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2014-12-31

ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』覚書(3) 『ユリイカゴダール特集号

さらば、愛の言葉よ』(Adieu au langage, 2014)が2015年1月31日から公開されるのに先だって、「ゴダール2015」特集を組んでいる『ユリイカ』2015年1月号(目次)が先週末に出た(ほとんどの論考が、やはり映画を見てから読むべきものであることを考えると、出るのがいささか早すぎたという気はする)。わたしは論考とフィルモグラフィを執筆したほか、いくつかの海外文献の翻訳にも関わった。書誌情報は以下の通り(掲載頁順)。

  • ゾエ・ブリュノー「ゴダールを待ちながら」(訳=長野督/解説=堀潤之)、『ユリイカ』2015年1月号、112-128頁
  • デヴィッド・ボードウェル(滝浪佑紀・堀潤之訳)「2+2×3D――『さらば、愛の言葉よ』のナラティヴ構造」、『ユリイカ』2015年1月号、129-140頁
  • 堀潤之「ゴダールのデジタル革命と動物のまなざし――『さらば、愛の言葉よ』の3D映像をめぐって」、『ユリイカ』2015年1月号、141-149頁
  • アルチュール・マス/マルシアル・ピザニ(堀潤之訳)「ほとんど無限の対話――『さらば、愛の言葉よ』について」、『ユリイカ』2015年1月号、179-192頁
  • 堀潤之「21世紀のゴダール・フィルモグラフィ」、『ユリイカ』2015年1月号、225-237頁

わたしの論考は、『さらば、愛の言葉よ』の3D映像と、分身および動物のモチーフとの接点をさぐったもの。そこで触れたリルケの『ドゥイノの悲歌』第8歌からの「動物のまなざし」についての引用には、四方田犬彦氏もより詳しく言及している。また、拙稿では特に『ゴダール・ソシアリスム』(2010)以降のデジタル・ゴダールによる新たな映像のテクスチャーを「触覚性」というタームである程度まで説明しようと試みたが、本作の3D映像に関しては平倉圭氏の「新しい種類の透明性」(p.152)を追求しているという指摘に膝を打った。

出演女優のゾエ・ブリュノーによる撮影日誌『ゴダールを待ちながら』については、前エントリーで詳しく触れたとおりだ。

ボードウェルの論考は、彼とクリスティン・トンプソンによる膨大な情報量を誇るウェブログ「Observations of film art」の2014年9月7日のエントリー「ADIEU AU LANGAGE: 2 + 2 x 3D」の抄訳。4つのセクションのうち、「後期ゴダール」のナラティヴ一般について語った最初の部分と、本作の3Dの使用についての所感を記した部分を割愛し、『さらば、愛の言葉よ』のナラティヴ構造を具体的に分析している残りの2セクションを訳出した(そのため副題を付けたのだが、タイトルの「2+2×3D」のうち「×3D」の部分が結局のところ邦訳には存在しないのはご愛敬だ)。このエントリーへの追記もある。

なお、Twitterで葛生賢氏も指摘しているように、本号の対談で蓮實重彦氏が「ボードウェルなど、『さらば、愛の言葉よ』を「美しい作品」と言って論じ始めている」(p.84)としているのは事実誤認である。そもそも、一読すれば分かるように、ボードウェルは本作のナラティヴをもっぱら話題にしているのであり、「美」という言葉こそ二度ほど使っているものの(確かに、割愛した箇所で、一度はやや不用意に)、「「ゴダールは美しい」と言うことの無邪気な犯罪性」を体現している典型例とするのは行き過ぎのように感じる。

