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富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

●英語礼拝 第2日曜日

 フェローシップタイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から

English Worship Service(英語のホームページ)、 富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

〒939-8082 富山県富山市堀川小泉町681

電話 076-491-2273

2016-09-22

2016.9.18

 〜 老いを喜んで生きる 〜
 わたしの父は認知症を患っていて、その症状も少しずつ進んでいる状況です。先日の映像通話ではわたしが日本で暮らしていることも忘れていて、ただ末子の顔を映像で見て、声を聞くことで泣きながら喜んでいた父でした。いつも家族のために黙々と働いてきた父。父の感じていただろう責任感の重さと常に最善を尽くしていた姿に感謝します。そのようにいつも変わらない姿で強く私たち家族を支えてくれると思っていた父でしたが、最近はしょっちゅう居眠りをしたり、ぼうっとして外を見つめていたり、母に頼りっきりでわがままな面がよく出てきたりしているそうです。また一人で風呂に入ることもできなくなったり、トイレを忘れたり、部屋を忘れたりするそうです。
 昔から“年を取ると子どもに戻る”と言われていますが、まさにそうです。いつまでも頼りになる存在として、いつでもそこにいてくれると思っていた父は今、少しずつ子どものようになっています。その姿を見るのが辛い人もいるでしょう。しかしある面、子どもになるということは神の国に近くなる神の祝福ではないでしょうか。イエス様が御言葉の中で、“はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。”(マタイ18:3)と言われたことを覚えましょう。今までの人生の中で支配されてきた罪と欲望から解放され、子どものように素直に神の国を心に受け入れる恵みの時なのかもしれません。
 感謝なことに、最近父は母に導かれて毎週教会に行っていますし、家庭礼拝の時を過ごしています。どこに行っても母の手を放そうとしません。父の外なる人は衰えていますが、内なる人は子どものような命と喜びに満たされていることを賛美します。愛する神の家族の皆さん、老いは創造者なる神が人に定められた恵みの時、天国の命を身近に感じられる希望の時です。この恵みと希望に包まれ老いを生きていきましょう。シャローム!

2016.9.18

 『 白髪になるまで 』(イザヤ46:3−4)
 聖書を見ますと、「信仰者は生涯現役」であることを教えてくれます。アブラハムは75歳になって神のビジョンを受け信仰の旅を始め、100歳になって子どもを授けられます。モーセは80歳で神に召されイスラエルエジプトから導き出すという使命を託されました。またカレブも85歳になって厳しい山地を開拓するという超人的な力を発揮する・・・、聖書の信仰の先輩たちは「信仰によって」神からの使命を果たしていったことを覚えます。願わくは、今日敬老礼拝を迎えられる小泉町教会のお一人お一人が、神より授かった使命の生涯を、まっとうされますように・・・。
 本日のイザヤ46章1〜4節には偶像の神々と真の神を対比しながら、とりわけ父なる真の神が神の民をいかに愛され、その人生を導かれ祝福されるかを教えます。1,2節に登場する「ベルとネボ」という偶像の神々は自分たちを崇拝する人々に重荷を負わせる存在として語っており、3,4節では真の神が神の民が生まれた時から彼らを背負われ、彼らの重荷を担われると語っています。とりわけ創造者なる真の神は神の民イスラエルを生まれる時から負われ、彼らが白髪になるまで背負われるという約束の言葉に注目すべきでしょう。
 「白髪になるまで」とありますが、白髪は老人の特徴です。白髪は気付かないうちにやって来ます。人間的に見ると、白髪は体力の衰えを表し、人生の終わりが近いということを意味するものです。しかし、聖書の解釈は違います。“白髪は輝く冠(箴言16:31)”、また、“白髪は老人の尊厳(箴言20:29)”と教えます。それほど、神にとって老人は敬われ、尊ばれるべき存在であると言えますし、だからこそ、白髪に対する聖なるプライドをもつべきだと思います。わたしたちが年齢を重ね、白髪になり、体力の衰えを感じる時に、いよいよ神様によって背負われるという信仰を持つことが出来たら、何と素晴らしいことでしょう。
 高齢化社会になっている日本の国においては、老人の存在が段々と軽んじられているような現状があります。しかし、たとえ日本社会からは見離されても、神は「わたしが背負う」と約束してくださいます。特に4節では、「わたし」という代名詞が3回も繰り返されることによって、私たちの神が必ず成してくださるという約束を強調しているのです。
 “疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)”と招かれるイエス・キリストの十字架は、今日のイザヤ46章の御言葉の約束の実現であることを覚えましょう。“白髪になるまであなたを担い、背負い、救い出すために”主イエスはわたしたちのところに来てくださり、十字架の上で両手を広げてわたしたちを待っておられるのです。そのイエス・キリストの十字架のもとに近づいて参りませんか。

2016.9.18

 いつも私たち家族の為に、お祈りとご支援をしていただきありがとうございます。夏に帰省した時には、皆さんからたくさんの励ましの言葉をいただき、また交わりをさせてもらいとても素晴らしい時を過ごすことが出来たことを心から感謝いたします。帰省をする度に、励まされ心が元気になり福岡へ戻ることが出来ています。
 9月に入り、長女の幼稚園も始まりました。年中さんになり半年がたとうとしていますが、日々成長する姿が見えてとても嬉しく思っています。長男もとても元気で、2人で遊んでは毎日のようにきょうだいゲンカをしています。その光景が面白くもあり、とても可愛くもあります。子供たちの成長が守られていることが、私たち夫婦にとっての喜びです。
 私は、家族寮に住んでいるお連れ合い同士で聖書の学びを週に1度行っています。聖書箇所を決め、1週間じっくりと読み黙想し、集まった時にそれぞれ思うことや示されたことを分かち合っています。この時間がとても良い交わりとなりお互いを分かち合うことが出来、聖書も深く知る素晴らしいものとなっています。1人で聖書を読むことも大切ですが、色々な方と聖書を読み分かち合うと様々な思いなどが聞けるので、この時間もとても大切だと実感しています。神学寮での生活も残り半年となりましたが、今出来ることを考えて1つ1つ行動していき毎日を大切に過ごしたいと思います。小泉町教会の皆さまに、神さまの祝福とお守りがありますようお祈りいたします。
              M.Y姉

