11月公開「清須会議」の前に
清須会議と縁の深い清洲城で、
11月9日から公開される三谷幸喜監督・脚本の「清須会議」のPR催しが開かれている。
ご当地武将隊「桜華組」が、
権力を持とうとする秀吉や柴田勝家の駆け引きを表現した演武を披露。
毎週水、土、日が定期演舞
桜華組とは別に、「議組(はかりぐみ)」も新規に結成された様子です。
天守閣で1日数回、清須会議の内容を紙芝居で披露します。
天守閣に連なる入場無料の通路部分に、
9月1日から12月末まで清須会議の収録の様子を撮影したパネルや
清須会議の歴史を伝える内容を展示しています。
ちなみに映画のキャストは、
柴田勝家: 役所広司
橋場秀吉: 大泉洋 など
この「清須会議」を書いた三谷氏の本を読みましたが、
既に今日は文庫本まで出ているようです。
映画の公開が楽しみですね。
ところで、
これにちなんで清洲城を挟んだ五条川右岸にある「清洲ふるさとのやかた」よこで、
地元産の野菜や手工芸品を販売しています。
10月11月は無今日だそうですよ。
島根県浜田市が元藩主の甲冑購入
毎日新聞によると、------------------------以下(一部加筆)
島根県浜田市黒川町の浜田郷土資料館で、
浜田藩主のよろいかぶとを初めて展示する「浜田の大名甲冑展」が
8月5日まで開催中だといいます。
浜田藩は、2、4期が同じ大名家ですが、
江戸幕府の命によって四つの大名家が5期にわたり統治したといいます。
江戸は計18代続き、7、11代が同一人物で17人の藩主がいました。
これら藩主の甲冑は三つ確認されていましたが、同市内にはなかったといいます。
平成23年に浜田市は、4家の一つ、
松平周防守家にゆかりがある個人から
6代・康豊の甲冑を購入し、今回初展示しています。
その甲冑には、家紋が細密に刻まれていて、
浜田市教委は「美術品と言え、まさに大名甲冑」と評価しているといいます。
「浜田の大名甲冑展」では、
浜田市が所有する同家の祖、松平康親の甲冑も13年ぶりに公開しています。
松平康親は「関ケ原の戦い」以前に死亡しましたが、
徳川家康方で活躍し、家康の信任を得た武将で、
その甲冑も厚い鉄板を持ち実戦向きでシンプルな作りだといいます。
装飾品的な大名甲冑と、
戦陣を駆け巡ったであろう甲冑を見比べられる展示となっているようです。
ここまで-------------------------------------------------
浜田郷土資料館(0855・23・6453)
オリジナルのホームページはないようです。
栃木県小山市で小山評定甲冑展
栃木県小山市といえば、
現在、流域下水道が建設されている高岳製作所が
事業縮小や閉鎖に当たり、人員整理で転出したところではなかったでしょうか…
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徳川家康着用の羊歯大黒頭巾具足(しだだいこくずきんぐそく)写しなど、
小山評定(ひょうじょう)に参加した武将の甲冑(模造)10領を展示します。
1領は試着専用となります。
他の9領につきましても、お客様のご要望により試着できます。
また、併せて、小山評定参加武将の陶人形の展示や、
まちなかボランティアガイド「いいとこ教え隊」の展示コーナーもあります。
日 時
平成24年7月7日(土)〜8日(日)
午前10時〜午後7時
場 所 小山市生涯学習センター ギャラリー(ロブレ6階)
入場料 無料
その他 駐車場はロブレ駐車場をご利用ください。(有料)
平成23年度の甲冑展の様子
平成23年度の甲冑展の様子
ボランティアガイドと行く小山氏由緒の史跡巡りについて(参加者募集!)
