情報過多の時代

 得るものがあれば、失うものがある。文化が豊かになり、たくさんの機会が保障されればされるほど、一期一会の奇跡に対する感動は薄らいでいく。

 誤解してほしくないのだが、ぼくはそれが悪いことだとは思わない。好ましいことには違いないのだ。

もし現在の文化状況が、一期一会の奇蹟*1に対する感動を薄らがせる*2ほどだとすれば、それはもう好ましいものではない。そんな文化を「豊か」だと形容するのも虚しいことだ。
とはいえ、情報の氾濫は個人にはどうしようもない。また、仮に情報をどうにかして規制できる強権をもった独裁者が現れたら、相当悲惨なことになるだろう。具体的にどういう状況になるのかは見当がつかないが、少なくとも、オタク疲れ以上の問題が発生することは間違いない。
現状に不満で、改善案もない。「昔はよかった」と言っても始まらない。自衛策にも限界がある。深く考えると息が詰まりそうだ。

*1:上では原文のとおり「奇跡」と表記したが、地の文では「奇蹟」と表記することにしている。これは純粋に用字法についての好みの問題であり、この文章の趣旨とは全く何の関係もない。

*2:変な言い回しだ。もうちょっとましな言い方がないものか。

耳と尻尾のある話

貂の家。 (ビッグコミックススペシャル)

貂の家。 (ビッグコミックススペシャル)

先日、ちょっと独特なマンガに詳しい知人の鶴屋氏または亀屋氏*1お薦めのマンガ本を大量購入した。そのうちの一冊。この日記では感想文を書かなかったが、数ヶ月前に鶴屋氏の薦めで買った『ムーたち(1) (モーニング KC)』が非常に面白かったので、それと似た感じのマンガを所望したところ、薦められたのがこれだった。
*2
さすが、ケモノ耳スキー*3、ネコ科イヌ科に飽きたらず、とうとうイタチ科にまで行き着いたかっ! でも、鶴屋氏ほどケモノ耳に愛着があるわけではないので、あまりそそられない。まあ、せっかくだから鶴屋氏の顔を立てて、買ってやろうか……などと不遜なことを思いつつ、この本をレジに持って行った。
……ごめんなさい。耳とか尻尾とか、そんな表面的なレベルではなく、より根源的なところで魂を揺さぶる傑作でありました。
なんという奇想!
なんというユーモア!
意表をつく第1話から衝撃の最終話まで、ファンタジーは疾走し、常識は失踪し、ひとたび本を開くや否や、読み終えるまで決して本を閉じることができない、そんな恐るべきマンガだ。
ムーたち』も凄いが『貂の家。』も凄い。今、日本マンガ界はきっと黄金時代を迎えつつあるに違いない。
ああ、生きていてよかった。
面白いマンガに出会えてよかった。

*1:なぜ名前が二つあるのかについては、この記事を参照のこと。いちいち「鶴屋氏または亀屋氏」と書くのは面倒なので、以下は「鶴屋氏」に統一する。

*2:常用漢字ではないので読めない人もいるかもしれない。「テン」と読んでください。

*3:鶴屋氏のケモノ耳への藍については、ネコ耳ってどんなこと?―とっても萌えたいケモノ耳入門を参照のこと。

多数派と少数派はよく似ている

こんな当たり前のことを言うと馬鹿にされるかもしれないけれど、いちおう言っておこう。
多数派と少数派の違いっていうのは、要するに人数が多いか少ないかということだけだって。
人数の違いを抜きにすれば、多数派も少数派もおんなじだ。
何か共通の基準にあてはまる人々の集団、それが多(少)数派。
多数派が少数派を抑圧するのも、少数派が多数派に抗議するのも、結局、似たり寄ったりの連中が騒いでいるだけなんだ。