福音と耳の聞こえない少女

 ある村に、耳のきこえないひとりの女の子がいました。
 彼女は生まれたときから耳がきこえなかったので、この世界のいっさいの音というものをまったく知らず、そうするとしゃべることもできませんでした。
 村の友達と仲良くなれず、いつもひとり家がある谷の近くの花畑で、風にすすがれながら静かに本を読んでいました。


 女の子の両親は、耳のきこえない子どもを生んでしまったがために、新しい子どもを生み育てることを村に禁じられました。
 そのことに絶望もしました。
 けれども今では、ひとりの耳のきこえない娘をたいへん愛していました。
 もちろん、親とはいえ彼女と話すことはできませんでしたが、女の子が自分で考えたという、手を使った奇妙なサインをすぐに覚え(それは大変易しいものでした)、ほとんど普通に話しているのと変わらないくらい、意思を通わせることができます。
 村からははずれ者として扱われていますが、それでもこの家族は、おだやかで、とても幸せな毎日を過ごしていました。


 その村には、古くからのいいつたえがありました。
 「時が満つれば、ある異邦より来たりし旅人が、村に幸いなる福音をもたらすであろう」
 その異邦の旅人がいつ来ても良いように、村ではいつも歓迎の準備をしていました。
 けれど村の人々は、その旅人がもたらす福音がたちまち自分たちを幸せにしてくれるものと信じているので、福音の前に何をしても意味がないとばかり、畑はたがやさず、あきないもしません。
 歓迎の準備以外は何もせず、毎日をただぐうたらと過ごしていたのでした。


 女の子の10回目の誕生日の日。
 夕立が上がったあとの虹のかなたより、夕日に照らされて、この村へやってくる旅人がありました。
 村人はついに来たぞとばかりに、身なりのみすぼらしいこの旅人をせいいっぱい歓迎しようとしました。
 しかし、あろうことか言葉が通じません。
 旅人は、言葉をしゃべってはいるようなのですが、それが何を意味しているのか、そもそもそれが言葉であるのかどうかさえ、村の何者にも理解することはできませんでした。
 村の人々は言葉以外の、たとえば音楽や踊り、念力やこの世のものではない力を借りて、なんとしてでも旅人と話をしようとつとめましたが、まったくらちがあきません。
 途方にくれた村人たちは、村の広場に集まり、あの旅人からどうやって福音を聞き出したものかとあてのない相談をはじめました。


 村人たちの手から離れた旅人は、どこからか漂ってくる花の香りに誘われて、村はずれの谷にやってきました。
 あたり一面の可憐な花々に目を奪われていると、その中にひとりの女の子がいるのに気がつきました。
 彼女に近づき、話しかけました。
 けれどもその女の子は、旅人の不思議な口の動きを楽しそうに見つめているだけでした。
 やはり他の村人と同じように自分の言葉を理解してはくれないのだということがわかり、旅人は絶望しました。
 しかし、その女の子はおもむろに両手を胸の前にあわせると、手を動かし始めました。
 そのやわらかくしなやかな動きは、旅人にとってまったく見知ったものではなかったはずなのに、そのしぐさが何を意味しているのかを瞬間的に理解することができたのです。それは――
 (はじめまして)


 村人たちが広場で相談しているあいだ、旅人は谷の花畑に通い、女の子と会っていました。
 何しろやっとの思いでたどりついたこの村で、初めて話すことができたのは彼女だけですし、話すための手段を知っているのも彼女だけなのですから。
 花畑で、女の子の手のしぐさをまねるようにして熱心に学び続けました。
 そうして1週間もたつと、旅人はほぼ完全に"話す"ことができるようになっていました。
 旅人は嬉しくていてもたってもいられず、感謝の気持ちを、女の子に学んだ方法で女の子に伝えました。
 (ありがとう)
 その言葉をきいたとたん女の子に咲いた笑顔は、この花畑のどの花よりも可憐で、とびきり美しいものでした。


 その様子をたまたま見かけた村人は、広場にいた村人たちに伝えました。
 すると村人たちはこぞって谷の花畑にやってきて、女の子に、旅人と"話す"ことができるという、手を使ったそれを教えてくれと(身振り手振りで)せがみました。
 ふだん村人たちと関わることのなかった女の子は、大勢の村人たちに突然囲まれて驚き、戸惑いましたが、すぐ笑顔になってうなずいたのでした。


