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富山小泉町キリスト教会(日本バプテスト連盟)

●英語礼拝 第2日曜日

 フェローシップタイム:午後2時から  英語礼拝:午後2時半から

English Worship Service(英語のホームページ)、 富山小泉町キリスト教会のFacebookページもどうぞ御覧ください。

〒939-8082 富山県富山市堀川小泉町681

電話 076-491-2273

2016-08-24

2016.8.14

〜 神からの贈り物、フーシー夫妻 〜  
 本日の礼拝をもってフーシー師ご夫妻との富山での交わりは最後になります。金沢教会と
富山小泉町教会が日本バプテスト連盟が進める地域協働プロジェクトの支援を受けてもう3年が経ちました。今日まで守られ祝福された父なる神と連盟に連なる諸教会と信徒の方々の祈りに感謝します。過ぎ去った3年間のフーシーご夫妻の働きによって小泉町教会は大きな恵みを受けきました。主な働きの場所は金沢でしたが、毎週の英会話教室、月一度の英語礼拝と朝の礼拝の宣教奉仕、また特別プログラムの実施などで、一度も教会を訪ねたことのなかった若いお母さんたちと子どもたちを招くことができたのは何にも代え難い喜びでした。     
 私が韓国を離れ日本に来た時は、日本と韓国という共通する東洋文化もあり、いろんな面で慣れるのにそれほどの苦労はありませんでした。しかし西洋文化圏のアメリカから日本人伝道のために遣わされるということはまったく違った壁を乗り越えなければならなかったはずです。何より難しい言葉の壁から、一つ一つの文化の違いに戸惑いを覚えたことでしょう。それでもフーシー師ご夫妻はいつも笑顔を崩さない姿勢で、イエス様の愛をもって一人一人に接し、働きにおいてはとても丁寧に関わっていました。だからでしょう。初めて来られた方もスッと快く入って来られたと思います。フーシー師ご夫妻は神からの素晴らしい贈り物でした。感謝!!!      
 しばらく私たちはフーシー師ご夫妻と別れることになりますが、愛なる神がご夫妻に日本伝道のビジョンを与えられ、近いうちに再び日本に戻ることになります。もちろん次回に来られる時は北陸ではないでしょう。しかし日本のどこであっても福音の使者として素晴らしい働きを続けられることでしょう。これからも小泉町教会の神の家族はフーシーご夫妻のために執り成しをもって支えたいと思います。ご夫妻の歩みを祝福しつつ・・・。シャローム!

2016.8.14

『信仰によって 』 (ヘブライ人への手紙 11;1−3)                                        
 「ヘブライ人への手紙」は、神が織り成す歴史の物語を語り、読者自身が、今その物語の登場人物として生きていることを自覚させます。
 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(11:1)」神のみわざは、わたしたちの生きる日々の中で、世界中で現実に起こっています。信仰によってこそ、目に見えない存在―創造主なる神、聖霊からわたしたちに告げられる召し出し、キリストの平和、天地創造までもが、わたしたちにとっては、むしろ最も力強い現実であると理解できるのです。
 信仰とは何かを定義したこの箇所に続いて、聖書に登場する人物が次々と紹介されます。彼らがどのように神に従うことで、見えないものがどのように現実になったか、本人が生きているうちにそれを見ることができるとは限らなくても、その物語が語られます。わたしたちは彼らの後継者、またイエス様の救いの受取人として、今同じ物語を生きています。先の人々の物語に刺激を受け、どこへ進むのかはわからなくとも、神を信頼して導かれるままに行くのです。
 小泉町教会のみなさんと、この三年間共に過ごせたことを感謝します。2010年から派遣に向けて祈り、黙想、訓練、資金の準備をする間、わたしたち二人にとって日本での生活と宣教は、「目に見えない事柄」でした。一方、小泉町教会のみなさんにとっても、金沢キリスト教会との、この協働プロジェクトのために共に祈り、忍耐強く待ち、御声に耳を傾ける間、宣教師が誰になるか、どんな働きになるのかは目に見えない事柄でした。2013年の11月、わたしたちとみなさんはとうとう顔と顔を合わせて会い、お互いにとって見えなかった事柄が現実となり、信仰の現実を生きる日々が始まりました。わたしたち二人の物語と、小泉町教会の物語が紡ぎ合わされて、旧約から新約、さらにキリスト教会の歴史へと進み、今日へ至る大いなる神の物語の、小さな一片を形造ったのです。
 「信仰によって・・・」で始まるわたしたちの信仰の物語を、常に思い出して参りましょう。これからもわたしたちは、信仰によって生きる中で、神の物語を続けていくみなさんのために祈り、励まし続けます。      
                 カーソン&ローラ・フーシー宣教師

2016.8.14

「八月の思い出1945年」
 あれから71年が過ぎた。
日本は、神風が吹いて勝利すると信じていたらしい。 私の母は、『この戦争は勝てないよ。』と言っていたのを思い出す。
 衣・食・住不足。広島長崎への原爆日本列島戦災で、人間も生きるのが大変だった。国民学校5年の私は、いつも腹をすかせていた。焼け野原になった町、学友も残ったのは4人。学習用具もない中で終戦。
 主は私たち親子6人の命を守ってくださった。戦後、日本は、日本国憲法で二度と戦争はしないと誓う。しかし、今はキナ臭い。
 あの戦争から生かされた私は、日本の平和、世界の平和を念じて祈る。
シャローム!      
                 T.K姉

2016.8.7

〜 平和への道 〜
 一昨日から2016リオオリンピックが開会されました。17日間私たちはブラジルのリオから送られてくる映像とメダルの知らせに目と耳と心を奪われることになるでしょう。しかし、ブラジル現地の治安の悪さやジカ熱の恐怖、テロへの不安などの問題を抱えているため、オリンピックが無事行われるだろうかという、心配の声が高まっている現状です。平和の祭典であるべきオリンピックが、争いと不安を広める場となってしまってはいけないからです。
 さて、8月は平和を覚える季節です。世界唯一の被爆国として、日本の国に生きるキリストの教会とキリスト者の生きるべき道を、「平和宣言」の一部を確認することで、もう一度心がけましょう。
“「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」と主イエスは、言われる。・・・主イエスによって解放され生かされた私たちは、他者を殺しその存在を否定することができない。殺しのあるところに平和はない。私たちは殺さない。軍備のあるところに平和はない。私たちは、殺すための備えを否定する。戦争に協力するところに平和はない。私たちは、殺すことにつながる体制づくりに協力しない。暴力のあるところに平和はない。私たちは、暴力の正当性を否定する。主に従う教会は、敵を愛し、迫害する者のために祈る。・・・”
  
 憲法改正という言葉が、実際の問題として迫ってきている日本社会です。とりわけ憲法9条を改正して「戦争できる国」へと進もうとする安倍首相をはじめとする政治家たち、それに油をかけるように、世界各地で起きている殺し合いや、あらゆる葛藤で満ちている世界的な流れが、日本社会をますます武力による対決へと引っ張っているような気がしてなりません。それでも、私たちキリスト者が声を上げるべきことは、十字架による和解と愛です。今こそ、世界を救う道、真の平和を実現する道は十字架の愛の福音しかないことを、声高らかに叫ぶ時です。シャローム!

