Hatena::ブログ(Diary)

富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

●主日(日曜日)礼拝 午前10時半から
●水曜祈祷会 午後7時半から
●金曜ディボーション(黙想の時) 午前9時半から
●英語礼拝 第2日曜日
(コーヒータイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から)

●聖書の学び 毎週火曜日
●ハングル教室 毎週木曜日
(コーヒータイム:午後7時から 講義と練習:午後7時半から)

教会写真集はブログ「小さな泉の写真集」へ。
English Worship Service(英語のホームページ)、 富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

〒939-8082 富山県富山市堀川小泉町681

電話 076-491-2273

2017-02-04

2017.2.5

〜 神の沈黙を思う 〜
先日、息子と一緒に「沈黙」という映画を見ました。遠藤周作の小説「沈黙」をもとにして作られた映画でした。
 日本のキリシタン(切支丹)時代の厳しい迫害の中、“神は苦しむ神の子どもたちの叫びになぜ沈黙しているのだろうか”と問いかけ続ける。そして厳しい迫害と身の苦しみの中で棄教していくポルトガルの神父たちと日本のキリシタンの姿に心痛むひと時でした。大変重苦しい気分に包まれながら映画館を後にしました。キリスト教信仰のゆえに命の危機に迫られる人々、苦しみの前に立たされている「人間の弱さ」が浮き彫りとなり、西洋の宗教に対する日本文化の複雑さ独特さのゆえに根づかないキリスト教宣教の限界が伝わってくる。・・・「私にはだから、布教の意味はなくなっていった。携えてきた苗はこの日本とよぶ沼地でいつの間にか根も腐っていった。…我々はこの沼地にキリスト教という苗を植えてしまった」というフェレイラ神父の空しい言葉に、今現在の日本宣教の厳しさを裏付けるような気もしました。しかし、それでいいのか。何かが抜けている・・・。そう、この映画には迫害に際しての人間の弱さと日本文化の厳しさなどは強調されてはいるものの、聖書の教える希望がない。弱さの中で働く神の強さも、復活の命も、宣教における聖霊の働きもない、また、神の国の約束も見出せない。聖書は決して信仰することで迫害や苦難が無くなるとは教えません。むしろ、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」ことを断言していますし、これこそキリスト教信仰における神秘なのです。
 11日(土)の「信教の自由を守る日」を迎え、昔信仰のゆえに迫害に遭われた信仰の先人たちのことを偲びつつ、もう一度心に刻むべき言葉、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:35)・・・シャローム!

2017.2.5

『 御言葉を食べる 』 〜荒野の食卓〜(申命記8:1〜5)
 2017年の最初の一カ月が、もう過ぎていきました。皆さんにとって1月はいかがだったでしょうか。充実した1ヶ月だったでしょうか。もう自分自身に失望している方はいませんか。しかし、イエス様が私たちに語られるメッセージは、過去のことに捕らわれて自分を苦しめることを捨て、明日のことを心配して小さくならず、何よりも今日というあなたが生きている時間を感謝し、あなたと共に歩まれるイエス様の励ましと力をいただきながら、今の時に最善を尽くすこと、そんな中でイエス様はあなたを助け、あなたに必要とされる道を示され、導かれることでしょう。
 そこで私は、神の家族と共にもう一度御言葉の黙想の大切さを、その中でも最近新しく私たちの群れに加わっている方々のためにも、御言葉との日々の交わりと、御言葉をいただくことの素晴らしさを分かち合いたいと思い、「御言葉を食べる」〜荒野の食卓〜という題で、恵みをいただきたいと願うのです。
 昔エジプトを脱出したイスラエルの民は、神の導きのもと、40年間に及ぶ荒野の旅を続けました。神の約束の地、乳と蜜の溢れるカナンに入るためには、神の民にふさわしい訓練が求められていたからです。そこで神は、荒野の40年間を通して、すべてを神にゆだね従う、聖なる神の民を作るための訓練を与えられたのです。
 荒野という食べ物も、飲み物も得られない状況において、数十万から百万を超えるイスラエルの民を、神は40年間守られ満たしてくださった。時に適って岩から泉を、天からマナとウズラをくださった。また、昼には雲の柱で、夜には火の柱で行くべき道へと導かれた。神は、荒野という人が住めない場所で神の民イスラエルを養い、訓練し、ご自身を知らせてくださった。そして約束の地カナンにふさわしい信仰の民、神に喜ばれる民に造り変えられたわけです。
 荒野のような私たちの人生です。常に食べ物に、権力に、名誉と快楽に試みられ、苦しめられる人生の荒野で、神は私たちを生かし、日々これらの試みに打ち勝てる知恵と恵みを賜る。そして神は荒野を生き抜くためのヒントを、御言葉をもって示してくださいました。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)・・・そうです。主の口から出る一つ一つの言葉で生きることを知らせるために、神は荒野の旅を備えられたと、御言葉は教えているのです。
 あなたは、毎日肉体を満たすパンだけでなく、父なる神の口から出る一つ一つの言葉を食べていますか。あまりの忙しさと、混乱した生活のゆえに御言葉を食べることを避け続け、あなたの魂は痩せてしまい、この世の悪しき力、サタンによる試みに、対抗することすらできなくなってはいませんか。
 イエス様が40日間の荒野での悪霊による試みに打ち勝った唯一の道こそ、毎日御言葉を食べることでした。 イエス様は毎朝早くまだ暗いうちに、人里離れた荒野へ行かれ、そこに備えられた魂の食卓で父なる神との楽しい交わりの時を過ごされたことを覚えましょう。毎日、あなたの荒野においても恵みの食卓がもうけられますように・・・。ハレルヤ

2017.2.5

「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」(テモテの手紙二 1章9節)
 これは先日ディボーションの中で与えられたみ言葉です。このみ言葉を読み、改めて神さまに救われたこと、そして今の歩みについて考えました。神さまが私を救ってくださり、信仰を与えてくださったことは恵みでありご計画です。私自身が神さまを選んだわけではなく、神さまの大いなる愛によって私を救いに導いてくださいました。今までの歩みも、神さまのご計画であります。喜びも苦しみも全て、神さまからの恵みによるものでした。このような弱い私を、愛してくださり守ってくださるお方です。このみ言葉によってとても励まされました。いよいよ神学寮での生活も残り2ヶ月となりました。寮では3年間を過ごしましたが、全て神さまが守ってくだり、導いてくださったことを感謝いたします。そしてこれから始まる新しい歩みも、神さまのご計画を信じて心から感謝して歩んでまいりたいと思います。そして、どんな時にも神さまを見上げ絶えず祈りをささげていきたいと思います。小泉町教会の皆さまのお祈りに感謝いたします。私たちも、いつも皆さまのことをお祈りしています。                               M.Y姉      

2017.1.29

   〜地上の国ではなく、神の国を求めよう〜
 アメリカ大統領にトランプが就任しました。そして就任演説で掲げたのが、「アメリカ第一主義」。ひたすら「アメリカのため、アメリカ優先、アメリカの繁栄のため、・・・」を訴えていたトランプ大統領は、就任式を終えるや否や、世界中の人々がまさかと思っていたことを、次々と実行し始めています。
 彼を支配しているのは「ビジネスマインド」で、早速オバマケアの見直し、メキシコとの境界に壁を建設することに署名しました。今までのアメリカの姿とはあまりにもかけ離れていることで、世界中の人々が憂いに満ちた目で見つめている現在です。恐らく、トランプ大統領の目には弱い人、貧しい国、苦しむ隣人、差別されているグループの姿は見えませんし、見ようともしていないでしょう。すでに、日本、韓国など経済的、軍事的に深い関係を結んできた国々は、アメリカの横暴におびえ、何とかしてでもアメリカの機嫌を損なわせないために必死です。これらの傾向は今しばらく続きそうですが、これでよいのでしょうか。
 早速アメリカでは、女性を中心とする100万人を超える反トランプデモが連日全米で起きていますし、世界へと広がりつつあります。弱い人、気に食わない人や国々を力でねじ伏せて従わせようとする今の姿は、しばらくは成功しているように見えるかもしれませんが、またしばらくすれば世界に大きな被害をもたらすことになるでしょう。
 今こそ祈るべき時、アメリカのキリスト者と教会が十字架の愛の福音に立ち帰るように、また、地上における欲望に満ちた国でなく、神の愛と平和が実現する神の国を求めることを優先できるように、神は傲慢な国を滅ぼし、小さな群れを通して神の国を建てられるお方であることを、世界のキリスト者と教会が知るように・・・。
“人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。(汽撻肇1:24)”

2017.1.29

『 不完全の恵み 』 (IIコリント12:9)
 聖書に登場する人物に完全なものは一人もいない。皆、欠陥がある。誰一人完璧なものがいない。皆、弱さを身に負っている。最初の人アダムも、その妻エバもスタートから罪を犯した。信仰の父と呼ばれるアブラハムも、その妻サラもまた、罪深いものであった。さらに、最初の王サウル、正式なイスラエル王国の初代の王ダビデ、栄華を極めたソロモンもまた罪深い人間であった。執拗にダビデの命を狙うサウル王、自分の部下の妻を奪い取って姦淫の罪を犯したダビデ王、異教の神を拝み、王国を分裂させてしまったソロモン王など、名君もまた立派な罪人であった。主イエス様の弟子たちもまたイエスを裏切った者たちであった。聖書に登場する人物は、皆、罪人である。言い換えれば完全な人間はどこにもいないのである。弱さに満ちた罪人、これが私たちである。
神は人間の創造に失敗したのか?決してそうではない。深い神のお考えがあるのだ。人間の創造を終えて、神は、「極めてよかった」と言っているので、失敗したということはありえないのです。詩篇8篇6節では、「神にわずかに劣るものとして人間を造り」と言われている。また、詩篇103篇では、「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」、という。
神は、人間を地の塵で作った。無きに等しいものが人間の本質である。そしてはかないものである。それでも、神にわずかに劣るものとして作られたという。人間は最初から欠けがある。完全でない。それが神の御心だ。神によってその欠けを補って、埋めていただかなければならい。言い換えれば、私たちの欠けは神によって埋められるもの、神の恵みが宿る場所となる。私たち人間は、その初めから神と共に生きるものとして造られている。それは、神から離れては私たちは生きられないのだということでもある。
その欠けは、神以外には埋めることができない。そして、私たちは、常にこの欠け、すなわち不完全さを補ってくれる方を必要としている。慰めたり、励ましたり、一緒に泣いてくれる仲間が必要なのだ。批判してくれる仲間も。私たちはひとりでは生きられない。個人においても、教会という集団においても。弱いこと、足りないこと、欠けがあることは恵みである。神がその穴を埋めてくださるからである。今日から協力伝道週間。互いに欠けを補い合う群れがバプテストだ。全国324の教会・伝道所を覚えて祈ろう。
                  田口昭典牧師

