les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

『ゴダール・ソシアリスム』覚書(2) シナリオ採録の増補に向けて

昨年末に公開された『ゴダール・ソシアリスム』についての覚書を、勤務先の紀要に寄せた。

堀潤之「イメージ、写真、社会主義――『ゴダール・ソシアリスム』をめぐって」、『関西大学文学論集』第60巻第2号、2011年9月、47–62頁 全文(PDF)

これは、表象文化論学会のウェブ上のニューズレターの『REPRE』11(2010年12月)に寄せた短評「イメージの社会主義——『ゴダール・ソシアリスム』をめぐって」(全文)に大幅に加筆したものである。なお、この紀要はいずれPDFで公開されるはずのものなので、やや先走ってここにPDFをアップしておく次第である。

大幅に加筆した部分は、ほとんどが『ゴダール・ソシアリスム』に頻出する「写真」のモチーフについて触れた箇所である。加筆にあたって、大きな着想源になったのは、イギリスの映画研究者にして仏文学者のロラン=フランソワ・ラックがスペインの映画批評誌『Lumière』の『ゴダール・ソシアリスム』特集号に寄せた論考である(この論考の英語版は、イギリスの映画雑誌『Vertigo』のオンライン版にいずれ掲載されることになっているそうだ)。

ロラン=フランソワ・ラックとは、2001年にロンドンで行われたゴダールをめぐる国際シンポジウムFor Ever Godardで知り合った(このシンポジウムの概要については、かつて短い報告を書いたことがある)。当時、彼もわたしも『映画史』の膨大な引用の出典(とりわけ、文学作品からの引用の出典)を可能な限り突き止めることに興じており、彼に教えてもらった出典も少なくないし、逆にこちらが教えた出典もわずかながらある。この種の微視的な探究はとかく軽視されがちだが、作品の些末とも思える細部がより大きな興味深い見通しに結実している好例として、『勝手にしやがれ』に一瞬だけ登場するモーリス・ザックスの『アブラカダブラ』の書影とその帯に書かれた「われわれは休暇中の死者たちである/レーニン」という文句の顛末をたどった彼の論文「A bout de souffle: The Film of the Book」(ここで全文が手に入る)を外すわけにはいかないだろう。

同じ頃、パリでは高名な映画研究者のジャン=ルイ・ルートラが『映画史』の徹底して微視的な読解を試みていた。彼はすでに1994年に『映画史』旧版の1A冒頭部分を詳細に論じた文章を発表していたが(Jean-Louis Leutrat, "Histoire(s) du cinéma ou comment devenir maître d'un souvenir," in Cinémathèque, nº 5, printemps 1994, pp.28–39)、わたしが彼と出会った2003年頃には、それをさらに全8章にまで拡張した作業の必要性を訴え、3A「絶対の貨幣」を精密に記述した草稿を見せてくれた。その仕事は、やや形を変えて、映画批評誌『Trafic』の70号(2010年夏号)から76号(2011年冬号)まで7回にわたって«Retour sur Histoire(s)»として連載された。まさかこれが彼の絶筆になろうとは想像だにしていなかったのだが…(彼は今年の4月29日に70歳で逝去した)。

ルートラは、『ゴダール・ソシアリスム』に関しても、同じような作業の必要性を感じていたに違いない。以前、このエントリーでも触れた、Independencia同人のアルチュール・マスとマルシアル・ピサニによる『ゴダール・ソシアリスム』の詳細な読解は、その後、先にも挙げたスペインの映画批評誌『Lumière』の『ゴダール・ソシアリスム』特集号の目玉として、集団執筆というかたちで大幅に増補されて掲載されている(その英語への抄訳はここに掲載されている)。そこに付された註によれば、やはり仕掛け人はルートラだったようだ。

さて、今年初め、クリスタ・ブリュムリンガーの仲立ちで、ウィーンのヴェルナー・ラップル氏と知り合った。彼の名前は、アビ・ヴァールブルクの《ムネモシュネ》との関連で聞き覚えがあったが(田中純氏のウィーン報告や、Werner Rappl, «Les sentiers perdus de la mémoire», Trafic, nº 9, mars 1994, pp.28–37を参照されたい)、今は『ゴダール・ソシアリスム』をドイツ語に訳した上で、詳細な注釈を付ける作業に取りかかっているとのことだった。ちょうどわたしも『ゴダール・ソシアリスム』のシナリオ採録と注釈の作業を終えたばかりだったので(「『ゴダール・ソシアリスム』シナリオ採録」、『ゴダール・ソシアリスム』劇場パンフレット、東宝フランス映画社、2010年12月、13-28頁)、たちまち意気投合し、しばらくの間(いや、今もなお断続的に)、互いに不足を補い合うことになった。彼の徹底した注釈は、いくつかの論考とともに、遠からず出版されることになると聞いている。

