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富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

+++集会案内+++

●主日(日曜日)礼拝 午前10時半から
●水曜祈祷会 午後7時半から
●金曜ディボーション(黙想の時) 午前9時半から
●英語礼拝 第2日曜日
(コーヒータイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から)

●聖書の学び 毎週火曜日
●ハングル教室 毎週金曜日
(コーヒータイム:午後7時から 講義と練習:午後7時半から)

教会写真集はブログ「小さな泉の写真集」へ。
English Worship Service(英語のホームページ)、 富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

〒939-8081 富山県富山市堀川小泉町681

電話 076-491-2273

2018-07-14

2018.7.15

〜生きた礼拝者の目をもって〜
“みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。(ヤコブ1:27)”  
 神を礼拝するとはどういうことでしょうか。綺麗な服を着て、立派な礼拝堂で、綺麗な讃美をし、流暢な祈りの言葉を羅列し、備えた献金をささげ、牧師より聖書のメッセージを聞き、満足して礼拝堂から家に帰るということが礼拝でしょうか。昔から礼拝というと、目に見える形式を大切に守り、繰り返し真面目にこなしていくことに重みをおいていました。そうすることで、神への心理的な安定、また自らの信仰生活に満足感を覚えていたことでしょう。しかし、そのような目に見える宗教生活のみを大切にすることで、見えない神との人格的な交わりや、神が求められる礼拝者としての生き方を粗末にしてきたのかもしれません。まさしく、世界に正しい神の言葉を発信すべきキリスト教会とキリスト者たちが、むしろ世界の流れや価値観に呑み込まれないことを心がけることです。今の私たちの教会とキリスト者の礼拝とその生き方は正しいところに立っているでしょうか。間違った道を歩いている世界に向けて神の御心を発信しているでしょうか。かえって、教会が世界の罪と悪を正当化してしまっているような現実ではないでしょうか。
 私たちの生きている日本社会を、生きた礼拝者として、預言者の目をもってしっかりと見つめることです。そんな中で様々なことが見えてくるでしょう。今も神は、神の愛と憐れみを携え、悲しい涙を流す人々に良い知らせを分かち合い、常に神の正義を慕い求め、神の国を実現しようと働く一人の生きた礼拝者を求めておられるはずです。そして、神はその人に御声を聞かせ力を賜ることでしょう。愛する神が生きた礼拝者である神の家族お一人お一人を喜ばれ、わが群れを通して神の国の栄光を現わされますように…。シャローム!

2018.7.15

『苦難の中からの歌』詩編107:1〜15)
“苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった。(107:6)”
 私たちの神は、神の人をその苦難の中から救い出してくださるお方です。詩編107編は、イスラエル共同体に属している人々が味わったそれぞれの苦難の内容を語りながら、それぞれの厳しい苦難の中から、ふさわしい御業をもって救い出された神への感謝を、一つにまとめて共同体の信仰告白として声高らかに歌っているのです。“主に感謝せよ。主は慈しみ深く人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。(107:8)”と。
 先週私たちは西日本豪雨によって死者だけで200名を超えるという大きな災難に遭いました。多くの方が言われるように、まるで東日本大震災を見るかのような状況なのかもしれません。私たちに出来ることを探しつつ、神の憐れみと慰め、助けを切に祈りましょう。
 さて、このような苦難のただ中で私たちは詩人のように讃美できるでしょうか。もしあなたがその試練の只中にあったとしたらどのような反応を見せるでしょうか。パウロ“だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・(ローマ8:35)”と語っているように、私たちの身の周りに起きるどのような出来事も神の愛から引き離すことはできないことを歌っています。
 私たちの神はご自身の恵みを神の民に示すために、人間の力では救い出せない状況へと追い込まれることがあります。それは神の子どもたちを苦しめるためではなく、神がどのような方であるかを、また、どんな状況においても神が救い出されることを経験させるためです。聖書の歴史の中にも何度もそのようなことが記されています。かつての出エジプトにおいても、荒野においても、バビロン捕囚においてもそうでした。それらの厳しい出来事を通して、神はご自身がどんな方であるか、神が望まれるのが何であるかを、また、全能なる神の力を示すために、厳しい試練と苦難を与えられたのです。災害の経験、厳しい病の経験、飢え渇きの経験、束縛の経験、先の見えない行き詰まりの経験、また、失敗と挫折、敵による患難、労苦、そうしたすべてが、やがて神への信仰告白へと変えられることを体験するのです。
 20日は、私たち「富山小泉町キリスト教会」の教会組織18周年記念日です。教会開拓からは58年、その間に、信仰の先輩たちは試練と苦難、挫折など、今の私たちが知らない歴史を経験して来られたことでしょう。そこで考えてみるのです。今は天に召されている信仰の先輩たちは58年を振り返りながら、“神のなされたことはすべてその時に適って美しかった!(コヘレト3:11)”と讃美の声をあげられることでしょう。
 これからの私たちの人生の航海においても、いろいろな苦難に遭い、不安や心配に覆われ、失敗する時があるでしょう。でも、その時、すべてが神の御手の助けと導きの中にあることを信じ、恵みと慈しみに満ち溢れる神に讃美の声を上げつつ歩み続ける神の家族お一人お一人、また富山小泉町キリスト教会の群れであるように。ハレルヤ

2018.7.15

岡山からの手紙〜
 いつも私たち家族のためにお祈りくださり、ありがとうございます。主人が定年になったので、故郷に帰ってきました。お互いの両親が4人とも健在で、義父が自動車免許を返納したので、福山の地での再雇用という選択はできませんでした。夫婦でアルバイトをしながら、主人は義父母の送迎、農業と忙しくしています。私も久しぶりに仕事に復帰したので、「定年後って、こんなに忙しいんだ。」というのが正直な実感です。
 これから年老いていく両親のこと、老朽化している家屋と農機具、地域の人々との共同農作業分担などを考えると、課題はたくさんあります。愚痴が出そうになるときは、主を見上げることにしています。「明日のことまで思い悩むな」と語ってくださるイエス様を知っていて良かったなと思います。おかげで、一つ一つ目の前のことに集中して取り組むことができますし、今日すべきことをしたら、後はきっとイエス様が良いようにしてくださると信じて、平安でいることができます。
 私たちが住む久米南町には教会がないので、隣の美咲町の教会に通っています。主人も月に2回くらいは一緒に礼拝に出てくれています。それはそれで感謝なのですが、そうなると、毎週出席して欲しいなと思ってしまうのが、人情です。今は農繁期で忙しいですが、これから主人が毎週教会に行けるようお祈りいただけると嬉しいです。
                  K.K姉

2018.7.8

〜主は道を日々つくられる〜
“水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神。(イザヤ43:2〜3)”
 先週からの記録的な大雨はその範囲も広く、多くの犠牲者と多大な被害が出ていますね。本当に、大自然の圧倒的な力の前には、人間という存在がいかに小さく無力であるかを示されます。被害に遭われた方々の上に主の助けと慰めを祈りましょう。
 さて、わが家にとってもこの大雨は大変でした。ちょうど妻が韓国から義母を連れて富山に到着する日が大雨の最中だったのです。わたしは二人を迎えるために中部空港に車で向かいました。しかし東海北陸道を2時間ほど走ったところで、突然、「通行止め」の表示に出くわしました。誘導員さんからの“これ以上名古屋方面には行けない。高速も、国道も全面通行止めになっている”という驚きの知らせに、しばらく祈りの中で考え込みました。“どうすればいいだろうか・・・このまま無理してでも道を探りながら空港まで行った方がいいのか、しばらく天気がよくなるまで二人を名古屋に泊まらせた方がいいのか”など。結局、わたしはひとまず富山に戻り、妻と義母には、苦労はあるだろうが泊まらずに二人で富山まで来てもらうことが最善だと思いました。そこで二人に、まず大きな荷物は宅配便に頼み、名古屋からの新幹線で東京経由で富山に来るように勧めました。もっともその時間帯、新幹線は運転を見合わせていて、駅員さんにも「再開しても、いつまた止まるかわからない」と言われていましたが、信じてそのようにしました。果たして、新幹線の運行の遅延と混乱の中で大変な道のりではありましたが、妻と義母は夜中の12時頃に家に着くことができました。”あ、守られた、感謝!感謝!“
 大自然の前に何もできない弱い私たちですが、生きておられる主は日々道をつくられるお方、その神を信じ、これからも歩きつづけたいものです。シャローム!

