指し示すこと、ラベルを貼り付けること

ふと、疑問に感じたのだけど、「小説家」という言葉は、そもそも名前なんだろうか?
職業名*1なんだから、広い意味での名前に含まれるんじゃない?」
う〜ん。職業名か……。確かに「小説家」という言葉は、ある職業を指し示す名前だと解釈することもできるかなぁ。でも、「ジョン・ディクスン・カー*2は小説家だ」と言う場合なんかどうだろう?
「『ジョン・ディクスン・カー』はある人物を指し示す人名として用いられ、『小説家』はある職業を指し示す職業名として用いられている。それでいいんじゃない?」
いや、この例文では「小説家」は職業名としてではなく、カーがもつ属性を表す述語*3として用いられているんじゃないだろうか? 要するに、ここで「小説家」はカーに対してラベルを貼り付けるために使われていると言いたいわけだが。
指し示すということとラベルを貼り付けるということは、同じじゃないのかい?」
違うと思う。何かを指し示すという行為の典型は、ゆびさしだ。指し示したいものがある方角に指をさしむけるという身振りが、指し示すことの原型にある。ゆびさしと同時に「これ」とか「あれ」とか言葉を添えるところから、この領域での言葉の使用が始まり、さらに進んでゆびさしなしでも対象を指し示すことができるように、名前が生まれたんじゃないだろうか?
それに対して、ラベルとしての言葉は、最初からゆびさしとは関係がなくて、そのラベルを貼る対象がもつ特徴や条件がほかの対象とどのように似ているかということにより関係づけられているのだと思う。何かが何かに似ているとか似ていないとか、そういったことはゆびさしや名指しの場合には関係ないことだから、指し示すということとラベルを貼り付けるということは別の事柄だと思うわけだ。
「いや、指し示すということとラベルを貼り付けるということの間に、それほど目立った対照はないと思う。確かに言葉の発達の歴史を辿れば、ゆびさしが名指しのもとになっているとは言えるかもしれないが、だからといってゆびさしを指し示すということの典型だとみなす必要はないんじゃないだろうか? あくまでも言葉で指し示すということに話を限れば、その際に用いられる名前は何かが何かに似ているという認識とは無縁じゃないと思う」
たとえば?
「カーのある小説を読んだときに感じた印象と、別の小説を読んだときに感じた印象の間には、他の小説家の作品を読んだときには感じられない類似点があるだろう。身近な人の場合なら、昨日会ったときの見かけと今日会ったときの見かけも似ているだろうし。そんな類似や近似が積もり重なって、人を指し示す名前を構成しているのでは? そう考えると、人名もある人に貼り付けたラベルだということになり、『小説家』というラベルと大差ないことになるね」
でも、カーというと、小説家という職業は全然似ていないと思うけどなぁ。すべての言葉が広い意味で名前だというのは無理があると思うよ。
「さすがにそこまでは言わないよ。『しかし』という言葉は何かあるものに貼られたラベルじゃないだろうし、『おや、まあ』もそうだろう。でも、ふつうは名前だとみなされていない動詞や形容詞なども、動作や状態、物事のありさまに対するラベルだと考えれば名前と同じように扱えるじゃないか。そのほうがすっきりしていていいと思うよ」
う〜ん、違うと思うけどなぁ。

*1:ネット小説家など、生業として小説を書いているのではない人もいるが、無視することにしよう。

*2:今年生誕100年なので、たぶん早川か創元で関連企画があると思う。この機会に、ぜひ多くの人に読んで貰いたいものだ。

*3:文法的には、「小説家」単独ではなくその後の「だ」も含んで、主語「ジョン・ディクスン・カーは」に対する述語とされる。また論理学では、この文「ジョン・ディクスン・カー/は小説家だ」と区切ることになるだろう。