2016.3.20

胃カメラと十字架〜
 ふと気がつけば白い梅の花が垣根越しに春の訪れを伝えてくれるそんな季節になりました。春は私の一番好きな季節ですが、ただこの一点において憂鬱な季節でもあります。毎年春に胃カメラを飲むことになっているからです。私の母は40代で胃癌を患い、父も胃潰瘍で手術を受けています。私も5年前に胃潰瘍になったのでお医者さんの勧めで定期的に検診を受けることにしているのです。最近では技術の進歩で極細のカメラを鼻から挿入するタイプも開発され、昔に比べだいぶ楽になったと言われますが、あいにく私は鼻腔が狭く、口からし胃カメラを飲む事ができません。食道はものを飲み込む様に作られているので、この逆の行為を受け入れることはとても苦しくて辛い事です。診察中にカメラのホースが動くたび、吐くことの出来ない吐き気に見舞われ、よだれや涙を流し続けます。まさに拷問、この世の終わりかと思う程です。そんな試練の時、イエス様の十字架を思いおこします。『イエス様は両手両足を3本の釘で打ちつけられ、肉が裂け、血をながされた。それはどれほどの苦しみであったのか。それに比べれば私の苦しみなんてちっぽけなものだ。』その苦しみを思い浮かべながら委ねます。すると自然に体の力が抜け、苦しみが和らぎます。イエス様はご自身の為ではなく、私達に対する大きな愛を示す為に十字架にかかり極限の苦しみをお受けになりました。その満ち溢れる愛がこの世界の一人でも多くの方々が知ることができますように祈ります。 
                   K.K姉     

2016.3.20

〜 神の家族への招き 〜
 本日の礼拝の中で秋田春愛姉の入会式を行ないます。秋田姉は中国の朝鮮族出身で、富山出身の日本人と結婚して今は高岡に住んでいます。共産主義国家の中国出身のクリスチャンとして今まで幾つかの日本人教会で信仰生活をしてきましたが、今まで正式に教会籍をもつことは今回が初めてだそうです。そのため初めての教会員となることへの戸惑いもあるでしょうし、負担に思うこともあることでしょう。しかし、わたしたちみんなはイエス・キリストにより救われ、父なる神様の子ども、聖書の教える神の国の民です。ヨハネ黙示録7:9“あらゆる国民、人種、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった救われた民”であることを互いに確認し心に刻むことでしょう。わたしたちの群れはどこの教会よりも聖書が教える神の国にふさわしいかも知れません。日本人教会ではありますが、インドネシア人、マレーシア人、台湾人、韓国人、中国人、アメリカ人と、世界中から集まった民が共に集い礼拝し、交わり、執り成し合っている、実に恵みとしかいいようがありません。
 本日は受難週礼拝、イエス様の十字架の道の最後の一週間の歩みを辿りつつ、命を捨てられた愛に心打たれ礼拝するひと時です。十字架のメッセージは愛であって、和解であります。切れていた神との関係における和解と隣人との和解が完成したことへのメッセージがイエス・キリストの十字架によって語られているのです。“神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。”(Ⅰヨハネ4:11)・・・イエス・キリストの十字架の前に家族になれない人は一人もいません。十字架はわたしたちの間に立ちはだかっていたすべての壁を打ち壊し、すべての人を神の家族へと招く愛のしるしだからです。シャローム

2016.3.20

『十字架は愛です』(ヨハネの手紙一 3:16〜18)
 今日から受難週に入ります。イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに入城されてから十字架にかかり死ぬという出来事のあった一週間を受難週と言います。
 キリスト者はキリストの人です。キリストを知っているというのはキリストの十字架を知っていると言う言葉と同じです。一人のキリスト者が神の愛をどれほど深く体験したのかは十字架をどれほど深く経験したのかに対する答えと同じです。
 あなたは十字架のイエス様に出会いましたか。わたしたちは神様についての様々な体験をもっています。しかし、わたしたちがいくら神様の存在と神様の働きに関する体験をもっていようとも、イエス・キリストの十字架の愛の体験がなければ、本当の神様との交わりに入ったとは言えないでしょう。なぜならば神はイエス・キリストを通してご自身を現されましたし、十字架の死を通して神の愛を示してくださったからです。ですから、十字架を通して成し遂げられたイエス・キリストの御業に触れることでわたしたちは神様がどのようなお方であるかをはっきりと知ることになるのです。つまり十字架を除いてわたしたちは決して神を知ることはできないのです。
 本日、与えられた聖書の御言葉、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(3:16)・・・神の愛を知るとは命を捨てた十字架の愛を知ることです。
 愛する皆さん、今のわたしたちを囲む世界は計り知れない痛みと深い傷跡で苦しんでいる人々で満ちています。また、わたしたちの内なる世界においても同じく誰にも言えない痛みと傷が存在します。しかしこれらのすべての痛みと傷は、神の独り子イエス・キリストが十字架の愛で受け取ってくださいます。罪のないイエス様が罪人のわたしたちの身代わりとして十字架の痛みと傷を帯びられるゆえに、わたしたちの救い主、命の主となられるのです。ですから、目を上げて十字架にかけられたイエス・キリストを見つめましょう。その十字架の愛にすがりつつ、神の愛に生きるあなたとわたしでありますように・・・。ハレルヤ!

