2012-02-09
桃山晴衣の音の足跡(35)『梁塵秘抄』の世界 其の四
「梁塵秘抄が」誕生したのはいつ頃で、その背景はどのようなものだったのか。桃山の著書「梁塵秘抄・うたの旅」を参考に概説してみよう。桃山は「後白河院の祈念と企て」と題する章で、まず「何かに憑かれたとしかいいようのない」全二十巻もの「梁塵秘抄」を編纂した後白河院についての疑問を投げかけている。「梁塵秘抄」は素晴らしい、大事業であることは間違いないとしながらも、彼女は音楽家としての視点でみると、そこには何か釈然としないズレを感じるものがあるという。それは「口伝集」の各所に、後白河院がこれでもかこれでもかと頂点意識、自らが頂点であるという意識をあからさまにしていることである。桃山はこうした院の意識がいつどこで芽生え、確固なものになっていったのかに興味を覚え歴史を紐解いていく。
「梁塵秘抄」の大体がなったのは、嘉応元年三月(1169年)と「口伝」にあるが、編纂者、後白河院の背景を知るには、十二世紀の開幕期からの流れを追った方がよいだろう。まず世紀開幕の康和三年(1101年)は堀川天皇の治世だったが、政権は父の白河法皇が握っていた。これは白河法皇が皇太子に皇位を譲り堀川天皇が誕生はしたものの、白河自らが上皇(出家したものは法皇となる)となって皇家の長者となり「院政」を慣例化したことを意味する。皇室の「院政」は当時の藤原氏の主流勢力への対抗措置でもあり、白河法皇と次の鳥羽法皇二代よってこの強い流れが続く。よって十二世紀は白河院政とともに開幕したともいわれている。にもかかわらず、政権をめぐって、上皇と天皇、皇室と藤原氏主流、武家であった源氏と平家、そして公家や貴族、寺社勢力などが各所で暗闘を繰り返す日々であった。そんな暗闘がピークに達したのが、保元の乱(保元元年1156年)である。
<保元・平治の乱「保元合戦図屏風」>
そしてこの動乱に達するまでには複雑な皇位継承問題が生じている。まず院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子を寵愛するあまり、本来なら皇位を継ぐはずの崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生である体仁親王を即位させ近衛天皇とした。この譲位は崇徳にとって遺恨として残ったが、鳥羽上皇の第四皇子として大治2年(1127年)に生まれた雅仁親王(後白河)は、こうした皇位継承とは無縁で今様に没頭するなど遊興に暮れる日々を送っていた。こうしたわだかまりを残したまま久寿2年(1155年)に近衛天皇が崩御。本来ならば雅仁親王は得子の養子となっていた自分の第一皇子である守仁に皇位を継承さすべきはずだったが、まだ年少だったため自分が29歳で立太子しないまま即位した。そしてその翌年、鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が起こり、後白河の後見であった信西が主導権を握り難を乗り越えていく。この時の後白河は形式だけの天皇で、保元3年(1158年)、後白河は守仁に譲位し、二条天皇が成立。これは美福門院(得子)と信西の協議によるものだった。
このような複雑な権力争いの中、後白河院自らも大きな勃発の要因となった保元の乱で、「クーデターを起こさざるをえぬ立場へ追い込まれた兄・崇徳が、無惨な凋落の運命を辿るのをまざまざと見」、「鳥羽院の長子・新院と呼ばれていた崇徳上皇であってさえも、その座から転落させられてしまう事がある」。桃山は、「このあたりから自らの存在を誇示、頂点とする意識を強くしていったのでは」と考えている。そして一旦は落ち着いたかにみえた保元の乱後、三年も経たぬうちに、平治元年(1159年)に摂関、天皇家、武家、寺社勢力入り乱れての平治の乱が勃発。この乱で後白河の乳母の夫であり父親のような存在であった信西が非業の死を遂げるという衝撃的な体験をする。後白河院はこの二つの乱を通して天皇に即位し、たった四年で院政になって一人立ちを余儀なくされた。その後は清盛が天下を取り仁安二年(1167年)に太政大臣となり、平家の栄華を極めていくことになるのだが、桃山の着眼はこのあたりから美濃の青墓へと移っていく。
<青墓・円興寺>
