Hatena::ブログ(Diary)

広瀬正浩のブログ

2016-05-08

ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』読了

かなり時間がかかったのですが、ようやく読了しました。
ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』(新潮社、藤井光訳)。
かなり充実感はあったのですが、ズシンと来るというよりは、苦い味がじんわりと口の中に広がる感じですね。読了感は。

かつて内戦時に反政権的な演劇をおこなっていた劇団「ディシエンブレ」を率いていたヘンリーは、政治犯としての罪を着せられ投獄されていた。その間にヘンリーはロヘリオという男性と深い関係になるが、囚人としての生活は彼を絶望に陥れるものであった。
その後ヘンリーは、周囲の勧めもあり、いまや伝説と化したディシエンブレを復活させ、かつて演じたことのある『間抜けな大統領』という演目を国内のあらゆる場所で上演することにしたのだが、そこにネルソンという若者が加わることになる。ネルソンは、伝説的なディシエンブレに憧れを持っていた。ネルソンはヘンリーと衝突しながらも、『間抜けな大統領』の上演に没頭していく。
しかし、ある田舎町(それは亡きロヘリオの故郷であった)でネルソンは、「ネルソン」であることを失ってしまうような経験に巻き込まれてしまう。そしていろいろバタバタしたことがあり、やっとのことでネルソンは首都に戻るものの、かつての恋人はネルソンを拒み、ネルソンは殺人の容疑で逮捕されてしまう。

……以上のような出来事を、語り手である「僕」が、ネルソンの周辺人物に取材をしながら、その語りによって再現していく。
取材を受けている者自身の生の声と、「僕」の想像力によって構想されていくネルソンの物語とが、交錯しながらテクストを形成していく。
雑誌記者である「僕」は記事にしていくつもりで、ネルソンに興味を持ち、ネルソンの周辺を取材し始めたのだった。
だけど最後、「僕」は囚人としてのネルソンと面会して拒絶されてしまう。
ネルソンは言う、「誰が奪ってきたのか、誰が奪われてきたのか、ここではっきりさせておこうじゃないか」。
ネルソンが「奪ってきた」者としているのは、おそらく「僕」も含まれている。そしてこのような読みが成立するとき、ネルソンのことを語ろうとするその行為こそが犲奪瓩魄嫐することになる。

文学研究をしていると、「他者の内面を語ろうとする行為=他者の内面の横領という名の暴力」という解釈を文学テクストに対して行う論文に出くわします。自分も書いたことがある、かな。
そのような解釈に慣れている者にとっては、この小説の内容はありふれているものであるのかもしれない。
でも、そういうありふれた解釈をしただけでは片づかないような後味を、この小説は残してくれます。
そのあたり、まだうまく言葉にできないけれど。
……読んで良かったなと思いました。

ダニエル・アラルコンには『ロスト・シティ・レディオ』というデビュー作があるのですが、まだ僕は読んでいません。
ぜひ読んでみたいと思います。

2016-04-28

最近読んでる本 ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』

久しくブログを更新していなかったわけですが、それは何もしていなかったからではなく、読書感想を書きたいものの、本が読み終われないからなのです。

今読んでいるのは、ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』(新潮社、藤井光訳)です。
この小説は『ロスト・シティ・レディオ』(僕は未読)でデビューしたペルー系のアメリカの作家の小説で、とても面白く読んでいるのだが(きっと訳者の訳も素晴らしいのだろう)、読書の時間がなかなか確保できず、前に進んでいかないのです。
半月ほどかかって、ようやく第一部を読み終えました(全体の5分の2ぐらいかな)。

舞台となる国は、はっきりとは示されていないと思うけど、たぶん内戦やテロのあったペルー
主人公ネルソンはアメリカへの移住を夢見ながらも挫折し、かつて政府に目をつけられて投獄されてしまったこともある劇作家ヘンリーたちと一緒に、劇をしながら国内を巡回するという物語(少なくとも第一部の段階では)。
ただ気になるのは、この小説は「僕」による彼らへのインタビューによって構成されており、ヘンリーたちによる回想(しかも喪失感に溢れた)が、過去の彼らの巡回を浮き彫りにしていくという語りの形式の中で、何か決定的なことがまだ語られずにいる……ということなのです。
おそらく第二部以降を読み進めていけばわかるのですが。

