2016.6.19

三浦綾子旧約聖書入門「バベルの塔」を読んで
バベルの町を作ろうとした人々は神の域に迫ろうとしました。人間は神になろうとしても、それはできません。日本は戦争中に天皇を生ける神としました。これに異をとなえる者はたちまち投獄され、命さえも奪われました。
 人間は人間で、神となることはできないし、また動物や太陽や月をおがんだりしても、それは信仰にはならないのです。
 神様の知恵は人間の知恵よりもすぐれているし、キリストだけが神なのです。
 キリストは愛なる方で、十字架にかけられても「父よ、彼らの罪を許してください。彼らは何をしているか知らないのです」と祈られました。敵さえも愛されるキリストは、2000年たった今も、富山小泉町教会で会うことができます。
 一人暮らしをしていると幸せだなと思うこともありますが、悲しいつらいこともあります。でも日曜日の礼拝や水曜日の祈り会は私の心の支えになっているし、キリストに出会える日です。

2016.6.19

『 祝福を祈る 』(Ⅱコリントの信徒への手紙13:13)
 キリスト者は、祝福を伝える存在です。イエス・キリストが、わたしたちキリスト者を世界に遣わされた目的はただ一つ、世界の人々を、神の愛で祝福することにあります。聖書は、天地創造の場面から、世の終わりを告げるヨハネの黙示録の場面に至るまで、繰り返し、キリスト者が祝福を携えていく者であることを記しています。とりわけ、本日のⅡコリントの信徒への手紙13:13は、聖書の中に記されている数えきれない神の祝福の中でも、最も優れた祝福を紹介してくれます。
“主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように・・・。” この祝福の言葉は、今現在多くの教会で、礼拝における祝祷として用いられている箇所です。わたしもこの祝福に基づいて祝祷をしています。それでは、なぜこの祝福の言葉が、礼拝における祝祷として用いられるようになったのでしょうか。それは、この「祝福の祈り」の中には、キリスト教信仰の核心とされる「三位一体の神」による祝福が、しっかりとした言葉となってわたしたちに語られているからです。三位一体の神による祝福は神学や教理の領域でなく、毎日わたしたちに注がれる最も素晴らしい祝福であるのです。
 まず、「主イエス・キリストの恵み」です。本来わたしたち人間は、罪のゆえに、滅びていくしかない存在でした。しかし、神は独り子イエス・キリストをわたしたちの罪の身代わりにとして十字架にかけられ、命を捨ててまで愛され、贖われました。このイエス・キリストの恵みによって、わたしたちはすべての罪から赦され、死の呪いから救われ、神の子とされ、救いの道を歩めるようになったわけです。そしてこのキリストの恵みは、時間と空間を超えてこの世のすべての人に注がれていることを覚えましょう。この世のどんな人も、このキリストの恵みから外されてしまう人は一人もいません。
 次に、「神の愛」です。罪を犯したあなたとわたしを罪と滅びから救うために、父なる神ご自身が人となられた、それが独り子イエス・キリストです。そして父なる神は、その独り子を十字架の上で死なせるほど、わたしたちへの無条件で完全な愛を示されたのです。これこそ神の愛、アガペーの愛です。
 最後に、「聖霊の交わり」です。「交わり」と言う言葉は、ギリシャ語の「コイノニア」と言う言葉で「親密で深い交わり」という意味として使われる言葉です。すなわち、聖霊との交わりを通してわたしたちは父なる神の愛と独り子イエス・キリストの恵みを知ることができますし、約束された祝福を聖霊を通して実際に生きる力を得ることになるのです。
これらの三位一体の神の祝福を生きる存在がキリスト者です。神はその祝福を暗闇の中にいる人々に携えていくことを望んでおられます。祝福にあずかり、祝福を祈る人を通して神の国は広がっていくことでしょう。ハレルヤ!

