比類なき長編アニメーション映画祭 ―― 第2回新潟国際アニメーション映画祭を見て(後編)

3月15日~20日まで開催された第2回新潟国際アニメーション映画祭(新潟フェス)について、前編ではコンペティション部門への応募作が大きく増え、国際映画祭として高く評価できる点を書いた。

後編では、コンペ作について、具体的に述べてみたい。

全12作を見て感じた全体的な印象からだが、49作の応募作から12作を選出した選考審査委員は、作品の出来の良い順に12作を選んだのではなさそうだ、というものである。

長編アニメといってもさまざまな技法、ストーリーなどがあり、制作国のお国柄や、何より制作者の独創性によって、その内容はさまざまである。49の応募作の全貌を私は知らないので、私の想像になるが、今回の12作は、技法であれば2D手描き系、2Dライブアクション系、3DCG、ストップモーション(人形)まで、多様な選出になっている。ストーリーでいえば、エンタテインメント、民族問題、環境問題、ジェンダー、ドキュメンタリーまで、これまた多様な選出になっている。

つまり、長編アニメとしての完成度とか、統一的な評価軸とかよりも、1作1作の選出に意味を持たせ、現況を提示し、未来を問うラインナップになっていたのである。

結果として、コンペ12作の中には、なぜ入ったのかわからない作品もあるにはあったが、全体としては前回とは比較にならないくらいの充実度で、私は研究者としても一人の観客としても、映画祭への感謝の意を深くした。

 

12作の中で、私が特に好きになった作品は『ケンスケの王国』(N・ボイル&K・ヘンドリー監督、イギリス、2023年)である。家族4人と愛犬1頭でイギリスを出港した大型ヨットが時化に巻き込まれ、少年マイケルは海に投げ出されて、気がつけば絶海の孤島に流されていた。その島でマイケルは、言葉の通じない老人に会う。彼は、旧日本軍の残留兵で、名はケンスケ。少年と老人は、互いに手探りながら、島の動物たちとともに奇妙な共同生活に入る。

派手さはないが、マイケルとケンスケとのコミュニケーションは私の心に染み入り、ラストシーンも納得できるものだった。

もっとも、冷静に見ればかなり大胆な設定で、突っ込みどころはあるし、作品のタイプからして受賞はないだろうなと思った(実際受賞はしなかった)が、私にとっては「豊かに物語る」長編アニメらしい仕上がりになっていたところが嬉しかった。

残留兵の老人の声優はKen Watanabe(渡辺謙)で、後から調べたら数年前から本作と渡辺謙が出演することは一部メディアで報じられていたようだが、エンドロールで観客みんなが驚いたのではないだろうか。

一方、グランプリを受賞した『アダムが変わるとき』(J・ヴォードロイユ監督、カナダ、2023年)は、私にはデザイン、アニメート、キャラクター、ストーリーからみれば、エストニアクロアチアなど、旧東欧圏のかつての短編アニメーションを思わせた度合いが大きく、新規性や独創性をさほど感じなかったので、グランプリは少々驚いた。授賞コメントには「この作品は、生きることのぎこちなさについてとても深い何かを語っています」とあったが、まさに「深い何か」でとどまってしまっている、というのが私の印象だった。

賛否が大きく分かれそうな仕上がりながら、私が感銘を受けたのが『オン・ザ・ブリッジ』(S&F・ギヨーム監督、スイス/フランス、2022年)である。「あの世」へ旅立つ電車に乗り合わせた人々の声、会話で構成された作品で、声は実際にホスピスなどで生活する人たちに語ってもらったという。時おり映し出されるダイナミックな映像と、ライブアクションによる作画、明暗を強調した画面などが重なり合う。

受賞はしなかったが、アニメーションって、やっぱり表現できる幅が広いなと、あらためて感じることができたのが本作だった。

見ていて楽しめたのは、コンペ作品唯一の人形アニメーション『インベンター』(J・カポビアンコ&P-L・グランジョン監督、アメリカ、2023年)である。レオナルド・ダ・ヴィンチの晩年の数年間をモチーフにしながら、コメディ、ミュージカルも盛り込みながら、子どもにも十分楽しめる良質のエンタテインメントに仕上がっていた。レオナルドのセリフ「人間のタイプは3つ。見る人、言われれば見る人、見ない人」にはハッとさせられた。本作は「奨励賞」を受賞した。