2017.1.29

〜善き力にわれ囲まれ〜
 「みことばの力を信じてとにかく聖書を開きなさい。たとえ見た瞬間寝入ってしまったとしても、目覚めたときにはみことばの力をいただいているのです」
 ある日、このような宣教を聞く機会に恵まれ、「なるほど」と思いました。私は家でPCに向かって執筆の仕事をしています。そこで、聖書朗読の音声を流しながら仕事をしてみようと思い立ちました。しかし、最初のうちは気が散ってしまいました。
「こりゃどっちにも逆効果だな」ともっともらく考えたとき、突如「その声は貴様、サタンだなァーッ!立ち去れッ!」と言う思いが起こされました「サタンは本当にいて、もっともらしくささやいてくる。それと戦わなければならない」といつも学んでいることをこのとき実感しました。
 今の仕事はどれも、自分では何もしないのに神様がくださる、ということを私は知っています。ならば、仕事の効率が落ちたとしても「これでいいのだ」とやや議論超越気味に信じて続けたところ、3日もしないうちに効果が...朗読がぜんっぜん素通りで仕事に集中できるようになりました...それでいいのか?きっといいんです。自分で気づかなくてもみことばの善き力に囲まれているからです。 
                  S.M姉

2017.1.22

〜 分かち合いの恵み 〜
金曜日のディボーションタイムが毎週毎に感動に包まれています。とりわけ最近は新来者3人の姉妹方が共に集う中、御言葉を黙想し、それぞれいただいた恵みと質問を分かち合う嬉しい時となっています。
 先週は参加者のうち2人の姉妹が各自が体験した出来事を証ししてくれました。実は二人の姉妹ともに昨年の暮れに交通事故に遭い、いまだ体の痛みと違和感を覚えている状況です。しかし、痛みの中にあって、体験した神の臨在と慰めにより、二人の姉妹は今まで味わったことのない恵みに包まれていることを語ってくれました。そのうちの一人は求道者で、礼拝や諸集会に集えるようになったのはそれほど経っていませんが、イエス様を証しの中心におきながら話してくれました。
 今年の歩みももう一か月が経とうとしています。すでに目の前の忙しさに覆われて慌ただしく過ごしてはいませんか。ぜひ、水曜祈祷会とディボーションの分かち合いの場に集い、恵みを分かち合いましょう。「私は、あまりにも忙しいので、どうしても 3時間は祈らなければならない」と語ったマルティン・ルターのようにはなれなくても、忙しさの中で、神の前に静まる時が持てますように・・・。私たちが静まる時を大切に過ごすことで、“忙しいから祈れないのではなく、祈らないから忙しいんだ!”ということに気づくことになるでしょう。その中でも、神が一つの体として、また家族として結び合わせてくださった兄弟姉妹との分かち合いを通じて大きな慰めとチャレンジを受けることになるでしょう。シャローム!
 “私たちの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(フィリピ1:6)”

2017.1.22

『 あなたの証しは 』 (競謄皀藤粥В隠掘腺隠検
 クリスチャンは証しをする者です。何を証しするかというと神様について、そしてその神がどのように自分を導き、助け、救い出してくださったのかを証しする者です。この世の人は出来るだけ「自分自身のこと」をPRすることに熱心ですが、クリスチャンはただただ天地万物を造られた創造者なる神、そして私を命まで捨てて愛し十字架の上で救い出してくださったイエス様、そしてお墓より復活して私に永遠の命の道を示してくださり、今も共に歩んでおられる復活の主をほめたたえ、周りの人たちに証しするのです。その証しが具体的な形として現れたのが「伝道」なのです。
 聖書の中に伝道者として、先頭に立って私たちにチャレンジしている人が「使徒パウロ」です。今日私は証し礼拝ということもあって、使徒パウロの伝道者としての姿、そして彼の中心的な証しの内容を分かち合う中で、私たちの持つべき証しの内容を確かめる時を過ごしたいと願います。
 パウロはもともとクリスチャンたちを迫害していた熱心なユダヤ教徒でした。しかし、パウロはタマスコスの道端で復活した主イエスに出会い、人生の生き方に革命的な変化を経験することになります。その後から、彼は復活の主イエスより「異邦人の伝道者」としての召命を受け、福音のために世界を巡りながら生涯を献げる者となります。その伝道者としての歩みは老年になっても、いや天に召される最後の瞬間まで止まることはありませんでした。
 彼の伝道者としての原動力となったのは、主イエスに出会った時の感動、その恵みにひたすら生きることでした。彼は一生の間、この感動と恵みから離れたことはありませんでした。今日の御言葉にその姿がよく示されています。・・・「しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。 」(競謄皀藤粥17〜18)
 とりわけパウロの証しにおいて私たちに慰めとなってくれる言葉が、「自分の弱さを誇りましょう。わたしは弱いときにこそ強いからです。」と言えましょう。彼がイエス様によって異邦人の伝道者とされてから被った、ありとあらゆる苦難や死の危険、病気などのゆえに、彼の体には「イエスの焼き印」と見られるものがたくさん刻まれていて、それらによる苦しみも絶えませんでした。しかし、パウロはそれらの苦難や苦しみ、痛みに挫けません。むしろ自らが味わっている弱さを通して働かれるイエス・キリストの恵みがパウロを強めていたのです。愛する神の家族の皆さん、今年の私たちの歩みが「証しの日常化」を通して神に栄光を帰する日々となりますように。主に栄光を!

2017.1.22

〜新しい年の幕開け〜
 2017年1月1日の11時、富山空港に着いた時の天気は快晴。温かい国から寒い富山に帰って子供たちの体調は大丈夫かなという心配は無用でした。インドネシアで家族と楽しい時を過ごし、こんないい天気に出迎えられ2017年は良い年になるなという根拠のない思いでいっぱいになりました。2016年を振り返るとポジティブな私にしては珍しく辛い事ばかりを思い出します。人事異動後からずっとよくしてくれていた先輩、入社時からずっと支えあってきた友人が次々と心の病に倒れ、なにがなんだか訳のわからない気持ちでいました。心から信頼し、家族の様に大切に思っていた2人だけに何故か私の心も暗くなり他の仲間に心配される日々。あぁ辛かった!幸いなことに今は2人とも落ち着き、一緒に楽しく仕事が出来ています。神様ありがとう!大人になってからは入学、卒業という区切りこそはないものの、結婚、出産、子供の成長や自分自身の職場での役割などが目まぐるしく変化しています。その変化を存分に感じで楽しむとこが今年の目標かな。こんな風に思えるのも思っている事、辛い事をすぐに結果が出なくても素直に吐き出し合う事が出来た友人たちのおかげです。そして、互いに愛し合い接することを後押ししてくれた神様のおかげ!ありがとう。今年もよろしくお願いします。
               I.A姉

2017.1.15

 〜 不確かさを生きるキリスト者へ 〜
 今年ほど明日のことを予測することの難しい時はなかったと思います。その中でも、アメリカの新しい大統領ドナルド・トランプが選ばれたことで、彼のもっているナショナリズムや差別的な考え方がもたらすであろう世界規模の政治・経済・軍事などの変化に対する世界中の不安は大変なものでしょう。その他にも欧州の相次ぐ選挙難民問題、領土問題、また、ISなどの過激派組織による相次ぐテロへの悩みなど。それに加え、温暖化による自然災害と地震は今年も多くの被害を及ぼすことになるでしょう。
 また、私たちの住んでいる日本の方はどのように変わっていくでしょうか。日本の政治は?経済は?地域は、・・・。心の中に何とも言えない不安が広がっている人々の姿です。
“明日のことは明日自らが思い悩む”と教えられたイエス様の言葉を大切に覚えてはいるけれど、今の世界の不確かさのゆえに揺れ動いてしまう私たちかもしれません。その時、心に響く老使徒パウロの言葉に耳を傾けたい。・・・“しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、…高慢になり、神をあざけり、…神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。(競謄皀3:1-5)
 願わくは、今年も「マラナ・タ」と、主の来られるのを待ち望みつつ、自己愛でなく、神と隣人への愛を燃やしていただきましょう。不確かさを生き抜くキリスト者の生き方こそ、愛に立ち、十字架の愛を貫くことです。シャローム!