後白河上皇はこの清盛が太政大臣になった仁安二年に、美濃池田庄(青墓)に荘園を寄進しているのだが、青墓の長者は池田大炊・大炊長者ともよばれ池田郡を領域としており、これは西国勢力の確保に重きを置く平家に対して、東国の要請である美濃・青墓との緊密化をはかったものであろうかと、桃山は考えている。そして興味深い事に、この仁安二年には、後白河院に「梁塵秘抄を」教えた青墓の今様の名手乙前が二月に死亡したという説があり、これに従えば荘園寄進は彼女の没後三ヶ月後ということになるらしい。そしてその二年後の嘉応元年(1169年)、三月中頃に「梁塵秘抄」はいったん成立し、歌詞編がここで全記録を終える。乙前との邂逅から十数年、それは師事した年数でもあったという。後白河院が出家して法皇になったのはこの年の六月十七日だった。ところで、乙前の死亡年代は先述のものとは別に、承安四年(1174年)の二月十九日説があり、口伝集にはこの後白河法皇の今様の師への手厚い供養、一周忌の法要が記されており、身分の賎しい女への心こもる美談として受け取られている。そしてこの年の九月初めから十五日間にわたって、後白河法皇は公喞三十名を左右にわけ、「今様合わせ」を競い合わせるという前代未聞の行事をもっている。
その後、治承元年(1177年)に鹿ヶ谷の謀議。/治承三年(1179年)、清盛による鳥羽殿への後白河院幽閉、十一月には院政停止。/養和元年(1182年)、後白河院政復活、高倉上皇没、清盛没。養和の大飢饉。/寿永二年(1183年)、美濃池田の西端、宮地に熊野神社創建。木曾義仲によって法住寺焼打。/文治元年(1185年)、壇ノ浦で平家滅亡。/建久元年(1190年)、源頼朝、初の上洛の途次、青墓に逗留、京都で後白河院と会見。/建久三年(1192年)、後白河院崩御(六十六歳)。
こうして後白河院の事績を辿ると、「戦乱・内乱に加え、京市中の多くを焼き尽くした安元の大火、辻風、養和の大飢饉、天暦の大地震などの天変地異。三度もの幽閉。法住寺の焼打。六条殿の焼亡。命からがらの逃亡など、凄絶な生涯」であったことがわかる。にもかかわらず、彼はこの激動期に天皇・院の意志に基づき発布する法令である「新制」を十一回も発布し政治的な対応をしていると同時に、今様、「梁塵秘抄口伝集巻第十」に記されいる事柄の実行。美濃・青墓との関わり、清盛や頼朝との駆け引きなども進めるなど、一筋縄ではとらえきれない大天狗であったことは間違いないだろう。
そこで、冒頭に桃山晴衣が「梁塵秘抄・口伝集」を読んで釈然としない、違和感のようなものが残ると云ったことになる。彼女は「梁塵秘抄・うたの旅」を書き進めるうちに、「梁塵秘抄」の<うた>から受ける感動と、後白河院にとっての今様を、分けて考えれば良いのだと思うようになったという。では、後白河院にとっての今様とは何だったのか。彼は雅仁親王時代の十代から今用が好きだった。そして保元の乱の翌年、かねてより憧れていた今様の名手、乙前を信西入道の手引きで召しいださせ、その歌唱力に感銘。後白河はその日の夜すぐに師弟の約束をし、以後乙前一筋に精髄を極めてゆく。ここから院は乙前の正統を裏付けるために、延寿など青墓の歌い手を集めて数年にわたる「歌談義」を重ねる。こうして、青墓は今様を代表する地となり、青墓の乙前を上に敷く後白河が「青墓流」を継ぐ正当な伝承者となる。そしてこの頃から後白河院政が始まり清盛の威光を背景に法住寺殿を建て、熊野詣を精力的に行うなど、一人で立つ身になってゆくのだ。「梁塵秘抄」との関連で云えば、熊野詣でにこのときから「今様」を唄うことを組み込むようになり、ここから後白河の霊験が表れてくる。そして彼は「今様即仏道」へといたり、これでもかこれでもかと今様の「徳」について「口伝集」で語っている。こうして霊験の項は以下の言葉で結ばれる。
<今様歌い、目井が歌うと清経の病が治り、通季の癪の病も直ったという歌>
「おほかた、詩を作り、和歌を詠み、手を書く輩は、書きとめつれば、末の世までも朽つることなし。こえわざの悲しきことは、我が身隠れぬるのちとどまることのなきなり。その故に、亡からむ跡に人見よとて、いまだ世になき、今様の口伝を作りおくところなり。嘉応元年三月中旬のころ、これらを記し終わりぬ。やうやう撰びしかば、はじめけんほどはおぼえず。」
桃山は<うた>へのひたむきな純度と、一方で「まして我らはとこそおぼゆれ」という終始一貫してみられる最上位に立つ者の「エゴイズム」といったものに大きな乖離が生じ、再びだまされたような気にさせられるという。また最後には継ぐ弟子がないと思っていたら熊野詣での道中で、権現のはからいによって源資時という後継者を得、さらに藤原師長も得、彼らは私の流と違わず、この二人以外の歌い方には疑いを持つべきと書き残す。この正統な伝授を行った二人は公喞であり、家格も高く元々の声楽の達者であった。後白河院は下々の者、近臣たちとも歌い集い、親近感をもたせながら、今様合わせを通して今様の格を高め、寺社参りで今様の霊験を高め、そして秘伝を作りその正統を伝授するという、どこか家元制の組織をみるようだとは、長く邦楽世界の家元を見てきた桃山の言である。
