マージ 〜Material Collection〜

ママコレ マージ ~Material Collection~ 初回版

ママコレ マージ ~Material Collection~ 初回版

意気地のない泣き虫な男の子と、気高くかわいらしい女の子たちの、子供だましに過ぎなくとも確かに心温まる恋愛ファンタジー。特に、「言葉」というものの扱われ方がとても誠実な、好感の持てる物語でした。ブランドも解散してしまって、ものすごく今さら感漂うものがありますけど、いわゆる良い作品ですね。
館の主としてある災禍を負うことを宿命づけられた主人公。館とその主に仕えることを運命づけられた女の子たち。来訪するなり見目麗しい彼女たちにちやほやされる主人公の男の子は、しかしただ戸惑うばかりで、そこで機転を利かせて調子に乗ったり、開き直って美味しい汁を吸ったりするでもなく、甲斐性なくオロオロするばかり。
通常有する程度の体力や知力・行動力すら心許ない優柔不断な主人公のありように、僕はもどかしい思いばかりが先行してしまいます(もちろん彼にはお約束的に「秘めたる能力」があるんですけど)。けれど1,2のストーリーを終えてみたとき、なんとなく気がついたんですね。
この男の子は、素直なんですよ。それは性格づけとしての対人(ヒロイン)姿勢というより、言葉というものに対する姿勢。彼の内省は何かにつけて弱音を吐き、逡巡し、しつこいほどに後悔し、自己嫌悪していきます。それは自分の能力のなさや意思の弱さについての正当で客観的な評価であると同時に、それ以上(傲慢)にもそれ以下(卑屈)にもならずしなやかにしたたかに自己というものを定点叙述していく。つまり、ヘタレでもなければバカでもない(鈍感ではあるけど)。
確かに好きにはなれないし、もっとどうにかできるだろうと思うこと多々あれど、それでも嫌いだと吐き捨ててしまうのもいまいち忍びない。けっこう意外な彼の妙技を支えているのは、言葉というものに対するそんな誠実さなんですね。
言葉についての取り組みと、それを通した世界と自己についての認識が、客観的で正当なものであるばかりに、生身の人間である周りの人たち(含むプレイヤー)にとっては健気でいじらしく感じられます。たとえばアメリアシナリオで彼が「とっておきの笑い話」として披露するあるエピソードにおいて。彼はその話を最後まで卑屈に認識することはしませんし、ましてや傲慢に憤ることもありません。
主人公の誠実な一人称視点で綴られる、装飾的な情景描写を極力排され玉石混じらない無垢な言葉たちが、透き通ってあたたかい。それはとても美しいことなのではないかと僕は感じるのです。彼に感情移入するとしたら、それは彼の人格にではなく、その美しさにでしょう。
主人公の「秘めたる能力」も、実は言葉というものに密接に結びついています。それは顕在的なパワーとして剣や拳を振るうようなものではなく、強い思いが自己を律する言葉として、プレイヤーに約束するかのようにうだうだと著れ、あるいは音声として強靭な意味を世界に証するかのように発せられ、彼女たちを救い、自分たちの居場所を護る奇跡となっていく。
彼が特別な存在であるということの根拠は、物語や設定としてあるより何より、それまで(ノベルゲーム形式として)ゲーム中に著されてきた遍く彼自身による言葉たち(その取り組む姿勢)が、明瞭に雄弁に説明している(きた)のです。
物語開幕直ぐに、十分な説明もなく主人公は「ご主人様」呼ばわりされ、劇中では主要ヒロインたちによってそれこそ気が狂いそうになるほど連呼されます。しかし彼は自分がそう呼ばれることに違和感を抱き続け、潔癖なまでに両極端な、「(より良い)ご主人様としてあろう」「(そもそも)ご主人様ではない」という思いの間を揺れ動いてゆきます。結局最後に至るまでどちらかに定着することはありませんでした。
とはいえそれは彼にしてみれば当然のこと。なにしろ「ご主人様」という言葉は、彼にとって客観的に見て不当なものであり、かといって敢然と否定できるほど彼は強くない。ありえない言葉を「まぁとりあえず」とすんなり受容できるような(普通に)融通の利く者が主人公であったなら、そもそもこの物語は成り立ちえません。
「ご主人様」と呼ばれることに違和感を抱き、「ご主人様」たりえない自分に嫌悪し、身の丈分の苦悩に苛まれる主人公。それは美しくも孤独な言葉の世界(一人称的自己描写)に閉じこもっている彼に、「ご主人様」という未知の言葉を投げかけることで手を差し伸べ、不確かな光の世界へと取り上げようとする物語。ヒロインたちは主人公を「ご主人様」と呼ぶことで、彼を揺り動かし、問いかけ、そうである以上に救おうとしていた。
でもどうして「ご主人様」なのか。それは手っ取り早く相手と関係し、飄々と相手に媚び誘い、ぬけぬけと相手の精神に介入することのできるたぐいまれなる"あつかましい"言葉だからです。

 「…いやだなぁ、もうご主人様はやめてよ」
 「しかし」
 「だって僕達…家族じゃないか」
 「…はい」

このファンタジーにおいて本当の敵がいるとしたら、それは(主人公にとっての)「ご主人様」という言葉。
このファンタジーにおいて本当のヒロインがいるとしたら、それは(主人公にとっての)「家族」という言葉。
主人公は「ご主人様」という敵を美しい言葉(歯の浮いたセリフとは言わないで)によって打ち倒し、「家族」というヒロインと結ばれます。どちらも彼にとっては未知の言葉ではあるけれど、「家族」という言葉にはなんともいえない心安らぐ温もりが感じられるでしょう。言葉にならない未知なる志向性、つまり「希望」(ハッピーエンド)。言葉のいらない関係こそが「家族」だと勝手に解釈すれば、主人公とヒロインたちが「家族」と定義された時点で物語(ノベルゲーム)が終わってしまうのも、無理ありませんよね。
彼と彼女たちが設定的に「惹かれあうべくして惹かれあう」関係であったように、「家族」というものが永久普遍的にそうであるのなら、どれほど幸福なことだろうなぁと、僕はうつらうつら思うのです。

 「いわゆる魔力という点では、人間族は比較的劣等な存在です。…にも関わらず、いつの時代も最強の魔術師は、人間族の中から産まれてくる…その理由がわかりますか…? 人間だけが、真の意味での想像力を持っているのです…。人間族だけが、不可能な事を可能だと信じる事ができるのです。悪くいえば狂気、良く言えば奇跡というものです」
 「…私には奇跡なんか起こせません」
 「それはそう思いこんでいるからです。人間…特に魔術に関わる人間は、私たちから見れば日常的に奇跡を起こしているのですよ」

 「からかっただけで済むなら、家庭裁判所は要らぬ」