rainfiction

アマチュア映画監督 雨傘裕介の世に出ない日々です。

異人との夏−「劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」−

「劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」を鑑賞。


チケット買うときには「あの日見た花のなんちゃら1枚」と言いました。


さて、劇場版、と名がつく作品は、いつからか「劇場版(笑)」と揶揄される風潮がすっかり出来上がってしまい(例:劇場版「スシ王子」)、かつては「劇場版=TVシリーズで人気を博した作品」であったものが、今では「劇場版=とにかくなんか売上を少しでも伸ばすための約束された手法」となっている。「祭り」としての「劇場版」は、製作される作品のほんの一握りと言えよう。


僕自身、劇場版と題された作品をわざわざ観に行くには、よほどTVシリーズを堪能したか、あるいは単体作品として評価が高いか、それなりの条件がなければならなかった。TVシリーズの劇場版では「涼宮ハルヒの消失」を最後に観ていない。
※「踊るFINAL」や「真夏の方程式」は観たが、これはまあ、すでに劇場映画シリーズとして確立しているから除外。


アニメの劇場版といえば、古くは機動戦士ガンダム宇宙戦艦ヤマト、そして我ら世代の金字塔「旧エヴァ劇場版」に代表されるように、TVシリーズ総集編からの新作ストーリーでシリーズを補完し、真のラストで完結する、というひとつの伝統芸能だ。しかもそれで前後編、三部作などザラである。観るものには大きな期待と満足を与える一方、観ないものには「不完全な視聴者」というレッテルを貼るというえげつない商法。
ゆえにアニメ劇場版を観るものは、製作者側の姿勢を常に疑い、「これは本当に観る価値のある映画なのか」と自問しつつも、結局はTVシリーズに対する熱意だけで観てしまう、という一つの情けないプロセスを経ることになる。それもまた世代を超えて受け継がれる伝統である。


では、「劇場版あの花」は劇場版(笑)であったかというと、そうでもなかった。
よくできた総集編ではあるが、ひとつの新作として、丁寧に作られていた。

以下ネタバレあり。


あらすじ
宿海仁太(じんたん)、本間芽衣子めんま)、安城鳴子(あなる)、松雪集(ゆきあつ)、鶴見知利子(つるこ)、久川鉄道(ぽっぽ)の小学生6人は大の仲良しで、「超平和バスターズ」と名乗り、秘密基地に集まって遊ぶ楽しい日々を過ごしていた。しかし、ある夏の日、芽衣子が事故で亡くなり、残された5人の心は離れ離れになってしまう。時は流れ、高校1年生になった仁太の前に、死んだはずの芽衣子が成長した姿で現れる。その姿は仁太にしか見えず、芽衣子は超平和バスターズのみんなに願いをかなえてほしいと言うが、その願いが何であるのか芽衣子自身も思い出すことができない。離れ離れになっていた超平和バスターズは、このことをきっかけに再び集い、芽衣子の願いをかなえようとするが……。TVシリーズで描かれなかった過去の出来事や、TVシリーズ最終話から1年後の成長した仁太らの姿も描かれる。


本作にとって「よくできた総集編」であることは、決して悪いことではない。
そもそも、TVシリーズで完結し、作品が高い評価を得たからこその劇場版であるので、下手に新しいエピソードを追加したり、一度は解決した葛藤を同じように繰り返すことは蛇足にすぎず、したがって、いかに初見にもファンにも受け入れられる総集編にするか、が本作製作の肝であったと思われる。


TVシリーズは主人公じんたんの成長物語だ。
引きこもりで、かつての仲間を失ったじんたんがめんまを介して回復し、成長し、そのかわりにめんまは再び失われる。超平和バスターズが仲間として存続することを願ったヒロインめんまは、願いを叶えて成仏する。
超平和バスターズのメンバーは、シリーズ終盤で各自の葛藤を乗り越え、一気に成長する。インフレである。


