注意が憩うこと

今年は、15で高校を中退して、自己探求が始まって33年目。
グルジェフウスペンスキーの第四の道のスクールに落ち着いていた16年間。
スピリチュアリティ、所属、コミュニティが満たされ、意味を感じていた。


しかし、多くの要素が相まって、
特に、ノンデュアリティ(非二元)の目覚めが恩寵として起こったために、
そのスクールを離脱する。


2008年3月15日のこと。
その半年ぐらい前のことだったから、
2007年、そうちょうど10年前のこと。
場所は、カリフォルニア州のグラスバレイという、古き黄金発掘の田舎街。


その頃ティーチャーが、現在に存在するためのSequenceなるエクササイズを指示したのだが、
僕にとっては、それは私自身の意識の理解とはそぐわない、第四の道から逸脱するような一連の動きのように見えた。


とはいえ、自分の小さな意志は意図的に放棄し、日常生活一コマ一コマで、注意をフルに駆使してプレゼンスを鍛えた。今ここに、注意を分割し、ストレッチし続ける。


グラスバレイの街を歩きながらSequenceを、何度も続けて練習し、
ある瞬間、これが最後だと決めた!


注意が、張り詰め続けたストレッチから解放され、気づきそのものの源に戻ったのだろう(と今だから理解できる)。。。


まるで、あらゆるものの背後で気づきそのものが輝き始めたかのように、すべてが生き生きとするアハ体験に包まれ、意識は軽く、何がリアリティーであるかを教えてくれた。


気づきそのものは、既に目覚めている!


2〜3日、この不思議に軽い明晰な意識の状態が続いた。
ノンデュアリティの教えで言われていることが、
体験として明白にサラサラわかった。
英知(インテリジェンス)に触れていたのだと思う。
そして、自由と解放があった。

苦しみの根元を断つ

根元的な変容を望んでいる。
世界や私の根底が崩壊するような、根元的な変容。
苦しみが原理的に不可能になるような、
そんな根元的な変容。


平和を望んでいる?
調和を望んでいる?


それとも、望んでいるのは幸福だろうか?


多くの人と出会い、
様々な出来事が通り過ぎて行く、
そのまさに現れが、
不動なそれに、
優しく溶け込んでいく、
そんな根元的な変容。


私とは誰か?
そもそも私など一度たりとも存在しただろうか?


世界とは何か?
そもそも世界など一度たりとも存在しただろうか?


不動なそれが、
ただただ腹を据えて、
すべての苦しみを溶かす慈悲の如く在る、
そんな根元的な変容。

見るコト、再び

「見ることが意味するのは、複雑な繋がりへ自分自身を完全に開き、それらが私の中で作用し、私に影響を及ぼすままにさせるということです。」
という言葉は、ファミリー・コンステレーションを発展させたバート・ヘリンガーの言葉(『ファミリー・コンステレーション』p225)。


私がブログのタイトルにまでしている「見るコト」に、驚く程共鳴するので、私の体験しているリアリティーが共有される希望が心踊るように嬉しく、興奮している。


見るコトは、単なる視覚ではない。
身体を貫いて、今ここに在る場全体を見ている。
身体は様々な力動に反応し感じているのだが、それでも「感じている」という表現では的を得ず、「見ている」という実感が明確にある。


それは意識であり、視覚では見えないものを見ている、それも身体を通して。まるで身体全体が目になったかのように。


そして、様々な力動が身体を貫くのは、決して心地の良いことではない。
それは、時に痛く苦しい。
だが、それでも「見よう」という意識がある。
360度に開かれた意識。


全体性と調和に至ろうとする意識が、根底に在るのだと思う。

「見るコト」が、まるでその究極の平安に達する究極の在り方であるかのように、
私は、貫く身体の力動と共に今ここに在って、きっとそれを見たいのだと思う。

ここに一つの祈りがある

ここに一つの祈りがある。
胸の内で焼き尽くされ、渇きから天上を仰ぐ、そんな祈り。


生と死がまるで一つのことかのように、
日常の諸々が、諸行無常に、はかなく過ぎ去っていったとしても、
永遠に、静かに燃え続ける炎。


私が何処から来たのか、
そして何処へ行くのか、
言葉にならなくとも知っている、
呼吸と共にみぞおちに染み渡る、甘い痛み。


全方向に伸びた注意が、
同質の甘い痛みを磁石のように引き寄せ、
きしむ全身を、唯一つで在る場(フィールド)に、
溶け込ませていく、そんな祈り。


クリスタルのように鮮明な意識に、
全歴史の想いが駆け巡るかの如く、
唯ありのままの生起に遭遇しているのは一体誰?


