Hatena::ブログ(Diary)

土取利行・音楽略記

2012-11-03

桃山晴衣の音の足跡(40)  ハムザ・エルディーンとの出会い

21:28

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<桃山晴衣とハムザ・エルディーン:スタジオ200>

 桃山晴衣1980年の9月を機に自ら働きかけ、自らの足で出かけ唄い続けた「梁塵秘抄ツアー」はひとまず一年半で区切りをつけた。「いくら書いても書き尽くすことのできない、清々しい想い出と感激的な交流。そこから派生した創造的な出会いを残して・・・。まだ未整理の状態でハッキリと掴めていたわけではなかったが、私はそれらの人々のすべてから、確かな手応えをもらったような気がしていた」と記すこの自主自営コンサートは、これから音楽活動を進めて行く上での大きな指標となったにちがいない。気力体力ともに磨り減らしたであろうこのツアーが終わって、彼女が東京にもどると、ヌビア出身のウード奏者で弾き唄いのハムザ・エルディーンが日本に滞在中であるという連絡が入り、梁塵秘抄のレコーディングでも何曲かウードを使用していることから(この時はギタリスト石川鷹彦氏がウードを演奏していた)会いにいった。桃山は「梁塵秘抄」の作曲をするにあたり、日本古来の音だけでなくシルクロードの音楽に関しても多くを聴き、ハムザのレコードは特に何度も聴いて気に入っていただけに、彼から音楽について色々と話を聞けるのが楽しみだったが、事は急展開で西武のスタジオ200でジョイントコンサートをということになった。アフリカスーダンアスワンハイダムの建設と砂漠の浸食によって故郷を失くしたナイルの上流ヌビア出身の彼は、500万のヌビア人の内一人だけ<専門の音楽家>になり、アフリカの唄をアラビア音楽にのせてウードで弾き唄うという奇跡の楽士である。本来なら「梁塵秘抄ツアー」の疲れを癒さずにはいられなかったところだが、「自分と重なるところの大きい」というこのヌビアの楽士を紹介したいと、1982年の6月から7月にかけて、名古屋京都福島ジョイントコンサートで巡り、二曲ほど中村とうよう氏のプロデュースでレコーディングも行った。(このレコーディングは桃山晴衣LP「鬼の女の子守唄」1986年で発表され、現在は日本伝統文化振興財団から同タイトルのCD盤で発売されている)

 ハムザとのコンサートでは、桃山は「梁塵秘抄」やハムザとの出会いで作ったという「うらうら椿」など新曲ばかりを選んでうたった。そして同時に彼女は「共演とはいっても私は彼の音楽のすべてを紹介したいということと、彼と接することによって音楽の背景を探りたいという気持ちが強く、国を異にする二人の音楽家セッション」とは趣を異にしていたと云う。それでも桃山晴衣にとって始めての体験となったアラブアンダルシア名曲中の名曲「ランマー・バーダー・ヤタサンナ」は、ウードと三味線、ヌビアの男性と日本の女性がこれまでどこにも聴かれなかった異なる絃と異なる声を交差させ築き上げた名作となっている。(YOU TUBEではスタジオ200のライブ録音を流しているが、アラブ圏の音楽ファンからの賛辞が多くよせられている)

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桃山晴衣&ハムザ・エルディーン「ランマー・バーダー・ヤタサンナ」ライブ録音@スタジオ200>

 とはいえ、この「ランマー・バーダー・ヤタサンナ」、実は「何度も投げ出したくなった」と桃山は云っている。「ウードは長さ15センチ、幅1センチほどのへらへらしたピック用のもので弾くので、柔らかい音が出る。うねりながらねばってうたうのに、その音が実によく合う。ところが三味線でうたうと素っ気ないことこの上ない。うねってうたおうとすると弾く方がとてとてになってしまう。そういうわけでとても難しいというと、伴奏と同じことをしているだけだとバカにしたような顔をされる(ように思えるのだ)。私は手首から先をへらへらと柔らかく動かして弾く練習をして、何とかサマになる様にこぎつけた」と、桃山はその苦労を後日談で語っている。

 桃山晴衣はこのハムザとのジョイントから改めて言語と楽器というものを深く考える様になった。そして自分がなぜ三味線にこだわるのかと聴かれると、「日本語と三味線はピッタリだから」と答えていたのだが、その答えの深意を彼との共演でさらに知らされたと云う。さらに桃山はこうも云っている。「三味線はアタック音が強い。メリハリと切れのよさを大切にし、一音ずつをとことん味わおうとする日本の音楽は、余韻から間にいたるまで、徹底してそちらに重点がおかれるために、規則的に刻まれるリズム等を無視してしまって自由自在、演奏のたびに違う、即興性をはらんでいる。日本の音楽は流れる水のように変化して行く。物語性を帯びているというか、構造的には場面、場面で展開されていくように構成されているようだ」と。またこのコンサートでは、観客でみえたフランス人が「彼のタール(ヌビアの太鼓)だけを本物と認めぞっこんだった」のに対し、彼女は「ウードでうたわれるオリジナルに親近感を持つ。アフリカのうたをアラビア語音楽にのせ、イタリアっぽい変化がある。それは故郷を失った人の音楽にふさわしい。・・・そしてそれは、日本とは、自分とは何かを拾い集めている私とどこか重なる」との感想を述べており、そこに常に前進して止まなかった彼女の気概を感じる。(今は桃山晴衣、ハムザ・エルディーン、そして二人の唄と演奏をプロデュースして記録してくれた中村とうよう氏もすでに昇天されてしまった)

