ゴーストタウン化しつつある日本

空き家問題 (祥伝社新書)

空き家問題 (祥伝社新書)

(036)「空き家」が蝕む日本 (ポプラ新書)

(036)「空き家」が蝕む日本 (ポプラ新書)

先日、『空き家問題』を書店で見かけて即買い、その日のうちに読み終えた。この問題には以前から関心があったからだ。この本の最後のほうで道州制の話題が出てくるのにはちょっと驚いたが、全体としてはだいたい納得できる本だった。だが、もっとも印象的だったのは、内容ではなくタイトルのほうだった。
同じ著者が祥伝社新書から出した過去の著作のタイトルを並べてみよう。
なぜ、町の不動産屋はつぶれないのか(祥伝社新書228)
なぜビジネスホテルは、一泊四千円でやっていけるのか(祥伝社新書295)
だから、日本の不動産は値上がりする (祥伝社新書)
いかにも最近の新書、という感じのタイトルの本ばかりだ。こうやって並べてみると、3冊のうち2冊は読んでいることを思い出した。ここここで感想文を書いているから間違いない。「牧野知弘」という著者名には全く記憶がないので、タイトルに惹かれて買ったのだろう。もう1冊もタイトルには記憶がある。読んではいないはずだが、もしかしたら持っているかもしれない。後で倉庫*1を探索してみることにしよう。
さて、『空き家問題』だ。なんともストレートなタイトルだ。岩波新書中公新書という感じだ。でも、岩波にも中公にもこのタイトルの本はない。あえて直球ど真ん中のタイトルにした理由は、単に同題の本がないからというわけではなく、そもそも類書がほとんどないからではないだろうか?
そう思って、「空き家」で検索してみると、『「空き家」が蝕む日本』を発見した。これは近所の書店にはなかったので、少し遠出して大きな書店で買い、やはりその日のうちに読み終えた。この本の最後のほうでエネルギー問題が出てくるのにはちょっと驚いたが、全体としてはだいたい納得できる本だった。ただし、タイトルが示唆しているように、「空き家」から説き起こして日本の衰退について熱く論じるというスタイルの本ではない。『空き家問題』と『「空き家」が蝕む日本』はタイトルを入れ替えたほうがいいのではないかという気もするのだが、そんなことができるわけもない。この種の話題に興味がある人は、2冊併読することをおすすめしたい。
ところで、上で「類書がほとんどない」と書いたが、全くないわけではない。たとえば、空き家問題を真正面から扱った本が2012年6月に出ている。
空き家急増の真実―放置・倒壊・限界マンション化を防げ

空き家急増の真実―放置・倒壊・限界マンション化を防げ

また、同年8月には「空き家」がサブタイトルに含まれた本が新書で出ている。
東京は郊外から消えていく! 首都圏高齢化・未婚化・空き家地図 (光文社新書)

東京は郊外から消えていく! 首都圏高齢化・未婚化・空き家地図 (光文社新書)

この2冊は既読だが、調べてみるとほかにも同時期に何冊か類似の話題を扱った本が出ているようだ。
空き家等の適正管理条例 (地域科学まちづくり資料シリーズ―地方分権)

空き家等の適正管理条例 (地域科学まちづくり資料シリーズ―地方分権)

  • 作者: 北村喜宣,進藤久,吉原治幸,前田広子,塚本竜太郎
  • 出版社/メーカー: 地域科学研究会
  • 発売日: 2012/08/21
  • メディア: 単行本
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空き家・空きビルの福祉転用: 地域資源のコンバージョン

空き家・空きビルの福祉転用: 地域資源のコンバージョン

  • 作者: 森一彦,三浦研,松浦正悟,松田雄二,橘弘志,厳爽,黒木宏一,佐伯博章,倉斗綾子,北後明彦,隼田尚彦,古賀政好,松原茂樹,小林陽,加藤悠介,古賀誉章,井上由起子,山田あすか,室崎千重,絹川麻理,藤田大輔,日本建築学
  • 出版社/メーカー: 学芸出版社
  • 発売日: 2012/09/20
  • メディア: 単行本
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どちらも未読なので内容については何とも言えないのだが、タイトルや著者から察するに、空き家問題の全体像を通覧する入門書というものではないようだ。
ともあれ、2012年が日本の空き家問題が急浮上した年ということになるだろうか。それから2年経って問題がより深刻化し、新書レベルに浸透しつつあるということなのだろう。
もっとも、多くの社会問題がそうであるように、空き家問題もある日突然始まったわけではない。既に2011年にこんな本が出ている。
田舎の家のたたみ方 (メディアファクトリー新書 27)