 谷の花畑では女の子を先生にした教室が開かれることになりました。
 遠巻きから不安そうに見つめる両親を外目に、女の子はとても楽しげに、村人たちの誰にでも熱心に、そして誰にでもやさしく教えていきました。
 そうして村人たちは、気づいていったのです。
 子どもたちは、女の子の素直な横顔と、かわいらしい笑顔にどきどきしました。
 大人たちは、女の子に備わった広く深い見識と、誠実な洞察力にたいへん驚きました。
 老人たちは、女の子の慈愛に満ちたまなざしに魂を抱きとめられるような心地を覚えました。
 村人たちは女の子のことを、しだいに、何者にもかえがたく、愛おしく思うようになっていったのです。


 女の子を囲む花畑での教室は、いつしか村人たちが憩うための場所となり、そこは朝方から夕刻まで人の途絶えることはなく、その中心にはいつも女の子がいました。
 あるとき女の子はいいました。
 (谷をちょっと降った所に良い牧草が生えているんですよ)
 それをきいた村人が、村でわずかに残っていた牛たちをその場所に連れて行くと、それまでうつろだった牛たちがあたりの空気を揺るがすような歓声を上げました。
 嬉々として草を食み、その場所を離れようとしないことに困り果てそのた村人が、しょうがなくここで牛たちの世話を始めてみたら、牛たちがとても美味しいミルクを出すようになりました。


 またあるとき女の子はいいました。
 (この谷をもっと登った所にすごく広い花園があって、近くの木においしい蜂蜜があるんですよ)
 それをきいた村人が、きちんと準備をして行ってみると、見事な自然の花園がそこには広がっていました。近くの木々には蜜をたわわにしたらせた蜂の巣が下がっています。
 蜂たちがいない間を見計らってその村人は巣に近づき、蜜のひと雫を舐めてみると、まるでほっぺたがとろけてしまうくらい甘くておいしいのでした。


 女の子はこうもいいました。
 (村のはずれにある山の麓の茂みに、温かいお湯が沸いているんですよ)
 そんな不思議なことがあるものかと、村人たちが総出でその場所まで行ってみました。
 するとどうでしょう、ほどよく温かいお湯が地面からとめどなく沸いてきているではありませんか。
 村人たちは石を削り、小屋を建て、村の誰もがいつでも入ることのできる天然のお風呂をこさえ、そこにいたる道の整備もみんなで協力してあたることになりました。


 毎日をただぐうたらと過ごしていた村人たちは、女の子と交流することによって変わっていきました。
 おいしい牛乳や甘い蜂蜜、天然お風呂の噂をどこからか聞きつけてきた人々が、この村をさかんに訪れるようになりました。
 さまざまな人々の往来が村人たちに張り合いをもたせ、元々豊かな土地をみんなで根気よく耕しなおし、上質の野菜を収穫するなどして、自分たちの力で自分たちの幸せをつかんでいきました。
 そして、仕事に疲れて休みたくなったら、天然お風呂につかった後、谷の花畑へ女の子に会いにゆくのです。


 もはや村人の誰も福音のことを口にしません。
 かつてこの村を訪れた異邦よりの旅人のことを、誰も気にしなくなりました。
 彼があれからどうなったのかさえ、そもそも彼がこの村に来たことですら、忘れてしまっているのかもしれません。
 風にすすがれながら静かに本を読んでいる女の子の傍らに、"めのう"のような目をした1匹のカラスがいつもたたずみ、"彼"と話しているとき、この花畑のどの花よりも可憐で、とびきり美しい笑顔が彼女に咲いていることに気づく村人がないように。

主人公の視点とプレイヤーの視点

 そういえば昔、「EVE The Lost One」という作品があった。当時アドベンチャーゲームの傑作として評価の高かった「EVE burst error」の続編として期待の大きかった作品だったのだけれど、いざ発売されてみると散々な評価だった(当時は)。でも僕はこの作品がかなり気に入っていた。というより僕はこの作品の、とあるシーンに特別な感慨を抱いた。それは主人公の1人である男性が、物語の終盤、世の中の全てが嫌になり、ついに、それまで疑うべくもなく常識的に主人公(この男性)の視点=プレイヤーの視点であった、その僕らプレイヤーのゲーム的介入を拒絶し、プレイヤーの視点とその存在を放逐してしまったのだ。プレイヤーとの同一性を外れてさまよい歩く彼と、物語上の1人のキャラクターとなって彼を探し回るプレイヤー。そして再会する2人(?)は、ゲーム的な常識によってでない、自らの意志として再び主人公=プレイヤーという同一性を取り戻していく。僕はこの思いがけない(というより反則的な)演出に深い衝撃を受けたのを今でもよく覚えている。