2016-09-15

2016.9.11

〜 種から芽、花から将来へのビジョンへ 〜
“草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(イザヤ40:8)”
 教会の花壇の花たちが美しさを競い合っています。そしていよいよ秋桜コスモス)もその美しさの饗宴に加わろうとしています。神の家族の協力のもと整備された花壇でしたが、今は通り過ぎる方々から“綺麗ですね”と声を掛けられるようになり、町内の方々によい証しとなっていることは何よりの喜びです。春に神の家族お一人お一人が自分の名前を書いて大切に植え替えたマリゴールドは一本も死ぬことなく美しく花を咲かせ、その葉もどんどん広がっていき今はすべてのマリゴールドが一つの根からなっているようにつながっている様子がとても素晴らしいです。・・・もちろん秋が深まっていけば、やがて花は散っていき、花壇の美しさも消えていくでしょう。しかし嬉しいことはしぼんでいく花はそのまま消えてしまうのでなく、しっかりとたくさんの種を残すということです。ただの植物に過ぎないけれど、彼らは一生涯のうち、しっかりと種から芽に成長し、花を咲かせ神と人を喜ばせただけでなく、しっかりと次の春に再び花を咲かせるための備えをして終わりを迎えるということは何とも言えない恵みです。                             
 神の家族の皆さん、一生懸命に花を咲かせようと力を尽くしてきた私たちかもしれません。そんな中、力尽きてしまい、そのまましぼんでいく自らの姿に寂しさを覚えている方もいるかもしれませんね。しかし実りの季節を迎え創造者なる神の御言葉から力をいただきたいと願います。草も枯れ、花はしぼむことはすべての被造物への法則です。しかし神は恵みの実と将来への復活の種を備えられるお方、だから私たちは失望しませんし、将来への神の約束を信じて新たな一歩を始めることができるのです。シャローム!

2016.9.11

『 信仰生活は感動です 』 (ネヘミヤ記8:1〜12)
 本日与えられたネヘミヤ記8章は、城壁再建を終え、イスラエルの民が主なる神の御前に集まり、礼拝を献げる姿が記されるところです。バビロン捕囚から解放され、エルサレムに戻ってきた民たちが様々な試練に遭いながらも皆が一つとなってエルサレム城壁再建を成し遂げたのは、「イスラエル共同体は礼拝する民」というアイデンティティーのゆえでした。礼拝の民として選ばれ、礼拝による神との交わりに生きるために選ばれたイスラエル共同体が、失われていた礼拝の感動と恵みの回復こそ最も大切である、という共通認識から成し得た業であったわけです。そのためネヘミヤ記8章の御言葉は現代のキリスト教会と信徒たちにチャレンジするのです。“あなた方の礼拝は生きていますか。あなた方は聖書の御言葉に飢え渇いていますか。あなた方の信仰生活は感動に溢れていますか。”と。
 イスラエルの民にとってエルサレムの神殿を再建することや、城壁を再建するということは尊いことでした。しかしネヘミヤが私たちに伝えようとしていることは、目に見える建物としての神殿や城壁の再建よりもっと重要なことこそ、神の民による礼拝共同体を再建することだというメッセージです。イスラエル共同体はそのことを良く知っていました。イスラエル共同体は祭司であり書記官であったエズラに神の御言葉を読み上げてほしいと願います。その理由こそ礼拝共同体としての神の民の心の神殿の再建がなければ、目に見える神殿と城壁の再建の意味はないという確信があったからでしょう。その後、エズラによる聖書朗読が夜明けから正午まで長々と続きます。その間、イスラエル共同体は立ち上がって、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝したと当時の様子が描かれています。それだけではありません。民は皆、御言葉を聞いて嘆き、泣いたとあります。これこそ礼拝と御言葉がもたらした恵みであって、礼拝と御言葉が持つ力でした。
 神の御言葉は生きていて人に感動を与えます。神は言によって天と地、すべての被造物を創造され、また、見える言としてイエス・キリストをこの世に贈られ、聖霊のお働きによって御言葉を悟る知恵と信仰生活における命をもたらしてくださったのです。このように命の御言葉が語られ、御言葉を聞く人に感動を与える場が礼拝なのです。私たちは礼拝を通して命の御言葉に触れ、御言葉によって神の御心を知り、再び御言葉を携えて世界へと出かけるようにされるのです。
 私たちの礼拝はいかがでしょうか。私たちの御言葉に対する反応はいかがでしょうか。今こそ私たちの信仰生活が恵みに対する感動で再建されるべき時、目に見える形としての礼拝でなく、生きている御言葉に触れ、全人格をもって救われた民としての感動に満ちた礼拝を献げるべき時なのです。ハレルヤ

2016.9.11

〜ディボーションの恵み〜
 今日で、ディボーション生活をはじめて一年が経ちました。昨年の今ごろ、リビングライフの青少年版「sena」を使ってディボーションをはじめ、フィリピの信徒への手紙、エゼキエル書、箴言、ヤコブの手紙、マタイによる福音書、ネヘミヤ記などの聖書のみ言葉を黙想し、今は、ローマの信徒への手紙を黙想しています。
 初めてディボーションをしたときは、本当にドキドキしていました。朝の、まだうす暗い時に、目をこすりながら、祈り、黙想をして、神と話をする。とても不思議な感じでしたし、最初は少し難しかったです。しかし、一ヶ月も経つと、段々どのようにすればよいか分かるようになり、気楽に、うれしい気持ちでディボーションができるようになりました。やがて解説も余り読まずに、本当の黙想がどのようなものか分かるようになりました。
 今年に入ってからは、父の提案により毎日夜寝る前に、分かち合いをするようになりました。分かち合いの大切さも分かりましたし、父の説明により、聖書のとらえ方もよく分かるようになりました。
 そして、夏休みや連休の時には、水曜祈祷会や金曜日のディボーションタイムにも参加するようになり、色々な聖書の読み方があるということに気づきましたし、色んな人の分かち合いを聞いて恵みになりました。
 最近、ディボーションについて悩んでいることがあります。知っているだけで、行動に移さなければ意味がないということを知っていながらそれができないということです。これからディボーションを続けながら直していきたいです。
 これからも、ディボーションという大切な時間を守っていきたいです。
                   M.J兄

