TROIS

観劇後に気合があったときだけ書きます

宝塚雪組 ミュージカル・ロマン『琥珀色の雨にぬれて』

宝塚雪組 ミュージカルロマン『琥珀色の雨にぬれて』

なにをおいても駆けつけなければならない望海さんと真彩ちゃんのお披露目公演!
千回おめでとうございますといっても足りないくらいよ@ジュリエット、という思いを胸に劇場に向かいました。

柴田先生作の再演を繰り返されている名作。設定のクラシカルな雰囲気が望海さんには合うだろうなとは思っていたものの、あらすじを読んだ段階では物語自体にはそこまで惹かれず。やや不安を抱きながらの観劇だったのですが、そんな後ろ向きさはとんでもない杞憂でした。終演後はたくさんのものを受け取ったせいか、心がじっとり水分を含んだように重たくたわんでいて、帰ってきてからいまもまだその水分の正体について考えています。
ストーリーを説明されただけでわくわくする、実際観劇しても即座に楽しい!と思う作品もあれば、説明されただけではピンとこない、あるいは苦手と思える作品であったとしても、具体的にどういう表現方法で描かれているか、生で観て確かめて初めて話の奥行きにぐっと胸を掴まれることもあるのだと改めて気づいた思いです。だから舞台観劇が好き、と一言でいえばそういうことなのだろうけど。メインの4人で歌い継ぐ「セ・ラ・ヴィ」が、歌詞だけ読むと平易を通り越して無骨なほど直截的なのに、この物語中に挿入された瞬間、たっぷりと情感をたたえた名曲としか思えなくなったのと同じように。

主人公のクロードがキャラクタとして、男性像として得意なタイプかと問われたら、今までの傾向としては苦手としか言いようがなく、でも好きな役者さんが演じている、というじっくり考えるための特別なフックがひとつあることに加え、登場人物への好き嫌いと物語が与える印象を分けて考えようということを、最近どんな物語を読んだり観たりした時でも考えるようになったのが、この作品を好きと感じられた理由のひとつだと思う。友達に勧められて『テヘランでロリータを読む』を読んだのがきっかけです。やや脱線。

幕が上がる前にミラーボールの光の粒が劇場内をきらきらと照らして、そうして幕が上がったら白基調の衣装の娘役と黒燕尾の男役が厳かにタンゴを踊りだす、そういう美しい光景をお芝居の導入として目の当たりにできるのは宝塚の世界観だけかもと思った。2階から見下ろした舞台上で、円を描くように踊る人たちの白と黒の衣装の対比の様の美しさ。
冒頭でクロードの回顧録として語られること自体が、物語に既にぼんやりとした影を落としていたり、描かれない場面の取捨選択の意図や空白の場面自体に想像を巡らせたり。登場人物の個々の生活という基盤がまずあって「恋」は成り立っている筈だけれど、そうした個々の家庭や人間関係を踏みつけにしても、さみしさやみじめさやつらさ込みで最優先に美しく描かれるものが「恋」の物語って、この現代においてリアル男性と女性で美しく演じるにはかなり難しいものかもと思う。普段から別に恋愛ものジャンルに目がないわけじゃない、むしろ苦手とする性質なのに、なぜ宝塚を好きなんだろうとふと我にかえることもあるけれど、その謎について楽しく考え続けるかぎり、たぶん宝塚に足を運び続けてしまう。

物語全体を捉える言葉を探しあぐねているので、ひとまず役について個別に言及します。


クロードについて
駄々っ子の坊や。世間知らずのお坊ちゃん。純粋な人。ぶきっちょさん。(ところどころ敬語になるの萌え)
愛と革命の詩のパンジュ侯爵で望海さん落ちした友人と、望海さんはひと癖ある黒い役が一番はまるみたいに言われてるけど、いかにもまんなかの人然とした白い役も似合う人だよね、ニンよね、と常々話していたことが現実になってうれしい。白くて、白さゆえに周りの人をあたためたり和まさせたり傷つけたりする人。傷つけたことで自分も静かに傷ついたり、でも本当の意味では汚れることがない人。みんなに愛され、愛し返すことが自然にできる人。でも愛するというのは人をわけ隔てることで(@愛すべき娘たち)。誰かを選ぶことが誰かを愛さないと決めることに繋がる、そのことを「気がつくと誰もいなくて 君だけが君ひとりだけがそばにいた」と歌う彼は考えたことはあったかな、とぐるぐる考える。