しかしながら、この小説は面白い。
ネルソンやヘンリーたちの物語、ヘンリーと彼の投獄時代の仲間(恋人)との物語、ネルソンとその周辺の人物たちとの物語、そして彼らと「僕」とのコミュニケーションの物語。
様々な物語の重なり合いが醸し出す雰囲気が、僕の中の好奇心(文学が好きという気持ち)をくすぐってくれます。

早く読み終わりたいし、読み終わった後はじっくりと余韻に浸って、噛みしめるようにしてその思いをブログに綴ってみたい。

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2016-04-09

新年度の近況報告

簡単な近況報告。Facebookにも報告したことですが、こちらのブログでも同じことを載せます。

新年度も始まり、新しい学生との出会いの季節となりました。
僕も楽しく授業ができればいいなと思っています。

ここ何年か、僕が非常勤講師として勤めている愛知教育大学での授業が話題になっていたのですが、今年も少しだけ(ネット上で)話題になりました。

  http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1604/06/news149.html

広瀬という奴は、昨年まで『ソードアート・オンライン』を教材にしてたけど、今年は『化物語』なんだ……というだけの内容です。

本人としては、自分が興味深いと思う教材を学生と一緒に考えていければいいなと思っているだけなのですが、なぜだか習慣的に注目されてしまっています(賛否に分かれているようです)。
そんなに話題性があるとは思えないんですけどね。
ちなみに僕は、自分の本務校(椙山女学園大学)のゼミでも『化物語』を扱うことにしているし、他大学の他の先生の授業だって、僕なんかより珍しい教材が扱われていると思うんですけどね。


あと、Twitterのフォロワーさんから教えていただいたのですが、どうやらWikipediaに「広瀬正浩」の項目が立っているようなのです。

  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E6%AD%A3%E6%B5%A9

どなたが執筆したのか分かりませんが、お手数をおかけしました。
書かれていることは基本的に間違っていませんが、「日本の国文学者」という紹介は、ちょっと照れくさいです。
自分を「国文学者」と思ったことはないですよ。
「国文学者」っていうと、僕的には風巻景次郎とか池田亀鑑とかそういう人たちですよ。
日本文学研究者」ぐらいでお願いします。

2016-03-27

伊坂幸太郎『ガソリン生活』(朝日文庫)読了

外国文学を読んだ後、今度は日本の作家の小説を読もうと思い、書店で手にしたのが、伊坂幸太郎ガソリン生活』です。
僕は朝日文庫版(2016年刊行)を購入して読みましたが、単行本は2013年に朝日新聞出版から出ているのですね。

伊坂作品は、これまでにもいろいろ読んではいるし、卒論で取り上げていた学生も過去にはいたので、多少は馴染みのある作家さんです。
いつも、いっぱい伏線を張って、最終的に全部回収していくし(その回収の仕方が読んでいて爽快ですよね!)、主人公はたいがい犇然にして甓燭の事件に巻き込まれていき、その主人公の些細な出来事が結果的に大きな出来事の展開を生む、というところが伊坂作品の面白さだと思います。
あとそれと、スターシステムじゃないけれど、他作品に登場する個性的な登場人物が別の作品にも登場する、とか。
そして、一言で成り立つような狎亀銑瓩箸いΔ發里鷲舛れなくて、人間関係やその場の状況で狎亀銑瓩亮舛規定されるというような物語が多い気がします。
……もっとも伊坂作品の全てを読んでいるわけではないので、ここに書いたのはあくまでも僕が読んだ範囲での伊坂作品の特徴だとは思いますが。