2016.9.4

〜 スランプを乗り越えて 〜
 いよいよ厳しかった夏を後にし、涼しい風に包まれる季節がやってきました。いろいろと慌ただしかった夏のプログラムを恵みのうちに終えることができました。何より神の家族の尊い執り成しと喜びのご奉仕に感謝いたします。本当にお疲れ様でした。生きておられる神は御言葉の約束通り最善の実を与えてくださいました。
 さて、毎年この時期になると気になるのが「霊的スランプ」ということです。一生懸命に神の業のために頑張って戦ってきたのに、突然訪れてくる無気力、懐疑、不安・・・。昨日までは喜びと情熱に満ち、平安でいられたのに、今日はどういうわけだかやる気がなくなり、何とも言えない不安と疲労感などに包まれ、心に「がんばろう!」と思えば思うほど、重く圧し掛かるものを感じる、・・・。そういったものが霊的スランプと言えましょう。
 スポーツ選手によく見られるのがスランプです。日本人が誇りに思っている天才イチロ選手でさえ、一年通じて何度かは必ずと言っていいほど経験するのがスランプです。このようなスランプはクリスチャンにもやってきます。それを霊的スランプというのです。霊的スランプは信仰の弱い強いに関係なくやってきます。聖書の物語の中にも、偉大な預言者であったエリヤ、使徒パウロなどにも見られる姿です。
 それでは、どうすれば霊的スランプから抜け出すことができましょう。スポーツ選手のようにもっと自分を鍛え、もっと頑張ればいいのでしょうか。いいえ、クリスチャンの霊的スランプの解決はただ一つ、神の懐に戻り休むこと、神の臨在の中で静まることです。そこで父なる神より命の言葉をいただき、十字架から流れる愛に感動し、聖霊なる神の息吹に触れることです。これこそ私たちクリスチャンのもつ世の人々が知らない力の源なのです。シャローム!

2016.9.4

『 逃れの町へ 』 (ヨシュア20:1〜9)
 ヨシュア記20章には約束の地カナンの分割が終わったところで、最後にイスラエルに命じられたことが記されています。その最後の命令こそ「逃れの町」を定めるということでした。“意図してでなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる。”(20:3)
 意図してでなく、過って他人を傷つけてしまったり殺してしまったりすることは、誰にでも起こり得ることです。しかしイスラエル共同体は神より授かった十戒の教えにより、他人を殺した人は必ず殺さなければならない定めがありました。しかし神は十戒に続き、意図してでなく、過って人を殺してしまった者を守るために「逃れの町」を設けることも命じられたのです。この箇所を通して私たちは旧約聖書の神が望まれる御心を知ることができます。人はよく旧約の神、とりわけカナン征服における神を無慈悲で残虐な神と思いがちです。そこから「旧約の神は裁きの神、新約の神は愛の神」という主張が力をもつようになったわけでしょう。しかしそうではない。旧約聖書に描かれている神は常に神の民と語り合い、絶えず神御自ら望まれる御心が何であるかを伝えられるお方なのです。「逃れの町」こそ、神ご自身が定められた赦しと愛、救いのしるしだったのです。神が望まれる共同体は人々の殺し合い、復讐が行われるところであってはならないのです。しかも逃れの町に逃げ込める者はイスラエル人だけでなく、当時の社会的弱者であった寄留者(在留異国人)をも含むものでした。
 一度逃れの町に受け入れられた者は逃れの町から離れない限り復讐する者から護られ平安に暮らすことが許されます。あるいはその時の大祭司が死んだらその殺人者はすべての罪から解放され自分の町に帰ることができました。その理由こそ、大祭司の死が一つの時代の終わりを象徴するという意味であったからです。この箇所には全人類の大祭司なるイエス・キリストの贖いの死による恵みの福音が描かれていることが分かります。既に私たちの大祭司であるキリストは、私たちの罪のために十字架の上で死んでくださいました。イエス・キリストの十字架のもとは私たちの逃げ込むべき逃れの町となってくださったのです。
 神の家族の皆さん、小泉町教会こそ、罪を犯し彷徨う者、人生の重荷を負い罪の中で疲れ果ててしまっている者が逃げ込める逃れの町、神の聖なる大祭司がその死によって建てられた現代の逃れの町であることを心掛けましょう。実は私たち自らも罪と死の鎖から先に逃れの町に逃げ込んだ者であったことを忘れてはなりません。
 「誰でも逃げ込んでください。大祭司なる救い主は誰も拒むことなく待っておられますよ!」と、救いを求める人々を招き入れる逃れの町の住民としての心の備えと愛の実践に生きる神の家族でありますように・・・。ハレルヤ

2016.9.4

〜時にかなった神の答え〜
 過去現在未来を通じ、祝福は上(神)からやってくると私は信じています。
 5歳で父をがんで亡くしたときは、神様なぜ?と思いましたが、今では神が私や皆の想いを超えた計画を持っておられたのだと悟りました。 
 父が亡くなって、仏教徒の家で育った母の人生が、敬虔なクリスチャンへと大きく変わったのです。母が私と二人の兄弟を常に教会へ通わせ、聖歌隊や青年会で活動させてくれました。3人の子供をひとりで育てながら何の不自由もさせず、全員を米国の大学へ送り出すほどでした。私は若いとき、それは母の強さと熱心な働きのおかげだと思っていましたが、今では母が常に祈り続け、真実な方である神に依り頼んでいたからだと知りました。
 時にかなってすべての必要を満たしてくださる天の父と、母から学んだ祈りの力をおぼえて、私は困難にあるときほど熱心に祈ります。祈りは神との会話、親友と時の経つのも忘れて話にふけるような会話です。嬉しいときも悲しいときも神に心を打ち明けます。また何が起こっても全てに感謝します。混乱の只中にあるときは気づかなくても、事が落ち着けば、不幸に見えた事が実は祝福であったことがわかるのです。
 祈りがすぐにはかなえられないこともあります。あきらめていたときに神が答えてくださることもあります。エレミヤ29:11にあるように神はわたしたちひとりひとりにご計画を持っておられます。肉の父に育てられずとも、天の父に見守られ育てられたことにとても感謝しています。
V.C姉

2016-09-01

2016.8.28

〜 ドラマを映し出す教会 〜  
 17日間に及んだリオオリンピックが終わりました。ほぼ毎日メダルの知らせが届けられたことで、眠れずに過ごされた方も多くおられるでしょう。これこそスポーツが持つ力ではないかと思いますね。特に、今回のオリンピックで取れた41個のメダルが歴代最高だったことは日本人の大きな誇りとなったはずです。もちろん人の目が向けられるのは間違いなく“金メダル”でしょう。しかし今回のオリンピックでは金、銀、銅メダル関係なく、各メダルには素晴らしいドラマがあったことが感動でした。“卓球、レスリング、陸上男子4×100mリレー、体操、テニス、バドミントンなどなど。”・・・種目を全部挙げることができないほど感動のドラマの連続でしたね。
 ここでキリスト者として問うべき質問こそ、“キリスト者としての私の人生は感動のドラマとなっているか”ということではないでしょうか。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、“兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。”(フィリピ3:13〜14)と語っています。
 私たちキリスト者にとってこの世におけるどのような栄華も天の御国で得られる賞に比べれば何の価値のないものであると使徒パウロは教えます。だから私たちのために備えておられる神からの賞を得るためにふさわしい走りを続けることが求められるのです。それはお金や学歴、権力、名誉など、今現在の人々が求めるようなものではないはずです。神の国の価値観は愛。神を愛し、人を愛するために命をかけて走り続けるドラマとなる人生、周りの人々が私たちの映し出す愛と救いのドラマを見て感動し、救いの競争に加わることができますように・・・。シャローム!