3Dについての部分を割愛したのは、他の論者がもっと鋭いかたちで触れるだろうと思ったからだが、実際、先にも触れた平倉氏だけでなく、鈴木一誌氏も本作の3D体験を粘り強く考察している。そこでも、3Dの立体像が「平面層の林立と質感の喪失」(p.101)をもたらすとされており、やはりそうした観点から本作の3D映像がもたらす異次元の体験を考え直さなければならないと(早くも)感じている。また、『フラッシュバック・メモリーズ3D』という創意工夫に充ちた3Dドキュメンタリー映画を撮っている松江哲明氏と、『2012』で抽象映画をプルフリッヒ効果(減光遅延方式)を使って3D化するという驚くべき体験を観客にもたらした牧野貴氏もそれぞれの観点からゴダールの3D使用を論じている。

とりわけ、「視神経や網膜を多分に刺激する「危険映像」」からは「新しい表現は出ないし、出したくもない」(p.109)という倫理的態度を明言する牧野氏が(そのことは、『2012』でプルフリッヒ眼鏡をかけてもかけなくてもいいし、どちらの目を減光させてもよいという比類なき自由を観客に与えていることからもうかがえる)、『さらば、愛の言葉よ』の3D映像による「激烈な視覚攻撃」にほとんど肉体的なダメージを受けながら、「ノーマルな現行の手法を採用し、そのシステムを思い切り破綻せせる」ゴダールの試み、しかも「技術的にはあまりに簡単」で、「劇映画の文脈の中で撮ったからこそ多くの聴衆が目を向けた」試みに、それでも大いに触発されている情景には心を動かされる。

もうひとつ訳出したのは、フランスの映画批評サイトIndependencia同人のアルチュール・マスとマルシアル・ピザニによる「ほとんど無限の対話――『さらば、愛の言葉よ』について」。この架空の対話篇は、身も蓋もない言い方をすれば、ゴダール作品の細部にまで通暁したゴダール・マニアによるいささかペダンティックな連想ゲーム的おしゃべりにすぎないかもしれないが、わたしはそもそもこういう蘊蓄が好きなのだ。『ゴダール・ソシアリスム』の際にも細部まで目を配ったエッセイを発表していたこの著者たちについてわたしは何も知らないが、今回も作品の細部に向けるまなざしが光っている。原文は「1 対話の形式(裏面、分身、反映、影)」がここで、「2 「これはいったいどういうことだ?」(想像上の自伝、既視感、夢の物語」がここで読める。続きとして、アレクサンデル・ジュスランによる「3 犬、領土、テレビ画面(想像上の会話)」もあるが訳出はしなかった。

「21世紀のゴダール・フィルモグラフィ」では『愛の世紀』(2001)以降の全作品を解説した。といっても、いわゆる通常の長篇作品は『愛の世紀』、『アワーミュージック』(2004)、『ゴダール・ソシアリスム』(2010)、『さらば、愛の言葉よ』(2014)の4本しかないので、あとはすべて短篇である(『映画史特別編 選ばれた瞬間』を除けば)。現時点での最新作『溜息の橋』Le Pont des soupirsだけ未見なので、フィルモグラフィの解説が尻切れトンボ気味になってしまったのは許してほしい。

ところで、ゴダール作品を見慣れている人なら以下の写真に見覚えがあるだろう。『映画史』3Bや『古い場所』The Old Place、そして短篇『時間の闇の中で』に出てくる、機械仕掛けで激しい動きをみせる白い布である。小沼純一氏は論考の中でこれをジャン・ティンゲリーのものとしており(p.199)、わたしも長らくそう思っていたのだが、フィルモグラフィの『時間の闇の中で』の項でも触れたとおり(p.228)、これは1997年にル・フレノワでドミニク・パイーニが企画した展覧会《Projections. Les transports de l'image》に出品されたピッチ(Pitch)の作品に違いないだろう(このブログでも実は4年前に、このエントリーの註3でそのことを示唆した)。アラン・フレシェールのドキュメンタリー『ジャン=リュック・ゴダールとの会話の断片』を見てもわかるように、ゴダールの「現代美術」に関する知識は、今も昔も、ほとんどもっぱらル・フレノワとの数少ない関わりに由来するものなのだ。

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