清く正しい音楽学会を創ったのは誰か?:『日本音楽学会30年史』(『音楽学』第33巻特別号、1987年)(1/3)

[8/29 雑談等をカットした短縮版を作成・公開。→ http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/msj.html ]

「白石知雄は学会批判をしている」ということになっているらしいのですが^^;;、吉田秀和は設立時の発起人の一人だったようですし[学会会員だったように思ったのですが、名簿を確認すると勘違いで、入会はしていないようです]、柴田南雄も、会員だったか生前の名簿を確認しそこねましたが、楽理科教授就任以来、後半生は音楽学会とつかず離れずの位置にいたことが知られています。わたくしとしては、戦後日本の洋楽史の無視できない一要素として、正確な情報が知りたいだけです。

吉田・柴田が設立に関わった桐朋の音楽教室・音楽学部が小澤征爾をはじめとする音楽家を生み出した「歴史」であるように、日本音楽学会だって、もうそろそろ「歴史」だろう、ということです。

日本音楽学会の設立は1952年(昭和27年)。設立30年を期に、会報に数多くの会員が寄稿した回想文集「学会30年の歩み -- そのひとこま --」が連載されて、その抜粋を含む30年史が、1987年に機関誌特別号として刊行されました(内容は、「写真資料」、「序」、「30年史の概要」、「学会回想録」(←これが会報連載を抜粋・再配列したもの)、「物故会員のプロフィール」、「年表(1952-1982)」(←全国大会・例会・機関誌の題目一覧)、「補遺」(←1952年以前の国内の音楽学文献リスト)、「編集後記」)。

30年史の終点1982年から、さらに30年が経過しました。

戦後の洋楽に関する研究発表や論文投稿も増えているようですから、学会自身が、みずからの歴史をどのように記述するか、洋楽研究の規範となるような年史が編纂されてしかるべきなのではないか、と私は思っているのですが……、こういう発言は、「学会批判」なのでしょうか?

[更新履歴]

  • 2011/8/29 雑談等をカットした短縮版を作成・公開。→ http://www3.osk.3web.ne.jp/~tsiraisi/musicology/article/msj.html
  • 2011/8/21 学会誌創刊に関連して、創元社の沿革を追記。
  • 2011/8/14 全体を三分割。「楽理=音楽理論」という用語法があるらしいのですが、自分の文章にそういう用例(まして「楽理的」など)がないことに安堵しつつ、念のため、一部を除いて「楽理→楽理科」へ変換。
  • 2011/8/13 PM21:00 院生時代の音楽学会の思い出を「後記」に加筆。
  • 2011/8/13 PM11:00 小松清についての皆川達夫の回想を追加。更新は、最新のものだけ冒頭に載せて、あとは別の箇所にまとめることにしました。
  • 2011/8/13 加藤成之に対する服部幸三、張源祥に対する谷村晃の紹介文をめぐる考察を加筆。
  • 2011/8/11 山根銀二と服部幸三の言い争いに関する考察を改稿。その他細かい修正。遂に3万字に達してしまいました……。
  • 2011/8/10 『音楽学』の初期の広告に関して補足。
  • 2011/8/9 PM17:00 三度タイトルを変更。柴田南雄の音楽之友社での音楽通史の仕事について加筆。
  • 2011/8/9午後 長大になったので、最初に「あらすじ」を追加。
  • 2011/8/9午前 もう一度タイトルを変更。柴田南雄に関する記述を修正&最後にもう一箇所追加。
  • 2011/8/8 当初の目論見と話の展開が変わってしまったのでタイトルを変更。ひととおり最後まで書き終えました。

(0) この文章のあらすじ

二万五千字を越える長文になってしまったので、本論の前に、あらすじを添えることにしました。

1989年、丁度わたくしが大学院に進学した年に、東海テレビ(フジテレビ系列)の昼ドラで「夏の嵐」というのが放映されていました。大学院生は授業も少なく、時間をかなり自由に使えますから、「愛の嵐」(1986)、「華の嵐」(1988)の再放送とともによく観ておりました。(関西のみかもしれませんが、同じ枠で田宮二郎の「白い巨塔」の再放送もあり、大変嬉しゅうございました。ちなみに、岡田暁生もこういうのが大好物でした。メロドラマ的感性はオペラの基本。大野和士さんも嫌いじゃなさそうですよね。(沼尻氏はどうなんだろう……!?))

