孤独なボウリング: 米国における社会変化の考察

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生

孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生

 読書会をはじめてからもうすぐで1ヶ月になるけど、やっと読書ノートを書く決心がついた。今回はとりあえず第1章だけ。『孤独なボウリング』でパットナムが扱おうとしている問題は、「なぜ、アメリカ人は以前に比べて市民参加をしなくなったのか」ということ。もう少し具体的な言葉で言いなおすと、「昔はみんなで集まって食事やゲームを楽しんだり、政治について意見を交わしたり、ボランティアに参加して誰かを助けたり、あるいは助けられたりしていたのに、今ではそういったことをする人はずいぶんと少なくなった。それはどうしてなのか」というようになるだろう。このような問題関心は冒頭の第一パラグラフにまとめられている。

 ペンシルバニア州グレンバレーのブリッジクラブが、いつ、なぜ解散してしまったのか正確に語れるものはいない。1990年の時点でも40人余のメンバーは、それまでの半世紀と変わらず定期的にブリッジに興じていたのだが。アーカンソー州リトルロックのサートマクラブを襲ったショックは、さらに悲惨なものである。1980年代半ばまで、50人近くの人々が通例の昼食会に集まり聴覚障害者、聾唖者の支援活動について話し合ってきたのだが、10年後に定期的な参加者はたった7人にまで減ってしまったのである。(p. 9)


 パットナムによれば、こうした傾向が生じたのは古い世代(コーホート)が市民参加から退出していったせいではないという。古いメンバーがいなくなっても、新しいメンバーが補充されれば、コミュニティは再活性するはずである。そのようなことが起こらなかったため(つまり、若い人が市民参加しなくなったため)、20世紀最後の数十年間において、アメリカに存在する何万というコミュニティ組織は衰えていった、というのだ。実際、1960年代までは、アメリカにおける市民参加は着実に増加していった。この時期はベビーブームによって、人口構成が非常に若くなっているときでもあった。市民参加と年齢との間には一般的に正の相関があるため(人は若いうちは市民参加にそれほど関心をもっていないが、年をとると市民参加に対してより積極的になる)、若い人が多いということは、それだけ国民の市民的関与は低い水準に抑えられている、ということを意味する。けれども、この時期の若者が大学教育を受けることによって寛容さと市民的関心を向上させることで*1、かれらが「中年=ライフサイクルのなかでの加入年代」にさしかかる1980年代には、コミュニティ組織のメンバーの急増が見られる、と期待されていた。しかし、アメリカ人の市民生活に、このような明るい未来が訪れることは実際にはなかった。

 以上のような「市民参加の減退」という現象に対して、「社会関係資本」の視点から考察をおこなうというのが『孤独なボウリング』の主な内容になる。

 近年、米国社会の特性の変化を考察する上で社会科学者が用いるようになった概念が「社会関係資本」である。物的資本や人的資本――個人の生産性を向上させる道具および訓練――の概念のアナロジーによれば、社会関係資本理論において中核となるアイディアは、社会的ネットワークが価値を持つ、ということにある。ネジ回し(物的資本)や大学教育(人的資本)は生産性を(個人的にも集団的にも)向上させるが、社会的接触も同じように、個人と集団の生産性に影響する。

 物的資本は物理的対象を、人的資本は個人の特性を指すものだが、社会関係資本が指し示しているのは個人間のつながり、すなわち社会的ネットワーク、およびそこから生じる互酬性と信頼性の規範である。(p. 14)


 社会関係資本の概念を最初に用いたのはL. J. ハニファンである。ハニファンによれば、独りぼっちの個人は弱く頼りないものだが、彼女が近隣と交流し、近隣がまたその近隣と交流することで社会関係資本が蓄積されていくことになる。こうして蓄積された資本は、最初の彼女にとってだけではなく、コミュニティ全体にとっても好ましい性質をもっている。社会関係資本によってコミュニティは活性し、同時に個人は、コミュニティのなかに援助や共感、友情を見つけることになるからだ。

 このように社会関係資本は「私財」であると同時に「公共財」としての性格ももっている。社会関係資本に対する投資の見返りは、投資者だけに返ってくるというわけではない。利益のいくらかは、傍観者の手にも渡る。たとえば、近所に住む人々が互いの家から目を離さないことによって犯罪率が低くなっているような町では、ほかの住人に挨拶さえしないような人でも、「安全な場所に住むことができる」という利益を受け取っていることになる。社会関係資本にはこうした性質があるため、それを支えている行動ルールも興味深いものである。そのルールとは、「いま、あなたが私にしてくれたことを、いつか私があなたに返してあげる」という互酬性の規範である。

 互酬性は「特定的」であることもある。「あなたがそれをやってくれたら、私もこれをしてあげる」のように。しかしより価値があるのは、一般的互酬性の規範である――あなたからの何か特定の見返りを期待せずに、これをしてあげる、きっと、誰か他の人が途中で私に何かしてくれると確信があるから、ということである。(p. 17)


 互酬性の規範によって特徴付けられた社会は、不信がうずまく社会よりも効率がよいとされる。信頼は社会生活を滞りなく送るための潤滑油になる。社会関係資本が豊富なところでは、政治的、経済的取引における不正や日和見は減少するという。