2018.7.8

『 奴隷の子、自由の子 』 (ガラテヤの信徒への手紙4:21〜31)
 最初に質問から宣教を始めたいと思います。神の家族の皆さん、皆さんの日々の信仰生活は幸せでしょうか。...私たちの信仰生活は、主イエスとの交わりを通して幸せを実際に味わえるものです。もし、あなたの信仰生活が幸せではなく、何かに抑えつけられているのでなれば、それは律法的な信仰の影響下にある証拠と言えましょう。 
 本日の御言葉の中で、パウロは二つの約束を提示します。一つは律法の約束、そしてもう一つは恵みの約束です。そしてパウロはこの二つの約束を説明するためにアブラハムと二人の女性と二人の息子を登場させます。ご存知のように、二人の女性とはサラとハガルで、それぞれに息子が与えられました。サラを通して得た子が「イサク」、ハガルを通して得た子が「イシュマエル」です。パウロはイシュマエルを奴隷の子、イサクを自由の子として記します。
もともと神はアブラハムとサラの間に一人の息子を約束されました。しかし、100歳が近づいても神に約束された息子は得られなかったのです。そこでアブラハムはサラの助言を受け入れて、人間的方法と努力によって女奴隷のハガルにより一人の息子を得ることになります。その子が「イシュマエル」です。その通り、イシュマエルは「肉によって生まれた子」であるのです。ところが、イシュマエルは約束の子でなく、神はその息子を喜ばれませんでした。
 私たちがどんなことをしても、たとえ教会での奉仕をし、海外宣教をし、偉大な業を成し遂げたとしても、それらが人間的方法と計画、人間的努力でなされたのであれば、それらすべては決して神が喜ばれませんし失敗に終わるのです。大切なことは、「神の約束に基づき、神が望まれ、神が喜ばれる方法で成したのか」ということです。そうです。神の御言葉と約束に基づかなければ、無駄なことになるのです。
 アブラハムは人間的計画、肉体的努力によって息子を得ましたが、神の時が訪れた時、神の計画通り、神の方法によって一人の息子が与えられました。その子が「イサク」だったのです。すなわち、イサクは人間的計画や努力によって得た息子でなく、神の約束のもと、神の方法で、神の時に与えられた子、約束の子だったのです。サラが90歳、そしてアブラハムが100歳になった時、神の約束通り、イサクはこの世に生まれたのです。私たちは“ああ、もう少し待っていたら、神の約束を信頼して耐えていたら・・・”と思うわけですが、そこにこそ、人間の弱さがあるのです。 
 愛する皆さん、私たちの救いは、人間的方法や努力によって得られるものではないことを知っていますよね。救いは「ただ信仰によってのみ」得られるものです。ここで私たちがしっかりと心がけなければならないことは、信仰とは私たちの思いや感情からくるものではなく、神の御言葉の約束によるものであるということです。「イサク」という名前は“笑う”という意味をもっています。私たちが神の約束とご計画に従った時、神は喜びに満ち笑ってくださるでしょう。ハレルヤ

2018.7.8

〜力ある主の御言葉〜
 愛する富山小泉町教会の皆様。暑い夏を迎えて如何お過ごしでしょうか。
昨年末,東山教会において,薬物依存症からの回復を目指しているダルクの会メンバーの方の証を紹介させていただきます。
 ダルクの会のメンバーであるKさんは,母子家庭で生まれ育ち,幼かった自分のことをほったらかして遊びに行く母親とのわだかまりなどから,十代中頃から薬物を使用するようになりました。警察に何度逮捕され,刑務所に何度服役しても,そして,妊娠してさえも薬をやめることができなかったそうです。Kさんに転機が訪れたのは,刑務所に服役していた数年前のクリスマスの時でした。10分間ほど許されていた新聞閲覧の際,新聞に書かれていたある言葉に目がとまったそうです。その言葉は,「父よ,彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」でした。その時,Kさんは,キリスト教のことは何も知らなかったそうですが,その言葉が心に強く迫ってきて,今まで自分がどんなに悪いことをしてきたのかということが分かり,目から涙があふれ出て止まらなかったそうです。そして,今度こそ薬を絶対にやめようと決心し,刑務所から出所後,ダルクの会に入ったそうです
 Kさんは,ダルクに入会後,薬を断つことができ,会に関わりのあるクリスチャンの方々の導きで,教会に通うようになり,今では,クリスチャンになりたいという思いがあるそうです。
 私は,Kさんの証を聞いて,主イエス・キリストの御言葉は,本当に救いが必要な人には,すごい力を発揮するんだなということを改めて実感することができました。イエス様は,今この時も,失われた子羊を探して働かれています。神様の愛に感謝!愛する小泉町教会の皆様,再会の時までお元気で。
                S.T兄

2018-07-03

2018.7.1

若者たちへの叫び 〜
“若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい、・・・青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
(コヘレト11:10〜12:1)”

 先週火曜日、奥田で起きた刃物や拳銃によって二人が殺害されるという事件が日本中を揺るがしました。21歳で、陸上自衛隊で勤務した事のある青年による残酷な殺人事件でした。それに先立って、先月の新幹線殺傷事件を起こしたのも22歳の青年でありました。彼らに何が起きたのでしょうか。新幹線事件の犯人は、しきりに“俺は死ぬんだ、生きる価値はない”と語っていたそうです。生きてきた日より生きていく日がまだまだ長い、将来への希望を抱いて生きるはずの若者が希望を失い、自分自身の存在の価値を見出せない現実をどう見るべきでしょうか。
 とりわけ自分自身の人生を否定することにとどまらず、他人の命を害することまでも平気で行ってしまうことこそ、今現在の日本社会が抱えている最も大きな問題ではないかと思うのです。そしてそのことを当たり前のように、もう解決の道がないというふうに諦めてしまう社会的雰囲気に包まれている現実です。
 神よりいただいた人生の中で最も輝くべき青春時代、私たちの愛する若者たちのために涙をもって執り成しつつ、父なる神の愛のメッセージを、声を上げて叫びましょう。“あなたは愛されている、あなたは全世界全宇宙に一人しかいないほど尊い、だからあなたの若さを喜び楽しみ、創造主を心に留めて生きよ”と。シャローム!

2018.7.1

『 キリストが形づくられるまで 』(ガラテヤの信徒への手紙4:8〜20)
 以前、「神なき時代」という言葉がしきりに使われ「神の死の神学」が盛んに議論され、実際に世界的運動にもなった時代がありました。その中で“神はすでに死んでしまった概念に過ぎない。世界は人間の力で変えて行くべきだ"という主張や運動が社会を覆うようになりました。そこで人は神を離れるところに自由があると思い、神を否定し、人が大切にしていたものや価値を神の座に置くことにしました。しかし、神なき自由どころか、自らが作った神々に支配される現実となってしまっているのです。
 パウロは、「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(9節)と問いかけます。「神から知られている」とは、ただ単に神から知られているという意味ではなく、私たちこそ「神の愛の対象であり、神との親密な交わりを許されている」ということを表します。そして神がその愛のしるしとして、罪の中で滅びていく私たちを救うために御子イエス・キリストをこの世に送ってくださったことを教えます。これこそ「福音」でした。
 パウロの伝えようとした福音こそ、神の独り子が旧約聖書の約束通り、十字架にかかりすべての罪の贖いとなり、すべての人々の身代わりとして死んでくださったことでした。ガラテヤの信徒への手紙は十字架にかけられたイエス・キリストに焦点を合わせているのです。また、パウロが語り続けていた福音とは、十字架の上で死なれたイエス・キリストが死より復活されたということです。そして復活されたイエス・キリストは天に昇り父なる神の右に座られ支配しておられ、ご自身の代わりに聖霊を贈られ今も神の民と共に生きておられるという、とてもシンプルな内容です。
 最初に救われたクリスチャンたちはこのようなシンプルな福音を携え、人々に“ただイエス・キリストの名に基づく罪の赦しと救い”を伝えたのでした。ガラテヤ教会が最初にパウロより受けた福音がまさにこれでした。しかし、開拓者のパウロが離れ去り、しばらく時が流れると、福音というシンプルな信仰に、少しずつ理論的説明が加えられ、福音を生きることより、福音を守るということに重点が置かれるように変わっていきました。ちょうどその時にガラテヤ教会に入ってきた偽りの教えが、旧約の律法の行いが伴わなければ救いもない!というものでした。罪人の救いはただイエス・キリストを信じる信仰によって得られると言われていた福音から、旧約の割礼や救われるための方法論、その後時代の流れの中で、礼拝の形式、マリア崇拝など、最初の福音がいろんなもので飾られるようになり、いつの間にか、信仰する喜びと感動が薄れ、福音でないものに支配されてしまうように変わってしまったのです。
 そこで叫ばれるパウロの言葉に耳を傾けましょう。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(19節)ここにキリスト教信仰の究極の形が示されます。キリスト者の内に「キリストが形づくられる」こと、私とあなたを通してキリストを見ることを神は望んでおられるのです。ハレルヤ

2018.7.1

〜大先輩でメル友〜
 先月18日に天に召されたN兄との一番の思い出は3年前の「喜びのメール事件」です。
 すでになかなか礼拝に来られない体調だったN兄。その時期私は閔先生と交代で、金曜日に礼拝のお知らせメールを兄弟姉妹に送る奉仕にあずかっていました。たまたまある週、メールを送るのを遅らせた時がありました。土曜の朝、私と共にいた姉妹が自分の携帯を見て「キャーしみちゃんNさんに連絡連絡!」その声は、はしゃいでいました。
 なぜなら、彼女にN兄からメールが来たのでした。「いつものメールが来ない、Sさんに何かあったの」と。ヒェ〜そんな風に心配してくださってたとは...。教籍番号第壱番の大先輩に、私からメールなんか失礼じゃないかしらと、いつも気後れしながら送っていたのに。
 嬉しさに興奮しちゃって指が震え、ボタン(当時ガラケー)がなかなか押せなくてもっと焦ったのを覚えています。
 それからは気後れせず喜んでメールを送りました。豊かな信仰の大先輩だからこそと思い、教会・兄弟姉妹のためのお祈りのお願いを添えて送ることもありました。ときどき、返事をいただきました。私に「忙しそうだけど無理しないように」と書いてくださったこともありました。最後の返信はある日曜の朝「行きたかったけど無理ですごめんなさい」でした。先に召されたM兄もN兄も、今も私の携帯(今はスマホ)の住所録に名を置かれ、それを見るたび心の中でメールを送る私です。

