています。 “それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)” “「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)”
 神は、罪の中で滅びていく私たちのために、神の独り子をこの世に贈られ、十字架の上で死なせてくださいました。ですから、神に愛されている者として、世界のクリスチャンと教会はカトリックとプロテスタント、教派と教団、人種と性別、国家と民族を超えて、イエス・キリストの十字架の愛の上に立ち、世界に十字架の平和と愛の福音を宣べ伝えなければならないのです。しかし、今の世界を見ると、聖書の教えはどこかに消えてしまったような現実です。
 どうすればいいだろうか。その答えとなる出来事が、ペンテコステの恵みなのです。神の聖霊が神の民の教会の上に降られたことで成し遂げられた言葉の統一、世界の国々区別なく、人種、民族区別なく、すべての人に福音を宣べ伝えるための力を受けた。この日の聖霊降臨によって世界伝道への具体的なビジョンが与えられたのです。 そして、そのペンテコステの恵みが成就されるのが、やがて来たるべき神の国礼拝であることを聖書が描いているのです。“この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(黙示録7:9〜10)”・・・天上の神の国における礼拝には差別がありません。国や民族、言葉の違いで苦しむこともありません。神の小羊イエス・キリストの前に、皆が声を合わせ讃美と礼拝をささげる姿が神の国を象徴する最も特徴的な姿なのです。願わくは、小泉町教会に連なる神の家族お一人お一人が、国、民族、言葉の違いで一人も疎外されることなく、みんながキリストの愛と恵み、聖霊に満ち溢れる生きた礼拝を献げられるように・・・。

2017.6.4

聖書の学びでの私の宝物〜
私は火曜日の聖書の学びに2014年4月より参加して以来、もう4年目になります。ダニエル書から始まりマラキ書まで一年間学び、その後新・旧約中間時代を少し学び、2015年5月よりパウロ書簡についてローマの信徒への手紙からコリントI、II、ガラテヤ、エフェソ、フィリピ、コロサイの信徒への手紙まで2年間学びました。閔先生より毎回詳細な説明文をいただき、聖書とその説明文を読みながら解説していただき、今ではその説明文書がファイル2冊にもなりました。これはどこにも売っていない私の宝物です。
 説明文があることは後から何回でも読み直すことができます。普通の人間は時間が経過すると記憶がだんだん薄れて行くもので私も例外ではありません。従ってこの説明文は私の宝物なのです。しかし宝物は持っているだけではいけませんね。その宝物を福音伝道の働きに生かさなければなりません。
 最近は教会学校の備えのときに役立てております。またこれからも改めて説明文を読み返し、聖書理解を一段と高め福音伝道の奉仕に務めたいと思います。
                    I.H兄

2017.5.28

〜 恵みを広げましょう! 〜
先週、やっと娘の水疱瘡から治ったと思いきや、今度は息子が同じ水疱瘡にかかってしまいました。その感染力というのは凄まじいもので、すれ違っただけでも10人に1人は感染してしまったり、家族の中で誰かがかかると免疫を持たない人は9割以上の確率で発病するそうです。“突発性発疹、はしか、水疱瘡おたふくかぜ手足口病など”、必ずと言っていいほど、子どもの時からかかる感染症はいくつもあります。そしてその多くが、幼稚園や学校など、親しく交わる中で移り合うものなので誰かのせいにすることはできませんし、むしろ互いを受け入れ合うべきことでしょう。
 さて、次週はペンテコステ礼拝。聖霊が初代教会とキリスト者の上に降り、世界を変えていった素晴らしい恵みの日です。初代教会の時代、人々がイエスを信じる人たちを「クリスチャン」と呼び始めた当初は、“キリストを信じる者”を卑下する言葉、軽蔑の言葉として使われていました。最も罪深い人が処刑される十字架にかけられ死んだナザレ人イエスを信じることはユダヤ教の人々にとっては狂気の人々でしか見えなかったことでしょう。
“さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。(使徒24:5)”・・・パウロへのユダヤ教の大祭司アナニアが告訴した言葉です。パウロを中心とした初代教会の福音伝道の働きがいかに凄まじいものであったかがよく分かる表現です。その後、福音の感染力はローマを襲い、全ヨーロッパアメリカアジアへとますます強く広がっていきました。
 しかしいつからでしょうか。福音伝道の働きは極端に弱くなってしまいました。なぜでしょうか。福音の感染力が落ちたからでしょうか。いいえ、福音のパワーは日々新たにされています。課題は福音を語る人が福音の恵みに再び感染されること、その福音に心と体が燃えて燃えて、福音を広げなければいけないという切なさを回復していただくことでしょう。

