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土取利行・音楽略記

2011-09-21

9月14日「渋谷伝説・金王丸」奉納

17:48

 東京渋谷に関係した物語と云えば、かつては待ち合わせ場所としても人気のあった忠犬ハチ公像にまつわる話を、誰もが思い浮かべるのではないだろうか。が、渋谷には何百年もの昔から伝えられる、忠犬ならぬ忠義、忠節を重んじた武将の物語がある。その武将とは、『平治物語』に源義朝の従者として登場する渋谷金王丸(しぶやこんのうまる)なる人物である。源義朝といえば、桃山晴衣が『梁塵秘抄・うたの旅』(青土社)、「青墓の長者延寿」の章で多くのページを割いて書き記している今様歌いの名手、延寿と深く関係を持つ源氏の大将である。

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渋谷金王八幡宮

 東京渋谷岐阜の青墓が私の中で不思議な交差をはじめだしたのは、そもそも宝生流能楽師ワキ方安田登氏から渋谷金王八幡宮の御鎮座920年祭で奉納する舞台音楽を依頼されたことによる。安田氏とは数年前、那須二期倶楽部松岡正剛氏の発案で石舞台が創設され、その祝宴で桃山晴衣近藤等則、そして安田登氏と能管の栗林祐輔氏と共演したのが最初の出会いだった。以来、彼とは郡上で「円空」の語りを、また立光学舎では桃山梁塵秘抄コンサートで創作曲「大原御幸」を謡ってもらい、桃山最後のコンサートとなった美濃南宮大社での「梁塵秘抄の会」でも共演していただいた。また松岡正剛氏との関係で昨年の平城遷都1300年記念祭NARASIAでも、尺八の中村明一氏も加わった柿本人麻呂のうた物語で共演。これは今年、韓国高陽市でも上演した。

 というわけで、安田氏とは随分と舞台を共にしてきているのだが、私が演奏をほとんど即興で行うということもあり、常に彼の台本は上演寸前に渡される。今回も例外ではなく、一日前だった。金王八幡宮御鎮座920年祭に当たって本殿で奉納する作品で、内容は神社の由来ともなっている武将、金王丸についての伝説譚だった。そこで早速この金王丸なる人物を神社の由緒で調べてみると、以下のようであった。

渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、渋谷平三家重の子で、永治元年(1141)8月15日生まれ。重家に子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かった。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付ける。金王丸は17歳の時、源義朝に従い、保元の乱(1156)で大功を立て、その名を轟かせたが、続く平治の乱(1159)で義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間の長田忠宗の謀反により敢えない最期を遂げる。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷剃髪し、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)と称して義朝の御霊を弔った。金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の折は、密かに当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をした。壇ノ浦の戦いののち頼朝義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう昌俊(金王丸)に命じる。昌俊は断れず、文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入る。が、昌俊は元から義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げた。金王丸の名は平治物語近松戯曲などに、また土佐坊昌俊としては源平盛衰記吾妻鏡平家物語などにみえ、その武勇のほどが偲ばれる」

 このような金王丸の名声によって、渋谷八幡宮を金王八幡宮と称するようになったということである。

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(金王丸舞台、写真は他のwebから拝借)

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(金王八幡宮本殿での演奏)

 安田登氏の台本は上記の金王八幡宮に伝わる物語を基に、金王丸を語り、謡うのであるが、今回の傑作ともいえるのは、序幕に元力士一ノ矢関を登場させたことであろう。八幡宮は金王相撲と呼ばれる相撲発祥の地でもあり、安田氏は少年の金王丸に実際の相撲の型を狂言語りで説明し、技を力士が実際に披露する場面から始める。そしてこの金王丸少年と狂言師との相撲が始まるが、この時少年は力なく破れる、という前段の仕掛けを設けた。私が持参した楽器は南インドで舞踊劇カタカリに使うチェンダという太鼓、この高音が相撲の櫓太鼓の音に似ていて、ましてや実際の力士四股を踏み出すと、そのものになってしまうから不思議や不思議。また力士と云えば相撲甚句だと思い、謡や狂言語りにこれが入ると音楽的にも豊かになるため、安田さんに力士甚句を導入することを提言。能の謡いは、旋律が平坦なため、変化のある甚句が入ることで音曲的にも味わいを増し、豊かになってくる。出演者は能楽師安田氏、元力士一ノ矢氏と、狂言師の奥津健太郎氏、そして主役ともいえる金王丸役は中学二年の女学生、深紅ちゃん。彼女は以前にも一度、安田氏の舞台に出たことがあるらしいということだが、能衣装を身につけると、キリリと引き締まる。男装の麗人さながらの変身である。力士能楽師狂言師、白拍子(中学女子)が舞台に揃い立ち、太鼓が打ち鳴らされ、物語は源平の闘いへ、そして源義朝が登場し、平家と合い戦うも無残にも破れ、都落ち。ほうほうの手で都を逃れた源義朝一行は、尾張野間の内海にある長田の庄司で休むと、ここで心変わりした長田の郎党によって義朝もろとも家臣全員が討ち滅ばされる。が、金王丸だけは逃れた。忠節心の強かった金王丸は義朝を暗殺した裏切り者長田を追いかけ、大勢の敵を相手に闘いいどむ。そして長田こそ打ち倒せなかったが、長田の郎党達をことごとく打ち倒した金王丸の武勇は後の世に語り継がれ、金王相撲の技となって伝えられたという。こうして再び力士の別れの甚句で奉納劇の幕が閉じられる。