 また、同じくらい昔、「Prismaticallization」という作品があった。僕が当時から今も変わらず信奉しているギャルゲー作品の金字塔であるのだが(詳しくはリンク先の自分の記述に譲る)、その作品において、ただボタンを押して頁をめくるだけの1週目のプレイを終え、2週目に入ったとき初めてプレイヤーはこの作品における最初のゲーム的介入を果たす。が、そのことに対して主人公は違和感を覚え、自らの体の変調として捉えてしまう。主人公によるプレイヤー存在への懐疑事件をきっかけとして、「Prismaticallization」という作品はプレイヤーの視点とその存在が、主人公との同一性を維持しつつもそれらを包含するゲームシステム自体の操者として、超越的にゲーム世界を俯瞰し、ゲームシステムと同一性を持つにいたる極めて特異な作品であることが判明していった。

 時代はさらに遡り、僕が初めてプレイしたRPGドラゴンクエスト」である。このゲームで主人公である勇者は冒険の最中に意味のある言葉を一切しゃべる事はなかったはずだ(確か)。冒険(ゲーム)の間、主人公がプレイヤー自身であることを僕らは感覚的に疑いもしなかった。しかし竜王との決戦に勝利し、王城に凱旋した勇者は、王に国を譲られようとしたときに初めて意味のある言葉をしゃべる。そのとき既に万感の渦の只中にいたプレイヤーは主人公である彼の発言に、その内容以上に言葉をしゃべった事自体に衝撃を覚える。なぜ最後になって主人公はプレイヤーとの親密な同一関係を放棄して自らの意志で言葉を発したのか。それはこのゲームが終わるから。この物語のこれからの未来は(少なくともこ作品においては)プレイヤーの与り知らぬ事になるから。勇者のあの言葉は、これからはプレイヤーのゲーム的介入なしで、勇者自身の力で未来を紡いでいく意思表示であり、僕らプレイヤーに対する別れの言葉でもあったのだ。エンディングテーマの冒頭のファンファーレは、勇者とローラ姫を祝福するものであると同時に、僕らプレイヤーに送るゲーム作品からの感謝の気持ちであったのだ。

そして、Ever 17における"ブリックヴィンケルさん"

 そして、話は本題である「Ever 17-the out of infinity-」に至る。この作品は数々の禁忌を犯してしまった。別に田中優清春香奈の所業がどうとか言っているのではなく、プレイヤー視点の取り扱いに関してである。この作品のネタを一言で表してしまえば、大掛かりな仕掛けを使ってプレイヤーを"騙し"、主人公から"引き剥がし"、事情を説明してプレイヤーを"けしかけ"、プレイヤーにしか助けられないとある人たちを助けてもらおうというお話である。この際だけどこれらの開いた口が塞がらないばかりか顎の骨が外れそうな勢いの実現不可能性についてあげつらうような事はしない。2017年と全く同じテーマパークを2034年に建設するとか、2017年のやりとりをそっくり全く同じに別の人物が繰り返すとか…。例えるなら、フィクションという大義の刃を片手にテレビ画面から上半身を乗り出して、ポカンとコントローラーを握ってる僕らプレイヤーに切りかかってくる田中優清春香奈の、鬼のような形相がすげえリアリティーをもっているようなトンデモナサである。あまりにもアホらしいというか、くだらないというか…。でも"プレイヤー騙し"方法論についていちいち疑問を差し挟んでいたら話が進まないので、ここでは設定として大目に見るしかない。