桃山はこうした現象をみれば、二人の弟子への批評の項は、今様でつながり身近に親しくはしているが、公喞・殿上人との一線を画すための記述であるようにもうけとれるとし、書き記す事自体が権力の道具につかわれるものであったことも忘れてはならないとしている。
「梁塵秘抄」に記された庶民の今様歌の素晴らしさ。それを唄い伝えてきた遊(あそび)たち。そしてその伝授者となった後白河院。桃山の今様、「梁塵秘抄」を巡る視点はさらに、女と庶民の世界へと広がってゆくが、あとは彼女の著書「梁塵秘抄・うたの旅」を手にしてじっくり読んで欲しい。
2012-02-01
桃山晴衣の音の足跡(34)『梁塵秘抄』の世界 其の三
ここで『梁塵秘抄』について簡単な説明をしておこう。 『梁塵秘抄』は平安末期に大衆の間に最も広く流行した歌謡、「今様」が、後白河法皇によって集大成された歌謡集である。明治44年和田英松博士の尽力でその一部が発見され、翌大正元年佐々木信綱の手により単行本として世に出た。本来は歌詞編十巻、口伝集十巻、計二十巻の大歌謡集成であったらしいが、現存するのは口伝集巻第一の断簡と同巻第十で、歌詞集は第一巻の断簡と巻第二があるのみ。このように見つかったものは少ないのだが、それでも歌詞篇は巻一に二十首、巻二に五百六十余首残っており、これらの歌詞から当時の民衆の生活や感情などが生き生きとして伝えられ、大方を魅了する。また口伝集は、歌唱法の秘伝や楽譜などが記されていたと思われるが巻第二から巻第九までが発見されておらず残念である。現存する口伝集巻第一には、古来よりの歌謡の種類と今様についての項がわずか二頁ほど書かれているだけだが、巻第十には後白河院の今様修行の様子、集成に際しての伝系づけ、伝授法、うたの理想などが書かれていて興味深い。 ところで「梁塵秘抄」の「秘抄」というのは、秘伝書という意であろうが、「梁塵」という言葉はあまりなじみがない。この「梁」は日本家屋にも見られる棟木、うつばりのことで、「塵」はチリのこと。これだけでは何のことかわからないが、後白河はこれを以下のように説明している。「梁塵秘抄と名づくる事。虞公韓娥(ぐこうかんが)といいけり。声よく妙にして、他人の声及ばざりけり。聴く者愛で感じて涙おさえぬばかり也。歌いける声の響きに、梁(うつばり)の塵たちて三日いざりければ、梁の塵の秘抄とはいうなるべしと云々」。これは、聞く者を思わず涙させるほど他に類を見ない美声の虞公と韓娥という名手がうたえば、その声の響きで梁につもった塵が三日も舞立ったままだったという古代中国の故事に添ったもので、後白河はこの「梁塵」の意を理想のうたや声について書いた秘伝書、大切な本の題に用いたということである。
<後白河法皇>
「梁塵秘抄」といえば「今様」と云われるほど、この歌謡集の中には今様歌が網羅されていた。例えば、巻第一の現存部分には「長歌十首」「小柳一首」「今様十首」が残っているが、元々の目次を見てみると「長歌十首」「小柳三十四首」そして「今様二百六十五首」とされており、これが一巻の内に採録された歌の種、本来は十巻あるこの書であるが、これを見ても「梁塵秘抄」すなわち「今様」といっても過言ではないだろう。ここに並んだ歌のうち長歌は、いわゆる既成の和歌を「そよ」と囃してうたったもの、また「小柳」は一首しか残っていなかったのだが、これは長歌とまったく趣を異にした不定形詩による歌で、桃山はこの歌「そよや 小柳によな」に魅かれ初めて作曲して唄ったことは先にのべた。この他に「口伝集」巻第一には「古より今にいたるまで、習い伝えたる謡(うた)あり」、そして「これを神楽、催馬楽、風俗(ふぞく)という」と記しており、当時うたわれていたいくつかの歌の種が紹介されている。「催馬楽」は学者によって諸説のべられているが、口伝集では当時の政のよいことわるいことを、民衆が褒めたりそしったりした歌だとしている。この催馬楽がやがて宮廷にとりこまれ洗練されて「郢曲(えいきょく)」として貴族の家に代々歌唱法が伝えられてきた。そして「神楽」はいうまでもなく「神楽うた」のことで、「風俗」というのは、東遊びのような東国に根を持つ民謡の類だとされている。ところがこうした歌に対して当時十二世紀に歌の新しい旋風が巻き起こりそれが、当時の当世風、今日風という意味をもった「今様」と呼ばれるようになったと口伝にある。この今様は「神歌」「物様(もののよう)」「田歌」など、形式、内容も自由変化に富み、大流行したという。