そのほか、新潟フェス独自の「傾奇賞」に『アリスとテレスのまぼろし工場』、境界賞に『マーズ・エクスプレス』(J・ペラン監督、フランス、2023年)が選出された。後者はいかにもプロダクションIGっぽい造形が印象に残ったが、友人の研究者は、フランスで今 敏が人気を得ている理由がわかった、と語っていた。

 

世界の潮流、レトロスペクティブなど他のプログラムをほとんど見なかったので、映画祭全体の取材記者としての責務は果たせていないが、私はいつも書くように、国際映画祭の独自性や充実度はコンペティション部門が最重要と考えている。

その意味で、第2回新潟フェスのコンペ部門は間違いなく大きく成長し、おそらくさらに国際的評価を高めることになったと思う。これだけ多様で、興味深い長編アニメーションが一つのスクリーンで上映された点は、主催陣は誇らしかったのではないか。

最後に一つ、提案というか要望がある。それは、公式パンフレットでの、後々引用できるデータ面の記載である。

具体的には、応募作の内訳(制作国ごとの応募数)を一覧表で掲載してほしい。この種の一覧表は、旧広島アニメーションフェスティバル、新千歳空港国際アニメーション映画祭の公式パンフでは掲載されているが、新潟ではそれがない。昔と違って、制作国(作品の国籍)が複数にわたり、こうした一覧を作成する難しさもあるだろうし、数字は数字でしかないが、同時に数字は経年で並べると、それ自体が雄弁に語る側面もある。

2025年には第3回開催となり、新潟フェスが国際映画祭として確固たる地歩を固めるための重要な大会になると予想される。大きな期待を、1年後に送りたい。

比類なき長編アニメーション映画祭 ―― 第2回新潟国際アニメーション映画祭を見て(前編)

3月15日~20日まで、第2回新潟国際アニメーション映画祭(新潟フェス)が開催された。

昨年の第1回では、世界的にも非常に珍しい長編アニメ専門の国際アニメーション映画祭ということで注目を集めた。第1回の論評もこのブログで書き、その最後に、国際映画祭がその地歩を固めるには3~4回の開催が必要だと書いた。それを目指して、第2回が開催されたのは、非常に喜ばしい。

 

新潟フェスのプログラムは大きく分けて3つあり、まず長編コンペティション部門。これは国内外から新作の長編アニメを募集し、グランプリを競う、国際映画祭では最も重要なプログラムである。

次に、世界の潮流部門。ここ数年に公開された世界中の長編アニメを中心にして選択された作品群の上映で、世界の「いま」として映画祭側が「注目してほしい」「応援したい」と考える作品が集められたというところか。

そして、レトロスペクティブ部門。今回は高畑勲が選ばれ、彼の長編アニメを一挙上映するというボリュームある内容になった。

このほかにも数多くのイベント上映、オールナイト、トークなどが組まれ、正直なところプログラムが多すぎる感はあった。しかし、結局のところ私は国際映画祭ではコンペティション部門を中心に見ることにしているので、そこは無理なくスケジュールを組んだ。

結果的に、コンペで上映された12作品のうち、昨年一般公開でみた『アリスとテレスのまぼろし工場』以外の11作品をすべて見て、コンペ作品を制覇できた。

 

私が今回の第2回大会で最も注目していたのは、コンペティション部門への応募作品数である。

昨年の第1回では21作の応募があり、ここから10作がコンペ本選に入った。応募作のうち約半数が本選に入ったわけで、正直なところ、これは多すぎると感じた。逆に言えば応募作が少ないからこうなったわけで、第2回大会以降は応募作をどう増やし、コンペの質を向上するかが課題であり、そこに注目したかった。

その結果、報道によれば、今大会での応募作は49作品だったという。これは、長編アニメのコンペを先行して実施してきた新千歳空港国際アニメーション映画祭よりも多い(昨年11月開催の第10回大会では44作品)。日本作品の応募数を私は把握していないのだが、前回を大きく超える49作品の応募があった点は、映画祭としての注目度の向上の結果として、高く評価したい。