さて、この『ガソリン生活』の主人公というか語り手の「僕」は、緑色のデミオ。……自動車です。
最近よく犁漆猷臭瓩箸いΔ里流行っていますが、刀が美少年になったり、戦艦が美少女になったりというのではなく、見た目やアイデンティティは自動車で、ただ人間の言葉が分かるし、他の車との会話もできる、という形での擬人化がこの作品にはあります。
この語り手の設定は、面白いですね。
「僕」は持ち主である望月一家(特に長男の良夫と次男の亨)が車内で話す内容に聴き入り、事件に巻き込まれようとする彼らを何とかしたいと思いつつも、その事件そのものには主体的に関与できない。
また、車内での会話については知ることができるが、自分から離れた場所で展開している出来事については直接知ることができない、そんなポジションから望月一家の関わる事件について語る。
……そんな車ならではの立ち位置が、この語り手の性格を規定しているわけです。
そのような犖譴雖瓩梁μ未らみても、この小説は面白いですね。

あと、自動車同士が仲が良いのが微笑ましくて面白い。
彼らは通りすがりの自動車や駐車場で隣り合った自動車と情報交換をしたりするのですが、基本的にピースフル。
1台1台個性派あるのですが、基本的にみんな好奇心旺盛で、自慢し合ったり、冗談を言い合ったり、助け合ったり励まし合ったり、同情し合ったりするところがある。
ある意味、『きかんしゃトーマス』みたいなところがある。
シリーズ化するんだったら、是非読みたいなあと思う、小説でした。

もちろん、伊坂作品によく見られる、人間社会に対する毒とか、人間の心の中に潜む悪意みたいなものも描いていて、そういうところも読み手をグイグイ引っ張る力になっています。
それからいつものことですが、最後に「参考文献」も載っていて、こういう間テクスト性も面白い。

読んで正解だったなあと思いました。

だけど、もっと有名な伊坂作品とか、読んでないものもたくさんあるので、そういうのも読みたいとは思う。

もうすぐ春休みも終わってしまいますが、新学期が始まる前に、あと少し小説を読みたい。
今度は外国文学に行こうかな、と思っています。

ガソリン生活 (朝日文庫)

ガソリン生活 (朝日文庫)

2016-03-16

エイモス・チュツオーラ『薬草まじない』読了!

以前このブログ上でも『薬草まじない』が面白い!ということを報告していたと思います。
(そのときの内容は、http://d.hatena.ne.jp/toyonaga_ma/20160304/1457039068 )
それがようやく読み終わりました。

子がなかなか身ごもらない妻のために、主人公が家族の反対をおして、〈さい果ての町〉に住む〈女薬草まじない師〉のもとへ薬草のスープを貰いに冒険に出るという話です。
なぜ家族が反対するかというと、主人公の住む町から〈さい果ての町〉に行くまでに様々な難所があり、とても生きて行って戻ってこられるとは思われなかったからです。
しかし主人公が危険を冒してまで旅に出ようとしたのは、主人公の属する共同体においては、子どもがいてこそ夫婦は幸福になれるのであり、子どもがいない夫婦は共同体の中で蔑視されるためでした。

……このあたりの主人公の置かれた状況というのを考えると、少し胸が痛くなりますね。

今日の日本においても不妊に悩み、そして(終わりが分からない)不妊治療に苦しむ夫婦という存在は珍しいものではないわけですが、価値観が多様化している現在とはいえ、「子どもがいてこそ夫婦は幸福になれるのであり……」という考え方は決して絶滅しているわけではありません。
僕たち夫妻も子どもができるまで、この価値観・考え方と少し格闘するところがありました。
この『薬草まじない』の舞台はアフリカですが、アフリカ社会について、訳者の土屋哲さんは「訳者あとがき」で次のように書いています。

アフリカの伝統的な共同体社会では、女は子を生むことによって、先祖から子孫へと連がるタテ糸をつなぐという重大な社会的使命を果たさなくてはならない。だからこそ、子を生めない女は、人間失格ということにもなり、世間からつまはじきにされる。この小説がきわめてアフリカ的、アフリカ伝統文化に深く根差している理由はこの点にある。(岩波文庫『薬草まじない』335〜336頁)
(あとがきの末尾に「一九八三年三月」という記載がある)