2016.8.28

『ネヘミヤに学ぶ─戞岨遒澆冒う時〜(ネヘミヤ記4:1〜14)
 何か良い計画を立てて始めようとしたことが、思いも寄らなかった反対に遭い挫けてしまった経験がありますか。もしくは今現在何か反対に遭い苦しんでいる方がいるかもしれません。このような経験は個人的、また共同体的においても度々立たされることであります。
 今まで私たちはネヘミヤ記の内容を通して城壁再建工事がどのような過程を経て進められてきたのかを詳しく分かち合ってきました。しかしすべてが順調に進められたわけではない。本日与えられた聖書箇所ではイスラエル共同体の内外からの激しい妨害と嘲り、批判の中で試みられる様子が描かれています。とりわけ私たちが試みに遭う時、どうあるべきなのかについてネヘミヤの信仰と姿勢から大切な教えをいただくことができます。3:36〜37節、「わたしたちの神よ、お聞きください。このように辱めを受けているのです。彼らの投げつける侮辱が彼ら自身の頭上に降りかかり、捕らわれの身となって異国で辱めを受けるようにしてください。その悪を赦さず、その罪を御前から消し去らないでください。彼らは再建に励む者を嘲っています」。・・・試みに遭う時、ネヘミヤのしたことは「祈り」でした。彼はペルシアで城壁が崩れ落ちた知らせを聞いた時から、再建工事の始まりの時にも、終わりの時にも、まず、いろいろと人間的な解決方法を考えたり、探したりすることではなく、早速祈りに入ります。しかもネヘミヤの祈りは、ストレートであって、常に単純明快でありました。このようなネヘミヤの祈りの姿勢があったからこそ、偉大なる神の業を成し遂げることができたことでしょう。・・・同じように、主なる神は、私たち小泉町教会の群れが様々な試みに遭われる時、素直に祈りの場へと進むことを望まれるはずです。とりわけ思いも寄らなかった妨害や批判、試みに遭う時、私たちの成すべき優先順位となるのは、言うまでもなく「信仰と心を合わせて祈る」ことです。これより先を行くものがあってはならないのです。
 しかしネヘミヤとイスラエルの民らはただ祈りだけにとどまることはありませんでした。4:3、11節、「わたしたちはわたしたちの神に祈り、昼夜彼らに対し、彼らから身を守るために警戒した。・・・城壁を築く者、もっこを担いで運ぶ者は、一方の手で作業をし、もう一方の手には投げ槍を取った。」・・・彼らは文字通り昼も夜も、片手に作業をし、片手に投げ槍を取って敵に備えるという姿勢で城壁再建に力強く臨んでいたのです。小泉町教会の群れがわたしたちの神はわたしたちのために戦ってくださる。」(14節)という信仰のもと、片手には祈りと御言葉を、片手には奉仕と霊的戦いの武器をとって進む神の喜ばれる教会を建てあげますように。ハレルヤ

2016.8.28

 8月23日リオオリンピックが無事におわりました。朝から閉会式の様子をテレビで見ていて、昨日、私の夏休みも終わりましたので、なぜかさびしくなりました。お祭が終わったわびしさでしょうか?また富山に戻って通常通りの生活をして、教会にも行ってさぼっていた祈りの生活も再開しないと〜、
 昨年の4月から富山に引っ越してきて、1年半足らず、12月に小泉町教会を訪ねて、8ヶ月です。まだまだクリスチャンにもなれず、本当の祈りの意味も知りませんが、テレビを見ながら、4年後の東京オリンピックが成功しますようにと自然に祈っていました。そして同じ歳の姑と実母が今年80歳になり、4年後は元気でいるかしら?と弱々しく言っているのを聞き、何の競技でもいいからオリンピックを見に行こう、それまでは元気で歩けるように頑張ってね、といいました。
 私も主人も息子、娘も元気で東京オリンピックが向かえられますように、その時、テロもなく、世界が平和でありますようにと祈ります。そして1964年、東京オリンピックの年に産まれた私は、2度目の東京オリンピックの時も祈り続けられるように、今より強い信仰がありますように、神様のノックがキャッチできますようにと、祈ります。
                     T.K 姉

2016.8.21

 〜 主にある安息を・・・ 〜  
“イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」…”
 今わが家は教会を離れ、神からいただいた安息の時を自然の中で過ごしています。牧師にとって一週間だけでも教会を離れて過ごすということは、なかなか慣れないことであり、病床の兄弟姉妹への思い、その他いろいろなことに引っ張られているような気がするのも事実です。しかし、イエス様が弟子たちに言われた言葉に励まされながら勇気を出して旅に出かけています。愛する主の御手が小泉町教会の群れを守り祝福してくださいますように・・・。
 本日の礼拝は、私たちの群れから遣わされた宮田祐亮神学生ご一家を迎えての礼拝です。宮田神学生ご一家にとっての富山、しかも小泉町教会は安息の場、力をいただける故郷そのものです。毎年春と夏、二度の再会ではありますが、ご一家にとってはなくてはならない元気をいただく時であるでしょう。半年間の神学校での学び、教会での働き、子育てなどで疲れた心身を癒してもらい、福岡で体験した神の導きと恵みを証しすることで、小泉町教会の神の家族も、改めてご一家のための愛と、執り成すべきことを確かめる恵みの時となりますので感謝です。
 とりわけ今年度で、宮田神学生は最終学年となり、今年中に赴任先の教会を選ぶことになります。すでに複数の教会から声がかかり話を進めている状況です。一つ嬉しいことは、宮田神学生に対する神学校や周りからよい噂が聞こえてくるということです。これこそ、宮田ご夫妻の神からの召命に対する信仰と真摯な姿勢、人柄の表れでしょう。また、神の家族の愛と執り成しの実であると信じます。願わくは、宮田ご一家への神の最善がなりますように、またご夫妻が祈りの中で御心に従うことができますように・・・。これからも愛の執り成し続けましょう。シャローム!

