陰謀と親心

陰謀論は常に権力から疎外された人々によって発せられる。「権力を持っている」と周囲から思われている人が明らかな陰謀論を語り始めたとしたら、彼あるいは彼女は(少なくとも主観的には)権力を失いつつあるのだと考えるのがよい

(少なくとも主観的には)「(権)力を失いつつある」者が語るからこそ、陰謀論を語る者には「これを語る私には全てが分かっている」という構えが不可避的に伴うことになる。まあ一種の想像的な代償作用ともいえる

一種異様な文章である。

陰謀論を語るという行為の動機の分析と、権力者の凋落という現象をどのように兆候から察知するか、という考察が組み合わされているわけだが、陰謀論をこのような角度から語る文章は珍しく、唐突にこのように断言されても、不意を突かれて容易に妥当性を判断しかねる。

また、ある権力者があからさまに公然と凋落しつつあるのだとすれば、「陰謀論を語る」という兆候的な振る舞いに着目するまでもないはずで、この文章は、醒めた意識で綴られた事実認定 constative というよりも、事実を客観的に記述する仕方では難しいような事態のなかから生成されたパフォーマンスではないかと思われる。それゆえ、文の明示的な意味の背後へ推論の焦点を移行せざるを得ない。

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書き手がこういう文章を綴る状況をモデリングするとしたら、おそらく以下のようになると思われる。

書き手の念頭におそらく具体的な「誰か」がいて、この文章の書き手は、現在その「誰か」の発した発言への対応に苦慮しているか、もしくは過去のいつかどこかに苦慮したことがある。そしてその苦い経験(もしかしたら現在進行形かもしれない)を反芻しながら、「あの発言は陰謀論であった」と思い至り、その思い至りを梃子にして、「陰謀論を語る者は権力を失いつつある(あるいは既に失った者である)」と呪詛することで、苦い経験(現在進行形かもしれない)に対する「一種の想像的な代償作用」を行っている。

すなわち、上の引用文は、発言が描写しようとする「権力から失墜する者の一種の想像的な代償作用」の物語と、そのように語ることで特定の誰かとの関係を安定させようとする、逆方向の「一種の想像的な代償作用」としての「書く行為/物語る行為」が同時に相互補完的に進行している。

そして読者は、もしかすると、類似した状況に陥った経験に照らして納得・共感したり、(メンドクサイことを言われる側に我が身を置いて)「そういう発想で苦境を切り抜ければいいのか」と啓発されたり、(メンドクサイことを誰かに言ってしまう側に我が身を置いて)「あのとき、あんなこと言ったのはマズかったかな」と過去の自分の振る舞いに赤面したりすることがあるのかもしれない。

このような考察のきっかけとなり、書き手の念頭にあるだろう特定の誰かは「陰謀論を語りつつ権力の場から退場する者」と表象され、読者は、そのように退場する者の側に想像的に自己を同一化して読み進めれば反省を促されることになるし、そのような物語によって「陰謀論の超克」を目指す側に自己を同一化すると、この書き手から教えを授かる追随者の位置に我が身を置くことになる。

読んでしまった者は必ず書き手に先手を取られてしまうような「呪い」がこの文章を構成している。

(この文章の書き手から教えを請いたい者にとっては、「呪い」ではなく「福音」かもしれないが。)

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この文章が読む者に「呪い」を発動するのは、「陰謀論」という極めて強い印象を与える語の内実が一切説明されていないことによる。

読む者は、書き手が「陰謀論」と想定する事柄が一般的なのか特殊的なのか、ここで想定されているのが、この単語の多くの者が共用できる用法なのか、この書き手個人以外が流用できそうにない用法なのか、判断する手がかりが欠けている。

例えば、不当たりを出して倒産しかかっている町工場の社長が「オレはユダヤ人の世界制覇の犠牲者だ」と口走る、というケースを想定すれば、「ユダヤ人の世界制覇」は「陰謀論」の典型として考察の対象になってきたお話なので、上の引用文を素直に読み進めることができるかもしれない。

