「人間の心は心理的に記述できるか?」の補足

今日はこれから出張することになっていて2時間早起きした。時間がないので走り書き。
前回の記事を書いたときに、ちょっと議論に弱いところがあるとは思っていたのだが、案の定、そこを突かれた。


これは、物理的に記述できていることを検証することが出来るか、という議論であって、物理的に記述することができるか、という議論ではないように思われる。
確かに、ある事柄を行うということと、ある事柄を行っているということを検証するということは別のことだ。そして、前回の記事は、心を物理的に記述したことをいかにして検証するのか、という検証可能性の問題を提起しているのであって、物理的記述そのものの可能性を論じたものではない……というふうに読める。その読みは間違っていない。でも、それだけではない。
前回の記事で言おうとしたことは、唯物論は心の物理的記述の検証可能性を保証しないということと、もう一つ、「心を物理的に記述する」という事態の成立可能性を保証しないということだった。
物理的記述が可能であろうがなかろうが、ともあれ心は一つの実体として存在するのだ、という主張が一方にあって、そこに、唯物論の主張を加えれば、確かに「心を物理的に記述する」という事態は成立するということができる。それを検証できるかどうかは別にして。
しかし、いくら唯物論が強力な主張であっても、記述対象がそもそも実体を持たないとすれば、「……を物理的に記述する」という事態そのものが成立しないのだから、検証の可能性を論じるまでもない。
で、実のところ心が実体であるかどうかはよくわからない。日常的にはそう考えられてはいるけれども、まだ誰もある心別の心と区別して完全な心理的記述を与えるということに成功した人はいないのだから*1。もし、心がさまざまな諸現象の集まりの一部に過ぎず*2、かつ、それら諸現象の完全な物理的記述が可能であったとして、その記述のうちのどの部分が心の記述であるのかを定める*3ことができないものだとすれば、「心を物理的に記述する」という事態は決して成立しないことになるだろう。
ここで述べたことは、以下の記述を受けたものだ。同じことを言っているのかどうか自信はないけれど。

けれど、人間の心というのは、対象に分割することが不可能なのだ。あなたが、この文章を見て、何かを感じたとする。さて、どのように分割すれば、あなたの心の変化の、物理学的記述の可能性が見えるのだろうか?分割することは、恣意的になり、着目する対象を取り出すことは不可能ではないか?

*1:そのような完全な心理的記述がなければ、心は実体であるという主張が擁護できないとまで言ってしまうと、言い過ぎだろうが。

*2:それが物理現象の寄せ集めだということなら、還元的唯物論の主張だということになるのだろうか? このあたりはちょっとよくわからない。

*3:この「定める」というのは「検証する」という意味ではなくて、「約定する」という意味だと考えていただきたい。