その中から選ばれたのが12作品ということで、前回感じたコンペ作の「レベルの差」がどのように変化したのか、新潟に到着した私の期待は、その点に集中した。

後編では、コンペティション作品について、具体的に述べる。

「大人向けのアニメ」の可能性 ーーー 長編アニメ『駒田蒸留所へようこそ』

 今月初めに開催された第10回新千歳空港国際アニメーション映画祭について、前編後編の2回に分けて書いた。
 その新千歳の長編コンペティションで上映された5本のうち、唯一の日本の長編アニメとして『駒田蒸留所へようこそ』が入った。受賞には至らなかったが、昨日から一般公開の本作を1週間ほど早く見れたのは幸運だった。
 経営難に陥った実家の稼業の蒸留所を立て直そうと奮闘する若い女性が主人公、近年とみに人気の高いジャパニーズウィスキーの蒸留所が舞台とあって、どこまで「大人向け」の作品に仕上がっているかが、私の注目点だった。何より私は、ウィスキー好きでもある。
 
 ここで私の言う「大人向けアニメ」とは何かというと、50代以上の世代向け、子ども時代に『ガンダム』などに触れてはいるものの現在はアニメは見ない、そういう世代と観客に特化した作品である。
 漫画では、こうした作品はたくさんある。中高年の恋愛・不倫もの、妖艶な性描写、ギャンブル、もちろんバーやカクテルなど酒が「主人公」の作品である。しかし、アニメではこうした作品が非常に少ない。少なくとも、ジャンルを形成していない。
 こういう私の考えを知人の研究者や批評家に話すと、アニメでの「大人向け」は『ドラえもん』や『クレヨンしんちゃん』なんかが事実上役割を果たしている、という答えが返ってくる。
 たしかにそうだろう。しかし、現在日本のほとんどの世代は、どこかでアニメに触れている以上、観客の空白地帯があるのはもったいないと私は考えてきた。そういう意味のことを、いろいろな機会でこれまで何度も書いてきた。
 
 予告編で見た限り、『駒田蒸留所』はあくまでアニメファンを中心とした若者向けの作品であり、私の言う大人向けではないだろうとは思った。
 そして新千歳で鑑賞し、その予感どおりだったのだが、一方で、主人公や周辺の登場人物たちの描き方には、いくつも可能性を感じた。
 まず、ウィスキーとはそもそもどういう酒なのか、どんな種類があるのか、どうやって製造するのかがわかりやすく描かれ、ウィスキー初心者にもすんなりと理解できる構成だった。
 漫画『夏子の酒』を思わせる、幻となった酒(ウィスキー)を復活させようというストーリーにも入りやすく、主人公たちがそれぞれ未熟な若者だという点は、アニメファンを中心とした若い観客には安心できる設定だった。
 一方で、その主人公たちの人物像には描写不足が目立つ。「なぜこの主人公はこんな言動をするのか」かに、いま一つ共感できない。
 それに、ストーリーを大きく動かすためのエピソード、たとえば蒸留所の火事などは、そこから先の展開にそれほど深く絡んでこないので、物語構成上、本当に必要だったのかに疑問が残る。
 こうした課題が生じる要因の一つは、91分という、最近の長編映画としては短い尺数にあるように思う。
 蒸留所の社長に就いた若い女性(主人公)、その母親、別の酒造メーカーに勤める兄(この兄のキャラクターは出色だった)、蒸留所の古参職員、そしてその蒸留所を取材する若いライターとその上司、こうしたメインキャラクターの設定と配置はオーソドックスなものだが、彼ら彼女らの行動の背景が描ききれておらず、人物像が平板になってしまった。尺をもう少し使って、特に主人公とその兄の関係を中心として、クライマックスへ向けて深く描いていれば、もっと「大人向け」の重厚な作品に仕上がっていたのではないだろうか。
 逆に言えば、以上のような点をふまえていけば、アニメの新しいジャンルを切り開くきっかけになっていくのではないか、そこに可能性を感じたのである。

 最後に、本作がコンペティションに入った新千歳映画祭の長編部門での本作の位置づけについて述べておく。
 新千歳の長編部門にはもちろん世界中から応募できる。映画祭資料によれば、今大会では24の国と地域から44本の応募があった。このうち、日本作品の応募は3本だった。
 歴史的に多くの長編アニメを制作してきたアメリカから6本、フランスから3本、映画大国のインドから4本、近年多くの長編アニメを制作する中国から2本となってはいるが、世界に冠たる長編アニメ大国の日本から、しかも国内開催の映画祭にたったの3本とは、いかにも寂しい。
 これには、日本の制作陣はそもそも映画祭出品を重要視していない、一般公開前の出品・上映には消極的など、いくつかの理由はある。同じ課題は、今年3月に第1回が開催された新潟国際アニメーション映画祭でも、日本からの応募をどう増やすかという点で露呈したようだ。
 この現状を課題と捉えて、日本からの応募数を増やそうとすると、おそらく映画祭運営者の努力だけでは無理があるだろう。アニメ業界全体に影響を及ぼすような力学を司る術というか人物が必要である。
 非常に困難だと思うが、新潟のように長編アニメ専門の映画祭が始まった以上、短編部門で日本作品だけを集めた「日本コンペティション」を設置する新千歳では、長編部門での「日本コンペティション」実現を目指すくらいで検討を重ねていただきたい。

