森の路はずれ(避難所)

antenna / 記念碑
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2005-03-30

[]性的妄想原罪論

「自分には力がない。支配したいんだと思います」「(過去の犯行の場面が)頭に浮かぶことがある。そうなると現実を忘れてしまう」「あのシーンが頭から離れない」子どもを狙う性犯罪者は、それ自体が犯罪であることすら十分認識できていない場合が多い。妄想を繰り返して、現実との区別がつかなくなる。一度でも、犯行で快楽を感じると忘れられなくなる。「少女なら自分を受け入れてくれる」「子どもと性行為がしたい」*1

 あまりに鮮烈に印象に残った、というより"とても他人事とは思えない"思いと声。虫唾が走るような共感、とでもいうのだろうか。こんなことを絶対しちゃいけないとわかっているけれども、その"絶対しちゃいけない"コトが具体的にどういったコトなのかということを、過去数多脳内で繰り広げ繰り返してきた妄想によって、詳細に、コト細やかに"僕は知っている"という僕の現実。

 認識と妄想の狭間。現実とフィクションの境界線。社会一般的であり自分にも植え付けられている倫理道徳観念と、どうしようもなくどうしようもない自分の性的嗜好欲求(とその意識化・象徴としての性的妄想)、この両者の矛盾は、それが矛盾であると、矛盾しているとわかっていられる間は、きっと正常なのだろう。どちらかが尊重され、どちらかが抑え込まれなければならないということを覚悟できているからこそ、矛盾は矛盾として存在しえる。それが矛盾でなくなったとき、自分の中で自らの性的衝動が理路整然とした"道理"となってしまったとき、彼の社会的存在としての命運は尽きる。

 人間は原罪を抱えている。それは宗教思想としてではなく、現実哲学として。性欲が人間を捕らえ続けている限り、性的嗜好が個人あるいは文化に規定されるものである限り、個々人に性の自由と権利が保障されている限り、人間は矛盾しており、存在自体が罪だ。性欲というものが、例えば目を閉じなければ眠れないように、トイレで踏ん張らなければ排泄できないように、極めてシンプルで揺るがしようのない一般的な様式でのみ満たされる徹頭徹尾原始的な欲求であれば、恋愛や人生などといった高等妄念と結びつかずに手っ取り早く済ませることができる類のものであれば、人間は罪とは無縁でいられたのだろうか。

人間の愚かな妄念や狂想が、実行に移すかどうかは別として、果てしなく堂々巡りを続けていること。人間のはかない賢さとは比較にならぬ、愚のしたたかな強靭さ*2

世間の人は性欲の虎を放し飼いにしていて、どうにかすると、その背に騎って滅亡の谷に落ちる*3

 とある試験で、教養のなさがゆえに不合格になってしまって以来、まるで親の敵でも討つかのような態度で僕は、新聞を読みはじめた。毎日2時間以上かけて、スポーツ欄と株価欄以外のほぼ全てに目を通しているような感じ(朝刊だけだけど)。新聞は実に面白い。読み始める前は、つまらない政治や国際ニュースなんて読むの面倒だなぁと思っていたけれど、なかなかどうして、政治や国際ニュースは埃まみれの僕の好奇心を満たしてくれるし、生活やくらし、障害者関連の記事は僕の穢れた人間性を漱いでくれるかのよう。そうして、紙面のふとした端っこに、僕が本当に知りたかったようなテーマ(の端緒)がぽろりと零れていたりするからドッキリだ。

 僕らは、背中に重い十字架を背負いながら今にも切れそうな細い綱をフラフラと歩いているようなものなのかもしれない。その綱は長く永くグルグルと一巡している。綱の先には綱しかなく、綱の下には色欲の酒池肉林めくるめく桃源郷が広がっている。そんな性的世界観。性犯罪者を同性(男)が憎悪するとしたら、それは正義感ではなく羨ましいからだと断言しても、真っ向から否定できる同性(男)はいるだろうか。少なくとも僕は否定できない。

