森の路はずれ(避難所)

antenna / 記念碑
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2006-03-27

[]アニメを見る、僕のどうにもならない立脚点

「かしまし」が今週の放送分で最終回を迎えます。僕はなんだかんだで全部のお話を見てきましたが、ほとんど面白いと思ってはいません。キャラクターデザインがきれいなのと、作画が安定しているのと、音楽が好きという理由だけで見ているようなものです。見聞きしている、そういった感じです。サントラは4/26発売(予約注文済)。

僕はこの作品をどうしても楽しめない、落ち着かないんですよ。物語に女の子たちしか登場しないので、目の置き場がないんです。目のやり場に困るのではなく、僕の立脚点がないんですね。男性の主人公がいない物語や世界というものに対し、男性でしかいられない僕はどうにも距離感がつかめない。そこに鑑賞すべき何かがあるとしても、それをつかむべき僕の存在が希薄だといえばいいでしょうか。

もちろんはずむは、第1話で男の子であった頃が描かれてはいます。でもそれはほとんど回想のようなもの、作品の設定(アピール)として当然に公然と女の子のはずむが織り込まれていて、僕はそれを事前に知っていたわけですから、瞳が描かれる描かれないではなく、男の子であったはずむは僕の劇中での立脚点に影響を及ぼしません。女の子としてのはずむくんを不変の事実として認識せざるを得ない、ということが判明した時点で、"彼"は僕を援けてはくれないのです。

でも僕は希望を捨ててはいませんでした。そうです、物語の中心近くに明日太という男の子がいましたから。たとえば彼が、あゆきとささやかに心を通じ合わせながらも、彼女たちの恋を見守るというようなポジションに立ってくれたなら、僕は彼に立脚することで、満たされて作品を受け入れることができたでしょう。楽しむことができたでしょう。きっとそうなるんだろうと僕は期待していたから、予測していたから、落ち着かないながらも「かしまし」を見続けていました。

けれど、明日太はいつまでも"はずむラブ"の狂言回しを続け、ついに第8話「見ているだけが・・・」でその希望は見事に打ち砕かれます。「自分は舞台にあがるつもりはない」、あゆきはこう表現し、好きな人(はずむ?)はいるけれど告白はしない、はずむ、やす菜、とまり3人の恋愛を「見ているだけ」だと言うのです。僕はこのキレイでふざけたお話を見終わって、気が抜けたような気分になったものです……。にもかかわらず、舞台に上がるつもりのない"観客"であると偉そうに宣言したはずの彼女が、第11話「やす菜の瞳から消えたもの」、煮え切らないはずむに苦言を呈するシーンは滑稽を通り越して怒りを覚えました。おいおい、観客がなに舞台に上がって俳優に説教たれているかな、と。

「かしまし」に関する僕のそれと同じような事情が、「ARIA the ANIMATION」にも言えます。僕はこの作品も実は全然楽しめませんでした。それなのにネットでは「感動した」「癒される」と大評判で、この4月からは続編が始まるというじゃないですか。

しかしまあ、ARIAの絶賛ぶりにはでっかく驚きましたよ。もう少し厳しい感想があってもいいと思ったのだが…私と世間(?)の乖離をでっかく感じた。

以前ぐりさんがこう書かれていたけれど、僕は内心でっかく共感したものです。感動できないことはないけれど(微妙な表現だな)決して癒されはしないだろうと思っていました。感動が甘すぎて、感激が過剰すぎて、ひどくいけすかない上に、主人公の水無灯里が人柄的にも人生的にも暗さや黒さをまったく感じさせない(ミクロン単位の染みすらない)、どこまでも清々しくまっさら、日がな一日つつがなく穏やかな海原のような存在であることが、僕の立脚意識を路頭に迷わせるのです。正直、彼女たちに人間味を感じることができないんですよ。

元々幸せで、その幸せをその都度「はひぃ、幸せですぅ」と恥かしげもなく話せるお幸せな女の子に、さらなる幸せが訪れていったいどうして感動できるというんでしょう。なにをもって癒されるというんでしょう。僕にはわからない。わからないんです。わからないから落ち着かないし、落ち着けないから楽しめない自分が、実は彼女たちの幸せをただ妬んでいるだけなんじゃないか、いけすかないのは自分自身なんじゃないかという疑念、そういう愚劣な人格と疑われてしまうことを怖れるあまり、見ていて辛いだけのこの作品をそれでも見続け、「僕は嫌いだ」と堂々と書くことができないでいたのかもしれません。

感動するためには、厳しいことがあって、癒されるためには、辛いことがなくちゃいけないと思うから。その厳しいこと、辛いことを視聴者が共感できるために主人公がいて、さまざまな立場の視聴者に対応できるよう男女幾人かの登場人物が現れてくるのでしょう。僕らは、感動や癒しそのものを通じて共感するのではなく、厳しいこと、辛いことを通じて共感し、その先でどうしようもなく感動し癒しされてしまうのではないでしょうか。出来合いのものを受け取るのではなく、材料を受け取ってから調理していく。僕はそんなイメージで捉えています。

男性という性別に関する僕の立脚点、人生や人柄という性質に関する僕の立脚点。それを受け入れてくれない、受け入れられない作品があるということは、そもそも僕の視聴スタイルが間違っているんでしょう。それはわかってはいるんですけどね。どうにもならないこともね。

あと。「かしまし」にしろ「ARIA the ANIMATION」にしろ、音楽だけはとても気に入っているというのは、そもそも好みの音楽であったという先天的な話だと思いますけど。もしかしたら何がしか、受け入れられなかったそれら確かにキレイな何かに対する"罪滅ぼし"のような意識が働いているのかもしれません。「別れても好きな人」みたいなw

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