ところで、今度、紀伊國屋書店から『ゴダール・ソシアリスム』のブルーレイ版が出ることになっている。その封入リーフレット採録シナリオと注釈を転載することになっており、目下、増補・改訂の作業に取りかかっている。以下は、その作業に向けた覚書である(括弧内のノンブルは、劇場パンフレットのもの)。

第1楽章 こんな事ども

  • 第1楽章の中ほどで、黒人女性のコンスタンスが、強風の吹く真っ暗闇のデッキで、カメラの方を一瞥してからこう語る。「哀れなヨーロッパ。苦悩によって清められるどころか、堕落し、取り戻した自由によって高揚するどころか虐げられている」(18頁)。これは出典不詳だったが、第3楽章でも引かれているマラパルテの『皮』からの引用だった。第4章「肉のバラたち」では、解放されたナポリにおける売春や腐敗など諸々の道徳的な「ペスト」――これは第1章のタイトルだが、『皮』の当初予定していたタイトルでもあった――のうち、ヨーロッパ中の同性愛者たちが、捨て鉢になって身体を売る若者目当てにナポリに押し寄せるという事態が物語の背景になっている。引用されているのは、ミラノの名門の出で、ギリシャ的な男性美を誇る、ゲイでコミュニストのジャンルイという若者についての、マラパルテの分身である主人公の評言である。その部分を、邦訳から引いておこう(ただし、今細かく検討する余裕がないが、「苦悩によって」以下の形容は仏語訳では明らかに「ヨーロッパ」にかかっているので、邦訳は問題なしとしない)。なお、同じ箇所はすでに『フォーエヴァー・モーツァルト』の最初の方でも引かれている。

 ジャンルイは僕の目に、ヨーロッパにおけるこの若い世代の「選ばれた階層」の映像としかうつらなかった。つまり苦悩によって清められずに腐敗し、取得した自由によって高められずに、おとしめられたものの映像、すなわち「売られた青春」としてしかうつらなかった。彼らはなぜ「売られた青春」であってはならないのか。僕たちもまた若いときに売られた。このヨーロッパでは不安からにせよ、空腹からにせよ、街上で売られることが、若いひとの運命だ。若さが氾濫する。つまり、若さが生活や国家活動のなかで、自分の役割を演じるのに慣れてしまうのは避けがたいことだ。いつか、おそかれ早かれ、若いひとびとは街上で、不安とか空腹よりもっと悪質なもののために売られるようになるものなのだ。これが彼らの必然だ。(クルチオ・マラパルテ『皮』、岩村行雄訳、村山書店、1958年、117頁)

第2楽章 どこへ行く、ヨーロッパ

  • 冒頭で父親が述べる長台詞は、どうもいろいろな引用源のコラージュのようだ。劇場パンフの採録を作ったときには特に引用だとは思っていなかった「「私」と言えるためには、「われわれ」と言わねばならない」(Il faut savoir dire nous pour pouvoir dire je、19頁)も、おそらく、アンドレ・ゴルツの観念的な自伝『反逆者』(1958)にサルトルが寄せた序文「ねずみと人間」の末尾付近からの引用だろう。

今日では、自己について語るには、三人称単数と一人称複数との二つの方法しかないからである。《わたし》と言うためには、《わたしたち》と言うことができなければならない(Il faut savoir dire «nous» pour dire «je»)。このことは、議論の余地がない。しかし、逆もまた真である。もしどこかで専制的に、まず《わたしたち》を確立しようとして、各個人の主体的な思考の営みを奪い去ることが行われれば、いっさいの内面性はたちまちにして消失し、それと共に、相互の関連も失われてしまうであろう。つまり、かれらだけが、いつまでも勝ちを占めていることになり、わたしたちは、〈吸血鬼〉の餌食にされた狂ったねずみ類のように、実験室の迷宮の中を走りつづけていなければならないであろう。(田辺保訳、『シチュアシオンIV』、67–68頁)

  • 第2楽章には誤訳があった。母親がピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』の序文からの引用をしゃべっている以下の箇所で、douterを使った構文の意味を正反対に取ってしまった。丁寧な指摘が持田睦氏によってなされているので、詳しくはリンク先を参照して欲しい。この場を借りて(いまさらながら)御礼申し上げたい。