2018.6.24

〜 神学校週間を迎えて 〜
 教会の歴史は証人たちの歴史です。初代教会のペトロを始めとする12弟子と7人の執事たち、そして各時代、世界各地域における証人たちの献身によって教会は成長を続けることができました。
「証人」(ギ:マルトゥスμαρτυς)は「殉教者」という意味から出た言葉です。すなわち、キリストの証人は命をかけてキリストの福音を宣べ伝える覚悟をもって生きる存在と言えましょう。先週のリビングライフでは「ステファノ」の物語が主な内容でした。ステファノ(「冠」の意味)は教会の歴史における「最初の殉教者」です。彼はまさに殉教の死を覚悟しての福音宣教に臨みます。そして聖書はステファノの殉教から、エルサレムから世界へと福音が広がっていったことを記しています。
 日本の地においても多くの殉教者の血が流された歴史があります。しかし殉教者の犠牲によって福音が広がるどころか、むしろ隠れてしまうことになりました。そしてなかなか隠れたところから公に福音を告げ知らせる教会や働き人が見えない現状です。どうすればいいだろうか・・・。しかし私は信じます。一人も滅びることを望まない神は、日本の歴史の中の殉教者たちの犠牲を無駄に、そのままにして置かれる神でないことを。
神学校週間を迎え、西南学院大学、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校で学んでいる神学生たちと教えている先生方が、今一度キリストの証人となることを確かめつつ、福音を携え世界のどこへでも快く遣わされ、救われる人を起こすことができますように…、また、わが群れから献身者が起こされることも期待し執り成し祈りましょう。
“死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。(ヨハネ黙示録2:10)”

2018.6.24

『 証人たちの応援 』ヘブライ人への手紙12:1〜3)
 伝道開拓から58年、富山伝道所から今日の富山小泉町キリスト教会になるまでの歩みのうちに、神は時に適って働き人を与えられ、御業を成し遂げてくださいました。その神の御手の業は私たちを通して今もなお続けられていることを讃美いたします。
 先週の6月18日、教会の出発時から58年間の歴史を共にして来られたN兄が召天されました。23歳の若さで教会開拓に加わっていた青年、また教籍番号1番という象徴的存在としてわが教会を支えていたN兄は、81歳という神よりいただいた人生を全うされ、今は天の御国で先に召された証人たちの群れに加わりました。恐らく今は他の証人たちと共に、地上に遺された私たちのために応援の拍手を送ってくださることでしょう。   
 私はN兄の葬儀を終え、主日礼拝の宣教を準備する中で、ヘブライ12:1〜3の箇所を思い浮かべました。ヘブライ人への手紙を書いた記者は、今を生きながら福音伝道のためにこの世の苦難に遭っている私たちに向けて、目には見えないが、「おびただしい証人」が応援のエールを送っていることを告げています。ここでの証人とは、キリストの十字架と復活の証人として信仰を告白し、自分が得た福音を宣べ伝え、天に召され、今は天の御国にいる信仰の先輩たちのことを指します。本日の御言葉は、天にあるこれらの証人たちが、今福音の証人として信仰の競走を続けている私たちを見守りながら、応援の拍手を送ってくれていると記しているのです。
そうです。私たちはまさにおびただしい群衆で埋め尽くされている競技場でひたすら走る競技者のようなものです。そのおびただしい群衆の中には、先日召されたN兄をはじめ、小泉町教会の歴史を刻んできた証人たちが天国の勝利の栄冠をかぶって私たちの走りに拍手を送っているのです。
 もちろん私たちの走りの中で、つまずき倒れてしまう時もありますし、ところどころ厳しい障害物に引っかかる時もあるでしょう。しかし、私たちの前には主イエス・キリストが模範となられ、キリスト御自ら私たちと共に走る同伴者となってくださるという約束がなされていることはいかに幸いなことでしょうか。
クリスチャンは天国を見上げつつ、今を生きる存在です。今神の家族を押しつぶそうとする重荷や罪があるでしょうか。また、皆さんを悲しませている苦難、迫害がありますか。そこで気力を失い疲れ果ててはいませんか。ぜひ、覚えてください。神の家族お一人お一人のために、天の栄光と喜びを捨て、恥をもいとわないで苦しみを受け、十字架の死をも耐え忍び、今は天の御国で私たちのために執り成し、聖霊を通して共に歩んでおられるイエス・キリストを。その主イエスを見つめながら、お一人お一人に定められている競走を忍耐強く走り抜くことです。主イエス様が栄光の冠を備えて待っておられることを信じ、互いに励まし合いつつ主に喜ばれる共同体を作り上げていきましょう。
                  

2018.6.24

 R姉の家で行われている中国語礼拝に5月の第二日曜日から、参加しています。初対面の方もいるので、テーブルを囲んで皆が寄り添い、各自の近況や自己紹介などを聞くことから始まります。それが一巡すると、決められたプログラムがないアットホームな中で皆が讃美歌を歌い、礼拝が行われていきます。   
 閔先生が日本語で宣教の御言葉を語り、それをA姉妹が中国語に翻訳して兄弟姉妹たちが聞くという形で進んでいきます。日本で暮らして何年も経っている方が多いので、最低限、片言の日本語は話せますが、宣教で語られる御言葉の微妙なニュアンス、深い部分などは、やはり母国語で聞いた方がよくわかるからです。フリーの時間は、皆さんの流暢で元気な中国語が、私の頭の上を飛び交います。中国語ってスピード感、半端ないです!(^o^)
 中国語礼拝に集う方々の多くは、信仰に篤く、また神様に対してストレートで熱い思いを抱いておられます。それを目(ま)の当(あ)たりにして、とても良い刺激を受け、信仰について考える時を与えられました。
 今はそれぞれの国の言葉で話す私たちですが、天の御国には、きっと言葉の壁もないでしょう。今もこれからも、神の家族として、愛し合いながら御言葉の恵みを共に味わいたいと思います。 
                 S.Y姉

2018-07-02

2018.6.17

〜心を一つにして 〜
 “そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(使徒2:46〜47)”
 先週のチャペルコンサートは例年より多くの方が集われ恵みも多いひと時でしたね。ミルトスの3姉妹の神の愛に輝く演奏をはじめ、共演されたカペラの方々の美しいハーモニー、また發田姉の洗練されたピアノも素晴らしかったと思います。
 しかしいつも何より嬉しく思うのは、神の家族お一人お一人の喜びと感謝に満たされた心からの奉仕こそがチャペルコンサートをもっと輝くものに作り上げたということでしょう。チラシ作成、チラシ配り、駐車案内、掃除、受付と案内、司会、礼拝奉仕、軽食、写真撮影、執り成しなどなど、一つ一つの奉仕が美しく組み合わされて得られた祝福であったと思います。
 6月のリビングライフのテキストは使徒言行録です。初代教会の魅力溢れる姿と、救われる人が日々与えられる成長物語が描かれています。その中で浮き彫りのように目が留まるのが「心を一つにして」という言葉でしょう。12使徒は12使徒の役割を、7人の執事は教会から求められる奉仕の役割を、また、各信徒たちは各自に与えられた賜物を教会共同体のために喜んで用いました。しかしこれらすべてを一つに合せ、美しい教会を築き上げられたのが聖霊であったことを忘れてはなりません。その聖霊が今のわが教会にも同じく声をかけられる。「心を一つにして!!!」と。

2018.6.17

『アッバ、父よ』 (ガラテヤ信徒への手紙4:1〜7)
“あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。(ガラテヤ4:6)”
 キリスト教が他の宗教と決定的に違うところは、信じている神との関係ではないかと思います。それこそ、神を「父よ!」と呼ぶことができるということでしょう。神は人を造られた。しかし人を支配するため、操縦するために造ったのではない。むしろ創造者である神と親しく交われる存在として創造されたのです。そのことを詩編8編では、“神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました。(6〜7節)”と記しているのです。しかし、人は神の人への御心に反抗し神に背く罪を犯したために、神の御国から追い出され罪と死の奴隷の身分に落ちてしまいます。その後、人類は神とは何の関係もない存在として滅びの道を辿るのですが、神は人の滅びて行くのを喜ばれず、神と人との関係の回復のために神の独り子イエス・キリストをこの世界に贈ってくださったのです。イエス・キリストは十字架にかかり人類の罪の贖いとして死んでくださったことによって、それまで切れていた神と人との間を繋いでくださったのです。  
 神はイエス・キリストを信じる信仰によって、罪の奴隷として死んでいく私たちが神の子となる道を全ての人に開いてくださいました。罪の奴隷から神の子となる身分の変化というのは、天地をも揺るがすような大きな変化です。しかも、使徒パウロは本日の御言葉を通して、私たちはイエス・キリストの十字架の愛によって、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるようになったと教えます。それだけではない。神は私たちを相続者とし、神の国を相続できるようにしてくださったというのです。
 「アッバ」とはアラム語で、幼い子どもが父親を呼ぶ時に使う「パパ」というとても親近感のある言葉です。聖書の中でこの言葉を好んで使われた方が、イエス・キリストです。主イエスは私たちが神を「アッバ」(パパ)と呼べるほど、その関係を親しいものに変えてくださり、神との親しい親子関係への確証をもたせるために聖霊をあたえてくださったのです。パウロは聖霊の助けがなければ「アッバ、父よ」と叫ぶことができないと教えます。
 今日は父の日です。願わくは、私たちの神に向かって「アッバ、父よ」と声を出して語りかけることのできる神の家族お一人お一人でありますように・・・。わたしたちに与えられたお父さんを愛し、お父さんのご苦労を覚えお祝いする日ですよね。わたしは父の日を迎え、神の家族と共に、真のお父さんである神を黙想し、父なる神と素晴らしい愛で結ばれている恵みの旅を続けたいと願っています。ハレルヤ!  