葛藤を乗り越えた登場人物。これ以上成長しようがない登場人物。すでに終わった話。
劇場版はそこからのスタートである。
もはや総集編作るしかない。ゆきあつを超える新たな敵…とか、めんまの本当の願いは世界を作り変えること…とか、そういう付け足しもできるわけがない。


というわけで、劇場版は以下のポイントに的を絞って制作されたとみた。


1:あれから1年後のメンバーの姿を見せる(新作パート)
2:描ききれなかった過去を追加する(新作パート)
3:クライマックスはシリーズと同じ(総集編パート。一部新作)


1について。
これは新作映画としての必要条件である。「もう一度彼らに会える」というファンの期待に応えるとともに、ストーリーの最新時間を更新する要素、つまり真の完結という要素である。
必要条件であるがゆえか、さほど新しい要素はなく、メンバーがめんまに手紙を書きながら過去を回想し、秘密基地に集まる、というだけのストーリーだ。物語上の起伏もほとんどないと言っていい。つまり総集編のブリッジ部分である。
つるこの絵の「下手の横好き感」がたまらなくいい具合で表現されていること、あなるが手紙を書きながら悶絶し隣の客のコーヒー倒してポテトポテト、そしてゆきあつ安定の「俺もイケるだろ」のスベリ具合、など、ちょっとした見せ場を交えながら垢抜けない超平和バスターズたちの今を見せていく。



そして我らがリーダーこと(かっけえ)じんたんはというと、なんかもう解脱してらっしゃる。さわやか高校2年生、去年まで家を出るだけで発汗していたやつとは思えない。ルックスもイケメンだ。
ぽっぽは相変わらずの道化回し。作中もっとも闇を抱えた男、もっとも病んだ男、との黒い下馬評を跳ね除け、どうやら楽しく過ごしていらっしゃるようで安心しました。


このように、シリーズを愛した者は、彼らの大きな変化や葛藤を求めていない。その後も仲良くやってる姿を見られれば十分なのである。あなるがじんたんに気持ちを伝える云々は決して大きな問題ではないのだ。そのへんのパラレルワールドは二次創作で散々繰り広げられ非公式に展開されるはずだ。我々は公式な彼らのその後を求めているのだ。


一年後、という時間設計も絶妙だ。これが3年後なら環境は大きく変わっているだろうし、彼らも別のステージに進んでいることだろう。そして何より、気持ちをめんまに戻すことができる地点をすぎているだろう。残酷なようだが、少年期の終わりはノーリターンポイントである。物理的にも精神的にも引き返せない時点である。だからこそ1年後の話。彼らが少年少女でいられるうちの、ほんのひと時。めんまがまだ感じられる時。
もっと先が見たいかもしれないが、そこを求めるのは野暮ってもんだ。


2について。
実はここがメインどころである。シリーズのクライマックスをそのままクライマックスにするにあたり、何らかの要素を入れなければいけない。
個人的にはここがツボで、今作の評価ポイントとも言える。


過去といっても、めんまがこの世を去るまでの短い時間、小学校のときのめんま視点でのエピソードである。
要素を書き出してみると「かくれんぼ」、「めんま超平和バスターズ加入」、「じんたんとめんまの会話」。


これらのエピソードの中で語られるのは、めんまは普段から疎外感を感じており、のけ者、外人と呼ばれ、家からも出なければいけないと思いつめていたこと、そんな彼女を励まし、手を引っ張ったのはじんたんであること、超平和バスターズと秘密基地にめんまを導いたのは他ならぬじんたんであり、めんまはそんな彼を好きだったこと。
これは非常に重要な要素である。知っていたようで知らなかった事情である。


そもそも「なぜめんまはじんたんにしか見えないのか」、「めんまはなぜじんたんのもとに現れたのか」、という理由付けはほとんど語られてこなかった。なんせ主人公だしなんかお互い好きっぽいよね、と我々は勝手に納得していたのだが、劇場版では、その理由に焦点が当てられる。