2016.8.7

『 あなたは隣人ですか 』 (オバデヤ1:10〜14)
 主にある恵みと平和、十字架の慰めが、平和礼拝に集われたお一人お一人の上に豊かにありますように・・・。
 わたしたちは、近頃、相模原障害者施設で起きた殺傷事件をはじめ、地球規模で起きているテロ、アメリカの人種葛藤による殺し合いなど悲惨な事件事故が悪夢のごとく絶えなく続いている日々を過ごしています。毎朝ニュースに目を配ることに怖さを覚えるほどです。どうすればいいだろうか、キリスト者としてどのように生きるべきだろうかと頭を悩ませる私たちです。そんな私たちに向かって主イエスは「あなたは誰かの隣人ですか」と問いかけておられます。
 さて、本日の聖書本文であるオバデヤ書は旧約聖書の中で最も短い書物で、エドムという国の罪とその罪の結果としての神の裁きが記されています。エドムという国は「ヤコブエサウ」という物語に登場するエサウの子孫として、長い間葛藤関係にあった兄弟の国南ユダがバビロンによって滅びるのを遠くから眺めていました。しかし南ユダが立ち直れないようになったところで、エドム自らも異国の敵と同じく南ユダいじめに加わります。オバデヤは当時のエドムが兄弟の国南ユダに対してやってはいけなかった8つ罪を明らかにしています。,前は眺めていてはならなかった  喜んではならなかった B腓な口をきいてはならなかった(嘲笑ってはいけなかった)い錣民の門に入ってはならなかった ザ譴靴澆鯆めていてはならなかった θ爐蕕虜睚に手を伸ばしてはならなかった 逃げて行く者を殺すために、別れ道で待ち伏せしてはならなかった ╂犬残った者を引き渡してはならなかった、という8つの罪でした。特に、二回も強調されている「眺めているだけの罪、すなわち傍観の罪」に目がとまります。
 神の家族の皆さん、人がただ眺めることだけにとどまるとは、“自分とは関係ない!”と思っているからでしょう。また、“面倒なことに関わりたくない”という自己防衛の本能から出た行動であると思います。ある面、日本社会に深く浸透している「迷惑かけたくもないし、迷惑を受けたくもない」、ということと近いかもしれません。
 イエス様の例え話の中でエドムの罪に似ている傍観者の姿が、「善きサマリア人」の物語に登場します。強盗にあった人にとって、祭司とレビ人はエドムと同じ傍観者にすぎませんでした。主イエスが求められるキリスト者の姿は、苦しむ人の「真の隣人」になることです。そして苦しみに遭う人の隣人になろうとする人に求められるのは、傍観ではなく、愛から出た積極的な関わりです。“喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマ12:15)”という聖書の御言葉を心がけながら、傍観者ではなく誰かの真の隣人になることこそ、今の時代に求められる姿勢です。

2016.8.7

 今、台北YMCAホテルで原稿を書いています。今回は、YMCAをサポートする国際ボランティア団体、ワイズメンズクラブ国際協会第72回国際会議に出席するために台湾に来ています。ワイズメンズクラブ(通称ワイズ)は、1922年に 米国で誕生して以来、世界各国で数々の奉仕活動を展開してきました。イエス・キリストの教えに基づき、YMCAを支援する活動を通して、宗教の相違を越えて、相互理解を深める世界的友好団体です。活動は、クラブ単位で行われていて、日本では150クラブ2500人、世界では70ヶ国1500クラブで約3万人がボランティアや寄付集めなどの活動をすると共に、地域や国を超えて交流し友情を育んでいます。今回も世界各国から約800人が参加して、各地の情報を交流しています。         
 今、世界ではナショナリズムが台頭し、テロや難民経済格差失業等の問題への対応で、各国の国論が二分しています。先週は、日本では相模原市の障がい者施設での凄惨な事件があり、ナチスによる優生思想に基づく障がい者虐殺の歴史が連想されました。また、都知事選挙ではヘイトスピーチを繰り返している在特会という国粋主義の団体の代表が知事候補として出馬し、驚いた事に10万票を超える支持を集めました。更に、日本の侵略戦争の歴史を肯定し、軍国主義化を目指している女性議員が防衛庁長官に就任するなど、日本や世界の将来に暗い気持ちにさせられました。                
 この様な時だからこそ、私は、YMCAとワイズの交流活動を通して、国や民族•宗教を超えて人々の理解と友情の輪を広げたいと思います。  私の日本YMCA同盟総主事としての任期もあと8ヶ月を切りましたが、YMCAもワイズもイエス様の教えに倣う組織として拡大するために、残りの日々を精一杯歩みたいと思います。
                  島田 茂兄

2016-08-04

2016.7.31

〜 私たちは負けない! 〜
“そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。・・・不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。”(マタイ24:10、12)
 キリエ・エレイソン〜“主よ、憐れみたまえ”。愛の主よ、どうすればいいでしょうか。世界はますます暗闇に包まれ混沌としています。人々は世界規模で起きているテロ、葛藤、殺し合いに呑み込まれ、人々の間の愛は冷え続けている状況です。とりわけ先週相模原障害者施設で起きた殺傷事件は日本国民に大きなダメージを与えたことでしょう。「障害者は生きていても意味がない」と語った犯人の悲しい言葉は今の日本社会が抱えている問題の深刻さを克明に表しているのではないでしょうか。「弱い者を否定し、弱さを持っている人の居場所を失くしていく社会、常に強い者が中心を占め、力のある者が尊ばれる社会」は健康な社会どころか、かえって病んでいる社会であると言わざるを得ません。真の健康な社会とは強い者も弱い者も、力ある者も力ない者も、大人も幼子も、男も女も、すべての人が違いを超えてみんなが尊ばれる社会のことだからです。私たちは今回の障害者殺傷事件と世界各地で起きているテロや人種差別、ナショナリズムなどによる無差別の殺し合いには弱肉強食、自己中心と利己主義といった罪と悪、サタンの論理が同じくその根底に働いていることに気づきます。
 神の家族の皆さん、私たちの生きている世界は聖書の教え通り、“ますます不法がはびこり、人々の間には愛が冷え、自分自身を愛し、快楽と金銭を愛し、情けを知らず、和解せず、残忍になり、善を好まなくなる”でしょう。しかし私たちは負けません。動揺しません。恐れません。私たちは“愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。”(汽茱魯佑亮蟷4:18)という神の愛の力、御言葉の約束を信じるからです。ですから悪の力、サタンの試みに負けず、キリストの愛に生きることです。

2016.7.31

 『ネヘミヤに学ぶ 』〜協働の原理◆ (ネヘミヤ3:15〜27)
 ネヘミヤ3章の城壁再建の記事の中には少なくとも15以上の職業が登場します。それこそ共同体における「賜物の問題」であります。神の業はそれぞれ違った賜物や職業をもつ人々が一つとなって成し遂げることに意味があるということを教えているのです。そうです。エルサレムの民らは自分たちの職業や賜物に応じて神の御業に仕えることができました。様々な職業、様々な賜物や背景をもつ人々が、神の都エルサレム城壁を建てあげるという偉大なる業に力を合わせることはいかに素晴らしいことでしょうか。
 神は私たちをこの世に贈られた時、一人一人に固有の賜物を与えられました。神よりいただいた賜物をもって私たちは人生をひたすら走り抜き、とりわけ神の国の御業のために私たちの才能や職業をもって献身することを主は喜ばれることでしょう。いつか私たちがイエス様の前に立つ時、イエス様が私たちに必ず尋ねられるのが、「わたしがあなたに与えた賜物と職業をもって最善を尽くして生きただろうか」ということでしょう。その時、皆さんはどう答えられるでしょうか。“忠実な良い僕だ。よくやった。”とイエス様に言われるような私たちであるように・・・。
 とりわけ私たちが注意深く見るべきところは、指導者のネヘミヤが城壁再建に加わっていた人たちの名前、彼らの働きをことごとく記録し、その働きを覚えていることであると思います。恐らく人々は指導者のネヘミヤが自分たちの名前と働きを覚えてくれたことで大いに励まされたでしょう。“誰か自分の働きを覚えてくれる人がいる”ということは大きな励みとなります。私たちの小泉町教会においても、一人一人が互いの働きに感謝しつつ、一人一人の奉仕と働きを覚え励まし合うことができれば、ますます幸いな教会共同体となっていくでしょう。
そこで、ネヘミヤの目に特別に留まる一人の人がいました。20節です。 “続いて、ザバイの子バルクが第二の部分を城壁の角から大祭司エルヤシブの家の入口まで熱心に補強した。”…ネヘミヤはたった一人、バルクという人だけに使われている「熱心に」という言葉、他の箇所ではただ“誰々が、どこどこを、補強した”と記されていますが、バルクだけに「熱心に」という表現を使っているのです。“もちろんすべての人が苦労しましたが、特別にバルクという人の働きは民全体が覚えてほしい!”という願いを込めてネヘミヤは書いたことでしょう。このことがバルクにとっていかに大きな慰めとなったでしょうか。・・・神の家族の皆さん、私たちには温かい慰めと励ましの言葉が必要です。もちろん何か代価を期待してやったわけではありませんが、共同体の神の家族同士で互いに温かい励ましの言葉、一言だけであっても互いの働きを覚え励まし合うことができれば、その共同体はもっともっと強められるはずです。
 いかなることであっても黙々と奉仕する人の手をギュッと握りしめ、、“あなたは素晴らしい!”と主にある励ましの言葉を交わす共同体は幸いでしょう。・・・“どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。(フィリピ2:2)”