2016.8.21

『 繋ぎ(つな)合わさる夢 』(フィリピの信徒への手紙2:13、創世記:37:5〜9)
 皆さんは、小さいころ思い描いていた将来の夢を覚えておられますか?それはどんな夢だったでしょうか?もしかしたら子供のころになりかった職業に就き、夢を叶えたという方もおられるかもしれません。聖書にも夢の記述が多く記されていますし、夢をみる人物が数多く登場します。しかし、その中でも夢の人というと、私は真っ先に創世記ヨセフが思い当たりました。ヨセフの生涯は、まさにその夢によって大きく変えられた人生であったといえるのではないでしょうか。この37章から始まるヨセフ物語は、創世記全体の四分の一を占める物語であります。ヨセフを通して成される壮大な神のご計画の始まりは、ひとつの夢で始まります。ヨセフがまず夢を見るのです。ヨセフが、神からの夢を与えられるところから、すべてが始まります。
 本日の聖書箇所のフィリピ書には、私たちが抱く夢やビジョンというものは、神が私たちの内に働き、望ませて下さることが分かります。しかも、それを実現するための行動、行いをも神が伴って下さり、神が、実現に至らせて下さることが分かります。ここでパウロが述べていることは、新約聖書全体に共通する福音の基調であり、神の働きかけこそが、私たちが動きだすことのできる原動力であります。ヨセフに夢が与えられ、神がヨセフと共におり、祝福し、その夢の実現のために長い年月をかけて導かれたように、私たちの心に働きかけ、神様が夢と希望、ビジョンをお与えになり、それを実現するために様々な方法で、神様は導いて下さるのです。人間の内に神ご自身が働いておられるということは、恵みという領域で人が何かを望むのも、その望んだことを行うのも、いずれも神の働きによるのであるということです。その夢に対して、人間の側からもその夢に対する自由な応答、協力、努力を要求されます。
 私たちに与えられた夢は、それぞれ異なるかもしれません。しかし、夢を語り合い、分かち合い、祈り合い、そして一緒に作り上げていくとき、そうすれば、夢は神によって幸いなものへと変えられていくのです。私たちに与えられ、散らばっていたその夢が、まるでパズルのピースが一つずつ合されて、全体の絵が見えてくるように、初めは何も分からなくても、勇気をもって神様と一歩を踏み出した時、それぞれの夢が重なり、繋ぎ合わされて大きくされていくのです。
 今、みなさんはどのような夢をみているでしょうか。そして、信仰共同体である小泉町教会には、どのようなビジョン、夢、将来への希望があるでしょうか?私たちの内に働き、望ませ、行わせて下さる主に期待し、信頼し歩んでいきましょう。                                                 
                  宮田祐亮神学生

2016.8.21

〜セミの声を頼りに〜
 今年の夏は例年と比べてもとても暑いのではないでしょうか?
 僕の働いている学童保育の子どもたちも、夏休み前までは外で鬼ごっこやかけっこをしていたのに、暑くなってから外で走り回っているのを見なくなりました。代わりに暑くなるとともに増えてきた虫を捕まえるのに子どもたちは夢中になっています。夏の初め当たりではひたすらダンゴムシを捕まえ、それからバッタやコオロギ、今はトンボやセミを追いかけています。
しかし虫取りに適した場所が多いというわけでもなく、街路樹や溝にたまった落ち葉などをかき分けて探しています。
 草が生え、木も数本植えてある場所もあるのですが、殺虫剤がまかれていて見た目ほど多くいるわけではありません。子どもたちに多くの自然に触れてもらいたかったのですが、現代社会ではそれも難しくなっていることが分かり残念です。
 神様が作ってくれたこの素晴らしい自然がいつまでも残ってくれることを祈ります。
                 S.H兄

2016-08-24

2016.8.14

〜 神からの贈り物、フーシー夫妻 〜  
 本日の礼拝をもってフーシー師ご夫妻との富山での交わりは最後になります。金沢教会と
富山小泉町教会が日本バプテスト連盟が進める地域協働プロジェクトの支援を受けてもう3年が経ちました。今日まで守られ祝福された父なる神と連盟に連なる諸教会と信徒の方々の祈りに感謝します。過ぎ去った3年間のフーシーご夫妻の働きによって小泉町教会は大きな恵みを受けきました。主な働きの場所は金沢でしたが、毎週の英会話教室、月一度の英語礼拝と朝の礼拝の宣教奉仕、また特別プログラムの実施などで、一度も教会を訪ねたことのなかった若いお母さんたちと子どもたちを招くことができたのは何にも代え難い喜びでした。     
 私が韓国を離れ日本に来た時は、日本と韓国という共通する東洋文化もあり、いろんな面で慣れるのにそれほどの苦労はありませんでした。しかし西洋文化圏のアメリカから日本人伝道のために遣わされるということはまったく違った壁を乗り越えなければならなかったはずです。何より難しい言葉の壁から、一つ一つの文化の違いに戸惑いを覚えたことでしょう。それでもフーシー師ご夫妻はいつも笑顔を崩さない姿勢で、イエス様の愛をもって一人一人に接し、働きにおいてはとても丁寧に関わっていました。だからでしょう。初めて来られた方もスッと快く入って来られたと思います。フーシー師ご夫妻は神からの素晴らしい贈り物でした。感謝!!!      
 しばらく私たちはフーシー師ご夫妻と別れることになりますが、愛なる神がご夫妻に日本伝道のビジョンを与えられ、近いうちに再び日本に戻ることになります。もちろん次回に来られる時は北陸ではないでしょう。しかし日本のどこであっても福音の使者として素晴らしい働きを続けられることでしょう。これからも小泉町教会の神の家族はフーシーご夫妻のために執り成しをもって支えたいと思います。ご夫妻の歩みを祝福しつつ・・・。シャローム!

2016.8.14

『信仰によって 』 (ヘブライ人への手紙 11;1−3)                                        
 「ヘブライ人への手紙」は、神が織り成す歴史の物語を語り、読者自身が、今その物語の登場人物として生きていることを自覚させます。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(11:1)」神のみわざは、わたしたちの生きる日々の中で、世界中で現実に起こっています。信仰によってこそ、目に見えない存在―創造主なる神、聖霊からわたしたちに告げられる召し出し、キリストの平和、天地創造までもが、わたしたちにとっては、むしろ最も力強い現実であると理解できるのです。
 信仰とは何かを定義したこの箇所に続いて、聖書に登場する人物が次々と紹介されます。彼らがどのように神に従うことで、見えないものがどのように現実になったか、本人が生きているうちにそれを見ることができるとは限らなくても、その物語が語られます。わたしたちは彼らの後継者、またイエス様の救いの受取人として、今同じ物語を生きています。先の人々の物語に刺激を受け、どこへ進むのかはわからなくとも、神を信頼して導かれるままに行くのです。
 小泉町教会のみなさんと、この三年間共に過ごせたことを感謝します。2010年から派遣に向けて祈り、黙想、訓練、資金の準備をする間、わたしたち二人にとって日本での生活と宣教は、「目に見えない事柄」でした。一方、小泉町教会のみなさんにとっても、金沢キリスト教会との、この協働プロジェクトのために共に祈り、忍耐強く待ち、御声に耳を傾ける間、宣教師が誰になるか、どんな働きになるのかは目に見えない事柄でした。2013年の11月、わたしたちとみなさんはとうとう顔と顔を合わせて会い、お互いにとって見えなかった事柄が現実となり、信仰の現実を生きる日々が始まりました。わたしたち二人の物語と、小泉町教会の物語が紡ぎ合わされて、旧約から新約、さらにキリスト教会の歴史へと進み、今日へ至る大いなる神の物語の、小さな一片を形造ったのです。
 「信仰によって・・・」で始まるわたしたちの信仰の物語を、常に思い出して参りましょう。これからもわたしたちは、信仰によって生きる中で、神の物語を続けていくみなさんのために祈り、励まし続けます。      
                 カーソン&ローラ・フーシー宣教師

