「なぜなら彼女は一本足の蛸です。彼女の足は他の誰にも繋がっていません。人として生まれながら人類や他の生命体の何とも共有する部分を持たないのです。真の孤独とは、彼女のために用意された言葉ですよ」
谷川流『絶望系 閉じられた世界』電撃文庫(2005),p.243
2006-05-23
■[雑文]涼宮ハルヒをミステリ史に位置づける前に気をつけるべきこと

これは驚くべき論考だ。
涼宮ハルヒとミステリという取り合わせが意外だというわけではない。谷川流がかなり重度のミステリマニアらしいということは、作品のあちこちに仕込まれたマニアックなネタから容易に推察できることだ。意外なのは、日本ミステリ史についての独創的な見解が示されていることだ。
〈人間原理〉に基づいた、主観的な願望に応じて歪む世界を舞台にしている点で松本清張は小栗の後継者である。そしてこの作風の第三の重要な作家として、清涼院流水があげられる。小栗虫太郎・松本清張・清涼院流水を〈人間原理〉派として一くくりにすることができるだろう。
この3人の作品を少しでも読んだことがある人なら、この驚きを共有してもらえることだろう。逆に、全然読んだことがない人にはちょっとピンとこないかもしれないが、とりあえずこの3人の取り合わせがミステリ史の「常識」ではとても考えられないほど突拍子もないものだと思っていただきたい。「常識」によれば、小栗虫太郎は過剰な装飾に満ちた人工的な作風の作家で、時には幻想文学寄りの作家とみなされることもある。対して、松本清張はいわゆる「社会派推理小説」の巨匠で、従来の探偵小説とは一線を画した大物だ。そして、清涼院流水は……今でも活動中でまだ評価が定まっていないが、少なくともリアリズムの巨匠でないことだけは確かだ。この3人を〈人間原理〉という共通項で捉える視点というのは非常にスリリングで知的興味をそそられる。
だが、その後がいけない。
谷川流の涼宮ハルヒシリーズは、ミステリとしては、この小栗・清張・清涼院の流れの延長に位置すると言える。一方で涼宮ハルヒは、『最終兵器彼女』や『ほしのこえ』などの〈セカイ系〉作品の流れも受け継いでいて、世界の中心に位置し、その願望に応じて世界が変貌するという特異なポジションにいる。そのポジションにいるハルヒであれば、小栗・清張・清涼院流の世界の歪みを起こすことも自在だ。
確かにハルヒは世界を歪ませる特殊能力を持っている。これは、ある種の名探偵のもつ不思議な力と似ていないでもない。だが、ハルヒの特殊能力に着目してこのシリーズをミステリ史に位置づけるという試みには大きな見落としがある。
涼宮ハルヒをミステリ史に位置づけるでは明らかにミステリの構成をもっている作品
として「孤島症候群」*1と「雪山症候群」*2が言及されているが、そこに「猫はどこに行った?」*3と「編集長★一直線!」*4を付け加えてもいいだろう。これらの作品にはある共通点があることにお気付きだろうか?
そう、これらの作品ではハルヒの特殊能力が発動されないのだ。それどころか、今挙げた作品群のうち「雪山症候群」以外では超常現象すら起こらない。例外である「雪山症候群」でも
「僕に解るのは、ここが例の閉鎖空間ではないということくらいです。涼宮さんの意識が構築した空間ではありません」
言い切れるのか?