2018.6.17

 先週12日にトランプ大統領と金正恩委員長との歴史的な会見がシンガポールで行われました。日本の多くのマスコミは、金委員長の身長がハイヒールで高くなっているなど、この会見の本質的な意味を歴史的に語ることなく、報道したことにあきれましたが、この会見が実現した前提は、4月27日文在寅大統領と金正恩委員長が互いの国境線を超えて握手し南北首脳会談を実施したことによります。
 私は、2015年9月に北朝鮮との国境線DMZ非武装地帯にある鉄原で韓国YMCA同盟国境平和学校主催の国際平和会議に出席しました。国境平和学校は、2013年から韓国YMCA同盟平和生命センター所長ジュン・シソック博士が校長となり、韓国政府と連携し、南北朝鮮の平和統一と和解の研究のために開講されました。ジュン・シソック博士と教授陣や学生は、毎日国境のソイ山に登り平和の祈りを捧げています。
 私は、そのような人々の熱心な執り成しの祈りが、今回の平和会見に繋がったと信じます。文在寅大統領は、釜山YMCAの理事をされ、韓国キリスト教協議会の人権委員もされた方です。祈りをもって会見に臨まれたのだと思います。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」(テモテ一2章1節)これからも南北朝鮮の平和統一のために執り成しの祈りを捧げたいと思います。
                     S.S兄

2018.6.10

〜 嘆きを踊りと讃美に! 〜
“あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。  わたしの魂があなたをほめ歌い、沈黙することのないようにしてくださいました。(詩編30:12,13)”
 先週は大変忙しい一週間を過ごしました。チャペルコンサートの準備と同時に、夏のファミリーキャンプの準備会、小さな泉の村、エアコン工事、その他諸集会など、そのような忙しさの中、私の頭と神経を集中させたのは人生の最期を迎えようとしている一人の兄弟の様子でした。すでに死の宣告を受けた兄弟でしたので、常に電話の方に体の全感覚が集中していました。牧師便りの原稿を書いている今にも電話がかかってきたら病院の方に出かけなければなりません。牧師にとって優先順位があるとすれば、まずは神を礼拝すること、その次は病に苦しまれる方や死を迎えられる方への配慮です。とりわけ死を宣告された方とご家族との関わりは牧師にとって最も大切で、また難しいことです。
 私たちは人生の航海の中で、病や試練のゆえに、時には涙したり、不安に覆われたり、信仰が小さくなるような時を過ごしてきました。絶えず目の前に見えるものに心を奪われてしまい、神につぶやきたくなる時もありました。しかし、クリスチャンは目に見えるものに心を奪われず、目に見えないものに信仰と心を向ける人です。まだ、目には見えないけれども暗闇の後には必ず朝の黎明がやって来ることを信じる人です。今は粗布を着て嘆いてしまうけれど、後には喜びを帯として踊りと讃美の場へと導かれることを夢見る人です。ここに、クリスチャンの信仰の素晴らしさがあるのです。
 神の家族の皆さん、今涙がとまらないような夜を過ごしていませんか。希望の光が見えなく、暗闇に閉じ込められているような自分が見えるでしょうか。元気を出して賛美しましょう!主イエスが十字架にかけられた姿で、あなたの涙と暗闇の只中に共におられます。そして、やがて復活の勝利の光と喜びをもってあなたの人生に関わってくださることでしょう。 主イエスはあなたの人生の夜を決して一人ぼっちで歩ませることはなさいません。シャローム!

2018.6.10

『 いつどこでも讃美 』 詩編 34:2〜5)
 「いつくしみ深き」、この讃美歌は世界中で、そして日本においても最も愛唱されている讃美歌の一つです。教会では、礼拝をはじめ、祈祷会、葬儀、結婚式などありとあらゆる場において歌われ続けています。それではなぜ、「いつくしみ深き」という讃美歌はこれほどまで愛されているのでしょう。この歌には、救い主なるイエス・キリストが神の子どもたちのためにどのような働きをされ、どのように交わってくださるのかが示されています。
 この歌の作詞者は、ジョセフ・スクライヴェン(1819〜1886)という名の19世紀のアイルランド人です。彼の生涯は、この世的には全く恵まれないものでした。大学卒業後に、結婚式を目前にしてその婚約者を湖の事故で亡くしてしまい、仕事においても破産してしまいます。スクライヴェンはその後アイルランドからカナダに渡り、教鞭を執りながら、不幸な人や貧しい人たちのための奉仕活動にその生涯を献げることになります。彼は、その奉仕活動の中で出会った女性と二度目の婚約をしますが、その彼女も結核を患い、帰らぬ人となるのです。彼は二度に亘る愛する婚約者との死別を経験し大きな悲しみに包まれることになります。もし私たちがこのような状況に置かれたらどのような反応を見せたでしょうか。恐らく神を恨み自分自身は呪われた人生であると嘆いていたに違いありません。しかし、スクライヴェンは、悲劇のただ中にあっても故郷のアイルランドで病に苦しむ母を慰めるために、詩を送ることになりますが、その詩が「いつくしみ深き」という讃美歌だったのです。まさに神を呪いたくなるほどの試練と苦悩を味わいつつも、彼は「悩み苦しむ自分を傍らで励まし、力づけてくれた友なるキリストを母に伝えたい」という思いでこの詩を贈ったのでした。
 そうです。主イエスは、弱い者、苦しむ者、悲しむ者、世の友から捨てられたと感じる者の友となって一緒に歩んでくださるお方です。その約束のしるしとなったのが、「十字架」なのです。この世の罪と全く関係のない聖なる神の独り子が、私たち罪人たちの身代わりとして十字架にかかり命を捨ててくださった。聖書では主イエスの十字架について次のように記しています。    
“彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:5)”
 本日のチャペルコンサートを通じて、ぜひ共におられる主イエスと、その方のゆえにいつどこでも讃美できる恵みを知ることのできる皆様でありますように・・・。ハレルヤ! 

2018.6.10

〜「帰還後」の聖歌隊
 最近のディボーションでは、イザヤ書の後半詩編を通じて、神がイスラエルをバビロン捕囚から帰還させてくださる赦しと回復の恵みを味わいました。きっと、帰還後の礼拝では感動をもってこれらのみことばが歌われたことでしょう。
 帰還後「礼拝の回復」が最優先課題としていかに熱心になされたか「エズラ記」と「ネヘミヤ記」に記されています。
 神殿での奉仕に必要な「レビ人」たちが散らされた先から捜し集められました。そのときには、「慈しみ深い神の御手がわたしたちを助けてくださり」とエズラ8:18に記されています。
 聖歌隊の再編成とその奉仕はネヘミヤ12章に書かれています。レビ人の中から数名が「賛歌の責任を負い」、その仲間たちが「交替で賛美と感謝を唱えた」と記されています。
 詠唱者たちは、エルサレムの周辺に村を作って住んでいました。ネヘミヤの不屈の指導で城壁が再建されると、その奉献式のため皆がエルサレムに集められ、二つの合唱隊として組織されました。両隊は城壁の上を右と左へそれぞれおそらく賛美しながら進み、神殿で合流しました。そこで、両隊が心を一つにして大合唱を捧げたのでしょう。
 小泉町教会でも、詠唱・奏楽者、奉仕者、そして礼拝者にこのように恵まれて、与えられた主の宮で、今年も大いなる讃美の礼拝チャペルコンサート」を捧げることができ、慈しみ深い神の御手の助けに感謝いたします。「今日は、聖なる日」です。      
週報係

2018-06-08

2018.6.3

〜 愛が冷えて行く時代 〜
“しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分
自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を
知らず、神を畏れなくなります。(競謄皀藤魁В院腺押法
 先週の水曜祈祷会では、リビングライフの御言葉の恵みを語り合ってから、祈りの課題を分かち合いました。その中で、近頃の日本や世界情勢の激変と、それに伴う悲しい出来事と、苦しむ人々のために祈ってほしいというリクエストが、皆さんから寄せられました。
 聖書は、主イエスの再臨とこの世の終わりは必ずやってくると教えています。その教えを信じ、一人でも多くの人に救いの福音を知らせるため、命をかけて全世界に遣わされていた伝道者たちを覚えています。実際、初代教会の信徒たちは、「マラナータ、主よ、来てください」という信仰をもって、終わりの時を走り抜きました。当時の信徒たちは、主イエスが昇天されてまもなく戻って来られると信じていたため、世界情勢の変化、社会倫理や文化の堕落などに非常に敏感に反応しながら生きていたのです。・・・それでは、現代のキリスト者はどうでしょうか。本当に終末の時が来ることと、主の再臨を待ち望んでいるでしょうか。難しい質問かもしれません。なぜならば、多くの方から再臨があるとすれば、私の世代ではなく、もう少し後に来てほしいし、今の時をもう少し楽しみたいという声を聞いているからです。
 考えてみると、すでに終わりの時が来ていると言ってもおかしくない時代を生きている私たちです。しかし終末は来てほしくないため、終末を思わせる徴に対し、あえて目をつぶり、耳をふさいでいる私たちかもしれない。皆さんはいかがでしょうか。次週はチャペルコンサートです。しかし、ただ音楽を楽しむ時でなく、愛の福音が語られ歌われる時です。愛が冷えていく時代の最中、イエス・キリストの十字架の愛を生き、その愛を広める神の家族でありますように・・・。シャローム!