父が海軍将校である男爵家のお嬢様の高木美保が、身分違いの苦学生の浅黒い渡辺裕之と恋に落ちる話。ストイックでホモソーシャルな雰囲気の兄・長塚京三との近親相姦的な兄妹愛があったり、戦後のブラックマーケットでのし上がった出入り商人・石丸謙二郎の黒々とした欲望の魔の手が襲いかかったり……、婦人小説の流れを汲み、昨今の韓流へつながっているのかもしれないメロドラマですが……、

『30年史』から浮かび上がる音楽学会の黎明期の歴史には、そんな善玉・悪玉のはっきりした通俗メロドラマを連想させるところがあります。

昭和27年(1952年)、東京上野には、まだ敗戦の傷跡が生々しく残っていた。旧華族の東京藝術大学音楽学部長・加藤成之は、楽理科という愛娘の行く末を案じ、音楽学会を創立する。そこへ現れたのは音楽之友社、翼賛総動員体制でのしあがったと噂される神楽坂の闇商人である(←やや誇張あり、失礼!)。傍らには、戦後の闇社会を牛耳るコワモテの用心棒、音楽評論家・山根銀二の影が見え隠れする(←この人は「銀二」という任侠映画風の名前で損をしていると思う、帝大卒のエリートなのに……、名前重要)。深窓の令嬢・藝大楽理の運命やいかに!!

というわけです(笑)。

そして問題は、音楽評論家の魔の手(?)から身を挺して音楽学会を守ろうとした若き日の服部幸三(ならびに「十二指腸潰瘍の発作」という笑ってはいけないけれども面白すぎるその結末)が、渡辺裕之のような「白馬の王子様」に見えるかどうか(←重ね重ね失礼を陳謝!)、そもそも、現実にそんな出来過ぎたドラマがあるものなのかどうか、ということになろうかと思います。

あれから半世紀。

「ばらの騎士」研究をひっさげて登場した岡田暁生は、どこかしら、遅れてやって来た白馬の騎士(と書くと、騎士物語の妄想で頭がいっぱいのドン・キホーテみたいだが)のような受け止められ方をされた面があるように思いますし、わたくしの立場は、「そんな話は作り事、現実にはあるわけない」と受像器の前でテレビドラマにツッコミを入れる視聴者のようなものなのかもしれません。そんな日本の音楽学の現在を視野に収めつつ、お楽しみいただければ幸いでございます。

では、はじまり、はじまり。(BGMは、決然と切り込むヴァイオリンとピアノの漆黒の響きが印象的な、例のテーマ音楽で♪)

(1) 学会設立の呼びかけ人

日本音楽学会の本部は設立以来ずっと東京藝大にあります。

なぜ本部が東京藝大なのかというと、1949-1952年に東京藝大音楽学部長だった加藤成之(美学)が、初代会長として学会の設立に尽力した経緯によるようです。年史の記述によると、まず、1951年11月に藝大音楽学部長の加藤と同教員?(美学)の土田貞夫、東大教授(フランス文学)の小松清、同助教授(東洋音楽史)の岸辺成雄が集まり、彼らが呼びかけ人になって発起人会を組織して(発起人会メンバーについては(5)を参照)、……という一連の学会設立の動きのなかで、場所を提供して便宜をはかるなどした藝大に自ずと本部を置くことになったようです。

加藤成之(1893-1969)は、

加藤成之 かとう-よしゆき

1893−1969大正-昭和時代の音楽美学者。
明治26年9月6日生まれ。加藤弘之の孫。浜尾四郎,古川緑波(ろっぱ)の兄。東北帝大講師,東京音楽学校(現東京芸大)教授をつとめ,音楽史,音楽美学を担当する。昭和24年同校校長,同年学制改革で東京芸大初代音楽学部長となる。32年から女子美大学長。貴族院議員。昭和44年6月30日死去。75歳。東京出身。東京帝大卒。

加藤成之(かとう よしゆき)とは - コトバンク

東京大学法文理三学部綜理で帝国大学第二代総長だった加藤弘之のお孫さんの旧華族様が初代会長なのですから、日本音楽学会の出発点は、十分に「近代日本史」の一場面になる資格あり、だったのではないでしょうか?