2016.6.19

〜 解決の道こそ十字架の愛です! 〜
 先日、再び世界を恐怖に陥れた最悪の乱射事件がアメリカのオーランドで起きました。一人のアフガニスタンアメリカ人による乱射によって多くの方が犠牲になりました。世界のマスコミは今回の事件の原因探しに熱心です。「過激派イスラムによる無差別テロだ」とか、「ヘイト(憎悪)行為だ」とか、「銃規制をしてないからだ」などなど。とりわけ大統領選挙を控えているアメリカでもあるわけですから、これらの争いはなお激しくなっていくでしょう。
 本当にイスラムの人をアメリカ社会から除くことで平和な社会ができるでしょうか。白人だけの社会になれば、日本人だけの社会になれば、今の葛藤や差別などの社会の問題はなくなるでしょうか。・・・いいえ、この世が続く限り、これらの問題は絶えず続くでしょう。むしろますます悪くなっていくと聖書は教えています。なぜならば、自然人としての人は罪人であって、自己中心、欲望に生きる存在だからです。それではどうすればいいのか。
 聖書が教えている解決の道こそ「愛」、イエス・キリストの十字架の愛によって示されたアガペーの愛に生きることです。イエス・キリストの十字架の愛の前にはすべての人が赦されるべき罪人であり、すべての人がイエス・キリストが命を捨てて救おうとされた尊い存在であるからです。
 昨日わたしたちは第二回目の「小さな泉の村」を開きました。そこに満ちていたのは「愛」、目には見えませんでしたが、小泉町教会の神の家族とその場に集われた方々との間はイエス様の十字架の愛による絆で一つとされていたのです。願わくは、わたしたちの小さな泉から周りの人々が永遠の愛と命の水を得られますように・・・。

2016.6.26

「西南100周年」
今年2016年は、西南学院創立100周年の記念の年です。先日は100周年の記念式典が行われました。西南学院は、1916年、米国南部バプテスト派遣宣教師C.K.ドージャー先生によって福岡市に設立されました。創設者の遺訓 “Seinan, Be True to Christ”(西南よ、キリストに忠実なれ)は、学院の建学の精神として、現在もなお大切に受け継がれています。西南学院は1916(大正5)年、福岡市初の男子の私立中学校として、当初104人の生徒と9人の教職員でスタートしたそうです。戦時中は、日米関係が悪化するなか、キリスト教主義学校に対する風当たりが強くなり、苦難の時代が続きましたが、今では幼稚園、保育所、小中高、大学、大学院あわせて約1万人の学生・生徒・園児が学んでいます。
私は今、西南の建学の中心である神学部において学びがゆるされていることを心から感謝いたします。当たり前のようにして毎日学んでいるこの西南学院が、たくさんの人々の努力と献金、祈りが積み上げてられて設立されたということを改めて学び考えさせられました。そこには、キリスト教を日本に伝えたいという南部バプテストの人々の熱い祈りがあり、はるばる遠い異国の地まで献身し全てを捧げられた宣教師の先生方の尊いお働きがありました。この100年という月日はとうてい想像もできない年月です。しかし100周年のいまこそ建学の精神である「西南よ、キリストに忠実なれ」という言葉を胸に刻みつつ、神学校での最後の一年間の学びに励んでまいります。
宮田祐亮神学生

