バルトークの高値安定

先週、ブラームスの弦楽器と鍵盤楽器のデュオ・ソナタを全部まとめて極上の演奏で聴くことのできるチャンスがあったとされるちょうど同じ日に、バルトークの主要作品の楽譜で、まだ持ってないものをまとめて購入しようと楽譜屋へ行ったら、結局、くだんのコンサートの入場料の10倍くらいの出費になった。

ああ、バルトークは高くつくんだ、と改めてわかりまして、この「高値」の正体は何なのだろうと、ずっと考えているのだが、まだ、これだ、という答えは自分のなかで見つかっていない。存命の作曲家の楽譜を集めようとすると大変なことになるのとは、また事情が違いそうに思うんです。

(あと、賢く楽譜の購入先を国内外のあれこれ工夫すれば、もっと安価に必要なものが揃うんだろうとは思いますが、割高なのは「損」をしているというよりも、あれこれ工夫しないで即刻この場で手に入れる対価、手間と時間を買っていることになるんだと思う。ネットにつないで色々探すのは、それに慣れた人が所定の時間を費やさないとできないわけで、距離を時間に換えてるわけですよね。版元が海の向こうのはるか遠くであるという距離は、デジタル情報網で世界がつながっても、消えたわけじゃない。)

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日本の出版社などもバルトークのいくつかの楽譜を出しているところを見ると、著作権はいちおう切れたんですかね。

だから、音大生が勉強しそうなピアノの楽譜とか、クラシックファンに名前を知られて音盤が何種類も出ているような曲は廉価版があるけれど、逆に、自由に楽譜を出せるようになった今こそ、息子が批判版を世に問う(新たに楽譜を組んでいるから高価になる)、とか、そういうこともあるみたい。

前から出ている大手の版元の楽譜が前と同じような値付けなのと、最近になって版を改めたものが混在して、バルトークの楽譜は群雄割拠な感じに見えますね。

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三善晃 レクイエム ピアノリダクション版(1台または2台ピアノ用リダクション)

三善晃 レクイエム ピアノリダクション版(1台または2台ピアノ用リダクション)

この楽譜を手書き浄書そのままでなく印刷譜に起こして、非常識ではない値段で販売できているのは、すごい執念、希有な事態だよなあと思う。

図形楽譜とか自由な記譜がなされるようになった1960年代から、作曲家がFinaleで楽譜を打ち込むようになる2000年くらいまでの音楽は、ややこしすぎて、作曲者の浄書譜をそのまま印刷するしかない状態になっていますから、ストラヴィンスキー、バルトーク、ヒンデミットあたりが、従来の全作品共通フォーマットによる「作品全集」が可能な最後の世代の作曲家じゃないかと思うのですが(先日アカデミアから楽譜のパンフレットが送られてきましたが、ポーランドの女性前衛作曲家バツェヴィチとかギリギリでセーフだから出版社が今「売り出し中」なんでしょうね)、でも、この世代の作曲家は、戦争に翻弄されたりして、資料のことやら権利関係やら、色々ありそうですよねえ。

死後200年以上たって、それでもまだ滅びずにいたら、ヘンデルのように、各国にまたがる仕事の全貌をフォローして全集をまとめるプロジェクトが出てくるかもしれないけれど(いわゆるハレ版は、ドイツの音楽学行政の大物だったマーリンクが自分のところにいた教授を編集担当の一人としてハレ大学へ派遣したらしき痕跡があったり、なんか背後に色々ありそうっぽいがそれはそれとして)、きっと20世紀の音楽は、まだ大作曲全集には早い、「生乾き」の段階なんでしょうね。

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全集が完成して、隅々までいろんなことが研究・解明されている古典曲の場合、演奏は、そうした情報を集めた上でなされるので、個性の発露というより、何かをシミュレートしているのに近くなる。過去の可能な限り多くの名局の棋譜を読み込ませてコンピュータの将棋ソフトを鍛えるのと、ほとんど一緒だと思う。ピリオド・アプローチということで、楽譜の読み方だけでなく、楽器の弾き方も「情報戦」になっているので、もう、逃げ道はない感じですよね。

「演奏家の個性」を何らかの形で発揮したい、聴衆・ファンとして待望したい、というのは、旧来のクラシック音楽の楽しみのひとつの大きな成分だったわけですけれど、

この欲求を満たすには、まだ「生乾き」な20世紀の音楽をやらないと難しい、そんな感じがありますね。

(20世紀に「クラシック音楽のスター演奏家」が輩出したのは、録音文化の台頭というだけでなく、19世紀の音楽が、あの人たちの頃には、まだ「生乾き」だったからなのもありそうですね。1980年頃ですら、マーラーやブルックナーやリヒャルト・シュトラウス、まして戦勝国の高級ブランド、モーリス・ラヴェルは、安価なポケットスコアとか、なかったですもんね。)

バルトークは、当人の立ち回り方と、その後の世の中の動向の具合が奇跡的にうまくいって、それで今も高値安定、そういうケースなのかなあと思う。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110410/p1

戦後日本の前衛では、誰が100年後まで残るのだろう。武満徹が先行したが、死後急速に飽きられているのを見るにつけ、まだ予断は許さない。