瓦解・消滅

(タイトルも内容もすべて書き直しています)

ずっと考え続けているのだが、サントリー音楽財団の「音楽のエッセンツィア」という演奏会が11/8にいずみホールで予定され、チケットも販売され、さかんに宣伝されていたわけだが、結局このシリーズの第5回は「開催されなかった」と判断するのが妥当であるとの結論に達したので、存在しない演奏会についての感想は削除した。

2010年に「現代音楽を身近なものに」というコンセプトで、様々な仕掛けを施してこのシリーズがスタートしたわけだが、司会者が開口一番「三輪眞弘さんについては今更ご説明するまでもないと思いますが」と話し始める、というのは、もうそんなコンセプトは放棄した、と言っているのも同然だし、客席を見渡せば、「三輪眞弘という音楽家について何の説明も要しない」ような聴衆だけでは、800席を埋めるのは到底不可能だということがわかる。わかっているのにそんなことを言うのは、もうこんなシリーズをやるのはやめた、と宣言したのと同じだと思うので、つまりこのコンサートは、司会者の開幕の言葉と同時に消滅したのだと思う。

だまし討ちみたいなものだ。

金を出したメセナ企業とか、なんとか人を集めようと広報に知恵を絞った音楽堂が詰め寄って損害賠償を請求していいレヴェルだろう。

やったことにはこれこれの意味がある、といった説明は、現実世界で踏みにじった仁義すべての責任を果たしてからやるべきだと思う。

だから、感想は削除。

[○○さんは、当ホールが築き上げてきたイメージに泥を塗るようなことをしたので、今後出入り禁止、みたいな得意技をこういう時こそ繰り出して、バシバシ粛清すればいいのに。「そんなことを偉そうに言うんだったら、まず、楽屋の音がホール内に漏れてこないようにしっかり管理しろ」と司会者が言い返す、とか、そういう売り言葉に買い言葉のバトルが見たい(笑)。]

司会に立った人もまた、シリーズの言い出しっぺの人たちが早々に逃げ出して、仕方なく「終戦の詔」を読み上げる役回りを押しつけられただけ、なのかもしれないけれど、そういうのを含めての敗戦処理。

三輪眞弘は「終わったあとの白々とした光景」がよく似合う作曲家なので、話がややこしくなるわけだが、もう勝手にやってくれ、と言うしかない。「ここには何もない」という事実から音楽を生成してしまえる異能の人がいてくれてよかった、ホンマ三輪さんは重宝しますわ、ということだが、そんなんでいいのかどうか……。

誰も責任を取らずに逃げて終わり、というのであれば、「この人たちはそういうことをした」というのを、みんなでずっと覚えておこう。オーディエンスは、そういうのを見届けるのが本来の役目です。「世間の目」がモラルのよりどころ、というのはそういうことだと思う。