この「今様」について、桃山はとりわけ起源譚に強い関心を寄せてきた。その起源譚には用明天皇の御時、難波の宿館に土師の連という者が居て、この者が声妙なるなる歌の上手であったとし、夜、家の中で歌うと屋根の上で付けて歌う者がいるので逃げるのを追ってみると住吉の海に入って消えた。そして、それは歌に感心して現れた火星の化身、火星人だったという、まことSFめいた話であるが、中国の虞公と韓娥ではなく、日本の歌の名手であった土師の連のことが桃山には気がかりとなった。土師の連とは土器作りや葬礼、陵墓に関する仕事に従事した氏族で、これらの仕事に携わる者に歌の達者がいたということらしいことから、彼女はこの土師の連が古墳の造営に関わり、葬送儀礼にも関わったとし、梁塵秘抄と最も繋がりのある美濃、青墓周辺の古墳群を調べ興味深い論を自著「梁塵秘抄・うたの旅」(青土社)で展開している。そして歌いながら全国各地に「今様」の発生譚を追求してゆく途で昇天してしまったことは誠に残念極まりない。
<野見宿禰>
ちなみに土師氏は野見宿禰を祖先とする氏族で、野見宿禰については、「日本書紀」垂仁7年7月7日条にその伝承が見られる。それによると、大和の当麻邑に当麻蹶速(たいまのけはや)という人物がおり、天皇は出雲から呼び寄せた野見宿祢(のみのすくね)と相撲を取らせた。その結果、宿禰は蹶速を殺し、天皇から当麻の土地を譲り受けた。こうして天皇に仕えることになった野見宿禰は、垂仁32年7月に皇后日葉酢媛命(きさきひばすひめのみこと)が亡くなったとき、古墳に生き埋めの殉死を禁止していたゆえ、天皇が群臣にその葬儀の相談したところ、野見宿禰が百人の土部を出雲から呼び寄せ、人や馬などの埴輪を造らせ、それを生き人の身代わりとして埋めることを薦め、大いに喜んだ天皇は、その功績を称えて野見宿禰に「土師」の姓を与えたとある。この土師氏が後に古墳の造営と葬送儀礼にかかわるようになり、その末裔の土師連の中に火星人をも魅了する美声の持ち主が誕生したのだろう。
桃山はおそらくはこの土師氏とも関係あると思われる土器造りの歌を「梁塵秘抄」の「四句神歌」から選んで歌っている。
「楠葉(くすは)の御牧(みまき)の土器造り 土器は造れど娘の貌(かお)ぞよき あな美しやな あれを三車(みくるま)の四車(よくるま)の 愛行輦(あいぎょうてぐるま)にうち載せて 受領(ずりょう)の北の方と言はせばや」
楠葉は大阪枚方の周辺にあった皇室御料地とされる所で、その楠葉の御牧に土器造りが住んでおり、その娘が非常に美しく、あんなに美しい娘なら三国一の花嫁になって、受領の北の方、つまり地方官の大物官史の奥様といわせてみたいものだという、なんとも明るく十二世紀庶民の活気のみなぎった歌である。私はこの歌詞の「受領」、つまりこの地域の国司級の官史である河内の守や近江の守が、先の野見宿禰を始祖とする土師連たちとも深く繋がるのではないかと詮索したくなる。なぜなら土師氏は河内国に古墳墓を増産し、隆盛を誇ったとされ、この歌の地、大阪枚方市にある片埜神社(かたのじんじゃ)は、社伝によれば、当麻蹴速に勝った野見宿禰が垂仁天皇から河内の国を賜り、この神社を創祀したといわれ、社家の岡田家は野見宿禰の後裔で家譜には「土師家の鎮守」と書かれているそうなのだ。とすればここに歌われている御牧の土器造りもまた土師蓮となんらかの関係を持った人物だったかも知れず、なんとも奥深い歌に聴こえてくる。桃山はこの美しい土器造りの娘をどうみていたのだろうか。
2012-01-23
桃山晴衣の音の足跡(33)「梁塵秘抄」の世界/其の二
「裏の雑木林を風が吹きわたる葉ずれの音を、驟雨と聴き紛うことがある。逆に大粒の雨の降り出しを風と聴き違えることもある。一陣の天意にふりはらわれて地面に滲みる幾百万の雨滴。わくら葉のひそやかな離脱・・・・」
先に桃山晴衣が75年から80年にかけて尋常とは思えない程の創造活動に没頭し、とりわけ長編現代語のかたり「婉という女」の作曲、演奏では精神力・体力ともにぎりぎりの状態で取り組んだために、膵臓病という病魔に突然襲われ生死を彷徨うことになったことを述べた。幼少からの長い邦楽修行期間を経て、やっと自分の音楽世界を開かんとし始めていた彼女は、このままでは自分がこれまでやってきたことが水の泡になってしまうと、東京での生活を離れ、岐阜の鵜沼に移り住み、体力の回復をはかることもかねて、自ら田畑を耕しながら創作活動を続けることを決意する。冒頭に紹介した彼女の記した「わくら葉のひそやかな離脱・・・」、この意味ありげな文。わくら葉とは、若葉を意味すると同時に、蝕まれた葉、枯れてしまった葉も意味する。自分がまだこれから世間に向けた歌作りを始めだした若葉のような存在であると同時に、躰が病に冒され何もかもが離脱しそうな状態で、蝕まれた枯葉のようでもあるという心境を吐露したものではないだろうか。「ぬばたまの、ねっとりと練り込んでこしらえあげたような闇の黒は、ちっぽけな人間存在など溶かしてしまうようだった」という移り住んだ住居の周辺。まわりに街灯一つない闇の広がる地に身を置いた桃山は、医者の誤診で病を進行させられたこともあり、以後絶対に病院にはゆかず、自分で漢方や鍼灸を勉強し、最後は知人の紹介で野口整体を始め、同時に当時センセーショナルを巻き起こした福岡正信氏の自然農法を自らの畑で実践しながら歌作りを続けていく。
