アジャイルの導入方法やいかんや

アジャイルがうまくできていないところがいまだに多いに違いないし、これからも続出するだろう。
それはなぜだろうか?
アジャイルをリーンという名前にかえたとしても本質がわからなければおなじこと。
こないだあったGMOの人のところもおそらくうまいことアジャイルができていないのだろう。
官僚主義のせいか、それとも、評価の仕方が根本的にダメなのか。


そもそもうまくいっていないアジャイルとはどういうものだろうか?
俺の経験では、アジャイルにて行われるそれぞれの会議が形骸化することにある。
つまり、ただやってるだけで、明らかに効率も良くなければ現状とかい離しているパターンだ。
プランニングポーカーは感覚的で、なおかつ、一部のエキスパートの思った通りの結果しかださないし、バックログもエクセルで管理されていたものが踏襲されたままである。
教科書通り、それまでのやり方をただやるだけで改善がみられないのである。
アジャイルではカイゼンをすすめるもののになぜこういった状況に陥ってしまうのか。
そもそもアジャイルがプロジェクトごとに違えば日々変わっていくものだという認識がないことが原因かもしれない。
「次はもっとよくしよう」という文化というか考え方ができなければアジャイルは不向きである。
それには"次"とはなにかを認識していなければならない。
カイゼンしない人たちの言い分はきまって「今回は特別だから次への反省とかはありません」とぎりじょうしは言う。
にもかかわらず、あきらかな例外にたいして「これは一般的事象だからルール化して明文化しましょう」とか言う。
教科書通りにやることは大切だけど、教科書通りにメソッドを変化させるということはもうそれだけで応用だから、守破離の破以降でなければ難しいのである。

画家やハッ家ー

絵画というものは、写真の代替品ではない。
表現の一種である。
だからたとえそこにリンゴがあったとしてもそれを目に映ったまま模写する必要はなく、その人がどう思ったのかを表現することが絵画である。
模写というものは目に入ってきたインプットをそれっぽくアウトプットしているに過ぎない。
その行為は、たとえば音楽で言えば耳コピである。あるいは古くからおこなわれているのは動物の鳴き声を声帯模写する、などである。
そしてそれはアートの一つの側面しかとらえていないということになる。



では、コードはどうだろう。
ハッカーに一番よく似ているのは画家であるという主張があるように、ヒヤリングや仕様書などでインプットし、自分の思ったようにアウトプットをする。
仕様書の通りに動くようにすることは顧客の言い分の模写である。
そしてもちろんそれはコーディングの一側面だ。


写真と絵画はよく比較される。
そこにある事象を忠実に再現するには写真がもっとも適しているのは事実で、絵画を一側面でしか判断しない人いわく、写真があるから絵画はいらない、と言う。
しかし、俺は絵画は写真を超えるものを創造すると思う。
コードも同じ。
だから仕様書を模倣するだけのコーディングはいつまでたってもそれ以外のコーディングを超えられないのである。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・

俺ほどのレベルになれば、この会社がなぜダメなのか、どうダメなのか、というものをちゃんと理解している。
その上で、本当のまっとうな社会人というものはどうあるべきで、どう振る舞うか、ということを理解して実践することができ、社風や怠惰な文化に流されたり飲まれたりしないことが可能だ。


でも新卒の子供達に関してはこれが社会の標準だと思うことだろう。
そうなれば他の会社で生きていくのはかなり厳しいということになる。

もしかしてだけどもしかしてだけど

爆乳地味子はものすごい権力者で、席替えとか自分で自由にできるほどで、実は俺のことが気になってるから近くにしたんじゃないの〜〜〜どぶろっく風
と考えずにはいられないほどの奇跡的な配置なんだけどどういうことなの・・・