TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

12/6マチネ、11ソワレ、18ソワレ、20ソワレ、23マチネ、24 ミュージカル『モーツァルト!』

毎回思ったことが違ったのに、ひとつひとつまとめないで溜めておいたせいで、なんだか頭の中で全部いっしょくたにごたまぜになってしまったようなそうでないような。

11ソワレの育ヴォルフ一回を除いて、全部芳雄ヴォルフ。前回の感想のようにヴォルフガンクとだれだれ、というような見方をしながら観劇回数を重ねていくにつれて、彼に影響を与えた(与えられなかった)ひととして、いつのまにか一番注視していたのはコンスタンツェでした。そして綾コンスとソニンコンスでアプローチの仕方が全然違うので、コンスタンツェが違うと見え方が全く違う。
綾コンスは姉の帰宅時に彼女に向ける笑顔や、母親や妹と対峙した時の雰囲気をみるに、家族とそこそこうまくやっていそう。その反対で、ソニンコンスは家族仲がとことん悪くて、ひとりだけあの家族のだらしなさにものすごく反発して、同時に自分にもその血が流れていることを嫌悪していそう。綾コンスの身づくろいは自分のかわいさをわかってる感じで、ソニンコンスはなんであたしこんな容姿なんだろ、ってふてくされてる感じ。プラター公園も、ヴォルフガンクにつられてはじめから楽しくなっちゃう綾コンス、気になってた人と久々に再会して、でも前のめっていいかわからなくて、遠くからおずおず見てたら背中を押されて彼の近くによろけ出てしまって、これでいいのかな?みたいに恐る恐る踊ってたら顎の下なでられてふらぁってスイッチが入ってしまったソニンコンス。今までもあたしに好意的な男はいろいろ周りにいたけど、ヴォルフガンク、あんたみたいなのは珍しいわ!な綾コンスと、波長が合う人は初めて、なソニンコンス。
芳雄ヴォルフガンクは、あの家庭環境をみるに陰属性でない、キラキラしている綾コンスに惹かれるのはわかって、でもその生き物としての軽やかさ加減は彼の重しになるには真っ当すぎて、音楽と並べたとき、最後の最後まで強く引きずられる存在にはならなそうだった。どこまでも正攻法、まっすぐむかう硬質さ。「夫は芸術家なの、あたしが支えてる きらめくインスピレーション与えてあげるの」と誇らしげに歌える、自分が彼の支えになっていることを疑わないコンスタンツェ。
史実がどうだったかは別として、この作品内でのコンスタンツェについて、ヴォルフガンクが彼女と別れて音楽一本に向かいたいほど悪妻だった、という描き方もあるだろうし、彼女の愛情をもってしても留めおけないくらい、ヴォルフガンクを音楽へ向かわせる衝動が強かった、って描き方もある。綾コンスが前者だったわけではないのだけれど、ソニンコンスは絶対に後者だろうな、と思うくらい、ヴォルフガンクへ向ける愛情、熱量が著しく思えました。感情のぶつけ具合がほんとうにすさまじくて、これをがしっとうけとめて、でも最後にはひっぺがして捨て置いてゆかなきゃならないヴォルフガンクの難儀さについて考えてしまうほど。
ちょっと待って?何言ってるか全然わかんない!が本気の笑いまじり声なのに、だからこそ、誰にも見えないけど、あんたはすごい才能を持ってる、のいまほんとに思ったみたいな声音の真実味がすごくて、そこで嬉しそうな顔をするよしおヴォルフも本当に嬉しそうに見えた12/6ソワレ。謎解きゲーム後の、汗をかいてるわ大丈夫?で顔を覗きこむソニンコンスが、ヴォルフの腕に手を置いて、親指の腹でなんどもさすってるところや、家族がやってきたときに背中にかばうところ、ヴォルフガンクもコンスの背中に隠れてるし、彼女も背中にくっついた彼の腕を抱き込んで手を絡めてぎゅっとしてるの、互いには互いしかいないというような、割れ鍋に綴じ蓋っぽさがとても好きだった。手負いのけもの2匹の傷の舐めあいとも。守ってあげたい、と歌いながら守られるのが芳雄さんが演じる役にはほんとうに似合う。
初めのほうはコンスに引きずられて「大人になった男は」の彼女に語りかけているような口調や、その直前までしっかり背に手をまわしてるところから、最後まで心を彼女に残してるなあと思ったのに、後半にいくにつれて、12/20マチネに見たときはもう、パパがなくなったところからは目の前のコンスへより、自分の音楽をまっとうする方向へ心が走り出してるように見えました。組み合わせによって関係性が変化するというのもあるけれど、同じ人でも出会った最初から新たに始めて、終わるところまで毎日違うんだなあとしみじみ思いながら、2012東宝エリザベートの時を思い出してしまった。プラター公園の最後、胴切りの台の上に乗っけられてキスされたソニンコンスの手から力が抜けたところ、手持ち風車がぽとんと床に落ちてから、その空いた手がよしおヴォルフの背にしっかりまわされるところを初めてみて、舞台はなまもの!と思ったのもこの日。
そして迎えた東宝楽日12/24。この日みた「夫は芸術家なの、あたしが支えてる きらめくインスピレーション与えてあげるの」は、前日に綾コンスを見ていてすぐの比較だったからか、ソニンコンスのくたびれた、もう何かに倦んでる様子がおそろしく印象的。ダンスはやめられないの時点で、才能より愛される妻にはなれないことに気づいていたからなのか、自分の無力さについていやというほどわかっていたからなのか、わからないけれど、彼女がダンスに行くのは、ヴォルフガンクとかつて味わった喜びが、そこに行けばまた見いだせるかもしれない、という期待からで、楽しいダンスパーティーをいちどだって経験したことがあるのか、謎に思える。
星金リプライズ後のソニンコンスのハグは、ヴォルフガンクを気遣う気持ちももちろん、今この場所に彼の心を留めるため、どこかにとんでってしまいそうなヴォルフガンクに、ここにいるあたしを見て!って気づかせるためでもあるように思えてならなかった。彼の背にしっかり回された腕とさする親指の腹と、全部気にもとめずに宙に伸ばしたヴォルフガンクのまっすぐな腕との対比が鮮やかで、美術方面に長けていたら立体として、あるいはせめて絵にとどめておきたかったくらい、彼らの断絶があらわになった一場面。こんなに近いのにこんなにも遠い。翼を持っている人と持っていない人。ソニンコンスの愛情深さをもってしてでも、彼を留めることはできなかった。