2016.7.31

〜たとえ、そうでなくても〜
 主の御名を賛美します。
 いつも私の仕事に関してお祈りいただき、本当にありがとうございます。
3月までは、いろいろなことが神様に守られて上手くいき、順調でした。仕事に対する自信も戻ってきて、このまま大丈夫だろうと思っていたのに、やはり、再び試練が与えられ、苦しい4ヶ月間でした。試練の渦の中にいる時は、物事に振り回され、神様の方を見ていてるつもりでもネヘミヤやヨシュアの率いるイスラエルの民のようで、つぶやいてばかりでした。『たとえ、そうでなくても』(ダニ3:18)や『恐れるな。私はあなたとともにいる。』(たくさんの箇所)という御言葉は真実だったと、嵐が過ぎ去り、渦の中心で神様を見上げる時、示されます。神様に救われて本当によかった。今回のことは、誰かに伝えるための試練だったのでしょう。それが家族なのかもしれないとジワジワと思っています。暑い夏です。先生や兄弟姉妹、そのご家族の健康、そして何より信仰が守られるように心からお祈りします。
                M.K姉

2016.7.24

〜 すべては神の御手にある 〜
 先週は26名の神の家族と共に立山青少年自然の家を利用してファミリーキャンプを行ないました。同じ施設を利用してもう8年が経ちました。毎年海の日と重なる主日からの一泊二日のキャンプでしたが、不思議なことにこの8年間、一度も雨のためキャンプファイヤーを行なえなかった時はありませんでしたし、その他のプログラムも同じく守られました。創造者なる神が小泉町教会の日々の歩みをいかに祝福しておられるかを感じる恵みの時です。今年のキャンプファイヤーの前にも霧雨がかなり強く降ってきて、何人かの方からは“キャンプファイヤーはできないのではありませんか”と心配の声もありましたが、面白いことにキャンプファイヤーを始めようとしたところで雨がやむという恵みがありました。もちろん“たまたまの偶然だ”と思われる方もいるでしょう。しかし私たちキリスト者はこれこそ神の民を愛し祝福される神の守りと恵みであることを信じるのです。
 また今わが教会は外壁補修のため塗り替え作業を行っていますが、先週の天気予報ではずっと雨マークだったため、少し心配したりもしましたが、これも不思議なことに作業中は一度も雨が降ることはなく、曇りが続き、作業をされる方々にも気持ちよく働いていただいています。すべては神の守り、神の御手の業であることを心より賛美いたします。順調にいけば7月末までにはすべての作業が終わり、綺麗な礼拝堂で新たな思いで神を礼拝することができると楽しみにしています。これからもすべてを治められ導かれる神にすべてをゆだね、信仰の歩
みを続けましょう。愛なる神が、神の家族の信仰による執り成しを豊かに祝福してくださるでしょう!シャローム!

2016.7.24

『ネヘミヤに学ぶ 』〜協働の原理 (ネヘミヤ3:1〜14)
 本日の聖書箇所では、「さあ、エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。」とのネヘミヤの呼びかけに応え、「早速、建築に取りかかろう」といって「この良い企てに奮い立った」イスラエルの民の再建工事がいよいよ始まっていきます。
 特に本日の箇所では、城壁再建工事が北にある「羊の門」から始まって、3節の「魚の門」、6節の「古い門」、13節の「谷の門」、14節の「糞の門」、15節の「泉の門」、26節の「水の門」、28節の「馬の門」、29節の「東の門」、そして31節の「ミフカドの門」まで、西側の城壁、南側の城壁、そして東側の城壁とぐるっと回って進んでいく様子が記されています。そしてそこでは次々にいろいろな職業、立場の人々が工事に参加していることが分かります。ある面、同じような工事の経過が繰り返し記されていることで、少しつまらない印象も受けてしまうことでしょう。しかし、ネヘミヤがここまで事細かく書き残そうとしていた目的と神の御心を探すことで、単なる工事の記事の記述で終わらない恵みをいただきたいと思うのです。ネヘミヤはエルサレム城壁を再建することをただ単純に崩れてしまっていた城壁を建て直すという理解でとどまったわけではなく、これらすべてが「「神が成功させてくださる業であって、神の御心に適った出来事」であるという認識のもとで行っていたのを忘れないことです。
 この城壁再建工事に携わったとして少なくとも15以上の職業に関わる75名以上の人が登場します。1節の大祭司エルヤシブから出発して、ある人々は家族や親族を挙げて、ある人々は同じ地区に住む住民同士を挙げて、またある人々は様々な職人や職種を挙げて、この工事にみんなが取り組んでいたことを記しているのです。すなわち能力のある一部の人だけの業でなく、エルサレムに住んでいた民らがそれぞれ立つべき場所に立ち、全ての人が進んでやるべきことを行ない、共同体全体の調和を成すことで城壁再建が行われたことを証ししているのです。大人も子どもも、男も女も、専門家も素人も、みんなが協働して成し遂げられた業であったことをネヘミヤは事細かに記しているのです。ちなみにネヘミヤ本人の名前は一度も言及されないということも興味深いことでしょう。
 とりわけ本文の中で最も多く登場する言葉が「その傍らでは」という言葉です。この言葉は城壁再建の仕事の順序を表すのではなく、それぞれが、自分が立つべき場所に立って補強作業に当たっていたことを意味します。すなわちエルサレムの民みんながそれぞれ秩序を保ちつつ、互いが協働し、補い合う中でこの偉大なる神の業を成し遂げることができたわけです。私たちの神が望まれることは、いつも共同体が一つとなって喜びをもって行なう協働にあることを心掛けましょう。ハレルヤ
“何を話すにせよ、行なうにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、
イエスによって、父である神に感謝しなさい”(コロサイ3:17)

2016.7.24

〜コンサートの夏、
   ポスティングの夏〜

 今年のチャペルコンサートも素晴らしかったですね!時間さえあればもっとたくさんポスティングしたかった...などと言う私の2年前を知る神の家族はニッコリされることでしょう。そうです、2年前は路傍伝道でも電柱と同化していた私、よそさまの戸口に立つのを「トレスパス(無断立ち入り)」と感じていた私でした。しかし、とりわけチャペルコンサートのチラシ配りの季節、毎日のように「伝道しなさいヨ」と言われるんです。誰にってみことばにです。日々のディボーションで必ず、「外に出て行って伝えなさい」という御趣旨のみことばが目に入ります。たまりません。そこで去年は讃美歌を歌い背中に看板背負って戸口から戸口へ、チラシを挟み込みながら「コンサートのお知らせデェス」と呼ばわりました。怪しい者でないことを示すためと思い(怪しい)...。それをある姉妹が、「清水さんの『弱さ』をそういうもので補って、活動しているのね」と言ってくれたとき、「何かを共有してもらえた」気がしたと同時に「これはもっと自然にできるようになるまでの前段なんだな」と思いました。今はというと、大きな家の門などくぐるときにやや目は泳ぎますが、だいぶ普通にできるようになりました。たのしいチャレンジです。
                S.M姉