鵜沼に移り住み畑仕事に専念する桃山:写真・大島洋
彼女はこうして全くこれまでとは異なった環境で生活し、身体を徐々に回復させながら「梁塵秘抄」の作曲に取り組むことになるのだが、このことが「人間の生活は土に支えられています。生活のなかで人と人との交わりが不可欠なように、土との交わりが必要なのです。土と一体になったとき、最高の音楽が生まれます」と云う信念を桃山に抱かせることになり、「生活とおよそ離れたような、よそよそしい歌はうたいたくない」という理想の歌の追求、創造へと彼女を駆り立てたのである。しかし「梁塵秘抄」は自分の音楽の分水嶺でもあると云う桃山ではあったが、はじめてみると今まで手がけてきた歌とは異なり、盲人が象の足や尾の先をさわっているような自分にイライラし、パニックに陥ったという。解説書に目を通し、周辺の音をいくつも資料として集めと、半年程はこうした準備期間にさき、それが終わるとそれらを忘れ、自然の中で暮らしながら湧き出てくるものを待っていればよかったという。この時期は外で畑仕事をするのと同じような心持ちになり、あふれるものが次々と押し寄せてきて、寝る間も惜しい日が続く。そしてまた次の難関にさしかかり、自身の内なる声と出て来る実際にズレが生じ、苦しむ日もあったというのだ。
こうして紆余曲折を経て桃山晴衣が最初に作ったうたが多くの人に愛された「そよや」である。
「そよや 小柳によな 下がり藤の花やな 咲き匂えけれ えりな 睦れ戯れ や
うち靡きよな 青柳のや や いとぞめでたきや なにな そよや」
桃山はこのうたを「細胞のすみずみまで沸き立つような春の芽吹き。若やかな男女を、風にゆれる柳と、戯れからむ藤の花房に見立てた、これを「めでたけれ」で終わらなくてどうする、というほど明るい一首だ」といっている。永六輔氏が「桃山晴衣の古典の発声を聞くと、「小唄」に空があるのに感動する」といったように、彼女の発声、歌声は他に例を見ぬほど洗練、浄化されたものである。それはあらゆる邦楽の唄い方を実際に踏襲し、一時間近くに及ぶ語り物の宮薗節の三味線はいうに及ばず、洗練の極みとも云えるこの古曲の唄い方を徹底して自分のものにしてきたからである。しかし彼女は、長い遍歴をかさねてきたにもかかわらず、野外で唄えるものとして、古典や伝統曲で自分の持ち歌になったのは「吉野山」一曲のみだったという。そして「梁塵秘抄」を読んですぐ突き当たったのが十一番の「そよや」、このうたこそ彼女がずっと求めてきた<戸外のうた>、まさに<野のうた>だったという。彼女は京の鴨川で、八坂神社境内で、大学のキャンバスで、戸外のありとあらゆるところでこのうたを唄い続けた。梁塵秘抄、うたの旅がこうして始まった。
2012-01-16
桃山晴衣の音の足跡(32)「梁塵秘抄」の世界/其の一
『遊びをせんとや生まれけん〈梁塵秘抄の世界〉』(VIH28036)は、歴史の奥深く沈んだ民衆の歌を現代に甦らせようとの大胆な試み。桃山晴衣は創造力の一切を賭け当時の音曲を復元し、その上で現代人の感覚と交錯させることに成功した。作曲、三味線、唄の三役をこなし、胡弓、笙、楽琵琶など他のミュージシャンの協力も得て、中世の素朴な庶民の哀感を切々と歌い上げる。この時代、外に目を向ければ中世の世俗歌謡を集めた『カルミナ・ブラーナ』がある。 オルフの創作盤とクレマンシックの復元再構成盤とがあり、曲の感じでは晴衣は後者に近い。「日本に一人のオルフも生まれなかったのか、私が作曲者だったら「梁塵」に旋律と拍子を与えたい」と塚本邦夫氏の言。私は早坂文雄、清瀬保二、伊福部昭氏を日本のオルフと思ってきた。桃山晴衣をその系譜に加えよう。
齋藤慎爾「偏愛的名曲辞典(文学と音楽の婚姻)」(三一書房)より
<桃山晴衣のCD「遊びをせんとや 生まれけん」>
桃山晴衣が「梁塵秘抄」のアルバムを発表したのは、1981年。当時、ニューミュージックマガジン編集長だった中村とうよう氏のプロデュースによる二枚目のアルバムだった。この話が持ち上がったのはジャンジャンで行っていたコンサートの観客から「梁塵秘抄のうたを聴く事はできないでしょうか」というアンケートが寄せられ、中村とうよう氏から二枚目はこれでいこうということになったとされている。しかし桃山はそれに先がけること15年、彼女が創作したいと考えていたうたや語り物の選択肢の一つとして「梁塵秘抄」にも注目し、すでに岩波本を手元に置いていた。また中村とうよう氏の声がかかる前に、桃山が交流していた仏文学者の桑原武夫、杉本秀太郎などの仲間で、「その生の半ばにして自殺してしまった京都の詩人、「バイキング」の同人だった大槻鉄男氏が、「これをつくれたら偉い」となかばからかい気味の挑発をした態度で、「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」と書いてくれたタバコの箱の中紙の、古びてちぎれそうになったものを大切に持っていた」こともあり、「梁塵秘抄」への扉を徐々に開きつつあったのだが、その本格的な取り組みが一気に始まったのは、やはりレコーディングの話が持ち上がってからである。