2016.6.26

『 ネヘミヤに学ぶ③ 』〜絶えず祈る人〜(ネヘミヤ記2:1〜8)
“「おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」この時、わたしは献酌官として王に仕えていた。“(1:11)
 祖国イスラエルのためにネヘミヤは涙と断食、御言葉による祈りをささげました。そしていよいよ彼が置かれた具体的な場面をもって神の干渉を祈ります。しかし神はすぐには応えてくださらない。「今日」と願っていたネヘミヤの祈りは4ヶ月も経ったある日に応えられることになります。ネヘミヤの「今日」は応えられませんでしたが、神は4ヶ月という祈りと備えの時間をネヘミヤに与えてくださいました。そうです。祈りはまず待つことから始まるのです。ネヘミヤは4ヶ月という時間を、毎日「今日」という時として受けとめ神の時に備えたわけです。
 いよいよネヘミヤにアルタクセルクセス王の前で神の恵みの計画を話すチャンスが訪れます。しかもそのチャンスはネヘミヤの方からの積極的な声掛けによるものでなく、王からのネヘミヤへの思いやりから始まっていることが目を引きます。王の献酌官であったネヘミヤでしたので、王の前で「暗い表情」をすることはあってはいけないことでしたし、そのことでネヘミヤは危険にさらされてもおかしくない状況でした。しかし、神はネヘミヤが祈った通り、「王の憐れみを受ける」ように王の心を変えてくださったのです。そうです。わたしたちの献げる祈りは人を動かす力があることを覚えましょう。
 とりわけ本日のネヘミヤの祈りの姿から、どんな時に置かれても祈ることを忘れない祈りの人に出会います。「何を望んでいるのか」というアルタクセルクセス王の質問に対してネヘミヤは慌てて自分の望みを打ち明けたり、恐れのあまりその場を避けたりすることはしませんでした。彼のとった行動とは、「天にいます神に祈る」ことでした。王の質問を前にしてわずかな時間しかありませんでしたが、絶えず祈る彼の生活習慣通り、一瞬であっても神の知恵と力を求めて祈ります。このようなネヘミヤの祈りの姿勢は普段身に慣れていなければできないものでした。どんなに忙しく、慌ただしい状況に置かれていても祈りより優先すべきものはないことを心掛けましょう。
 最後に、ネヘミヤは祈りと共に「祈りが応えられることを信じて、次なる備えをする信仰の人」でした。神の働きをするためには「祈り」と共に「祈りのための備え」が求められます。“祈れば何とかなる!”といって何もしない信仰は正しくないでしょう。祈りを知っている人は「祈りと共に祈りが応えられることを信じて備える人」なのです。わたしたちは神が恵みによって導かれることを信頼し、その備えも神の恵みによって行なうのです。わたしたちの祈りはいかがでしょうか。

2016.7.3

〜私の妻もクリスチャンです〜
 私の妻がクリスチャンとなったのは、今から約16年も前のことです。
私の家族は、その頃長崎県大村市古賀島町にあるバプテスト連盟の古賀島キリスト教会に通っていました。当時、牧師をされていた梅野先生という女性の方が熱心に教えてくださり、妻はバプテスマへと導かれました。
 妻は、大村市にいた時は熱心に教会に通い礼拝を守り、教会の聖書研究などの活動にも積極的に参加していたのですが、名古屋に転勤後は、私の病気などいろいろなことがあって徐々に教会から離れてしまいました。聖書も読まず、祈りもしない状況が数年間続いていましたが、今年に入り、私が閔先生からイエス・キリストの十字架との出会い、聖霊の導きと働き、そして、神の国への希望を教えられたことにより、神様から心を動かされたからでしょうか。妻に対して、「祈りなさい。そして、聖書を読みなさい。」と語りかけることができ、そして、家族が住む名古屋に帰った時には、妻とともに再び祈ることができたのです。神様の精霊が閔先生を通して働いてくれたのだと信じています。
 妻がまだ名古屋で教会に通っていた頃、妻の親友で子供の健康問題で悩んでいた女性に聖書を送ったことがありました。それがきっかけとなって、その親友だけでなく、その夫と子供も、つまり家族全員がクリスチャンとなったのです。私は、妻の信仰が、聖書を親友に送った時の信仰に再び戻ることを願い信じて愛なる神様に祈り続けようと思います。 
                   S.N 兄