2017.1.15

『 失われた者を捜し求める旅 』マタイによる福音書18:10〜14)
 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(18:10)
 ここで「小さな者」とは、共同体における最も小さな者、社会的弱者のことを表す言葉です。そして、イエス様の目がその小さな者に向けられているということを教えているのです。そうです。神様の造られた人の中に、価値のない人、人々から軽んじられ、無視されても良い人は一人もいません。皆が神の似姿で造られた尊い存在であり、皆が神の独り子が十字架の上で命を捨ててまで救おうとされた、愛してやまない存在なのです。とりわけ小さな者が神に愛されるべき者であるということを強調しているのです。
 しかし、今の世界は、自己中心、ナショナリズム、弱肉強食の世界。そんな中、弱い者は無視され、差別され、捨てられ、殺されてしまう。そして小さな者の悲しい涙は乾くことがない現実であると言えましょう。
 そこでイエス様は、小さな者を軽んじてはならないことを「一匹の迷い出た羊を捜し求める羊飼い」のたとえ話をもって教えておられます。“ある人が持っていた100匹の羊のうちの一匹の羊が迷い出てしまった。そこで、羊飼いは九十九匹を山に残して、一匹の羊を捜しに出ていくというのです。”・・・このたとえは常識から言えば、なかなか理解できない内容です。もし羊飼いが一匹を捜すために出ている間、残っている九十九匹の羊たちが散らばってしまったら、それは大変なことになるからです。しかし、このたとえが語ろうとすることは、「一匹の迷い出た羊」に焦点を合わせているということです。すなわち、この話を聞いていた教会共同体が、「一匹の迷い出た羊」のような小さな者のために、どのような態度を取るべきなのかということを強調しようとされたのです。
「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(18:14)
 そうです。天の父の御心こそ、小さな者一人が滅びないこと、一人の迷い出た羊が、神の愛の懐に立ち帰ってくることです。クリスチャンは神の御心を同じく抱くことを心がけなければなりません。神の御心の痛みを、自分自身の痛みのように感じる時、私たちはやがて神の人と呼ばれるようになるでしょう。神は、迷い出た羊を悲しみと痛みに満ちて見ておられるのに、神を信じる私たちが何も感じないとするのであれば、私たちは神との正しい関係を結んでいるとは言えないでしょう。
 失われた一人を捜し求めるために、天の栄光を捨てこの地上に来られ、やがては十字架の上でご自分の命を捨てるまでの愛の旅を続けられた神の独り子イエス様のことを覚えます。願わくは、今年2017年、神の家族お一人お一人が、一匹の迷い出た羊を捜し求める天の父の「憐れみの」御心を抱きつつ、イエス様の手と足となって失われた一人の魂を捜し求める旅に出かけていき、天の父と喜びを共にできる一年でありますように・・・。ハレルヤ

2017.1.15

イスラエル聖地旅行に思いを寄せて〜
 私は教会での楽しい聖書の学びに参加して約3年で次第に聖書理解が深まって来ました。理解が深まるにつれ現地へ行って見たいという気持ちが高まって来て2年前にもイスラエルに行ったのですが今般仲間に誘われて再び2月に「聖書の背景を知る研修旅行」に参加することを決断しました。団長も現地ガイドも前回と同じ方なので私は少し気持ちが楽に行けますが海外特にイスラエルに行く事は、気力も体力も必要なので今年3月に75歳になる私はラストチャンスと思い決断した次第です。前回はエルサレムより北の方、死海のクムラン、カイザリヤ、ガリラヤ湖周辺、ナザレ、ピリポカイザリヤ、エルサレム旧市街などのイエスさまの伝道された足跡をたどる旅が中心でしたが、今回はエルサレムより南の方のエイラットまでの旅で旧約聖書アブラハム、モーセ、ダビデの世界に目を向けています。主に行くところはダビデがゴリアテと戦ったエラの谷、アブラハム時代の井戸の残るテルベエルシェバ、イスラエルの民が放浪したネゲブ砂漠を通り荒野の絶景、世界最大級のクレータのあるミツペラモンへ、その後シバの女王も上陸したイスラエルの最南端のエイラットへ、エイラットの海は透明度世界一を誇ると言われており是非見て来たい。その他にはダビデの町のギボンの泉、ヒゼキヤの水道、シロアムの池があります。この旅を通して自分なりにまた新しい発見や感動を持ち帰れたら幸いと思っています。   
                I.H兄

2017-01-12

2017.1.8

〜 酉年に思うこと 〜
 2017年に入って2週目です。今年は“酉年”で、十二支の10番目に来る動物として酉(とり)、とりわけ覚えやすくするために“鶏”が当てられているそうです。
 昔から鶏は目覚まし時計の代わりに、日の出を知らせる役割を果たしていましたし、毎日卵を産んでくれるありがたい動物です。わたしが小学校6年生の時から100羽ほどの鶏を飼っていて、毎日ペット代わりに鶏たちと遊んでいたことは思い出の中、最も楽しいものでした。
 聖書に登場する有名な鶏の物語は言うまでもなく、鶏が鳴く前にペトロが3度イエス様を知らないと否認するという話です。その時の鶏の鳴き声はペトロの人生において、絶えずチャレンジし、彼の信仰を立ち直らせる役割を果たしていたことでしょう。マルコ13:35では、 “だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。”と記されている通り、イエス・キリストの再臨を表す道具として大切に用いられていたことが記されています。
 今年の小さな泉の群れに求められる働きが鶏のような働きではないかと思いますが、いかがでしょうか。周りの人々に暗闇の終わりを告げ、希望の朝がもうすぐくることを知らせる働きを、そして人々の失われていたイエス様との約束と信仰の感動を呼び起こす働きを、また、産みの苦しみを通して救われる民を誕生させる祝福の働きを始める私と神の家族お一人お一人でありますように・・・。私たちを通して御業を成してくださる主を賛美しましょう。シャローム!

2017.1.8

わたしはあなたを喜ぶ 』 (マルコによる福音書1:9〜15)
 新しい一年をプレゼントとしてくださった主の恵みが神の家族お一人お一人の上に豊かにありますように。
 先週わたし出エジプト記の言葉と荒野を旅する神の民が味わった出来事を通して、荒野こそ神の導きと神の恵みを体験できる訓練の場所であることを分かち合いました。
 そして今日の御言葉には、イエス様がヨハネよりバプテスマを受けられた後、聖霊によって荒野に送り出されたことが記されています。「あなたは私の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(11節,新改訳)という神の声が聞かされてすぐ、荒野に送り出される。その急な切り替えに戸惑いながらも、イエス様への父なる神の御心を感じ取ることができます。
 聖書が教える荒野はサタンによる誘惑を受ける場所であり、神との交わりの場所、恵みを受ける場所でした。イエス様は荒野で40日間、サタンから誘惑を受けられました。それでは、イエス様へのサタンの誘惑はこの40日間で終わったでしょうか。いいえ、サタンの誘惑と攻撃はイエス様の全生涯を通して絶えず続けられていたことを聖書は教えています。ですからイエス様にとっての荒野は、これから始まるサタンやこの世の秩序、人々の欲望との戦いのための前哨戦であったと言えましょう。まさに、イエス様の生涯そのものが荒野であったと言っても過言ではありません。
 聖書は繰り返し私たちの人生を荒野にたとえています。この人生の荒野において、私たちはサタンによって誘惑を受け、この世の野獣とされる経済的攻撃、人間関係からの攻撃、欲望からの攻撃など様々な誘惑と戦いに立たされることになるでしょう。しかし、私たちが恐れることがない理由、それはイエス様が私たちより先に荒野の誘惑の道を歩まれ、その戦いに勝利されたということでしょう。それから、ここで興味深い表現に注目したいのですが、荒野のイエス様は、サタンと野獣に囲まれてはいたけれども、それだけでなく、「天使たちが仕えていた。」(13節)ということです。
この言葉は、私たちにとって大きな慰めとなります。荒野はサタンと野獣が満ちている場所でもありますが、同時に、聖霊と天使たちの助けと支えを受けるところでもあるということです
“時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。”(15)
 イエス様にとって神の国は、遠いところにある未来的実体ではありません。今、私たちの目の前に来ている現実です。それでは、神の国に入れる人は誰でしょうか?・・・神の国に入れる条件はただ一つ、悔い改めて福音を信じる者です。「悔い改め」ということは、神に背を向けて生きていた人生から抜け出し、神に向かって方向転換をして生きることです。すなわち、神に喜ばれる人生を生きることです。それでは、「神に喜ばれる」とはどういうことでしょうか。それこそ、御心に適った生き方を選び、実践して生きるということでしょう。
 この一年、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という父なる神の御声を聞きながら、神に喜ばれる働き人として、神の国にふさわしい歩みを続ける神の家族お一人お一人でありますように・・・。ハレルヤ

2017.1.8

〜バプテスマ信仰告白〜
 私がイエス・キリストに出会ったことは、偶然ではなく必然だったと思います。なぜならば今、私はYMCAにつながり、そして素晴らしいクリスマスのときにバプテスマを受けることができたからです。
 YMCAと出会ったのは、教員を目指していた大学2年生のとき、子どもと関わることのできる機会を求めていた私に友達が声をかけてくれたのがきっかけでした。その中でイエス・キリストに出会えたことは私の人生において大きなターニングポイントとなりました。私にとってイエス・キリストの愛と奉仕に学びながらYMCAで働くことができるのは、この上ない恵みです。
 そして閔先生と小泉町教会のみなさまに出会えたことも大きな恵みです。2015年11月、富山YMCAの集いで閔先生とイエス・キリストの十字架の意味について学ぶ中で、イエス様が愛する私のために十字架の上で罪を購ってくださったこと、神様が私たちにイエス様という大きな愛のプレゼントをくださったことを知りました。「暗闇の中の隣人に希望の光を照らしつつ、敵さえも愛しなさいと命じられたイエス・キリストの証人として生きること」がわたしの生きる道になるかも知れないと思い、神様、イエス様を知るために教会に通うようになりました。
 大学を卒業し、環境が変化し、人からの評価を気にする自分の弱さを経験して、私が罪深い者であると知りました。そして、イエス様が罪深い私を十字架の上で血を流し死んでくださったことによって救われたことを信じるようになりました。弱いからこそイエス様は伴走者として私を絶えず勇気づけてくださいます。イエス様は私のために死から復活し永遠の命を与えてくださいました。新たに生まれ変わり、自分を愛し、人を愛し、神を愛し生きて行きます。
                M.Y姉

2017.1.1

〜 イエス様の軛を負いつつ 〜
 2016年の歩みも昨日で終わりました。52回に亘った主日礼拝が毎週毎に注がれる聖霊の恵みに満たされ、神の家族お一人お一人の信仰と心の一致によって神の体なる教会はしっかりと建てられてきたことを感謝します。
 昨年の終わり頃、聖句板を新しく塗り直してからでしょうか。神は次々と疲れていた人、重荷を負っていた人、病んでいる人など、弱さを覚えている人をわが群れに送ってくださいました。その一人一人との出会いの中で、これらの出会いは偶然な出来事ではなく、わが群れに求めておられる御心があることを感じました。それこそ、“疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる”という御言葉の成就でした。
 疲れた人が、重荷を負っている人が、病んでいる人が、私たちの小さな泉で安息と癒しと励ましを得、イエス・キリストとの交わりの中で変えられる望みを抱きつつ、信仰の旅を始める2017年になりますように。何より神の家族お一人お一人がイエス様からの軛を負うことの恵みと祝福に与ることからでしょう。あなたの疲れ、あなたの負っている重荷をイエス様の前に降ろし、それらに替えてイエス・キリストからの軛をいただくことです。その軛とはイエス・キリストの十字架による癒しと安息、自由、平和、正義、愛の軛です。しかもその軛はあなただけが負う軛ではなく、イエス様と共に、イエス様に学び、イエス様に助けられながら負える軛であることを忘れないことです。
 今あなたが負っているものが何であるか確かめてみましょう。イエス様の軛でしょうか。未だあなたを苦しめてきた疲れや重荷を負ってはいませんか。イエス様の軛を負う幸いを生きる2017年の歩みであるように…。シャローム!