2016.8.14

「八月の思い出1945年」
 あれから71年が過ぎた。
日本は、神風が吹いて勝利すると信じていたらしい。 私の母は、『この戦争は勝てないよ。』と言っていたのを思い出す。
 衣・食・住不足。広島長崎への原爆日本列島戦災で、人間も生きるのが大変だった。国民学校5年の私は、いつも腹をすかせていた。焼け野原になった町、学友も残ったのは4人。学習用具もない中で終戦。
 主は私たち親子6人の命を守ってくださった。戦後、日本は、日本国憲法で二度と戦争はしないと誓う。しかし、今はキナ臭い。
 あの戦争から生かされた私は、日本の平和、世界の平和を念じて祈る。
シャローム!      
                 T.K姉

2016.8.7

〜 平和への道 〜
 一昨日から2016リオオリンピックが開会されました。17日間私たちはブラジルのリオから送られてくる映像とメダルの知らせに目と耳と心を奪われることになるでしょう。しかし、ブラジル現地の治安の悪さやジカ熱の恐怖、テロへの不安などの問題を抱えているため、オリンピックが無事行われるだろうかという、心配の声が高まっている現状です。平和の祭典であるべきオリンピックが、争いと不安を広める場となってしまってはいけないからです。
 さて、8月は平和を覚える季節です。世界唯一の被爆国として、日本の国に生きるキリストの教会とキリスト者の生きるべき道を、「平和宣言」の一部を確認することで、もう一度心がけましょう。
“「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と主イエスは、言われる。・・・主イエスによって解放され生かされた私たちは、他者を殺しその存在を否定することができない。殺しのあるところに平和はない。私たちは殺さない。軍備のあるところに平和はない。私たちは、殺すための備えを否定する。戦争に協力するところに平和はない。私たちは、殺すことにつながる体制づくりに協力しない。暴力のあるところに平和はない。私たちは、暴力の正当性を否定する。主に従う教会は、敵を愛し、迫害する者のために祈る。・・・”
  
 憲法改正という言葉が、実際の問題として迫ってきている日本社会です。とりわけ憲法9条を改正して「戦争できる国」へと進もうとする安倍首相をはじめとする政治家たち、それに油をかけるように、世界各地で起きている殺し合いや、あらゆる葛藤で満ちている世界的な流れが、日本社会をますます武力による対決へと引っ張っているような気がしてなりません。それでも、私たちキリスト者が声を上げるべきことは、十字架による和解と愛です。今こそ、世界を救う道、真の平和を実現する道は十字架の愛の福音しかないことを、声高らかに叫ぶ時です。シャローム!

2016.8.7

『 あなたは隣人ですか 』 (オバデヤ1:10〜14)
 主にある恵みと平和、十字架の慰めが、平和礼拝に集われたお一人お一人の上に豊かにありますように・・・。
 わたしたちは、近頃、相模原障害者施設で起きた殺傷事件をはじめ、地球規模で起きているテロ、アメリカの人種葛藤による殺し合いなど悲惨な事件事故が悪夢のごとく絶えなく続いている日々を過ごしています。毎朝ニュースに目を配ることに怖さを覚えるほどです。どうすればいいだろうか、キリスト者としてどのように生きるべきだろうかと頭を悩ませる私たちです。そんな私たちに向かって主イエスは「あなたは誰かの隣人ですか」と問いかけておられます。
 さて、本日の聖書本文であるオバデヤ書は旧約聖書の中で最も短い書物で、エドムという国の罪とその罪の結果としての神の裁きが記されています。エドムという国は「ヤコブエサウ」という物語に登場するエサウの子孫として、長い間葛藤関係にあった兄弟の国南ユダがバビロンによって滅びるのを遠くから眺めていました。しかし南ユダが立ち直れないようになったところで、エドム自らも異国の敵と同じく南ユダいじめに加わります。オバデヤは当時のエドムが兄弟の国南ユダに対してやってはいけなかった8つ罪を明らかにしています。,前は眺めていてはならなかった  喜んではならなかった B腓な口をきいてはならなかった(嘲笑ってはいけなかった)い錣民の門に入ってはならなかった ザ譴靴澆鯆めていてはならなかった θ爐蕕虜睚に手を伸ばしてはならなかった 逃げて行く者を殺すために、別れ道で待ち伏せしてはならなかった ╂犬残った者を引き渡してはならなかった、という8つの罪でした。特に、二回も強調されている「眺めているだけの罪、すなわち傍観の罪」に目がとまります。
 神の家族の皆さん、人がただ眺めることだけにとどまるとは、“自分とは関係ない!”と思っているからでしょう。また、“面倒なことに関わりたくない”という自己防衛の本能から出た行動であると思います。ある面、日本社会に深く浸透している「迷惑かけたくもないし、迷惑を受けたくもない」、ということと近いかもしれません。
 イエス様の例え話の中でエドムの罪に似ている傍観者の姿が、「善きサマリア人」の物語に登場します。強盗にあった人にとって、祭司とレビ人はエドムと同じ傍観者にすぎませんでした。主イエスが求められるキリスト者の姿は、苦しむ人の「真の隣人」になることです。そして苦しみに遭う人の隣人になろうとする人に求められるのは、傍観ではなく、愛から出た積極的な関わりです。“喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマ12:15)”という聖書の御言葉を心がけながら、傍観者ではなく誰かの真の隣人になることこそ、今の時代に求められる姿勢です。