2018.6.3

イエスを着ていますか 』 (ガラテヤの信徒への手紙3:26〜29)
 パウロは、神の恵みを知ってイエス・キリストを救い主と受け入れた人が、いかに素晴らしい祝福に与っているのかを話し始めます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(26節)・・・ 律法の下では、私たちは皆が罪人でした。しかし、今や恵みの約束を通して私たちはキリストを知り、救いに入れられ、神の子とされる新しい時代の中を、生かされるようになったのです。神の呪いと裁きから逃れられない罪人が、神の子となるということ、これほど素晴らしい恵みがあるでしょうか。
 「洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(27節) パウロは、私たちが神の子とされることを洗礼(バプテスマ)の恵みを用いて「キリストに結ばれた者」、「キリストを着た者」と表現します。「キリストに結ばれた者」、これは植物の「接ぎ木」をイメージした言葉です。前の段落で、「親と子」のイメージを用いたパウロが、ここではキリストという台木とその台木に接がれた接ぎ木のイメージで、神と私たちとの関係を言い表しているのです。ここで興味深いことは、この二つのイメージのどちらも命の結びつきがあるということです。そうです。私たちは、キリストという台木に接がれて命をいただき、生きる者とされた。イエス・キリストに結ばれることで命の養いをいただき、愛を注がれ続けて成長していく。だから、イエス・キリストから離れては生きていくことはできないのです。洗礼(バプテスマ)は、そういう意味で、キリストに結ばれ命が流れるようになった出来事であり、また、キリストにある神の子としての、新しい霊的存在の誕生を表していると言えるのです。また、パウロはバプテスマを受けてキリストに結ばれることを、「キリストを着る」ことになると教えます。罪に染まっていて、神の御前にそのまま進み出ることのできない私たちに、父なる神はすべてを聖めるイエス・キリストという上着を着せてくださり、キリストによって、私たちは聖い者となったことを宣言してくださるのです。ここでの「キリストを着る」という言葉は、十字架のイエス・キリストに聖められ、日々の生活において主イエスに似た者として生きるという意味でもあります。昔から人の着る服によって、人のイメージを変えたり、その服によって生活も変えられるのを目の当たりにしてきました。同じように私たちがキリストを着るということは、その人がどんな人であっても関係なく、キリストと一つになることです。
 「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(28節)・・・ そうです。主イエス・キリストの十字架によって罪赦され、キリストという上着を着せていただいたことによって、神は民族の違い、階級の違い、人種、性別の違いに目を留めることをなさらず、ただ「キリストにおいて一つ」になされると宣言されるのです。
 愛する神の家族の皆さん、隣を見てください。隣の兄弟と姉妹が着ているイエス・キリストという美しい服を見ていますか。互いにイエス・キリストを着ている者として誇り、キリストにおいて一つとされたことを喜びましょう。ハレルヤ

2018.6.3

三浦綾子旧約聖書入門
「11美しき物語・ルツ記」を読んで〜

 紀元前1150年から1050年のころ、イスラエル民族がエジプトを出てから、サウルやダビデが王となって出るまでの間の100年、ユダのベツレヘム飢饉があった。ナオミは、その夫エリメレクと共に、二人の男の子マフロンとキリオンを連れて、食を求めてモアブの地に行った。だが、その地で夫エリメレクに先立たれた。ナオミはふたりの男の子を成長させてこの二人とルツとオルパが結婚したが、この二人の男子も先立って行ったのです。嫁のオルパは泣き泣き姑に接吻して離れて行ったが、ルツはお姑さんの信じる神はわたしの神なのですと行ってナオミといっしょにベツレヘムの町へ行った。ルツは、ベツレヘムに行けば、異国の民となり差別されることがわかっているのに、ナオミといっしょに生きることを選びました。
 私はこのルツのような立場だったら、ナオミと生きることを選ばず、オルパのように別れたと思います。またルツは、キリストの系図の中にその名が書かれてあります。キリストは、罪のない方なのに、私たちのために十字架にかかってくださり、三日目によみがえられました。そして聖霊を私たちに与えてくださいました。人は生きて行く中で、いろんな課題があり、傷つくこともあります。苦しみにも会いますが、その苦しみの意味を思うとき、苦しみ「が」苦しみ「で」なくなることがあります。私はこれからは自分の益のためになることを求めず、ルツのように、主のしもべとして生きていきたいです。    
                  M.T姉

2018.5.27

〜 忙しさの中で 〜
“わたしの愛する兄弟たち、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。
主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは
知っているはずです。(コリント15:58)”
 いよいよ教会の一年間の歩みにおいて最も忙しい時期が始まっています。ペンテコステ礼拝、ピクニック、チャペルコンサート、ファミリーキャンプと5月から7月まで立て続けに執り行われる諸行事を前にして執事をはじめ奉仕者、神の家族お一人お一人も忙しい思いに駆られることでしょう。この世においても季節的に良い時であるため、学校や会社、町内などもいろいろと計画を立てていることを知っています。そんな中、神の家族の皆さんは時間的に余裕がなく、また体力的、霊的にも疲れを覚えていくかもしれません。
 願わくは、人間的な力に頼らず、聖霊の力をいただいて諸行事を執り行うことを心がけますように・・・。また、一人で頑張るのでなく、神の家族と共に力を合わせ、互いに励まし合いつつ主の業に臨みましょう。何か気になることや人があったら、先に怒ったり批判したりするより、まず一言祈ってから牧師や執事に話しかけてください。また、どのような奉仕をするにしても、その奉仕を主イエスがご覧になり喜んでおられることを覚えましょう。そして何より、教会の諸行事はただの行事で終わってはならないことを覚えましょう。毎年行われ、もうマンネリ化して喜びや感動が感じられなければ、その行事を行なう意味も必要もないのです。そして最も大切なこととして、すべての行事は主を知らない人々を招き救おうとされる神の御心の熱心が注がれる時であることを信じましょう。使徒パウロが勧めているように、”私たちが主の業に常に励むのは、私たちの苦労が決して無駄にならないことを知る“ことでしょう。シャローム!

2018.5.27

【本日の証し】
     『 いつか、青空』ローマの信徒への手紙8:18-30)   
 「ここはねぇ、窓からの景色が拡がり、青空が見えるんだよ。本当にありがたいよ。毎日、ありがたい、ありがたいの連続だよ!」水曜日に父を訪問しました。父は、101歳となる直前、約65年間住んだ渋谷の家を出る決断をし、私が監事をしている社会福祉法人賛育会のサービス付き高齢者向け住宅「清風ヒルズ金井」に引っ越しました。父がここでの生活を楽しんでいることに家族はホッとしています。
 「茂、いつかいいことあるよ。」日本がベトナム戦争支援を続け、沖縄を永久にアメリカの基地化とする1971年11月沖縄返還協定国会批准が決まった日に、高校2年生だった私は、沖縄ではなく修学旅行先の京都で自暴自棄となり、仲間と煙草を吸いながらウィスキーをがぶ飲みし、停学処分になりました。私を引き取りに東京駅に迎えに来た父は、「茂、お前が戦争反対や差別など世界のために活動していることは知ってるよ。でも、もっと身近なことからやったらいいんじゃないか。停学なんか気にしないでいいよ。いつかきっといいことあるよ。」私は、脳天を打ちつけられたようになりました。
 「お前のことをいつも祈っているよ。」修学旅行の途中で護送付きで返させられた新幹線の中の数時間、私の目は吊り上がり、父が「島田家の面汚し、勘当だ」と怒るだろうと予想しました。過激派のシンパだったため、いよいよ家を出て、より直接的で過激な活動に突入しようと暗い決意をしていました。私の予想に反した父の言葉に、私は正直戸惑いました。「お前が何をしようが、どんなことも神様は知っているんだよ。いつか必ずいいことがあるよ。だから、周りのことから始めたらどうかい。」と。私は、なんでそんなことが言えるんだと思う反面、安堵したような気持になり、互いを殺し合うようになった過激派の活動から目を覚まされたようになりました。
 「♪あ〜りがぁたや、ありがたや♪」1916年3月18日に日本橋の袂で生まれた父は、虚弱体質だったため3歳で母親と埼玉県飯能に移り住み、清流を望む自然の中で身体も丈夫になり、クリスチャンだった母親から聖書を学びました。1938年に陸軍に召集され、重機関銃の兵隊として訓練中馬にけられて入院、その間事務方に転じて、1940年南京に派兵、そこでYMCAに関わるようになりました。上官との衝突がきっかけとなり1942年1月にシンガポール戦線に転出され、第2次部隊の一員としてシンガポールに入りました。そこで中国人の母と出会ったのです。
 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8章28節)父の中で通奏低音のように流れている聖書の言葉です。感謝です。                                島田 茂  

2018.5.27

 僕の働いているH学童保育室は今年度からもともとH保育所があった場所に移り変わりふなはしアフタースクールとしてスタートすることになりました。
 もともと保育所があった場所なのでとても広く、子どもたちも開放的でのびのびと過ごしています。
 園庭も広いので晴れた日は外へ出て楽しそうに過ごしています。
 今までも自然豊かなところだったのですが、いまでは一層自然に触れることが多くなりました。
 毎日カエルやクモやドジョウなどを捕まえてきています。
 建物も変わるとともに中身もまた、大きく変えていっているところです。
「新しいぶどう酒は、新しい革袋にいれるものだ」というイエス様の言葉の通りにいろんなものを新しくして良いアフタースクールを作っていきたいです。
              S.H兄

2018.5.20

〜 聖霊による一致の讃美を! 〜
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは
過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙4:18)”