2017.1.1

『 マラからエリムへの旅 』出エジプト15:22〜27)
 新年明けましておめでとうございます!!!
 2016年の一年の歩みを恵みのうちに終えることができ、また新しい一年を始める恵みを心から賛美いたします。今年の愛する神の家族お一人お一人の歩みが守られ、時に適った神の導きと祝福で満たされますように・・・。
 今日私たちは荒野を旅するイスラエルが体験した「マラとエリムの恵み」について考えてみたいと思います。
 エジプトを出たイスラエルの民にとって、荒野の経験は初めてでした。海が真っ二つに分かれ、海の道を歩いてエジプトを脱出するという驚くべき奇跡を体験したイスラエルの民は、その後三日間シュルの荒野を歩くことになります。彼らの歩みはこれからのことへの期待と楽しみで満ちていたことでしょう。しかし、彼らの期待と楽しみはたったの三日間という短い時間で崩れてしまいます。その崩れの原因となったのが「水」の問題でした。水とは人間の生存の問題です。イスラエルの民は水を探して三日間の旅を続け、やっと「マラ」という場所に到着しますし、聖書はマラの水は苦くて飲むことができなかったと記します。マラの水を前にした民はモーセに向かって、「何を飲んだらよいのか」と不平を言い恨み始めます。今までの神の大いなる御業は忘れてしまい、目の前にある試練に心が奪われて不平とつぶやきを言ってしまう、不信仰の民の姿が描かれています。私たちが歩む今年の荒野の旅において、マラのような苦しみと試練があります。苦い人生の経験があり、苦い事件があり、水があるのに飲めないように、仕事がうまくいっているように見えるのに、うまくいかない時もあります。
 その時、神の人モーセはイスラエルの民の方ではなく、神に向かって叫び祈ります。神はモーセの祈りに応えられ、一本の木を示され、その木を水に投げ込むと、水は甘く変えられる。マラの苦い水を甘い水に変える唯一の方法は、神が示された、ある木を投げることであります。その木こそ、イエス・キリストの十字架でした。
 わたしはあなたを癒す主である」(15:26)・・・ヘブライ語で「ヤハウェ・ラファ」、旧約聖書の中で神を呼ぶ時の名前の一つです。神は私たちの置かれている状況を変える力があり、私たちの人生の旅路における苦い水を甘い水に変えることのできるお方です。大切なのは、私たちの従順、イエス・キリストの十字架を私たちの苦い人生の水の中に投げ続けることです。イエス・キリストの十字架には私たちの罪と病、痛みと汚れを癒す力があることを心に刻みましょう。
 2017年の旅路において、マラの苦い水を目の当たりにする時もあるでしょう。その時、マラの苦い水の前で座り込んで不平を言ったり、恨んだりしないで、モーセのように神に向かって叫び祈ることです。そこで、神は命の木、すべてを新しくされる十字架を示してくださることでしょう。苦い水が十字架に触れる時、私たちの人生は甘い命の水に変わるはずです。そして、神は今年の終わりには神の祝福の約束であるエリムに到着し、渇きが満たされ、喜びと感動に溢れる天国の礼拝をささげることになるでしょう。ハレルヤ

2017.1.1

〜募金活動を通じて〜

 去年のことです。12月に入り小泉町教会でもいくつかのクリスマス会を控えていたとき、僕は一足先に二番町教会でYMCAのクリスマス会に参加してきました。クリスマス会自体では大きな役割はありませんが、その前に行われる街頭募金が僕の仕事でした。僕のほかには学生ボランティアの人たちとクリスマス会に参加してくれた子どもたちが入れ替わりで手伝ってくれました。
 その日は降雪が観測されるほど寒い日でしたがみんながんばって募金を呼び掛けてくれました。募金活動は路上で声をかけてもなかなか反応がなく忍耐力のいる大変な活動です。
それでも募金をしてくれる人がいて、一言「頑張ってね」と声をかけてくれる、そんな優しさを感じられる活動だと思っています。
 今回募金は国際協力募金として呼びかけており、世界の貧しい人々のために使われます。
クリスマスにはイエス様が僕たちのために生まれてきてくださりました。なので僕たちもこのクリスマスでイエス様のように困っている誰かのために活動ができてうれしかったです。
               S.H兄

2016.12.25

〜 新しく生まれる奇跡 〜
 救い主のお誕生おめでとうございます!!!創造者なる神が被造物の人を罪と滅びから救い出すために人として誕生されたこの日こそ、私たちにとっては大いなる奇跡の日、救いの日です。そして今日、バプテスマを受けるM姉にとって新しく生まれる恵みの日、今まで自己中心に生きていた人生が、これからはイエス・キリスト中心の人生を歩み出す日です。
 クリスチャンにとってバプテスマは入学式であり、信仰のマラソンの新たなスタートであり、極端に言えば赤ちゃんがヨチヨチ歩きはじめたことに似ています。しかし、多くの人はバプテスマを受けるためには、豊富な聖書知識をもち、善い行いを重ね、信仰歴の長さ、教会の奉仕と献金など、ある程度のレベルや資格が必要であると思いがちです。しかし、それは間違いです。救いは人の努力や頑張りとは関係のない「信仰のみ」の領域だからです。
 聖書を見ると、エチオピアの宦官も、フィリピの牢の看守も、初代教会の多くの人たちが信じてすぐバプテスマを受けクリスチャンになった物語が描かれています。それらの物語に示されているバプテスマの基準や資格において、聖書は、「信仰」以外の資格は存在しないことを教えます。“イエス様が私の救い主である。イエス・キリストは私のためにこの世に来られ、私のために十字架にかけられ命を捨てられ、私のために死を打ち破り復活され、やがて再び来られる真の神”であることを心に受け入れ、信じる人に与えられる、「神の子として新しく生まれる恵み」を、神の家族の群れの前に、目に見える信仰の証しとして執り行うのがバプテスマ式なのです。
 M姉、バプテスマおめでとうございます。赤ちゃんイエス様に励まされながら、楽しい信仰の歩みを小泉町教会の神の家族と共に始めましょう。ぜひ、皆さんも救われた恵みを思い起こしてみてください。シャローム!

2016.12.25

『光は暗闇の中で輝いている』 (ヨハネによる福音書1:1〜5、9〜14)
 救い主のお誕生をお祝いいたします!!!
 今日の聖書を見ると、イエス様を創造者であると同時に「光」であると教えます。とりわけ9節では、イエス様を「光」として、しかも「真の光」として紹介しています。“その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(9節)”・・・神ご自身であり、神の独り子なるイエス様がこの地に来られた理由、それは世界が暗闇の中に捕らわれていて、人々が暗闇の中で滅びていたからです。イエス様はこの暗闇の世界の「光」となるために来られたのです。その日がクリスマスなのです。
 しかし聖書は、人たちが光を受け入れなかったと証言します。その理由こそ、暗闇を喜び、光によって暗闇が明らかにされるのを恐れたからです。よくニュースなどで、犯罪を犯した人にカメラのフラッシュが当たると必死に自分の顔を隠そうとしていることをよく見ることができます。光を恐れ恥ずかしく思っていたからでしょう。暗闇の中にいる人たちは、自分の暗闇と自分の汚い罪が光によって暴露されることを恐れ、かえって光を拒み、光から逃げてしまったのです。その結果、世界はますます暗闇の力が支配するようになってしまったのです。今も多くの人たちが暗闇の中に逃げて、暗闇を好み、暗闇の中に生きている現実です。しかし、忘れてはならないことは、光から逃げるのは解決にはならないということです。光に直面しなければならなりません。実際、光に照らされ、自分の暗い部分に気づいた人は、自分の内にある暗闇を無くそうとし、片づけようとします。
 今日の聖書では、光を受け入れる人への約束の言葉を、次のように示してくださいます。
“しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(12節)”
世の光なるイエス・キリストを受け入れた人には、神の子どもとなる資格、つまり、神の子の特権を与えてくれた!というのです。クリスマスは、わたしたちの光となるため、神の子どもとなる特権を与えてくれるためにわたしたちの人生の中に神の独り子イエス・キリストが来られた日です。その方を心の中にお迎えする日、その方と共に歩み出す日こそクリスマスなのです。
 真の光なるイエス・キリストが、わたしの傷ついた心、暗闇の中で不安と恐れを生きる人生、人間関係の問題で涙する日々のただ中に、光として来られる。真の光が照らされるところに新しい創造が始まるのです。
 本日の礼拝の中で、M姉のバプテスマ式を執り行なうことになります。M姉の人生の中にイエス様が光として来られ、彼女の内側の悲しみや悩み、孤独、弱さ、憎しみなどの様々な暗闇を照らしてくださいました。しかし、暗闇を照らす光の働きは、一度限りの働きではありません。「光は今よりとこしえまで、暗闇の中で輝いている」という約束、M姉の生涯において一時さえも離れることがなく、輝き続けていることを約束しておられるのです。また、この約束はイエス・キリストを受け入れたすべての人に示されていることを覚えましょう。ハレルヤ