2012-08-31

「炎夏」の「演歌」/ 郡上・立光学舎での「うた塾」とコンサート

11:31

 今夏8月10(金)11(土)12(日)の三日間、立光学舎においてワークショップ「うた塾」を開催した。「うた塾」はかつて桃山晴衣が、立光学舎や東京のシアターXなどで、日本のうたを教えるために設けたワークショップで、最初は役者を目指す若者に基礎的な身体運動、発声等を教えようとしたのだが、あまりに声の出し方がおかしくなってしまっているのと、きちんと日本語を喋ること自体ができなくなってしまっているのに驚かされ、その後うたうことを通して、本来の自然な日本人の発声や日本語を学んでもらおうと取り組んで来たという経過がある。

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<うた塾参加者と唖蝉坊の「ラッパ節」を唄う> 

 桃山はよく「私には唄えるうたがない」と、現在巷に日替わりメニューのように次々と消費されていく流行歌について語っていた。60年代、70年代、80年代とロックやフォーク、Jポップとよばれるいわゆる米国産流行歌コカコーラやハンバーグとともに供給され、当時の若者がまさに時代の潮流に乗り遅れまいと我も我もとギターやエレキ、はてはシンセサイザーと電気楽器に囲まれて現在にいたる中、桃山はそれまで東京界隈に鳴り響いていた三味線とうた声が次々と生活の中から消えて行くのを目の当たりにし、このままでは日本のうたは壊滅してしまうと、邦楽界から独り飛び出し、同時代の若者たちに様々な働きかけをしていった。この頃の桃山晴衣の活動についてはこのブログの「桃山晴衣の音の足跡」で述べているので参照していただくとして、これを機に彼女はこれまでの古典や邦楽を基に、現代の若者にも響き合える独自の唄を作って唄い語る様になり、「婉という女」のような長編現代語かたりや「梁塵秘抄」のような短い唄をオリジナル作品とし、世に問うていった。そして桃山が最も意識していたのが、生活、しかも庶民の生活から生まれでる流行歌(はやりうた)の存在だった。そして近代流行歌の源流ともいえる明治大正演歌を、それまでご意見番としてお付き合いいただいていた添田知道師から直接学ぼうと晩年の知道師宅で半内弟子生活を続けた。添田知道師はいうまでもなく演歌の元祖といわれる添田唖蝉坊長男で、自らもラメチャンタラ・ギッチョンちョンでパインッパイのパイで知られる「東京節」や「復興節」など数々の演歌を作詞・作曲し、演歌師としても全国を廻っていたが、知道師は演歌研究家の野沢あぐむ氏が「一人で四役役割を果たした」というように、作者、演者、継承者、史家の役割を一人でやってのけてしまった才人である。作者としては「演歌師生活」「てきやの生活」「日本春歌考」「演歌明治大正史」「ノンキ節ものがたり」「冬扇簿」「春歌拾遺考」そして明治に始まった日本の教育問題を実際のルポルタージュを基にして書いた長編小説「教育者」等々、すべては経験知にもとづいたユニークな作品を残している。演者とは、自らも演歌師として活動してきたということ。継承者とは父・唖蝉坊の演歌を作詞・作曲家として発展継承させたということ。そして史家とは、先の「演歌明治大正史」という演歌つまり近代日本の流行歌の歴史を詳しく記したことと、さらに重要なのは1967年に監修者として全曲を吟味しまとめた「うたと音でつづる明治・大正」のLPの制作をしたことである。こうした知道師の文才によって唖蝉坊の演歌の仕事はさらに理解が深められ、一般はもとより知識人にも理解されるようになったことはとても重要なことである。ということで、桃山が知道師から演歌を学んだということは、単にうたを学んだだけでなく、このような近代流行歌の歴史を具体的に学んだということでもあった。そして彼女にとって大きな体験となったのは知道師の紹介で荒畑寒村の「寒村会」に行くようになり、寒村氏や堺利彦の娘、近藤真柄さんたちと会をともにし、そこで演歌をうたったことだった。ここで桃山演歌とともに歩んで来た明治人の前でうたい、演歌の本質をつかみ取っていった。知道師は桃山と出会ったときから、彼女を「カイブツ」と呼んでいたが、まさに古曲宮薗節の内弟子を終えた彼女が演歌師の門を叩くというのは考えられないことで、邦楽にもうるさかった知道師にとっては本格的なうたを収めた桃山晴衣のうたう演歌に大きな期待と興味を寄せていたにちがいない。そして唄だけではなく彼女の文才にも目をつけていた知道師は自分の著作を次々と桃山に渡している。中でも500部限定版の「唖蝉坊漂流記」は、知道師が所有していた本で001番の印と知道師の誤字訂正の赤文字が書かれている貴重な本である。桃山はこうして実際の当事者から演歌の本質を学んだことで、自分の音楽家としての姿勢をより真剣に考えるようになったものと私は思っている。