2016.8.7

 今、台北YMCAホテルで原稿を書いています。今回は、YMCAをサポートする国際ボランティア団体、ワイズメンズクラブ国際協会第72回国際会議に出席するために台湾に来ています。ワイズメンズクラブ(通称ワイズ)は、1922年に 米国で誕生して以来、世界各国で数々の奉仕活動を展開してきました。イエス・キリストの教えに基づき、YMCAを支援する活動を通して、宗教の相違を越えて、相互理解を深める世界的友好団体です。活動は、クラブ単位で行われていて、日本では150クラブ2500人、世界では70ヶ国1500クラブで約3万人がボランティアや寄付集めなどの活動をすると共に、地域や国を超えて交流し友情を育んでいます。今回も世界各国から約800人が参加して、各地の情報を交流しています。         
 今、世界ではナショナリズムが台頭し、テロや難民経済格差失業等の問題への対応で、各国の国論が二分しています。先週は、日本では相模原市の障がい者施設での凄惨な事件があり、ナチスによる優生思想に基づく障がい者虐殺の歴史が連想されました。また、都知事選挙ではヘイトスピーチを繰り返している在特会という国粋主義の団体の代表が知事候補として出馬し、驚いた事に10万票を超える支持を集めました。更に、日本の侵略戦争の歴史を肯定し、軍国主義化を目指している女性議員が防衛庁長官に就任するなど、日本や世界の将来に暗い気持ちにさせられました。                
 この様な時だからこそ、私は、YMCAとワイズの交流活動を通して、国や民族•宗教を超えて人々の理解と友情の輪を広げたいと思います。  私の日本YMCA同盟総主事としての任期もあと8ヶ月を切りましたが、YMCAもワイズもイエス様の教えに倣う組織として拡大するために、残りの日々を精一杯歩みたいと思います。
                  島田 茂兄

2016-08-04

2016.7.31

〜 私たちは負けない! 〜
“そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。・・・不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。”(マタイ24:10、12)
 キリエ・エレイソン〜“主よ、憐れみたまえ”。愛の主よ、どうすればいいでしょうか。世界はますます暗闇に包まれ混沌としています。人々は世界規模で起きているテロ、葛藤、殺し合いに呑み込まれ、人々の間の愛は冷え続けている状況です。とりわけ先週相模原障害者施設で起きた殺傷事件は日本国民に大きなダメージを与えたことでしょう。「障害者は生きていても意味がない」と語った犯人の悲しい言葉は今の日本社会が抱えている問題の深刻さを克明に表しているのではないでしょうか。「弱い者を否定し、弱さを持っている人の居場所を失くしていく社会、常に強い者が中心を占め、力のある者が尊ばれる社会」は健康な社会どころか、かえって病んでいる社会であると言わざるを得ません。真の健康な社会とは強い者も弱い者も、力ある者も力ない者も、大人も幼子も、男も女も、すべての人が違いを超えてみんなが尊ばれる社会のことだからです。私たちは今回の障害者殺傷事件と世界各地で起きているテロや人種差別、ナショナリズムなどによる無差別の殺し合いには弱肉強食、自己中心と利己主義といった罪と悪、サタンの論理が同じくその根底に働いていることに気づきます。
 神の家族の皆さん、私たちの生きている世界は聖書の教え通り、“ますます不法がはびこり、人々の間には愛が冷え、自分自身を愛し、快楽と金銭を愛し、情けを知らず、和解せず、残忍になり、善を好まなくなる”でしょう。しかし私たちは負けません。動揺しません。恐れません。私たちは“愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。”(汽茱魯佑亮蟷4:18)という神の愛の力、御言葉の約束を信じるからです。ですから悪の力、サタンの試みに負けず、キリストの愛に生きることです。

2016.7.31

 『ネヘミヤに学ぶ 』〜協働の原理◆ (ネヘミヤ3:15〜27)
 ネヘミヤ3章の城壁再建の記事の中には少なくとも15以上の職業が登場します。それこそ共同体における「賜物の問題」であります。神の業はそれぞれ違った賜物や職業をもつ人々が一つとなって成し遂げることに意味があるということを教えているのです。そうです。エルサレムの民らは自分たちの職業や賜物に応じて神の御業に仕えることができました。様々な職業、様々な賜物や背景をもつ人々が、神の都エルサレム城壁を建てあげるという偉大なる業に力を合わせることはいかに素晴らしいことでしょうか。
 神は私たちをこの世に贈られた時、一人一人に固有の賜物を与えられました。神よりいただいた賜物をもって私たちは人生をひたすら走り抜き、とりわけ神の国の御業のために私たちの才能や職業をもって献身することを主は喜ばれることでしょう。いつか私たちがイエス様の前に立つ時、イエス様が私たちに必ず尋ねられるのが、「わたしがあなたに与えた賜物と職業をもって最善を尽くして生きただろうか」ということでしょう。その時、皆さんはどう答えられるでしょうか。“忠実な良い僕だ。よくやった。”とイエス様に言われるような私たちであるように・・・。
 とりわけ私たちが注意深く見るべきところは、指導者のネヘミヤが城壁再建に加わっていた人たちの名前、彼らの働きをことごとく記録し、その働きを覚えていることであると思います。恐らく人々は指導者のネヘミヤが自分たちの名前と働きを覚えてくれたことで大いに励まされたでしょう。“誰か自分の働きを覚えてくれる人がいる”ということは大きな励みとなります。私たちの小泉町教会においても、一人一人が互いの働きに感謝しつつ、一人一人の奉仕と働きを覚え励まし合うことができれば、ますます幸いな教会共同体となっていくでしょう。
そこで、ネヘミヤの目に特別に留まる一人の人がいました。20節です。 “続いて、ザバイの子バルクが第二の部分を城壁の角から大祭司エルヤシブの家の入口まで熱心に補強した。”…ネヘミヤはたった一人、バルクという人だけに使われている「熱心に」という言葉、他の箇所ではただ“誰々が、どこどこを、補強した”と記されていますが、バルクだけに「熱心に」という表現を使っているのです。“もちろんすべての人が苦労しましたが、特別にバルクという人の働きは民全体が覚えてほしい!”という願いを込めてネヘミヤは書いたことでしょう。このことがバルクにとっていかに大きな慰めとなったでしょうか。・・・神の家族の皆さん、私たちには温かい慰めと励ましの言葉が必要です。もちろん何か代価を期待してやったわけではありませんが、共同体の神の家族同士で互いに温かい励ましの言葉、一言だけであっても互いの働きを覚え励まし合うことができれば、その共同体はもっともっと強められるはずです。
 いかなることであっても黙々と奉仕する人の手をギュッと握りしめ、、“あなたは素晴らしい!”と主にある励ましの言葉を交わす共同体は幸いでしょう。・・・“どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。(フィリピ2:2)”