2016-07-21

2016.7.17

 『ネヘミヤに学ぶ 』〜共同体を奮い立たせる人〜 (ネヘミヤ2:16〜20)
 アルタクセルクセス王の好意を受けて総督としてエルサレムに帰還してきたネヘミヤは、まずエルサレムの現状を調べるために、ある夜密かに視察に出ます。特にネヘミヤは誰にも相談することなく夜通し城壁を歩き回り、その破壊された状況をしっかりと調査します。その後、どれほどの期間が流れたでしょうか。ついにネヘミヤはユダの人々にこれからの計画を知らせ始めます。ここでも神の時を待ち、時が満ちたところで共同体に呼びかけるネヘミヤの姿に出会います。
 ネヘミヤはユダの人々に城壁再建の働きに加わってもらうために、今まで神がどのように助けられたのか、アルタクセルクセス王がどのように自分に城壁の再建を赦してくれたのかなどの経緯について証しし始めます。「神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは「早速、建築に取りかかろう」と応じ、この良い企てに奮い立った。」。(18節)・・・ネヘミヤの証しには譲ることのない順序があります。それはまず、「神の御手が恵み深くわたしを守った」ということです。すなわちエルサレム帰還と城壁再建のすべての出来事の背後に神の御手が働いてくださったこと、れをネヘミヤは確信し、そのネヘミヤの確信に満ちた言葉を通して、ユダの人々もこれらすべての出来事の上に神の恵みの御手が働いていることを確信し、快く信仰の応答をすることができたわけです。これは一人の人の信仰の証しがもつ力がいかに素晴らしいかについて私たちに教えてくれます。一人の人が神の恵みの御手の業を信じて一歩を踏み出そうとする時に、その人の証しを通して周りの人々がまた励まされ、その確信を自らの確信として受け取り、一人からまた一人へとビジョンが広がっていく、これこそ信仰の証しのもつ力なのです。
 ところが、ネヘミヤとユダの人々が城壁再建に取り組もうと心を合わせたその時に、さっそく妨害の声に遭います。“ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェム”(19節)これからしばらくネヘミヤと共同体の働きを妨害し続ける人々の名前です。そうです。私たちの信仰の営みにはこのような妨害の声が付きまといます。それは外側からやってくる言葉であるばかりでなく、しばしば私たちの心の内からも湧き上がってきます。「無理だ、駄目だ、出来ない、意味のないことだ」などなど。・・・しかしそこでネヘミヤは力強く語ります。「天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。」(20節)・・・これこそネヘミヤ記を貫く信仰の確信であり、聖書全体が証ししている信仰の確信です。私たちにとってもまたこの朝、主が私たち一人一人に求めておられる信仰告白がここに語られています。「天にいます神御自ら、わたしたちに成功させてくださる」。そうです。この働きを成功へと導かれるのは人間の力、人の頑張り、人間の計画と知恵によるのではありません。ただ、天にいます神御自ら!この信仰告白によって共同体は奮い立たされ神の業に励むことができるでしょう。ハレルヤ

2016.7.17

〜七夕祭の日
宇宙に旅立つ大西さん〜

 7月7日、一人の日本人男性が宇宙に旅立ちました。その名は大西さん。子供の頃より宇宙に行く大きなあこがれをもっていました。多くの志願者の中から選ばれ宇宙船に乗って銀河のかなたへ旅立ちました。なんという素晴らしいことか、彼の夢が実現したのです。
 私も子供の頃よく夜空を見上げては、知らない世界に憧れをもっていたが、神様は彼を選んで宇宙へと旅立たせてくださったのだと信じております。幸運な彼、それがはからずも7月7日七夕まつりの日。これにはなにか意図的に神様がお作りになったロマンのような感じがします。彼の幼い頃からの夢が七夕祭りのこの日実現したのです。
 人はそれぞれ決められた生き方があるな...私は毎日立山の麓で汗と泥にまみれながら、また猿を追いかけながらの生活...。これも人生。幼い頃にはこんな生活するとは思いもよらなかった自分。
 これが神様が私に与えてくださった人生の終着なのかと思います。高期高齢者となり、これからの人生はどうにもならない自分の人生。残された人生は、大自然と向き合って、汗と泥と仲良く生きて行こうと思います。
A.M姉

2016.7.10

〜 外壁補修工事に際して 〜
“神よ、今こそわたしの手を強くしてください。(ネヘミヤ6:9)”
 いよいよ明日から長い時間祈りつつ備えてきた教会の外壁補修工事が始まります。恐らく外壁の塗装は数十年間も行なわれないままで、外から見える鉄筋もだいぶサビついているように見えます。私たちがこれからも礼拝する場所、豊かな交わりをもっていく場所である礼拝堂ですから、期待と喜びをもって、何よりも祈りをもって補修工事を支え見守っていきたいと思います。今回の工事を担当してくださる方は昨年の牧師館の寒さ対策工事をされた三上和彦兄です。愛する神の御手が三上兄を祝福され強めてくださいますように・・・。また工事の間の天候が守られるようにも祈りましょう。
信仰的な面から考えると、私たちも常に補修が必要な存在であることを告白せざるを得ません。神の前で常に正しく完璧な人はいないからです。ところどころサビついてしまったり、亀裂が生じていたり、腐ってしまったりしているかもしれません。神の愛の御手で補修していただかなければ、いつ崩れてしまうか、雨漏りをしてしまうか分かりません。私たちの弱さや傷、その破れと穴を、主イエスの愛で満たすことによって、私たちの教会は、またあなたとわたし神の家族は美しい神の宮として、また世界の傷ついた人々の安息の場としての役割を担うことになるでしょう。“神よ、今こそ私たちの手を強くしてください。”と祈りつつ、夏のすべての歩みを主に信頼して参りましょう。シャローム!

2016.7.10

 『 武器よりも賛美の力で 』   (歴代誌下20:21)
“彼は民と協議したうえで、主に向かって歌をうたい、主の聖なる輝きをたたえる者たちを任命し、彼らに軍隊の先頭を進ませ、こう言わせた。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」”(歴代誌下20:21)

 聖書の中にあるイスラエルの戦争に際しての描写がとても興味深いです。すなわち、軍隊の先頭に神を賛美する者たち、今で言えば聖歌隊を進ませるという、世界のどこの国もやったことのない方法で戦いに挑んでいったことが記されています。
敵と戦う槍も剣ももっていない聖歌隊にできるとすれば、ただ信仰と歌声をもって神を賛美しながら敵に向かって行進することでした。そして聖書聖歌隊の歌声と共に神が敵を退かれたと記しています。
 クリスチャンは武器でなく神への賛美をもってこの世の悪、不義に立ち向かう人です。聖書が教える真理は“どんな武器よりも神への賛美が勝る”ということです。わたしたちが人生のどのような場面にあっても、すべてを知っておられ、全てを治めておられる神が、神の子どもたちに最善を与えられるという信仰をもって神を賛美すると、神は悪を退き勝利を賜ってくださるのです。
 世界がテロと災害、欲望などに満ち荒れ果てている中、人々は光と希望、勇気を失い暗闇に包まれています。そんな中、同じく武器をとったり、歯には歯、目には目というこの世の価値観で戦おうとしているのかもしれません。しかしそれでいいのでしょうか。戦争が生み出すのは戦争しかありませんし、復讐が生み出すものは復讐しかありません。そして戦争と復讐は人類の歴史が終わらない限り続くことになるでしょう。
 ぜひ賛美することの恵みを知っていただきたい。神を賛美することはこの世のどんな武器よりも強く、賛美が溢れる所では神の愛と平和、神による勝利が成し遂げられるはずです。とりわけ最も激しい戦いが繰り広げられている私たちの心が、神への賛美のメロディーで満ちるようになれば、人知を超える平和と感動が実現することになるでしょう。わたしたちのすべきことはすべてを治めておられる神を認め賛美すること、賛美の中で神の愛の約束を生きることです。神はわたしたちの信仰の賛美をお聞きになりどのような場においても勝利を賜ることでしょう。ハレルヤ

2016.7.10

チャペルコンサートに寄せて〜
 今年もまた神様の恵みによりミルトスの面々の健康が支えられ、奉仕の場であるチャペルコンサートが開かれることを心より感謝します。
「主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」詩篇149:1
 合唱を長年続けていたというだけで専門的な声楽の学びもしたことがないわたしソリストのまね事をしてよいものかどうか、チャペルコンサートが最初に行われた時から今もずっと思ってはいます。勧められ賛美させてもらっていますが兄弟姉妹方の神様への賛美の代弁、あるいは神様からのみことばの紹介の役割が果たせたら…と願います。
 バイオリン、お箏、ピアノの達人の姉妹方、そして合唱仲間と賛美出来ることを主に心より感謝しつつ。ご出席下さっているすべての方々と共に、音楽の響きの中に神様のご栄光、ご愛を感じられますように祈ります。
S.M姉

2016-07-03

2016.7.3

神の国か、欲望の国かの選択
"「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。(汽茱魯佑亮蟷4:20)"
 英国EU離脱の影響が世界を揺り動かしています。そしてアメリカ大統領選挙ではトランプさんの差別と葛藤をあおるような言動がますます激しくなってきています。興味深いことに英国アメリカの現在をつなぐ言葉こそ、葛藤であり、差別、ナショナリズムであるでしょう。若者と年寄り、人種、イスラム教とキリスト教、国と国との葛藤が広がり、それに伴う差別が深刻化している状況です。それに加え、“わが国、わが民族だけが良ければいい!”と言うナショナリズムが世界を支配しています。これらの中に潜んでいるのは利己主義の欲望!  英国も、ヨーロッパの国々も、アメリカもキリスト教信仰の上に立った歴史をもっていますし、今もなおその影響は変わりません。だからローマ法王がトランプさんを指して“彼はクリスチャンではない。”と言った言葉に対して、猛反発したのでしょう。しかし聖書が教えている福音は、葛藤や差別ではなく愛であって、ナショナリズムでなく神の国であることを世界のキリスト者たちは忘れないことです。今こそ敵であったユダヤ人が強盗にあった時、愛と憐れみをもって最善を尽くしたサマリア人のように、隣人を愛する教えに立ち返る時、愛の福音を実践する時ですシャローム!