無念を受け入れ、
十字架を背負い、
宿命を甘受する、
そんな彼が無言のまま祈っていた、あの祈り。


神秘の全体性の中で、
その一端を担うことを、
あえてするのは、この祈りから。


目をつぶると聞こえてくる天上の音楽。
ここに一つの祈りがある。

パワーウィズの原点ー不登校し高校中退した15の誓い

不登校して、高校中退したこと。
実は、私にとってはとても名誉なこと。
15歳の時に、この社会のシステムから切断することを決めたのだけど、
その後どう生きるかが大切なのだと思っていた。


不登校は優秀な一部の子供の発達の仕方」という捉え方を、
ティーブン・ギリガンにも師事した崎尾英子さんが、『新しい子供たちー日本を変える登校拒否児』という23年も前の1992年に出版された本に、表明されていた。

新しい子供たち―日本を変える登校拒否児

新しい子供たち―日本を変える登校拒否児


当時は毎週ラジオの子育て相談番組で彼女の話を聞いて感銘を受けていたのだけど、実際に会ったことはなかった。不思議な縁で、2010年にスティーブン・ギリガンを通して、彼女と深く出会うことになる。このことは、いつか話せる時が来たら話したい。


不思議な縁に導かれた多くの出会いと、支えがあった。
この社会のシステムから切断することによって出会える恩恵の流れが、確かにあって、自らの運命の力を本当に支えてくれるのは、これらの恩恵なのだと思う。


そんな運命の力と、恩恵の流れに触れ始めた18歳の頃に書いた私の文章があるので、今日はそれを紹介したい。


パワーウィズ・コミュニケーションで追求したいヴィジョンの原型も、当時の私の中に熱い想いを担って芽生えていたよ。


「僕は、中学、高校と、いつも思っていた。どうして、互いにビクビクと自分の感情をおし殺していなくちゃいけないのか? なにか息苦しい、押し込められているような気分。個と個が殺しあう全体。


分子の運動をイメージする。初めさまざまな運動エネルギーをもっていた個々の分子も、衝突を繰り返しているうちに、平均化されてくるのだ。一様な世界。もはや個性はない!


これが宇宙の摂理なのか? いやちがう!たとえそれが熱力学の第2法則であっても、局所的には破ることができるはず。そして、それを破ろうとしているのが、生物ではないか!(もしかしたら、”生きる”というのはこういうことかな? と勝手に解釈して悦に入っている)


だとしたら、今のようなモデルは、人間には合わないんだ。個と個が生かしあう全体!これでなくっちゃ!


森毅の大好きな雑木山をイメージする。いろんな木が、おれもおれもと生きている。あっち向いてこっち向いて、われ関せずで生きている。でも、1本も欠けちゃダメなんだ。どんな変な木にも、その存在の価値がある。変な木もみんなから見守られて、胸を張ってのびのびと生きているんだ! いや、もはや「変な木」なんてないんだ!