 桃山晴衣は実際の声を聞くことのできた明治大正の流行歌演歌を学び、唄うと同時に、「梁塵秘抄」との出会いで中世流行歌にさらなる興味を寄せ、当時の女性、遊女(あそび)が唄っていたというこの今様歌を、現代に響き合える歌にしてゆく作業を続けていった。そしてこの二つの流行歌の背後にあるものが、庶民の唄い続けて来た俚謡や生活の一コマ一コマで唄われて来た作業歌、子守唄、わらべ唄であることから、これらの歌を実際に自分で調査し、唄うということも手掛け、特にわらべうたは亡くなるまで、子供がわらべうたを唄えるようにと、母子に教え続けていた。

 今回の「うた塾」は、このような桃山の仕事を再確認していくうちに、このままにしておいてはならないという思いから再起したもので、これまでは春か秋に開催していたのだが、今回は郡上踊りへの参加も意図して8月となった。土取利行のワークショップパーカッション、演劇、ダンス関係者がこぞって参加するのが常だったが、「うた塾」では徹底して桃山が追求してきた唄を中心にとりあげ、私自らが唄って教えるという初めての試みでもあり、参加者が揃うかどうかもわからなかった。しかも、誰もがこの言葉を聴くと首をかしげたがる「演歌」を中心にしてワークショップなのだから。また併せて立光学舎で私自身が「演歌」を唄って公演するというプログラムも加えた。

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<土取利行:明治大正演歌コンサート@立光学舎>

 お盆前と「演歌」というプログラムで参加者が来るかどうか、?だったが、コンサート同様、地元の方以上に韓国フランス、全国各地から異なる職能の人たちが理想的な形で集まってくれた。桃山に以前から習っていたという数人を除いて参加者は「演歌」に触れ、自ら声を出して初めてそれを唄う人も少なくなく、さらに全員で唄った郡上の俚謡では、「うたう」という本来の共同体験も味わえたに違いない。また添田唖蝉坊添田知道という人物についての説明を聴き、彼らが残した演歌の数々を自らうたうことで、「演歌」というもののこれまでのイメージを払拭されたことと思う。三日間のワークショップでは昼、夜の食事を、桃山がいた頃から手伝ってくれていた菅野、仙谷両女子が完璧なまでに作ってくれたため、参加者はこの料理にも満足してくれたし、夜の郡上踊り、吉田川での沐浴(?)にも感動していた。なお前日まで続いていた雨もワークショップ期間中は止まり、まさに「炎夏」の「演歌」塾となったのである。コンサートはワークショップ終日の午後から開催。「うた塾」の前日から立光学舎に宿泊し、ワークショップ中は誰に云われたのか、ずっと正座を続け、何度もしびれをきらしていた岡大介君と、ネーネーズ知名定男さんと家にも見え、かつてスパイラルアームという私の打楽器集団で演奏もしてくれたベース奏者の山脇正治氏が参加し、蝉時雨を背景に私が郡上のうたや演歌を次々に披露。岡君の東京節や復興節ではミニドラムセット伴奏、一気に会場はヒートアップした。午後三時過ぎからのコンサートはさすがに暑かった。会場にはクーラー扇風機もなかったが、ときおり外から入り込んでくる微風が心地よく、沖縄かどこか南の島でのコンサートのような錯覚すら生じた。お盆を前にしたこの「演歌」のコンサート、観客と一緒に桃山や知道師、唖蝉坊師の霊も暖かく未熟な私の演歌に耳を傾けてくれていたことと一人願っている。

2012-07-07

桃山晴衣の音の足跡(39)「梁塵秘抄」(其の七)最初と最後の作曲

20:27

 桃山晴衣は2008年12月に逝去する前年に、ずっと書き続けていた梁塵秘抄に関する文章を「梁塵秘抄・うたの旅」(青土社)として上梓した。この頃は再び梁塵秘抄の作曲にも着手していて念願の足柄でのコンサートも夢見ていた。新曲を発表しながらこれから百コンサートと題して全国を唄って旅する予定だった。しかしこの夢は肉体的に叶わぬことになり、2007年11月24日の南宮大社での「梁塵秘抄うたの旅」出版記念コンサートが最後の演奏会となってしまった。その出版記念会の冒頭で彼女は梁塵秘抄の「滝は多かれど」を祝いうたとしてうたった。そしてこの「滝は多かれど」が彼女の最後の作曲となってしまった。

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 この他に二、三曲私の知らない唄も作曲途上にあったが、それらはついに聴くことができなかった。彼女は水の流れが好きな人だった。二十代の頃には木曽川の側に住み、郡上では亡くなるまで吉田川の側で暮らした。そしてこれらの川同様に滝にも興味を持ち、ずっと滝をテーマにしたうたを作ろうと思っていたが、ずっと出来ないままになっていた。そんな時、梁塵秘抄の中に滝をテーマにしたうたがあり、「これまで自分の想いにあった滝がこの一首に凝縮され、立ち現れてくるような感覚がありながら、明るい、嬉しい<うた>になった」とこのうたを作った所以を記している。