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

土田貞夫先生(1908- )のプロフィールは、無知を恥じるばかりですが、私はほとんど存じ上げません。

[8/12 付記:『詩と音楽美の特質』(1969年、カワイ楽譜)が玉川大学出版部から再刊されたときの著者略歴(1976年現在)によると、

土田貞夫(つちださだお) 1908年秋田県に生れる。1933年東京大学文学部美学科卒業。日本大学芸術学部教授、東京学芸大学教授を歴任。1972年定年退官。現在は慶應義塾大学、日本大学等にて美学、音楽を講ず。

東京藝大との関係は出ていません。もう一度『30年史』を見直すと、1951年11月17日の会合の記録での所属は「東京芸術大学」ですが、1952年5月10日現在の「音楽学会々員名簿」での所属は「神奈川大学教授」になっています。]

詩と音楽美の原質 (1976年) (玉川選書)

詩と音楽美の原質 (1976年) (玉川選書)

演奏の論理 (1965年) (哲学全書)

演奏の論理 (1965年) (哲学全書)

小松清(1899-1975)は、日本の洋楽史で言うと、小松耕輔の弟。フランス文学者とされますが、マルローやジッドを紹介した小松清(1900-1962)とは別人なのだそうです。すごくややこしいのですけれど、杉捷夫と共編『フランス文学史』を東京大学出版会から1955年に出したのは1900年生まれの小松清で、一方、耕輔の弟で1899年生まれの小松清も、ウィキペディアに、ミュッセの翻訳がある、と書かれているのですが、以下の文庫の数々は、どっちがどっちの小松清なのでしょうか?(ジッド→小松1900、ミュッセ→小松1899、クセジュ→小松1899、で正解なの?(現在未確認))

ソヴェト旅行記 (岩波文庫)

ソヴェト旅行記 (岩波文庫)

世紀児の告白 (上) (岩波文庫)

世紀児の告白 (上) (岩波文庫)

フランス歌曲とドイツ歌曲 (1963年) (文庫クセジュ)

フランス歌曲とドイツ歌曲 (1963年) (文庫クセジュ)

小松清(1) こまつ-きよし
1899−1975昭和時代の音楽評論家,フランス文学者。
明治32年4月15日生まれ。小松耕輔の弟。東京帝大在学中に東京音楽学校(現東京芸大)でピアノと作曲をまなぶ。昭和24年東大教授。のち東京芸大,東海大の教授。フランス音楽の紹介につとめた。昭和50年4月12日死去。75歳。秋田県出身。著作に「西洋音楽の鑑賞」など。

小松清(1)(こまつ きよし)とは - コトバンク

他の資料によると、小松清(小松1899のほう)は、一高教授から1949年に東大教授へ、ということなので、教養部のフランス語教師だった、ということでしょうか?(調べがいいかげんで、推測混じりですみません。ちゃんと調べたらわかることだと思いますが。)

文学研究という不幸 (ベスト新書 264)

文学研究という不幸 (ベスト新書 264)

岸辺成雄(1912-2005)は、東洋音楽研究の重鎮でさすがにウィキペディアにも項目が立っていて、

岸辺 成雄(きしべ しげお、1912年6月16日 - 2005年1月4日)は、音楽学者。東京大学名誉教授。
東京に生まれた。教育者岸辺福雄の子。1932年東京帝国大学文学部東洋史学科入学、卒業後、第一高等学校教授、49年東大教養学部助教授、1961年「唐代音楽の歴史的研究」で東大文学博士、学士院賞受賞。62年教授、73年定年退官、名誉教授、帝京大学教授。東洋音楽学会会長。