大きく育った映画祭 ーーー 第10回新千歳空港国際アニメーション映画祭を見て(後編)

 第10回新千歳空港国際アニメーション映画祭、前編に続くこの後編では、上映作品について具体的に書いていきたい。
 といっても、たくさんあるプログラムを全部見るのは不可能なので、私は国際映画祭では、新作が集まりグランプリを競うコンペティションは全部見るようにしている。というか、華やかな特別プログラムよりも、コンペティションを攻めた方が、アニメーションの「今」を吸収できる。
 コンペティションプログラムは、インターナショナルコンペティションが4プロ、学生作品を集めたコンペティション、日本作品を集めたコンペティション、ファミリー・子ども向け作品を集めたコンペティション、そしてミュージックビデオなどを集めたコンペティションがそれぞれ1プロ、加えて長編コンペティションが5プロ、合計13プログラムにも及ぶ。
 このうち日本コンペティションだけは当日の事情で上映開始から3本目までしか見れなかったのと、長編コンペに入った『めくらやなぎと眠る女』は、今年3月開催の第1回新潟国際アニメーション映画祭で見たので除外したが、それ以外は無事すべての作品を視聴した。
 短編の応募数は93の国と地域から2157本、このうち事前の選考審査を経て58本が本選に選出され、先述の各カテゴリーに配分されて上映された。
 一方長編は、24の国と地域から44本の応募があり、選考審査を経て5本が本選に進んだ。
 私が映画祭に長年参加し、また何度か選考審査やプログラム構成などに関わってきた経験から、映画祭のコンペティションは、選考審査のやり方で特色が決まると断言してよい。その意味で、新千歳の選考審査の考え方はおおむね理解しているつもりなので、今回の短編の58本を見て、新千歳らしいなとの感想をもった。
 それを端的にいうと、人間や人生についての深い掘り下げや問いかけ、社会や民族問題、自然環境への鋭いまなざし、そうした作品に注目している。一方で、アニメの魅力の一つであるショートギャグなど娯楽性の高い作品はほとんど選出されない。
 ただ、これは世界的な傾向のようにも思われ、新千歳の特色は、さらに深いところ、例えば性の問題の表現方法やデザインの斬新性などに注目している点にも求めることができよう。
 すでに、短編・長編ともグランプリをはじめとする各賞の受賞作が公式ホームページで公表されている。
 短編グランプリは、私個人の好みとは異なる作品だが、映像表現と、夢と現実が交錯しつつ、時間や空間をすべて超越するかのような展開が圧倒的だった。
 長編グランプリは、上映された5本の中でも別格の面白さ、痛快さで、これ以外にはグランプリはありえないだろうと思わせる作品だった。
 そうした中で、日本作品の不調がどうしても気になる。先ほど書いた、社会へのまなざしとか人間や人生についての掘り下げは、日本人アニメ作家は得意ではない。たとえば、家族について描いていても、社会問題を取り上げていても、それらは結局作者中心の世界で表現する傾向がある。
 私の印象で述べれば、日本人作家は自己の内面への思い入れが強すぎる一方で、自己を徹底的に解体し掘り下げ、再構築する術が不十分である。また、自己に対する周囲(家族、社会、地球)があっての自分というふうに、世界観を立体的に創造しながら、そこに自己を投入する考え方も、もっとあっていい。
 これからの国際アニメーション映画祭の予定をみると、来年3月の第2回新潟国際アニメーション映画祭、同じく3月の東京アニメアワードフェスティバル、8月のひろしまアニメーションシーズン2024、そして第11回目の新千歳。
 どのようなトレンドが形成され、プログラムが組まれるのか、楽しみにしている。

大きく育った映画祭 ーーー 第10回新千歳空港国際アニメーション映画祭を見て(前編)

