ディスプレイの中の自分をじっと見つめている自分が、本当の自分

 ギャルゲーをプレイしていて、一番嫌な気持ちになるのは、物語のシーンが切り替わるときに暗転する画面、一瞬ディスプレイに自分の顔を見つけるときです。元々鏡を見るのが苦手な僕ですが、このとき見る自分の顔ほど気持ち悪いものはありません。

 鏡の中の自分をじっと見つめている自分が、本当の自分。

 「ギャルゲーをプレイしているとき、本当の自分はどこにいるんだろう」
 僕はギャルゲーを考えるとき、まずこの疑問点に立脚している気がします。僕にとってギャルゲーとは、僕のプレイしているギャルゲー、ではなく、ギャルゲーをプレイしている僕、なのです。僕がまんなかにいます。僕がどう感じ、どう思い、どうなったかということを言葉の重心に据えているので、物語の表現技術的な要素を取り出して、それだけを論じることは、僕にとってはあまり重要ではありません。
 ギャルゲーをプレイしているときのプレイヤーの気持ちの居場所は、常にゆらめいていて、そのゆらめきにギャルゲーのゲーム性と呼べるものの芯が、たまたま紛れ込んでいるような気がします。
 プレイヤーは主人公自身という建前(X)。しかし主人公をある程度突き放し、登場人物のひとりとして捉える事もあれば(A)、相手方のヒロインの立場になってものを感じることもあります(B)。特定の登場人物の視点に捕らわれず、総合的視点から物語全体・世界全域を俯瞰する居場所にいる事もあります(Y)。
 (X)(A)(B)(Y)によって形付けられたプレイヤー心理領域のうちに、プレイヤーの心理地点(プレイヤーの気持ちの居場所=P)が位置していることになります。ゲームシステムや物語技術といったゲーム側の圧力によって、(P)はその領域内を移動していきます。ゲームシステムによる大がかりな仕掛けによりその位置をダイナミックに変えるときもあれば、物語表現的のささやかな変化の積み重ねで、気がついたら当初と全く違う場所にいたことに驚いたりもします。
 しかしこの領域のなかで、(P)の変化を指向するのはゲーム側の外形的圧力だけではなく、プレイヤー側自身の心理作用もまた影響していくことになります。特定のヒロインに愛着をもてば(B)に近づき、主人公の特定の性質に共感を見出せば(A)に近づくでしょう。登場人物が繰り広げるやり取りや、そのやり取りがなされる場そのものに深い親しみを覚えるならば、(Y)へと向かうし、主人公の思想や行動に対しプレイヤーが強い共感(総合的な同一性)を抱いたとき、プレイヤー=主人公という建前が真実となるかもしれません。
 そして、ゲーム側からの圧力的意図とプレイヤーの受容態度との作用反作用の関係も重要です。プレイヤーがゲーム側の意図を従順に受け入れるばかりではなく、ときにはその意図に反発し、意図と正反対の方向に居場所が移ってしまうこともあります。
 ゲーム側の意図とプレイヤーの内面は平面上で密接に関連し、実はその要素は重なり合っていています。同質である互いが、引き合い、反発し合うことで形成される磁場は、極論すればクリック1回するたびに変化していくのです。
 その平面的なプレイヤー心理領域と立体構造をなすものとして、例えばマウスを操作している(という意味での)現実的存在としてのプレイヤー(M)、仮想世界であるゲーム世界(S)、その間をつなぐ(T)があります。ゲーム世界上の(P)は、(S)−(M)ではじき出される「ゲーム乖離度」(T)によって、「居場所への接着度」を変化させていきます。ゲーム乖離度が高ければ、例えヒロインに愛着をもとうが一歩引いた態度で、彼女がどうなろうと特に心を動かされる事はないでしょうが、ゲーム乖離度が0に近づけば近づくほど、そうもいってはいられなくなります。
 これら2つの図に表されているのが、ギャルゲーをプレイしている僕というものについてのマップ(正体)です。ギャルゲーというものが、恋愛小説ではなくゲームとしての可能性があるとお世辞にも仮定したとき、そこには、プレイヤーの気持ちの居場所=Pをゲーム側が完全に制御し、その動きや着地点を自由に操ること、(P)をZ軸にとることで、従来の《物語-ゲームシステム》2次元表現を、《物語-プレイヤー-ゲームシステム》3次元表現へと革新させる可能性(ゲーム性)こそが、見出されるべきなのです。
 ギャルゲーというジャンルには、ある人にとっては名作でも、他の人にとっては駄作になるといった、プレイヤーの評価が大きくブレてしまう作品が多いのは、つまるところ(P)を制御する技術が未熟だからでしょう。その技術的後進性を逆手に取った、(P)のゆらめき、偶然という奇跡をゲーム性として祭り上げることで安定した、今日のギャルゲー文化。それが定着しているからこそ、ギャルゲーの、ゲームとしての可能性を益々お世辞化している面があるということは、誰かが指摘しなければならないでしょう。
 ギャルゲーという作品が扱っているのが、誰にとっても精神的・生理的に近すぎる"恋愛"というテーマであるために、プレイヤー各々の当たり前の人格・性質的差異が評価のブレにダイレクトで響き、そうだからこそ傑作が生まれるという側面は確かにあるでしょうが。根源的で気まぐれな個々人の心理的ゆらめきに頼っていては、ギャルゲーに進化はないのですから。
 プレイヤーの人格的多様性を認めつつ、それでもどこかへ確かな一歩を踏み出していかなければならないというのは、日本の現在の商業スタイルと通じるところがあるような気がしないでもありません(関係ないけど)。


