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坪井香譲の文武随想録

2017-08-30

踵(かかと)で呼吸する ― 理想の息へ

20:34

〈あまつかぜ〉― ラセン 円転動作と呼吸の融合

 身体活動に欠かせない様々な側面が、この〈あまつかぜ〉には渾然一体として入っています。昨年、テキスト『身体を実感する―〈3R〉』でも触れた〈身体の文法〉の全てが、自ずと入っているし、これまで気流法で行ってきた様々の稽古法が結合している…と、このところ改めて思っています。

 思えば三十年程前に、あることから九日間程の断食をした直後、全身で渦を巻くような身体操法を編み出しました。編み出した、というより、ふとやってきたような感じでしたが。後にこれを〈あまつかぜ〉と名付けました。

 そして、一時は盛んにそれを稽古の時間や講習会で行ないました。しかし、身体操法の条件の様々な側面を色んな視点からもっと深くとらえようと、色々と探求しているうちにいつしか〈あまつかぜ〉をする暇もなくなっていました。そして、ごく最近、ある時にふと、もう一度〈あまつかぜ〉に立ち返ってみるべきと思ったのです。その間の事情があるのですが、今は省略します。

 そして、行なってみて、今更ながら驚きました。

 その驚いた理由はたくさんあるのですが、一つには、自分の呼吸が根底的に変化したのです。気付くとそうなっていたのです。


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武蔵野の自然林にて、著者


かかとで呼吸する ― 荘子の智慧を現代に活かす

 それは、タオイズム(道教)の祖の一人、荘子が言う、理想的な呼吸のこつ ― 踵で呼吸する、というその踵呼吸があっという間に身についてできるようになっていたのです。それまで、身体技法に携わってから色々と試みて、ある程度はできても、安定してはなかなかマスターできなかったのにです。

 すると、最近、人が変わったように元気になった、とか、若くなった、とか言われるようになりました。まあ、こんなことを言うと人が励まそうとポジティブな言葉を掛けてくれるのを真っ正直に受け取って喜びたがる年配者の典型ととられかねませんが…。これまでなかったことであり、何人もからの言葉ではあります。

 ともあれ、身についた呼吸の構図が根本的に変革されたことではあると思われます。

 〈あまつかぜ〉は、もう二度の講習会や一度の宿泊セミナーをしましたし、毎週の定例稽古で行なってきているので、ご存知の人も多いのですが、様々の特色を含んでいます。

 その一部を挙げてみます。


円を描くプロセスを含む

 円相は全体性、まとまり、完全性(完全性への想い)、平等や、あるいは禅や仏教では〈サトリ〉等を表わします。〈あまつかぜ〉は毎回その円相を描き、宇宙、世界、そしてそこに己れ自身も含んで、まとめ上げるのです。まとめ上げて自分が自らの身体、動き、そこにいる場、空間等を一気に把握する態勢をとるわけです。自らが自らの身心で思い切って円相を描く…これだけでもとても意味のあることだ、ということは、様々な実験で証明してきたところでもあります。(円を描くだけで、数秒で体の柔軟性や呼吸の深さが変革する実験は誰でも可能)


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円相


〈放つ〉ことを毎回する

 自らが円相を通してまとめ上げた世界やエネルギーを左や右に広がるほとんど無限の空間へ向かって放下する。いわば、まとめ上げたものを放す。執着しないわけです。執着せず、放ってしまう、と、そこでまた新たに円を描いてゆく…この繰り返しです。

 人は、どこかからか来現(生まれ)し、どこかへと去ってゆく(あの世へ旅立つ)、このような〈人の生(そして死)〉の本質的な去来を、呼吸のリズムに乗って〈体現〉するところが特色の一つでもあります。


呼吸の四つの相を活かす

 私は三十歳代の後半に呼吸についての本を出しました。そこに〈吸気〉〈保息〉〈呼気〉そして呼気から吸気に移る〈間息〉のリズムとその働きについて図示して述べたものです。この図は拙著『気の身体術』にも出しました。明大の教授でこの頃よくテレビにも出ている身体論の齋藤孝氏は気流法の稽古にも数ヶ月来ていましたが、その幾つかの著作の中に私の呼吸論やこの図について何度か述べています。

 〈あまつかぜ〉の裏付けには、この呼吸の構図についての理論がはっきりあるので、ぜひ『気の身体術』などで調べていただければ、と思います。なお、この呼吸の構図とその理論はフランス国立舞踊研究所の機関誌にも一部翻訳されて載りました。

 〈あまつかぜ〉では、これまで述べた〈円相〉を描くことや〈放つ〉ことがすべて呼吸のリズムに乗って行なわれるわけです。もちろん、それには動作と意識活動がいつも伴っています。言い換えれば身体と想像力と呼吸の三つがいつも合致しつつ行なわれてゆくのです。