2017.5.28

『 証し 』 (ヨハネによる福音書 17章21節)
 3月末でYMCAを退職して、今は毎日部屋を片付けたり釣りをしたりとゆっくり過ごしています。エネルギーをできるだけ使わず、自給自足の生活に近づけられたらと思っています。
2009年6月に富山YMCAを離れ教会から派遣され、第14代日本YMCA同盟総主事に就任し2期8年間働かせていただきました。YMCAには、横浜YMCAに1978年に就職してから21年間、1999年に富山YMCAに赴任してから10年間、合計39年間働かせていただきました。健康、語学、総務、予備校、フリースクール、高齢者介護、保育園など様々な事業を担当いたしました。最初に担当した健康教育事業では、全く専門外の水泳教室ディレクターという役割を与えられ、体育会的な厳しい環境に馴染めず、また、水泳指導に自信がつくまでは何度もYMCAを辞めたいと思いました。39歳の時には、化膿性椎間板炎という椎間板と腰椎が腐るという難病で倒れ、3ヶ月寝たきりの入院生活を経験しました。色々な出来事や困難がある中、YMCAで働き続けることができたのは、イエス・キリストに従うYMCAの理念と使命、そして、世界につながるネットワークがあるからです。
 世界YMCAの正章には、逆三角形のマークの背景にギリシャ語でイエス・キリストを意味するXPという頭文字があり、そして、マークの中央には聖書が描かれています。その聖書の中には、今日の聖書の箇所ヨハネによる福音書17章21節の文字が書かれています。「みんなのものが一つになるように」というYMCAの共通の祈りが示されているのです。
 6月17日に開催される第6回同盟協議会では、YMCAの働きを多くの人々に伝えるために日本YMCAの新しいマークとスローガンが発表される予定です。経済格差の広がる世界で理不尽な戦争やテロによって多くの犠牲者が後を絶たず、約6千万人が難民となり生命を脅かされているこの世界の中で、イエス様が命じられたように、国家・人種・民族・宗教を超えて人々が平和に互いを尊重して暮らせるように、YMCAが神の国を目指し、困難にある人々の力になれることを祈り続けます。 
                島田 茂

2017.5.28

〜小さなエビと小さな種〜
昨年の春から白メダカを飼っています。死んでは買い足してきましたが、今は3匹しかいなく春に子供が生まれないかと楽しみにしていましたが、お腹が大きくなったのに卵が見当たらなく、みんなメスなのか?仕方がないので、あきらめて水槽を洗って水を替えようとしたら、水槽を掃除してくれる沼エビを一緒に飼っていたのが、増えています。小さな赤ちゃん!うっかりゴミと混ざって流すところでした。
 ここで、からし種一粒ぐらいの大きさかしら?と考えたのです。
 私は毎朝、パン屋でサンドイッチなどを作る仕事をしていて、粒マスタード入りのソースを使うときにからし種を見ていると思っていましたが、粒はからしの実?でその中に本当に小さな種が入っているのですよね。『からし種一粒の信仰』と同じで、あると無いのでは大違い、居ると思って見ていると、それよりも小さな生まれたばかりのようなのもいるのです。夜電気を消すとうじゃうじゃと出てきて、これがみな大きくなるとエビだらけの水槽になりそうです。私の信仰も生まれたエビの赤ちゃんぐらい?からし種一粒より小さいけど、あると無いとでは大違い?そもそも信仰に大きいも小さいも無く、強いも弱いもないのでは?などと思いながらも、エビの赤ちゃんたちを見ながら早く大きくなぁ〜れ〜〜と願うのです。
                     T.K姉