 彼女が最初に作ったのが「そよや」である。

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 このうたは節々に「や」という囃しことばのようなものがあり、桃山はそこを水滴が一滴したたるような感じで強調させて唄っている。偶然か、最後の作曲「滝は多かれど」でも最後の句「やれことつとう」とあるところの「や」を囃子ことばのように切って唄っている。残念ながら「滝は多かれど」は彼女自身がうたった完全な録音が残っておらず、私が節を辿りながら今回YOUTUBEになんとか発表しておくことにした。前にも紹介したが一番最初の作曲である「そよや」もここに合わせてUPしておく。「滝は多かれど」の映像は郡上白鳥の名滝「阿弥陀ヶ滝」、そして「そよや」の映像は下がり藤が咲き乱れた立光学舎下の吉田川である。

2012-06-17

邦楽番外地・明治大正演歌プロジェクトへ向けて

20:27

明治から大正への流行調を大別すれば、三味線調時代、朗詠時代、唱歌調時代、壮士節時代、浪花節節影響時代、小唄時代。・・・そしてそれ等の波動を表面に見せながら、然もその背後に流るる情調は依然伝来の三味線調である。ここに国民性を見逃すことの出来ぬ理由がある」と、添田唖蝉坊流行歌の「流行調」の変遷について述べている。(流行歌明治大正史)

 非常に要約された文ではあるが、ここに見逃せない「三味線調」という詞がある。つまり文明開化の大きな波が押し寄せ、洋楽主義へと方向転換を御上が迫る日本ではあったが、西洋近代の合理主義的音楽教育は当時のハイカラを除いて以外には、ほとんどどこ吹く風の庶民であった。都市化してゆく江戸や浪花の街を除けば、高度成長期までどこにでも見られた田畠や山々の広がる地方があり、そこには電気による音楽メディアも戦後までほとんどなかった。角付け芸、旅芸人、乞児、雑芸者、そして地元の唄者たちが喉を自慢し、掛け合う風景があたりまえにあった。情景ということばがまさにピッタリの、唄で情緒を伝え合う景色が広がっていた。そしてこうした唄や芸能の背後にあった調べの多くが江戸や上方で流行った唄や節を遊芸人が伝え、各地で異なる節や色を保つようになっていったものである。また演歌はこうした江戸や上方の音曲にとどまらず以前から地方の生活に根付いていた俚謡や作業唄、祭礼歌なども取り入れ、生きた唄のアンソロジーと化していったが、そもそもの演歌の始まりはこのブログでも既に紹介したように、明治20年頃、自由民権の思想を広めるために壮士たちが街角に立って唱いだした演説の歌で、それを短く演歌と称した。つまり壮士達が唄で国家に物申す民衆の代弁者たらんとしたのである。時それ明治・大正・昭和と続くまさに世界戦争の時代、富国強兵をかかげて邁進する日本政府、男子は兵に取られ、女子や子供たちは内地労働を強いられる責苦の日々、そこで立ち上がったのが彼らだったのだ。

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 次に揚げるのは以前にも紹介した中村還一氏の添田唖蝉坊についての文章の抜粋である。

演歌40年の歴史(明治20年〜大正末年)の中で演歌がそれ自身の使命感をもち、民衆の心の中にあれほど食い入った時期はほかにないだろう。壮士演歌のころは、民権壮士の慷慨悲憤が痛快がられたろうけれど、それは民衆の生活感情と触れ合うこともなく、演歌が民衆とともに歩んだとみることもできない。いかにも反骨ありげに見えながら、それは売り物の感じである。日露開戦の前夜になると、その売り物の反骨を政府に利用される。軟弱外交をやっつけろ、という突き上げ運動は政府の仕組んだ芝居で、内に世論の高まりを待ちながら準備に時をかせいだわけであるが、そのころの演歌はそのお先棒を見事にかつがせられている。反骨はあってもそれを方向付ける思想が何もなかった。だから強硬な開戦論をうたうことで反骨のジェスチャーをみせるほかなかったのである。それが「ラッパ節」を契機に演歌を貫く一つの思想、いわば反骨のバックボーンができる。演歌精神の確立である。その演歌精神のおかげでこの時代の民衆が、民衆自身の歌をもっていたという事実は、日本の社会史に大きく記録されていいのではあるまいか」(大衆文学研究)

 ここには重要な演歌の本質が記されている。まず演歌の始まりが反骨に満ち、政府に楯突いたこと。強烈な政治的メッセージを全面に出して権力者に物申す歌は、過去の歴史においてほとんどなかったといえよう。例えば江戸時代に幕府に物申す歌が都々逸や俗謡にみられないこともないが、そこには直接的な抗議のことばを控え、カモフラージュが施されている。さもなければ唱うものは直ちにお縄頂戴の目にあったからだ。だが明治の壮士達はより直裁に、高らかに抗議の歌声を御上に向けて発した。弾圧に耐え、あの手この手と工夫をこらし、やがて読売という、歌をうたいその歌詞を売ってメッセージを広める手段をとる。しかし一見直接強力な一撃を政府に与えたかのような彼らのうた、演歌も先述の如くその売り物の反骨を政府に利用されてしまうのである。このことを察知したのが堺利彦などの社会主義者の影響を受けた唖蝉坊。そこで彼は壮士たちが大声で慷慨悲憤をぶちまけていたそれまでの演歌ではなく、市井の民衆の心に沁み入る風刺、諧謔に満ちた歌を多く作り出し、民衆がそれを口ずさむことで唄が権力者、為政者への強力な抗議メッセージとなっていった。ここで唖蝉坊は日本で初めてのプロテストソングメーカーとなったといえるのである。

