桃山晴衣の音の足跡(5)語り物と落語

「古典と継承」シリーズを開催した74~75年にかけて桃山晴衣は多くの落語家と出会っている。中でもよくコラボレーションを行ったのが当時の三代目桂小文枝(後、五代目桂文枝)。73年頃、当代随一といわれたハメモノ入りの噺の一つ「立切れ」に、氏が普通は寄席の下座が演じる唄・三味線を桃山晴衣に依頼したのが始まりだったという。

<桃山がハメモノで出演した「立切れ」を収録した桂小文枝(五代目桂文枝)落語集(二)>
この出し物に何度か出演するうち、今度は桃山の方が新たに創作した「雪女」の語りを氏に依頼し、これが75年にジャンジャンで開かれた第二回目の「古典と伝承」の舞台で披露された。「雪女」は日本人には馴染みの深い噺だが、桃山は多くの協力者を得てこの物語を上方言葉で書き下ろし、桂小文枝の語りに自分のうた・三味線を織り交ぜながらの展開に仕立てた。そしてこれらのうたの歌詞を「長者と鉢」の作者でもある円城寺清臣氏に依頼している。小文枝の「立切れ」でハメモノを桃山が担当したときは、おそらく彼女は舞台の袖での演奏だったであろうが、「雪女」では二人が舞台に並んで演ずるという、常に一人で演じる落語家にとってはまことに奇妙で画期的な出来事だったに違いない。この催しには落語フアン、邦楽フアンも顔を出し、アンケートには落語でもない邦楽でもない出し物に賛否両論が書かれていたが、同時に二十代の若者の多くが好意的な意見を寄せているのが印象的であった。そしてこれこそが桃山の意図してきた成果の一つでもあったのだろうと思う。

 さて、この年、桃山晴衣は立て続けに寄席の会に出席、客演している。渋谷ジャンジャンでの公演の一ヶ月後、三月には自分の大阪初公演で、桂小文枝と当時その弟子であった桂三枝を客演に、同月名古屋の含笑寺の「牧巌氏追悼会」で林家正藏、三遊亭円生三笑亭夢楽、桂小南、三遊亭金馬、アダチ竜光らと、そして7月は含笑長屋後援の「玉虫供養」の会で内海桂子、好江、柳家小三治三遊亭金馬笑福亭松鶴金原亭馬の助三笑亭夢楽らと、10月は明治村寄席で林家正藏、桂文我、そして新内の岡本文弥、話芸研究者の関山和夫らと、さらに11月には大阪の角座で桂枝雀が司会の「三味線のすべて」という会で津軽三味線の木田林松栄、池中スエ、琴月連らと共演というなんとも慌ただしい月日を送っている。
 「あの頃のわたしは道場破りだとよく言われたの」と桃山はわたしに語っていたが、小唄や端唄の家元が落語界に顔を出して演奏し、芸の交流をはかるということはほとんどみられなかっただろう。そして日本音楽に疑問を抱きながら活動する邦楽家も稀だっただろう。桃山には、桂小文枝ハメモノを下座の音楽ではなく邦楽の地唄を用いたり、桂枝雀が話芸の様々な試みをしていたりと、落語界の芸人たちの姿勢に鼓舞され、そこに開かれた何かを感じていたのかもしれない。彼女は落語を好んだが、いわゆる安っぽい落ちや駄洒落は嫌いだった。あくまでも興味を持っていたのは話芸のセンスや噺家の芸風であった。この意味においても名古屋東区にある含笑寺で40年近くにわたって続けられている含笑長屋・落語を聞く会は当時名古屋に住んでいた桃山にとって興味深い会であった。この含笑長屋・落語を聞く会は話芸研究家の関山和夫さんが主宰者となり、1967年に結成されて以来、毎月一回、年間11回の落語を開催し今日に至る根強く素晴らしい会である。この会は「正統話芸としての落語の継承発展を最大の目的とする」という趣旨をもとに、真に落語を聴く人たちのボランティアによって運営されている。会員制で定数が決まっており中々新会員になるには難しいといわれるほど人気もある。こうした会のあり方は桃山にとって大きな示唆ともなったし、関山和夫氏の研究なども大いに刺激されるものだったにちがいない。関山氏は愛知県生まれで生家が浄土宗西山派の寺。大谷大学の国文学家を卒業後、1961年に落語の開祖といわれる『安楽庵策伝 咄の系譜』や1964年に日本エッセイストクラブ賞を受賞した『説教と話芸』など、注目すべき話芸、説教、落語、仏教芸能に関する数々の著書を発表してきている。桃山が『梁塵秘抄 うたの旅』を発表した時、いち早く感服したとの賛辞のお手紙をいただいたのも関山氏であり、氏がずっと大学で続けてこられた節談説教者や落語家を招いての大学の講義の最終会を桃山の梁塵秘抄で締めくくりたいとのご連絡もいただいていたが、それを実現できないまま彼女は昇天してしまった。関山氏も今は病床に伏していらっしゃるようでお元気になられることを願っている。