 ともかくこの作品が犯した、プレイヤー視点の取り扱いに対する"誠実さ"を欠いた原因を上げると、以下のとおりになる。

①演出ではなく物語の一部としてプレイヤーの視点を、登場人物の打算的意志に基づいて取り込もうとしたこと。

②プレイヤー視点・プレイヤー自身であるはずなのに一個の個性をもってしゃべり、存在してること。

③プレイヤー視点(とその存在)を"ブリックヴィンケルさん"と名づけてしまった時点で、それはプレイヤーのものではなくなっている。

④四次元存在であるとされたプレイヤーなのに実際は"ブリックヴィンケルさん"の意志で時空間を移動させられているだけ。

⑤そもそもブリックヴィンケルさんのキャラクターがあまりにもギャグっぽい。

 この作品において明確的に捕捉しようとしたプレイヤー視点(とその存在)は、その中途半端で軽薄な方法論によって、プレイヤーから乖離して"新たな主人公"として存立し、プレイヤーに認識されてしまっているのである。ブリックヴィンケルさんはブリックヴィンケルさんであり、どんなに彼女らがプレイヤーを追い求めても、捕まえた瞬間その人は僕らプレイヤーではなくなってしまうのだ。このゲーム世界で確立された"第三視点理論"とやらをいくら実践しても、それは"元"プレイヤーが無限増殖するだけの話である。ブリックヴィンケルさんの兄弟が次々と誕生していくわけである。

苦痛に満ちた日々と、かみしめる幸せ

 確かに純物語的にみればそのトリックは大変衝撃的であり、大きな矛盾の中でではあるけれども数多くのシーン間では巧みに辻褄が合わせてあることが2ndプレイでは明らかになり、感心させられるし第一面白い。八神ココシナリオにおける倉成武視点と少年視点の意味を持った切り替え(構成)の巧さ。特にプレイヤー視点がブリックヴィンケルとして主人公から離れて独立すると、それ以降の主人公2人が物語の中で如実に生き生きとし始め、併せて主人公役の声優さんによる演技もそれ以降入るようになり、より感情移入が深められていく。通常の恋愛ゲームでは実質の主人公は相手方のヒロインであり、視点を借りている男方の主人公は形式的な存在に過ぎないのに対し、この物語の主人公は形式から生じ実質的な主人公となっていく、これはなんだかうれしい(例えて言うなら立派になった息子を見るような)。悲劇的であった小町つぐみシナリオを救済する形で物語が進み、倉成武の演技入りで小町つぐみシナリオの終盤が再現され、その上であのラストの大団円とは、さすがKIDといったところだ。

 この作品がプレイヤー視点(とその存在)を"物語上のフィクション"として捉え、取り込み、描くことによって生み出すことのできた多くの"素晴らしいもの"は、八神ココシナリオに全て詰め込まれており、いちKIDファンとして正直文句はないくらい感動したし満足もしている。普通のプレイヤーなら八神ココ以外のシナリオをクリアするのに要する30時間弱分もの報われなさ・不満に匙を投げてしまいそうだが、断言してもいい、そもそも普通のプレイヤーならKIDのギャルゲーはプレイしない。KIDのギャルゲーはKIDのファンしかプレイしないのだから、プレイ時間30時間弱分・ヒロイン4人分のバッド(ノーマル)エンドを経なければ唯一にして至高のハッピーエンドに辿り着けないという点は、欠点というよりむしろ長所であり、そういう次元を通り越して、ファンにとっては"望む所"であるはずだ。きしくもエピローグで小町つぐみ嬢が語っている、

『私は幸せをかみしめている。浸っている。溺れている。酔っている。---それが私の正直な気持ち。もしかしたら、これまでの苦痛に満ちた日々は、今日、この瞬間の為だけに存在したのではないかと・・・・・そんな気さえした。』

 これはまさしくプレイヤー自身にも当てはまる言葉だろう。まぁゲーム制作者側が意図的に語らせているのだから多少腹も立ちそうなところだが、しかし事実なのだから仕方がない。

アドベンチャーゲーム多次元論

 だが個人的に仕方がないで済ませられないのがプレイヤー視点の取り扱い方だ。そもそもゲームというものはプレイヤーの視点とその操作をもって"事をどうにか"してもらうために作り出される創作物であるのだから、それは物語の最大の謎にしてしまうものではなく、ゲームシステムとして、ゲームプレイとして実践すべき性質が本来であるはずなのだ。つまり僕が言いたいのは、物語でプレイヤーのことを第三視点であり四次元的存在だとか表現しているにも関わらず、実際僕らプレイヤーがやっていることはせいぜい二次元的操作に過ぎないのはおかしいのではないかという点だ。