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 民衆の心を唄で掴むために、彼は以上に述べた如く「三味線調」に代表される、日本人が馴染んで来たあらゆる調べや節を用い、多くの替歌を作曲術の一つとした。そしてその歌詞も庶民が既知のなじみ深い芝居や語り物を歌にしたり、流行語を混ぜたりとあの手この手と工夫をこらし、その中に鋭い批判に満ちた歌詞を挿入する。唖蝉坊自体美声できれいな声であったと云われるが、民衆の心に沁み入る唄でなければならないというのが唖蝉坊演歌の本質。それゆえ、唖蝉坊演歌を唄いなぞることで、明治大正、それ以前の日本人のうたのカタチを知ることもできるのである。

 流行歌とは何か。桃山晴衣はまさに「三味線調」とされる日本音楽の本筋ともいえる三味線の弾き歌いを生涯続けてきた。この三味線調をさらにみていけば、桃山が追い求めて来た日本音楽の二つの流れ、うた物、語り物の世界がある。演歌はこうした、講談調、浪花節調といった語りうたのようなものもあり、民衆の情に働きかける工夫もみられる。「桃山晴衣の音の足跡」によって彼女の音の足跡が段々と明らかになっていただけたと思うが、子供のときから父上、鹿島大治氏の後見で長唄、小唄、端唄、復元古曲などをレパートリーに桃山流を立ち上げ、そのまま家元に収まることもせず、さらに語り物・浄瑠璃を極めるために四世・宮薗千寿師の内弟子となって奥義修得し、それでもそこにとどまることを良しとしなかった彼女であるが、このような江戸や上方の邦楽とよばれていたような三味線音曲の高度な技を身につけた彼女をさらに民衆の流行歌というものに目を向けさせたのが、中世流行歌梁塵秘抄」と添田唖蝉坊と子息の添田知道に代表される明治大正演歌の世界である。「梁塵秘抄」に関してはこのブログでも多く述べてきたし、彼女がライフワークとして自ら作曲し唄ってきたので説明を略すが、古曲宮薗節を極めた桃山晴衣がなぜ演歌なのかというのは一般の人には理解しがたいであろう。そこにはまず出会いがあった。添田唖蝉坊の子息で演歌二代と云われる添田知道師との出会いである。この明治演歌の巨星と昭和生まれの桃山晴衣が出会ったのはやはり明治生まれの岡本文弥師を通してである。とりわけ一般大衆とはほとんど無縁の邦楽界になじんできた桃山晴衣にとって、演歌師達が衆とともに歩んで来た生き方、音楽のありようは非常に示唆的で、実際にその歴史を生きた添田知道師から学ぶことは多かった。桃山は四世宮薗千寿師のもとを離れて独立独歩の活動を続けていく際、徳川善親、円城寺清臣、秋山清、岡本文弥、英十三、添田知道といった明治人のご意見番に囲まれ、多くを学んできた。とりわけ彼女が邦楽界から飛び出て独自の活動を始めだした60年代から70年代は、団塊の世代と呼ばれる者たちがこぞってロックやジャズに夢中になり、伝統から大きく乖離していった時代である。桃山はまさにこれらの動きに逆行するかの様に、「古典と継承」というタイトルのもと日本音楽の伝統の有り様を模索し、次々と古典と同時に新作の発表も行っていった。そしてこうした活動の中で大衆、民衆の唄や語り芸がどうあるべきかを真剣に考える時期が続いた。そこで辿り着いたのが「梁塵秘抄」の世界、これは中世民衆の流行歌(はやりうた)で、その歌詞の多様さと日本語の豊かさに惹かれると同時に、これを後白河天皇に伝授した遊女(あそび)といわれる女性が伝承者であるということに感銘した。歩き巫女とも呼ばれるこうした中世の遊女(あそび)たち、民衆の個々のうたを汲み取ってさらにそれを、大衆のうたへと発展させていった女人芸能者達、形こそ違え、彼女がここにみたのは自らの声と足で唄を大衆に伝えた明治大正の演歌師達の姿である。そして添田知道師からは、江戸時代から明治に入って変遷していった日本のうたの形を伝授され、数々の唖蝉坊・知道節を学び、数年は演歌だけのコンサートも開いていたが、「梁塵秘抄」とは異なりやはりこれは男のうたであるという実感を持つにいたり、演歌ワークショップなどで特に男性に教える姿勢をとってきた。添田知道師は桃山晴衣の唄う演歌が非常に好きだった。そして晩年は彼女を荒畑寒村氏の会に誘って、当時の社会主義者達や演歌を知る人たちを前に演歌や小唄を披露させた。その桃山晴衣演歌に大勢の明治人が感嘆した。