2016.7.3

 『 ネヘミヤに学ぶぁ戞禅Г蠅弔槌える人〜
   ネヘミヤ2:4〜10、マルコ福音書13:11
 本日のマルコによる福音書13:11の内容は「小黙示録」とも言われるところで、終末の時に訪れる教会共同体とクリスチャンへの迫害のことが記されています。「地方法院に引き渡され、会堂でうちたたかれ、総督や王の前に立たされて、証をすることになる」という内容です。しかし、ここでイエス様は、恐怖と不安に怯えていた弟子たちに約束してくださいます。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、聖霊が教えられることを話せばいい」と言われる。そしてイエス様は、その迫害の時こそ「証しの時」であると教えておられるのです。そうです。聖霊なる神は、わたしたちといつ、どこでも共におられ、時に適った知恵と助けを与えてくださるお方なのです。
 キリスト者は聖霊の助けを信じ祈り続ける人です。イエス様自らも時に適った聖霊の助けを祈りつつ歩まれたことを聖書は教えているのです。
 そして本日の聖書のもう一人ネヘミヤもイエス様同様、祈りによって導かれた人でした。アルタクセルクセス王から、「何を望んでいるのか」と問われた時、ネヘミヤが取った行動は「天にいます神に祈る」ことでした。突然訪れたチャンス、たったの一瞬の時でした。普通の人は慌てて頭にあったことをすぐ口にしてしまうことでしょう。しかしネヘミヤはそうではありませんでした。彼はいつもそうであったように、まず短く矢を射るように簡潔で焦点を絞った祈りを天にいます神にささげます。ネヘミヤは慌ただしく流れていく時間、それでも一瞬立ち止まって神の助けと知恵を求め祈るのです。このことこそ使徒パウロが勧めていた“絶えず祈りなさい”という言葉の実践であるでしょう。
 神の助けを信じ、祈りをささげたネヘミヤは、すでに心に備えていた計画をアルタクセルクセス王に述べます。「エルサレム城壁と町を再建したいということと、ユダに着くまでの安全と城壁再建のための材料をもらうための書状が必要であること」を。わたしたちはここでネヘミヤが神に祈り、神が与えてくださった機会のためにしっかりと備えていたことを学ぶことができます。そうです。わたしたちは神が恵みによって応えてくださることを祈り求めつつ、祈りの中で神と相談しながら次のことを準備することも大切です。
 わたしたちの祈りの生活はいかがでしょうか。たったの一瞬であっても自分の知恵を捨て、聖霊の助けと知恵を求め祈りましょう。そして、祈りと共に信仰の中で備えをし、導かれたことを恐れずに実行していくことです。神は生きた祈りの人を通して御業を成し遂げられるお方です。ハレルヤ

2016.7.3

〜私の妻もクリスチャンです〜
 私の妻がクリスチャンとなったのは、今から約16年も前のことです。
私の家族は、その頃長崎県大村市古賀島町にあるバプテスト連盟の古賀島キリスト教会に通っていました。当時、牧師をされていた梅野先生という女性の方が熱心に教えてくださり、妻はバプテスマへと導かれました。
 妻は、大村市にいた時は熱心に教会に通い礼拝を守り、教会の聖書研究などの活動にも積極的に参加していたのですが、名古屋に転勤後は、私の病気などいろいろなことがあって徐々に教会から離れてしまいました。聖書も読まず、祈りもしない状況が数年間続いていましたが、今年に入り、私が閔先生からイエス・キリストの十字架との出会い、聖霊の導きと働き、そして、神の国への希望を教えられたことにより、神様から心を動かされたからでしょうか。妻に対して、「祈りなさい。そして、聖書を読みなさい。」と語りかけることができ、そして、家族が住む名古屋に帰った時には、妻とともに再び祈ることができたのです。神様の精霊が閔先生を通して働いてくれたのだと信じています。
 妻がまだ名古屋で教会に通っていた頃、妻の親友で子供の健康問題で悩んでいた女性に聖書を送ったことがありました。それがきっかけとなって、その親友だけでなく、その夫と子供も、つまり家族全員がクリスチャンとなったのです。私は、妻の信仰が、聖書を親友に送った時の信仰に再び戻ることを願い信じて愛なる神様に祈り続けようと思います。 
                   S.N 兄

2016.6.26

『 ネヘミヤに学ぶ 』〜絶えず祈る人〜(ネヘミヤ記2:1〜8)
“「おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」この時、わたしは献酌官として王に仕えていた。“(1:11)
 祖国イスラエルのためにネヘミヤは涙と断食、御言葉による祈りをささげました。そしていよいよ彼が置かれた具体的な場面をもって神の干渉を祈ります。しかし神はすぐには応えてくださらない。「今日」と願っていたネヘミヤの祈りは4ヶ月も経ったある日に応えられることになります。ネヘミヤの「今日」は応えられませんでしたが、神は4ヶ月という祈りと備えの時間をネヘミヤに与えてくださいました。そうです。祈りはまず待つことから始まるのです。ネヘミヤは4ヶ月という時間を、毎日「今日」という時として受けとめ神の時に備えたわけです。
 いよいよネヘミヤにアルタクセルクセス王の前で神の恵みの計画を話すチャンスが訪れます。しかもそのチャンスはネヘミヤの方からの積極的な声掛けによるものでなく、王からのネヘミヤへの思いやりから始まっていることが目を引きます。王の献酌官であったネヘミヤでしたので、王の前で「暗い表情」をすることはあってはいけないことでしたし、そのことでネヘミヤは危険にさらされてもおかしくない状況でした。しかし、神はネヘミヤが祈った通り、「王の憐れみを受ける」ように王の心を変えてくださったのです。そうです。わたしたちの献げる祈りは人を動かす力があることを覚えましょう。
 とりわけ本日のネヘミヤの祈りの姿から、どんな時に置かれても祈ることを忘れない祈りの人に出会います。「何を望んでいるのか」というアルタクセルクセス王の質問に対してネヘミヤは慌てて自分の望みを打ち明けたり、恐れのあまりその場を避けたりすることはしませんでした。彼のとった行動とは、「天にいます神に祈る」ことでした。王の質問を前にしてわずかな時間しかありませんでしたが、絶えず祈る彼の生活習慣通り、一瞬であっても神の知恵と力を求めて祈ります。このようなネヘミヤの祈りの姿勢は普段身に慣れていなければできないものでした。どんなに忙しく、慌ただしい状況に置かれていても祈りより優先すべきものはないことを心掛けましょう。
 最後に、ネヘミヤは祈りと共に「祈りが応えられることを信じて、次なる備えをする信仰の人」でした。神の働きをするためには「祈り」と共に「祈りのための備え」が求められます。“祈れば何とかなる!”といって何もしない信仰は正しくないでしょう。祈りを知っている人は「祈りと共に祈りが応えられることを信じて備える人」なのです。わたしたちは神が恵みによって導かれることを信頼し、その備えも神の恵みによって行なうのです。わたしたちの祈りはいかがでしょうか。