2016.3.27

〜名古屋から〜
 とこしえからとこしえまで統べ治められる主の御名を賛美いたします。小泉町キリスト教会の愛兄姉皆様、ご無沙汰しております。小泉町教会から多くの恵みを頂きながら、もう6年、顔も出さずにご無礼しております。何度か伺いたいとは思いつつ、月日は経ってしまいました。週報の小さな泉の恵みからもたくさんの恵みを頂いています。この場をお借りしまして感謝申し上げます。近況ですが、官庁街における祈り会を月に1度行っています。組織の異なるクリスチャン公務員が神様の導きにより4人集まりました。個人的な事から、職場の事、政治の事等、様々な事を分かち合い祈っています。特に福音伝道について個人的には勇気をもらっています。限られた地上の歩みにおいて何ができるのか、主のみこころを求める日々です。妻、のあ、けいじゅと共に、皆様とお会いできる日を楽しみにしています。主の御手にあるすべてを感謝しつつ。
                E.N兄

2016.3.27

  〜 復活の主と共に歩む小さな働き人として 〜
 「幸いな人、幸いな教会」という標語のもと、2015年度の歩みを続けてきました。神の家族にとっての一年間はいかがだったでしょうか。神と人から“幸いな人よ“と呼ばれるような歩みでしたか。またわたしたちの教会共同体の一年も“幸いな教会よ!”と呼ばれるにふさわしい姿だったのでしょうか。もちろん胸を張って言えればいいのですが・・・。
 さて、次週からわたしたちは新しい一年間の歩みを始めます。主なる神がどのような道を備え、どのように導かれるか楽しみです。早速先週の木曜日、「小さな泉の村」という新しい働きがスタートしました。日本社会において弱い者とされている方々への月一回の小さな奉仕です。“はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。”(マタイ25:40)という主イエスの御言葉に少しでも近づくことを喜びとする教会共同体でありたいものです。
 これからの神の家族お一人お一人が復活の主と共に歩む小さな働き人として、小さな泉から湧き出る命の水を小さな者たちに分け与えることができ、信仰と行いが一つとなる健康なキリストの体なる教会を造り上げることができますように・・・。シャローム

2016.3.27

 『わたしは万物を新しくする』(ヨハネの黙示録 21:1〜8)
 イースターおめでとうございます。わたしとあなたの罪のために十字架の上で身代わりとして死んでくださり、三日目の日曜日の朝に、墓の中から復活なさったイエス・キリストを心から賛美いたしましょう。またこのイースターの朝、ヨハネ黙示録に記された復活の祝福に与っている神の民に約束されている天の御国の姿を通して父なる神の確かな希望と慰めの御言葉を分かち合いたいと願います。
 ヨハネは新しい天と新しい地をみています。最初の天と地はすべて去っていきます。神は、初めに世界と人間を創造された時、“極めて良かった”とされました。しかし、造られた世界は人間の罪と欲望によって破壊され、呻いていると聖書は教えています。しかし創造者なる神はやがて「見よ、わたしは万物を新しくする」(21:5)と言われます。そして 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(21:3-4)と約束しておられます。
 「新しい天と地」とは、本質的にまったく新しくなった世界のことを言います。また「新しい天と地」とは、「神が人と共に住まわれる」というところです。そして「神が人と共に住まわれる」とは、主なる神が、わたしたちが味わうべきあらゆる悲しみ、嘆きと労苦といったものをすべてご存じであるという約束であり、やがて人間の味わう究極の苦しみである死、神の民の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるという意味であるとヨハネは歌っているのです。これこそ復活信仰をもち、復活信仰に生きている人が抱くべき天の御国への確信なのです。
 本日の礼拝の中では、先に召天された神の家族を偲びます。しかしそのことはヨハネの言葉によれば、信仰の確信からなる希望であり、祝福であることが分かります。あなたはこの確信、この希望と祝福に与っていますか。死を打ち破り復活なさったこの日、復活信仰を確かめ、天の御国の来られるのを待ち望みつつ歩み続けましょう。
「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。」(21:6)