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 「『演歌をうたう』というと、意味をなぞりながら、あるいはその意義で聴かれることが多いので、とてもやりにくい。が、ここではうたいだすと手拍子の打ち方に熱気さえはらんで、瞬く間に昂揚してゆくのが、いつもとは違っていた。考えてみれば私は唖蝉坊とともに演歌して歩いた人たちの中でうたったことになる。席へ戻ると『あんたのうた、いいよー』『うまいねー』とまわりにいた人たちが口々に声をかけてくれた」と桃山は自著「恋ひ恋ひて・うた・三弦」に記しているが、それまでなぜ演歌などをやるのかという声が多々寄せられていたこともあり、この会で彼女は大衆ということの意味や演歌の意味をさらに確認できたようだ。それでも彼女は、その頃の自分は演奏家として音楽しておらず、どういう歌をどううたったらいいのかを模索している最中であったといい、宮薗節や小唄の桃山でも、演歌師桃山でもない、三絃弾き唄い奏者としての桃山晴衣の道を歩んでいったのである。

 さらに桃山晴衣が唖蝉坊演歌と「梁塵秘抄」に共通して魅かれたのが、うたう声の質である。「梁塵秘抄」を伝えた遊女達に関しては「更級日記」に天に澄み渡る声で唄ったと書かれているし、絶叫する壮士達をイメージしがちな演歌添田唖蝉坊によって人の心に沁みる歌でなければならないとされ、その唖蝉坊自身が繊細な美声であったと添田知道師からも聴かされており、この澄んだ声や、繊細な美声ということが彼女を二つの民衆歌に引き入れた一つの要因でもある。大衆の歌というとガサツで声を張り上げ、やたらとコブシをまわして唄うというイメージが先行してしまいがちだが、桃山晴衣はこうした大衆のイメージを払拭するかのように自らの音楽世界を築き上げていったのである。そしてそこには唖蝉坊のいう江戸時代の衆が切磋琢磨して築き上げて来た繊細な「三味線調」があり、語り、うたがあったのである。

 さて長々と書いてきたのも、パーカッショニストとして日本では紹介される私だが、いまなぜうたを、三味線をと不思議がる人も多いと思う。もちろん私はうたやその他の楽器に比べて打楽器演奏を多く続けているし、数少ない日本での演奏もそれらの演奏の機会が少なくなかった。しかし私がずっと活動を続けて来たピーター・ブルックの国際劇団ではこれまで実に多くの異なる楽器を演奏してきているし、役者達に様々な歌唱法や歌も教え、自らも劇中で何度も歌を歌って来ている。だからこうした活動を知らない人には今回の三味線、うた、さらに演歌と三拍子そろったこの変化にはちょっと奇異に移っているかも知れないが、私にとってはごく自然なことなのである。これまで私は本当に多くの優れた音楽家、演奏家と出会い、演奏をしてきた。ミルフォード・グレイヴス、スティーブ・レイシー、デレク・ベイリーといった三人の即興の巨人たちとの交流は実際の演奏を通して即興の何たるかを教えられたし、ピーター・ブルックの国際劇団での仕事は各国からの音楽家や演奏家との多くの出会いによって、これまでの音楽感を大きく変えられたし、アジアやアフリカを巡るにあたっては日本というもの、伝統というものを再考させられることが多々あった。そんな過程で起ったのが桃山晴衣という異能の音楽家との運命とも奇跡ともいえる出会いだった。それまで疎遠だった日本の邦楽と呼ばれる音楽が、彼女との出会いで一気に近しくなったと同時に、ロックやジャズの渦に巻き込まれていた私は、そこから異なる音楽の道を彼女と開いて行くことができた。30年近くにわたる彼女との郡上での活動、古代音楽調査研究、そして小唄、端唄、長唄、浄瑠璃、わらべうた、俚謡にいたるまでの豊富で奥深い彼女の音曲世界は、私が日本でやらなければならない課題を多く示していたし、それを完遂できないまま彼女が急逝してしまったことは無念というより、日本の次世代の若者にとっても大きな喪失だと思っている。桃山晴衣の世界は誰も真似ることのできないほどの経験に裏打ちされている。演歌一つ取り上げてみても、実際の創始者といえる添田知道師に徹底的に学んできた。彼女が亡くなり、数年悩み続けていた私だが、彼女が添田知道師から演歌を学んでいる録音テープに耳を傾け、堺利彦、荒畑寒村氏などの書物、添田唖蝉坊・知道師の多くの書籍に目を通していくうちに、この演歌の重要性、そして桃山晴衣演歌をなぜ学んだのかが理解できるようになり、この音楽遺産を誰も継ぐ者がいないのは忍びないと、彼女の三味線を手に奮起したのである。彼女の唄い残した曲を手始めに唖蝉坊の曲を中心に曲目を増やしていき、YOUYUBEに記録したのがすでに30曲あまりになっている。この作業をしていくうちにこの明治大正のうたであった演歌の大切さがさらにわかってきた。それは唖蝉坊が演歌を始めた明治時代は江戸時代から明治の文明開化への転換期であり、西洋文明を急速に取り入れた時代でもある。それに乗じて音楽もまた西洋音楽を教育化する方針が打ち出されるなど、それまでの日本の音楽文化、とりわけ大衆が築き上げて来た「三味線調」の文化が疎外されだした。しかし冒頭で述べたように、民衆の感性は楽器を手に持ち帰る様には即座に変えられるわけがない。それゆえこの変遷期の演歌の中には、それまでの江戸や上方の音曲、地方の俚謡などの痕跡が悉くみられるし、そこから伝統の音と根を探っていくことも出来る。いわば演歌には日本人の奥深い節調が潜んでいる訳である。これを私は自ら唄うことで確かめていきたいと思っているし、民謡や小唄までが家元制度のなかで自由を失ってしまっている日本において、三味線そのものをギターの様に自由な楽器にしなければならないし、俚謡などのうたなども近年の鋳型にはまったような唄い方、演奏の仕方とは異なる道を模索しなければならないと思っている。