2016.6.26

「西南100周年」
今年2016年は、西南学院創立100周年の記念の年です。先日は100周年の記念式典が行われました。西南学院は、1916年、米国南部バプテスト派遣宣教師C.K.ドージャー先生によって福岡市に設立されました。創設者の遺訓 “Seinan, Be True to Christ”(西南よ、キリストに忠実なれ)は、学院の建学の精神として、現在もなお大切に受け継がれています。西南学院は1916(大正5)年、福岡市初の男子の私立中学校として、当初104人の生徒と9人の教職員でスタートしたそうです。戦時中は、日米関係が悪化するなか、キリスト教主義学校に対する風当たりが強くなり、苦難の時代が続きましたが、今では幼稚園、保育所、小中高、大学、大学院あわせて約1万人の学生・生徒・園児が学んでいます。
私は今、西南の建学の中心である神学部において学びがゆるされていることを心から感謝いたします。当たり前のようにして毎日学んでいるこの西南学院が、たくさんの人々の努力と献金、祈りが積み上げてられて設立されたということを改めて学び考えさせられました。そこには、キリスト教を日本に伝えたいという南部バプテストの人々の熱い祈りがあり、はるばる遠い異国の地まで献身し全てを捧げられた宣教師の先生方の尊いお働きがありました。この100年という月日はとうてい想像もできない年月です。しかし100周年のいまこそ建学の精神である「西南よ、キリストに忠実なれ」という言葉を胸に刻みつつ、神学校での最後の一年間の学びに励んでまいります。
宮田祐亮神学生

2016.6.19

〜 解決の道こそ十字架の愛です! 〜
 先日、再び世界を恐怖に陥れた最悪の乱射事件がアメリカオーランドで起きました。一人のアフガニスタンアメリカ人による乱射によって多くの方が犠牲になりました。世界のマスコミは今回の事件の原因探しに熱心です。「過激派イスラムによる無差別テロだ」とか、「ヘイト(憎悪)行為だ」とか、「銃規制をしてないからだ」などなど。とりわけ大統領選挙を控えているアメリカでもあるわけですから、これらの争いはなお激しくなっていくでしょう。
 本当にイスラムの人をアメリカ社会から除くことで平和な社会ができるでしょうか。白人だけの社会になれば、日本人だけの社会になれば、今の葛藤や差別などの社会の問題はなくなるでしょうか。・・・いいえ、この世が続く限り、これらの問題は絶えず続くでしょう。むしろますます悪くなっていくと聖書は教えています。なぜならば、自然人としての人は罪人であって、自己中心、欲望に生きる存在だからです。それではどうすればいいのか。
 聖書が教えている解決の道こそ「愛」、イエス・キリストの十字架の愛によって示されたアガペーの愛に生きることです。イエス・キリストの十字架の愛の前にはすべての人が赦されるべき罪人であり、すべての人がイエス・キリストが命を捨てて救おうとされた尊い存在であるからです。
 昨日わたしたちは第二回目の「小さな泉の村」を開きました。そこに満ちていたのは「愛」、目には見えませんでしたが、小泉町教会の神の家族とその場に集われた方々との間はイエス様の十字架の愛による絆で一つとされていたのです。願わくは、わたしたちの小さな泉から周りの人々が永遠の愛と命の水を得られますように・・・。

2016.6.19

『 祝福を祈る 』(コリントの信徒への手紙13:13)
 キリスト者は、祝福を伝える存在です。イエス・キリストが、わたしたちキリスト者を世界に遣わされた目的はただ一つ、世界の人々を、神の愛で祝福することにあります。聖書は、天地創造の場面から、世の終わりを告げるヨハネの黙示録の場面に至るまで、繰り返し、キリスト者が祝福を携えていく者であることを記しています。とりわけ、本日のコリントの信徒への手紙13:13は、聖書の中に記されている数えきれない神の祝福の中でも、最も優れた祝福を紹介してくれます。
“主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように・・・。”
 この祝福の言葉は、今現在多くの教会で、礼拝における祝祷として用いられている箇所です。わたしもこの祝福に基づいて祝祷をしています。それでは、なぜこの祝福の言葉が、礼拝における祝祷として用いられるようになったのでしょうか。それは、この「祝福の祈り」の中には、キリスト教信仰の核心とされる「三位一体の神」による祝福が、しっかりとした言葉となってわたしたちに語られているからです。三位一体の神による祝福は神学や教理の領域でなく、毎日わたしたちに注がれる最も素晴らしい祝福であるのです。
 まず、「主イエス・キリストの恵み」です。本来わたしたち人間は、罪のゆえに、滅びていくしかない存在でした。しかし、神は独り子イエス・キリストをわたしたちの罪の身代わりにとして十字架にかけられ、命を捨ててまで愛され、贖われました。このイエス・キリストの恵みによって、わたしたちはすべての罪から赦され、死の呪いから救われ、神の子とされ、救いの道を歩めるようになったわけです。そしてこのキリストの恵みは、時間と空間を超えてこの世のすべての人に注がれていることを覚えましょう。この世のどんな人も、このキリストの恵みから外されてしまう人は一人もいません。
 次に、「神の愛」です。罪を犯したあなたとわたしを罪と滅びから救うために、父なる神ご自身が人となられた、それが独り子イエス・キリストです。そして父なる神は、その独り子を十字架の上で死なせるほど、わたしたちへの無条件で完全な愛を示されたのです。これこそ神の愛、アガペーの愛です。
 最後に、「聖霊の交わり」です。「交わり」と言う言葉は、ギリシャ語の「コイノニア」と言う言葉で「親密で深い交わり」という意味として使われる言葉です。すなわち、聖霊との交わりを通してわたしたちは父なる神の愛と独り子イエス・キリストの恵みを知ることができますし、約束された祝福を聖霊を通して実際に生きる力を得ることになるのです。
これらの三位一体の神の祝福を生きる存在がキリスト者です。神はその祝福を暗闇の中にいる人々に携えていくことを望んでおられます。祝福にあずかり、祝福を祈る人を通して神の国は広がっていくことでしょう。ハレルヤ

2016.6.19

三浦綾子旧約聖書入門「バベルの塔」を読んで
バベルの町を作ろうとした人々は神の域に迫ろうとしました。人間は神になろうとしても、それはできません。日本は戦争中に天皇を生ける神としました。これに異をとなえる者はたちまち投獄され、命さえも奪われました。
 人間は人間で、神となることはできないし、また動物や太陽や月をおがんだりしても、それは信仰にはならないのです。
 神様の知恵は人間の知恵よりもすぐれているし、キリストだけが神なのです。
 キリストは愛なる方で、十字架にかけられても「父よ、彼らの罪を許してください。彼らは何をしているか知らないのです」と祈られました。敵さえも愛されるキリストは、2000年たった今も、富山小泉町教会で会うことができます。
 一人暮らしをしていると幸せだなと思うこともありますが、悲しいつらいこともあります。でも日曜日の礼拝や水曜日の祈り会は私の心の支えになっているし、キリストに出会える日です。

2016-06-17

2016.6.12

〜 兄弟会の新しい一歩を応援しつつ 〜
 健康な教会の判断基準の一つとして、教会の各会がそれぞれ生き生きと活動していくことであると思います。
 全国のどこの教会においても女性会がない教会はありませんし、女性会中心の活動がなされていることでしょう。小泉町教会も女性の方々が中心的に活動しています。しかしそんな中、壮年たちも各会としては組織されていなくてもすでにキリストの体のための多くの働きに関わってきています。定期的に昼食を準備し、営繕、草むしりや花壇整備など、また特別行事がある度に、駐車場案内、路傍伝道などなど、目立たないけれども必要とされる時にはいつも最善を尽くしてきました。そこで、神は兄弟たちに御心を示され、一つの統一した働きをするためには兄弟たちの力を一つにまとめる会を作ることになったわけです。・・・先週の日曜日の午後、まず4人の壮年が集いました。その時に決まったこととして、会の名称を「兄弟会」とすること、兄弟会のリーダーを南川兄が担当することでした。成人した兄弟であれば誰もが入れるということで「兄弟会」と名付けましたが、後に青年会などが結成されるのであれば、会の名前を変更することになるかもしれません。
 今からわたしたちの群れは夏を迎え、チャペルコンサート、ファミリーキャンプ、英会話教室キャンプ、平和集会などのプログラムを行なうことになります。すべてが神の福音を宣べ伝えるために大切な諸行事です。新しい一歩を踏み出す兄弟会の皆さんをはじめ、小泉町教会の神の家族が力を込めてイエス・キリストの愛と救いが届けられる諸行事となりますように・・・。シャローム!