2017-05-24

2017.5.21

〜 遣わされた者としての生涯を思う 〜
昨日は、わが教会の歴史において大切な働きをしてくださった藤田英彦先生の訪問を
受けました。藤田先生は日本バプテスト連盟の歴史において大きな伝道の足跡を残された方で、今年が牧師となられて60周年を迎える年で、岐阜教会が用意された先生の60周年を祝う感謝礼拝に行かれる前に、同じ時期に伝道のために訪ねていた北陸の教会をもう一度訪問したいという願いがあってわが教会をも訪ねてくださったのです。先生が来られる前に、藤田先生についての記録を捜してみたところ、2010年に出版された富山小泉町教会の50年史の中の、「富山開拓の歴史」には次のように記されていました。
・1960年10月、「連盟伝道部との話し合いにより岐阜教会の藤田英彦牧師が富山に入る。 バプテスト青年伝道隊を迎え、富山荘(現:高志会館)で伝道集会を開く。
 市公会堂の小ホールで集会、藤田英彦、石堂栄師が説教。
 ミヤコ楽器店の二階(後に三階)ホールで木曜日に集会をはじめる。
 私たちの教会も3年後には教会開拓60周年を迎えることになります。今までどれほど多くの方の献身的な働きと涙と汗、血が注がれただろうか。「地の果てに至るまで、わたしの証人となりなさい」というイエス様の至上命令に従い、数えきれない献身者たちの命をかけた献身によって富山にも福音が伝えられ、わが教会も祝福に与ることができたことを賛美いたしましょう。
 願わくは、藤田先生をはじめ、先日福井教会を辞任された西條先生、その他、福音伝道のために尽くされた先生方の上に父なる神の慰めと天にある祝福がありますように、また、わが群れに多くの伝道の実が結ばれますように・・・。シャローム!

2017.5.21

『日から日へ、良い知らせを告げよ』詩編96:1〜13)                       
 神が造られた人間の生きる目的は、神を讃美することです。本日、私たちに与えられている詩編96編の詩人は、全世界の人々を、神を賛美する場へと招待しています。そして招かれた人々が備えるべきものは、「新しい歌」を歌いながら御前に進み出ること。聖書の中の「新しい歌」は、新しく作った歌の意味より、神様との新しい関係による、新しく神を知ったことへの心からの歌のことを指しています。
 信仰生活とは昨日食べていた料理を温めて食べるようなことではありません。いつも新しい霊の糧を感動と感激をもって食べて生かされるものです。神からくる恵みは日ごとに新しいもの。今現在私たちが味わっているもののうち、当たり前であることは何一つありません。私たち皆は常に新しい神の愛ゆえに生かされているのです。
 本文の1〜3節の原文を見ると、命令形の言葉が7回登場します。“歌え”と言う言葉が3回、“御名をたたえよ、日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ、国々に主の栄光を語り伝えよ、諸国の民にその驚くべき御業を語り伝えよ。”という命令形がそれぞれ一回ずつ登場します。また詩人は、私たち人間はこの地に両足を付いて生きている存在ではあるが、絶えず天を向かおうと、天を見上げようと勧めます。古代世界の人たちが北極星を見上げながら、自分の進むべき道を歩んだように、今日の私たちも天を仰ぎ見ながら、神に愛されている者として新しい讃美を歌う人生を生きなければならないのです。
“国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。(96:10)”
 そうです。神は世界を支配されるお方、決して揺らぐことがないように、しっかりと支えられ、やがて世界を支配されるお方なのです。そのことを世界の指導者たち、諸国の民たちは忘れてしまい、自分勝手の道を歩んだがために、今の世界が罪と悪に満ちていることを覚えます。求められるのは、神の主権と支配を認め、そのことを喜びと感謝をもって生きることです。常に、創造者であり世界を治めておられる神を意識して生きるのであれば、今の世の欲望やこの世における見えるもの、見える力中心の価値観に引っ張られることはないでしょう。皆さん、忘れないでください。私たちの神は私たちの歴史を裁かれるために近づいておられるということを!やがて来られ、私たちの世界を正義で裁かれ、真理と正義をもって世界を治められることを!
 私たちの讃美は、生きておられる神、世界を創造され、支配しておられる神、私たちの罪を贖うために独り子なるイエス・キリストを贈り、私たちの身代わりとしてくださった神の愛のゆえに、また、今も私たちの傍らで、神の子どもたちを守り導かれる神への信仰の現れであって、この信仰からくる感謝と感動に満ち溢れる人が新しい歌をもって生きることになりますし、賛美をもって日から日へと、御救いの良い知らせを告げる人に変えられるのです。ハレルヤ