岸辺成雄 - Wikipedia

小松清と同じく、一高教授から東大駒場へ、という経歴。

唐代音楽の歴史的研究―楽制篇

唐代音楽の歴史的研究―楽制篇

まとめると、1951年の秋に東京藝大の先生が東大駒場の先生を誘って、日本に音楽学の学会を作ろうという初動のブートストラップを引いた。そしてこれが順当に1952年4月5日、東京藝大音楽学部会議室での設立総会へつながった、ということであるようです。

(現在、本郷の美学の先生方は美学会がメインフィールドで、音楽学会へ関与する長木さんやゴチェフスキが駒場の教養部にいる、という現状は、学会設立当時に戻ったような体制なのかもしれませんね。)

[8/12 補足:岸辺成雄の卒寿記念で作成された年譜をみると、昭和11年(1936年)の東洋音楽学会設立は、岸辺とイスラム音楽史の飯田忠純の提案によるものだったようです。彼が加藤学部長に誘われたのは、学会を創った経験を買われたのかもしれませんね。しかも、岸辺は音楽学会ができた1952年の春から停年になる1979年3月まで27年間、東京藝大の非常勤講師を務めています。小松清も、上で引用した略歴によると、時期ははっきりしないのですが東京藝大教授に迎えられたそうですから、音楽学会は、かぎりなく「藝大の先生が作った学会」と見て良さそうです。]

      • -

では、なぜ、東京藝大の加藤先生が音楽学会設立に理解を示してくださったのか?

私は「裏読み」する癖があるので、昭和24年(1949年)の藝大楽理科設置と結びつけて考えたくなってしまうのですが、どこまで裏付けが取れるのか、わかりません。でも、1949年に楽理の一期生が入学したとすると、音楽学会設立の1952年には卒業年次の4年生。そろそろ楽理から最初の卒業生が出ようかという頃合いです。音楽学会設立の2年後、1954年には大学院楽理専攻科が設置されています。私には、偶然とは思えないです。藝大のエゴで学会ができた、という批判ではなく、新しい専攻科を設置するときには、大学の責任者が、当然、彼らのキャリア・パスにも配慮するものなのだろう、と想像しているに過ぎません。

[8/13 追記]

それからもうひとつ、吉見俊哉『大学とは何か』を読み直して、音楽を研究する本格的な学会ができたのは、もしかすると、戦後の大学制度改革のなかで、音楽学校が「大学」化したこととも無関係ではないかもしれない気がしてきました。

戦前の高等教育は帝国大学、私立大学、旧制高校、専門学校など年限も性格も多様だったのが、1949年から4年制大学へ一元化されるようになったんですよね。上野の音楽学校も、戦前は音楽取調掛以来の音楽教員の養成機関であり、近代の式楽としての洋楽の実技を教える専門学校だったわけですが、1949年からは、美術学校と合併して、4年制の大学になりました。

音楽の研究を「学問」の一領域として確立することができれば、音楽の学校が「大学」として存在している理由をすっきり説明することができる。新制藝大の初代音楽学部長として、加藤成之は、そんなことを考えていたのではないでしょうか? だとしたら、新制への移行と同時に楽理科を開設したことと、ひきつづいて、藝大主導で音楽学会を創立したことは、音楽学校の「大学」としての制度的な基盤を固める一連の構想の一環だったと解釈できるかもしれません。

服部幸三は、『30年史』の「物故会員のプロフィール」、加藤成之の項目で、こんな書き方をしています。

すべてにつけ、穏やかで、しゃれた感覚の持ち主でいらして、大概のことは人任せだが、大切なことには思いをひめ、ものごとの進み行きを見守るというところがあった。音楽学会の初代会長を勤められるについても、私はそのような先生のお気持ちを幾度も伺ったが、その細部はかすれがちなお声とともに、胸の中にしまって置きたいと思う。(46頁)

