それを「権威主義」と呼ぶかどうかはともかく、我々は権威に頼らなければ暮らしていけない

未熟な科学は、疑似科学と区別がつかない - NaokiTakahashiの日記を読んで、ふと、以前読んだ本に似たようなことが書いてあったことを思い出したので、本棚の奥底からその本を引っぱり出してきた。

論理学 (哲学の世界)

論理学 (哲学の世界)

この本は

  1. 論理学の活動範囲
  2. 演えき
  3. 帰納
  4. 論理学と言語

の4章から成り立っている。論理学の教科書をいくつか読んだことのある人なら、章題を見ただけでもこの本の特徴がある程度わかるのではないかと思うが、たぶん論理学の教科書の読み比べが趣味の人はさほど多くはないので、この本のまえがきからこの本の特徴をよく表している箇所を抜粋して紹介しよう。

多くの重要な学科と同じように、論理学もまた、それ自体に備わっている興味のためと、実用上の利益のために、研究される。【略】この本は、できるだけこの二つの目的を両方とも満足させるために配慮されている。一方においては、この本のいたるところで、論理学の活動範囲、本性、機能について多くのことが語られている。【略】他方において、応用例として実際的な話題をできるだけ多く取り入れるようにした。【略】
この本は20年以上まえにわずか16ページの謄写刷りの小冊子から出発した。【略】この小冊子は哲学入門の教科書を補足するための、ごく少数の論理学上の基礎概念と論証式を含む小さな本であった。【略】しかしその後の版は、哲学以外の領域でも利用できるようにと発展させたつもりである。【略】
第三版ももちろんそうした傾向を受け継いでいる。第二版のおもな欠点は、因果関係にもとづく推論を簡単にしか扱っていないことだとわたしは感じた。最近、因果関係を含む論証があらゆる分野できわめて頻繁におこなわれるといった傾向がめだってきた。喫煙・食生活・放射線被ばく等とがん発生との関係について知っていることがわたしたちにとってたいそう重要になってきた。そうしたことに関するニュースや、諸研究の報告結果がしょっちゅう新聞や雑誌に掲載されるようになった。また航空機事故・火災・原子力事故およびその他大小の災害の原因の調査が発表されている。さらに、インフレ・交通事故死・先天性欠陥・さまざまの疾病等についてもよく知っておく必要がある。石炭やその他の燃料の使用から生じる大気中の炭酸ガス量の増大の結果や、大気中に放出される化学物質の影響についても知っていなければならない。科学者たちは不断に、あらゆる種類の薬品――マリファナ・アルコール・やせ薬・経口避妊薬・新登場の治療薬――の効果について追究している。わたしたちはだれしも、今年はなぜトマトがよく実らないのか、若者たちがなぜおかしなポップ・ミュージックに夢中になるのか、昨年はなぜあんなに猛烈に寒かったのか、自分の車が今朝はなぜ調子が悪いのかを知りたいと思う。そうしたリストは、実際果てしないようにみえる。そしてそうしたリストの各項目はなんらかの仕方で因果的推論を含んでいるのである。

「因果関係に基づく論証」は第3章「帰納」の中にあるが、今回の話題に関連するのは、その少し前に置かれた「権威にもとづく論証」*1だ。

結論の裏づけのために、そうした結論を主張しているある人物、ある機関、ある書物を引用するという手法がしばしば採用される。このタイプの論証はつぎのような形式をもつ。

a〕xはpを主張する。
 ∴p。

この形式はこのままでは明らかに虚偽である。しかしながら、権威の使用はいつもあやまっているわけではなくて、正しい場合もある。権威に訴えるのはどんな場合でも正しくないと考えることは、青年にありがちな、幼稚な誤解である。権威の適切な利用は、知識の蓄積とその適用にとって欠くことのできない役割をはたすからである。かりに、権威に訴えることをいっさいやめるとすれば、病気の場合医者の診断を受け入れることも許せないということになるであろう。自分自身が医者になればよい、といえるかもしれない。しかし医者になるにしても、先人の研究結果に頼らないとすれば、それは不可能に近いであろう。だから権威に訴えることを全面的に拒絶するよりも、正しい訴え方を正しくない訴え方から区別するよう努力するほうが得策だといえよう。

次の段落も興味深いので、できれば引用したいのだが、そうやって引用を続けていくと限りがなく、ついには転載と変わらなくなってしまうだろう。実際、サモンの『論理学』は極めてコンパクトでありながら、簡潔で無駄がなく濃密な文章で書かれているため、どのページを開いても感心することが多い。
逐語的な引用は諦めて、ここでは、権威にもとづく論証が不正に使用される場合を列挙した、その見出しのみを紹介することにする。

  1. 権威は引用があやまられたり、解釈があやまられたりすることがある。
  2. 権威が魅力と地位と名声をもってはいるが、知的な方面では何の能力ももっていないという場合がある。
  3. 専門家が、自分の専門外の分野で発言することがある。
  4. 権威は、なんの証拠もなしに、自分の意見を表明することがある。
  5. どちらもおなじ程度に正当だと考えられる二つの権威が互いにくいちがった見解を主張するといった場合がある。

さて、未熟な科学は、疑似科学と区別がつかない - NaokiTakahashiの日記に立ち返ってみると、そこには2つの点でサモンとの違いが認められる。

  • 自分がよく理解している分野であっても、その分野の知識を学ぶ過程で権威に頼っているということを度外視している。従って、人によっては権威に頼らなくても検証可能な領域が科学の中にあり得ることを認める。
  • 権威への正しい訴え方と正しくない訴え方との区別を行っていない。従って、権威に頼るということは即「権威主義」に直結する。

そこで、一見すると極めてグロテスクな、次のような主張に至ることになる。

現実にすべての学術理論を理解することが不可能である以上、現代人にとって学問は権威主義的なものでしかありえません。反権威主義を気取りつつ真理を主張できるのは、権威の力を借りずにそれを検証できるごく狭い専門分野でだけです。

ただし、これは単に高橋氏の「権威主義/反権威主義」という語の用法がグロテスクなだけで、主張内容そのものはさほど奇妙なものではない。それを「権威主義」と呼ぶかどうかはともかく、我々は権威に頼らなければ暮らしていけない。
今引用した箇所のすぐ上では、次のように述べているが、これには全面的に賛同できる。

そもそもの権威への信頼すら欠いている、あるいは何が信頼されるべき権威なのかを見失っている人に対しては、まず正統な学問の権威を信じることから教えなきゃいけなくて、どれが正統な権威か、それがどのくらい国際的に認められているのか、それを信じることはどのくらい分のいい賭けか、というのを説明して同調してもらわなきゃいけません。

実はここからさらに知識の社会的性格の話に繋げていこうと思ったのだが、息切れにしたので今日はここまで。興味のある人はこの本でも読んでください。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

もう1冊、疑似科学を語る際の必読書も紹介しておきましょう。
疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

*1:その次の節の「人身攻撃にもとづく論証」も関係があるが、そこまで手が回らないので紹介は見送る。