2017.5.21

 主の御名を賛美します。      
 1年間、または2年間  (昨年度は中学1年生、さらにその前の年は中学3年生を担当していました。)の疲れが出たのか4月中旬から、人生初のインフルエンザに罹患し、大変な辛さを体験してようやく治癒し、先週の礼拝に出席することができました。
 療養中はいろいろなことを神様から示されました。元気で活躍することは素晴らしいことですが、自分もこれから老いていく身です。
 病気や体力的に弱い人への労りをもつことの大切さを教えられました。ただ、インフルエンザが治り、職場に戻るとある生徒から私が休んでいた時の体育の授業で自己紹介をすることになり、「Sさんがね、『好きな先生は村井先生です。』って言ってたよ。」と 教えてくれました。素直にうれしかったです。(Sさんは昨年度何度か注意することがあったかな。)
たまには病気になるのもいいかなと思った4月の終わりの出来事でした。神様のお導きと皆様のお祈りを心から感謝しています。
                M.K姉

2017-05-20

2017.5.14

『 孤独の時に見る神の御顔 』 (創世記32:21〜32)
 人の人生の中、不安と恐れを感じさせられる時こそ、独り残された時ではないでしょうか。“誰も訪ねてくれない病床における孤独、誰にも言えない悩みを抱えて過ごす人の孤独、誰も認めてくれない中で働く人の感じる孤独”など、その時人々は深い暗闇に包まれてしまうことでしょう。あなたが深い孤独を味わった時はいつでしたか。
 聖書は、独り残された時に神の道が開かれ、神からくる力と恵みをいただき、まったく新しい出発を始めた神の人たちのことを紹介してくれます。まさに、今日のヤコブは孤独のただ中で、生きた神との素晴らしい交わりに入ることが許されました。
 ヤコブは人々の間にいた時、絶えず欲望と争いに捉われ、ありとあらゆる手段と偽りを辞さなかった人でした。彼にとって目に見えるものより大切なものはありませんでした。そのため彼は詐欺師のように、常に人を騙し、心の内では欲望の企みを続けていたのです。   
 本日の御言葉には、兄エサウに罪を犯してしまい逃亡者となっていたヤコブの帰りの内容が描かれています。兄エサウの怒りをなだめるために最善を尽くすヤコブ、しかしエサウが400人もの人々を引き連れて来ているという知らせを聞いたヤコブは、大変な恐れに陥ってしまいます。家族全員に先に川を渡らせた後、独り残ったヤコブは、なかなか決断を下すことができない。これ以上逃れることはできない絶体絶命の瞬間にも、ヤコブは依然として自分の欲を捨てることはできずにいたのです。恐れと不安に覆われた孤独の時がしばらく続きます。
 丁度その時、神がヤコブを訪ねて来られたのです。神は彼の欲と執着心を砕くために格闘を仕掛けます。神はその時、ヤコブをまったく新しい神の人に変えようとされます。神はヤコブの腿の関節を打ち、彼の強い欲と自我を砕かれることになります。ヤコブはもともと敗北を知らない人、人生の崖っぷちに立たされても、自分の弱さと限界を認めることができなかった人でした。しかし彼は神との格闘を通して、自分の罪深さと弱さに気づかされ、神の祝福の約束を切に求めることになります。ヤコブは夜の孤独のうちの長い格闘を通して神の御顔(ペヌエル)を見ることができ、全く新しい人生を始めることができました。神はヤコブが独りにいた時、彼を訪ねられ交わってくださる。そしてイスラエルという新しい名前を与えてくださったのです。
 本日は母の日礼拝小泉町教会の母なる皆様の人生においても独り残されたような孤独の時もたくさんあったことでしょう。・・・あなたの人生を振り返る中で、神があなたを訪ねられた時はいつでしたか。恐らくあなたが独り寂しい時、神の助けと導きがなければ生きられなかった切なる時に、神が御顔を示され、御手を差し伸べられたのではないでしょうか。ぜひ、神の家族の日々の生活において、神の前に独り寂しい時、この世の欲望や目に見えるものではなく、神の御顔を求め、神の御手の業に目を向けることができますように・・・。 