今の世の中は、他人の迷惑や苦痛などお構いなしに生きている人たちが多い。だから、暴行を受けた女性が、どんな思いで生きていかなければならないかを訴えたところで、事件が減るはずもない。自己中心的な人間は、これからももっと増えていくだろう。事件を誘発するようなビデオや雑誌などを禁止しても、買い手がいる限り、売り手はあらゆる抜け道を考えるだろう。結局、性犯罪を減らすには刑を重くするしかないように思う。*4

 「児童ポルノ禁止法」について、表現の自由と漫画・アニメ・ゲーム文化を守るために反対する人たちが掲げる根拠として、性的刺激の強い作品が児童の健全な育成を妨げるということについて明白な根拠がないという、ある意味揚げ足取り的水掛け論的意見をよく見かける。しかし反対派の人たちに心情的に賛同できないのは、それは彼らが自己中心的な、「面白い漫画やアニメ・ゲームがなくなる→つまらない」といった、自己の都合しか考えていないような雰囲気を感じるからだ。

 それこそ明白な事実は、一部作品が女児に対する性犯罪者の、現実との区別をなくさせるほどに強靭な妄想を形成し、増長させていたということだろう。自らを受け入れてくれない(と思い込んでいる)現実が妄想にはけ口を求め、自らの脳内活動では満たされなくなった(と思い込んでいる)性的妄想が現実にはけ口を求め、そうなることで益々社会は自らを受け入れてくれなくなる、性犯罪にまつわる最悪のドーナツ型図表(実は今Excelの勉強をしていたりする)。その図表の中心領域に渦を巻いている妄想にとって、A作品は"良き"スパイスとなり、B作品は"良き"素材となり、C作品は"良き"手本となっているのではないか。自己の都合ではなく、被害者となった女児や被害者となりうる女児の健全な育成のことを考えれば、少なくとも規制すべき部分はあるはずだ。自らと、愛する文化に対する謙虚で批判的な姿勢を失って、ファンが暴走しているように思えてならない。

 正常な倫理道徳観を明らかに逸脱している作品を規制し、販売する場合は申請と購入する場合は身元情報提供を義務付けるなどシステムを自ら提案し、販売経路の透明化と集中化(一元管理)、情報リテラシー能力の未発達児童等に対する情報規制の徹底(一般名詞でネット検索するとエロゲー会社のwebがトップに表示されるというのは問題だ)、それらと同時に漫画・アニメ・ゲーム文化が児童の健全で創造力豊かな人格形成に寄与する、日本が世界に誇るべき新世代の文化だという説得力ある根拠をこそ、ファンは示すべきではないのだろうか。

 しかし実際のところ、僕も何が禁止されたところで別の抜け道を誰かが発明するだろうから、それほど問題とはならないのではないかと思う。「結局、性犯罪を減らすには刑を重くするしかないように思う」のだ。原罪を背負った人間なのだから、刑務所に何泊か服役したくらいで簡単に洗える罪ならば、自宅の風呂場でとっくに洗い落とせているはず。ロリコン雑誌を読ませて興奮したら電気ショックを与えて生理的に矯正するとか、ホルモン分泌を抑える化学療法とか、性犯罪者を矯正する一般的な方法として取られるのも、悪くない。もちろん矯正などというまどろっこしいことに金と手間をかけず、"手っ取り早く済ませる"というのもありではないかと思う。

 結局、人権が尊重されるべきなのは、人間だけなのだから。

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 まぁ、元ロリニュース管理人の僕がこんなこと書く資格なんてありはしないんだけどさあ(爆)。読売新聞に踊らされてる?まぁそんな気がしないでもないねえ。

*1:3/23読売新聞朝刊

*2:2/20読売新聞朝刊

*3:3/11読売新聞朝刊

*4:3/29読売新聞朝刊

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