<大槻鉄男が桃山晴衣に渡したタバコの箱の裏紙に書いた「遊びをせんとや」>
このレコーディングにいたるまでの60~70年代は、これまで書いてきたように桃山晴衣にとっては、自らのうたや三味線の技をたゆまず習練する時期であったと同時に、いわゆるプロとしての音楽家になるべきかどうかという自問自答を繰り返していた時期であった。プロということについて真剣に悩み続け、日本音楽、とりわけ「うた」に関しては生涯自分の確固たる理想を求め続けて止まなかった彼女は、この時期、前にも触れた安田武、岡本文弥、添田知道、柿沢真泉、円城寺清臣、英十三、秋山清、徳川善親などをご意見番とする「於晴会」で演奏し、先人たちからアドヴァイスを受けてきた。ほとんどが明治生まれの人生経験を積んだ気骨人、しかも明治、大正、昭和という激動の時代に邦楽の名人たちを聴きなじんできた人も少なくなかった。このような耳の肥えたご意見番を前に、まだ20代の桃山は当時のレパートリーであった小唄や端唄、そして三味線復元曲などを披露するのだから、これは相当勇気のいることだっただろうと思う。しかし彼女はひるむことなく会を持ちつづけ、「人生の師」として個々の人々から多くを学んだ。これらの明治人に代わって70年代に入ると水沢周氏を中心に昭和の同時代人たちが「於晴会」のメンバーとなり、桃山晴衣はプロなのかどうかという議論を展開するようになっていく。団塊の世代と呼ばれる若者が高度成長社会へと猛進する国家に対して学園紛争や市民運動を繰り広げ、都会では和製ロックやジャズやフォークが氾濫し、「田吾作さんが江戸っ子になった」と演歌にあるようにこの時期、地方から東京への人の移動が急増し、東京からは江戸文化が見る見るうちに消え去ろうとしていた。その江戸文化の一つが三味線音楽であろう。子供のときは長唄を鞠つき歌にして遊んだという桃山は、祖母の宮薗千林や叔父を吉住慈恭にもつ父、鹿島大治氏から自然と三味線や歌を身につけ、中学を卒業すると進学せず父からフランス語とうた・三味線を本格的に習い、十代の終わりには東京や名古屋ですでに小唄や長唄を教える弟子を持ち、21歳で大治氏を後見とする桃山流家元となり、百人以上の弟子を教えるまでにいたる。当時の彼女の天才ぶりは既に安田武や岡本文弥氏の紹介のところでも述べたが、彼女はこの師匠業に疑問を持ちはじめ、父から離れて祖母に教えられていた宮薗節をさらに本格的に学ぶ機会を得、四世宮薗千寿師のもとで内弟子生活を送ることになる。この内弟子となったのが1965年頃で巷の同世代は、前年はオリンピック、翌年は初来日したビートルズの熱狂で踊らされていた時期であった。こうした喧噪をよそに、彼女は邦楽の中でも最も繊細で静謐さを秘めた宮薗節の世界に入り、その技を本格的に修めていくのであるが、実際にはその優雅な音楽に身を委ねる時間などほとんどなく、師匠の身の回りの世話から自身の練習、そして重病になった二人の両親の面倒をみるための収入を得るために夜スナックで働いたり、数人の弟子に三味線を教えたりと、東京、岐阜を何度も往復する毎日が続いていた。こうした過酷な日々を送りながらも、桃山は子供のときから憧れてきた宮薗節の修行を納得ゆくまで続け、千寿師匠からは「魂ではなし合える子」として強く信頼されたただ一人の内弟子でもあったことから、何度も師匠から名取りの話があったのだが、彼女は名誉ともいえるこの話を断わらざるを得なかった。そして1975年頃、身を裂かれるようなような思いで千寿師のもとを離れ、邦楽界とは無縁の社会に出て、一音楽家・桃山晴衣として生きてゆく覚悟をしたのである。65年から75年の10年間、於晴会での演奏会だけは続けてきたものの、外に向けての活動は一切行えなかったため、彼女の行く末を気にする於晴会の面々からは、プロとしてこれからどう歩むべきかという話が起こってきたのである。