2017.5.14

 私はこの春から、午前中は小児科医院で看護助手として働きながら、午後は看護専門学校に通い、看護師になるための勉強を始めました。
 学校の授業はとても興味深いですが、進度が早く、課題も多いです。看護学生として、厳しいルールや制限もあります。そんな毎日のなかで、時間がないこと、厳しさに疲れ、ふと、不満を持ってしまいます。
 でも、私は看護学校の受験をしたとき、「神様!どうかどうかお願いします!合格させてください!」と机の下で手を組み、一生懸命お祈りしました。合格したら、どんなことでも頑張ります!という気持ちでした。
 それなのに、忙しさの中で、もうすでに感謝を忘れてしまいそうな私です。看護の学びのなかでは、折々に神様の存在を感じるときがあります。人の死生、健康、幸福、愛…。教会やクリスチャンが、現代の看護の確立に深く関わっていることも知りました。
 最近、私は水曜祈祷会に通い、少しずつ聖書を学んでいます。忙しい毎日ですが、一日一日を大切にして、学びを深めて、イエス様を、愛を、感じ味わえる日が、私にくることを楽しみにしています。
               A.M姉

2017.5.7

     〜 ペンテコステ礼拝が待ち遠しい! 〜
 来る6月4日(日)は、ペンテコステ礼拝です。助け主なる聖霊が教会に降られた日、
教会の誕生日であり、バベル塔以来世界の言葉が統一された日で、クリスマス、イースターと合わせてキリスト教における3大祝祭の一つです。
 まだ一か月ほど先のことではありますが、私はペンテコステ礼拝が待ち遠しいです。なぜならば、神の家族と共に初代教会が体験したペンテコステにおける言語共有という恵みを再現してみたいという願いからです。今現在小泉町教会にはインドネシアフィリピン台湾中国韓国からの方々と共に礼拝をささげています。しかし礼拝のすべてのプログラムが日本語で行われていて、まだ日本語に慣れていない方々の心には母国語で礼拝したいという願望をもっていることでしょう。そのため、今年のペンテコステ礼拝では讃美歌と主の祈り、聖書箇所などをそれぞれの言葉で参与していただきたいという計画を立てています。初めての試みで、混乱してしまう方がいるかもしれませんし、礼拝に集中できないとつぶやく方も現れるでしょう。けれども、2000年前のエルサレムの初代教会で起きた聖霊降臨の出来事と、その場にいた人々が各自違った国の言葉で祈っていた時の驚きには及ばないでしょう。
 ぜひ、神の家族が共に集い、ペンテコステ礼拝の命と恵みを味わうことを祈ります。とりわけ当日の礼拝は総動員礼拝として、わが教会につらなる方々を招いてできるだけ多くの方と共に礼拝を献げたいと望んでいます。願わくは、今現在礼拝に来られている方々だけでなく、しばらく教会から離れていた方々のために執り成し祈りつつ主の御前に導くことができ、主に喜ばれる真の祝宴となりますように・・・。シャローム!