2017-01-11

2016.12.25

 昨年の春に富山に来て今年は2回目の冬をむかえます。昨年の12月から教会を訪ねて2度目のクリスマスです。
 クリスマスの本当の意味も知らなかった去年でしたが、少しわかるようになりました。キリスト教に興味を持ったのは韓国に遊びに行った時に韓国人の友人に朝早くに叩き起こされ教会に連れて行かれて祈ってもらったことがきっかけでした。韓国ドラマの影響で韓国語を習い、韓国が好きになり、韓国語の韓国人の先生の友人にクリスチャンが多くて、韓国に沢山の教会があるのは知っていましたが、日本にはクリスチャンが1%にも満たないのは何故なんだろうと、キリスト教とはなんなのか?知りたくなったのです。   
 私は韓国ドラマが好きで俳優のイ・サンウさんが好きです。私の心の恋人です。韓国人の友人にあなたは誰が好きですか?ファンですか?と訪ねたら、イ・エスニム だとみんながいいました。私は知らなかったので、歌手?俳優?イさん、エスニムさんとグーグルで調べていました。ニムが様ということは知ってはいましたが、すぐにはイエス様と言っているとはわからなかった。クリスチャンの友人が、1番好きで愛していて、ファンであるのはイエス様、イエスニムだと今ならすぐわかります。1番愛するイエス様の誕生を祝うクリスマスです。今年も参加できて嬉しいですね〜。
              T.K姉

2016-12-20

2016.12.18

 〜 わたしをプレゼントします 〜
 先週の木曜日の夜、宮口姉とのバプテスマの準備を終えてから、子どもたちのことが気になり、牧師館に戻りました。娘は既に寝るための準備をしていて、一人で本を読んでいました。その時に“あぁ、最近は娘のために本を読んであげてないな!”という思いがして、娘の読んでいた本の読み聞かせをしてあげることにしました。娘が読んでいた内容は、オー・ヘンリー作の“賢者の贈り物”という内容でした。“貧しい夫妻が相手にクリスマスプレゼントを買うお金を工面しようとする中で、妻のデラは、夫のジムが大切にしている金の懐中時計を吊るす鎖を買うために、自慢の髪を売ってしまうことになります。一方、夫のジムは愛する妻デラの美しく長い髪の毛に飾る櫛を買ってあげるために、大切にしていた懐中時計を売ってしまう。一見愚かな行き違いではあったけれど、それこそ最も賢明な愛のプレゼントであって、この出来事によって二人の愛はますます強く結ばれていったわけです。”
 相手のために、自分がもっている最も大切なものを惜しまず捨てて、相手が必要とされるプレゼントをするということは、相手のために自分自身をプレゼントすることです。これこそクリスマスのメッセージなのです。クリスマスは神があなたと私を愛し、罪と死から救い出すために、独り子イエス・キリストをこの世に贈られた恵みの日です。
 あなたは今度のクリスマスにどんなプレゼントを用意していますか。いや、あなたはどんなプレゼントをもらいたいですか。クリスマスは、わたしをプレゼントとして相手に与える日です。何かをもらうためにプレゼントするのでなく、ただ愛するがために惜しまず、自分自身を与えることです。イエス・キリストがそうなさったように、私たちも互いにそうすべきです。あなたの大切な人に伝えましょう。“わたしをプレゼントします!!!”と。シャローム!

2016.12.18

クリスマス讃歌』 (フィリピの信徒への手紙2:5〜11)
 今年の漢字も「金」に決まりましたね。これで3度目です。選ばれた理由として、リオデジャネイロオリンピック日本人選手金メダルとノーベル賞受賞、また東京都の舛添前知事政治資金問題など政治とカネの問題が次々と浮上したこと、それに金髪のドナルド・トランプ氏のことなどが挙げられたということでした。
 人の「金」に対する執着というか、憧れというか、「金」のイメージは時が流れていても変わらないものです。それほど「金」と人は切り離そうとしても切り離せない主題であります。絶えず「金」を目指して上を向いて走り続けている人生、それが人の人生ではないでしょうか。オリンピックに出る選手は金メダルを、また何をしても一番にならないと意味がない、いくらお金を稼いでも満足することはできない。このようなことは、今になって出来あがったことではありません。人類が始まって以来、絶えず求め続けてきたことなのです。
 本日のフィリピの信徒への手紙2:6〜11は、「キリスト讃歌」と呼ばれている箇所です。これは、初代教会の礼拝において歌われていた讃美歌として知られていました。しかし、その内容を見ると、絶えず上を向いていて、金を追い求めるような世界とは全く切り離されていることが分かります。すなわち、キリスト教の神は、神の身分でありながら、神としての栄光、尊厳、力、すべてを捨てて、罪ある人の姿と同じ姿、しかも乳飲み子としてお生まれになられた。上を向くのでなく、下を向くという。これがクリスマス、神の御子イエス・キリストの誕生の出来事だったのです。
 御言葉に耳を傾けましょう。 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(2:6〜8)」
 「なぜ神は人となられたのでしょうか」。その答えはただ一つ、愛ゆえです。神があなたと私を愛し、私たちを罪と滅びから救おうとされた愛の熱情のゆえ。愛のほか、クリスマスの出来事を説明する言葉はありません。神が人となられたことほど、驚くべきことはありません。ところが、私たちはそのことを耳にタコができるほど聞いてきたがために、神のへりくだりを、当たり前のことだと思いがちです。しかし、それは決して当たり前のことではありません。むしろ、それは「愛による奇跡」、二度とない恵みによる奇跡なのです。
 古くから教会は、イエス・キリストの誕生の出来事とその生涯、そして、十字架の死と復活に至るまでのすべてを神によるへりくだりのお姿として捉え、語り続け、歌い続け、信仰の記憶として刻み続けてきました。今日、私たちも生きた信仰告白としてのクリスマス讃歌を、声と愛の心を合わせて歌いたいと願うのです。
 わたしたちが歌うべきクリスマス讃歌こそ、栄光と力、権威と裁きに満ちたキリストではなく、飼い葉桶と十字架に見られる僕の歌、へりくだられたイエス様の謙遜をほめたたえる歌、そして、私たちも僕として、自分を無にしてイエス様に従うことを歌うべきではないでしょうか。ハレルヤ

2016.12.18

「メリークリスマス!」
 いつも、皆さんのお祈りとお支えに感謝いたします。早いもので、福岡で過ごす3回目のクリスマスを迎えようとしています。先日研修教会では子どもクリスマス会がありました。教会学校の子どもたちによる降誕劇で、娘は天使役、息子と私は羊飼い役として練習してきました。娘はセリフを元気に言えるように何度も練習しました。息子はまだセリフはありませんが、小学生のお兄さんたちについて動くようにするつもりで練習しましたが、ステージ上を走り回り、捕まえて抱っこすると叫びだすという感じで大変でした。
 さて、いよいよ当日を迎え本番です。娘は恥ずかしそうにしながらもなんとか天使役のセリフを言うことができました。では息子はというと、なんと直前に寝てしまうという事態になりました!それでも起きるかもしれないと衣装を着せて、舞台袖でスタンバイしていました。いざ目を覚ますと、機嫌が悪く泣き叫び、とても出演できる状態ではなく、他の方に代役になっていただきました・・・。息子のデビューは次回のクリスマス祝会の時になりそうです。しかし、ふと思い出すと、息子が誕生した2014年の降誕劇で彼は、生まれたばかりのイエス様役として、生後二か月でデビューしていたことを思い出しました。あの時はかごの中で静かにすやすや眠っていてくれましたが、今は毎日暴れん坊です。みなさん良いクリスマスをお過ごしください!
              宮田 祐亮 神学生

2016.12.11

 〜 命のパンとして来られたイエス様 〜
 昨日(10日)は、今年最後の「小さな泉の村」が開かれました。一か月一回、ホームレス生活から自立しようとする方々と共に食事を作り交わりの時間を持つという、文字どおりの小さな活動かもしれませんが、わが群れにとっては大きなチャレンジであったことは確かです。最初に提案し、リードしている瀬戸姉をはじめ、神の家族の中には不安を抱いた方々もいたことでしょう。しかし、4月に始まってから昨日に至るまでの「小さな泉の村」の働きを振り返ると、小泉町教会にとっても、私自身にとっても大きな恵みとなりました。すべては神が始められた時、御心に適った恵みの業であったことを告白せざるを得ません。ハレルヤ!これから備えられる神の導きが楽しみです。
 さて、今はクリスマスの季節。私は毎年この季節が近づくと、「命のパンとして来られたイエス様」を思い起こします。イエス様は御自ら、「私は命のパンです」と自己紹介をされました。「パン」こそ、人が生きるためになくてはならないもの、命そのものです。イエス様とパンは深いつながりをもっています。イエス様が生まれた町の「ベツレヘム」は、「パン屋」という意味です。また、イエス様は、公生涯の中で「五つのパンと二匹の魚」の物語をはじめ、神の国を語られた時は多くの場合が食事の場面でした。特に、“主は引き渡される夜、パンを取り、これはあなたがたのための私の体である”と言われた「主の晩餐」こそ、“わたしは命のパンである”と言われた言葉の最も確かな証しであります。
 この季節、小泉町教会の小さな群れの一人一人が、命のパンとして来られたイエス様をいただき、真の命のパンを知らない周りの貧しい人々に分かち合える命のパンのパーティーが開かれますように・・・。シャローム!