 「第三視点発現」といいながらゲーム自体は依然として従来的なノベルゲーム形式、つまりテレビ画面を見ていなくてもボタンさえ叩いていれば物語は進んでいく(茜ヶ崎空は僕らが見ていなくてもヤミオニをしている)、そんな物語内容(とその中で語られるプレイヤーの"性質")とゲームシステムの食い違いが僕の中でどこか腑に落ちない最大の原因となっているのかもしれない。第三視点や四次元的存在といったプレイヤー視点(とその存在)の性質が単なる言葉としてテキスト上で扱われ、そうしてあげつられた"ブリックヴィンケルさん"が「そうであーる、この私が第三視点であーる」とありがたいお言葉を述べられているのである。こりゃもう笑うしかない、最高に出来の悪い冗談である。

 話は少し戻るが、ノベルゲームはやはり二次元的ゲームシステムだということができるだろう。基本的に点(オープニング)と点(エンディング)を直線で結んでいるわけだから一次元的だけれども、選択肢を選択することで進む道を選ぶことができ、その道は平行し交錯し時には合一するのだから、二次元的構造をしていると考えて間違いないだろう。

 では三次元的ゲームシステムはどのようなものだろうか。それは僕が考えるに、「EVE burst error」のような複数主人公視点をベースにしたアドベンチャーゲームではないかと思う。複数の視点がそれぞれ独自に平面を作り、その視点相互が平行し交錯し時に合一することによって平面同士が交わり、立体を構成する。ただし「EVE burst error」は選択肢によって物語が分岐するのではなく1本道の物語なので、三次元的ゲームシステムとはいえないが。

 そうして四次元的ゲームシステムとは何かと考えを進めると、当然のように複数主人公視点をベースにし、プレイヤー自らゲーム内時間を指定してプレイするマルチエンディング型アドベンチャーゲームが導かれるだろう。時間と場所と複数主人公の存在と彼らの選択が時空間を構成するのだ。

実際僕らは"お兄ちゃん"だからな

 つまり僕は考える。というより妄想する。八神ココシナリオの中盤で第三視点が発現(プレイヤーが主人公から離れて独立)した時からノベルゲーム形式を捨て、時間指定・コマンド選択型アドベンチャーゲームに移行すべきではなかったか。ブリックヴィンケルとしてゲームの地表に降り立った僕らプレイヤーは、ヒロイン4人のシナリオを俯瞰的に表示した全体マップのなかからポイントを決定し、少年の視点を借りるかブリックヴィンケルとして行動するかを選択、時間を指定してさまざまな時空間に出現し、そこで「調べる」等のコマンドを駆使して八神ココの"カケラ"を集めていく。偏在的存在としての面目躍如である。そのヒントとなるべき要素は既に、ヒロイン4人のシナリオと全エンドを経験することで自ずと明らかになるように構成する。八神ココの"カケラ"が集まるにつれて彼女の謎と彼女たちの居場所が明らかになっていき、全ての"カケラ"が集まったとき、プレイヤーは、全くヒントのない状況の中から創造的な意思と操作で彼女らを救出していく…。

 少年の視点を借りないブリックヴィンケルのみの状態では一切言葉はしゃべらない。誰も自分のことは見えず、ものを動かしたり機器を操作したりすることはできず、ただ任意の時空間に出現し、「見る」「調べる」だけでゲームに介入する。ただし少年の視点を借りている場合は彼に意思を伝えることはできる。

 このシーンは同時に全シナリオ・全シーンについて主人公の演技が入った状態で"鑑賞"することができるモードも兼ね備えていて、4人のヒロインシナリオで特に印象に残ったシーンをプレイヤーの任意で再現することもできたりする。

 いや、一切言葉はしゃべらないブリックヴィンケルは、最後のあのシーンで一言しゃべる事を許される。それは別れの挨拶であり感謝と祝福のファンファーレであり"お兄ちゃん"としての責務でもある。ここまで読み進めてくれた兄弟であればそのセリフの内容はわかるはずだ。

