2018.9.2

〜 福音が語られる教会 〜
 休暇中の先週の主日、息子と一緒に礼拝をささげるため近くの教会を訪ねました。その教会はバプテストでなく、違う教団でした。しかし、同じプロテスタント教会でしたので、牧師の宣教や礼拝プログラムなどを楽しみにしつつ礼拝に集いました。
礼拝を導いていたのは、その教団の引退牧師であって、教団の中でかなりの影響力をもっているようでした。礼拝は式文に従って進められ、とても新鮮でした。そして、いよいよ宣教の時になり、テキストはマルコによる福音書の主イエスが湖を歩いて弟子たちのところに来られるという場面でした。早速、牧師の方から信徒たちに質問が投げかけられました。“皆さんはイエスが湖を歩いたと信じますか。・・・信じている方は手を上げてください”・・・その声に、礼拝に集っていた人の約半分の人が手を上げていました。その後、牧師からの一言、“皆さんの信仰は素晴らしいですね。〜しかし私は、イエスが湖の上を歩いたとは信じていません。”・・・この言葉に会衆の方から“ヘー”という驚きと戸惑いの反応が飛び交いました。・・・その後、その牧師は、古くからの批評的な読みとして、イエスは海を歩いたのでなく、岸辺に立っていたけど、弟子たちが高い波のゆえにイエスが歩いてくるような錯覚をしたのだ!という説明をしました。
 礼拝を終え、教会を離れながら一人の牧師として心苦しさを覚えました。聖書の福音の御言葉がそのまま語られず、人の経験と理性、見解などによって変えられてしまい、神の奇跡が神話や嘘の領域になってしまう。しかもそのような主張がそのまま宣教で語られてしまうことを目の当たりにしながら、悲しまれる神の御顔を思い浮べました。キリスト教会の命は福音にありますし、ただ信仰によって生きることに力があることを忘れてはなりません。福音が鮮明に語られる教会が、主に喜ばれる教会です。シャローム