男爵夫人について。
香寿さんの「コロレドの了解は取り付けました」は事務手続きをきちんと済ませてきました風。「大人になるということは、」は、いつかどこかできかされていた言葉の復習みたいな響き。 そう言ってたでしょヴォルフガンク、あなた忘れてたの?みたいにたしなめるようなニュアンス。
対する春野さん。「コロレドの了解は取り付けました」は完全に裏ルート。あの、彼女にとって興味深いなにかを掌の上で転がしてるみたいな響きから、底知れぬ怖さとかわいさ一緒に感じる。その直後に喜びのあまり手の甲にキスするヴォルフガンクの勢いに、あらからまあまあ、っていたずらっぽく微笑むところもかわいい。ウィーンの一流どころと〜の台詞の畳み掛けるような口調が詐欺師か誘惑者か。どうしたものかしらねえ、と父親の頭のかたさにふむと考えて、おとぎ話を聞かせてあげましょう、はいいとんち小話を思いついたわ、みたいな気軽さでの、星から降る金。ここはウィーンで、サリエリのキューをかわすときのすました顔もいいけれど、イチオシは位置移動してから私の番ねとばかりにキューの先を彼へと突き刺したときの口をぱかっと開けた邪気のない笑顔です。サリエリはそこまで勢いよくやっていないです!と言いたくなる傍若無人さが前面にあらわれた振る舞いの憎めなさ。
しかしだから、男爵夫人こそ子どものままのようで、ヴォルフガンクに大人や子どもなんていう立場ではなく、彼女自身もそういうことでいちいち咎め立てたりしなそうで、謎解きゲームのあの台詞は香寿さんのほうが納得するのでした。
香寿男爵夫人は懐でぬくぬくさせてもらえると思ったら「あなたはもう大人でしょう?」が正しく厳しい教師のようだから導いてほしいし、春野男爵夫人にはただ破滅させられたい。穏やかでないことを言いつつ、あの人は誰かのファムファタールではないか、みたいに思わせる何かがあると個人的に思っています。