2017.5.7

礼拝者の基本に戻る 』 (ミカ書6:6〜8)
 “人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。(ミカ6:8)”
 創世記からヨハネの黙示録まで、繰り返し強調されている主題の一つとして、生きておられる神は、神を正しく礼拝する民を新しく造っていかれるということでした。その延長線上にミカ書もしっかりとその役割を果たしています。
 神は、礼拝する一人一人をいつもご覧になっておられる、そして、一人一人がどのような信仰をもって日々を過ごし、礼拝の場に来ているのかをすべてご存じなのです。私たちは、働き人である前に、まず礼拝者として自分自身を献げなければならない。「どれだけ多くの働きをしていて、その働きにどれだけ多くの時間を費やしているか」よりも重要なことは、「どのような心で神の前に立っているか、神の御心をどれだけ知って礼拝しているか」ということです。礼拝の本質は、イエス・キリストを自分の主と告白し、いつどこであろうと、神が求めておられる通りに、自分自身を献げ、生活におけるすべてを献げることです。そのような礼拝者としての生活の中で、私たちは神に会い、神を体験します。この体験はただ一方的な、神の憐れみによるものです。神は、私たちの心から献げる礼拝をいつも求めておられます。そして、その現れる姿こそ、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」ことなのです。
 神は、イスラエルの偽善的な神殿礼拝といけにえに替えるべき、三つのことを示されています。まず、「正義を行う」ことです。ここでの「正義」とは正しい生活を意味するだけでなく、キリストの光と影響力を世に示すことです。すべての人に公平に接し正義を身の周りで実現していくことです。“地の塩、世の光”となる一人の貫く正義が世を変えることができることを心に刻むべきです。二つ目は、「慈しみを愛する」ことです。慈しみ(ヘッセード)を愛することによって、神の誠実で真実なる愛を味わい知ることができ、その愛を周りの人に示していけることを意味します。すなわち神から受けたヘッセードを他人に示せない場合、神との契約に反したものとなるのです。三つ目は、「へりくだって神と共に歩む」ことです。これはキリスト者の人生において最も重要な原理であると言えましょう。神を礼拝する者がおごり高ぶることはできません。聖なる神の前の罪人としての自覚の現れこそ、へりくだりですし、そこから神との生きた関係が始まるのです。まことに、神はへりくだりの恵みを知っていたモーセ、ダビデ、ペトロなどを選ばれ用いられたことを知っています。
 そうです。信仰とは、ただの形式的な行ないや神秘的現象への憧れではなく、私たちが両足で立って生きているすべての場所における神の正義と愛を行い、その場所を神と交わる礼拝の場所とすることです。私たちはミカの言葉を通して私たちの抱くべき正しい信仰と礼拝者としての生き方を叫ばれているのです。ハレルヤ

2017.5.7

 2009年6月に富山を離れ東京に単身赴任、日本YMCA同盟総主事に就任して以来8年間の任期を終えることができました。就任式では田口昭典牧師に司式、閔丙俊先生に讃美していただいたことが昨日のことのように思い出されます。神様の召命によって教会から派遣されたことを心に深く刻み日々の任務に当たりました。
 この8年間、公益法人移行改革支援、御殿場にあるYMCA国際青少年研修センター東山荘再開発、そして、全国YMCAのブランディングに取り組みました。一方で2011年には東日本大震災が発生し5年間の計画で全国YMCAが一丸となって支援活動に取り組みました。昨年は熊本地震が発生し、最も被害の激しかった地域にある益城町総合運動公園と御船町スポーツセンターの二か所の避難所熊本YMCAの指定管理者だったため、全国YMCAを通して災害支援経験豊富なスタッフやボランティアを派遣しました。重責のなか聖書通読と世界YM・YW聖書日課と祈りから日々の仕事をスタートし、職場でも全ての会合で聖書に導かれ祈りをもって始めることができたことは幸せでした。
 閔先生と兄弟姉妹のお祈りに支えていただいたことに心から感謝いたします。
                 島田 茂兄

2017.4.30

〜 恐れと思い悩みのただ中で 〜
 「恐れるな!」と言う言葉ほど、聖書に多く登場する言葉はないでしょう。それほど、神は神の民が怖れをもたらす目に見える状況や聞こえてくる噂に心を奪われることがないように、神への信仰をもって勝利者としての一歩を踏み出すことを望んでおられるのです。
 人は弱いもので、一日のうち、身の周りの状況の変化や人間関係などによって、何度でも心騒がせてしまいます。最近、テレビでは連日、アメリカによる北朝鮮の核施設攻撃とその後の戦争の可能性が流れ続けています。そのニュースを聞くだけで、人々は恐れ、将来への不安で思い悩む日々を過ごしていることを感じます。通りすがる人々の顔から「恐れと不安」が伝わってきて、落ち着きをなくしている姿を見ます。また、政治家たちへの不信感、身の周りに起きている理解に苦しむ出来事などに思い煩いは膨らむばかり・・・。本当に拠り所とすべきものが見当たらない日本社会です。
 先週は2017年度の定期総会を開きました。そこで、一年間の計画を分かち合う中で、新しく計画されている行事についての心配や危惧する声がありました。小さな群れでありますし、かなりタイトなスケジュールのゆえに、いろいろと心騒がせる神の家族もいるでしょう。牧師としてはいつも祈りつつ、執事の皆さんと神の家族と話し合いながら、神の時を待って一つ一つのことを進めてきました。その中、何か新しいことを始める時にはいつものように心から心配し、慎重に進めるようにとの声を聞きます。当然のことであり、大切な神の家族のご意見です。
 願わくは、神の家族お一人お一人が信仰と心を合わせ、神の助けを期待しつつ、無理せずにできる限りのことを感謝と喜びをもって奉仕できますように・・・。何よりも周りの方々を救いへと導く希望を抱き、小さな一歩を踏み出しましょう。