 先週木曜日の午後、二番町教会で「台湾エデン・盲人喜び合唱団」のコンサートがありました。目の見えない4人の兄弟たちは、素晴らしい歌声とユーモアのある言葉と証しをもって明るくコンサートを導いていました。きっとコンサート場に集まった会衆全員は自然と心が開かれ、心温まる感動に包まれたことでしょう。実に聖霊が働かれた恵みの時でしたね。そう、誰かの支えがなければ何もできないけれど、その4人の兄弟たちは暗闇ではなく光に包まれ、かえって光を放っていたのです。そのような明るさは主イエスに出会わなかったら得られなかったもの、その主イエスへの感謝と喜びを心からの讃美と証しをもって現していました。短いコンサートでしたが、神のなされる業の素晴らしさに賛美せざるを得ませんでした。弱い者を用いて強い者を辱められるという神の御言葉は真実です。
 今私たちはペンテコステの時を迎え、イスラエル中東において繰り広げられている虐殺と争いを見ながら、大きな悲しみに包まれています。2000年前、最初のペンテコステの日に起きた恵みこそ、国、民族、言葉、人種、性別、貧富の差など関係なく、すべての人に等しく聖霊が臨まれ、神の国が実現されたことを聖書は記しています。ペンテコステの日こそ、真の平和と和解による一致が実現された日、そのために聖霊は教会とキリスト者たちに臨まれ、今もなお同じく働いておられることを心に抱くべきです。
 本日は多言語で行われるペンテコステ讃美礼拝です。隣の方がどこの国の言葉で歌っていても、当惑せず、聖霊が私たちを神の子ども、神の家族と結んでくださったことを喜びつつ、声高らかに賛美いたしましょう。ハレルヤ! 

2018.5.20

『 聖霊が臨まれると 』ルカによる福音書4:16〜21)
 ハレルヤ!約束された聖霊を贈られた神を賛美します。本日はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。聖霊が来られキリスト教会が誕生し、イエス・キリストによる福音が全世界、地の果てまで広がるようになった、キリスト教会の3大祝日の一つです。ペンテコステの聖霊の命と恵みが神の家族の上に豊かに注がれますように・・・。
 いよいよ主イエスはメシアとしての働きの出発点に立ちました。その時、主イエスが告げられた最初の言葉が、イザヤ61章のメシア預言の箇所でした。旧約聖書で繰り返し預言されていた「救い主、メシア」こそ、ご自身であることを公に告げられ、メシアとしてこれからなされる御業が何であるかを教えてくださるのです。
 まずは、「貧しい人に福音を告げ知らせること」、それから「捕らわれている人に解放を告げること」、また「目の見えない人に視力の回復を告げること」、最後に「圧迫されている人を自由にし、主の年を告げること」でした。そうして、これらの預言の御言葉が実現したことを宣言されます。
 これらのメシアとしての主イエスの働きの内容を通して分かることは、主イエスはすべて間違っていたことを回復してくださるお方だということです。それは、人間を常に苦しめていた経済的、政治的、身体的圧迫からの回復であって、真の癒しがなされることを告げているのです。とりわけメシアとしての主イエスの目が、経済的、政治的、身体的な社会的弱者たち、疎外された者たちに向けられ深い愛と憐れみをもって、元来の完全で健康な状況に戻してくださる。主イエスが来られたことによって、すでに「恵みの年、神の国」が実現したことを宣言しておられるのです。
 しかし、ここで私たちが注目して見るべきことは、これらのメシアの働きには前提があるということです。そう!神はメシアを通して真の癒し、回復の恵みを与えられる。しかし、そのメシアなる主イエスの働きを始めさせその御業を支える方こそ、神の御霊、聖霊であるということです。「主の霊がわたしの上におられる。」すなわち、聖霊が主イエスの上に臨まれるところで、新しい神の創造と神の国が実現されることになるのです。そうです。主イエスの働きは聖霊が臨まれたことから始まったのであって、主イエスのすべての働きは聖霊が共になされたものであって、その働きの中心が、「癒しであって、回復」であったわけです。なるほど、主イエスは聖霊によってマリアに宿られ、聖霊に導かれて荒野に行ってサタンの誘惑を受けられました。そして、聖霊によってその誘惑に打ち勝ち、また、聖霊に満たされて癒しと回復の恵みの年の業を成していかれたのです。そして聖霊に支えられて十字架の道を歩まれ復活の勝利を成し遂げられたのです。すなわち、主イエスの働きは聖霊によらずになされたことは何一つありませんでした。
 そして主イエスはペンテコステを迎える私たちの群れに、約束された聖霊を待ちなさいと命じられ、聖霊に満たされて生きることを望まれます。愛する神の家族の皆さん、あなたはどうでしょうか、聖霊を待ち望み、また聖霊に満たされ、聖霊に導かれて歩んでいるでしょうか。ぜひ聖霊に満たされ癒しと回復の働きに励んでいきますように・・・。ハレルヤ! 

2018.5.20

〜庭の雑草、畑の雑草
 家の周りや畑の草とりを毎日、少しの時間にも草とりをしていますが、抜いても抜いても生えてくる雑草、こんなに抜いても雑草はなくならないのだ、何故だろう?草はどこでも生きている、道端、畑、川の土手、いつも乗る駅のホームの割れ目からも、それが雑草によってその草の種類が違うのである。不思議なことである。アスファルトの割れ目にも雑草の花が咲いている。それがとっても美しく、抜くのに惜しくて、素朴にひっそりと咲いているのを見ると、私は手をすくめるのである。神様がこんなコンクリートの割れ目にもひとつの生命を芽ばえさせて下さっておいでになるのだと思い。これは旧約聖書の頃からあったのだと信じます。
 それが場所によって生えている雑草の種類が違うのである。不思議不思議川の土手の草は頑固ですごく根が深く大雨が降った時には土手をしっかりと守って洪水を防ぐためにしっかりと守ってくれるように、雑草には適材適所があると思います。
 神様がそこの場所に必要な雑草を与えてくださったのだと、感謝しております。あまり愚痴を言わないようにして農作業に励みたいと思います。
               A.M姉

2018-05-15

2018.5.13

〜 親を敬う人は幸いである 〜
 “あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、
      主が与えられる土地に長く生きることができる。(出エジプト20:12)”
 先月、愛するH・I夫妻と共にこれからの歩みについて話し合う時を過ごしました。ご一家がインドネシアで一人暮らしをしているH兄のお父様のために、来年3月から約3年間、富山を離れインドネシアに引っ越すという話でした。H兄の父親を思う心と喜んで夫を支えようとするI姉の姿に心温まるひと時でした。愛する人のために国を離れはるばる異国の地である日本に来たH兄の決断とご夫妻の今までの誠実さを知っているため、ご一家のこれからの歩みの上に注がれる主の祝福と導きがいかに素晴らしいだろうかと感謝すると共に、主の御手にすべてをゆだね祝福を祈りました。
 ご一家は小泉町教会の群れにおいてクリスチャンホームとして、大きな恵みと喜びとなっています。H・I夫妻はもちろんのこと、宝物のように輝くRくん、Kくんと3年間も別れるということは大変寂しいことです。しかし出会いと別れ、また再会は神の御手の業であることを知っていますので、愛と執り成しをもってお送りしたいと思います。まだ来年3月までは時間がありますから、ご一家を祝福しつつ、主にある深い交わりと喜びの思い出を多く作ってくださいね。
 母の日を迎え、“あなたの父と母を敬いなさい。(十戒のうち第五戒)”と大切に命じられる主の御声に、神の家族お一人お一人も心を込めて応答することができ、主の喜びとなりますように・・・。また、小泉町教会のすべてのお母さんの上に父なる神の豊かな祝福と恵みを祈ります。シャローム!

2018.5.13

『 ほかの九人はどこにいるのか 』 ルカによる福音書17:11〜19)
 キリスト者の信仰生活において神の恵みを受けて神の子となる特権をいただくことほど素晴らしいことはないでしょう。しかし、その恵みを与えてくださった神に感謝を表す生活を送ることは恵みを受けることに並んで大切なことです。
 本日の聖書箇所には、エルサレムに向かわれる主イエスがガリラヤとサマリアの境にある村を通られたと紹介しています。主イエスはいつも罪人や病んでいる人、弱い人を好んで訪ねられました。神が主イエスをこの地に遣わされたのは罪の中で滅びていく人類を憐れまれたためであり、罪人たちを救われるためでありました。
 主イエスは今日も10人の重い皮膚病を患っていた病人たちを癒すために訪ねていかれます。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいました。当時の重い皮膚病の病人は神に呪われた人とされ、旧約聖書の律法では社会から隔離されたところで集団生活をしていました。そして一般の人と接することができず、遠く離れて自分が重い皮膚病にかかっているものであることを叫ばなければなりませんでした。その日も、主イエスが目に見えるところを通られるけど、近づくことができない。彼らは主イエスを「先生」と呼んでいます。彼らの信仰はまだ不完全でしたが、癒しと憐れみを乞い求めています。 彼らの姿を通して私たちは、信仰が完全でないから、祈りが完璧でないから、能力がないから、神の恵みを受けられないと落胆する必要がないことを教えられます。あるがままに主の御前に行き、主の憐れみを乞い求めることです。主イエスは彼らの叫びを憐れみ応えてくださったのです。
 主イエスは彼らの叫びの答えとして、祭司のところへ行って、体を見せるようにと言われました。不思議と10人の重い皮膚病の病人たちは主イエスの言葉に従い、祭司のところへ歩き出しました。何が彼らを従順の道へと導いたのか分かりません。恐らく彼らのうちにあった小さく純粋な信仰だったのでしょう。そして彼らは驚くべき体験をします。彼らが祭司のところに行く途中で自分たちの病が癒されたではありませんか。まことに主イエスの御言葉の前に、頭では完璧に理解できずとも体で応えた彼らの小さな信仰を主イエスは祝福されたのです。
 しかし本日の聖書の御言葉は癒された後に焦点を合わせています。癒された10人のうち、たった一人のサマリア人が、喜びに満たされ大声で賛美しながら戻ってきて、主イエスの足もとにひれ伏して感謝したのです。感謝は神の恵みに気づいたときから始まります。自分の人生に関わってくださる主イエスの御手の業に気づく人が感謝できるのです。10人とも癒しの恵みを受けたが、そのサマリア人一人だけが恵みの価値に気づきました。私たちが今生かされているすべてが恵みであることに気づいてほしい。感謝を忘れることは、神の愛と恵みを忘れることであり、神から離れていることの結果であると言えましょう。主イエスは戻ってきて感謝を表すサマリア人に救いを告げられます。感謝は体の癒しを超え、魂の救いへとつないでくれます。そうです。感謝こそ、救われた人の印なのです。ハレルヤ! 