 第10回目の記念すべき開催となった新千歳空港国際アニメーション映画祭が、昨日閉幕した。私はコロナ禍の2年間を隔てて、今回が5回目の参加である。
 旧・広島フェスが2022年から「ひろしまアニメーションシーズン」という映画祭に変わり、私から見ればひろしまと新千歳とが似通ったポリシーで運営されるようになったため、新千歳の独自性が薄まったように思うこともある。
 しかし、今回参加して、新作がグランプリを競うコンペティション部門や話題作を上映する特別プログラム、トーク系イベントまで含めて、現在日本で最も充実した国際アニメーション映画祭に育ったと感じることができた。
 とりわけ、映画祭初期から、いわゆる芸術系の作品群と商業系の作品群とを並列で扱い、また短編だけではなく長編のコンペティションも創始するなど、アニメーションを広く捉えて上映する姿勢は、観客にとって魅力的だ。その結果、例えば今回では、まもなく公開される『駒田蒸留所へようこそ』が長編コンペティションに入った。
 過去には、古典的名作(たとえば『AKIRA』)の上映、京都アニメーションリズと青い鳥』上映と山田尚子監督の来場、また今回であれば『BLUE GIANT』の爆音上映と監督トークなど、その年の話題作を取り上げることも忘れない。


 ところで、今回の会期は11月2日から6日まで5日間。これまでの会期は4日間だったが、今回は10回の記念大会ということで1日増えた。
 それは良いのだが、ちょっと不満を述べると、最終日の11月6日は午前中に「受賞作上映」があるだけで、コンペなど重要なプログラムは5日までにすべて組み込まれている。これをもっと早くに公表できなかったのだろうか。そもそも、最終日は午前中にたった一つのプログラムがあるだけで、これで「5日間」が必要だったのだろうか。
 公式ホームページでのプログラム発表は10月5日で、開会まで1ヶ月を切っている。
 プログラムの詳細は直前にならないとなかなか公表できない事情は理解したい。しかし、各日の午前、午後、夜くらいの大まかな区分で、それぞれ「コンペティション」「特集上映」「回顧上映」といった概要での発表は、もう少し早い段階で可能なはずだ。
 私は、最終日の6日の夕刻くらいまで通常通りのプログラムが組まれると考え、1ヶ月以上前に航空券やホテルを予約した。そうすると、航空券もホテルも安くなる。
 結果として、私は最終日は何もやることがなく、まるで空いてしまった。しかしそれがわかった時点で航空券の予約をやり直そうとしても、予約変更不可の安いチケットなので、払い戻し手数料その他を勘案して、あきらめた。
 みみっちいことを書いているようだが、商用や研究用の「経費」として勤務先から旅費交通費を支給される身分とは違って、全部自腹の私からすれば、切実な問題なのだ。同じように考えながら旅程をつくろうとする参加者はいるだろう。

 

 というわけで、最終日の11月6日は会場には行かず、小旅行をすることにした。
 アニメとはまったく関係のない話になってしまうが、私は鉄道ファンでもあるので、滞在先の千歳からJR石勝線の特急に乗って車窓を楽しみながら、十勝のはずれにある新得へ向かった。新得は日本有数のソバの産地で、駅舎の中に立ち食いそばファンが絶賛する美味しい立ち食いそばの店がある。つまり、私は立ち食いそばファンでもある。
 ソバを食べ、駅周辺を少し散策して、千歳に戻った。
 後編では、今回の映画祭のコンペティションについて、具体的に書いていきたい。

82歳の新機軸 -- 宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』雑感

 公開初日の夕刻の上映枠で、私は『君たちはどう生きるか』を見た。
 細部に至れば物語の破断とも思える描き方はあったものの、一つの映画世界をしっかり構築していた。異なるコミュニティへ入った少年、その少年の「修行」時代、自身の存在の意味の模索など、構成もオーソドックスである。
 私は、そうしたオーソドックスな質感の映画を、宮崎監督が82歳にして完成させたことが「新機軸」だと思った。この先、彼がどんな作品を作るのかが楽しみになってしまった。しかし彼の年齢や制作法を考えたとき、次回作に出会える可能性は低い。
 だからこそ、もっと早くに、たとえば『崖の上のポニョ』(2008年)よりも前に、本作のような長編アニメが見たかったのだ。
 少なくとも、『ポニョ』や『風立ちぬ』(2013年)を見た際に感じた、映画監督の最晩年を感じることは、今回はなかった。
 