2017.4.30

『私を強くしてくださる方』  (フィリピの信徒への手紙4:13)
 新しい年度がスタートしました。教会は只々、聖書の言葉に励まされて歩みます。 
 恐れるな!小さな群れよ!御国をくださることは父の御心である!
 見よ、私は新しいことをする。それはもう芽生えている!
 神にはなんでもできないことはない!
 万事を益とする神がおられる。
 み言葉は、いつも私たちのそば近くにあります。そのみ言葉とともに神はそこにおられるのです。パウロは言いました。わたしを強くしてくださる方によって私は何事でもすることができる、と。
 私に力、エネルギーを注ぎ、満たしてくださる方がおられる。その方が、私たちの求めに答えて、私たちを強くしてくださるのです。この神とともに歩むところに、私たちの積極的な考えと人生が整えられるのです。
 問題がないのではありません。パウロの人生は問題だらけ、迫害に満ちていました。行き詰まりや死の危険すらあったのです。事実、この手紙を書いている時だって、投獄されていたのです。それにも拘らずパウロは語るのです。「私には何事でも可能だ!」と。
ナポレオン・ボナパルトは、「我が辞書に不可能という文字はない」!と言いましたが、ナポレオンパウロの違いは、その源です。パウロは神によってそう言うのです。環境、状況に左右されないのです。
 パウロは、絶えず前向き、肯定的、積極的なのです。それは、パウロが蘇りのイエスの力を味わっていたからです。イエスの働きかけは、生涯、パウロを離れなかったのです。パウロは、何物にも支配されない内なる自由を持っていたのです。パウロは神以外のものに心を支配させなかったのです。パウロの言う全てが可能ということは、どんな環境にあっても満足して歩むことができるということなのです。神のみ業があなたの人生を通して実を結んでいくのです。神が働きかけるのです。
 エフェソ3:20は、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのできる方に、・・・・栄光があるように」とある。神を愛し、神を信じるということの祝福を、最新の脳科学が実証している。「脳科学から見た祈り」中野信子 新進気鋭の脳科学者が語る。
 本当に幸せな生き方とは?「前向きな心、感謝、人を思う祈り」が脳を活性化し、免疫力を高め、自分も他人も変える、と。
                   田口昭典

2017.4.30

3年生になり受験という山を登り始めました。私を含め、学校の友達も点数や順位を気にし始めていて、テスト前後の教室は緊張した空気が漂っています。
部活でも引退前の大きな試合に向けて熱が入っています。今の自分にとって学校の生活だけで手一杯です。だから、すぐに神様の事を忘れてしまいます。
日曜日に部活の大会が入ったり、模試があったりで礼拝にも出席できない日が多いです。このような生活では神様に見離されてしまうのではないかと つい心配になってしまいます。信仰が浅いなぁと反省しています。そんな時に『わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。ヨシュア 1章9節』という御言葉を読み、頑張ろうと勇気を得ました。
これから今よりも更に忙しくなると思うけど、うろたえず、おののかずに歩んでいきたいです。厳しい現実に直面しても全ての事をご存じの神様に委ねる信仰をもてるようにお祈りと応援をどうぞよろしくお願いします!!
K.N兄