2018.5.13

〜イースターの感動を川柳に〜

先日4/1イースター礼拝にともにあずかり、はじめて主の晩餐をともにいただいたY姉が後日その感動を送ってくれた川柳です。

よのなかは やみのなかでも 
イエスさま。
イエスさま、てんごくからね、
みまもるよ。
よみがえり、イエスさましか、
へいわ(平和)せん。
ななにんの、てんごくにいて、
イエスさま。(召天者を記念して)
てんごくは、あんしんできる、
くにですよ。
よのなかに、いろんなしゅうは(宗派)、ありすぎる。
イースター、キリストきょう、
うれしいよ。
イエスさま、ばんさんできて、
うれしいよ。
ゆりのはな、てんごくにしか、
おもえない。
じゅうじか、ふっかつするの、
すてきだね。
しんこうで、めざめてハレルヤー、
きえないよ。
てんのくに、イエスさまとね、
じゅうじか。

2018.5.6

〜 聖霊を待ち望みつつ 〜
 5月に入りました。全地は春の命に満ち溢れています。わが教会では定期総会を終え、「祝福の源となる」ための本格的な歩みをスタートさせました。なるほど春は希望と命溢れる季節です。とりわけキリスト教会においてはイエス・キリストの復活から聖霊降臨を祝うペンテコステに向かっている時期です。十字架の死を打ち破り復活なさった主イエスは、「父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい」と弟子たちに言われました。その主イエスの約束に従い、心を合わせて祈っていた弟子たちの上に、聖霊が降って来られ初代教会が誕生したのです。
 聖霊は父、御子と共に三位一体の神であり、天地創造の時から神と共に御業を成して来られた御霊です。その御霊こそ、神の民の内に宿られ、一時も離れることなく神の民を慰め、力づけてくださるお方です。神の民と全人格的な交わりの中で、父なる神の御心を教え、御言葉の秘められた御計画を成し遂げられる真の神なのです。しかし、偽りの教えを語る人たちは聖霊をただの神のエネルギーにとどめようとし、聖霊の働きを聖書時代のみに限定しようとする主張をします。これらの人たちは聖霊との人格的交わりを味わうことができず、聖霊を頭の知識と概念でしか知らないのでしょう。
 この春、命の聖霊の働きを期待しましょう。とりわけ求道者の方々が聖霊に触れ信仰の決断に至りますように…。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(Iコリント12:3)とあるように、信仰の確信へと招かれるのは聖霊です。また、教会に命を与え、新しく造り変えられるのも聖霊なのです。だからこそ、初代教会のごとく、牧師始め神の家族お一人お一人が心を合わせ約束の聖霊を待ち望むことです。シャローム!

2018.5.6

『 変わらない約束 』 (ガラテヤの信徒への手紙3:15〜22)
 皆さんは大切な人との約束を忘れ、大変な思いをしたことがあるでしょう。そして大切に覚えていた約束を相手が忘れてしまい失望したことはないでしょうか。・・・それほど人は忘れがちで失敗ばかりしてしまう存在でしょう。よく“人間は忘却の存在!”とも呼ばれるほど、人は絶えず忘れてしまいます。
 しかし愛なる神は神の子どもたちと交わされた約束を決して忘れることなく、真実と誠実をもって守られるお方です。とりわけ旧約聖書では契約に基づいた愛を表すヘッセードという言葉を繰り返し使っていて、その成就としてイエス・キリストが与えられたことを心がけましょう。
 さて、本日の御言葉には父なる神と私たち神の子どもたちの間に交わされた約束についての神様の熱情について記されています。聖書の福音の約束として、私たちは神の恵みをいただいて、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって救われた者であることが記されています。しかし、そのような約束をいただいたにも関わらず、なお律法の行いにすがり、人間の行いによる義を打ち立てようとする過ちに陥るガラテヤの人々に、パウロは再び信仰の父アブラハムを示すことで神の約束を思い起こさせます。
 先日学びました6〜14節ではユダヤ人にとっての信仰の父アブラハムがなぜ神から義と認められたのか、その理由について分かち合いました。アブラハムが義と認められたのは、彼の行いではなく、主の約束を信じて信仰の歩みを続けていたことを明らかにしました。とりわけ“自分たちこそアブラハムの子孫だ”と誇っているユダヤ人たちに対して、異邦人だろうが、何であろうが「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子」であるときっぱりと言い切るパウロの言葉をいただきました。
 そこでパウロは、「では、律法とはいったい何か」という疑問について、アブラハムの召命の物語から律法を授かった間の出来事をもって説明しています。そして「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもの」(19節)であると定めます。「約束を与えられたあの子孫」というのは、キリストご自身を意味するもので、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって成し遂げられるのです。
 神は、イエス・キリストを遣わして私たち罪人の罪の代価を負わせ、キリストを信じる者に救いを与えました。これこそ律法ではない信仰による約束の成就、まさに救いの恵みでした。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、キリストのうちにある約束によって神の子とされたのです。この祝福の約束を無効にすることはできません。独り子の命をかけての父なる神の約束だからこそ、決して変わることはないのです。だから、イエス・キリストを信じるあなたの歩みをもっと強く確かなものにして行こうではありませんか。ハレルヤ!               

2018.5.6

〜「わたしが悩むときも」に寄せて〜
 新生讃美歌552番「わたしが悩むときも」は、毎年4月の教会の定期総会の最後に全員で歌う曲でもあり、信仰に立つ平安を歌う歌詞に安らぎと励ましを受ける方も多いと思います。
 この詞のオリジナルは19世紀、スウェーデンの讃美歌の作詞家リナ・サンデルという女性によって書かれました。ルター派の教役者であった父親が船舶事故により、彼女の目の前で溺死するという悲劇に遭いましたが、その数年後にこの歌詞を書き、日々の信仰に心を支えられてきたことを詞に告白しています。原題は「今のこの日を」。新生讃美歌の訳詞では「信じて私は今・・・この日も過ごします」というところにその意味が良く表されています。
 作曲者オスカー・アーンフェルトはスウェーデン作曲家で、自ら10弦ギターを抱えて国内を旅し讃美をする中、この曲を広めました。彼らの曲は普通の個人の心の信仰を歌ったものなので、当時権威を重んじていたスウェーデンの教会には好かれませんでした。しかし国王のカール15世がアーンフェルトの歌と演奏に涙し、国内のどこででも自由に歌うことを許可しました。
 世界的にはジェニー・リンドというスウェーデンオペラ歌手がアメリカで公演したときこの曲を広め、英語に訳されました。エピソードも恵み溢れる讃美歌です。          週報係

2018.4.29

〜 慰めよ、慰めよ 〜
 “慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。(イザヤ40:1)”
 わが教会では2年前からサンフォルテを借りて、「小さな泉の村」を月一回行い、「生活支援者のための料理教室」の恵みをいただいています。小さな泉の村が歩み出した当初から、力となってくださったのが「富山ダルク」の方々でした。「富山ダルク」は薬物・アルコール依存症からの回復を手助けし、将来の社会的自立を目指している施設です。その施設で生活している方のうち、毎回6名ほどの方がボランティアとして小さな泉の村に加わり、力いっぱい協力してくださっています。この2年間を振り返ると、ダルクの皆さんの助けがなかったらここまで来ることは大変厳しかったと思われます。
 その富山ダルクから小泉町教会の一室を用いて「ギャンブル依存症」の方々と共に学習会を開きたいという依頼がありました。今までの薬物・アルコールに限らず、富山で初めての試みとしてギャンブル依存症の方々のための学習会を始めるということでした。早速、執事会で協議し、信徒会で意見を求めたところ、神の家族の皆さんが喜んで賛同してくださいました。今までの小さな泉の村での交わりを通して得た恵みと信頼関係のゆえに、迷うことなく心を合わせてくださいました。
 早速、5月から毎月2,4土曜日、2階の畳の部屋で行うことになります。もちろん、小泉町教会としてできることは、場所を提供することですが、ただ場所を提供することで終わるのでなく、彼らの学習会を通して主の癒しと慰めが、豊かに働きますように執り成し祈ることでしょう。キリスト教会の存在の理由こそ、福音宣教でありますが、福音宣教では、「泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ」という姿勢を土台とすべきであることを心がけましょう。小泉町教会の慰めと癒しの働きを通して、神の国がますます広がりますように・・・。シャローム!