冒頭の散歩の場面では、シャロンとの初めての出会いでうきうきふわふわしているとはいえ、違う星というのは君たちとの話で僕と彼女は同じ星の住人かも、心のありかは同じだ、みたいに口走ってしまう軽率さを見せるけど、それは手の内をあっさりさらしてしまう裏表のなさ、無邪気さも同時に指し示す。恋敵のはずのルイが、そのクロードが見せる明るさゆえに好ましさをおぼえているという特異な状況、雰囲気が伝わるから、観ているこちら側も一緒にクロードという男にじわじわと惹かれていく。思ったままを口にするひまわりのような男か君は。
婚約者がいる身にも関わらずふらふらと別の想い人を見つけてしまう時点で、おいおいその頭の切り替えはいったい、と肩を掴んで揺すぶりたくなるのに、シャロンのためにタンゴを学ぶ手段を得ようとして一喜一憂する姿、タンゴを語る熱っぽい口調の滑稽さかわいさがすでに憎めない。まあ自分でもまずいと思いつつ惹かれてしまうことはあるよね…フランソワーズは兄の手前断れなかったのかもね、とちょっと心を寄せてしまう。ルイとの男同士の会話ではシャロンについて気軽に話していても、いざ本人の前に立つと憧憬のまなざしを向けるにとどまってしまう、純朴さひたむきさが持ち味のクロードくん。クラブで絡まれているところを助けに入るときも「友達」という言い方で囲うのが、前後の対応も相まって育ちの良さを感じさせて(「嫌がっている相手と飲んでもつまらないだろ」という酔客にかける言葉のまっとうさにときめく…)、その立ち振る舞いがシャロンのような世界で生きている人には余計にたまらなかったのだと思った。あの場で恋人だなんて言葉を口にしたら余計に事態が悪化するというのも、そもそも顔を合わせるのはまだ二回目というのもあるにはしても、いちいちやり方がスマートだ。やり方がスマートな人は親の遺産を好きな女追っかけるのに使い込んだりしないという説もあるけれど、そこは汗水垂らしてお金を稼いだことのない公爵様だから気前がよいというのも…。あすこでルイの切符の奢られ方が変に卑屈にならずあっけらかんとしているから救われるけど、生活に困窮したことのない人の精神の余裕みたいなものは、クロードというひとの魅力のひとつで、ルイとの対比としてそこを突き詰めて考えると少し残酷だなと思った。それはシャロンとの対比にも結び付くから。
とにかく、そういう家柄に生まれて教育を受けたからこそスマートな振る舞いが息をするようにできる人、自分を抑えて生きてきたのではなく、抑える自分というものがそもそもほぼ存在しなかった、やりたいようにやったらそれが自分の周囲も望む道だった人の前に、思うがままを貫けば大事にしていた身近な人を不幸にしてしまう、そんな選択肢が出現してしまうということ。その奔流に身を任せるというのが「自分の全てを賭けたのだ」に繋がるのかなと、ふと思いました。全てを賭ける、と覚悟して行動を選んだのか、選んだ後からすべてを賭けていたことに気づいたのか。どちらとしても、皆に祝福される道しか選んでこなかった男が、そうではない裏道の恋に足を踏み入れてしまうことで陰りを身にまとうというエロス。
シャロンの言葉や仕草をひとつもとりこぼしたくないというように横顔を食い入るように見つめていたくせに、彼女に琥珀の指輪を見せてもらいながら顔が接近したことに気づいても、強引にいけずに身を不自然に引いてしまう、一押しできるムードのなかでがっつかないクロードの品の良さ。その前段があるからこそ、思いを遂げた後、オリエント急行を待つ駅での「…抱きたい」に、一度女に許されて抑制が効かなくなった男の欲が、直視をためらうほどぶわっと溢れて見えるのだと思う。