東京は、その10 年間に三味線の音が街から聴こえなくなり、代わってギターを手にした若者たちがロックやフォークに興じるようになってしまっていた。そして彼女がこれから向かい合わなければならなかったのは、予定調和の反応しかない邦楽界とはまったく縁のないこうした青年や一般の人たちだった。彼女は昭和世代の仲間で構成された二期目の於晴会の面々と何度も、様々な問題について話し合った。そして、こうした多くの疑問や問題を解決する手口として、一度今までをまとめてみようということになり「古典と継承」と題すると称し、不特定多数の一般の人たちにむけた自主演奏会を開催した。1974 年から75年にかけて開かれた三回の演し物は、自らの三味線復元曲、小唄、端唄のほか、客演に井野川検校、落語家の桂小文枝(五代目文枝)、岡本文弥などを招き、創作「雪女」「信貴山縁起」「婉という女」など、新旧の語り物を披露するという内容だった。この頃の桃山は憑かれたように作曲、演奏、プロデュースにと駆け回っていたうえ、さらに止まぬ好奇心にかられて添田知道師から直接演歌の指導を受けたり、井野川検校から地唄を習ったり、はてまた地方から消えつつある民謡やわらべうた、子守唄を各地に訪ね歩くなど、懸命だった。彼女はこの頃のことを振返りこう記している。
「日本の工業社会への転換は、目先だけの豊かさと引き換えに、文化の土壌である、自然と人間の生活を根こそぎ失うことでもあった。それは歴史上かつてみなかったほどの変化を私たちにもたらした。どこの土地でも高度成長を境として、生活文化と芸能を失っている。明治近代国家の始まりにまず、自分たちの文化を失い、その上にこの有様である。
私の活動は”うたう場がほしい”というところから始まった。邦楽の世界には趣味同好の集い的なもの以外に、人と人とがふれあって創りだす”ホントの場所”がなかったから。ところが外へ出てみると、あらゆる場がないことがわかってきた。それどころかすべてが商業主義になってしまったから、一般の間には”ホントウの音楽”も見当たらず、音楽という名の”商品”と化したものしかなくなっている。
私は、現代の私たちにぴったりくる”心に響き合えるうた”が欲しくなった。それにはまず、”自分のうた”であること。自分を確かにつかまえることだ。私にとって”自分のうたをうたう”にはまず、置き去りにされている文化を、途切れている時間と空間をつなぐことが必要だった」。桃山晴衣は自問自答を繰り返すだけでなく、あらゆる人たちと話し合い、自らの足で各地を訪ね、自分のうたの可能性を求め続けたのである。そしてこの間、生死をさまようような病に陥りながらも、活動に意欲を燃やし続けた。「梁塵秘抄」の誕生は、こうした桃山の計り知れない体験と努力の中から、生まれるべくして生まれた「うた」であった。
2012-01-02
桃山晴衣の音の足跡(31)辰年に「夜叉姫」
昨年書き続けてきた「桃山晴衣の音の足跡」が、宮薗修業時代のところから休筆状態になってしまっていたが、その続編を今年の干支、龍年にちなんだ話とからめてスタートしてゆきたい。龍は世界各地の古代神話に登場するが、日本でも出雲の八俣の大蛇神話に語られ、銅鏡をはじめとする弥生時代の青銅器にイコンとして刻まれていたりと、その歴史は古い(もちろん縄文土器の文様に蛇のイコンを刻み込んだものも多くある)。龍とよばれるものは、中国に端を発するとされる鱗のある長い胴に尖った爪を持つ四つ足を有し、顔には髭、そして頭に角をつけた想像上の獣と、インドでナーガとよばれるコブラのような大蛇のいずれかに分けられるが、日本では龍と蛇との境が曖昧な場合が多い。しかしいずれも水と深く結びついた生き物であることは間違いない。干支では龍と蛇は分けられているが、これは十二支が中国に発するものだからでもあろう。
桃山晴衣が晩年に創作した今様浄瑠璃三部作の一つ「夜叉姫」は、龍とも関係した話である。この龍が中国系かインド系かは図像として残っていないので定かではないが、水と深く繋がった歴史的悲話を背景とする。
<ボストン美術館蔵:平治絵巻より/朝長の自害を悲しむ大炊長者延寿と夜叉姫>
夜叉姫とは実在の人物である。「平治物語」に登場する源義朝とその側室、延寿の間に生まれた娘で、あの「梁塵秘抄」を乙前と同様に後白河法皇に伝授した今様歌の名手が大炊長者(おおいのちょうじゃ)とも呼ばれている延寿という女性だ。平治元年(1159年)、この大炊長者延寿を頼り、平家に追われた源義朝とその息子・義平、朝長ら一行が美濃青墓に落ち延びてくる。そしてこの年の末から翌年にかけ、源氏は衰退の途を辿る。「次男・朝長、十二月二十八日、十六歳を一期に、青墓にて自害。父、義朝、翌年一月三日申の刻、三十八歳を一期に、鎌田兵衛正清の舅である長田忠致(おさだただむね)の謀略により野間にて殺害される。長男、義平、亡父の仇打ちにと出向くも果たせず、一月二十一日二十歳、京都・六条河原で処刑。三男・頼朝、西美濃で捕わり、掘り起こされた兄、朝長の首級とともに京へ、十四歳。さらにこの間、源氏の重臣、佐渡式部大夫重成は義朝の身代わりとなり、赤坂・子安の森で自害、十二月二十八日。義朝の乳兄弟・鎌田兵衛正清も義朝と同じく野間にて、平家に取り入ろうと企む舅と義理弟により討たれる。正清の妻も父をうらみ自害、二十八歳」と、このように立て続けにおこる戦乱の悲劇に巻き込まれていく中で、「源氏の血を受け継ぐ故の行く末を悟り、その逃げ場の無い重圧に耐えかねて自らの命を絶った」のが義朝と大炊長者延寿の娘・夜叉姫であった。