しかし例えば、父親が息子に向かって「オレがお前に今まで厳しくしてきたのは、お前にはそれに耐えられるだけの素質があると見込んでのことだ、そして今、お前はオレを乗り越えた、これからは、お前がオレに代わって、オレの夢を実現してくれ」と告げて引退する、という梶原一騎めいたケースを想定すれば、これはいわゆるエディプス・コンプレックスの物語であって、そのような父子関係のなかで、息子が父親の発言を「そんなのは陰謀論だ」と叫んで駆け出し、夕日に向かって涙する局面があったとしても、「陰謀論」発言をこのような文脈から切り離して流通させる意味はあまりなさそうだ。「陰謀論」を云々するよりも、おまえがトーチャンとの関係に決着を付けるのが先だろう、ということになる。(父親の言ってることは「陰謀」じゃないし、力を加えた動機をざっくばらんに明かす「世俗的」と呼ぶのがふさわしい説明を「陰謀」として否認しているのは子供の側だ(笑)。)そこをクリアしないままで研究室の卒業生と「家族」を演じることを夢想するのは擬制に過ぎる。

(大状況における「陰謀」との闘いをエディプス・コンプレックスと重ね合わせるファンタジーはヒーローものにありがちで、エヴァンゲリオンは、勝利するべき「敵」を不可知として、さらには、ヒーローの成長のスプリングボードとなるべき「父」を不可知にしてしまった結果、終わることが不可能になったわけですが、別に、そのような物語が考案され、それなりに魅力的であったからといって、ヒトが実人生でシンジを生きねばならないわけではない。

ちなみに、私が最近ペーター・コンヴィチュニーは面白いと思っているのは、彼がこの手の大状況と小状況がシンボリックに共振する「男の子」のファンタジーに冷淡で、主として女性が重要な役割を演じるドメスティックな愛や家族のあれこれにドラマを見いだすところです。)

クラシックジャーナル 046 オペラ演出家ペーター・コンヴィチュニー

クラシックジャーナル 046 オペラ演出家ペーター・コンヴィチュニー

たとえばこの人が「夕鶴」を演出したら面白いだろうなあ、などと想像してしまうのです。

むしろ、北九州の地で、ほとんど「芸術的」と言いたくなる屁理屈をひねり出さねば生き延びられないところまで息子を追い込んだ(or甘やかした?)父親というのは、ある意味で希有な、魅力的な人物なのではないかと、会ったことはないながら想像されますし、そこのところは、関係者の来歴・人物像とか、そのような人々が活動する環境・文脈とかについて、もっと「厚い記述」が欲しい。そうした父子関係のなかで生成した個体の行動様式が、関西の地でいまいち素直に納得されない、という戸惑いを「田舎に対する都会の無理解」という平凡な図式に落とし込むのは勿体ない気がします。

光の領国 和辻哲郎 (岩波現代文庫)

光の領国 和辻哲郎 (岩波現代文庫)

まだ最初のほうしか読んでいないけれど、和辻哲郎が、大阪の産業博覧会の「光」に魅了される岡山の中学生だった、というところから説き起こされている。

これは、発想の源になった事実を消して(隠して)一般化された図式を出力する、という手法で処理しないほうがいい参与観察と民俗誌の案件ではないだろうか?

ポピュラー音楽/ポピュラー・カルチャー研究は、早晩、(幕末から明治初期の「常民」の生活誌としての民俗学のアップデート版として)昭和から平成の「青少年」の生活誌へ帰着するのだろうと思うし。

ヌガラ――19世紀バリの劇場国家

ヌガラ――19世紀バリの劇場国家

そういえば、細やかで時に神経質な学生への気遣いが feminine だと囁かれていた当時のY教授のことを「ボス」と呼び、力ある人の位置に強引に押し上げたうえでオレはその手法を乗り越える新世代なのだ、という自己演出を施したりしていたあたりから、このように現実歪曲フィールドと呼ぶべきかもしれない言語パフォーマンスの迷宮が築かれはじめていたのかもしれません。

《勇者が訪れた地は前王の邪悪な権力に満ちていた。勇者は新王への忠誠を誓うとともに、風采の上がらぬ男が預言者であることを見抜き、その洗礼を受けて、新世紀の救世主となった。こうして彼の地は神の領土となったのである。そして今、前王の邪念を受け継ぐ最後の一人が、遂に息絶えようとしているのであった。》

デフレ時代とぴったり重なる20年間、この「物語」が破れないことのみに意を砕いてきたのだから、どえらいことではあるし、そのグランド・フィナーレを飾る文章であると考えれば、冒頭の引用文が異様な気配をただよわせるのも納得できよう。そのドン・キホーテめいた言語パフォーマンスで勝手に「役」を割り振られた側の人間としては、迷惑このうえない20年だったわけだが……。

「ねえ、まだ終わらないの、もう飽きちゃった、早く逝ってよお」