「ええ。これでも涼宮さんの精神活動に関してはスペシャリストですからね。彼女が現実を変容させるようなことがあれば僕には解ります。今回の涼宮さんは何もしていません。こんな状況を願ったわけでもない。まず無関係と言い切れます。何でも賭けてください、即座に倍賭けを宣言しましょう」
という小泉の台詞により、この物語がルール無用の「なんでもあり」ではないことが宣言されている。もっとも、これで「雪山症候群」のルールが読者に対してクリアになっているとは到底言い難いことは読んでの通りだが。
ともあれ、確かなことが一つある。「涼宮ハルヒ」シリーズでミステリ寄りのエピソードを持ち込んだ回ではハルヒの特殊能力は封じられているということだ。巻数を重ねるに従ってミステリ的な要素がない回でもハルヒが脇に回ることが増えているので、これだけで作者がミステリに対して特別な態度をとっていると結論づけることはできないが、少なくとも
「孤島症候群」では、毎回事件に巻き込まれる名探偵のご都合主義が取り上げられているが(204頁)、そういうご都合主義もこのハルヒであれば、なんら不思議ではなくなる。
という読みが的を外していることは確かだと思われる。なお、『涼宮ハルヒの退屈』の204ページでは確かにミステリの御都合主義が話題になっているが、「孤島症候群」は別に御都合主義に寄りかかった作品ではなく、むしろ御都合主義からの脱却を目指した批評的な作品である。いや、「孤島症候群」に限ったことではない。谷川流という作家のミステリに対する態度が批評的なのだ。ここで「批評的」という言葉にはふたつの意味をこめている。ひとつは、ミステリに対して極めて関心が高いということ。もうひとつは、にもかかわらずミステリから微妙に距離をとっているということ。
よって、
涼宮ハルヒの物語が、いくつかの面でミステリに接近しているものの、ミステリになっているとまではいかないのは、焦点のあたりどころが、謎解きとは若干ズレたところにあるためだ。
という指摘には同意するが、その一つ前の
涼宮ハルヒの場合は、本人が自分の能力あるいは立場に無自覚であり、その能力を知っている周りの人物がハルヒの暴走をくい止めようと奮闘したり奔走したりするところに物語の焦点がある。
という文は涼宮ハルヒシリーズ全体については妥当するとしても、このシリーズのミステリからのズレについての説明としては適切なものではないと考える。
また、
探偵が特殊能力をもちながらも、探偵小説を成立させる試みとして、たとえば西澤保彦『完全無欠の名探偵』や山田正紀『神曲法廷』や笠井潔『天使は探偵』といった作例がある。こういった作品群は、上述の〈人間原理〉をミステリにいかに取り込むかという課題に対する取り組みであると言える。涼宮ハルヒは、その果てに登場した、〈人間原理〉探偵の尖鋭的極限化あるいはなれの果てと見ることができる。
についても同意しない。その理由は簡単だ。ハルヒは探偵ではないからだ。探偵役を演ずるのはキョンのほうで、その際ハルヒは単なる傍観者となる。
涼宮ハルヒをミステリ史に位置づける前に気をつけるべきこと。それは、涼宮ハルヒがミステリの探偵役として全く活躍することがないということだ。
メインヒロインが脇に回るのだから、自ずとシリーズ番外篇のような位置づけになってしまう。これもまた、涼宮ハルヒシリーズがミステリに真正面から取り組まない/取り組めない理由の一つかもしれない。
追記(2006/05/24)
涼宮ハルヒの憂鬱 第8話「孤島症候群(後編)」 アニメ化における最大の目的はハルヒのメインヒロイン化。を読むと、アニメ版ではかなり状況が違っているらしい。
*1:『涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)』所収。
*2:『涼宮ハルヒの暴走 (角川スニーカー文庫)』所収。
*3:『涼宮ハルヒの動揺 (角川スニーカー文庫)』所収。ところで、今ふと思いついたのだが、このタイトルはもしかして『狸はどこへ行った―大浪花諸人往来第2集 (角川文庫)』の捩りだろうか?
kosonetu
2006/05/26 00:51
SFの観点から意見を言わせてもらうと、ハルヒの能力はイーガン的(或いはレム的)な問題設定のためのツールとしてあるように見えます。また、ハルヒがミステリ足りえないのもレムのミステリ(捜査、枯草熱)がミステリになっていなかったのと同じことのようにも見えます。
- 1652 http://www6.ocn.ne.jp/~katoyuu/
- 845 http://www.uranus.dti.ne.jp/~beaker/
- 744 http://d.hatena.ne.jp/milkyhorse/20060703/p2
- 704 http://hw001.gate01.com/karzu/
- 524 http://homepage2.nifty.com/kugo/
- 121 http://homepage2.nifty.com/kkomori/0605.htm
- 87 http://www.uranus.dti.ne.jp/~beaker/index.html
- 86 http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rls=SNYA,SNYA:2004-11,SNYA:ja&q=蛸
- 69 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=雪山症候群&lr=
- 52 http://d.hatena.ne.jp/giolum/