<青墓の大炊一族の五輪塔、夜叉姫のものも?><青墓円興寺にある源義朝一族の位牌>
桃山の今様浄瑠璃「夜叉姫」の四段目「延寿独白」ではこの夜叉姫のことを延寿が語る下りがある。
「夜叉姫は、頼朝殿が連れ去られてより日ねもす嘆き悲しみ、湯水も喉を通らぬ有様でございました。何とか夜叉の悲しみをやわらげんと、母の大炊ともども、夜はこの胸に抱き添い寝するなどしてさまざまになぐさめ、論し参らせる毎日でございました。夜叉は、志浅からず思われし、亡き夫源義朝殿の忘れ形見、それに今様うたいの長、大炊長者を継ぐべき大事の姫、音に聴こえし我が一族の今様は、代々母から娘へと授け来しもの。夜叉が継がねば今様も消える。大炊長者の掟を、秘伝を夜叉姫に伝えなければなりません」
この下りには実際の歌姫が消え、後白河法皇の筆記だけが「梁塵秘抄」を唯一伝えることになってしまった無念を、今の日本から伝えられてきた「うた」が次々となくなってゆく様を憂う自らの心境を語っているようでもある。
こうして夜叉姫は永暦元年二月十一日、厳寒の夜半、長者の宿を抜け出し、杭瀬川(現在の揖斐川)に向かい入水、いとけなき十一歳の少女の死であった。この杭瀬川に身を投げ死んだ夜叉姫の亡骸は岸に流れ着いたが、魂は川を遡り、夜叉ケ池で成仏したという話「夜叉ケ池伝説」として青墓・池田周辺には伝わっている。
ここからが龍の話になるのだが、桃山は最後の執筆となった「梁塵秘抄 うたの旅」の中でこの「平治物語」に準じた「夜叉姫」の話と「夜叉龍神」のお祀りが、安八郡神戸町(あんぱちぐんごうどちょう)の石原伝兵衛家に伝わっていると記している。
「それによると、延暦・弘仁の頃、大干ばつに遭った時、長者が田を見回っていると小さな蛇に出会い、『雨を降らせてくれたなら、三人の娘のうちの一人をお前にやろう』と一人ごちる。すると、実際に大雨が降り、若武者が娘を貰い受けに来る。そこで、自分から『わたしが参りましょう』と名乗り出た夜叉姫が、夜叉ケ池へ龍神の妻となって行くという話になっている。いまでも石原伝兵衛家はこのお祭りを司祭して、夜叉ケ池へ、平安の衣装で登り、紅、白粉、櫛、かんざしなどを流すという儀式を行っている」
<善学院に残る夜叉姫の絵図>
桃山の追跡はさらに続く。彼女の調べでは、夜叉入水の延暦・弘仁の頃は、ちょうど円興寺の創建と重なり「石原伝兵衛家は神戸の山王祭を司祭し、夜叉龍神も司祭しているが、安八長者のお寺は影向山神護寺善学院で、(安八大夫敷地跡との説もあり)、ここには江戸時代に描かれた夜叉姫の絵像が残っている。石原家と善学院と現円興寺とは同じ天台宗。善学院のほうから僧が回されてきているらしい。また神戸の浄圓寺というお寺の山門の天井が、青墓の長者の屋敷の板塀で作られたという話を堤氏(郷土史家)が古老から聞き、いよいよこれは青墓との関係が深いのではないかと思って調べてもらうと、夜叉姫の祖父にあたる人が安八大夫で、つまりこの人が延寿の母である、大炊の長者の夫だということがわかってきた」と。あとの詳細は「梁塵秘抄 うたの旅」を読んでいただくとして、「平治物語」に描かれた男の権力争いの背後で消え去った、梁塵秘抄の歌姫とよばれる延寿の娘、夜叉姫が、今も龍神の姿に代わり、地元の人たちの間で密かに守り伝えられてきていることに、桃山同様感動せざるを得ない。なお泉鏡花の名作「夜叉ケ池」は越前と美濃の境にあり越美ヶ池ともよばれており、この周辺でもいろいろと形を変えた龍神伝説があるということで、泉鏡花のものは出身地、越前側のものを取材して書かれたものではないかと思うと、桃山はいっている。
梁塵秘抄を後白河に教えた延寿は乙前に比して法皇の書き残した「梁塵秘抄」には多く登場こそしないが、桃山はこの長者延寿に限りない親しみと関心を持ち続けてきた。彼女は「平治物語」から派生した能の秘曲「朝長」、説教節の「小栗判官照手姫」、浄瑠璃の語源である「浄瑠璃姫」物語の前段とみられる幸若舞の「烏帽子折」など、どれも青墓を舞台とする物語芸能であり、これらの物語に登場する長者こそ、その時代設定からみて大炊長者の延寿ではなかったのではないかと考察している。桃山晴衣が追い続けた謎の女性延寿については、また三月頃に改めて書きたいと思う。ということで、「桃山晴衣の音の足跡」はいよいよ彼女のライフワークともいえる「梁塵秘抄」へと進めようと思っている。またまた偶然か、今日は源義朝の命日であった。
















