上野の東京文化会館と黛敏郎のオペラ「古事記」を関西のオノボリさんが見学する

実際に見ないことには始まらないと思ったので、黛敏郎のオペラ「古事記」、日帰りで行ってきました。

正味の演奏時間は100分弱ですが、幕間の転換があったり、休憩を25分たっぷりとったりで、開演2時の終演は4時15分頃だったでしょうのか。

「ヴォツェック」のような凝縮されて長くないタイプの20世紀オペラ、とも言えるのでしょうけれど、愛国ものですし、むしろ、「ナブッコ」などヴェルディの初期オペラみたいな感じだなあ、などと思いました。

場面を簡潔に刈り込んでいるのも初期ヴェルディ風ですし、黛敏郎の当初の目論見は、若い頃のヴェルディみたいに燃焼度の高い音楽で、スパっと言い切るドラマだったのかもしれませんね。還暦を過ぎてなお、作曲するぞ、と構想を練るときの気持ちは若い。本当に書けるかどうかはともかく、気持ちは、「三人の会」でブイブイ言わせて、スポーツカーをかっ飛ばして、「饗宴」や「涅槃」を書いた1950年代(=太陽族映画が流行していた頃)のままだった、「あの頃」の心が蘇った、ということだったのかな、と思いました。

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そういえば、このオペラの初演の2年前に、平安建都1200年の委嘱曲を井上道義と京響が京都会館でやったんですよね。黛敏郎の晩年の作品のひとつは1960年に出来た京都会館で初演されて、もうひとつが1961年に開館した東京文化会館の50周年記念オペラとして、今回上演されたわけですね。京都会館も東京文化会館も前川國男の設計ですし、色々な意味で、これは「縁起物」だな、という気がしました。

緑がいっぱいの公園のなかに平べったいフォルムの建物がなじんでしまっているところは、京都岡崎公園の京都会館と、上野の森の東京文化会館は本当によく似ていると思いますし、岡崎と上野は、神社があって美術館があって動物園があって、という公園の雰囲気自体が似てますよね。(どっちがどっちを真似したのか、調べたらわかるのでしょうが、似ているのは偶然ではなさそう……。)

開演前に少し早く着いたので、周りをぐるっと一周してみたのですが(←なんの言い訳もできない「東京見物のオノボリさん」です)、お城から見て、海側の正面とは反対の「裏手」と言ってよさそうなロケーションは、ひょっとすると、大阪城の「裏側」の大阪城ホールやいずみホールのあるあたりに近い意味合いの場所柄でもあるのでしょうか。明治維新のときに、この山に皆さんで立てこもって、ガトリング砲を撃ち込まれた……というような痕跡が全然なくなっている「跡地」感みたいなところが、陸軍の工場の形跡がほとんどなくなっている大阪城公園と何か似通っているようにも思いました。

で、今は、文化会館のすぐ近くに奏楽堂があるんですね。

(しかも奏楽堂の中に入ってみると、今はちょうど、神戸女学院の資料提供で小倉末子の特別展をやっているではないですか!)

ピアニスト小倉末子(1891〜1944)は、海外で認められた最初の日本人ピアニストです。
今回の展示では、神戸女学院時代からベルリンへの留学、アメリカ時代、帰国後の東京音楽学校時代に至る彼女の生涯と演奏活動を、当時の資料や写真等で辿ります。

旧東京音楽学校奏楽堂

あと、お隣の美術館は、西村朗が戦後美術の回顧展を見て色々考えたと本で言っていたなあ、と思い出していると、文化会館のロビーでご本人をお見かけしてしまいましたが、

作曲家がゆく 西村朗対話集

作曲家がゆく 西村朗対話集

「オノボリさん」としては、そういうオマケの部分を含めて、楽しく過ごさせていただくことができました。(上野を歩き回って、関西とご縁のあるものに次々遭遇してしまうのもどうかとは思いますが。^^;;)

都市のドラマトゥルギー (河出文庫)

都市のドラマトゥルギー (河出文庫)

上野の山のなかをぐるぐる歩き回っていると、不意に千里の万博記念公園を連想したりもしたのですが、ここは明治の内国勧業博覧会の会場だったのだから、日本における博覧会の原点(の跡地を整備した公園)ということなのですね。

そして千里の万博公園には黛敏郎の友人だった岡本太郎(http://tower.jp/article/feature/2011/10/13/eg_mayuzumi)の太陽の塔があるのだから、上野の博覧会跡地の文化会館は、黛敏郎による「古事記」が上演されるのに似つかわしい場所かもしれませんね。

それに、客席で黛敏郎の「なんちゃって十二音技法」(あの音列は要するに減七和音をパラフレーズしたようなものでズルいと思う)を聴いていたら、ここにちゃんと入るのが初めてのわたくしとしては、48年前にここで[←間違い、正しくは日生劇場のこけら落としで]ベルリン・ドイツ・オペラが「ヴォツェック」を日本初演して、黛敏郎は十数年後にそのベルリン・ドイツ・オペラで「金閣寺」を上演してもらったんだよなあ(片山杜秀さんの解説で吉田秀和が黛とベルリンの仲を取り持ったのだと知りました)、というような、主催者の思惑にはまったようなことをついつい考えてしまいましたし……。

「古事記」が語る太古の神々よりも、明治以後の近い過去のことばかりを考えてしまう上野詣ででございました。

P. S.

で、地図を見て今更ながら初めて位置関係を理解したのですが、上野の山のふもとの大きな池から少し行くと、もう本郷なんですね。東京藝大と東大はご近所。なんだ、そういうことか、と妙に納得してしまいました。納得していいのかどうか、よくわかりませんが、でも、ケーベル先生が帝大と音楽学校の両方で教える、とか、帝大のインテリな方々が奏楽堂で西洋音楽を聴く、という明治・大正のエピソードは、こういう距離感なのか、と思ったのでした。

そしてオペラなどという騒々しくも猥雑な南蛮の芸能は、この閑静なお山や、まして丸ノ内で常打ちさせてもらえるはずもなく、かつては帝劇の残党が浅草であだ花を咲かせたし、今ははるか都の西北、「演劇の早稲田」の近所の盛り場からさらに外れたところで行われている、ということなんですね。在野の人気者「タケミツ」の名を冠した音楽ホールも、皇居から遠いそのあたりにある、と。

そう考えれば、東照宮や恩賜動物園のある上野で黛敏郎のオペラを上演したのは、関係者の皆さまがすごく頑張った、ということなのでしょうね。