勿体ぶった思わせぶりな書き方ですが、簡単には公言できない「何か」を伝えられていたようにも受け取れます。服部先生は、後述するように、時に随分とやることが強引で、ヒステリックに見える場面もあったように思うのですが、加藤学部長&会長の考えていたことを、身近で聞いたり、感じ取ったりして行動していたのかもしれませんね。

[追記おわり]

なお、当初この1952年4月5日の集まりは「音楽学会設立総会」と呼ばれ、同年10/27に同志社大学等・京都で行われた集まりは「昭和27年度秋季大会」とされ、この秋の集まりが「第1回大会」と呼ばれてもいたようですが、1953年(昭和28年)11月以前のどこかの段階で、1952年4月の集まり=「第1回全国大会」、1952年10月の集まり=「第2回全国大会」、1953年4月の集まり=「第3回全国大会」、1953年11月の集まり=「第4回全国大会」とカウントし直されたようです。

当初の学会名は「音楽学会」です。

既に昭和11年(1936)から東洋音楽学会があり、設立時には、暗黙のうちに、これとの対比で「西洋音楽(史)の学会」が想定されていたようですが、上記のように最初から東洋史・東洋音楽史の岸辺先生も学会の主要メンバーですし、大学にポストを持つ会員(の予備軍)としては哲学出身の美学(音楽美学)研究者が一大勢力であり、音楽教育学の人達を巻き込むべきだとの意見を持つ会員もいたようです。

また、当時は「音楽学」という言葉が一般に知られておらず、学会名称を「日本音楽学会」とすると「日本音楽の学会」と誤解される恐れがあるという意見もあったのだとか。(この話は、長く音楽学会内部で語り伝えられていましたね。)諸事情を勘案したうえでの「音楽学会」だったようです。現在の名称「日本音楽学会 The musicological Society of Japan」に改称したのはかなり遅く、昭和61年(1986年)です。

(2) 学会史の資料、設立直後の会報の意義

東京藝大の学会本部には設立時以来の資料が保管されていて、これが、30年史のデータの基礎になったようです。

本部には「一点もの」(会議記録やスタッフの業務日誌など1点しかなくて、すべてが網羅的に揃っているか定かではないけれど、残っていれば貴重で有力な手掛かりになるであろう資料)のほかに、設立当初以来の会報もあるようです。

後述するように、学会機関誌『音楽学』の創刊は、紆余曲折があり、学会設立の2年後1954年まで遅れます。初期の会報は、機関誌創刊前の2年間の学会の動きを知る、ほぼ唯一のまとまった配付物です。そのような意義に鑑みると、(もちろん、しかるべき筋を通して本部へ行けば、閲覧させてもらえるのでしょうけれど)初期の会報を一般に閲覧可能な形に公開してもいいのではないか、と私は思います。(後述する音楽評論家との「論争」が、会報にどのように記録されているのか、知りたいですし。)

(3) 『音楽藝術』と設立直後の音楽学会

1952年4月に音楽学会が設立されてから、1954年10月25日付けで学会機関誌『音楽学』が発行されるまでの1年半の間に、音楽之友社の音楽雑誌『音楽藝術』に、音楽学会の動静を伝える複数の記事が出ています。

最初の記事は、1953年3月号。

  • 「座談会 わが国音楽学の現在と未来 昭和二十七年十月二十九日音楽学会第一回全国大会に関して」(土田貞夫(司会)、石倉小三郎、辻壮一、加藤成之、湯浅永年、上原一馬、片岡義道、野村良雄、長広俊雄、張源祥、中瀬古和、神保常彦)、『音楽藝術』1953年3月号、50-62頁

ここで「第一回全国大会」と呼ばれているのは、設立年10月の同志社大学等における「昭和27年度秋季大会」。先に述べたように、その後、公式記録では「第2回全国大会」とカウントし直されることになる集まりです。京都での集まりだからなのか、座談会参加者の過半数、12人中7人は学会関西支部の設立当時のメンバーです。

