レトリックの問題ではない

その2に関しては単にレトリック上の問題なのでスルーするとして、その1に関して。

えーと。
本来、倒叙ミステリというものは、犯人側の事情を隠さずに描いて、犯行過程のどこにミスがあったのかを問うタイプのミステリだ。そのような趣向のミステリで犯行過程の情報が欠落していたなら、読者は十分に推理力を働かせることができないのでアンフェアとなる……と断定していいかどうかは議論の余地のあるところだが、少なくともsirouto2氏の議論が今述べたようなタイプの倒叙ミステリを念頭においてなされていることは明白だ。
現在ではこのような古典的なタイプの倒叙ミステリは必ずしも多数派ではないかもしれないが、それでも秋山氏自身が引用しているウィキペディアの記述にも「読者には予め犯行過程が判っており、犯人側のどのようなミスから足がつくのか、その論理とサスペンスが興味の対象になる」とあり、「秋山の倒叙物に対する認識もだいたい上記の通りです」と述べているのだから、sirouto2氏と秋山氏の間には倒叙ミステリについて大きな認識の不一致はないはずだ。
にもかかわらず、その次の段落ではその認識を覆して

フーダニット、つまり犯人は誰か? というのが謎の本質になっている通常のミステリと異なり、多くの倒叙物においてはハウダニット、つまり犯行はどのようになされたか? というのが謎の本質になります。この犯行方法は「問題→解決」の順番で明かされますし、犯行という過程の情報を欠落させることで倒叙物は成立します。sirouto2さんの言う「問題→解決」が逆転し、過程の情報を余すところなく明示しているもの、それは倒叙ミステリではなくクライムノベルではないでしょうか?

と言ってしまうものだから話がおかしくなってしまっている。本来の純粋な倒叙ミステリをクライムノベルと同一視するようでは、秋山氏の認識は「だいたい上記の通りです」とは言えないはずなのだが、もしかするとその認識のずれに気づいていない可能性があるかもしれない。
そこで、『アクロイド殺し』と倒叙ミステリの「その2」で多少ぼかした形でそのことを指摘したのだが、それをレトリック上の問題だと取られてしまうと、頭を抱えたくなってくる。
対するsirouto2氏のほうはミステリの一戒・一則を考えるの「付記2・叙述と倒叙について」でさらに説明を加えているが、ここでの意見の不一致について秋山氏が「秋山氏とsirouto2氏の間の認識のずれ」と認識している間は議論が平行線を辿るおそれがあるので、若干補足説明をした次第。