一回こっきりの、育ヴォルフガンクについて。彼のこわいものなさ、不遜さはきらきらしててまぶしい、憎まれっ子世にはばかりそうと思っていたら、それだけじゃなかった。
綾コンスとの11ソワレ。心の奥深く触れ合えば、のヴォルフとコンスが指を絡めるところでは、育ヴォルフは綾コンスの手を覆うみたいに握っていて、手のひらの大きさの対比にときめく仕様だったり、ちょっぴりおつむに〜の「悲劇の王子」の育ヴォルフのキザりがタカラジェンヌみたいだったり、ただの男じゃないの楽しさのこれこれ!感に明るい場面がやはり似合うのかなと思っていたら、2幕でやはり、真骨頂は違うところなのかなと。友達甲斐や温泉から帰ってきたコンスのところでの作曲の邪魔をされた反応を見ながら、育ヴォルフのほうがいま目の前にある作曲に集中したい、周りの見えなさ頑固さがつよそうに見えた。プラター公園の、顔を覆った指の隙間から見たくなるリア充カップルぶりにおののいてたのに、肉親への愛情に比重があるヴォルフに見えた育ヴォルフ。あんたはすごいものを持ってる、のほめられなれてそうなのに、ド直球でこられてうけとめきれずに面映ゆい顔するところもかわいいなと思いつつ、「お前の顔など、」をパパに言われた時の切ない叫びや、星金リプライズ時前のアマデへの罵りが、途中からすすり泣きに変わる声の胸への迫りようをきいたら、そりゃあパパも箱入りにしたくなるわ、と納得。皇帝陛下が帽子を脱いで〜のあとに、パパがいるのに気づいて、僕やったんだよパパ!えっへん!と言いたげな表情なのがかわいいからこそ、次に待ち構えていることを知っているこちら側は目を覆いたくなる。芳雄ヴォルフのあの場面も胸がギュっとなるけど、またちょっと違う感覚。友達や恋人より、音楽や家族への比重。いっくんは喜怒哀楽なら、じつは怒の感情がいちばんぐっとくるのかもしれない、怒一辺倒じゃなくてそこに哀がまじっている感情、と2幕の該当箇所を見ていて思って、黒い炎が見えるようだった梅芸での育ロミオの憎しみを思い出しました。
ソニンコンスとはどうだったのか、見られなかったのが無念。

感情を全身から溢れさせる青年の姿のヴォルフと、小さな子どもなのに表情がすくないアマデがふたり並んだ絵面が本当に面白いなとか、魔笛のじゃない、タイトルを描いた赤い幕は単にタイトルを表すものじゃなくて、彼が亡くなった後も続いている名声を表すものなのかなとか今更考えつつ、後半、コンスと引き離されかけて、行かないで、と手を伸ばしてる芳雄ヴォルフが、お母さんと引き離されようとしてる子どもみたいに見えることについて、考えています。そのあと崩れ落ちそうになりながらコンスによりかかって、スカートをぎゅっと握っているのも、甘ったれるなと頬をはたくより先に、胸が痛くなる。
ヴォルフガンクにとって、人生は与えられることの連続だったけど、そうではなくて、本当は、持っているところからスタートで、あるものを削られてゆくのが人生なのでは、って初めて思い当たったときのような残酷な人生を経て、お父さんの死や、コンスタンツェとの別れ。彼の手の中に残るものは才能か、はたまた。謎解きゲームの答えは、真実じゃないかもしれない、真実なんてほんとうはないのかもしれない。

梅田で、あと1度だけ観てきます。