 以上が僕が考えた、というより妄想した第三視点(四次元)的ゲームシステムによる本作品改造案である。

 読ませるべきところは読ませる、操作させるべきところは操作させる。ノベルゲームであってもその形式に固執していては将来性はないと僕は思う。もちろん物語には内在的に無限の可能性があるものだけれど。その物語によって四次元的存在として直接に迎え入れられることとなったプレイヤーなのだから、せめて物語上のフィクショナルな存在に終わらず、プレイヤーとして四次元存在的な活躍の場をゲームシステムによって与えられたいものだという欲求は至極健全なものだと思う。だってこの作品はゲームなのだから。

半現実と、半空想の狭間の武勇譚

 結局「Ever 17-the out of infinity-」における真のBlickWinkelは、笠原弘子の歌うエンディング曲が流れるスタッフロールの後のエピローグにおいて全ての登場人物の視点を"偏在"する存在のことであり、本編で倉成武と少年の視点で4人のヒロインシナリオを経験し、八神ココシナリオでついに"正体を暴かれた"ブリックヴィンケルさんは、当初より既定された1登場人物に過ぎず、実は彼ですら真のBlickWinkelに観測される存在だったんだろう。そうでなければあのギャグっぽさの説明が付かない…。

 もちろんここでいう真のBlickWinkelとは、劇中では八神ココの視点を借りていた四次元的存在であり、幕切れにあたり僕らプレイヤーを"きみ"呼ばわりし、ココから意識的に分離し直接語りかけてきた視点の主であるわけで。それと同時に、もう1人のBlickWinkel(本当の意味でのプレイヤーの存在)もブリックヴィンケルのお兄ちゃんによって把握されていたことが明らかになり、つまり僕が指摘したようなプレイヤー視点の取り扱いに対する"誠実さ"を欠いた原因は、ブリックヴィンケルのお兄ちゃんの存在自体やそのキャラクター性からも薄々わかるとおり設定的・確信犯的意図に含まれているものだったということが判明する。まさにこの"くそ食らえ"部分が「infinity」の続編である由縁なのだろう。そして究極的に「八神ココ」という存在は、「Ever 17-the out of infinity-」というゲーム作品のパッケージそのものを象徴するもの、彼女の視点を借りていた真のBlickWinkelは「Ever 17-the out of infinity-」というゲーム作品に携わった制作者全員の存在ということになるのか。なんとも微笑ましい話である。

 しかしそういった作品の本質的・真相的な"まどろっこしい体裁"はともかくとして、タイムスリップにしろウィルスにしろ不老不死にしろ、フィクションであるけれどもその中では実在であり現実的事実的な存在であるテーマと恋愛を組み合わせて扱うのならまだしも、第三視点だの偏在だの観測だのリアルかフィクションか区別のつかない哲学的形而的なテーマを恋愛と組み合わせて扱うのは、正直どうかなと思ったのも確か。しかも今作ではその形而的命題を現実化しているものだから胡散臭さが爆発、半現実と半空想の狭間で恋愛が咳き込んでるようだ。

 フィクションであるなら徹底的にフィクションであるべきだ。何も僕らは恋愛ゲームにリアリティーを求めているわけじゃない。そもそも萌えや泣き、感動といった感覚は現実的な要素を一切排除し"お約束"法に律された無色・真空世界の、非現実性ないしは反現実性を求めていくことによって研ぎ澄まされ、高められ、そして充足されていくものである。しかしプレイヤーの存在はフィクションではなく現実だ。そしてプレイヤーがコントローラーを操作してゲームを進めていくのも現実なのだ。にも関わらずこの作品は、ゲームシステムとしてではなくたった物語上でそれらをフィクション化し取り込もうとした。そして物語上では見事に取り込まれたことになっている。そのようなある種"くだらなさ"、いい意味でのKID的な恋愛ゲームを味わえたことに対する満足感・充足感とは別に、どうしても一抹の不信感、そう、不信感を拭いきれないのだ。

 恋愛がチョコで第三視点が指輪になってしまった「infinity」の続編。チョコ自体はけっこう美味しいのになんか影が薄い。「infinity」は、謎は謎として衝撃的であったし、どのヒロインについても印象的な恋愛ドラマが描かれていたと記憶しているんだが…。

 なにはともあれ最後に一言。

 「死んだ人間は決して生き返りません」

 レベルに応じた寄付を納めれば神官に生き返られてもらえる世界は、フィクションではなくファンタジー、つまりこの作品は勇者倉成武の現代ファンタジー武勇譚だったのである。