 物語のシーンが切り替わるときに暗転する画面、一瞬ディスプレイに自分の顔を見つけて嫌な気持ちになるたび、僕は考えてしまいます。人間の延髄あたりに神経接続端子があって、ゲーム機から伸びたコードをそこに繋げる事でギャルゲーをプレイする世界を。
 厳格な規格によって絶対の安全性が確保されたそのギャルゲーは、ゲーム機からある信号が流されると、プレイヤーは現実的存在としてのプレイヤー(M)を失い、ゲーム乖離度(T)が0の状態で、仮想世界に居場所を得ます。「これはゲームだから」という現実認識ですら、維持するかそれともなくすかをコンフィグで設定でき、ゲーム終了時間、仮想現実との接続を絶ち現実に戻る時間を設定します(デフォルトでは1時間、健康上の規定で5時間以上はプレイできません。5時間経つと強制的に現実に戻されます)。
 ゲームシステム完全制御による革新的な恋愛物語。2次元的存在になりきれる夢のようなギャルゲー。あのヒロインに触れるんです!
 でも、コンシューマゲームだと厳しい道徳規制でエッチなことや犯罪行為はできません。しようとするとエラーが出て、ちょっとした痛い思いをするようになっています。
 もちろん、その道徳規制を撤廃して2次元美少女に"やりたい放題"の裏ギャルゲー(通称エロゲー)が大流行(ただし29歳未満の未成人はプレイ不可)。それに関連して昨今巷をにぎわせているのは、ゲームとの神経接続が切れても現実に戻って来れず、仮想現実のまま道行く幼女を犯してしまう事件の頻発。「エロゲーのシステム欠陥と、作品自体の暴力性が問題だ!」「いや、その犯人が特殊なんだ。そもそも家庭環境・教育が悪かったんだ!」という議論が喧々囂々。
 そういう世界。そんなギャルゲーが普及した時代。もしかしたらメイドロボが一家に一台いたりするかもしれない。自分のメイドロボをかわいく着飾ることが市民のステータスシンボルになっているかもしれない。北朝鮮は核実験の失敗かなにかでとっくに滅亡しているかもしんない。
 そんな時代がやってくるまで、僕は生きていられるだろうか?というか、そんな時代がやってくるまで、人間は生きていられるんでしょうかねぇ……。
 現実的存在としてのプレイヤー(M)を失うということは、ディスプレイの中の自分をじっと見つめている自分を失くすということ。
 ディスプレイに映る自分の顔を見るのはすごく嫌だけど、それでも僕は、ディスプレイの中の自分をじっと見つめている自分、ギャルゲーのなかの本当の自分、濡れ場シーンとかで下半身が反応するのを見て、「うわっ、キモ」と蔑みつつ観察するような、僕のギャルゲーのなかの本当の自分探しを、終わりがあるかどうかわからないそれを、案外嬉々として取り組んでいるところがあるんですよねえ。
 ああ、救いがたいかも。