2016.12.11

『イエスは何を見るか』 (マルコによる福音書2:1−12) 
 全世界に私たちの援助を必要としている人がいる。援助は、一方通行ではなく、互いに神の恵みに預かる道である。
 中風の男が登場する。「すると、人々が、4人の人に担がれている一人の中風の人を、彼(イエス)のところに(向かって)連れてきた(運んできた)。」と訳すことができる。より深く考えると、4人の人々の行動を、後押しする人々がいた。病人の癒しを願う集団があった。彼らには、確信があった。イエスには癒す力がある!この中風の男を助けるのは私たちの責任だ!イエスは私たちの願いを聞いてくださるのだ!この男は俺たちの大切な仲間!そして、私にできる小さなことをするのは私の使命だ!と。この確信こそが、彼らを突拍子もない行動へと駆り立てた。彼らは、友人の癒しのためなら一切の遠慮、妥協をする必要がないと確信していた。彼らには、どのような壁も妨げとはならなかった。 
 ユダヤの家は、通常一つの部屋しかなく、屋根は、材木の梁と木の枝を編んだものと、粘土の覆いからなっていた。簡単な構造で、修復が可能だったと言われる。とはいえ、実に大胆な行動である。
 聖書は語る。「彼らの信仰を見て」と。イエスは、彼らの信仰を見たと言う。彼らの信仰と言われた中身は一体何なのであろうか? 今日私が強調したいのは、この彼らの仲間を思う愛の心であり、互いの信頼関係である。彼らは、一人の中風のものを助けたいと思った。この一人の隣人を思う心、互いの信頼の心が、彼らを結び合わせ、行動へと駆り立てているのである。
 イエスは、彼らが互いに持っている愛の心、信頼の絆、隣人の痛みを自分のことのように思う心、そしてそれに連帯する思いをしっかりと見た。教会はイエスを信じる。そして、兄弟姉妹たちを信頼し、互いに仕え合う。教会の信仰が問われている。
 イエスは言う。「子よ、あなたの罪は許されている」と。罪とは、神から離れていること、そして、苦難は神からの離反に根ざしているのだ、と言う旧約聖書全巻のメッセージがここで展開されている。中風の者が特別に罪深いのではない。皆、同じである。ここでは、全ての人の困窮の根本が明らかにされたのである。そして、そのためにイエスは十字架につかれ、復活されるのだ。
 屋根に穴を開けられてもそれを許し、制止しなかった家の主人もまた、彼らの一員だ。チャンスを逃さない信仰、今、この時、後でと言わない信仰。先延ばししない信仰、諦めない信仰に主は答えられる。
                田口昭典 牧師

2016.12.11

 福島から横浜市自主避難した中学生が、転入先の市立小学校でいじめを受けて不登校になった経緯を書いた手記が公表されました。「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」。このニュースを見た時、この少年が生きる選択をしたことに安堵すると共に、心に激しい痛みが走りました。
 地震津波福島第一原発事故の恐怖を経験し、命の危険にさらされた子どもたちが避難した町で同級生から受け入れられず、ひどい差別を受けていることに深い悲しみを覚えます。いじめによる子どもの自殺が頻繁に報じられる中、ここまで他者の痛みを理解できなくなった人がいることを嘆きます。
 子どもが懸命に話しかけているのにスマホから目を離さない親、通勤時にゲームをしていて周りが見えない若者・・・一体、現代の人々はどうなってしまったのだろうと思います。美しい日本、日本の心を大切にというスローガンとは裏腹に、私達が大切にしてきたものとは何だったのでしょうか。
 戦後、何故ヒトラーのような独裁者ドイツの人々は支持したのだろうかと不思議でなりませんでした。ナチズムドイツと日本は、何故同盟を結んだのだろうかと。排外主義的で自己中心的な思想が人々の心を占める時、命と人権を大切にしなければいけないという倫理観は簡単に崩されてしまいます。
 アメリカでトランプ氏が大統領に選ばれ、いま再び、排外主義的な考え方が支持されたことに驚きます。また、就任前にも拘わらず、倫理観が疑われるような大統領候補者を訪問する日本の首相の政治姿勢にも疑問を感じます。経済優先とナショナリズムの中で国を破滅に追いやり、アジア太平洋の人々の人権を踏みにじり命を奪った戦争の歴史から、私たちは何も学んでこなかったのでしょうか。
・・・ (中略)
 イエス・キリストの誕生を待ち望むアドベントを迎えました。差別や戦争などで人々が敵対する中、神様は、イエス・キリストの愛と罪の赦しを通して平和をつくろうとしています。東日本大震災以降、YMCAは今も、福島の子どもたのリフレッシュキャンプを行っています。子どもたちと家族に寄り添い、少しでもその力となれるように、私たちは行動することを続けてまいります。                                                島田 茂 兄

2016.12.4

〜 一匹の羊を捜し回る主 〜
 聖書の中で最も親近感を覚える動物は羊です。羊が登場する物語の中でも、“一匹の失われた羊を見つけ出すまで捜し回る羊飼い”の物語は、大きな感動を与えてくれます。今はクリスマスの季節、神を離れ、見失われていた私たちを見つけ出すために天の御座を離れ、この暗闇の世界に来られたイエス・キリストを通して、神の熱情の愛が示されました。そして今、私たちは、羊飼いなる神に見つけ出され、神の子どもとしての恵みを受けています。
 私は、先週しばらく連絡が絶たれていたT姉を訪ねて、朝日町のある老人ホームに行ってきました。以前、大和兄が召される前までは教会の近くに住んでいて、よく礼拝大和家家庭礼拝に出席していたT姉でした。しかし、大和兄が召された後、彼女も道で転んだことで腰を痛め、その後は教会から遠くへと引っ越され、礼拝にくることはなかなか難しくなっていました。その後、彼女の部屋を捜し出し、一か月一度の訪問をしていました。しかし、この数年間は体も次第に弱くなり、デイサービスなどでほぼ毎日出かけてしまい、なかなか交わることもできなくなっていました。そして、先々週、電話をかけたところ、突然つながらなくなりました。その時、T姉の身に何かが起きたのではないかと心配し、彼女が関わっていた団体や人たちに連絡をしたところ、彼女のお兄様のいる朝日町の老人ホームに移されたとの情報が入りました。彼女の健康など、いろんなことが気になっていたので、急いで老人ホームを訪ねました。そして、ベッドの上に横になっていたT姉を見つけ手を取り合った時に心から湧き上がった喜びは、イエス様の喜びには及びませんが、大きなものでした。
神の家族の皆さん、クリスマスの季節です。ぜひ、見失った一匹の羊を捜し回れるイエス様の心を抱き、イエス様の代わりに見失われた一匹の羊を捜し回る私たちでありますように・・・。シャローム!

2016.12.4

『来るべき方は、あなたでしょうか』 (マタイによる福音書11:2〜6)
 アドベントは、主が来られるのを待ち望む季節です。私たちの生活に変化をもたらされる救い主を待ち望む備えをする季節です。ですから、アドベントは救い主を迎えるための悔い改めの時であり、自分を聖く整える時であるのです。本日の聖書箇所には、メシアを待ち望んでいたバプテスマのヨハネが登場します。
 バプテスマのヨハネは、彼の後に来られるメシアについての特別な期待を持っていました。ヨハネは、当時のイスラエル社会の状況を目の当たりにしながら、メシアによる裁きの日のメッセージを宣べ伝えてきました。メシアが来れば、この罪悪に満ちている世界は打ち砕かれ、全く新たに変えられるという希望に満ちていました。
 ところが、彼が待ち望みつつ確信していたメシア、イエスが彼の目の前に現れたけれども、イエスのメシアとしての姿は、彼が期待していた姿とは程遠いものでした。圧倒的な力に溢れ、すべてを変革していくようなメシアはイエスの姿から見出すことはできなかったのです。そして今、バプテスマのヨハネは悪しきヘロデ王の手に捕えられ、牢屋に閉じ込められている状況。彼が宣べ伝えてきたメシアによる悪しき世界への裁きどころか、かえってその悪しき力に捕らわれている。もしかしてヨハネは、イエスがメシアとして何かを起こしてくれるだろうと期待し待っていたのかもしれません。 しかし、待っても待っても何も起こらない。世界はますます暗闇に覆われている。・・・今日、私たちもヨハネのような経験をしていると言えましょう。神が自分の置かれている状況を変えてほしいと思っているのに、何もしてくれないような状況、私たちの期待を裏切るようなことが続いている現実。
 バプテスマのヨハネは、牢から深い絶望を味わいながら、弟子たちをイエスのもとに送ることになります。そして次のように尋ねます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(3節)
 ヨハネの弟子たちの尋ねに対してイエス様がヨハネに伝えようとされたことは、「神の国」でした。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(4〜6節)
 これは、バプテスマのヨハネが期待していた革命的な事柄とは全く異なる性格のものです。そこには、ヨハネが伝えていた裁きもなく、報復も、圧倒的変革もありません。むしろそこには、癒しと命の福音が述べられているだけです。
 愛する神の家族の皆さん、アドベントは、私たちが抱えている問題を解決してくださるために来られるメシアを待ち望む季節ではありません。むしろ小さな者として、貧しく、謙遜で、弱い幼子としてお生まれになるイエス・キリストにつまずくことなく、小さな飼い葉桶を準備する時、神の国のメッセージを受け入れる時なのです。ハレルヤ

2016.11.27

〜 あなたの手を放しなさい! 〜
 先週の宣教の中で、アフリカの人たちがサルを獲る映像を見ました。「まず、サルに見えるようにして、サルの好きな餌をサルの手が辛うじて入るくらいの細い穴の中に入れて置きます。その様子を見ていたサルは近づいてきて餌を取ろうとして手を細い穴の中に入れます。かなり深いところにある餌を一握りいっぱい手にして、その場所を離れようとしたところ、細長い穴から手を抜け出すことができない。そこでサルは必死になって穴から手を抜けだそうとしても抜け出せない。人がサルを捕まえに近づいてくるのを見ていてもサルの頭の中は手の中にある餌を何としてでも持って逃げたいのだが、何もできない現実・・・。そこで人はいとも簡単にサルの猟に成功するわけです。」
 “あぁ、何と愚かなサルなんだ!”と私たちは映像を見ながらサルの愚かさに笑ってしまいます。しかし、どうでしょうか。実のところ、私たちも日々の生活の中でサルとさほど変わらない間違いを犯してはいないだろうか。私たちキリスト者を陥れようとサタンは、お金や快楽、仕事、人間関係などの落とし穴を作って待ち伏せている日々です。また、イエス様は絶えず、“わたしに来なさい、あなたの疲れ、重荷を下ろしなさい、手を放しなさい!”と招いておられるのに、私たちは心配や思い煩い、様々な問題課題を何としてでも自分の力で解決して見せようと、ギュッと手を握って放そうとしない、神にお任せできずに、試みの穴に手が引っ掛かったまま泣き叫ぶ私たちがあるのかもしれません。・・・“思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。(汽撻肇5:7)”・・・私たちの固く握られている手を放すこと、イエス様に何もかもお任せすることです!