学校は、杉山であっちゃいけない。雑木山であってほしい。僕はそういう学校、社会が存在し得ると信じている。原子のない時代に、原子が存在し得るモノであったように、生命のない時代に、生命が存在し得るモノであったように、人間のいない時代に、人間が存在し得るモノであったように・・・」


全文はこちら♫
http://powerwith.jp/files/Go_Jiyuunomori.pdf


共感と自覚を深め、この恩恵の流れを意図的に流す側にまわる道が今導かれているのだと思う。

2015年夏の旅を終えて♫

今日の朝私は、シャーマンである自覚を持って目覚めた。
この自覚は、宇宙とより深くつながる新たなパワーをもたらしている。


私の2次プロセスは、神秘家であると、
アーノルド・ミンデル(以下アーニー)が、ワークショップの初日私に言った謎の言葉。


スピナー(注:ペンをスピンさせて、誰がデモをするかを決める♫)が私を指して止まり、全体の前でやったプロセスのデモは、とても貴重な体験となった。


アーニーとエイミーの直接のサポートを受けながらプロセスを踏めたことで、プロセス・ワークが何であるかを身体全体で掴むことができる最初のいい体験が、宇宙からもらえたと思う。


2日目に、昨日の謎の言葉がどういう意味なのかを、アーニーに直接聞いてみた。私の深くに在る部分はシャーマンだよと、とっても軽いエネルギーでニコニコしながら教えてくれた。


ティーブン・ギリガンとの最初の出会いで、私が全体の場において「やっていること」を、人生で初めて言葉で認知し感謝してくれたことを、心温まる感謝と共に思い出す。


何年もかけて、この「やっていること」を注意の置き方と意識と身体の関係性の言葉として私の自覚になるまで、事あるごとに、スティーブンは私に寄り添い、教えてくれていた。


スピリチアル・コミュニティーからの離脱、母の死、ゆうことの結婚、そして父の死。この私の人生おける大転換期に、スティーブンは本当に魂の兄弟のように寄り添ってくれた。魂の兄弟だと言った彼の言葉も、最初はただただ謎だった。


現代的シャーマン達が、宇宙のプロセスの中で、まるで魂の家族のように、私の自覚のプロセスを助けてくれているのが、今はわかる。


「やっていること」は、存在の力であるプレゼンス無くしては、幻想に留まったままだ。それは単なる自我の行為ではない。そして、単なる存在のプレゼンスでもない。注意と身体と意識が、関係性の自覚の中で、宇宙のエッセンスを体現していく一つのムーブメントである。


この一つのムーブメントを自覚的に共有し、暗黙の了解によって築かれたネットワークの存在に気づき身を任せながら、与えられた持ち場の中で「やっていること」をやり続けること。


2次プロセスから神秘家が滲み出るより、
このシャーマンであることの自覚を持って、
この人生のプロセスを生きようと新たに決意した朝でした♫

私のお腹は赤子のように安らぐ

私のお腹は、いのちのエネルギーを敏感に感じ取っている。
非言語的には、何らかの空間的構造として把握しているのだけど、
NVCを使うと、言語を使ってその構造を紐解いていくことができる。


エネルギーの詰まりや、流れの滞り、
その空間的構造を、
複式呼吸と共に、
言葉で言い表してみる。


感情は、
英語でemotionだけど、
文字通り、エネルギー(energy)の動き(motion)。


「悲しい」
「落ち着かない」
「気持ちが悪い」
(日本語の「気(エネルギー)」にまつわる表現は的確だ!)


お腹が敏感に感じ取るエネルギーの在り様を、
的確に感情の言葉で言い表すことができると、
エネルギーが動くのがわかる。
いのちが息を吹き返す。
エネルギーが動くと、深いため息が漏れ、身体にも相応の変化が起こる。


ここ迄は、3次元的な物理次元のエネルギー構造だが、
感情の背後には、ニーズという、イデアの次元に通じるエネルギー構造がある。
イデアの次元というのは、時間軸にはない永遠の次元。


「お互い様(全てが関係しあっている)」
「愛」
「豊かさ」


満たされている /満たされていない
欠乏/充足
という二元性は、実は純粋なイデアの次元にはない。


ノンデュアリティ(非二元)の気づきは、
所属や安全などの基本的なニーズをも、
永遠の次元での直接的経験とする。


この永遠の宇宙に所属しているという直接的経験としての私。
この永遠の宇宙より他に、安全な場所はあるだろうか?
そして、完璧さは、未知としての「今」に永遠に在る。


この完璧さへの信頼が訪れる時、私のお腹は赤子のように安らぐのだ。