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そのために最近では地元郡上のうたを、新たな演奏法で唄い始めてもいるが、あくまでもピアノやギターに代表される、西洋音楽のコード中心の音楽や、ロックやポップスのリズムに支配された民俗音楽にはしたくないと思っている。演歌添田唖蝉坊はアカペラ、楽器無しの歌い手だったし、その後楽器が加わってバイオリン演歌の時代が数年続いたが、ピアノやギターがこれに加えられる様になり、歌謡曲へと様変わりしてゆく。今の歌謡曲やポップスがつまらないのはこうしたコードと機械リズムの支配の中にあるからである。こうした意味においても明治大正演歌は重要なのである。

 というわけで、この夏からゆっくりと私は演歌の道を歩み、邦楽番外地へと巡礼して行く計画である。そのまず小さな一歩を東京の吉祥寺Siound Caffe Dzumiから始める、そして夏には郡上の立光学舎で久々のワークショップとして演歌梁塵秘抄、郡上のうたと、桃山晴衣の遺産としてのうた塾を三日間にわたって開く。郡上踊りの期間でもあるので、踊りも加わる。そして9月にはこれまでも桃山晴衣や私のコンサートを開催してくれた岡山の日高氏が自らの事務所を立ち上げ、その第一弾として「演歌」のコンサートを岡山西大寺で開催してくれることになった。これはこれまでも一緒に演奏をしてきた若手演歌師岡大介くんとネーネーズ桃山のバンドでもベースや三線を演奏していた山脇正治氏を加えた、アンサンブルを聴かそうと思っている。またその後、京都、大阪、名古屋等、レクチャーコンサートを展開していく予定で、これらはその都度ホームページでお知らせいたしますのでご覧ください。まずは吉祥寺、今回は新曲も交えてうたを多く唄おうと思っているのでご来場下さい。なおDzumiは極小スペースなのでお早めにご予約いただくことをお勧めいたします。

土取利行・邦楽番外地 添田唖蝉坊・知道を演歌する

吉祥寺・サウンドカフェ・ズミ/武蔵野市御殿山1-2-3キヨノビル7F

2011年6月23日(土)開演:7:00 会費2500円 

http://www.dzumi.jp/

電話予約:0422-72-7822 メール予約:event.dzumi@jcom.home.ne.jp


 

2012-04-12

桃山晴衣の音の足跡(38)「梁塵秘抄の世界」其の六

21:38

 「「梁塵秘抄」は、日本芸能にずっとたずさわってきた私が、江戸からこっちにあきたらなくて探し続けていた世界をバッチリと持っていた。これは現代にも古いものをよみがえらせる、なんてものではなく、現代へのメッセージだ。”古典、むつかしいもの”教育の弊害によるこんな常識はクソくらえ。私にわかるものがみんなにわからないはずがないじゃないか。私はこの梁塵秘抄を、やはり堅苦しくむずかしいと思われている三味線一梃手にして、なんでもなく当たり前にうたって歩こう、そう思った。」