2016.11.27

『戸を叩いておられる主』 (ヨハネの黙示録3:14〜20)
 アドベントの季節がやって参りました。アドベントとは「到来する」という意味で、クリスマス前日までの約4週間を待降節として、神の独り子が人の体をもってこの世に来られることを待ち望み祝う時であります。昔にはこの期間はバプテスマを受けるために備える時として、イエス様の苦難を覚える受難節と同じく、断食しながらキリストの来られるのを悔い改めながら待ち望む時として守られていました。しかし、このように大切な意味のあるアドベントが、近年になってクリスマスの商売合戦のための人の欲望が前面に表れる時となってしまっているかもしれません。救い主の誕生の真の意味がサンタクロースや華やかなイルミネーションなどに埋もれてしまっている現実です。
 クリスマスは、「待たれる神」と「待つ人々」の物語です。ですからアドベントこそ、神がこの世に来られることへの神の意志が現れた時であり、神の民たちにとっては、神が来られるというクリスマスのプレゼントを心から待ち望みつつ、心と生活を聖く整える時であるのです。
 そこで、示された御言葉が本日の聖書箇所です。待っている人々の人生の戸口に立って、戸を叩いておられる救い主の声が聞こえてくる。 “見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(3:20)”
 この箇所における戸は、永遠に通じることができる扉のことを意味します。堕落する前の人間には、神とつながれる通路として、この扉が大きく開かれていて、いつでも創造者なる神と出会い交わることができていました。しかし人間が罪を犯し堕落してからは、この扉は固く閉ざされ、永遠なる神の国から断絶され忘れられていたわけです。
 しかし、いよいよ時が満ち、私たちの忘れられていた神とつながる命の戸口に立って叩いておられる方が来られました。「叩いている!」とは、そこに今まで忘れられていた命の扉があるということを悟らせてくれることですし、断絶されていた永遠の神との交わりの回復を告げる印となっているのです。
 ここで、ぜひ知っておくべきことは、イエス様が私たちの心と魂の戸を叩いておられるのは、私たちを拘束するためでなく、真の解放と自由を告げるためであり、イエス様との愛の交わりの中で永遠に生きる者にしてくださるためであるのです。ですから、戸を叩く音を聞いて、イエス様を受け入れた人は、今まで失われていた神の子どもとしての父なる神との交わりが回復され、永遠に幸いな人生を生きることになるのです。ですから、恐れることはありません。必要なのは、イエス様の戸を叩かれる声に敏感になること、喜びと期待をもって戸を開き、あなたの人生の中に受け入れることです。アドベントが始まる今日から救い主との新しく親密な交わりの恵みがあるように祈ります。

2016.11.27

〜酒に酔いしれず、御霊に満たされなさい〜
 富山小泉町教会の皆さんに助けられ、支えられての15年は、雪掻き、腰痛に悩まされながらも、振り返ると沢山の恵みをいただいた日々でありました。 
 ある日、講壇交換で金沢教会で説教奉仕をした時、「酒は悪魔の水です」と言いました。
礼拝後、一人の婦人が近づいて来て「私はこの教会の前で酒屋をしております」と笑いながら言われました。まったく、誰が礼拝に来ているのかわかりませんね。「人酒を飲み 酒酒を飲み 酒人を飲む」に至っては、それは身を持ち崩すもとです。
 聖書は「御霊酒」を飲みなさいと教えております。御霊酒(みたまさけ)?さては近頃新発売の富山地酒か?いいえ、エフェソ書5:18〜20に記されている霊の飲み物です。この世の酒は身を滅ぼす恐れがありますが、御霊酒は飲むほどに酔うほどに、心満たされ、自分も他人も愉快になります。これを飲まずして、どうしてクリスチャン生活を楽しめましょうか。
 小泉町内会の新年会で近所の御婦人が「おひとつどうぞ」と徳利を差し出してこられました。「すみません、私は飲めませんので」と言うと「あら、おかわいそうに」と言って隣の人に御酌をされました。御霊酒を飲めないのはもっと御可哀想ではありませんかね。 以上、「御霊酒」なら底なしの牧師の独り言でした。 
               本多英一郎 牧師

2016-11-22

2016.11.20

〜 互いに思いやるクリスマスの季節 〜
 先週は小泉町教会の神の家族と牧師にとって大変慌ただしい一週間でした。S兄の召天と葬儀諸式、牧師の連盟の定期総会出席と牧師のいない中で行われた諸集会、H兄とK姉の結婚式、そして今日の午後からは小さな泉の村に出かけることまで・・・。何より私が嬉しく思っているのは、突然の奉仕の依頼にも慌てない、神の家族の皆様の心からの奉仕と配慮、執り成しです。まさに「神の家族」と呼ばれるにふさわしい、恵みに富んだ一週間でした。こころから感謝します。
 また、これからはクリスマスと年末に向けて忙しい時を過ごすことになります。キリスト教会にとっては一年中最も力を注ぐべき伝道の時であり、一年間の働きを締めくくる時でもあります。しかし神の家族にいつもお願いしているのは、忙しさにイエス様との交わりと御言葉の黙想が埋もれてはならないことです。忙しいからぜひ、心を静め御言葉を黙想し、祈りの中で神の知恵と力をいただいて諸行事に加わりましょう。そして何より忘れてはならないこと、神の家族の中に様々な悩みや弱さをもっている方々への思いやりと愛に根差した執り成しがそれです。救い主のお誕生によって実現した神の祝福を心がけながらクリスマスと年末の時を過ごして参りましょう。
“いと高きところには栄光、神にあれ、
   地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカによる福音書2:14)”

2016.11.20

『小さな群れよ、恐れるな 』ルカによる福音書12:31〜34)
 2000年前、イエス様を慕い求めてきた人たちは数えきれないほど大勢いました。しかし、実際にイエス様に従い、神の国を求める弟子たちは小さな群れに過ぎませんでした。12名の小さな群れであった弟子たちは、自分たちの目に見える小ささのゆえに不安を抱き恐れていたことでしょう。ここで「群れ」と訳されている言葉は元々「羊の群れ」を意味します。ですからイエス様が弟子たちを「小さな群れ」と呼ばれていたのは、彼らを弱々しい羊の群れと同じように見ておられたことでしょう。羊の群れは羊飼いがいなければ何もできないからです。
 人は大体自分自身が多数の群れに属している時に安心感を覚えます。しかし自分が目を引くことのできない小さな群れに属していると常に不安と恐れにさらされるようになります。これから弟子たちに迫ってくるだろう苦難と迫害、食べることと着ることなどで不安が広がり、恐れに捕らわれてしまう・・・。これは今現在の日本社会においても変わりはないでしょう。圧倒的なこの世の壁を前にしてキリストに従おうとする人たちは小さな群れに過ぎない。
 しかしそこでイエス様の言葉が弟子たちの小さくなった心を揺れ動かします。「小さい群よ、恐れるな」。「恐れるな」という言葉は聖書全体を貫通する、神ご自身が、神の民への約束の言葉として、「神が共におられるから恐れるな」という意味になるのです。真の羊飼いであり全能者なる神が共にいてくださるのであれば、たとえどんなに小さな者であっても大いなる力を発揮することができるはずです。それだけではない。イエス様は神の国を信じ、神の国への希望と期待をもって生きる小さな群れを喜ばれるお方であると紹介しています。
 次に、イエス様は神の国にふさわしい者になるための二つの命令を示しておられます。まずは、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」ということと、「富は天に積みなさい」ということです。「施し」とは旧約聖書から信仰共同体に求められる大切な愛の形です。この世の富とは、神から与えられたものであり、神に返すべきものです。ですから、貧しい人への施しは神への信仰の現れであり、神と人への愛の現れであるのです。また、「富を天に積む」とは、私たち人が最も大切にしている富を、神の御心に適うところへ、すなわち神の国のために用いることを意味します。そして「富を天に積む」具体的な形として示されているのが「施し」なのです。
 私たち小泉町教会の小さな群れは今日の礼拝後、小さな者たちへの施しに参ります。これはただの人に見せるための慈善活動ではありません。イエス様の約束に基づいた神の国への信仰による施しであって、天に富を積む恵みであることを心にしっかり刻むべきです。イエス・キリストはご自身の体と血を貧しい人たちのために施してくださいました。そのことによって神の国を実現することができたのです。小泉町教会の小さな群れもイエス・キリストに倣い、神の国を日々の生活の中で味わい、神の国の祝福に与りますように・・・。ハレルヤ

2016.11.20

富山マラソンにチャレンジ〜
 仕事は毎日残業で忙しく、家に帰れば食べる→お風呂→家事→疲れ果てて寝る、の繰り返しに疑問を感じる日々。体力をつければ疲れにも病気にも強くなり、もっと子供たちと遊ぶことができると思った私は自分へのチャレンジとしてフルマラソン完走を2016年の目標とした。早速富山マラソンにエントリーし練習開始!とはいうものの、練習する時間もない慌ただしい毎日。休日はゆっくり寝たいところだが、早起きして練習をすることにした。初めはただただ疲れるだけの辛い練習だったが、家族の為、自分の為と気持ちを奮い立たせ走ることを続けていると、10キロは気持ちよく走ることができるようになっていた。その後も、家から15キロ程離れた公園に子供たちを連れて遊びに行った後は走って帰宅、妻をパン屋へ連れて行った後は走って帰宅というように工夫しながら練習を続け大会前には20キロ走れるようになった。 しかし42.195キロ練習することがないまま本番を迎えた。不安な挑戦だったが、皆さんの祈りや家族の応援に背中を押されもはや自分だけの戦いじゃないという気持ちで走り、また同じ挑戦をしている他人ともアイコンタクトなどで励まし合いながら4時間22分で無事完走することが出来た。この挑戦に何か感じるものがあったのか、これまで私にあまり甘えてくることがなかった長男がよく私に甘えてくるようになった。とてもとても辛い挑戦だったが、その先には皆の笑顔が輝いて見えた。
              H.S兄

2016.11.13

〜 何か思いがけないことが生じたかのように驚かない! 〜
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。”(汽撻肇蹐亮蟷罍粥В隠押
 最近の私たちの身の周りをはじめ世界中における出来事を見ると、なかなか理解に苦しむことが続いています。とりわけ私たちが祈り求めていたことが正反対の結果になるという経験をする中、戸惑い、辛く悲しい思いに捕らわれてしまうのです。“家族の救いを求めているのに突然病気にかかったり、福音を伝えているのに迫害を受けたり、世界の平和を祈っていたら戦争が広がってしまう・・・。神は私の祈りを聞いておられないだろうか、神は私たちに祝福どころか災いをくださるお方ではないか”と失望し落ち込んでしまう私たちではないでしょうか。
 しかし聖書は教えてくださいます。“今あなたの身に起こっていることで、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。”と。私たちの身の周り、いや世界各地で起きている出来事は、すべてが神の支配のもとで行われているものであって、“むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。(汽撻肇蹐亮蟷4:13)”と励ましておられるのです。ですから、小さくならず、不安に落ちず、聖霊様から来る人知を超えた平安と愛、希望に満たされることです。
 神の家族の皆様、あなた方は神の愛してやまない大切な子どもです。シャローム!