そもそも「崇高なまでの美しさ」だの「純粋だ」だの、クロードはシャロンの本質を本当に見抜けていたのか、見たいシャロンしか見ていなかったのではと思わせるなかで、青列車でルイがジョルジュから無理やりシャロンを「借り」ようとしてつれなくされたのを嬉しそうな顔で見ているクロードが印象的だった。恋敵が自分を出し抜けなかったということ以上に、彼女が自分の思うままに振る舞うのをただ見ているのが好き、という初めてルイと共同戦線を結んだ時の言葉が生きる。
また、オリエント急行を待つ駅で、フランソワーズが来てしまった後のシャロンの畳みかけるようなクロードを切り捨てる言葉や振る舞い、なぜ自分を苦しめるようなことをするんだ、と必死に食らいつくクロードは、シャロンをホテルのロビーで見捨てたときの彼よりも、彼女のことを理解しようとしているように見える。
1年前のホテルのロビーで、フランソワーズに煽られて口を突いて出たシャロンの言葉は、世慣れてない坊やのクロードには一世一代の愛の告白を汚すような返答にしか思えなかった。そういう愛を試すようなやり方をする人と彼は今まで対峙してこなかった。でもその「経験のなさ」(恋愛の、ではなく)が彼という人を形作っている。その擦れなさゆえんに彼は愛されている。そう思っていたけれど、1年経った彼は少し変わったのか。
もしかしなくてもシャロンが消えていた1年間、あのホテルのロビーで交わした言葉の意味をずっと考えていて、自分のやり方を悔いていたのかもしれない。あるいは単に彼女の愛を勝ち得たと確信した直後の男の自信によるものかもしれないけれど。

シャロンに歩み寄った一方、物語も終わりに近づいたミッシェルとのやりとりでの「無理なのか」に、彼は自分のとった行動が周りを不幸にする、それによって与えられるかもしれない制裁についてまでそもそも深くは考えていなかったのだろうなとわかってしまって、無自覚な傲慢さに驚く。でもその計算づくでなさ、心の思うままに行動してしまうところがミッシェルに「君はぶきっちょだから」と言われる所以で、妹を泣かされたミッシェルが頭の固い兄貴として振る舞えない理由でもあるのだと思う。
真ん中の人しか許されない所業を次々と繰り返しながら、それでもその人間性ゆえに見放されない、愛されてしまう困った人。


シャロンについて
大人っぽい役も似合う、歌だけでなく芝居もできる娘役さん、という認識はもともとあったけれど、もっと上の学年の娘役さんがはまる役では?といわれていたシャロンを自分のものにしている真彩ちゃんの芝居に衝撃をうけた。所作はもちろん、柴田先生の書かれた数々の台詞の美しさを堪能できたのは、大人の女性として深みとやわらかさと涼やかさを併せ持つ彼女の声音あってこそ。冒頭の森の場面で白い衣装を身にまとって舞台を駆けながら歌う姿の軽やかさ。少女のような振る舞いから一転、突然現れた男へ不思議そうに首をかしげながらの「おはよう」の落ち着きぶりが、声をかけられたことにどぎまぎしているクロードとの対比として、彼女の空間掌握具合を露わにする。取り巻きとして一緒にいれば素敵なことが起きそうな気がする、彼女にあの声で紹介してもらいたい、そんな気持ちを自然と持たせる真彩ちゃんのシャロン
列車の展望台の場面の、心はいままさに語られているマジョレ湖に立って琥珀色の雨を見ているような、ここにいるけれどいない、遠くを物憂げに見るような顔つきが印象的だった。その話を彼女はどこで誰に聞いたのか、私がクロードなら胸が騒ぐなと思う。「これ、琥珀よ」と指輪を雨にかざすような手の伸ばし方にも。そこで縮まった二人の距離と安易にそれをチャンスと見なさないクロードの動揺を見て、いままでシャロンがそばにいたのは隙あらばキスをねだるような輩が多かったのかもなと思った。そうではないクロードだからこそ、オリエント急行に乗る約束にシャロンは抱き付いて喜びを現したのかなと。「うれしい」の「い」を言い切らない「うれし…」のたたえる情感と、思いがけない喜びが腕の中に飛び込んできたクロードの呆然とした横顔が記憶に刻まれている。