これを読むと「マジかよ!」って思ったりするのですが、そういう背景があるのなら、なおさら主人公は旅に出なくてはならなくなりますね。
だけど、あんまりそういう悲壮感が語られないのです。そういうウェットさは、この小説の語りにはないのです。それはそれで面白いですね。
(にしても、「女は子を生むことによって、先祖から子孫へと連がるタテ糸をつなぐという重大な社会的使命を果たさなくてはならない」みたいなこと、今の日本の政治家とか教育者が発言して炎上する……なんて流れ、ありそうです)

主人公は、その冒険のさなか、ジャングルで様々な〈化け物〉と出会います。〈化け物〉と言っても、ジャングルの民なのです。町の住人である主人公にとって、ジャングルに住む彼らは〈化け物〉に見えてしまうのですね。そのあたりの差別的な視線というか、植民地主義的なまなざしというのも、面白いと言えば面白い(このあたりは批評家・研究者的な興味ですが)。
主人公は彼らと遭遇し、驚愕したりするのですが、そんな主人公自身も長年の冒険のため、身なりが化け物じみているのです。主人公はそのことにも自覚的で、その自覚の有無がこの小説の批評性なのかな、と思います。

あと面白いなあと思ったのは、主人公が冒険の伴侶としていたのが、「第一の〈心〉」「第二の〈心〉」「〈記憶力〉」「〈第二の最高神〉」であったという点。
……一言で言えば主人公は自問自答したり葛藤したりしながら旅をしていたということなのですが、彼の中のいろいろな判断基準そのものが擬人化していて、その擬人化された基準と主人公とが対話をしているというのが本当に面白かった。

最後、冒険から戻り、その後もいろいろあって(ネタばれは一応避けておきます)、ようやくハッピーエンドかと思いきや、急に主人公の鼻孔から「第一の〈心〉」「第二の〈心〉」などが外に出てきて、裁判が始まるというところが、大変驚きました。
まるでテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』の第25話「終わる世界」と最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」が始まったかのような驚き。

他の作家の作品と比較して面白いとかつまらないとか言うのは意味がないけど、今まで読んだ小説とは違う面白さがあって、良かったです。

海外の小説を読むのは、いいですね。
日本の小説を読むのももちろん好きなのですが、読んでいると「あ、これは授業のネタになる」とか「これは論文で書きたくなる」とかそういうことが頭をよぎってきて、……そういうのも全然楽しいのですが、そういう読書じゃない読書もしたいなあと思えてくるのです。

本当は、エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』を先に読もうと思っていたのですが、入手できなかったので、『薬草まじない』を先に読むことにしたのでした。
『やし酒飲み』も、もちろんトライしたい。
でも、とりあえず日本人作家のものを次に読むことにしよう。
積ん読してある本たちが「まだかまだか」と言ってますし。

昨日は卒業式

昨日(3月15日)は、僕の本務校・椙山女学園大学の卒業式でした。
その前日は天気が悪かったので、どうなることかと思っていましたが、卒業式当日は見事に晴れましたね。
卒業生は晴れ着を着たりするから、天気が悪いと最悪ですからね、良かったです。
でも風が強かったなあ。

毎年、全体でセレモニーがあった後、各学科ごとの部屋に分かれて、卒業証書の授与があります。
そしてその後、各教員から最後にはなむけの言葉を言うことになっているのですが、これが難しい。
何せ僕は会社勤めの経験がないので、これから社会人になる卒業生に対して、リアリティのあることを言えない。
(もちろん卒業生の全てが会社勤めをするわけでは決してないです)
月並みなことを言っても、素通りされるだけ。

というわけで、僕は海援隊の「贈る言葉」を歌いました!
この曲そのものは、卒業式とかにありがちなベタな曲だとは思うのですが、(参加したことがある人なら分かるけど)ああいう場で歌うというのは、なかなかないもの。
卒業生の記憶に残れば、と思って。

もちろん、ただ目立ちたいからやったというわけではなく、僕なりにメッセージはありました。
「恥を恐れるな!」というメッセージ。
若いうちは失敗もたくさんあって、恥をかくこともたくさんあると思うけど、どうせ恥をかいてもSNSでちょっと騒がれる程度なんだから、恐るるに足らずだ!……ということを全身で伝えてやろうかと思って。

うまく伝わったかな?