2017.10.8

『ただ、信仰によって④』 〜ジャン・カルヴァン〜 (Ⅰコリント10:31、Ⅱコリント2:14〜17)
 カルヴァンはフランスのノワイヨンという小さな町で生まれました。カルヴァンのお父さんも、ツヴィングリやルターのお父さんのように、自分の息子が最高の教育を受け、弁護士になることを望んでいました。しかしカルヴァンは弁護士の道を捨て、神学者の道を進むことになります。彼は1533年のある日、“神が私の心を捉え、従順の道へと導かれた。”と突然の回心を経験することになります。カルヴァンは、若い時にルターとツヴィングリの本に触れて成長していきました。その後、カルヴァンはフランスで起きたプロテスタントへの弾圧を受け、スイスのバーゼルに避難しますが、1536年3月、キリスト教神学の傑作と言われている、『キリスト教綱要』という本を出版することになります。
 もともとカルヴァンは自分が宗教改革の先頭に立って導くリーダーになることを望んだことはなく、静かに学者としての人生を歩もうとしていました。しかし神はカルヴァンの望みとは裏腹に、彼を宗教改革の先頭に立たせようと計画しておられた。神はカルヴァンを思いもよらない方法でフランスからスイス、しかもスイスのジュネーブへと導かれたのです。 
 カルヴァンは、ジュネーブを「神政政治」の都市にしようと望み、強力な改革を行ないました。カルヴァンの改革の基準となったのが聖書の御言葉と説教でした。とりわけカルヴァンは、存在しているものはすべて神によって創造され、神の摂理によって治められ、守られていると教えました。またキリスト者は、神が永遠からキリストにあって恵みによって選ばれた民であり、この救いにあずかった者は、主権者なる神に生涯を通じて栄光を帰し、仕える義務と責任が生じることを伝え続けました。まさにジュネーブは、神の御言葉が統治する都市に変わっていったのです。
 ルターの神学の中心が「信仰義認」であったならば、カルヴァンの神学の中心は「絶対的な神の主権」にありました。この「絶対的な神の主権」から具体化されたのが、「予定論」であり、「職業召命論」でした。神が人を選ばれたのは、その人を教会のみならず、社会全体、世界のすべての領域に、神の栄光を現わす道具として用いようとする計画であったことを、カルヴァンは伝え続けました。当時のカルヴァンがもたらした影響は、教会を超え、西欧社会全体に広がっていきました。特に政治、経済、労働、教育、福祉などあらゆるところまで改革の波が及びました。
 カルヴァンは55歳となった1564年2月、説教の途中に倒れ、病床においても執筆を続ける中で死を迎えることになりますが、彼は常に“主が再び来られる時、自分が怠惰な生活をしている姿を主がご覧になったらどうしましょう”と語りつつ、神の栄光を現わすために一分一秒を無駄にすることはなかったと言われています。ハレルヤ!
“だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。”