2016.6.12

『 ネヘミヤに学ぶ 』〜御言葉に立って祈る人〜 (ネヘミヤ書1:1〜11)
 先週からネヘミヤ記を分かち合っています。ペルシア王の献酌官をしていたネヘミヤのもとに、祖国エルサレムの悲惨な状況を知らせるニュースが届きました。その知らせを聞いたネヘミヤは、座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天の神に祈りをささげはじめます。その時献げたネヘミヤの祈りは、今現代のキリスト者の祈りがどうあるべきかについて模範を示してくれます。とりわけ執り成しの祈りが何であるかについて知ることができます。
 先週分かち合ったように、ネヘミヤは神を賛美した後、自分の罪、父の家の罪、イスラエル共同体全体の罪のための悔い改めの祈りをささげます。ネヘミヤは神の御前に進むためには、まず心からの悔い改めがなければ近づくことができないことを知っていたことでしょう。しかも彼とは直接関係のなかった先祖たちの犯した罪の歴史と自分自身を一体化することで執り成しの場へと進むのです。わたしたちはネヘミヤを通して、信仰とは決して一人の救いだけにとどまらず、信仰共同体の救いまでも含むものであることを教えられます。
 ネヘミヤは、更に進んで神の約束に目を留めることになります。神は、イスラエルの犯した罪のゆえに滅ぼされ、バビロン捕囚といった悲しみに落されたけれども、イスラエル共同体が悔い改め、主に立ち帰り、戒めを守り行なうのであれば、主なる神は必ず赦してくださると、申命記30:1〜4で約束しておられます。ネヘミヤは、神のその約束の上に立って「思い起こしてください」と訴えます。そうです。ネヘミヤの祈りは、御言葉の約束の上に立つ祈りでした。わたしたちの信じる神は、御言葉の約束されたことを守られるお方です。神は今日も神の人に御言葉を通して語られ、御言葉を通して関係を深めておられます。成熟したキリスト者は、自分の思いや感情に頼る人ではなく、常に御言葉の約束に立って祈り、御言葉の約束を生きる人です。その人はどのような試練や妨害、状況にも振り回されることはないのです。
 最後に、ネヘミヤは具体的なリクエストで祈りを終えます。それは、「今日」、アルタクセルクセス王の前に立つ時、王から憐れみを受けることができるようにしてほしい!という願いでした。ネヘミヤの祈りは、漠然としたものではありませんでした。ネヘミヤは11節を通して、自らを「神の僕」と、アルタクセルクセス王を「この人」と呼びます。これは、「主の主、真の支配者こそ神」であるという信仰告白です。神の前に、ペルシア帝国の王はただ一人の人に過ぎません。あなたの目の前の人を恐れないことです。すべてを支配しておられる神を信じ、一歩を踏み出す人は幸いです。

2016.6.12

 もう25年も前の話。(数えてびっくり!)
 主人の仕事の都合で、米国ミシガン州に2年ばかり住んでいたときの、サンクスギビングという日本のお正月に似ている祝日に経験した出来事です。
 当時、クリスマスやサンクスギビングといった重要(?)な祝日には、ショッピングセンターやレストラン、マクドナルドにいたるまで、店を閉めていました。 外国人である我が家族は休日ルンルンで、アナーバーという学生街に出かけていました。 学生たちはそれぞれの実家に帰っていたのか、街はひっそりとし、お昼になっても、美味しいにおいで誘ってくるお店もなく、「えっ?私たち、何か食べたい!」と焦って、お店を探したところ、少し高級そうでしたが、一店だけ開いている(ように見えた)レストランを見つけました。「ええい、日本人だけど入れてくれるだろう」と、思い切って店内に… 何かが違う。何が?????メニューがない。
 座ると、自動的に決まった料理(日本のおせちのようにサンクスギビングの献立)が運ばれてきて。不思議な空気を感じながらデザートまでいただき、支払いをしようと請求書を求めると、英語(当たり前?)で何やらよくわからない説明。すこし理解のできたのか、主人が店内を見渡し…気づいてしまいました。「これは、ホームレスの人たちのために開かれているお店だ!!!」
 その瞬間、気まずいような、恥ずかしいような、消えてしまいたいような、(そんな気持ち、わかってください)でも、どうすることもできず、できること……少し多めのチップをテーブルに置き、ごめんなさいの気持ちを込めて頭を下げて、店を出て、一目散に帰宅しました。店員さん(?)は、いいのよ、いいのよ、というジェスチャーで「エンジョイ!ミシガン!」と、見送ってくれましたが、これがまた、私たちを恥ずかしい思いにさせたりして。それからは、「向う(アメリカ)にはこんな文化があるのよね…」と自分を正当化し、忘れてしまいたい思い出の1ページとして頭の引出しにしまいこんでいました。
 数年前の執事会で、S姉から、ホームレスの方々を支援したいとの意見が出され、そんなことは、日本のしかも富山では実現難な課題だと思っていましたが、神様にその思いをゆだね、今、「小さな泉の村」を立ち上げるにいたったS姉の信仰は本当にまぶしいです。私も、あの時の“借り”を何かの形で償えますよう、S姉の、そして小泉町教会の活動にできることから応援させていただきたいと思っています。
               K.I姉

2016.6.5

〜 あなたの呼吸、あなたを生かす祈り 〜
  
 先週の水曜祈祷会には今までの祈祷会の中で最も多い12名が集いました。7時30分より9時頃まで、12名の祈りの友がまず神を賛美し、それぞれ与えられた御言葉からの恵みを分かち合い、祈りの課題にそって執り成し祈る恵みの時を過ごしました。皆の口から“おー、12弟子か!”と喜びの叫びが上がるほど、祈祷会に加わる人数が増えることは大きな恵みであり慰めです。
 聖書は断言していいます。「祈りが生きている群れを通して神は働かれ、祈りは奇跡を呼び起こす」と。そして神は祈らない個人、祈らない共同体は用いないことを教えておられます。なぜならば神は祈りを通して働かれ、祈りの中に御業を成して行かれるからです。使徒パウロが“絶えず祈りなさい”と勧めていますが、ここで絶えずという言葉は、息をするようにという意味で、わたしたちの信仰の呼吸こそ祈りであって、祈らなければ死んでしまうことを表しているのです。神の家族の皆さんは祈りの呼吸を止めてはいませんか。
 祈祷会の出席者が多いからわたしは出席しなくてもいいと思わないで、ぜひ祈祷会に集いましょう。あなたの祈りがあなたと家族を生かし、小泉町教会と日本の国を変える力となるのです。もし、わたしたちがからし種一粒ほどの信仰をもち、祈り求めるのであれば、神は巨大な山をも動かし、わたしたちの思いをはるかに超える御業を成し遂げてくださるはずです。その出発こそ祈りです。一人の祈りから共同体の祈りへ、個人のための祈りから執り成しの祈りへと祈りの輪を広げる中で、わたしたちは大いなる神の祝福に与ることになるでしょう。シャローム!