母親 それに対して、生命を持つということが少しも重要ではない登場人物、母親という登場人物がいる――生命を持つということを、それ自体で一つの目的とみなすのであれば。彼女は自分がまだ生きていることをまったく信じて疑わない。 彼女は、自分がまだ生きていないのではないかとは、少しも思っていない。自分がどのように、なぜ、またどんな仕方で生きているのか自問するという発想は決して生じない。要するに、彼女には登場人物であることの自覚がない。というのも、彼女は決して、ただの一瞬たりとも、自分の役柄から切り離されることがないからだ。自分が役柄を持っているということを知らないのだ。(20頁)

  • フロリーヌは、「BE動詞(être)を使う人と話してはダメよ」(20頁)、「HAVE(avoir)という動詞を使えば、フランスではすべてがもっとうまくいく」(採録では「BE動詞ではフランスは動かない」、21頁)と言う。この発想は、やはりアンドレ・マルローの『希望』の第1編「叙情的幻想」の第2部「アポカリプスの実践」第2章第5節にみられる次の一節に呼応するものと考えるのが自然だろう(ラップルの教示による)。なお、この箇所の一部は、『映画史』の1Aにも、(おそらく)映画版からの台詞だけで引用されている(38:19-38:39あたり)。

共産主義者たちはなにかをやろうと思っている。君やアナキストの連中は、理由こそちがえ、なにかであろうとしている…。それが今度のような革命につきものの悲劇なのだ。われわれの生を支えている神話は矛盾に満ちている。平和主義と防衛の必要性、組織とキリスト教の神話、有効性と正義、等々。僕たちはそれらを整理し、僕たちの黙示録を軍隊に変えなければならない、さもなければ死あるのみだ。それだけのことだ。(岩崎力訳、『新潮世界文学45 マルロー』、1970年、575頁/Malraux, Œuvres complètes II, Gallimard, 1996, pp.182–183)

  • フロリーヌがガレージで、父親に向かって言う台詞「私が自分自身に話しかけるとき、私は他者の言葉で話す。自分に語る他者の言葉で」は、ポール・リクールのあるインタヴューでの発言に基づいている(ラップルの教示による/詳細は確認中)。「言葉は、私がそれを学ぶよりも前に、私に向けられていました。言葉を自分のものとする以前に、私が言葉をかけるずっと以前に。よく、胎児は誕生する前に他人の声を聞くと言いますが、それは非常にありそうなことです。私たちはおそらく、生まれる前に、言葉の中に入っていたのでしょう。私が自分自身に話しかけるとき、私は他者の言葉で話すのです。自分自身に語る他者の言葉で」(Le Monde de l'éducation, nº 249, juin 1997, p.26)。
  • 同じく、フロリーヌがガレージの机の前で口にする「他方は一方の中にあり、一方は他方の中にある。それが三つの人格である」(22頁)というブランシュヴィックに基づく(とゴダールが言っている)一節は、再び持田睦氏が指摘しているとおりパスカルの『パンセ』483番の末尾の一節「すべては一つであり、一は他の中にある。聖三位一体のように」Tout est un, l'un est en l'autre, comme les trois Personnes(田辺保訳、角川書店、1968年、277頁)をゴダール流に勝手に解釈したものであろう。
  • フロリーヌが父親と二人きりで話しているシーンで口にする「美しき二十歳の身体」(23頁)は、ランボーの詩「慈愛にみちた修道女たち」の一節。
  • リュシアン少年は、ガレージの外階段で絵を描いているときに、カメラガールに「何よ、ルノワール?」と言われて、「そう。この動物は美しいものをとらえ損ねたのです」(24頁)と答える。ラップルによれば、これはフランス初期映画の監督フェルディナン・ゼッカが、反共団体の文化自由会議の雑誌『Preuves』で、シェイクスピアについて語っている言葉らしい(詳細は確認中)。だとするなら、「animal」を「動物」とせず、もっと明快に「やつ」くらいにしておいた方が良さそうだ。

第3楽章 われら人類

  • オデッサ」のパートで、ドゥニ・ド・ルージュマンの『手で考える』に基づいたパッセージの最後の方に「宇宙を追い払う微笑み」(26頁)という印象的な文句があるが、これは『映画史』4Aの冒頭でも引かれていたヴァレリーの詩の一節だった(「ある声の聖歌」Psaume sur une voix、『続ロンブ』所収)。
  • そのすぐ後に、大きな本を真剣なまなざしで読んでいる少女の挿絵が登場する。これは19世紀後半のイギリスの女性画家アデレード・クラクストンの《ワンダーランド》という作品の細部だった。


  • ナポリ」のパートの最後の方で、「教会の中に入ってくる兵士たちの映像」(27頁)は、ロッセリーニの『戦火のかなた』の第1話からの引用(シチリアに上陸したアメリカ兵たちが、教会の中に隠れていた住民たちと出会うシーン)。