〈遠〉を〈近〉に活かす

 先程〈円〉について述べましたが、もう一つのエンが大切です。つまり〈遠〉です。人体や両手を用いて空間に描く円相はごく小さいものです。けれど〈あまつかぜ〉では遠く、大きな空間に想いを馳せつつ、それをどれ程大きく伸展しても小さく限られている身体の動きに引き入れるのです。「大を小に計る」という句があります。手で描く円相の中に大宇宙に描く円相を誘うのです。極小(ミクロ)に極大(マクロ)を照応させることです。単に抽象的な思考によってでなく、活々と動作したり、手足を動かしつつ行なうのです。これは半ば想像力の働きです。また、これは先の〈放つ〉ところでも同じで、遠大な空間と交流しつつ、そこに己が想いや〈気〉を放ち、またそこから、想いや気を引き入れるのは言うまでもありません。ともあれ、想いを馳せるということほど、人間の身心活動にとって大切なことはないでしょう。想像力は芸術などに関わることだけではない。宮本武蔵などの武道の世界でいう「遠山の目付け」は、敵を前にしても、あたかも遥か遠い山を眺めわたすようにして、〈全体〉を視野に置くことです。相手の動きを見てとらえたとしてもそれにとらわれないことです。これもまた遠くを近くに計ることに通じるでしょう。言葉を変えれば、これはいわば瞑想の境地を、卑近な具体物や事につなぐという知恵ともいえます。〈あまつかぜ〉では、そういうセンスを養います。


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あまつかぜ、杖 奥多摩御岳山

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あまつかぜ稽古風景 パリ、シテユニベルシテール 1980年代


〈序・破・急〉のこと

 日本では、浜辺の波の寄せる様を「ああああ…」という風にオノマトペを用います。これは私の知る限りではヨーロッパにはありません。もっと理詰めに表現します。

 この波の寄せる様は短いリズムですが、たとえば能楽でも、昔は一日の催し興行だったので、はじめは悠然として柔和な「翁」が出てくるもの…それからやがて世俗的なものを出し、最後は勇壮で速いテンポの動きと拍子の武者の戦いを含む急激なもので終わる…と、時間の長短はあるものの自然の波に代表されるような一種のリズム、拍子を大切にしました。これを「序破急」というようです。このような発想は、時間的なことだけでなく、空間的にも、たとえば樹木の枝振りの盛んな様や曲線もやはり序破急的なニュアンスでとらえます。西欧でもこれを黄金分割に則った変化と見て、たとえば巻き貝の渦の構造をとらえたりしています。自然は直線を嫌う、と言ったイギリス庭園作りの名人や、ラセンを作品中に多く表現した、たとえばロダンやダ・ヴィンチを見ても、彼らの描いたり造ったりする自然や人体の中には曲線、ラセンが豊富です。時間、空間の中に序破急的なラセンがある。まさに〈あまつかぜ〉もそうで、時間的にも、空間的にも、この序破急のセンスが不可欠です。単に美的なことだけでなく、身体の運動には、それが合理的で、筋骨を養ったり、集中した運動にも、その視点が必要なのです。自然と生命に潜む序破急のセンスに目覚め養う。それが〈あまつかぜ〉の中にあります。


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巻き貝の渦

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ダ・ヴィンチの素描 水流


「純粋意識」への道も

 私は十代後半から二十代の終りまで、インド思想に傾倒していました。学者の道にでなく、様々な行に入っている人たちに関心をもった。と、いうのも私は十五歳の頃、哲学者ウィリアム・ジェームズ等が言うところの光明意識というか、宇宙に拡大してゆくような意識の変容の体験があって、そういうことを究明しなければどうにも先へ進めない、という気持ちになってしまっていたのでした。これから勉強し、社会に出て人のために働きあるいは結婚して家族を養う…という一般「健全」「常識的」なコースがどうにも身にそぐわなくなって、とても落ち着いておれない状態が続きました。大学の教育では、とうていそれに応えるものもない、そこで様々なその道の先生を尋ねたりしたのです。ともかく究極的な純粋意識あるいはそれに近いような境地がある、と告げる先人たちがいることは読書でも知りました。しかし、私にとっては組織化された既成の宗教などは御免だった。それらは組織の保持のための決まりごとが多いし、組織によって権威を図式化あるいは偶像化していると思われました。本質的なものとの距離を隔てるものに映ったのでした。

 ともかく色々なことを行なって、様々なプロセスを経て、何回かは、こういう境地でいいのかな…と思ったことはある…しかし、もう一つ、もう二つ、というところだった。告白するとそれは程度の差こそあれ、気流法と名乗って稽古をするようになってからもそうでした。

 それが、今年になってこの〈あまつかぜ〉を ― 三十年前にはなかった工夫をそこに幾つか加えることで ― 改めて行なうようになっていつかすっかり変わったようなのです。まるで私自身の中身が入れ替わったようです ― もちろん私は依然として私自身であり続けているのですが ― 。

 「純粋意識」と共にある、というか、本来は人間はこの純粋意識の唯中にある、ということが納得できるようになったのです。これはもちろん、たとえば先に述べた、荘子の踵で呼吸することなどとも軌を一つにすることでしょう。

 充実し生成に満ちた、それでいながらまるで空っぽみたいにとらわれもない場が、〈あまつかぜ〉によって我が存在の中心にとらえられてくる。それは、もちろん私だけのことでない、と思われるのです。


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Silence 著者筆



あまつかぜ〜坪井香譲

                             (続く)  

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