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梁塵秘抄コンサート最期の地、名古屋で>

 桃山晴衣にとって「梁塵秘抄」と取り組んだ時期は、音楽とは何なのか、唄うということはどういうことなのか、そしてプロとかアマチュアということは一体何を意味するものなのか等々を、これまで以上に考える契機となった音楽人生の一大転換期といえよう。それまですでに桃山流家元を経て、宮薗千寿の元で内弟子となり古曲のうたと三味線の奥義を修得し、そのまま邦楽界で活躍していれば、明治人が口を揃えて賞賛していた彼女だけに邦楽界の押しも押されぬ名人、大家となっていたことは想像に難くない。しかし彼女は”芸事”だけにとらわれる小さな器の人間ではなかったし、今という時代、社会というものを常に直視する人であった。そしてこれまでの邦楽界での歩みを振返りつつ、明治人のご意見番や同時代のご意見番と何度も意見を交わしながら彼女は、邦楽界とは一線を画す独自の道を選ぶ決意をした。決して楽ではない茨の道である。それまで定期的に会を重ねてきた「於晴会」のメンバーからも、一枚目のLP「弾き読み草」を発表したあたりから、不特定多数の人に向けてプロとして活躍することが必要ではないかという意見が多く寄せられ、そのことを考え続けてきたこともあり、「梁塵秘抄」は自分の歌として出来る限り不特定多数の人たちに聴いてもらえる方向で取り組むことにした。しかし「梁塵秘抄」といっても、当時は文学者の研究対象でしかなかった。さらに桃山の舞台はうたと三味線だけという、何の外連味も無い純粋なうたの世界である。「三味線の音が一つピーンとなるだけで心持ちが明るくなり、次々に繰り出される音と声に、躰がどんどん開けていって楽しさで一杯になる自分が在る」反面、「現在、三味線を持っての舞台は殆どの場合かしこまって拝聴され、楽しいなんてとんでもないこと。プロはハタンなく完璧に演奏できなくてはならないのだ。もっと昔の明治・大正にはまだ、お互いの心が沸き立つような場があったようだし、名人のレコードからでもそんな様子がうかがえる。どうしてこんなにつまらないものになってしまったのか、どうして次の新しいいのちが生まれてこないのか」と、こんな疑問を抱きつつ、彼女は自分に出来る事は何かを模索していった。まず私は好きでうたうのだからコミュニケーションできる人数は、そんなに多くなくてよい。音楽というものはそんなに膨大な不特定多数に伝達される伝達されるものでない。と、これまでの「於晴会」では自主公演という形でこれらの人たちと繋がりが継続されてきた。そして不特定多数に向けて唄う場合でも「於晴会」の人たちの繋がりをもった自主公演のかたちをとってきた。「流行歌謡」は社会構造上、都市というものが出現してきて始めてそう呼ばれたのであって、その最も古い資料となる「梁塵秘抄」に、桃山晴衣が魅かれた要素の一つに、自分が東京生まれの都会人間であるということだった。そしてこの時に、彼女は宇宙と一個の自分が確実に唄うことで繋がることをはっきりと意識したようだ。都会人間。「もともと地方のうたにくらべて都会のうたは、歴史的な積み重ねが多く、そこに集まる職種の多様さからも普遍性を持っている」し、「遊女、傀儡、歩き巫女などは社会構造に組み込まれないアウトサイダーであったらしい」そして「プロとかアマチュアなどという言葉は、明治からこっちの生活から遊離してしまった近代社会の枠組みの中での区分けであって、なんとはなしにずっと受け入れることが出来ずにいたけど、やはり私はプロでもアマチュアでもない、とここでハッキリいえるようになった」と、桃山晴衣はこうした思いを強くする。そしてこの「梁塵秘抄」コンサートの旅は、これまでに受けた恩恵を生かし、自分を生かし、プロでもアマチュアでもない「自分の最も良い在り様」を模索しながら、場の設定や設営から両者がコミュニケーションできるような受け手、送り手との関係を重視し、個と個の関係が一つの流れになり、いくつもの流れが集まって大きな流れになっていく中でうたいたいとの理想を描きつつ、旅を開始したのである。

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<「梁塵秘抄レコーディング:中村とうよう氏と>

 この「梁塵秘抄コンサートツアー」は、1980年9月25日「於晴会」に始まり、10月には郡上八幡、そして同時に中村とうよう氏のプロデュースで「梁塵秘抄」のレコーディング準備が始まる。続いて翌1981年1月27日から3月3日の最終レコーディング、翌日のトラックダウンを終え、3月20日から桃山晴衣の「梁塵秘抄・コンサートツアー」が本格的に始まった。まずは佐渡、新潟、長岡、長野善光寺、東京新宿、千葉市川、(4月21日にLP「遊びをせんとや生まれけん」が発売される)。京都では、さろむ六六、ZABO、八坂神社、舟岡公園や該音楽堂、長泉寺、嵯峨野釈迦堂、鴨河原、文化芸術会館、そして5月の東京は都市小屋、草月会館、続いて名古屋の今池ユッカ、大須ELL、大久手の愚行舎、岐阜の含笑長屋を経て、6月2日に於晴会の面々が裏方にまわって模様された名古屋の中小企業センターで打ち上げコンサートと銘打つた会が催され、全国から桃山晴衣のツアーを支援をしてくれた方々が一同に集まり、祝宴を共にすることができた。

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 半年間にわたっての連日のコンサートツアー、しかも寺院境内や河原など野外やジャズやロックのライブハウスと、おおよそこれまでの会では足を踏み入れる事のなかった場で、桃山晴衣は自分がうたう人間であることを確信していったものと思われる。この「梁塵秘抄」のツアーの前に桃山は、明治大正演歌の祖、添田知道氏から近代の流行歌謡であった演歌の変遷について学んでいる。レコードやテレビ・ラジオが登場する以前、明治の文明開化以来庶民、底辺層の怒りや苦しみを政府、権力者に向かって歌というかたちでもの申してきた「演歌師」たちは、自分の生の声だけで町の辻辻に立っては唄い、それを一般民衆の心に染み渡らせていった。自分の足で歩き、自分の生の声で唄う。これは中世の「梁塵秘抄」を唄い続けてきた、遊女(あそび)や傀儡、歩き巫女と同様である。中世明治に起こった二つの「流行歌」。「梁塵秘抄」と「演歌」にこそ、桃山晴衣流行歌の模範とする鍵が秘められていた。そして桃山晴衣は、人と人がダイレクトに歌を通してコミュニケートできる、現代社会では非常に困難なこの方法を生涯守り抜いてきたのである。