2016.11.13

『 幼子の口によって 』詩編8:1〜10)
“主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます。(8:2)
 この聖句を繰り返して黙想し口ずさむのであれば、私たちは日常生活における慌ただしく事細かなことから宇宙に満ちた創造者の御手による神秘の前に立たされることになります。まさに詩篇8篇は最初から最後まで大いなる神、その恵みを褒めたたえていることが分かります。人が素晴らしい何かを見て“おー!”と感嘆できるということほど、造された者に求められる姿です。その反面、何を見ても驚くことも、感動することも知らない人は造られた者として持つべき魂の命の泉を失ってしまった人であるでしょう。
 詩人は、世界中に満ち溢れる神の息吹を感じています。それはあまりにも美しく、圧倒的です。彼は幼子と乳飲み子の口によって主の威厳をたたえると述べています。すなわち私たちの存在が神への賛美そのものであるという意味でもあるのです。そこで詩人はいよいよ、この詩のクライマックスに該当する言葉をもって賛美します。
“そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。(8:5)” 
 創造者の前に立っている自分自身を見つめると、神の愛を受けるほどの資格などいっさいもっていないような惨めな存在であることを認めざるを得ません。神の似姿で造られ、神の代理人という使命をいただきながらも、罪による欲望の奴隷となってしまい、もともと神より授かった尊い命の働き人としての価値を失っている私たちであるのです。なのに、創造者であり、父なる神は罪と汚れ、弱さ、様々な問題課題の中で苦しむ私たちへの愛をあきらめておられない。私たち罪人たちを憐れまれ、ご自身の命を捨ててまで救い出してくださるのです。ここに私たちの存在の根拠があるのです。
 本日は子ども祝福式、父なる神は私たちに「幼子と乳飲み子のような」心と信仰をもって神の前に立つことを望んでおられます。幼子、乳飲み子はただひたすら目に見える神の業に素直に反応します。大人のような偏見も、頑なさもなく、自分を飾ることもしません。幼子は親の胸に抱かれて平和を得、親の愛の眼差しに満足します。
 小泉町教会の小さな者一人一人が、神の恵みとその愛に素直に反応し、日々口をもって大いなる神の御業をほめたたえ、幼子のように神の国を信じ、神の国の恵みを味わい生きることができますように・・・。ハレルヤ

2016.11.13

〜ロックドアウト〜
 車の中にキーを置いたままでロックしてしまったり、オートロックになっているホテルの客室で鍵を持たずに部屋を出てしまったり。その締め出された状態のことを私は「”ロックドアウト”された」なんて言っています。
 そして、つい先日、私は”ロックドアウト”されてしまったのです。近頃、公私共に忙しい中、気持ちも態度も高ぶった状態になっていた私は、土曜日に休日出勤し、おそらく”どや顔”と言われているような形相で仕事を終え、事務所のドアをバン!と締め・・・ロックドアウト! 帰りに施錠しなければならないビルの入口の自動扉の鍵、帰宅する車のキー、我が家の玄関の鍵は、私に鍵をかけられた部屋の扉の中に置き去り・・・。私は寒い廊下にポツリと独り、「秋の日はつるべ落とし」とはよく言ったもので、心と一緒にあたりも暗く、冷え込んでいく中、泣く泣く同僚に連絡をとり、助けに来てもらった惨めな私。高ぶり、”どや顔”だった私は消えた・・・あ〜思い出したくない!
 最初、高ぶった私に愛の鞭を打たれた神様の話を書かせていただくつもりでしたが、ペンを執る段になり、ロックドアウトされた惨めな私は、神様をロックドアウトして締め出している愚かな私だったじゃないか!と、気付かされました。
 それなのに、ロックドアウトされたときに私の手元に携帯電話を置いてくださっていた神様は、なんという情け深いお方なのでしょう。私は永遠の「神様の愛」をすぐに消えてしまう朝の露のようにしてしまっていました。(ホセア書6章4節…先週のメッセージより)
この原稿をお受けし、ひとつ気付くことができたことに感謝しています。神様は寒く暗いところで、両手を広げて待っておられるのかな…
 神様、ありがとう。ごめんなさい。
                 K.I姉

2016.11.6

 〜 肉による同胞のために 〜
わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となっても よいとさえ思っています。(ローマ9:3)
 先週一週間は私にとって悲しみの時、嘆きの時でした。海の向こう韓国から聞こえてきた衝撃的なニュースのためでした。どう考えても信じがたい大統領に関わるスキャンダル。国全体が一人の女性によってもてあそばれてしまうという前代未聞の出来事に驚くばかりです。玉ねぎのように皮をむいてもむいてもまた出てくる犯罪の数々・・・。
 以前から韓国の政治、経済、宗教、その中でもキリスト教会の堕落を訴え、神の裁きを語ってきた私でした。まるでバビロンの地から祖国の南ユダ王国の滅亡を預言していたエゼキエルのように、また肉による同胞であるユダヤ人たちの救いのために命をかけて執り成していた異邦人使徒パウロのように、自分の祖国の罪とキリスト教会の堕落のゆえに心を痛め執り成し続けてきました。
 私は前回の牧師室便りにおけるアメリカ大統領選の話に加え、今韓国で起きている一連の出来事の根本的原因こそ、韓国キリスト教会の堕落にあると思っています。すでに韓国社会の既得権益となっているキリスト教会が、韓国社会の不正、腐敗、偶像崇拝、倫理の崩壊などに目をつぶってしまったがために、悪しき力が社会の隅々にまで潜み、影響力を広めることになったのです。昔イスラエルの国がそうであったように・・・。求められるのは、まず、キリスト教会とキリスト者一人一人の悔い改め、そこから神によるリバイバルが始まるのです。私は信じます。神が韓国を鞭を通して新しくされ、主のために再び用いられることを・・・。シャローム! 

2016.11.6

『 人の愛、神の愛 』 (ホセア6:1〜6)
 主なる神はわたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。(4節)”と嘆いておられます。神が求めている道とは全く関係のない違った道を歩もうとするイスラエルの民に向かって、心から嘆いておられる神の御声です。
 続けてホセアは、神が告発する人の愛について、“お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ!”と宣言します。ここで“愛”と訳されている言葉は“ヘッセード”、契約関係に基づく誠実な愛のことです。聖書における「ヘッセード」とは、「夫と妻の結婚の誓約」を交わすように、ご自身の民に向けられた神の愛を表す言葉であると同時に、神に対するイスラエル民からの誠実なる愛を表す言葉でもあります。すなわち、神はホセアを通じてイスラエルには本当の「ヘッセードの愛」がないことを嘆いておられる。神が私たち神の子どもたちと交わされた愛は永遠に変わることのない愛の約束だったのに、イスラエルの愛は朝の霧のような、朝の太陽の光にすぐに消え失せてしまう露のような、たった一瞬の愛に過ぎないと告発しているのです。
わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。(6節)”
 夫なる神が喜ばれるのは「ヘッセードの誠実な愛であって、神ご自身を、全人格をもって知ることです。何かの行いや形だけの関係ではない。」という言葉です。
 聖書で教える神は、愛する子どもたちを裁くことを好まれる方ではありません。むしろ子どもたちの帰りを待っておられるお父さんであり、愛する妻のために命まで捨てる愛で贖われる夫なる神です。神様の御心は裁きと滅びでなく、癒しと祝福です。神は子どもたちが自らの罪を悟り、十字架の赦しのもとに帰ってくることを待っておられるお方、この世の欲望と罪の誘惑に陥り、深い絶望の暗闇の中を彷徨っていた人が主のみもとに立ち帰ることを切に待っておられるお方なのです。ここに私たちが失望し落胆しなくてもいい理由があるのです。たとえ、あなたが死の陰の谷を歩むことがあっても、希望の歌を歌える理由がここにあるのです。
 イエス・キリストの十字架のもとに立ち帰り、悔い改め、心を注いで主を知ろうとする人、心を注いで神のヘッセードの愛を黙想し、生きた礼拝を献げようとする人を主は喜ばれ、その人を通して神は深い暗闇に包まれている世界に光を照らしていかれることでしょう。日々の実生活を通して神のヘッセードの愛を翻訳して生きる小泉町教会のお一人お一人でありますように・・・。ハレルヤ

2016.11.6

〜ハングル教室の恵み〜
 9月からハングル教室が始まりました。「ハングル」とは正確には文字のことです。なぜなら「韓国語」か「朝鮮語」か区別が微妙だからです。世界の権力争いの中で南北に引き裂かれた民族の悲しみが、「〇〇語」の定義すら許してくれないことからまず私たちは知るべきです。
 洪正實姉を講師に迎えてのハングル教室、現在固定受講者は5名ですが、9月からの6回において「韓国旅行中」を除いて欠席者は一人もなしという熱心な学びとなっています。閉講時も有志が集まり自主学習や情報交換の場となります。
 祈りで始まり、「神は愛です」「イエスさまのお名前で祈ります」など信仰の表現も学びながら、ハングルの読み方と発音、日常会話の学びを進めています。ハングルがカタカナや英字に見えることから突飛な「暗記法」が発案されて笑いが起こります。その時間平行して若者の集いを導いておられる閔師も時々顔を出されます。
 思えば日本の侵略戦争下で朝鮮半島の人々は日本名・日本語の使用を強制されたのでした。今その暴力を赦し、日本の福音による救いのために、かつての侵略国の言葉で感動の宣教をされ、ひとりひとりを主の前へ導く牧会をされている牧師御一家への感謝と尊敬をこめて私たちは愛する兄弟国の言葉を学びます。
                S.M姉