現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

餅つきと「寅さんの幸せとさくらの幸せ」

白菜とキャベツ

午前中は、餅つき。といっても機械で搗くんだけれど。搗きたてを奥さんがちぎって、みんなで丸餅にしたり、お鏡さんにしたりする。子ども達もうれしそうに餅を丸めているのがうれしかったりする


部屋の掃除と整理をしていて、出し忘れている書類がでてきたりして、ちょっと慌てたりしたが、まあ、いいのかな、もう、年末だし、などと思いつつ、整理と掃除をする。『家の光』という雑誌があって、うちは購読していないけれど、農協に置いてあったりするので、お金を出したり入れたりするちょっとした待ち時間に眺めたりしているのですが、今年は『家の光』の創刊85周年で、その特集記事があって、よかったので農協で何ページかコピーしてもらったのが出てきた。
映画監督の山田洋次氏の文章。
以下、その要約。

   寅さんの幸せとさくらの幸せ
               映画監督 山田洋次
 今、僕たちの国は、政治的にも経済的にも文化的にも手本としていたアメリカがつまずいて、おろおろしています。人間関係や暮し方も含めて、考え直す時期が来ているのではないでしょうか。
 これまでが、そんなに良かったのだろうか?間違った方向にきているのなら、後戻りできないのだろうか?そんなことで僕たちは、考えあぐねたり、悩んだりしています。でも僕は、悩んでいることは不幸な状態だとは思いません。勢いよく突っ走っている時代が、それほど幸福に満ちていたのか。悩むということは、周りの人たちの思いが気になったり、いろいろ反省したりするわけです。停滞していいんだと思います。意識の上でも経済の上でも。
 渡辺京二さんの書いた『逝きし世の面影』(平凡社)という本に、幕末に日本を訪れたヨーロッパやアメリカの、いわば先進国の人たちの見聞記が紹介してあります。ほとんどすべての西欧人たちが、非常にほめている。日本という国はとても美しく、日本人は平和で穏やかで礼儀正しくて、日々を充足して生きている。やがてこの国に資本主義社会の競争原理が持ち込まれるようになれば、不幸が訪れるだろうといった意見も、その中にはありました。
 わずか三代か四代前の僕たちの先祖は、貧しくとも西洋人がうらやむ平穏な暮らしをしていたことを今考えるべきでしょうね。その慎ましい暮らしや文化の形は1960年代の頭頃まではかろうじて残っていたように思いますが。
 『男はつらいよ』の第一弾の公開は大阪万博の一年前の1969年です。僕たちの国が高度経済成長のスタートを切った時代、その波に乗りきれない“ダメ男”の側からこの国を眺めてみようと考えたんです。
 寅さんは時代の進歩に背を向けた人間です。一生懸命働くのが嫌いな人間で、美女に恋するのが人生のテーマ。あとは旅先で行き会う人たちの幸福について悩むのが生きがいという、義侠心の塊のような男。人間の価値を今風に数字で評価すれば、この男はゼロ。あるいはマイナスかもしれない。役立たず、という悪口は寅さんのためにあるようなものだけれど、しかし、よく考えてみると、本当に役に立たない人間なんているのでしょうか。寅さんのような人間も含めて人間社会はあるのではないのか?
 寅さんのような人が身近にいたら、大迷惑です。でも、そういう人間をめぐって、ケンカをしたり、涙を流したり、ときに優しい気持ちになることも含めて、社会や家族はある。『男はつらいよ』シリーズが48作も続いたのは、観客は競争社会や効率主義に疑問を持ち、このダメな寅さんを愛してしまう自分の人間性に安心したのではないかな。
 寅さんの妹のさくらが、なぜ魅力的か。彼女は金銭的な価値観に左右されることが少なく、そんなことより、毎日の生活の質をよくしたいと願う女性だからでしょうね。
 江戸時代の下級藩士が主人公の『たそがれ清兵衛』にこんなシーンがあります。本家の偉い伯父さんに「なんだこの貧しい暮らしは。恥ずかしいと思わないのか」と叱られた清兵衛は、遠慮がちに、しかも一歩も引かずにこう答えます。「この暮らしは私はそれほどみじめだとは思っていません。子供の成長を見守るというのはなににもまして喜びです。」
 生きる意味とは、つまりそんな日々の暮らしの中にあると、彼は言いたかった。小さな子どもの顔を見ながら、この子はどんな大学に入るのだろうかと親が考えるとき、子どもはものすごく不幸です。子どもというのは生きていることが喜びであり、そんな子どもが日々成長する姿を目を細めて眺める、こんな幸せがほかにあろうか。と清兵衛は主張したのです。
 『家族』という映画を撮ったとき、北海道のある酪農家に話をききました。僕がいったのは12月でしたが、奥さんが病気で夫は雪の中一人で働いている。大変な重労働です。「赤字続きで酪農の将来はありません。」と、彼は言うので、僕は返すことばを失ってしまったんだけれど、彼はさらにこう語ってくれました。
 「でも変なものですね。遅い春がきて雪がとけ、牧草畑が緑になると牛舎に閉じこめておいた牛を放牧します。すると、質のいい乳がたくさん出るようになる。そうなると、なぜか希望がわくんです。なんの根拠もありませんが、今年はうまくいくかもしれないと勇気が出る。それで、また一年過ごすんでしょうね。」
 僕はこの言葉を映画のセリフにも生かしました。
人生にはおもしろいことばかりじゃない、むしろ、つらいことや悲しいことがいっぱいあって、その合間にときどき、生きているのは捨てたもんじゃないな、と思う瞬間がある。それが幸せということなんじゃないでしょうか。
 寅さんやさくらのような人が、安心して暮せるような国に僕たちの国がなればいいと、しみじみ思います。(談)



たぶん、僕が農業しながら考えていることに近いと思ってコピーをお願いしたのかな。まあ、清兵衛のセリフもよく覚えているし、『たそがれ清兵衛』を観たのはまだ農業を始める前だったりするのだが、農業を始めたころから読み出した藤沢周平作品や藤沢周平原作の映画なんかも山田監督以外でも観たりしてきているので、なんとなくそういう影響を受けているんだと思います。


うまく書けないのですが、しかし、自分の仕事や自分の家族をみつめて、そこから幸せを見つける、見つけられる、というような話は、あまり他人から言われたくない話でもあります。誰に言うわけでもなく自分の胸の中であたためておくべきもののような気がしています。


大金持ちにはなかなか誰もがなれるわけではなかろうけれど、きちんと働いてさえいれば、そこそこ家族みんなが暮らしていける。子育てもきちんとできる。子どもが望めば大学にもいかせて見聞を広げてやりたいし。「贅沢はやっぱり素敵だな」ぐらいはたまにはつぶやいてみることが出来る。今の日本のなかのそこそこの暮らし。寅さんやさくらのような人が、安心して暮せるような国とうのは、そういうことなんだろうな、たぶん。