2018.4.29

『 主の救いを喜ぶ 』 (マタイ5:13−16)
 聖書は、地の塩になりなさいとか、世の光になりなさいと言っていません。努力目標でもありません。もうすでに、地の塩であり、世の光なのです。そのように主が宣言しているのです。私たちは地の塩として働かなければならないし、世の光として、良い行いをしなければならないと考えていたかもしれません。でも、そうではないようです。端的に言って、このみ言葉は、教会の在り方と使命を示しているのです。
 地の塩:一般的な塩の働きは「腐敗防止」「味付け」でしょう。そして、「健康に不可欠」なものです。塩は他のものに浸透して他者を生かすものなのです。塩が「私は塩だ!」と自己主張したらとんでもないことになります。そのような塩の性質を「教会」が持っているのです。教会が世を腐敗と堕落から守るのです。塩は、なくてならぬものなのです。そのように、私たちの教会はこの地になくてならぬものなのです。
 マルコ9:50は自分自身の中に塩を持ちなさいと言います。ここでは、弟子たちは塩と同じにはみられていません。塩は、イエスキリストの福音です。そして、教会はそのキリストの福音を預かっているのです。キリストの言葉が「塩」です。ですから、「あなた方は地の塩です」ということは、あなた方は地の塩である主の福音を委ねられており、キリストがその福音の言葉とともに働いて、あなた方を地の塩とするというのです。それは、光についても同様です。
 世の光:ヨハネ福音書の冒頭で「まことの光が世に来てすべての人を照らす」と語られています。キリストにおいて神の光はこの地において見えるようになったのです。光も主イエス様に与えられるものです。光はイエス様です。私たちは光に照らされたものです。その私を主は光とされるのです。主が光とされている私に向かって、「私はあなたを隠さない」と言っているのです。違う言い方をすれば、「私は必要とされていない」とか、「私には能力がない。役に立たない」などと言ってはいけないということです。主の十字架の贖い、救いこそが「光」なのです。福音が「光」です。
立派な行いとは、生かされていることを心から喜んでいること、感謝していることなのです。信仰から溢れるあなたの喜びと感謝と笑顔が、「良い行い」であり、人々をキリストへと導くのです。 
                田口昭典牧師

2018.4.29

 今年度執事をさせて頂くことになりました。私のような者には光栄であり又恐れ多いことです。とくに選挙の際、白石姉との決戦投票の上でということで益々もったいない感じです。当初高校野球にみられるエース投手を温存し一年生に経験を積ませるようなイメージを持ちました。しかし今改めて私を立てて下さった神様の御心を思います。執事の役目は牧師をお支えする事ですから、それを忠実に務めるようにとのことは当然ですが、私個人の成長を強く求めておられると感じます。この度任期三年を終え辞退されたI兄が御言葉の学びに大変熱心であったと聞いています。その姿勢は是非とも見習いたいと思っております。更に謙遜を身に付けるようにと求められているように思います。閔先生から執事というのは決して偉い地位では無く、しもべのように皆に仕える役職であるとお聞きしました。主イエスが「人の子が来たのも仕えられるためではなく、かえって仕えるため(マルコ10:45)」と言われました。仕えるという訓練の時を与えられ感謝しております。私に謙遜を忘れた言動がありました際には遠慮なく主の愛をもって叱責をお願い致します。
 4月22日に執事として初めて礼拝の司会をさせて頂きました。礼拝後「落ち着いていて良かった」と声を掛けて頂きました。全ては聖霊様がなさったことであり、「聖霊様が導かれるままに」という閔先生やS姉、S兄の助言に心から感謝しております。一年間「聖霊様に導かれるままに」という思いをもち私自身は頑張らないで務めて参りますので宜しくお願い致します。
 主の栄光がとこしえまでありますように。アーメン
                   S.Y兄

2018.4.22

〜 教会創立60周年に向けて 〜
 本日は2018年度の定期総会です。1960年から始まった開拓伝道ですので、今年で58周年、2年後にはいよいよ60周年を迎えることになります。“富山の人々にキリストの光を”というビジョンを掲げつつ、8名の牧師と数人の宣教師と信徒の皆さんの献身によって今日の富山小泉町キリスト教会が形づくられ祝福されてきました。主の奇しい御業を賛美いたします。
 60年は決して短くない歳月です。しかも、全国の県庁所在地に一つの教会を建てるというビジョンのもと、連盟や連合、また金沢教会に連なる神の家族たちの祈りに支えられながら今日まで来ることができたことは大きな恵みであり、証しでした。
 伝道開拓60周年までこれから2年余の時間が残っています。ぜひ、この2年間を大切に過ごしていきたいと願います。小泉町教会のビジョンを神の家族お一人お一人が御言葉と祈りの中で深めて行き、楽しく語り合う中で、信仰と心、働きを合わせていくことでしょう。もちろんその中心には、絶えず「教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じる」告白と共に、互いに愛し合い、謙遜に仕え合い、励まし合って行くことが求められることでしょう。
 60周年というと、多くの場合“感謝礼拝とか、記念誌を作る”ことをビジョンとして掲げたりしますが、“新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるべきだ!”と言われた主イエスの教えに従い、小泉町教会は“小泉町教会らしく!”新しい考えと姿勢をもって取り組んでいきたいものです。シャローム!

2018.4.22

『 命溢れる健康な教会 』使徒言行録6:1〜7)
 初代教会の誕生と歴史を描く使徒言行録では、初代教会における、4つの柱を挙げています。
 まず、使徒の教え(説教、教育)、∩蠍澆慮鬚錣蝓憤Δ諒かち合い)、パン裂き(愛餐と主の晩餐)、で心な祈りと賛美(礼拝)がそれです。キリストの教会が健康に成長するためには、この4つの柱がバランスよく整えられることであると言えましょう。そのためには、教会員一人一人が常に聖霊に満たされる中で、心を合わせて一致を保ち、この4つの柱を心に覚え、この4つの柱に忠実に生きる時、教会は健全で健康な教会共同体へと変えられていくはずです。しかし、この4つの柱に入らない大切な教会のあるべき姿がありますよね。それこそ“宣教”。宣教は教会の存在の理由であって、目的そのものであることを覚えつつ、4つの柱を堅くしていくことでしょう。
 本日の聖書箇所には、初代教会が爆発的な成長をとげる中で起きた問題をどのように解決していったのかが記されています。その問題とは、ヘブライ語を話すユダヤ人たちとギリシヤ語を話すユダヤ人たちとの間の葛藤、その中でもギリシャ人のやもめが軽んじられるということからでした。教会には色々な背景の人が集っています。それは教会の特徴でもあり、課題、良い点でもあります。教会に集う各個人の性格も違えば、成長の背景、文化など、違うのが当たり前です。そのような違いを一つにまとめることは難しいことです。しかし、誰でも神に愛されている存在で、福音を聞いて神の救いをいただけるというのが、キリスト教会の命でありますから、この問題を解決するためにペトロをはじめとする使徒たちは主の知恵を求め、最善の道を示すことになります。
 そのために示された道こそ、7人の執事を選ぶことで、いつもいろんな仕事に覆われて落ち着いて御言葉の奉仕に専念することができなかった使徒たちの代わりに教会内に必要とされる働きや配慮すべきことを分担させることになったのです。そして、執事を選ぶ基準となっていたのが「信仰と聖霊に満ち、評判の良い人」というものでした。しかし、これは執事だけに求められる基準ではなく、神の働き人であれば、誰にでも備えるべき姿であるでしょう。執事たちが選ばれたことでより良い働きがなされ、
 その結果、初代教会は、「神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入る」(7節)という、ますます命溢れる健康な教会へと変えられていったのです。御言葉が語られる教会こそ、昔から今現在まで変わらない教会のあるべき姿です。神の言葉が語られるということが失われるところに教会の危機が訪れるのです。愛する主が、小泉町教会の2018年度定期総会を祝福され、新しく選ばれた4人の執事を用いられ、また神の家族の歩みを御言葉で導かれ、祝福の源として用いられますように…。ハレルヤ! 

2018.4.22

“ヤハウェ・イルエ”=準備しておられる神様
 2月の福井での礼拝に、父さんと一緒に行ってきました。
 初めての体験で、結構ドキドキしていましたが、D兄が温かく迎えてくださって、すぐに馴染むことができました。
 礼拝は、とても単純な、でも情熱の感じられるものでした。皆で讃美を歌い、聖書を交読し、説教を聴き、聖餐に預かり、そして祈る。礼拝の基本に戻って、自分自身の礼拝を見直すよい機会でした。
 また、この日に新しく二人の兄弟が来てくださったことも、非常に記憶に残っていることです。それまでほとんど新来者のいなかった福井教会に、私たちが訪れたちょうどその日に、不思議にも神は二人もの人を呼んでくださいました。しかも、彼らは心に病を持った、愛を求めている人たちでした。そして、彼らも共にすることによって礼拝はより豊かになり、その日の説教の題のように’祝福の源’となることができました。‘聖徒の交わり’と言う言葉がちょうどよく似合う、愛の溢れる礼拝でした。
 正直、自分はこの日、このようにすばらしい出会いと感動を経験するとは思っていませんでしたが、まさに神のご計画の中での導きとしか言いようのない祝福を、主は与えてくださいました。
“ヤハウェ・イルエ”。全てを善く計画し、備えておられる、真の生きた神なる主イエスを讃美しながら、神の国とその義をまず求めよと言われた主イエスの言葉を実践しながら、これからの生活において、祝福の源となっていけるようにしたいです。
              J.G兄