2016.7.3

 『 ネヘミヤに学ぶ④』〜祈りつつ備える人〜
   ネヘミヤ2:4〜10、マルコ福音書13:11
 本日のマルコによる福音書13:11の内容は「小黙示録」とも言われるところで、終末の時に訪れる教会共同体とクリスチャンへの迫害のことが記されています。「地方法院に引き渡され、会堂でうちたたかれ、総督や王の前に立たされて、証をすることになる」という内容です。しかし、ここでイエス様は、恐怖と不安に怯えていた弟子たちに約束してくださいます。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、聖霊が教えられることを話せばいい」と言われる。そしてイエス様は、その迫害の時こそ「証しの時」であると教えておられるのです。そうです。聖霊なる神は、わたしたちといつ、どこでも共におられ、時に適った知恵と助けを与えてくださるお方なのです。
 キリスト者聖霊の助けを信じ祈り続ける人です。イエス様自らも時に適った聖霊の助けを祈りつつ歩まれたことを聖書は教えているのです。
 そして本日の聖書のもう一人ネヘミヤもイエス様同様、祈りによって導かれた人でした。アルタクセルクセス王から、「何を望んでいるのか」と問われた時、ネヘミヤが取った行動は「天にいます神に祈る」ことでした。突然訪れたチャンス、たったの一瞬の時でした。普通の人は慌てて頭にあったことをすぐ口にしてしまうことでしょう。しかしネヘミヤはそうではありませんでした。彼はいつもそうであったように、まず短く矢を射るように簡潔で焦点を絞った祈りを天にいます神にささげます。ネヘミヤは慌ただしく流れていく時間、それでも一瞬立ち止まって神の助けと知恵を求め祈るのです。このことこそ使徒パウロが勧めていた“絶えず祈りなさい”という言葉の実践であるでしょう。
 神の助けを信じ、祈りをささげたネヘミヤは、すでに心に備えていた計画をアルタクセルクセス王に述べます。「エルサレム城壁と町を再建したいということと、ユダに着くまでの安全と城壁再建のための材料をもらうための書状が必要であること」を。わたしたちはここでネヘミヤが神に祈り、神が与えてくださった機会のためにしっかりと備えていたことを学ぶことができます。そうです。わたしたちは神が恵みによって応えてくださることを祈り求めつつ、祈りの中で神と相談しながら次のことを準備することも大切です。
 わたしたちの祈りの生活はいかがでしょうか。たったの一瞬であっても自分の知恵を捨て、聖霊の助けと知恵を求め祈りましょう。そして、祈りと共に信仰の中で備えをし、導かれたことを恐れずに実行していくことです。神は生きた祈りの人を通して御業を成し遂げられるお方です。ハレルヤ!

2016.7.3

神の国か、欲望の国かの選択 〜
"「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。(Ⅰヨハネの手紙4:20)"
 英国のEU離脱の影響が世界を揺り動かしています。そしてアメリカの大統領選挙ではトランプさんの差別と葛藤をあおるような言動がますます激しくなってきています。興味深いことに英国とアメリカの現在をつなぐ言葉こそ、葛藤であり、差別、ナショナリズムであるでしょう。若者と年寄り、人種、イスラム教とキリスト教、国と国との葛藤が広がり、それに伴う差別が深刻化している状況です。それに加え、“わが国、わが民族だけが良ければいい!”と言うナショナリズムが世界を支配しています。これらの中に潜んでいるのは利己主義の欲望!  英国も、ヨーロッパの国々も、アメリカもキリスト教信仰の上に立った歴史をもっていますし、今もなおその影響は変わりません。だからローマ法王がトランプさんを指して“彼はクリスチャンではない。”と言った言葉に対して、猛反発したのでしょう。しかし聖書が教えている福音は、葛藤や差別ではなく愛であって、ナショナリズムでなく神の国であることを世界のキリスト者たちは忘れないことです。今こそ敵であったユダヤ人が強盗にあった時、愛と憐れみをもって最善を尽くしたサマリア人のように、隣人を愛する教えに立ち返る時、愛の福音を実践する時ですシャローム