2017.4.23

〜 良い実を結ばせるために 〜
“御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやって
みます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。(ルカ13:8〜9)”
 先週は、だいぶ暖かくなったので、例年のように牧師館の周りに野菜を栽培するための備えをしました。まず、草を取ることから始め、新しい土を古い土と混ぜ合わせ、土の栄養のために肥料を加えておきました。そして、今はどのような野菜の種を蒔こうかということを考えているところです。牧師館の周りはもともと砂利地であったために、土にはあまり栄養がなく、毎年少しずつ土地を改良しながら栽培を続けていますが、今年はどのような収穫が得られるか楽しみです。
 本日は2017年度の定期総会です。真の農夫なる神が、私たち小泉町教会の畑からどんな実を得られようとされているでしょうか。まずは、お一人お一人が、イエス様の恵みの種をいただくための良い土地として、備えておきたいですね。御言葉から栄養をいただき、祈りで命の水を流して、恵み潤う土地の状態を作ることでしょう。それから、皆が知恵を合わせ、何の種を蒔くかを決めることです。
 願わくは、真の農夫なるイエス様が、私たち小泉町教会の畑を用いて豊かな作物を育ててくださいますように。周りの恵みに飢え渇いている方々に、小泉町教会の畑からとれた命の実を分かち合い、人を生かすことができるように。時々襲ってくる嵐や悪天候に汗と涙を流すことがあっても動かされず、美味しく栄養たっぷりの命の実を次々と収穫できるように。シャローム!

2017.4.23

神の国の成長の神秘 』 (マルコによる福音書4:26〜29)
 イエス様の公生涯において最も力を注いだのが、「弟子訓練」でした。12名の弟子たちは当時の社会の価値観から言えば、みすぼらしく物足りない人々でした。しかし、イエス様は、弟子たちを変えていかれます。その弟子たちを成長させるためのイエス様のお姿は、まさに農夫の姿でした。“種を蒔き、水と肥料をやり、雑草を取り除き、害虫や悪天候から守り待ち続ける”農夫の姿。十字架に死なれるその時まで、いや復活の後も、弟子たちの成長のためのイエス様の忍耐と働きは、終わることはありませんでした。真にイエス様に出会った人は、すべてが新しい人に変えられ、新しい人生を生きていきました。ペトロが、ヨハネが、パウロがそうでした。そして、イエス様は今日の私たち小さな群れ、またあなたの成長を待っておられます。
 本日与えられている箇所は、マルコによる福音書だけに記されている、「知らず知らずに成長する種」の譬えであります。“ある農夫が種を蒔いた後、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(4:26〜28)”
もともとこの譬えは、イエス様の昇天後、迫害と苦難の中、福音宣教の業に励んでいた初代教会への、イエス様からの慰めと希望のメッセージであったと言われています。
 農夫が種を蒔いた時から、種の成長が農夫の手から離れてしまうように、神の国の種は自ら成長していくもの。種の中に潜んでいる神の命、その凄まじい力は、人の思いをはるかに超えるものであることを聖書は教えているのです。それと同じように、神の国、神の福音伝道は、目には見えないけれども、この世の中にあってゆっくりであるけれども、確実に成長している。これは私たちの教会の成長においても同じことが言えるのではないでしょうか。
私たちが福音の種を蒔いておきさえすれば、やがて実が結ばれる。すべては神の御手にあり、神が配慮なさることですから、人間の側で急いだり、焦ったりしてはならないのです。求められるのは、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126:5)という信仰の姿勢でしょう。
 私たちはこのたとえから、人間の無力さを教えられます。そして、その無力さを知る人だからこそ、神様の驚くべき命の御業への信頼と、信仰へと進むことになると教えられます。自分の弱さ、自分の限界、自分の無力さを知ることこそが、信仰の成長へと進んでいく道なのです。
 本日は、2017年度の定期総会の日、わが共同体と、一人一人の成長へのイエス様の約束を信じつつ、ゆだねられた福音伝道と、弟子訓練の種蒔きを励み続けていきましょう。ハレルヤ

2017.4.23

〜ためて、ためて〜
こないだ父が東京から帰ってきて家の中が段ボールでいっぱいになっています。どうやら父はなんでもため込むタイプのようでごみのようなものまで入っているので、いくつか仕分けをして捨てています。
どの場所でもいろいろなものをため込むということがあるのでしょうか。僕が働いている学童保育やYMCAでもどこからかものをもらってきては倉庫や棚にしまってあります。後からなんだこりゃっというのもよく出てきます。後から使えそうだという理由で取っておくことが多いのですが、必要なものが何かを見極めることが大切だと感じました。
人間、モノだけでなくいろんなものをため込んでいるのでいるのではないでしょうか?本当に大切のものは何か神様に祈りながら生活を見直していきたいです。
S.H兄