歴史ある小山の中で、小山氏由緒の史跡をまちなかボランティアガイド
「いいとこ教え隊おやま」のわかりやすい解説を聞きながら巡ります。
日 時
平成24年7月8日(日曜日)
午前9時40分〜午後12時30分
集 合
午前9時40分 小山駅西口 ロブレ北側入口前
コース
(1)小山駅西口(おーバス利用)
(2)小山総合公園(以降徒歩で移動)
(3)鷲城跡
(4)西林寺
(5)長福城跡
(6)須賀神社
(7)小山政光・寒川尼石像
(8)祇園城跡(城山公園)
参加費 往路のバス代として200円をご用意ください。
※65才以上の方、小学生は100円となります。
移動手段 徒歩(往路のみバス利用)
定 員 先着15名程度
申込み 平成24年7月2日 月曜日まで
申込み・問合せ先 文化振興課0285−22−9668
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こうした記事が小山市のホームページにアップされると
RSS機能を使って、こちらにもちゃんとメールが届きました。
清須市役所のホームページには、
こんな基本的な機能もないようです…(^^;
大多喜城手作り甲冑隊
千葉県夷隅郡大喜多町でも甲冑隊がありますね。
私は大喜多町という地名は存じませんでしたが、
いすみ鉄道の夷隅郡というと、何となく、ああ、あの辺かな〜と
実はこの会社、いすみ鉄道株式会社は、
まさにここ千葉県夷隅郡大多喜町に本社を置いています。
日本国有鉄道、つまり昔の国鉄のローカル線の木原線を引き継いだ
鉄道路線いすみ線を運営いるわけで、
現在は、沿線自治体などが出資する第三セクター方式の鉄道事業者。
そして、その運営が独特だというので忠告されていますね。
私も一昨年に社長の講演を聞いたことがありますが、
その時にもありましたが、
たしか運転手に700万円を払って受講するという会社です。
ふつうはローカル線の鉄道会社は運転手を募集しても
なかなか成り手がないのかと思いましたが、
あにはからんや、
こんな大金を叩いてまで自分が鉄道運転手になりたい人もあるといいます。
こうした発想自体が、「鐵ちゃん」でないと思い浮ばないですね。
改めて場所を見てみましょう。
上記のマップのところです。
周辺には随分とゴルフ場がありますが、
これも首都圏域のゴルファーを当て込んだ一種の乱開発なのでしょうか?
バブルの頃には交通費共で5万円ほどでゴルフをした記憶がありますが…
今じゃ誰もそんなにゴルフに払いませんけどね。。。(^^;
肝心の大喜多町の甲冑隊ですが、
あちこち交流を広げて、他の町のお祭りなどにも参加しているようです。
甲冑を切り口に交流が広がっているようです。
会津美里では、甲冑姿で野だて
福島民報によると、
会津美里町の国史跡・向羽黒山城跡で野だてを楽しむ
「第11回炎の郷・向羽黒山城跡ふれあい茶会」が5/27回開催さた際、
白河歴史文化協会の協力で初めて甲冑の試着撮影会を企画したといいます。
場所は、城跡がある白鳳山公園などで、会津盆地の雄大な景色を眺めながら、
戦国時代、武士たちが手にした杯「馬上杯」でお茶を味わう来場者の姿も見られた。
ちなみに昨年は東京電力福島第一原発事故の影響から、
屋外での開催は取りやめとなっていましたが、2年ぶりに山城跡で開かれたようです。
訪れた人たちは、各茶席を巡りながら茶道文化にふれたようですが、
甲冑姿で抹茶を味わう来場者も随分いたようです。
全国的にちょっとした武将隊や甲冑ブームですね。
たちばな甲冑工房
ちゃんと甲冑師がいらっしゃるんですね。
たちばな甲冑工房
〒976-0042 福島県相馬市中村字北町22
以下は、相双生活からの引用
但し、<毎日新聞 2008年6月3日 地方版>から引用したもののようです
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◇「先人の影」追いかけ40年−−
相馬市中村で「たちばな甲冑(かっちゅう)工房」を営む甲冑師・橘斌さん(64)
鎧(よろい)姿の騎馬武者が駆ける伝統行事「相馬野馬追」。
出陣の舞台となる相馬市中村の中村城址(じょうし)近くに、
「たちばな甲冑(かっちゅう)工房」はある。
主(あるじ)の橘斌(さとし)さんは、
約50年のキャリアを誇る甲冑師だ。
昼夜を分かたず甲冑に向かい、
時折手を休めキセルで煙を吐く姿は、昔ながらの職人を思わせる。
甲冑は鎧と兜(かぶと)の総称で、一領は約1万点の部品から成る。
一つ一つが手作りで、鍛冶(かじ)、組み紐(ひも)、彫金、染め付け、漆塗り……
と膨大な工程があり、制作に3年以上かかる。
「手間がかかるからこそ思い入れも強い。子供のようなもんだね」と目を細める。