田舎の家のたたみ方 (メディアファクトリー新書 27)

この本は「コンタロウ」という名前の懐かしさに惹かれて書店で手に取ったことがあるのだが、結局買わずじまいだった。今から思えば買っておけばよかったのだが、当時はまださほどこの問題に関心がなかったのだろう。惜しいことをした。
空き家問題について考えるとき、いわゆる「限界集落」問題*2を連想せざるを得ない。「限界集落」という語は古く、少なくとも1990年まて遡ることができるが、多くの社会問題がそうであるように、「限界集落」問題も広く認知されるまでにかなり時間がかかった。確か、あちこちで話題になったのは2007年頃だったと思う。「限界集落」は「格差」や「派遣切り」などと相まって、時代の空気を表す言葉となり、2009年の政権交代へと至る。
その後、民主党政権がいろいろアレだったこともあり、東日本大震災を経て自民党が政権を奪回し、アベノミクスが始まる頃には、すっかり「限界集落」は廃れてしまった。流行語というのは得てしてそういうものだ。実情は何も変わっていない、というかむしろ悪化しつつあるのにねぇ。だから、センセーショナリズムはダメなんだ……というような話はさておき。
限界集落」の話題がすっかり賞味期限切れになった後に、こんな本が出ている。
限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

限界集落の真実―過疎の村は消えるか? (ちくま新書)

この本も買ったのだが、半分も読まないうちに本の山に埋もれてしまった。読んだ範囲でいえば、「限界集落」という語の扇情性から一歩距離を置いて堅実に問題に取り組んでいる良書のように思われた。これも探索して見つかったら続きを読んでみたい。
さて、「限界集落」というのは本来は中山間地域特有の問題であって都市とは無関係なのだが、それでは都市部の人々にとっては憐憫の対象ではあっても自身の問題として受け止めることは難しい。そこで、「都市型限界集落」とか「都会の限界集落」などという言葉が2008年頃に作られた。これらは厳密な学術用語ではないが、中山間地域の集落に見られる人口減少と高齢化に起因する集落崩壊の危機と構造的に類似した問題が都市部にも見られるのだ、という論調には共通点があった。二度の政権交代を経て、「限界集落」という語の凋落とともに、このような視点も忘れ去られがちになったが、その間にも都市部の高齢化は着実に進み、空き家問題が顕在化することとなった。
極論すれば、田舎の過疎化の問題は田舎の問題であって、同じ日本に住む同胞としての共感を持たないのであれば、都市住民は単に無視すれば足りる。地方は「自己責任」で「自立」をはかればいいのであって、都市の稼ぎを田舎につぎ込むのは不当なことだ、という考えが蔓延している。「グローバルな都市間競争に立ち向かう東京」が強調され、「国土の均衡ある発展」はもはや過去の理念となった。行き着く先は国民国家としての日本の解体だろう。それを世の中の自然な成り行きとして容認するのか、それとも歴史的必然への叛逆を志すのかは人それぞれだが、一歩譲ってこの極論を受け入れるとしても都市やその近郊で現在進行中の空洞化をどうするかという知見が得られるわけではない。田舎者の立場でいえば「そりゃ都市の問題なんだから、都市住民の自己責任で解決するしかないでしょ? えっ、地方からの人口流入ペースが鈍っているから空洞化するのだ、って? そんなこと言われても、もう地方には大都市圏に差し出す人口がもう残っていないですよ」と言うしかない。
後知恵だが、「限界集落」問題が取りざたされた2007年から2009年頃が、都市の空き家問題に手をつけるチャンスだったのだろう。だが、行政も住民もメディアも動きが鈍く、この5年間の目立った変化といえば空き家対策条例くらいだ。当然のことながら空き家問題は時間が経つにつれて対処が困難になる。
5年前の2009年7月28日、平成20年住宅・土地統計調査(速報集計)結果の要約が公表された。この統計調査は5年ごとに実施され、直近の平成25年住宅・土地統計調査では、武雄市職員による不正な事務処理が判明したことが記憶に新しい。5年前の例から察するに、たぶん今月中には速報が公表されるのではないかと思われる。
そのとき、どのようなショックが待ち構えているのだろう?

*1:書庫ではありません。

*2:この問題については個人的にいろいろと複雑な思いがあり、「限界集落」という語には括弧をつけたり、上に「いわゆる」をつけたりすることが多い。