 ここで注意しないといけないのは、社会関係資本も「資本」の一形態である以上、負の外部効果ももちうる、という点だ。テロリスト同士が結ぶネットワークも社会関係資本のひとつとして見なされる。互酬性の規範によって結び付けられたネットワークによって、ひとりのテロリストの力だけではできないようなことでも可能になる。社会関係資本がもつ正(プラス)の効果を最大化し、負(マイナス)の効果を最小化するためには、何が必要かを検討しないといけない。この目標を果たすために、社会関係資本のさまざまな形態を区別しようとする研究がおこなわれている。多様な社会関係資本の形式のなかでも、もっとも重要視されているのが「橋渡し型」(包含型)と「結束型」(排他型)の区別である。

 結束型の社会関係資本は内向きの指向をもち、排他的なアイデンティティと集団の等質性を強化していく傾向がある。こうした形態の資本は、しばしばネットワークのメンバーにとって重要な精神的、社会的支えとなる。他方、橋渡し型の社会関係資本は外部との連絡や情報の伝播に優れ、いつもよく会う人(=社会学的な居場所が自分とよく似ている人)からはえられないような情報をもたらしてくれることがある。橋渡し型の資本によって形成されるアイデンティティはより広いもので、互酬性は一般的なものになる。

 結束型の社会関係資本は、内集団に対する強い忠誠心を生むことで、逆に外部に対しては敵意を作り出す可能性がある。したがって結束型の社会関係資本は、負の外部効果をもちやすいということができる。けれども、多くの場合、結束型も橋渡し型もともに大きな正の効果をもちうると考えられる。また、多くの社会関係資本は、ある次元では人々を「結束」させ、別の次元では「橋渡し」をおこなっている。結束型、橋渡し型という区別は相対的なもので、「どちらかの傾向がより大きい、あるいは小さい」といった性質のものである。

 すでに言及しているように、アメリカ人の市民参加は20世紀最後の数十年間に急速に衰えていった。これと対応するように、多くのアメリカ人が市民的な不調感を訴えるようになった。多くのベビーブーマーは、経済的な生活には満足しているにもかかわらず、自分たちの親世代のほうが「意識の高い市民であり、コミュニティにおいて他者を助けることに関わっていた」と考えていることが明らかになった。同様に、「コミュニティの崩壊」と「利己主義」を国の深刻な問題だと考えるものが多く、「平均的米国人の正直さと誠実さ」が向上していると答えるものは少なく、社会の焦点がコミュニティから個人へと移行していくことに、多くのアメリカ人が懸念を抱いていた。このような陰鬱な社会観が「昔はよかった」という単なる懐古主義のあらわれなのか、それともアメリカ人の市民的関与は本当に衰退しているのか、といったことを判断するためには、実際にデータを調べてみればよい。そうすることで、問題の所在を明らかにすると同時に、コミュニティの衰退が本当だとすれば、それを逆転するための「力」について考えることも可能になる。このような立場から『孤独なボウリング』では複数の市民参加の時代的な変遷についての、信頼の置けるデータが提示されることになる。


 以上が『孤独なボウリング』第1章の主な内容になる。この章で興味深いのは、やはり社会関係資本の定義についての議論だろうか。社会関係資本(Social Capital)という言葉は、これまでに読んだことのある論文の中でも時おり目にする概念だったが、正確な定義についてはよくわかっていなかった。パットナムの議論を踏まえるならば、「社会的なネットワークが効果をもつ」というのが社会関係資本理論の骨子になるだろう。一般的信頼と互酬性の規範によって結ばれた人々のネットワークが、個人や集団の生産性や厚生に対して利益をもたらすとき、そのネットワークは社会関係資本として評価されるべき性質をもっている、といったように。つまり、単なる集団所属やネットワークだけでは社会関係資本とは呼べず、それが何らかの「社会的効果」を生まないといけない、ということになる。よって、社会関係資本とは、その効果から切り離して議論することが難しく、説明変数として用いた指標(たとえば親族ネットワークとか友人関係とか)と、被説明変数との関係に対するひとつの解釈のことを意味していると考えられるのではないか。というのが、読書会に参加したわれわれの、社会関係資本論に対する見解だった(と思う)。となると、『孤独なボウリング』においてパットナムが本当に心配しているのは、市民的関与の衰退そのものというよりも、その衰退によって、社会や人々に何かよくないことが起こりうる可能性だと考えられる。この何かよくないこと、というのが社会関係資本理論における潜在的な被説明変数に該当するのだろう。社会関係資本の衰退が社会にもたらす影響については、第4部において議論される。

 社会関係資本は、人々の生活の多くの側面に対して、強い、そしてはっきりと測定可能な影響力を及ぼすことが明らかとなる。危機に瀕しているのは、コミュニティの内にある、単に温かで、抱きしめたくなる感情やときめきではないのである。学校や近隣関係が、コミュニティの結束が弱まっている状況ではうまく機能しないこと、そして、経済、民主主義、さらには健康や幸福までもが、社会関係資本の十分な蓄積に依存していることを、確たる証拠によって示す。(p. 27)

*1:教育水準が高い人ほど、市民参加に対してより積極的であるという傾向が多くの研究によって実証されている。