クロードのことを「駄々っ子の坊や」といなせるだけの経験豊富さ、自分が決めたように好きなようにふるまって、自由に生きている様子も彼女の大きな魅力でもあるけれど、ホテルロビーでのフランソワーズとのやりとり、クロードに見捨てられて呆然としている姿をみてしまうと、彼女という人のかわいさをあなたは本当に知っていたの?ルイの方がよほどふさわしくない?とクロードに問いかけたくなる。フランソワーズの捨て身のわかりやすさとは対照的に、シャロンの身の投げ出し方はストレートには表れていない。向けた刃で相手を傷つけるようで、同時に自分も傷ついている。シャロンという人をクロードがもっとよくわかっていたら、フランソワーズへの当てつけのように放った言葉の真意が読み取れていたのかとも思うけど、シャロンも同じく、クロードという人がまっすぐすぎるがゆえに彼女の屈折したやり方を受け止めきれない、というところまで見抜けなかったともいえる。どちらにせよ、シャロンの性格上あの場で黙っていることはできず、そしてフランソワーズのようななりふり構わなさはシャロンの美学には反していた。オリエント急行に乗る駅でのやりとり、フランソワーズが来てからの観念したようなシャロンの潔い振る舞いや言葉の絶妙さ。自分の哀れさを主張せず、こうなることを予期していたように潔い。けれどそうした姿勢を崩さない彼女であってもこんな状況が堪えていないはずはない、というこちらに見えない心の内を想像させる。彼女の見事すぎてそうと見抜かせない虚勢が、自然と痛ましく思えてしまう。矜持ゆえにすっと伸ばした背筋の彼女はたぶんどんな他者からの慰めも求めていないし、言葉をかけたらぴしゃりと跳ね返されそうだけれど。シャロンもまた「ぶきっちょ」な人だと思う。この人は、常に一番欲しいものは手に入らないんじゃないかなと思わせるさみしさがある。寄りかかれるのは常に彼女に本気で向き合ってくれない人。そう考えるとルイの寄り添い方も、シャロンにとっては傷をざりざりと舐められるようで堪らなかったのかも。安易な判官びいきかもしれないけれど、そういうキャラクタに弱いので、シャロンのこともこの作品内では一番気にかかる存在。
全然シチュエーションは違うのだけど、幕末太陽傳での真彩ちゃんのおひさは「このままじゃあたし、お女郎に出されてしまうんです」「こんなことになるなんて、思いもよらなかった」と咲ちゃん演じる徳に告げる言葉に、同情をそそって助けてほしいとすがるようなあわれっぽさがいっさいなかった。そんな星のめぐり自体に怒っているような口調で、気丈さが逆にいじらしさを感じさせてならなかったな、と今回の台詞の感情の込め方に通じるようななにかを思い出した。
また、時代的にも若尾文子さんや高峰秀子さんといった往年の名女優さんが若かりし頃の映画に出ているときの台詞回し、声音に近いものを感じて、そこにもぐっときている。とても好き。


ルイについて
翔くんこんなにかっこいいなんて聞いてなかった…。クロードと全く異なるタイプという対比が効いているのもあるのだけど、クロードがフランソワーズを追って去った後の、わかりあえるのは同じ穴のムジナのおれたちだけ、とシャロンを後ろから抱き込んで手首のあたりをやさしく握るようにしながら揺らす様子が、彼女のキッとした気丈な顔つきもあって駄々っ子を慰めているようで、その余裕がたまらなかった。シャロンと別れて1人で帰ってきた場面のグレーのスーツの似合いっぷり。「おいで」「おれがドジでどうしようもなかっただけ」「またはないのさ」と連なる引き際鮮やかな物分かりのよい男の格好良さ。ひいきが誰もいない状態で観たら多分ルイ役者に落ちている。このアウトローさが美味しい役だし、翔くんはルイを格好良く演じてその美味しさをしっかりものにしていると思った。


エヴァについて
「金と恩義」しかないし、続き部屋には鍵がかけてありそうなボーモン伯爵とシャロンの間柄を、エヴァが盛りに盛って「取り返しのつかない」ことになると「伝言」したのはクロードをけしかけたかったんだろう。彼女がいなければふたりはあんなことにはならなかった、というある意味立役者で共犯者。ああいうマダムの使う「惚れたね」って語尾がたまらない。黒蜥蜴の緑川夫人みたいな。彼女と花商人子爵の距離感や気脈の通じ方も好み。あゆみさんのああいったお役を初めて見たけれど、色気の香りかげんが絶妙で素敵でした。「今週のあなたは最悪!」ジゴロたちに指南してるところの台詞の声もすきだけれど、真骨頂はダンスでしたよねと思い出す、ルイと踊り出した途端に発揮されるのびのびとした躍動感にも、腕の長いダンサーさんの身体の使い方って観ていて気持ちいいなあと楽しかった。


また後程追記できれば。