過去のエピソードで、「のけ者、外人と言われ、居場所がない」と嘆くめんまに対し、じんたんは「それならうちに来い。あるいは秘密基地があるやんけ」と伝え、かくれんぼでめんまの腕をとるじんたんに、めんまは(異性として)好意と信頼を寄せていることが明らかになる。


そして総集編パートに追加された新しいモノローグ。


最後の夜、じんたん宅で横になりながら過去を想うめんま
じんたんが手を引っ張ってくれたから、めんまはじんたんのところに来たのかもしれないね、と自ら語る。


「なぜめんまはじんたんにしか見えないのか」「めんまはなぜじんたんのもとに現れたのか」
その理由は、シリーズクライマックスの手紙に繋がる。


博愛や友愛、「みんななかよし」を優先してきためんまが、最後にじんたんだけに宛てた「好き」。
恋愛としての気持ち。
そんな気持ちが、過去にめんまの死を招き、仲間を失わせたにもかかわらず。
じんたんがめんまに伝えた好意が、消えゆく自分に向けられたものと知りながら。


僕はこの手紙のシーンだけは本気で辛い。感動とかじゃなくて悲痛。


めんまは最初からじんたんが好きだったから、彼の元へ現れたのだと語られる。
じんたんには主人公たる資格があった。
押しかけ女房を気取る、死んだはずの女の子を好きになる資格があった。
そしてめんまは来るべくして、じんたんの元へ現れた。


それがはっきり語られることが、僕にとっての今回の劇場版のカタルシスであった。


これはもはや別名「異人との夏」ですよ!山田太一大林宣彦の狂ったコンビネーションですよ。


クライマックスはTVシリーズそのままに残されている。
しかし、これらの過去を挿入することにより、より新たな感情を被せることができる。
まさに劇場版という盤面における凶手っ……!魔の一手っ……!


TVシリーズの内容をそのままに感情を再生産することこそ劇場版のひとつの目的であると信じたが故に、こうした話はこびとなったのだと推察する。そしてそれはすごく慎ましやかに織り込まれた意趣であることに、僕はとても安心し、満足して劇場を出た。
TVシリーズ好きなら見てもまったく問題のない良作であった。
観たことない人は……「異人たちとの夏」を見てから観に行きましょう。



鶴太郎ポジション



ただし、個人的にダメな描写がある。



登場人物はやたら涙を流すのだが、涙量MAXになったときの描写が記号的すぎて、「イイハナシダナー」のAAにしか見えない。
まだ目の下から顎まで線になって流れるのはありとしよう。だが、顎の下で滞留して顎先でしずくになる、そのジェル状の液体はなんですか。
記号的号泣描写はわかるし、生身の人間みたいに泣かせろとは言わんが、さすがに登場人物全員、顔にジェルをたたえているカットは失笑を禁じ得なかった。もうちょっと控えめで……

雑記

なお、劇場には高校生のオタクっぽい3人組やら、大学入りたてのオタクやら、すごく可愛い女子お一人様など、若年層を中心とした多くの観客が入っていた。やっぱり人気なのね。


僕が彼らと同じ年の頃、岩井俊二の「打ち上げ花火、下から見るか横から見るか」を繰り返し見たことを思い出す。
「打ち上げ花火〜」のサントラを担当したREMEDIOSの劇中歌を聞くと、自らのそんな時代を思い出す。
「あの花〜」の製作者も「打ち上げ花火〜」ちょっとしたオマージュを捧げているのではと思ってしまう。


若い観客にとっても今作が、ある時の夏の空気をパッケージした作品になるのだろうか。
それはそれで良い。
でも、生身でも幽霊でも、女の子が自宅に押しかけて自分を導いてくれる、という妄想はしないほうが良い、とだけ忠告しておく。じゃないと現実のダメージは思いのほか大きいぞ。