  • 石倉小三郎:関西支部長・相愛女子専門学校[現相愛大学]教授 *しばしば、あの「流浪の民」の訳者、と紹介される人
  • 湯浅永年:同志社女子大学教授
  • 上原一馬:大阪学芸大学[現大阪教育大学]助教授
  • 片岡義道:京都市立音楽短期大学[現京都市立芸術大学]助教授
  • 長広俊雄:京都大学人文科学研究所助教授[紙上参加、の注記あり]
  • 張源祥:関西学院大学教授
  • 中瀬古和:同志社女子大学教授

「第一回」を名乗る全国大会を開催した記念すべきタイミングとはいえ、一般音楽雑誌に、音楽学という耳慣れない学問を標榜する12人の座談が13頁にわたって掲載されるのはかなり異例であるように思います。後述する音楽之友社と音楽学会との協力関係との関連で考察したい記事です。

続いて、(私が見つけたかぎりでは)計4回、「音楽学会通信」という1〜2頁の記事があります。

  • 「音楽学会通信」、『音楽藝術』1953年8月号、118頁(「春季大会」「学会雑誌」)
  • 「音楽学会通信」、『音楽藝術』1953年11月号、125-126頁(関東支部第五、六回例会、関西支部公開講演演奏会・第三回例会、全国大会告知、[以上125頁、126頁に追加速報と思われる以下の項目]「関東支部第三回[通算第七回]例会」、「秋季大会スケジュール決定」、「今年度例会予定」)
  • 「音楽学会通信」、『音楽藝術』1954年2月号、124頁(「第四回全国大会開催される」)
  • 「音楽学会通信」、『音楽藝術』1953年4月号、129頁(関東支部2回と関西支部1回の例会報告)

1953年8月の最初の「音楽学会通信」の「学会雑誌」の項目で、機関誌が音楽之友社から紀要形式で刊行予定であることが告知されています。音楽之友社との間で機関誌出版についての提携話がまとまり、機関誌刊行までの「つなぎ」として、同社発行の雑誌に学会通信欄を確保することになった、という経緯であるような印象を受けます。

同じ号の「春季大会」という言い方から、この段階では、まだ、大会のナンバリングが旧いままで確定していなかったことがわかります。1954年2月号の「第四回全国大会」は、現在の公式記録と同じ数え方です。この大会でナンバリングの混乱が解消されました。

なお、この「第四回全国大会」の報告記事には、以下の記述があります。

研究討論会
前記の研究発表を中心に個的別[ママ、個別的の誤植と思われる]に討論が行われ、特に音楽美論と音楽史方法論に関して白熱的な議論が展開されていつた。この討論の一部は本誌に掲載の予定。(『音楽藝術』1954年2月号、124頁)

音楽美学と音楽史方法論に関する討論会の記録を本誌に掲載予定というわけですが、これに対応するのが半年後に出た以下の記事だと思われます。

  • 「音楽学会第四回大会 研究発表についての討論会(美学部門)」(土田貞夫、岸辺成雄、黒沢隆則、谷村晃、松本總、張源祥、吉崎道夫、神保常彦、野村良雄、片岡義道、大築邦雄、水谷知久、滝遼一、六波羅久男、辻壮一、大宮真琴、田村進、松井三男、渡辺宙明[発言順])、『音楽藝術』1954年8月号、81-98頁

掲載されたのは「美学部門」の討論だけで、音楽史方法論についての記録は、『音楽藝術』には出ていません。そしてこの2ヵ月後、1954年10月に、いよいよ音楽学会の機関誌『音楽学』が創刊されますが、ここに第4回大会の記録はありません。

第4回全国大会の「音楽史方法論」をめぐる「白熱的な議論」とは、どのようなものだったのか? 実はこれが、日本音楽学会の黎明期の歴史において私が一番知りたいところなのですが、詳細は後述します。

ともあれ、この討論会記録で、『音楽藝術』における音楽学会の通信・報告記事は打ち止めになり、音楽之友社と音楽学会の協力関係の舞台は、機関誌『音楽学』へ移ります。

(つづく)