2016.6.5

『 ネヘミヤに学ぶ 』〜執り成しの人〜 (ネヘミヤ書1:1〜11)
 崩れ落ちた信仰共同体の痛みと厳しい現実を胸に抱き、心から愛の執り成しを続ける一人の人。そして、祈りの答えとして神の御手が働かれる時、自ら進んで積極的に信仰共同体を建て直していく一人の人。また、様々な批判と試練、誘惑と苦難が絶えない働きの現場においては、鋭い洞察力と知恵、リーダーシップをもって乗り越えていく一人の指導者、ネヘミヤという人です。彼はすべての面において保証されていたペルシアでの生活を後にして、祖国イスラエルの厳しい現実と神のビジョンを前に、喜んで自分自身を献げる決断を下す人でもありました。
 バビロン捕囚からの「第三次帰還」(紀元前445年)を率いたのは、祈りの人ネヘミヤでした。ネヘミヤという名前は“主が慰めてくださった”の意味です。彼は異国の地で生まれ成長しました。そして、彼はペルシア王アルタクセルクセス一世の献酌官という高い地位を手にするほど成功した人でした。
 しかし、彼は決して自分の成功や身の安全だけがあれば、自分の家族や身の周りだけが平和であればいい!という意識はもちませんでした。彼の心の中には、いつも祖国への熱い想いがありました。そして、滅ぼされたままの祖国エルサレムを悲しみ、エルサレムのために執り成し続けていたわけです。すなわち、ネヘミヤは愛国者だったと言えましょう。
 ネヘミヤはエルサレムから戻ってきたハナニという親族から打ち破れていたエルサレムの城壁の現状について聞くことになります。それを聞いたネヘミヤの反応を見てください。“これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。(4節)”

 わたしたちも常に家庭の城壁にヒビが入り崩れそうになる危機に直面します。また、信仰共同体の城壁が様々な敵の攻撃を受ける中で、厳しい戦いを強いられることも経験します。それから日本社会の政治、経済、倫理などの城壁が崩れ落ちていることを目の当たりにしています。このような状況の中で求められるのが“祈り”です。ただ、漠然とした空を打つような形だけの祈りでなく、日本社会の問題課題を胸に抱き、涙と命をかける執り成しの祈りを主は望んでおられます。
 これからしばらくの間、ネヘミヤの信仰と祈りを黙想しながら、信仰共同体を建て直すビジョンを現実のものにしていく力を学んでいきたいと思います。とりわけネヘミヤの城壁再建と信仰復興のために献げられた執り成しの祈りを身につけたいと思います。生きておられる神は、あなたの祈りを用いて倒れかけているすべての城壁を建て直してくださるでしょう。

2016.6.5

「真実なる主の恵み」 
 主の尊いお名前を賛美します。
 まず初めに、いつも私たち夫婦の為にお祈りいただき、またサポートをいただき、心より感謝申し上げます。そして姉(黒澤)家族が貴教会に集わせて頂き、恵みに満ちた教会生活を送らせていただいていますことも感謝です。
 私たちは今、タイのバンコクにある日本語教会で、牧会の働きをさせて頂いていますが、働きをする前(正確には神学校へ行く前)、両親は私たちのことを想って、フルタイムの献身を反対していました。両親はクリスチャンだからこそ、献身者の大変さをよく知っていたからです。両親の反対を押し切って献身してよいのだろうかと、非常に悩んでいた時、あるみことばが心に迫ってきました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。」(マルコ10:29,31)これは、何よりも主を優先する者を、主は豊かな恵みで満たしてくださるという約束のことばです。このみことばを通して、神様はご自身に従う私を祝すだけでなく、私が大切に想っている家族をも祝してくださるという確信が与えられ、両親のことも主にゆだねる決心をしました。その後、神様はみことばを実現してくださり、2人の祖母、叔母、姉の長男が次々と救いに導かれ、今年のペンテコステの日には、姉の次男が貴教会で洗礼の恵みに与らせて頂きました。真実な主の御名を心から賛美致します。
              タイ聖書福音教会伝道師 横谷環

2016.5.29

〜 リーダーのために祈る 〜
 先週日本中がG7サミットのことで盛り上がっていましたね。とりわけアメリカオバマ大統領が現職の大統領としては初めて広島を訪れたことが人々の関心を集めました。世界のリーダーとしてのオバマ大統領の一挙手一投足が及ぼす影響力を再三確認できた場面であったと思います。
 ナショナリズムの流れが日に日に増している世界情勢の中、何とも言えない将来への不安に包まれている近頃です。その中でもオバマ退任後のアメリカ大統領が誰になるか、あまりにも暴力的で危険な発言を続けるトランプさんがなるのではないかということで世界中が不安の目で見つめている状況です。これこそ一人のリーダーが及ぼす影響力の大きさを表す典型的な例であると言えましょう。
 聖書はリーダーのために祈ることを命じます。それほどリーダーの存在の大切さ、リーダーに求められる責任、神からの使命が重いからでしょう。しかし聖書に登場する多くのリーダーは初心を忘れ神の前で罪を犯し、イスラエル共同体もリーダーに倣い罪に妥協し堕落してしまいます、その結果神の厳しい裁きに遭ったことを聖書は繰り返し告発しているのです。神の家族の皆さん、ぜひリーダーのための祈りを休まないようにしましょう。まず、小泉町教会の牧師のため、日本バプテスト連盟に連なる諸教会の牧師たちのために、それに加え日本の安倍首相をはじめとする世界の指導者たちのためにと、祈りの境を広げていきましょう。ますます悪と暗闇が力を増している昨今の時代を見極めつつ、神の国と神の義を求めることを第一とするわたしたちの群れであるように・・・。

2016.5.29

 『 神の家に住む 』(詩篇84:1〜13)           
 先日、稲垣さんと敦賀の「人道の港ムゼウム」という小さな博物館を訪ねました。6000人のビザで有名な杉原千畝さんの発給したビザでヒトラーの魔手を逃れたユダヤ難民が、シベリア鉄道ウラジオストックまで来て、そこから敦賀に上陸していたことを知ったからでした。敦賀の市民はこれらユダヤ難民を受け入れ、宿を貸し、銭湯を提供し、病人の手当てをしたのです。安心して住む家がある、ということを、ユダヤ人の一人は「ここは天国だ」と言いました。
 家族がともに住むということがどれほど大切なものかを震災の現場からの報告で痛いほど感じます。家とは、ともに生きる場であり、命の交わりの場であるということです。
 今日のみ言葉を通して、詩人は、「神と共に一つの家に住むことが最高の幸せである」と言います。キリストがクリスマスに生まれ、私たちを迎え入れてくださいました。人が神の傍に住む、神と共に生きるということが、私たちにとって最高、最大の目的なのです。神と共に生きることなくして、他のことは全く色あせてしまうのです。
 神は、どんなに人間が反抗しても、私たちと共に住むということをあきらめないのです。神は私たちと共に住み、共に悩み、共に泣き、共に生きることを望まれます。
 神は新しく、「共に住む」ということを願われます。神は、内在する神として私たち一人一人のもとにやってきた!のです。それは「聖霊」と呼ばれます。この人は嬉しくて仕方ない!と喜びで顔を輝かせているのです。幸せだと言っているのです。誰かが、この人を見たら、「あなたはなぜ、そんなに嬉しいのですか?」と問わずにはおれないような幸いな人について語っているのです。聖霊が宿ってくださっているからです。
 あなたは何かをするためにここにいるのではありません。
ただ、神と共にいることが大事であり、神がそれを望まれていることが大事なのです。
 この箇所で住むということを「ヤーシャブ」という言葉であらわしています。意味は、一箇所に留まっていること、移住すること、座ること、何もしていないこと、結婚することなどです。端的に、一緒にいることが目指されています。あのザアカイはイエスを自分の家に迎えました。そうしたら、ザアカイは変えられてしまいました。
 神が私たちのところに来られ、内在する神、聖霊として絶対に離れない交わりへとわたしたちを導いておられるのです。
                                  田口 昭典

2016.5.29

 福岡に転勤になり早や10ケ月が過ぎました。こちらの生活にもなんとか慣れ、仕事もやっと起動に乗りつつあります。これも一重に皆様の御祈りの賜物であり、感謝しております。
 家族と離れて暮らす事は辛く、孤独に慣れることはなかなかできません。先週は、大型連休で富山に帰省して、家族と一週間程過ごし福岡に戻った翌朝、目が覚めた時、子供達がそばにいるような感覚があり、福岡に戻っている事がわかると恐ろしい孤独感にみまわれました。私は本当に弱い寂しがりやの情けない男です。その日は、日曜日でいつも行っている教会へ日曜礼拝に出席させて頂きました。帰り際に牧師先生に声を掛けられ、その日は礼拝後の食事も、他の行事もなかったので近くの公園の茶屋で食事をご馳走して頂くことになりました。牧師先生とは歳も近く、お互いの身の上話をさせて頂き、豊かな楽しい時間を過ごすことが出来ました。
 コリント12-9 「すると主は、『わたしの恵みはあなたに充分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
今日も主に依り頼み感謝して歩んで参ります。
小泉町教会におきまして大いなる恵みと祝福が与えられますようお祈り致します。アーメン。
                         T.K 兄