祖父の代から続く工房の長男だが、後を継ぐ気はなかった。
「子供のころの夢は天文学者。毎日、望遠鏡で星を眺めていた」。
高校卒業後、横浜の町工場に就職したが、10カ月ほどで体調を崩し実家に戻った。
父薫さんの薦めで京都の映画小道具会社に勤めたのが、転機となった。
「外に出て初めて父の仕事のすごさが分かった」。
黒沢明監督の映画「蜘蛛巣城(くものすじょう)」で甲冑の修繕を担当するなど、
多くの甲冑を目の当たりにしたが、父の作品とは比べるべくもなかった。
1年半ほどで戻り、父に弟子入りしたが、間もなく父は脳出血で他界した。
22歳の時だった。「このままでは看板を継げない」。
父の残した甲冑を見て、独学で少しずつ技術を身につけ、
作業場に寝泊まりする日が続いた。
修繕の仕事をこなしつつ、28歳で初めて新作の依頼を受けた。
「うまくいかなかったら看板を下ろそう」。
3年がかりで完成させた甲冑は依頼主の気に入り、
「この道で食っていく」と決意した。
制作した甲冑はこれまで6領。
1986年には大作「赤糸威大鎧」も復元した。
平安末期の鎧とされるが、棚倉町の都々古別(つつこわけ)神社に
残片がわずかに残るだけ。
松平定信が編纂(へんさん)した図録「集古十種」や全国の類品を参考に、
3年がかりで復元した。現在、会津若松市の県立博物館に収蔵されている。
「甲冑師には時代考証も大事」といい、工房には歴史書や軍記、
美術書が並ぶ。新作の構想には最低1年かけるという。
「甲冑は戦場で武士の身を守るとともに、死に装束でもあった。
下手な仕事はできません」
甲冑作りの先行きには不安も感じている。
甲冑師は全国に十数人しか残っていないと言われる。
最近は材料の入手も難しくなった。
「産地の高齢化が進み、漆や絹糸などの材料が国内で手に入らなくなった。
銅一つとっても、不純物が混ざってこそ美しい色合いが出るのだが、
今は電気精錬され純度が極めて高い。
かつての鎧を再現するのは非常に難しい」とこぼす。
父の後を継いで40年が過ぎたが、「技術はまだまだ」と苦笑する。
修繕に出される昔の甲冑を見るたび出来栄えに驚かされ、
夜間の照明もない時代に作られたとは思えない。
「先人たちの影をずっと追いかけてきた。
とても追いつけそうにないけど、死ぬまでに少しでも近づけたら」【関雄輔】
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■人物略歴
1943年相馬市生まれ。
04年地域伝統芸能大賞など受賞多数。妻美奈子さん(62)と2人暮らし。
趣味の謡曲は20代から続け、今も時折、舞台で自慢ののどを披露する。
7月の野馬追には、自身も自ら橘家に代々伝わる甲冑を身につけて出場。
今年で50回目の「出陣」となる。
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毎日新聞 2008年6月3日 地方版----------------------------------------------------ここまでが引用
なんだか橘さんに遭いたくなっちゃいますね(^^
長篠の戦い 戦勝記念 〜 大分県中津市
平成24年5月19日(土)午前10時〜午後5時 ※雨天決行
開催場所 中津城・奥平神社
・甲冑武者凱旋行列
・たにし奉納
・御神酒振舞い
・たにしの佃煮振舞い
・開運餅まき
・火縄銃実演
・甲冑武者コンテスト
・絶叫「鳥居強右衛門」コンテスト
など
「長篠の戦い」は、
日本の歴史上最も有名な戦いの一つです。
以下、中津城たにし祭りから
<一部修正>
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ここでご紹介いたします「たにし祭(奥平神社例大祭)」は、
長篠の戦いの前哨戦である長篠城籠城戦において、
奥平信昌(貞昌)公が率いる籠城部隊が、
城内の食料が尽きても、なお堀の「たにし」を食べて
織田・徳川の援軍が到着するまで城を守り通した事に由来しています。
この戦いにより家名をおおいに上げ、
未来を切り開いた奥平信昌(貞昌)公は、
信長公の一字を与えられ、家康公の長女「亀姫」を娶りました。
その後奥平家は、徳川御連枝として、宇都宮藩主などを経て、
幕末まで中津藩十万石を長く治めたのです。
また、自らの命を省みず城を脱出して家康公の元に赴き、
そして戦場に引き返した際、
敵に捕らわれながらも援軍が到着することを味方に伝え、
磔にされた武士の鑑「鳥居強右衛門」の逸話は、あまりにも有名です。
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