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桃山晴衣のCD「夜叉姫」)

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桃山晴衣著/梁塵秘抄・うたの旅)

 「渋谷伝説・金王丸」と題されたこの物語の山場は、平治物語でも語られている義朝が野間で長田の郎党に討たれる場面であろう。この義朝一行の中に若い金王丸がいたということだが、実はこの義朝一行が野間に行くまでに山場がもう一つある。

 「木枯らしの 青野ケ原を 往く影は 物具したる 五、六人・・・・・」

宮薗節の三味線の手を導入部に始まる桃山晴衣の今様浄瑠璃夜叉姫』は、都落ちした義朝一向が美濃青墓の長者延寿を訪ねゆく場面から始まる。冒頭の「物具したる五、六人」とは、実は、平治の乱で敗走した大将源義朝長男の悪源太義平、次男の中宮大夫進朝長、三男の右兵衛佐頼朝、そして佐渡式部太夫重成、平賀四郎義宣、鎌田兵衛政家、金王丸の八人だが、頼朝は途中一行からはぐれ、行方知らずになっていた。

 この五、六人の中に平治物語に書かれているように金王丸がいたとすれば、彼も美濃青墓に逃れ、義朝たちと延寿の厚いもてなしを受けていただろう。さて青墓まで逃れたものの、義朝を追う手は止まず、義平は山道を攻め、朝長は信濃へ、義平は飛騨へとそれぞれの道を攻めゆくが、朝長は信濃をめざすも途中受けた弓の矢傷で先に進めず、延寿の屋敷まで引き返した。そこで「このままでは敵に生け捕られるのが関の山、どうか父上のお手に」と自害を申し出、義朝の太刀で胸元を三度さされ、首を取られて亡骸となる。十六歳であった。

 青墓の長者延寿には義朝との間に生まれた夜叉姫がいた。夜叉姫は当時十一歳のいとけない少女で、「これら一連の悲劇に巻き込まれ、源氏の血を受け継ぐ故の末を悟り、その逃げ場の無い重圧に耐えかねて自ら命を絶った」。厳冬、杭瀬川への入水だったが、夜叉の魂は川を上り、現存する夜叉ケ池で成仏したと云われている。ちなみに泉鏡花の「夜叉ケ池」の舞台はこの夜叉姫の成仏の地であり、今も地元では龍になった夜叉姫を慕う祭りが行われている。このとき十四歳だった頼朝は、難局を経てやがて鎌倉幕府を開くにいたるが、十代の若者達がこの戦乱に巻き込まれては尊い命を亡くしている。

 桃山が「夜叉姫」を浄瑠璃にしたのは、母の延寿が乙前と共に後白河天皇に「梁塵秘抄」を教えた遊びの一人であり、今様歌いの名手であり、夜叉はその母の今様を受け継ぐべく歌姫だったからである。この青墓での源氏一族の動向、そして今様歌「梁塵秘抄」と延寿、夜叉姫については、桃山が病を押して書き残した名著『梁塵秘抄・うたの旅』に詳しいので是非一読を。また今様浄瑠璃夜叉姫』も幸いライブレコーディングが残っていたため、桃山の逝去後、日本伝統文化振興財団からCDとして発売されたので、こちらも是非聞いていただきたい。

 野間の長田の郎党と戦う金王丸は先の神社の年代記でみれば二十歳。彼はその後、難を逃れ頼朝に仕え、土佐坊昌俊と名を変え、46歳で亡くなっており、今は金王丸神社に祀られている。

 今回は相撲甚句が挿入されたが、金王丸が義朝と青墓で延寿や夜叉姫と出会っていたとするなら、ときに今様歌の名匠がうたう「梁塵秘抄」に涙していたかもしれないと、ひそかに思いを寄せる。「渋谷伝説・金王丸」、これも桃山が影でとりもった縁で参加するようになったのかもしれない。