2016.7.31

〜たとえ、そうでなくても〜
 主の御名を賛美します。
 いつも私の仕事に関してお祈りいただき、本当にありがとうございます。
3月までは、いろいろなことが神様に守られて上手くいき、順調でした。仕事に対する自信も戻ってきて、このまま大丈夫だろうと思っていたのに、やはり、再び試練が与えられ、苦しい4ヶ月間でした。試練の渦の中にいる時は、物事に振り回され、神様の方を見ていてるつもりでもネヘミヤやヨシュアの率いるイスラエルの民のようで、つぶやいてばかりでした。『たとえ、そうでなくても』(ダニ3:18)や『恐れるな。私はあなたとともにいる。』(たくさんの箇所)という御言葉は真実だったと、嵐が過ぎ去り、渦の中心で神様を見上げる時、示されます。神様に救われて本当によかった。今回のことは、誰かに伝えるための試練だったのでしょう。それが家族なのかもしれないとジワジワと思っています。暑い夏です。先生や兄弟姉妹、そのご家族の健康、そして何より信仰が守られるように心からお祈りします。
                M.K姉

2016.7.24

〜 すべては神の御手にある 〜
 先週は26名の神の家族と共に立山青少年自然の家を利用してファミリーキャンプを行ないました。同じ施設を利用してもう8年が経ちました。毎年海の日と重なる主日からの一泊二日のキャンプでしたが、不思議なことにこの8年間、一度も雨のためキャンプファイヤーを行なえなかった時はありませんでしたし、その他のプログラムも同じく守られました。創造者なる神が小泉町教会の日々の歩みをいかに祝福しておられるかを感じる恵みの時です。今年のキャンプファイヤーの前にも霧雨がかなり強く降ってきて、何人かの方からは“キャンプファイヤーはできないのではありませんか”と心配の声もありましたが、面白いことにキャンプファイヤーを始めようとしたところで雨がやむという恵みがありました。もちろん“たまたまの偶然だ”と思われる方もいるでしょう。しかし私たちキリスト者はこれこそ神の民を愛し祝福される神の守りと恵みであることを信じるのです。
 また今わが教会は外壁補修のため塗り替え作業を行っていますが、先週の天気予報ではずっと雨マークだったため、少し心配したりもしましたが、これも不思議なことに作業中は一度も雨が降ることはなく、曇りが続き、作業をされる方々にも気持ちよく働いていただいています。すべては神の守り、神の御手の業であることを心より賛美いたします。順調にいけば7月末までにはすべての作業が終わり、綺麗な礼拝堂で新たな思いで神を礼拝することができると楽しみにしています。これからもすべてを治められ導かれる神にすべてをゆだね、信仰の歩
みを続けましょう。愛なる神が、神の家族の信仰による執り成しを豊かに祝福してくださるでしょう!シャローム!

2016.7.24

『ネヘミヤに学ぶ 』〜協働の原理 (ネヘミヤ3:1〜14)
 本日の聖書箇所では、「さあ、エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」とのネヘミヤの呼びかけに応え、「早速、建築に取りかかろう」といって「この良い企てに奮い立った」イスラエルの民の再建工事がいよいよ始まっていきます。
 特に本日の箇所では、城壁再建工事が北にある「羊の門」から始まって、3節の「魚の門」、6節の「古い門」、13節の「谷の門」、14節の「糞の門」、15節の「泉の門」、26節の「水の門」、28節の「馬の門」、29節の「東の門」、そして31節の「ミフカドの門」まで、西側の城壁、南側の城壁、そして東側の城壁とぐるっと回って進んでいく様子が記されています。そしてそこでは次々にいろいろな職業、立場の人々が工事に参加していることが分かります。ある面、同じような工事の経過が繰り返し記されていることで、少しつまらない印象も受けてしまうことでしょう。しかし、ネヘミヤがここまで事細かく書き残そうとしていた目的と神の御心を探すことで、単なる工事の記事の記述で終わらない恵みをいただきたいと思うのです。ネヘミヤはエルサレム城壁を再建することをただ単純に崩れてしまっていた城壁を建て直すという理解でとどまったわけではなく、これらすべてが「「神が成功させてくださる業であって、神の御心に適った出来事」であるという認識のもとで行っていたのを忘れないことです。
 この城壁再建工事に携わったとして少なくとも15以上の職業に関わる75名以上の人が登場します。1節の大祭司エルヤシブから出発して、ある人々は家族や親族を挙げて、ある人々は同じ地区に住む住民同士を挙げて、またある人々は様々な職人や職種を挙げて、この工事にみんなが取り組んでいたことを記しているのです。すなわち能力のある一部の人だけの業でなく、エルサレムに住んでいた民らがそれぞれ立つべき場所に立ち、全ての人が進んでやるべきことを行ない、共同体全体の調和を成すことで城壁再建が行われたことを証ししているのです。大人も子どもも、男も女も、専門家も素人も、みんなが協働して成し遂げられた業であったことをネヘミヤは事細かに記しているのです。ちなみにネヘミヤ本人の名前は一度も言及されないということも興味深いことでしょう。
 とりわけ本文の中で最も多く登場する言葉が「その傍らでは」という言葉です。この言葉は城壁再建の仕事の順序を表すのではなく、それぞれが、自分が立つべき場所に立って補強作業に当たっていたことを意味します。すなわちエルサレムの民みんながそれぞれ秩序を保ちつつ、互いが協働し、補い合う中でこの偉大なる神の業を成し遂げることができたわけです。私たちの神が望まれることは、いつも共同体が一つとなって喜びをもって行なう協働にあることを心掛けましょう。ハレルヤ
“何を話すにせよ、行なうにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい”(コロサイ3:17)

2016.7.24

〜コンサートの夏、
   ポスティングの夏〜

 今年のチャペルコンサートも素晴らしかったですね!時間さえあればもっとたくさんポスティングしたかった...などと言う私の2年前を知る神の家族はニッコリされることでしょう。そうです、2年前は路傍伝道でも電柱と同化していた私、よそさまの戸口に立つのを「トレスパス(無断立ち入り)」と感じていた私でした。しかし、とりわけチャペルコンサートのチラシ配りの季節、毎日のように「伝道しなさいヨ」と言われるんです。誰にってみことばにです。日々のディボーションで必ず、「外に出て行って伝えなさい」という御趣旨のみことばが目に入ります。たまりません。そこで去年は讃美歌を歌い背中に看板背負って戸口から戸口へ、チラシを挟み込みながら「コンサートのお知らせデェス」と呼ばわりました。怪しい者でないことを示すためと思い(怪しい)...。それをある姉妹が、「清水さんの『弱さ』をそういうもので補って、活動しているのね」と言ってくれたとき、「何かを共有してもらえた」気がしたと同時に「これはもっと自然にできるようになるまでの前段なんだな」と思いました。今はというと、大きな家の門などくぐるときにやや目は泳ぎますが、だいぶ普通にできるようになりました。たのしいチャレンジです。
                S.M姉