 本作に、テーマとか観客へ向けてのメッセージは、ない。観客は、タイトルに惑わされてはならない。
 もともと宮崎監督はテーマで映画を作らないし、また「伝えたいメッセージがあるなら壁に大きな字で書く」タイプである。彼はあくまで一つの世界を構築し、表現するためにアニメーションという技法を使っている。その世界に登場する人物(キャラクター)の生き方や発する言葉に、観客は時としてメッセージを読み解こうとするが、それは観客が手にしている解釈の自由ゆえである。
 『君たちはどう生きるか』は、宮崎監督の特性が純度高く実現した長編アニメだった。
 
 本作のキービジュアルとして唯一の「鳥のようなもの」は、作中では「アオサギ」として登場した。しかも全編にわたって、物語の進行を司る重要な存在だった。
 この鳥は、フランスのポール・グリモー監督の長編アニメ『やぶにらみの暴君』(1952年、改作時のタイトルは『王と鳥』)で登場した鳥を強く思い起こさせる。
 また、「すべてのクレタ島人が嘘つきだったら、その命題は真か偽か」という論理学のパラドックスを、かつて宮崎監督はアニメ界を評しようとする際に使ったことがある。かつてと書いたが、正確に書くと1986年秋、兵庫県明石市での宮崎監督の講演会である。
 それが今回本作で、ほぼそのまま登場人物のセリフとして使われていたのには、私は劇場でのけぞった。
 本作を見終わった直後、以上の例のような、宮崎監督がその長いキャリアの中で置き忘れた要素を、いくつも盛り込もうとしたのではないかと思ったが、そうした解釈はつまらないと、自重することにした。
 見終わった直後といえば、私はインスタグラム(@nobuyuki.tsugata)で「これだけの作品をつくれる(つくる気があった)のなら、もっと早くに見たかった。たとえば、『ポニョ』よりも前に、とか」とだけ書いた。
 その所感は、冒頭にも書いたように、いまも変わっていない。
 
 ものを作る人にとって、その人が生きる「時代」と縁を切るのは難しい。さらに、その時代を生きてきた「自分」と縁を切るのは、ほとんど不可能である。
 ものを作る人である宮崎監督は、本作でこの点にも挑戦した。本作から「なぜ現代にこの作品が現れたのか」を感じ取れないからである。本作が難解だと感じた観客が続出したのは、それが理由かもしれない。

 

 最後に。今回大いに話題になった、事前にいっさい情報を出さない宣伝方法には、まったく賛同できない。というか、宮崎駿スタジオジブリほどの「どでかい存在」が、あんな宣伝方法を選んではいけない。
 おそらく、事前のリサーチか何かで、あの宣伝方法を選択する冒険が必要だという判断になったのだろうけれど、1984年春、『風の谷のナウシカ』を高校1年生の時にみて、以後多感な10代~20代にかけて、宮崎監督の長編アニメを最も幸運なタイミングでみてきた私のような世代からすれば、寂しい限りだった。

映画のアイデンティティ

 昨日、衝動的に映画『憧れを超えた侍たち』を見た。今年3月のWBC、野球日本代表選手らが選抜・招集され、アメリカとの決勝戦を制して世界一になるまでのドキュメンタリーである。私もWBCには「野球はこんなにも奥深く、筋書きのないドラマになり得るのか」を思い知らされ、感動した。しかし本作は、結論からいうと、映画としては物足りなかった。
 要するに、テレビ放送用の映像と、舞台裏をハンディカメラでスタッフが撮っていた映像を編集しただけで、この映画のために新たに撮った映像はたぶんゼロ。テレビ用の映像をスクリーンで上映したら、ここまで画が荒れるのかを見せつけられた。
 それに、上記のような編集方針なので、相手方の舞台裏がまったく盛り込まれていないし、日本代表監督や選手、スタッフらから当時を回想する映像なども皆無で、ドキュメンタリーらしい緊張感に乏しかった。
 だからこそというべきだが、現代テクノロジーとか観客の行動・嗜好によって、映画を取り巻く環境がどんなに変わろうとも、映画は映画としてのアイデンティティを失わないだろうと、強く感じた。
 このことは、生成AIの発達で、特に自主制作アニメーションの作り方から審査方法までが大きく変わるのではないかとの最近の議論というか懸念をどう考えるかにもつながる気がする。
 今年から来年、私自身いくつか関わるであろうアニメーション映画祭での審査や鑑賞を経てみないとわからないが、テクノロジーと、そのテクノロジーの恩恵を受ける「表現」とをつなぐのが生身の人間である以上、本質は変わらないのではないかと思った。